- 『謝罪』 作者:もろQ / リアル・現代 未分類
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全角5083文字
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原稿用紙約14.25枚
部屋のドアを開けると、背の高い青年は立ったまま深く頭を下げた。こちらも頭を下げ、どうぞ座って、と手で合図する。男は視線を落としたまま席に着く。
しばしの間があった。目の前の男は椅子に座ってから、まるで生気を出していないように思えたからだ。後ろの壁に彼の影がぼんやりと映っている。ともかく、私は青年に話しかけた。
「…すみませんね。下の者から突然呼ばれて、何も事情を聞いてないんですよ」
黙ったまま小さく頷く青年に違和感を感じながら、真向かいに座って顔を見る。照明のせいか、彼の顔は怖いほどに青白く、頬もやせこけて見える。固く結んだ口元を見ながら、私は尋ねた。
「ええと……今日はどういう事でいらっしゃったんですかね」
手を組んで青年の顔色を伺う。下を向いて、テーブルをただ見つめている眼孔が、暫くしてゆっくりとこちらを見上げた。はっとした。凍っているような、冷たい目だった。虚ろな目だった。大きく開いた瞳は動揺しているのか、細かに震えて見える。額に汗が滲んでいる。なにかあったのですか。言おうとして口を開いた瞬間、男は微かに声を出した。
「僕が悪いんです。瑞喜は何も悪くないんです。殺人まで追い込んだのは、全て僕の責任です」
か細い声だったが、広い会議室の中では充分に聴き取れた。早口で告げた青年は、大きく息を吸ってきゅっと口を閉じた。私は言われた事の訳が分からず、もう一度彼に尋ねた。
「一体どういう事ですか。殺人、ミズキとは誰の事ですか」
男は、目を細め、震える唇でその名前を呼んだ。
「倉橋瑞喜、彼女の恋人です」
再度部屋のドアを開けた時、青年は私が部屋を出た時と全く同じ体制で座っていた。
「ありました。……これですね」
呼吸を荒げた私は、「資料B」と書かれた大きなファイルをテーブルに置き、ページをばらばらとめくった先の小さな新聞記事を指さした。男はそれを食い入るように覗き込み、確かにこの事件です、と確信の念をあらわにした。
世間にはあまり知られなかったが、私は今でも鮮明に覚えている。ちょうど3年前くらいの事件だ。21歳の女性が広い空き地の真ん中で死体の傍で立っていたのを現行犯逮捕された。その女性こそが倉橋瑞喜だった。彼女の手にはナイフが握られていたため、逮捕当時は間違いなく倉橋の犯行とされていた。
しかし、この事件の容疑者が未だに確定されていないのは、事情聴取の際、彼女の証言が全く得られなかったからである。目撃者も、実際殺害している所を目撃していなかった。彼女は何も言わなかった。彼女は取り調べの間も、取り調べが終わったあとも、ただひたすら何かを繰り返し呟いていたというのだ。部屋のどこか遠くを見つめながら、こう言っていたというのだ。
「自由になれなかった。私は、どうすればいいの」
最後に彼女の名前を聞いたのは、1年半程前だ。確か、それまでずっとあの言葉を繰り返していた彼女が、ついに何も喋らなくなった。植物状態になった。と精神病院から報告を受けた時だった。彼女は今でも、その病院で静かに眠っている。
犯行当時、実は僕も現場に居合わせていたんです。彼の口からその言葉を聴いて、心底驚いた。唐突に告げられた事実が、私の身体を突き抜けるように走った。同時にこの3年間がひどく無意味に思えた。現場に居合わせた、という事は、当然この青年は犯行当時の状況も把握しているという事ではないか。
「ですが、その後なぜすぐに来て下さらなかったのですか。あなたの証言が事件の迅速な解決に繋がったかもしれないんですよ」
私が熱を込めて尋ねると、それまで活発に言葉を連ねていた彼の口元が、再び閉じてしまった。そして、暫くしてまた、ゆっくりと口を開いた。
「……僕は逃げたんです。瑞喜が人殺しをするなんて、信じられなかったから。信じたくなかったんです。だから、怖くなって逃げました。あの時から今までずっと、僕は身を潜めていました」
男は今にも泣きそうな声で続ける。
「仮に、あの後警察に駆け込んだとしても、どうせ僕は何も言えなかったでしょう。瑞喜を刑務所に閉じ込めるような証言は、僕にはできなかった。でも、瑞喜のやった事は事実でした。……僕は何より、彼女を愛していたんです」
会議室は、私と青年が二人きりでいた。部屋は静かで、エアコンの低い音だけが露骨に響いた。蛍光灯の弱い点滅が俯いた青年の影を包んでいる。彼は、消えてしまいそうなか弱い口調で告げた。
「でも、もう時効ですね。全てを話します」
二人は、幸せだった。甘い言葉は要らなかった。慰め合いは嫌いだった。手を触れただけで、一緒にいるだけで、それだけで良かった。二人は幸せだった。何も言わなくても互いに「幸せ」だと信じる事ができた。少なくとも、僕はそう思っていた。
全ての責任は僕にある。たとえ彼女の心が傷ついていても、僕は瑞喜を信じていれば良かったのだろう。瑞喜はいつでも笑っていた。デートの時も、旅行に行った時も、僕の家に初めて呼んだ日も。気付いたら、僕の記憶には、瑞喜の笑った顔しか存在していなかった。記憶の中の彼女は、いつだってその、柔らかい唇を少し緩ませ、頬を少しピンクに染めながら、すごく幸せそうに笑ってくれた。だから、つい僕は、瑞喜を疑ってしまった。生涯でたった一度、彼女を疑った。本当は、笑顔の背中で、泣いているんじゃないかと。僕は、交差点で信号が青に変わるのをじれったそうに待つ彼女に、思い切って訊いてみた。
「本当は、辛いんじゃないの?」
その日から、突然瑞喜は変わっていった。ぼうっと空を見ている事が多くなった。そうかと思うと、両目を手で覆って何か呟いている事もあった。話を聞きそびれる事が増えた。何をしても、瑞喜は上の空で、いつも何かを考えているようだった。僕は、何をそんなに悩んでいるのかと訊いた。自分にできる事があったら何でも言ってくれ、と伝えた。今思えば、最初に人を疑っておいて、信じてくれなどと
いうのはなんとも無責任な話だった。彼女は決まって、大丈夫、と答えた。
これは後になって分かった事だが、瑞喜は重度のストレス障害だった。やはり、瑞喜は無理をしていた。忙しい社会の中で生まれた叫びたい、泣きたい衝動に幾重ものシェルターを重ねて、ずっと閉じ込めていた。ずっと、暗い独房の中で膝を抱えて震えていたのだ。しかし瑞喜は、自分が部屋の中にいる事を知らなかった。いや、ただ忘れていただけなのかもしれない。忘れようとしていたのかもしれない。そして、部屋の外では偽りの幸せを掲げていたのだ。
瑞喜の症状は、次第に悪化していく。突然泣き出す事があった。街中で大声を上げた。財布の中身を広げて、道ばたに投げ捨てた。小銭がコンクリートの地面に冷たく光って落ちた。紙に「自由」の二文字を書き連ねていた。夜中、僕の家にやってくる事がたびたびあった。話を聞いても、「分からない。大丈夫」と言って僕を気遣った。病院で一度診てもらった方がいい、そう勧めた事もあったが、彼女は涙まで流して僕の手を拒否した。
「悲しい事があったら、いつでも話してね」
交際を始めた時に約束した言葉が、日を重ねるごとに色褪せていく気がした。繋いだ瑞喜の手が次第に離れていくのが分かった。引き止めなければいけない。闇に消えていく心に新しい光を与えてあげなければいけない。と強く願う裏で、変わり果てた瑞喜に恐怖を見出し、あえて遠ざける自分を垣間見た。僕は困惑した。瑞喜に何ができるのだろうか。僕がした事が、必ずしも正しい方向に彼女を導けるだろうか。かといって、こうして何もしないでいる事は賢明だろうか。僕は、何度も何度も考えた。しかし、いくら考えた所で答えがひとつに絞られるわけもなく、結局僕は、苦悩を抱えたまま時を費やした。
「やっぱりおかしいよ。病院行こう」
「……やだ」
窓から夕焼けが差していた。後ろ姿は、服を来ていてもやせ細って見えた。油蝉が鳴いていた。
「なんで……?」
言って、思わず俯いてしまった。呼吸の振動が肩を掴んだ指の先から伝わってくる。
「………やだ」
「怖いよ。瑞喜がこれ以上変になるの見てらんないよ」
泣きたくなった。苦悩の循環が内臓を掻き回して、酷い吐き気がした。どうにかしてくれと思った。口に出して叫びたくなった。なんでこんな思いをしなくちゃいけない。僕が何をした。どこで歯車が狂ったんだ。水と油が溶けずに渦を巻くように、惨めさが、怒りを巻き込み始めた。僕は悪くない。僕は何もしていない。誰のせいだ。頭の中に煮え返るような熱が込み上げてきた。お前が悪いんだ。全てお前が狂わせたんだ。お前が。僕も誰も俺も何も悪くない。お前のせいだ。全てお前が悪いんだ。お前が。
「だって」
空気が揺れて、我に返った。呟いた瑞喜の背中が震えている。
「だって、どうせ貴方だって、私を自由にしてはくれないんでしょ?」
息が止まるかと思った。
「みんな、私を閉じ込めるの。……知りたくなかった、こんな私。思いやりに塞がれて、憎しみに抱かれて、そんな生き方するのはもういや。嘘をつくのは耐えられなかった。優しさも言葉も全部嘘だったの。幸せなわけないじゃない。楽しいわけないじゃない。もうやだ。自由にして欲しいの。自分の思った事、はっきり言わせて欲しいの。理性なんかどうでもいいの。もうやだ。友達なんか嫌い。仕事なんか嫌い。親なんか嫌い。みんな嫌い。人間なんか嫌い。私なんか嫌い。こんな人生なんか嫌い。貴方なんか、大嫌い」
その翌日。追いかける僕の手を振り切って、瑞喜は人を殺した。
これほどの静寂を味わった事があっただろうか。私は、語り尽くした青年の前で、石のように固まってしまった。証言をメモするためのボールペンが、いつの間にかテーブルに落ちていた。言葉を失ってしまった。呼吸でもしたら、世界中の現実が偽りに変わるんじゃないかと思った。目の前の青年はさらに語り始める。
「血に濡れた瑞喜を見て、恐怖も、怒りも、哀れみも全て吹っ飛びました。代わりに肥大した絶望の塊が、腹の中にずっしりとのしかかる感覚が残っただけでした。ただ、おぞましかった。灰色の空の下、灰色のコンクリートの真ん中で、真っ赤な血に染まった瑞喜と死体が在るんです。昔どこかで見たキリストの磔を描いた絵画のように、それはもう絶望の一言でしか表せませんでした。死んだかと思った。他人の死を見て、自分の死と錯覚しました。……その後、少しして第一目撃者の悲鳴が聴こえました。おそらく僕の姿なんて見えなかったんでしょう。その悲鳴に驚かされて、僕の心に再び恐怖がやってきました。『逃げよう』と思いました。もうなんだか分からなかった。何が僕の足を動かすのか解らなかった。ただ逃げたいと思いました。当時は、それしか考えていませんでした」
ふう、と男が切なげな溜め息をつく。私は最後にひとつだけ、と思い、乾き切った喉の奥からひとつの質問を彼に投げかけた。
「それがどうして、今になって話そうと思ったんですか」
事件の解決とか、そんな事務的な理由ではない。おそらく単なる興味本位だ。この男について、もっともっと知りたくなった。ただそれだけのことだろう。私の問いかけに青年は、一段と真面目な顔をした。
「時間がそうさせたんです、きっと。罪の意識を感じたんです。謝罪をせねば、と強く思ったんです。調査に取り組んで頂いた警察の方々。現場を偶然目撃して、もしかしたらトラウマに陥っているかもしれない第一目撃者の方、そして、何より僕の恋人に。倉橋瑞喜という女性に謝らなければならない。あの日逃げだした自分の償いとして、せめて何かできないかと思い、今日僕はここを訪れたんです」
精神病院の住所を書いた紙を渡して、青年を見送った後、私は先程の会議室に戻った。ドアを閉め、最初に彼と会った時に座った椅子に腰掛けた。私は思った。
あの青年は、一体なんと言って彼女に謝るつもりなのだろうか。ベッドの上で何を楽しむ事もなくひたすら生きている彼女に、もはや「幸せ」とも「大嫌い」とも言う事なく、ひたすら死を待って生きる彼女に、なんと言って許してもらうつもりなのだろうか。それでも許してもらわねばならない事があるのだろうか。私はただ、届かなかった青年の思いに切なさを詠った。
「さて、と」
私は立ちあがり、資料のファイルを持って会議室を出る。彼の座っていた椅子に、僅かな温かさが残っている。
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2005/10/18(Tue)01:17:26 公開 / もろQ
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■作者からのメッセージ
結構な力を入れて書いた作品です。ストレスの事など、自分の現在の状況なども取り組んでみたおかげで、個人的にお気に入りの作品に仕上がりました。