- 『常夜灯』 作者:時貞 / ショート*2 未分類
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原稿用紙約15.05枚
秋山静香は、テーブルの上に雑然と並べられた料理皿を手際よく片付けながら、店内の壁掛け時計に目を向けた。
――あと十分で午後八時。先ほど出て行ったグループ客を最後に、今日はもう閉店になるであろう。静香は布巾でテーブルの上を拭きながら、厨房の中にいる店主の方を窺った。店主は左手で右肩を揉みながら、煙草をくゆらせている。
静香がこの店で働き始めてから、もうじき半年になる。
静香は出戻りであった。両親の反対を押し切って東京の大学に進み、都内のアパートで一人暮らしを始めた。両親との当初の約束では、大学卒業と同時に実家のあるこの町に戻り、地元で働きながら花嫁修業をするということになっていたのだが、静香はそのまま東京の中堅商社に就職してしまい、その数年後、同じ会社に勤めていた三歳年上の男と結婚までしてしまった。何も相談なしに勝手に物事を進めてしまう静香に対して、両親は憤るというよりも呆れ果てた。
その静香が結婚後一年が経つか経たないかという時期に、相手の男と離婚をしてこの町に戻ってきたのである。その時も、両親には何の相談も無しであった。このときはさすがに両親も我慢がならず、静香に離婚の経緯を厳しく問いただした。本当に小さな田舎町である。隣近所のゴシップはまたたく間に広まる。世間体を重んじる静香の両親は、娘の身勝手を厳しく咎めた。しかし当の本人は、――彼とは価値観が合わなかっただけ――と、それ以上のことを深く語ろうとはしなかった。
毎日実家で両親からの小言を聞かされつづけた静香は、息苦しさを覚えて再び家を出た。しかし東京へは戻らず、遠方に行くでも無く、この田舎町の南端にある安アパートを借りてそこにおさまった。両親や世間の目を考えると遠く離れた方が良いのかもしれなかったが、このときの静香にはその気力すらなかったのである。それに、生まれ育った町に今更ながら愛着を感じ始めている自分がいた。
しばらくは何とか暮らしていけるだけの貯蓄はあったが、部屋でじっとしていることにも耐えられず静香は職を探しはじめた。そこで見つけた小さな定食屋が、いま静香が働いている《みなみ食堂》である。
店主は五十過ぎの痩せぎすな男であった。妻の持病である腰痛がひどくなり、長い時間店に立っていることが出来なくなったため、新たに女性従業員を探していたという。寡黙で愛想の無い店主であったが、何も深く詮索することなく採用を決めてくれたことには好感を持った。
実際に働き始めてみると店主は意外にも気さくな一面があり、静香はすぐこの店に馴染んでいった。仕事の飲み込みも早かった。開店時間の朝九時半から出勤し、最も忙しい昼食時の十一時から二時までを慌しくこなす。二時から四時までのあいだには休み時間がもらえ、再び四時から閉店の夜八時まで働く。午後六時から七時半までの夕食時が二度目のピークであった。
給与は安く、その割に多忙な仕事場ではあったが、静香はこの店がすっかり気に入っていた。この店で慌しく立ち回っていると、ことあるごとに繰り返される両親の小言も、隣近所からの冷ややかな視線も少しは忘れることができた。
静香がそろそろ《閉店》の看板を出そうというとき、ゆっくりと店の戸が開いて一人の男性が入ってきた。静香は慌てて、「いらっしゃいませ」と声を掛ける。この店の店主はたとえ閉店時間の一分前でも客が入ってくれば、注文に応じるのである。
入店してきた男性は、見たところ五十代半ばだと思われた。痩身で背が高く、日本人離れした彫りの深い顔立ちであった。高価そうではないものの、チャコールグレーの背広を品よく着こなしている。紺地に黒のストライプが入ったネクタイも洒落た感じに見えた。きっちりと撫で付けた髪はすっかりグレーになってしまっているが、肌の色はまだまだ若々しさを感じさせる。
「こんな時間にすいません。まだ、大丈夫ですか?」
低いが良く通る声だった。静香は慌てて、
「ええ、まだ閉店前ですから大丈夫ですよ」
そう言って厨房の中の店主を振り返った。店主は黙って咥えていた煙草を灰皿に押し付け、手を洗う。静香は男性客の座るテーブルにお冷を置き、メニューを手渡した。
この店に来る客はほとんどが地元の人間か、常連の運送ドライバーたちばかりである。この男性は初めて見る客であった。メニューを眺める客の横顔に、静香は不遠慮にならない程度に視線を向ける。
なにしろ小さな田舎町だ。地元の人間でないことは一目でわかる。仕事でこの町に来て、これから帰るところであろうか? おそらくそうであろう。観光客のようには見えないし、そもそもこの町には観光名所と呼べるものなど何もない。
そんなことをぼんやり考えていると、男が静香に向き直って口を開いた。
「すいません。では、焼き魚定食をいただけますか?」
「あ、はい。えっと、焼き魚はサンマとサバとがございますが」
「それではサバでお願いします。それと、壜ビールを一本お願いします」
静香は厨房の店主に、《サバ焼き定食》と告げた。そして冷蔵庫から良く冷えた壜ビールを取り出し、栓抜きとグラスを一緒に盆に乗せて男性客に運んだ。テーブルの上にグラスを置き、壜ビールの栓を抜いてなみなみと注ぐ。
「ありがとう」
「ごゆっくりどうぞ」
理由はわからないが、静香は何故かその男性客に強い興味を示した。ちょっとしたひとつひとつの仕草に、いかにも洗練されたものを感じる。都会の人間だな――静香はそう直感した。この田舎町に戻ってきて以来、都会の雰囲気を感じさせる人物に出会ったのははじめてであった。
十分ほどして、店主が厨房から静香を呼んだ。サバ焼き定食が出来上がったのだ。静香は出来たてのサバ焼き定食を男性客に運んだ。
「うわぁ、これは美味しそうだ」
割り箸を掴み上げながら、男性客が低く落ち着いた声でそう言った。声の響きが心地よい。静香は思わず、もっとこの声を聞いてみたいと思ってしまった。
「この町の方ではないですよね? こちらへはお仕事ですか?」
思いがけず、そんな不躾な質問をしてしまった。静香はもともと口数が多い方ではなく、それはこの店においても例外ではない。他の客に対して自分から声を掛けたことなど今までなかったし、客から掛けられる軽口に対しても素っ気ない返事でかえすだけであった。そんな自分の口から自然にこんな詮索じみた質問が出たことに、静香自身が軽い驚きを感じる。
「ええ、こちらには出張でまいりました。この町にお住まいのお得意様のところへ伺っていたのですが、思いがけず遅くなってしまいました。こんな時間に押しかけてしまってすみません。なにしろ昼食も採っていなかったものですから」
静香の不躾とも思える質問に対して、男性客はまったく気にとめたふうもなくそうこたえる。そしてグラスに注がれたビールに軽く口をつけると、黙々とサバ焼き定食を食べ始めた。
少し離れたところに立って、静香はサバ焼き定食に箸をつける男性客を見つめる。彼を見ていると、何故だか懐かしいような不思議な気分にとらわれた。自分が東京に置いてきて、それ以来思い出せずにいる何かのような懐かしさを――。
箸を動かしながら店内に置かれたテレビを見つめる彼の横顔を見ているうち、静香は思わずハっと息を飲んだ。
――似ている。
彼を見て、何故か懐かしいと思ってしまう感情の正体に気が付いた。その男性客が纏っている雰囲気が、東京で別れた元夫のそれに似ていたのだ。顔の造作が特に似ているわけではないし、年齢的にも元夫よりは随分上であろう。しかしその全身から滲み出る雰囲気、そして、ふと見せる何気ない仕草が元夫の影と重なった。
二人が別れた原因は静香にあった。
離婚当初は静香自身が強い被害者意識を持っていたが、この町に戻ってきて冷静に考えてみると、やはり自分に非があったのだと思い至った。何事につけ深く干渉し、自分の意思を無理に押し付けようとする姑との確執――静香にはそれが耐えられなかった。姑には、静香がすることなすことすべてが気に入らなかったのであろう。静香もまた、そんな姑が疎ましくてならなかった。精神的疲労が大きなストレスとなり、そんな現状から逃げ出すことばかりを考えるようになった挙句、静香は夫に離婚話を切り出したのだった。
今から思うと、夫は随分努力してくれていたのだと思う。姑と静香とのあいだに立って、何とか円満な家庭を築こうと頑張ってくれていたのだ、と。しかし当時の静香の目には、そんな夫の努力する姿など映ってはいなかった。姑と離れ、まったくの他人になること――それだけを望むようになってしまっていたのである。最初は頑として離婚を受け入れなかった夫であったが、静香の不安定に沈みつつある精神状態を知るにつれ、少しずつながら考えるようになってきた。
二人の離婚を決定付けたのは、静香の自殺未遂であった。
ガス自殺を図った静香は、さいわい早く発見されたがために命に別状は無く、夫や姑たちの迅速な計らいで警察沙汰になることも無かった。しかしこの事件を契機に夫は疲れ果て、もはや静香を繋ぎとめる気力も失ってしまったのである――。
「いやぁ、美味しいサバだったなぁ」
良く通る低い声に、静香は回想から現実へと引き戻された。男性客は綺麗にサバ焼き定食を食べ終え、残りのビールに口をつけながら煙草をくゆらせている。
「ありがとうございます。……空いたお皿はお下げしてもよろしいですか?」
「ええ、ごちそう様でした」
静香は綺麗に平らげられた料理皿や茶碗を盆に乗せ、厨房の奥に運んだ。厨房の中では、店主が壜ビールの空きケースに腰を降ろして居眠りしている。静香はもう少し、あの男性客と話がしてみたいと思った。別に恋心からではない。自分が東京に置いてきたもの――それにもう少しだけ触れていたいような心持ちであった。
厨房から戻ると、男性客はまだグラスを片手にテレビを眺めていた。ナイター中継が流れている。静香は彼に近づくと、さり気なく声を掛けた。
「今夜のうちにお帰りになられるんですか?」
「ええ、そうなんです。ゆっくりと明日の朝にでも帰れれば良いんですが、なかなか仕事が忙しいもので」
そう言ってにっこりと笑顔を見せる。その年齢に似合わぬ無邪気な笑顔も、どことなく元夫の笑顔に似ているような気がした。静香は男性客の顔を見つめたまま、掛ける言葉を失ってしまった。
男性客はそんな静香を不思議そうに見返していたが、やがてゆっくり頷くと、優しく落ち着いた声でこう問うてきた。
「失礼ですが……何か悩み事があるようですね?」
「……」
何か言葉を返そうと思うのだが、思うような言葉が思い浮かばない。静香は黙したまま、床にそっと視線を落とす。
男性客が口を開いた。
「何を抱えていらっしゃるのかは存じませんが、あまりご自分を責めないことです。広い目でご自分を見つめなおし、そしていたわってあげれば、あとは時間が解決してくれます。あなたが思っている以上に、時間とは偉大なものですよ」
男性客の口調は、決して説教臭いものではなかった。この町に戻ってきて以来、このような言葉を掛けてもらったのははじめてであった。静香の胸にあたたかいものがこみあげ、思わず鼻の奥が刺激される。静香は微かに俯いて、沸き上がってきた涙を手の甲で素早く拭った。
男性客はまるで、父親のような慈愛に満ちた表情を静香に向けてつづける。
「偉そうなことを言ってしまいましたね。すみません。ただ、あなたのような素敵な女性には笑顔が一番似合うと思いますよ。自信を持って、ご自分を大切になさってください」
「あ、ありがとうございます」
そう言って静香は頭を下げた。何だか胸の奥がすぅっと軽くなったような、心地よい脱力感を感じる。男性客はまたにっこり微笑むと、腕時計に目を落とした。
「ああ、閉店前だというのに長々とすみません。もうこんな時間になってしまった。……申しわけありませんが、電車の時刻表は置いてありますか?」
「はい。奥にあるので持ってきます。ちょっと待っててください」
静香はそう言って満面の笑顔を浮かべた。それはこの町に戻ってきて以来、はじめて見せる心からの笑顔であった。
店の奥は、四畳半の休憩室になっている。
静香はその部屋の隅に積まれている雑誌類の中から時刻表を見つけ出すと、表紙に出来た折れ目を手で直しながら店内に戻っていった。
が、しかし――店の中にあの男性客の姿はなかった。
静香は不思議そうに店内を見回したが、どこにもその姿は見えない。テレビから流れるナイター中継の音だけがむなしく響いている。
「不思議な……男の人……」
そう呟いたあとで、静香はハっと気が付いた。慌てて店の出入り口に駆け寄り、ガラガラと大きく戸を開け放つ。そして、遠くに目を凝らした。
常夜灯が、全速力で逃げていく男の後ろ姿を照らし出していた――。
――了――
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2005/10/18(Tue)11:19:48 公開 / 時貞
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■作者からのメッセージ
お読みくださりまして誠にありがとうございます。
すっかり秋らしくなってきて、暑さが苦手な僕としては嬉しい季節の到来です。さて、今までとはちょっと毛色の違うタイプ(?)のSSを書いてみました。軽い気持ちでお読みいただいて、何かお言葉を残していただけたら幸いでございます。
それでは、どうぞよろしくお願い申し上げます。