- 『彼らのしがらみ 1〜4話』 作者:ハルキ / リアル・現代 恋愛小説
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全角17217文字
容量34434 bytes
原稿用紙約53.9枚
これはある町に住む人々の話です。桜に魅せられ、あるいは縛り付けられる登場人物たち。彼らは生活していく中で互いにどのような決断を下すのか。ジャンルは恋愛・現代・アクション・シリアス・戦隊物などです。途中BL的な表現が含まれる場合もあります(規約にひっかかるようなことは書きません)
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日本の国花を、みなさんはご存知ですか?
淡紅色ないし白色で、学校などを筆頭にあらゆるところで見つけることのできるあの花です。
花の咲く時期にちょっとした宴会をその樹下で行うのが、日本の風習として馴染み深いんじゃないでしょうか。
そう、日本の国花は“桜”。
私の住む町は日本を代表する、と言っても過言ではないほど多くの桜が植えられています。
中には何千の時を生きたと伝えられるほど大きなものもあります。
花見スポットとして雑誌にも紹介され、月並みではありますがその客を狙った「さくらまんじゅう」が色々なお菓子屋さんで売られています。
極めつけは学校行事の【花見会場のゴミ拾い】です。ここまで来ると桜とこの町は切っても切れない運命にあるように思えてきます。
しかし私はこの町に心から馴染めているとは思っていません。
私は桜が大嫌いなのです。
だから私は、お嬢様がなぜ日本に来たのかを聞いたとき、本当に驚いてしまったのです。
第一話 目撃
「それにしても……すっごいお屋敷ねぇ!」
隣で発せられた声が思いがけず辺りに響いて、逸花はあわててその肩を掴んだ。
「みきちゃん、声、大きい」
深く皺のよる眉間が、その焦りと苛立ちを示していた。
「あ、ごめん……つい」
くるんと大きな瞳がいたずらっぽく輝いている。シンプルなショートカットが木漏れ日を受け、まだらに光を浮き上がらせていた。
愛嬌のあるしぐさでてへと軽く舌をみせる友人に、逸花は脱力しかけ、危うく木から転がり落ちるところであった。
熱い中冷や汗をかきながらなるべく頑丈そうな枝にしがみつく。
その一連の動作を気にとめる素振りもみせず、みきは興奮さめやらぬようすでひたすらその豪邸を褒めちぎっていた。手には双眼鏡、まったく準備のいいことである。
前のめりに乗り出す姿にはらはらしながらも、逸花は肩まである髪を耳の後ろに掬い上げ、疲れた表情の顔を前面に押し出して、十二分に味わった造形美に再び目をむけた。
青々と生い茂った木の葉の隙間からおぼろげに認めることのできる屋敷の輪郭は、それだけでも充分に目を楽しませてくれるものであった。
きっと間近で見たら本当に惚れ惚れしてしまうほど素晴らしいものなのだろう。
しかしこれが限界の距離だった。
屋敷から視線を逸らしじょじょにこちらに引き寄せると、そこには長い長い帯状の極めて優雅な道があった。
夏の日差しを受けたそれはゆらゆらと際限なく陽炎を立ち昇らせていた。
ただの道ではない。気が遠くなるほどに広大な私有地をつっきる通路である。
つまりは「個人のもの」である。「皆のもの」ではない。
おまけに公道との隔たりに、ご近所づきあいの発展を妨げそうな無骨で巨大な鉄柵が張り巡らされていた。
ミステリアスではあるが、どう取り違えてもオープンな雰囲気とは思えない。闇世界の要人が住んでいたとしても驚きはしなかっただろう。
みきは気楽に「桜御殿」なんて名づけている。この邸宅の周囲はこの町のなかでも特に有名な桜の名所だったから、というのがその理由である。
闇世界の要人が桜を楽しむためにこんな建物を? としっくりこないことだらけだが、そんなところをまともに考えてもしかたがない、そう逸花は思っていた。
すぐ近くの高校に入学してからはや一年と三ヶ月。あれよあれよという間に築き上げられていった屋敷は、嫌でも逸花の目にとまっていた。
つい近日完成したらしい屋敷を、親しい間柄のみきがどうしても見たいと言い始めたのがきっかけだった。
持ち前の好奇心も手伝った逸花は快く承諾し、鉄柵すれすれに立ち並んだ葉も青々しい桜の中でもひときわ大きなものによじ登り、今にいたっているのである。
もう登ってから随分経つ。みきが降りようとしないのだ。浮かれやすい彼女を連れてきたことを逸花は後悔していたが、なんとか今まで我慢していた。
なんの気なしに真下を見れば不気味な鉄柵が、誘うようにその先端を突き出していた。
いっそうしっかりと枝にしがみつくと、暑さと退屈さと恐怖に逸花はとうとう音を上げた。
「みきちゃん。もうだめ。今日はこのくらいにして降りようよ! 明日もくれば済むんだし……」
言いかけてはっと目を見張る。
突然みきが激しく前のめりになった。いっそう乗り出そうとしたその手を滑らせ、バランスを崩す。
「みきちゃん!」
反射的にのばした手が制服のすそを掴んだ。
間に合った。そう思う間もなく逸花はみきの重みに引き摺られるようにして枝葉の間から滑り落ちていた。
「あ!」
一瞬柵に串刺しにされる情景が脳裏をよぎった。
身体を衝撃が襲い、息が詰まる。軽くせきこみ恐る恐る目を開けた。
が、予期していたような……腹の真中から黒い鉄柵が突き出ているような事もなく、逸花はちゃんと地面にいた。
下はアスファルトだったので、そうとう酷く打ってしまったようだ。腰のあたりがしびれている。尻が焼けそうに熱い。
顔を上げると隣にみきが横たわっていた。
「もー! みきちゃんてば! 危うく死ぬところだったよ!!」
怒りをあらわにして叫ぶ。が、みきはむこうを向いたままピクリとも動かない。その脇に割れた双眼鏡があった。
よく見ればその頭を中心にして、黒い水溜りのようなものが広がりつつある。
激烈に嫌な予感が背筋を突き上げ、しびれていた腰のあたりが痛んだ。
「……まさか……死……?」
口に出すとそれがあたかも真実かのように思えてきた。恐る恐るその肩に手をかけ、覗き込む。
と。
「な……なに、大丈夫? みきちゃん」
口を半開きにしてよだれをたらしまくってるみきと視線がぶつかった。
頭を中心に広がっていた水溜りはすべてみきのよだれだったのだ。思わず逸花は後ずさった。
今なお広がりつづけるよだれは熱せられたアスファルトの上でじゅうじゅうと音を出し、いまにも蒸発しそうだ。
みきは自分の状況にきづいているのかいないのか、こころなしかその目の形がハートマークに見えてくる。
まさか頭でも酷く打って障害をおこしてしまったのだろうか? そんな考えにいたり逸花は硬直した。
蒼白になる逸花の前で、みきが口をぱくぱくとさせた。一瞬考えてから逸花はその口元に耳をよせる。
「わ、わたし見ちゃった……」
のろのろとつぶやくと、怪我はしていないのかと心配する逸花にぐんにゃりと笑いかけた。
まるでシャブ中毒者のような顔だと逸花は思った。まぁ実際に見たことがあるわけではないのだが。
「な、何を見たの」
頬のあたりを引きつらせながらも問い掛ける逸花に、みきは笑みを深くした。
「んふふ、お・う・じ・さ・ま」
「は!?」
逸花はとっさにみきの頭が受けたダメージのほどを推し量った。
「だぁかぁらぁ、王子様! みちゃったの!」
突然大声をあげたかとおもうと、よだれまみれのまま抱きついてくる。
それだけは勘弁してください。と懇願する暇さえ逸花には与えられなかった。
桜色の夏スカートから純白の半そでYシャツまで、数秒とかからずに全てがずるずるにされた。
一体どれだけのよだれが流れつづけているのだろうか。
あまりの衝撃に力が抜け、逸花はみきに押し倒されるように仰向けに倒れ……、
「痛てぇぇぇぇ!!!!」
叫んだ。
がばっと立ち上がるととばっちりを受けたみきが転がって、ジュウジュウという音とともによだれ100%の池を作り始めたがそんなことを気にとめていられない。
逸花は涙目になりながら身体をひねり、自分の腰の右側あたりを見た。
スカートとYシャツの一部が破け太ももがあらわになっている。そして赤い液体が染み出して吸いきれなかったぶんがアスファルトに落ち、見る間に乾いていった。
さっきからじくじくと痛みはしたものの、こんなに重症とは気付かなかった。
見上げれば黒い柵の上部にスカートの切れ端がひっついている。どうやらあの柵に背中から太ももにかけてざっくりやられたようだ。
一度気付いてしまうととたんに痛みが増した。どうやらひとりで歩けそうにない。
逸花はちらっとみきを見やった。あいかわらずのよだれだらだらのシャブだ。むしろ彼女こそひとりで帰れるのだろうか。
みきに助けを求めることは諦め、逸花は自力で帰ることを決めた。
それに痛むことは痛むが、出血が派手なだけで見た目よりも傷は深くなさそうだ。軽く体重をかけ歩けることを確認する。
そして恨めしそうにもういちど鉄柵を見……、
「だ、だれ!」
口をついて出た声は上ずっていた。
目を凝らして柵の中を覗き込むが動くものとてない。
しかし逸花は見たのだった。自分が振り向いたそのときに、すぐ後ろの鉄柵の内側から、何者かがこちらを見ていたのを。
はっきりと見たというにはあまりにも短い時間だった。逸花が振り向き終わる前に、人影は消えていた。
園芸の茂みに隠れたのだろうか。
整えられた茂みの一つ一つに目をやるが、まったく異常はないように思えた。
蝉の声が硬直した空間に響いては止んだ。
長い間動かないでいるうちに、だんだんあれは猫か何かだったのではないかと思えはじめてきた。
実際、恐ろしい人影がこちらをひたりと見詰めていたというよりも、猫やなにかのほうが精神的にはありがたい。
「気のせい…かな」
不気味な沈黙がそれに応える。
空気に何かが満ちていたような気がした。とにかく立ち去るべきだと判断して踵をかえす。
刹那足になにかが絡み付いてきた。
「ぎゃー!」
張り詰めていた恐怖が爆発した。逸花は掴まれた足を振りほどこうと痛むのも忘れめちゃくちゃに右足を蹴り上げた。
スコーンというこ気味いい音とともに、何かが地面に投げ出された。
よくよく見ればそれはみきであった。首が変な方向に曲がっているようにも見える。
さーっと血の気の引いたが、すぐにみきが動き出したのでほっと全身から力を抜いた。
「逸花ひどい、何で蹴るのー!」
上体を起こし、憤慨したようすでみきが声を上げる。よだれは出ていない。
どうやら雰囲気が緩んでいた。驚くほどの安心感に、逸花は自分がどれだけ緊張していたのかに気付いた。
「ご、ごめん。いきなりだからびっくりして……どうしたの?」
「怪我凄いから心配したんじゃないの……あーイタタタ……」
拗ねたように唇を尖らせる。どうやら元気そうだ。
「ごめん……あれ? そういえばよだれは?」
言葉に反応して、みきは首をさすっていた手をまだぬめっている顎にもっていく。
あまりよい感触ではなかったのだろう。顔をしかめている。
「でもみきちゃんすごいよだれだったよね、一体何を見たのよ?」
思いっきり蹴り飛ばしてしまったことを早く忘れてもらうために、逸花はさっさと話題をすりかえた。もしかしたらさきほどの人影のことも忘れてしまいたかったのかもしれない。
あれだけよだれをたらしまくったのだ。よっぽど深く印象にのこるものを見たのだろう。それなのになぜか真剣に考え込む。
「なんか……忘れちゃったみたい。蹴られたからかな……?」
その蹴られたことを忘れてください。とは流石に口に出せず、逸花はこっそり冷や汗を流した。どうやらプチ記憶喪失させてしまったらしい。
今夜脳内出血か何かでみきが死んだらどうしようとか考えながら、次ぎの句をつむぐ。
「きっと滅茶苦茶怖いもんを見たんだよ。だから覚えてないんじゃないかな?」
王子様とかのたまっていたことはこのさい忘れることにした。
「そうかもしれないね……」
どうやら納得したらしいみきは立ち上がると、心配そうに逸花の傷を見た。
「大丈夫なの? それ」
「んー、痛いけどもう血とかもあんまり出てないみたいだし、平気でしょ」
嘘ではなかった。動かしたり力を入れたりすればかなり痛かったが、じっとしていれば問題ない。血も止まる事はないが目に見えて危ないというほどのことはなかった。
学校が近いので、とにかく一度戻って保健室にいこうということで話がまとまった。
みきもかぴかぴになったよだれの跡をなんとかしたいのだろう。二人分の鞄をもち、逸花に肩を貸すと素早く移動を始める。
すでに日が沈みはじめていた。
屋敷から最初の曲がり角を曲がる際、逸花はもういちど柵の中を振り返った。
そこには怪しげな人影もなく、当然ながら光り輝く王子の姿もありはしなかった。
夏休みも間近なむせ返るような空気のなか、優美な邸宅はオレンジの逆光につつまれている。
第二話 運命の遅刻
逸花の通う学校の直ぐ側に、この町を北から南へと両断する大きな川がある。
昔は雨が降るたびに氾濫していたらしいその川の橋は皆強固なものばかりであったし、両側には高い土手が築かれていた。
初めは氾濫を防ぐために用いられていた土手も、時を経た今となっては桜を鑑賞するためのサイクリングロードに様変わりしている。
逸花が登下校に利用する道もこれであった。
今は夏なので深緑世界が広がるのみであるが、春の半ばとなれば言うまでもなく美しい光景を一望することができる。
その光景を見たいがためにこの名門中の名門、明香高校を受験するものも少なくはない。
逸花もそのクチだ。偏差値の差をどうにか克服するのにそうとう苦労させられた。
しかしいざ入学してみると……桜に支配された区域であるということに気付かされた。
春になれば全てが淡紅色に紛れ、埋もれていく。なにもかも見失いそうになるほど、圧倒的な白が……。
そしてその花吹雪の中で、逸花は彼に言い放ったのだった。
“お願いだからもう近寄らないで、あんたの顔見てると吐き気がするのよ”
大好きなはずのつつじに向けたその言葉は、自分でもはっとするほど冷たいものであった。
「逸花、どうしたの? ……?」
「へっ!? あ、別に平気だよ」
思考を中断し、慌てて笑顔をつくる。
心配そうなみきの顔がそこにあった。
昨日病院へは行かなかった。保健の先生には強く勧められたが、どうも気乗りしなかったのだ。
それに、こんな傷くらい……と侮っていた。やせ我慢を重ねなんとか風呂にも入った。
それがどうも良くなかったらしい。
翌朝になって痛みは倍増していたし、傷口も赤く腫れあがってしまった。
それでも病院に行かない逸花は物好きというか頑固というか……。
心配する家族を尻目にみきを電話で呼び出し、こうやって学校まで付き添ってもらっている。
脳内出血で他界することも無かったみきは、自分のことのように心配しながら、逸花の言うとおりにしてやっていた。
怪我をさせた原因は自分だ。という引け目があったことも多少影響しているのだろう。
右足を引き摺るようにしている逸花を支えてやる。
この分では遅刻は免れないだろうが、二人とも遅刻の一回や二回で騒ぎ立てるような性分でもなかった。
とりとめのない会話を愉しみながら学校を目指し、南中を目標に昇る日に焼かれる。
校舎がゆっくりと姿をあらわし、予鈴が鳴り響く。
二人の耳にあの音が届いたのはこのときであった。
熱さと絡みつくような湿気があわさり、そこらじゅうをうんざりするような熱気で満たしていく。
その凝り固まった空間をつっきり、つつじはチャリを爆走させていた。真剣そのものの厳つい表情で、額には汗がびっしりと浮かび、Yシャツは背中に張り付いている。
下り坂も上り坂も平たい道でも常に全力の立ちこぎである。
どれも未遂に終わっているが、これまでの道中なんども人を轢きかけた。
女子供なら即死、成人男性でも重体になること間違いなしだ。
原付くらいなら軽く抜かせる! と豪語する彼の自転車はさすがに早い。
つつじは素早く左右に目を走らせると、赤信号の大通りに飛び出した。一瞬遅れて現れたトラックがけたたましいクラクションを鳴らす。
背後で鳴り続けるそれをそっけなく無視すると、つつじはさらにスピードを上げる。
そのようすを困ったように見守るのが、後部座席にちょんと乗っかったあせびである。
たくましく野性味あふれるつつじとは対照的に、男としてどうかと思うほど細く繊細な体つきをしていた。荒れ狂う風に色素の薄い髪がばさばさと舞う。
吹き飛ばされないようになのか、左手をつつじの腰に添え、右手で大事そうに鞄を抱えていた。
抱えた鞄は二つ、自分のぶんとつつじのぶんだ。
「ねー! 飛ばしすぎだよ! もういいじゃん遅刻してもー!!」
あんまりな運転に危険を感じたのか、あせびは怒ったような声をはりあげた。
車輪の音やクラクションの怒声に紛れても聞き取れないはずもなかろうに、つつじはいっそう不機嫌そうに肩を怒らせると、聞こえないフリをする。
そんな態度にあせびは深いため息をついた。普段からこんなに荒い運転なのかと言えばそうでもない。
あせびは今朝起こったことをぼんやりと思い出していた。
あせびとつつじは同居している。いや、どちらかと言えばあせびが無理やり押しかけているのだが。
そんな二人が毎朝一緒に登校することになっていても何も不思議はない。
今日の朝もいつもと変わらないモノのはずだった。
実際、あせびが下らないいたずら心を起こしたこと以外はそのとおりであった。
つつじよりも早くに目覚めるあせびは、いつもどおり相方を起こしに行った。
今日に限ってうっすらと伸びたつつじの髭が目に付いた。古典的な泥棒のような生え方をしている。
寝ぼけたまま正月の羽子板をなんとなく思い出したあせびは、手近にあったマジックを手にして……。
いちど書き出すと止まらなかった。
目覚めたつつじが怒鳴ったり顔を洗ったりしているうちにあれよあれよと時は流れ……今にいたる。
つつじは基本的には豪胆なくせに、細かいところを気にかけてしまう一面があるのをあせびは知っていた。
例えば遅刻とか早退とか欠席とか。現在の若者には見られないようなかたくなな律儀さがあるのだ。
そんなところが面白く、今まで何度遅刻や早退や欠席をせざるをえない状況まで追い込んだことか。
その楽しい思い出をふりかえり、暴走する自転車に揺られながら、あせびはくにゃりと笑った。
もしつつじがその考えを見抜けたなら、容赦なく自転車から叩き落したことだろう。
だが実際に自転車から落とされることもなく、あせびはのんびりと考えることができた。
まぁやりすぎたのは認めないわけにはいかない。
ふと気付いてみればつつじとあせびの欠字は大学入試の推薦を選択できるかできないかの瀬戸際になっていたのだ。
推薦のシステムを使うつもりまんまんのつつじにとってこれはゆゆしき事態であったにちがいない。
一般で受けるつもりのあせびも、つつじのことを考えてそれいらい自粛していた。
なのに、とあせびは思った。なのに自分はやってしまったのだ、と。
あせびの計算が正しければ、つつじにゆるされた遅刻回数はもうまったくの「0」である。
彼もそれに気付いているからこんなにチャリを飛ばすのだろう。
ふいに進行方向が変わり、無理やりな角度で横道にそれた。スピードは変わらない。
視界に無数の桜の木が飛び込んでくる。川と町とを一望できる土手の上だった。
学校が近いことを悟ったあせびは、身を乗り出して前を見る。
「あ、あれって逸花ちゃんじゃない?」
懐かしい姿が前方にあったのがあせびには意外だった。
彼の知る限り逸花は遅刻をするタイプではないからだ。どうやら一人ではないようだが……。
しかしこれはチャンスだとあせびは直感した。
ある事情により入学してからめっきり話すこともなくなったが、逸花とは小・中学ではとても親しかった間がらである。
特につつじは……。
この際そのしこりを溶かすべきだ。
が、つつじの目にも映っているだろうに、彼はスピードを緩めるどころか逆に速度を上げた。
「ちょ、つっちー! 逸花ちゃんが居るってば! 話さなくていいの!?」
つつじと逸花の関係を知る彼は非難の声を上げる。
……悲しいほどあっさりと無視された。
つつじには見えないその表情に不穏なものが宿った。
次の瞬間、自転車はあらぬ方向へ飛び出した。
バランスを失い川に向かって滑り落ちる。タイヤや金具が悲痛な悲鳴をあげていた。
数瞬後、派手な水音と同時に自転車の動きは止まった。
もう二度と今のような華麗かつ豪胆な走りを披露することはないだろう、あちらこちらが滅茶苦茶にひしゃげているのが、遠目にも確認できる。
アスファルトの上に横たわりながらつつじはぽかんとするばかりであった。
何が起こったのかまるで理解できない。解るのは愛用の自転車がお釈迦になったこと、ただそれだけである。
「もー、つっちーが止まらないからチャリ死んじゃったよ」
くすくすと笑う声に起き上がると、あせびが直ぐ隣で大の字になっていた。右足の靴が脱げている。
転倒の衝撃で開いたあせびの鞄の中から、二人が飼っている黒猫がスルリと這い出してきた。どうやら無事らしい。
もちろんペットの持ち込みは禁止されているが、はらはらするつつじをよそに校則違反上等なあせびは構わず連れてきている。
まぁ猫にしては珍しく、連れてこなくてもついてきそうなほど懐いているのだが……。
その猫……雅の頭をあせびが撫でるのをぼんやりと眺めながら、つつじは推測した。
どうやら自転車が土手から飛び出す寸前に自分を引き摺り下ろしたのはあせびのようだ。
礼を言いかけてやめる。気になることがあったからだ。
つまり……なぜ自転車は落ちたのか……。
あせびの足とスクラップした自転車を交互に見る。
思いあたってつつじは真っ赤になった。もちろん、怒りのためである。
こいつが右足の靴を脱ぎ、後輪に思い切り差し込んで自転車を転ばしたのだ。
「てめぇ!!」
胸倉を掴み上げてもあせびはへにゃへにゃと笑っていた。
雅は驚いたように二ャンと鳴くとつつじの横をすり抜けていく。
雅が逃げた方向に向かって、あせびがこれ以上ないほど満面の笑顔を向けているのが気になった。
「おっはよー逸花ちゃん。超久しぶり〜」
吊るされたまま、あせびはぶんぶんと手を振った。
「い、逸花…?」
おもわず硬直したつつじはギギィッと音がするほどぎこちなく振り向いた。
そこには目を丸くしたみきと、こちらもぎこちない表情の逸花が立っていた。その足元に縋るようにして雅が擦り寄っている。
逸花はぴくぴくと頬をひきつらせながらあせびにならって右手を上げる。
「ひ、久しぶり……」
焦点のいまいち合わない目線と、おもいっきり上ずった声に、あせび一人がケタケタと笑う。
間抜けな雰囲気に拍車をかけるように、のんびりと本鈴が鳴り響いた。
第三話 イケ面
いよいよ蒸し暑い空気の中、あせびとつつじ、逸花とみきは一定の距離を保ったまま見詰めあった。
揺らぎ始めた陽炎のせいか、せいぜい数歩のその距離が恐ろしく長いように錯覚する。
本鈴が鳴った後は誰も言葉を発さなかった。
絶望のチャイムの音に、推薦の望みがついえたつつじは血の涙を流してのたうちまわる……というあせびがいかにも期待しそうな事態は起こらなかった。
つつじはただ絶句して逸花の前に立ち尽くしていたのだ。
その表情は硬く、今にも何か致命的なことを口走りそうな口元は緊張に引きつり、不機嫌そうな眉は今では苦しいほどに跳ね上がっている。
対する逸花は気まずいのだろう、右手でオレンジに染めた髪を弄くりながら、探るような視線をつつじに投げかけていた。
突然現れた二人とは初対面なはずのみきも、何かを察したのか身体をこわばらせ、目線はあせびとつつじの顔の上を往復している。
この場を組んだはずのあせびでさえ多少は困惑し、ぼけることもせず真摯な面持ちでそのようすを見守っていた。
その足元に伸びた影のなかに気楽な雅が滑り込んで、緑がかった眼をぱちくりとさせる。
まるで見物しているようだ……。なんの気なしに向けた視線が猫をとらえ、あせびはそう思わずにはいられなかった。
つつじと逸花の間には深い深い溝がある。
十年を遡ったあの時、幼き日のあせびがこの二人に出会ったときにはすでに、二人は一対で完全体だった。
小学生の頃、冒険心溢れる二人はちょっとしたガキ大将であったし、中学生に上がった後も近しい間柄であることにはかわりがなかった。
中二の春につつじがついにその想いを告げた後は、あせびの目から見ても誰の目から見ても初々しいが微笑ましい二人であった。
逸花が明香高校を志望した際も、学力の面で逸花に劣っていたつつじは、黙ってはいるが実は逸花より遥かに苦労を重ね受験に挑んだ。
勉強の手助けをし、今までの経過を見守ったあせびにはその苦労の並々ならぬことが誰よりも理解できていた。
そしてその想いの並々ならぬ事も……。
逸花もその包み込むような愛情を感じ、応えているように思えた。
だが、あせびの予想と見込みを裏切って、明香高校へ入学したその日に、逸花は非情にもつつじを突き放した。
あせびが直接現場を見ることは無かったが、つつじの打ちのめされたようすを見てぎょっとした。
その日以降、逸花とはクラスが違ったこともあり、三人がこうしてまみえることはついになかった。
あせびは問うような視線を逸花に投げかける。
この長かった一年数ヶ月を何を思って過ごしてきたのかと。
だが視線がそれを明確に語ることはなく、逸花は気付かぬままつつじを見ていた。
ふいに、口を開いたのはみきだった。
つつじと逸花を交互にみやり、
「あの、逸花。この人たちは?」
当然の疑問だが、馬鹿な質問だとあせびは思った。
思いついたことをぽんぽんと口に出せば良いというものではない。
まぁ、みきの立場に自分がいたら同じようなセリフを口にしたのだろうが。
「この人たちは……」
案の定逸花は閉口して視線を泳がせた。が、隠しても仕方が無いと結論を出したのだろう、もう一度口を開いた。
「前話したかもしれないけど、つつじと、あせびだよ……二人とも幼馴染で、最近は喋ってないけど……」
幼馴染という言葉に、つつじの目元が神経質そうに眇められた。
「えっ、じゃあ逸花の元彼……」
返答を得たみきは愕然としたように口を開き、つつじを見た。こころなしか顔色が悪い。この反応を見ると、逸花から何かしらの話を聞いたことがあるらしい。
一触即発と言ってもいい空気のなか、みきは震える声でこう続けた、
「……ばかじゃないの逸花、なんでこんなイケ面手放したのよ! もったいなさすぎるわ!!!」
セリフの最後の方は叫びとなって三人の鼓膜を打った。
思わず目を丸くする三人にかまわず、みきは拳をぐぐぅっと握り締める。
「イケ面は人類の宝! もったいなくもそれを振るとは……!! 逸花! あんたって人は!」
「ひ……す、すみません」
背中に炎を背負い、涙すら浮かべて断固抗議するみきに、逸花は思わず謝った。
みきはそれには構わずに、逸花の体を支えたまま男達の元へ歩を進めた。
とてつもなく長い距離のように思えていたその数歩をあっさりと踏み越えると、つつじの目の前に仁王立ちになる。
つつじの胸の高さほどまでしかないその体が、何倍も巨大なもののように、立ち尽くすあせびには感じられた。
つつじの顔には先ほどとはまた違った緊張が走っている。
みきがずいっと手をのばしてつつじの短い黒髪をがしいっと掴んだので、彼はガラにもなくうわっと声を上げた。
それにかまわずみきは質感を確かめるようにぐいぐいと引っ張る。つつじは自然と中腰になった。
「この剛毛でいて艶やかな黒髪!!」
続いて両手でぺたぺたと高い鼻から顎へと顔の形をたどり、肩まで下ろしていく。
「すっごいじゃない! 野性的なハンサム! こりゃ一攫千金!!」
目が血走って鼻息が荒い。
すっかりペースを乱されたつつじと逸花は目を白黒させて肉食獣を思わせるみきのオーラにただ震えた。
そういえばみきは並外れた面食い気質だということをいまさらながら逸花は思い出していた。
「ほら、逸花も!」
言うやいなやみきは逸花の手をむんずとつかむとつつじの頭の上にぽんと置いた。
「あ……」
懐かしすぎる感触に思わず手を引っ込めようとするが、みきは頑としてそれを許さなかった。
恐る恐るという感じでさわさわと頭を撫でる。
頭を振った時に一瞬遅れて髪が揺れるのをつつじは嫌っていたので彼の頭はどの季節も決まった長さになっている。
指を通してもするりと抜けるその撫でごこちに心が和むのを否定できなかった。
つつじのほうは中腰の体制が長く続いている上に逸花が目の前に立っているので、ちょうど胸のあたりに顔がくることになり、居心地悪そうに目を伏せていた。
気温が高いためかこころなしか顔が赤い。
あせびはなんともいえない表情でみきとその二人の様子をみやっていた。
が、彼も傍観に徹するわけにはいかなかった。
みきがくるりとこちらに向きなおったからである。
「こっちのあせびさんだってちょー二枚目じゃないの! こっちに乗り換えるなら解るけどそのままほっとくなんて考えられないわ!!」
さらりと恐ろしいことを言うとたじたじなあせびに詰め寄った。
今度は頭一つ分程しか身長差が無かったため、みきは自分が背伸びをしてじっくりと検分した。
「この髪は染めてるんですか? ゆるくウェーブ入ってるけど……」
「い、いえ、この髪は生まれつきです。はい」
思わず敬語をつかうあせびだが、みきは気にとめた様子もなく引き続き顔を凝視する。
「まつげ長! なんか人形みたいに綺麗な顔立ちですね! 色も白い! でも目は黒いからハーフとかじゃないのか……」
ひとしきり調べると納得したようにうんうんと頷いた。
ほっとしたあせびが視線を動かすと、逸花とつつじはもうあの体制をやめていた。
お互いに視線を合わすこともないが、その距離感はごく自然のもののように見えた。
あせびはにっこりと笑うとその二人に近づく。
「ねぇ、久しぶりだしこれから皆で街に行ってあそぼうよ。美味しいケーキバイキングの店とかいろいろやってるみたいだしさ」
「いいですね! どうせもう一時間目はパーだし。皆さんのこともっとよく知りたいし、いいでしょ逸花〜」
乗り気のみきが話を盛り上げた。
律儀なつつじはあまりいい顔はしていないが、逸花は少し考え込んだ。
そういえば今日は怪我をしている中無理やり学校に来たのだ。
このまま一日を学校で費やしても座りっぱなしは尻の傷に悪いような気もする。
それなら休むはずだった一日だ。遊んでしまっても構わないだろう。
逸花はニカッと笑うと頷いた。
「いいじゃんそれ! じゃあ今日はサボっちゃうか! カラオケも行こうよ、レパートリー増えたんだからね」
「よしきた! ね! つっちーもくるよね!」
あせびが擦り寄るようにしてじゃれついてくる。みきがきらきらと期待に満ちた目で見詰めてくる。
つつじは口をヘの字に曲げ、眉をハの字に引っさげて難しい顔になった。
「お、俺は……」
弱りきった彼が答えをだすまえに、全員が動きを止めた。
ザバァッという水音が背後から聞こえてきたのだ。音源はとうぜん土手沿いにながれるあの川だろう。
ギシ、ギシという耳障りな音と、足音らしきぺたっ……ぺたっ……という背筋が凍るような不気味な音がだんだんと距離を詰めてくる。
日差しさえも凍りつき、空気が水分を含んだようにじっとりと重くなる。
まさか……伝説の怪魚?
四人の脳裏に共通の事柄が浮かんだ。
ずばり、明香校の七不思議その参・桜端川の怪魚。
何千何万もの桜の魔力が川面に降りしきる花弁を通して川に住む主を変質させ、恐ろしい怪魚にしてしまったというものだ。
校舎内に侵入することもある。とか、実際にこの目で見た。とか、その鱗を手に入れた……など、まことしやかに語られている。
今の所人を食べただのという話はないが、それでも巨大な魚がぬめった身体を這わせて迫ってくるのを想像すると空恐ろしいものがある。
高みの見物を決め込んでいた雅も牙を剥き出しにして四人の背後に向かって激しく威嚇している。
そのとき、足音が四人の直ぐ後ろで止まった。
だれかが息を飲むのがわかる。川特有のいがらっぽいようなドブ臭い匂いが立ち込めてきた。
第四話 金の斧と銀の斧
恐る恐る振り返った四人をまちうけていたもの、それは牙をむいた巨大な怪魚……ではなく、すでに廃車となりはてたつつじの自転車であった。
その他にも苔むした電子レンジだのボロクズと化した発泡スチロールだのといったゴミがところ狭しと散乱している。
どれもこれも不気味な色をしたぬるぬるの藻に巻きつかれ異様な臭いを放っていた。
アル意味非常に恐ろしい光景である。
一陣の風が吹き抜け、いびつな角度に折れ曲がった自転車の車輪が微かに悲鳴をあげた。
水草のからみついたハンドルの角度が、こころなしかつつじの方に向いているように思えて、逸花はぞっと身を震わせた。
これではまるで……。
「まるでスクラップされた恨みを晴らそうと仲間を引き連れてきたみたいだねぇ……」
明らかにこの状況を愉しんでいるのだろう。ふざけた顔でふざけたセリフを言ったのはあせびであった。
恨みをのんだ元愛車を目の前にして凍り付いていたつつじは、その言葉に身を硬くする。
それを尻目にキョロキョロと辺りを見渡す逸花だが、そこに自転車を運んだと思われるような人の姿はない。
あるのは思ったよりも広範囲に渡って続いている水揚げされたゴミの数々である。
「もしかして……ほんとに怨念?」
ちゃっかりあせびの服のすそを掴んだみきが恐ろしそうな声を上げる。
さきほどの彼女を見たあとでは演技にしか思えないのだが……。
「ば、馬鹿やろう! 自転車が独りでにうごくわけねーだろうが!」
強気な発言とは裏腹に顔色が優れない。
まぁこんな異様な環境のなかでにこにこと笑っていられるあせびのほうがよっぽど異常なのだが。
ゴミの数を数えるようにして離れていた逸花が、そろそろとつつじに寄り添う。
二つ以上の意味でドギマギとしたつつじであったが、どうにか表情は変えずに済んだ。
そんな彼の内心は露ほども知らず、逸花は震える口元でなんとか言葉をつむいだ。
「あんた謝んなさいよ」
「はぁ!? 謝るって何にだよ」
「あんたの自転車によ! 壊したんでしょ! もーシャレになんないんだから!」
どうやら怖がりはつつじだけではないようだ。目を潤ませ逆ギレぎみの逸花に彼は言葉を詰まらせる。
そんな時、またしてもつつじの背筋を逆撫でするようなテノールが響いた。
「そりゃあ中学校入学のお祝いに買ってもらってからほぼ毎日乗ってた大切な自転車だもんねぇ、タマシイが移っちゃってもしかたないんじゃないの?」
まるっきり他人事なあせびの態度と発言に、つつじの眉が急角度に跳ね上がった。
「てめぇが壊したんだろーが!」
猛虎を思わせる勢いで咆えかかる。
が、そこに甲高い非難の声が飛ぶ。
「まーっ! あせびさんがそんな酷いことするはずないでしょ! 運転してたのはつつじさんなんだからつつじさんが悪いんです!」
どうやらあせびの女顔のほうがお気に召したらしい。
庇うように細い胴に両手をまわし、断然味方するみきであった。
その瞳から噴出す炎が見えたようで、逸花は思わず目を擦る。
ものすごい迫力にまたうっと言葉を詰まらせるつつじ。
目つきも悪ければ態度も体もでかいつつじは、女子に避けられることは多々あれど、鼻息荒く詰め寄られたのはこれが初めてのはずだ。
つつじは面白くなさそうにケッと吐き捨てると、収まりがつかないのかあせびをキツイ視線で射抜いた。
当のあせびはというと普段道理に笑顔を返すだけだ。
その笑顔が一層つつじの腸を煮えくりかえす手助けをしている。
元彼の横顔を眺めながら、逸花は不思議な思いにかられていた。
私の知っているつつじなら……中学校の頃までの彼ならもうとっくにぶちキレているはずだ。
今ごろ猛り狂って相手を掴み上げ、その辺の地面にでも遠慮なく叩きつけていただろう。
一度怒るとそれだけ見境がなくなってしまうのだ。
みきが女だからぐっと堪えているのだろうか……?
それとも自分が知らない空白の時間が彼を変えたのだろうか。
視線を感じ、顔を上げればあせびと目があった。
その表情に何か違和感を感じた。しかしそれは一瞬のことで、彼はまたふんわりと笑った。
「ねぇ、あの猫ちゃんいなくなっちゃってますけど……」
声の主はみきだ。
確かに怪魚と思われるものに向かって威嚇をしていたはずの黒猫の姿がない。
「あの黒猫ちゃんあせびさんが飼ってるんですか?」
「うん、つっちーと二人でだけどね。雅っていうの……おかしいなぁ離れたりするような子じゃないのに」
みきの言葉に答えると、あせびはいくぶんそわそわとゴミの転がる道に目をやる。
「猫なんだからほっといても戻ってくるんだろうが」
頭を掻きながら気がなさそうに無責任なことをいうのはつつじだ。
ほんとのところを言うと逸花も同じようなことを思っていた。
しかしみきとあせびが捜索を始めたので、女の子らしくその場の雰囲気に合わせ、くだんの黒猫を探す。
「もしかしたら自転車の怨霊がつれてっちゃったのかもね」
場を和ませるつもりでそんなことを口にした。
が、誰も笑わなかった。
一人元居た場所から動かないままのつつじが、チラッと自転車とその他のゴミへを見やる。
やはりあれほど大量なものが独りでに動いたと本気で考えるよりも、誰かが運んだと見るのが実際的だ。
でもなんのために? どうやって?
というかそんな大掛かりなことが背後で行われているのに気付かない自分達は一体……?
逸花が首を傾げたとき、土手の下……つまり川のほうからかすかに鳴き声が聞こえた。
「あ……」
大勢で駆け込むと逃げるかもしれない。逸花は軽く手を上げて残る三人に伝えると、ひとり土手を下った。
雅はそこに居た。川の水すれすれの所からこちらをじっと見ている。
「雅ちゃん大丈夫?」
先ほど知ったその名前を口にしながらそっと近づいていく。
そういえばこの猫も空白の時間を象徴するものの一つだった……。
この川は見た目によらずかなり深い。川の下流のほう、つまり南の街中まで行けば川幅が広くなり、せいぜい膝丈の高さになるのだが。
雅が川に落ちれば命の補償はしてあげられない。彼女は知る人ぞ知るカナヅチなのだ。
そんなこともあるので余計慎重になりながら右手で身体を支え、左手をのばす。
自転車が這い出した跡だろうか、水草があたりに散乱していた。
届きそうで届かない黒猫に向かって必死で身体を乗り出し――
刹那右手が空を切った。
右手に全てをかけていた逸花はモロにバランスを崩す。
その手に滑った原因であろう水草が絡まっていたのが、川に落ちる一瞬前に逸花の目に入った。
考えるより先に体がくの字に折り曲がり、涙がにじむほど激しくせきこんだ。
口の中に違和感を感じ、指を入れてかき混ぜる。
取り出した指に苔のようなものが絡まっていた。
まだ落ち着かない呼吸のまま、逸花はただぼんやりとそれを眺めていた。
前髪から断続的に滴る水滴の向こう側につつじの姿を認めた。
名前を呼ぼうとしたがせきが酷くてかなわない。
彼は土手の途中で立ちつくすと、酷く奇妙なものを見る目でただただこちらを見詰めていた。
逸花もつつじの注目しているそれに気付き、思わず硬直した。
確かに逸花は川に落ちていた。いや、落ちたのだろう、制服や髪から絶えず水が滴っている。
だが彼女は水よりも高い位置にいた。
川からぬっと立ち上がった黒い人影に抱き上げられていたのだ。俗に言うお姫様だっこで。
この深い川の上にどうやって立っているのか……いや、そんなことよりも……。
『あなたが落としたのはこの金の斧ですか? それとも銀の斧ですか? それとも普通の斧ですか?』
某フレーズがつつじの脳裏をよぎるのを想像できたのは、彼女だったからとか昔からの付き合いだからという理由とはまた別格の何かだったのだろう。
しかし逸花を抱き上げている人物は泉の精というにはあまりにも異様過ぎた。
黒ずくめの上に漆黒の髪が顔面に張り付いていて表情すらも窺えなかったのだ。
はっきりいってマジ怖い。幽霊と言われればそのまま信じてしまいそうなほど雰囲気がある。
その人物は酷くゆっくりとした動作で土手に足を踏み出した。
振動が落ちた衝撃に開いたらしい傷口に響いて逸花は辛そうに眉をしかめる。
その踏み出した足に水かきがついていたので逸花は目を見開いたが、すぐに円形の履物であるということを悟った。
昔なにかの漫画で呼んだことのあるような忍者のつけるアレである。
彼女の腰のあたりから水滴に混じって血が滴っているのに気付いたのか、つつじが表情を硬くして駆け寄ってくる。
「怪我……したのか?」
ノーリアクションの精霊を一瞥すると、いまだ抱きかかえられたままの逸花の肩を遠慮がちにつかむ。
その衝撃でさえうめくほどの痛みを感じた。びくりとつつじが手を離す。
つつじの表情は普段とそう変わらないように見えるが、彼なりに哀れなほど動揺しているのが逸花には感じられた。
早く不安を拭ってあげようと、ムリに笑顔をつくろうとしたが、どうにもうまくいかなかった。
どうやらつつじの不安は倍増したらしい。
逸花を地面に降ろそうとあたふたと背中に手をかける。
が、そこにはまだ完全には開いていない傷口があった。
つつじが触れたことによって傷口が完全に開ききり、新たな血が勢い良く溢れ出す。
「い、痛いわボケー!!!」
逸花の放った涙の左アッパーが見事につつじの顎を捕らえた。
完全にもらったつつじが仰向けに倒れるのと、あせびとみきが土手から顔をのぞかせたのはほぼ同時だった。
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2006/01/15(Sun)03:34:53 公開 / ハルキ
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■作者からのメッセージ
暖めつづけていたものをやっと作品にする踏ん切りがつきました。
いままで費やした時間のためにもどうにかしていい作品にできるよう頑張りたいと思います。