- 『青空の天使と大地の少年 ―完―』 作者:聖藤斗 / ファンタジー 未分類
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全角48497.5文字
容量96995 bytes
原稿用紙約142.65枚
偽善かもしれない。でも、歩くべきだと思う。僕の下に舞い降りた天使との小さな逃走物語。
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序章
「…ずるいよ。クリスマスは、みんなでパーティだったのに…」
小さな少女が嗚咽を漏らしながら呟いた。
少年はごめんね、と少女に謝る。しかし少女は嘆き続ける。
十二月二十五日。クリスマス。数日前父親の急な転勤が決まり、今日が引っ越す日となってしまった。最初は少年も泣き喚いたが、暫くして、落ち着いた。
少年は右足を引きずりながらその少女の元へと寄ると、腕に巻いてある腕時計を渡した。日付も示される設定のその時計は十二月二十五日の午前零時で止まっていた。
「じゃあこうしよう。この止まってる時計の時間の十年後に、会いに行くよ。その頃は、きっと僕も大人になってるから」
少年はにこりと笑い、そして腕時計を握り締める少女の手を取ると、小指と小指を絡ませる。
「指きりげんまん。嘘ついたらはりせんぼんのーます。指きった」
約束の言葉を交わした少女は、顔を涙でぐしゃぐしゃにしながらも、えへへ、と少年に笑いかけた。少年も少女に笑いかけると、父親の待つ自家用車に乗り込んだ。少女は走り去っていくその車をずっと見つめ、そして少年から貰った腕時計を見つめる。
「約束…だよ?」
少女は雪が降り始めたことに気が付いた。
――今日は十二月二十五日。クリスマスだった。
いつからか、自分がとても寂しい存在だと気付いた。
目立つことも無い。
得意な事も無い。
そんな自分がとても嫌いだった。
自分が殻に閉じこもったままの状態で、今まで生きてきたことが、とても悔しかった。 外の世界に出れば、大きな大きな世界が待っているのに、自分だけ飛ばなかった。
少年の頃、まだ翼の生えていない雛の時、空を飛ぶことを強く憧れた自分がいた。
それなのに、今は飛ぶ事がとても怖くなった。自分の情けなさに、嘆くしか無かった。
第一話
いつもの昼下がり。屋上から壮大な大地を見下ろしながら、須藤ナツは紙パックのコーヒー牛乳に適当にストローを差し込みゴクゴクと旨そうに飲んでいた。
耳にはイヤホンを付け、お気に入りの曲を楽しんでいる。学ランの下はTシャツでYシャツなんて物は着ていない。寝癖のついた髪の毛を空いている右手で弄りながらのんびりと過ごしている。
すでに腕に巻きつけてある腕時計は一時を示している。本来なら退屈な授業を受けているはずの時間である。現にナツのクラスは広大なグラウンドで千五百メートル走なんて言う面倒くさい事を行い、皆爽やかな汗を流している。
ナツはフェンスに寄りかかり、そのまま床に座り込むと空を見上げる。
――青い空だ。
ナツは思わず呟いた。どこまでも青く、そして所々に消しゴムで消したような雲が流れている。雲を見るだけで雨かどうか分かるという事は事実なのか突然気になる。が、数秒で飽きた。
何もする事が無いことに気付き、ナツは何気なく空になったコーヒー牛乳のパックをクチャクチャに丸めるとグラウンドで偉そうに立っている体育教師(木村幸之助三十二歳独身)目掛けて投げる。届くはずも無いので冗談半分で終わらせるつもりだった。
その時、突然強風がナツの背後から吹いた。空中を下降していた丸くなった紙パックはその風に運ばれ、グラウンドへと運ばれていく。ナツは目を白黒させながらその光景を見ていた。紙パックは遂に体育教師の頭上まで飛ぶ。そのまま通り過ぎてしまえと叫ぶが、そこで吹き荒れていた強風が急に止んだ。紙パックは当たり前のように下降し、体育教師の頭にポカリと阿保丸出しの効果音を出して当たった。
体育教師は紙パックを手にし、そして次に背後を振り向く。辺りには誰もいない。気のせいか。と呟いて再度偉そうに立ち始めた。ナツは焦りを感じながらも身を隠し、その状況をやり過ごす。そうしてから一旦一息つき、もう一度グラウンドを恐る恐る覗き込む。
目が合った。しかしそれは、体育教師ではない。妙に潤んでいる両目だった。ナツは目を細め、一度指でゴシゴシと何度も目を擦った。よしもう一度、と呟くと瞼を開いた。そこにはグラウンドで偉そうに立っているジャージ姿の体育教師が突っ立っていた。目の前にさっきの眼は無い。気のせい気のせいと思うことにし、ナツは寝転がる。ある程度冷えているコンクリート製の固い床が少しばかり心地よい。やはり寝るのは硬い床に限るものだ。固い床だからこそ語れることもたくさんある。と心の中で呟き、口笛を吹き始める。
「あれ? 何だっけなぁ? この曲。口笛だと吹けるのに、思い出せないな…」
ナツは起き上がると共にそんな事を呟いた。頭を掻きながらうんうん唸りを上げて必死に曲名を思い出そうとする。だが頭の中に曲名は一向に浮かんでこない。
そんな時、突然背後に気配を感じた。ナツは曲名を考えながら振り返った。
目を大きく見開き、曲名の事なんか一気に吹き飛んだ。
「ああ、その曲なら私知ってますよ。確か「春」だった気がします」
背中に二対の純白の翼を生やしたワンピース姿の少女は得意そうにそう言った。だが、ナツはそんな事は耳に入っていない。目の前の光景で手一杯だからだ。何故羽が生えているのか、何故制服ではなくワンピースなのか、何故真冬なのに半袖なのか、何故校則違反なのに茶色い毛なのか。どうでも良いことと共に目の前の不可解な人物に対しての疑問が渦となってナツを混乱させていく。そしてそれはだんだんと未知の存在に対する恐怖へと変化していく。
「う、ぁ、うあぁぁあぁぁぁぁ」
ナツは必死で走り出す。半開きのドアを両手で一気に引いて階段を転がるように降りて行く。もはやセンセイに見つかる事等は問題ではないのだ。自分は羽の生えた人間を見てしまったのだ。頭にはもうそれだけしかないのである。一体何の恨みがあって自分の下に来たんだ一体何の為に羽が生えていたんだ。
ナツは足を踏み外した。焦りによって前を全く見ていなかったからであろう。うわぁ、と情けない悲鳴を上げて階段を今度は本当に転がり落ちていく。そしてそのまま床に転げ落ち、全身をバットで叩かれたような痛みが体を貫く。そしてそれと同時に、ナツは意識を失った。
気が付くと、ナツは一人路上に立っていた。右には小さな公園がある。細い鉄筋で組み立てられているアスレチック、滑り台が建ち、そしてめっきが剥がれ錆が出ている。砂場には幼児の遊びを見守る親達。そして、アスレチックのてっぺんには一人の幼い少年と、怯えながら鉄筋に座り込んでいる少女がいる。ナツは何故かその二人を知っている気がした。夢なのに、何故ここまでリアルなのか気になった。
『ナっちゃん。そんなとこに立ってたら落ちちゃうよぉ』
『大丈夫。へっちゃらだよ』
少年は笑顔を少女に向けながら言った。しかし少女は高いところが元々苦手なのか、決して少年の真似をしようとはしない。
『見てろナオちゃん。僕、空飛べるんだよ』
『だめだよぉ。危ないよぉ』
少年は手をりっぱに広げると、アスレチックの頂上に仁王立ちを始める。ナオと呼ばれた少女は少年の足首を握り締めるが、それを少年は取り払うと雄たけびに近い声を発しながら膝を思い切り曲げ、そして伸ばした。少年の体は浮き、宙へと舞い上がっていく。
刹那、少女が飛び立った少年の足を掴んだ。
「わ!!」
少年は振り子のように、つかまれた右足を軸にして、地面へとゆっくり落ちていった。
そこから目の前が漆黒の闇に包まれ、何も聞こえなくなった。
「うわぁああ!」
ナツは布団を跳ね除けて起き上がり、震える体を両手で摩る。ナツは震えながら辺りを見回し、今どこに居るのかを興奮状態の頭で理解しようと躍起になる。が、ナツのいるベッドの周囲は白いレースで囲まれ、外が見えない。
「どうした? 変な夢でも見てたのかい?」
周囲のレースをカラカラと開け、そこから黒髪の女性が顔を覗かせた。女性は白衣を着ていて、手にはクリップボードを握っている。
ナツはその顔を見て、少しばかり落ち着きを取り戻す。その女性が見覚えのある女性であったからだ。そしてそれは同時に、ここが学校であることも証明していた。
「新見さん……」
新見と呼ばれた黒髪の女性は手に持っているクリップボードで軽くナツの頭を叩く。
「新見センセイ、だろ? 全く最近の子供は大人を敬う気持ちがなってないねぇ…」
新見はブツブツと呟きながらもう一方の手に持つアルミ製のカップを差し出す。中を見てみると、黄色く染まった液体が入っていた。その液体は酸味のある匂いと共に湯気を立ち上らせている。
「飲んでおきな。ホットレモンだから飲むと落ち着くよ」
新見はぶっきらぼうにそう言うと自分は仕事机の上に置いてあるスチール缶に手を伸ばす。程よく冷えた飲むにはとても良い状態まで保存されていた代物のようだ。新見はその「おいしいビール」と書かれた缶のプルタブを親指で押し上げ、同時に「プシュッ」と言う気持ちのいい音が保健室に響く。机の上には隠すつもりが全く無いつまみが皿に準備されていて、当然の如くその皿の隣にはもう数本「おいしいビール」が置かれている。
「新見さん。そのうち保護者にどやされますよ?」
「新見センセイでしょ? 良いの良いの。親御さんのせいで労働基準法無視するはめになってるんだからこれ位アリっしょ」
グビリと綺麗な喉を動かして「おいしいビール」を一気に飲み干す。プハと飲み終えた後に幸せそうな表情をしながら背伸びをする。ナツはその新見の行動をホットレモンをチビチビと飲みながら観察している。
元々新見は教師ではなく、ある有名な医師だった。だがしかし新見は「自分の人生を楽しみたい」と突然医者を辞め、学校の保険師へと職に就いた。どうして新見が転職をしたのかは校内での謎にもなっている。
「そういえば、キミはクリスマスの予定はあるの?」
新見が突然ナツに問いかけてきた。ナツは突然の問いかけにビックリして冷めたホットレモンをシーツに溢してしまう。
「な、なんでいきなりそんなこと聞くんですか!?」
「なるほどねぇ。高校生で一人のクリスマスかぁ。さびしいねぇ。キミも」
「良いじゃないですか!! 別に一人でも」
ほんの少し顔が紅色に染まってきた新見は妙にすわった目をナツに向ける。ナツは新見の一言で頬を膨らませながら叫ぶ。どうやら新見は酔っているらしい。恋の話を始めるのが新見の酔っている証拠だと、ナツを含めほぼ全ての生徒が知っている事であった。机にある「おいしいビール」は気が付けば全てプルタブが開かれ、乱雑に置かれたせいでつまみがこぼれたビールに浸っていた。新見はヒャックリを繰り返しながらよたよたと歩くと、そのままナツが入っているベッドに潜り込んでしまった。
「……。何やってるんですか?」
「良いの良いの。冬は誰かを抱いて寝たほうが暖かいのよ? 知らなかったでしょ」
にやりと笑みを浮かべると、ナツの上に覆いかぶさるようにして倒れてきた。それと同時に、酒臭い息がナツの顔を包み込み、思わず鼻を摘んでしまった。新見さんと呆れながら呼びかけるが新見は既に気持ちのよさそうな寝息を立てて眠っていることに気付く。
ナツは覆いかぶさって寝息を立てしまっている。ナツはその新見を右に避けて何とかベッドから避難に成功した。そうしてからため息を一回着き、そして気持ちよさそうに眠る新見に布団を被せると保健室のドアをガラリと開け、廊下へと出た。
「全く。アルコールに弱いのにあんなに飲んだら、酔うのは当たり前だろ」
ナツはブツブツとそんな呟きを吐きながら自分の教室へと戻ることにする。保健室へ行くと新見は誰彼構わず酔っていればそいつを抱き枕にしてしまうという癖があった。普通ならそれで引く奴が大量にいるのだが、新見の絶妙な容姿と顔つき、そして性格によって男子生徒にとっては憧れとなっていた。新見が酔っている時を見計らって保健室に行く奴も少なくは無い。
ナツは窓の外を眺めた。真っ白な綿のような塊がゆらゆらと宙を舞っている。地面も白くなっていて、まさに一面雪景色と言っても良いくらいの量であった。どうやら自分が寝ているうちに降り始めたらしい。ナツは半袖のワイシャツを擦り合わせながら白い息を吐いた。
「よう、須藤。階段から落ちたらしいじゃねぇか。みっともねぇなぁ」
突然目の前に二人の取り巻きを連れた金髪の男が現れた。つり上がった目でナツを睨んでいる。ナツはそんなことを気にせずに通り過ぎることにする。
「耕介、金髪はおまえに合ってないからやめた方がマシだぞ?」
「ふん」
耕介と呼ばれた男はナツの一言で機嫌を損ね、ナツの肩にわざとぶつかってからナツの横を通り抜けて消えていった。取り巻きは「まってよう」と気弱な叫びを上げて同じく走って消えてしまった。ナツはその三人組の後姿を見て、一言呟いた。
「今、もしかして放課後か?」
冷たい風が、廊下を一直線に駆け抜け、ナツの体を通り抜けていった。真冬である証拠だと言える身も凍えるような冷たい風だった。
○
荒野要は制服のまま学校の正門に背中を預けていた。手で短めで冬にはきつそうなスカートをもてあそんでいる。既に部活等の無いものは下校し、聞こえてくるのは吹奏楽の奏でる曲の音や、運動部の掛け声だけである。
「もうすぐ、クリスマスか。一年って意外に早く過ぎるもんなのねぇ」
要は吹奏楽の練習に耳を傾けながらしみじみと呟いた。途中途中拙いところがあるが、それでも必死さが伝わる良い曲だと要は思った。もう自分がいなくてもメンバー達はやっていけるだろう。要の中にはそんな確信もあった。
要は高校三年生であり、もう既に受験シーズンへと突入していた。帰れば猛勉強が待っているし、授業も毎回過去に出た問題を解いたり、ミニテストを行ったりと大忙しなのである。だが要の成績は悪いほうではないので、このまま順調に受験勉強をこなせば難なく大学へも行けるだろう。と担任に断言されていていた。つまり、彼女は既に合格を約束されているに等しいのである。
不意に、荒野の制服の胸ポケットが振動する。あまりにも突然だったので、要はビクリと体を震わせ、そして胸ポケットに手を突っ込み、振動の原因をその手に掴む。携帯だった。要は液晶を確認し、ゴシック体で「須藤慶太」と書かれてあることを確認した。荒野は携帯を耳に当てて電話の主に返事を返す。暫く要は頷き続け、そして最後に一言こう言った。
「……うん分かった。じゃあ、先に帰ってるね」
要は少し寂しげな表情を浮かべながら携帯の電源を切る。そして一度深いため息を吐く。
――今日も一人で帰るのか。
要は薄ら笑いを浮かべながら空を見た。薄い山吹色に染まった空だった。太陽は既に半分以上山に隠れていて、月が薄っすらと現れていることが肉眼でも分かった。白い雲はその山吹色の空を目立たせるために点々と配置され見事な配色が成されている。たまにはこんな空を見ながら帰るのも悪くは無い。要は暢気にそんな事を考え、一歩を踏み出す。
そんな時、青空に白い影が現れた。屋上から突如出現した白い影はバサリと何かを広げ、鳥のように広げた何かをはためかせ、そして青空に消えていった。。
――何? あれ……。
要はあんぐりと口を開けてその白い影を目で追っていた。手にしていた携帯が地面に落ち、カツンと硬質な音を響かせた。けれどもそれでも要は放心状態だった。広げた何か。それは白い翼のように見え、そして良く見えなかったが、白い影は人の形をしていたような気がしていた。
「天使?」
気が付けば開いた口からそんな呟きが漏れていた。いや、そんなモノがこの世界にいるわけが無い、と要は首を強く振ると、奇妙な体験に思わずニヤリと笑う。だがその笑顔も長くは続かない。すぐに先の事を思い出し、苦笑いになり、そして渋い表情となっていった。
一瞬、要の目の前がぼやけ、突然立ちくらみが起こった。要はなんとか側にある電柱を掴み、倒れることだけは防いだ。だが、それでも気分が悪いのは確かだった。顔色が青ざめ、体温が急激に下がっていく。一体何が起こったのか自分でも分からなかった。
だが、暫くすると要は調子を取り戻し、さっきの立ちくらみの後の症状が嘘だったかのような健康状態へと戻っていた。
――今の、何?
要は暫く今起こった出来事について考えていたが、原因は見つからなかった。とりあえず週末に病院に行くことにしよう。要はそう決めると、ゆっくりと歩みだした。
辺りは既に夕暮れ。晩御飯の良い匂いが住宅街に立ち込めていた。
○
「おうナツ。おかえり」
玄関に腰を下ろしていると、背後のドアが開いて目に隈のある無精ひげの男性が姿を現す。ナツは「あとどの位で出る?」と男性に問いかけ、男性は三本指を要に立てた。ナツは少し顔を下に向けて暫く黙っていたが、ゆっくりと靴を脱いで玄関を上がると苦笑いで男性を見た。
「しょうがないもんね。警官だもん」
「本当に悪いな…。今日はカレー作ってあるから、適当に食っていいぞ」
男性はそう言うとリビングの隅にあるソファに寝そべり、スヤスヤと寝息を立てて寝てしまった。鼾をかかないところがうちの兄のいい所だとナツはしみじみと思っていた。ナツはリビングを抜けるとその奥にある自室へと向かい、そしてノブに手を掛けた。
すると、力を入れてもいないのにノブが回り、そして扉が開いた。ナツは勢いに引かれてそのまま部屋へと前のめりに倒れる。
――なんだ?
「主カ? 我ラノ姫ヲ見タ人間ハ」
カタコトな日本語が、ナツの頭上から聞こえてきた。それと同時に、目の前が漆黒に埋まる。
それは、真っ黒な翼を生やし、黒いローブに実を包んでいた。形からして、人間のようだが、カラスのようなしっこくの翼がその「人間」と言う概念を見事に消していた。ナツはヘラヘラと笑いながら立ち上がり、そして翼を生やした人型のローブを見据える。
「どっかのコスプレ? それともオカルトな宗教の奴? どっちにしても、冗談はやめてくれ」
「……言ワヌツモリカ?」
黒いローブは威嚇のように翼を広げて通り抜けようとするナツの進行を妨害し、そしてまたカタコトで呟いた。
「言わぬもなにも、『ひめ』なんて奴知らねぇよ」
「ナラ、体二聞クトシヨウ」
黒いローブはそう言うと腰にあった剣を抜き、壁に突き刺す。本物だと言うことをナツに見せるための行動だろう。確かにその剣は本物であり、その怪しげな輝きはナツを捕らえて動かない。黒いローブは剣を壁から抜くと左手を前に出す。
ナツは後ずさりした。相手が本気だと分かったからだ。何でこんな目に遭わなくてはならないのか。その一言が頭の中を駆け巡る。
自分は今までそんな変な宗教団体にあった事も無ければ、「ひめ」なんて呼ばれている奴にあった事も無い。ただ平凡に毎日を何気なく過ごしてきた高校生だ。ナツは背中に浮き出てくる気味の悪い汗を感じながらとにかく翼を広げ黒いビニールの手袋を嵌めたもう一方の手を前に出し迫り来るローブ人間から距離を取る。しかし壁は近い。このまま行くと必ずどこかで捕まることになるだろう。捕まれば当然知らないことを問いかけられながら死よりもキツイ拷問が待ち、本当に知らないと分かった瞬間、完全に息の根を止めるのだろう。
ナツの頭の中には、いつ間にかその後の展開が目に見え、そして恐怖に体を震わせていた。
――とにかく逃げろとにかく逃げろとにかく逃げろとにかく逃げろとにかく逃げろとにかく逃げろとにかく逃げろ
ナツは心の中で何度も「とにかく逃げろ」を唱え続ける。だが肝心の体が全く動かないのだ。目の前にいる黒いローブに軽い光が射し、口元が薄っすらと見えた。
笑っていた。
突然、午後の三時を現す曲が何処かの時計から流れ始めた。ナツはその音によって気を取り戻し、勢い良く反転して廊下を駆け出し、階段を飛び降りる。着地時少し右足を痛めた様だが、それほど痛みは感じないので歯を食いしばって耐えることにする。そして玄関の靴に両足を乱暴に突っ込むとドアを開けて外に飛び出した。逃げ切れたと思い、ナツは膝に手を着いて息を整える。このまま行けば逃げ切れると少し安堵感がナツに生まれた。
だが、その安堵による笑みは、次には絶望的な苦笑いへと変化した。
周りを四、五体の黒いローブに囲まれていた。ナツは後ろへたじろぐ。が、そのたじろいだナツの肩を誰かが強く握り締めた。ナツは恐怖に歪んだ顔で背後を振り返る。
「正直二言エバ良イモノヲ」
黒いフードを外し、そして銀色に輝く長髪を靡かせた男性が、そこにはいた。背中には黒い翼、銀髪、そして睨むだけで小動物をショック死させてしまえそうな鋭く紅い眼光。それは、まるで神を裏切った天使、つまり堕天使を現しているかのような姿だった。良く見ると、周りを取り囲む黒いローブは腰に ナックルガードの着いた西洋風の剣を差している。それがナツの恐怖を上昇させる。
「俺、本当に何にも知らないんだって。全く分からないんだって……」
「ソウカ。『姫』ヲ庇ッテ死ヌ事ヲ選ンダカ」
銀髪の男性は全員に頷いてみせ、黒いローブ達はローブの色と混じっていた黒い翼をバサリと開き、そして腰に差してあった剣を抜いて掲げた。夕暮れのオレンジの日光によってそれは怪しく煌き、血に飢えている様な雰囲気を見せている。ナツはつかまれた手を取ろうと躍起になるが、尋常ではない握力によって固定された男の手は、動く気配は全くなかった。
ガチガチと歯が鳴り、心拍数が異常なほど上がって息が出来ない。
「なんだお前らは?!」
黒いローブを着た者達、そして銀髪の男性は声の方へと振り向いた。ナツは高鳴る胸を押さえてゆっくりと眼に力を込め、思った。
――今しかない。と。
ナツは次の瞬間、目の前にいる黒いローブの男性に体当たりをかましてそのまま前方へと走る。囲まれていて見えなかったが、どうやら怪しい集団がいるのを目撃した近所の人が通報をしたようだった。ナツの走る先には警官が数人立って警防や拳銃を威嚇のために構えていた。当たり前だ。西洋風の剣なんかを構えている人間を見て、構えない奴などいるわけが無いだろう。
「銃刀法違反だ。お前ら、武器を置け、さもないと…」
警察官の言葉は、そこで止まった。叫んだ警官の目の前には、既に銀髪の男性が一歩踏み込んでいた。銀髪の男性は殺意に満ちた狂気の笑みを浮かべると、目と鼻の先で震えている警官に耳元でボソリと呟いた。その声を、ナツはかろうじて聞くことができた。
――地二這イツクバル事シカ出来ナイ貴様等が、何ヲ言ッテイル。自惚レガ。
刹那、一人の警察の左胸から真っ赤な血が噴出した。心臓までは届いていないようだが、このままにしておくとかなり危険だと言うことが、素人目でもナツは分かった。
「くそっ」
ナツはなるべく他の者に危害が加わらないように走り出す。とりあえず人込みに隠れてしまえば、あとは簡単に撒くことが出来るはず。だが、自分の兄である男性をソファに置き去りにしてしまった事に気付くが、自分を追っているようなので人質にはならないだろうと考え、戻ることを諦めた。
木々を伐採し、コンクリートを敷き詰められた山の山頂にナツの家はある。つまり降りていくので全力で駆ければ勢い良く商店街まで行くことが出来た。
坂を駆け下りた刹那、「誰か」がぶつかって体に衝撃が走り、そのまま「誰か」と一緒に倒れこむ。ナツは痛てて、と呟きながら衝突した人を見た。
ナツは目の前の光景に驚いた。
先ほどの黒い羽とは違い、地面に倒れたのにも関わらずチリ一つ付いていない純白の翼が地面にバサリと広がり、そして真っ白い卸したてのようなワンピースに身を包み、サラリとした長髪は茶色で統一されていて、そしてその中央に華奢な体の少女がいた。
屋上で見た奴だ。夢ではなかったのか。とナツは腰の抜けた状態で後ずさりながら呟く。翼を持ったワンピースの少女は、自分より幼そうな表情を起こすと、後頭部を押さえながら目の前にいるナツを見据えた。どうやら向こうは何がどうなって今ここにいるのか分からないようだった。だが、ナツにとっては目の前の天使も、黒い追っ手と同じで十分にナツに恐怖感を与える存在であった。
「こいつも、追っ手なのか?」
ナツは怯えるような声で呟く。
「……痛い」
目の前の白い翼を生やした少女は起き上がると渋い顔をしながら呟き、そして痛みの原因である頭を押さえている。眼には薄らと涙が浮かび上がり、弱弱しくこちらを見ていた。ナツはその少女の行動を見て、追ってきている者とは違う何かがあった。そして、もしかしたらこの少女が「主」と呼ばれる存在なのかもしれないと、そんな考えが不意に頭のどこかに浮かんだ。
「さっきの黒いオカルト集団とは雰囲気が違うしな……」
そうナツが呟いた瞬間、白い羽を持つワンピースの少女はいきなり顔をナツへと向けると、怯えきった表情を見せて震え始め、そしてナツの肩を強く握る。強くといっても、少女なりの強くであり、ナツの肩に痛みは無い。
「今の、ほんと?」
「え?」
「黒いって…、『黒衣』の人たちがきてるの?」
突然の言葉にナツは理解できなかった。「黒衣」と呼ばれたのは多分ナツの言う黒い羽とコートの集団なのだろう。だが、白い翼の目の前の少女も怯えている。ナツは背後からの気配にビクビクしながらも、立ち上がると白い少女に手を差し伸べた。
だが少女はその手を警戒するように見ている。当たり前だ。「黒衣」と呼ばれる集団に眼を付けられている少年だ。自分のことを差し出すかもしれないと考えるはず。少女はやはり警戒を解かずにナツを見つめている。
ナツ自身そのつもりだった。差し出せば元の平穏な生活に戻れるはずだ。自分は目の前の彼女を差し出さないと、身に覚えの無い事で殺されてしまう。そんな道は誰も選ぶわけが無い。今ここで彼女の手を無理やり掴んで強引に引っ張れば簡単に彼女を「黒衣」の下へと運ぶことが出来る。所詮力で全てが決まる。ナツは「黒衣」の力に弱く、そしてこの少女はナツの腕力に弱い。上下関係はいつの間にか完成していた。
――それで、良いのか?
強引に彼女の手を掴もうとした時、ふとそんな言葉が頭に浮かぶ。自分の行動を全否定するような考えだった。ナツの良心は、彼女を連れて逃げろと叫んでいるのだ。もちろんそんな危険な命に関わる行動などする気は無い。ナツは思いを振り切るかのように頭を左右に振ると、彼女の手を力強く掴んだ。彼女の脈が速くなり、怯えているのが分かる。
――それで、良いのか?
頭の中にまた言葉が浮かぶ。心の中のナツが睨むようにナツを見据えている。
――黙れ!! 約束の日が近いんだぞっ!
ナツはもう一度頭を振って頭の中の自分に打ち勝とうともがく。だがそれでも心の中の自分という存在は消えようとしない。
――犠牲にして、自分だけは助かろうというその考えがお前の最低な所だよ。
頭の中の自分が、皮肉気な表情でナツを嘲笑する。
――黙れ!!
ナツは心の中で、力を込めて叫ぶ。中の自分は笑いながら闇に消えていった。心の闇と言うやつだろうとナツは考える。だが、安心した時、中の自分のが消え去った後、何故か心に空しい気持ちが出現した。それは、強く念じて追い払おうとしても追い払えない。
自分自身を助けるために行おうとしているのに、何故自分で否定してしまうんだろう。そんな事を考えながら、ナツは無意識に周囲を見回していた。そして、運の女神がこちらへ微笑んだのか、道路の脇にエンジンの掛かりっぱなしのスクーターが置かれている。坂を下りた突き当たりの家だから、多分耕介のスクーターだ。本来なら年齢制限で乗れないはずなのにも関わらず、耕介は持っていた。明らかに校則を違反しているのだが、その雰囲気によってチクリを行う者はいなかった。やれば瞬殺だろう。その者はそれから毎日背後を気にしながら生きていかなければならないことになる。
――どうするつもりだよ。
ナツの心が叫ぶ。だがその言葉とは裏腹に、彼女を引っ張ってそのエンジンの付いたスクーターに乗る自分がいた。耕介とはさほど仲が悪いわけではないので乗せてもらったことがある。運転の仕方は我流だが身に付いているはずだと自分自身に良い聞かし、アクセルに手を掛ける。ワンピースの少女はビクついて乗ろうとしない。そんな彼女にナツはこう言った。
「逃げよう」
ナツはアクセルグリップを強く握り締めて言った。
「……?」
少女は呆気に取られた表情でじっとナツを見据えている。
「逃げるんだ。一緒に」
彼女は一瞬驚きに満ちた表情でナツを見た。ナツ自身も驚きだった。さっきまで彼女を差し出そうとしていた自分が、いつの間にか彼女を助けようとしていた。
彼女は一度頷くと、スクーターの後部に乗り込む。羽が邪魔な気がするが、この際関係ない。ナツはミラーで坂を下ってくる「黒衣」を一瞥すると右ハンドルを力強く回した。ブルルゥゥゥ。という排気音と共に後輪が勢い良く回転し、そして瞬時に最大スピードで走り出した。ヘルメットが無いので整えてあった髪は後方へと流され、ボサボサになり、 そして強い風が体中を蝕んでいる。
それでもナツはアクセルを握り締めている。
全く、自分は何をやっているのだ。ナツは溜息をはきながら思った。見も知らずの少女。それも純白の翼の生えた少女を助け、そして黒い翼の集団から逃げるなんて事を口にする自分がいた。翼が生えていることに気を取られずに平静を保っている自分がいた。そして他人のスクーターを勝手に乗って逃げだす勇気を見せる自分がいた。今までの自分にとっては、全くと言って良いほどありえない行為だった。
全速力でぶつかってくる風が痛い。冬の冷たい風がナツの顔に槍を一本、二本と突き刺しながら体力を消耗させる。制服でしかもノーヘルということがどんなに厳しいことなのかをナツは初めて知った。荷物は置いてきて、あるのはポケットに入った財布(五千円)のみ。警察に捕まればその場でアウトだ。公道は走れない。だがもしもの手段として考えておくべきだとナツは呟く。
――クリスマスには…、間に合いそうも無いかな?
ナツはそんな事をしみじみと思っていた。
不意に、腹に巻きつけられている手がぎゅっと強くなる。ナツはそれを感じて、後ろの羽の生えた少女をミラーで確認する。少女自身寒さを感じないようだが、それでも恐怖でなのか、震えているのが分かった。
ナツはそれを見て、一言小さく、そして強く少女に向けて呟いた。
「大丈夫さ。きっと逃げ切れるって」
その余所見が、命取りだった。ナツが前を向いた時、目の前には大きなトラックがあった。スクーターは赤信号で止まろうとしてのろのろと動きを抑えているトラックに向かって突進しているような状況だ。ナツは急いでブレーキを握ろうとするが、悴んで握力がなくなっているのか、ブレーキが握れない。ナツは背後の少女に「かがんで」と叫び、そして自分自身は目を瞑った。
――全く、嫌な運命だよ。
そんな一言がナツの口から漏れ出ていた。もうブレーキも間に合わない。赤でトラックは止まってしまった。ハンドルを切れば後ろの少女を振り落としかねない。そうすると、自分がここまで走ってきた意味が無い。ならば、自分が犠牲になろう。とナツは考える。さっきまで自分が助かろうと必死になっていたのに、今は後ろの少女のことばかり気がいった。ナツは暗い世界で何故なのかを考える。
理由は、一つだだった。
あの時約束をした少女に、彼女が似ていたからだった。
そんなナツは、突然の違和感に首を傾げる。もう追突しても良い状況だ。何故ぶつからない。ナツは眼を開けて辺りを確認する。そして、悲鳴を上げる。
「う、い、浮いてる?」
「しっかり…、つかまっていてください。浮かすのも結構楽ではないのです」
背後の少女は小さな声でそう言った。屋上であったときとは全く違う雰囲気だ。何故ここまで違うのか気になるが、とりあえず今考えるのは何故宙に浮いているのかだった。ナツはパニック状態になりながらアクセルを回す。すると、地面を掴んでいないはずのタイヤが思い切り音を立てて空を進んでいく。道路なんて関係なかった。
その爽快感が、ナツの中にある焦りを吹き飛ばした。ナツは貫かれるような寒さの中、自分が空を飛んでいると言うことに思わず微笑んだ。
今自分は空を飛んでいるのだ。幼い頃飛べなかった空を飛んでいるのだった。
大きな空とまでは行かないが、それでもナツにとっては大きな空だった。飛んでいくことが、どんなに心強いことだろう。
純白の翼を大きく広げて羽ばたかせる少女。それを助けるかのようにアクセルを回して空を走る少年。
二人の逃亡劇の始まりだった。
第二話
それはナツと少女が出会った数時間前に起こった。
浅田耕介はいつもどおり取り巻きと別れるといつもどおり家の門を開けてから入って右手方向にある犬小屋へと向かう。小さな犬が小屋でぐっすりと寝息を立てているのが見えた。耕介はそれを見てそっと音を立てずに玄関口へと向かい、そしてノブを回すとゆっくりと開けた。
刹那、目の前に黒い影が現れた。耕介は思わずバフ、とその黒い影に突っ込み、そしてその反動で尻餅を着いた。痛たたと呟きながら黒い影が一体何か見るために顔をあげた。そこには綺麗な手入れされた黒い翼を背にはやした金髪の男性が立っていた。顔つきからして日本人だろう。だが頭髪はどこからどう見ても光を反射して輝く紛れも無い「金」だ。そしてその輝く金色の髪を目立たせるかのように黒いフード付きの漆黒のローブに身を包み、腰には西洋風の刀、つまりサーベルを差している。
「何だよ、あんた」
「失礼、アル少女ヲ探シテイルンダ」
日本人にしては妙なカタコトで耕介に語りかけてきた。どうやら日系か何かの人のようだ。耕介はとりあえずそんな事を考え、そして次に背から生えている黒い翼に眼をやった。その視線に気付いたのか、金髪の男性は礼儀正しく会釈すると、「中デ説明サセテ欲シイ」と言った。言葉の使い方や、雰囲気からしていきなりサーベルで斬りつけてくることは無いと思い、とりあえず耕介は目立つ男性を覗きに来たおばちゃん達から逃れることも兼ねて家に上げる事にする。
耕介が男性の間を縫って玄関に入り、靴を脱いだ時、ふとこの男性の現れ方に不自然さを感じた。それもそうだ。男性は自分がドアを開けた瞬間、「家」から出てきたのだ。耕介はそれに気付いた時、背筋がぞわっとした。まるで氷を押し付けられたかのような、嫌な予感を感じさせる寒気だ。
――とりあえずドアを閉めよう。
耕介は脳に浮かんだ思いのままにノブを強く握り締めた。
刹那、首筋にピタリと冷たい無機質な何かが当てられた。背後からは薄らと殺意の篭った気配。微かに聞こえた羽音がなければ、それが金髪の男性だということさえ耕介には分からなかっただろう。
「逃ゲルナ。説明サセテクレレバ良イ」
「分かった! だから首に当ててるこれを話してくれ」
耕介は体を振るわせながら叫んだ。玄関からは叫び声で集まって来る野次馬達がいるが、金髪の男性は残った片方の手を伸ばしてドアを素早く閉めた。かなり長い手だと耕介は何気なく感心してしまった。
金髪は剣を腰の鞘に収めると耕介の顔を覗き込むように見る。その不可解な行動を見て、耕介は首をかしげた。
「ナルホド、両親ハ二人トモ軍人ナノカ」
「何で、分かるんだよ…」
金髪の言葉を聞いて耕介は反発する。両親のことと今の状況が何の関係があるのか。そして、彼は一体どうやって耕介の両親のことが分かったのか。
耕介は黙って部屋の隅にあるテレビくらいの小さな冷蔵庫を開け、その開け口側に掛かっている数本のペットボトルのうちの二本を取り出すと金髪の男性へと放り投げた。
が、金髪はそれを剣で横に薙ぎ払った。真っ二つに切り裂かれたペットボトルは内容物をぶちまけながら床に転がる。
「何してんだよっ!」
「コノ世界ノ爆弾二似テイル。違ウノカ?」
耕介はそれを聞いて、深く深く溜息をつく。どうやらこの金髪は兵隊のようだ。それも良く分からないが、生まれ故郷では外のことを何も知らされずに育ってきたようだ。ペットボトルを爆弾と勘違いしたのもそのせいだろう。翼を付けているのも、彼の国の風習なのだろう。耕介はこじつけの様な予測を立てると無理やり自分を納得させた。実際はありえない事である。
「いいか、これは飲みモンだ。ここを回して開けて、中の液体を飲む」
耕介は真っ二つのペットボトルを警戒している金髪の目の前に行くと、自分の握っているペットボトルを金髪の前で開け、一気にグイと口に流し込む。甘く、そして酸味の効いたさっぱりとした味が体にしみこみ、そして乾いていた喉を潤していく。
飲み終えた耕介は、息を大きく吐き出し、金髪の反応を見る。
「ソウカ、天界ノ『水分補給用持込型容器』ノヨウナ物ダナ?」
耕介は彼の放った物が一体何なのか理解できなかったが、とりあえずそんなものだと頷いておくことにした。耕介はもう一本テレビくらいの大きさの冷蔵庫を開けてペットボトルを取り出すと、もう一度金髪に向けて投げた。金髪は今度は上手くキャッチし、そして耕介がやって見せたことを真似するように拙い手取りでキャップを開け、両手でペットボトルを握ると口を咥えて一気にさかさまにした。
その後に待っていることが耕介には理解できた。だが注意するには遅すぎた。金髪は飲みきれず、そして呼吸も出来ない状態に陥り、遂にはもう一度ジュースを床にぶちまけたのであった。
「とにかく、事情を説明してくれ。これじゃあ全く現状が分からない」
布巾で床に散乱した液体をふき取りながら耕介は金髪を見る。金髪は未だにペットボトルを色々な角度から見て何か研究を始めていたが、耕介の問いかけを聞くとまじめな顔をして耕介の方を向いた。ペットボトルを机に置き、そして右手を顎に当てて「ドコカラ話スベキカ…」と暫く考え込む。
――もう四時か…。
金髪が考え込んでいる間に時計を見て、しみじみと思った。
「デハ、マズハ私ノ目的二ツイテ話ソウ」
「ん? ああ、分かった」
金髪が話を始めた。耕介はその金髪の言葉を聞き、金髪の前に正座で座り込んだ。
「ソノ前二、話シヤスイヨウニ…」
金髪は懐から薄いプラスチックの板を取り出した。液晶のようなものがはめ込まれ、その下にはコントローラーのように四方に伸びる矢印の形のボタンと、丸いボタンが二個設置されている。金髪はそれを暫く弄ると、「決定」と呟いて丸いボタンのうち、一方を押した。暫く機械的な音が鳴った。だが一分もしないうちに音は止み、そして静寂が辺りを包み込んだ。
金髪は一度頷くとその板を懐にしまい、ゴホン、と一度咳き込むと耕介を改めて見据え、口を開いた。
「では、説明を始めたいと思う」
耕介は先ほどとは違う流暢な日本語に戸惑う。
「ちょっと、何で急にカタコトじゃなくなったんだ?」
「ああ、この機械を作動させると選択した者の使用する言語を自由に扱うことが出来る。我々『黒衣』にとって必要なアイテムの一つだ」
「でも、何でさっきまで使っていなかったんだ?」
「これは、ある程度信用のできる。または協力者になり得る可能性のある人間にしか使用できない。それはこの機械を通して上層部が判断するので、許可が下りるまでは使用できないんだ」
「じゃあ、俺を試していたって事か?」
耕介は金髪に問いかける。金髪はすまない。と一言言うと頭を軽く下げた。だが耕介自身試されていたことに怒りは感じていないので、別にいいさ。と金髪の頭を起こし、言った。
「とにかく、この状況、そしてあんたらは何なのかが聞きたい」
耕介の問いかけに、金髪は「ではまずはそこから」と呟き、耕介の眼を見る。
「我らは天からやってきた『黒衣』と呼ばれる存在だ。我らの使命はこの天下界と我ら天上界の治安を守り続けること。そのために陰ながらこの世界のバランスを保ってきた。中立の存在だ」
「俺達は天下界の生物なのか?」
耕介は自らを指差して問いかけた。
「そうだ。天下界は飛ぶことを知らず、その代わりに『科学』と呼ばれる力を授かり、逆に天上界は飛ぶことを知り、神、この世界で例えるなら「神道」の力を授かっている」
金髪、ではなく「黒衣」は問いかけに静かに答えた。続けてくれ、と耕介は頷きながら呟く。
「そうすることで、バランスを保っていたのか」
「だが、天上界では生贄の儀式がある。一人の天使を生贄として捧げることで世界の秩序は守られると信じている。だが実際は我々が守っているのだから、生贄の儀式など必要は無い。この儀式を止めるべきなのかどうかを今我々は議論中だ」
黒衣はそこで話を止め、拳を強く握り締めて唸る。耕介はそれを見て心配げな表情を浮かべ、とりあえずペットボトルをもう一本黒衣に差し出しておいた。黒衣はそれを手に取らずに、独り言のように呟いた。
「…あの時、儀式の取り止めを正式に決定していれば、こんなことにはならなかったのだ」
「こんなことって何だよ?」
耕介は問いかけた。黒衣は落ち着きを取り戻し、再び話しに戻る。
「儀式をやめさせることは世界に大きく干渉してしまうのではないのかという疑問が浮かび、またそこで議論となった。今思えば、我々の存在を知られても止めるべきだったのだ。」
不意に、どこかから何か儀式のような言葉が聞こえてくる。ナツの家の方だが、ナツの家は確か警察の兄を二人暮しだ。こんな大勢の声は聞こえないだろう。耕介は話に集中している黒衣の言葉に耳を再度傾けた。
「彼らは一人の天使を生贄として決定した。だが、その少女は両親の必死の行動によってその少女は天下界へと逃げることが出来た。だがそれと同時に儀式を執り行う者達数人もまた天下界へ落ちてしまった。奴らは天下界へ落ちる影響で翼が黒ずみ、我々黒衣のような姿へと変化してしまった。それと同時に奴らは黒衣の存在に気付き、我々のように黒衣と名乗り始めたのだ。同胞を殺し、衣服を奪い、そして唯一白いまま堕とされた純白の少女を探している」
「でも、その天上の奴らは他の奴を生贄にすればそれで済んだんじゃないのか?」
「いや、奴らは堕ちても影響を受けない少女を見て、神の遣いだと考えてしまったのだ。 奴らは天下の存在を知っていた。つまり、神の遣いを儀式に使用すれば驚くほどの力を手にし、天下界さえ手中に入れられるのではと考え始めた」
「つまり、その白い翼の少女が偽者の黒衣の奴らの手に渡ったら…」
耕介はそれ以上先は言わなかった。言わずとも理解してしまったからであった。黒衣は動きの止まった耕介に止めを刺すかのような一言を冷静に放った。
「世界のバランスが崩れ、消滅への道を渡る」
耕介は目を大きく見開き、そしてカタカタと震えだした。何故こんなことに首を突っ込んでしまったのか、そして、知ったからにはもう他人事としていられない。黒衣の言った「ある程度信用のできる者」の意味が耕介には分かった。つまり、この話を聞いてもパニックを起こさずにいられる人間と言うことだ。自分は確かにパニックは起こさずにいるが、けれども一大事に関わらなくてはいけなくなった自分を憎んだ。何も知らなければ、ナツといつもどおり喧嘩できたはずだし、取り巻きと一緒に毎日何も考えずに遊んでいられた。
だが、それももうできない。
「どうか助けてほしい。君はただナビゲーターとしていてくれればいいのだ。探索は私が行う。当然、天上人からも保護しよう」
黒衣は歯切れの悪そうな表情を耕介に向け、そしてまた残酷な一言を呟いた。
「君はもう、逃げ出せないんだ」
耕介は奥歯をかみ締めると勢い良く立ち上がって階段を駆け下りていく。ドンドンドン、と豪快なリズムが響き、そして最後の一段を飛んでそのまま玄関へと走っていく。黒衣は逃げる耕介を追いかけていく。時々耕介の耳に黒衣の「駄目だったか」と言う言葉が入ってくるが、耕介は気にせずに玄関脇に立ててあるスクーターのハンドルを握り締め、そしてキーを回してエンジンを掛けると玄関へと戻る。玄関では黒衣が待ち構えている。
耕介はその黒衣に右手を伸ばし、そしてスクーターに掛けてあったヘルメットを被って苦笑いした。
「俺はこの世界の真実を知りたい。天上人を食い止めたい」
「良いんだな?」
黒衣の問いかけに耕介は震えながらも一度小さく頷いた。
耕介ははその時、黒衣が薄らと笑みを浮かべたように見えた。
「まずはどこに行けばいい?」
「そうだな。とにかく周辺を回ってみよう。天上人がいる可能性も高いしな。時間的にも今日はそれが限界だろう」
耕介は腕時計を見た。時刻は四時五十分を差していた。そこまで長い話ではなかったかのように見えていたが、意外に長かった話らしい。日を見ると、オレンジに輝き山の間へとズブズブと沈み始めていた。月が薄らと姿を現し、そして辺りからは夕飯のにおいがする。完全な夕暮れ時だ。
突然、耕介のスクーターのエンジン音が高く鳴り響き、そして地面を擦る音が聞こえた。耕介はスクーターの方へ振り返ってみると、そこにはナツと少女が乗っていた。耕介はどこへ行く気だと叫ぼうとしたが、やめた。ナツの後ろに乗っていた少女に眼がいったからだ。
白い翼をはやした、天使と呼ぶにふさわしい姿の少女だった。その華奢な体のつくりは、どこからどう見ても同じ翼を生やした黒衣とは全く違うように見えた。
ナツと羽の生えた少女を乗せた己のスクーターは、道路に排気ガスと摩擦熱による煙を残し、夕暮れの太陽の昇る中、騒がしく去っていった。
「黒衣サン、あれが生贄の天上人か?」
「そのようだな。あの少年は誰だ?」
「クラスメートだよ。何で一緒にいるのかは分からない。今分かることは…」
耕介は溜息を吐きながら笑みを浮かべて耕介の走っていった先を見つめ、小さく呟いた。
「あいつがあの娘を守ってるってことだな。暫くは時間が稼げそうだ。とにかく早めにナツを見つけて、少女を保護しよう」
黒衣はだな、と頷くと、オレンジに染まる空を見上げる。天上とも中界とも違い、とても空気の汚れた世界だ。だが、そんな汚れた世界に、今二人の綺麗な少年を見つけた。黒衣は少し満足な気分だった。
○
荒野は必死で裏道を逃げていた。何か分からない、気味の悪い気配が自分に寄って来ていることに気付いたからだ。
「ハァ、ハァ、ハァ…」
荒野の息が自身の限界を伝える。だが、ここで止まればこの気味の悪い気配に吸い込まれ、そして自分が消えてしまうのではないか。そんな恐怖があった。
時刻は午後六時。日は完全に落ち、辺りを照らすのは淡い月光と街灯の二つであった。だが細道で街灯も数個設置してあるだけであった。道も一直線で、曲がり角が見当たらない。この道を抜ければすぐ左に駅がある。そこまでの辛抱だ。と荒野は自分に言い聞かせ、疲れ果てた足を無理やり動かす。
「「「我らは純白の天使を望む」」」
背後から歌声が響き渡る。歌声といっても、それは歌ではなく、何かを呻くような、そして聞いたものの心を吸い取り、絶望のみを残してしまうような、そんな恐ろしい歌に聞こえた。
「「「儀式は失敗。世界は滅する」」」
「やめてっ! 何で私にそんな事を言うのよ!」
荒野は背後へとそう呼びかけ、そして気味の悪い歌から逃げるように両手で耳をガッチリと塞いだ。
その行為が仇となった。足元に転がっていた鉄パイプに気付かず、荒野はそれに足を引っ掛けて勢い良く地面を転がった。服は所々破け、そしてその破けた間から血がにじみ出る
「「「白い翼は贄の証」」」
薄っすらと感じられていた気配がより確実になっていく。
そこで、荒野の意識はぷつりと消え去った。
荒野はバッと布団を放り投げると体を震わせて辺りを見回す。自分の部屋だ。何もおかしな点は無い。荒野は一息つくと窓に掛けてある制服を手に取り、なれた手つきで着替えると眠たい眼を擦りながら時計を見る。
時刻は、八時を示していた。
同時に、デジタルの日付は十二月二十日を示している。
荒野は慌てふためきながらそこらへんにある教科書やペンを適当に鞄に詰め込むと家を出る。清清しい朝が荒野を待ち受ける。はずだった。
荒野はそこで空に違和感を感じた。窓から見た空は雲ひとつ無い真っ青な空であり、そして冬とは思えないくらいのポカポカした陽気に見えた。
だが、いざ外へ出てみれば、曇に覆われ、ねずみ色で塗りつぶされた空だった。おまけに体の芯まで響くような冷たい風が荒野を包み、そして全身を針で突き刺されたかのような寒気を感じた。荒野は手を口のところへ持っていって自分の息を吹きかけて手をあっためる。が、空気を吸うとまるで肺まで凍ってしまいそうな冷気で背筋が震えた。
「とにかく、早く学校にいっちゃおう…」
荒野はブルブルと震えながら呟くと、鞄を持ち直し、寒さに耐えながら通学路を走り始めた。
「〜我らは純白の天使を望む〜」
無意識に荒野の口からそんな言葉が出た。荒野はその言葉にびくりと身を震わせ、そして両手で口を押さえた。だが、口を塞いでも何か自分のものではない「力」によって口がこじ開けられた。
「〜儀式は失敗。世界は滅する〜」
――やめてよ!! あんな夢、思い出したくないのに…。
荒野は意思に反して口から吐き出される夢の中で聞いた言葉から逃げるように耳を塞いだ。歌はまだ続いていく。
「〜白い翼は贄の証〜」
荒野の口はまだ閉まらない。耳を塞いでも、声を放っているのは自身であるがため、歌は聞こえてしまう。
口はまだ何かを言おうとしている。荒野はこれ以上歌を聞きたくないと頭を振って必死に抵抗するが、その「何か」には勝てるはずも無く、遂に歌は夢より先まで放たれた。
「〜神は世界を手放し、我らの物となる〜」
その言葉がでた瞬間、荒野の目から涙が溢れ出る。これも自分の意思ではない。誰かの涙である。荒野はその涙を拭い続け、そしてその拭ったハンカチを見て、愕然とした。
真っ赤な真紅の涙が、自分の目から流れていた。
――約束だよ!! 十二月二十五日の零時に、その時計を持ってまた会おうね!!
どこからか、自分の聞いた事の無い少女の声が聞こえてきた。真紅の涙はわき続けるが、その熱い涙は何故か荒野の心を強く締め付け、そして自らも哀しい思いにさせていく。
――約束だよ。絶対にここで会うんだよ!!
荒野はその胸の悲しみに耐え切れずに、ついには崩れ落ち、蹲って嘆き始めた。誰かがその様子を見ているかもしれない。だが、それでも荒野は理解できないこの大きな哀しみを中に止めることができなかった。
気が付けば涙は透明で熱い、ただの涙へ変わっていた。苦しいほど胸を締め付けてくる哀しみも消えていた。
荒野は立ち上がると涙を拭い、そして身の回りを見回してから、ゆっくりと道路を歩み始める。かなり足が重く感じ、左右にふらふらと体がふらついている。荒野はとりあえず壁伝いにゆっくり歩くことでそのふらつきをカバーした。
――一体、私の身に何が起こっているの?
荒野は止まらない涙を拭い続けながら考える。別に不可解な出来事には遭遇していないし、霊感なんてものは元々あるわけが無い。それに、夢の中で起こった出来事なのに、何故その夢が自分を蝕んでいるのか。
「もしかして、あの時の? そうよ。あの時も体に異変が起こったわ」
荒野は昨日の出来事を思い出し、そしてそう呟いた。
昨日屋上から飛び立つ大きな鳥を見たことだ。それは人のようにも見えていた。もしかした、昨日のその人型の鳥、つまりは「天使」という非科学的なものが何か関係しているのかもしれない。
荒野はあまり幻想的なことに興味は無いが、天使なら話は別だった。荒野は幻想の中で唯一天使の存在を信じていた。
荒野は中学生の頃に、高層ビルの屋上から自殺を図ったことがあった。中学生ともなると、小学校とは違い成績で上下が決まってしまう社会に入ることになる。荒野の成績の良さは小学生の頃の友達皆が知っている。だが、彼女の成績の良さを皆嫉むようになった。
――ねえ知ってる? あの子、成績の為に親と一緒に校長に莫大な金渡しているって噂よ?
そんなことしてないよ。
――あいつ、いろんな奴と同時に付き合っているって話だぜ?
やめてよ。
――俺が聞いた話だとさ…。
もうやめて!! もう嫌!!
最初はこんな小さな悪口だけであった。それがエスカレートして行った。 彼らは嫉むわけではなく、単に他の者がやっていたから釣られてというのがほとんどだったらしいことを後で知った。
だが、元々気の弱い彼女にとっては、その圧力をとても強い圧力のように感じてしまい、そして、追い詰められた結果、高層ビルからの自殺を図っていた。
「ここから飛び降りれば、もう何も心配しなくて済む…」
荒野は手すりから手を話した。が、その手は瞬時に誰かにつかまれてしまう。
「簡単に死ぬんじゃない。死ぬならせめてあと十年は生きろ」
そんな言葉がした。荒野はその声の方を振り返った。
目の前には、驚くほど純白の翼を生やした、容姿の綺麗な青年だった。太陽を背にしているからなのか、その青年の存在は荒野にはとても輝きに満ちた存在に見えていた。
その青年は自分を助けると、どこかへ空気のように溶けて消えてしまっていた。けれども、あの存在は今でも荒野の記憶の奥深くにしっかりと残されている。
結局、自殺を引き止めた青年のことは何も分からなかったのだが。
――今思えば、あんな一言で簡単に自殺を諦めた自分が馬鹿みたいに思える。結局あのとき私は、自分を構ってくれる人を探していただけなのかもしれない。
荒野は不意に頭に浮かんだ思い出を懐かしみながら、そんな事をしみじみと思う。
――それだからこそ、この変な私の病気とあのとき見た天使が関係しているように思える。私自身の目でこの病気の原因を突き止めたい。
拳をぎゅっと握り締めると、荒野はバランス感覚が戻ってきたことを確認すると、両足でしっかりと立ち上がった。これから何を調べればいいかを考えなくてはならない。
「まずは、学校で不思議な話の好きなサボり魔の須藤ナツに話を聞いてみよう…」
そんな時、荒野の口からまた無意識に一言出た。それは、さっきのような夢の中の歌でもなく、真紅の涙でもなく、頭に浮かんできたのは、少女の声のように聞こえた。
『…ごめんね。ナッちゃん。会えそうもないよ』
荒野は身震いをしながら、その声の意味を考えつつ通学路を再びあるき出した。
○
ナツと少女を乗せたスクーターは弱弱しく「プスン」と言う音を連発すると、速度を落とした。燃料切れだった。当然、今スクーターは空中にいる。燃料が無く、白い翼の少女の能力も消えたようだった。
「う、うわぁ!!」
「きゃあ!!」
ナツと少女を乗せたスクーターは当然のようにガクっと重力に引っ張られて逆さまに落ちていく。空中から落ちるのだから相当な痛みがあるだろう。いや、死んでしまうかもしれない。ナツはどこかつかめるような場所を探すが、見つからない。当たり前だ。ここは上空なのだ。掴める物なら大量にある。とにかくナツは飛ぶように高く鳴る心臓に落ち着けと呼びかけながら、なんとか冷静に落ちながら辺りを見回す。横には壁があるが、ナツが考えている間にヘリはもう過ぎてしまった。次にナツは下を見て、そしてゴミ捨て場がある事に気付いた。だが、そこまではどう考えてもあと数センチ足りない。
「くそっ!」
ナツは苦し紛れに一発横にある壁を蹴りつけた。落ちる速度の方が早いので少し足首に痛みを感じたが、数センチの差を埋めることはできた。ナツは握っていたスクーターのグリップを離してスクーターを落っことした。スクーターの方が重量は上なので、ゴミ捨て場に突っ込み、ゴミ袋をあたりに散漫させる。ナツはそこへ少女と共に勢い良く飛び込んだ。衝撃が体中を伝い、不十分な体制での着地でそこら中に擦り傷ができた。
「痛ってぇ…」
「大丈夫、ですか?」
ナツが起き上がって擦り傷を摩っていると、少女がゴミの中からムクリと姿を現した。その時は平気平気とナツは笑ってごまかしたが、足首がやはり一番のダメージを負っていた。血は出ていないものの、中でない出血を起こし、ぷっくらと腫れ上がっていた。今は座っているから足を動かさないが、多分動かせばかなりの激痛が走ることは確かだった。
「とりあえず、ここまで来れば暫くの心配は無いかな?」
ナツは息を深く吐きながらそう呟いた。
「すみません…。私なんかのために」
少女は俯きながら、胸を撫で下ろしていたナツに頭を下げた。いいってとナツは言いながら、ゆっくりと小さく苦笑いを浮かべる。
「逃げるとしても、どこまでも逃げられるわけじゃないし、君はどこへ行くべきなんだ?」
ナツは俯く少女に問いかける。頼みの綱のバイクもガソリン切れ。もうお荷物だ。ガソリンを入れ替えるにしても、自分の年齢では捕まってしまう可能性もある。耕介には悪いがここに放置するのが一番の得策だろう。
だが次に問題に問題なのは足の怪我だ。これはバイクのように置いていくこともできない。
「どうするべきか…」
「足、黒くなってますね」
ナツが考え込んでいる時、少女が横から突然顔を出した。
「ダイジョブダイジョブ。少し休めば治るから。その間に、君のことについて教えてくれ」
「私の、こと?」
ナツは頷く。
「何で黒衣って名乗る集団に追われているのか。そして、の翼は一体何なのか」
ナツの問いかけに少女は反応し、目を一度瞑ると、頷いてまた顔をあげた。
「あの人たちは、私を生贄に捧げようとしている人なんです」
ナツはその答えに一瞬固まった。
「え? 意味が分からないんですけど…。生贄って?」
「ですから生贄なんですよ!! 地獄の炎で体を燃やされ…」
「…いや、もう良いよ。とりあえず名前を教えてくれ」
少女の話を中断させ、ナツは溜息を吐いて、話題を一気に変更する。少女はそうですか。と少し不満げな表情で呟いたが、これ以上聞いても話にはなりそうも無いのでやめておこう。
――一体、この幻想思考の羽の生えた少女は何をしたんだ…。この子の両親とかと連絡取れないのか?
ナツはジッと少女を見つめながら、そんな事を考えていた。両親の下へと行ければそこで預けて終わり。自分はその後は何も知らないような顔で暫く逃亡し、何気ない顔で帰ってくれば良いだけだ。とにかく、二十五の夜に間に合えばそれでいいのだ。さっきまでは諦めるしか道は無いと思っていたが、誰かに彼女を預ければそれで一件落着だ。自分は何も考える必要はない。
ナツはその考え方にたどり着き、微笑を浮かべて拳を握り締めた。
「名前なんてありません…。元々生贄になるべくして生まれたんですから…」
ナツはそれを聞き、目を合わせずらくなったため、横を向く。
生贄の意味はあまり分からないが、一つだけ理解したことがナツにはあった。
目の前の女の子は、名前も貰えず、良く分からないが生贄として生まれ、そして自由を知らずに生きてきたということを。
「じゃあ、付けてやるよ」
ナツは気づけばそんな事を彼女に向けて言っていた。別に彼女のためとかそういうことではなく、単に呼ぶ時の名前が欲しかっただけであった。そう。単なるあだ名のようなものだ。
「何をですか?」
少女は可愛らしく首を傾げ、ナツを見ている。その少女の表情を見ていたナツは一瞬ドキリとした。だが、気のせい気のせいとほんのり紅色に染まった耳を触りながら少女を見た。
「名前だよ」
ナツが短く、そして妙にはっきりした声で答えた。首を傾げていた少女は「名前」と聞くと、少し笑みを浮かべた。名前を付けてもらえることがよほど嬉しいのだろうか。ナツは彼女の表情を見てそんな事を考える。
ナツは顎に指を当てて唸りながら考え込む。やはり付けるのだったら立派なモノが良いだろう。とりあえず、「鳥」という言葉を入れたいとナツは考えた。翼を生やしているからなんていくくだらない理由だった。
暫くして、何かを閃いたかのようなニヤリとした笑みを浮かべ、そして次に少女を指差した。
「君の名前は『飛鳥』だ。それで決まりだね」
我ながら良いネーミングだとナツが自画自賛していると、ナツに「飛鳥」と(ほぼ強制的に)付けられた少女は顔をゆがめる。
「何で、アスカなんですか?」
少女はその名前に納得できないのか、少しだけ目を細めてナツに問いかけた。ナツはその問いかけを待っていましたとばかりに口を開き、そして言った。
「空を鳥のように飛ぶってことから考えたのさ」
ナツは悦に浸った表情で「アスカ」と名づけられた少女を見ている。少女は「アスカ」と何度も付けられた名前を呟き、そして最後に納得したように「よしっ」と呟いた。
ナツはまた手を差し伸べた。気配に感づいたからだ。耕介との喧嘩中、取り巻きの不意打ちに注意する必要があるので、気配を探ることだけは大得意だった。ナツはアスカを見据え、そして何かを吹っ切ったような笑みを見せた。
――二十五日に間に合わないかもしれない。
既にそんな事は分かっていた。約束を向こうは忘れている可能性だってある。ちょっと遅れてから行ってみて、いなかったら彼女の家に行けば良いことだ。別にそこまで気にするものでもない。ナツは無理に理由をつくり、自分を納得させた。
――でも今ここで彼女を見捨てたら最低な野郎だ。やってやろうじゃねぇか。
ナツは奥歯をかみ締め、足首の痛みを堪えて立ち上がった。全身が痛みで一瞬痺れが駆け巡った。だがそれでもナツは立ち上がった。
――いつも何に対しても無関心だった自分。
――何も考えずにただ生きてきた自分。
その情けない「自分」に喝を入れるような痛みだった。アスカは痛みに歯を食いしばるナツを見て心配げな表情を浮かべるが、すぐにナツの伸ばした手を握り締めた。その手は、何故かナツには暖かく、そして力の篭った手だと感じていた。
――…見つけたぞ
翼を生やし、ローブに身を包んだ五人組のうち、一人が呟く。だが、そのローブから突き出ている口は動いた気配は無かった。
――目標は大通りに出た。突撃すると大事になる。一旦チャンスをうかがおう。
また口を動かさないで二人目が言葉を発した。その声を聞き、銀色の髪の男性を含む四人は静かに頷いた。
「全ベテハ天上ノ者ノタメニ」
銀髪が口を動かして呟いた。その声は、いつものようなカタコトだった。四人は腰に差している剣を握り締めると、それを宙にかざした。
「「「「全テハ天上ノ者ノタメニ」」」」
その叫びの後、黒いローブは空気に溶けるように消えていった。
辺りには静寂が舞い戻った。
第三話
この世界に生まれてきて、大事に育てられたのは、単に私が「生贄」だったからだ。それが無ければ、私は普通の世界で自由に羽を伸ばし、皆と楽しく空を飛びながら遊ぶ。そんな人生だったはずだ。
けれども、運命と言うものは結局命を縛り付けるだけのものでしかなかった。「生贄」というだけで私は外に出ることを許されず、人々に恐れられていた。
親はいつも鉄格子の外から私を哀しげに見ていた。
「お母さん、ここから出してよっ」
私は精一杯叫んだ。赤さびた鉄の棒を強く握り締め、何度も出してと哀しげな表情で私を見る母に叫んだ。
父はといえば、あれほど薄情な男はいなかった。私が生贄になることに決まったあと、父は多額の金を「黒衣機関」から貰っていた。そしてその多額の金を手に入れると私と母の前から姿を消した。
「黒衣はもう駄目。信じられない」
母は拳を握り締めて呟いていた。その握り締めた拳から血が流れていたのを私はよく覚えている。母はしばらくそう小さな声で連呼すると、私の入っている古びた鉄格子の前から消え去った。また独りになってしまったことがとても哀しかった。
私はずっと蹲っていた。孤独にたえることなんてできない。
逃げたい。
「純白の天使よ。全てを洗い流すことのできる天使よ」
毎日のように黒い翼の者達は鉄格子で蹲っている私に向かって呻くように祈っていた。最初まではそれをじっと見ていたけれど、孤独の意味を知ってからは、それを見ることができなかった。もう精神が崩壊しかけていたのかもしれない。
私はその祈りを捧げる声が私の中で引き金になった。いったい何の引き金かは分からない。けれども、孤独に耐え切れなかった私の心から怒りが湧き出ていることだけは確かだった。
私は立ち上がると、鉄格子を適当に力を込めて殴り、そして足の甲で思い切り蹴った。さびた鉄格子はギシギシと軋んだが、それでも壊れることはない。私は鉄格子を握り締めると、それをガシャガシャと前に後ろにと揺らす。目の前で祈りを捧げていた黒い翼の者達はその光景をおろおろとして見ていたが、そんなのは関係なかった。
何で私だけがこんな目に遭わなくてはいけないのか。
自分の心が真っ黒く染まっていくのが分かった。それと共に、意識が薄れていく。目に掛かっていた髪の毛が何故かだんだんと白くなっていたのだけ覚えている。
そこから、私の意識と記憶が無い。
気が付いた時、白くなった髪が黒く戻っていて、そして両手には鉄の匂いと生暖かい液体が溢れていた。私はその両手に付いた液体が最初何なのか分からなかった。黒い翼の礼拝者が全員両手の液体と同じ色の者を撒き散らして倒れているのだけが視界に移った。
ぼんやりとしていた頭がハッキリとしてくると、突然罪悪感と恐怖が心を襲った。私は思わずしゃがみ込み、そして声にならない小さな悲鳴をあげる。手を顔に添えると、自分の顔に鉄の匂いのするものが付着する。私はその両手を見て、また悲鳴を上げた。
血だった。
一面に紅い花が咲いたかのように、真紅の血が散っていた。
「いや…いや…なんで? なんでこんなになってるの?」
「あなたがやったのですよ」
私は振り返ったそこには、満面の笑みを浮かべた母が立っていた。私は母にすがるような思いで飛びつき、大声で泣いた。母は私の頭を優しく撫でてくれた。
「もういいのよ。心配なんてしなくても」
「え? どういうこと?」
母が呟いた一言が気になり、私は顔をあげる。きっと、目が腫れてとても酷い顔をしていただろう。だが、そんな事は気にならなかった。
突然、私の首に強烈が圧迫感が生まれた。酸素さえ通らないくらいキツい締め付けだった。
私は一瞬目を疑った。私の首を圧迫している人物が、他ならぬ自分の母だからだ。
「おかあ…さん…なん…で?」
母は鬼のような形相で私を見据えた。
「あなたが悪いのよ!! あ、あ、あなたが力を解放せずにお、お、おとなしく生贄になっていれば、こ、こんな事にならなかったのに!!」
私は最初、何を言っているのかが分からなかった。脳に酸素がいっていなかったかもしれない。けれど、私は最後のよりどころであった母の叫びを聞いて、一つだけ理解したことがあった。
――自分は、いらない子なのだ。
私は首に回っている母の両手を掴むと、全力で握り締めた。ここで死にたくない。逃げなきゃ。逃げなきゃ。そんな言葉がいつの間にか私を支配していた。いらない子なら、ここで死んでしまったほうがいいのかもしれない。そんな言葉も浮かんだが、どうしてもそんな気にはなれなかった。
――生きていることが罪なら、私は生きてこの人たちに復讐しよう。
私はそう考えた。そして伸びきった爪で母の力強い両手をガリガリと勢い良く掻き毟った。そこまで伸びているわけではなかったが、力を入れれば簡単に血は出た。血を見るのは嫌だったが、そんなことを言っていれば私は死んでしまう。
「痛いっ!」
母は叫び、血だらけになった両手を首から離した。暫く咳き込んだが、それでも私は走った。裸足で床に溜まった血が滑るが、それでも走った。母の叫びが聞こえたが、そんなこと関係が無かった。
「…死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない」
私は長い廊下を渡って外に飛び出し、一瞬浮遊感が体を包んだ。
外は空だった。地面なんて何も無い。皆空を飛んでいる。当然私の翼は使ったことが無い。飛べるわけがなかった。
昔一度聞いたことがあった。天上と天下の二つの世界を別つ所を正常な天使が通ると、真っ黒に翼が染まるという話だった。
別にそんなことどうでも良かった。今自分の翼は紅に染まっているのだ。いまさら黒になろうが汚くなろうが関係ない。ただ生き延びれば良い。
「私の翼、動け、動けっ!」
私は自身の心に語りかける。だが翼は一向に動く気配を見せない。紅色の衣がバサバサとはためく。落ちていくときに感じる風がとても気持ちよかった。
自由な世界の心地良さを私はここで知った。だからこの空を飛んでもっと自由を求めて生きたい。空でなくとも、天上でなくとも、天下でも良い。生きたかった。
暫くすると、私の真下に真っ黒い灰色の雲が現れた。あれを通ると黒い翼となってしまうのだろう。そうすると、天上と天下を行き来する黒衣のような姿となる。私の場合、地上に堕ちた堕天使とでも呼ばれるのであろうか。それでも良かった。
私は目を瞑ると、勢いのある風の中を突っ込みながら、一つ鼻歌を歌う。
それは小さな頃、まだ生贄として閉じ込められる前に母が歌ってくれた「春」という曲だった。天下の者の曲だと聴いたが、私はその一説しか知らなかった。そうだ、天下に落ちたら「春」の曲を全て聴こう。そして、歌えるようにしよう。
私の中にそんな小さな目的が生まれた。
なら尚更、翼が動かなければどうにもならなかった。
「動けぇぇぇぇ!!」
私は背中に力を込めた。必死の思いで翼で飛ぶイメージを想像する。
バサ。
背後からそんな音がし、急降下していた私の体が宙に浮く。バサ。もう一度聞こえてきた。背中に何か違和感を感じた。私は背後を見てそして笑みを浮かべた。
翼が、動いていた。私はその翼を動かして動いてみる。どれも良好だった。紅の翼が綺麗な羽を飛ばして羽ばたいている。
「ありがとう」
私は固く握り締めていた拳を緩めると、翼に向けてそう呟き、目の前にある黒々とした雲を見据え、そして自由に動く翼を思い切りはためかせて直進した。
汚い空気だが、それでも我慢はできる。自分の翼がざわついているのが分かる。色が変わっているのかもしれない。
それでも私は翼を動かした。この先にある新たな自由を手に入れるために。
目の前に光が現れた。私はもっと翼に力を込めた。
アスカは笑みを浮かべて黒い雲を突き抜けた。
○
「ここは…」
ナツは呟いた。アスカは握られていた手の力が抜けたことに首を傾げる。
「どうしたんですか?」
ナツは目の前に広がる光景を見て思わず笑った。逃げていて気が付かなかったが、ここに来ていたということに驚いた。
「約束の場所だ」
アスカにはナツの言葉の意味が全く分からなかった。
二人の目の前には単なる見ずぼらしい公園。赤さびた滑り台。球形のアスレチックはもう無いようだが、それでも昔の姿は残っていた。ナツは思わず走り出す。アスカはそのナツの背を追いかけていく。
――やっと、あいつに会えるんだ。
ナツの表情が笑みで満ちた。だんだんと地面を蹴る強さが大きくなり、走る速度が上がっていく。もうすぐ会えるという喜びがナツの中に満ちていく。ナツの頭の中の地図に彼女の家が表示され、速く来いとせかしている。
――この曲がり角を…。
突然、ナツの動きが止まった。唇を強く噛んだ。肉が裂けてじんわりと血がにじみ出ている。
追いついたアスカはナツの視線の先に目をやる。
何も無い空き地がそこにはあった。
「どうしたんですか? ナツさん?」
「嘘だろ…。オイ…」
ナツはアスカの問いかけを無視してそう呟くと、拳を強く握り締め、そして空き地の方へと進んでいく。アスカもナツの後ろについていく。
本当に何も無い。雑草は辺りにだらしなく生え、古びた柵で空き地が囲われている。空き地の中心には掘り起こした跡があるが、それ以外何の痕跡も無かった。そこに家が建っていたのかさえも分からないくらい綺麗に「約束の彼女の家」は消え去っていた。
「何だよ…。どこいっちまったんだよ…」
ナツの表情は固まっていた。驚きからなのか、大きく目を見開き、力なく口を開けて空き地の中心に崩れている。その姿は本当に情けないものであった。アスカは見ていられず、目をそむけて歩み寄る。
「…ここ、寒いですよ。とにかくどこか寝泊りできる場所を探しましょうよ」
吹き抜ける風に身を震えさせながらアスカは崩れ落ちているナツに言った。だが、ナツは何も言わない。聞こえていないといってもいいかもしれない。
それだけナツには大きなダメージだったのだろう。
アスカは空を見上げる。どんよりとした灰の暗い雲があたりを埋め尽くしている。ポツリ、ポツリと水滴が空から落ち、アスカの顔で弾けた。
「雨、降ってきましたよ…」
「勝手に行けよ」
ナツの小さな、そして怒りの篭った呟きがアスカには聞こえた。
「どういうことですか?」
「行けよっ! さっきからうるせえんだよ。何でおれがこんな不幸な目に遭わなきゃいけないんだよ!!」
ナツは叫んだ。雨は次第に強くなっていく。制服が湿り、白いワイシャツが透けて肌が薄らと見えてくる。水を吸った土は泥と化し、ナツのズボンを茶色く染めていく。吸った冷たい水がナツの体温を奪っていく。体がだんだんと冷えていくのが自分でも分かった。
けれども、心の中の灼熱は冷めることがない。
――彼女は悪くない。俺が逃がそうとしていただけだ。けれども、そこまで必死になる必要があるのか? 何の為に俺はここまで来た。元々彼女を逃すために来たわけではない。俺は単に十二月に二十五日の「約束」を果たすために来ていたんだ。彼女の事はそのついでのようなものだったのだろう。それだけ、安易な気持ちで彼女を連れていた。
ナツは泥を握り締める。手の跡がその部分に付くが、雨水によってかき消されていく。ナツは何度も地面を叩いた。
――約束を破られたのに、彼女の逃亡に手を貸す必要がどこにあるんだよ。
ナツはもう一度拳を地面に叩きつける。硬い石に当たって拳が割れ、血が流れ出る。アスカはそれを見ておろおろとしている。よく考えればナツの考えている事は矛盾だらけで、何を言っているのか訳が分からなかった。ただ怒りを放出するために必死で言葉を組み合わせてそれを吐き出している。そんな感じだった。
「お前なんかどうなったって良い。俺にはもう関係ない。俺はただ約束をかなえるためだけにここまでついて来ただけだ」
ナツはアスカを睨むようにして呟いた。
――言っている事が違うじゃないか。見捨てるのは最低な事だと言ったのは誰だったのか。誰でもない。この俺自身じゃないか。こんな所で約束を放棄するつもりだったなら、最初から彼女を引き渡していればよかったじゃないか。
「うるさいうるさいうるさいっ! もう迷惑なんだ。あんたのせいで追いかけられるのは!!」
ナツはその言葉を言った事を少し後悔した。ハッとしてナツはアスカを見上げた。
「逃げようって…言ってくれたのに…」
ナツは唇をかみ締めた。アスカは明らかに泣いている。今なら謝って済むかもしれない。悪い、約束破られてイライラしていただけなんだ。気にしないでくれ。とそんな言葉を言えば、全てが元に戻っていたかもしれない。
だが、ナツの心にそんな余裕は無かった。ナツは立ち上がると、アスカの横をスッと通り抜け、そして地面を強く蹴って走り出した。
何かを失ってしまった気がした。けれども、もう戻れない気がした。
ナツは振り返えらずに走っていく。何故か、自分の走っている先が真っ暗に歪んでいる気がした。
○
「須賀君、来ていないんですか?」
荒野は担任に尋ねた。担任は「家からの連絡も無い」と断言する。
「須賀くんの家に行ってみれば、いるかもしれないぞ」
「そうですね、分かりました」
荒野は一礼をすると職員室を出て行った。明日は本降りだ。行くなら今日のほうが良いだろう。荒野は肩下げバッグを背負い直すと廊下の突き当りを曲がった。
誰かとぶつかり、そして荒野は転倒した。
「痛ったぁ…」
「悪りぃ、大丈夫か?」
荒野は打ってズキズキする腰を擦りながらぶつかった相手を見た。似合わない金髪をした耕介だ。荒野にとっては幼馴染と呼べる存在の少年なので、人見知りをしやすい荒野は立ち上がりながら笑顔を浮かべる。
「平気平気、でも廊下は歩こうね? 耕介くん。こんな風にぶつかる事あるからさ」
荒野の言葉を聞いて、耕介は悪い悪いと苦笑いで謝った。何か焦っているようで、足がそわそわしている。
「どうしたの?」
荒野が問いかけると、耕介は唸った。
「ナツを探してるんだ」
耕介の答えを聞いて、荒野は少し不思議に思った。いつも二人は喧嘩が耐えない。考え方の違いからだ。それに、耕介とナツはいがみ合っている筈。それはいつもの学校での状況を見れば確実だった。耕介が須賀を探す事は、つまり喧嘩が始まる合図のようなものなのだろう。
「駄目よ。喧嘩なんて」
「違うよ。信じてはくれないだろうけどさ、『天使』について話を聞こうと思ってたんだよ」
「天使?」
「ああ、家に黒衣ってやつがいるんだけど、そいつが言うに『天使を生贄にしてはいけない』らしいんだ」
耕介は恥ずかしそうに言った。耕介の良い所は、何でも正直に言ってしまう所だ。幼馴染である荒野はそのあたりは熟知している。つまり、耕介の言っている事は本当なのだと何故か確信ができる。
それに、夢に出てきた「生贄」と「天使」というキーワードが出ている。これは耕介の調べている事と自分の調べている事が繋がっているということの証でもあった。
「私も調べてるの。天使について」
耕介は最初はポカンとしていた。
「要、何かあったのか?」
耕介も荒野の真剣な眼差しを見て真実だと悟ったのか、真剣に問いかけてきた。荒野は自分自身に起こった出来事を話すことにした。
「なるほど、それは天上人を見ると起こる症状だ」
黒衣を見に纏った金髪は呟いた。耕介と荒野はその言葉を聞いて首を傾げる。
「知らないのも無理は無い。これは天使を見た天下の存在に稀に起こる現象だ。この症状は目撃した天使に起こったごく最近の出来事を夢に見るというものだ。まあ夢だから実際とは少し違うが、ほぼ合っている。その夢の中では誰かがその夢の出来事を呟いて夢を見るものに訴えているという特徴がある」
「私の夢でも、何か言葉が聞こえてきていたわ」
「そしてその言葉はほぼ当たる。つまり、真実を語っているのは分かっている」
「でもおかしいぜ? その天使が生贄になると世界は滅びるとあんたは言った。だが、要の夢だと生贄にしないと世界が滅びるって言ってる。これはどういうことだ?」
耕介の言葉を聞き、黒衣は髪をクシャクシャと掻いた。
「それが問題なんだ。」
黒衣は納得し切れていない耕介と荒野の前に一本指を出した。
「世界が滅びることの解釈がそれぞれ違っている可能性だ」
「滅びるって、世界が崩壊して、無になるって事じゃないのか?」
耕介は怪訝な表情で黒衣を見た。黒衣は自身たっぷりの目で頷く。
「我々はそう思っているが、彼ら天上の者の場合、逆の考えだということ」
耕介と荒野は顔を見合す。黒衣の遠まわしな言い方のせいで頭の中がややこしくなってきていた。
「ああ、もうさっさと言えよ」
耕介は痺れを切らし、頭をぐしゃぐしゃにかき回しながら黒衣に向かって叫んだ。
「彼らは、世界が無になる事で世界が救われると考えていると言う事だ。つまり、世界を無にすることで誰も怒り、哀しみを感じない。痛みも感じない、幸せの世界になるという考えだ」
「それって、つまり幽霊になれってこと?」
荒野は動揺しながら問いかけた。それを聞いた耕介は硬い表情を見せた。
「天下の者の言い方でいう天国だ。世界が滅び、全ての者が死に絶え、霊体になることで不自由の無い世界が創り上げられるのではないか。そんな所だろう」
黒衣の考えを聞き終えると、耕介が突然立ち上がり、壁を思い切り殴った。荒野と黒衣はそれを呆然と見つめていた。耕介の拳からは当然のように真っ赤な血が流れ、壁に染み込んでいく。耕介はその拳から出ている血を眺め、そして力強い眼光で黒衣を睨んだ。
「ざけんなよ。生きてるから感じられるものを失って何が幸せだ!! 痛みを感じるから、生きてるって分かるんだぜ? 死んで良い事なんて何もねぇ!!」
耕介の叫びを聞いて、荒野は唇をキュッとかみ締め立ち上がる。
「…行きましょ。その白い翼の天使を捕まえないと、私の偏頭痛も治らないんでしょ?」
二人は座っている黒衣に手を伸ばす。黒衣は一度二人を順番に見てから、静かに目を閉じる。二人はじっと目を閉じた黒衣を見据え、黒衣の動きを待つ。
暫く時間が経った。雨が少し降ってきた。明日はドシャ降りだ。今日行かないと、多分ナツと天使を探す事が困難になる。耕介は焦る。早く黒衣が決断して欲しい。
「危険が及んだ場合、君たちはすぐ逃げろ」
黒衣はゆっくりと瞼を開くと、小さく呟いた。その呟きを耳にした二人は一度目を合わせ、そうしてから笑顔で大きく一度頷いた。
「移動手段はとりあえず私の乗ってきた乗込式推進回転輪を使おう。あれなら五人は乗れる。須賀ナツという少年と天使を保護した後の移動も楽だ」
「乗込…なんとかって、なに?」
荒野は真剣に黒衣の言った謎の名称の意味を問いかける。耕介はその名前から何かを察したようで、荒野に「多分車だ」と耳打ちした。
荒野は納得したかのように頷いた。
突然、黒衣が部屋の窓を睨みつけた。そして腰に差してあるサーベルをスッと引き抜いて窓に向けて構えた。
「どうやら、私の存在に気付かれたようだ」
耕介と荒野は全身を貫くようなするどい殺気に身を震わせる。耕介はその震えを両手で押さえながらゆっくりと立ち上がる。
「気付かれたって、どういうことだよ?」
「殺された黒衣は五人、天使保護のために派遣された黒衣は六人。つまり、天上の者が最後の一人である私の始末にやってきた」
黒衣はサーベルの柄を握り締めなおすと左足を前に出し、小さくかがんだ。と同時に黒衣は二人に「伏せろ!!」と大きく叫んだ。二人は命令にビクリとしたが、耕介が瞬時に反応し、荒野の肩を強く押してしゃがみ込んだ。
刹那、窓ガラスが真っ二つに割れ、長刀がギラリと黒衣にキバを剥いた。黒衣は右から薙ぐように来る長刀の刃をサーベルで受け止めるとそれを弾き返す。
「君達を巻き込みたくないっ! 外に出て待っていてくれ! すぐ片付けて行く」
次々と襲ってくる刃を受け流しながら黒衣は後方の二人に向かって叫んだ。黒衣の額から汗が滲み出ているのが良く分かる。耕介は足手まといにならないためにも、荒野の手を握ると荒野に向かって一度頷く。
「分かった」
耕介は一言そう言うと荒野を無理やり引っ張ってドアをぶち開けて階段を転がるように下りていった。
「最後ノ一人ダナ? 我ト入レ替ワッテモラウゾ」
「黒衣を甘く見ているのはお前のほうだ。覚悟しろ」
白装束に身を包み、灰色に黒ずんだ翼を生やした男は長刀を構えて突撃する。黒衣はサーベルで襲い掛かる敵に立ち向かっていった。
「黒衣さん、大丈夫かな?」
「大丈夫さ。あいつは強いからな」
震える荒野の肩を抱いて雨の中を静かに走っていく。体がなんだか熱い。雨に打たれて風でも引いたのだろうか。耕介は嫌な予感から来る気持ちの悪い生暖かさを感じていた。もしかしたら、黒衣は殺されてしまったかもしれない。そうすれば、あとはナツ一人に全てを任せるしかなくなる。
耕介はギリと奥歯をかみ締めた。これからどうするべきか。それが思いつかなかった。
背後から何かが現れた。耕介と荒野はそれを振り返って見た。何一つ普通の大型車が一台二人の前に止まった。いわゆるワゴンというやつだ。
「乗れ」
窓から苦笑いを浮かべた黒衣が現れた。耕介は荒野の手を引きながらワゴンのドアを開けて飛び込んだ。中は暖房が効いている。どこからどう見ても普通の車だと耕介は思う。黒衣の世界でも車は普通なのだろうかという疑問が浮かんだが、今はその時ではないので、早く発進させてくれと催促した。
「ああ、今すぐ出してやる」
黒衣は少し苦しそうな声で耕介に言った。耕介はその状態に疑問を持ったが、黒衣がなんでもないと言うので、問いかけるのはやめにした。
「あいつは倒したのか?」
「ああ、大丈夫だ。追っ手は来ない」
黒衣は断言するとアクセルを踏み込んだ。ワゴンが急発進し、水溜りの水を思い切り弾いて進み始めた。
雨の中、ワゴンは目的地へと進み始めた。
耕介の部屋には、灰色の天使の切り裂かれた跡が残っていた。その天使の握っている長刀の先には、微かに血に濡れていた。
●
「オ前ハ、生贄ヲ庇ッタ天下ノ者ダナ?」
黒衣はナツを囲むとそう問いかけてきた。ナツは一度だけ小さく頷いた。
「別にもう抗う気なんてないよ。殺せばいい」
「殺シハシナイ。協力者トシテ動イテモラオウ」
ナツは俯いていた顔をあげた。別に死んでも良かったが、協力者として生かしてもらえるなら、それでも良いだろう。もう彼女とは関係ないんだ。とにかく戻れるなら普通の生活に戻りたい。
ナツは黒衣の言葉を聞いて、死んだような目を黒衣に向けた。
「協力? 何をだ?」
ナツは銀髪の黒衣を睨みつけるようにして訊く。アスカを連れて来いとでも言う事なのだろうか。何をさせる気だ。とにかくさっさと終わらせて帰らせてもらいたいもんだ。ナツは怒りに拳を握り締めながらそんな事を考えた。
もう心の中の自分も反対はしなかった。いや、呆れて出てこなくなったのかもしれない。自分が最悪な生き物だって事ぐらいは分かっている。だがもしかしたらアスカにかかわっていなければ何か変わっていたかもしれない。もしかしたら彼女はいたかもしれない。
気が付けばナツは泣いていた。雨だから黒衣のやつらには見えないだろう。大声を上げて泣きたいものだ。それで何もかもが元通りになるなら、そうしたい。
「コレカラコチラ二向カッテ来ルワゴンヲ引キ止メロ。暫クノ間デイイ」
「そんなんで、良いのか?」
黒衣はゆっくりと頷くと、腰に差していたサーベルをナツに向けて差し出す。ナツはそれを受け取ると、鞘から抜いて得物を確かめる。吸い込まれるような銀の刀身が、斬らせろと訴えているように思えた。一度柄をしっかり握り締めれば、それだけでなにもかもを切り捨てていきたい。そんな気持ちになりそうだった。
ナツは意識を取り戻すと、サーベルから手を離した。垂直に堕ちていったサーベルはコンクリートをざっくりと割ってそこに仁王立ちし、雨水を被っている。
「生贄ハ向コウダナ?」
ナツは頷く。銀髪の黒衣はナツの頭をクシャクシャと撫でると、皆を率いてナツから離れ、そして最後は闇へと消えていった。
ナツはその後、地に垂直に立つサーベルをじっと見据え、両拳を強く握り締める。
「これでやっと、終わるんだな」
ナツはもう一度柄を握り締めると、排気音を立ててやってくる一台のワゴンを見て、サーベルを構えた。
――これでいいのですか?
――何がだ?
――あの作戦が彼にバレれば、彼は手を翻しますよ?
――もう関係ないだろう。生贄はすぐ先にいるんだ
――そうですね。気にする必要はありませんでした。
銀色の髪が風で揺らめく。美麗な顔の男性は、手をパキパキと鳴らすと不敵な笑みを浮かべていた。
第四話
「あれ…、ナツじゃないか?」
ワイパーが一定の動きを続ける中、耕介は目を細めてフロントガラスの先を指差す。大雨でよく見えないが、耕介達の高校の制服が見えた。その右腕が一瞬銀色に光った。
「須賀…君?」
荒野も身を乗り出して耕介の指す指の先を見た。確かに須賀ナツ本人である。だがその雨の中に立っているのはいつもの穏やかな須賀ナツではなく、右腕の銀色に光る何かを構え、殺気を放つ須賀ナツであった。
「黒衣、止めてくれ」
耕介は眉をひそめながら黒衣に呼びかけた。黒衣は頷くとブレーキを踏み、ワゴンを止めた。ギシギシとどこかさび付いているのかワゴンが軋む。
「耕介、どこ行くの?」
「ナツに話を聞いてくる。天使をどこにかくまっているんだ。ってな」
降りようとして荒野に引き止められた耕介は、少し口の両端を吊り上げて笑みを作ると、ワゴンを降りた。冷たい雨が容赦なく耕介の体を叩き、そして一瞬のうちに上着がグショグショに濡れてしまった。靴も靴下ももう手遅れだろう。
そんな容赦ない雨など気にせずに俯いて右手に銀色の何かを握り締めた須賀ナツを睨み、ゆっくりと歩み寄る。水溜りに足を入れるごとに水が撥ねるが、もう全身がびっしょり濡れているので関係ない。耕介は目の前の水溜りに思い切り足を踏み入れて進んでいく。
「おいナツ、生贄の天使はどうしたんだよ?」
ナツの元までたどり着いた耕介は低くドスの効いた声でナツに問いかける。
だがナツは応えない。と言うより、意識が無いといってもいいのかもしれない。
「おいっ! 聞いて…」
――刹那、耕介の右頬に一筋の紅色の線が走る。耕介はただ呆然としてその紅色の線を手で触る。液体が手に付着した。最初は雨かと耕介は思ったが、その手についた液体を見て目を見開く。
血だ。
雨で血は流れていくが、微かな痛みは流される事がない。耕介はその傷を付けた張本人を睨みつける。
「何しやがる!!」
耕介は怒鳴って、そうしてから一筋の傷を付けたナツの右手に握り締められている銀色の得物―サーベル―に目をやった。そして一つ疑問が残る。
――ナツは剣なんて持った事ない。あそこまで音も無く扱う事は不可能のはずだ。何故あいつに剣が使えるのだろうか?
耕介は二回目の斬撃をしゃがんで避けた。だが、反撃なんて事はできないし、受け止めるなんて漫画のようなことはできない。とにかく逃げるしか道は無い。
だがそんな考えをしているうちにナツは狂気に満ちた笑みを浮かべてサーベルをしゃがんでいる耕介の顔面に向けて容赦なく振り下ろす。風や雨水を断ち切ってサーベルは断頭台の刃のように落ちていく。耕介は気持ちの悪い汗を感じながらその刃を見て、堅く目を瞑った。
その時、刀身のぶつかり合う音が聞こえ、そしてギリギリと目の前から音が聞こえてくる。耕介はゆっくりと目を開けて、その目の前の光景を見た。
「通常の人間が、この、サーベルを持ったら、心の不安定な奴なら簡単に、操り人形になってしまうんだ。よく、覚えておくといい」
黒衣は刃の下にいる耕介に向かって踏ん張りを利かせながら呟くと、耕介に容赦なく蹴りを加えて吹き飛ばし、それと同時にサーベルを引いた。ナツのサーベルはそのままストンと耕介のいた地面に深く突き刺さり、必死で引いているが抜けない状態になっていた。
「悪いが、眠ってもらうよ」
黒衣は機械的に行動するナツの耳にそう言うと、サーベルを仕舞い、一息ついてから右拳をナツの腹に叩き込む。ナツの手が剣から離れ、そしてナツの表情が穏やかになった。ナツはそのままドスンと地面に落ちると、完全に動きを停止した。黒衣はそれを見てふうと溜息を吐くと、深く突き刺さるサーベルを抜き、そして膝と肘を同時に叩き込んで真っ二つに割って捨てた。
「耕介、大丈夫か?」
蹴りが効いているのか、まだ咳き込みが続いている耕介に黒衣が声をかけた。
「…死ぬかと、思った」
「?」
「なあ、ナツはなんで操られたんだよ?」
耕介が訴えるように問いかけた。黒衣はそれを「心が不安定だった」と断言した。
「何があったんだよ、ナツは、いつも冷静で、俺が喧嘩を仕掛けてもさらっと流しちまう奴なのに、何で不安定になっちまってるんだよ!!」
耕介は拳を地面にたたきつける。グキリと気持ちの悪い音を立て、水溜りが紅に染まっていく。それでも耕介は地面を殴り続ける。
冷たい雨を吐いていた雲が、次第に空から姿を消していく。そしてそれと共に強烈だった雨が勢いを弱めていく。
●
――ナっちゃん!
どこかから声がした。それは、凄く懐かしい声のような気がした。僕はその声のする方へと視線を動かした。
そこには、真っ白いワンピースを着た、肩くらいまで伸ばした黒髪の少女が立っていた。髪の長さは違うが、それは小さい頃と雰囲気が全く変わっていないナオがいた。僕は結局会う事ができなかった彼女を見て、何か熱いものが込み上げてきた。
僕は走った。彼女は目の前だ。今すぐにでも飛びついて、抱きしめたかった。そして泣いてしまいたかった。何度も謝りたい。
けれども、僕が必死で走っても彼女の下へ進む事は無かった。それどころか、彼女が遠くなっていくような気がした。
実際その通りだった。確実に彼女は僕から離れていっている。
――ナっちゃん、クリスマスの午前零時、会えてよかったよ。
ナオはにっこりと僕に満面の笑みを見せると、手を振った。
僕はもがいた。とにかく近づきたい。まだ僕の言いたい事が残っている。
行くな。と叫ぶが、口がパクパクと動くだけで声が出ない。
――ナっちゃん、君が行くのはこっちじゃないよ。
ナオは僕に向かって哀しげな表情で言った。小さな瞳から一筋、涙が流れていた。それを見ると、何故かとても泣きたくなってくる。けれども、泣く事さえできない。
ナオは僕の後ろを指差した。その指の先を僕は振り返って見る。そこには、小さな光の粒が浮遊している。
――逃げようって、言ってあげたんでしょ? 守らなくちゃ。
ナオはへへへと笑うと僕に背を向けて歩み始めた。僕は必死でナオに追いつこうと走るが、今度はだんだんと後ろへ吸い寄せられていく。どんなに必死に走っても僕とナオの距離は離れていく。
遂に僕は光の粒の側へと引き寄せられ、そして、ナオは闇の中に姿を消した。
――今度は、君がおじいちゃんになってから会うことになるんだね。
そんな一言が聞こえてきた。
何故こんなことになってしまったのか。突然現れた天使によって逃亡する事となり、そして約束を守るために昔の場所まで必死で来た。なのに彼女の家は消えていた。
何故ここまで僕は何かを失っていかなければならないのか。臆病な自分が何で天使を助けるなんて行動をとったのか。
できればはじめからやり直したかった。できない事は知っている。けれども、できない事は分かっている。
ナオには結局実際に会えなかったけれど、夢であえただけでも十分だと思った。僕はその光の粒を両手で覆うと、目を瞑った。まばゆい光が瞼を通り抜けて入り込んでくる。
そこで、僕の意識は途絶えた。
○
「おい、ナツっ! 起きろ!!」
耕介はナツの体を揺らしながら必死で叫ぶ。
「……うぅ…」
耕介の叫びに反応し、ナツは小さく声を漏らし、目を開く。と同時に、耕介の右拳がナツの右頬に思い切り叩き込まれた。
「痛ってぇ…」
「てめぇ、生贄の天使はどうした!!」
耕介はカッと目を見開きながら、殴りつけた拳でナツの胸倉を掴むと怒鳴った。右頬の痛みがとても辛いが、何故かナツは冷静に耕介を見ることができた。
「は? 天使がどうした」
「てめぇ!!」
耕介がもう一度拳を振り下ろそうとした時、その腕を荒野が掴んで引き戻す。ナツは胸倉を掴む耕介の手を引き剥がすと、軽く服を払って立ち上がる。
「俺は天使なんて知らねぇ」
ナツはさらりとそう言いのけると、三人に背を向けて歩き出す。
「待テ」
歩き出すナツにまた声がかかる。ナツはめんどくさそうに髪をクシャクシャと掻くと振り返った。
すると、自分の首筋に良く磨かれた銀色のサーベルが突きつけられていた。ナツは平然とした顔でそのサーベルに映った自分を見据える。
「天使ヲ見捨テテキタノカ? オ前ハ」
耕介と荒野はゴクリと喉を鳴らす。銀色に映える刀身は、ナツの返答次第では血に染まる可能性もあるだろう。耕介はどちらの味方に付くべきなのか一瞬迷った。親友の味方となるべきか、世界崩壊を防ぐために黒衣に付くか。
「天使なんて知らない。俺はこれからアイツを…、飛鳥を助けに行くんだよ」
サーベルを物ともせずナツは済ました顔でそう言うと、サーベルを構える黒衣に背を向けて歩き出す。黒衣は黙ってサーベルを鞘に仕舞うと、ナツを静かに睨みつけ、
「アスカトハ、誰ナンダ?」
と問いかけた。
ナツの足が止まった。
「言うつもりはねぇ。敵にそれを言って何の得がある?」
ナツは眉を吊り上げて黒衣の顔を見据える。金髪でサーベルを持った男。どうしても銀髪の男にしか見えない。もしかしたら荒野と耕介は変装した銀髪の黒衣に騙されているのかもしれない。ナツは予測でしかないが、似ているということを考えると、当然の考えだとナツは思った。
一瞬、時が止まった。
黒衣は寂しげな表情で軽く下に俯き、耕介と荒野はばつの悪そうな表情を互いに見合わせている。
ナツは三人をそれぞれにらみつけると、くるりと方向転換をして再び足を前に出す。少しづつ歩幅が広くなり、地面を蹴る強さも強まっていく。吹き抜けてくる風がとても気持ち良かった。疲れて荒んでいた精神が正常化されていくようだった。
ナツは走った。もう一度アスカに会わなければいけない。そうしなければ後悔してしまう。それだけは嫌だった。約束を破られるのも、破るのももうたくさんだった。
○
「見ツケタゾ」
銀髪の黒い翼を生やした男性はにやりとねっとりとした笑みを浮かべた。
漆黒の闇の中に蹲る白い塊が、そこにはあった。
――このまま儀式を始めるべきでは?
黒衣の一人はボソリと呟き、身構える。だが、銀髪は笑みを浮かべながら首を横に振る。
――待て。儀式を始める前に、生贄に必要なものが一つ足りていない。
黒衣はフードから微かに現れた口元を怪しく吊り上げた。銀髪は堂々と白い塊へと歩み寄る。
しろい塊は体をビクリと震わせた。
――何故自分は袋小路で蹲っていたのだろうか?
白い塊が突然起き上がる。二つの白い羽がバサリと広がり、白い塊は姿を見せた。白い塊ことアスカは行き止まりである背後を見て、そうしてから前方にいる黒いフードの集団と銀髪の灰色の翼を生やす天使を見て、唇を強く噛み締めた。
「…来ないで」
「何ヲオッシャルノデスカ? 貴女サマハ我ラヲ救ウ救世主トナルノデスヨ?」
銀髪は気味の悪い笑みを浮かべて、穏やかな表情でアスカを見た。だが、アスカはその穏やかな表情を見て怖気を感じ、一歩ずつ後ろへとさがっていく。
「私、生贄なんて嫌っ! 私じゃなくなるなんて…、絶対に――」
『生贄には天下の存在と同じ扱いをしろと言われたが、面倒だな』
銀髪は一度咳き込むと改めてアスカを見据える。黒いコートを脱ぎ捨て、そして腰に下げていたサーベルも投げるとバサ、と灰色に染まったかつて白色であったはずの翼を広げる。
『生贄になれば全てを天上が支配できるのです。そうすれば、この汚れきった下界の者を一掃し、清く澄んだ世界を見ることができるのですよ?』
アスカの背中が冷たい壁に当たる。完全に退路はふさがれた。飛ぶ事も出来るが、相手の方が人数は多い。囲まれて終わる事は目に見えていた。
「あなたはそんなこと考えてない! 単に私を使って世界を手にしたいだけでしょ!!」
アスカは震える体を両手で押さえながら、必死に叫ぶ。もしアスカが生贄として捧げられ、世界を浄化した場合、その後「神」という名を以って天上も天下も動かす事になるのは銀髪の彼だ。それはすでにアスカが生贄になる事が決定する前に決まっていた事だった。それだけの力が備わっているという意味でもある。
『まあ、否定はしません。』
銀髪はククク、と搾り出すような笑い声を口から漏らすと、アスカの目の前まで歩み寄り、そして肩を力を込めて掴んだ。骨がミシリと悲鳴を上げているのがアスカには分かった。
『この場で儀式を行う事はできます。ですが、それには最高級の「哀」が必要なのです』
「どういう…こと?」
アスカは痛みに耐えながら、狂気の笑みを浮かべる銀髪の男を睨み、問いかける。銀髪はその問いを完全に無視すると、頭をクルリと後ろに向けた。
「…飛鳥!!」
袋小路の入り口から、彼女を呼ぶ声がした。
ナツだった。
ナツは黒衣達を見て一度立ち止まると、拳をギュッと強く握り締め、そして急発進した。
「うあぁぁぁあ!!」
気合を込めた力強い雄たけびを上げてナツは走る。武器は何も無い。黒衣達にサーベルを抜かれたらもうお終いだ。だが、そんな恐怖はナツの中に無かった。あるのは、小さな勇気と、夢の中で交わしたナオとの約束だけだった。
『良い事を教えよう。須賀ナツ』
雄叫びを上げて迫ってくるナツを見て、銀髪は勝ち誇ったかのような笑みを浮かべて呟いた。銀髪はサーベルを引き抜き、アスカの手に無理やり握り締めさせる。
『君の幼馴染とか言う少女。何故家が無かったと思う?』
ナツはその問いかけに立ち止まった。目を大きく開き、ナツは銀髪を見た。
「どういうことだ…」
『簡単な事だ。我々が黒衣の始末の仕方と同じ方法だ』
――消滅だよ。
銀髪の呟きと同時に、ナツは頭の中が真っ白になった。
そして、それと同時にナツの体が大きく後ろに揺らぎ、赤い何かが噴出した。目の前には何かを持った飛鳥がいる。
ナツには、時間が止まったような気がした。
○
どこからか、誰かの悲鳴が聞こえた。いや、嘆きに近いのかもしれない。もう何も感じられないし、何も感じない。全てが燃え尽きたような気さえする。唯一感じるのは、腹部の辺りの刺し傷による痛みだけだ。
僕は力の入らない目を開けて、虚ろに映る世界を見た。全てが歪んでいる。何もかもが、毎日何気なく見ていた世界が蜃気楼のようにゆらゆらと揺れている。
――死なないで!!
どこかから、そんな声が聞こえてくる。とても遠いところからだ。大丈夫、死なないよと行ってやりたいけど、口も動かせない。体も動かないから、ジェスチャーで伝える事もできない。
痛かったはずの傷がだんだんと痛くなくなっている。そんなに深い傷じゃなかったのかと僕はほっとする。
だんだん寒くなってきた。今は冬だけど、こんなに寒い時は一度も無かったはずだ。周りも真っ暗になってきてる。もう夜なのだろうか? 確かに冬の夜は寒い。
もう、何も考える気にならない。このまま眠ってしまいたかった。
『ナっちゃん。行こ?』
僕の目の前にナオが現れた。僕の前に手を差し伸べてくれてる。なんだ。こんなところにいたのかよナオ。と僕は苦笑いを浮かべて、その手を握り締める。不思議と、闇に包まれていた世界に光が差し、そして、青く澄んだ世界が広がった。
『やっと会えたね。約束どおり午前零時だよ!!』
本当なのだろうか。僕は疑問に思って腕時計を見た。けれども、それは昔壊れて動かなくなった腕時計だった。零時で止まっているが、実際の時間かはわからない。
――本当の時間は、何時なんだよ? この時計壊れてるんだぞ。
僕は苦笑いを浮かべてナオに問いかけた。不思議と、体がとても軽く感じる。
ナオが突然、下を見つめて寂しそうな表情を浮かべた。僕は首を傾げて、下を見た。白い地面の合間から、遠く遠くに壮大な大地が姿を見せている。まるで、俺はここにいると自己主張しているかのようにだった。
――うわ。今気付いたけど、地面ってあんなにでかかったんだな。
僕は驚いて思わず呟いた。だが、ナオは寂しげな表情のまま固まっていた。
『…お別れだね』
ナオは突然、そんなことを呟いた。どうしてだよ。何か都合でも悪いのか、と僕はナオに問いかけるが、違う、とナオは静かに首を振った。
『私とナっちゃんは、違う世界にいるみたい』
僕は最初、どういうことか理解できなかった。ナオは続ける。
『ナっちゃんが、色んな事を見て、知って、そして全てが終わった時、また会えるよ』
ナオはそう言うと、静かに笑みを浮かべて手を降り始めた。僕はりかい出来るわけは無く、ナオにちゃんと話を聞こうと近寄ろうとする。
だが、ナオと僕の距離は遠くなっていく。いくら走っても、距離は遠くなっていく。彼女は走っていないのに、僕は走っているのに、距離は縮まろうとしない。必死でナオの手を掴もうと手を伸ばしても、届くわけない距離になっていく。
もう離れたくなかった。ナオと一緒にいたいのに、何故僕は彼女から離れていってしまうのだろうか。何故神様は、僕とナオを引き裂くのか。
僕の視界は、静かに闇の中へと入っていき、そして、意識もそこで途切れてしまった。
○
「ナオ!!」
ナツは撥ねるように状態を起こした。だが、そこはあの大空の世界ではない。当然、ナオもいない。
ナツはキョロキョロと辺りを見回し、そして次にわき腹を見た。
――確か、刺されたんだっけ?
上手く働かない思考をフル回転させてナツは思い出そうと必死になる。そして自分が今どこにいるかを知るために、ナツはベッドから跳ね起きて辺りを見回す。清潔そうな雰囲気を漂わせ、ほんの少し薬品の匂いがする部屋。誰がどう見ても病院の一室だった。
突然、自分の部屋の扉がガラリと横に開き、耕介が現れた。
「ヨォ、起きたのか」
「俺、どうなってるんだ?」
「緊急手術でどうにか一命を取り留めたんですよ?」
耕介の背後からひょっこりと荒野が姿を現す。両手には果物の入ったバスケットが抱えられている。どうやらどこかでお見舞い品でも買ってきたのだろう。
ナツは重要なことを思い出し、ズカズカと耕介に歩み寄ると、胸倉を掴んだ。
「アスカはどこ行った? 黒衣は? 言え!」
耕介ははいはい、と胸倉を掴むナツの右手を払うとナツをそのままベッドに叩き込んだ。まだ治りかけているナツの腹部の傷が悲鳴を上げ、それと同時にナツも悲鳴を上げた。
「終わったよ。もう…」
耕介は俯きながら呟いた。
「何があったのか、聞きたいですか?」
荒野は少し震えながらナツに問いかけた。ナツは落ち着きを取り戻すと、静かに頷く。
「その前に、一つ教えて欲しい。アスカはどこ行った?」
ナツの問いを聞いて暫く耕介と荒野は顔をあわせて困ったような表情になる。ナツは想像していた通りなのか。と少し納得したような表情で一言呟いた。
「死んだのか?」
冷たい風が病室のカーテンをふわふわと揺らす。日の落ちかけた暁の世界がその日の終わりを告げ始め、そして同時に小さな粉上の雪が落ちてくる。
――積もるかもしれない。
要はぼんやりと窓を見てそんな事を思った。
――もしかしたらこの雪が今年最後なのかもしれない。
耕介は静かに思う。
――終わりを告げ、全てを白に戻そうとしているのかもしれない。
ナツは雪景色を見て、静かに涙を流した。
十二月二十六日の夕方の事だった。
最終話
「ナツさん…?」
アスカはぼんやりと自分に力なく枝垂れかかってくるナツを見た。ガラン、と握らされていたサーベルが地面に落ちて弾む。
「私が…。私が?」
全く回転しない思考の中でアスカは静かに、何度も何度も同じ言葉を繰り返す。その光景を見て、銀髪の黒衣はにやりと微笑んだ。
アスカは両手を見る。真っ赤で、そして生暖かいもので染まっている。そして手を染めているものと同じ液体が、寄りかかっているナツの腹部から一滴、一滴とゆっくりと水溜りを作っている。アスカは呆然とその大きくなっていく水溜りを見つめている。
『遂に儀式の準備が整った』
銀髪は微笑ながら黒衣達に向けて言った。彼らは両手を天に突き出し、雄叫びを上げ始めた。
「くそ、遅かったか!」
「ナツ!!」
「須賀君!?」
路地の入り口から三人が姿を現し、そしてその現状に思わず声を上げた。もし声を上げずに、背後から黒衣が奇襲をしていれば、その時に決着が着いていたかもしれない状況だった。
『やあ、本物の黒衣。もうすでに儀式は始まったよ』
銀髪は用無しとばかりに黒いローブを剥ぎ取り、髪をかきあげる。黒衣はその灰色の翼を持つ天上の存在を見て、ギリギリと奥歯をかみ締め、そしてサーベルを抜き払うと同時に銀髪に襲い掛かった。
『天下に干渉せし者よ、覚悟!!』
ピリ…。
突然、空気に電流が走ったかのような振動が起こり、全ての者の動きが一瞬止まった。その空気は全ての者に重くのしかかり、潰そうとしているようでもあった。
『おお、それが貴女の力なのですか? 生贄よ」
銀髪は喜びに満ち満ちた満面の笑みを浮かべ、両手を広げて大きく叫んだ。黒衣は舌を大きく鳴らし、全身の力を溜めて圧力から抜け出そうとする。だが、その抵抗自体無に等しいものであった。
「くそっ! 覚醒が始まってしまったのか?」
「覚醒って…なんだよ」
常人に等しい耕介と荒野は地面にぺしゃりと這いつくばっている。そもそも立っていられる方がおかしいと内心耕介は思うが、今はそんな突っ込みを入れている場合ではないので現状について黒衣に問いただす事にした。
「生贄に必要な材料は三つある。一つ目は十五の女性の体、二つ目は下界に降りても穢れないでいられることで確認できる強大な力」
そこで黒衣は黙る。耕介は眉を寄せて黒衣を横目で見た。
「三つ目は…、精神が暴走するほど大きな、悲劇だ」
刹那、三人の立つ地面がひび割れ、そして次の瞬間にはビスケットのように脆く崩れ、ぱっくりと所々に大きな断層を作り出していく。黒衣はその揺れに耐えながら二人を掴むとそのまま灰色の翼を広げて宙へと舞う。
「天上の者よ、彼女はもう『生贄』として生まれ変わっている!! それも、憎しみと哀しみに包まれた存在にだ」
黒衣は力強く叫ぶ。バサバサと灰色の翼がそれに呼応するように力強く羽ばたく。だが、三人分の体重を支えているのだから、限界は近い。既に黒衣の灰色の翼は、羽が抜け落ちて小さくなりつつあった。
『何を言っている? 全てはここから始まるのだよ。この強大な力が、世界を一つにする道しる…』
銀髪が宙を舞う黒衣に向けて大きく笑い声を上げた瞬間、空気に溶けるように銀髪が消え去った。天上の者はその突然の異変に焦り、表情をゆがめた。黒衣、耕介、荒野もまた「それ」を見て、表情をゆがめた。
――生きとし生けるものは皆汚い。
真っ赤に光る右腕に何かを掴み、飛鳥は呟いた。掴んでいるそれは、どう見ても光に映える銀色の髪だ。だが、その髪を生やした本人がいない。
――だから、世界は一度浄化されなければならない。
純白であったはずの翼は、怒りに燃えるような真紅の熱の篭った翼へと変化し、羽が落ちると熱によって落ちた地面がアイスのように抉れていく。
「黒衣さん…、これって…?」
荒野は恐怖で顔を引きつらせて黒衣を見た。黒衣はギリリと奥歯をかみ締めてその炎のように赤い天使を見た。
「あれが、少女の内に秘めていた力だ…。覚醒してしまった…」
黒衣は、呻くようにその言葉を呟いた。
――哀しみで埋め尽くされた世界、憎しみで満たされた世界、永遠に乾く事の無い楽園など、必要は無い。
真紅の天使は燃えるような瞳をこちらに向けると、無表情のまま静かに右手を黒衣へと向ける。黒衣はその行動をすぐさま察知し、羽をはためかせて右へと急発進し、物陰へと飛び込んだ。
かかげた右手から小さな光が収束し、ペンライトのように細い光の線が黒衣のいた場所を通過し、その後方にあった建物がジュっと音を立てて蒸発した。その蒸発を見れば、その光線の強大さが良く分かる。
「耕介、要、お前達はここにいろ」
物陰から建物が蒸発していくのを目の当たりにした黒衣は、唾を大きく飲み込み、二人に言った。耕介はその意見に反対しようとしたが、敵うわけの無い、死ぬことが確実に決まっていることに首を突っ込めるわけが無い。ただの一般人ができるのは、力のある者を必死で応援する事しかない。耕介は、力のなさに唇をかみ締め、そして静かに一度頷いた。
「うああ!!」
黒衣はゆっくりと走り出し、腰の得物を抜くと同時に雄叫びを上げて覚醒してしまった少女の下へと勢い良く走っていく。気付いた真紅の天使は右手に紅の光を収束させ、ターゲット目掛けて放つ。
光の塊は黒衣の横をすり抜けた。狙いを外した事に疑問を感じた黒衣は通り過ぎていった光の後を目で追い、そして舌打ちと共に駆け出す。
狙いは耕介と要だった。ぐんぐんと近づいてくる光に恐怖しながら耕介は荒野を抱えて光に向かって背中を向けた。黒衣は翼をはためかせて耕介の下へと飛びついた。
静寂が訪れた。耕介は強く抱きしめていた荒野から離れ、背後を確認する。
「…おい、嘘だろ?」
「…この程度、どうってことは無い」
耕介はわなわなと震えながら目の前で翼を広げた黒衣を見る。横に大きく手を広げ、耕介と荒野を守るかのように黒衣は立っている。右の翼は焼け焦げ、最早飛ぶ事は不可能なほど黒く焦げ、右手は消え去り、その焼け跡は血が出る前に焼けてふさがっていた。黒い服は溶けて皮膚に密着し、そこがまた新たな火傷を作り出す。
真紅の天使はもう戦えない黒衣を睨むと、もう一度右手を挙げ、光を収束させていく。黒衣は微笑を浮かべながら静かに目を閉じ、次の攻撃で自分が死ぬだろうと悟る。
真紅の天使は、機械のような無表情な顔を黒衣に向け、光を放った。
――はずだった。だが、右手にある光は放出されずに宙で静かに浮き上がっている。
そして、真紅の天使は機械的な目で静かに自らの足を見ている。そこには、死んだと思われていた少年の手があり、そしてその手は天使の足を力強く握り締めていた。
「…ごめんな。こんなことになるなんて…。元々は突き放した俺が悪かったんだ。あの時、一緒に逃げてれば、お前は、こんなことになるわけなかったんだ…」
少年は血に伏したまま何度も何度も「ごめんな」を繰り返し続ける。天使はその少年を蹴り飛ばしてから右手を向けた。少年はぜいぜいと荒い息を吐きながら両手を力なく広げて、焦点のあっていない目で真紅の天使を見る。
――世界は汚――くなんかない。生きるものは汚――くなんかない。
真紅の天使の手に光っていた紅が薄らいでいく。そして全ての者達の頭の中に直接聞こえてくる言葉に、微かな変化が生じていく。二つの低い声と高い声がぶつかり合い、戦っているようにも思える。
――この世界を消す必要は無い。汚くない者もいるのだから。これから少しづつ清められていけば良い…。だから、あなたは消えて…。
「アスカ」の声がした。そして、それと同時に真紅の翼は白く、消しゴムで消すかのように純白になっていく。白いワンピースが風にゆれ、真っ赤な瞳も元に戻った。
完全な静寂が戻った。一つ違うのは、飛鳥の輪郭が何か白い輝きに包まれている事だった。それを見た黒衣は、静かに呟く。
「…これが、完全な彼女の力の覚醒なのか?」
黒衣はそこで気を失い、耕介と荒野が倒れた黒衣を抱える。飛鳥はその二人に向けてにこりと笑みを浮かべると、血だらけで倒れている少年を抱き起こした。
――大丈夫、全て元通りになるから。
飛鳥は少年の顔を覗き込む。既に血の気は失せ、脈も弱弱しい。完全に死を待つ状態となっているのは誰にでも分かる状態でもあった。
――私は、世界に君のような者が沢山いる事を願います。
飛鳥は少年の唇にそっと、自分の唇を重ねた。
――世界は、いえ、運命は、君が動く事を待っています。
白い輝きが少年を覆っていき、そして流れ出る血が収まっていく。トクン、と心臓の鼓動が静寂を取り戻した世界に響き渡り、少年が一命を取り留めたことを音で知らせている。飛鳥はその光が少年に移ると共にだんだんと空気に溶けるようにして足から消えていく。
飛鳥は口を離すと、消え行く自分の体を見て、一度笑い、そして気を失っている少年に向けて、静かに一言呟いた。
「また会おうね。ナっちゃん…」
そして、飛鳥の体はスゥッと空気に溶け、白い羽が一枚、少年の胸元にふわりと落ちる。
もうここに、「飛鳥」という存在がいなくなった事を、白い羽は静かに伝えていた。
エピローグ
僕は屋上にいた。僕が腹を刺されて気を失っていた間の事を聞かされてから、耕介と荒野の顔を見ているのが何故か辛くなったからだった。
冷たいコンクリートが自分の足をヒンヤリと冷やしているのが少し心地よかった。そして吹いている風が僕の体を突き抜けるのも、とても心地よかった。
僕は彼女が赤く覚醒した時、足を掴んだ事も覚えていないし、それにその後に口付けなんて事をされた覚えも無かった。つまり僕はあの時無意識に動いていたという事だった。 言っている事は支離滅裂だし、何故謝る必要があったのかも全く分からない。元々僕は巻き込まれた方なんだから、普通謝るのは彼女のほうのはずだ。
けれども僕は必死で謝っていた。
それは、彼女が戻ってくる事を、必死に願っていたからなのかもしれない。
僕は彼女の笑う顔が、とても好きだったようだ。愛していたとかそういうわけではなく、逃げている時、楽しかったとき素直に幸せそうに笑う彼女を見ていると、巻き込まれたという恨みの気持ちが無くなった。そして、勇気がわいた。こんな事を思うのは、本当に子供っぽいと自分でも思う。
けれども、弱かった自分が逃げ出すなんていう無茶な行動に出たのも、彼女の笑う顔に勇気を貰いたかったからなのかもしれない。そしてその勇気を力にして、もがいていたんだと思う。
僕は確かに子供だし、力なんてものもない弱虫だ。大人なんかに勝てるはずもないし、精神的にも敵うわけない。子供は経験している事がとても少ないし、理不尽なことを簡単に言うし、諦めが早いし、自分の考えを貫くために滅茶苦茶やったりする。
彼女が真紅に染まっていた時に言った言葉。それはもしかしたら、全ての生き物が自分の純粋な思いを忘れてしまったから言った事なのかもしれない。良く分からないけど、僕はそんな風に思う。
自分のほうが偉いから自分の考えが正しいとか、自分のほうが劣っているから弱いとか、そんな事があるから、全ての人間は潤わない。力のある者が全てを潤し、弱いものは渇く。そんな世界だから、浄化する必要があったのかもしれない。
――ナっちゃん
どこかで誰かが呼んだ気がした。僕は辺りを見回すが、人一人見当たらない。
「気のせい…か」
僕はそう思う事にして、屋上をぺタリぺタリと歩いていく。隅にある階段へそろそろ向かう事にしよう。明日は退院の日だ。色々と荷物を片付けておかなくちゃ。
彼女の言うとおり、自分が動けば、いや、全ての人間が動けば世界は変わるんだろう。けれども、誰もが同じ想いを持っているわけではない。でも、僕一人で歩けば、もしかしたら世界は少しでも変わるかもしれない。
偽善かも知れない。でも、歩くべきだと思う。
拳を強く握り締めると、僕を一歩を思い切り踏み出した。
―青空の天使と大地の少年 完―
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2006/05/07(Sun)19:21:24 公開 / 聖藤斗
■この作品の著作権は聖藤斗さんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
ということで、青空の天使と大地の少年でした。まず最初に言いたい事は、本当に申し訳ありませんでした。最終話も力を注いで書いたつもりでしたが、結局中途半端にしてしまった気がしています。もっと内容を広げる事ができる場所があったかもしれない、そんな事も思います。本当に物語を急ぎすぎた話になり、そしてそれに連なるように何もかもがぐちゃぐちゃになってしまいました。本当に反省点の沢山ある話だと、自分で思っています。
今までこのミス的要素が多い作品を読んでくださった皆様方、本当にありがとうございます。そして沢山のアドバイスも、本当にありがとうございます。これからこの作品で得た事と、頂いたアドバイス、そして反省点を次回作に活かして行きたいと思います。
次回作予定のテーマは「短い恋愛」か「生きる意味」を使ってみたいなと思います。もしかしたら、アクション物に走ってしまう可能性がありますが、どちらにせよ全力を尽くしたいと思います。
次回作も頑張りますので、どうぞよろしくお願いいたします。
失礼しました。