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『夜行列車(前編)』 作者:藤崎 / 未分類 未分類
全角6570文字
容量13140 bytes
原稿用紙約21.4枚

 罪悪感?
 そんなもの、遥か遠くに忘れてしまった。

 

 列車は、静かな揺れを刻んでいた。
 外では、夜の通り過ぎる音がする。真っ黒な窓に映るのは血色の悪い自分の顔。その向こう側にあるのは、踏切の赤い光に浮かび上がる雪だけだった。
 車内は暖かい。程よく聞いた暖房は乗客の眠りを妨げることなく、むしろ快適な空間を作り出していた。けれど、慣れない夜行列車の揺れは、なかなか俺を眠りへと誘ってはくれない。リズムに満ちたその動きは、逆に俺の身体を覚醒の方へと傾ける。横になって小一時間。一向に、眠りが訪れる気配はなかった。
 仕方がない。とりあえず、何か飲もう。適当に時間をつぶしていれば、ひょっとしたら睡魔が襲ってくれるかもしれない。
 自分の中のそんな囁きに従い、車両を移る。ほんの少し明るくなっただけなのにも関わらず、軽く眩暈がした。

 彼女を遠目で見たとき、なんだか奇妙な女だと思った。形はあるのに、その輪郭がはっきりしない。ぼんやりと、周囲に溶け込むようだ。
 寝台のない車両に、申し訳程度についている、誰でも座れる二人用の席。彼女はそこに一人で座り、誰かを待つ風でもなく、何故か両手に持った二つのグラスを酒で満たしている。視線の先は何もない窓の外の夜闇のはずが、彼女は確かに何かを見ているようだ。左手の方のグラスの中身が、オレンジ色の照明に染まっている。

「おねぇさん。隣、いいですか?」

 彼女の顔を覗き込みながら小さく問う。
 22、3だろうか。整った横顔についている目が、ぼんやりと俺を捕らえる。
「どうぞ」
 仏頂面のままかと思いきや、そこには柔らかな笑顔が生まれた。
 椅子を引き、遠慮なく隣に腰を下ろす。
 いつものクセで、彼女の周りに目を配らせる。けれど、手荷物らしきものはなかった。あるのは、何故か一本の真紅の傘だけ。残りは、寝台のほうに置いてきたのだろうか。
「何飲んでるんですか?」
「お酒。……キミ、いくつ? 一緒にどう?」
 右のグラスを傾けて見せながら笑う目は、据わっている。けれどろれつはちゃんと回っているから、完全に酔ってはいないらしい。
「俺、16なんだけど」
 酔っ払い相手に敬語も必要ないかと判断を下し、苦笑を交えて言う。すると彼女は、え〜、と、楽しそうに笑った。グラスを差し出される。
 この分じゃ、酔いつぶれるのも時間の問題だろう。
「おねぇさん、一人なの?」
 渡されたグラスに自分で酒を注ぎながら、尋ねる。もしも、このグラスが彼女の連れの物だったとしたら、俺に差し出すわけがない。当然、彼女が一人だということを確信して、だ。
 けれど答えは、すぐに返ってこない。彼女は一瞬、表情を止め、そしてまた、何事もなかったかのように動き出す。
「そうよ。一人で淋しく夜の旅」
「ふぅん」
 歌うように、含蓄を垣間見せてそう呟くと、コクリと酒を飲み込んだ。
 それにつられるように、俺も同じくグラスの中身を、ボトルの確認もせずに口に流し込む。
「キミも一人なの?」
 のどが焼ける。たった一口でそう思った。
 茶目っ気のある優しい瞳が尋ねてくる。思わず上げたくなる声を抑え、平然を装って笑顔を向ける。
「そう。実は、夜行列車って初めてで。寝付けなくてさ」
 そっとボトルに視線をずらすと俺でも知っている銘柄。
 ……嘘だろ。
「そうなんだ」
 ふふふ、ともう一度楽しそうに笑うと、一気にグラスを空にする。そして注ぐ。透明な液体が、まるで生き物のようだ。
「ねぇ、おねぇさん」
「その“おねぇさん”っての、やめない?」
 すかさず返ってきた言葉に、ほんの少し、鼓動が早まるのを感じる。グラスをテーブルに付けると、コツリと小気味酔い音がする。
「なんだか、くすぐったくって」
 くすり と誰にともなく向けて笑うと、少女のように肩をすくめた。その仕草は、誰かに媚を売るためのものではなく、自然で、むしろ彼女にぴったりだった。
 ……どうも、タイミングがつかめない。
「わたし、杏子(きょうこ)っていうのよ。知ってた?」
 初対面の人間に問うあたり、やはり酔っているのか。アルコールの匂いが、彼女の周りを浮遊している。
「じゃぁ、杏子さん」
「なぁに?」
 グラスから口を離しながら、ふわりと髪をかきあげる。化粧っ気のない、けれど綺麗な肌がオレンジ色に染まる。
「お酒、強いんだね」
「そうでもないよ」
「けど、俺はこんなの、飲めないよ」
「キミ、未成年でしょう」
「……そうだけど」
「未成年は飲めなくていいの」
 自分が誘ったクセに、と言うと、あれ、そうだったっけ、とわざとらしくとぼけてみせる。 いや、酔っているのだから、本当にとぼけているのか。
「今日はねぇ、なんだか酔えないの。とても酔いたい気分なのに」
 歌うような口調だけれど、意識ははっきりしているようだった。逆に、こちらが夢見心地のような気分になってくる。遠目で見たときの印象は、話した今でも変わらない。今にも、彼女は俺の視界から消えていきそうだ。実態感がない。言葉は変だが、そんな感じだ。
「どうして酔えないの?」
 彼女の酒は諦めながら聞いてみた。俺には、強すぎる。
「さぁ……どうしてかしらね」
 長い髪の奥の瞳と、視線が合った。謎かけをするような色だ。けれど楽しんでいるようにも見て取れる。が、俺はそこに、彼女が微塵も酔っていないという事実を見つけた。酔いは醒めたのか、それとも酔っているだろうというのは俺の勘違いだったのか。
「分かってるんでしょ」
「さぁね」
 なんだかよく分からないまま、もう一度強い酒に手を伸ばす自分がいた。
 車内を動き回るものはいない。この車両にも、いるのは俺と彼女だけだった。
「旅は道連れじゃん」
「……こんな年上女の話なんか聞いて、何が面白いの?」
 グラスを離した両手を組み、その上に顔を乗せる。髪が、さらりと肩にこぼれた。
 黙り込む。
 カンカンカンカン と、おもちゃのような踏切の音が遠のく。
「……そうね。旅は道連れね」
 ふと、夢から帰って来たように呟きが洩れる。
「そうだよ」
「……それじゃぁ、キミのことも話してくれるのよね?」
 思わぬところに話が行き、自然と苦笑が洩れた。
「俺の話なんて、大したことないよ」
「いいのよ」
 大したことなくても、つまらない話でも、どんなものでも。声は、俺に聞かせるために発せられているわけではなさそうだった。電車の揺れに、消えてゆく。
 ……うん、そうだな。
 たまには、いいかもしれない。
 決して、人に語れたものではない自分の話。けれど、午前零時の夜行列車では、俺と彼女以外起きている者などいないだろう。そして、その彼女とも今夜限りでさよならなだ。例え、俺の話を彼女が本気にとらなかったとしても、それはそれで構わないのだ。むしろ、そうであって欲しいと思う自分さえいる。誰にも、ばらすつもりのなかった現実。
「でも、素面じゃ無理だな」
「……え?」
 見上げる彼女に、笑いかける。
「大体さ、そんな濃度の高いモン飲んでると、身体に悪いよ」
「……」
「待ってて。向こうに自販機あったと思うから。ビール買ってくる」
 彼女――杏子さんは、俺の今夜の話し相手は、不思議そうに俺を見ていた。
 後ろポケットに財布の存在を確かめ、椅子を引いて彼女に背を向ける。生憎と、素面で出来る話なんてない。けれど、彼女の酒では酔ってしまって、そちらのほうが無理というものだった。
 絨毯が引かれてはいるものの、なるべく足音を立てないように歩く。
「もう、健康なんてどうでもいいんだけどね」
 背後で、囁きが聞こえた。
 振り向くと、彼女はゆっくりと視線を俺に移す。照明が、彼女を輪郭を淡く縁取っている。今にも……消えそうだ。
「杏子さ……」
「私、もう死ぬから」
「……」


 列車の動く音以外、何の音もしない夜だった。
 外は雪。夜行列車。午前零時。俺の不眠。旅は道連れ……。そんないくつかの偶然が、俺を今にも消えそうな一人と出会わせた。
 そして彼女の言葉は、電車の揺れに巻き込まれるようにして、アルコールの匂いの中へと消えていった。

 ◇◇◇
 
「私、もう死ぬから」

 言って初めて、私はずっと死にたかったのだと気付いた。

 気分が優れない日が続いていた。
 理由は分かっている。医者に行ったところで処方箋をもらえるわけでもない。これ以上ないほど明確な理由が、私の中に息づいていた。
 鬱は、最近始まったものではない。ずっと、あの時からずっと、私の中に住みついていた。けれど今更どうしようもないことは、私自身が誰よりも一番よく分かっていたし、どうにかする気がないことも、同じくらいよく分かっていた。
 何の嫌がらせかは知らないが、最近では不眠まで一緒にくっついてくる。眠れない日が続いていた。薬に無理矢理、眠りと約束をさせても、やってくるのはただ重たいだけの不快なものでしかなかった。
 いつまでこんな生活を続けるのだろう。続けなければならないのだろう。ふとした瞬間の不安が、時には胸を苦しいくらいに締め上げる。
 何も考えずにすむ瞬間は、無茶な眠りの中にも、大好きなお酒の中にも、大切な思い出に浸かる時にさえ、訪れてはくれなかった。
 夜行列車に乗ることを決めたのは、ほんの些細な気まぐれだった。……もう、疲れていたのかもしれない。日常という名の鎖に繋がれていることに。何一つ変わらない、誰かのためではなく、私のためでしかない、毎日に。
 だから、列車の中で、まだ少年といっていい彼に会った時に、思わず口走ってしまったのだ。
 私、もう死ぬから。
 そう、私はずっと死にたかったのだ。
 あの時から。
 七年間、ずっと。

 電車の揺れは心地よく、気だるく眠気を誘う。
 先ほどの少年の表情は、照明が邪魔をして読み取ることはできなかった。
 外では雪が舞い続けている。
 このまま少年が戻ってこなくても、それはそれでいいと思っていた。第一、もしも私が彼の立場だったなら、こんなアブナイ女と一晩飲み明かすなんて絶対にごめんだ。

 列車は進み続ける。まるで、心だけを少しずつ捨てさせるように。

 ふと、気配がして横を見る。
 あの人が、あの時と変わらぬ笑顔で、私を優しく見つめていた。
「お待たせ」
 その優しい幻は、少年の声に打ち消される。
 缶ビールを台に置く彼の横顔は、あの人とは似ても似つかなかった。
「飲む?」
 私は黙って首を振る。
 飲みたいという欲求はなかった。きっと今飲んでいるこのお酒でさえも、特別飲みたいわけではないのだ。けれどもう、自分ではどうなのか分からない。
 プルトップに当てられた指が、ぷしゅ っと間抜けな音を立てて缶を開ける。
「キミ、名前なんていうの?」
「俺? 涼祐(りょうすけ)」
「どうして一人旅なんてしてるの?」
 グラスの中身にうっすらと映る、揺れる自分の顔。なんてひどい顔。本物は、もっとひどい顔をしているに違いない。
「どうしてって……ただの気まぐれ」
 カタタン カタタン と、電車に話しかけられているような錯覚に陥る。
 どうしてそんな質問をするのだというように、苦笑と返事が返ってくる。それが、16にしてはずいぶんと大人っぽいことに気付いた。
「杏子さんはどうして?」
 そう言いながら、覗き込む瞳も大人っぽい。まるで、何もかもを見透かされるよう。
「私は……傷心旅行」
 言うと同時に、グラスを空にする。いくら飲んでも、酔いは一向に訪れてくれない。こんな夜だからこそ……雪の降り頻る、こんな夜だからこそ、とても酔いたい。
「傷心旅行?」
「そう。傷ついた心の旅」
 口元に笑みが浮かぶのが分かる。
「違うな……傷ついた心との旅」
「さっきの“死ぬ”って、杏子さん、自殺するの?」
 彼はあっさりと、何の戸惑いもなく核心を突いた。視線を向けてみるも、彼の意識はビールにある。……ふと、空恐ろしさを感じる。どうして、他人の“死”をそんなにもあっさりと口に出せるのか。
「そうよ」
 けれど、私の心は揺れなかった。内心の動揺を慌てて隠す必要もなかった。
「どうして?」
 何に対しての“どうして”だろう。横顔からは、そこまでは読み取れない。彼は内心動揺しているのだろうかと、合わせようとしない瞳を追いながら思う。
 大丈夫よ。明日私が死んでも、あなたと会ったことを何かに残したりしないから。
「どうして死ぬの?」
 まっすぐすえられた瞳に、思わず言葉につまった。
 どうして?
 問いは、レールの間に消されてゆく。
 どうして。
 どうして。
 どうして。
 七年間、ずっとあの人に向けてきた疑問の言葉。

 どうして、私を置いていったの。

「だってもう……あの人はいないから」
「あの人って?」
 ガタン。
 隣の車両から、人が現れる。
 誰も起きてなどいないだろうと思っていただけに、驚きは大きい。しかも、私の隣には未成年とビールという、あってはならない組み合わせだ。
「……」
「……」
 現れた人は、私達には気付かなかったように、目もくれずに通り過ぎ、隣の車両へと消えた。
「起きている人がいるのね」
 ほっと胸を撫で下ろす。高鳴った鼓動がうるさかった。
「ホントだね。俺らだけだと思ってたのに」
 楽しそうに彼は笑い、缶を傾けグビリと飲む。その横顔が……また、重なる。このお酒が好きだったあの人。
「その傘……凄い色だね」
「……」
 足元の傘に目をやる。
 真っ赤な、真紅の華。
「杏子さん?」
 凝視していた私を不思議そうに見つめる彼は、間違いなくあの人ではない。
「……ごめんね」
「大丈夫?」
「……平気」
 顔の前でひらひらと手を振ってみるも、たった二度の幻が、私を捉えて離さない。
「あの人、って、杏子さんの恋人?」
「……」
 “恋人”。
 自分達を、そんな代名詞で呼ぶに相応しくないことは、私達が誰よりもよく分かっていた。私は彼の“彼女”には決してなれなかったし、彼は私の“彼氏”なることは決してなかった。そんな関係を語る以前の大前提が、何よりもなりたかった関係の邪魔をした。
「私達は、そんな関係にはなれなかった」
 窓の外には闇が広がっている。二人で過ごした、いくつもの夜と同じ、闇。だけど、一人で見るそれは、こんなにも恐ろしい。こんなにも、心細い。
 それでも……夜は、人を狂わせる。
「最悪の恋愛よ。誰にも言えなかった。親友にも。なのに親は泣かせるし……」
 今でもはっきりと思い出す。
 自分の子供達が、やってはならないことをしたと知った時の、両親の顔。きっと一生、焼きついて離れることはないだろう。
 最悪の恋愛。
 だけど、何よりも尊かったあの時間。
 それもまた、一生焼きついて離れることはないだろう。
 何をしているのだと、止める声が聞こえなかったわけではなかった。こんな少年に、酔えない夜の話し相手をさせるなんて。例え、話を聞きたいのだと言われたとしても、きっと私は何かを彼に背負わせる。そのことに、何の変わりもないのだ。
 それでも、一度流れ出した感情は、止まることを知らない。
 酔ってはいない。
 けれど頭は上手く働かない。
 ぼんやりと、霧がかかる。
 ……振り払えない。
「杏子さん……」
 どうして置いていったの。
 私は、側にいられればそれでよかった。
 誰に白い目で見られても、どれだけ蔑まれても。ただ、あなたの側にいられれば、それだけでしあわせだったのに。
 いくら心で訴えたところで、返事がないのは分かっているはずなのに。
「あの人は、私を置いていった」
 手紙さえ、残してくれなかった。
 あの瞬間の脱力感。無気力感。誰に対するものか分からない、……激しい、憎しみ。
 クリスマスツリーを二人で見に行って、隠れてしたキスも。誰もいない家の中で始めて結ばれた幸福感も。友達に隠れてしたデートも。何もかもが、その瞬間に色を失った。
 世界が揺れる。淡い光が視界を覆う。俯いた自分の目から、今しがた飲んだばかりのアルコールが零れた。
「杏子さん……」
 
 涙のはずがない。だって、涸れるほど泣いたのだから。だからもう、涙なんて、残っているはずがないのだ。
2006/01/06(Fri)15:34:18 公開 / 藤崎
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■作者からのメッセージ
 お久しぶりです。藤崎と申します。読んで下さり、ありがとうございます。あけましておめでとうございます。
 夜行列車。乗ってみたいです。雪の降る日に。雪の降る海にも行ってみたいです。…すぐ裏が海なので、行こうと思えば行けるんですけどね。
 一言、なんでも結構です。
 今年もよろしくお願いします。
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この作品の投稿者 及び 運営スタッフ用編集口
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