- 『聞こえる』 作者:廿楽 / リアル・現代 ショート*2
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全角3852.5文字
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原稿用紙約11.2枚
声だ。声が聞こえる。
一月十日――
埼玉県の西部に位置する町。都心と比べれば田舎とさえいえるその街並みには、活気と呼べるものが僅かだが残っていた。何年か前にオープンした大型百貨店に客の多くをもっていかれたものの、昼時から夕刻にかけての賑わいは目を見張るものがある。
事件らしい事件はほとんどなく、年に起こる交通事故の件数も、大事に至るものは数える必要もないことがある。
一言。平穏と言い表せるような町。
深夜遅く、そんな町の一角に建てられたマンションの一室に、一人の男が帰宅した。
「ただいまー」
誰もいないことは判りきっているのに、毎日繰り返してしまう言葉に男は苦笑すると、靴を脱ぎ捨て洗面所へと向かう。
途中にあった服掛けに脱いだコートをひっかけ、洗面台へと近づく。流しの脇に備え付けられた台の上に、おもちゃ箱でもひっくり返したような詰み方で放置された女物のメイク落としなどの中から、洗顔用の洗剤を漁り出す。汗で滑った顔をそれで洗い、手に貯めた水で数回、うがいをした。
砂が張り付き渇いた喉が微かに潤う。その快感に、ちょっとした遭難者気分を満喫すると、濡れた口元を拭い、男はふと視線を上げた。
男の目の前に据え付けられた鏡には、当然だが男の姿が映っている。コートの下に着込んでいた服には、まとめ買いしたカイロが貼り付けてあった。皺がよっていて、なんともみすぼらしい格好だったが、これが男の普段着だ。黒色と言って差し障りのない程度に青く染まった髪は、髑髏の眼窩を垣間見たような不気味さがあった。いや、もしも男の瞳が正常ならば、見る人の目にはカラスの濡れ羽色として映るだろう。しかし、男の瞳には生気というものが感じられなかった。どんよりと濁った黒色は、もはや死者のそれだった。
しばしの間、男は鏡の中の自分と見つめ合う。
(なんとも、情けない姿をしているじゃないか)
既にあれから二週間以上もの時が過ぎているというのに、依然として晴れない心を持った男は、自身を嘲り、笑った。そして腕時計に視線を落とし、呟いた。
「さて、そろそろか……」
部屋には女性の声が響き渡っていた。
既に日付が替わるかどうかという時間帯にも関わらず、その声はまるで舞台の上に立つ役者のように大きい。
「昨日は楽しかったね」
疲れているのだろうか。少し間延びした声。
高い声でもなければ、かといって低いわけでもない。言うならばすぐに忘れられてしまいそうな、特徴のない声だ。
そんな声をただ黙って聞いている男がいる。全身に憂いをまとった男の名は、井上智樹といった。
大学を出てからまもなく一年を向かえるが、定職には就けずにおり、この部屋を借りて不定期にバイトをしている。いわゆるフリーターというやつだが、バイトらしいバイトもここ最近はしておらず、小金を稼いでは遊び暮らし、その金が尽きる頃に新しくバイトをする。
その日暮、いや。その月暮らしとでもいうのだろうか。そんな生活をしているものの、親から送られてくるかなりの額にのぼる仕送りを全て生活費に当てているため、生活そのものには不自由はしていない。
部屋にはソファーとテーブルの他に小型のテレビと真新しい電話機があるだけで、他には何もない。家具が殆どないためか、訪れた人に広い印象を与えるその部屋で、智樹は安物のソファーに深く身を沈めていた。
傍らのテーブルに置かれたグラスには、薄い蜂蜜のような琥珀色に染まった液体が、その半ば辺りまで注がれている。
右手のひらでその口を覆うようにして握り、智樹はただ前方を見据えていた。
「智樹は二次会が終わったらすぐに帰っちゃったから知らないだろうけど、あの後もすごかったんだから」
その言葉は暗に何も言わずに帰った智樹の事を咎めていたが、あの場合は仕方がなかったんだと、智樹は思う。
大体、何も言わずに帰ったと言うよりも置いてけぼりにされたと言った方が正しい。
元々あまり酒に強いわけでもない、むしろ弱い方であろう自分が、あれだけの量の酒を飲んだのだ。店を出た途端気持ちが悪くなり、慌てて路地裏に駆け込んだときにはもう喉まで出かかっていた。
胃の中身が逆流し、喉を通る瞬間に激しい痛みを感じる。酷く気持ちが悪い熱さと痛み。しかしそれに伴って気分も次第に落ち着いてきたのもまた事実だった。
今でも、鮮明に思い出すことが出来る。これが全ての引き金だったのではないかという思いが、まるで焼きごてによる烙印を焼きつけるかのように、記憶を確かなものとしたのだろう。
胃の中の物を全部出し切ってから店の前まで戻ってみると、そこにはネオンに染まった町並みが続くだけ。そうお、誰一人として待ってくれてはいなかったのだ。
三次会に参加したと思われる知人の中で、携帯の番号を知っている者は数人のみ。ましてその全員にかけても誰も出なかったのだから、どうしようもなかった。
そんな智樹の苦労など知らない彼女は、直接的な揶揄で、間接的に非難する。
「……美香のやつなんか智樹君がいなくて寂しいなんて言って泣いてたんだから。まぁ、あの子は単に泣き上戸なだけだけど」
「ああ、それは和也からも聞いたよ」
そう呟いた智樹は、テーブルの上に置いてあったグラスを持ち上げ、口に運んだ。
ふと、その旧友の顔が頭に浮かぶ。最後に会った時、彼は黒いスーツを着ていたのを思い出した。
(そういえばあの日から会ってないんだな……)
すっと鼻腔をくすぐり、喉の奥へと抜けて行く香り。アルコールの弱いことで有名な酒だが、今の自分にはピッタリな酒とも言える。
ゆっくりと飲めば、この程度の酒でも智樹は簡単に酔うことができる。
これを聞く日はグラスに一杯、この酒を飲むと決めているのだ。それがあれ以来の智樹の日課であり、拠り所だった。
その結果、酔えなくとも酔った気になれれば構わない。一時であろうと、忘れる事が出来れば良いのだ。
「安全弁って感じの智樹がいなくなっちゃったから止める奴がいないでしょ?もうみんな飲んで騒いで大変だったんだから」
彼女の言うとおり、誰かが止めなければ泥酔するまで、いや、泥酔しても止まらない面々だ。いつもならその役を自分が担っていたのだが、この日は真っ先に智樹がダウンしてしまったため、言葉どおり『彼女を中心に』『大変』なことになってしまったのだろう。主に、店が。
空き瓶を振り回し、和也に食ってかかる彼女の姿が目に浮かぶ。その傍には泣き叫ぶ美香の姿と、みんなをなだめようと必死になっている智樹がいた。それがいつもの光景だったものだ。
(みんなが騒いで、周りの人達はさぞかし迷惑だったろうな。それで、店の人に謝るのはいつも僕の役目だった……)
目頭に熱さがこみ上げる。それを流し込むかのように、慌てて酒を呷った。
グラスをテーブルに叩き付けた際に、酒が辺りにこぼれたが気にも留めない。
「結局店を追い出されてからも日が出る頃まで和也の家で続けてさ、ふらふらと帰ってきてみたらもう寝る時間はないじゃない? シャワーをさっき浴びたんだけど、出てきてみたら中途半端な時間で……」
日の出というと五時ごろだろう。
みんなは一体どれほどの量のアルコールを摂取したのだろうか。間違いなく、かなりの量だ。それなのに、彼女の声からは二日酔いを思わせるような様子も感じ取れない。
(それとも、感じ取れないだけで実際はアルコールの影響が大きかったのだろうか)
もしそうなら、そのとき自分がいて、止められていれば……?
いや、あのとき君を誘わなければ……?
自責の念に駆られながらも、智樹は今もこうしてここにいる。
どんなに後悔しても、もう遅いのだから。
(もう、遅いのだ……)
グラスを傾けたが、残念なことにグラスの中にはもう何も入っていなかった。
「あ、もうそろそろ会社に行かないと」
声に交じってドタドタと走り回る音が響く。ガサガサという雑音はなんなのか解らないが、察するに慌てて身支度をしているのだろう。
「次にまたみんなで集まれる日っていつ頃になるんだろうね。ちゃんと私にも連絡してよね! またね――プッ、ツー、ツー、十二月、二十五日、午前、五時、三十二分。再生が終りました」
その無機質な言葉を最後に、留守電に残されたメッセージは途切れた。
十二月二十五日の交通事故による死者はただ一人。
早朝の路上で電柱に衝突し、運転手の女性は即死だったと聞く。
飲酒運転だったとも居眠り運転だったとも言われているが、特に調査はされていない。
平穏な街で年に数回起こるか起こらないかといったような、珍しい事故。それがたまたま、十二月二十五日だった。それだけのこと。
解っていることは、そう。
みんなが集まる日は、二度と来ないということだ。
(結局、今日は酔えなかったな……)
寝室へと向かう道は揺れていて、歩きにくい。突然、酷く傾いたかと思えば頬に冷たいものが当たった。
おぼろげに霞む視界ではそれがなんなのか解らないが、智樹は思った。
(まぁ、別にいいか)
目を瞑ると、すぐに意識に暗幕がかかる。薄れゆく意識の中、どこからか声が聞こえてくる。
視界が暗幕に完全に覆い隠されるまで、覆い隠されてもなお、その声は聞こえる。少し間延びしていて、高低の特徴のない声。
これは、君の声だ。
僕の耳の中で君の声が響いている。
いつまでもいつまでも……
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2006/02/03(Fri)07:29:38 公開 /
廿楽
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廿楽さんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
本作品はマルチポスト投稿と呼ばれる方法で投稿されています。本来ならば避けるべきものですが、手持ちの作品が無かったため投稿させていただきました。申し訳ありません。この場をお借りして、不快な思いをされた方々にお詫びさせていただきます。
初めまして、廿楽という者です。
つい先日こちらのサイトを発見したばかりで、おそらく全ての方と初対面だと思います。
このような稚拙な作品を書くようになってから、まだまだ日も浅いです。
本作品はある短編に強く影響を受けて書いたものですが、事情によりかなり短いです。今一ジャンルの区分が解らんかったので『SS』に分類いたしましたが、もし間違っているようでしたら、ご注意してくださると幸いです。
また『ここが変』『こうした方が良い』『もっと精進しろ』など、仰っていただければ可能な限り作品の質の向上のために精進するつもりです。
宜しくお願いします。
お読みいただき、ありがとうございました。