- 『砂漠』 作者:すみぽん / SF ミステリ
-
全角3808.5文字
容量7617 bytes
原稿用紙約11.4枚
この男はよく嘘を付く。取り留めのない日常に対して。脳がとろけそうな程の退屈な日々に。自身に何ら差し支えのない質問に対しても。
-
男の朝は早い。寝息一つかかず、起きる時も声一つたてない。いびきすらかかない男は、しばしば夜を共にする異性に、死んでいるのでは?と思われる事も少なくはない。起きてまず第一にする事、それは寝る前にベッドの脇の小さな机に、あらかじめ箱から出して置いた一本のタバコに火を付ける。一吸い、二吸い…。脳へと巡るニコチンが心地よい。
「遠い記憶の中で、当時俺が住んでいた近所の老婆を思い出した。8歳の頃だ。」
おもむろに口を開くこの男はいつもの調子だ。この男は、自身が世界の中心である事をよく知っている。地上60階建ての高層ビルの頂点で、男は我侭な世界を繰り広げている。
「それがどうかした?」
唐突な男の切り出しに敏感に反応できるこの女は、自分がその男にとってかけがえのない存在である事をよく知っている。男の傍らに寄り添い、いつもこの男より少し早く目覚めては、男の寝顔をじっと見ている。この女の日課だった。
「俺にも祖母がいる。」
「ぷっ、そんなの当たり前じゃない。」
「俺はその近所の老婆にバケツで水をかけた。その日も、今朝の様に雪が降っていた。」
「…こぼしちゃったの?」
「いや、わざとだった。友人と面白半分でバケツごと投げた。」
「……どうして?」
聞き返す女の目はニヤニヤと笑っている。
「その老婆は近所でも有名だった。当時学校でヤマンバという芝居が流行っていた。」
「……………。」
「その老婆をヤマンバに例えてからかっていた。初めは聞くに堪えない罵声を浴びせ掛けていただけに過ぎなかったが、次第にその遊びはエスカレートしていった。石を投げつけるようになるまでに、そう時間はかからなかったよ。その間老婆は、何とか俺たちと打ち解けようとしたのか、いつも肩からぶら下げた小汚い手さげ袋からアメ玉やらみかんやらを取り出すようになった。挙句の果てに震える両の手を目一杯開き、もう歯も残ってない歯茎でぎこちない笑顔を浮かべ、おぼついた足取りで歩み寄ってくるようになった。」
「必死だったんだね、そのお婆ちゃん。で、何で水をかけようと思ったの?」
女は余裕だった。何故か?まさに他人事だからである。他に理由としては、この男はよく嘘を付く。取り留めのない日常に対して。脳がとろけそうな程の退屈な日々に。自身に何ら差し支えのない質問に対しても。
「…その日は何故かイライラしていた。何故だったのかは覚えていない。覚えているのは、降り積もる雪で老婆と子供が戯れている光景だけだ。恐らく孫だったんだろう。雪だるまを作っていたんだと思う。」
「……………………。」
にわかに引きつった女の笑顔。かすかにえくぼが浮かび、右目の下の辺りがピクリと動く。
「どうした?」
「聞いてるわ。それで?」
明らかに曇る女の声。
「背後から近付きバケツを投げた。悲鳴が上がった。それは、俺たちの笑い声と混じって、降りしきる雪の中へ何度でも吸い込まれた。」
「可愛そうに…。」
「…死んだんだそうだ。」
「え?…………えっ!?」
男の表情は変わらない。右手から動き出そうとする気配が感じられない。
「嘘でしょ? また得意の嘘なんでしょ?」
「…その時の孫の顔が思い出せない。」
「ちょっ、ちょっと! 本当の話なの!」
男にはいつの頃からか一つの癖が染み付いていた。嘘を付く時、眉を撫でるような形で右手が左眼を覆い隠そうとする。男はその癖に気付いていない。女もあえて教える事はしない。男は嘘を付く事が病的な程上手い。が、その癖が男を病的な程嘘の下手な人間に変えていた。
「どんな気持ちだっただろう?自分の祖母が見ず知らずのガキ共に水ぶっ掛けられて…。仲良く遊んでいただけなのに。俺だったら…俺がその孫だったらと思うと今夜は眠れそうにない。」
「何でよ! 何でそんな事したのよ!!」
人の生き死にに関わる話題は何故か、いつ何ときも独特の雰囲気をかもし出す。嘘を付く時とは、また違った危うさが有り、スリルが有り、何よりリアルが有る。男の無神経な視線が女に突き刺さった。
「何でお前が怒ってるんだ? お前に怒鳴られる筋合いはない。それに、さっきも言ったがその当時はそれが楽しかった。そう、他意はない。ただそれこそが楽しかったんだ。後、何故かムカついていた。よくある話だ。どこにでも転がっている。」
淡々とした面持ちで、仕草で、また口調で、人の生き死にを語る者は、どこか機械的で、それでいてやっぱり機械的であり、またそれも人間的だった。いかにも面倒臭そうなそんな男を、冷静に取り繕いながら女は問い掛ける。
「よく考えてみて。楽しかったら何をしても良いって言うの? 人を殺しても良いわけ? よく考えてみてよ。」
「頭の悪い奴だ。今現在の話をしてるんじゃない。俺がガキの頃の話だ。それに、誰もそんな事は一言も言っていない。その老婆が死んだのはただの結果論。殺そうと思ってやったわけじゃない。ただ…孫の顔がどうしても思い出せない。それが酷く問題だ。まるで…」
男の態度は崩れない。2本目のタバコに火を付け、ポーチライトの明かりに紫煙をくゆらし、ベッドの脇の昨晩のインスタントコーヒーに手を伸ばす。かつてないリアルが男の体内を支配する。貪るエンドルフィン。この場を満たすノルアドレナリン。静かな朝が頭を垂れ、都会の朝が吼え狂う。
「孫なんてどうだって良いじゃない! そりゃ気の毒だけど…それより何よりお婆ちゃんの事はどう思ってるのよ。」
「…………………。」
「ねぇ!罪の意識とかはないわけ?」
「罪?…何も。何も感じない。強いて言えば気の毒だった。」
「くっ…。で、結局何が言いたいの? いきなりこんな話し始めて。一体何が言いたいのよ?」
男は、半ば近くまで吸い終わったタバコを、まだ少し残るコーヒーの中へそっと浮かべ、ゆっくりと本題に入った。
「俺のお婆ちゃんが今朝死んだ。末期のガンだったらしい。」
「……もう一度言ってくれる?」
「何度も同じ事を言わせる女は嫌いだ。」
「聞き取り辛かったのよ!って言うか、いいからもう一回言ってよ。」
「俺のお婆ちゃんが今朝死んだと言ったんだ。それも癌で。」
「そう…。」
「それだけか?」
「え?」
「言う事はそれだけかと聞いてるんだ!」
女は黙したままベッドを降り、下着姿のままキッチンへと向かった。漆黒のカーテンの隙間から漏れる朝の光が、いっそう女の艶やかな肌を白く見せた。女がキッチンへと姿を消し、待つこと数分。コポコポと音を立て、香ばしいコーヒーの香りが部屋に充満した。インスタントとは言え、コロンビア産のその香りの前では今朝の眠気もどこ吹く風だ。7分目まで注がれたコーヒーカップ二つの内一つを、そっと男に差し出し女は言った。
「今朝のコーヒーのお味は?」
と。男は、じわりと口一杯に広がるキレのある苦味と、鼻を突く素晴らしい香りに薄く笑みを浮かべこう言った。
「この朝の一杯を世界中の人間が味わっているとすれば、戦争など起こるまいよ。」
女もカップに口を付け、そっと床に置いては男の肩を優しく抱いた。男がその一口の余韻を充分に味わい、カップを手放すまでそれは続いた。コト…。手放した後も少し間を空け、もう一度女は男に聞いた。
「あなたのお婆ちゃんの話、もう一度だけ言ってくれる?」
「今朝のコーヒーには変わらずキレがあるのに、今日のお前の頭は珍しくキレがない。ま、大した話でもないがもう一度だけ言う。今朝、俺のお婆ちゃんが死ん…だ。今朝…、婆ちゃんが死ん…だ?」
「良い? 落ち着いて。大丈夫だから落ち着いて。」
「待て! ちょっと待て! 何で知ってる? 何で今起きたばかりの俺が」
「良いから落ち着けって言ってんの!」
「いや…、そう! 病院から…、今朝病院から電話が、確か○×病院から。そうだよ、今朝は少し寝覚めが悪く早朝に何度か目が覚めて…、その時に○×病院から電話が」
「良い子だから。お願いだから少し落ち着いて聞いて。ね?」
「何を!? 今俺の言った事聞いてなかったのか? 早朝俺に」
「二年も前に潰れてるから…。その病院。」
男の表情に驚愕の色がへばり付いた。
「な、何を馬鹿な!」
男はいたって本気だ。男のあまりの驚愕振りに女は言葉を失った。未だかつて女は、これ程取り乱した男を見たことが無かった。普段から嘘を付く事は多々あったが、何度嘘がばれてもうろたえた事は一度としてない。ばれるたびに嘘には磨きがかかり、だが右手の癖でどんなに精密な嘘でもすぐばれた。男はそれを疑問にこそ思っても、そこにうろたえる余地は無かった。が、今回は違う。男に嘘を付いているという自覚がない。むしろ嘘を言っているつもりもないのだ
「お、お前…いや俺は…。おい! 電話帳を取ってくれ! は、早く。俺は自分で確かめた事しか信用しない。」
「…………………。」
「おい? 何をしてる! 早く電話帳を…。聞いてるのか? おい、おま…え…?」
「…………………。」
「お前…名前…何て言うんだったっけ?」
「…………………。」
「あれ? ははっ…は…。名前…。」
「…………………。」
「う、うぅ、ぅうおおぉぉぉぉ…」
運命の歯車は静かに回り出す。音も無く、見えもせず、静寂の中、沈黙を守り、確実に回り始めた…。
時は、雪の降りしきる朝、うっすらと満月の影が浮かぶ冬の日の事だった。
つづく
-
2005/11/17(Thu)18:24:57 公開 / すみぽん
■この作品の著作権はすみぽんさんにあります。無断転載は禁止です。
-
■作者からのメッセージ
中途半端で感想ねだるのもおかがましいのですが、よければお願いしたいです。クライマックスまで先はちょっと長そうです(^^;)