- 『紅色の季節』 作者:彩瑚 / 恋愛小説 ショート*2
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原稿用紙約10.95枚
別れは、残酷だった。どうしようもなく訪れた必然だった。ほかに何が言えるのだろう。私はずっと部屋の床を見つめながら、問いかけてた。「いっそ他人であればよかったの」。あの人との愛は、私に何かを残したのだろうか。からっぽになった私に、今年もこの季節が訪れた。
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ひとりきりでの朝。
澄みきった空気。
まだ冷たい陽のひかり。
あたしはただ窓辺に座っているしかなかった。もう疲れきっていたから。もう何度今日みたいな日を迎えたのだろう。数える気になどならなかった。その代わりに、側で寝ていたリリーを抱き寄せた。本当は真っ黒のはずのところが、てっぺんだけ茶色くなっている鼻を、くぅん、と鳴かせて眠たげな瞳を私に向けるリリーは、私の唯一の理解者であると思っている。正しく言えば、理解なんてしていないだろうけれど、そう知っていてなにも言わない(恐ろしく当たり前のことだが)リリーは優しい。
ここ最近、私は全くと言うほど寝ていない。これは不眠症なのだろうかと問わなくても原因は分かっている。あの人の言葉が、横顔が体中から離れない。もう忘れてしまえばいいのに、それは何日も経ってしまった後の鍋の汚れのように、しつこくこびりついている。
本当はもうここから動くことすら忘れていたのに、今日は月曜日。私のような人間は、会社に行かなくてはならなかった。先週までなら実に機械的に顔を洗い、簡単な朝食を作り、スーツを着て完璧な顔で玄関に立つのに、いったいどうしてそれが今日はできないのだろう、と思いながらもなんとか床から離れて洗面所にたった。鏡を見て「寝ていないわりには健康そうな顔をしている」自分に少し笑ってしまった。
顔を洗い、ほとんどしていないような化粧をし、朝食は食べずにコーヒーだけを口にした。身支度をして外に出ると、風が思うよりも冷たかったことに驚いて、もう十月も半ばであることに気がついた。
この季節が一年の中で一番好きだ。
モンブランがとても好きであることも理由だけれど、一番は匂い。乾いた葉の匂いや、湿り気のある風の匂いはすごく心地いい。外に出て家の目の前にある公園で、美しく紅葉しているもみじを見て、しばらく自分が外の世界を見ていなかったことに気付いた。いつもなら、紅葉が始まる少し前から「あと一週間くらいだろうか」と気を揉んでいたのに、紅葉にも気付かないなんて。
会社について仕事を始めると、案外、仕事に集中できた。家に1人でいるよりもずっと楽だ。こうやってパソコンに向かっていればいいのだし、言われたことを要領よくこなしていけばいい。周りには何十人もの人がいて、それはまるで奇妙な安心感を与えていた。
本当はこんな場所、好きではないのに。
時計が五時半を過ぎると、隣のデスクの絢子さんが大きく背伸びをしながら、「ね、これからご飯一緒に食べない?」と誘ってくれた。絢子さんは、入社当時からよく声をかけてくれている三歳年上の人だ。肩にかかるゆるやかな髪をした美人。私はこの人の誘いを断った事など一度だってない。それは断れないからではなくて、いつだって私が絢子さんを必要としている時に誘ってくれるから。私と絢子さんは、支度をしてパソコンの電源を切り、会社を後にした。
私たちは、すっかりと暗くなりはじめた街の中を歩いていた。
「ほらみて、もうこんなに銀杏の葉が紅葉してる。秋って知らない間に訪れて、気付いた側から去って行っちゃうのよね。」
そう微笑みながら言う絢子さんに私も思わず微笑んだ。絢子さんのそういう所が好きだと思う。笑うことをしばらく忘れていた人をも、そうやって笑わせてしまう穏やかな空気を持っているところ。
ちょっと歩いているうちに、絢子さんの案内でイタリアンの店に入った。絢子さんに言わせると「パスタのゆで加減はいまいちだけど、ワインはめっちゃくちゃおいしい」店なんだそうだ。ウェイターに窓際の席を案内され座った。店の内装がワインレッドに統一されていてなかなか洒落た店で素敵だ、と思った。
「あたし、ここには好きな人しか連れてこないことにしているの。ここは特別気に入ってるお店だから。」
オレンジ色の照明が、絢子さんのいじわるっぽく笑った顔映しだす。今まで絢子さんはどんな人とここに訪れたのだろう。
絢子さんはあまり自分の話をしない。特に、恋の話は。でも絢子さんにはいつだって恋愛中の雰囲気が流れている。それも絢子さんなら当然だとも思うけれど、やっぱり恋をしている女の人はなんだか素敵。
「どうしたの、今日、なんだか疲れてるみたい。」
私は慌ててかぶりをふる。だって、絢子さんにこういう風に聞かれたらおしまいだから。
「そうですか?元気ですよ。」
できるだけそう見えるように言ってみたが、無駄だった。
「うそ。そんな顔して何にもないだなんて、誰が信じられるの。」
本当に参ってしまった。ずっと誰かにあのことを言ってしまいたかった。でも、言葉にすると今までふわふわしていただけの悲しみが、もっとずっと現実的な痛みに変わってしまう。だいたい、ちゃんと喋れる自信がなかった。
そんな私の様子に気が付いた絢子さんは、グラスのワインを少しだけ飲んで、そして、淡々と話しだした。
「私ね、一度もちゃんとした恋愛ってしたことないの。」
私は、思いっきりびっくりした顔をしてしまった。さっきも言ったけれど、絢子さんはいつだって恋をしている人に見えていた。その絢子さんが一度も恋愛をしたことがないなんてことがあるのだろうか。
「なんていうか、お付き合いは何度かしたことがあるの。でも、その中で一度もこれは恋だ、なんて思えなかった。相手の人たちはみんないい人たちだったけど、私が愛について疑心的だったの。
愛って、とても不安定なものだわ。差し出しても受け入れてもらえないかもしれないし、同じ分を与えてくれるとは限らない。
差し出されても、とうてい信じきれるものではないんだもの。愛は、常に形を変えてしまうから。」
胸が痛かった。悲しかった。なんでこんな素敵な人が、愛すことに迷うのだろう。とても愛されているのに。愛はそんなにも、信じがたいものだっただろうか。
ふと、思いだした。あの人との記憶。あの人のすむアパートの側の川辺、川に乱射する日差し、もみじの道。少しずつ記憶の温度を感じながらひとつずつ映像にしてよみがえらせる。
あの人は、もみじが好きだった。秋の冷たく柔らかい日差しを全部閉じ込めようとばかりにその身をあか紅くするもみじを。
一瞬で、体中が温かくなった。幸せだった。あの人との幸福な時間を思いだせたから。最近は、思いだすことを止めていたから。あの人との幸せなんて存在していなかったかのように、思えていたから。
でも、確かにその考えは違っていた。
「だから、恋をしようとするのはもう止めようと思うの。私は独りがそんなに淋しいとは思わないし、男の人と一緒にいるのは、とても窮屈。時々、誰かと一緒にいるときの方が孤独を感じるのよ。」
本当にそうだろうか。二人でいることはどんなに心強かっただろう。例えば、どうしようもなく眠れなかったあの夜。電話するとすぐに缶コーヒー片手に会いにきてくれた。その夜は、一晩中おしゃべりに付き合ってくれた。例えば、デート中突然雨に降られたあのとき。私はひたすら途方にくれていたけれど、あの人は軽やかに雨の中へ飛び込んでいった。
ほら、雨も悪くない。
とでもいうように。その日から、私は雨の日にがっかりすることはなくなった。
同時に私は独りでいることの居心地のよさを知っている。自分の他に心に侵入する人がいないのは、とても平和で穏やかだ。男の人は、今までの平穏さを心から奪ってしまう。それはすごく不安定なことだし、安住を愛していた私には絶望的なことだった。でも男の人は奪うだけではなくて、代わりのものを私に残していった。それは新たな穏やかさ。自分の中だけで作りだした穏やかさとは全然違う、人に依存することでしか得られないもの。それは、絶対に独りではだめだし、友達でもだめなのだ。男の人の腕じゃなければいけなかったりするし、男の人の温かさでなければいけなかったりする。つまり、そういうことだ。
「違います。それは絶対に違います、絢子さん。」
私はほとんど泣きそうだった。なぜだか分からないけれど。
絢子さんは静かに私を見つめていた。そして、ふっと微笑んだ。
「それなら、あなたはそんなに悲しむことはないでしょう。」
随分長くその言葉の意味を考えていたと思う。そして我にかえって、恥ずかしくてどうしようもなくなってしまった。絢子さんは、全部気付いていたのだ。私とあの人に起きたことも、全部。
さてと、と絢子さんは言うと、席を立ってしまった。ぽかんとしている私と微笑みを残して。私はその時、もみじよりもあか紅い顔をしていたに違いない。
帰り道、私はいろんな荷物を捨て去った旅人のように身軽で自由だった。あの人との別れは、私を死にそうにするほどつらかった。満たされていたはずの生活を、穴だらけにしてしまった。でも私は悲しまなくてもいいのだ。あの人が私に残していった穏やかさは、まだ私の中で流れている。もうすでにそれは私の血と混ざりきっていて、離れることなどない。
だから忘れる必要なんてない。ただ覚えていればいい。思い出と生きることは悪いことではないと、今は信じているから。
好きだった人を、幸福だった時間を愛し続けられるならどんなに素敵なことだろう。たとえ二度と戻らない時間だとしても。
そんなことを思いながら歩く私の足元には、落ち葉が乾いた音を響かせていた。
次の季節はもうすぐだ。
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2005/10/17(Mon)19:59:23 公開 / 彩瑚
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■作者からのメッセージ
初めて小説を書きました。自分でも、まとまってない所がたくさんあるって分かっているのですが、初めて書き上げた物なのでここに載せてみたくて投稿させていただきました。
私の好きな季節「秋」を小説の中に感じてもらえたらうれしいです。ありがとうございました。