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『天使のたまご 00〜02』 作者:ゅぇ / リアル・現代 未分類
全角10620文字
容量21240 bytes
原稿用紙約34.45枚
天使のたまご――彼らは幸せさがしの旅にでる。恋を知る。友情を知る。喧嘩をして愛して、傷つきながら歩いてく。たまごから、小さな幸せがうまれてく。


  ――あたしたちはね、いつだって幸せさがしをしてるんだよ。




 「天使のたまご」



 00
 
 

 ベビードールを一滴たらしておいた新しいセーラー服の襟元からは、心も浮き立つようないい匂いがする。空は仄かにくすんだ薄青色――桜の花びらがはらりはらりと散ってゆく春。
 (んっ)
 準備は万端。制服は着た。短めのプリーツスカート、紺色の靴下。何もかもが新しい。 副かばんには化粧品のポーチと筆記用具とハンカチとティッシュ。ついでに三千円と二百四十一円しか入っていない財布がおさまっている。
 朝月柚乃《あさづきゆずの》は高校一年生。毎朝、心がうきうきする。昔から学校は大好きだった。友達が大好きだった。幸せさがしの上手な子だった。


 

 東久ヶ山高校。この男女共学の私立高校には、ゆとり教育による完全週五日制などはない。第二第四土曜日は休みだが、奇数土曜日はしっかり学校がある。入学して初めての土曜は、第一土曜だった。
 LHRで今後の行事予定や部活紹介のビデオなどを見たあと、特別活動という時間が設けられている。この日の特別活動の時間、担任である暮原菜月は一年四組の全員にひとつずつたまごを配った。ただのたまごである。
 暮原菜月はまだ二十四歳の若い女性教師。大学を卒業して数年の間、ふらふらと旅をしていたのだと彼女は自己紹介のときに笑って言っていた。まだ一緒に過ごしはじめて間もないけれど、何か不思議な担任教師であった。生徒たちは、それぞれ配られたひとつずつのたまごを見つめてきょとんと首を傾げる。
 「……センセ、大丈夫? 腹減ってんの?」
 矢坂慎はクラス一のお調子者である。彼がひどく心配そうに教師の顔をのぞきこんだから、各々どよめき怪訝そうな表情を浮かべていた生徒たちは皆吹き出した。同じ中学からの持ち上がりも多いので、新学期早々とはいえそれなりにクラスメイトたちは打ち解けあっている。のんびりとした生徒が多いのか、新学期特有のよそよそしさは欠片も見られない。
 「なに先生、このたまごどうすんの」
 「これ生たまごー?」
 何かがほぐれたように生徒たちは口々に騒ぎ出す。暮原はにこりと笑った。少しきつめの美貌だったが、笑うとひどく幼く見える。
 「今からちょっと行くところがあるの。ついといで」
 二十四歳という若さのわりには、生徒の扱いに慣れている。どちらかといえば先生というよりも、生徒たちをまとめる姐御といったほうが似つかわしいかもしれない。
 柚乃は白いたまごを人差し指と親指で持ち上げて、たまごと教師とを交互に見つめた。何を考えているのだろう。三十八人の生徒にひとつずつたまごを配るだなんて。
 (いくらしたのかしら)
 そんなことを考えながら柚乃もまた、ほてほてと皆のあとに続いた。
 「何考えてんのかしら、あの先生」
 暮原に続いて生徒たちはぞろぞろと教室を出ていく。小学校からの幼馴染みである東条皐月《とうじょうさつき》が、後ろから追いついてきて柚乃に声をかけた。
 「たまごアレルギーの子でもいたらどうするのかしらね、見ものだわ」
 ふん、と鼻でせせら嗤う。黒髪のショートカット。高校一年生にしては初々しさのない、大人びた美貌である。頭も良い。本人がその気になれば、高二終了時には大学へ飛び入学できるのではないだろうか。ただし、性格だけに難がある。
 柚乃は昔からこの皐月が大好きで、ずっと一緒だった。口も悪くて必要以上にクールだったけれど、柚乃にとっては頼りがいのある姉のような存在。柚乃の小学校からの思い出に、皐月がいない日なんて一日たりともない。今日も毒舌絶好調の幼馴染みを嬉しそうに見上げて、柚乃はくすりと笑った。
 生徒は口々に好き勝手なことを喋りながら靴を履き替え、学校の裏門に集められる。そこで生徒全員まとめて乗せられたのは、『今津温泉 湯の郷』とでかでかペイントされた貸しきりバスであった。

 
 「…………………」
 「………………?」
 「…………………」
 

 その日、一年四組の生徒たちはなぜかたまごを各自ひとつずつ配られ。
 温泉に連れてゆかれ。
 まったくもって担任教師の意図がわからぬまま温泉たまごを作り、まったくもって意味がわからぬまま、不思議そうな顔をつきあわせて温泉たまごを食べさせられた。たまごアレルギーの生徒は、一人もいなかった。教室へ戻ってきてから、若い社会科の担任教師はまたわけのわからないことを言った。

 
 「天使のたまごよ」

 
 ――天使のたまご。柚乃の心に、その言葉が残った。
 
 ――天使のたまご。なぜか心がふわりと軽くなるようなフレーズだと思った。



 ■ ■ ■


 東久ヶ山高校には寮がある。食堂とロビーを挟んで男女子寮が左右対称につくられた美しい建物であった。ちょっと見た感じでは学生寮には思えない小奇麗さである。
 「あ、ゆず」
 自宅からの登校距離が遠い生徒や、特別な事情を抱える生徒が寮に入る。柚乃はその後者の類である。祖父母は幼いころに亡くしており、そうして今年の冬休みに両親を事故で亡くした。一人っ子だった柚乃は親戚のところへ縋ることもなく、自主的におとなしく入寮手続きを行った。貯金だけはじゅうぶんにある。幼いころから寂しがりだった柚乃は、自然ひとのいない自宅に残るよりもルームメイトのいる寮に入ることを選んだ。
 「あ」
 声をかけてきたのは同じクラスの矢坂慎だった。癖のない明るい茶髪、どこがとは言えないけれど何だか全体的にかっこいい男子生徒である。
 「ゆず夕ごはん? 一緒に行こ」
 ロビーのソファから立ち上がった柚乃は、慎の誘いに頷いた。
 「うん」
 寮の玄関をはいってすぐのところに綺麗なロビーがあって、大きなTVが二台備えつけられている。ロビーを挟んで左手にゆけば男子寮、右手にゆけば女子寮に繋がっており、広々とした食堂はロビーから北へ渡り廊下をわたったところにあるのだった。
 薄いベージュ色の壁、ちょうどよい柔らかさの絨毯。柚乃は慎の左に並んでゆっくりと歩みをそろえた。
 新学期――特に寮生どうしはすぐに仲良くなった。もちろんそんな中にもアウトローな奴はいるけれど、限られた場所で同じときを過ごしていれば自然みな精神的に繋がりあうようになる。
 「でもさ」
 食堂に入ってトレーを手にしながら、慎は軽く首をかしげた。
 「今日のたまご、何だったんだろうなぁ」
 「おいしかったね、たまご」
 「そりゃおいしかったけどさ……何か意味でもあったのかな」
 見かけよりも繊細らしい。昼間のたまごのことを、妙に気にしている。でも確かにあのたまごは何だったのだろう。担任教師の意図がわからなくて、柚乃もまた慎にあわせて首をかしげた。
 食堂のなかは、人影まばらである。土曜日の夜だからであろう。柚乃のルームメイトである南井彩《みないあや》も、今日の放課後から外出許可をとって自宅へ帰っていた。
 「あれ、温泉たまごっていうより茹でたまごだったよね?」
 慎と向かい合わせに腰をおろす。煮魚をつつきながら不思議そうな顔でつぶやくと、慎はからからと笑ってそんなことが問題なんじゃねーだろオイ、と言った。
 「おいしかったら幸せになるじゃない?」
 「……うん?」
 「先生が幸せをくれたって思えばいいの」
 「………………」
 一拍おいて、慎は大きく頷いた。ほんとだほんとだ、と何故かひどく嬉しそうに繰り返す。その笑顔が妙に愛嬌たっぷりで、柚乃もまたつられて笑った。ともかく今日の昼間から、一年四組の面々は若い担任教師の発した「天使のたまご」という謎の言葉にとらわれているのである。そのまるく柔らかく、くるりと包むような響き。
 「天使のたまごかぁ」
 ふと微かに言葉を落として視線をあげた柚乃だったが、そこでぴたりと息をとめた。なぜ、ということもなかった。少し遠くに立つひとりの生徒と目が合ったからである――とはいえそれも一瞬のこと。その生徒はすぐについと顔をそむけた。
 (…………?)
 黒いシャツを着た少年だった。柚乃が息をとめたのは、彼の視線がひどく鋭かったからだ。けっして珍しいことでも何でもなかったのに、なぜこんなにも印象に残ったのだろう。柚乃は二度ほど瞬きをして、それから再び夕食に眼を落とす。
 「菜っちゃんって、意外とメルヘンチックなのかもな」
 慎がのんびりと言った。担任暮原菜月のあだ名は、もう決まっていた。




 ――天使のたまご。それは幸せさがしの大事な鍵。


 ――色褪せない青春。







  01

 

 メルヘンチックかもしれない、という矢坂慎の暮原菜月評は次の月曜の朝にみごとひっくり返された。春らしいピンクのカットソーに白い大人しそうなスカート。
 「ほら、格好もメルヘンじゃね?」
 そう慎が柚乃に囁く。
 「まぁ、《君たち皆やればできるはずだから》頑張ってね」
 出席簿を教卓にそっと置いて、担任は微笑んだ。そのときだった。
 「きれいごと、言わないでくれます? 気分が悪いから」
 前のほうの席に座っていた東条皐月が不意に毒を吐いたのである。
 (……!? 皐月ちゃ……!)
 驚いた拍子にくしゃみが出て、柚乃は思わず鼻をおさえた。皐月の嫌いな人間――綺麗で当たり障りのないことを言う人間。ぶりっこしている女。調子にのってる男。こんなタイプの人間をみると、皐月は大抵その毒舌で一発威嚇しようとする。生徒たちは一瞬あっけにとられて言葉を失った。新学期早々、これほど平然と教師に毒を吐く生徒も珍しい。 柚乃は皐月から視線をそらせないまま、大慌てで鞄の中のティッシュを探す。鼻水が出ている。このまま手を離すと高校一年生の女子としてまずいことになる。
 「………………」
 誰もが、まだ若い担任の次の言動を待っていた。怒るか、泣くか、説教するか。この年頃の生徒たちは、何も考えていないようにみえて意外と思慮深い。教師の言動ひとつひとつをしっかり見ていて、それでしっかり教師をはかっている。喧嘩を吹っかけた皐月自身もまた、興味深げな美しい双眸で相手を見つめていた。
 ことん、と暮原は出席簿の角で教卓を叩いた。うろたえている様子は、なかった。柚乃は必死で音をたてないように鼻をかみ、おそるおそる状況を見守る。
 「じゃあ本音を言ったほうがいい?」
 「どうぞ」
 待ってました、とばかりに皐月が言った。暮原が微笑む。
 「まぁ、やったって出来ない奴もいるわ。特にここらへんの地域、学力的には全国最下位に近いものね」
 うふふふふ、と暮原が笑った。笑ったようにみえた。暮原菜月のメルヘンチック説が、がらがらと音をたてて崩れた。皐月にとっては予想外の切返しだったのかもしれない。言葉を失う。
 「それにしても、あなたけっこう性格悪いね」
 「………………」
 皐月に笑いかけた笑顔が、妙に神々しく輝いている。先週の土曜に、「天使のたまごよ」といって微笑んだのよりももっと愉快そうな笑顔である。
 (皐月ちゃんが負けた……)
 慎の横顔を盗みみる。やはり呆然としていた。見た目は天使、もしかすると心は魔王。一年四組の面々は、やっかいな担任に見事にとっ捕まったわけである。

 ☆ ☆ ☆

 「あの女、相当性格悪いわよ」
 長い脚を組み替えて、皐月が親子丼の器を凄い勢いでテーブルに置いた。妙な担任を抱えたせいで――というといささか語弊があるけれど――四組の生徒たちは言いようのない心の絆を感じはじめている。
 「お、おまえが言うなよ……」
 慎が怖々と突っ込んだが、ぎろりと皐月に睨みつけられてすぐに視線を落とした。
 「絶対あのひとってさ、天使のたまごとか言う柄じゃないよね」
 言いながら首を傾げたのは、南井彩である。春休みから一緒に過ごしている、柚乃のルームメイト。東条皐月が毒舌で柚乃を守る騎士ならば、南井彩は何かと世話をやいてくれる柚乃の姉――といったところ。
 「まったくだわ。あれ絶対ご機嫌とりよ。ちょっとゆず、それ残すの?」
 「え……あ、うん。おなかいっぱい」
 わかめうどんを半分ほど食べたところで、柚乃は音をあげてお茶をすする。
 「じゃああたしが食べてあげる。親子丼と焼きそばパンだけじゃ足りないわ」
 「うん、食べて」
 容貌と性格。暮原のギャップも凄かったけれど、この皐月のギャップも油断しているとなかなか衝撃的だ。雑誌の表紙を飾ってもおかしくないような美貌とプロポーション、そのくせ男も顔負けの大食漢。親子丼と焼きそばパンふたつ、それに柚乃の残したわかめうどんを始末してなお、けろりとした顔をしている。慎はすでに呆れかえって、何も言わない。言っても逆襲されるだけだということに、この明るい少年は気付いている。
 「ご機嫌とり……でもご機嫌取りしそうなひとにも見えないわよ」
 彩が考えこみながら箸で皐月を指した。この時点で、生徒たちは暮原のペースに巻き込まれている。こんな昼休みにまで担任教師の謎に言及していることの滑稽さ、可笑しさに彼らは気付いていない。
 「じゃあ何なんだろな。あのメルヘンチックなネーミング。天使のたまごだぜ」
 頭がおかしいのよ、と皐月。彼女は相当プライドを傷つけられたようである。
 「でもイベントとか好きそうだよね、確かに」
 「言えてる! 体育大会とか無駄に燃えてそうじゃん?」
 食堂は混んでいた。一年生から三年生までが入り乱れる、昼の楽園。周りはひどくうるさい。


 ――おばちゃんフライドポテトまだー!?

 ――ピザまんの人は誰ー!

 ――おっちゃんランチ早くー!!

 ――おまえ割り込むんじゃねぇよ!!

 
 怒号が飛び交う。色々な匂いが混じりあう。
 そんな中で、柚乃は見つけていた。誰がどこにいるかなんて、絶対わかりっこないようなこの人混みの中で。柚乃はまた見つけていた。
 (違うわ)
 見つけたのではない。なぜか眼に飛び込んでくる、不思議な存在感――あの少年。寮の食堂で一瞬だけ視線がぶつかった、あの鋭利な空気を持つ少年。ラフな感じにシャツを着崩し、ちょうど食事を終えたところなのか食堂から外に出ようとしている。背の高い後ろ姿。
 「ゆず? どした?」
 「……っえ、あ。うん、何でもない……」
 もう一度だけ視線をあげる。
 扉の向こうに消えてゆくその少年が、孤高のひとに、見えた。




 て ん し の た ま ご 。

 微かに呟いてみる。この頭の奥深くに残る感覚は何だろう、と柚乃は天井を見上げながら思った。結局、暮原のガラでもない「天使のたまご」発言は、「とち狂った乙女心の残りかす(皐月)」、「とくに何も考えずに発した言葉(慎)」、「ちょっとした新学期の自己アピール(彩)」ということで片付いている。皐月の言い分は個人的感情が多分に盛り込まれているので却下として、慎と彩の説は確かに信憑性があった。
 (先生、ほんとに適当に言っただけなのかなぁ)
 メールが入った。
 『ゆず出といで☆(^o^)丿☆部活終わったからあたし直で食堂行く♪』
 彩からのメールである。柚乃はゆっくりとベッドの上に起き上がった。黒地に白線の入ったゆるめのパンツに、ピンクのTシャツ。こんな格好でも、寒くない季節である。夜は肌寒いとはいえ、寮内は冷暖房完備。室温は快適だ。柚乃はベッドから軽やかに飛びおり、携帯を無造作にポケットに突っ込んで部屋をでる。
 廊下はまだ無人だった。もう少し時間が経てば、夕食のために食堂へ向かう寮生たちの姿が増えるはずだ。ちょっと夕飯には早いな、と思いながら柚乃は廊下をのんびりと歩いてゆく。
 (……あ)
 ロビーにさしかかったとき、大きなTVの前に彼女の姿を認めて、柚乃は立ち止まった。
 (先生)
 暮原だった。女子寮のハウスマスターである――入寮してから確かに寮内では幾度か彼女を見かけていたが、ひとりでいるところに出くわしたのは初めてだった。
 「暮原せんせ」
 格好は、柚乃とそう大差ない。黒いシャツに少し色褪せたジーンズを履いている。こうして見るとひどく活発そうなひとだった。柚乃の呼びかけに、彼女はふりむいた。
 「……ん、あれ。もう夕飯?」
 暮原の笑顔は優しい。言葉じりはさっぱりとしているけれど、彼女に笑いかけられると何かとてもほっとする。柚乃は暮原に歩み寄った。あろうことか、「メルヘンチック」だったはずの担任教師は、右手に裂きイカのようなものを持っている。
 「せんせ。先週ね、何でみんなにたまご食べさせたんですか?」
 続けて言う。
 「何で、天使のたまごって……」
 暮原がなんともいえない静かな微笑を浮かべた――その微笑が、自分をやさしくまるく包み込んでくれているような錯覚をおぼえて、柚乃は少しだけ眼を伏せる。
 「気にしてたの?」
 「気になって……」
 暮原がそっと歩み寄ってくる。そして彼女は、柚乃の頭を軽く撫でた。
 「たまごがね、食べたかったんだわ、あたし。特活の時間も潰せるしね、温泉に行けば」
 「………………ぇ」
 柔らかなエアコンの風が流れてゆき、TV画面の中で笑うタレントの声が小さく響く。
 「天使のたまご、って言ったら何か意味ありげでいいじゃない」
 「………………」


 ☆ ☆ ☆

 
 て ん し の た ま ご 。

 
 暮原菜月は、本当にたまごが食べたいだけだったのだろうか。
 暮原菜月は、本当に何気なく詩的な言葉を口にしただけだったのだろうか。

 何かが違う、と柚乃の心が声を発する。
 暮原菜月は、包み込むような暖かい笑顔で柚乃の質問をかわした気がする。
 そのときの彼女の笑顔は、どこか切なげで――哀しそうだった気がする。

 
 気のせいだろうか。
 ふと、あの少年の姿が脳裏によみがえった。

 




 

  02

 

 「来月の中旬ねー、中間終わってから合宿研修あるから、適当に班決めといて」
 暮原菜月が教師にしてはひどくアバウトな指示を出したのは、四月も半ばになってからの放課後のことである。合宿研修の行き先が北海道だと聞いて、皐月は真っ先に呆れた顔をしてみせた。
 「先生、修学旅行じゃあるまいし北海道って……」
 「あたしが決めたんじゃないっつーの」
 暮原は相変わらず毒吐き皐月をさらりとかわし、皐月もまた新米教師のくせにと歯噛みする。もしかしてこの二人はとっても仲が良いのではないだろうか――そんなことを柚乃は思う。
 結局、暮原が猫をかぶっていたのは最初の数日間だけだった。
 「はいはい、文句は校長先生に言ってくださーい。さっさと決めとけー」
 出席簿を二度ほどぐるぐると頭上でまわし、教室を出てゆく二十四歳の教師。文句を言いながら、それでも一年四組の生徒たちはしっかり彼女のペースにはまっている。
 合宿研修についてのプリントと睨めっこしながら、柚乃は紙パックのいちごミルクにストローを突きさした。
 「なぁなぁ、ゆず俺らと組もー」
 ばたばたと騒がしく慎が駆け寄ってきた。柚乃のまわりには、いつだって人がいる。柚乃に皐月、彩に慎。それに緒方恭《おがたきょう》と桧山航介《ひやまこうすけ》が加わって、柚乃を取り巻く仲良し組はいつのまにか六人に。皐月が眉根を寄せているが、これはいつものことであって決して拒絶の印ではない。柚乃は慎に笑いかけた。
 「いーよ」
 プリントを見ながら、航介が小さく顎を撫でる。高校一年生という年のわりには大人びた風貌をしていて、背も高い。男前だから新学期はじまってまだ間もないというのに何度も告白され、上級生の間でも人気があるようだ。人付き合いをするのに物怖じしない、明るい少年である。
 「五泊六日って長くね? 合宿研修のわりにはさ」
 「校長、修学旅行と勘違いしてんじゃないの」
 皐月はすでにプリントを放棄し、興味もなさげな表情だ。柚乃は航介の整った顔を見上げた。
 「ね、ひーちゃんと慎、お小遣い幾ら持ってく?」
 皐月とはひどく対照的に、ともかくイベントが好きで好きで仕方のない柚乃の瞳は、きらきら輝きはじめている。運動会や旅行の前夜は興奮してまったく眠れない――柚乃はその典型的なパターンだ。
 皐月は、恭相手にまったく合宿と関係のない話をしているようだった。仲良しのなかで、皐月と恭のふたりだけが自宅通学である。
 教室はまだ騒がしい。突然アバウトな班決め指示を出された一年四組の面々は、仲の良いもの同士そこここに集まって、合宿研修の話に花を咲かせていた。夕暮れ前の明るい陽射しが窓々から教室内にたっぷりと射し込み、グラウンドからは運動部員の声や吹奏楽部の練習音が聞こえてくる。暖かい。
 「じゃがバターじゃがバター」
 慎が騒ぐ。
 「イクラ丼イクラ丼」
 柚乃が乗る。
 「その前に中間があるの、覚えといたほうが身のためよ」
 皐月が水をさす。いつもの光景――居心地のよい空間。寂しくなんてない。はしゃぐことで忘れられる寂寥感。
 柚乃は今日も笑う。きっと明日も笑っている。


 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 
 ――ひどく冷たく憎しみのこもった瞳で、睨まれた。気のせいではないと思う。ロビーの曲がり角でぶつかった。だから謝っただけである。
 「リズ?」
 はっと柚乃は声のしたほうに視線を向けた。
 「レン……何でもないわ、行こ」
 (……ぁ)
 レンと呼ばれた少年は、彼だった。背の高い、印象的な男子生徒。ずっと柚乃のなかに不思議な存在感を植えつけていたあの少年。柚乃は思わず彼を見つめた。少し栗色のまじった癖のない髪。鼻筋はとおっていて、切れ長の瞳は静かに光をたたえている。
 視線がぶつかった。決して音をたててぶつかったのではない――ふたりの視線は、不思議なほど柔らかく交差したのだった。
 (レン……っていうんだ……)
 「レン?」
 「ああ。行こう」
 初めてはっきりと聞いた彼の声は、その表情と同じように静かである。高くも低くもない声は、柚乃の耳に心地よく響いた。レン――柚乃は小さく呟きを落とした。そのままふたりの後ろ姿を見送る。何か柔らかな絨毯のなかに、身体ごと沈みこんでいくような気分がした。
 「おぅ、ゆず」
 航介と慎だった。柚乃はゆっくりとふりかえり、クラスメイトたちに笑みを返す。
 「どしたん、そんなとこで?」
 「うん、ねぇ。リズとレンって子、知ってる?」
 「あー……、ひーやん同中じゃなかったっけ?」
 航介をひーやんと呼ぶのは、慎が阪神タイガースのファンだからである。桧山とくればあだ名は『ひーやん』だろ、と慎は言う。金本なんてクラスメイトがいれば、兄貴とでも呼び出すに違いない。
 食堂に向かって歩き出しながら、航介は慎の言葉に頷いた。
 「榛原漣《はいばられん》と岡谷里鶴《おかやりず》。中学のときから付き合ってるぜ。何かふたりともワケありっぽいんだよなー」
 不思議そうな顔をみせた柚乃に、航介は壁を指でなぞって漢字を教えてくれる。
 (里鶴……これでリズっていうんだ)
 へぇ、と柚乃は素直に感心の声をあげた。榛原漣とは特に関わりもないのに、なぜ里鶴にあんな眼で睨まれたのだろう。嫉妬、とはまた違った憎悪だったように思う。柚乃の心は桃といっしょ。もともと他人の感情には敏感だった。
 「ふたりとも寮生?」
 慎が尋ねた。寮内で見かけたのだから当然寮生に決まっているのだけれど、航介はもはや突っ込むこともなく素直に頷く。
 外は夕暮れ。食堂へ繋がる廊下の両サイドは全面ガラス張りで、ちょっとした中庭が見渡せるようになっていた。綺麗に刈り整えられた植えこみが、柔らかなオレンジ色にライトアップされている。いったいこの高校は、寮にどれほどの金を注ぎこんでいるのだろう――寮生が一度は抱く疑問だ。
 「岡谷はもともと母子家庭だったんだけど、中学のときにその母さんも死んだらしいし、榛原んとこは両親が離婚して父親に引き取られたんだってさー」
 胸が、ちくりと痛んだ。家族が欠けてゆく寂しさと不安、深々とした恐怖。柚乃はよく知っている。そして、そんな柚乃の身を裂く痛みはあくまでも人にとっては他人事だということもよく知っている。
 柚乃がいつでも笑うのは、そのせいだった。他人事だと――突き放されるのが死ぬほど怖いから。
 「ま、とりあえず飯食おうぜ、な?」
 柚乃ははっとして航介を見上げる。少し気持ちが沈んでいたこと、ばれてしまったかもしれない。ぽんぽん、と柚乃の頭をたたく航介の手に、わずかな気遣いがあった。





 
 ――ふっ、と暮原菜月は煙草の煙を吐き出した。
 「里鶴が……完全に憎んでる」
 黒の開襟シャツに、少し色褪せたジーンズ。飾り気のない格好が、暮原によく似合っている。彼女は小さく灰皿に煙草の灰を落として、目の前に座った少年を一瞥した。
 「だれを」
 分かっているのに、暮原は訊ねた。
 「……朝月柚乃」
 女子寮の一階奥にある暮原菜月の部屋である。男子生徒が夜にやってきて良い場所ではない。部屋の電気はオレンジ色のベッドライトだけだった。暮原は机に寄りかかり、整った容貌の少年はベッドのふちに軽く腰かけている。
 「里鶴の気持ちもわかるけどさ、ちゃんと傍にいてやりな。あの子が暴走しないように」
 「………………」
 少年が立ち上がる。暮原よりももう少し背が高く、暮原は涼しげな眼元のまま彼を見上げた。
 「わかった。おやすみ」
 そう言ってシャツにジャージ姿の男子生徒は暮原の頬に唇を寄せる。両頬に軽くキスをして、彼は静かに扉へ向かった。
 「ちゃんと寝るんだよ、漣」
 背中越しに、彼はひらひらと手をふった。




 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 
 ――青春。
 
 青春は、美しくなんかない。
 
 あたしは、まわる世界のなかで色んなことを知ってゆく。
 
 綺麗なものだけに包まれて生きてくなんて、絶対にできないの。
 
 ちゃんと分かってるのに、何であたしは綺麗なものを求めてしまうんだろう。


 ねぇ、お母さん。
 
 寂しいよって言える相手が、ゆずにはまだ見つからない。
 
 幸せさがしに疲れちゃうんじゃないかって――ゆずはそれが一番怖いよ。




2006/02/03(Fri)22:26:23 公開 / ゅぇ
■この作品の著作権はゅぇさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
……咳。咳をして生まれて初めて血を……口から出した(簡単にいうと血を吐いた?笑)危険な夜。のどに鉄の味が残ってる厭な感じ。それでもばっちし生きてる丈夫な体、だと信じよう!さてそんなこんなで、ちょっと久しぶりにアップした『天使のたまご』略して『天たま』です。略すると天かすみたいです。普通の普通の学園ものにね。青春ものにしようって言ったじゃないのあたしィ!!なのに何か相変わらず複雑になりかけている予感なんですけれど、でもでものんびりへらへらがモットーの物語なので、そこまで暗くはならないようにがんばります。03〜ちょっぴし怒涛の北海道合宿研修編に。作者は何がしたいか。そうです、ただ高校生時代にタイムスリップしたいだけなのです(笑)こんなことあったなぁ、あんなことあったなぁ、と完璧に作者の高校生時代をモデルにして、イベントごとを小説で再現、柚乃チャンたちの輝かしき青春をぽぁぽぁと綴ってゆく予定であったりします。描写が少なめって気もします。作者が精神的に若返りたいだけの自己満足だともいうかもしれません。けれどそれでも、のんびりとお付き合いいただけると、吐いた血も引っ込むほど喜びますっ。恋バナ喧嘩テストに体育大会、文化祭。もう何でもありのお祭り騒ぎ(違
……結局これだけ一人無駄にテンションをあげて何をいいたいかといいますと、『どうかよろしくお付き合いください』。ただそれだけなのでした。
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