- 『「 面影メモライズ 」』 作者:笹井リョウ / ショート*2 リアル・現代
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全角11364文字
容量22728 bytes
原稿用紙約34.8枚
「夫の連れ子」である私は、母に愛されていないのかもしれない。そんなことをうっすらと感じていた実果は、ある日突然、事故でカオリ(母の実の子)と父(実果の実の親)を亡くす。そのショックで、母は脳の中で実果とカオリを入れ替えてしまう。母の中では、実果がいなくなり、カオリが生き残っている。そんな家庭の中で、「カオリ」を演じ生活をしている実果。私は「カオリ」の代わり。どうでもいい存在なんだ。そんな風に、何かを諦めて、そして何かを諦めきれていない実果の心情に変化が訪れる―――
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「 面影メモライズ 」
*
家のポストに、一通の手紙があった。
真っ白な封筒。宛名は、なにも書かれていない。差出人のところには、流れるように丁寧な字で、「木村伊織」と記されていた。
…母だ。全く、またこんなへんなことして。私は苛立ちを抑えながら封筒を握り、玄関に手をかけた。宛名をなにも書かずに手紙を送ったって、ウチに帰ってくるに決まってるじゃん。全く、やることがありえない。そう思いながらも、私は、心の中ではすでに母を許している。いつだってそうなんだ、私は。きっとどこかで諦めてる。
「ただいま」
「おかえり」
聞きなれた母のまるい声に、私はとがった声をかぶせる。
「お母さん、また変なことして――」
「カオリ」
…ちょっと
「今日の夕ごはんなにがいい?」
私のとがった声に、さらに母のまるい声がかぶせられる。ちょっと、少しは人の話を聞こうとしてよ。心の中でだけそう呟いて、私はまた、母のことを許す。
「…もう材料は買ってあるんでしょ?」
「うん。カレーにしようかハヤシライスにしようか迷ってね…材料的にはどっちも変わらないんだけど。お母さんどっちでもいいから、カオリに決めてもらおうと思ってね。カオリはどっちがいい?」
心の核の部分が、かすかに、だけど確かに揺れる。
“カオリ” “カオリ”
「…ハヤシライスがいい」
私はそう言いながら、少し大きめのカーディガンを脱いだ。十二月の部屋は、やっぱり少しだけ寒かった。
テレビに上に並べられた、ビデオとテレビのそれぞれのリモコン。少しだけどっちがどっちだが戸惑ったけど、間違えずにテレビのリモコンを選ぶ。私、よく間違えるんだよな、そう思いながら握ったリモコンは予想以上に冷たく私のてのひらにおさまる。テレビをつけると、いつもと変わらない再放送のドラマ。こうして、今日もいつもと変わらない私が終わって、“カオリ”としての夕方が始まる。
「え?どっちがいいって?」
「ハヤシライス」
私は、テレビの音量を小さくし、かわりに声を大きくして言った。手が短いので、母はエプロンのひもが結びにくいらしい。そんな背中がとてもかわいい。
「ハヤシライス?」
「そうだって」
何度も確かめるので、少々私もいらだつ。テレビの音量を元に戻した。
「珍しいわねぇ、カオリ、いっつもカレーが好きだったじゃないの」
ま、いつもカレーじゃ飽きるわよね、と、まるい声でそう付け加えて、母はハヤシライスを作る準備を始めた。“カオリ”の好きなカレーじゃなくて、私の好きなハヤシライス。
テレビの中からこぼれてくる声は、やっぱりいつもどおり古臭くて、ドラマの設定も役者の髪型も何もかもが古臭く見えてしまう。どんだけ前髪を巻けば気が済むんだよ。なんでいつも崖に追い詰められるわけ? ていうか逃げてるんだったらあえて崖に行くなよ。
母が包丁を動かすトントントン、という音に、夕陽が沈んでいくリズムが重なる。ゆっくり、ゆっくり、山を食べるように消えていく夕陽の落ちていく音が、街を夜へといざなう。「すぐできるからね」という母の声が、夜が始まる合図なんだ。
胸がかき乱される。今日も、くるしい。
*
私の名前は「カオリ」じゃない。実果。木村実果。
私は、お父さんがつけてくれた自分の名前がだいすきだった。実果。実果。実のたっぷりつまった果実のように、濃密で、みずみずしく幸せな人生を送ってほしい。四歳くらいのときだったかな、お父さんはそう言って私の頭を撫でてくれた。もう今はよく覚えていないけれど、そんな由来があったと思う。
だけど私の名前は、私の意思とは裏腹に、「カオリ」に変わった。忘れもしない。おととしの一月二一日。やわらかくて真っ白なものに覆い尽くされた街の真ん中で、私はひとり、「カオリ」という仮面をかぶった。
お母さんとお父さんは、お互いにお互いが二人目の家族だった。わかりやすくいえば、バツイチ同士の再婚。私はあんまりこのことば好きじゃないんだけど、他の言葉では説明しにくいから使う。お母さんは五年ほど前に、お父さんは七年前に前の家族とは離婚している。私は実のお父さんの子供として家庭に入った。そして当たり前のように、お母さんの方にも実の子がいたんだ。
それが、カオリ。私の義姉となったひとだ。
私はそのとき十五歳で、カオリは十七歳だった。高校一年生と、高校三年生。通っている高校は偶然にも同じだったけれど、私立のマンモス校だから、生徒の中にはピンからキリまでいる。私この言葉もあんまり好きじゃないんだけど、しょうがない。姉はいわゆる「ピン」であり、私はいわゆる「キリ」であった。…やっぱりこの言葉は好きになれないや。
お父さんは、そのことを恥じている様子など全くなかったし、実の子である私にも、義理の子であるカオリにも、平等に愛情を注いでいるのがとてもよくわかった。だけどお母さんは違った。いや、「違った」と思っているのは私だけなのかもしれない。だけど、私にはうっすらと、ほんのりと、だけど確かに感じることができた。私は、カオリと平等に愛されていない。私は心のどこかで、しょうがない、と諦めつつも、その反対側では許しきれていなかったのだと思う。
カオリがエースとして活躍していたソフトボール部に、私も入った。別にカオリがいたからじゃない。友達の絵里香が一緒に入ろうと声をかけてくれたのだ。私は勉強のかわりに運動ができるタチだったし、そのころはバイトばかりで部活にも入っていなかったので、ソフトボール部に入部した。カオリから部活の話は聞いていたけれど、やはり少しきつかった。夏のノックは忘れられない。だけどやっぱりカオリはエースで、私は新しく入った球拾い部員。ここでも「ピン」とか「キリ」っていう言葉を使わなきゃいけないのかな。できれば使いたくないんだけど。
カオリが四番として活躍していた試合に、一度だけ母が見に来たことがある。きっと、私は母の目に映っていなかった。
季節は秋をまたぎ冬に差し掛かった。街を覆い隠すような雪のなかで、高校三年生であるカオリは、大学受験へとスパートをかける。カオリが目指す大学は、やはりとてもレベルが高く、カオリはそこで教育学を学ぶのだそうだ。将来は、たくさんの生徒たちに囲まれて英語を教えつづけたい、と、なめらかな二重まぶたを細めてカオリは言った。やわらかに、微笑んでいた。微笑んでいたような気がする。
夕食時、母が「模試でもいい結果を残しつづけているのよね」と嬉しそうに手を合わせると、「先生から推薦をもらえるかもしれないの」と、カオリは落ち着いて言う。お父さんは何も言わずに笑っていた。いや、「がんばれよ」くらいは言っていたのかもしれない。ただ、無言でカレーを食べつづける私を少し気にしていたように思う。今になって、あの時の視線の意味に気づく。「だいじょうぶだから」そう言っていたように思う。カオリの好きなカレーは、いつも私にとっては辛すぎる。
一月二一日。センター試験。
母から手渡されたお守りを力強く握り締めたカオリを乗せて、お父さんは車を走らせた。規定の時間までは、たっぷりと余裕がある。雪が積もることも見込んで、タイヤのチェーンもばっちりだ。これで、若者の暴走車がお父さんたちに突っ込まない限り、だいじょうぶよね、と母は冗談交じりで笑った。私も笑った。うまく笑えていたと思う。
だけどそれが現実になった。
無免許運転だったそうだ。さらに、酒も入っていたらしい。その車は、雪道を慎重に運転するお父さんの車に、なんのためらいもなく激突した。あっけなかった。全て吹っ飛んだ。誰も助からなかった。馬鹿みたいな若者たちも、お父さんも、カオリも。カオリの手には、お守りが握り締められたままだったという。「絶対合格!」母の下手な字で、そう書いてあった。
母は壊れた。突然だった。
私のことを忘れた。「実果」を忘れた。私のことを「カオリ」と呼ぶようになった。
私のカオリは、ここにいるもんね。お父さんと実果はどこ行っちゃったんだろうね。車で出かけたっきりだね。ふたりで逃げちゃったのかな。全然帰ってこないね。どうしたのかなぁ。カオリはどう思う?
カオリはどう思う?
医者がいうに、多大なるショックによる脳作動なのだという。自分の都合のいいように、脳の中で事実を置き換えてしまう、精神の弱いひとに見られる病気なのだそうだ。治るんですか?という私の問いかけに、医者はひとこと、「難しいでしょう」とだけ告げた。私はそのとき不思議と実感した。
いま、廊下で待っている母は、誰のことを待っているんだろう。――カオリだ。
私は置き換えられた。母によって。私とカオリは置き換えられたんだ。母の中で、「消えて欲しくない人物」はカオリで、「その人物を置き換えに消えてもいい人物」は私だったんだ。
予感的中。私は、「夫の連れ子」。
それでは、と医師に別れを告げ、放心状態で廊下にいた母のもとへ私は走った。「お母さん」「どうしたのよカオリ…母さんはどこかおかしいの?」「そんなことないよ、だいじょうぶだから」私はそう言って笑った。今度こそは、ちゃんと笑えていた。
私は母が死ぬまで「カオリ」として生きなければ。実のある、みずみずしく幸せな人生だなんて、それからでも遅くはない。
*
「実果! まじびっくりしたんだけど」
「絵里香…なにが?」
「さっきの古典単語のテストー。あそこ範囲だって奥村言った?」
あぁ、と私はうなずく。いつだって絵里香は話が唐突で、はじめのひとことでは何が言いたいのかわからない。
「ってか、めっちゃ言ってたじゃん。奥村。ハイここの下の段の例文も次のテストは範囲だぞー」
「まじでー…。ありえんやっばいかも、あたし多分追試皆勤賞とれるって!」
そう言って絵里香はからからと笑った。あーごめん絵里香、私ぶっちゃけ笑えないわ。
一日の中で一番辛い四限目(しかも古典。ほんと、漢文とか私にとっては素でどうでもいい)が終わって、次に訪れるのは四十分しかない短い昼休み。弁当食べる時間も含めて四十分っていうんだから、ゆとり教育が聞いて呆れる。なんて、いま使い方合ってたかな。
「あたし、光たちとヨーグルト買ってくるね!実果は何が好き?」
「…カレー」
「は?」
「うーそっ。角切りりんご買ってきて」
私はそう言って絵里香に百円を投げた。「消費税はあとで返すから」という私の言葉に、「了解!」と絵里香は敬礼を返し、ばたばたと足音をたてながら教室から出て行った。「絵里香!待ってってば!」光がカバンから財布を抜き取り、急いであとを追う。
私は今、「実果」なんだ。弁当を包んでいる色とりどりのナフキンをほどきながら、私は思った。
昼休みの教室は、授業中とは全く違う。表情とか、笑い声とか、景色としての色彩が戻ってくる。もう少し校庭を見つづけたら、男子のグループがサッカーボールを持って出てくるはずだ。なんで男子って、二限目か三限目かの休み時間で弁当全部食べちゃうんだろ。そんなにお腹すくものなのかな。だから昼休み時間もてあまして、サッカーなんかしてはしゃいで、疲れて午後寝ちゃうんだよ。なんてほんの少し馬鹿にしながら、ほんの少しうらやましい。
窓から差し込んでくる光はやわらかくて、まるくて、なめらかで、さらさらしていて、さくさくと私の視界に入り込んでくる。十二月だから、太陽が低い。直接私を見つめてくる。カーディガンを脱いだ。十二月の教室は、思ったよりもあたたかかった。
「到着ぅっ!」
ガララッ、と教室の戸が勢いよく開いたと思うと、片手にひとつずつヨーグルトを持った絵里香がそこにいた。よし、角切りりんごだな、と片方のヨーグルトを確認する。
「待たせてごめんねー。ちなみに私は有紗と二人分のピーチを買ったのだ!」
光はそういうと、有紗の分を机においた。有紗は提出物の関係で、少し遅れて来ることになっている。
私は「ありがと」と絵里香に言い、「じゃ食べよっか!」とお箸を持った。私、絵里香、光、有紗。四人がそろえばきっとなにも恐くない。
「ねぇねぇ光、さっきの古典単語どうだった?」
ナフキンをほどきながら、絵里香。
「あー…まぁまぁって感じ。たぶん追試ではない!」
ナフキンをほどきおわって、光。
「え!! だってびっくりしなかった? 下段の――」
「下段の例文はばっちり覚えてたから出てラッキーだったんだー」
「下段の例文が出るなんて知ってた?」と言おうとして止まった絵里香に、「へへっラッキー」と笑う光。どうしてもおかしくて私は笑ってしまった。
「みんな、もう食べてる?」
なんで笑うのよ!と、絵里香が私に食ってかかった瞬間、有紗が教室に入ってきた。右脇には、提出してきたはずのノートを抱えたまま。
「あれ有紗、ノートださなかったの?」
「あー…奥村なんかいなくって。探すのめんどくさいから放課後でいいや」
有紗らしい。光が、「これ、有紗の分のヨーグルトね」と言ってピーチヨーグルトを差し出す。「えっまじで? ありがとー買ってきてくれたんだ! お金は? いくらだった?」「あー実果! あたし実果から消費税分返してもらってないよ!」「うわ絵里香って人間ちっさ」「あんたが返すっつったんだろ!」
はいはい、と私は笑いながら財布から五円玉を一枚とりだす。「五円を笑う者は五円に泣くのよ」わけのわからないこと言いながら、絵里香は五円玉を財布にしまった。
どこかのクラスの男子たちが、サッカーボールを抱えて校庭に飛び出した。
冬のソフトボール部は、辛い。夏ほどではないが、冬は冬の辛さがある。
アップのジョギング、ストレッチから始まって、キャッチボール、ノックのあとはひたすら基礎トレーニング。マラソン、筋トレ、ダッシュ、筋トレ、マラソン…。ソフトボール部はいわゆる「女子の野球部」だから、やっぱり辛いよ、と真面目な顔でつぶやいたカオリの顔が頭に浮かぶ。すぐにもみ消す。
私も絵里香も、なんとか今まで部活を続けている。ふたりとも、バイトはやめなければならなかった。とてもじゃないけど両立なんでできない。というよりも、入ったときに顧問から「やめるんだよな?」と当たり前のように言われ、「はい」と当たり前のようにうなずいてしまった。古文には逆らえても顧問には逆らえない。
アップのジョギングとストレッチが終わって、メニューがキャッチボールに変わった。私は絵里香と目配せをする。私たちは、キャッチボールの列の一番端に位置づく。もうかなりソフトを続けているといっても、周りから見たらまだまだ初心者。キャッチボールでさえもなんだか少し引け目を感じるため、私たちいつも端っこだ。
「実ー果っ」
堅いボールを投げながら、絵里香は少し大きめの声でいう。会話のキャッチボール。私、うまーい。
「なーにっ」
「あたし、今日、用事あるから、部活の途中で、家帰らなきゃなの!」
「だ、か、ら?」
「あたしのかわりに、顧問に言っとい」
「いーやっ!」
私の反応を聞いて、絵里香はボールを受けそこねた。ころころと後ろへ転がっていくボールを、絵里香の細い背中がまるまって追いかけていく。
「なんでよー」
走りながら戻ってくる絵里香。すたれた赤いジャージのすそについた泥。私たちはソフトボール部だ。
「自分で言いな!」
「…だってー」
「じ・ぶ・ん・で・い・い・な!」
「…でもさー」
絵里香が子供のように駄々をこねているうちに、キャッチボールは終わった。次のメニュー、ノックの球拾いの最中に、絵里香はこっそり私のところに来た。
「用事っていうのは、実は彼氏とデートに行くことなんだけど…顔色変えずにそのこと顧問にいう自信ないの」
「はぁ…なにいってんのあんた」
「用事ってなんなんだ、って言われたらなんだか笑っちゃいそうで…」
嘘をつくときの悪い癖。絵里香は口元が緩む。
「だからお願い! ね?」
そんなごっついグローブはめて「お願い」のポーズされても、あんまりかわいくないなー。
「そんなの私だってうまく言えるかどうかわっかんないよ。私がバレたらもっと気まずいじゃん」
「うーん、それはそうなんだけど…」
またそうやって絵里香がごねているうちに、私のノックの順番が来た。私が突然「お願いします!」と大声をあげたので、絵里香は背中を少し反らせて驚いていた。私はボールに飛び込んでいく。このときだけ、私はいろんなことを忘れられるんだ。
ノックで、土がどろどろにつくジャージ。なんだか、いつも、カオリのジャージより私のジャージの方が、汚れがあんまり落ちていなかった。ちゃんと洗濯してよね、母さん。
そのコースは少しきつい。だけど私は飛び込んでいく。「まだまだぁ!」遠くから聞こえる顧問の声。よしっ、と私は心の中で気合を入れ、フライを捕りに走る。あの球、絶対私が捕るんだ。捕るんだ。捕るんだ。捕るんだ。
そうしたら、母さん、私の試合も見に来てくれる。
くらりと歪んだ頭のなかで、カオリの試合を見に来る母の姿が浮かんだ。私はベンチにもいなかった。ただ端っこで、絵里香と一緒に応援をしていた。「四番のヒットが見たーいー見たーいー見たーいー!」声を枯らして叫んでた。カオリがバッターボックスに構える。私はさらに大声をはりあげる。
私があんなにも大声を出していたのは、母さんに、気づいてほしかったから ?
「カオリ、打てーっ!」
母のまるい声援に、カオリから飛びっきりの金属音が重なった。
カオリにとっては、こんなフライ、なんてことないのかな。
ぽとり、と音をたてて重く地面を転がるフライ球に、顧問が「なにしとる!」と叫んだ。私は返事をしなかった。
私にはフライも取れないの、母さん。
でも、見て欲しかったの。
グラウンドで動きが止まった私に、さすがの顧問も打つ手を止めた。「おい、木村ァ!」そう叫ぶ。だけど私は動けなかった。後ろでノックの順番を待つ絵里香達。振り向けない。
「ねぇ、実果?」
振り向けない。
「ねぇ、ちょっと! 実果?」
…やめて。
「ねぇ!」
“ねぇカオリ、カレーとハヤシライスどっちが好き?”
「私は実果だよ!」
私はそう叫んでグラウンドを駆け抜けた。「木村!」叫ぶ顧問の横を駆け抜けた。「実果!」引き止める絵里香の声を背中で跳ね返した。
もうどんなにジャージが汚れたままでもいいから。
私を見てよ。
*
ジャージのままで街を歩いた。カバンは、忘れものとか確かめずに引っつかんで来たから、ちゃんと中身が全部入っているかはわからない。でも、一応もってきててよかった。
絵里香とキャプテンからメールが入ってた。「どうしたの?」「明日はちゃんと来るように。顧問にもよく謝っておくこと」そのようなメールだった。返信は、してない。
土色にまみれたジャージで街を歩くと、いつもより街が身近に感じる。道に落ちているごみとか、壁に書かれたアーティスティックな落書きなんかが、なんだか妙に私に似ている気がする。私はどこに行くわけでもなく、ぶらぶら歩きながら家へ帰ろうとしていた。電車一本分くらい歩いて帰れなくてどうするの、ソフトボール部員。かつて、カオリがそんなことを…別に言ってなかったか。
あーしかし、明日から私どうしよう。とりあえず部活には行きづらい。顧問と顔を合わせたくない。絵里香にもこんな姿見せちゃったし…私、クラスではけっこう大人っぽいお姉さんキャラで通ってたのにな。むっちゃくちゃ子供っぽかったじゃん、さっきの私。走り去るとか。なーに考えてんだか。ドラマか。
かかとを踏みつづけてすたれた靴が、静かな住宅街に、ぺたん、ぺたん、とやる気のない進路を刻む。足音よりもゆっくりと動いている、時計の針。ぺたん、ぺたん。私の足音のリズムより、夕暮れ時は遅く進んでいる。私と包み込んで許すかのように、十二月なのに暖かい夕陽。
狭い公園で、子供たちがきゃっきゃ、と黄色い声をあげながら戯れている。あーそんなふうにブランコに乗ったら危ないんだって、昔教わらなかったのかな。絶対あの男の子十分後とかには泣いてるわ。しかも全力で。子供たちは、汚れたジャージ姿の女子高生を見ても何も気にしない。ただありのままを自分たちで受け入れる。私もそういうふうになれればよかったのに。
ヴー ヴー ヴー
ジャージの薄いポケット越しに、携帯のバイヴが震えた。誰だろ。絵里香かキャプテンから、返信の催促かな。部活の子かな。チェーンメールとかだったら殺す。もうなんだか読むのもめんどくさいけど。砂が少しだけ入ったままのポケットから携帯を取り出す、手馴れた手つきでディスプレイを開けた。
「母、誕生日」
こんな文字が表示されていた。
私、こんなこと設定しといたっけ? お知らせタイマー機能だなんて、CDの返却日とか以外に使用しないと思ってたんだけどな。いつの私がこれを設定したんだろう。夏の私かな。
私は少し立ち止まった。誕生日、か。全然覚えてなかった。でもそれは向こうも同じだ。母だって実果の誕生日なんて覚えてないだろう。だって実果は「夫の連れ子」だし。
だけど私は今カオリなんだ。実の娘、カオリ。勉強もスポーツもよくできて、母親想いのやさしい子、カオリ。だったら誕生日プレゼントくらい買っていかなきゃ母がかわいそうかな。
私は携帯をポケットにしまった。家とは方向が反対の花屋へと足の向きを変えた。
くっさい。私はこの臭いが嫌い。たくさんの花の匂いが混ざってこの臭いになる。私が店に入った途端顔をしかめたように、店員も顔をしかめた。なにこの子、きったない姿で花屋なんかに来て。表情がそういっている。
はいはいごめんなさいね、すぐ買って帰りますからね、と思いながら私は店内を物色する。一番目を引いたのは黄色のバラだったが、やめとこう。だって、花言葉は「軽蔑」。
悩んだ結果、私は店員さんを呼び止めた。ほら、また、嫌そーな顔。
「なんでございましょうか?」
そんな丁寧な喋り方しなくてもいいのに。くすぐったい。
「あのー、母への誕生日プレゼントに花書いたいんですけど」
「はい」
「花束、お任せでつくってください」
「かしこまりました」
どうせ「お任せかよ!愛情がねぇなー」とか思ってんだろ、店員・田崎芳明(24)。ネームプレートの写真と今の写真が全然ちがうんですけど。
私は頭の中で思い切り毒づきながら花束を待った。さっきまであれほど不快だった花の臭いが、もうそんなに不快ではなくなっていた。
「あのー」
なんだい、田崎芳明(24)。
「誕生日ということですよね?」
そんなことより、あんたネームプレートの写真撮ったあとに思い切って髪の毛きったんだねー。
「メッセージカードなど添えられますか?」
「はい」
なかなかいいこというじゃん、こいつ。
私はすっかり愛着のわいた店員からメッセージカードを受け取った。だけど、To__ と From__ の下線部に名前を入れて、__ years!! のところに年齢を入れるだけだった。
私は、カオリのような達筆な字を書こうと勤めた。To IORI、From KAORI...そこまで書いて、私の手の動きは止まった。
私
お母さんの年齢知らない。
「カード、よろしいですか?」
よろしくない。全然よろしくない。
私だって、母といっしょだ。
私だって、ちゃんと母のこと見てない。
母が私を「夫の連れ子」と見ていたように、私は母を「お父さんの新しい恋人」としか見ていなかったのかな。
「花束、お待たせいたしました」
一気に、忘れていたはずの不快な臭いが、鼻に流れ込んできた。
*
汚いジャージに花束を抱えて帰ったら、花束まで心なしか汚くなった気がする。メッセージカードは小さく折りたたんで花屋のごみ箱に捨てた。ごめんね、田崎芳明(24)。だからもうそんな怪訝そうな顔しないで。
花屋から家までは、とても近い距離にあるはずなのに、なぜだかとても遠く感じた。ぺたん、ぺたん、と、私の足音のリズムはさらに遅くなっていた。夕陽もすっかり沈んでしまい、私はひとりだけ世界に取り残されたような気分になった。時の流れに置いていかれた。
あー、やっぱり一駅分歩いて帰るなんて、今の私の体力じゃきつかったのかな。私、ソフトボール部失格かも。
わけもなく泣けてきたけど、下唇を噛んで耐えた。こんなところでこんな姿で、近所の誰かにでも会ったらどうするの。汚いジャージ姿で花束抱えて泣いてる女子高生なんて気持ち悪い。
家に着いたけれど、なんだかそこが家に見えなかった。私は三分くらい玄関の前で突っ立っていた。ふとポストに目をやると、また、真っ白な封筒がひとつ入っていた。取り出してみると、宛名が書かれていない。また家に戻ってきてる。お母さんだな。そう思うと、急に帰らなくちゃ、という実感がわいてきた。やっと玄関に手をかけた。開けるとそこにはいつもどおりの母の姿があって、いつもどおり再放送のドラマが放映されていた。お母さん、またエプロンちゃんと結べてないよ。私はそう思いながら「ただいま」と言った。
「お帰りー」
母は背を向けたまま私に言った。まるい声だ。今日のご飯はなんだろう。
私は花束を机のうえでに無造作において、とりあえず服を着替えた。なんだか、この姿で母の前に現れるのは、「カオリ」として悪い気がした。
「お母さん」
新しく着た服は、空気にずっとさらされていたので少しつめたい。
「また、手紙戻ってきてたよ」
「あら、そう」
「…ねぇ、この手紙、いったいなんなの? お母さんが出してるんだよね?」
「そうよ」
当たり前のように返答する母に、私は少し憤りを感じる。そうよ、じゃないよ。宛名書かないと手紙は届かないんだよ。
「なんなの、この手紙」
ちゃんとした答えを促すように、私は問うた。母の、とんとんトン、という包丁の音がとまった。
「――ねぇカオリ、実果って覚えてる?」
どくん、と心臓が波打った。
「ずっと前に、お父さんとどこかへ行ったまま戻ってこないじゃない…ふたりとも」
覚えてるよ、と私は答えた。立っていられなくなって、ソファに座った。
「お母さん、ずっと心配でね。カオリはやさしいから、今まで話題に出さないでいてくれてたんだろうけど…やっぱり寂しくてね。手紙を、書いてるの。実果に。だけどどこにいるかわからないから、宛名はなにも書けなくてね…とりあえずポストに入れてみてはいるんだけど。馬鹿みたいだよね」
ふうん、そっか。と私は返事をした。声は震えていなかっただろうか。
私は、ここにいるよ。
実果は、ここに。
「…届くわけないのにね。馬鹿みたい、お母さん」
そう言って母はくるりと振り返って、不自然に明るい声で何かを言おうとした。だが、その前に、机の上に置かれた花束に気がついた。
「まあ花束!カオリ、これ…」
「母さん、誕生日じゃん」
私はにっこりと笑った。頬は震えていなかっただろうか。
「覚えててくれたの?カオリ」
「あたりまえでしょ」
もうちょっとだ、もうちょっと。
「…ほんとにありがとう…ずっと枯れないように飾っておこうね」
私は、うん、といって、トイレ行ってくる、とトイレへ駆け込んだ。涙が出た。
「カオリー」
ドア越しに、母の声が聞こえる。
「今日のご飯さー」
「カレーがいい」
震えて声にならなかった。
カオリが好きなカレーは、私にとっては少し辛いけど、もうそんなこと気にならない。
明日からはちゃんと部活にも行こう。冬季の基礎トレーニングがレギュラーを分けるってカオリが言ってた。もう絵里香とサボるのはやめにしよう。
そして、四番をとって、母さんに見に来てもらおう。
【完】
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■作者からのメッセージ
こんにちは。笹井リョウです。
覚えているでしょうか。
きっと、覚えていない人のほうが多いでしょうね。
高校生になって、全く小説を書けなくなりました。
いやいや時間がないない。毎日帰りは8時すぎです。部活です。
ですが今回は冬休みということで!!
時間を見つけて短編を書きました!!
突然ぽーんと思い浮かんだお話、「面影メモライズ」。
どうでしたでしょうか?
それにしても、もうあのころのメンバーはすっかりいなくなっていますね。
本当に悲しいです。
最近は自分のサイトもがんばってます。
もうすぐ80000Hitします。驚愕 ブログサイトでございます。
よければ一度来てみてくださいね。
それではまた、新たな作品で。