- 『不思議な薬売り』 作者:渡来人 / リアル・現代 ショート*2
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全角5145.5文字
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原稿用紙約16.2枚
春彦は頭の良くなる薬を貰う。さて、その効果とは――
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下校時刻を一時間も過ぎて、柏木春彦(かしわぎ はるひこ)は漸く歩き出した。春彦は中学三年である。本来ならば、この時期は受験の追い込みに襲われているものだろうが、春彦にはそんな雰囲気は全く見られない。
春彦の性格はポジティブが売りなのだが、この場合だけは違った。意気消沈としていて、まるでいつものような覇気が無い。
原因はどうやら、手に持っている紙のようだ。
春彦はそれを見て、嘆息する。
「……テストがこんな成績じゃ、やばすぎるよ……このままじゃあ、俺は春を迎えられねぇよ……」
ひらり、と風が春彦の体を撫ぜ、冷やしていく。手に持たれた紙は成績表のようだった。近頃やったテストの点数が表記されている。
もう一度それを見て、春彦は再度嘆息した。
――五六二人中、五百位。
その文字を見なかったかのように、春彦は思い切り紙を握り潰した。
顔は最早、生気すら感じられない。手をだらり、と体の前に下げて顔を俯けて歩く。
その様はまさに、魂の抜けた躯かのようだった。
そのままアスファルトで出来た歩道を歩く。車の騒音が煩しい。
周りを行く人々が春彦のことを避けて通っているかのようだった。
それもそうだろう、誰だって、こんな暗い人と関わり合いたくないに決まっている。
……早く帰ろう。
春彦は自分の家へと続く十字路を発見して、左へ曲がろうとした。
と、その時。
どん、と肩に何かがぶつかった。春彦は衝撃で少し後ろへとたたらを踏む。
春彦は、驚きの表情を浮かべる。
が、すぐさま春彦はぶつかった何かに向けて、謝罪の言葉を述べた。
「すいませんっ、大丈夫ですか?」
あたふたしながら、春彦がぶつかった相手を見る。
それは、濃い青色のスーツを着て、黒い革手袋を嵌めている男だった。顔は彫りが浅いとも深いとも言い難い顔、眼はぎょろりと大きく見開かれていて、春彦はなんとも言えない、変な感覚に囚われて少しばかり後退してしまった。
男は何事も無かったかのように応える。
「ああ、大丈夫ですよ。それより、貴方の方はよろしくないようですねぇ?」
男は奇妙な薄ら笑いを浮かべて言う。
春彦はなんと応えていいかが解らずに苦笑いを浮かべて、その場を乗り切る。
変な男だ。関わり合いになりたくは無い。
そのまま、「すいませんでした」と言って横を通り抜けようとすると、男が前を塞いで、じろじろと春彦の全身を舐めるように見回す。
まるで本当に全身を嘗め回されたかのような不快感が春彦の体に奔り抜ける。
「あのっ、何やってるんですか!」
春彦が声音を強めて言う。
すると、男は悪気も無く顔を上げて応えた。
「すいません、私は薬の処方をしている者でしてねぇ。癖になってしまっていまして」
……癖で済むものか。何をするんだ気持ち悪い。だいたい、薬の処方程度の事で、こんな事が癖になるとは到底思えない。
春彦は心の中で愚痴を吐く。
顔は苦々しく曇っていた。
「ああ、すいませんねぇ。気分を害されましたか?」
余計なお世話だ。
春彦は喉元まで込みあがってきた言葉を必死で飲み込む。
気分が悪いときに、さらに変な男とまで関わってしまったのだ。それは仕方が無いことだろう。
そんな春彦に対して、男は気持ち悪いぐらいに薄ら笑いを浮かべている。
「……ふぅむ。どうやら悪いことをしたみたいですねぇ」
全くもってその通り。
春彦は胸の内で応対する。
「なら、貴方が今欲しいお薬を無償で差し上げましょうか。……何かご所望は?」
何を言ってるんだこの男。
驚愕の表情が春彦の顔を覆う。
そのまま数秒ほど経って、男の口から出た言葉を、心で何回も反復する。
たかが、ぶつかった程度。
その程度の関わりで薬を無償でくれるというのか。
ふふん、とほくそ笑む。コイツで憂さ晴らしをしてやろう。絶対に無い薬でも言ってやればいい。無理だなんて言わせるものか。そんな思いが春彦の頭の中に浮かび、決行することにした。
「……なら、頭の良くなる薬くださいよ。欲しい薬をくれるんでしょ? なら、出来ますよね?」
すると、男は少し考えた後に、
「ええ、では明日の朝、此処に来てください」
と言い、春彦の横をするり、と通り抜けて去っていった。
春彦は、驚きの表情を隠せずに、その場に固まったまま通り抜けていく男の事など全く視界に入らなかった。……今、なんと言ったか。――馬鹿な。
頭の良くなる薬なんて、あるはずが無いだろう。なんなんだ、あの男の返事は。まるで本当にそんな薬があるかのようじゃないか。
困惑したまま、春彦は先程通り抜けていった男を追う。しかし、追いかけていっても、男の姿など何処にも無かった。
次の日の朝、春彦は昨日男と会った場所へと歩を進めた。半信半疑だが、貰える物は貰っておくのが春彦の主義だ。不安は在った。しかし、それを上回る程の興味が在った。だから、柏木は昨日の場所へと行こうと思ったのだ。
予定の場所にはすぐに着いた。しかし、昨日の男の姿は何処にも無かった。……それもそのはず、『朝』という漠然とした時間指定だったので、すれ違いが起こっても不思議ではないのだ……否、会う確率の方が少ない。しかし柏木は待つことにした。近くに座れるところを探す。しかし、中々見つからない。諦めて、立って待とうとした時に、また何かにぶつかった。
慌てて後ろを振り向く。其処には昨日の男の姿が在った。服装がほとんど昨日と変わっていない。濃い青のスーツに黒の革手袋。変わった所といえば今回は黒の鞄を持ち歩いているというところぐらいだろう。
「ご所望のお薬、持って参りました」
鞄の中から一つの袋を取り出す。病院などで薬を買ったときに薬を入れている紙袋だった。
……どうやら本当に薬屋だったみたいだな。春彦はそれを手にとって思う。
中身を取り出す。タブレットだった。
「どうぞ、それをお呑みください。噛んでもらっても構いません」
「……お金は払いませんからね」
「承知しております。どうぞ」
量は二粒。それを手の上に置いて、見詰める。……まさか劇薬ではないのだろうか、呑んだら一瞬で死に至るとかそんな類の毒薬ではないのだろうか。ドラッグとかでは……と、不安が春彦の脳内を駆け巡る。しかし、それと共に好奇心や興味が爆発的に膨れ上がっていく。どうなるのか、本当に頭が良くなるのだろうか、それとも良くならないのか……。様々な感情が春彦の脳内を暴れまわる。
――ええい、ままよ!
決心して、春彦は二粒の薬を口へと放り込む。そしてほぼ同時にがり、と噛み砕き喉の奥へと一気に呑み込んだ。
「……どうですか?」
男が薄ら笑いのまま、春彦へと訊く。
……味は、無い。
……死んでもいない。どうやら劇薬ではなかったらしい。
春彦は、安心してはぁ、と嘆息する。正直、呑み込んだ時にはもう駄目かと思ったのだ。
死ななかった。これだけでも十分な位だ。
しかし、春彦は自分のある異変に気付く。……頭が妙に冴えてきて、視界がクリアになっていく。体も妙に軽い。疲れなんて知らないかのように。
これはどういう事だ。何が自分に起こったというんだ?
春彦は自分の体を触り、外見にはなんの異変も起きていないことを確かめる。
その春彦の様子を見て、男は言った。
「どうでございますか? お気に召されたのならば、光栄で御座います。……それでは私の方はこれで失礼させて頂く事にしましょう」
「あっ、待ってくれっ」
男は昨日と同じように、春彦の横を通り過ぎて去っていく。
春彦はそれを見逃さずに、追いかけた。
訊きたかった。
貴方は何者なのか、と。
男が角を曲がる。それを追いかけて、春彦も曲がる。
しかし、其処に拡がっていた光景は昨日と同じように、誰も居ないただの路地だった。
…………。
春彦は何か得心がいかない、という風に顔を歪めて踵を返す。
頭をぼりぼり、と掻いて家の方へ帰ろうと歩いた。
春彦は思う。
結局あの男はなんだったのか。薬屋と言っていたが、普通は頭の良くなる薬なんて持っていないぞ? おまけに売る人も変な人だったしな……。もしかしたら、先程の事は全て夢の中での出来事ではないか。そう思うと不安だった。頬を抓る。痛かった。
春彦は家の前に着いた。すぐに鍵を開けて中へと這入り、自分の部屋へと急ぐ。もし本当に頭が良くなったというのならば、解らない問題だって解るはずだ。
二段飛ばしで階段を登り、二階にある自分の部屋へと這入る。
「……問題集は……っと、在った」
手早くそれを広げて、適当なページの問題を見る。
問題を見てみれば、受験での回答率は僅か一パーセントにも満たないと書いてあった。
見る。
解く。
解答と照らし合わせる。
春彦はその作業を数分間続けた。
そして、作業を終えて乱雑に問題集を放り投げる。
「はは……はははははははっ!」
答えが――浮かんでくる。
解らなかった数式が解る、言えなかった英語の単語も言える、出来なかった理科の計算も出来る、覚えれなかった社会の人物が覚えれる、書けなかった国語の漢字も書ける!
どうしたというのだ、解らなかった全ての問題が解ける。
春彦は嬉々とした表情で叫ぶ。
乱暴に膝を叩き、顔を叩き、歓喜の声をあげる。
面白いほどに解る、否、本当に面白い。
勉強とはこんなに面白いものだったのか。
「は……ははははは……」
笑い声が部屋の中に谺(こだま)する。
その笑い声は留まる事を知らずに、疲れるまで春彦は笑い続けた。
――一ヵ月後。
春彦は上機嫌で道を歩く。耳にはヘッドフォンが付けられていて、どうやら音楽を聴いているらしい。音階とリズムを口ずさみながら春彦は歩く。
周りの車の騒音など、今の春彦の耳には届いてはいなかった。
春彦は、自分の家へと続く路地へと入る。
すると、誰かとぶつかってしまった。後ろへと少したたらを踏む。
慌てて、そのぶつかった相手に謝ろうと相手の顔を見る。
すると相手は薄ら笑いを浮かべて春彦の方を見て喋った。
「おや、この前の……薬を処方した方ですねぇ?」
音量を大きくしていたヘッドフォンの所為で微かにしか聞き取れなかったが、春彦はその声を聞いて思い出す。そして、今度は相手の全身を舐めるように見回した。
濃い青のスーツ、黒い革手袋、そして、黒の鞄。
間違い無い、この前、頭の良くなる薬を貰ったあの男だ!
「貴方ですか! いやぁ、本当にこの前は有難う御座います。あの薬のお陰で問題が簡単で簡単で仕方がありませんよ。しかも、難関のT高校に受かれたんですから。なんと感謝したら良いか解りませんよ……」
大声を上げる春彦に対し、男はにぃ、と薄ら笑いをさらに歪めて笑う。
「いえ、そんなに喜ばれるとは思っておりませんでしたよ。身に余る光栄で御座いますねぇ」
「本当に有難う御座いました。もう将来が楽しみです!」
「ええ、それでは」
男は薄ら笑いを浮かべたまま春彦の横を通り過ぎていく。
春彦も、嬉々とした表情で男の横を通り過ぎていく。
その時、確かに男はにぃ、と口元をさらに歪ませていた。
* *
男はすれ違った後に、春彦の方を向く。
今にも飛び上がりそうなほど軽やかなステップを踏み、嬉々として歩いていく。
その様を見て、男はにぃ、と口の端を吊り上げて言う。
「喜んでもらえて本当に光栄至極で御座いますよ……」
前を向いて、おもむろに歩き出す。
そして、独り言を口に出す。
「さて、人間の脳とは素晴らしいものですねぇ。例えば、視界の端に何かを収めるだけで、それを記憶できるのですから」
とん、と近くにあった電柱に触れる。
そのすぐ横を車が猛スピードで通り過ぎていった。
「しかし、人間はその脳の少ししか使っていない。……それでは勿体無さ過ぎます」
男は空を仰ぐ。
すぐ隣を自転車が通り過ぎていった。
「だから、私はあの子の頭を良くしてあげました。――普段は使わぬ脳の部分を最大活性化させて――」
眼の前の交差点の信号が赤になった。
男は歩みを止める。
男の周りには人は居なかった。
「――天才と言われた者の脳を磨り潰し、錠剤にしてかなりの知識も与えてあげた」
信号は青になる。
男は再び歩み始める。
大勢の人波が、向こう側からやってくる。
「しかし、そんな事をしてあの子の体が持つかどうか……それだけが心配ですねぇ――」
男は口元を吊り上げて、にぃ、と嗤う。
そして、人波と喧騒の中へ紛れて居なくなった。
〜了〜
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2006/01/09(Mon)17:23:23 公開 /
渡来人
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■作者からのメッセージ
「僕は今、勉強をしているんだよ? ……そう、人生というナの勉強を」
はいっ、冬休みの宿題に追われてます。受験勉強にも追われています。そしてセットでお買い求めになるとさらに学校というサービスまで付いておりますよ奥様(死
……元、緋陽でした。空いた時間に、昔の書きだめをちょいと手を加えて出してみる。この頃全く書けませんです。色々と書きかけのモノを放置しています、ごめんなさい。さて、色々と罵り甲斐が在りそうな作品なので、びしばしと批評を書いてくださって結構で御座います。
取り敢えず弁解として、脳を最大活性化させた春彦は、薬の効果のお陰で今は生き延びている、ということにしています。皆さんは脳のリミッターを外すなんて止めてくださいね。ほぼ確実に体が持ちませんと思いますから。……っと、長くなりそうなので、此処までで。
*さらに微量追加