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『月のヒカリ。そして俺と彼女の物語。第一・二話』 作者:シチューカレー(試作品) / リアル・現代 リアル・現代
全角29400.5文字
容量58801 bytes
原稿用紙約90.4枚
俺は彼女の、光のためなら何でも出来る。―――いいや、やってやるさ。たとえ、地球の反対側に飛んでいけといわれても。大地震であえなくなっても会いにいってやる。俺が彼女を変えた。彼女が俺を変えた。これは、そんな俺と彼女のちょっぴり特別な物語。甘くて苦い、そんな物語。
  プロローグ

「自分の行きたい道を行け」
 父親がオレにそう告げる。
 オレの家族は何かと自由精神というものが好きらしく、常にそう告げていた。特に父親。俺は邪魔だとしか思っていない。
 オレはそれくらい無神経で鈍感だったのかもしれないし、父親が過保護すぎたのかもしれなかった。どっちにしろ、俺の思想は邪魔だということは変えようとはしなかった。大体、人に言われずとも自由に生きるつもりだ。―――少なくともオレは。
 中学校のころ公民で習った。自由権というものがあるらしい。それはただの規則であって義務ではない。義務ではないという事は、つまりその人の自由をその人から奪えるわけで、誰かにばれなければ自由を奪い、世界と言う名の建物の端に権力だのでっちあげた規則だの運命だので、縛られる。そんなものだ。
 人間という生物は醜い。それ故に同じ人間であることが嫌になる。だからオレは昼が嫌いだ。その醜い人間どもが陽光に照らされ、目立つ。そして人々の視線を浴びて体のうちがもっと目立ちたいというに衝動に駆られ、罪を犯す。
 しかし、いい奴も居るわけだ。たまに、いや。まれに。しかし、いい奴も実は醜い奴で、自分がそう感じたのは、自分と共有できるから言い奴と思えただけかもしれなかった。もしくは、あまりに自分が情けなくて、心のどこかで自覚していて、自分より心が綺麗な人を見ることによってやっと体中が理解することもあるであろう。
 しかし、人間というのは、欲が深い生物。俺もその仲間。いっそのことナマケモノになったほうが、楽になれると考えたこともあった。
 一度成功すると、さらに上へ行こうとする。それが人間。
 父親にそのことを聞いたこともあった。
 なぜ人間はそんな衝動に駆られるのだろう。と、
「そのうち分かる」
 といっていたのをまだ覚えている。
 そんなこと、ありえないと心のそこから思っていた。父親が言っていた言葉は、臭い台詞か、あるいは息子から尊敬の目で見て欲しくて言ったのか、今までそう思っていた。
 しかし、本当にそのうち分かってしまった。

 ―――オレは光と言う少女と知り合って分かった。

 初めて光の笑顔を見たとき、もっと光の笑顔が見たいと思ったし、光が喜んだとき、もっと喜ばせたいと思った。

 ―――人間とはそういうものだ。

「夜。お帰り」
 そういわれると弱くなり、
「夜。がんばって」
 そういわれると強くなってしまった。

 ―――人間とはそういうものだ。

 光が一人で寂しそうにしている時、光が泣いている時、光を助けて上げられない時、もっと強くなって、光を悲しませないようにと強く思う。

 ―――人間とはそういうものだ。

 別にオレの被害妄想ではない。人間とういう醜いものに生まれてしまって、心底嫌になった。
 ナマケモノになりたかったよ。
 人間にはいいものもあるさ。だけど。悪いものとの比がすごくて、いいところが分からないだけかもしれない。だからオレは人間を貶しているだけなのかもしれない。
 ああ、だから嫌だ。
 だけどオレは、光を守るために、生涯をささげた。どんなことにでも立ち向かうと決めた。誰がなんと言おうと、誰かが文句をつけようと。オレは立ち向かう。
 永遠の時なんてものは無い。すべては一時的なものであり、作り上げた物はすぐに壊れてしまう。それをゆっくりかけて直すか、急いで直すか、そのままにしておくか、それの繰り返しだ。
 永遠なんて物は無い。
 ―――そう。決して無い。






   第一話  月のペンダント

      1

 オレは夜が好きだ。
 静かで、騒々しい昼間とはまた別の世界。オレは好きだった。だからオレは、昼間は家で寝ていた。夜が活動時間とでも言える。
 オレは、車が通らなくなった夜の国道五号線を全力で自転車をかっ飛ばしていた。もちろん足が痛かった。足がつるかと思った。だけどオレには全速力でかっ飛ばす理由があった。
―――それは十分も前のことだ。

      □

 オレは夜に目が覚め、いつもどおりに光の家にいった。光は夜中にオレが窓をたたいて起こしても怒らなかったし、勝手に入っていっても起こらなかった。
 今日は、オレが部屋をのぞいても光の姿はなかった。別にそういう趣味ではない。ただ、いるかいないか探っただけだ。
 仕方なくオレは、いつも開けっ放しになっている窓から光の部屋に入り、光の帰りを待つことにした。もう一度言っておくが、別にそういう趣味ではない。
 光が遅いときは決まって夜中の番組を居間で見ている時だった。お笑いのコンビがトークショーを繰り広げている番組だ。この前、光は得意げに、
「私、このお笑いコンビと会ったことあるよ」
 と、自慢していた。
 何がそんなに面白いのかオレには分からなかったが、光は大がつくほどのお笑い好きだったのだ。その楽しいひと時を邪魔すまいと、終わるまでこうして光の部屋のベッドでねっころがりながらひたすら待つ。
 それに、居間に行くと光の両親に見つかる可能性が高かった。だから、こうして待っている。それだけ、別にそういう趣味ではない。
「夜。起きなよ」
 気づいたら、光がオレの顔を覗き込んでいた。光の長い髪がオレの顔に当たり、くすぐったかった。
 それにしても光の髪は眠くなるほどいい香りだった。それに、光は顔が綺麗だった。美人と言うよりも可愛い。
オレは思わず顔をそらして、
「寝てねえよ」
 何ていって見たりする。
光はまだ私服だったので、パジャマに着替える。その間オレはずっと外を眺めていた。
 外は暗かった。当たり前なことも、この部屋にいると窓枠で区切られた別の世界に見える。
光は別に昼間寝ているわけではない。ただの夜更かしだ。
「いいの、家出てきたりして」
 毎回のように聞いてくる。だけど、本当に心配してくれているらしいので、嬉しかった。でもって、オレはいつもどおりに答えるわけだ。
「いいんだよ」
 それから光はベッドに寝転び、手を天井に向けて上げる。オレはベッドから降りる。
「夜。ごめんね」
 急に思いつめたような顔をしたから、少し驚いた。こういう顔をする光は滅多にみられないからだ。しかし、そういうときにこそ感じられる嫌な予感って物がある。
「え?」
「夜に貰ったペンダント、区役所に置いてきちゃった」
 何を言い出すんだ。区役所?なぜだ?おかしすぎるその言葉一つ一つがつながらない。区役所に何しにいって、なぜそこで置いて来てしまうんだ。オレには理解ができなかった。たとえ天才だったとしても。
「今日ね、家の用事で区役所に行って来たんだ。そしたらさ、男の人とぶつかっちゃって、そこで落としたみたいなんだけどね。お母さんがそんなもの拾いに行くなって。だからね…」
「あー。分かった。今から行って取って来てやるよ」
 何を言い出すかは分かっていた。きっと、取りに行ってくれない。って言い出すんだ。んでもって、オレが自転車でかっ飛ばすんだ。あれはもう簡便だ。この前は飲み物買うためにコンビにまで買いに行かされたな。あれはきつかった。岩崎整形外科の横の坂を全力で上ったっけな。足がギシギシ言うくらい。だけどオレは行く。光の笑顔が見たいから。光を喜ばせたいから、取りに行くんだ。
 それで十分だろう?ほかに何の理由がいる?守りたい。そう思うだけだ。概念は無い――つもり。純粋にそう思うだけだ。ほんとに、マジで。

      □

 てなわけでオレは自転車を夜の国道五号線に滑らしていた。区役所は、国道五号線を少し進んで、駅が見えたらそこの坂を下りて、駅の南口から入って北口出て、もうすぐそこだ。
 しかしだ。こういう単純な経路にも難関というものがあって、速攻では無かった。
 まずひとつは、駅前にたむろするアホ共。こういうやつはよく絡んでくる。別に怖いわけではない。大幅なタイムロスの上に気分が悪くなるだけだ。いいことひとつすらありゃしない。というわけで、以外に難易度が高い。止められたら最後だ。
 もうひとつは、駅を抜けること。南口のエスカレーターから上って北口もエスカレーターで行けばいいのだが、こっちは自転車。だから、自転車を持ってエスカレーターに乗る。この時間帯だ。きっと誰も見ないさ。
 オレは自転車(中古で買った三千八百円の代物)のハンドルを強く握り締める。サドルから尻を上げ、さらに速く漕ぐ。
 光の家を出てから五分は経過していた。坂の向こうに駅が見えた。そこで坂を下る。一キロも無い短い坂。
「…ギャハハハハ!」
 遠くでけたたましい笑い声が響き、オレの耳元まで伝わってきた。うるさい。コレだから人間というものは。あ、オレも人間だったな。まったく、嫌になる。ローソンが見えた。その前でたむろしている数人の青年たち。ああ。うるさい。そう思いながらも勢いをさらにつけて下る。―――どうやらオレには気づかなかったようだ。オレは自転車を担いで駅の南口の登りエスカレーターに乗り、上に付いたらタイミングよく降りる。
 ―――そういえば、まだオレが小3のときかな。そんときにエスカレーターが怖くて乗れなかったっけ。あんときはエスカレーターに吸い込まれてしまうなんて考えていたからな。―――まったく。オレも馬鹿なもんだ。しょうがないから父親に肩車してもらったっけ。思い出なんていいものなんてひとつも無い。
「お、斗夜じゃねえか」
 ―――神様って不公平だよな。こういうときだけ見て見ぬ不利をするんだからさ。と思いつつ、俺は本当に嫌そうな顔をした。こんなときに、しかもこんな所を見られてしまった。なんということだ。友達に醜態をさらすとは。思いもよらなかった。
 「なんだよ。広樹。何でおまえこんな時間帯にこんなとこに……」
 そいつは、黒い髪でこの先一生髪を染めないと言っていた。自分で切ったのか、妙に斬新的な髪型で、だいぶ子供臭いところがまだある顔だった。身長はオレより5センチ下。
途中で話を止める。そいつの姿を見た瞬間に理解した。大型のナイキバッグ。ずっしりと重そうだ。それに頬赤いし。
「…彼女と喧嘩したのか?」
 気づいたらそんな台詞を吐いていた。広樹は半年くらい前に、
『俺さ、彼女出来たんだ。これがめっちゃ可愛いの』
と、かなり自慢していた。そして浮かれていた。まあ、そりゃあ嬉しいだろうね。男として、人間として。
 しかしだ。どんなに仲がよくてもある日突然その幸せが壊れるものだ。時は来る。永遠なんて無い。必ずそういうことがある。粘土細工のようにすぐに直る者や、骨董品のようにもう一度作り直さなければいけない者、ガラス細工のように割れたらゴミ箱に捨てる者も居るわけだ。
広樹の頬が赤いのは彼女に引っ叩かれたかしたのだろう。重い荷物はきっと生活必需品だろう。そういえばこいつは彼女と一緒に住んでいたっけ。同棲というやつか。それで喧嘩でもしたのだろう。――いきさつは大体分かった。
「むぅ。そんなとこであろう。でさ…ものは相談なんだけど…」
「いやだ」
 さわやかに断っておいた。
 広樹はすごく間抜けな顔をしていた。なかなか傑作だ。
 大体のことは分かった。こいつとはもう長い付き合いだし。どうせ行き当たりばったりに居候させてもらえる家を探しているのだろう。――オレはこいつだけは家に入れたくなかった。
「まだなにもいってな…」
「いやです」
「ちゃんと俺の話を…」
「丁重にお断りします」
「そんなこと言わないでさ…」
「拒否」
 オレは急いでいた。故にこんな奴にかまってはいられなかった。だからオレは自転車を担いでいる姿勢のまま歩き出した。
「待てよ」
 暗く低い声でオレを呼び止めた。なにか背中がゾクッとしたから振り向いておいた。あとで怨まれたら嫌だからだ。
「俺の全財産やるから!」
 泣きそうな顔ですがり付いてきた。ていうかすでに涙ぐんでいた。オレ。こいつの事哀れに思ってきた。きっと今どん底なんだろうな。こいつはこいつなりに頑張っているし、それに全財産をくれるといっているし、仕方ないな。
「むぅ…分かったよ。でも、オレは昼間起きて無いからその間の家の管理頼むぞ」
「あ…ああ!」
 感謝感激雨あられ。きっとこいつの心の中はこうだろう。きっと。
 やっと解決だ。これでようやく歩けるってものだ。いや。歩いている暇すらオレには無い。急がないと光が寝てしまうからだ。寝てしまったらもう何をやっても起きないからな。光は。
 オレはまた歩き出す。駅で足止めを食らったタイムロスは大きい。遅れを取り戻さなければ。そう思いつつ、案外足はゆっくりだった。
「なあ、どこ行くんだ」
「おまえに…関係ない」
 その後ろを広樹が付いてきた。ああ。鬱陶しい。オレは急いでんだぞ。少しはそこら辺を配慮しろよ。とか思いながら、北口のエスカレーターを乗り、降りる。外と駅内を区切る境界線の出入り口に手を掛ける。外の風が少し強くなったみたいで、出入り口のガラス張りになっているドアが中々開かなかった。少し力を入れると軽々あくのだが、なにせ自転車を担いでいるから、力も分散されていた。しょうがなく、突進するようにしてドアを開ける。涼しい風が顔に当たって気持ちよかった。そこでようやく担いでいた自転車を下ろして、乗る。
「じゃな」
「お、おい!おまえんちの鍵…」
 オレは全力ですぐそこの区役所まで自転車をこいだ。広樹を無視して。
 少し悪戯気分で、にやりと笑ってやった。広樹が何か言っていたがもう何も聞こえなかった。オレは優越に浸っていたからだ。うむ。やはり人が悔しがることをすると軽く気持ちいいな。
 オレはそのまま区役所の駐輪場で自転車を置いて、区役所を見上げる。
 ああ。なんだか囚われの身の王女を救うみたいだな。そしてオレが勇者で、この区役所が魔王城。ゲームみたいだな。ほんとに。
「いざ…」
 少しそれっぽく言ってみた。誰にも聞こえないように。自分だけがそれを聞く。夜の静けさの所為か、それが自分には大きく聞こえた。なんだか緊張してきた。ほんとに、何でこんなことになるんだか。まあ、オレは光の為に尽くしているんだけどね。
 
       2

 さて、区役所への入り口は五つ。
 ひとつは、正面玄関。
二つ目は、区役所の隣に位置する建物、区民センターから行く方法。そこは、区役所とほぼくっついていて、中に入ると、二つの建物には見えないくらいだ。境界線が無い所為だろう。
 三つ目は、裏口というのだろうか、ずいぶん小さなガラスの扉がそこに設置されていた。
四つ目は、区役所二階に繋がる連絡通路から行ける場所で、駅内のホームから行けるのだが、そこの鍵は厳重で、きっと無理だ。駅から行くのはあきらめた。
 五つ目は、駐車場から入れる入り口だ。来るまでご来客したとき、いちいち回りこんで入るのが面倒だ。とクレームが来たからだそうだ。
とりあえずオレは、ひとつずつ試すことにした。まずは正面玄関。ここもガラス製の扉で、石でも投げ込んだらすぐに、割れそうだった。――ここは、鍵がかかっているはずだ。
そう思い、オレは扉の取っ手に右手を掛ける。力を入れて引く。
 ―――開いた。なんの苦もせず開いたその扉は、小さく。キィ、と音を立てる。
 オレは驚きを隠せなかった。
 こんなにあっさりと行くのは早々無いからだ。もしかしたら、ペンダントを見つけるのはあっさりと終えられるかもしれない。とりあえずオレは、区役所内へと進入した。
 区役所は、今回が初めてだったかもしれない。
 場所は、小学校の町探検とかで、よく通っていたから分かっていた。が、実際中までご拝見したことは無い。
 入ってすぐに、案内書が置いてあった。暗くてよく見えなかったが、それらしき物だったし、入り口においてあるから、たぶんそうだ。
 中で職員が働いているわけでもなく、蛍光灯は一切付いていなかった。しかし、自動販売機や、非常口の電光板の光で、中は薄っすらと見えた。それにオレは、夜が活動時間だから、少量の明かりでも多少のものは見えた。
 中は、案外殺伐としていた。床は石造りだった。区役所は奥行きがあるほうで、横の幅が無かった。
 まず目に入ったのは、入り口付近の観葉植物。五〜六個並んでいた。オレから見て左側には受付カウンターが置くまで続いていた。所々に数字番号で一〜十二までの看板があり、その所々で用足しが違うようだ。戸籍の届け。外人登録。住所変更などだ。カウンターの奥には、職員が働くオフィスのようになっており、訪問客側には、椅子が置いてあった。オレから見て右側には、待機するための椅子がずらりと並んでおり、その奥がトイレになっていた。
「ほー…」
 少し感心してしまった。なぜだか、ここで働いている人たちの姿が頭に浮かんできた。毎日のように朝早くから来て、夕方の五時半には帰るんだ。ヤッチャンも来れば、障害者も来るだろう。その人その人で対応を変えて接するなんてオレには到底不可能だ。
 だが、いまはそんな暇ではない。ペンダントを探さねば。光の誕生日にプレゼントしたあのペンダントを。
 とりあえず石造りの床の上に落ちていないか探してみる。そのまま区役所を一周した。が、無い。そうか、もう落し物になっているのかな。そう思い、オレは職員の業務机の上を見ながら、そこら辺を回る。―――無い。
 くそう。どこだ。あれは六万円もしたんだぞ。オレが一ヶ月も働いてためたお金で買ったんだ。光のために。
光も光だ。光が落としてこなければ、こんな目に遭わないわけで、今頃光と楽しく談笑しているんだろうな。でもオレは光を攻めなかった。間違いは誰にでもあるわけだ。そんなことで愚痴を言っていたらこの世が終わろうとも、終わりはしない。
 ただの人的差別?そうかもしれない。たぶん落としたのが広樹だったら、即刻拒否。自分で行け。仕舞いには蹴っ飛ばしていたかもしれない。
「バカヤロウ!」
 ってカンジで。うん。たぶんそんな感じで蹴飛ばしているな。
 とにかくオレは、光に頼まれた内容をこなすだけだ。
「おい、誰だおまえは!」
 不意にそんな声が俺の背中越しから伝わってきた。今まで頭を働かせていてそっちに集中できなかったためか。全然気づかなかった。その存在に。
オレの顔に懐中電灯の目映い光が当たる。
そう、見回り警官だ。厄介だ。ヤバイ。逃げなければ捕まる。捕まったらきっと二〜三日間は光と遭えないんだろうな。それだけは嫌だ。
 覚悟を決めてオレは逃げ出す。業務机の上を一個二個と飛び越え、受付カウンターも飛び越える。警官も追ってきた。業務机は飛び越えずに、業務机によって作られた迷路を辿りながらだ。しかし、そいつは早かった。畜生、どこかいい場所は―――あった。
 オレは、ちょうど区役所内の支柱のような物の手前の辺りを走っていた。その支柱には、現在の手稲区の住民の人数が刻まれていた。十八――――…畜生。走りながらじゃ読めない。
 とにかくオレは逃げ場所となるトイレに駆け込んだ。
「コラ!待て小僧!」
 すごい形相だ。オレはあの顔を二度と忘れないと思う。いや、忘れるもんか。そして、オレの時間を奪ったことをいつか思い知らせてやる。と思った。
 オレはトイレに駆け込み、鍵を閉める。
「ふぅ…」
 とりあえずは安心。張り詰めていた。ギターの弦が切れた感じで、オレの緊張も切れる。しかし、安息の時は無かった。あの警官も自分の仕事に熱心なのか、オレの入っているトイレをドンドンと、叩いて来る。
 やばいな。急いで駆け込んだはいいけど逃げ場所が無くなった。まったく失策だ。とっさの思考では後先考えることは難しい物だ。
 オレはトイレの便座に座って、溜息をつく。
「はあ…」
 あのペンダント。高かったんだぞ。そう思いながらトイレットペーパーを入れる所をカラカラ音を立てて回す。
光にプレゼントしたときは、そりゃあもう喜んでくれたっけな。ありがとうって何回も言ってくれたな。あの時の笑顔ときたら。本当に可愛かったなぁ。


 オレはコンビニのアルバイトをやっていた。
「おい、蒼井。もう上がっていいぞ」
「ウィッス」
 オレは、光の誕生日プレゼントを買うためにアルバイトをやっていたんだ。それはもう汗と涙の結晶だった。オレは、いつもどおりの時間にバイトを降りた。おつかれっす。とバイトの先輩に言い残して、更衣室に向かう。途中でバイトの先輩の安井さんが、
「あ、蒼井」
「なんすか」
「今月の給料。おまえの講座に入れて置いたからな」
「あ。ありがとうございます」
 そんな会話を交わして、また歩き出す。もうひとりのバイトの先輩の岩崎さんも、
「おまえ最近張り切ってるなあ」
「は、はあ」
「ま、頑張っていることはいいことだ。この調子で頑張れよ」
「どうも」
 オレは頭を下げる。ペコリと。すると岩崎先輩が、
「おいおい。そんな深く頭下げられると調子に乗っちまうからやめてくれ」
 うはは。そう笑って去っていった。オレも。そうすね、あはは。と笑って、再び歩き出す。更衣室へ。その足取りはスキップしているように見えたらしい。安井先輩談だけど。
 着替えてすぐに銀行へ行った。しかし。銀行は閉まっていた。あ、そうか。今日日曜日だった。それに、こんな夜遅くにやってるわけ無いな。つい浮かれ過ぎていて、何もかもが曖昧に見え、曖昧に聞こえ、曖昧に感じた。
 そのあと、光の家に寄って、少し話したあと、家に帰って寝た。
 次の日。オレは昼間に起きた。夜に起きると銀行がやっていないからだ。
 夜とは違い、明るすぎる陽光と五月蠅過ぎる車の廃棄音。―――やっぱり、夜のほうがいいな。こんな明るい世界、結局はどんどん悪に染まっていくんだ。
 世界のどこかで木を切る仕事をするし、世界のどこかでゴミを焼却するし、世界のどこかで薄めていない、濃い洗剤が海に流れ、世界のどこかで石油が燃やされ、世界のどこかで車が走り、世界のどこかで絶滅機種が捕獲され、世界のどこかで事件がおき、世界のどこかで人間が殺される。―――そういって、昼という明るすぎる陽光のあたる世界はどんどん崩れ、壊れ、荒んで、滅亡するんだ。陽光に当たって気が可笑しくなっているのかもしれない。
 この明るい世界で、人が活動し、その度に世界は崩れていくし、壊れていくし、荒んでいく。
 だから夜は好きだ。優しい月光。人々は眠りに落ち、木々や草花や世界が活発に活動しているんだ。
 オレは銀行でバイト代を降ろし、国道五号線を歩く。果ての無い歩き。光のために買うものを捜し求めるために―――光を喜ばせる為。
 オレは、バスに乗り、地下鉄の駅まで行く。そこから、大通まで乗って、地上に出る。また気がおかしくなるほどの陽光を浴び、目を顰める。眩しい。
 十分くらい歩いただろうか。中心都市とだけあってたくさんの店が並んでいた。どれも光に似合いそうなものが無かった。どうするか。と、考えていた矢先。あるものに目が留まる。
 それは、路上販売しているアクセサリーだ。
 どれも光に似合いそうで、オレはゆっくりと考えていた。十字架のクロスなんてのもいいな。それとも、この銀色のピアスか。いや、待てよ。こっちの指輪も中々。おお。このブレスレットなんかもいいなあ。
ほんとうにじっくり考えた末、見かねた販売人がオススメを教えてくれた。それは、十字架のクロスよりも、銀色のピアスよりも、指輪よりも、ブレスレットよりも、何かぐっと来る物があった。
 シンプルな首飾りで、細めのチェーンに、月の形をした物を通した物だった。オレは正直に、すごい。と言うと、販売人が、がはは。と笑い、
「特注品だぜ。俺の中でも最高傑作。ほんとに」
 オレはなんだか同感だった。いままで路上に並んでいた物と比べると、なにか違う輝きが見えたような気がした。
 それを少し眺めた後、オレは意を持って聞いてみた。
「コレの値段はいくらなんですか」
 と。
すると、販売人がまた、がははと笑い、
「六万円」
 これほど無い微笑で言われ、かなり驚いた。その金額は、オレのバイト代すべてをつぎ込まされる物だったからだ。しかしまぁ、光の為に貯めてきたんだし、思い残しは無い。少しの概念の無い顔で、オレは販売主に、
「ください」
 と言って、財布から福沢諭吉を六枚だして渡す。
「まいどあり」
 詐欺られたか。と思った。でもいいんだ。コレだけは他の物とは比にならない位、惹かれてしまった。きっと。それなりにいい物のはずだ。
 オレは買ったばかりの月の首飾りを手に握り締めて、地下鉄に乗り、バスに乗って、手稲に帰った。
その日はすっかり暗くなっており、陽光は失われ、月光が光り輝いていた。
―――夜という名の世界に変わった。
車の音は少ないし、人も少ない。俺がよく知っている、静かな世界。
 いつもの時間になると、オレは光の家に行った。その道のりは、歩いて遠くかけ離れた場所に行くようで、単にオレの歩くスペースが遅かっただけである。
 月光にさらされる中、オレはもう一度手に握り締めていたペンダントを見る。自分の手をバックに、そのペンダントは月光に当たって光っていた。
「夜。ありがとう!」
なんて喜んでくれる光の顔が浮かんだ。それだけでオレは顔がにやけてしまう。その顔が見たい一心に、オレは走り出す。
二分程度で光の家の前に着く。そしてオレはいつもどおりに、光の部屋の窓を開ける。ガラガラと、築二十年の家らしい音を立てて窓が開かれる。
 中には光がベッドの上にボーっと座っていた。
「やあ」
 光がそう言ってきた。オレも、
「よう」
 と言って置く。コレが挨拶ってものだ。
オレは靴を脱ぎ、光の横に座る。それから、オレはじっと光の顔を眺めていた。すると、光もオレの顔を眺めてきた。それが恥ずかしくなって、オレは顔を横にそらす。
「どうしたの?」
「い、いや。別に」
 今光に顔を見られたら、赤くなっているのがばれてしまう。光と反対の方向に顔を向け、少しくぐもった声で、本題を切り出す。
「ひ、光…あ、あのさ」
「ん?」
 緊張した。今までいろんな場面を体験してきたオレだが、ここまで緊張したのは、今日が始めてだ。恥ずかしさを紛らわすため、くぐもった声のまま早口で、
「今日さ光の誕生日だろだからオレプレゼント持ってきたんだ今日の用事はそれだけそれじゃあまた明日ごきげんよう」
 さっきまで握り締めていた、月のペンダントを光の手に無理やり押し付ける。
 そのまま逃げ去るように、しかし顔を光に見られないようにして、光の部屋を出ようとした。ベッドの上に立ち、窓を開ける。ガラガラと音を立てる。
 しかし、オレの動きは止まった。光の細くて白い手が、俺の足を掴んでいた。
「夜。落ち着いて」
 光が言う。
 コレが落ち着いていられようか。こんな醜態をさらすのはごめんだ。
「私の誕生日、一ヵ月後の五月七日だよ」
 その言葉でオレはどん底に落とされた。崖から落とされた衝撃より強く、ロケットに貼り付けられて宇宙旅行するより恐ろしい。そんなどん底だった。というか底なしだ。永遠に落ちる。しかしやっぱり永遠なんて物は無くて、落下は止まる。
「でも」
 少し光がオレから目をそらす。照れているのだろうか。そんな光を見ていると、もう落下は止まっていて、気づいたら光の顔を覗いていた。
「私…嬉しいよ」
 光の顔は朱に染まり、オレを見つめていた。さらに光は言う。
「一ヶ月早い誕生日プレゼント、ありがとう。嬉しいよ」
「あ…ああ」
 光もオレも顔が真っ赤になっていた。光の笑顔は最高だった。もう、死んでもいいと思うくらいに、今この場で地球が滅亡してもいいくらいに最高だった。
 屈託の無い笑みは、オレを心の芯から癒してくれた。
 肩が痛いときにするマッサージや、疲れたときのお風呂、お風呂上りの牛乳、暑い時の水遊びよりも、癒してくれた。後一回攻撃されたら死ぬ時でも、全回復にしてしまうような笑顔。
 そうか。オレはコレが欲しかったんだ。コレの為にバイトして、わざわざ街に行き、買ってきた。そして、得たときの満足感。
「あれ?」
 光は月のペンダントについているモノに気付く。俺もソレに注目する。
 値札だ。今日の夕方ごろに買った時から今まで、オレは気付くことなく光に渡してしまった。しまった、失策だ。間抜けなことをしてしまった。
「六万円…」
 ああ。こんな安いの買ってきたの。とか、こんな物なのに六万円もしたの。とか言われるんだろうな。そうさ、どうせ安いよ。どうせ詐欺られたさ。でも、それが光に似合うと思って買ってきたんだ。いまさら何を言われても引き下がる気は無い。
 しかし、予想は大いに外れ、言葉すら発しなかった。
 光はしばらく黙ってオレの顔を見つめていた。オレも黙って見つめ返していた。
 次第に、光の目は潤んできた。そして一滴。光の目から水滴がこぼれる。水道の蛇口が緩んでいたかのような零れ方。きっと我慢していたけど、流れてしまった。そんな感じであろう。だって、そんな零れ方をしたようにオレには見えたからだ。
 そして、ついに本泣き。ひっくひっくと声を小さく出して、光の綺麗で澄んだ瞳から零れ落ちた、いくつもの水滴を手で拭う。
 オレは為す術も無い様にただその場で呆然と口をあけていた。鏡で見たらすごく情けない顔なんだろうな。そう思った。しかし、心の自分はどうにか自分の体に打ち勝ち、光の背中を右手でさする。
「どうした?」
 理由を聞いた。その理由がどんな内容であれ、オレはソレを受け止め、普通の振る舞いで、笑おう。それが光に対する優しさだと思った。
 光は、くぐもった声で、
「あ…のね、わ、私の誕生日の為に…こんな…高い……ウッ」
 そこから、光はすすり泣きから、声を出して泣いていた。
 オレは心のどこかで足場が崩れた。たぶん立っていたら、足が竦んでその場で崩れていたと思う。
 オレは心の中からこみ上げてくる何かを感じながら、光をそっと抱きしめた。
 その次の日から、光はそのペンダントを入れるために小物入れを買ってきて、少し自慢げに、そして嬉しそうに、
「知ってます?これ、ある人からのプレゼントなんですよ?」
 と、ふざけた風にオレに言ってくる。
 だからオレも、
「知ってる。そいつはきっと値札を取り忘れるようなバカなんでしょうな」
 それから、二人でクスクス笑い、窓の外に見える月を見ていた。
「でも、ソレは光が身に着けていてよ。そうじゃないと意味が無いから」
「うん」
 オレは綺麗な小物入れに入れられるよりも、光に付けて貰いたかった。別に我儘じゃない。光に付けて貰うために買ってきたんだから、ソレをどんなことがあっても果たすだけだ。あ、これが我儘って言うのか。
 なんて思いながら、
「月。綺麗だね」
「うん」
 そう言って、いつもどおりにつまらない事ばかり、意味もなく話していた。


「おい、小僧。いつまでそこに居る気だ」
 不意にそんな声が聞こえてきた。
 人がせっかく感動のシーンを振り返っていたのに、なんて心の中でブツブツと言い、便器から立ち上がる。
「そこに居てもなぁ、朝になれば役員が来るんだよ。いいか、こんなことで人生棒に振る気か?おまえの人生そんなもんか?人生から逃げてばっかりじゃ真っ当な人生は送れないぞ。いいか、これは忠告だ。今出てくれば見逃してやる。だけどな、強情張って出てこないんだったら考えがある。警察を呼んでやるよ。嘘じゃねえぞ。脅しだと思って甘く見たら痛い目見るぞ。ほら、さっさと出て来い。オレも気が短いんだ」
 きっと酔っ払っているのだろう。勤務中に酒を飲むとはな。説教臭い。父親の説教みたいでオレは強情を張って、誰が出るもんか。とか思っていながら手が勝手に動いていた。
 体ってのは痛いほど正直なんだな。そう痛感する。
 脳の奥でも本当は、説教で相当参っていたのかも知れない。
「おい。速く出て来いって言ってんだろ。ほら、五…四…三……」
 オレはトイレの鍵のところに手を伸ばし、鍵を空ける。それからトイレのドアを開ける。ガチャリと音がして、この静かな雰囲気を壊すような大きな音に思えた。
 開けると、髭だらけの顔の警官が懐中電灯を片手に立っていた。
「ちっ。やっと出てきたか」
 今にも切れそうな顔で、真っ赤だった。別に恥ずかしい訳ではない。怒りと酔っ払っている所為だと思う。
オレは、恐る恐る警官の前に立つ。
 警官が睨んできた。別に怖くは無い。オレは警官をじっと見ているだけだ。あの時に比べればぜんぜん怖くない。しかし、その余裕振りが気に食わないのか、胸座を掴んできた。
「オイ。テメェ、俺に迷惑かけてんだ、謝るとか出来ねえのか?ましてや見逃してやるんだぞ?ありがとうございますの一言があってもいいんじゃないか。え?」
 しかし、オレは黙っていた。
 別にそういう挑発的な態度を取るためではない。ただ、自分の、男としてのプライドが許さないのだ。ここで頭を下げれば負けだ。
「聞いてんのか!」
 さらに胸座を掴む力が強まる。しかし、オレは黙っている。
 と、警官の胸元で光る物に気付く。
 ソレはまさしく俺が光にプレゼントした月のペンダントだ。なぜこんな酒臭いおっさんが付けているんだ?汚らわしい。さっさと奪い返して帰ろう。と、俺の思考が途中で切れた。
 警官に殴られた。左頬を右ストレート。オレは勢い良く後ろの壁に背中から叩き付けられる。その衝撃で、オレは噎せる。
「ゴホッ、ゴホッ」
 さらに、腹に一発。
 オレは腹を押さえて倒れこむ。内臓器官がおかしくなったのではないだろうか。なんて思いながら、涙目になりながら、ひたすら噎せながら、警官を睨んでいた。
「フン!ガキはさっさとお家でお寝んねしてな」
 そう言い捨てて去る警官。
「待て…」
 苦しさと痛みを抑えて必死にそう叫ぶ。いや、叫んだのかな。きっとかすれ声だったと思う。
 ああ。情けない。オレが光にあげたプレゼントが。光が喜んで、大切にしてくれていたペンダントが。不思議な光を放つ月のペンダントが。遠退いて行く。俺から離れていく。せっかく見つけたのに、せっかく苦労して買ったのに、オレが手に入れた笑顔を悲しみに満ちた顔にする気か。許さん。でも、体はやっぱり正直で、手も足も口も動かず、ただ。涙がこみ上げてきた。


「遅いなぁ」
 私は、夜の帰りをベッドの上で待っていた。
月光が差し込む私の部屋は、別の世界になっているみたいで、綺麗だった。この優しい月光が、私は好きだった。
 親と喧嘩して落ち込んだときや、疲れているときに、この月光を見ると落ち着いて、なんだか心が癒される。
 それにしても遅いなぁ。
 また夜に頼んじゃった。いつもそうだ。私は何か困ったことがあればすぐ夜に頼ってしまう。この前は飲み物を買わせてしまった。私が喉が渇いたといったら、買ってくる。って言って私の部屋を出てって行ったっけ。
 今回は更なる重役を任せてしまった。私の不注意なのに頼ってしまった。
 夜が帰ってきたら、ありがとうって何回も言おう。それでも足りないなら土下座だってする。もしかしたら夜に何かあったかもしれない。そうなったら私は人生一生を使って償う。
 夜が私の為に何かやってくれる。ソレが嬉しくて気付かなかったのかもしれない。夜を使って便利している自分を。
 夜はロボットでもなんでもない。ちゃんとした一人の人間であるわけで、私が同行できるわけではない。それなのに夜は私の為に何かをしてくれて、一生懸命になってくれる。
 そんな風にしてくれる夜が嬉しくて、私の為にしてくれることに喜びさえ感じていた。
 でも、実際はどうなのだろう。夜は嫌々やっているのではないだろうか。そう思うと心臓が締め付けられ、ズキズキと痛む。自己嫌悪という名の悪魔によって。
 今、私は夜に何がしてやれるだろうか。
 夜にどうしてやって欲しいのだろうか。
 こうやって一人で月を眺めているとそう考え、常に苦痛していた。だけど私の苦痛は夜の痛みよりも弱いのだろう。きっと。
 今の私に出来ることなど無い。ただ、ひたすら祈って、夜の帰りを待つのみ。
 私はベッドにボフンと寝転がる。


「畜生。斗夜め。俺をこんな所に置いてきぼりにしよって…こんな可哀想な奴を見捨てる奴がどこにいる!」
 俺は斗夜に置いてきぼりを食らって三十分。
 食欲・読書・収穫。なんてつけられる季節の今は、寒い。それでなくともこの時間帯。とっても肌寒い。三十分動かずその場にいるだけの俺は、どうしようもなく虚しくなる。
 ほんとに、別の奴に頼んだほうが良かったな。って今頃後悔したところで無駄ってものだ。だから俺は待つ。この寒空の下で、体を震えさせながら。
 バックの中から取り出したポテトチップを口に押し込むようにして食べながら、区役所前の塀に座っていた。
 あれは、高校二年の夏だったかな。俺と斗夜で学校祭の出し物として、『発狂!プロレスっぽいプロレス!』なんてふざけたことで殴り合ったっけな。理由はくだらなくとも、殴り合っているうちに、心の内からこみ上げてくる何かが、自分を更なる熱さを出していたな。
 あの時は若かった。今もまだ二十じゃないから若いのだが、今からすれば若いのだ。
 丁度その後だったな。斗夜が高校から姿を消したのは。
 先生は何も語ってくれずに、
『蒼井斗夜は今日から学校に来ない』
 なんて、適当なことを言って、それで終わったっけな。
 その後オレは斗夜に、
『今日はどうしたんだ?学校に来ないで。今どこだ?つーか何してる?』
 そう、メールを送った。
 その数秒後。すぐに返信して来た。
『今ゲーセン』
 あまりの短文で俺は頭に来たが、斗夜の身に何も無かったことに、内心ホッとしていたんだろうな。怒る気になれなかった。
 その後も、斗夜は学校に来る事は無かったが、俺と斗夜はメールをちょくちょく交わしていた。俺と斗夜はそんな関係だった。
 別にそこまで仲がいいわけではない。ただ、話し合うくらいの。ちょっとした関係だ。
 俺はポテトチップスの袋の中に手を入れたが、もう何も入っていないことを確認して、ゴミをその辺に投げ捨てた。
 俺は区役所を見つめる。
 それにしても遅いな。もうかれこれ三十分。そんなに広い建物では無いから、すぐに見つかるはずなのだが。来ない。裏口から回っていったのか。もしくは…。
 それ以上考える前に体が動いていた。
 区役所のガラス扉を開けて中に進入する。


 何分経っただろうか。オレが警官にやられてから。
 まだ目からは悔し涙が流れている。しかし、心は安定していて、どこか、冷静になっている気がした。とにかく全身に無理矢理言うことを聞かせて、何とか立ち上がる。
「くそ…腹に一発だけだというのにこんなにクラクラする」
 トイレのドアを思いっきり叩く。バン。という音がする。それはこの静寂の中で暴れ周り、どこかに消えて言った。
壁にもたれながらも歩き出す。フラフラとした歩き方だが、しかし確実に進んでいる。さっきの警官を見つけるために。
 警官は案外簡単な所に居た。
 トイレを出てすぐのベンチの所だ。それにオレは驚く。警官も驚いた様子でこちらを見ていたが、すぐに睨みつけてくる。
「なんだ。まだそこに居たのかクソガキ」
 すくっと立ち上がる警官に対し、オレは壁にもたれかかっている。
 不利なのは分かっている。だが、どうしてもことを成し遂げようとするオレの何かが、オレの体に働きかけて勝手にとまでは言わないが、動き出す。
「うわあああああ!」
 オレは警官に向かって思いっきり殴りかかる。警官は冷静に確実に対処し、オレの腹に蹴りを入れて止めようとした。しかし、当たったのはいいが、俺の勢いが止まらないことに驚きを隠せぬまま、警官にオレの右ストレートが左頬に当たる。警官はバランスを崩し、よろける。そのチャンスを見逃さずに、もう一発。右ストレートを放つ。
 が、警官はそれを交わし、オレの腹にもう一発蹴りを入れる。
「がっ!」
 そんな声を出して、その場に倒れこむ。
 警官は恐ろしい形相でこちらを見てくる。歯をギリギリと鳴らせて、右頬を押さえる。そして、倒れているオレの顔に蹴りを入れる。
「ぐっ!」
さらにもう一回。
「ぶっ!」
何回も何回も蹴って来る。
「このクソガキ!よくも俺様の顔を殴ってくれたな」
 気が付くとオレは、もうどうでも良くなっていた。口が切れた。口から血が流れ、区役所の石造りの床に落ちる。頭から血が出る。その血は、髪の中を通って床に流れる。
 さらに腹を蹴ってくる。何もかも吐き出しそうになり、しかし、咳き込むと口が痛くて咳き込め無い。吐きそうだった。さらに足を蹴ってくる。もうアオタンどころでは済まない位に。
 留まる事も無く、ただただ何か罵声を飛ばして俺を蹴ってくる。
「は…ははは。はははははは!」
 狂っていた。酒乱で無ければ出来ない芸当とも言える。

 ―――光。ワリィ。約束破っちまった。

 心の中で深く言う。光に届けばいいのに。やっぱり神は意地悪で、届けてくれない。いや、届けれないのかもしれない。

 ―――光の為にせっかく買ったペンダント。

 今ここで警官からペンダントを奪わずいつ奪う。
しかし結果はこの通りで、病院送りになるかもしれない位やばかった。動かない。体中がギシギシ言ってもいいから動かす。なんて事はただの夢で、実際、脳より体のほうが正直なのだ。だから動かない。いや、動けない。
 体中が痛くても、どんなに心で強く思っても。実際はその相反する物の力が働いて、その物が勝つ。このままではヤバイ。どうにかしなくては。なんて思うときこそ、その逆光が大きくなり、行く手を阻まれ、結局は何も得ずに終わる。

 ―――光の悲しむ顔、見たくねぇな。

 光の笑顔が耐えないようにする為にこれまで頑張ってきたオレだが、そろそろ潮時か。この一件を境に、もう光には会わない。もう光を悲しませたくない。オレがいなくなれば光から悲しみの顔が消える。そうだ、そうしよう。
 今は警官に殴られるのをじっと我慢して、それからまたいつもの生活に戻ればいいんだ。今までが当たり前のような気がしてきたけど、実は特別な生活だったんだ。それが普通に戻る。
 何も問題が無い。なのに、どうして涙が。
「なーにしてんのかなーおじさん」
 オレは必死に痛みを抑えて、その声の主のほうを見た。警官ではない。
 それは区役所の入り口のほうから聞こえてきた。広樹だ。さっき悪戯して置いてきぼりにした広樹。ずっと外で待っていたのか。
 今の状況では、救世主と呼んでも良かった。神は本当に場が悪い。まるでトランプの七並べでストッパーを掛けている奴くらい、焦らせて来る。
 というか、こんな場面。映画とか空想モノでしか出てこないと思ったけど、出てくる物だ。まったく持って世の中は不思議に構成されている。
 警官は驚愕した。蹴るのを止めて、区役所の二階に逃げていった。
 いくら大人でも子供二人掛りではきつい。と言った所であろう。
「あ、待て!」
 待てと言われて待つ者はいないだろう。
広樹はオレの方に歩み寄って来る。自分の醜態をさらしているようで、情けない気持ちでいっぱいになり、涙を堪え、すっと立ち上がる。
 フラフラどころか、倒れそうになるが、広樹を支えにして何とか立つ。
「だ、大丈夫か斗夜」
「あ……ああ」
 体中が痛い。ギシギシと唸る。もう歩けない。オレはずらりと並んでいる椅子に座り、広樹も座る。
 広樹はやたらと悔しそうな顔をしていた。自分の事じゃないのに。
「くっそ。あの警官。ムカつく面だな。落ち着いたら探しに行こうせ」
「…」
 オレは黙っていた。そういう雰囲気なのだ。きっと。それを広樹が分かってないだけ。その後すぐに、オレの体から発しているオーラで気付いたのか、広樹も黙る。
 ペンダントは、取り返せなかった。この手で。
 そうさ。夜空に届かない手で、自分が夜空よりもっと大切な物に届くはず無いじゃないか。そういう風に出来ているんだ世の中って。それは眩し過ぎる陽光の世界と、静か過ぎる月光の世界、どちらにもいえる共通点であり。必然的な存在として成り立っている。
 五段の跳び箱を飛べずに六段を飛ぶのは無理だし、一年生の勉強をしないで二年生の勉強をこなすのは無理だ。人生だって。一五歳になってないのに二十歳になるのは無理だし、就職してすぐにチーフになるのは不可能だ。だから、夜空に届かないのに、それより大事な物には届かない。そうなっているんだ。そうさ。だからオレは夜空に手が届くようになってからその上を目指すんだ。それでいい。だから今回は―――。
「広樹」
 こちらから話を振ったことに驚いた顔をして、少し仏頂面で、
「なんだよ」
 と言う。オレは痛い口を必死に動かして話を続ける。
「オレさ。光って子の為にさ、区役所に入ったわけよ」
「ふむ」
「そんでさ。その子がここにペンダント忘れたって言うから取りに来たわけよ」
「ふむ」
「…で、探しても見つからないから困っていた所にあの警官に追われて、トイレに逃げ込んで、脅迫みたいなこと言われて、トイレから出されて殴られて、んで、今度はオレが奴を殴って、それでもやっぱり反撃されて、そのままボコボコになって、今広樹が助けに来たわけだ」
「なるほどね」
 それからオレは一息して、何を言われてもいい様に覚悟を決めて、
「で…さ。オレはオレなりに考えたわけよ。どうすればいいかって。でもよ、これを失敗したら光になんていえばいい?誕生日に買ったプレゼントをとり逃しました。って言ってノコノコ光の前に現れるか?そして悲しい表情を拝んで、はい。ごめんなさい。次は必ず。なんていえるか?それまで光の悲しい顔を拝めるか?無理だろ?つか無理だ。これ以上光を悲しませるわけにはいかないと思ってさ。だから、オレはペンダントを諦めて、もう二度と光の前には現れないようにすれば、もう光が悲しい表情を……がっ!」
 殴られた。分かっていた。きっと殴ってくるんじゃないだろうかって、予想どころか確実に思っていた。そうさ。オレは捻じ曲がっているよ。だけどこれ以上光にしてあげられることなんて無い。だからオレは、そう決断したんだ。決して曲げないこの決断を。
 と、溜息一つついて広樹は、
「おまえさ。今おまえは何しようとしていたか分かってんのか?」
「分かっている…つもり」
「おまえは今、現実から確実に逃げようとしているんだよ。またいつもの平和で平坦な毎日に逃げようとしているんだ」
 その言葉は予想していなかった。逃げる?俺が?ただオレは光を―――
「今おまえが向き合っている現実はペンダントを取り戻すことだけだ。なぜ逃げようとする。なぜ一度決断したことをすぐに諦めようとする。おまえはそういう奴だったか?少なくともオレの知っている斗夜は、もっと意地を張って、どんなことがあっても曲げない根性のある奴だと思っていたよ。だけど今の斗夜は何だ?私は失敗したのでみすみす帰ってもう二度と現れません。って言っているんだぞ?おまえはもっと強情な奴だと思っていたよ」
 オレは心が震えた。もう歪みそうになるくらい。広樹に何が分かる。オレの一生を見てきたように言いやがって。
「広樹。何説教染みた事言っているんだよ。おまえにオレの事なんか分かっちゃ―――」
「分かってるさ。俺はそれを身をもって体験してきたんだから。内容は違っても俺は逃げてきたんだから」
「う…」
「それにおまえが光ちゃんの前に二度と現れなかったら、余計に悲しむんじゃないかな。ペンダントのことを気にしている位なら、ちょっとは気があるはずだぜ。それに、光ちゃんは独りぼっちになっちまうんだぜ?いいのか?そっちのほうが悲しむと思うぜ。俺は今からペンダントを取り返しに行って、光ちゃんに渡したほうがいいと思うけどなぁ」
「独りぼっち…」
 足元が崩れた。オレは何をしていたんだ。そうだよ。今、光から離れたら光はどうなるんだよ。そうか。オレは自分のことしか考えていなかったんだ。ああ。情けない。
 気持ちが晴れた気分だった。スカッとした。そうさ。オレはペンダントを取りに来る為に来たんだ。
 広樹も心なしか嬉しそうな顔をしていた。この前も広樹に、
『おまえ。顔に出やすいな』
 と言われた。
 きっとオレは顔に出やすいんだよ。だから気持ちが晴れて決心を新たにしたことに気付いたんだ。なんか今だと笑えて来るな。
「行くか」
 余計な言葉は要らなかった。広樹も立ち上がり、オレもフラフラはしているが、何とか立ち上がる。広樹とオレは一瞬だけ目が会った。少しだけ笑っていた。
 そういえば、前にもこんなこと会ったっけな。『発狂!プロレスっぽいプロレス』で。
 オレはもう一度言う。
「行こうぜ」
 広樹も言った。
「行くか」
 区役所二階に通じる階段を、ゆっくりとゆっくりと歩いていた。
 そうさ。オレは夜空に手が届かなくたって、夜空より大切な物に手を伸ばすんだ。いつか届くことを信じて。
 光。待ってろよ。俺が今持ってってやるよ。

      3

 オレは窓の外を見た。
 半分に欠けた月が落ちようとしている。ゆっくりと。見ていても動いているか分からない速さで、しかし確実に進んでいる。気付いたらそこにはもういない。そんな感じだった。
 満月ほどの明るさじゃあないが、オレには充分の明るさで、区役所内を淡い色で照らす。
 オレと広樹は、区役所の二階へと進みあちこちを捜索していた。目を光らせて。
「ここにもいねぇ」
 広樹は半ばつまらなさそうにして、あちこちのドアを開けていた。木の扉から鉄の扉まで。
「こっちにもいないぞ」
 オレも広樹に伝える。そしてまた次のドアに行こうとする。丁度反対側のドアに手を掛けていた広樹も、オレと同じ方向に向かう。しかしその先は無く、行き止まりだった。オレと広樹は頭を壁にぶつけ、大して痛くも無い頭を抑えながら、見合う。
「いないな」
「ああ」
 オレと広樹はあらゆる場所を探した。区民ホール。講堂。会議室。食堂。納税課など。たくさん見て回った。確かに、奴は二階に逃げていった。その姿を目撃したし、階段を駆け上がる音も聞こえた。そうか、もしかしたらどこかで擦れ違ったのかも。この暗闇だったら、しゃがみながら歩いたら絶対に見つからないからきっとそうだ。
 そういうわけでもう一度見て回ることにした。この暗闇だったら、見逃したところもあるかもしれないし、擦れ違ったかもしれない。だから、もう一度見る。
 広樹は一回目の見回りで最後に開けた扉を開けて、中に入って確かめる。
 オレは一回目の見回りで最後に開けた扉を開けて、中に入って確かめる。
 二人ともその部屋からでてきたのはほぼ同時で、それが妙に恥ずかしかった。
「なあ」
 広樹が口を開く。オレも口を開く。
「なに」
「今更ってのもなんだけど、おまえって高校二年で中退した後、二年たった今の生活。満足しているか?」
 また、説教臭いことを言い始める。
 こいつはどうも、お父さんタイプで、よく説教じみた話を振ってきては、怒り出す。それがいつものこいつのスタイルだった。いや、スタイルかどうかは分からないけど、とにかくそういう特徴的なものを持っていた。オレはそれがなぜか嫌いには慣れなかった。
 そういう特徴的なものにオレは助けられたこともあった。時には邪魔なときもあった。いつもいつもがベストコンディションではないわけで、いつもいつもが為になる訳でもないという事である。
「しているね。少なくとも今は…」
 光に会ったから。とは言わなかった。
 なんか照れくさいからだ。まあ、広樹なら分かってくれるだろう。
 納得したように広樹は頷き、満足したような顔をしている。
「そうかそうか」
 そうかそうかそうか。そう何度も頷き、しつこく満足したような顔を見せびらかせてくる。新手の嫌味かと思ったが、心の底から心配しているんだな。と勝手に解釈した。
 オレと広樹は再び、扉を開け、なかに入り、確かめて、次の扉を開け、と繰り返していた。
「いない」
「いないな」
「どこだよ」
「どこだかな」
 オレと広樹はひたすらそんなことを言いながら、ついに最後の扉に辿り着いた。そこには、第三会議室と記されていた。
 息を呑んだ。唾も呑んだし、心臓を手で押さえたし、深呼吸もした。いつ警官が不意打ちしてきても可笑しくなかったからだ。ドアノブに手を掛けて、ゆっくりと回す。ガチャリと静寂に包まれた区役所に響き渡る。
 そこには、長いテーブルが並べられてパイプ椅子もずらりと並んでいた。まるで別世界な空間のように思えるほどの重い空気が漂っている。と、人影があった。
 ソレはパイプ椅子に座り、俯いていた。オレと広樹の存在に気付いたのか、ガバっと顔を上げる。そして、歪んだような顔をしてから、怒り狂ったような顔をしてこっちを睨みつけてきた。
「またテメェらか…しつけえよ…女にもてねえぜ。そういうタイプ」
 広樹が対抗せんとばかりに、鼻息を鳴らして、
「フン。その通りだよ、昨日ふられて来たばかりだ」
 その声は少し悲しくて寂しい声だった。オレも一応睨みつけながら言う。
「ペンダント返せ」
「ああん?ペンダントォ?…ああ、これのことか」
 警官はこれみよがしに首に付けているペンダントを見せてくる。それにムカつき、そしてすぐに奪い返せなかった自分にイラつく。そして、それをぶつけるように警官に叫ぶ。
「テメェの汚らしい首から救うんだよペンダントを!」
「…んだとぉ?ガキの分際で」
「来るならこいや!おら!」
 広樹が中指を立てて威嚇する。
 ブッつんと何かが切れた音がした。警官の顔は極限状態で、というかもうすでに噴火しているような顔をしていて、今にも殴ってきそうな雰囲気だった。
 ヤバイ。ここは先行を取っておかなくては。
 そう思ったときにはもう手が出ていた。警官の右頬を右拳で思いっきり殴っていた。警官の顔が歪んだように見えた。
「ってえな…ノヤロ!」
 警官は、俺に向かって手を伸ばしてきた。が、広樹がそれを右手で押さえ、警官の腹に蹴りを入れる。そしてオレも蹴りを入れる。
 警官を蹴りまくった。うずくまって、地面にはいつくばって、謝ろうとしても蹴った。体中ギシギシと音をうならせながら、俺は蹴った。怒りと怨みを込めた蹴りを何発も入れた。広樹も蹴りまくった。きっと彼女と別れた腹いせなのだろう。
 もう数十分も蹴っていた。警官の体はあざだらけで、口から、鼻からと血が出ていた。蹴りながら、オレも広樹も涙目になっていたような気がした。

 ―――人間っていうのはそういうものだ。

 いつか思った、あの日の言葉。今になって後押しみたいに頭の中にしゃしゃり出て来る。
 くそ。くそ。くそ。なんで、なんでオレは、こいつを、この警官を、蹴っているんだ。二人掛かりで、誤っているのに、泣いているのに、止めてくれって何度も言っているのに、ペンダントを返すからって何回も言っているのに、なんで足が止まらない。何で目の奥から涙がこみ上げてくる。こいつを蹴ってせいせいしているのに、こいつにやられた分返してやろうと思っているのに、なんでこんなにも惨めな気分になるんだ。
 ―――きっと。広樹も同じ事を考えているのだろう。広樹も涙目になってやがる。
 これだから、人間って奴は嫌いなんだ。
 警官もオレを蹴ったり殴ったりしているうちにそう思ったんじゃないかな。惨めな気分で、それが妙に気持ち悪くて、だからさっきパイプ椅子に座って俯いていたんじゃないだろうか。
 やりすぎた。程々にして置けばよかった。イジメと変わらない。そんな風に後悔しても、もう遅くて、自分のやったことに罪を感じて、嫌になっちゃうんだろうな。
 それでも体は止まってくれず、蹴り続けた。何度も止まれと呼び掛けても応じないオレの体。体が満足した。すっきりした。と感じるまで、蹴り続けるのだろうか。
 ああ、自分が壊れていく。再生できるかな。オレは、オレは…。


 気付いたら、オレの体は止まっていた。
 広樹も立ちながら俯いてたし、オレも目からの涙が絶え間なく零れて来た。警官は悶え、苦しんだ様子が分かるように、体中をあざだらけにしてうずくまっていた。
 オレは警官に歩み寄る。
「…ひぃ!」
 警官はオレが一歩、また一歩と歩み寄る度に怯えていた。オレの表情はどうなっていたのだろう。鬼のように怒り狂った顔。すべてがすっきりとした顔。ニコニコ顔。それとも、少し笑っていたのかもしれない。口の端が上がる程度。オレは警官に言う。不躾じゃあない。優しく、ゆっくりと、
「あのさ…オレもやり過ぎたよ。いくらお前がムカついたからってこれは無いよな。スマン……だからさ、ペンダント返してくれれば丸く収まるからさ。返してくれないかな。…その、本当に悪かったよ」
 そういうと、警官は首に付けているペンダントを取り、血だらけの手で渡してきた。血は乾いていたのか、ペンダントに血の跡は無い。
「じゃあね」
 なんか間違っている。そう思った。しかし、もう遅い。だから逃げた。その場から、警官をボコボコに殴ったことから、全てから。オレと広樹は黙っていた。黙りながらも足は進め、区役所の正面玄関から出て、駅に向かう。
 卑怯とか最悪とか言われようとオレはオレの仕事を成し遂げただけだ。その仕事を邪魔する奴が悪いんだ。だから、オレの所為じゃない。
 だけど、胸の底から湧いてくる何かがその思考を間違っている物と認識させようとしている。
 心の天使と悪魔みたいな物か。はたまた、単なる思いすぎか。
 今は、それら全てのことを胸の奥にしまい込み、ひたすら光にペンダントを渡すことを考えようとした。しかし、容量が大きすぎる為か、しまいこめない。今の自分には、そういう器用なことは出来ないだけなのかもしれない。もう、頭がいっぱいいっぱいで、時間が止まればいいのに、時間が止まればいいのに、と。何度も何度も繰り返して思い、その度に時の残酷さを痛感する。なんで一九九九年に恐怖の大王が振って来なかったのだろう。そうすれば、オレは存在してないのに、こんな目に遭わなかったのに、ノストラダムスめ、一生恨んでやる。
 そんなことを考えている間に、オレと広樹は手稲駅南口を出て、まっすぐ坂を上がり、国道に出ていた。
 オレは自転車を乗って、広樹は淡々と歩きながら。考え事をしていた所為か、広樹の歩く速さと大して変わらない速さでペダルを漕いでいた。
 国道五号線はやっぱり車が走っておらず、信号を無視して渡り、しばらく国道五号線沿いを歩いていた。
 広樹がいきなり言う。
「なあ」
「何?」
「結局さ、あの警官はどうなるんだろうな」
「…」
「この先さ、退職するかも知れないし」
「…」
「そうしたらさ、俺たちの所為じゃないのかな」
「…」
「今更就職するか。あの警官。そのまま自殺だって考えれるぞ」
 好き放題言いやがって。オレだってそんなこと分かってるさ。だけど、分かったところで何が出来る。何を変えることが出来るんだ。―――何も出来ないんだ。何も出来ないのなら、いくら考えたって、答えを探そうとしたって、無駄なんだ。
 それきり、広樹は押し黙る。
 オレは、空を見上げる。
 絵の具のパレットのような空。濃い藍色に黄色を混ぜて、夜明けの色を作ったパレット。その所々にある輝くラメがよりいっそう深めている感じ。綺麗だった。
 地球は動いていた。地球が動いているということは、雲が動く。星が動く。太陽が、惑星が動く。そして時間も動く。しかし、それら全ては客観的で、雲から見たら人間は動いているし、
地球から見たら動物が動いている。つまりそいういうこと。みんな動いているんだ。って、何当たり前のことを考えているんだオレは。…こんな状況じゃなきゃ考えられないか。
 まだ国道五号線を歩いていた。左には、つい最近つぶれたスーパーがある。なんでも新しく改装するとか。その反対側。つまり右には、七階建てのマンションが立っている。
 そろそろ光の家だな。
 オレはポケットに手を入れて、ペンダントを握り締める。握り締めながら、オレは念を込めるようにして心で光に言う。光。悪いな、遅れた。せっかく買ってあげたのに失くすほうが悪いんだぞ。今度こそ失くさないように身に着けろよ。
「なあ…」
 広樹が話しかけてきた。俺も返す。
「何だよ」
「お前の家、通り越したぞ」
「先に光の家に行く」
「…俺がいても大丈夫か?」
「ん?…ああ」
 それからまた沈黙。話すことが無いときの場の雰囲気はどうも苦手だ。さっきも見たが、もう一度空を見上げる。朝日が出掛かっている。その証拠に、パレットの上に暗い色が無かった。さっきまで見えた、ラメもなくなっている。
 知らぬ間にオレと広樹は歩道に寄せて歩いていた。
 車が国道五号線の上を走り去って行く。また一台。さらに一台と、少ないが、確実に朝に近づいていた。岩崎整形外科の看板が見えた。古臭くて、夜になっても光っているかどうかも分からない看板。そいつはオレの視界の中でどんどん大きくなる。オレと広樹が近づいている証拠だ。光の家は、岩崎整形外科の横にある坂を上り、突き当たった所を左折すればすぐだ。
 光に何て言おうか。
遅れて悪かった。
いや、それじゃあオレが下手に出ているみたいだ。
もう失くすなよ。大事にしてくれよ。
うん。これでいいな。オレは一人で納得したような顔をして、広樹のほうを見る。広樹は一人で鼻歌を歌っていた。何て呑気な野郎だ。しかもヒーロ戦隊物のテーマソング。絶対毎週欠かさず見てるな。こいつのこういうガキ臭い所はいつだって変わらないな。
 負けず嫌いで、我儘で、無鉄砲。しかも、教育テレビに興味津々と来た。どっからみてもガキじゃねえか。時々、こいつといるのが嫌になる時があったな。昔の話だけど。
 最近じゃどうかは分からない。会ってねえし。
 オレと広樹は岩崎整形外科の角を曲がって、坂を上る。
 そういえば、岩崎整形外科って、タクシーの運転手に、
「そこです。そこの岩崎整形外科のところを右に曲がってください」
 って言う時とか、
「ここって岩崎整形外科の近くだよな」
 って言う時しか使わない。
 実際に中を見たわけでもないし、利用したこともない。ただ知名度が高いだけで、実際そこに入っていった人すら見たこともなかった。
 聞いたことはあるけど内容は分からない。そんな感じなんだな。この岩崎整形外科って。
 そんなことを考えているうちに、隣の奴は、鼻声から口笛にレベルアップしていた。この時間、車数台が通る音以外は特に音が聞こえない。だから、こいつの口笛は心地よく響いていた。空の向こうまで響いてるような錯覚を起こしたような感覚になるんだよな。俺も一回やったことがある。そして、それが妙に気持ちいいから、調子こいて…
「燃えろ!焼き尽くせ!行け行け行けぇぇぇぇぇぇ!」
 と、今のこいつのように歌い出したくなるんだよ。よりによって、ヒーロ戦隊物…。人がいなくても一緒にいるだけで恥ずかしい。
 でも、こういうときの気持ちよさはオレもよく知っているつもりだから邪魔しないでおいた。広樹から離れる。


しばらくオレ達は歩き、光の家に着いた。
 築二十年は越しているであろう一軒家の前にオレと広樹は立つ。谷口という表札がかかっている。二階建てで、窓から見た感じ中は最近リフォームしたのか、真新しい感じだった。
 最近はここに出入りして光と話したりしている。オレは光のことをよく知っているつもりだ。だから、この時間になると寝ていることは分かりきっていた。だけど、もしかしたらもしかするかもしれないということがあるかもしれない。念には念を、という感じ。
 オレは、谷口家の庭にある桜の木によじ登る。それを見ていた広樹が、負けじと登り始める。光の家にある桜の木は、樹齢五十以上で、この家が建つ前からあったとか。半年も前には、
ここで光とお猪口に一杯だけの日本酒を飲みながら、小さな花見をやっていた。今の季節は、すっかり枯れ、山にある木々と変わらない格好だった。
 桜のことはあまり詳しくない。光は詳しかった。いろいろ吹き込まれた。でも、そんなの頭に入るわけでも無く、すぐに抜けて行った。その所為でこの前なんか、
「ねぇ、夜。この前に私が教えた桜のこと、覚えてる?」
 って、突然に言ってきたから、オレは、
「ん?ああ。バラと同じ仲間の…?」
 覚えている部分だけ言ったっけ。怒るだろうな。何て思ってたら意外に、オレに微笑みかけてきたんだ。胸がドキッとしたね。あれは不意打ちというものだ。
「よく覚えてたね」
 なんて、満足そうな顔をしたんだよな。いいのか。そんなんで。って言おうとしたけど、言ったらきっと、
「じゃあ、もっと言って見てよ」
 って言ってくるんだろう。だから、オレは少し偉そうに、
「まあな」
 なんて言ったんだ。
 気付くと、オレは無意識のうちに桜の木を登り終え、そこから光の部屋のベランダに飛びついていた。…習慣って怖いな。広樹もその後ろをついてくる。
 光の部屋の窓は鍵が開いていた。オレはいつもの通りゆっくりと窓を開ける。ガラガラと小さく音を立てながら窓が動く。
「…」
 オレは光の部屋に入ることも無く、窓を閉めようとした。すると広樹が、
「おい、なにしてんだよ」
 小声で言ってきた。
「寝てる」
 小声で言い返す。
 オレは、広樹を手で押す。戻れの合図だ。もっとも、そんなことは打ち合わせしていなかったが、まあ、空気で分かるだろう。広樹もそこまで馬鹿じゃない。しかし、広樹は光の部屋を見て惜しみながら。
「なあ、光ちゃんの顔、見せてくれよ」
 と言い出した。オレは当然のごとく無視するが、広樹は怒ったのだろうか、オレを押しのけて窓の向こうを見ようとする。オレは抵抗して、体全体で抑える。
「おい!見せろって」
 オレは無言のまま広樹を押す。まるで相撲取りの張り手のように、ベランダから落ちてしまえ。なんて思うくらいに目一杯押してやった。
 広樹も、うわっとと、なんていいながら必死に抵抗する。こうして、二人の真夜中の取っ組み合いは幕を開けたが、オレが油断した隙に、広樹はオレのわき腹を掴んで、回転する。忍者屋敷の隠し扉みたいな感じで、そうして、取っ組み合いは幕を閉じる。
 オレは、広樹がやったようにわき腹を掴んだ時にはもう遅かった。
「…可愛いじゃねえか」
「だろ?」
 半分。いや、ほとんど皮肉のつもりで言ったが、広樹は、うん。と言って、光の顔に見入っていた。オレは広樹を引っ張る。おもちゃ売り場でねだる子供をあやす全国の母親の苦労が分かったような気がする。
「おい、いい加減に行くぞ」
 別に見せたくなくて言った訳じゃない。時間的に、なんていうか、もう朝になっちゃうし。光が起きちゃったら起きちゃったでまた大変だし。だから、渾身の力を込めて広樹を引っ張る。
「わ、わかったから。服伸びるから離せって」
 オレは素直に離す。ここで反発すると、厄介なことになるのは、目に見えている。
 広樹はしぶしぶベランダから桜の木に飛び移り…。
「夜?」
 背後から寝ぼけていて、でも綺麗な声が聞こえてきた。誰だか分かっている。というか、一人しか該当する人物はいない。少し照れくさい。だけど、オレは一回深呼吸をして振り向く。
「光…」
 安心した。心の中にあった黒い靄がスッと消えていくような、そんな感じがした。癒される。もう、警官のことはどうでもいいくらいに。
「誰、その人」
 光が少し不振気に聞いてくる。
「こいつは――」
「広樹です。斗夜の親友ね。今フリーだから、俺に乗り換える気は無い?」
「おい――」
「ごめんなさい。私、やっぱり、その…夜が…」
 そこまで言うと俯く。顔が赤いのが暗くても分かる。
 広樹は以外にショックを受けたような顔をしていたが、すぐにオレの方を睨んできて、
「お前、幸せ者だな。ハッピーパーソンだよ。ズリーよ」
「そうだろ?」
 今度は効いたはずだ。完璧な嫌味。ザマーミロ。
「お邪魔みたいなんで、俺、下で待ってるわ」
「おう」
 そういって広樹は桜の木に飛び乗り、そこからゆっくり降りる。広樹の背中から悲しさのオーラが見える。すげーな、負けた人ってあんなオーラ発せるんだ。
 オレが光の方を見ると、光は真っ直ぐオレの方を見ていた。それがなんかむず痒くて、光の目線から目をはずした。
「取って来たぞ。ペンダント」
「――ありがとう」
 光がオレの肩にもたれかかる。オレはゆっくりを光の背中に手を伸ばし、ギュッと抱きしめる。光もオレの背中に手を伸ばす。
「もう、失くさないから。ずっと、ずっとつけてるから」
 声が震えていた。オレの体に光の体の動きが手に取るように伝わってくる。肩が小刻みに動いている。オレはさらに強く抱いて、
「――いいんだよ。オレは光の幸せの顔が見たいだけだから」


オレと広樹は、しばらく無言で歩き、オレの家に到着する。光の事は一切触れてこない。さすがは親友だ。
 オレの家と光の家はさほど遠くない。徒歩五分ってとこだ。
 ポケットから鍵を出して、ドアの鍵穴に差し込む。そして、左に一回転回して、抜く。
 ガチャリという音と共に、オレはドアを開ける。右手で鍵を開けて、左手ですぐにドアを開けるようにしてあった。作為的にではないと思う。人は日々進化を遂げる。知らない間に習得している事だってある。大して不自然じゃないことだ。
 オレと広樹は家に上がり、誰もいないのに二人で声をそろえて、ただいま。何て言う。
「ご立派な家ですな」
 入るなり、わざと辺りを見回すようにして言った。
「家に上がったのはこれで一九回目じゃなかったか」
 オレは少し強い口調で言った。腹立たしいやつめ。皮肉か?皮肉なら受けて立つぞ。広樹には負ける気がしない。だけど、眠いから今回だけは見逃してやるよ。
 オレと広樹は、リビングに二つ布団を敷いて、布団の上に寝転がる。
「なあ、斗夜」
「なんだ?」
「明日さ、あいつに誤りにいかねぇか?」
「あいつ?」
「あの酔っ払い警官」
「…」
 突然の話の切り出しに、オレは戸惑う。それに警官のことは忘れたかった。もう澄んだことだからいいじゃないかって言って、過去の思い出にしたかった。なのにこいつときたら…。
「あいつだって悪気があった訳じゃないだろう?それにこのまま思い出として終わらせるのは胸くそ悪いからな」
 それには一理あった。
 確かに思い出にしてしまうと、罪悪感が体の奥からこみ上げて来るだろう。だけど、やはり向こうにも謝ることがある筈だ。オレ等がだけが悪いわけじゃない。速やかにペンダントを返していれば、勝手に入ってすいませんでした。くらい言うのに。
「ん〜…」
「な?二人で行けば怖くないって」
「…分かったよ。お前にゃ負けるわ」
 大分じっくりと考え、決めた。オレの心はきっと迷う事すらなかったのだろうが、意地という物が、なかなか許してくれない。まあ、結局心のままで行くことにしたのだが。
「それじゃ、おやすみ」
「あ、ああ」
 広樹は早々と布団に潜り込み、深い眠りにつく。
 広樹が寝てから数分間、オレはボーっとして、ふと思いついたように、
「サンキューな」
 と言う。
 もちろん広樹に向かって。
 いろんな意味を込めて。
蒼井斗夜としての感謝。
ペンダントについての感謝。
光の喜ぶ顔が見れることについての感謝。
 その後、感謝した後の余韻に浸り、就寝した。

 次の日、俺と広樹は例の警察官に謝りに行った。警察官は覚えてないという。
 とりあえず事情を話した。
「そうか。まあ、大切な彼女の為なら仕方ないさ。いやね、俺も若いときはだな…」
 それから小一時間は警察官の青春話に付き合わされた。
 もう厄介ごとは勘弁だ。区役所なんて二度と行くものか。
 ちなみに、警察官ではなく警備員だったそうだ。
 
さらに備考。
 警備員に謝りに行った三日後、広樹は彼女と仲直りした。
 そのさらに三日後、また俺の家に押しかけてきた。
 また追い出されたらしい。
 いい加減にしてくれ。
2006/02/23(Thu)13:52:00 公開 / シチューカレー(試作品)
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■作者からのメッセージ
はじめまして、シチューカレーです。
この小説の矛盾点、疑問点、訂正などがございましたら、ご指導いただけると心から感謝いたします。
これは、PCに書き溜めていた小説です。長かったかもしれませんが、最後まで読んでくださってありがとうございます。
誤字・脱字は見逃してください。
話中に出てくる警官は、あえて人物描写しません。これは皆様の頭にあるイメージのまま読んでもらいたいと思います。
第一章で光を最後のほうに出さなかったのに不評だったので取り入れてみました。
第2章は今だ作成中です(‐д‐)
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