- 『平行という名の世界より』 作者:新先何 / SF SF
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全角10552.5文字
容量21105 bytes
原稿用紙約29.1枚
それは違う世界です。その違う世界が何処かで重なったとしても、その主人公達には関係がありません。これは、違う世界にいるそれぞれの主人公のそれぞれの人生。それはあくまでも違う世界です
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北極より
退屈だ。私はコーヒーを机に置き、壁に掛かっている時計を見ながら思った。時計は午前十時を示している。「そうか、もう時間か」私は椅子から立ち上がり、壁に掛かっている装置を取り二重のドアを開けた。
小さな小屋だ。寒さに耐えられるだけのように、一応防寒対策しときました、みたいな感じの小屋だ。私はここで三年前から暮らしている。この北極の小さな小屋で。
私の会社は、言ってみれば世界のいろんなものを計測する会社だ。ブータンでの十年を通して消費するオレンジの量とか、アメリカでの一日に使うトイレの平均的な回数とか、誰が何に使うのかわからないようなものを計る。私はいろいろな国に行けると聞いてこの会社に入った。そして最初に任されたのがこの北極での二時間ごとの気温を調べることだった。本当に誰が二時間ごとの気温の変化を、どう使うのかわからない。けど私はそれでも仕事をする。「そういうのって格好良くないか?」誰にでもなく呟いてみた。とにかく、仕事の時間だ。
私は装置を肩に担ぎ計測地点を目指す。途中、一人の男が釣り糸を垂らしているのが見えた。
「よお、あと一回で交代の時間だぞ」私は彼に呼びかける。少し間をおいてから彼はこちらを振り向き「わかってるよ」と返事をした。彼は山坂という。私と同期で、一緒に北極に来ている。私は午前の計測を担当していて、残りの午後の六回は彼がやる。
「何か釣れるのか?」山坂に尋ねる。
「紅鮭とか?」
「とかってなんだよ。知らないなら教えてあげるけど、残念ながらここまで紅鮭は来ないよ」
「知らないなら教えてあげるけど、こんな細い糸で鮭は釣れない」
山坂は私をおちょくるように言う。
「紅鮭と言い出したのは君だ」
「早く計測しろよ」そう言うと山坂は釣りに戻ってしまった。
私は少し足早に計測地点へ向かう。会社からはきっちりとこの場所で計測するように言われていた。別にどこでやろうとも変わらないのに。そんな愚痴も三年の間に何処かへ行ってしまった。
いつものように氷の地面に棒を突き刺し、装置が点滅を止めるのを待つ。面倒くさい作業だが、それも気にもとめないほど続けている。私は装置が計測を終わるまで北極の晴れ渡った空を眺める。今、日本は冬だったか、夏だったかわからないが、日本の生活を想像してみた。適当に生きているのだろうな、その私は。それからもっと遠くにある火星を想像してみた。というのも最近、「火星人ゴーホーム」や「ダブルスター」を読んだからかもしれないが、火星について考えることが多くなった。高校生の頃、天文部に入っていたので火星について調べたこともあった。火星にも北極と南極があった。そんなことを思いだした。それから火星にもいるかもしれない生命体に思いをはせてみる。「そっちは元気かい?」そう尋ねると、どこからともなく聞いたことのない様な声が返事をした気がした。結局は風だったのだが、「そうか、元気か」と気づかないふりをした。
装置は点滅を止めていた。装置を引き抜き小屋に戻る。山坂はまだ釣りを続けていた。
「なあ、火星にも人はいるかな?」幼稚な質問だ。
「人っていうのは、人間を指す言葉だ。だから火星になにかいたとしてもそれは人じゃない」
「まあ、確かにそうだけどさ」私は渋々と返事をする。それから残りの計測よろしく、と言って自分の小屋に戻っていった。一応小屋はそれぞれに一つずつ与えられているので、ここから十二時間の間は私の時間だ。私は午前の計測記録を遠くにある会社に向け送ると、ベットの下の段ボールを取り出した。月に一回本社から食料が送られてくる。私は送ってもらう時に一緒に何でも良いので本を何冊か送ってきてくれ、と担当の女の子に言っていたので、段ボールにはいつも十冊ぐらいの本が入っている。どれも古い匂いがしていて、おそらく古本屋で買ってきたとか、社員の読まなくなった本とかを適当に入れているのだろう。最近は意識してなのか、SFが多い。まあ不満は特にないが、北極などという場所で読むと雰囲気が出てしまい、寝るのを忘れてしまう。
私は枕元に置いてある、読み終わった本を段ボールに入れ新しい本を取り出した。コーヒーを入れ直し、窓の外を見る。いつの間にか山坂は消えていた。小屋に戻ったのだろうか。山坂がいた場所には小さな椅子と、小さな穴が心細くそこにあった。
ベッドに潜り込み、本を読み始める。気づいたら目の前は真っ暗になり、それにびっくりして起きたらもう夜だった。
時計を見ると短針は8をちょっとすぎたところで、長針は3を通り過ぎたところだった。頭の中で簡単な計算をしてみる。十時間も眠っていた。私は段ボールの中の冷凍食品を電子レンジで温めてからストーブの前で食べる。北極の夜は白夜で有名だが、あいにく今は冬なので輝いているのは星だけだ。初めの頃は新鮮な印象を受けた、けどここでの生活も長くなるので、今は気にもとめない。パソコンで、日本のサイトにアクセスした。日本のニュースを毎晩確認するのが私の日課だ。どうやら日本では全盲のピアニストのコンサートを総理大臣が見に行ったそうだ。それ以外に目をひくようなニュースはなかった。
ふと、窓の外で音がした気がした。見ると山坂の小屋のドアが動いていたので、計測が終わったのだろう。
これといってやることもなかったので、私は読書に戻った。この本もSFもので、そこでは同じ世界が平行して存在していると言っていた。私はこの会社に入社してない自分が今どうしているか想像してみる。多分冴えない顔をして、適当に生きているのだろう。でも自分よりは退屈していない。そんな自分がいるのを願った。
どこからかピアノの演奏が聞こえた気がしたが、気のせいだろう。また風の音と聞き間違えたのだ。
ある日、本社から連絡があった。午後のデータが届けられていないと。そう言えば最近、山坂と顔を合わさない。まあ彼は午後の担当なので会うことは少ないのだが、窓の外で小屋から出て行く山坂を見たこともないのでこれはちょっとおかしなと思った。けど彼は彼の生活があるのだから深い詮索はしなかった。
でも同僚が仕事を怠けていたらそれを注意するのは当然のことだろう。だから私は山坂の小屋の扉をノックした。今更だが、山坂の小屋には一度も行ったことがなかったと思い、彼がどのような生活をしているのかが気になった。
返事がないのでもう一度ノックをする。やはり返事がない。頭の中で嫌な思いがよぎった、これは危ないぞと。
仕方がないので、私は試しにノブを回してみた。それは意外なほどあっけなく開き、そのまま私はもうひとつのドアを開けた。やはり、頭の何処かでサイレンが鳴っている。
私は人の死体を見たのは今までに三回ある。そのうちの二回は祖父と父が癌でなくなった時。もう一回はたった今見た山坂の死体だ。
彼は椅子に座っていて、胸にはボールペンが突き刺さっていた。人間の体についてはよく知らないが、多分ボールペンが突き刺さっている部分は心臓だろう。そんなことを考えてから腰を抜かした。血は凍っていて、開けっ放しにしたドアから差し込む光を反射させていた。
最初は地震かと思った、けどここは北極だ。そうか、私の体が震えているだけか。私はしばらく床に座り込み、おそるおそる山坂の死体を観察する。服は前がはだけているが、なんとか濃い赤に染まったチェックのシャツだと判断できた。いつも彼が着ていた服だ、と思う。三年もここに彼といるが、いまいち性格がわからない。「お前はもっと社交性になれ」祖父に言われた言葉だ。そうだね、そうしていれば山坂の良い話し相手になれただろう。胸の赤はリアルな赤だ。
私は勇気を奮い起こし、山坂に近づく。今わかったのだが、山坂は死ぬ直前まで遺書を書いていたみたいだ。机の上には、誰に宛てるでもなく山坂の思いが書かれていた。
「退屈だ。このままだと俺はウサギみたいに死ぬかもしれない。あれ、ウサギってのは寂しくて死ぬんだっけ。じゃあ退屈すぎて死ぬのは何だったかな。まあ、いいや。会社には迷惑掛かるかもしれないけど、こんなデータ誰も使わないだろう? だったら俺がここにいる意味はない。俺はもうちょっと格好良い人になりたい。俺はきっと生まれ変わって紅鮭になるよ、格好良い紅鮭に。鮭は鱗が格好良い。だからなってみせるって。だからって俺をつった時は食わないでくれよ。そっと逃がしてくれ。それから俺に関わった全ての人にキスしてあげたい。けどそれは出来ないから、その代わりに俺を忘れないでくれ。じゃあ来世で」
くだらない、だいたい格好良い鮭って何だよ。やり場のない怒りがこみ上げてきて、山坂の顔を見た。本当にむかつくぐらいの笑顔だった。「じゃあな、来世で会おう」私は頬を伝う涙を恥ずかしがりながら、山坂の最後の言葉でお別れを言ってあげた。
まいったな、会社にはなんて言えばいいんだよ。それよりも警察に電話した方が良いのか? 本当に迷惑だ。まず私は何をすれば良いんだい? 山坂に聞いてみたが当然返事はない。
北極より、違う世界にいる私たちよ。私はこんなにも無力だったけ?
東京より
死にたい。私は携帯をしまい、懐にしまってあった、二枚のコンサートチケットの内、一枚だけ破り捨てながら思った。それは、彼女がどうしても行きたいと言っていたピアニストのコンサートだ。入手困難で、事実その苦労は私がよく知っている。東京都内のありとあらゆるチケットショップを駆け回り、時にはネットを駆使し、時には金銭交渉をしてみたりしてやっと手に入れた二枚のチケットだった。今日サプライズで彼女に打ち明けようと思い、電話をした途端別れ話を切り出された。
「あなたもいつまでフリーターでいるのよ」その言葉が重くのしかかる。ええと、最後に入社試験を受けたのはいつだっけ? ああ、三年前のあのよくわからない調査会社っだったはずだ。仕事の内容がいろいろな国に行けると聞いたし、余り人気のない会社なので入社しやすいとも聞いていた。だから九社連続不採用の私でも入社できると思ったのだ。しかし現実は甘くなく、その会社はただ単に私の不採用記録の足しになるだけだった。それからだ、仕事をしようと思わなくなったのは。
私は、まだ真新しいダッフルコートのボタンを閉めながら、恋人ばかりの東京を歩き始めた。彼女と出会ったのはちょうど三年前だ。あの会社から不採用の通知を受け、私は本当に死のうと思った。荒川の橋の上に立ち、飛び込もうと思い決意を固めていた時、彼女と出会った。私が飛び込もうと思う前に、私の体は綺麗なバックドロップを決められていた。意識がもうろうとしながら起きあがると、目の前に女性がいて、ふざけんなと怒ろうとする前に今度は平手打ちをかまされた。意識は洗剤の通販に出てくるような汚れよりも速いスピードで真っ白になり、それにびっくりして起きたらもう彼女の家にいた。
その後、私は泣きじゃくりながら彼女の説教を聞いていた。その後のことを上手く説明できないけど、私と彼女はつきあい始めていた。なんでだろうか。僕と彼女の関係は、木星とイオの関係に近い。まあ、地球と月でも良いんだけど彼女は地球と言うより木星の方が似合っている気がした、だから私は彼女の周りにくっつく衛星のイオだ。「結局、彼女に頼りっぱなしだな」私は夕焼けがかった空を見ながら誰にでもなく呟いた。町ゆくカップルがびっくりしてこちらを見てきた。けど私は「全くだ」と自分で返事をして気づかないふりをした。
時計を見たがコンサートが始まるまでは時間がある。また飛び降りようと思った。そうすればまた彼女が僕を投げ飛ばしてくれるんじゃないかって。そんなくだらないことを考えながら私は、本屋へと足を運んだ。
一通り店内をまわっていると、雑誌のコーナーで山坂の記事を見つけた。これから行くコンサートは山坂のコンサートだ。「全盲のピアニスト山坂に迫る」そんな見出しで特集が組まれていて、内容はただのロングインタビューだったが、この山坂はなかなか面白いことを言う。「山坂さんは目が見えないことについてどうおもいますか?」という質問に対し、「あんまり気にしていません。僕が高校の頃に聞いた話の中に平行世界っていう考えがあったんですよ。だからこの違う世界には目の見える僕がいて、その僕はきっと素晴らしい夜景を見ているに違いない。そんな気がします。それに僕、生まれ変わりを信じているんです。だから別に気にしていません」と答えていた。私はハンディキャップを持った人間が嫌いだ。目が見えなかったり、耳が聞こえなかったり、五体不満足だったり。そういう人間は決まって世間から甘い目で見られているからだ。こんなことを言うと必ず言い返してくる奴がいる。お前はその人の苦労を知らないくせに何を言っているんだ、とか。そんなの当たり前だ。目の見える男に全盲の男の話は書けない。どんだけ努力した普通の人間と、同じくらい努力した障害を持つ人間じゃどっちが優先されるか目に見えている。たとえ障害を持った人間が少ししか努力していなくても。ただ、山坂というピアニストは嫌みを感じない。実はこいつ目が見えるんじゃないか? そんな気までした。
平行世界か。私と同じ人間が違う世界にいるんだろうな。そいつは何をしているだろう、と想像をしてみる。そいつは冴えない顔ながらも、自分よりは良い生活を送っている。そしてそいつはちゃんと会社に行っていている。そんな自分がいるのを願った。
もう一度時計を見ると、コンサートの時間が迫っていたので、私はタクシーを止め会場に向かった。本来なら今頃、彼女と冗談を言い合いながら会場へ向かっていただろう。運転手にばれると思い、のびをする振りをして上を向き涙をこらえた。本当に死にたくなるよ。
会場では様々なメディアが集まっていた。テレビや新聞、ラジオなど。事情を伺ったところ、どうやら総理大臣が見に来ているらしかった。中に入り、自分の席を探した。苦労してとった割りには、あまり良い席とは言えない場所だった。本来彼女が座るべきだった隣の席に荷物とコートを置き開演を待った。後ろから指さされてひそひそと噂された気がしたが、どうでもいいよこっちは死にたいんだ。何とでも言ってくれ。
いつのまにか、座り心地の良い椅子のせいかよくわからないが、眠っていた。起きた頃にはもう演奏が始まっていて、遠くのステージで一人の男が力強く鍵盤を叩いている。けどその音に荒々しさは全くない。私の服を簡単に通り抜け、皮膚もあっという間に通り過ぎ私の心臓を優しく揺さぶっていた。
そうだな、今ひとつ願いが叶うならばこの演奏を聴きながら死にたい。
そんなことを考えると急にまぶたが重くなった。意識が薄れる中、私は何処かの夜空を見ていた。場所はよくわからないが東京ではない。とにかく綺麗だった。
東京より、違う世界にいる私たちよ。私は今幸せなのだろうか?
リングより
こんなものか。私はやけに露出の多い服を着た相手の後ろに回り込み、腰をしっかりとつかみ後ろへ大きく投げ飛ばしながら思った。私には満足感など無かったが、この試合が私の記念すべき初勝利だった。「やりました! ジュピター香川、初戦にして一発KOの圧勝。これは、女子プロレス界に新たな歴史を生むでしょう!」眼鏡をかけた実況がそんなことを叫ぶのを聞き、とりあえず笑みを見せ、とりあえず右手を挙げガッツポーズをしてみた。その瞬間客席からいっせいに声が上がった。こんな茶番劇でも喜ぶ人がいるなら少しは良いかな。マイクを握りしめ「余裕だよ、余裕! 次も勝ってやるよ!」と叫び観客をあおった。
無様にノックアウトされた相手が何か叫んできたが、私は無視して歓声を身にまといリングからおりた。私がプロレスラーになったのはいつだっけ? あぁ、三年前か。きっかけはあの男の人だ、自殺しようとしてた。
冬だった、私も何であそこにいたのかよく覚えてない。とにかく私は橋に向かって歩いていた。ふと、橋の上に人影が見えた。最初は人かどうかもわからなかったが、近づくにつれディテールがはっきりとしてきて人だと判断できた。その橋が自殺の名所だったのもあり、すぐその人が自殺しようとしているのだとわかり、気づいた時には体が動いていた。家を出て行く前に見たプロレスの試合が思い浮かぶ。見よう見まねでやったバックドロップは私の中で最高傑作に違いない。結局あのあとは、男を近くのビジネスホテルまで運び書き置きをしてから男が寝ている間に別れた。あの人とはその後連絡をしていないので、もしかしたら自殺してしまったかも知れないがそれはあくまでも他人の話だ。でも、もう一度会いたかったな。
その次の日に私はさっそくジムに通い始め筋肉を付けることに専念した。あの日のバックドロップは私の人生を大きく変えたのだ。その二年後に団体に入団することが決まった時は、名前も知らないその男に声を上げて感謝していた「ありがとう」と。
私は春の陽気に包まれながらロードワークをする。途中、頑丈な柵で囲まれた小学校が見えた。近くでも有名な教会がやっている小学校だ。庭では一人の牧師のような格好をした男が子供達を集め何かを話していた。
「いいですか? 私たちは死を見つめる必要があるのです」その男は諭すように言う。
「はい、ミスター山坂」子供達が声を揃えて言うのを、私は足踏みをしながら眺める。
「ここに、一匹の蚊がいたとしましょう。蚊は人の血を吸って生きています。さて皆さんならはどうしますか?」
「はい、私のお母さんはすぐに潰してしまいます」一人の女子生徒が手を挙げて発言した。山坂と呼ばれている男はほのぼのとした目で言う。
「そうですね、多分世の中ではそうする人が多いでしょう。その人達は蚊が悪い物だと思っていますから。刺されるとかゆいですしね。では蚊を潰すのは悪いことでしょうか?」
そこで生徒達は黙ってしまった。私も一緒になり考える。
「難しいですか。蚊でも何でも殺すのは良くないと思いますが、そんなことを言っていたら世界は蚊とネズミとゴキブリでいっぱいになってしまいます。なのでこう考えてみたらどうでしょうか。救うのです」
今度は生徒達は困惑した顔を浮かべ始めた。
「私たちに前世と来世があるように、蚊にも前世と来世があります。人生とは楽しい物であり、生きるのは苦しみでもあります。蚊だってもしかしたら早く生まれ変わって人間になってみたいと思っているかもしれません。だから、その願いを叶えるために潰す、そう考えたらどうでしょうか?」
男は満足げな顔をして生徒達を眺める。どうやら、子供達にとっては難解な話だったらしい。複雑な顔をしている。
残酷のようなためになるような、そんな妙な話が頭に残りながらも私は再び走り出した。走っている間にたどり着いた答えは、あれは牧師がするような話ではないな、っていうことだけ。
私は、風よりも速いスピードで流れるような風景を行く。
プロレスという競技は、スポーツと言うよりもショーと言った方が似合う。初めから勝ち負けは決まっている。けど一気に勝つのではない。本当に勝つ選手がいきなり不利な状況になったり、リングロープを使いジャンプしたり相手をたたきつけたり、とにかく派手で楽しめるショーを演じればいいのだ。私たちは忠実に台本通りに、一応私は次の試合で負ける予定になっている。私がしたいプロレスはこんなのじゃなかったのに。走るスピードを落とし、ゆっくりと心臓の鼓動が落ち着くまで歩いた。
私は無意識のうちにこの場所に来ていたのだ。私のスタート地点とも言えるこの場所。一言でいいからあの男の人にお礼を言いたかった、投げ飛ばしてしまった事を謝りながら。そんなことが心のどこかにあったので、ロードワークを始めるといつもこの橋に来てしまう。ここにくればあの人がいると思い、それから願いながら辺りを見回す。しかし、都合良く行かず、その男の人はいなかった。多分こうゆうのが人生を面白くして、世の中を調整しているのだろう。
「香川さんですよね」
突然後ろから声をかけられた。振り向くと私が投げ飛ばしてしまった男の人がいた。あのころよりもちゃんとした服を着ていて、端から見ただけでエリート社員とわかるような出で立ちだった。あの時はわからなかったが、顔も整っていて、こういう顔を世間一般では格好いいというのだろう。
「え? あ、はい」 突然のことでしどろもどろに返事をする。
「よかった、探していたんですよ。あなたを」
「はい? あっ、えっとごめんなさい」私は三年前のことを謝った。
「ごめんなさいって?」
「えーと三年前投げ飛ばしてしまったので、痛くなかったですか? ずっと謝りたくて」
「なんだそのことですか。僕は逆にありがとうと言いたかったんです」
「そんな感謝されるようなことは」もし人を投げ飛ばしてしまっただけで感謝されたら、死刑囚にはどんぐらい謝ればいいのだろうか。
「少し、話をしませんか?」
彼は街角にあるカフェの大手チェーン店を指さした。やらなければならないトレーニングはまだたくさんあるが、まずはこの素敵な出会いに感謝をしなければ。神様ありがとう。
「はい」
私と彼はカフェに向かって歩き出した。
「実は僕、あの日死のうと思ったんです。あの橋から飛び降りて」彼は店員にアメリカンコーヒーを二つ頼んでから話し始める。私は静かに聞いていた。
「あの日は僕にとって最悪の日でした。入社しようと頑張っていたのにもかかわらず、あの日ちょうど十件目の不採用通知を受けたんです。本当に絶望的でした」その日の彼が目に浮かぶ。目の前の彼とは別人のような冴えない顔をしながら、ふらふらとあの橋にたどり着き橋の上に立つ姿が。多分人の顔っていうのはその時の気分次第でだいぶ印象を変えるのだろう。今の彼は生き生きとしていた。
「ふらふらと歩いているとあそこの橋にたどり着いたんです。知ってるかもしれませんがあそこは自殺の名所でした」少しうなずく。
「バカのことを考えてしまい。取り憑かれたように塀によじ登り飛び降りようとする前に僕の体が浮いていました」
彼は私の方をちらっと見て続ける。目が合い逸らしてしまった。
「まあ、あの後は良く覚えてないのですけど、机に置いてあった書き置きを見て感激してしまいました。この世の中にまだ私を受け入れてくれる人がいるんだって」正直、書き置きに何を書いたか上手く思い出せなかった。すると彼がスーツの内ポケットから一枚の紙を出してくれた。私が彼を運んだホテルの名前が入っていて、そこには私の文字でこう書かれていた。
「死ぬのは良くありません。そこで、あなたに一つの人生の考え方を教えてあげます。あなたは『10月1日では遅すぎる』という小説を知っていますか? そこでは平行世界について書かれています。私はこの小説を読んでこんな事を考えてみました。落ち込んでいる時は違う世界にいるハッピーな自分を想像するんです。楽しい時は違う世界にいる途方に暮れた自分に幸せを分けてあげようと思うんです。そう考えるといろいろなことを考えられて、人生が楽しくなりませんか? だからこんな事を知らないうちに死んでしまうのはあまりにももったいないです。だから頑張ってください。それから投げ飛ばしてしまいすみませんでした」
改めて読むと恥ずかしくなる。読み終わり顔を上げると、彼はいつの間にか来ていたコーヒーを飲みながら笑ってくれた。
「これを読んでから心機一転して就職活動に望んだら見事入社することが出来たんです。だからどうしてもお礼がしたくて。そしたら昨日たまたまつけたテレビで、その恩人のあなたが私にしたバックドロップをしていたので心底驚きましたよ」
彼は大げさに驚いたような顔をしてまた笑った。
「実は私もあなたにありがとうを言いたかったんです」
「そうなんですか」なぜだろう、彼と話していると心が落ち着く。
「今私がこんなに幸せなのも、この仕事に就いているのも全部あなたのおかげなんです。だからこう言うと変ですけど、自殺しようとしてくれてどうもありがとうございます」
「そんなことで感謝されたのは初めてだよ」多分私は彼のことが好きなのだ。うん、そうに違いない。
彼は残ったコーヒーを一気に飲み干して、なにか決意をしたような顔をした。
「じゃあよかったら僕と付き合ってくれませんか?」突然の告白だった。私はどう答えるべきだろうか? 決まっている。
「よろしくお願いします」
「どうしたー? ジュピター香川、初戦で見せた切れがありません!」眼鏡をかけた実況が叫ぶのを私はコーナーにもたれかかりながら聞いている。仕方が無い、私は台本通りに動くだけだ。今日、私は負ける予定になっている。体制を立て直し、前を見る。助走をつけてまたも露出度の高い服を着た相手が迫ってきた。
その瞬間、私の世界はスローモーションになった。その中で私が見たのは目の前を飛ぶ蚊と、そのずっと奥で座っている素敵な彼の姿。彼は多分私が勝つと信じているのだろう。「仕方ないじゃない、これは決まっているのよ」スローモーションの中、彼に向かって呟く。けど彼は応援を止めない。まったく、蚊を手でパチンと叩いた。すると世界は元のスピードで動き出す。本来ならこの一撃で私は倒れた振りをするはずだった。けどその一撃を相手が出す前に、私がたまたま蚊を叩いたことが相手には猫だましになったようで、一瞬ひるんだ。
この言い訳をどうしよう? 私は相手が見せた一瞬の隙をつき後ろに回り込み、腰に手を回す。このバックドロップはあの日のバックドロップを超すだろうか。
彼の歓声だけが耳に入ってきた。
リングより、違う世界にいる私たちへ。私は頑張ってます。
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2005/12/10(Sat)19:51:07 公開 / 新先何
■この作品の著作権は新先何さんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
急遽、連載へ。
それでタイトル含め諸所変更しました。
今回の話は主人公が変わっています。こんな感じでリレーみたいにつなげようと思っています。
よろしければご指摘、ご感想お願いします。
以上、新先でした。