- 『Sence of Mortality 〜object〜〜subject〜』 作者:藍 / ショート*2 リアル・現代
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全角3577文字
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原稿用紙約11.4枚
寒くて目が覚めた。
胸の下までずり落ちていたタオルケットを引き寄せると、引っ張りきれなくて硬くなった乳首に手が触れてびくっとした。 ふと横に目をやるとタオルケットにしっかりと包まった彼が転がっていた。 私はため息をついて足にかかっていたタオルケットを払いのけ、ベッドから下りた。 床に転がっていたショーツをひろい、ブラジャーをとめ、クーラーの電源を切った。それから白のフレアスカートのファスナーをあげ、水色のカットソーの脇のファスナーも上げた。
カーテンを払い、窓を開けると街の音とじっとりと湿った空気が顔面を襲った。
ふり返るとベッドの上で彼がまぶしそうな顔をしている。 窓から入ってくる生温かい風がカーテンと彼の髪を揺らす。
遠くで鳴くツクツクボウシが夏の終わりを告げる。
男のくせに華奢な体、さらさらの長めの髪、その髪の間から見える小さな耳、頬に伏せる長い睫毛、全て私のものになればいいのに。
私は右手の薬指にはまった指輪をくるくる回す。こんなに回っても決して抜けない。
‘StoH’
刻まれた文字が余計に痛々しい。
クーラーの吐き出した冷気が外へと押し出されて、肌に夏の空気が纏わり付く。
考えたって仕方が無い。彼の気持ちは彼のもの。私が動かせはしないのだから。
口の中はからからで、粘り気をおびた唾液が喉に絡む。
私は身を翻して冷蔵庫の前に座り込む。自分のスカートの影が日差しを透かして綺麗だ。その影に見とれていると冷蔵庫がピーピーと小さく囁いて私を呼び戻してくれた。
私は奥の方からミネラルウォーターを引っ張り出して一口含むと、うがいをするように左右に動かした。そして飲み込もうとしたその時だった。
「ぅ…春香……俺にも水…くれ」
私は水を飲み込むことをやめた。
体中を鼠花火が駆けずり回っているような気がした。 その熱さで口から少し水がこぼれた。 私は震える唇を必死に閉じた。 下唇を噛みしめ、冷蔵庫のドアにつかまってゆっくり立った。 リノリウムの床が冷たく足に張り付く。私は足の指で床を掴みながら息を止めた。 ベッドのそばにそっと跪き、拓の顔を眺めた。透きとおりそうな白い肌と首に浮かぶ青紫の血管。自然と目を細めてしまう。彼に口移しで水を飲ませた。シーツの上に小さな水たまりができる。 それでも私の中の火花は治まる気配もなくパチパチと私を掻き乱し続けた。
私は、そっと彼の首に手を置いた。私の手より白い首。首に浮かび上がった筋を指で撫でるとゾクゾクした。そしてゆっくり手に体重を移していく。
手に力を込める。
彼の顔が苦痛に歪む。
眉間に酔った皺、額にかかった髪。
彼は踠く(もがく)が、しっかりと体を包んでいるタオルケットが邪魔をする。
私の爪にワインのような彼の血が入り込む。
冷蔵庫のピーピーと言う警報音は私の心には届かない。
警報音は鎮魂曲に変える。
このまま死んでしまえばいい。
そうすれば今は永遠だ。
これから彼は誰のものにもならない。
ここにいる彼は私だけのもの。
時もモノも人も、全ては移り変わる。
『ゆく川の流れはたえずして、しかももとの水にあらず』
彼もまた、私の手からすり抜けようとしている。
そんな流れ、とめてしまえばいい。
生きているから流れるのだ。
私の中で永遠に凍りついてしまえばいい。
手の力は衰えない。
人でありつづければどうしても儚さに溺れる。
だったら死んでしまえばいい。
人の命なんて『ただ春の夜の夢の如し』『ひとえに風の前の塵に同じ』
形あるものはいずれ壊れる。
そして壊れたものはもう二度度元には戻らない。
たとえ破片が全てあったとしても、元に戻らないのなら意味をなさない。
それは虚しさを生み出すだけの産物。
それならなくなってしまえばいい。この世から。
彼の首に緋色の血が滲む。
彼の苦痛に歪む表情までもがいとおしい。
一秒一秒、少しずつ違う表情。
一秒一秒が彼の生と死。
一秒一秒が彼の明滅。
私の行うのは、そんな彼の固定。
露草に塩酸をかけるみたいな、そんな感じ。
悪くないよね?
彼の、声にならない悲鳴(コエ)が私を呼ぶ。
薄く開かれた目から、黒い瞳が私を射る。
紅色に染まった頬が私を悦ばせる。
全てはきっと、彼がはじめてみせる表情。
世界で見ることができるのは私だけ。
この瞬間は私だけの彼。
気が付くと、シーツの上には彼の首をつたって落ちてくる血で、染みができていた。
私はその染みにそっとキスをして、彼を飲んだ。
春香、あんたにはわたさない。
私はそっと鎮魂曲を止めて、朝の日差しが差し込んだ部屋を後にした。
Sence of Mortality 〜subject〜
もう見たくなかった。
彼の居ない私の部屋。
何もかもが精彩を欠いてセピア色だ。私はもう、彼を透してしか世界を見なくなっていたから、彼が居なければ何もわからない。見えるだけ。分けられない。
世界は連続して海のようで、彼が居なくなるととたんにどこで切っていいのか分からなくなる。するとどう足掻いても私は意味をなさない。
そこが不毛で荒涼としているのか、それともシャボン玉で満たされているのか私は知らない。手にとるものがないのか、手に捕った途端に壊れるのか私にとっては興味のないことだった。
とにかく彼が居なければ、私は幻覚ばかり見る。傷だらけのミラージュ。
彼が居なければ、私でさえも朧げで、輪郭をとどめることさえ難しい。
だって私の定義さえあやうくなるんですもの。
失敗だった。
もう、こんな部屋、見たくなかったのに。
目をつぶってしまいたいけど、今ではもうそれもできない。
おそろいで買ったマグカップは、彼が居る時しか使わない。
出しっぱなしで彼が帰ってしまったとき、一人になってそれを片付けるときが無性に寂しかった。 彼が居なくなると、さっきまでの幸せは、私を切り裂いていく刃に変わる。
私は誰だろう? 何をしているのだろう? 何をすればいいのかしら?
二人で居る幸せと、付きあっていない苦しみ。前者が目の前に与えられると、私は彼を放したくないと想い、後者が私を襲うときは、消えてしまいたくなる。
刹那的であるのは知っている。快楽主義者だということも知っている。
できることなら彼と永遠に一緒にいたいと思う。 でも、そんなことが不可能なことも知っている。
『行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず』
彼は私を変えてしまった。もう元には戻れない。 一人でいる時の平和はなくなってしまった。
私は彼が手ですくったときしか容を保つことができなくなってしまった。
失敗だった。心からそう思う。
こんな部屋なんか見てしまうからくだらないことを考えてしまうんだ。
どうせ見つめるなら台所の方がよかった。
私は彼と会ってから馬鹿になった。 何も考えなくてもよくなったから。彼が全部。
頼る安心感を知ってしまったから、頼りない自分を知る羽目になった。それどころか、頼りなさで焦燥感をも知ってしまった。勇気までも吸い取られ、自信に満ち溢れて前に進めなくなった。
そう、私は初めから強いわけではなかったのだ。 何も知らなかっただけ。
私は泣き虫になった。 愛するとはどうゆう事か知ってしまったから。愛する人を失う怖さを知ってしまったから恋愛ドラマでも泣くようになった。 ストーリーに泣くんじゃない。自分がかわいそうだから泣けるのだ。
彼がいなくなって足元から世界が崩れ、空中に放り出される怖さを体験してきたから、ヒロインと自分を重ねてしまう。
まぁ今は、自分で世界を崩して空中に浮いてるんだけど。
開け放した窓から吹く夏の風が私を揺らす。
私は彼の中で生きることを選んだ。 片隅で埃をかぶることになったって構わない。居場所は箪笥の奥だっていい。ずっと彼の心に棲んでいたい。
琴音さん、そのくらい許していただけますよね?
私の存在、私との出会いは、彼の中で血肉化し、一体となっていることを知っている。彼の中で体験され、彼の性格の一部を形作っているのを知っている。私が薦めて好きになった歌手、私が作った料理、私が喋った言葉、彼を傷つけてしまった言葉、私を傷つけた言葉、全ては彼の中に生きている。
でも―、それだけじゃ嫌なの。
彼に忘れてほしくない。私という容のまま、彼の中にいたい。
私なんて『ただ春の夜の夢の如し』『ひとえに風の前の塵に同じ』
それを永遠に変えるにはこうするしかないよね?
彼が私の部屋のドアを開けた時、目に映る光景は彼の心に永遠に残るはず。
台所の横にあるドアだから、私の後姿が見えるはず。
彼の好きだった黒のストレートヘアーが目に焼きつくはず。
そのことだけを心待ちにして、私はこの部屋を見つめつづける。
早く
早く
早く
肉体までも腐ってしまわぬうちに。
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2005/12/07(Wed)18:30:08 公開 / 藍
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■作者からのメッセージ
お久しぶりです。と言っても、私のことを知らない方のほうが、もう多いように思われます。 一年程前には、毎日のようにここで小説を書き、小説を読んでいました。 これは以前投稿させていただいたものに、手を加え、二つの作品とセットで一つ(『冷静と情熱の間』みたいな?)の形になおしたものです。 大学受験まであとと二ヶ月となる多忙な中、高校卒業に際して小説好きのクラスメイトで集まって、同人誌的なものを作ろうということになり、出来上がったものです。 皆さんに読んでいただけると、嬉しいですし、批評等は今後の作品に生かしていきたいと思っておりますが、なにしろ、パソコンを開く時間があまりないので、皆さんの作品を読む時間が捻出できるかどうかわかりません。できるだけ努力しますが、あらかじめご了承下さい。 このままじゃ第一志望落ちちゃうんで。。(;_;) それでは。
ミスを発見したのでなおしました。分類というシステムに慣れてないのですが、一応しました。