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『アインの弾丸 中』 作者:祠堂 崇 / リアル・現代 アクション
全角57943.5文字
容量115887 bytes
原稿用紙約187.7枚



 Bullet.V     捜査


 1


 女子寮から学園へ一直線。侮ることかなれ、寮区から学園まで歩くと五分はかかる。気を抜くと遅刻しかねない。
 鵜方美弥乃は早い内から学園の教室に居た。それでも帰宅部生徒の中ではであって、既に部活の朝練を終えた生徒がまばらに来ている。美弥乃は擦れ違う生徒と挨拶しながら席に座った。
 一度だけ視線を向ける。
 誰も座っていない生徒の机。昨日の午前までは誰も座ることのなかった席。彼はまだ来ていないらしい。
 美弥乃は学生鞄を開けて筆記用具やノートを机に仕舞ってから教室の壁掛け時計に目をやる。
 まだ八時過ぎ。
「ちょっと早すぎたかな……」
 一人呟く。
 というより、実際には彼に逢って話したいことがあって早く来すぎたのだ。
 余ったスイカを食べて欲しい。
 本音はそれだけではないのだが、口実がないのに携帯番号を教えてほしいとか名前で呼んでいいかとか不自然だろう。
 なんとなく胸の鼓動が落ち着かない。なまじ生徒が少ないせいで変な沈黙が重い。
 するとワンピースの上からカーディガンを羽織る、栗毛の髪を一房の三つ編みにした女性が入ってくる。
「あらあらぁ〜、美弥乃さん〜、お早いですねぇ〜」
 のんびりとした口調。
 美人でおっとりしているクラスの担任教師、小早川沙耶(こばやかわ さや)。
 春先の授業中に日向が気持ち良すぎて寝そうになったという事件を起こした凄い教師である。それによって奔放な性格と教え子を絶対に偏見しないことで人気のある人だ。
 唯一帰宅部でありながら教室に居る美弥乃に柔らかく微笑む。
 美弥乃は恐縮しながらも笑んで応えた。母性本能丸出しの笑みに、同じ女性として気圧される部分があるのだ。
「ちょっと考え事してたらあんまり寝れなくて、早めに来ちゃいました」
「あらあらぁ〜、先生も忙しくてあまり寝てませんよぉ〜」
「間違っても授業中に寝ないでくださいね」
 あはは、と沙耶先生は苦笑いした。
「学園のほうは慣れましたかぁ〜?」
「あ、はい。ホントいいとこですね、ここ」
「今年は雪嬰さんが生徒会長に任命されて、学園をごっそり変えてくれましたからぁ〜、確かに良き場所ですぅ〜」
 教卓に生徒名簿を置いてから振り向く。
「そういえばぁ〜、今朝ぁ〜、アインさんがぁ〜、校門の前で誰かと話していましたがぁ〜、心当たりありますかぁ〜?」
「蓮杖さん?」
 校門、ということは学園に居たということだろうか。
 勿論彼女が何かすることに自分が関与していい身分でもなんでもないが、彼女は部活をしていない。
「分かりません、学校に居たんですか?」
「六時頃に銀髪の女子生徒を見かけたと言う先生が居たのでぇ〜、気になりましてぇ〜」
「う〜ん、ワタシには判らないですね」
「そうですかぁ〜、どうもありがとうございますぅ〜」
 何か考え考えしている沙耶先生。どうも思慮する姿が似合わないが、口にする気にはなれなかった。
「先生。その一緒に話してた誰かって、誰なんですか?」
「はぃ〜? いやぁ〜、見たのはアインさんだけでぇ〜、誰と話していたかは見ていないそうですぅ〜」
 と言って、沙耶先生はまた出て行ってしまった。どうも生徒名簿を置きに来ただけらしい。
 一人残された美弥乃は彼女の机を見る。
 半分以上の机がまだ出席していないため、そこだけが異常には思えない。
 それでも、気にはなった。
 その机の隣りの席が彼だから。
 嫌な予感は、薄く感じた。


 八時半になり、チャイムが鳴り響く。
 再び沙耶先生が教室に入ったことで、生徒達はわらわらと自分の席に着く。
 なのに、空いている席が三つ。
 一つは檜山皓司の席。もう一つは蓮杖アインと、その隣りの姫宮恭亜。
 至上この教室で一番インパクトのある生徒が三人も居ない。気になるのは美弥乃だけではなかったかもしれない。
 なんせ、昨日の昼休みが始まったときにギスギスした空気だったため、檜山が居ないおかげで多少は平穏だという気配が流れている。支柱を失った檜山の取り巻き連中も、妙に居心地が悪そうにしている。
 教卓の前に立ち、沙耶先生は教室をぐるりと見回してから溜息を小さくついた。
「ん〜、三人もお休みですかぁ〜、しかも三人ともお休みについて一言もなしとは辛いですねぇ〜」
 生徒名簿にペンでチェックをし、ちらと美弥乃に視線を送った。
 美弥乃は気付いて、アイコンタクトの如く首を小さく横に振る。
――何か聞いてますぅ〜?
――いいえ、なんにも。
 今時、教師と生徒の間柄にしては見事な意思の疎通。
 沙耶先生は頷きながらチェックを終え、顔を上げる。
「まぁ〜、三人分の元気を皆さんでリカバリーしてくださいぃ〜、他には特にないのでぇ〜、それでは今日も頑張りましょぉ〜」
 ぱたんと名簿を閉じ、ふんわりスマイルで沙耶先生は朝のショートホームルームを終えた。





 姫宮恭亜は彼女の背を追って商店街を歩いていた。時刻は九時、明らかに学園は始まっている。
「なぁ……授業いいのか?」
「別に出ても寝るんやからえぇよ」
 さらっと蓮杖アインは答える。だがあまり感心できる返答内容ではない。
 恭亜はちらと周りを見た。
 色々な商店が立ち並ぶ、二百メートルはある長い道。
 昨日の雨が嘘のような瑠璃の晴天。じんじんと照りつける太陽を季節的な風流にしようと、限定販売のアイスを売ったり着物の予約を承っていたり、様々な知恵を絞って店同士が戦っている。
 アインとそれを追う恭亜の二人には、とても奇異の視線を向けられている。
 片や蒼白銀のぼさぼさの髪の美少女は他人の目などなんのそので歩き続けている。片や黒髪できりりとした相貌の美男子は他人の目をちらちらと気にして歩き続けている。これを道のど真ん中でやっていれば、そりゃ注目だって引く。
 フリルをあしらった黒いワンピースを着込む可愛らしいアイン。唯一髪の毛で目元が隠れてしまっているのが難点だ。
 恭亜はアインの傍らを歩いて囁くように声をかける。
「蓮杖、これからどこへ行くんだ?」
「さっき言うたやん」
 とだけ短く答える。
 恭亜は苦々しそうに眉根を寄せた。
「いや、知られた以上は手伝ってもらうって言っただけでどこ行くかも……つか授業ブッチすること自体転校生には辛いぞ?」
 む、と小さく唸るアイン。
「べ、別にえぇやん一日くらい。楓鳴帝出身者なら楽勝やろ」
 それを聞いて恭亜は驚いた。
「……聞いてたのか」
「うん、寝てんとこ邪魔されたんや」
 わざと声を低めて言う。ちなみに周りの目には『ど派手髪の美少女が美男子を引き連れて何故かふらふらしながら商店街のど真ん中を歩いている』と映っていると言っても過言ではない。というか、アインがインパクトありすぎるのだ。
 痛い所を指摘された恭亜はうな垂れる。
「あれは悪かったって。俺だって被害者なんだから」
「容疑が誰かを考える人間はいつか失敗したとき一番やましぃ思われる。ほんまは誰が被害者かなんてどぉでもえぇんやろ?」
「……っ」
 さらに指摘されて、言葉が出なくなる。
 実際は彼女の言っている通りだ。犯人がどうかなんて大した確認ではない、大事なのは自分がどれだけ被害を最小限に出来るかだ。だから恭亜はあの時、アインへ標的を変えた檜山を止めるために殴った。
「それよかしっかり尾いてきて、調べもんに警察の知恵は一番はかどんねん」
「なんだって……?」
「そろそろ言うてもえぇかな。実はな、廃屋街の外れの辺りで変死体が出たんや」
 なん、と恭亜の呼吸が止まる。
 妖精のような顔立ちで、冷静に出てくる言葉がいつも日常離れしていて恭亜には追いつくのが大変だ。
 人前なので、さすがの恭亜ももっと囁くように小声で訊く。
「それと俺達とどういう関係があるんだ……?」
「……、ウチはアンタとは別の次元の仕事しとる人間や、『俺達』て一緒にせんといて」冷たく返答してから息をつくアイン。「普通の変死体なら別にどぉでもよかったんやけどね、どうもその死体の殺され方が異常らしいんや」
「異常……どういうことだ?」
「細かくはハイネから聞かへんかったから、現場見て調べよ思て」
「ハイネ……?」
 判らない単語が多すぎて、首を傾げる恭亜。アインはじとっとした視線を一瞬送ってから、ぽつりと答えた。
「ウチの所属しとる組織のリーダーや、武装式ABYSS討滅組織、《ツクヨミ》。ABYSSを深淵に還し、闇を知らへんモンをABYSSから護るんがウチらの仕事や」
「へぇ……警察みたいなものか」
「有り体に言えばな。実際は意地の張り合いで生まれた組織や」
「……意地? 他にも誰か居るのか?」
 アインは頷く。
「月詠、言うほどなんやから対極しとる組織もあって不思議やないやろ。組織《アマテラス》、最低最悪の組織や。ABYSSどころか人すら、邪魔や思ぉたらなんの躊躇もなしに排除するゴテゴテの武力組織」
 それを聞いて、恭亜は触れちゃいけない部分を訊いたとばつが悪そうに顔を逸らした。
「悪い、何も知らないで」
「……えぇよ、そっちの領域におるモンに、こっちの痛みが伝わる思ぉてへんから」
 どこか虚ろに小さく呟いて答えるアイン。
 少し歩いて、アインが沈黙を破った。
「《ツクヨミ》と《アマテラス》の抗争は、ウチが生まれるずっと昔からあったそうや。その度に互いに殺し合いまでして、自分らのほうが強い思わせなやってけへんような組織やったらしい、リーダーを代替わりしたハイネが言うてた」
「そんな……だって《ツクヨミ》も《アマテラス》ってのも」
「そや、元はABYSSを討滅するために創られた組織。なのに実際はドロドロの対立戦闘の嵐や、反吐が出るやろ?」
 本当に反吐が出るとでも言いたげに、疲れたような溜息を漏らして苦笑するアイン。
 重くのしかかる沈黙に、恭亜はその言葉を言えなかった。

『なら、誰かが死ぬような戦場にお前は居るのか?』


 雨雲の夜とは真逆の快晴の空。廃屋街というゴーストタウンもだいぶ見違える。
 郊外寄りに歩いていた二人は、そこで人だかりを見つけた。
 といっても、野次馬の類は全く無い。
 なんせ、人が寄り付かない場所での変死体だ。誰だって興味本位で見に来る気分にはなれないだろう。
 テープで囲われた現場を行き来する大人達。鑑識らしき制服を着た男性が恭亜達を見てぎょっとする。
「なんだ君たちはっ……ここは危ない場所だから帰った帰った!」
 手でしっしっと払い除ける男性に、恭亜は近づいて声をかける。
「刑事さん居ません? 確かここの管轄は権藤さんだったかな」
 それを聞いて男性は目を見開く。
「姫宮の名前を言えば飛んでくると思います、ちょっとお願いできませんか?」
 と言って軽く頭を下げる恭亜に、不審ながらもその場を離れる男性。
 後ろからアインが耳打ちする。
(なんで管轄の名前まで知っとんの?)
(これでも最高管理職の息子ですから、そうでなくたって警察じゃ姫宮の名前は政治家よりも有名なんだ)
(……もしかしてアンタん家って警察一家?)
(父方のほうは皆ね、といっても俺は殺されたって警察には入らないけど)
 すると小声で会話している二人に、一人の中年男性が小走りで来た。背は低いががっちりした体格で、灰のコートが良く似合う。
 だがその表情はひどく狼狽していた。
 なんたって警視総監、警察という会社で言えば社長に当たる人間の息子だ。慌てて来たのだろう。
「あんたが姫宮さん……っ?」
「ああ、姫宮靖一郎の従兄弟です」
 アインが小首を傾げて近づく。
(息子言えば楽ちゃうん?)
(止してくれ、あんな奴の息子だなんて広める気になれない。それに息子って言ったほうが怪しまれるんだ)
(……は?)
 思わず怪訝な顔をしたアインを残し、恭亜は向き直る。
「ちょっと気になることがあって、俺の居る学園の生徒の可能性があるんだ」
 もちろん、嘘だ。恭亜としても自分の学園の人間を嘘の犠牲にするのは心苦しい。
 中年は少し苦々しそうに唸ってから、やがて口を開く。
「しかし……いくら従兄弟と言っても……」
 渋る中年。恭亜は念を押すように声をひそめて囁く。
「お願いしますよ。友達が危ない目に遭うなんて、俺耐えられないんです……」
「……、」
 喉まで出掛かっているらしく、「ん〜」と唸りながらまだ言わない中年。
 そこで恭亜は少し演技を過剰にした。
「もしかして、本当に友達が殺されたんじゃ……!」
「ばっ! そ、それは違う違う!」
 周りに居た鑑識の人がこっちを向いたのに驚いて、中年は慌てる。
「分かった分かったっ……少しだけなら」
 と言う返答。恭亜は腰元に回した手でグッドサインを作る。
 それを見たアインは、目を細めた。案外性格悪いな、という視線だった。
「で、何が訊きたいんだ?」
「それなんですが……」
 ちらと視線を送るとアインが前へ出た。
「訊きたいのは二つだけ。殺された細かな場所と時間、もう一つがどうやって殺されたか」
 いきなり知らない人間に訊かれて、中年は戸惑った。視線に気付いて、恭亜は苦笑気味に答えた。
「こっちは……そう、俺の彼女です」
 という発言に一番アインが驚いた。何か言いたげだったが、恭亜は遮る。
「彼女のご家族も官僚の方だそうで、俺よりも彼女のほうが気になるそうで」
「あ……ああ、そうか」
 不承不承といった風に中年は答えた。恐らく、姫宮に名を売って出世を狙ったのだが思わぬ肩透かしを受けたのだろう。
「なんだっけ、場所と時間? 場所はまさにここだよ、遺体があまりにも酷いんで少し広めに捜査域を張ってはいるが、ここと思ってくれていい。死亡推定時刻は晩の一時過ぎ」
 恭亜はちらとアインを見る。こく、とアインの首が気付かれないように小さく頷かれる。
「死因は?」
「う〜ん、これは言っていいことかどうか判らないんだが……かなり酷いものなんだ。それこそやった奴の思惑が解らん」
「さっき遺体が酷いって言ってましたけど、どのぐらい酷いんですか?」
 それを訊かれ、中年は言い難そうに溜息混じりに頷く。
「……実はな、身元が判らないだけならまだしも、もはや性別も、どんな手法で殺したのか判らない殺され方をされとるんだ」
「手法が判らない?」
 恭亜は怪訝な顔をする。
 人間の死因を見分けできる人間として、医者の次に知っている警察からそれを口にされるとは思ってなかったからだ。
 どういうことかと追及すると、アインがまた訊いたのが不服そうに続ける。
「それがな、死因は刃物で合ってると思うんだが……全身をズタズタにされとるんだ」
「それが手法では?」
 はぁ、と中年は深い溜息をついて答えた。
「文字通りなんだよ。寸分違わず切り刻んで、どっちが正面を向いているか判らないほど隈なく切られてるんだ」
 二人の呼吸が止まった。
 当然のような二人の沈黙に、中年は疲れた顔を歪める。
「鑑識がもう三人も吐いてるよ。人の形をした、全身ピンクの肉の塊。はっきり言おう、殺ったのは相当のサイコだな」
「他におかしぃ思たことはないん? 出血が普通やないとか、血痕とは別の位置に死体があったりとか」
「……!」
 途端に中年の顔がアインを向く。
 周りを見回してから声を余計にひそめた。
「あんた官僚の子と言ってたな? なんで判った?」
「質問に答えて。絶命までのタイムラグの間に、被害者が暴れたりしたんやろ?」
 中年は絶句する。
 恭亜は少し身を引いて聞き入る。
「……ああ、そうだ」すると中年はアインに興味を抱いたのかすんなりと答え始めた。「全身をズタズタにされた以上、出血は酷いものだった。だが、被害者はその十メートルは離れたところにあった。移動させるとき見つかって、捨てたのかもしれん」
「……」
 ちらとアインは一瞥。さっき決めた、『あれ言って』というサインだ。
 恭亜は前へ出る。
「それで権藤さん、遺体は友達じゃないんですか? 身長は判りませんか?」
 中年は少し逡巡したが、さすがに恭亜に訊かれた以上は答えた。
「身長は一七〇センチぐらいだったはずだ」
 恭亜は、演技で安堵したようにほっとする。
「良かった、友達は俺より低い……すみませんでした」
 恭亜とアインは振り返る。
 中年は呼び止める。
「ちょ、ちょっと待った!」
「はい、なんでしょう?」
「あ、いや……」
 打って変わって静かに返事をする恭亜に、中年はうろたえて口ごもる。金の成る木を失う状態とはまさにこのことだ。
 だが恭亜は努めて穏やかに突き放した。
「友達じゃないなら結構です。急いでクラスの先生に教えたいので、これで」
 さっさと行ってしまう背中に、狐につままれたような顔で中年は立ち尽くす。
 抜け目が無い。
 そう思ったアインはその背と中年とを見比べて、あえて無言で立ち去った。
 反射で中年は手を伸ばす。
 キープアウトのテープが、それを遮るようにしてその合間に張られていた。





 2


 廃屋街郊外から離れたところにあるビルとビルの境。ぽっかりと拓けた空き地に二人は居た。
「で、あれがABYSSの仕業だとでも?」
 周りに聴かれないようにしたいと彼女が言ったので、人目を一度確認してから口を開いた。
 アインは気配で判るのか、あまり視線を変えずに答える。夜に狩り昼に寝るという夜型生活を送っているアインにとって、今眠れないのは辛いのかもしれない、今日は昨日以上に眠たげに目を擦っている。
 とは言っても、夜通しなのは恭亜も同じだ。まさか着替えてすぐに尾いてきてと言われるとは思わなかった。
「何も非日常はABYSSだけとは限らへんよ、アンタから見ればウチかて異常やろ?」
 その言い草に、恭亜は少しムッとする。
「そんな言い方すんなよ。それに、俺には恭亜という名前があるんだ、あんたあんたってやめてくれないか」
「いきなし下で呼ばせんの?」
「苗字で言われるのは好きじゃないんだ」
 すると、どこかジトッとした目つきにするアイン。この半日ほどで、徐々に彼女の目つきの変化ぐらいは気付けるようになった。
「……彼女には言わせとるくせに」
「彼女?」
「あの、おさげん子」
 おさげ、と言われて恭亜には一人しか思いつかない。
「鵜方のことか?」
「……」
 アインは無言で肯定と頷く。
 それが意図する嫌味に、恭亜は思わず肩を竦めて溜息を漏らした。
「鵜方には俺の生い立ちは知らせていない。知ってるのは先生とお前と檜山の連中だけだ」
「……、アンタかてウチのこと『お前』て言うてるやん」
「じゃあアイン」
「よぉ知らへんもんに気安く下で言われとぉない」
「なんなんだよお前は。てか苗字でならなんども呼んでるし」
「いつっ……?」
「檜山に絡まれたときも呼んだしお前に銃突きつけられたときも呼んだ!」
「そんなん知らへん!」
「前者んときはいつのまにか消えて、後者は絶対にお前が聞き逃しただけだろ!?」
「またお前言うた!!」
「逐一名前で呼んだほうが疲れるだろ!!」
 いつのまにか不毛な口喧嘩になり始めてきた、両者譲らず言い合う。だんだん疲れてきたのか、肩で息をして見つめ合う。
「はぁ……はぁ……はぁ……で、なんだっけ……ABYSSじゃないって、じゃあ一体誰がやったんだ?」
「ふぅ……ふぅ……ふぅ……非日常に生きとるウチらオーラム・チルドレンにだって、あないな殺し方は出来るゆぅことや」
 いくらか落ち着いた恭亜が怪訝な顔をした。
 アインも、少し頬を紅潮させながらも答える。
「オーラム・チルドレンは世界と契約することで存在意義を決定される。変わりに、契約の証として特殊な能力を持つ物体、神器を授かるんや」
「それがどういう……?」
「つまり、人間が絶命する前に全身をズタズタにできる能力者が居るかもしれへん言うこと」
「例えば?」
「……さっきから訊いてばっかやな」目を細めてアインは愚痴を零す。「例えば、死ぬ前に全身を同時に切り刻むとか」
 恭亜はぎょっとした。
 一撃で全身を切り刻むなんて、常人にはできない。なるほど確かに、それなら血溜まりと遺体の場所が違うことが頷ける。
 だがそれでは恭亜としては納得がいかない。
「だけど、オーラム・チルドレンの敵はABYSSだろ?」
 アインは首を横に振る。
「考えてもみぃ、今時の日本の不良に政治が解るか? それと同じや。契約能力ゆう凶器を持っとる奴が、いつどこに現れるか判らへんABYSSのためだけに使う思わへんやろ。ちょうど、あの不良がアンタにナイフ使ぉたみたいに」
 檜山のことを言っているのだろう。
「人間っちゅうのはアンタが思とるよりも欲が深い、単にその欲をどれだけ前頭葉が抑えとるかいう話や。ちなみに前補足、オーラム・チルドレンゆうのは他の既存する契約能力に接触せぇへん限り生まれへん」
「それって……」
「尋常じゃない力を手に入れた。教えた本人≠ェ武闘派。教わったのが元々暴力的だった。それらが意味する答えは?」
「……一つだけ、質問」
「どうぞ」
 頭がキレる人間なら必ずするであろう詰問に、少し満足気にアインは促す。
「契約ってのは……どういうことをすればいいんだ?」
 予想通りの質問に、それを待っていたアインは答える。
「契約するには条件が二つ。一つはオーラム・チルドレンとしての適正を生まれ持っているか。もう一つは他のオーラム・チルドレンの能力に影響を受けたり傷を付けられたりして、能力あるいは特殊な武器に接触すること。あとの必要なことは契約する世界の真意を知ることやな」
「知るって、どういう?」
「それは人それぞれ。感情、出生、因果……未来も過去もひっくるめて、その人間が己の存在を形容できる何かが世界になる。その『自分だけの世界』と同一存在になることが契約。故に、オーラム・チルドレン(世界を名乗る者)」
「じゃあ、それになった誰かが殺人を?」
 アインは少し饒舌になった自分に気付き、自粛するように大人しく頷く。
 つまり、契約した世界が危険なものだとしたら、手にした凶器で人を試しに殺そうとする人間が出来上がるという寸法だ。
 確かにそれは危険だ。
 しかも、周りの人間にオーラム・チルドレンやABYSSの存在を知られるわけにいかないときた。迂闊に野放しにしていたら、取り返しのつかない事態になることは恭亜にも容易に想像がついた。
 そこでふと、恭亜は不審めいた疑念が生まれた。
 それが自分となんの関係があるのか。教えてもらうまで知らなかった恭亜に、どうして話したのか。
 何気無くそれについて訊いてみたが、アインは呆れたように溜息を漏らした。
「言うとくけど、単にバラされるぐらいならマークしとこ思ただけや。アンタなんか《ツクヨミ》の仲間に入れる気ぃは無い」
 恭亜は、その冷たい物言いに苦笑を浮かべた。
「そうか……」
「……」なんとなくその苦笑が気に入らなかったのか、アインは口を開く。「せやけど、アンタにも適正が有るみたいやけどな」
「え?」
「普通、適正者なんて見分けることなんて出来へん。せやけど稀におんねん、生まれた時から異常なほど適正バンバンの奴」
「適正、バンバン……?」
 比喩表現が良く判らない恭亜を上から下まで見回してから、アインは答える。
「アンタも適正しとるんや。それも近づいただけでこっち側≠フ匂いぷんぷんにしとるのが判るほどに」
 恭亜は、言葉を失った。
 それが何を意味するかを理解して、ふっと吹き出す。
「冗談、だろ? 俺がオーラム・チルドレンとかいうのに、なるかもしれないってのか?」
「それはアンタ次第や。自分だけの世界を信じれば信じるほど、その世界はアンタと共鳴しようとする。つまりアンタが自分にある不可思議を拒絶あるいは否定さえすれば、絶対にオーラム・チルドレンにはならへん」
「……つまり、もし認めたら」
 アインは率直に答える。
「オーラム・チルドレンと接触した状態で認めれば、契約完了」
 それを耳にした瞬間、恭亜は足元が抜けるような感覚に襲われた。
 自分の手を見つめ、呟く。
「俺に……あんな力が?」
 見るのもおぞましいといった視線。この手に、あんな危険な非日常が宿っているかもしれないと思うと、ぞっとして仕方が無い。
 だがその反応をアインは快く思わなかった。
「世界の真意を知らへん内は成らへんよ。それに、オーラム・チルドレンになることがそんな嫌なん?」
 恭亜は弾かれたように視線を上げる。
 この子は、何を言っているのだろう。
「よせ、よ……そんなモノになることがなんで恐くないんだよ!?」
 だがアインは不思議そうに首を傾げる。
「人に無い力が手に入るんやで? 別にデメリットがあるわけでもないんやし、少なくとも失うモンは無いやんか」
「……っ」
 恭亜は絶句する。さも当たり前のように返答するアインが、また恐くなった。
 非日常を得るということは、彼が今まで生きてきた日常を捨てるということだ。
 メリットデメリットの問題ではない。そんな自分の生きた証を捨ててまで、化け物じみた力が欲しくなるわけがない。
 唇を噛み締めて、恭亜は視線を向ける。
「……………だとしても、俺にはオーラム・チルドレンにはならない。なりたくないっ」
「……」その返事に何か言いたげだったアインは、小さく息をついた。「別にえぇよ。アンタが契約しようがせぇへんやろうが、とりわけウチには関係ない。問題は今ウロついとるのがABYSSか、新生したオーラム・チルドレンかゆう問題や」
 少し不機嫌になったような気がするアインは、本題へと戻す。
「アンタには調べてほしいことがあるんや。ウチの学園の中で今日休みになっとる奴を明日調べてもらいたいねん」
「休みになった?」
「変死体が出たのは夜明け前。恐らく能力が馴染むように使ぉたみたいやから、今日は来れへんはずや」
「なんで?」
「……ほんまにさっきから訊いてばっかやな。人ひとり身元判らへんぐらいにズタズタにしたら、返り血浴びるやん」
 指摘されて、恭亜は納得したように頷く。
「でもま、まさかウチの学園に居るとは思えへんけどな。一応や」
「お前は?」
「ウチはABYSSかどうかをも少し調べる。アンタは何もない風に学園行って調べて、警察の血筋ここで使いぃな」
 アインにそう言われて、恭亜はかーっと頭に血が昇るのを感じた。
「だから俺と警察がどうのは関係――!!」
「別にどっちでもえぇ。バラされるかも知れへん奴ほぉっとけない思とんねん、アンタの素性まで知る気は無い」
 冷たく突き放され、恭亜は何も言えなくなる。
 アインはそれを一瞥してからさっさと振り返った。
「ほな、オーラム・チルドレンのほうは頼んだから。言うとくけど、バラしたら問答無用で殺すで」
 そう言葉を残して、アインは路地裏を歩いていってしまった。
 恭亜は誰も居なくなった空き地に一人残る。
 不意に、カラカラと空き缶が転がっているのが目に入った。
 それをじっと見ていた恭亜は、歯を食いしばって思い切り空き缶を蹴った。
 かこん、と乾いた音と共にビルの壁に空き缶が当たって地に転がる。
 恭亜は苦虫を噛み砕いたような顔をして、ぽつりと呟いた。
「嘘だろ……俺が……普通じゃない?」
 オーラム・チルドレンという、非日常の人間。
「俺が……」
 畏怖した世界に存在するモノ。
 恭亜はただ嘘だと呟くことしかできなかった。
 自分が化け物だということを理解した瞬間、恭亜の黒髪がビル風になびく。
 この時、恭亜は気付いていなかった。
 その黒髪から、はためくシャツから、ズボンから全身に至るまで、
 黒い、花びらのようなものが散って虚空に消えたことを。





 姫宮恭亜と別れたあと、アインは誰も周りに居ないことを気配で確認してから携帯を取り出した。
 いつも思う。このケイタイというモノは扱い難くてしょうがない。
 気を抜くとなんの前触れもなく着信音が鳴るのが一番嫌だ、思わずびっくりしてしまう。
 こっちから掛けるのも苦手だ。まなー≠竍めも録≠ネんてよく判らない。そもそもメールにしたってEメールだとかFメールとか、なんで区別しているのかさえアインには理らない。とりあえず報告が楽だという思考だけが浮かぶ。
 拙い動きでボタンを押して、着信履歴のほうから通話を掛ける。番号登録のやりかたが分からないのだ。
 トゥルルルルル、とコール音が耳元で鳴る。日陰とはいえ外は暑い、できれば早く出て欲しい。
 すると、ブツ、という音のあとに聞き慣れた声が返ってくる。
『アインか、状況は?』
 男の野太い声。アインにとって親のような存在の言葉に、少し安堵しながら口を開く。
「ハイネの思とる通りやった。多分、変死体作ったのはABYSSかオーラム・チルドレンや」
 答えると、男の疲れたようなくぐもった溜息が聴こえる。
『やはりか……できれば前者であってほしいものだが、遺体には悪いことをした』
「……」
 無言で頷くアイン。彼女は電話越しに頷いたって伝わるわけがないことは解っていない。
『しかし後者だと何かと面倒だな。やはり誰か寄越そうか? 確かプリシラが暇をしていたはずだが……』
 アインとしてはあまり来て欲しくない名前が出たので、酸っぱそうな顔をして断る。
「えぇよ、定刻通りにマーシャを寄越してくれるだけでかまへん。まさかウチが成り立てのオーラム・チルドレンに負けるわけあらへんし、ABYSSやったとしても大した数やないはずや。捜査も人手が一人増えとるし」
『増えてる?』
 怪訝そうな声を出す男。
「昨日の夜に言うてた奴や。むっちゃこっち側≠フ気配匂わしとる異常な適正者」
『あぁ、昨日思いっきり銃を突きつけてしまったと言っていた……』
「……それはもう忘れて」仲間内に言われると恥ずかしいアインは口ごもる。「なんしか、オーラム・チルドレンのほうはアレに捜させとるやさかい、ウチはABYSSがまた出てきてんとちゃうか調べてみる」
『それはいいんだが……』
「……、なに?」
 訊き返されて、男は少し意外そうに答える。
『いや、お前が見も知らない人間を当てにするとは珍しいなと思ってな。何かあったのか?』
「……は?」
 突然に何を言い出すのかと、アインは突拍子もない声を出した。
『お前、興味にないことは忘れるじゃないか。昨日からその男子生徒のことばかり話しているぞ?』
「そ、そんっ……!?」
 アインは紅潮させて驚く。
 何を勘違いされてるのかと混乱しだすアインは語調を強めて否定する。
「そんなわけないやろ!? 広められたら困るからマークするついでに手伝ぉとるだけやてっ!」
『別に深い意味では訊いてないんだが』
「……っ、あ、う……っ!」
 口をぱくぱくさせながら言葉を選び損じるアインに男は苦笑する。
『まあとにかく無理はするな。《アマテラス》が関与しているとは思わないが、早い内に潰すに越したことはない』
「……わかった」
 言いたいことはまだあったが、アインは少し冷静に戻って頷く。
『ああ、ちょっと待ってくれ』
 携帯を切ろうと離したとき、男の声が掛かって耳元に戻す。
「なに?」
『いや、その彼の名前だけでも訊いておこうと思ってな』
 アインはムッとする。
「なんでまた……」
『念のためだ、それとも駄目な理由でもあるのか?』
 そう言われてぐうの音も出ないアインは、不承不承に答える。
「姫宮……恭亜、や」
『姫宮恭亜……そうか、分かった。じゃあ、気をつけるんだぞ?』
 そしてアインは早めに通話を切る。
 黒一色の、色気の無い携帯を凝視しながら、アインは沈黙する。
 あんな男のことを気にしている?
 本当に、ふざけた話だ。自分が他人を信用するわけがない。ちょっと顔がいいからって、変に算段働かせるような奴に。
 前髪に隠れた双眸で、携帯を睨みつけるアイン。別に携帯を睨みつけたところで意味はないのだが。
 せめてものつもりで、ワンピースのポケットに力任せに携帯を突っ込んで歩き出す。
 路地を通り抜けた先は、商店街だった。さっきと変わらず快晴が織り成す熱気でコンクリートの焼けた道。
 アインは一人歩く。といっても学園の方向ではなく、廃屋街のほうへ行く。
 アサルトブーツを踏み鳴らし、季節を先取りするイベントを取り揃えた店など視界にも入れずに歩き続ける。
 ふと、声が掛けられる。
「ねぇキミキミ、そこの銀髪のカワイ子ちゃん」
 アインは反射で振り返った。今日び日本で銀髪が流行っているわけではない、彼女を個人として知らない人間にはどうしてもこの蒼白銀の髪が目立つせいで、主に外見で呼び止められることが多いのだ。
 振り返ったそこには、三人の背の高い男子が居た。全員一緒とでも言いたげに、茶染めで髪質を殺し下手な服装にシルバーアクセサリを無駄にじゃらじゃら着け、三人揃って口元がニヤニヤしている。
 アインが思うのもおかしいが、今はもうすぐ昼になる。当然、彼らも不良というやつだろう。
 全員アインより頭一つ分大きい。単にアインが小さいというのもあるが。
 一人の男子が口を開く。お世辞にも、ガムを噛みながら話しかけるのは汚いと思う。
「ねぇね、彼女。一人で何してんの? 暇してんだったら俺らと遊ばね?」
 嫌に鼻に突く声。
 さっきの電話の仲間内や、それこそあの異常適正者のほうが遙かにマシと言える。
 男複数に女一人という状態が行き着く先を分かっていないアインは、さもつまらなそうに振り返って歩き出す。
「ちょ、ちょっとちょっと! 無視はないんじゃないのぉ〜? ガッコ行ってないんでしょ? 楽しまなきゃ〜」
 上玉を逃しやしないと、男子がアインのか細い腕を取る。
 アインはこれでも穏便を極力選ぶ。だがアインの場合、嫌悪に変わるのはすぐだ。
「触んな、遊んどる暇ないねん」
 掴んでいる手を、腕を振って払う。
 払われた男子はその手を見てから、すっと表情を変えた。
「……おい待てよテメェ、カワイイと思っていい気になってりゃ調子乗りやがって――」
 男子は力任せにアインの肩を掴もうと腕を伸ばした。
 だが、彼の手がアインの肩に触れることはなかった。
 ぐおん! と一気に男子の視界が回転し流れる。
 次の瞬間、男子は顔からコンクリートの地面に叩きつけられた。それこそ、自分の体重が総て顔面に集中する。
 ぐしゃ、という生々しい音が辺りに響きその場に居る全員が見た。
 地面に対し、垂直に顔を埋めて下半身をだらりと投げ打つ奇妙な格好。
 その傍らで何か武術というにはぎこちない、明らかに無理矢理掴んで投げただけという体勢のアインが残る二人を睨みつける。
 まるで蛇に睨まれた蛙のように、二人は引き攣った表情で固まる。
 それを見たアインは、ワンピースのスカートを掃ってから踵を返した。
 誰しもが注目する中、アインはそれらの些事を忘れてまた思考に耽る。
 思い出すのは、一人の青年。
(……そんな訳ない)
 今だって思う、あの不思議な青年。
 生まれつき適正を持ってるくせに、それを拒絶する人間。
(ウチは、そんな訳ない……)
 本当なら意気地がないと蔑むはずなのに、
 ただの宝の持ち腐れだと罵るはずなのに、
(そんな訳……あるはずないんや)
 どうしてだろう。
 羨ましいだなんて思ったのは――、
「……」
 徐々に、現場から離れることでさっきと変わらない風景に戻る。
 アインは商店街を歩き、一人廃屋街へと赴いた。





 3


 昼休み。紫耀学園五階、教室は弁当や食堂での食事を終えて、生徒達は皆五時限目の準備をしていた。
 恭亜は出来得る限りに目立たないように後ろから入った。
 さして影が薄いというわけではないが、恭亜はその他大勢という空間に溶け込むのが巧い。これも哀しい刑事の素質だ。
 だが、さらに哀しいかな、探偵の素質が有る人間が一人居た。
「あれ、姫宮君?」
 美弥乃だ。彼女の声によって、みんな初めて恭亜の存在に気付く。
「どうしたの? 具合でも悪くした?」
 心配する美弥乃に、恭亜は苦笑して受け流した。
「いや、ちょっとね。でも大丈夫、長めに寝たら大分回復したよ」
 美弥乃はまだ納得と疑念とがない交ぜになった表情で、曖昧に頷いた。
「そう……来たばっかで疲れてるんだから気をつけてね」
 うん、と頷いて恭亜はふと気付いた。
 美弥乃以上に印象のある人間が居ない。
「檜山、来てないのか……」
「え、……うん、そうみたい」
 ほっと息をつく恭亜。
 新生したオーラム・チルドレンがこの学園に居ないかを捜すという役目があるとはいえ、やはり檜山の怨恨の矛先が美弥乃に向くのだけは恭亜にとって些事とは言えない。なんにせよ、無事ならそれに越さないだろう。
 恭亜は無言で教室を見回す。
 今、教室に居ないのは檜山とアイン。
 とはいえ学園全体の休みがこの二人だけではない。学園の休んでいる全員を知るには、恭亜一人では大変だ。
 だが、手はある。一人だけ、最も関係が無いはずなのに昨日の喧嘩のことを知っていた人物。
「なぁ鵜方、生徒会長ってどこに居るか分かるか?」
 話を振られた美弥乃は少し頬を染めて肩を竦めながら視線を寄越す。
「えっ? せ、生徒会長? う〜ん、あの人神出鬼没だからね……三年の教室か生徒会室か、あるいは寮に居るか」
 なるほど、かなり面倒だ。
 でもここで諦めるわけにはいかない。こっちは本気で銃を撃ってくる人間に手伝えと言われているのだ。
 深く考えている恭亜を怪訝そうに眺めて、美弥乃は訊く。
「どうしたの? 先輩に何か用があるなら、ワタシが言っておこうか?」
「いや、大丈夫だ。ちょっと気になることがあったから訊いただけだ」
 いくらか話をしている内に、予鈴が鳴る。
「あ、そういえば……姫宮君は次の、どっち選択にしたの?」
 次の授業は理科選択。科学と生物を選択で分けられるのだが、恭亜はそれを前もって言われていて、既に決めていた。
「俺は生物を選択したよ。科学は後々から物理的な数式演算とか面倒なルートに行くからな」
 すると、美弥乃の表情が綻ぶ。
「生物っ? うわぁ、ワタシもそうなの! 一緒だね♪」
 さも嬉しそうに言う美弥乃。八重歯がきっと覗くのが可愛らしい。
 思わず恭亜も微笑で答える。
 考えてみれば美弥乃だけだ。檜山に目を付けられた人間として恭亜は実際には疎遠されかけている。それでも美弥乃は友達として接してくれているのが、恭亜は素直に嬉しい。
 思い出すように恭亜は美弥乃に声をかける。
「ところで、俺のこと苗字で言うと堅苦しいイメージにならないか? 気安く下で呼んでくれていいぞ」
 きょとんとし、すぐさま美弥乃はおずおずと訊き返す。
「い、いいの……?」
 その、頬を染めた上目遣いに含まれる感情に気付かない恭亜は普通に答える。
「当たり前だろ、友達なんだし」
「ともだち……」一瞬、何か哀しげとも言える表情をしたが、すぐに破顔する。「そっか。うん、じゃあ……恭亜、君」
「ああ」
 すると、なんだか照れくさそうに美弥乃も言う。
「だったら、ワタシも美弥乃でいいよ。他人行儀だし、ね」
「分かった。美弥乃、これからもよろしく」
「……、うん」
 はにかんで頷く美弥乃。
 それを見て恭亜は何度も思う。素直な子だ、こんな子を檜山の怒りに関わらせるわけにはいなかい、と。
 生物の授業は特殊棟の実験室だそうだ。
 恭亜は美弥乃に案内がてら、教科書を持って教室を出た。





 六時限目が終わり、恭亜は席を立つ。
 結局、稲城雪嬰の居る教室を訪れたが、生徒会長は今日は居ないと言われてしまった。
 何気無く欠席者を訊いてみると、すんなりと答えてくれた。なんで知っているのか疑問に思ったら、なんと副会長だという。
 長身で短髪の人懐っこそうな先輩だった。彼が言うには三年は全学年で十三人休みだったが、全員寮生だったのですぐに確認が取れたらしい。普通は教えないらしいが、姫宮と名乗ったらすぐに教えてくれた。
 曰く、生徒会長に気に入られると色々な事がフリーパス状態になるそうだ。
 念のため二年も確認したが、確証はないと言われて謝られた。
 恭亜は思い出す。確か生徒会は学年別で負担しているために、三年が後輩クラスの活動内容はある程度不明瞭らしい。
 かといって二年に姫宮と名乗っても多分無理だと言われた。二年の生徒会員ですら、会長を知っているのは極稀だそうだ。
 正直思う、面倒なシステムだ。
 恭亜は副会長と別れ、教室に戻る。
 教室では掃除当番だった美弥乃が何人かの生徒達と談笑していた。
 すると、恭亜の姿を見かけて微笑む。
「会長に逢えた?」
「残念ながら」
「そ。じゃあワタシも逢えたら伝えておくね」
「ああ、助かる」
 すると、美弥乃がくすりと笑って女子を見る。
 恭亜が怪訝な顔をしていると、三人の女子生徒が気まずそうに頭を下げた。
「「「御免なさい、姫宮君……!」」」
 狙ったようなハミングに、恭亜は少し驚きながら美弥乃を見た。
「え、っと……美弥乃?」
「実はね、今まで恭亜君のこと話してたんだ。それでこの子達が謝りたいって」
 頭を下げていた一人の、黒髪の少女が申し訳なさそうに言う。
「知ってると思うけど、檜山って結構悪でさ。あたし達まで目に付けられないように見て見ぬ振りしてたんだ」
「それでそれで、昨日のことを美弥乃に話してもらって、もうこれは無視できないって思っちゃって」
「本当に、今まで何も言えずにごめんなさい……」
 再び三人揃って頭を下げる女子生徒。
 恭亜はうろたえつつも、手を振る。
「いやいやいやっ……いいってそんなん、別に気にしてないし。第一判断は間違っちゃいなかったと思うぞ? 檜山はナイフまで使ってきたからな、お前らにまで何するか判らない状態なんだ」
 女子の視線が美弥乃に向く。美弥乃は苦笑した。
「うん。ワタシと蓮杖さんが恭亜君に只今絶賛護衛中〜♪」
「だからお前らが気にすることじゃない。気持ちだけでも充分だ」
 黒髪の少女はふっと笑う。
「いや……そう言ってもらえて助かる、ありがとう」
 二人の間で微笑みの柔らかい空気が流れる。
 教卓の上に腰掛けていた美弥乃が、すとんと降りてはにかんだ。
「ね、言ったでしょ? 恭亜君、ほんといい人だって」
 と言って、恭亜の腕にしがみ付く。
 右腕に、男にはない独特な柔らかな感触。恭亜は思わず赤面する。
「お、おい美弥乃っ……!」
 それを見ている女子の一人が、ぽつりと呟く。
「そういえば……美弥乃って、なんだか姫宮君と仲いいよね」
「え……」
 硬直したのは言うまでもない、恭亜だ。
 あらぬ誤解を察知した恭亜は驚きながら首を横に振る。
「ち、ちが――」
「えっへへ〜。じ・つ・は、ワタシ達付き合ってるんだぁ〜♪」
 ごぶっ!? と、美弥乃の悪戯気味の爆弾発言に恭亜の顔が引き攣る。
 それを深く解ってくれない女子生徒達が顔を赤らめて笑う。
「うそ……美弥乃、まぁまぁかわいいとは思ってたけど……出逢って一日で付き合えるもんなの?」
「ドラマみたいだねぇ〜♪ ねぇねぇ、それ小説のネタに貰っちゃってい〜い?」
「明海、なんでもかんでもネタの題材にしないであげなさい……」
 なんだか凄い方向へ飛躍しだす話題に、恭亜は美弥乃を引き剥がしつつ否定する。
「違うっつーの! 俺と美弥乃はただの友達なだけで!」
「出逢って一日足らずの女子生徒を名指しでっか?」
 背の低い栗毛の女生徒がにんまりと笑いながら封殺の一言。
 どうすればいいんですか? という思考が恭亜の中で生まれる。
 というか面食いとか言われても自覚のない恭亜にとって、どう処理したらいいか判らない。
 慌てふためいていると、後ろから声が掛かった。
「……なにしとんの?」
 全員が振り向くと、そこにはアインが立っていた。
 寮生といえど学園内での私服は厳禁である。彼女もそれを理解しているのか、律儀に制服に着替えている。シャツと純白のスカートに加え、髪も肌も白いためにリノリウムの床に立つ白い物体と映ってしまう。
 せめて首まで伸びたその髪を無造作に生やさなければ、その妖精のような顔立ちを隠さずに済むと思うのだ。
 だが、白銀髪に隠れた視線はどこか怒っているように細められている。
「……なに、しとんの?」
 再び強調して言うアインに、恭亜は我に返る。
 そうだ。アインに頼まれて、今は本当に大事な用があったのだ。
 恭亜とは違い、放つオーラのせいで仲良くなれないのだろう女性陣は沈黙している。
 それを見ていた恭亜は、美弥乃を中心に苦笑しながら声をかける。
「美弥乃、悪い……俺はこれで」
「あ、うん……」
 恭亜はすまなさそうに笑いながら自分の席に掛けてあるバックを取って、教室を後にする。
 アインはほんの一瞬美弥乃達を見るが、すぐに恭亜を追った。


 姫宮恭亜が蓮杖アインに連れられて教室を出てゆくのを見送った美弥乃は、黒髪の少女に声をかけられた。
「姫宮君、蓮杖さんと知り合いだったの?」
 美弥乃は訊かれて戸惑った。なんせ、本人に彼女のついて質問されている。知らない仲だと思っていたのは美弥乃も同じだ。
「わからない……もしかしたら仲いいのかな」
 呟く美弥乃に背の小さい女子は目を光らせて傍らの眼鏡の少女に耳打ちする。
(なになに? これはまさか巷で有名な修羅場≠ニいうヤツですか御園ちゃん!?)
 さすがに、眼鏡の少女もジトッとした目つきになる。
(……明海、人には人の苦難があるの、エロネタの題材にするのはやめなさい)
 背の小さい少女はその言葉に、一瞬で間合いを詰めて眼鏡の少女の肩を掴む。
(ど、どういうことかな御園ちゃん? 私は別になにも……)
(なに言ってるの、あなた最近男女比率一対二で絡み合うタイプの本ばかり書いて――)
(わー! わー! き、禁止ですよ御園ちゃん……!! それ以上はダメ!)
「……あんた達なにレズってんの?」
 黒髪の少女もジトッとした目つきで二人を見比べる。
 それを見ていた美弥乃が空笑いするが、黒髪の少女は二人の駆け引きから美弥乃へ視線を変える。
「でも、いいわけ?」
「ん? なにを?」
「何じゃないわよ、言っとくけどあたしはこの漫才コンビと違って女やってるつもりだから。さっきからポケットの中の携帯気にしてるでしょ」
 ぎくり、と美弥乃の肩が跳ねる。
 美弥乃はポケットに突っ込んでいた左手をそろそろと出す。
 黒髪の少女は腕を組んで美弥乃に笑みを向ける。
「ま、実際あんなこと言ってからかってたけど、かなり心臓バックバクだったんでしょうが」
「うっ……鋭いね」
「女ですから」
 二人揃って苦笑する。
「でも、蓮杖さんと仲いいってんじゃ実質あんたとイーブンじゃない。行かせてよかったの?」
 うん、と美弥乃は頷く。
 ポケットから携帯を取り出し、それを見ながら呟く。
「一応だけどさ……ちょっといいかなって思っちゃって」
「姫宮君ぐらいだったじゃない、あんたが初対面の男の子に話しかけたの。ほんと勇気あるわ」
「えへへ……」
 八重歯を覗かせて笑う美弥乃に、黒髪の少女はムッとして美弥乃の眉間に人差し指を突き立てる。
「あうっ」
「えへへ、じゃない。あんたが一目惚れしたように、向こうだって一目惚れするかも知れない同じ生き物なんだからね」
「でも……」
「デモは機動隊が鎮圧するの。いいから今から追って少しぐらいアタックしときなさいよ、取られちゃうかもよ?」
 それを聴いてぐっと腹に力が入る美弥乃。
 指を離す黒髪の少女は溜息混じりに続ける。
「ま、それはあくまであんたの話だしね。でも何かして後悔するよか何もしないで後悔するほうがずっと辛いんだから」
 真摯に聞き、美弥乃は俯く。
 ちらと横を見ながら、
「……晴香ちゃん」
「ん?」
「ありがと」
 頬を染めて呟く美弥乃に、黒髪の少女はくすりとだけ笑った。
「ねぇねぇねぇってば、二人して何を話してるの?」
 小柄なくせに、徐々に眼鏡の少女を机の上に押し倒す体勢で背の小さい少女は無邪気に訊いてくる。
 美弥乃と黒髪の少女は視線を合わせ、少し天井を仰いでから声を合わせた。
「「いや、本当に仲いいな〜って思って」」
「見て、……ない、でっ………たすけっ……ほんっ、と……に、……く、喰われ、るっ……!」
 ギリギリと迫り来る無邪気な笑顔を押し返しつつ、眼鏡の少女が涙目で助けを請う姿が西日に当てられていた。





「なんやねん、結局下で呼ばせとるんか……」
 呆れたと言いたげに小さく愚痴るアインに、恭亜は曖昧な苦笑を浮かべる。
「別にいいだろ、友達だっていうんだから」
「……ま、そやな。ウチには関係ないんやし」
 突き放した言い方に、さすがの恭亜もそろそろ頭にカチンときた。
「お前……なんでそんな冷たい言い方するんだよ。俺が何か悪いことでもしたのか?」
「……別に」
「別にじゃないだろ、俺はともかく美弥乃にまであんな態度すんなよ」
「うっさいなっ……関係ないゆぅたら関係ないやろ!」
 目をきつくして、声を張り上げるアイン。
 いきなりの形相に恭亜が驚いて口を噤むのを見て、捲くし立てる。
「ウチのやっとることに首ぃ突っ込んだんはアンタや! 命令しとるんやっ! 少なくともウチのしとることにいちいち文句言うな!!」
「なっ……」
 いきなり、子供みたいな無茶苦茶な言い訳になってくる。
 きょとんとしている恭亜に気付いて、アインは顔を赤らめて振り向く。
「〜っ、で!? ちゃんと調べたんか!?」
 露骨に話を本題に変えたいアイン。恭亜も少しイライラしながらも答えた。
「三年生の中で欠席した生徒は白だと思う。一、二年は無理だったけど」
「……、」アインはそこで目を見開いて恭亜を凝視した。「……なんで三年なんかが調べられたんや?」
 恭亜はその驚きように、勝ち誇った感覚を噛み締める。
「なに、友達というのは持つべきだってことさ」
 だが、それを聴くや否やアインはまた眠たそうな視線に戻る。
 歩き出すアイン。恭亜も尾いてゆく。
「あ、そうだ……あと一人だけ気になる奴が」
「誰や」
「偉そうに訊くな。俺らのクラスだけどよ、俺とお前の他に檜山が休みだったんだ」
「……檜山」
 アインは呟く。
 廊下を出て階段を下りる。
「でも、あいつがオーラム・チルドレンだとは限らないだろ? 確かに廃屋街に一番近いのはここだけど、学園の生徒の可能性は――」
「学園の連中なんや」
 遮るアインに、きょとんとした。
 いくらか落ち着いたアインはいつものとろんとした声を出す。
「楓鳴帝は確か都内ちゃうかったな、せやったら知らんはずや」
「何をだよ」
「実は、東京では夜も眠れへんオフィス地区に電力を回すために深夜の二時以降は市街地の電力をほとんどオフにするんや」
「それがなんの――」
 アインがすぐに遮る。
「言う必要ない思うけど、外の街灯とかも全部オフや。つまり二時以降は完全に暗闇んなる。勿論、犯罪が起きたときのために市街地は色々な場所に警備システムを布いてあるんやけど。この警備いうのは学園の生徒から育成した特殊訓練をした警備学生いうのが役割になっとんねん」
「!」
「も一個補足すんなら、この辺りの警備はウチの学園がやっとる……もう解るな?」
「いや、判る。だとしたらここ以外はないんだろうな」
 恭亜とアインの合点がいくのは、こういうことだ。
 つまり二時以降で闇に染まって警備システムが強化される。
 当然、警備が出回ってる中を民間人が出歩けばすぐに気付く。だが、その警備を学園の生徒がしてるとしたら話は別だ。
 もし、警備学生の服装が学園の制服だとしたらどうなるか。
「遺体が発見されたのは少なくとも夜明け前、どないして警備学生の目を掻い潜れた思う?」
「制服を着れば同じ警備学生と勘違いする、誰も怪しまない」
 導き出した答えにアインが満足そうに頷く。
「意外と頭いいんやな」
「警視総監の息子にして楓鳴帝学院合格。嫌な性だよ」
「……」ふとアインは不思議そうに見つめる。「なあ、なんでそんなに嫌がるん?」
「え?」
「警察の社長とも言える人間の息子。高校は関東最高峰のエリート学校。少なくとも本人には器量有り。何が不満なん?」
「……、なんとなく一個だけムカつく褒め方があったけどな」
 恭亜は溜息をついて階段を下りる。
 脱力したように、ゆるりと下りながら呟く。その背に、どこか哀しげな気配が伝わるような気がしてアインは口を開けなかった。
「確かに俺の親父は天才だ。総てにおいて、必ず人間より上位を維持し続けるような奴だったよ。何をしても凄い、何を考えても凄い、ああいうのを完璧≠チて言うんだろうな……」
「せやったら……」
「だけど、あいつにも無いモノがあった。愛情だ」
 遮るように、恭亜は言う。
「あいつは俺に愛なんてものを欠片も寄越さなかった。俺の知らない母親のことを訊いても、まるで答えない。むしろ俺があんたの子供なんだってことすら、あいつにはどうでもいいみたいなんだ。道端の汚物でも見るような目つきだった」
 だから、と恭亜は歯軋りする。嫌悪からなる復讐の背中を、アインは黙って見つめる。
「俺はあいつの冷徹を、あいつの敷いたレールとは違う形で成り上がって潰してやる。何一つ親としての優しさすら見せなかったあの男に、俺のほうが上だってことを知らしめてやるんだ。絶対に……絶対に、だ」
 犬歯を覗かせ獰猛に言う。
 アインは寂しげにその背を見つめていたが、やがて恭亜を追い抜くように階段を下りる。
「……まあ、別にウチにはどぉでもえぇことや。そない思とるんなら檜山の一人ぐらい捕まえてみせぇ」
 今度はアインの背を見て、恭亜は苦々しい表情をしながら追った。
 徐々に、夕暮れが近くなっていた。





 4


 二人して制服のまま外へ出る。
 といっても、まだ帰路を歩く生徒や、寮から出て遊びに行く者も少なくない。
 ただでさえ外見が目立つ二人は、こそこそと細い路地を歩く。
「なんでコソコソ隠れなあかんねや」
「しょうがないだろ、目立つんだから」
「……」
 何が不満なのか、ぶっすーとした表情をするアイン。
 もう疲れてきたので何も言わず、恭亜は人が居ない路地で立ち止まる。
「で、どうするんだよ。まさか檜山の家に行くんじゃないだろうな」
「まさかもなにも、そのつもりや」
 さらりと答えるアイン。
 だが恭亜としては、これ以上一方的な刺激をかけて怒らせたくないと思っていた。なにしろ昨日の今日だ。
 その危惧に感づいたアインは、つまらなそうに目を細める。
「別にえぇやんか。違ぉたらそれでええんやし、オーラム・チルドレンやったならウチが本気だせばえぇ」
 恭亜はふと気付く。
「そういえば、檜山がオーラム・チルドレンだったらどうするつもりなんだ?」
「さぁ」
「さぁって……」
「それは《ツクヨミ》のリーダーが決めることやから。拘束、あるいは制裁。少なくとも《アマテラス》みたいに殺したりはせぇへん」
 それを聞いて、恭亜はほっと胸を撫で下ろす。
 いくらなんでも、クラスメイト同士で殺し合う姿なんて見たくない。
 それこそが本分であるアインにとっては不服そうだが、恭亜にとっては和平こそが願いだ。
 だが恭亜はそこで小首を傾げた。
「でもさ、なんで俺はまだ尾いてってるんだ? もう俺は邪魔なんじゃないか?」
 すると、アインはぐっと息を呑んで押し黙る。
 どうしたのかと思って窺っていると、アインはぽつりと呟く。
「……………へんねん」
「は?」
 聞き返した恭亜に、アインは顔を真っ赤にして睨む。
「〜っ! 住所を知らへんねんっちゅうたの!!」
 ぽかんと口を開ける恭亜から振り返ってずかずかと歩いてゆくアイン。
 思わず、恭亜は吹き出すように笑ってしまった。
 少しだけ判ってきた。
 どうもこの少女には我が儘な部分があるのかもしれない。
 無いものねだりな我が儘ではなく、成果に欠如があるといきり立つタイプのようだ。
 なんだ可愛げがあるじゃないかと恭亜は後を尾いてゆく。
 幸い、もしものとき≠フために彼の住所は頭に入れておいた。
 なんとなく、意地悪をしてみたくなった。
「なあ、アイン」
「……っ、気安ぅ下で呼ばれたない」
「冷たい言い方するならやめとこうかな、檜山の家行くの」
 ぴたり、とアインの足が止まる。
 振り返ったその表情は、不審そうに窺う。
「……なにが言いたいん?」
「別に? 教えてくださいって言えたら行こうじゃないか」
「っ!」
 行き先を知らないのを漬け込まれて、苦虫を噛む表情に歪んだ。
 どんどん羞恥に頬を赤らめるアインが可愛らしい。恭亜はそろそろやめとこうかと歩き出した。
「あっ、ちょ……!」
「早く行こう、誰かさんは意外とせっかちみたいだしな」
 押し黙りながらも、何かを言いたげなままアインも歩き出した。





 市街地に赴き、担任の沙耶先生に聞いておいた住所の通りに家々を見回す恭亜。
 すると、少し大きめの家の表札に『檜山』と書かれているのをアインが見つけた。
「ここ、か……」
 やっぱり、いざ家の前に来ると緊張感が増す。
 警戒を強めて息を呑む恭亜を怪訝そうにねめつけるアイン。
「何を心配しとんねん、今更叩く石橋もないんちゃうん?」
「狙われてる人間に言われたくは、あまり無いかな」
「は? なんでウチが狙われとんの?」
 本気で小首を傾げているアイン。
 なんか、何かを言うのも疲れた恭亜はなんでもないと答えた。まあ、あんなゴツい銃を平気で撃つ人間なら心配するだけ無意味かもしれないが、もう少し容姿に似合うか弱さを醸してほしい。
 空を見上げて切に願う恭亜を不思議そうに眺めて、アインは無造作にインターホンを押した。
 ピンポーン、とくぐもって聴こえる音に、恭亜は突如の行動にビクつきながらも門の前に立つ。
 たっぷり十五秒、沈黙が続く。
 二人はじっと家を見上げて、恭亜が呟く。
「留守、かな」
「いっちゃん面倒やな、ほんまに誰もおんの?」
 なおもインターホンを連打するアイン。そんなに押しても居ないったら居ないのだ。
 さすがに止めようとしたら、アインは声を荒げる。
「あ゛っ〜! めんどい!!」
「キレるの早いな……」
 恭亜のツッコミに脇目もくれず、アインは門に手をかけた。
「――っ!」
 瞬間、アインはぱっと手を引いた。
 まるで、静電気を受けてびっくりしたような反応に、恭亜は眉をひそめる。
 しかし普通の静電気の被害にはその手を擦ったり見つめたりするものだ。だが、アインの視線は微動だにせずに家を凝視している。
「どうか、したのか?」
 恐々と訊くと、アインは瞬きせずにぽつりと落とすように呟いた。
「……血の匂いがする」
 な、と絶句する恭亜より先に、アインは門を静かに開いて猫のような身のこなしで玄関に走った。
「出番や、ファイノメイナ」
 恭亜を相手に怒り、驚き、赤面までしていたさっきとは豹変したように冷たい声。
 それに反応するように、アインの右手に淡い純白の光が燈り、収束と共に虚空から銀の銃が現れる。
 銃を顔の前に構えて、玄関のノブを回してほんの少しだけ開ける。
 その隙間に足をそろりと挟み、息を吸って蹴り上げた。
 勢い良く玄関が開け放たれ、アインは飛び込む。
 前に受身を取って、屈んだ体勢で銃を突きつける。
 玄関から廊下へ跳んだアインの銃口の先、向こうのダイニングキッチンに続く廊下には誰も居ない。
 それでも、廊下は異常の空間と化していた。
 血痕。
 艶やかなフローリングの床も、両側を花の柄が控えめに彩る白い壁も、二階へと続く階段も手摺りも、ダイニングとを隔てるドアも、視界いっぱいに黒ずんだ赤が広がっている。これは血痕とは言えない。もう、血溜まりだ。
 ただ、アインが気になったのは血痕よりも、廊下のところどころに出来ている疵だった。
 まるで、ナイフか何かを出鱈目に振り回したように、床に壁に天井に閃と奔る痕。斬撃と呼ぶには、浅い攻撃。
 アインは立ち上がって息を殺す。
 辺りの気配を読み、誰も居ない完全な無人であることを確認したアインは銃を下ろす。
 そこへ、恭亜が走ってやってきた。
 玄関の前で、血塗れの景色を見た恭亜は血の気の無い顔でアインを見つめる。
「な、んだよ……これ」
 アインは壁に散っている血痕を指でなぞる。
「血は固まっとるが乾ききってへん、見た感じでは十二、三時間ぐらい前のやろな」
「アイ――」
「シッ! 邪魔や、静かにしぃ」
 寝ぼけ眼だった愛くるしい仕草など欠片もない、冷徹の双眸。射抜かれたように沈黙する恭亜を尻目に、足音を殺してダイニングへ入り込む。一通り銃を向けながら辺りを調べているアインを見て、恭亜は今更のようにアインが別の次元の人間であることを再び理解させられた。
 こんな血塗れの風景を、初めから自分の在るべき場所として耽々と駆ける。
 恐い。と、また内から込み上げる畏怖と吐き気に苛まれる。
 眩暈まで起き掛けて、ふらふらとした足取りでアインを追う。
 その時、恭亜は視界の端に伸びる奇妙な線を見つけた。
 正確には、それも血痕だった。
 だが、妙におかしい。その血痕は階段を伝って上から流れるようにして固まっていた。まるで、血の源流が階上からのように。
 恭亜は口元を押さえながら、吸い込まれるように階段に足を掛けた。
 血の筋を俯き加減に追って、二階に上がる。血痕に導かれ、一つの部屋に入り込んだ。
 そこは、寝室になっていた。二つベッドがあるのを見ると、夫婦用の寝室らしい。
 恭亜は、部屋の前で立ち止まり、目だけで血痕を辿る。
 ゆっくり、ゆっくり、
 蛇行する血痕は途中で左に曲がり、ベッドの合間に入り込んでいた。
 部屋は、想像を絶する紅で染まっていた。両脇のベッドが半分以上血で染め上げられている。
 そして何よりも怖気が奔ったのは、その異臭。生ゴミを溜め、そこに群がるネズミすら潰したかのような、鼻腔をくすぐるのも嫌悪する臭い。もう、吐くまで抑え切れそうになかった。
 それでも恭亜は、一歩進み出す。
 誘われたように歩き出し、真紅の爆心地へと近づく。
 ゆっくり、ゆっくり、
 はぁはぁ、と自然に呼吸が荒くなる。息が苦しい。眩暈が酷く、視界がぐらぐらと揺れる。
 近づいてはいけなさそうなのに、近づいてしまいたくなる。甘い香りに寄る蝶のように。
 そして、ベッドの合間を見る。

 刹那、恭亜の悲鳴が迸った。

「―――――――!!」
 一階のリビングに居たアインは、その悲鳴に振り向くよりも先に体が跳んだ。
 全身を床ぎりぎりまで低めて、弾丸のように弾かれて廊下へ飛び出す。
 玄関の前で止まる。声の元を逡巡し、すぐに人の気配を二階に感じ取って階段を上った。これまで、わずか十秒。
 二階に上がってからはすぐだった。廊下に身を投げ打って、嘔吐している恭亜を見つけた。
「アンタ……」
 びくびく、と震える背中に手を添える。
 それから落とした視線に、筋のように伸びる血痕に気付いた。
 アインは一度だけ恭亜を一瞥してから、すぐに寝室に入る。
 異常な血痕。覗いた瞬間、アインも顔を歪めて視線を逸らした。続いて襲ってくる異臭を口元を手で覆うことで防ぎ、部屋を出る。
 ベッドの合間には、人間が体内に蔵している物体が山積みに置かれていた。人としての原形を失うどころではない。肉を削ぎ落とし骨を打ち砕いて、臓物だけ≠ェぶち撒けられていた。
 吐瀉するものが無くても、まだ胃は吐き出そうとする。
 込み上げるものに歯を食いしばって、土色気になった顔をアインへ向けた。
「なん、なん……だ」
「多分オーラム・チルドレンや。争ったにしては一方的すぎるし、ABYSSは内臓だけ残すような知能はない。丸ごと食べる」
 恐ろしい物体を目の当たりにしてさすがのアインも気持ち悪いのか、目元を手で押さえながら階段を下りる。
「きっと夜明け前の惨殺死体もこの家の人間やろな。新生した奴、相当コワれとる」
「ちょっ――!」
 下りようとするアインの腕を掴む。
 アインは視線だけを寄越した。
「なんや……急いで捜さんと、また違う人を殺しかねへんやろ」
 思わずアインは指の力を弛緩させる。掴まれているのは右腕、銃口が恭亜の肩口を狙っていたからだ。
 だが恭亜はその銃など目もくれず、恐怖に揺れる視線をアインに向ける。
 助けを求めるように。怯える子供のように。
 アインは少しだけ眉根をひそめ、良心に痛みを感じた。
 だが、アインにはそこで差し伸べる手は無い。あまりにも汚れて、あまりにも救うには卑怯な世界の住人だから。
 恭亜の手を払い、階段を下りる。
 突き放されたように思えた恭亜は言葉を失くす。
 ゆっくりと階下へ呑み込まれて行くアインの背が、小さく呟いた。
「そこに居たければ居ればいい。せやけど、もし奴が殺す標的が身内やったらどないするつもりなんや?」
 恭亜の視線が、一気に流れる。階段の半ばで立ち止まるアインの背は、呟きを続ける。
「もし檜山がオーラム・チルドレンなら、こんな狂気的な世界を契約しているなら、次の矛先は身近な連中になる」
「……」
「――っ」
 沈黙する恭亜を振り返って、足早に近づく。
 そのままこっちを向こうとした恭亜の胸倉を掴み、思いっきり引き寄せた。
 息もかかる距離に、アインの妖精のような顔立ちがある。
 吐瀉による腐臭を口腔に溜めていることなど気にせず、怒りの表情で恭亜を睨み付けた。
「なんやアンタ!! 鵜方美弥乃には護る言うたくせに! 自分の力で檜山ぐらい抑えてみせる言うたくせに! ここで終わりか!! 護る護る言って、結局何も出来へん惨めな奴なんか!!」
 恭亜は何も言えず、呆然とアインの激昂を見つめた。
 蓮杖アインが、本気で怒っている。そう理解するぐらいしかできなかった。
 罵声にも近い檄を飛ばしていたアインは、やがて手を放し階段を下りようと踵を返す。
「もうえぇ、所詮素人なんかに期待したウチがアホやった。学園で鵜方ちゃんと仲良ぉ引っ込んどれ」
 アインは階段を下りながら携帯を取り出す。
「……待てよ」
 背後から、声がした。
 弱々しく震える声。だが、アインはそれをどこか待っている気がした。
 視線を寄越す。
 恭亜は壁に手をついて、よろめきながらも立ち上がってアインを見る。
「ふざけるなよ……そこまで言われて引き下がるわけにはいかないんだ」
 口元を腕で拭って、眼の奥に強い光を燈して恭亜は言う。
 二度と失くさないように。
 必ず誰かを護れるように。
 主人公になるのは自分だと、心に誓って。
「俺も行く。いや、俺がやってみせるんだ……!」
 アインは無言で口の端を歪めた。
 不思議な羨望、高揚感、期待。自然と、左手に持った携帯を握る力が強まった。










 Bullet.W     襲撃


 1


 青々としていた空は少しずつ朱に染まろうとしている。
 公園に移動した二人はベンチの前で各々の利己に合う行動を処理する。
 蓮杖アインは警察に簡潔な内容を伝える。『中央区三丁目の檜山の家が猟奇殺人に遭った、ゲロ袋持参で今すぐ行くべし』というふざけているような言い方をして、さっさと電話を切ってしまった。
 隣りに居る姫宮恭亜は、口の中を濯ぐつもりで自販機で買ったボトルの水を飲みながら呆れていた。呆れてはいるが、何も言えずにいるのは女の子の前で嘔吐して情けないと思っているからである。
 通話を切って、続けてアインはボタンを押す。なんだか凄くたどたどしい手つきで携帯を操作する姿は、正直可愛い。
 コールを待っているアインに、恭亜は一言だけ声をかける。
「でも、こんな広い街から人間一人を捜すとなっては辛くないか?」
 アインはジトッとした目を向けたが、携帯が通話が繋がるまで手持ち無沙汰なので渋々と答えた。
「仕方ないやろ、組織言うても少数精鋭派なんや」
 すると、携帯から男の声が聴こえてアインは口を開いた。
「あ、ハイネ……うん、そう、オーラム・チルドレンやった……………誰かまでは判ってんやけど、行方が分からへんの」
 男性らしい渋い声が返ってくる。
 気のせいだろうか、どこかアインの表情が柔らかいように思える。
 不思議そうに見ている恭亜に気付かず、アインは続ける。
「うん、なんしかウチは捜す。マーシャの到着を急がせて、あともしものためにプリシラに声だけかけといて。うん、声だけでえぇ」
 いくらか声を返し合い、通話を切る。それを仕舞ってからアインはやっと恭亜を見た。
「行くで、陽が落ちる前に見つけな捜せへんようなる」
 歩き出すアインを追って、恭亜は飲み干したペットボトルをくず箱に捨てる。
「でも、実際問題どうするんだ? 二手に分かれて捜すとでも?」
「別にウチはそれでも構わへんよ、アンタが鉢合わせたら確実にさっきのようになる思うけどな」
「……思い出させないでくれ」
 檜山宅での悪夢を脳裏に思い出す恭亜は、必死で目を閉じて抗議する。
「ん、ごめん」
 一応はアインもグロテスクすぎる光景を思い出せといった言葉に自重してか、視線を逸らして謝った。
 だが恭亜の言っていることは正論である。腐っても東京都中央区、いくらなんでもたった一人の人間をたった二人の人員で捜せとは、砂漠から一粒の砂を探し当てるのと同じだ。
 アインはぼさぼさの銀髪を掻き毟る。
「あああ……っ! どこに行けばえぇんや、せめて誰を狙っとるんか判れば先回りぐらいは出来るのに!」
「……、!」
 恭亜はその言葉を聞いて、はっとした。
 じっとアインを凝視するのを、本人は不審がる。
「な、なんや……?」
「アイン、オーラム・チルドレンは、契約した世界の真意と同一になるとか言っていたよな?」
「……っ」下で呼ぶなと文句を言おうと思ったが、むくれたまま答えた。「世界といっても、国や区画のある形あるモノとはちゃうねん。抽象的に言えば『心』、その者だけの存在意義や生存領域を意味するモンやな」
「具体的には、誰がどんな世界を持ってるか教えてくれ」
「そないなこと、なんでアンタに――」
「教えてくれ……!!」
 鋭い剣幕で遮られて、アインはぐっと押し黙った。
 数秒渋っていたが、ぽつりと呟くぐらいの声量で教えてくれた。
「例えば……ウチのリーダーは【凍結世界】。流れ揺らぐ心を殺す、そこに在るが為の凍てつかれし居場所。他にも【孤高世界】いう、善に為らざる邪心を否定し赦さない鋼の意志を意味するモンも居る」
「……? お前のはどんな世界なんだ?」
 ふと他人のことばかり口にしているアインに追及すると、アインはぎくりと表情を強張らせて背を向ける。
「べ、別にウチはえぇやろ!」
「でも、」
「えぇったらえぇんや! しつこい!」
 声を張って拒絶するのを見て、触れてはならないものを訊いていると気付いた恭亜はうな垂れた。
「わ、悪い……なら訊かないでおく。で、世界を意味する真意ってやつが契約に一番必要なのか?」
「というより、自分を最も表現出来る世界にそう名前が付けられるだけや。単に名前は後から付けられる」
「……」
 恭亜が思慮して黙るのを、くすぐったそうにアインは見る。なんだか自分では考えが足りない人間だと思ってしまう。
「だから、それがなんやって訊いとんねん」
 少し苛立ち気に言うと、恭亜は静かに口を開いた。
「……俺だ」
「は?」
「俺だったんだ、檜山がオーラム・チルドレンになったのは」
 小首を傾げるアインをそこに忘れ、恭亜は独り言のように呟く。
 檜山が恭亜を狙ったのは、単なる嫉妬。
 檜山の最大の失態は、ポテンシャルにおいて恭亜に何一つ勝てないこと。
 檜山にとっては一方的な暴力こそが最後の糸、ナイフを持ち出したからと正当防衛に走った恭亜にそれを切られた。
 誇り、威厳、醜悪、疑念、確信、理想。それらを壊したのは、紛れも無い恭亜だ。
 アインに無視され、美弥乃に庇われ、忌むべき相手はその二人を護ろうとした。
 これでは、自分が悪役ではないか。彼はそう錯覚した。
 何をしても見苦しい。
 何もしても小賢しい。
 故に彼は思ったはずだ。憎い、と。
「檜山が狙っているのは俺だ。俺が来たのは昨日、俺と争ったのは昨日の午後、契約したのは夕方、能力を開花させたのは深夜、惨殺遺体を出したのは明け方……あんまりにもペースが速すぎる」
 行き着く言葉を知ったアインは、目を瞠って恭亜を見やる。
 恭亜は、呆然とした表情でアインを見返して言った。
「もしかしたら、檜山は俺を捜しているのかもしれない……だけど俺は昼過ぎまで外に居て、学園はおろか寮にさえ居なかった。だとしたら、あいつが待っているとしたら……あそこしかない」
 視線を上げる。
 東の空が、少しずつ灼炎色に滲み出していた。





 時刻は六時。
 あの後、三人の女子と別れた鵜方美弥乃は私服に着替えて寮を出ようとしていた。
 部屋の戸を閉め、鍵をかけているときに横合いから声がかかる。
「おぃん? うぃーっすうぃーっす美弥乃っち。あっそびっに来ったけっどぉ、おでかけでぇすか〜?」
 良く言えば陽気、悪く言えば酔っ払いのようなしゃっくり混じりの声。振り向くより先に誰かを知るという不思議な感覚に襲われる。
「会長……どうしたんですか? 一年の寮に来て」
 求愛中の孔雀の如き、緑の派手な髪をしたモノクルの女性が制服姿で歩み寄ってくる。
 というか、暑くなり始めているこの時期この時間に、冬服であるブレザーを着ている。淡い水色の可愛らしいブレザーだが、季節を考えると長袖であることがかなり凶器と化している。
 はずなのに、彼女はまるで涼しい顔。
 どうしてかと訊いても、絶対に『生徒会長だからなのん♪』とかはぐらかすのであえて訊かずにおく。
「いんやぁ〜複合企業の社長令嬢も挨拶は週一ってふざけんなっつぅのねぇ〜。こっちへはただの巡回ですぜ褒めて褒めてぇ〜」
 むぎゅ、と抱きつく稲城雪嬰。
 女性としての豊潤な胸に、半ばプライドを砕かれ、半ば世間体を気にして、頬を染めながら美弥乃は押し返す。
「それはお疲れ様です……っ」
「う〜ん、もちっと褒めて欲しかったけどぉん」やに色気を漂わせて渋る稲城会長は美弥乃の私服姿を見回す。「ふむふむ……おめかしをしてるとなると、さぁては遂に姫宮君との聖戦ですな若いのぉ〜♪」
 今の美弥乃は、私服というには随分とビシッと決めているぐらいの格好をしている。
 淡いグリーンのノースリーブシャツに、赤いテロテロスカート。鍔の長めのキャップを斜めに被ってボーイッシュに決める。帽子から出た二房の束ねたおさげがとてもチャーミングだ。
 ただ、その決めようをあまり悟って貰いたくなかった美弥乃は薄く動揺する。
「恭亜君は別に関係ないじゃないですか」
「ふ〜ん、その割にはいつしか名前で呼んでる気ぃがしてならないんでせうが?」
「う゛っ……」
 腐った見かけでも生徒会長だ、話術でこの学園の生徒に負けるはずがない。
 あまり長く話していると余計なボロを出しまくると目に見えているので、すぐに話を変えた。
「第一、単に街の構造を探索するだけです」
「およ? 美弥乃っちって地元民でしょ? 何故にして探索≠ネぁんですかぃな」
「え……」
 美弥乃は言葉に詰まった。
 まさか、その姫宮君に街を案内するつもりだったのだが寮に居ないと聞いたために予行として細かいルートを事前計画しておこうと思ってましたなんて答えたら、どんなおちょくりを受けることか。
 かといって美弥乃としてははぐらかすのは無理だと判り切っていた。以前の会話で、カマをかけようとしたら逆にカマをかけ返されて赤面話に突入し自爆したという経路がある。はっきり言って、この人との会話は一時も気が抜けない。
「たまには外に出ないと体に障りますから、会長こそ疲れてるんじゃないですか?」
「ん〜、正解かな〜。ちょろ〜っとスケジュールがハードで、さぁすがの自分も疲れ溜まってるですねぃ」稲城会長は肩に手を置いて首をゴキゴキと鳴らす。「つってもま、仕方ないんだけどね。最近外も物騒だから気をつけれぇ〜」
「……はい」
 くすりと美弥乃は笑みを零す。
 美弥乃だからこそ知っていること。稲城雪嬰は本気で生徒の上に立つ、その過程や現状を理解した上で生徒会長に就任しているのだ。面倒だからという理由で生徒をほったらかしにするような人間ではない。
 だからふざけているような今の言葉にも、本気で美弥乃の身を案じているきらいが、とても伝わってくる。
 稲城会長ほど、学園の生徒を愛している人間はいない。
 それを、美弥乃はよく理解している。だから笑みを浮かべて答えることができた。
 ではこれで、とお辞儀して美弥乃は振り向く。
「あ、」そこではたと立ち止まり、稲城会長を見て八重歯を覗かせながら笑う。「スイカ、ありがとうございました。美味しかったです。それと、恭亜君が会長のこと捜してたみたいですよ」
 おさげを揺らして、美弥乃は廊下を歩き出す。
 稲城会長はその、どこか嬉しそうな背をしばし見つめてから聴こえないほど至極小さな声を呟く。
「自分を捜してた、か……ま、大方煌きの都市≠フ奴が新生でも創って遊んでるんだろーねぃ。飛鳥っちも笙子っちも甘いなぁもう……だぁから潰すべき〜とかぁ言っといたのにん」
 酔ったような口調と足取りで踵を返して携帯を取り出した。
 慣れた手つきで一件のメールを送信する。
 『伝令、火急にて賛同出来る同志募る。場所は東京都中央区、紫耀学園。対象は新生』。
 内容はひどく堅苦しい、彼女を知る者なら明らかにふざけている文面。鼻唄を歌いながらそれを書き綴る。
 そして、送信する前にタイトルを記入してから決定ボタンを押した。
 題名『《アマテラス》の麗しき姫へ、絶望より愛を込めて』。





 恭亜とアインは夕暮れに染まる空を尻目に道を急いだ。
 もう部活をやっている生徒は居ないらしく、そこはとても静かだった。噂では最近、東京はとても犯罪が多発しているらしい。本当なら、寮の門限を七時に変えたいのを、生徒の意を断腸の思いで生徒会長が認めたのだそうだ。
 向こうにそびえる校舎を一度見て、アインは振り返る。
「で、ほんまにここに来るん?」
「判らない。でもあいつが俺を狙っていたとしたら、寮か学園しかないんだ。わざわざ徘徊するよりも効率的だしな」
 恭亜の言っていることは一理ある。
 向こうが逢いたいのであれば、こちらから捜しにばたばたと移動する必要はない。日常を壊しに来る相手に、非日常ほど鉢合わせに適さない行動はないだろう。
 だからといって、馬鹿正直に向こうが襲ってくるのを待つというのも危険だ。
 いくら対人戦闘のプロとはいえ、アインは紫耀学園の敷地に入ってからピンと張った集中を解かずにいる。
 恭亜の提案で、一度寮区に戻ることにした。
「でもなんで寮に戻るん?」
 思わず自然な声が出てしまったアインが自省するなか、恭亜は少し苦笑しながら答えた。
「ああ、念のためにこっちに来てないかを確認するのと、木刀を持っていこうと思ってね」
 意外な言葉にアインは図らずに聞き返してしまう。
「木刀?」
「実はな、皮肉にも親父に一個だけ褒められたことがあって……昔から剣の才能だけは一目置かれてた」
「……せやけど、木の棒一本じゃオーラム・チルドレンには勝てへんで」
 遠い目をする恭亜を試すつもりで、窺うように言う。
「判ってる、気休めにでも持ってるほうがいいと思ってね」
 申し訳なさそうに寂しげな笑みを浮かべる恭亜を見て、アインの胸に痛みのようなものが奔る。
 まただ、とアインは胸に手を当てて沈黙した。
 時折、恭亜のこの人間らしさ≠ノ苛立ちと羨望とが入り混じった感情に気付くことがある。
 人智を超えた力を持てるチャンスなのに、何故か人であることを選び続ける。それが、どうしても羨ましいと思ってしまう。
 真正面から誰かを信じ護ろうとし、圧倒的な死の恐怖に震え、仕方の無いはずの己の弱さに歯噛みする。
 恭亜の、そんな人間らしさ。
 アインの、最も知らない心。
 傍らの沈黙が不自然なことに気付いた恭亜が、『どうかしたのか?』という視線を向ける。
 咄嗟にアインは俯いて、口を開いた。
「べ、別に……ウチが倒せば済むことや、素人は手ぇ出さんでえぇ」
 すると、恭亜は苦笑混じりの表情で頷いた。
「そうだな、分かった……あと女子寮に行ってもいいか?」
「は? なんで?」
「なんでって、美弥乃だって襲われる可能性あるだろ? だから……」
 それを聞いた途端、アインの中に冷静な部分が帰ってきた。
 声に出さず思う。この男、この期に及んでそんなに……。
 薄く怒っているのに気付いた恭亜が、少し怖気付く。
「な、なんだよ……」
 本人が発した言葉の意味を理解していないことをよく知ったアインは、侮蔑と怒りを水面下に隠して、低めの声で突き放した。
「べっつにっ……!」





 彼は一人佇んでいた。
 場所は屋上、吹き抜ける風は夏到来の夕暮れには快適なまでに涼しい。
 紅蓮に燃え盛る、扇情的なまでの空は見る者を圧巻するほどの美しさを持っていた。
 だが、彼の視界には決して形ある美しさなど決して理解されなかった。
 その視線は屋上からとても見晴らしの良いグラウンドが広がっている。二百メートル用のトラックを中心に、左右にサッカーゴールが置かれている、彼も授業で何度か足を運んだ場所。
 彼自身、まさかこんな形でグラウンドに訪れることになるとは思っていなかった。
「―――――――くく、……」
 口元が歪な笑みに湛えられる。
 くつくつと込み上げる、どろどろとした異常な爽快感。決して晴れることのない、その場だけの解放の感覚。
 彼は待っていた。一人待っていた。
 現れるはずの人間を。否、現れるべき人間を。
 劇場の準備は整った。
 後は、配役だけ。彼の中ではすでに誰が誰の役をするかは決まっていた。
 主人公は彼。悪役があの男。出来れば二人を止めようと登場するヒロインが二人欲しいが、贅沢はいけない。
「くっくっくっ……くっははっ!」
 細い身体をくの字に折って笑う。
 どんどんとそれは爆笑へと移り変わる。夕陽が彩る紅蓮の屋上に、爆発的な狂笑が響き渡る。
 早く来ればいいのに。
 早く来て欲しいのに。
 早く来い。早く来い、早く、早く、早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く!
 奴をグラウンドのど真ん中で、あの二人≠フようにしてやる。
 あの二人=B一人は女で、もう一人が男。自室で契約した途端に入ってきて何かを懇願しながら土下座している姿を見て、水を差された腹いせで殺した。内臓だけ綺麗に取り除いて、激痛を感じる間も無く殺してやった。爽快だった。
 青年が言っていた能力とやらに慣れる練習をしていたら、男が家にやってきた。正確には、帰ってきたと言うべきか。
 何かを喚き散らしているようだったが、少し痛んだ耳鳴りを刺激されてイラっとしたから殺してやった。家から全力で逃げる男の背中をわざと掠り傷程度で切り刻んで廃屋街まで追い込んで、命乞いしだした男を死ぬより先に全身の皮を剥いでやった。人間の皮膚は案外、得物が上等だとすんなり削げることを知った。
 それからあの男を殺しにいこうと思った矢先に、あの金髪の青年と出くわした。
 青年が言うには、面白いものが見れそうだからその人を殺すのは明日の昼以降にしてくれ、というものだった。
 といっても、自室での神々しいという感覚はもう無い。自分もまた彼らと同じ領域に足を踏み入れたことで、同等の存在だと知って畏怖しなくなったのだ。
 ただの癇に障る喋り方にしか思えず殺そうかと考えたが、そいつの言葉に興味が湧いた。
 実際、廃屋街であの男を殺しても誰も気付かない。やって来たとしてもせいぜいが警察だ。
 だったら、彼を少なからずも関係あると皆に知らしめることができる場所のほうがいい。
 それがここ。紫耀学園、そのグラウンドは絶対に教師よりも部活の生徒のほうが先に現れる。
 いささか少数だが、その生徒達に見せびらかしてやりたい。人は、人でなくなる程の死に方をすると誰も近寄ってこないことを。
 たかが顔が良い程度で、
 たかが頭が良い程度で、
 たかが品が良い程度で、
 結局は同じ人間のくせに、あいつの周りには仲間が出来やがる。こっちはいちいち声をかけないと動かない、使えない男どもなのに。あいつには美人ばかり集まりやがる。
 卑怯者の分際で、正義の味方ぶるやつ。
 憎い。憎くてしかたがない。
 不意に、首筋に生暖かい感触が擦れ違う。
 青年に教えてもらったことだ。契約した世界の真意に近づけば近づくほど、オーラム・チルドレンは強くなる者もいるらしいとか。
 【憎悪世界】。それが支配し支配され同一化した彼が己を定義出来るもの。
 彼は狂笑に憎しみを込めて精一杯なまでに笑う。
「おい! そこに居るのは誰だ!?」
 その時、背後から男の野太い声がかかった。
 彼はゆったりとした動きで振り向いて、誰かを見る。
 下はジャージ、上はランニングシャツといういかにも気持ち悪い風体の中年の男、体育の授業で時たま女子をいやらしい視線で見ていて、生徒に限らず女教師陣にも嫌われている陰湿な奴だと憶えている。恐らく当番の見回りで、屋上の扉が開いていることに気付いてやって来たのだろう。
 汚い無精髭を生やす中年は苛立たしげに彼をねめつける。そういえば、何かとストレスを気の弱そうな女子生徒とかにぶつけている気がした。今回は自分に有利な状況だと思って粋がっているのか。
「この時間帯は学園には居てはいけないんだよ、さっさと帰れ。ったく……ただでさえあのクソ女どもの陰口聴いてイライラしてるってのによ」
 彼はなんの感情も消え失せた瞳を向け続ける。観察にも近い視線に、中年の眉はさらにしかめられる。
「なんだその目は、どいつもこいつも調子乗りやがって……おい! 聴いてるのか!?」
 中年はずかずかとサンダルを踏み鳴らして近づく。すると気付く、彼の足元。
「なっ……お前! どうやってここに入った!?」
 憤然と怒り出す。
 それも当然だ。彼は今、革靴を履いている。勿論屋上でこの履物ということは、校内を土足で歩いたということだ。
 だが彼はそんなことなどまるで耳に入らず、ゆっくり口を開いた。
「……おい、テメェ。さっきなんつった?」
 テメェ、及びタメ口を前にして、いよいよ中年の表情に必要以上の怒りが露わになる。
 だが彼はもう一度呟く。
「答えろよ、さっき『誰だ』って訊かなかったか?」
 中年は少し不審そうに眉根を寄せる。中年にすれば、今の会話の中で一番どうでもいい部分を抜き出されて戸惑っているのだ。
「そうだよ。お前はどこのクラスの誰だ? 土足なんかで校内入りやがって、ただじゃおかねぇ」
 ぶっころす、とでも言いたげな目を見て、彼はついに耐え切れなくなった。
 耐え切れなくなって、笑い≠セす。
「く、っはは! ははははははははははははははははははは――!!」
 突然の狂笑に中年は目を瞠る。
 なんだこいつは、という目つきはやがて、『笑われている』という不快感に変わる。
「きっさま! 何がおかしいっ!?」
 前へ一歩踏み出そうとした中年に、彼は叫ぶ。
「動くなよぉ! 人間!!」
 甲高い奇声に、中年は思わず身が竦んだ。
 彼の言葉はまるで見えない力となって、中年にとって神々しいまでの枷となる。
 滔々と、歪んだ笑みでいっぱいにした顔を向け彼は言う。
「誰? オレに向かって、誰だと!? くっははは!! 最高だ!! なんだテメェは!? オレの世界に入り込みやがって、なんで何も知らないんだテメェは!! オレのオレによるオレのためだけの世界だ!! 勝手に入ってんじゃねぇよ!!!」
 笑ったまま、怒号にも近い言葉を発し続ける彼に、中年は怖気を覚えた。
「なっ……きさ」
「いいよ、何も喋んなくていい」彼は途端に抑揚無い声で遮る。「オレを知らないなら、理解しなくていい」
 彼は手を振りかざす。
 刹那、彼の手元に不可視の揺れが生まれる。陽炎のように彼の右手が揺らめき、虚空から小さな物体が現れる。
 それはナイフのような形状をした代物だった。全体は緑色で、柄の部分に三つの小さく赤い玉が連なって埋まっている。
 長さは三十センチ程度、万能ナイフぐらいの大きさ。遺跡で発掘されたような古めかしいフォルム。
 傍から見ても、切れ味に疑念を浮かべたくなる奇妙なナイフ。
 だが、中年は恐怖した。
 そこに居るはずの学生が、中年には神とは別の存在に見えた。
 悪魔。
「オレの舞台の邪魔ぁするな、人間。肩慣らしに切り裂いてやる……」
 瞬間、中年は左手の小指に熱を感じた。
 咄嗟に腕を引いて、それを見る。
 小指から、血が垂れていた。傷口は小さいが、カッターナイフで切ったようにスッパリと皮が裂けている。
 ぴん、という音が聴こえ、中年は右を向く。ジャージの膝辺りが、綺麗に切られている。
 続いて、ピシュン! という高く小さく軽快な音が連続して周囲を包み込む。
 中年が本能的に抑止の声を発しようとした。
 その寸前、彼の口元が歪む。
 次の時にはもう、中年の未来はズタズタに引き裂かれた。
「おら、前菜用意したから喰え――ジャック・ザ・リッパー」





 2


 男子寮に戻り、まだ荷解きできてないダンボールの中から、強引に荷物を掻き出す。
 アインが女子寮に美弥乃の安否を確認しに行っている。向こうは美弥乃を確認しに行くだけなので、急いで引っ張り出さないといけない。どうせ後で片付ければいいことだ。
「……それは生きて帰れたら、の話だよな」
 一人呟く恭亜。そうだ、何も喧嘩をしにいくわけじゃない。喧嘩程度の、負けても屈辱すれど死に遠い。
 だが、今から遭うかも知れない男は違う。負けは惨殺を意味する。圧倒的な殺人鬼と、戦闘をする。
 図らずに苦笑が口元に浮かんだ。
 凄いものだ。電波を疑われるほどの非日常に赴くというのに、何故か違和感はない。それどころか、頭のどこかがすっと冷水をかけられたように冴えている。
 思えば昔からそうだった。自身を脅かす局面になると、常に頭のどこかで冷静な部分が働く感覚。
 きっとそれも、警察の素質なのだろう。恭亜にとって何よりも憎悪する人間のしている、何よりも嫌悪する仕事の素質。
 恭亜はすっと顎を上げる。仰いだ天井の木目を見つめ眼を閉じる。
 少しずつ、長く長く息を吸い、一気に吐いて視線を戻す。
「……俺が出来ることを、するんだ。あいつの存在しないここで、俺が俺の力で出来ることを証明するんだ」
 言い聞かせるように言葉を紡いで、恭亜はダンボールの下から生えるように突き立つ木刀を見つけて引き抜く。
 時たま剣の一人稽古をするために、手に馴染む木刀。
 一度それを振るう。部屋の静かな空間を綺麗な太刀筋が奔る。
 ぴたり、と止め、双眸を細めた恭亜がよし、とだけ呟いて部屋を慎重に出た。


 男子寮の門の前に居たアインがこちらを見る。
 恭亜は薄く気になっていた。男子寮から出る間、多少の男子を見るだけでほとんど人と会わない。
 アインの元に戻ったときに、アインが先に口を開いた。
「ちょっとハメられたみたいや」
「?」
「警察に電話したことで、警察が警戒態勢を促しよってん。そのせいで学園は今無人や」
「なんだって……?」
 それはつまり、人払いを意味している。
 ますます彼が言っているように思える。『早く学園に来い』、と。
「せやけどちょっと気になるな」アインが珍しく声をかけてくる。「家の死体は恐らく偶然や。せやけど、わざわざ廃屋街で殺したのはなんでやろ。まるで、わざと捜してほしいためにそこに捨て置いたみたいな」
「それは、俺への当てつけなんじゃ……」
「せやて檜山はウチらが同じオーラム・チルドレンやなんて思てへん。それに、適正者が契約するには既に契約しているオーラム・チルドレンとの接触が必要や。誰かが檜山を契約させたのは偶然ちゃうん?」
「なる、ほど……それもそうだな」
 そうや、と頷くアインは顎に手を添えて深く考え出す。
「やっぱり、檜山をそそのかしとるモンが居るみたいやな。契約と同時に能力を知るなんて本人には簡単には出来へんし」
 ブツブツと呟くアインに、恭亜はなんとなく口を開いた。
 ただしその声色はかなり慎重になっている。さっき、何故か同じ人間の話をして機嫌を悪くされた。
「ところで、美弥乃は大丈夫だったか?」
 すると、考え事の最中に話しかけられて油断したのか、自然なままに答えた。
「居らんかった」
「え……!?」
 どきり、と心臓が不自然な鼓動を覚えた。
 焦るあまり、アインの肩を強く掴んでしまう。
 驚くほど細い肩に、逆に恭亜が驚く。
 アインの寝ぼけ眼の双眸が向く。間近で目を剥かれて気付くが、アインの白目が充血で兎のように赤い。考えてみれば昨日から一睡もしていないので、二人とも凄い疲れた顔をしているはずだ。
 だが、アインは少しムッとしたように頬を膨らませた。
「なんも連れ去られたとは言うてへんやんか。争った形跡はないし鍵もちゃんと掛かってた。第一、女子寮にあの◇w山が乗り込んだら絶対にバレてまうんとちゃうん?」
 ん、と恭亜は押し黙る。
 なんだか美弥乃を護るという名目が、恭亜が美弥乃に対して特別視しているように見えて、恭亜は情けない。
 しかも、案の定アインは不機嫌そうに呟きの内容を変えてしまう。
「……なんなんや、さっきからミヤノミヤノって……そら可愛い思うけど過剰過ぎやろ、恋人かっちゅうねん」
「え、なんか言ったか?」
「別に?」
 感情の起伏の無い、辛辣な声が返ってくるのを、恭亜はビクつきながら受け流した。
 なんにせよ、無事ならそれに越したことは無い。そもそもこの非日常を知らない彼女を巻き込むのが一番恭亜には恐い。
 恭亜は木刀を握る手に力を込めて、夕陽に当てられた校舎を遠く見つめる。
「行こう。遭えるかどうかは判らないけどな」
「そん時はそん時や、今を否定する確率を考えんなや」
 冷静な言葉が返ってくる。
 なんだか正論じみていて、そうかなぁ、と呟きながら恭亜は苦笑した。





 夕方の時刻も半ば。真っ赤に染まる夕陽に彩られた街を美弥乃は一人進む。
 だが、最近は物騒ということで昨日より早く門限になっているため、もうそろそろ帰らなければならない。
 商店街の終わりへと差し掛かるとその先には廃屋街がある。
 急速に進化を遂げる東京の速度に追いつけずに放棄されたオフィス街の残骸。打ち放されたビルが連なるゴーストタウンへの入り口を前に、美弥乃は踵を返した。
 元より危険区域になりかかっているここに、入る気など無い。
 なんだか、おめかしまでして気合入れた自分が馬鹿みたいだなと苦く笑い、商店街へと戻ろうとした。
 その時、はたと足が止まる。
 視界に入った、不思議な集団。
 とりわけ異常ではない。『KEEPOUT』と書かれた黄色いテープの向こうで、何かを写真に収めている数人の大人達。皆、紺の制服と帽子、白い手袋。どう見ても警察の鑑識だった。
 ただ、気になったという意味では異常だった。なんせ廃屋街と市街地を隔てる小道に群がっている。
 辺りは一面、生えっぱなしの草木が広がる空き地状態だ。こんなところで事件なんて珍しい。
 鑑識達の動きを遠くからじっと見ていた美弥乃は、傍らに停まった車から出てくる中年の男性と擦れ違う。
 灰のロングコートを着た四十代の男性は、髪を掻いてブツクサと愚痴って、美弥乃の隣りをすり抜ける。
「まったく……ちょっと偉いからって訊くだけ訊いて無視しやがって……なにが姫宮だ、馬鹿馬鹿しい」
「え……?」
 思わず美弥乃は声を出した。
 中年は振り向く。気だるそうな瞳に美弥乃を映して、やっと一般人がここに居ることに気付いた。
「なんだお前さんは? この辺りは捜査をしているから、さっさと帰らんか」
 しっしっと手を振る中年に、美弥乃は声をかける。
「あの……今、姫宮って言いませんでした?」
「ん?」中年は苦々しく顔をしかめて美弥乃をねめつけた。「ああそうだが……姫宮の甥だったかが来て、友達が殺されたんじゃないかって質問して帰ってったよ」
 美弥乃の呼吸が止まる。
 咄嗟に中年は口を押さえるが、もう遅い。
 人が殺された。そんな事件を、昨日来たばかりの姫宮恭亜が関与するはずがない。檜山に目を付けられている彼と仲を良く持つ人間は、今のところ自分を入れてたったの七人程度だからだ。
 いや、それ以前の問題だろう。一介の高校生に、殺人で何かを警察から聞き出すことは不自然だ。
「あの、」美弥乃は窺うように訊いてみる。「黒髪の人ですか? その姫宮というのは」
 すると、捜査に関係なしと判断した中年はすんなり答えた。
「ああ。黒い髪の、結構美男子だったな。隣りの女の子には及ばなさそうだったが」
「女の子?」
「彼女かなんかだろうな、あれは。外人みたいな銀の髪した、物凄く綺麗な子だったなぁ」
 目を細めて思い出すように夕空を仰ぐ。
 美弥乃は瞬時に理解した。蓮杖さんだ、と。
 あの二人が一緒に、殺人現場に来た。
 もうそれだけで美弥乃の不安は膨れ上がる。
 居ても経ってもられなくなった美弥乃は、急いで走り出した。
「あ、おい!」
 中年のしわがれた声が制止したが、美弥乃は聴かなかった。
 何か、嫌な予感がする。
 凄く、凄く嫌な予感。
 低くも、ヒールの入った靴を履いてきたことに薄い後悔をしながら、美弥乃は商店街へと入った。





 学園の正門を潜って、校舎の脇を歩く。
 普通ならこの道を左に曲がって昇降口に入るのだが、二人はその分かれ道で二人は止まる。
「どうしよう……学園といってもかなり広いからな、どこに行けばいいものか」
 頭に手を当てて迷う恭亜を見て、アインは右を指差す。
「あっち行こ」
「あっちって、グラウンド?」
 こくりと頷く。
「校舎に居ることはない思う。グラウンドが一番見えるし、何より……」
「何より?」
「広いほうが戦いやすい……!」
 きっぱり言い放ちふんぞり返るアイン。とはいえ大した起伏のあまりない胸を張られても視線を逸らす気にはなれなかった。
「貧相な胸を向けられても困る、個人的な理由じゃないか」
「……」
 少しショックだったのか、眉を上げて無言に打ちひしがれるアイン。言い過ぎたかと懸念したが、やがて振り返る。
「戦えへん奴には言われとぉない」
 銀のぼさぼさな髪を揺らめかし、アインはグラウンドへと向かう。
 恭亜も木刀を片手にそれを追う。
 グラウンドと言っても、サッカー部用と公共用と二つある。どっちも広いといえば広いが、公共用のほうが大きいはずだから、アインはそちらへ向かっているのだろう。
 木の整列された道を歩き、恭亜は周りを注意深く見渡しながら口を開く。
「どうして檜山なんだ……あいつの俺への怒りはそれほどなのか?」
「ちゃうな」アインは振り向きもせずに答える。「あれはもう怒りやない、憎しみや。それが増幅して契約した世界が檜山の精神を侵しとる。アンタ一人への怒りなら、家族を殺すわけないやんか」
 恭亜が目を瞠る。
「家族……!?」
「家の死体は昨日の夕方過ぎや。普通自宅に死体居ったら気付くやろ。確証はあらへんけど、家と廃屋街のは両親や」
「!」
 立ち止まり、硬直した表情でアインを見つめて恭亜は訊く。
「まさ、か……檜山がやったって、言うのか?」
「……」アインは決して振り向かず、抑揚を捨てた声で返す。「オーラム・チルドレンは契約した世界と同一んなる。逆説、その世界が契約者の精神を侵す可能性も少のぅない。要は人格が壊れるんや」
「人格が、壊れる……」
 麻薬で狂った人間を連想した。あまり想像できないことではないだけに、現実味を帯びて背筋が凍る。
 アインはのんびり過ぎる足取りでグラウンドへ進みながら続けた。
「ハイネが言うてた。世界に『侵蝕』されて崩壊した自我を戻せへんくなったモンを殺したせいで、自分が契約してしまったオーラム・チルドレンが居るて」
 恭亜は気になる言葉を耳にして怪訝な顔をする。
「しん、しょく……?」
「世界と契約するということは、自分の魂の一部をその世界に占領されるようなもんや。必然的に心の中身が溢れ出る=v
「――な!?」
「コップに満タンに溜まっとる水やな、さらに水を流し込んだら在るべき人格≠ェ外に溢れる。魂が欠ける。人間性が、狂う」
「檜山は……壊れていると?」
「世界と契約した際に性格が変わるケースもある、らしい」
 進みだす純白の制服姿に、恭亜は妙な錯覚を覚えた。
 なんだか、とても寂しそうな、哀しそうな小さな背中。
 何か、今の言葉に重くのしかかるものを感じているんじゃないかと思う、そんな雰囲気が伝わる。
「着いた」
 唐突にアインが呟いて気付く。恭亜達が踏んでいるものがアスファルトの地面から土で造られたグラウンドへ変わっている。
 こっちは公共用の広い場所だ。左右に一応サッカーゴールは有るが、コートは引かれていない。
 細かな砂利を踏み越えてグラウンドの真ん中に来た二人は、西から差す優雅なまでの陽を、目を細めて眺める。
 綺麗だ、と思う恭亜の心を見透かしてか、アインはつまらなそう、もとい眠そうに口を開く。
「言うとくけど、檜山がオーラム・チルドレンやったら一目散に逃げぇ。近くに人が居ないようにしとき」
「ああ、足手まといにはならない。だけど逃げるつもりはないからな」
「……別に、どぉでもえぇ」
 なんとなく不服そうに答えるアイン。
 ここでアインに頼って逃げるなんて、恭亜には出来なかった。当然だ、元はといえばこれは恭亜が関わった事件だ。
 でも、疑念は消えない。
 銃弾を放つ少女と、肉親すら惨殺する男。こんな異常が戦い合う場に、自分が何かを出来る瞬間があるのだろうか。
 何一つ成果を挙げられずに終わるかもしれない。
(それでも、いい……)
 意志を以って誓う。
(端から出来ないことをして犠牲を作ったらお仕舞いだ。俺には俺の出来る何かを消化するだけ)
 ぎり、と木刀を強く握って、アインを見た。
 これからの意気込みを判ってもらおうと思って視線を寄越した先で、恭亜は言葉を失った。
 いつの間に出したのか、アインの白い手にはあまりに無理が生じている大きさのリボルバーが握られていた。
 何度も見てきた姿なので違和感はない。むしろ、背後に背負う夕陽によって灼熱に輝く白銀の少女は、顔の整いと相まって息を呑む美しさだ。
 だが、その銃が恭亜を向いておらず、細い指がトリガーに掛かっていなければの話だった。
 暑い空気の中で汗ばんでいた首筋が、一瞬で鳥肌を浮き立たせる。これが戦慄というものなのだろうか。
「ア、アイ――」
「馬鹿正直に来よるんは嫌いやないで。せめてそない格好やなかったら救えたもんやな」
 風鈴のようなソプラノの声を低めるアイン。そこでやっと彼女の視線と銃口の延長線上が交わる銃点≠ェ、恭亜に向いているわけでないことが判った。
 ぎちぎち、と。油の切れたブリキ人形のように恭亜の首が回る。
 逆光から、一気に視界が晴れる。
 そして、絶句する。
 晴れた視界の中心に佇む一人の生徒。深い赤のズボンと真紅の制服。ありふれた一人の青年。
 だが、彼が異質であることは嫌でも分かる。
 彼は真紅の制服を着ているとは言ったが、ブレザーを着ている≠ニは一言も言っていない。
 男女共通である半袖のシャツは純白である。だが彼のシャツは左肩から右腹へ袈裟斬りのように紅が付着している。
 夕陽より紅い、悪夢の色。
 実際には青年の全身が真っ赤に染まっている。ワインレッドのズボンでは血色は目立たないし、人為的な茶髪はそれほど血を被っていない。
 ただ、上半身が凄い。むしろ酷いまでに紅い。右腕や頬にこびり付く紅は刺青のように染まっていて、震えるほどおぞましい。
 何より恭亜が恐怖を感じたのは、一番の不自然さ。
 静かすぎる。
 なんの音も無い暗い部屋の中で、消音にしたテレビを付けているようななんとも言えない気配。そんなものが伝わってくる。
 何も言わないで欲しいはずなのに、何も言わないのが怖ろしい。
 顔を伏せているので顔は見えない。だらりと腕を垂らし、口元が歪んでいる。およそ人間には出来ない壊れた笑み。
 恭亜はもう理解していた。目の前の人間は別次元の存在であると。
 それでも、原形を留めていた頃の名前を読んだ。
「檜山……」
 返事は来ない。彼はただずっと立ち尽くしたまま歪な笑みを浮かべているだけ。
 その血は誰のものか、お前がオーラム・チルドレンなのか、何を言えばいいかわからない。
 不自然な沈黙を破って、アインが前へ出る。
「答えぇ。オーラム・チルドレンに成って、惨殺死体を作ぅたんはアンタやな檜山皓司」
 銃を突きつけたまま、アインは鼻をすん、と利かせて目つきを鋭くする。
「しかも……また誰か殺したな。血の臭いが新しすぎる」
 恭亜の驚きの視線がアインへ向き、その視線を追って檜山へと滑る。
 やがて、拮抗を保っていた静寂が、彼によって破られた。





 美弥乃は駆け足で紫耀学園に戻った。
 とはいえ、どこに行けばいいかなんて判らない。とにかく彼らが一番居そうな場所を手当たり次第に探す他ない。
 寮区に入り、女子寮の門を潜って自室のある家へ向かう。
 いちいち中へ入らず、窓から覗くように顔を近づける。
 カーテンが掛かっていたが、幸い微かに開いていて、彼女の部屋の中が見れた。
 中は畳敷きの床に布団と脱ぎ捨てられた服と黒い旅行バック、そのほかにはまるで何も無い。正直、本当に三ヶ月ほど生活している人間の部屋かと思うぐらい質実簡素な部屋だった。
 だが、それを見て美弥乃はすぐに気付く。彼女は学園に居ると。
 脱ぎ捨てられた服。壁にはハンガーが掛かっているが、有るべき学園の制服が無い。今、彼女が制服を着ている証拠だ。
 美弥乃は顔を離して走り出す。
 想う人を、口にする。
「恭亜君……!」
 どうせなら早く携帯の番号を尋問しておけばよかった。
 美弥乃はそう後悔に歯軋りしながら、女子寮の門を潜った。





 3


「姫宮……それと、蓮杖か。おいおい蓮杖ぉ……テメェまさかオレと同じなんかよ」
 突きつけられた銃を眺め、檜山皓司は言う。不敵に、無敵に、素敵に、鮮やかな紅を浴びた悪魔。
 アインはちらと恭亜に視線を送る。『下がってろ』と言いたげだった。
「悪いけど、アンタと一緒にせんといてもらえへん?」
 だが、檜山皓司は暗い笑みを浮かべている。
「冷てぇじゃんかよ蓮杖ぉ〜……オレもやっとテメェらと同じ力を手に入れたんだ、人間なんざゴミより下らねぇモンに見えちまう。最高の気分だ! マジで頭ん中ブッとんじまいそうだ」
 ひひ、と下卑た声が漏れる。
 それだけで恭亜の背筋が怖気で凍る。
 アインは、冷静を通り越して冷酷なまでに目を細める。
「世界と契約したぐらいで粋がんなや。接触したんは誰や?」
「あん? ま、いーや。知らねぇよんなもん、金髪のいけ好かねぇ野郎だったけどよ。どぉでもいいだろ、テメェの力がありゃあ」
「その力で、人を殺したのか……」
 恭亜が口を開くと、突然檜山皓司の形相が引き攣る。怒りで染まった眼光を恭亜に叩きつける。
「人間のくせして喋くって目立とうとすんなよ! 姫宮ぁ!!」
 びりびりと空気を振動させ、言葉に出来ない威圧が恭亜を竦めさせる。
 その小さな怯えを見て、ぞくぞくと震える檜山皓司。
 嬉しい。最高だと思う。あの&P宮恭亜が、怖気付いたのだ。
 自分の声で、自分の感情で、恐がった。
 陶酔のあまり、嘲笑う声が止まってくれない。
 喉の奥が乾いて声が出せなくなる恭亜を尻目に、アインは続ける。
「オーラム・チルドレンや言うんなら、シェイプネームぐらいは用意しとるんやろな」
 恭亜は出来得る限りに小さな声を出す。元より、これが声域の限界になっていた。
(なにネームだって……?)
(シェイプネーム。真名っちゅう、世界と同一になった自分を新しく名乗るための、オーラム・チルドレンのための本名や)
(ニックネームみたいなものか?)
(オーラム・チルドレンとしての本名やっちゅうてんの……!)
「んなにくっちゃべってんだっつってんだろぉが!!」
 再び檜山皓司の怒号で、二人の口が同時に閉じる。
 いらいらした風に爪先が地面を叩き、血塗れの檜山皓司の眼光は未だ恭亜の方を向いている。
「うぜぇんだよ姫宮ぁ……なんの力も持ちゃあしねぇクズのくせに、余計な台詞はいらねぇんだよ。テメェは黙ってそこにいろ」
「なん、だって……?」
 恭亜を見て、一際歪めた笑みを向ける。
「テメェはこの舞台のやられ役だよクソ野郎。オレという主人公に嬲り殺される、やられ役」
 ゆらり、と頭を横にふらめかせて歩み寄る。
 その一挙で、二人にも緊張が奔る。
「蓮杖がオーラムなんたらっつぅのだってのは予想外だけど、まあいいや。華のねぇ劇っつうのもつまんねぇしな」
「劇……?」
 恭亜が喋ると癇に障るようなので、アインが問いかける。
 途端に檜山皓司は爆笑する。腹を押さえ、腰からくの字に曲げてゲラゲラと一頻り笑ってから答えた。
「テメェらが決めろよ。喜劇、悲劇、笑劇、惨劇、歌劇、黙劇、なんでもいいんじゃねぇか? 大切なのはオレとテメェが配役に決定されてるってこったよ、姫宮」
「脇役はいらへん?」
「好きにしろよ、邪魔したらテメェもぶっ殺すけどな」
「アイン!」
「黙って」
 焦燥に声を発する恭亜を遮る。
 アインは銃を下ろして、静かに言う。
「アンタには何も出来へん、どっか陰に引っ込んどいて、素人」
「そぉそ、後でぶちっ殺してやっから陰でビクビク震えてろ、人間」
 二人の、まるで正反対の冷徹な声色。
 恭亜は己の無力に歯噛みしながら、それでも息を殺して一歩ずつ退がる。
 アインは檜山皓司と対峙する。
 思い出したように、狂気を纏う男は嘲笑う。
「さっきなんて言ってたっけ? シェイプネームだっけか、そういや自己紹介なんざマトモにやったことなかったな」
 檜山皓司は右腕を差し出す。
 ぼんやりと右手が霞み、陽炎から緑の小さな物体が現れる。婉曲した柄に厚みのある刃。今時のナイフとは比べ物にならない、疑念より不安が生まれる切れ味の悪そうな発掘物みたいなナイフ。
 それをアインに向けた瞬間、アインの背中に警戒が強まる。それを見て恭亜は悟る。
(あれも、神器ってやつか)
 檜山皓司は慣れた手つきでナイフを弄り、笑う。
「オレは切り裂き魔=A『オレよりも上位の人間性への憎しみ』を元に【憎悪世界】と契約した。そしてこれがオレの力――」
 檜山皓司が一気に右腕をかざす。
 瞬間、アインが弾かれたように恭亜を向く。
「逃げぇ!」
 ふと、ピシュン! という空気の抜けるような軽い音がする。
「――ジャック・ザ・リッパーだ!!」
 刹那、視えない力がグラウンドの地面を切り裂いた。出鱈目に、それでも伝導するようにアインと恭亜を襲って吹き荒れた。





 美弥乃は学園の校舎内に居た。
 自分の教室に入って中を確認していたのだが、勿論誰も居ない。
 息を殺して教室を出る。扉をゆっくりと閉めようとした瞬間、
「美弥乃さ〜ん」
 背後から掛けられた声に美弥乃は心臓が停まるかと思った。
 涙目でそーっと振り返ると、猫のような無音で沙耶先生が佇んでいた。淡い蒼のワンピースの上からカーディガンを羽織り栗毛の長い髪を一房の三つ編みに結った、病める御嬢様風体。稲城会長もそうだが、同じ女性としてスレンダーな体型は羨望するものがある。胸元で生徒名簿を抱えて、綺麗に背筋を伸ばして立っていた。
 表情は、柔らかい微笑み……の裏に凍える憤怒が感じられた。
「いまぁ〜、校内に居てはぁ〜、とぉってもいけないとぉ〜、ショートホームルームでぇ〜、先生言いましたよねぇ〜?」
 のんびりしてはいるが、凄みを帯びた責め苦に、美弥乃が冷や汗たらたらで頬をひくつかせる。
「しぃ〜かぁ〜もぉ〜、私服での無許可登校は減点モノでぇ〜すぅ〜けぇ〜どぉ〜?」
「え、あ、う、いや、あの、その、えと、」
 返答と謝罪と虚言と、何を言えばいいのか判らずにそれ単体では意味を成さない声ばっかりが口から出る。
 数秒彼女を咎めるように目を細めていた沙耶先生は、溜息混じりに肩を落とした。
「……まぁ〜、先生もここに居るのは本来御法度ですのでぇ〜、おあいこにしましょぉ〜」
 こちらへ、と催促する沙耶先生に続いて、廊下を進む。
 怒ると恐いが、根が優しい教師肌の沙耶先生は、いくらかやんわりと口を開く。
「一応は警備学生が待機しているのでそちらに一言断って下さいねぇ〜、ところ変わりまして何か忘れ物ですかぁ〜?」
「あ、いえ……」
 美弥乃は戸惑った。人を捜していたと言いたいところだが、その捜し人を彼女が一番知っているはずの人間だ。
 なので、「まぁちょっと……」と言葉を濁して流した。
 本当なら今すぐ全力疾走したいところだが、それを抑えて沙耶先生を見やる。
「あの、先生」
「なんでしょぉ〜」
「その、きょ――」帽子を脱ぎながら、あえて苗字に訂正する。「姫宮君って、どんな人なんですか?」
「姫宮君、ですかぁ〜?」
「はい。実は昨日、姫宮君と檜山君って仲悪いんじゃないかなって思う気がして……」
「あらあらぁ〜、そうなんですかぁ〜」
 困ったように頬に手を当てて溜息を漏らす沙耶先生。
 彼女もまた稲城会長と同じく、教師としての視点ながら教え子を重点的、いやむしろ最重要で見る良心的な人だ。
 むしろこっちのほうが凄い。稲城会長はあくまで同じ立場上、自分が事を荒げないように仲立ちの要領で仲裁を行う。それに比べて沙耶先生は教員という立場がたとえ悪になろうともストレートに体を張るタイプだ。どれだけ同僚に反感を買おうとも、たった一人の生徒の未来の礎になろうとする。生徒である美弥乃ですら、この人には頭が上がらない。
 だから、不謹慎ではあるがこの人の心配は落ち着く。
 この際だから自分の発言で心配させたんだってことは無かったことにした。
「先生も担任として生徒の悩みは何とか解決の方向へいかせたいのですがぁ〜、二人とも違う意味で問題児なのでぇ〜」
「え?」
 意外だ。
 檜山が問題児だと言うのは十二分に頷けるが、姫宮にマイナスは無いと断言できよう。
 すると、ばつが悪そうに沙耶先生は苦笑した。
「ですから別の意味でですぅ〜、檜山君は中学時代から素行の問題性について疑惑があったそうですぅ〜、恭亜君はぁ〜、むしろ良い人すぎて問題視してるんですぅ〜」
「いい、人ですか」
「そうですねぇ〜」沙耶先生は念のために辺りをきょろきょろと見回してから、「このことは内緒に出来ますかぁ〜?」
 しばし逡巡したが、口の堅さには自信がある。こくりと頷くと沙耶先生は耳元に囁くように言った。
「実は彼はぁ〜、楓鳴帝学院の転校生なのですよぉ〜」
「……………って、ええっ!?」
 まさに飛び跳ねるような反応を示し、美弥乃は驚愕した。
「ふ、楓鳴帝って……あの楓鳴帝だったりします?」
「はいぃ〜、千葉の県下トップのぉ〜、日本人なら誰しもが東大より行きたいであろう私立高校ですぅ〜」
「……」
 沙耶先生の言い回しに、『言いすぎ』という概念は無い。全くもってその通りだからだ。
 楓鳴帝の入試テストなんて全教科で一個でも八十点台を出したら諦めるべきだとか、校内で石を投げたら絶対に億万長者の子供に当たるというのも、強ち誇張ではない。
 それ以上に美弥乃にとっては驚きなのは、あんな優しそうな青年が、あんなガッチガチの監獄に居たことだ。
 しかし、それでは不明瞭な点も浮上する。
「どうして、ここに?」
 確かにここも進学率が高めの、そうそう狙って入れるところではない。だとしても日本最高峰の超々エリート学校に入れる時点で、紫耀学園なんて二流もいいところだ。
 沙耶先生は言い難そうに頷く。
「先生も驚き桃の木なんですけどねぇ〜、なんでも自身のみの意思で転校してきたらしくぅ〜、家族問題なのではということでぇ〜、先生達も何も口を挟めないのですよぉ〜」
 悔しいですぅ〜、と寂しげに自分の力の弱さを噛み締める沙耶先生。
 家族の、問題。
 もはやそれは美弥乃ですら首を突っ込めることではなかった。
 当たり前だ、エリート学校に通える富豪家庭の問題に、一般庶民の美弥乃が関与していいわけがない。
 居心地が悪そうに胸を服の上から掴む美弥乃は、ぐっと視線を上げる。
「それで、姫宮君と檜山君が喧嘩しないかが心配なんです。今日も、なぜか蓮杖さんと何か話してましたし」
 すると、沙耶先生はきょとんとした顔を向けた。
「蓮杖さんですかぁ〜? そういえばぁ〜、先ほどお二人を見かけましたがぁ〜」
 え!? と美弥乃の目が見開かれる。
「寮区の辺りでお話しているのを見ましたぁ〜、何故か姫宮君は木刀を持ってましたけどぉ〜、なんでしょうねぇ〜」
 のんびりすぎる口調に焦燥感を覚え、美弥乃は沙耶先生を引き止める。
「先生っ! それ、いつ見ました!?」
 必死の形相に、少し驚いた沙耶先生はそれでものんびり答える。
「つい十五分前ですよぉ〜、二人とも制服を着ていましたのでぇ〜、寮に帰るのだと思ってましたがぁ〜」
「……っ」
 そんなはずがない。
 入れ違いで寮区へ戻ったのだろう。となれば二人は出かけるのだが、六時以降は警備学生の警戒態勢が布かれることは、彼はともかく彼女なら知っているはずだ。とすれば、二人はすぐ近くに居る。
 美弥乃は駆け出した。リノリウムの床を靴下が擦れる。背後から制止の声が聴こえたが無視した。
「あぁ〜、どこいくんですかぁ〜、美弥乃さ〜ん」
 というか、あの口調を最後まで聴いてる暇がない。





 恭亜が知らないことばかりの非日常。
 なんどもその片鱗を突きつけられたことはあるが、そんな非日常に襲われる日が来るとは夢にも思わなかった。
 それでも、襲ってきた。
「ちょっと! はよ立たんとズタズタに切り刻まれんで!?」
 アインの焦燥が混じったソプラノの叱咤に、恭亜は我に返る。
 刹那、ピシュン! という空気の擦れる音と、チュイン! という鉄塊の弾ける音とが同時に炸裂して、アインが頭を引く。
 グラウンドの隅に置かれている用具倉庫の陰に隠れる二人へ、乱雑な斬撃が吹き荒れる。
 プレハブ状の倉庫、硬い土の地面、なけなしに立つ木、静かに流れる空気、あらゆるモノが裂かれる。視えない刃は薄く小さく、しかし人が受けるには怒涛すぎる嵐と化す。
 ガトリングにも似た衝撃を背後に、アインが銃を構えて苦々しそうに吼える。
「っくぅ……厄介な能力やな、さしずめ真空の刃か!」
「それって、鎌鼬みたいなものか!?」
「やろぉな! そら人の皮引っぺがすのが巧いわけや!」
 鉄製の倉庫を打ちつける斬撃の轟音で、二人の声が大きくなる。
 銃の類と違い、斬り幅の広い檜山の斬撃は顔を出すのも一苦労。しかもこの斬撃、かなり無差別だ。
 視線だけをずらすようにしてアインへ向く。
「ど、どうするんだよ! こんなの喰らい続けてたら……!」
「……」
 アインは恭亜の言葉を聴きつつも、何も答えられずに攻撃を受けていた。
「く、はは! あははははははははははははははははははははははははぁああ!!」
 倉庫の向こう、グラウンドの真ん中から、ハウリングに近い狂笑が轟く。
「最高だ! オレを見下しやがった姫宮が頭抱えて逃げてるよ! オレをシカトしやがった蓮杖が何も出来ずにいやがるよ!! ははっ! はははははははははははははっ!」
「俺は見下し合いよりも友好関係を築きたいんだけどな!」
「ウチはただ単に昼寝を邪魔されて腹が立っとっただけや!」
 返答が来るわけではないが、二人して乱撃の中で喚く。
 欠片なりしもプライドを持っていた檜山だが、豹変より別人格にも思える狂いぶりをするのが恭亜には恐ろしい。
 頭の冷静な部分が彼女の言葉を思い出す。

『世界と契約するということは、自分の魂の一部をその世界に占領されるようなもんや。必然的に心の中身が溢れ出る=x

 『侵蝕』、オーラム・チルドレンと成ることへの代償。

『コップに満タンに溜まっとる水やな、さらに水を流し込んだら在るべき人格≠ェ外に溢れる。魂が欠ける。人間性が、狂う』

 人としての日常が壊れる。
 檜山皓司の日常は、もう還ってこない。
 肉親を虐殺し、他人を惨殺し、恭亜を憎悪し、人間性を捨ててまで人外の世界を背負って、壊れた。
 彼はもう檜山皓司ではない。
 オーラム・チルドレン、切り裂き魔=B神器ジャック・ザ・リッパーを行使し、暴虐の快楽で憎しみを和らげる悪魔。
 恭亜は、歯を食いしばって地面に拳を叩きつけた。
「ち、くしょう……なんだって俺は誰も護れない? 結局檜山を貶めて非日常に追い込んだのは、俺じゃないか!」
 アインはじっとその背を見つめる。
 ズガガガ! と倉庫を削る音など忘れたかのように、恭亜は自分の非力さに嘆きと叱責を叫ぶ。
「なんで俺は壊すことばかりなんだ! 俺には何も出来ないってのかよ……」
「……」
 アインは一瞬、恭亜以上に現状を忘れた。
 直後、チュイン! という金属の音と共に視界の端で火花が散るのが見えて、アインは意を決するように口を開いた。
「……アンタは、変な奴や」
 え? と恭亜は後悔に泣き崩れるんじゃないかと思う表情を向ける。
「アンタはものごっつぅ適正しとるのに、日常がいい思とる。ウチには宝の持ち腐れで、馬鹿なことや思う……同時に、羨ましい」
 恭亜は沈黙した。
 銀砂の髪に隠れた美しい、そして氷のように張り詰めている無表情に、恥じらいの赤が浮かぶ。
「か、勘違いせんといて。ウ、ウチは別に日常がいい言うとるわけやなくて、ただアンタの生き方もあるんやって思うただけやから」
 恭亜は、なんとなく思った。
 もしかして、照れてる?
「せやけど、自棄すぎんのも卑怯やで。アンタにしかできへんことやってあるんやから、シャキっとしてもらわんと困る!」
 ぷいっと顔を逸らしてしまう。恭亜は数秒して、やっと心に落ち着く高揚感を覚えた。
「アイン」
「……なんや」
 もう、下で呼ぶなとも言わない。
 それを知って安心した。
「作戦がある。かなり無謀で、お前を犠牲にし兼ねないけど」
「言うてみ」
 臆することなく諦めるわけでもなく、アインは即座に返事をした。





 4


 切り裂き魔◇w山皓司の神器、ジャック・ザ・リッパー。
 実際の鎌鼬とは違う。空中に浮遊する素粒子の固有振動数を止める、一種の念力が正体。
 浮遊に必要な推進力を極限まで圧縮し、それが再拡散する際の反動を応用したもので、有り体に言えば真空の刃を飛ばすのではなく離れた空間に空気の断裂を生む。その座標上に対象を合わせるものだ。
 だが、三次元の空間から平面的である斬撃を生み出すには、同時にその座標の二次元構造を演算する必要がある。当然ただの学生が一朝一夕でそんな芸当を意識して出来るわけがない。
 事実、グラヴィティローダー(空間比重使い)が本来必須する『演算』という精密さが失われ、暴走気味に荒れ狂う。
 それでもいい。
 檜山はドロドロに歪んだ狂気の笑みを浮かべて心底そう思う。
 そんなこといいんだ。だって、それを気にする必要がない。
 澄ました顔でなんでもこなして、憎らしくてしかたがなかったあいつが、自分を畏れている。
 恐くて身が竦み、何も出来ずにいる。
 最高だ。
 実に、気分がいい。
 それに、いちいちそんな算段を利かせるのが面倒臭いし、無粋だ。
 もっと純粋に、もっと過激に、もっともっと気持ちよく姫宮を殺したい。
 生きたまま、ぐちゃぐちゃにしてやりたい。
 誰が見ても理不尽で、そして誰しもがその光景から目を逸らしたくなる、そんな憎悪。
 誰もオレより上位に居ない。
 それこそが、檜山皓司の、切り裂き魔≠フ在るべき世界。
「ひ、ひひ!」
 ぴくぴくと痙攣のように引き攣る笑みを浮かべ、獰猛なまでに犬歯を剥き、切り裂き魔≠ヘすっと腕を振るう。
 彫刻刀を愉しむように、グラウンドの隅に据え付けられている倉庫を削っていた斬撃の嵐を止める。さすがに人を一撃で殺すほどの力場が出ないためか、倉庫の鉄面を露出させる程度しかできない。
 切り裂き魔≠ニ倉庫との合間の地面や空気を手当たり次第に切ったため、砂埃が舞う。
 ベージュのカーテンが遮るグラウンドを、切り裂き魔≠ヘゆっくり歩き出す。
 倉庫の裏。蓮杖はいやに馬鹿でかい銃を得物にしていたが、切り裂き魔≠ノは誰かに負ける気はしなかった。
 今なら、世界中の誰を相手にしても勝てる。憎しみ、それが彼より上位の存在に対する強さを増長させる。
 散歩の最中のように、両腕をだらりと弛緩させて歩く。
 目指すは、砂塵の幕の奥に立つなけなしの建物。

「行くでぇ!」

 不意に煙幕の向こうから耳心地の良いソプラノの一喝が飛んだ。
 蓮杖、と切り裂き魔≠フ思考がそう判断した直後、二つの影が左右に飛び出した。
 揺れていた右腕が、跳ね上がる。
 蓮杖の実力がどれほどのものかは判らないが、もし銃の達人なら分が悪い。向こうとは違い、ジャック・ザ・リッパーはまだ命中精度も殺傷力も極めて低い。誤って姫宮を狙ったら危険だ。
 右腕に気を集中し、二つの影のどちらが蓮杖か視線を巡る。
 刹那、左手の影が立ち止まる。ちゃき、という銃の金具音が響き、
「そっちかぁあああ!!」
 反射的に右腕を振るう。手に収まる緑色のナイフ、ジャック・ザ・リッパーが彼の意思により、空間を圧縮する。
 拡散。
 空気が反動を受けて切り裂かれ、煙幕に亀裂を作る。
 そこでやっと視界が良好になり、気付いた。
 狙った先には、銀の銃を向ける姫宮。
「……!」
 砂塵の影が、右から飛び出す。
 木刀を拙げに掴んだ蓮杖のか細い腕が横に薙がれる。
 切り裂き魔≠ヘ咄嗟にジャック・ザ・リッパーで防ぐ。ジャック・ザ・リッパーは空気の断裂で生じる斬撃と違い、武器としての性能は名刀をも凌ぐ。たかが市販の木刀など綺麗に切り落としてしまえる。
 だが、蓮杖の剣捌きが拙すぎたのが災いした。目の前で思いっきり空振りする。
 ぐらつく蓮杖の肩口めがけてジャック・ザ・リッパーを突き入れる。
「甘いで」
 小さく呟く声。
 その直後に華奢な蓮杖の姿が視界の横へ流れる。
 な、と切り裂き魔≠ェ仰天した瞬間、ドン! と背中に強烈な痛みが奔り、切り裂き魔≠フ体が前へ倒れた。
 グラウンドの砂利にどうと倒れる切り裂き魔≠ヨ、さらに蓮杖は木刀を振るう。
 意識を刈り取る一撃が、首に振り落とされる。
「テメェだって甘すぎんだよ」
 切り裂き魔≠フ声に蓮杖の頬が引き攣る。
 瞬間、カツン! という乾いた音が短く響いた。
 振り落とされる木刀を横合いから斬撃が直撃する。軌道を外され、地面を虚しく木刀が叩いた。
 蓮杖はすぐさま退く。直後に切り裂き魔≠フ周囲を滅茶苦茶に斬撃が吹き荒れる。
 一歩遅れたせいで、右脚に斬撃が掠る。膝下まで伸びる黒い靴下が切れ、ぱたた、と鮮血が散った。
 距離を取る蓮杖は脚を見やる。
 といっても、ジャック・ザ・リッパーの飛ぶ斬撃は切れ味はいいが、さっきのように木刀すら切り落としきれない威力だ。蓮杖の細い右脚のふくらはぎに、カッターで切った程度の傷でしかない。
 ゆらりと立ち上がる切り裂き魔≠ヘ蓮杖と再び対峙する。
 ちらと視線だけをずらすが、すでに姫宮は居なくなっていた。
 恐らく、逃げたのだろう。
 切り裂き魔≠ヘ口元を歪める。
「蓮杖ぉ……哀しいなぁおい、愛しの愛しの姫宮君はテメェの得物かっさらって逃げちまったなぁ?」
 下卑た嘲笑。切り裂き魔≠ヘまるで自分の右腕であるかのように、ナイフを指先で遊ぶ。
 蓮杖は脚の具合を見ていた視線を起こす。
 正面から見ると、とても美しい顔だと切り裂き魔≠ヘ思う。
 銀の髪に合う、白い肌。寝不足のよう気だるそうな、しかし意志を黒い瞳に宿らせる強い姿。
 そんな妥協のない完璧な可憐さを、ズタズタに引き裂いてやりたい。
 四肢の腱を切って、泣いて懇願するまで犯して、それから臓物をブチ撒いて、姫宮に見せてやりたい。
 そうして姫宮が恐怖に絶望する姿を、笑って笑って殺したい。
 くつくつと湧き上がる憎悪の狂笑。
 それを無感情な瞳で見て、蓮杖は口を開く。
「別にあんなのを愛しい思うたことない。それに切り裂き魔=A気安く名前で呼ばんといて」
「へぇ……そういやテメェもシェイプネームがあんだろ?」
 もう完全に砂塵の煙幕が消え去り、静寂に溶け込むように蓮杖は答える。
「契約した世界はウチ自身にも判らへんねん。せやけどシェイプネームは決めとる……ウチの真名は星天蓋=B生まれたその時から世界を理解できずに同一化した、世界知らずの契約者」
「せいてんがい……カッコいいねぇ」
「切り裂き魔=A一つ答えぇ。なんでアンタはアイツを憎んでんねや」
 蓮杖の言葉に、切り裂き魔≠ヘ高揚を覚える。
 星天蓋§@杖アインと対等に渡り合う、あの姫宮すら除け者になる世界に、自分が居られる。
「決まってんじゃねぇか、ひひゃは! オレはオレ以外の全員がオレ以上の存在になるのが許せねぇのさ。澄ましてやがるテメェも、クズのくせにオレをクズ扱いしやがった姫宮や、そんなクズを助けやがった鵜方も! 全員死ねばいいんだ! 全員ぐっちゃぐちゃにブチっ殺してぇ!! はは! ぎゃははははは!!」
 異常な高笑いを弾けさせる切り裂き魔≠ヨ、蓮杖は冷たい視線で返す。
「別に澄ましとるわけやないんやけど」銃の代わりに持っていた木刀を横に放る。「下らへん殺しをしすぎたな、切り裂き魔=Bこれ以上は《ツクヨミ》にも《アマテラス》にも危険因子んなる。アンタは終わりや」
「くっくっ! 最高だ! オレ以外の奴らが徒党なんざ組んでバカスカやってるなんて笑いが止まらねぇ!!」
「しょうもない連中と組んどったとは思えへんな」
「はぁ? あんなクズどもなんざもう記憶にも覚える気ぁねぇよ。オレは最強だぁ……」
 陶酔したような胡乱な瞳に、蓮杖は危険性を感じ取った。
 切り裂き魔≠フ憎悪があまりに純度が強く、契約した【憎悪世界】との侵蝕率が跳ね上がっている。
 世界と同一になるといっても、所詮世界は契約者の心の一部を乗っ取るだけの精神でしかない。だが逆説、まんぱんである精神の器に余計な物体が入れば支障を来す。最悪、世界に呑まれたら精神が破綻を超え、崩壊しかねない。
 それを知らず、切り裂き魔≠ヘ優越感に浸り続ける。
 最高の気分と、最高の確信と、最高の標的。
 それら総てに憎しみをない交ぜて、切り裂き魔≠ヘナイフを振るう。
「オレだけが最高でありゃあいいんだよぉぉぉおおおおお――!!」
 横へ一閃。
 瞬間、空気が硬直する緊張が蓮杖の頬を伝わり、蓮杖は姿勢を低める。
 ピシュン! という空気の反動が響く軽い空気漏れのような音。
 同時に地面に空中に蓮杖に、あらゆる方向へと無茶苦茶に裂いて襲う。
 蓮杖は両腕をクロスさせ、目一杯に体を低める。
 地面に倒れかねないほどの低さを以って突進するが、ジャック・ザ・リッパーの斬撃は主を護るかのように切り裂き魔≠フ周囲に多量の斬撃を放ち、竜巻のように守護している。
 眼前、背後、足元、まさに紙一重で斬撃を避けて進む蓮杖は、遂に斬撃の台風の目へ跳び込む。
 ずざちゅん! と防護する雪のような白い腕が無数に裂かれ、傷口にから飛んだ血が白いシャツとスカートに鮮やかな牡丹の絵柄を咲かせる。
 切り裂き魔≠フ制空権に達した蓮杖を見て、切り裂き魔≠ヘ体を捻る。ついさっきの一合で、近接戦闘で蓮杖に適うわけがないということをよく判っていた。
 横に一歩避ける。ただ、オーラム・チルドレンの身体能力は常人とは比べ物にならない。
 反射で追う蓮杖と切り裂き魔=A五メートルの距離を跳躍しながら間合いを維持し続ける。
 切り裂き魔≠ヘ舌打ちをする。あまり近い距離で斬撃を放つと、自分まで巻き添えにしてしまう。
「う、ぜぇっ!!」
 ジャック・ザ・リッパーを握り締め、当たれば必殺のナイフを振った。
 だが空中を跳んでいた蓮杖の頭が、ガクンと落ちる。さらさらの白銀髪の先端が掠って、抵抗なく切られる。
 ほとんど勢いのように突っ込み、蓮杖の体がぐるんと横に回転する。
 そのまま左脚を軸にして回し蹴り。身体能力が飛躍するとはいえ、実質的な戦闘知識は素人の切り裂き魔≠フ鳩尾に見事に革靴の底がぶち込まれる。
 ぐ、と酸素を奪われ呼吸を失った瞬間、さらに蓮杖の軸足が折れて姿勢が落ちた。
 切り裂き魔≠ヘ視線を落としたのが失敗だった。両手を地面に突いて、逆立ちをする蓮杖が見える。
 直後、頭頂部に衝撃が奔った。
 両足の踵でハンマーのように殴り落とされたのだ。
 一気に視界が白く濁る。
 足が踏鞴を踏んだ。蓮杖はそれを見計らって、右足先を踏みつけられる。
 尻餅をついて倒れる瞬間に右手を叩かれた。
 右手の力が弛み、ジャック・ザ・リッパーが零れ落ちる。
 からん、という軽い音と、切り裂き魔≠ェ完全に倒れ伏す砂利の音。
 そして、蓮杖の脚がふっと軽く地に降り立つ。
 慌てて切り裂き魔≠ヘ頭を上げたが、体が動かなかった。ダメージによるものもあったが、蓮杖の片足が切り裂き魔≠フ両足の合間に置かれているため、立つ動作すら出来なかった。
 夕陽の紅蓮を背に浴びて、蓮杖の銀砂の髪が綺麗に煌く。
 それとは対照的な、冷たい突き放すような無感情の瞳。
 切り裂き魔≠ヘ、背筋を凍らせた。嫌な汗が鮮血と混じって頬を伝う。
 蓮杖は視線を伏せ、落とすように呟く。
「人を殺すことが最良や思とんの? その程度でオーラム・チルドレンを測るやなんてアホな子やな切り裂き魔=Aウチは能力をまったく使えへん異端やから良かったんや。ハイネやプリシラが相手なら、アンタとっくに死んどるで」
 滔々と言う蓮杖に切り裂き魔≠ヘ歯をぎりぎりと食いしばる。
 たかが女一人にどうしてこうも巧くいかない?
 なぜこんな無様な格好をしなくてはならない?
 最強はオレだけでいい。
 最低はテメェのはずだ。
 なんで、なんでこんな雑魚に見下されなければならないんだ!
 憎しみが肥大し、地面を指先が這う。ジャック・ザ・リッパーを探しているのだ。
 それに気付いた蓮杖はさらに一歩前に出る。
 股に置いていた足を、切り裂き魔≠フ下腹部に移して体重をかける。病人並みに軽いため大した攻撃性はないが、それでも人間一人分の重みが全て腹に集約され、切り裂き魔≠ヘ息を詰まらせ、動きを封じられた。
「神器を手放したのが運の尽きやな切り裂き魔=B能力は神器なしには発動せぇへん、逆に能力完全度外視のウチには殴り合いで勝つこともできへん」
「れ、んじょぉおお……!」
「せやからオーラム・チルドレン同士の戦闘でそっちの名前を呼ばんといて。ウチも檜山の名前に別に思い入れも無いし」
 その一言に切り裂き魔≠ヘ逆上する。
 蓮杖の切られて血に染まる靴下に包まれた、握っただけで折れてしまいそうな足首を掴む。
 握力を増そうとしたその光景の滑稽さに蓮杖に溜息を吐かれる。右脚と両腕を幾度も切られてるのに、どこまでも戦闘に沈着で自分に冷酷な蓮杖が、見ているだけで嫌だ。
「一応切られたとこ痛いねんから、触んな」
 呟きと同時に、どごん! という鈍い音が炸裂する。
 掴まれていた右脚を浮かせ、地面を踏みながら左脚で顔面をサッカーボールのように蹴られた。
 流れる視界に手が離れ、砂利の上を転がる。
「が、っは!?」
 しかも本当に残酷なまでに、足の甲ではなく爪先で蹴ってきた。革靴の先端の容赦ない一撃で頬が灼熱を帯び、咳き込んだ口から折れた奥歯が二本も飛んだ。
 鮮血で濡れていた制服に、砂が纏わりつく。それすらも忘れ、切り裂き魔≠ヘ怯えた。
 恐い。
 殺される。
 せっかく最強になれたと思ったのに、頂点に上り詰めたと信じていたのに、こんなあっさり殺されるなんて。
「誰かに自分が一番であることを知らしめる、それがアンタの憎しみの根源」
 ゆっくり近づいてくる悪魔が、綺麗すぎて闇へ誘うように聴こえる声を奏でる。
 切り裂き魔≠ヘ優しい声色に残虐な結末を予想し、ひ、と情けない悲鳴を発する。
「認められたい。自分が説いた言葉を誰しもが羨望し、あるいは絶望する。そんな理想を、現実で引き裂く者全員が赦せへん……せやから憎んだんやな? 言葉一つでは殺せへん信念を、アイツが持っとったことに」
 せやけどな、と蓮杖は途端に言葉を辛辣に変える。
 睥睨ではなく。純粋に怒りを込めて睨みつける。
「それを拒絶したんか知らんけどな、アンタが在るべき世界で生きることを望んだ肉親を手に掛け、関係あらへん人間まで私利私欲で殺したことは赦されへんねや。もう、アンタに救いは遅い」
 一瞬、
 最後の言葉だけが神々しい、美しき邪神の死の宣告のように思えた。
 身を硬直させる切り裂き魔≠ヨ、さらに一歩。
「終わりや、切り裂き魔=B日常とを仕切る境界線から逸脱する宿命として、オーラム・チルドレンは死ぬときに契約した世界の真意を深淵に否定される。存在が無かったことになる。日常を生きる人間の中から、『檜山皓司』が殺される」
 声が掠れ、何も言えなくなる。
 誰も記憶しなくなる。彼の生も死も、誰にも知れ渡らない。ただ壊れて無に還って、それで終わり。
 がちがち、と切り裂き魔≠フ歯が鳴る。折れた奥歯を震わせ、鉄と塩を混ぜたような味が口腔に広がる。
 嫌だ、そんなの嫌だ。
 二度も脳を揺さ振られ、たどたどしい足取りで立ち上がる。
 だが背を向けた直後、踏み出した右足が引っ張られる。蓮杖が彼の足首に蹴りを引っ掛け、足払いをしたのだ。
 格好悪いまでに地面にまた倒され、切り裂き魔≠ヘ顔を引き攣らせて地面を這う。
「安心しぃな。オーラム・チルドレンは日常よりも深淵に近い存在やから、ウチはアンタのことは忘れへん。ま、適正者は日常に近い人間やから、アイツは忘れてまうけどな」
 切り裂き魔≠ヘ無様に地面を這って逃げる。
 そんなの嫌だ。
 姫宮を残酷に殺して檜山皓司を最高で最強で最良の存在にすることこそが切り裂き魔≠フ総てだ。
 こんな、能力という能力も使えず、斬撃を両腕という肉を盾にしないと防げない。
 こんな出来損ないに、負ける。殺される。存在を、無意味にされる。
 オレが、総て。
 その意志が霞む。恐怖で白濁した思考が逃げろと告げるが、体が動かない。
 蓮杖は自分から逃げようとする切り裂き魔≠ヨ向けていた憐憫の視線を移す。
 持ち主に見捨てられ、地面に転がるジャック・ザ・リッパー。
 蓮杖はそれを拾い上げ、逆手に持って歩き出す。
「プリシラやないけど言うとく。初心の分際で足の踏み入れ具合を誤ったな、深淵を舐めるな素人」
 砂利を踏みしめる音が近づいてくる。降りかかる言葉に怖気を奔らせ、泣きそうな顔を擦って逃げる。
「死の間際で見苦しい姿は見せんなや、一兵卒も背は傷つけさせへんねんで」
 這う速度と歩く速度。もはや追いつくかどうかを問う必要などない。
 遂に蓮杖の足が切り裂き魔≠フ足を踏んで封じる。
 ぎくり、と体が強張るのが自分でも判る。
 死ぬなんて嫌だ。殺すほがいい。
 なんで死ななくちゃならないんだ。
 嫌だ。
 嫌だ!
 不条理を憎む視線を向けた直後、
「さよなら」
 声と共に、蓮杖の両手で握られたジャック・ザ・リッパーが、西日と重なった。

 その合間に、巨体が遮る陰りを挟んで。

「――え?」
 外れた声を発したのは切り裂き魔≠セった。
 自分の姿すら覆う影に驚く蓮杖。
 振り向くことはできなかった。無防備に両腕を挙げた体勢の脇腹に丸太のような腕が薙がれた。
 ゴム毬のように華奢な体が飛んでゆく。
 地面を何度も何度もバウンドし、摩擦と重力で止まる。
「こっ……かはっ!」
 腹部を押さえる蓮杖の潤んだ唇から、紅が漏れる。
 蓮杖が退いたことで切り裂き魔≠フ視界にそれは露わになった。
 左腕を振るった格好の、三メートル強の異形。首がなく、特撮映画で出そうな灰褐色のごつごつとしたゴーレム。
 鼻はない。噛み合わない継ぎ接ぎの牙と、二つの丸い眼光が切り裂き魔≠見据えている。
「そ……んな……ABYSS、が……どう、して」
 強烈な一撃で自身に異常を覚えたのか、弱々しく体を震わせる。
 じっと見詰め合う切り裂き魔≠ニABYSS。
 だがABYSSの眼光が、ぐるりと変わる。
 ゆっくりと立ち上がっていた、蓮杖へと。
「な゛っ……!?」
 いきなり標的が自分になったことへ驚愕する蓮杖へ、ABYSSは口を開く。
「ギィシャアアアアアァァァアアアアアアアアアア―――――――!!」
 ビリビリ! と空気を振動して襲い掛かる重圧に、蓮杖は一歩退く。
 それが引き金になったように、ABYSSは両手両足を地に突いて猛進しだした。
 猪のように突っ込んでくるのを、なんとか横に転がって避ける蓮杖。
 ぶち当たった木が中からへし折れ、ぐらりと倒れる。
 それを見ていた切り裂き魔≠ヘ、呆然としていた表情を取り去って天命を受けた。
 逃げられる。
 今なら、アイツを殺しにいける。
 切り裂き魔≠ヘ立ち上がると、足元に落ちているジャック・ザ・リッパーを掴んで走り出す。
「……! き、切り裂き魔≠チ!!」
 蓮杖の緊迫した声が掛かったが、次の瞬間に地面を鈍器で殴ったような音が炸裂して遮られた。
 切り裂き魔≠ヘ一目散に走り出す。
「――ひ、ひひ!」
 引き攣った笑みを湛えて、一人の人間を追う。
 憎くてしかたがない、偽善者気取りのクズを。
 今から証明するために、
 誰よりもオレが一番なんだと、
 切り裂き魔≠ヘ頬にへばり付く乾いた、他人の血を汚れた袖で拭い取り、グラウンドを抜け出た。





 ――第四章――
2006/02/02(Thu)22:44:52 公開 / 祠堂 崇
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