- 『指きりの音』 作者:糸丘 時 / 未分類 未分類
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全角15705.5文字
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ゆるゆると静かに、さらさらと砂山のように崩れ落ちてゆく。
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咲ちゃんも、香織も、二人ともわたしにとっては宝物だった。だけど、その家族がいずればらばらになってしまうことはわかりきっていたのだ。
咲ちゃんも香織も、勿論わたしも、いつか違う誰かのところへ行って、他のみんなの知らない幸せを手にする。
それを思うのはたまらなく不安で寂しかった。
咲ちゃんが突然変なことを言い出したのは丁度一週間前のことで、少なくともあの発言が無ければわたし達は何一つ間違っていなかったと思う。咲ちゃんが悪いといいたいわけではないけれど、きっとそうだったと思う。
ハンバーグを食べ終わって、お箸をおきながら咲ちゃんは、わたしと、父さんと母さんと、それから香織にこう言った。
「わたし、結婚したいひとがいるの」
咲ちゃんは元々おっとりした性格だったし、特に違和感のない口調だった。落ち着いた、静かな言葉。内容だけを除いては、違和感なんてひとつも無かった。ひとつも。
母さんは、なんてこと言い出すの、と顔をしかめた。わたしと香織は顔を見合わせて、驚いた。家庭内で、このとき冷静だったのは父さんだけだった。
わたしは三姉妹の真ん中で、咲ちゃんが長女、香織が三女だ。父さんと母さんも合わせて五人家族。姉妹関係はとてもよくて、近所でも評判だった。少なくともわたしにはそういう風に見えた。多分咲ちゃんや香織も言わないだけでそう思っている。親子関係はと言うと個人でばらばらだった。わたしのことを言うと、わたしは父さんが苦手で母さんと仲良しだったし、人間関係を上手に築く咲ちゃんは両方ともと仲が良かった。香織はわたしとは逆に父さんとだけ仲が良かった。客観的に見てみると、咲ちゃんは一番中心的で優しくて、いつも一番寂しそうだった。自分を表に出していないから。
咲ちゃんはいたって真面目な顔つきでもう一度繰り返す。本気で、結婚したいと思う男のひとがいるの。少しささやくような声。母さんは大きく溜息をついた。一緒に肩も揺れた。父さんは、母さんに“おかしくない年だろう”と言い聞かせていた。
わたしは何があっても咲ちゃんの味方だったけれど、母さんに反論する勇気はどうしても出なかったし、咲ちゃんがこの家を出て行くという点では納得できなくて――というか寂しくて嫌で――全く口が出せなかった。結局のところわたしは、意思が弱いというか、気が弱いというか。
今年で咲ちゃんは二十五歳だ。だから父さんの言うとおり、結婚をしたっておかしい年齢ではない。ただ、それが突然過ぎたのと、翌日つれてきた男のひとが変わったひとだったのが気にかかったのである。因みにわたしは丁度二十歳で、もうすぐ二十一歳になる。香織は、十八歳。今年で高校を卒業する。咲ちゃんひとり、年がすごくというほとでもないけど離れているのだ。リビングのテーブルを五人で囲みながら、誰一人と口を聞かない。いつもはにぎわうはずの食卓も、静か過ぎて気持ち悪い。咲ちゃんはとても居心地の悪そうな顔つきだった。咲ちゃんだけじゃない。一番居心地が悪いのは咲ちゃんでも、他の皆だってむっすりとして、居心地がよさそうなんかじゃなかった。香織がようやく閉じていた口を開く。
「姉さんの決めたことなら」
と一端切って、もう一度息を吸って吐き出し、続けた。
「咲ちゃんの決めたことなら、幸せになれることなら、わたしはかまわないわ。少なくとも、きっと、明菜ちゃんだってそうよ」
明菜ちゃん、とはわたしの呼び名だ。家族中で父さんと咲ちゃん以外の三人はそんな呼び方をする。父さんは明菜、と呼び捨てにする。あんまり気に入ってはいないけれど、あの父さんが明菜ちゃん、と呼ぶよりはよっぽどいい。咲ちゃんは、明菜ちゃんと呼ぶこともあったけれど、だいたいは明ちゃんかあっちゃんだった。
気の強い香織が、此処まで必死に長時間頭を悩ませたのだ。わたしの考えもだいたいついてくれているし、わたしは同意をした。といっても、頷く動作だけで。
咲ちゃんはありがとう、と笑った。母さんは少し不満気な顔のまま、明日そのひとをつれてきなさいと言った。父さんは微かに笑っていたし、香織は自分の意見でまとまったことを誇らしく思って嬉しそうだった。
この時点ではまだ暖かかったように見えたけれど、実際はそうでもなくて、家族はぎくしゃくしだしていた。特に母さん。愛する我が子が見知らぬ人の家へお嫁に行く、と言うのはたいへんな苦痛のようだった。
食事を終えると、てきぱきと咲ちゃんは食器を片付けて、食器洗いをした。かちゃかちゃと食器のぶつかる、家の音がする。わたしはこの音が好きだ。家族で食事を取った、全員分の食事の跡を示す音。食器を洗うのは咲ちゃんの仕事だ。朝も昼も夜も。今日みたいに、つかれきった食卓の後も。
わたしはわたしの仕事をする。洗濯物をたたむこと。それから、お風呂のお湯を沸かすこと。父さんが、早く風呂に入らせてくれ、とわたしを急かした。わたしは少しいらっとしたけれど、気持ちを掻き消すように、急ぐね、と笑った。
香織は、掃除をすることが仕事だった。母さんは妙にきれい好きだったから、香織に毎日掃除をさせた。掃除機をかけるだけの、簡単な掃除。皆、自分の仕事が終わったら、他の仕事を手伝った。
わたしは仕事の“洗濯物をたたむこと”と“お湯を沸かすこと”を終えると、香織の仕事は終わっていたので――香織はテレビを見ていた。赤いふわふわのソファに座って。自分の仕事が終わったら、他の家族の仕事を手伝うというわたし達での暗黙の了解を、香織だけがいつも忘れてしまう。今更言うつもりもないから放っておくけれど――咲ちゃんの食器洗いを手伝った。咲ちゃんは、ふわりと目をほころばせて笑った。それから続ける。明ちゃんは優しいね。まるで幼い子供をあやすかのように。
食器洗いを終えると、わたしは洗いたてのコップを、ごめんね。自分で洗うから、と言って棚から取った。蛇口をひねって、水をコップの半分くらいまで注いで口に流し込む。一気に飲み干して、そのコップをまた再び洗う。
「もう、水こぼさないのね」
咲ちゃんがにこにことわたしに言った。
「わたしもう、子供じゃないのよ」
ぱしっと言い放つ。それでも咲ちゃんはそうね、とにこにこ笑う。地面と少しだけ離れた足で歩いているような、寂しそうな顔で、ふわふわ、にこにこと。
わたしは咲ちゃんの笑顔が好きだった。とても。だけど、今笑った咲ちゃんの笑顔は決してわたしの大好きな咲ちゃんの笑顔ではなく、まるで初心者が水泳をして溺れかけてプールから上がったあとみたいに疲れた顔をしていた。
思えばもうこの頃から、歯車は狂いだしていたのに、何故かわたしはそれに気付けなかった。
わたしがもっと早く、咲ちゃんと香織の必要性に気付いていれば、姉妹三人はきっとばらばらにはならなかっただろうに。
そう、そんな不安定な状況になったのは、丁度一週間前のことだった。
明日、そのひとをつれてきなさい、と母さんに言われて、翌日ほんとうに咲ちゃんはそのひとを連れてきた。母さんのその言葉が嘘だと思っていたわけではないし、ほんとうに連れてくることもわかっていたけれど、わたしにとっては驚くべきことだったのだ。何故か。
冴えない感じのひとだった。玄関に突っ立ったまま、緊張しすぎて暫く黙り込んでいた。髪の毛は普通くらいの長さに黒。あんまり似合わない縁無し眼鏡に、スーツ。少しセンスの悪いネクタイ。目が細くて、人のよさそうな人だった。人がよすぎて、仕事にならないのじゃないかと思うくらい。そして、物凄く、さっき言ったとおりに冴えない感じの人だった。あんまり収入もなさそうだし、勉強もはっきり言って出来そうな感じじゃない。
大分長い間をおいて、少し落ち着いたのだろうか、咲ちゃんの好きな人が挨拶をした。
「始めまして。咲さんとお付き合いさせていただいています、松井洋一です」
あまり似合わない名前。後から咲ちゃんに聞いた話だと、彼は、二つ年上の二十七歳でサラリーマンなのだそうだ。咲ちゃんは、器用じゃないし人付き合いも下手だけど、とてもとても優しくて素敵なひとなの、と言っていた。だけどわたしは正直なところ、咲ちゃんには似合わないと思っている。多分香織だって心の奥でそう思っていたと思う。
わたしが言うのもおかしいが、咲ちゃんは物凄く優しくてきれいな顔立ちをしている。だから男のひとはたくさんやってきたし、人柄もいいからみんなから好かれていた。そんな咲ちゃんだから、もっといいひとはいっぱい見つかるはずなのに、咲ちゃんが始めて家に上げる男のひとは、こんな冴えないサラリーマンなのだ。
「とりあえず、あがりなさい」
父さんは複雑そうな顔でぼっそり呟いた。低く、小さな声で。松井洋一さんは、ぺこりとお辞儀をしながらありがとうございますといって靴を脱いだ。わたしは目が合ったので軽く会釈しておいた。
リビングで、ひとつ余分だった椅子に彼は座った。話を聞けば聞くほど、物凄く咲ちゃんが好きなんだろうと思った。
例えば必ずデートのときはお弁当を作ってくれただとか、――そういえばふたつお弁当を作って休日に出かけたことが何度かあったな、とわたしは思い出していた――ぼくの家では料理も作ってくれたし、とか、兎に角咲ちゃんをほめ続けた。それは父さんや母さんに気に入られたいからではなく、咲ちゃんを好きだから出た言葉だったろう。だけどわたしはそれ以上話を聞きたくなかった。
家では見せない咲ちゃんの姿。女の咲ちゃんの姿。わたしの姉としてじゃない咲ちゃんの姿。わたしより咲ちゃんを知ってるわけじゃないんだから、入りこんでこないで、と言いたかった。だけど松井洋一さんが話を進めれば進めるほど、咲ちゃんの頬は可愛らしく赤らみ、嬉しそうに唇の両端は上がった。松井洋一さんは決して悪いひとじゃなかった。だけどわたしはあんまり好きじゃなかった。多分咲ちゃんが今日物凄く仕事のできる冴える素敵な男のひとを連れてきていても、わたしはそのひとを好かなかっただろう。わたしから大事な咲ちゃんを、大事な家族を取り上げていくひとなのだから。
まるで、目の前に置かれた餌をゴミ箱に入れられた動物のような気分。咲ちゃんは一生懸命話している松井洋一さんの横顔をずっと見ていた。幸せそうな二人。
後から母さんは愛想で夕飯を勧めたけれど、
「いいえ、お気持ちだけありがたく頂戴させていただきます。またの機会に、お願いしたいです」
と少し変な日本語で彼は断った。帰り際の玄関での彼は、ほっとした笑顔を見せていた。それをまた嬉しそうに眺める咲ちゃん。母さんと香織――特に母さん――が少し怪訝そうな顔をしていた。
彼が帰った後、家族全員がリビングに戻った。母さんが、遅くなったけれど食事にしましょうか、と一本調子に言った。
「ねえ、素敵なひとだったでしょう」
台所に立つ母にも聞こえる声で咲ちゃんは言った。
「いいひとだったけど」
香織はむすっとした顔で、少し口をつぐんだ。その続きは母さんが言った。
「咲にはもっと似合うひとがいるんじゃないかしら」
香織は大きく頷いた。父さんは
「だけど咲が決めたことじゃないか」
と言った。わたしはあえてどちらにも同意しない。わたしは、咲ちゃんには幸せになってほしかったし、彼と一緒になることが幸せならそれでいいと思った。だけど、ただわたしが唯一嫌なのは、咲ちゃんがこの家を出るということなのだ。咲ちゃんが帰らない家など、もう我が家ではない。
咲ちゃんは物凄く困ったつらそうな顔をしていた。わたしは胸がきゅうきゅう鳴った。
「だけどとてもいいひとなの。わたし初めてだったの。こんなに一緒にいたいと思ったひと」
いつもふわふわと笑っている咲ちゃんが時折見せるつらそうな顔は、ヒステリックな母さんや香織がつらそうにするよりもずっと心に重くのしかかる。――今になって思うが、母さんと香織は似ている。だからふたりは合わないのかもしれない――母さんが無言で台所に料理を運んできた。今日はレタスときゅうりのサラダと、ミートスパゲッティだった。母さんが椅子に座って、フォークを持ち口を開く。
「ねえ咲。わたしはあのひとを嫌なひとだって言ってるんじゃないの。だけどあのひとにはもっと他に合うひとがいるし、咲にはもっと合うひとがいるんじゃないかしら」
咲ちゃんは益々悲しそうにする。下唇をきつく噛んで。わたしは今の母さんには同意出来なかった。合う合わないじゃなく、好きか嫌いかだと思ったのだ。結婚はそれだけじゃやっていけないことも、ちゃんと頭ではわかっていたけれど。
咲ちゃんが不意に此方に視線を向けた。まるでわたしに助けを求めるように。わたしは少しだけ戸惑ってから、一口スパゲッティを口に含んだ。それからゆっくりと飲み込み、口を開く。
「わたし、結婚自体には賛成なの。合う合わないなんて関係ないし、合わないなら離婚すればいい。そんなの一緒にならなきゃわからないし、離婚は色々大変だけど、するならするで縁がなかったってことだわ。咲ちゃんは今したいと思うことを行動に移せばいい」
この先を言うかどうかを物凄く迷った。母さんは少しだけしかめっ面になる。とりあえず伝えておこう。今くらい意地を張らずかわいい妹でいよう。そう思ってもう一度わたしは口を開く。
「だけどやっぱりわたし咲ちゃんには傍に居て欲しいの。家を離れて欲しくないの。咲ちゃんが居ない家なんて、そんなのわたしの帰りたい家じゃないもの」
一瞬にして家族の温度が下がった。咲ちゃんは目を見開いてわたしを見つめる。香織は明菜ちゃん、と声をもらした。それから一応付け足しておく。我侭な妹でごめんね。すると咲ちゃんはふるふると首を振って、嬉しそうに笑った。
「そんなことない。可愛くて素敵な妹を持てて幸せよ」
少しだけ水分で湿った瞳。
その時だった。今まで黙々とスパゲッティをつついていた父さんが口を開いた。
「父さんも明菜と同じように思う」
咲ちゃんは、うん、と短く返事をする。
「咲、結婚しなさい。ただし、失敗しても成功しても嘆くな。おまえの決めたことだから。幸せになりなさい」
母さんは鼻をすすりながらサラダを食べる。香織はもう既に号泣していたし、わたしは咲ちゃんから目を離さなかった。無表情で。父さんは頼もしい笑顔を見せ、咲ちゃんは涙をこらえた顔で口を少しだけ動かしながら言った。
「ありがとうございます」
聞き取りにくい、心からの言葉。
窓からは気持ちのいい風が家に入り込んでいた。この夜は物凄く星がきれいで、もっと早く気付けばよかったと後から後悔をした。それに気付いたのはみんな眠ってしまった後だったからだった。
わたしが何故そんな遅くまでおきていたかというと、咲ちゃんが家を離れるという一大事を整理しなければならなかったからだ。明日は休日だから寝坊したってかまわない。今夜は好きなだけ起きて、明日は好きなだけ寝よう。休日のわたしの一番の過ごし方だ。
咲ちゃんはそれからすぐにお嫁に行った。四人になった家族は何処か寂しい。後二ヶ月ほどで、香織は高校を卒業する。咲ちゃんは頑張ってね、と香織に言い残して松井洋一さんのところへ行った。彼は嬉しそうだった。二人は結婚式をしなかった。理由を聞いても咲ちゃんは答えなかったけど、多分盛大に祝うほどのことじゃないから、と思っていたんだろうと思う。
それと同時に、香織は急激に元気が無くなった。だけどそれは咲ちゃんが家を出たせいだと思って、わたしは見落としていたのだ。姉という立場でありながら、影で香織が苦しんでいたことを。
「遅刻するわよ、香織」
母さんが台所から声を出す。それから、明菜ちゃん、とわたしの名前を呼んで、くいっと顎で合図をした。起こして来い、と。此処二三週間ずっとそうなのだ。
コンコン、とノックをして、名前を呼ぶ。入っていい? と。明菜ちゃん? とわたしの名前を呼んで、少しだけ香織はドアを開けた。
「香織、早く起きなきゃ。今日も学校あるんでしょう?」
香織の部屋の中は真っ暗だった。カーテンは閉め切っていたし、電気だってついていない。制服はきちんとハンガーにかけられていたけど、布団はぐちゃぐちゃになっていた。
「行きたくない」
香織は俯いた。そして黙り込む。わたしは溜息をついて、言ってしまったのだ。
「咲ちゃんがいないからって、そんなことじゃ駄目よ」
気付かなかったのだ。異常だったこと。香織が今までに一度も、一人で抱え込むように部屋に閉じこもることなど無かったことに。
「咲ちゃん関係ないよ」
香織の目は何も映っていない。俯いたまま、――少しだけ辛そうに――ぼそぼそと喋る。
「兎に角着替えて降りておいで」
香織は首を横に振った。何度も何度も。それから、わたしを睨む。初めてのことだった。此処まで香織が怖く思ったのも、哀れに思ったのも。暫くして、母さんがこっちに来た。
「まだなの? しっかりしてよ」
わたしに苛々とした棘のある声をぶつける。それから香織を見て、口を開いた。
「いい加減にしなさい。幼稚園児じゃないんだから」
香織は見たことも無い顔をした。絶望の底に追いやられたような顔。それから、静かにこういった。
「母さんにはわからないよ」
そして、ドアを閉め、かちゃりと音をたてて鍵をかけた。母さんが香織の名前を呼び続ける。母さんの目は悲しそうだった。香織の目には色が無く、わたしはただ呆然と二人の姿を眺めていた。
母さんは溜息をつく。溜息は母さんの癖だ。それが香織は嫌らしい。何なの、もう知らないわよ。母さんはそういい残して台所へ向かった。絶望、それから暗闇。このときやっと香織に何かが起きたことに勘付いた。だけどわたしは何かに気付くのがいつも必要以上に遅い。話していた五分くらいの時間が、香織からのサインだったことに、今更気付くなんて。自分で自分を疑った。
「香織」
ドア越しに大きく名前を呼ぶ。香織からの返事は無かった。時々声を殺して泣いている音が聞こえてきて、物凄く切なかった。まるでナイフで心を切り裂かれたように、痛くて、切なくて、悲しかった。
わたしがちゃんと冷静で居なければ、益々香織は不安になるだろう。だけど、今のわたしにはどんな行動も取れなかった。ただ、不安ばかりが頭の中をよぎる。
「香織、とりあえず部屋に入れて」
必死で香織に声をかける。ごめんね、も合間にはさみながら、落ち着いた声で、だけど気持ちは焦りながら。
こんなとき、思う。咲ちゃんが家に居てくれたら。咲ちゃんならどうするんだろう。考えて答えを出しても、どうなるかなんてわからないのに。
わたしにはわからなかった。こんなときどういう風に接したら、香織が此方に意識を向けてくれるかなんて。
「香織。部屋に入れて」
何度目かのお願いに、鍵の音がした。かちゃり、ゆっくりとした音。よく見たら香織の目は赤く腫れていて、痛々しかった。
「今日、学校休ませてくれる?」
香織はまるで幼い子供のようにわたしを見た。
「わたしが母さんに言っておくわ」
わたしのその言葉を聴いた途端に、香織の目の色が変わったのがわかった。嬉しそうに、そしてほっとした感じに目だけで笑った。
「入っていい?」
慎重に聞く。香織は一度、静かに首を縦に振ってから、明菜ちゃんなら、とゆっくり言った。
「ありがとう」
そう呟いて、わたしは笑った。それから、足を踏み入れる。物凄く暗くて、それから、怖い部屋。明るい、面倒見の良かったはずの香織の異変を思わせる部屋。
「何があったの」
声を漏らす。一刻も早く知りたくて。香織だけの事実を。最初は香織もためらった。言っていいものかいけないものか。わたしはもう一度聞く。慎重に、ゆっくり。
「どうしたの。何が悲しかったの」
香織はぐっと顔をしかめて、ぽつんと落とした。
「今たくさん喋ったら泣いちゃいそう」
わたしはそっと香織の手をとる。
「泣いて良いよ」
香織の顔はふっと緩み、泣きじゃくりながら話を始めた。
今この家での姉にあたる存在は、香織にとってわたししかいない。心理学者でも精神科医でもカウンセラーでも無くても、わたしは多分今香織の話しを聞くべきなのだ。それがわたしの使命の一つでもあるような気さえした。
涙と混ざった声は少しだけ聞き取りにくかったが、まとめるとこういうことらしかった。
香織は中学二年から物凄く仲の良かった親友が居た。岬ちゃんという子で、わたしも知っている。だけど最近その子には香織ではない別の友だちが出来たらしく、――その子は芽衣ちゃんというらしい――香織は友情における三角関係になることを避け自ら一人になったらしい。余談だが、香織は前にも一度同じようなことを経験している。といっても小学六年生のときのことだが。それで仲間はずれにされ、独りぼっちになってしまったのである。その時はリストカットをしていた。(今でも跡が二つくらい残っているほどだ)なので、『一人にされる』くらいなら『一人を選ぶ』ほうがいい、という考え方になってしまったのである。
香織は決して強くは無い。どちらかというと寂しがりで弱い。だけど香織曰く、家族が居るから平気、らしい。なので強く見せることは上手い。
それで、今回香織は教室では一人になったわけである。一人というのは自分から選んでみると結構楽しかったりしたそうだ。読書も香織は好きだったから。だけど自分が何かを言われていることに香織は気付いてしまった。言うまでも無く、悪口である。
岬ちゃんや芽衣ちゃんがひそひそと悪口を言っては此方を見て笑う。そして目が合ったら嫌味なほどにっこりと笑顔を見せる。そんな繰り返しだったそうだ。最近はっきりとわかった内容は“被害妄想者”“自分勝手”“わがまま”だそうで、自分で一人になってわたしはかわいそうなのって言いふらしてるようなもんだよね、らしい。
それがどうにも抱え切れなくて、信用の強い担任の教師に相談をすると、“アンタの思い込みじゃないの?”と鼻で笑われ、今のような状態になってしまった、と香織は言った。
被害妄想の部分もあるかもしれないけど、悲しい。香織はそう嘆いた。それから続けて、香織は口をゆっくりと開き、わたしの両腕をつかんでこういった。
「明菜ちゃん、殺して」
目の前が一瞬のうちに見えなくなった。頭はくらくらして、ただ香織の泣き声だけが聞こえた。
「香織?」
何いってるの、そう付け足そうと思って口をつぐんだ。ほんとうに香織は辛かったのだ。
わたしは無言で部屋を出て、大きく叫んだ。
「母さん、香織腹痛がひどいから今日学校休ませてやって」
母さんはためらいがちに、わかった、と返事をした。その返事を聞いて、もう一度香織の部屋の中に戻る。
「わたしには出来ないわ」
少しだけきつく香織を見る。それから、はっきりと問う。死にたいの? 香織は首をかしげて、わからないといった。
「わからない。だけど、もう疲れたの」
うん。静かに相槌を打つ。辛かったのね。そうささやいて。
「明菜ちゃん、わたしが駄目だったの? わたしがいけなかったから、岬はあっちに行っちゃったの?」
心臓を突き刺されたような気分だった。そんなことわたしに聞かれてもわからなかったし、曖昧な返事も出来なくて黙り込んでしまった。
「死にたいときのほうが多かったわ、ずっと」
香織は鋭い涙で湿った目でわたしを見た。何かを訴えるような子供のような目。香りはずっと変わっていない。昔から幼くて、透明な瞳をしている。
「とりあえず電気つけよう」
複雑な気分でわたしは香織にお願いをする。香織は戸惑いながらこくんと頷く。
カチン。音より少しだけ遅れて、パチパチと電気がつく。ずっと暗闇の中に居たせいで目の前はちかちかした。香織は何度か瞬きをしたあと、深く目を瞑った。
「香織は被害妄想なんて無いわ。辛かったんでしょう。よく頑張ったね」
そういって、香織の前にかくんと座り込んで頭を撫でてみる。香織はわたしにもたれかかって、此処が一番安心する、とこぼした。
「憎いのは自分だったの」
思わぬ発言にわたしは思わず、え? と聞き返した。
「ずっと憎いのは自分だったわ。ちゃんと上手くやれたらこんなふうにならずに頑張れたのに、きっと」
そういってまた、香織は涙をこぼす。
「いいじゃない、一度や二度は転んでみれば」
そういって微笑んでみる。それから強く香織を抱きしめる。言葉を必死で探ったけれど、どれも多分香織にとっては必要なものじゃなかった。ただ、静かに抱きしめることしかわたしは術を知らなかったのだ。
「とりあえず朝ごはん食べようか。それから考えよう。おなか減ったでしょう?」
香織は両手でおなかを両手で押さえ、無邪気に微笑みながらうんと頷いた。わたしは香織の手を引いてリビングへ向かう。
母さんはリビングのソファに腰をかけてテレビを見ていた。わたしたちが降りてきたのに気付いて、複雑な顔をしながらささやく。
「朝ごはんできてるわよ」
疲れた母さんの顔。これでも多分かなり香織を気にかけていたんだろうと思う。
「母さん有難う」
香織は幸せそうに微笑んだ。テーブルを見るとハムエッグとチーズトースト。どちらも香織の好物である。
「紅茶入れるわね」
母さんは微笑しながら腰を上げて、台所に立った。
「わたしこのまんまでいい?」
香織が此方を向いて不安そうに聞く。
「良いよ」
わたしは当たり前だといわんばかりの顔で答える。
「学校行きたくなくなったらまたわたしに言ってね。母さんに上手いこと言ってあげるから」
香織が声を出して笑ったのと、母さんが笑う顔が見えたのは言うまでも無く。
翌日香織は以前と同じように――いや、どちらかというと少し不安そうな顔で、だけど強く――学校へ向かった。行ってきます、に続けて、頑張ってくるね、と付け足して。
香織は高校を卒業した後家を出た。全寮制の大学に入ったのである。もう受験が目の前だという十二月の終わりに、香織は担任に頭を下げて志望する大学を変更した。普通ならありえないことだが、父さんまで出てきて頼んだので担任は仕方なくそれを了承した。
香織は適当に決めた短大ではなくて、専門的な大学に行くことを選んだのだ。彼女は将来心理学者になりたいらしかった。そのためには一番近い大学でも家から四時間かかるところへ通わなければならない。なので香織は大学の近くにアパートを借りて一人暮らしを始めた。電話で、もうすぐ大学が始まるの、と嬉しそうにしていた。もう、平気らしい。香織は一人でも、大丈夫らしい。と本人が言っていた。
とうとう、我が家の娘はわたし一人になった。無駄に広いテーブルを三人で囲むのは物凄く切なかった。何か、自分の身体の一部を取り上げられたような気分。食事も進まないし、母さんの得意な料理だってあまり美味しくない。父さんも目の奥では寂しそうにしているし、今までのように母さんだって料理に手を振るわない。
わたしには最近、恋人というものが出来た。大学の友人に無理矢理連れて行かれた、いわゆる“コンパ”で知り合った人で、彼も同じく友人に無理矢理連れてこられた人だった。岡崎暁という、優しい目をした人。優しい目で、大きな手のひらの人。たまたま気が合って、メールアドレスと番号を交換し、それから何度か約束をして会っている程度で、直接的に好きだと言い合ったわけではない。ボーイフレンドといったほうが適切かもしれなかった。ただ、寂しさを紛らわしたくて、今まで興味の無かった恋に走ったわけである。勿論それは既に岡崎くんには説明してあるし、彼はそれをすんなりと受け入れた。
「いいよ。おれも、ちょうど寂しかったところだから」
そんなことを言っていた。
それから、香織によく電話をかける。岡崎くんから電話がきたり、此方からかけるときは別だけど――あまりにいっぺんに大勢の人と電話をするなと母さんに言われているので――しょっちゅう香織に電話をしていた。それから、時々咲ちゃんに了承を得て、咲ちゃんの家に遊びに行くこともある。
家で黙り込んでいるのは少し息が詰まる。香織や咲ちゃんがいなければ、母さんや父さんと話すことなど無いのだから。話しかけられることといったら、叱られるときくらいなのだ。
今日は香織に電話をかける。何かしら用事を作って。例えば今日なんかは、“ミュージックテレビ、見た?”
わたしは今夜の八時から始まるミュージックテレビに出演するアーティストが好きだった。CDも何枚か持っている。今日は見ようと思っていたのにすっかりと忘れていて、見逃してしまったわけである。それを理由に、香織に電話をかける。
「もしもし」
懐かしく、少し疲れ気味の香織の声が電話越しに聞こえた。
「香織、わたし。明菜」
ぱっと声が明るくなるのがわかった。
「明菜ちゃん。どうしたの?」
歓迎されていることがわかると物凄く嬉しい。なぜか、幸せな気分になる。自分の必要性を教えてもらえた気がして。
「今日のミュージックテレビ見た? 見逃しちゃって」
香織はおどけた声を出して、見ていないと言った。
「そういえば明菜ちゃんの好きなアーティスト出てたもんね。ごめんね」
わたしはううん、と否定する。香織が謝ることじゃないよ。そういって。
それから、香織が切ろうとするまでしつこく世間話を続ける。今日近所のおじいちゃんがかわいらしい犬を連れて歩いていたことだとか、大学の友人が始めてお酒を飲んで倒れてしまったこととか。何か一つ話すたび、香織は声を上げて笑う。
「おもしろいね、明菜ちゃんはやっぱり」
そういって。にこにこと微笑むのが、電話越しに此方に伝わった。そして、じゃあおやすみ、といって香織が電話を切った。
わたし達はよく、昔指きりをした。絶対約束だよ。そういう意味で。勿論その約束を破ったらみんなほんとうに針を千本飲ますつもりだった。だけど三人とも誰も、約束を破ることなんてなかった。かくれんぼをしたときは見つかるまで探したし、置いてかえることなんてなかった。これも指きりをしたルールの一つだ。今じゃそんなことを覚えているのはわたしだけかもしれない。
一番執着しているのはわたしかもしれない。このふたりに。
その後、岡崎くんにメールをしておいた。最近忙しかったりする? と。何となく人恋しい夜は、誰かにメールをしてから眠りにつく。携帯の電源を切り、わたしは布団にもぐりこんだ。明日の目覚ましをセットして、目を深く深く瞑る。音がわたしの耳に入ってこないように。一人ぼっちの天上が視界に入り込まないように。音を遮るように、全てを受け付けなくてすむように、兎に角わたしは深く目を瞑る。
明日は大学の授業をとっていないから、許可をとれたら咲ちゃんの家へ行こうか。そして夜は岡崎くんに電話をしてデートの約束もしておこう。寂しくないように、予定でいっぱいにしておこう。
予定通り、わたしは咲ちゃんの家に遊びに行かせてもらった。松井洋一さんは仕事だったから、わたしは気遣うこともなかった。一応手土産として咲ちゃんの好物のデパートのラングドシャは持ってきたけど。
咲ちゃんの住むアパートの部屋は真っ白だ。壁も、天井も。台所だって新品のようにぴかぴかで、テーブルは透明なガラス。もう結婚してから大分経っているのに、ちっとも汚れない。
「咲ちゃん、子供はまだなの?」
わたしは軽々しくたずねる。咲ちゃんは、にっこりと笑っていった。
「まだ、いいかな。結婚して少ししか経ってないもの。洋一さんだけで充分だわ」
久しぶりに見た、姉の、白い花のほころぶような笑顔。わたしはずっとこれが見たかったのだ。それを見たくて此処に来たのだ。今日は大きな収穫を得た。
咲ちゃんはお礼を言いながら持ってきたラングドシャをお皿に盛る。そして、温かい紅茶をわたしのために入れてくれて、テーブルに置いてくれた。
「香織は元気?」
わたしはサクリとラングドシャを口に含み、紅茶を飲んでから咲ちゃんの質問に答える。
「わからないの」
咲ちゃんはおどけた顔を見せた。テーブルに近い場所に窓がある部屋だったので、物凄く暖かい。日がわたしの背中を照りつけて暑いほどだ。
「言ってなかったかな。香織、今家に居ないのよ」
どうして? 咲ちゃんはすかさずわたしに質問を付け足した。
「どうして家にいないの?」
「志望する大学を変えてね。心理系の勉強をしたいんだって。それで、その大学は物凄く遠かったから、一人暮らしを始めてるの」
静かな口調で言った。
「連絡先教えておくわ」
わたしはそういって、黒のポーチからペンと白い紙を取り出す。わたしの鞄に常に入っているものは、ハンカチとティッシュ。それから、なぜかわからないけれど、ペンと紙とソックタッチ。あんまり使わないのにもかかわらず。わたしは走るように手を動かして、咲ちゃんに紙を渡した。ありがとう、と微笑んで咲ちゃんは白い紙を眺める。
長い黒い髪の毛がさらさらと揺れて、白い肌に目立った。白くて、長い指先や腕も、まるで幽霊のように透明な目も、先ちゃんは家族中で誰よりもきれいだった。
「それにしてもすごいわね。香織が心理学だなんて」
ふふふ、と声に出して咲ちゃんは笑った。何か色々大変だったのよ。わたしはあえて詳しいことは言わずに、曖昧な返事をしておく。
「香織はああ見えて色々敏感だから、高校や中学では苦労してたわよね」
咲ちゃんはまるで、五十年や六十年も前のことのように言った。だけどわたしには、それに対して違和感を感じられなかった。まるで、五十年も六十年もずっと会っていなかったような、そんな気持ちになる。咲ちゃんはわりと近くにすんでいたからすぐに会えたけれど、香織だとそうは行かない。つまり、寂しいのだ。思うと、咲ちゃんは咲ちゃんにとってのすてきなひとを見つけて幸せになり、年下の香織でさえ自分の目標を見つけているのに、わたしだけ何も見つけていない。居場所も何も。
ひどく、それが心細く思えた。心がかすかすで、かふかふなのだ。かすかすで、かふかふ。いまいちつかみにくい表現だけど、それが一番しっくりと来る。
咲ちゃんに笑顔で挨拶をして、わたしは夕方ごろに帰った。
「ただいま」
玄関で小さくささやくと、母さんはこちらに来て
「帰ってたの」
といった。今帰ってきたんだよ、といいかけて思わず口をふさぐ。母さんにとっては帰っていても帰っていなくてもどちらでもいいような存在だということをわたしは感づいていたから。
長女で自分達にとって一番の子供である咲ちゃんは非常に出来もよく可愛がられていた。そして、香織は我が家で最年少として愛されていた。だけどわたしは中途半端な存在で、それなりにちゃんとやっていけるけれどずば抜けた能力も無いやつだった。かわいいわけじゃなく、かといって馬鹿ではなく、おとなしくもなく。生意気だったのだろうか。
夕食――今晩は和食だった。味噌汁にさわらの大根おろしがけにご飯。それからお漬物。父さんにはビール。わたしの嫌いな味付けで、父さんの好きなメニューだ――を食べ終えると、わたしは部屋で岡崎くんに電話をした。三回ほど“プルルルル”と鳴らした後に、岡崎くんが受話器をとった。もしもし、と柔らかい声が耳の中で広がる。
「岡崎くん? わたし、明菜」
岡崎くんは、ああ明菜ちゃんか、と言った。笑っている感じの声で、電話越しにちゃんとそれは伝わった。そういうときの感覚をわたしは幸せと呼ぶ。通じ合った空間。暖かい空気のような時間。
近くに柴犬を連れたおじいさんが越してきて、そのおじいさんと柴犬がひとなつっこくてそっくりなことから、最近嬉しかったことをわたしは全て岡崎くんに明かした。岡崎くんは静かで心地よい相槌と、時々笑い声をくれる。わたしが話し終えると、何か一言添えてもくれた。
それからわたしは迷いがちにも、話をしてみた。心がかすかすでかふかふで、寂しい話。心細く、それから自分が嫌な話。
今度は彼の笑い声は聞こえない。真剣で、きびきびとした相槌が何度か聞こえてくる。わたしが話し終わると、暫く考え込んで、岡崎くんはとんでもないことを軽く言ってのけた。
「結婚しようか」
わたしたちは勿論そこまで深いかかわりを持っていたわけではなかったし、持ちたいとも思っていなかった。寧ろこのまますてきなボーイフレンドとガールフレンドで終わるのだと思っていた。それを考えるのが寂しくて嫌で考えなかっただけで。
「勿論おれがもっと自立したらの話だけど」
岡崎くんは言い訳するように付け加える。ほんとうのことをいうと、ちょっぴり嬉しかった。わたしは戸惑いがちな声で、うん、と微笑んだ。勿論わたしの微笑は岡崎くんには届いていない。
次のデートの約束をして、わたしたちは電話を切った。
昔、香織が言っていた。地球は青いけれど、地上は赤いと。人の汚さが入り混じった血液の色。
「わたしたちは赤い地上の上を、生きることで汚しているんだわ。そうすることで生きる快感を得ている。おかしなことじゃなくても、残酷な定めね」
香織が中学三年生の頃だったと思う。わたしは少しだけ納得をしたけれど、少しだけ悲しかった気がする。青を赤に変えてしまったのは、わたしを含む人間なのだ。
そして、わたしは今もその赤い地上を歩き続けている。
何を思ってかわたしはリビングに降りた。すると母さんが一人で煙草をすっていたので、わたしはいつも座る席に腰をかけ話しかけてみた。
「わたし今、恋人がいるの」
母さんは此方を見て、少し間をおいて笑った。
「あんたも大人になったわねえ」
しみじみと、煙草の火を消しながら。
母さんは、少しだけ俯いて、急に黙り込んだ。わたしは何かいけないことを言ったのではないかと急に不安になり、焦り始める。すると、母さんが突然口を開いた。
「ごめんね。母さん不器用だから、あんたに何にもしてやれなかった気がするけど。でも明菜ちゃんがいてくれて嬉しかった」
わたしは思わずぽかんと口を開いて、呆気にとられた顔を見せる。それから、嘘、とかすかな声を漏らした。
「嘘じゃないよ。ありがとう」
暗い。外は異常なまでに暗い。星はきれいに輝き、月は美しく光る。
わたしはしずくを瞳に溜めて、台所にお茶を飲みに行った。この出来事は誰にも言わないでおこうと思った。最後の最後まで、母さんの死ぬ間際まで、いや、わたしの死ぬ間際まで、これは母さんとわたしだけの幸せな秘密だ
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■作者からのメッセージ
些細なことから、他人から見れば絶対に解らないような速度で微妙に変化していく家族を描きたくてできた作品です。
まだまだ未熟な文章ですが、いつもSSばかり書いていたので長さとしては頑張ったつもりです。
特に気になっている点はタイトルと内容の関連性、香織の話、最後の終わり方(特に母親との会話)です。よければそのあたりのアドバイスがいただけるとうれしいです。