- 『8番乗り場』 作者:上下 左右 / ホラー 未分類
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原稿用紙約11.35枚
男がふと気がつくと、そこは見覚えの無い場所だった。いったい何故、自分はこんなところにいるのだろうか。彼自身が誰かに聞きたいほどだった。
記憶が酷く曖昧だ。ここにたどり着くまでのことをうっすらとしか思い出すことはできない。
まだ頭がはっきりとしていない。それなのに痛みを感じる。食道から胃にかけ、ムカムカする。猛烈な吐き気が彼を襲い続けていた。
ついにその感覚に耐えることのできなくなった男は、周りに誰もいないことを確認すると、その場に嘔吐した。少しの間誰にも聞かれたくない、誰も聞きたくもない音が静かなその場所に響く。
口の中に酸性の強い液体が残る。それは、いくら唾液を飲み込んでも口内を支配し続けた。
胃の中にあるものを吐き出したせいか、どことなく気分がよくなったように顔色が良くなっている。
頭がハッキリした男は、改めて自分のいる場所を確認する。
時間を確認しようと周りを見回してみるが明かりが無いた時計すら見つけることができない。
仕方なく、背広の内ポケットから携帯電話を取り出して開く。
暗闇の中に、ひとつの光が現れた。闇に慣れてしまったその瞳が多すぎる光を吸収して眩しく思う。
デジタル時計はちょうど三時を示していた。こんな時間なら誰もいないのも納得できる。
そこが駅であることに気がつくまでにしばし時間を要した。今までにも何度か帰りが遅くなったことはあったが、これほど暗くて、誰もいないホームを見たのは初めてだったからだ。
見慣れたはずのその場所。駅員の姿はなく、明かりも無いため、そこはまったく知らない場所のようにも思えた。
空を見上げても月は出ておらず、代わりに厚い雲が世界を覆い隠さんとばかりに広がっている。
だが、それと同時に疑問も浮上した。どうして自分はここにいることができるのか。今いる場所は死角になどなっていない場所だ。だから、ずっとここで寝ていたのであれば駅員に追い出されてもおかしくはない。
それなのに自分はここにいる。もしかすると酔っている時に誤って入ってきたのかもしれない。だが、やはりそれもおかしい。金網の上には有刺鉄線が張り巡らされている。ここを越えることは不可能だ。
入り口も、シャッターが閉められており通ることはできない。
彼が入ることなどができないところなどどこにも無いのだ。それなのに、男はそこにいた。
いったい何故なのか――。
それを考えられるほど彼の意識は覚醒していなかった。
とりあえず、これからどうするのかを考える。ここから出てタクシーを捕まえるという手もある。しかし、外から入る事ができないということは鍵が無い限り中から出ることもできないと考えてもいい。
ここで寝てしまうということも考える。この季節だ。背広のまま寝たところで風邪はひかないだろう。しかも、明日は休日だ。始発で帰って、ゆっくりするという予定も悪くはない。
寝るために近くの椅子で横になってみたものの、先ほどまであった眠気が綺麗になくなっていた。いくら目を瞑っても眠ることができない。
先ほどよりは軽くなったものの、彼を襲う吐き気は治っていない。そんな苦しさと戦っていた時だった。
強い光が目に入ってきた。
それはとても眩しい。
まるで、ライトを眼球に直接当てられているかと思えるほどの眩しさだった。
あまりにもそれがひどく、耐え難いものだったので顔を逸らしながら起き上がる。それと同時に眩しさがなくなった。
彼がその光の正体を探るために辺りを見回すと、いつの間にか列車が止まっていた。
その列車は夜中だというのに四両も繋がれている。
それが入ってくる音などまったく聞こえなかった。だからといって先ほどからそこにあって、電気をつけたというわけではない。
得体のしれない列車。それはどこか懐かしさを思い出させる古さで、年期の入ったものだった。
そんな列車でも男はありがたいと思った。確かあのホームに止まる列車は自分の家がある方向に向かうもの。こんな夜中に走る列車は少し不安を覚えたが、鉄道会社が臨時で出したものだろうと勝手な想像を膨らませた。
列車の止まっているホームへ向かうための通路はすでにシャッターが下ろされており通ることができない。どうせこんな夜中に通るのは貨物列車ぐらいだろうと思い、仕方がなく線路に下りる。革靴のそこにジャリっという音と、それに合う感触が伝わってくる。
できるだけ音をさせないように歩いているつもりだが、それはまったく効果が無かった。静かな駅にその音だけが響き渡る。
目的地に着いた男はホームに上がる。よじ登るだけで肩を上下させるほどに息が乱れていた。近頃は運動不足だと思っていたかれは、今のことで再確認した。
近くで見れば見るほどそれは古い車両だった。元は白かったと思われる外見は雨風により剥がされ、錆びている部分も多々ある。ライトもちゃんとついているが電球が剥き出しになっている。
事故などは起こさないだろうなと思いながらも開いているドアから中に入る。ホームには「8」と書かれた札がかけられている。
外見同様、中も散々な有様だった。床には何かを溢したような染みが大量にあり、椅子も座ったら壊れそうだ。
彼の降りる駅はここからそれほど遠くは無い。できるだけ綺麗な場所を探し出し、手摺りを掴む。滑りのあるひんやりした感触。それが彼の手を伝わった。
発車までにはそれほど時間はかからなかった。少し壊れそうな音をたてながら彼の入ってきたドアが閉まると、すぐに動き出す。これだけ古い列車が動くのかどうかが心配だったが、しばらくすると独特のリズムが聞こえてくる。
やっと帰ることができる。安堵のためか、自然とため息が零れた。肺の空気がなくなるまでそれは続いた。
気がつけば頭痛もなくなり、吐き気も消えてしまっている。
他には誰も乗っていない。貸し切り状態だ。
なんだか男は得した気分になる。どうしてあそこにいたのかは未だに思い出せないがこうして電車に、誰も乗ってこない。自分がこの電車の支配者のようにも思えたのだ。
その瞬間、彼は何かを思い出したかのように表情が変化する。今まで疲れを癒している間の顔をしていたが、今は完全に引きつってしまっている。
どうして――。
彼の頭が一度それに支配されると、逃れることができなくなってしまった。
気になるのはあの看板。ホームにあった「8」の数字。
あの駅は、七番までしかないはず――。
そう思い出したとたん、体中に鳥肌がたつ。背筋からは嫌な汗が流れ、頭からつま先に寒気が抜けていった。
突然、この一人の状況がとても怖くなってきた。もしかしたら、この電車は存在しないものなのではないのか。もしも、自分がそんなものに乗っているのだとしたら――。
恐怖と不安に耐えることができなくなった男は、ひとつ前の車両に移った。だれか他の人に会ってその考えを否定したかったのだ。
しかし、前の車両にも他の人間は乗っていない。古い椅子がただ規則正しく並んでいるだけ。そこに誰かがいたという気配すらない。
心臓が高鳴る。あまりにも早すぎて息をするのが苦しくなるほどだ。
気がつけば、この電車からはエンジンの音がまったく聞こえてこない。列車の走っている音だけが静かな車内に反響して、消える。
さらに不安は広がっていく。
半場走るかのようにしてもうひとつ前に行く。
後ろ二つとまったく変わらない車内がそこには広がっていた。
外を見てみればただ暗闇が広がっているだけ。本当に走っているのかもわからないほど景色が変わらない。途中に見えるはずの電柱などもまったくガラスの向こうには映されない。
男の精神はもう限界に達していた。もう、意味がわからない。
「どうしたんですか?」
そんな時だった。彼の肩を軽く叩き、何者かが話しかけてきた。
誰もいないと思っていた男は、心臓が破裂しそうなほど驚き、他人にわかるほどに体がはねた。
すぐさま振り返った彼の見たものは、制服を着た車掌だった。手には切符を切るための道具を持っている。
「車掌さん。さっきの駅で、この列車は八番乗り場に止まっていませんでしたか?」
突然そんなことを聞かれた車掌は少し驚いていたが、笑顔で答えた。
「八番に止まっていましたよ」
「でも、あそこは確か八番乗り場なんて無かったはずでは……」
「知りませんでしたか? この前できたんですよ」
今度は男が驚く番だった。毎日のようにあの駅には行っている。それなのにいつの間にそのようなホームができたのだろうか。
しかし、相手はその会社で働いているのだ。それなら、言っていることは間違っていないのだろう。
「そうなんですか。すいません、知らなかったもので」
「いえいえ、わからないことがあればなんでも聞いてください」
男は、車掌の言っていることを信じてまた何事もなかったかのように外を見ながらその場で次の駅に着くのを待っている。エンジン音が聞こえないのも外が暗闇なのも、もう気にしていない。安心したことにより大丈夫だと思っているのだろう。
静かな車内に、先ほどの車掌の声が響き渡った。
次は、あの世ぉ。あの世で御座います。
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2005/12/12(Mon)16:06:04 公開 / 上下 左右
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■作者からのメッセージ
こんにちは〜。近頃この掲示板がとても活発なのでとても喜ばしいことです(なに言ってんだ?)
一応今回書かせていただいたものはホラーというふうにしてみたのですが、やはり恐怖というものは難しいですね。近頃、ホラーを書くのは幽霊よりも人間の異常さを書いたほうが怖いかな〜っと思っています。多重人格のお話なんて、背筋がゾクゾクとしてきますよ。皆さんもぜひ一度読んでみては?(なに言ってんだよ……)