- 『FROMジャンクシティ 5〜9』 作者:オレンジ / ファンタジー 異世界
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全角22088文字
容量44176 bytes
原稿用紙約64.45枚
前回までのあらすじ〜この世の全てが雑多に入り混じった様な街、閉鎖された街ジャンクシティ。宮地沙奈は、恋人の暴力に耐えかね、ジークヒルズへ。しかし、そこでは悲惨なテロが勃発して……。
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記憶 〜 一欠片の
『えーそれで、紀元前105年、衰退を見せていた太古神ジューケーを崇拝していたわが国の土着民族は、ニーベル将軍率いる古代神を崇拝するファーゴ民族の軍隊に滅ぼされた訳だ。しかし、ファーゴ民族も戦には勝利したものの、内部で反乱が起こり、わが国を統治するまでには至らなかった。そうこうしている内に、大陸より天元神リュリの民族、豊穣神ヴァーチュイの民族、太極神モタスィの民族、無限神ゲアハの民族、創世神キヌマの民族、希望神イムカの民族が次々と渡ってきて、それぞれがこの土地に根付いていったと、そういう事だな。まあ、今の考古学ではこれが定説となっている。それぞれの民族が渡ってきた年号、試験に出るから憶えておくように。それから、まあ皆知っているから大丈夫だとは思うが、ニーベル将軍も必ず試験に出る。いいか、もうあと一週間で――』
教師の退屈な言葉を遮る様に一斉にキャンパスに鐘の音が響いた。昼休みに入る合図だ。生徒達は一斉に動き出す。
「はあ、どうも僕は歴史が苦手だなあ。こんな事憶えてどうなるってんだろう。こんな事より早く呪術の実技の試験を受けさせてくれよ。なあ、沙奈」
久野幹夫が固い木の背もたれを利用して思い切り背伸びをして沙奈に言った。
「でも、ちゃんと歴史も優をとらないと、W大学へは入れてくれないって言うから、ちゃんとやっておいた方がいいよ」
「なあに、僕には沙奈がいるじゃないか。沙奈はまるで歴史博士みたいだよな。頼りにしてるよ」
「そんな、頼りにされても困るんだからね。別に昔から知っていた訳じゃないんだから、私だってちゃんと勉強して……」
沙奈は一瞬言葉に詰まった。
『昔から知っていた訳じゃないんだから……昔から知っていた……昔から? 』
―何だろう、この違和感は――
「沙奈、どうした?ぼうっとして」
久野幹夫の声で、宮地沙奈は我を取り戻した。
「え、ああ、ごめん。なんでも無いから……」
「そうか?じゃあさ、昼飯にしよう。たまには学食止めて外にいかないか? 」
「いいね、それ、私イレブンバーガー久しぶりに食べたい! 」
「よし、じゃあ今日は僕が奢るよ」
それは学生達の笑い声に溢れたキャンパスに、木枯らしが吹く季節のほんの一場面。沙奈の記憶の最も輝いてる一欠片であった。
5 〜会議
ジークの塔、地上六十五階、幹部会議の会場のあるフロアーだ。この階には幹部以外の立ち入りは禁止されている。日下部総司、香坂美樹、丹沢文彦の三名は、エレベーターのドアが開くと神妙な面持ちでそのフロアーに足を付けた。真っ赤な絨毯がホール全体に敷き詰められ、壁には等間隔で何やら獣の彫刻が飾られている。窓はブラインドによって完全に塞がれ、灯りは天井からのダウンライトの機械光のみ。薄暗いホール、エレベーターを出たその正面に、会議室と書かれた大きな両開き戸が三人を待ち構える。そのすぐ脇には、化粧が厚めの無表情な受付嬢が行儀良く座っている。
「日下部様、ご苦労様でございます。皆様既にお集まりになっておられます」
日下部はこくりと頷くと、両開き戸の巨大な取っ手を握り締め会議室へ風を通した。三人がその中へ入ると、そこには誰一人として居なかった。20人程度が座れる円卓とイス、100インチの大画面液晶モニター、あとは壁一面の本棚に仕舞いこまれた無数の書籍が存在するだけである。
「やはり、今日は此処ではないみたいですね」
日下部の後ろに佇む美樹が声を発した。あくまで予定通りであるといった口ぶりだ。
「その様だな」
そう言って日下部は、胸ポケットから、携帯御符を取り出して、操作を始めた。親指で幾つかボタンを押すと、その液晶画面いっぱいに一つの紋様が浮かび上がった。鳥が羽を広げ羽ばたいている様にも見えるが何とも抽象的な紋様だ。日下部は、その紋様の浮かび上がった携帯御符を今度は、100インチ画面の液晶モニターへと近づけていく。すると、100インチの液晶画面が一瞬目を眩ませる程の光を発した。三人は解っていたのだろう、その瞬間は液晶画面から目を逸らしていたので目を眩ませずにすんだようだ。光が収まると、今度は100インチ画面に、あの携帯御符の紋様が画面一杯に浮かび上がっていた。
「よし」
日下部は小声でそう言うと、携帯御符を胸ポケットに仕舞い込む。その瞬間――
『ガコン』
重厚な機械音が会議室全体を振るわせた。
壁の本棚の一部分が、重低音と残響音と共にスライドし始めたのだ。
やがて、その隙間から人間のざわめき声が漏れてきた。
「今日は、最高機密会議か……ったく面倒な事に付き合わせんなよ」
丹沢は、頭を掻きながら日下部に文句を言う。
「つべこべ言うな、さあ、行くぞ」
日下部は、もう間もなく完全に開くゲート前に向って歩を進めた。
円卓の周りにある本皮の柔らかすぎる椅子は、14脚中10脚は埋まっていた。円卓を囲む人々は、同じグループの同士ではあるが、皆一筋縄ではいかない、一癖も二癖もある連中だと容易に察知できる、そんな面構えである。
部屋の中央にある円卓と、それを取り囲む14脚の豪奢な黒い椅子以外は、入り口の大仕掛けに反して至ってシンプルな会議室である。壁も天井も真っ白な壁紙に覆われているだけで何の飾り気も無い、日下部にとっては、何度も訪れた見慣れた部屋である。
「やっと、本日の主役のお出ましだな」
日下部をちらりと横目でみながら、そう口走ったのは、永田建設工業鰍フ永田常蔵(ながたつねぞう)社長であった。恰幅の良い腹を強調するかのようにイスにふんぞり返って座っている。背広の前ボタンが止まらないので、より一層その膨れた腹が目立つ。
日下部は、永田社長の顔では無く、その肥大した腹に視線を落とし、そして何も言わずに空席の一つに腰掛けた。それに続き、丹沢が日下部の右に、美樹が左に腰掛ける。永田社長は、日下部に無視を決め込まれた事に顔をしかめたが、ふんと勢い良く鼻を鳴らして正面に向き直った。そこは、大人の集まりである、皆引き際を弁えている、丹沢以外は。丹沢だけは、席に着いてもまだ、今にも吠え出しそうな番犬の様に永田社長を睨み続けていた。
そんなやりとりを逐一見守っていたのは、丁度日下部の正面に座していた、秘書室室長の峰岸であった。
「では、皆様お揃いになりました様ですので、少々時間は早いですが定例幹部会を始めたいと思います」
この言葉を発するタイミングを計っていた様である。
「えー、ではまず最初に――」
と、峰岸が話し始めると『ちょっと待ってくれ』と水を差す声が発せられる。声の方を一同が注目する。一同の視線が注がれる先には、白髪の老紳士が座していた。
「一寸待ってくれ。副会長は、今回もご出席なさらないのか? 」
老紳士は活舌良く、無表情な峰岸に対して質問を投げかける。
峰岸は、眉一つ動かさず淡々と答えた。
「副会長は、非常にご多忙な身に御座いますゆえ……。病床にあるボス……お父上の職務も兼任されており、なかなか会議に割く時間を捻出する事が出来ないのが現状で御座います」
峰岸の言葉の端々に、面倒くさいという言葉が漏れ聞こえてくる様だ。老紳士こと、三千院道隆(さんぜんいんみちたか)は、峰岸のその対応を受け、ソファーから立ち上がり、大きく円卓から身を乗り出した。
「何を言うか!会長はこの定例会には必ず出席する事が規約として記されているだろう。現に、ボスはご病床に就かれる以前、何を置いてもこの会には顔を出されておった。……それが、お坊ちゃまがボスの代理として出席されたのは、僅か一回しか無いではないか。これでは、定例会そのものが成立しない。峰岸、これは秘書室長のお前の怠慢ではないのか!?お前は、どの様に思っておるのだ、この事を? 」
峰岸は、やはり眉一つ動かさない。声のトーンも一定に、老紳士こと、三千院の質問に受け答える。
「三千院社長、まずはお座り下さい」
峰岸に諭され、両脇からもなだめられ、三千院はソファーに腰を降ろした。しかし、未だその耳は、白髪と対照的に真っ赤に染まっていた。
「まず、公の場で副会長をお坊ちゃま等と馴れ馴れしい呼び方はなさらないで頂きたい。そして、再び申し上げますが、副会長は非常にご多忙なのです。副会長は定例会にお出になりたいと絶えず仰っておりますが、体が二つも三つもある訳では御座いません。いつもスケジュール調整には苦渋の選択がある事をご理解下さい。もちろん、定例会の内容は全て議事にまとめ上げ、私から会長及び副会長にご報告申し上げております。確かに当時、会長は毎回定例会には顔を御出しになっていた。しかし、今は時代が変わって来たのです。いつまでも旧態然としたままの組織でいるわけにはいかないのです。ご理解頂けますか、三千院社長? 」
「何が時代が変わっただ。この若造が! 」
三千院の怒声が真っ白な会議室に響き渡った。
「六十年前、あの震災と津波によって壊滅したこの都市の中、ボスと私、そして日下部のたった三人で血と汗と泥にまみれて興したグループだ。何十年とかけてやっと此処まで辿り着いた。何があろうと挫けずやってきた。そんな歴史も解らぬ貴様のような若造がよくもぬけぬけと。何が変わったと言うのだ、ボスと共に積み上げてきたこの鷲野グループの何処が変わったと、貴様は言うのか?解ったふうな口を聞きおって、たかが秘書の分際で 」
言い終わって三千院は肩を大きく揺らしながら、荒げた呼吸を整えた。老紳士の怒りに満ちた視線の先には、やはり表情一つ変えぬ峰岸の四角張った浅黒い顔がある。
「たかが秘書とは、心外ですな……。そんな、昔話を引き合いに出されても困るのですがねえ。これ以上定例会を妨害する様な発言をなされるようだと、退席して頂く事にもなりかねませんよ」
三千院の歯軋りが聞こえて来そうなほどに静まり返った会議室の中、日下部総司は隣に座る香坂美樹の唾を飲み込む喉の音を聞いた。
そして、膠着状態が続くかと思われたその時、『ガコン』とけたたましい音を立てて会議室の隠しドアが開き始めた。
6〜忌諱
鷲野グループの幹部連が見つめる中、隠し扉がギリギリ言いながら開かれていく。この扉を開ける為の御符は、日下部が作成し、幹部のみに配信されている。これは、結界師マイスターの称号を持ち、あらゆるセキュリティー対策に精通した日下部が構築したシステムである。その御符のデータが外部に流出するなどとても考えられないのだが。
そして、幹部達の視線を一身に受け、扉の向こうから、一人の男が姿を現した。
「おやおや、この街の幹部共がマヌケながん首並べてお集まりなさっていますね。げへへ…… 」
そこに現れた男は、背が低く、腹はだらしなく肥大し、腫れぼったい瞼にでかい鼻、皮膚にぶつぶつとデキモノが散らばり、そこから少し膿が湧き、髪の毛も随分と寂しい、何とも醜悪な風貌をしていた。男の服装も酷いもので、ヨレヨレの襟元が黄ばんだ様なワイシャツに、穴の開いたスラックス、草履を引っ掛けているのに、白色だったと思われる薄汚れた靴下を履いている。
人を見かけで判断するのは良くないと教えられてきたが、この男の醜悪さは、見た目という薄っぺらな物ではとても計り知れない。体の底から滲み出るような嫌悪感、この男を前にして、平常心を保つ者は、例え神であっても存在しないであろう。
「だ、誰だ貴様! 」
無遠慮に会議室へと侵入してきたその醜悪な男に対して、最初に言葉を発したのは永田社長であった。その男に最も近い場所に座っていた永田社長は、ソファーからどっしりとした尻を持ち上げ、男に近寄っていった。
男は、にやりと下卑た笑顔を見せながら永田社長を見つめている。
「此処は部外者は立ち入り禁止だ、さっさと出ていけ!薄汚い格好しやがって」
頭ごなしに怒鳴りつける強面の永田社長に対しても、男は動じる事無く、にやにやといやらしいく笑っているばかりだ。不適な態度に永田常蔵は、額に青筋を立てる。
「しかし何でこんな奴が此処へ来られたんだ?日下部よ、お前の結界は近頃不備ばかりだな。一週間前の村田の時にしても、今回にしても。……これは、責任を取ってもらわないとなあ」
永田社長がそう言って日下部の方を向きかけた時、不審な侵入者が、突然喋りだした。
「我は”D”。今日は、お前たち能無し共に宣戦布告をしに参りましてございます、げへへ……」
「何だと? 」
男のその一言で、一瞬にして会議室を殺気と緊張感が埋め尽くす。
永田社長が男の前から一歩退く。同じ瞬間に日下部と丹沢はソファーを蹴り立ち上がる。同時に、男の手元で何か赤い閃光が走る。
次の瞬間には、永田社長の左胸辺りから真っ赤な飛沫が上がり、体脂肪率33%の体が溶けるように崩れ落ちていった。
丹沢が会議室の床を蹴り、男に飛び掛っていったのは、永田社長の体が血だまりの中へ倒れこむ前であった。
美樹の悲鳴とほぼ同時に、丹沢はその腕に確かに男を捉えた、筈であった。確実に男に触れた感触が丹沢の手に残っている。それなのに、男は相変わらず下劣な笑いを浮かべ、男を捕獲した状態のままでいる丹沢のすぐ右脇に平然と立っているではないか。丹沢の驚いた瞳と、男のいやらしい眼が合わさる。丹沢はその瞬間、胃液を吐きそうな程の嫌悪感に襲われた。
「丹沢、伏せろ! 」
日下部の声により、自我を取り戻した丹沢は、目の前に先程の赤い閃光の様なモノが迫っているのを初めて認識した。体術を駆使して紙一重でそれをかわすと、その赤い閃光はこの部屋の中にいる人間の目から消失した。しかし、男の対角線上にあった真っ白な壁には、まるで焼け焦げた様な跡が、くっきりと出来上がっていた。
「なかなかいい動きをするじゃあありませんか、げへへ……」
そう言って”D”と名乗った男は、更に会議室の奥へと歩を進めた。が、その歩みは日下部によって阻まれる事となる。
日下部は、おもむろにスーツの内ポケットから御札を取り出し、呪文を唱え、白く冷たい会議室の床に貼り付けたのである。日下部が床に貼り付けた御札は無断侵入者に対して呪詛を仕掛ける結界を造り出すものだ。結界の範囲は、会議室内部。この御札は、幹部の携帯に配信した御符に連動しており、携帯御符を持つ者に対しては絶対防御の結界が張られ、日下部の造り出した結界の中でも呪詛を受けずに済む。つまり、”D"と名乗る不快で醜悪な男は会議室内にいる限り、日下部の強力な呪詛の力によって死を迎えざるを得ない情況に置かれたわけである。”D”が生きる為にはこの会議室から出て行くか、日下部に降参する以外に選択肢は無い。だが、既に会議室の隠し戸は日下部によって閉ざされていた。
「今此処で命まで搾ろうとは思わない。大人しく投降しろ」
日下部は、全神経を”D”に集中させ近づいていく。じわじわと精神にダメージを与える日下部の攻撃に、さすがの男も表情を強張らせた。
「お前らの中にもそこそこヤル奴がいらっしゃるじゃいですか。……まあ、今日はこの位にしておいてやるで御座います。このデブ親父の死体は我からの宣戦布告の印です。さっさと受け取りやがって下さい。では、御機嫌よう、げへへ……」
そう言って不気味な笑顔を晒したかと思うと、”D”と名乗る醜悪な男は、次の瞬間には幹部達の目の前で煙の様に姿を消してしまったのである。
式神を使った幻覚かとも思われたが、触媒となる御札も見当たらず、その様な痕跡は全く無く、残されたモノは生々しい永田社長の血にまみれた体だけであった。あの”D”と名乗った男は何者なのか、これから徐々に調べ上げられていくのだろう。だが、まずはあのような危険な男がまだこの付近に潜伏しているかも知れないという緊急事態を回避させる事が最優先であった。
「不審人物が、本社ビルに潜入した。各人緊急配備を敷き不審者の確保に当れ。今から男の残留思念を配信する。注意して欲しい、不審者は正体不明の呪術を使う。くれぐれも迂闊な行動を取らぬ様に。一人で、不審者にあたろうとせず、必ず人を呼ぶように。繰り返す。不審者は正体不明の呪術を使う。くれぐれも注意する様に」
日下部は、その様に携帯御符で令を下し、男が消え去るまで立っていた場所に立つ。携帯を操作すると、その画面上には、ノイズが掛かりながらも”D"の姿が映りこんだ。『送信』のボタンを押すと、その画像が一斉に彼の部下達の携帯へと送られた。
三千院は、血だまりに倒れこむ永田社長の元へやって来た。うつ伏せの体を裏返し、名前を呼ぶ。だが、無論返答は無い。瞳孔が開き、失禁している。
鷲野総合医院の院長で最高幹部の一人、財前三郎(ざいぜんさぶろう)が永田社長の体を調べる。だが、彼の出した結論も、三千院が考えていた結果と同じであった。
「ご臨終です……」
ジャンクシティの施設及びインフラを一手に創り上げてきた永田建設工業の代表取締役で、鷲野グループ最高幹部の一人、永田常蔵がこの瞬間返らぬ人となった。
「日下部、これは重大な責任問題だぞ。1週間前のテロ、そしてこの事態。どう責任を取るつもりだ! 」
部屋のいちばん奥にいた峰岸が怒声をあびせる。
日下部は、歯を食いしばり拳を硬く握り締めて、その怒声を浴び続けた。
「傀儡(クグツ)を使うぞ。日下部。傀儡の使用許可をくれ。あの野郎、ぶちのめしてやる……」
そう言ったのは、”D”にコケにされ、同士を殺され、取り乱している丹沢であった。
「傀儡を?止せ、建物の中で使ってはまずい。そんな事解っているだろう。ジークの塔を破壊するつもりか? 」
日下部は、丹沢の申し出を断った。
「だが、しかし…… 」
「止せ! 」
丹沢は、日下部の一喝で引き下がったが、無念の表情は抑える事が出来ないでいた。
日下部は、ただ永田常蔵社長の遺体が運び出される所を見続け、何も言わずに部下達の指揮を執るため会議室を後にした。
鷲野グループの最高幹部会議は、全く予期せぬ事態により、開かれたか開かれていないか解らないまま、延期となってしまったのである。
*
上の階で惨劇が繰り広げられている頃、沙奈は事務所で一人黙々と仕事をこなしていた。端末のキーボードを叩く音や、ペンが紙の上を走る音だけが聞こえる事務所に、それが侵入したのを沙奈は、最初は気がつかなかった。
沙奈がそれに気がついたのは、それが言葉を発したからだった。
「お、お前が何でこんな所にいるんだ? 」
ガラガラの濁声が、自分しか居ない筈の事務所に響いたので、沙奈はびくりとして顔を上げた。そこには、醜い何とも汚らしい男がいて、彼女を驚いたような顔で見つめていた。それは先程、この階の上で傍若無人に宣戦布告を行った”D”であった。
沙奈はあまりの事に悲鳴さえも出せない。すると”D”は細い目を可能な限り丸くしながら、どんどんと沙奈に近づいてきた。
「どうして、お前がここにいるんだ? 」
沙奈は、椅子から立ち上がると、じりじりと後ずさりを始める。しかし、たいして大きくない事務所である、すぐに角まで追い詰められてしまった。”D”が、手を伸ばせば沙奈の体に触れる辺りまで接近した。
「こ、来ないで……」
”D"が近寄れば近寄るほど、恐怖と言うよりは、嫌悪感と不快感が沙奈の中で増殖していく。胸焼けの様な気持ち悪さが沙奈の生命力を徐々に削り取る。
”D”の腕がすっと持ち上がり、沙奈の体へと伸びようとした時だった。沙奈の目には確かに”D”の醜悪な顔がぐにゃりと曲った様に移った。あまりの不快感に幻覚を見た訳ではない。
「ちっ」と舌打ちをする”D”の顔が何かノイズがかった映像の様に薄れていく。
「あの男の所為だな……。結構ダメージがあったみたいだな」
沙奈の目の前で徐々に透き通り、ノイズに打ち消されて行く”D”。何か訴えかけている様だが最早、”D"が何を喋っているか聞き取れない。やがて、醜悪なその姿が完全に沙奈の目の前から消え失せた。
思わず力が抜けて座り込む沙奈。呆然とする沙奈の元にどやどやと日下部の部下が武装して入って来たのは、そのほんの数秒後であった。
7〜助言
”D"と名乗る大胆不敵で醜悪極まりない侵入者に、あろう事か最高幹部会議の場に乱入され堂々と宣戦布告され、同士を殺され、更には取り逃がしてしまうという前代未聞で空前絶後の不祥事が発生した事及び、村井社長による自殺テロの甚大なる被害状況について、危機管理システムの不備を追求された日下部総司は、すぐ後に行われた臨時最高幹部会によって、その責任の所在を問い質される事となった。
病気療養中の会長『ジークフリード鷲野』は元より、その息子である副会長『レオンハルト鷲野』も都合の為欠席、また、最高幹部の一人に欠員が出ている幹部会ではあったが、規定の人数10名に達していたため、幹部会の決議は有効とされた。
幹部会は紛糾した。「即刻除名」を求める峰岸と、「残留させて責任を取らせるべき」と訴える三千院が激しくその主張をぶつけあった。当然の事ながら、日下部に発言の機会など無い。ただ、その両者の言い争いを眺める事しか出来なかったのだが、三千院の言葉の端々からは、何とか日下部を庇おうとする思いがこぼれ、それが日下部にとって心の救いとなっていた。
数的には峰岸を筆頭とした「除名派」が有利であったが、三千院の剛直なまでの反対に逢い、また老紳士がグループ設立当初からの功労者である事などから、日下部の即刻除名という事態はかろうじて免れたのである。
「日下部総司の除名処分に二週間の執行猶予を与える」
臨時最高幹部会議は、その結論に至り閉会した。
しかし、日下部に与えられた執行猶予の条件は非常に厳しいものであった。それは、猶予期間中である幹部会の翌日から二週間の内に”D”の正体を突き止め、捕らえる事。このジャンクシティの推定人口は350万人、ID番号による個別管理が行われてはいるが、塀の外からドロップアウトして、このがらくたの街へやって来る人間も少なくない今の情況で、僅か二週間以内に個人を特定し、捕らえる事は不可能では無いが相当厳しい条件と言える。また、仮に何かの間違いで”D”が塀を越えてしまっていれば、もう日下部には手の施しようが無い。しかしその問題に関しては、今まで日下部総司率いる鷲野総合警備は、指名手配された犯罪者を一人たりとも塀の外へ逃がした事が無い。そんな実績の裏付けはある。
どの様な実績や情況があろうとも、日下部は最早あの醜悪な犯罪者”D”を捕らえる以外に現在の地位に留まる事が出来ないのである。
臨時最高幹部会が執り行なわれた翌日、鷲野総合警備の事務所に、幹部たちの多くを敵に回しながら日下部を救った三千院老人が訪れた。
日下部と三千院は、重苦しい空気を漂わせながら事務所のソファーに向かい合わせで座っている。二人が発する言葉の一つ一つが深海から聞こえてくる物音の様に沈んでいた。
「何とか除名処分だけはさせまいと思って頑張ったのだがなあ……私の力が至らぬばかりに、君に大変な課題を押し付ける結果となってしまった。本当にすまなく思う」
三千院老人が頭を下げたのはこれで何度目だろうか。三千院はその天然に白く染め上がった頭をテーブルに擦り付ける様にして下げる。
「そんな、顔をお挙げ下さい。三千院さんには本当に感謝しています。本来なら即刻除名されて当然の所、二週間の猶予を付けてくださったのですから。その恩に答えるべく、またこの不祥事の責任を果たすべく、必ず二週間以内にあの男を捕らえてやります」
「この前のテロも、そして今回の事も、君がいたから被害が最小限に食い止められたのだと、私は思っているよ。まあ、亡くなっていった人たちは残念だが……」
「永田社長、先日娘さんにお孫さんが生まれたばかりだったようですね……」
日下部は、テーブルの灰皿を見つめたまま呟いた。二人とも煙草は吸わないので、ガラス製の灰皿は、汚されること無く冷たい光を放っている。
「初孫だった様だなあ。この前孫の写真を見せびらかしておった。目を細めて、そりゃあ嬉しそうだった……」
「歯に着せぬ物言いで少し煙たがられていましたが、決して悪い人では無かった」
「永田は、何も無い所から裸一貫であの会社を立上げ今の地位まで登り詰めた男だ。そりゃあ大した男だったよあいつは……」
三千院は、その脳裏に懐古の情を廻らせる。日下部は、三千院に気を使いしばらく口を閉じていた。そんな所へ「失礼します」と言ってやって来たのは、二人にお茶を汲んできた宮地沙奈であった。
静かに湯飲みを二人の前に置き、お盆を胸に抱えお辞儀をする沙奈に、三千院が話しかける。
「おや、新しい子だね」
三千院は沙奈に声を掛けた。
「え、あ、はい、よろしくお願いします」
少し伏せ眼がちになりながら、沙奈はもう一度三千院に会釈をする。
「ミスミのおばさんの紹介で、二週間ほど前から来てもらってます。よく動いてくれて助かってますよ」
日下部は、そう言って恥ずかしそうに俯く沙奈を見た。
「ほお、ミスミさんの紹介でねえ……まあ、大変だと思うが頑張って下さい」
「あ、ありがとうございます」
頬をほんのり赤く染めた沙奈を見つめて、三千院は、笑みをこぼす。そしてそのまま、今さっき沙奈が持ってきたお茶を、髭の隙間にある少し乾燥した唇から啜った。
「おや、久しぶりに此処のお茶を頂いたが……葉を変えたのかね? 」
沙奈は、その言葉に一瞬どきりとする。お茶の葉など自分が此処へ来てからは、一度も変えていない。――何か不手際でもしてしまったか?
すかさず、日下部がフォローの手を入れた。
「お茶は変えていない筈ですが……お口に合いませんでしたか? 」
「いやいや、前の時より何となく香りが深く思えてな。それに、なんだかとても温まる気がする……。そうか、心のこもったいい入れ方をするね、君は」
「え、いや、そんな私は普通にしただけで……」
「いや、久しぶりにこんな心のこもった美味い茶を頂いたよ」
日下部は、目を丸くしながら沙奈に言う。
「三千院さんにお茶の入れ方を褒められるなんてたいしたもんだ」
重苦しかった雰囲気が、湯飲みから立ち込める湯気の様にふわりと軽くなった気がして、三人は何となく声を出して笑いあった。
しかし、沙奈の背後では、香坂美樹がそれを面白くない顔をしてじっと見つめていたのである。去り際に沙奈が振り向くと、美樹と視線がぶつかった。美樹は一瞬睨む様な目つきをすると、ふぃと横を向いて、何事もなかった様に再び端末のディスプレイに視線を戻す。沙奈はばつがわるそうに、給湯室へ身を隠した。その顛末を見守った後、日下部と三千院も再び表情を固め、二人だけの会話へと戻っていった。
「しかし、永田の様な男はもうこの街ではのし上がって行く事は出来ないだろうな。この街は、金と権力、コネと血縁が全てとなってしまった……。変わってしまったよ、この街も」
日下部は、無言で聞き入っている。
「私も、出来る限りの協力はさせてもらうよ。頑張ってくれ」
「ありがとうございます」
日下部は、老紳士に深く長く頭を下げた。
「君のお父さんとの約束もあるしな。何とか君を助けてやりたい。厳しい条件だが、頑張ってくれよ」
「はい、ありがとうございます。三千院さんには、お世話になるばかりで……」
「なに、気にする事はない」
三千院は、そう言ってソファーから立ち上がった。歳を感じさせない程に真っ直ぐ伸びた背筋は、それ自体が彼の生き様を物語っているようだ。
日下部もすぐさま立ち上がり、退室しようとする老紳士を見送った。
三千院老人が、事務所の出口にさしかかった時、思い出した様に立ち止まり、背後に立つ好青年の方を振り向いた。
「ああ、それから念のために言っておくが……秘書室長の峰岸には気をつけた方がいい。あの男、最近妙な動きが多い。何を企んでいるかわからんが、喰えぬ男だ。いいか、くれぐれも峰岸には注意しろ。此処だけの話しだがな、テロを起こした村井もキンツル商事の吉田も、別にボスに逆らったのではない。峰岸と政策面で意見があわず、対立関係にあったらしい。そして我々も、峰岸に楯突いた格好になった訳だ。――くれぐれも注意する事だ」
不吉な予言ともとれる老紳士の言葉を聞いて、日下部は峰岸の浅黒く四角い神経質そうな仏頂面を思い浮かべた。
「はい――解りました」
三千院の後姿を見送る日下部の脳裏には、峰岸の顔がディスプレイの映りこみの様に浮かび上がり、しばらく消える事は無かった。
虚構〜悪意に満ちた
ブランデーの甘ったるい香りと、目に染みるほどの香水臭、そして喉を刺激する煙草の煙が入り混じった薄暗闇の中、深紅の趣味の悪いソファーに大股開きでふんぞり返っている肉付きの悪い細身の男、彼こそがボスの息子で、鷲野グループ副会長『レオンハルト鷲野』その人であった。
露出度の高い衣装を着た女が男の両脇に密着して座っている。ガラス製のテーブルを挟んで向かい側には、秘書室長の峰岸が、その右側には鷲野総合医院の院長、財前が、それぞれに女を横に座らせて、高級ブランデーの水割りを堪能していた。
「ね〜ぇ、れおぴー。わたし欲しいバックがあるんだけどぉ〜」
副会長の右側に座っていた女が、猫なで声を立てて彼の耳元でささやく。女の指は、しなやかに彼の膝にぐるぐると円を描いていた。
「ん?いいぞ〜喜美子の為なら何でも買ってやる。幾らするんだ、そのバックは」
副会長は、そう言って女の肩をぐいっと自分に引き寄せた。
「えっと、50万モニーくらいするんだけどぉ」
「50万か、そんなもんでいいのか?よおし、今度一緒に買いに行こうや」
「ほんとに?うれしぃ〜。れおぴーだいすき! 」
女は、指輪やブレスレットで飾りたてられた細い腕を男の首に回して、その青白く肉が削げ落ちた様な頬にくちづけをした。
それを見ていた峰岸が、眉間に皺を寄せ水割りのグラスをテーブルに置き、「こら、おぼっちゃまに対してそんな呼び方をするなんて、失礼だろうが」と、副会長に纏わりつく女を叱りつけた。
「だあってぇ〜」
女は、少し丸みのある頬をさらにぷっくりと膨らませ、峰岸に対する不満を表現する。
「まあまあ、いいじゃないか峰岸。別に僕は気にしてないからね」
副会長はそう言って、女の薄茶色の髪を撫でる。そして当の女は峰岸に対して真っ赤な舌べろを出し、敵意をむき出しにしたかと思うと、今度は満面の笑みを浮かべて副会長の肩に頭を預ける様にして、寄り添っていった。
「ところで峰岸、最近何か変わった事でもあったのか? 」
呆れ顔をした峰岸に、水割りのグラスをカラカラと鳴らしながら『レオンハルト鷲野』が尋ねた。
「……おぼっちゃま、どうかなさいましたか? 」
一瞬、峰岸の顔が強張る。財前も、その言葉にはっとして女との会話を途切れさせてしまった。真空状態に陥った様にふっと静まり返る部屋に、副会長のグラスの音が鳴り響いた。『レオンハルト鷲野』が再び口を開く。
「この前、永田の葬儀に出た時なんだけど、どうも皆様子がおかしかったというか、何かざわざわしていたというか……物々しかったというか。なあ財前、永田は工事現場で事故って死んだんだよな?その割りに日下部の所の部下達がやけに多かった気がしたんだが」
「は、はあ。永田社長は、現場の視察中に足場から転落致しまして、打ち所が悪かったんでしょうなあ。いや、ほんとに」
財前の目が少しばかり泳いでいる。永田が不審者によって殺害された事は、副会長には伏せてあった。副会長には嘘の死亡診断書を提出してあるのだ。つまりは文書の偽造である。財前の挙動不審気味な態度を悟られまいとして、峰岸が二人の間に割って入った。
「最高幹部の葬儀ですので、警備が厚いのは当然でしょう。それに、おぼっちゃまの身にもしもの事があったらいかがなさいますか?久しぶりに下界へ姿を見せられたおぼっちゃまに万が一にも何かあってはならないと、私が日下部に警備の強化を命じたのです」
「そうか、そう言う事なのか」
「はい、おぼっちゃま」
「さすが峰岸だ、気が利くなあ。これからも頼むぞ。峰岸に任せておけばこの街も安泰だな、ははは……」
「はい。私はこの街の為、おぼっちゃまの為に人生を投げ打った身で御座います。これからも、ご期待に沿える様、頑張ります。全て私にお任せ下さい。お気を煩わせるといけませんので、これからもあまり下界にはお出になりませぬ様、おぼっちゃまは何も気になさらず、一段高い位置で我らを見守っていて下さいませ」
「うむうむ」
副会長は、上機嫌である。
「それから……」
峰岸がソファーから腰を浮かせて、何やら副会長に耳打ちを始めた。
「おぼっちゃまの最も大事なお仕事は、この街の久遠の繁栄の為に御子孫を多く残される事でございます。それは、女の扱いに長ける事に他なりません」
道楽息子の顔がいやらしくにやける。
「わかってるって、峰岸。今夜も頑張って仕事するからな」
「頼もしいですな、おぼっちゃま」
篭った様な笑い声が、二人の間に充満する。それを見ていた喜美子と呼ばれた女が、中腰の道楽息子の腕を掴んだ。
「ねえ、まだお仕事の話? 」
「いや、もういいんだ。さあ、今夜もぱーっとやろう、ほら、財前も飲め飲め」
上機嫌の『レオンハルト鷲野』は、そう言って女たちに水割りを作るように指図をする。峰岸は、その大きな筋肉質の体を再びソファーに預けると、副会長に悟られぬ様に口元だけで笑った。
――これで良いのだ、このバカ息子はもう私の思う壺。幼い頃から教育係としてずっと傍にいた私をこいつは信じきっている。若いうちから酒と女をあてがい、抜け殻にする。そして今やこいつは私の操り人形、単なる御輿よ。お前も私の計画の踏み台の一つに過ぎないのだ。まあ、今の内に存分に楽しんでおくがいい――
峰岸の僅かな笑みの中に含まれる悪意を、向けられた本人は知る由も無かった。
副会長である『レオンハルト鷲野』に下からの正確な情報など一切入って来る事は無い。全て峰岸によってシャットアウトされるか、捻じ曲げて報告されるかどちらかであった。自分の父親が呪詛に遭っていた事も、ジークヒルズの中で悲惨なテロがあった事も、不審者にジークの塔へ侵入を許し宣戦布告された事も何も知らない。ただこの街の、自分の周りの繁栄が永遠のものだと信じ込んでいるだけなのである。
嘘と悪意と欲望で塗り固められた部屋の中に、何も知らない哀れな男の笑い声と、女の黄色い声が乱反射する。
峰岸の目の前に置かれたグラスの中にある氷が、『カラン』と鳴って崩れた。
8〜変装
日下部の除名処分まであと11日となった日の事である。鷲野総合警備の鑑識係が、村井の自殺テロの時に発生した血人形を調べたところ、マンドラゴラという、このジャンクシティでは自生も栽培もされていない植物の成分が触媒として検出された。それを受けて、日下部は、裏で塀の外と交流していると思われる組織を洗い出し、その中の一つの組織に自ら潜入調査に出向く事を決めたのである。
その組織は『ブリュンヒルト』と呼ばれる愚連隊で、ジャンクシティに存在する大小様々なチームの中でもかなり大きな勢力を持っていた。その『ブリュンヒルト』のメンバーの溜り場が『ジャッジメント』と呼ばれる地下クラブである。此処では、毎日の様に違法な触媒が取引されており、日下部も近々摘発する予定を立てていた所、これらの名前が思わぬ別の事件で挙がってきた為、丁度良い機会であると思い、最高責任者である自ら潜入調査に出向く事に決めたのである。
潜入調査などという危険な事を社長自らがすること無いとの意見もあったが、その反対を押し切って今回の潜入調査決行となったのである。日下部に残された僅かな時間が、彼を突き動かしているのだろう。
日下部ともなると、チームのメンバーにも面が割れている可能性は十分にある。よって、今回は、変装をしてカップルを装い、店に入り込む方法を採る事とした。日下部の相手に選ばれたのは、香坂美樹ではなく、約2週間前に入社したばかりの宮地沙奈であった。
地下クラブの客として潜入するのであるから、それなりの格好をしていかねばならない。その変装する衣装の準備をかってでたのが、専務の丹沢だったのだが……。
「いやあ、沙奈ちゃん似合ってるよ。いいじゃない。ギャル系でも全然OKだね」
丹沢文彦は、そう言って普段とは様相を変えた宮地沙奈を褒め称えている。ミニのデニムスカートや、へそ出しのタンクトップ、ラメ入りのアイシャドー、ブラウンの巻き系エクステなど、今までの人生とはとんと無関係のアイテムを纏い、少々困惑気味の沙奈がオフィスに佇んでいる。一般的には沙奈の世代の女性であれば『その歳でそのファッションはちょっと……』だとか『もういい歳なんだから落ち着きなさい』だとか言われそうな格好であるが、沙奈に限っては、その張りのあるきめの細かい肌や年齢よりも必ず若く見られる純粋な童顔など、そういったいわゆる若者向けのファッションにも十分耐えうるポテンシャルを秘めていた。いや、返ってそれが沙奈の新たな魅力を引き出しているのかも知れない。その魅力にやられてしまった丹沢は既にくどきモードへと移行していた。彼は自分の会社の社長が、あと数日で幹部会から除名されるかも知れないというのに非常に能天気であった。
「でも、ちょっとこれ短すぎないですか……」
デニムのミニスカートの裾を気にしながら、沙奈が反応を伺う様に訊ねる。
「そんな事ないって」
大袈裟なジェスチャーと共に丹沢が喋りだした。
「いつにも増してかわいいよ、沙奈ちゃん。その服、俺の妹のだけどやっぱり着る人間が違うとこうも引き立つものかねえ」
自分のデスクで、そのやりとりを白けた表情で見守っていた香坂美樹だったが、丹沢の言動に少し引っかかる単語が出てきたので、思わず口を挟んだ。
「……丹沢専務、確か妹さんなんていらっしゃいませんでしたよね? 」
仕事柄、美樹は従業員の個人情報をかなり広範囲に把握しており、当然丹沢の家族に関しても周知しているのだが、そんな美樹の記憶の中には丹沢の妹など存在していないのだ。
「え?何言ってるの美樹ちゃん。この前俺が妹と一緒に買い物してる所で偶然出会ったじゃない」
「へえ、あの女性が妹さんですか。じゃあこの前、駅前で腕組んで歩いていらっしゃった女の人は誰でしょうかねえ?それから一ヶ月くらい前にも別の女の人と歩いてるの見ましたけど?それから、二ヶ月くらい前にも……みんな妹さんかお姉さんなんですかね?ご姉妹が多くてにぎやかですね 」
丹沢は引きつった笑顔を見せながら、しどろもどろな返答を美樹に返した。
「ま、まあ細かい事はいいじゃない。俺には姉もいれば従姉妹だっている……と思うし……。袖触れ合うも他生の縁っていうしさ、いきなり『今までずっと隠していたが、実はお前には妹がいたのだよ』なんてドラマみたいな事があったりなかったり……」
全く意味の解らない言い訳を聞き流し、美樹は『へえ』と言って不信感を剥き出しにした瞳で丹沢を見る。
「で、でもこれで潜入調査の準備はOKだね。あの『クラブジャッジメント』へ行くんだからこれくらいの格好していかないとねえ」
『話を逸らしたな……』と思ったが、美樹はそれ以上は何を言っても無駄だと悟り、再び事務作業を始めた。
それとほぼ時を同じくして事務所のドアが開くと、そこから社長の日下部が姿を現した。
「どうだ、沙奈君、準備は出来たか? 」
「は、はい一応……えっ? 」
振り向きざまに日下部の姿を見た沙奈は、思わず言葉を失った。
山吹色のワイシャツに真っ黒のジャケットを羽織り、胸元をはだけさせたその出で立ちは、何処をどう見てもいつもの日下部総司ではなかった。胸元の太いゴールドのネックレスが、このコーディネートが丹沢の物である事を物語っている。まるでチンピラかホストの様な日下部の姿に、沙奈は呆然とし、丹沢は親指を立てて喜び、美樹は見惚れていた。
彼に、その気があればナンバーワンホストの座も恣であろう、元々背が高くスタイルの良い日下部なので何を着ても似合うのだろうが、沙奈は普段とのギャップの多さに驚きを隠せずにいた。
「日下部さん、その格好は……」
「ん?どこか変だったかな? 」
「いや、変と言いますか…… 」
何食わぬ顔で聞き返す日下部に、沙奈は再び言葉を失う。彼は、今の自分のギャップを全く自覚していないようである。
「どうだ、俺のコーディネートは。もう何処へ行っても大丈夫だ。胸張って行って来い! 」
「じゃあ、行って来る。丹沢、香坂君、留守を頼んだぞ」
丹沢は意気揚々と、美樹は立ち上がり礼をしながら日下部と沙奈を見送った。
ジークの塔、地下一階には、幹部専用の駐車場がある。大きくて豪華な車がずらりと並ぶ中、場違いとしか思えないこじんまりとした乗用車が止められていた。日下部の車である。外見に拘りの無い日下部にとっては、これで十分であった。何も不要な飾りや等を着けて経費を無駄に使う事も無い。
沙奈と日下部は、その車に乗り込み、ジークの塔を出ると、そのままジークヒルズの中でもメインの通り、中央大通りに出た。
そして、中央大通りを走っている時、少し思いつめた表情で沙奈が日下部に話しかける。
「あの……どうして私なんですか? 」
沙奈は運転している日下部の横顔を見つめた。
「え?何? 」
「私はまだ此処へきて二週間ちょっとで、何も解らないのに。美樹さんの方がきっと上手く出来るんじゃないかなと……。あ、あの別にこの仕事が嫌だって言ってる訳じゃないんですけど、なんだか美樹さんを差し置いてっていうか……」
「なる程ね、確かに香坂君は場数も踏んでいるし、君よりも先輩だからね」
「じゃあ、どうして……」
「沙奈君が来てここ数日、ずっと忙しかっただろう。部屋と事務所の往復ばかりで、殆どほかの場所へは行ってないんじゃないかな?まあ、今回は君に少しでも気分転換して貰えたらと思って、選んだんだ。久しぶりにジークヒルズの外に出るのも、いいかも知れない。それに、ちょっと他に寄って行きたい所もあってね。多分君も、行ってみたいんじゃないかな?その場所に」
「何処ですか、それは? 」
「まあ、着いてからのお楽しみという事で」
やがて二人を乗せた車はジークヒルズのエリアを出て、ジャンクシティの影の部分へと差し掛かる。沙奈も普段から、危険なので近づくなと言われてきたエリアに車が入っていくと、そこは何となく見覚えのある景色だった。
薄汚れた角を曲ると、そこには確実に見覚えのある、鉄のドアが見えた。ドアの上に掲げられた看板を見て、沙奈は、確信した。
日下部は、その鉄のドアの正面当りに車を横付けに止めて車を降りる。そして、沙奈も降車した事を確認すると、赤錆の目立つ鉄のドアを開けて中へ入っていった。
間違いない。自分の人生の岐路となった場所だ。看板を見上げると、沙奈の脳裏に今までの人生が走馬灯の様に浮かび上がってきた。
「さあ、沙奈君も入って」
日下部の言葉に我に返ると、沙奈は鉄のドアを潜り、幾何学模様の絵が飾られているだけの至ってシンプルな部屋へ入ってきた。古びたデスクトップの端末が置かれたカウンターの向こうには、ピンク色の制服を着てどっしりと構えた中年のおばさんがいる。
「どうも、お久しぶりです、ミスミさん」
そう言って、日下部総司は、丁寧にお辞儀をした。
9 〜交渉
ピンクの制服を着た恰幅の良いおばさんは、カウンターの向こう側で目をシロクロさせながら訪問者の男女を見回す。
「いや、久しぶりだけど……どうしたんだい?しばらく見ない間に商売替えでもしたのかい?その格好は……」
日下部は頭を上げると、慌てた様な表情を見せるカウンター越しのおばさんに説明をした。
「この格好は、今から潜入調査をする為の変装ですよ。そんなにおかしいかなあ……」
「そうかい、そういう事だったの。あたしはてっきり水商売に転向したのかと。でも、あんたの性格じゃあ夜の商売は無理だろうけどね」
「はあ……まあ……」
ジークの塔を出発する前にも知り合い二人に遭遇し、同じ様な事を言われていた日下部は、流石に人と会う毎に説明をしなければならない事に少し嫌気が差し、なんとなく自分の格好が変なのではと気付き始めた様だ。しかも、『夜の仕事は無理』などと、性格的理由で未知なる可能性を一刀両断に否定されてしまったのだ。さすがの日下部も、心の中が少し傷ついてしまった様である。日下部は別に夜の仕事をしよう等とは毛ほども思っていないに違いないが、こうもあっさり否定されてしまうと、やはり気分が悪い様だ。
しかし、日下部を傷付けたピンクのおばさんは全くお構いなしの様子で、入口近くに佇む沙奈を見つけると目を細め『やあ、あんたかい。どうだね。仕事には慣れたかい? 』と、そのいかつい姿に似つかわしくない、非常に優しい声を投げかけた。
「お久しぶりです。お陰様で忙しいですが、楽しく仕事させてもらっています」
「そうかい、そうかい。ささ、そんなとこに立ってないでこっちに来て座りな」
ピンクの制服を着たおばさんは、手招きをして少しはずかしそうにしている沙奈をカウンターに座るよう促す。
「どうだい、もう気持ちの方はふっきれたかい? 」
「ええ、まあ……」
はにかむ様にして、沙奈は答える。
まだ、ふっ切れてはいないな、とピンクのおばさんは思った。そう簡単にふっきれるものではないだろう。ぎこちない微笑みは、沙奈の気遣いに違いない。
「頑張りなよ、ところで会社では何をしてるんだい?W大の呪術科卒だから、そっちの方面で活躍してるんだろうねえ」
「いえ、そういう事は無いです……書類の整理とか、まあいろいろやってますけど」
「はあ?書類の整理? それじゃああんたを何の為に推薦したか解らないじゃないか。全く、何考えてんだろうねえあんたの所の社長は……」
女同士の会話が異様に盛り上がっている中、日下部は蚊帳の外であった。ただ、日下部が客観的にその光景を見る限り、年配の女性が一方的に喋り倒しているだけの様だ。このままでは、いつまでこのお喋りが続くか解ったものではない。沙奈が、目の前の中年女性の口を征して、切り上げる事など出来そうもない。とりあえず近況報告は終わった様だし、そろそろ本題へ移らせてもらいたい。そう思い、日下部は隙のないお喋りのほんの僅かなタイミングを捉え、二人の間に割って入った。
「あ、あの、すみませんミスミさん。そろそろ本題に……」
「ああん? 」
気持ちよくお喋りをしていた所へ水を差されて、ピンクのおばさんは鬼の形相で日下部を睨み付けた。
「あ、あの本題に……」
日下部がこれほどひるんだ所を見たのは、沙奈は初めてだった。一体この目の前にいるミスミさんと呼ばれる中年女性は何者なんだろう。鷲野グループの最高幹部と言えば、実質この街の支配者である。そんな男を一睨みで一蹴してしまうとは。そんな思いを抱きながら、沙奈は改めてピンクの制服やそのいかつい顔をまじまじと見直した。
「なんだよ、今日は沙奈ちゃんの近況報告が本題じゃないのかい?また今度にしなよ」
「いや、そういうわけには……」
日下部はそう言って、懐から紙幣を数枚取り出しておばさんの前に差し出した。
「どうか、これで……」
紙幣を見つけたおばさんの目が瞬く間に豹変した。日下部の手からもぎ取る様にして紙幣を掴むと、指を舌で舐めて枚数を数え出す。
「なんだい。それならそうと初めから言ってくれよ。で、今回は何の情報が欲しいんだね? 」
「今夜、クラブジャッジメントへ潜入調査に我々が出向く事はもうご存知ですよね」
紙幣をにんまりとしながら数えるおばさんに、日下部が訊ねる。
「ああ、知ってるよ、そんな事。『ブリュンヒルト』をやるんだろ。あたしの情報網をなめてもらっちゃ困るよ」
ピンクのおばさんは、紙幣を数えながら答える。
「その情報を奴らに漏らさないでもらえませんか」
「……そういう事かい。分かったよ。今回の件は『ブリュンヒルト』の連中には黙っておくよ」
「ありがとう御座います」
沙奈は、目の前で何が行われているのか把握出来ずにいた。だが、この取引は、本来あってはならない取引であるのだろうという事は解る。
ピンクのおばさんが、紙幣を数え終えた。
「……足りないねえ。あと20万だ」
「えっ」
沙奈は思わず声を出してしまった。あの温和なおばさんから、斯様な冷たい言葉が投げかけられるとは。それは沙奈の心に重くのしかかる。
「20万?冗談じゃないですよ。そんなに払えるわけありません」
日下部は大きく手を振りながら、ピンクのおばさんに訴えた。沙奈は、その仕草に少し芝居がかった雰囲気を感じ取る。
「じゃあ、いいよ。『ブリュンヒルト』もあたしの大事な客だからね。毎月きちんとン万モニー振り込んでくれる上得意先さ。あんたがその気なら、あたしゃ金払いの好いお客様を採るだけさね」
「――解りました。あと20万出しましょう。手元にはありませんから、後で振り込ませます。よろしいですか? 」
「よし、交渉成立だね。あとは上手い事やっておくから安心して行って来な」
「敵わないなあ、ミスミさんには」
日下部は、心の底から吐き出す様に苦笑した。
沙奈は、そのやりとりの一部始終を目の当たりにして、更にこのピンクのおばさんが解らなくなっていった。
「あの、それともう一つ聞きたい事があるんですが」
「ん、なんだい? 」
「”D”という男についてなんですが」
「えっ”D”だって?! 」
おばさんの顔色があからさまに変化したのを沙奈は見逃さない。
「ええ、”D"と名乗っている男なんですが」
そう言って日下部は、携帯御符を取り出しノイズ混じりの男の映像を見せた。おばさんはちらりとその画像を覗き込んだが、すぐさまそっぽを向く様にして、わざとらしく端末に向かい仕事を始める振りをした。
「……知らないね、そんな男」
”D"の名前を聞いてから明らかに態度がおかしい。沙奈はますますこのミスミと呼ばれるおばさんが解らなくなる。
「ミスミさんの情報網で、”D”について詳しく調べていただけませんか? 」
「断る……」
「そんな……もちろん報酬に手数料も支払います」
「帰りな、金はいらないよ。この金もいらないから持って帰っておくれ」
おばさんは、手に持っていた札束をカウンターに叩き付けた。
「でも『ブリュンヒルト』には黙っておくから安心しな。さあ、さっさと出て行ってくれ」
「どうしたんですか?ミスミさん」
明らかに動揺している事が日下部にも解った。これほど動揺したこの人を見たのは初めてである。
「急用が出来たんだよ。解ったらさっさと帰ってくれ。ほら! 」
「わかりました。……では、失礼します」
尋常でないおばさんの態度に、日下部もここは引かざるを得なかった。一つお辞儀をして『沙奈君行こうか』と声を掛けて、彼はこの家庭内暴力相談所の出口へ向かう。沙奈も日下部の背中を追って、鉄のドアへ向かった。その時。
「沙奈ちゃん」
背後から呼び止められ、沙奈は振り向いた。その声で名前を呼ばれたのは初めてであった。
「ごめんね。これに懲りずまた顔出しておくれよ。あたしの入れたお茶でよければ、また一緒に飲もうよ」
穏やかな声であった。沙奈はそれを微笑みで受け止め「ええ、ぜひ」と快く返した。
日下部と沙奈は、乗用車に乗り込み次の目的地へと向かう。
*
家庭内暴力相談所を出た頃には既に日は沈み、薄汚い街角を薄暗く陰湿な空気が覆っていた。
「ミスミさんでも駄目か……。一体”D"とは何者なんだ」
車を運転しながら、日下部が独り呟く。
「だが、あの動揺ぶりは、きっと何かを掴んでいるに違いない……」
流れる薄闇の街角の車窓を見ながら、沙奈は思う。確かに”D"という男の事は重要だし、謎が多すぎる。しかし、あのミスミとよばれるおばさん、自分に鷲野総合警備という職場を斡旋してくれた優しいおばさんの正体の方が、どうしても気になってしまうのだ。
沙奈は、物思いにふける日下部に、思い切って訊いて見た。
「あの……ミスミさん……相談所のおばさんって一体何者なんですか?何故あんな取引を? 」
「ん?ミスミさんかい?あの人は、そのもの相談所のおばさんだよ。だが、もう一つの顔は、情報屋さ。あの人は式神使いのマイスターの称号を持っててね。カウンターにあったあの端末から、あらゆる所へ式神を飛ばして情報を集めてる」
「そうなんですか……。でもああゆう取引は良くないんじゃないかと」
遠慮がちに沙奈は日下部に進言する。
「確かに、あまり良い事とは言えないかもしれないね。でも、これもこの街を護る為だ。多少の事は仕方ない」
「そう、ですか……」
沙奈にはその論理は納得が出来ない様であった。
「それから、これも一応話しておくよ。これから、時々ミスミさんともこうやって会うことがあるだろうからね。あの人は、天元神リュリの四神官の一人、本名はミスミチハルだ」
「――ミスミさんが、四神官? 」
「そうだ。全国で28人しか居ない、呪術会の最高峰四神官。その一人だよ。この街にいる四神官は、我らがボス古代神ファーゴの四神官『ジークフリード鷲野』そして、ミスミさん、ただ二人だ」
「そんな……ミスミさんが四神官?じゃあ、どうしてあんな事しているんですか? 」
「まあ、ミスミさんはいろいろある人でねえ……おっと、見えて来たぞ目的地が。また、ミスミさんの事は今度ゆっくり話してあげるよ。なんだか気になってるみたいだしね」
日下部と沙奈を乗せた車が駐車場の白線の内側に吸い込まれるようにして停まった。
続く
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2006/01/14(Sat)14:28:55 公開 /
オレンジ
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オレンジさんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
続き、アップさせていただきました。
今年の初更新でございます。
本年も変わらずご愛顧のほどよろしくお願い申し上げます。
ああ、でも年が明けてもう半月たっちゃったんだねえ。早いなあ……しみじみ
相変わらず不定期更新ですがよろしくお願いします。
皆様のご感想、ご批判お待ち申し上げております。