- 『時間の効用』 作者:ツクンコ / リアル・現代 未分類
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全角5854文字
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原稿用紙約16.35枚
1章
2人目の子供の1歳の誕生日に私は思う、「愛されている」とは、心に突き刺さるものではない。それは、静かに周りを包み、ゆっくりと体に染みてくる。その静けさが時に暖かく、時に冷徹に私の周りを取り囲む。こんな風にして、日々が作られる。私は子供が向ける愛情の波を感じることを好む。舌を出して、ベロベロと言いながら突進してくる彼女達を、体中のあちこちを叩きながら痛がっているそぶりを見せる私に笑顔で答える愛情を、私は何より好んだ。
2人目を私が望んだ時、私の妻は小さく首を振った。「一人でも充分大変なのよ、分かるでしょう」
でも彼女は最後には私の願いと私の情熱に頷いた。彼女は最良のパートナーであり、そして最良の友人なのだ。私の生活に何が必要か、それを最後には考えてくれる。
もう10年も前だろうか、私は恋をして、愛を求めた。大学時代の後半の2年間、私は一人の女性の事を考えて過ごした。ノートをとっている時、道を歩いている時、または、部屋でコーラのビンを灰皿にタバコを吸っている時、私は彼女の事を思い、彼女のわがままさを思い、彼女の裸のことさえ考えていた。彼女はデートのたびに、いや、会うたびに姿を変えた。時にわがままで、時に弱弱しく、時に大胆で、時に臆病で、私は会うたびに、彼女のプリズムのような変化に魅了された。
デートが終わりベットに入ると、私は言葉以上のSEXを求めた。彼女はSEX以上の激しさとその後の小さな静けさと、また来る激しさを求めた。正直にいえば私はまた、このSEXに魅了されたと言っていい。それはまた、特別なものだったのだ。全てのものが、くっ付いていた布団もマクラも胸も体も全てのものが私たちの1部であり、すべてくっついていたのだ。
これは言い訳になるだろう、彼女の事を考える時間に全てを費やしていた頃、大学の授業も就職も私には何の意味もなさなかった。私は留年する事になり彼女は駄目な私に見切りをつけた。私はしばらく何も考えられなかった。しばらくの間、彼女の変わってしまった電話番号を調べたり、新しく住む事になったアパートを調べたりした。そんな事になんの意味もないと分かるまで、それなりの時間を費やした。彼女の事をひどいとも思った、でも彼女の事を忘れはしなかった。
大学をどうにか卒業して、今の仕事に就いてそれでも毎日彼女の事を思う時間を持ち続けた。時に忙しく生活している時、1日の中で彼女の事を考えない日もあった。そんな時はどこか残酷にさえ思ったものだ。そんな日の次の日はいつもの倍は彼女の事を考えるように勤めた。私は恋や愛に臆病になった、誰かを信じたり愛したり、そんな事がもたらすものから目を背けた。私は慎重で正しくいる事を求めた。そんな風に仕事をしていて、それなりの評価が得られるようになった。慎重さと正しさは私の中でしっかりと育ち、生きていく為の道しるべを与えてくれた。
私の妻が私に与えたのは、静かな愛情だった。それは彼女から得たものとまったく違っていた。愛情の種類になど興味がなかった、でも、ある種の静けさが私の周りを囲んでいく感覚は私には新鮮だった。妻は側にいる事を好んだ、全てがくっつくのではなく、全てとの距離の中で私との距離を縮める事を好んだ。愛や結婚などを考える事などないと思っていた。でも、新しい愛情は私の中でしっかりと根を張った。私が新たに作った道しるべを、それは邪魔することはなかった。
いい加減なものだとは思う。私は妻を傷つけただろう。妻と話をしている時、私は彼女の声を思ったりもした、妻と抱き合っているときでさえ私は彼女とのSEXを考えていたりしたものだ。それでも、妻は私を見捨てはしなかった。ベットの中で妻に彼女の事を話した。彼女への愛情について話、彼女とのSEXについて話した。妻もまた昔の男性について話をし、過去について話をした。
「過去なのよ」と妻は言った。それがどんな種類のものだろうと、どんなに素敵なものだろうと、過去なのだと。私は私の中にあった彼女が消えていくのが分かった。私は新しい道しるべを求めたように、また、新しい愛情を必要としている事に気がついた。最後にそれでも妻は静かに泣いた、「これっきりにして、この話は」。私は妻に彼女の事を話す事を止めた。それどころか、彼女の事を考える事もしなくなった。私に過去を与えた、そうして私は愛情のありかをしっかりと見つめるようになった。
2章
「愛されていた」事を時に思い出すことがある。それが強いものならなお更、時に心臓を突き刺すほどに愛おしくそれにすがりたいことさえある。
彼女は彼を忘れはしなかった。彼がどこに就職したか、彼がどんな風に大人になっていくのか、彼女は彼への愛情をなくしても彼への興味を持ち続けた。彼への電話番号も忘れはしなかった。移っていく場所も変わる電話番号も調べ続けた。それがどんな意味のない作業だと知ろうと止めはしなかった。初めて彼の子供を見かけた時、彼女は軽く悲しくなりさえした。その悲しさの上でも彼女は彼との何かを忘れはしなかった。
彼女がその通知を受けたのは、1年前。彼女は血液検査の「陽性」の文字をただじっと見つめていた。彼女の夫もその家族も、彼女からその話を聞いた時、「陽性」の文字を見つめた時憐れんだ。まだ3歳の子供の事を考えると悲しかった。でも、彼女が欲しかったものは「憐れみ」ではなかった。それが、彼女と夫とその家族に何をもたらすのか、そして今となっては何をもたらしたのかを考えると、彼女はただただ、やりきれなかった。彼女は医者と何度も会い話を聞いた、でも全部うわの空だった。真剣に聞いていたのは夫だった、でも彼女はそこでもうわの空だった。愛はそこにあった、でもそれが彼女の望んだものとほんの少し違っていた。
彼女にとってのその1年間は、彼女に何かをもたらすという類のものではなかった。時に病院のベットで時計の針が動くのをじっと観察した。何の為に時間は存在するのかと思う。何の為にそこまで律儀に正確に時間は動いてしまうのだろうと。彼女は痩せていく手や足の事を思った。それが何を意味しているのか考えるのは怖かった。時に血液がきれいになっていく事を思いもした。でも、それはほんの、ほんの一瞬だった。彼女はそのほんの一瞬に望みをもつべきだと思った。一瞬の間子供の笑顔がこちらに向かってくる、一瞬の間台所で子供のいたずらにため息をつく、掃除をしている間子供が遊んでくれないとだだをこねる、彼女は一瞬一瞬を思い出した。やがて消えてしまう一瞬だと分かっても、彼女はその一瞬を思い出さずにはいらねなかった。
彼女の夫にとって「陽性」の文字が消える事はなかった。変化を受け入れる前に、変化が存在する。彼女の夫は彼女を励まし支えようと勤めた。いろいろな療法さえも試した。彼女は彼女の夫の愛情を感じはした、そしてうれしくも思った。変わっていく世界が終わる瞬間を受け入れてしまう事を彼女の夫を見ているとでも、怖くなる。
「諦めているんだ」彼女の夫の会話が聞こえた。「捨て去ろうとしているようにも思えるんです」、彼女は何も決めてはいなかった。何を決めようというの、彼女はベットの上で時計の針を眺めていた。
「何が決められると言うの」時計の針が動くのを彼女は待ちたかった。それが無意味ならなおさら、彼女はそれを待ちたかった。
第3章
私の携帯の電話が鳴った。
「ねえ、お久しぶりよね」
彼女の声だ。
「なんだって」私は、今でも胸が痛くなる感覚を覚えるのが不思議だった。まだなんだと、まだそれは残っていたものだと。
「少し会えないかしら」
「なんだって」
「急に思いついたの、ねえ、そんな事ってあるでしょう」
三度目のなんだってを私は飲み込んだ、私が変わるのなら、彼女も変わっているはずだと信じていた。
「いいかい、結婚しているんだ」
「素敵なかわいい奥さんよね、恵子さんだったかしら」
「知っていたのか」
「何でもね、何でも分かるご時勢よ」
私は周りを見渡した、彼女は何を言っているんだ。随分と随分と長い時間が過ぎたんじゃないか。これまで何の連絡もなかったじゃないか。
「会って何をしたい」
「もちろん、素敵な昔の恋人と、激しいSEXをするのよ」
私は、少し笑っていた。こんな会話が全てだった時がある。振り回されてしがみついていた時期があったこと。私が思い出したのは、でももう過去になっているべきものだった。
「冗談よ良い、明日の土曜日、午後の3時にうーん、そうね、あなたの住んでいる場所と私の住んでいる場所の中間で、川崎ね」
「川崎」
「そう、川崎、川崎駅からバスに乗って4つ目、川崎総合病院の横のなんだったかしら、うんと、万福公園ね。待ってるから」
電話が切れた。公衆電話と記録されている着信から何かを感じ取る事は出来なかった。
家に戻り、妻に明日は予定が入ったと告げた。妻の顔をちゃんと見られていたか分からない、ただ、それだけを告げた。私は自分に言い聞かせた、何かを期待するわけではないんだと。何も間違えた事をする訳ではないんだと。
彼女は、きれいに化粧をしようと決めた。久しぶりに「BEAS UP」と「美的」を買ってくるように夫に頼んだ。何かの兆候だと、夫は喜んだ。何かが変わるかもしれない、そんな風にいつも夫は感じたがっているようだった。通り過ぎていったものを彼女は感じたかった。夫も子供も通り過ぎていくものの中で捉えることが出来るかもしれない。
でもただ、何かに集中したかったのかもしれない。日曜日にはいろいろな「最終結果」が出される。意味が襲ってくるように、彼女は感じていた。全てが意味を持ち、彼女を壊しにくるんじゃないかと。彼女はしっかりと歩けるように、その日はベットにはほとんどいなかった。同フロアーの患者とおしゃべりさえもした。夫に、仕事に戻るように告げ、笑顔も作った。夫の家族と暮らす子供に電話もした。時計の針がいつもよりは、早く動いていくように思えた。頭の中で「チクタク」と、その動きを感じることに集中した。
第4章
彼は、午後の2時には万福公園に着いた。鳩を追いかけている子供達を見ていた。母親に注意されて、頬をぷーっと膨らます。彼はこれまでに作ってきた物に自信があった。彼女のどんな魅力に触れようとも、彼は彼の作ってきたものを守れるだけの何かを通ってきたと思っていた。
彼女は結局いつもの姿で行くことにした。淡い色の病衣、これが一番だと思うようになっていた。いや嘘だ、そう思った。彼の前に出て彼の前に行くのに、この格好ほど似合っているものはないと、出て行こうとする時に決めたのだ。彼女は病衣を好んだ事などなかった。
彼と別れてから彼を観察するのは、いつも彼が不安でいないか、悲しんでいないかを確認するためだった。そして、そうであったとして、どこかほっとしたのだ。そんなものを求めなくなって随分と経つ。それでも、彼の電話番号に電話をしたのはなぜだろうと彼女はいまだに考えていた。電話をかけ終えて、そっと涙さえもこぼれたのだ。
彼女は午後3時ちょうどに公園まで行った。外出許可票は、もう随分と簡単な手続きになっていた。彼女は公園のベンチで一人で座り、イライラも怒りもせずに彼女を待つ彼を観察した。時おり、ちらりと時計を見るだけ。ベンチの下には、タバコの吸殻さえもなかった。彼女はぞっとするほど早く流れていった時間の事を思った、そして静かにただずんでいる過去の事を思った。早く静かに流れた過去の距離を思い、ゆっくりと彼に近づいた。決して縮まらず、どんどんと遠くなる距離に向かって近づいた。
彼は彼女の淡いパジャマを見つめ、やせた顔を見て、青白くなった手を見つめた。
「お久ぶりね」
彼は言葉が出なかった。電話の時とだいぶ離れた彼女の声に彼は言葉を探すことさえ出来なかった。
砂場で遊んでいた子供たちの一人が玩具を取り上げられて激しく泣き出した。公園の全ての中心が子供の泣き声へと寄せられた。それで、やっと彼は口を開く事が出来た。
「久しぶり」
彼女はペンキのはげかけているベンチを見つめた。曇りとも晴れともいえない天気を思った。どこかそれは汚かった、汚くて醜悪であるものとも思えた。
いくつかの会話を交わしながら、少しづつの時間を過ごした。彼はただ、その事に集中した。そうして時間が過ぎ去ることを思った。
彼女に聞かれるまま彼は子供の事や仕事の事、妻の事を話した。話している間、彼女はどこかうわの空だった。聞きたい事がなんなのか、話している事がなんなのか、彼にも彼女にも分からなかった。
「子供にね」と彼女は唐突に話をはじめた。彼にとも、誰にともいえず何かに向かってとにかく彼女は話をはじめた。「その前の外出日にね、髪を結おうとしたの。髪を結ってあげようってね。そしたらね手がうまく動かないのよ、手がよ信じられる。ピンクのヒモさえも拒否をするの、私をよ。子供がね、この先きっといろんな不幸を感じるの。私がいないってことで、いろんな不幸を。でもねえ、生きていたいって思えないの、分かる」
彼女が彼に答えを求めていない事を彼は理解した。ただただ、醜悪な沈黙が彼の答えだった。でも、彼女はまた、その沈黙がうれしくもあった。いくつもの答えの中で、ただひとつ小さな沈黙を彼女は過去の中から連れてきた。彼女はそして思った。私は今、自分がどんな顔をしているんだろうと、泣いているのだろうか、悲しそうにしているのだろうか、それとも笑っているんだろうか。
彼は時計を見た。4時になり、子供たちがいなくなっていった。
「お別れね」と彼女は言った。先に立ち上がったのは彼女の方だった。
「ねえ、最後にお願いがあるの」彼女は笑った、確かに笑った。
「あなたにキスをしたいの。最初で最後の私からのキス」
彼は身をまかせた。彼女がゆっくりとゆっくりと彼の口を触り、そしてキスをした。
「ずっとね、どこか後悔してたの。私からした事なかったかなって。そしてね、どこかでずっとこうしたいって思ってたの、それだけ」
彼女が病院へと戻るのを彼は見つめた。彼は泣いた、知らずにいた事の多さに泣き、知ってしまった事に泣いた。ただ、素直に悲しみを感じられる距離まで離れた時間を思って、彼は泣いた。
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2005/12/08(Thu)23:05:13 公開 / ツクンコ
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■作者からのメッセージ
いろんな文体を模索しているところです。
誤字等修正しました。