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『Eccentric Van  完  (修正版)』 作者:勿桍筑ィ / 未分類 未分類
全角42776.5文字
容量85553 bytes
原稿用紙約137.25枚

   八


 時刻は、午後四時頃。
 変じいとはゆっくりとした、意外と心地良いドライブになると思っていた。そして同時に、変じいはすぐに飽きると思っていた。普通の車に乗り込めば、この通りになっていたかもしれない。普通にドライブし、すぐに飽きて家に戻ってくる。このような計画で終わると思っていた。そしてその後、部屋に戻って、好きな飲み物を飲みながら、音楽を聴く。こんな予定だった。勿論、変じいとは別れての話だが――。
 でも……。まさか、こんな事になるとは。
 最初は良かった。じじいも車も俺も。普通に運転できていた。じじいは大人しく席に座っていた。
 しかし、走り初めて何分経った頃なのか、家を出てから五回目の信号で止まったときだった。
 家からここまで、何も話をせずにラジオもCDも付けずに、静かなドライブだった。ので、ここらで何か話そうと思い変じい――一応父親――に話し掛けることを決心した。
「と、父さん?」
 失敗したと、言って直ぐに思った。今の今まで、「変じい」と呼んだり、じじいと呼んだりしていたのに、突然「父さん」などと呼んだら、違和感があって少し嫌な気分になった。
 実際に父さんだったかも分からないが、俺が子供の時母親に「お前は、元は太平斎って言う名前だったのよ」っと言われたことがある。俺の名前は、‘大史’である。どこでどうなって、太平斎が大史になったか。――まぁ、この人が本当に父親かどうかはドライブが終わってから確かめるとして、今は何を話そうか。
「何じゃ……。太平よ」
 突然不気味な声が聞こえたので、体をブルっと震わせてしまった。
「太平、お前は可愛いの」
「は?」
 可愛いって――。気持ち悪い。でも何だか、照れる。それに恥ずかしくもなる。ハンドルを握っているのも忘れて、下を向いた。
「大! 前を見ろ! 可愛い何て嘘じゃよ。おみゃあは、可愛いどころか不細工じゃ」
 そう言われて、顔を上げたが、まだ赤信号だった。かれこれ、信号で止まって十分は経つ。まだ、青にならないのか。
「おい、不細工。腹減った」
 不細工。可愛いんじゃなかったんかい。不細工って。確かに俺は不細工だよ。昔――小学校、中学校、高校とニックネームがブサイクンだった。まぁ、これもどうでも良い。それより、不細工? おい、ちょっと待てよ。
「不細工はてめぇだろ」
 心の中で呟くはずが、つい声に出てしまった。
「青じゃよ」
 反応無し。
 青と聞き、車を発進させた。
 またもや、車内は、静かになり、空気が重くなった。こんな時は、ラジオでもと思いラジオのスイッチを付けた。ラジオからは、どこの放送局なのか、何て言う番組なのか分からないが、男女二人か三人の声が聞こえてきた。やっぱり良い。静かだった車内が、間もなく賑やかになった。
「あん。うるさい。大(たい)の声だけでも喧しいのに、こんなのはきつい。ストレスじゃ!」
 言葉もなかった。顔や、性格が嫌いと言うのは何度か言われたことはあるが、声が嫌いというのは――さすがに、くる。ここに来て何だか、存在そのものを否定された感じだ。しかも、この一人のじじいで。
「とめろ」
 ついには命令。

「あ――!!」
 ラジオのスイッチを止めようとした寸前、突然じじいが声を上げた。何事かと思った。突然のことだったので、こちらもビックリしてしまった。
「何だよいきなり」
「今から聞こえてくる。せっかちじゃのー」
 一言余計だよ。
 聞こえてくるって事は、何かリクエストがあったのだ。変じいが音楽を聴くとは、何か矛盾を感じる。さっき、俺の声だけでもストレスと言ったはずだが。
「おっ、聞こえてきたきた」
 確かに、何か聞こえた。だが、運転しながらのせいか何を言っているのか聞こえずらい。
『南無妙法蓮―――』
「んー。何て良い声だ。心が落ち着くわい」
 ありきたりなお経……。外は段々暗くなっているのだが、こんな時に聞く物ではない。それに、心が落ち着くとは。この人は、老人だな。本当に。年代を感じる。
「わしは、まだまだ若いじょ」
 心を読んでたかのように、若いと言いだした。
「良い曲じゃの―――」
 曲? 曲ではないでしょ。しかも、良くないよ。
「あの世が待ち遠しいですね」
 悪気は決してない。言う言葉が無く、やっと出てきたのを言ったまでだ。
「もうすぐじゃ―――」
 そう言って、直ぐに眠ってしまった。車内には、二曲目らしい違う経が流れ出した。




   九 


 お経はいつの間にか終わっていた。そして、変じいも寝ている。
 七回目の信号に差し掛かった。
「一体何時間経ったんだ?」
 五回目の時は、出てから数分しか経ってないと思っていたのに。辺りは、もうすでに暗くなっている。
「思い出すなあ」
 ふとこの状況で、この車の最初の異常のことを思い出した。
 あの時もこんな感じで、目的無く走っていたっけ。っでいつの間にか、見知らぬ墓地に。何で入ったんだか。道もなかったのに――。
「あ!」
 思い出にふけっていたときに突然変じいが声を上げた。
「え!? あ……」
 七回目の信号を止まろうとしていたときに、起こったことで、ブレーキを掛けようとしたときで、誤ってアクセルを踏んでしまった。
 止まるどころか、どんどんスピードが増していく。足が痙攣してしまって、はずそうとすると益々アクセルを踏んでしまう。
「ど、どうしよう……」
「はー良い曲だ」
 変じいの声は寝言だったらしい。しかし、そのことで今は大変なことになっている。
 ――無事に家に戻ったら、殺す。

 自分が驚いて、こういう状況になっている事に気付いたのは八回目の信号を猛スピードで過ぎた時だった。最初は驚いているのではなく、ただ動揺してしまってこうなったと思っていた。しかし、今考えると、動揺こそが驚いているのだと分かった。でも、この状況でこうやって考えることができるのは、本当に変じいの息子なのかもしれない。
 足が退けられなく、まだまだスピードが上がったままなのだが、安心できることが一つあった。それは、この道は真っ直ぐな道で、この時間帯は人通りも車も通らなくて良い。唯一曲がるところがあるとしたら、信号を十一機過ぎた後にある。その他は、抜け道も何もない。
 片道二車線の道路で、Uターンすらできない道路で、ドライバー達から批判を浴び続ける道だ。
 この道でよかった。と安心できるものの、早く止めないと、十一機過ぎてしまう。方向を変える場所まで、あと「三機」。
「大! 大! おぉぉぉ」
 と、そこに変じいがまたもや声を上げた。
「どうした!」
 何だか苦しそうな声だ。前が気になるので、変じいを見れないが声で分かる。 
「うぅぅ……。あぁぁ……」
 変じいは、更に苦しみだした。
「だ、大丈夫か? 父さん!」
 俺は、もう我慢できずに運転している事を投げ出してハンドルにある手を離して、父さん(変じい)に声を掛けた。勿論、足はそのまま。
「あぁぁ。だ……だい、大丈夫だ――」
 な訳無いだろうが。明らかに苦しんでいる。まさか、発作でも起こしたのだろうか。
 この人、何かからだが悪いようには見えないが。まぁ、歳も歳だしこう言うことはあって当然かもしれない。――こう言うときも、何故か平然としていられる自分が怖くなってきた。
「それより、太平……。御車様を――」
 喋るな! だが、このままだと本当にまずい。俺は、父さんのことを気にしながら、再びハンドルを握ることにした。
 考えたくはないが、このまま殺してしまう可能性だってある。最後まで行って曲がれなかったら、どうなるか。確かこの先は、工事中だったはず。このまま突っ込んだら、変じいを死なして、さらに自分も今の地位がどうなるか分からない。まずい。この状況をどうにかせねば。
 だが、どうやっても足を退けることができない。足が痙攣していてどうしようもない。
「あ!!」
 変じいは、今もずっと叫び続けている。相当苦しいのだろう。何だか、こっちまで苦しくなってくる。それと同時に、焦りがどんどん増してきている。
「あ……、どうするか」
 考えようが無くいつの間にか、汗が顎まで垂れていた。こんなに汗をかくのは、スポーツをしてもない。顔面汗が噴き出している。
「あ! もう!」
 ハンドルから手を離した。今度は、変じいを助けるためではなく頭を抱えるために。変じいを見ると様子が変わっていた。この時、家から出発してもう時間が分からなくなっていた。
「あっ!」
 前を見ると、工事中の看板が目に入ってきた。看板が目にはいると言うことは、事故を起こす可能性があるということ。
「うげぇ」
 変な声を出してしまった。もうどうすることもできない! ああ、もう駄目だ!
「あぁ!!」

 猛スピードで走っていた車は、工事中の場所にそのまま突っ込むかのように思われたが、きれいに曲がった。ブレーキを掛けたのかと思うかもしれないが、そうは思えないスピードで曲がっていった。
「あれ……」
 ブレーキも掛けていないのに、どこにもぶつけずに曲がった。奇跡だ。スピードは変化していないのに。
 っとここで、やっとあることに気付いた。俺は、さっきからずっと両手を頭に置いている。そのことに、まったく気付いていなかった。奇跡、と言うよりは、怪奇だ。
 この車が勝手に行動したとしか思えなくなってきた。変じいは、汗をダラダラ流して、苦しがっている。
「はあ。でも良かった。これで病院に」
 落ち着いてハンドルを握った。そしてブレーキを踏んで、スピード落とそうとした。
 これで、変じいも助かる。だが、
「スピードが……落ちない」
 今度はいくらブレーキを踏んでも、スピードが落ちなくなってしまった。しかも、ハンドルも利かなくなっている。
 しかし、ハンドルは利かないし、スピードは落ちないのだが、この車は確実にどこかに向かっていた。だが、先程の道とは違い、車の数も多くなってきたし、人もいる。 この車は、左に曲がり、右に曲がり、信号は無視をして、人を跳ねそうになったり、スピードを落とさずに突っ走った。俺も発作を起こしそうだ。人がいるとこを通るのと同時に、悲鳴も聞こえていた。
 ついには、パトカーの音も聞こえたかもしれない。
「ぉい」
 ここで、変じいが苦しそうな掠れた声で、俺の服の袖を掴んだ。
「ぉい。頼む。頼む」
「分かってるよ。今から助けてやるからな。待ってな」
 俺は励ました気分でいた。変じいは、自分が死ぬんだと思っているだと感じた。
 我ながら、格好いい台詞だ。
「ち、違う!」
 何が違う。突然意味不明な。せっかくの格好いい台詞も台無しだ。
「はあ?」
「病院へは、病院へはぃかんでくれ……」
 俺はその言葉に、言葉を失いそうになった。
 このじじいは何を馬鹿なことを言っているんだ? 自分の今の状況を考えろよ。死にそうなんだぞ。やっぱり変じいだ。
「何でだよ! 病院に行かなきゃ、死んじまうんだぞ!」
 俺は、少し泣きそうになった。せっかく出会えた実の父親なのに、ここで死なせてたまるか!
「――注射が怖いんじゃよ!」
 耳を疑った。
 それを聞いた瞬間、今まで目に涙を浮かべていた自分が馬鹿らしく思えてきた。何が、「注射が怖い」だ。信じられん。
「はあ!? じゃあ死ね!」
 つい死ねと言ってしまった。だが、こんな時に注射が嫌だというのも信じられん。
「注射は嫌じゃあ!」
 車は、次第にどこかに近づいていた。スピードを落とさずに。まるで、何かが乗り移っているみたいだ。
「ん。と、止まった」
 すっと車は止まった。今までいくら、ブレーキを踏んでも止まらなかったのに、ここに来た途端にすんなりと止まった。
 この車は、最初からこれが分かっていたのではないのだろうか。こうなることが。そしてここに導いた、何て――――。





   十


 御車様は猛スピードで、直線道路を走り抜けた挙げ句、病院に――ここでは、一番大きい所に到着した。
「注射は怖い!」
 声を掛けると、変じいは前よりもっと苦しそうに胸を抑えてもなお駄々をこねていた。
 何が注射が嫌いだ。第一、こんな状態でよくもこんな事が言ってられる。いや、それよりも普通発言自体が出来ないんじゃないのか?
「さっ、早く外に出ろ」
「うぅぅぅ。馬鹿か、出られん……」
 喋れるが、体は動かせないようだ。
 俺は、変じいにここで待っているように言い、玄関に走った。
「どこだ? どこだ、玄関は」
 車のドアを閉めて、病院のドアを探すために走った。しかし、あると思われる方にいくら走ってもそれらしき物が見えるどころか、段々病院とは思わしき光景になってきてしまった。
「あああ、どうしよう。このままじゃ……」
 玄関を見つけることが出来ずに、このまま変じいを御車様の中で、死なせてしまった情景が、焦って頭の中に出てきてしまう。
 俺は、そんなこと想像するなと頭を叩いて忘れようとした。
「――ゃゃゃっ!」
 金切り声とはこう言うことかと、納得させる声が突然聞こえた。
「助け……て……」
 また声がしたので、自分の頭を叩くのを止めて、辺りを見回した。すると、そこに白装束の、多分女だろうと思われる者がそこに腰を抜かして倒れていた。
「――あぁぁぁ!!」
 俺は、それは病院の幽霊だと思い大声を上げた。
「きゃゃゃっっ!」
 と女の幽霊も一緒になって声を上げた。
 俺は、これは幽霊が今自分に呪いを掛けようとしているのだと思い、逃げようと向きを変えようとした。
「あぁぁぁ!!」
 しかし、逃げようとしたときに何者かに腕を掴まれてしまった。
 ――ああ、変じいすまん。助けられそうにない。死後の世界でまた会おう。
「ちょっと待ちなさい」
「へ?」
 一気に現実世界に戻された。待ちなさい? 男の声だというのは分かったが、幽霊が喋って、「呪いを掛けるから、少し待っていろ」と言っているのだと思ってしまった。そしてまたもや、変じいへの思いを巡らせた。
「警察。警察呼びますよ!」
「あぃ?」
 もうあっちの世界には戻らない、否戻ることが出来ない言葉を聞いた。‘警察’、これは辛い。
 警察というと、あの変態を思いだしてしまう。
「ちょっと!」
 腕をパッと離されたので、後ろを振り向くとそこには眼鏡を掛けて、背が高く、白装束の男と、先程の白装束の幽霊、あ否、普通の女がそこにいた。
 幽霊と見間違えていたようだ。そこには外灯があり、よおく見るとそれは、幽霊ではなく、女性看護士だった。そして隣にいるのは、医者? だった。
「すいません。警察は呼ばないで下さい」
「さて、あなたは何ですか?」
 呼吸を整えて落ち着いて謝ると、間もなく質問がとんできた。
「あ、いや、あの俺の父親が、……そう親父が心臓発作を起こしたみたいで、病院に連れてきたのですが、玄関が見当たらなくて」
 どう答えようか、口をマゴマゴしているうちに、本当の目的を思いだして、変じいが危ないことを事細かに短時間で伝えた。
「あ……」
 それを聞いた看護士と医者は、口をポカーンっと開けてしまった。
「どうかしましたか?」
「玄関は、ここですよ。それに、発作を起こしているのに、置いてきたのですか?」
 はい。っと答えて直ぐ、目の前の二人は慌てて俺の胸倉を掴み、その人はどこだと聞いてきた。やはり、医者だ、。困っている人は見捨てられないのか。
 心の中で納得して、あっちと後ろを振り返られないので、指で後ろを指し示した。
 
 二人の後を追って御車様の所に行くと、もうそこには変じいの姿、また二人の姿はなくなって、御車様だけがそこに残されていた。
 さっき俺が居たところに、玄関があったが、一体どこに変じいを運んでいったのか。ここに来るまでは、すれ違ったりはしなかったはずだが。
 俺は、どこに行ったか、他に玄関はないか、首を激しく左右後ろに振って探した。事情を知らない人から見ればただ病院の前で狂っているように思うだろう行動だ。
「――警察、呼びますよ」
 人の声がしたので振り向くと、そこには『〜病院』っと書かれて、電気が点いて少し明るい門があった。そしてそこの中に、警備員らしき人も居た。何故気付かなかったのか、それは御車様が止まっている目の前にあったのだ。
「あ、いやそれはちょっと」
「じゃあ早く帰って下さい」
 警備員は煙草を吸っているのか、煙を口から出しながら無理矢理丁寧に言っているのが分かるような言い方だ。
「あ、いやそう言うことにはいかないんです。実は」
「実は、おじいちゃんが危篤だから」
 何だ知っているじゃないか。しかも、危篤って。状態までも。
「――あっ、いたいた太平さん!」
 警備員とのやり取りをしようとしたとき突然病院の玄関の自動ドアが開いて、中からさっきの医者が出てきた、何か焦った顔をしていた。――俺は、太平じゃないんだけど。
「うぉ、どうも」
 変な声を出してしまったがそんなことはどうでも良い。
「どうも。いやいや、それよりおじいさんが」
「親父がどうかしたんですか?」
 何か深刻そうだった。
「ご家族を呼んで下さい」
 ご家族? 今の父さんか? 母さん? そうだな。
「はあ。分かりました」
 でも待てよ。なんで? 母さんはまだしも、今の父さんを呼ぶ意味はないんじゃ。
「それでは御願いします。おじいさんは今日が峠です」
 へ? 峠? 
「お待ちしてますよ」
 医者は、何故かにやりと微笑んで中に走って入っていった――――。





   十一


 御車様を病院の駐車場に置いて、変じいのいると思われる病室に行った。
 病室の前に着くと、そこには、名前が分からないのか『お爺さん』と書かれたプレートが一つだけあった。個室部屋のようだ。
 そりゃそうだろう。こんな訳のわからんじじいが、突然こんな時間に来て、悠々と大きな部屋にいられるわけがない。でも、個室の方が高いよな。というか、急患なので当たり前か。
「おう! 遅かったじゃないか」
 ドアを開けるや否や、変じいとはまた違う男の声がした。よく見ると、そこには、十分くらい前に電話で呼んでおいた両親がそこには居た。手を挙げて、父さんが俺を呼び入れた。
 いくら何でも早すぎる。実家からここまでは、早くても二時間はかかる。が、今そこにいるのは確かに父さんと母さんだ。何で? どうして? 脅威の記録ではないか。
「どうやって来たんだよ」
「おい。こんな状況で大声を上げる奴があるか。場所をわきまえろ」
 そうだった。ここは、変じいが眠る……いや、まだ生きている、そう生きている変じいがいる病室。大声は他の患者にも迷惑だ。謝らねば。
「そうだな……すま」
「車だ」
 なんだよ。謝ろうとしたのに……。
 車? そんなはずはない。俺が、駐車場に御車様を停めているときには、誰も入ってこなかった。それに門の前にもそんな車はなかった。
「どこに止めた?」
「……知らん」
 意味わからん。自分の車をどこに停めたのかも覚えていないなんて。
「御車……様じゃ」
 掠れた声がした。
「親父。喋るな」
 変じいだった。変じいが喋った直ぐ後に、父さんが注意した。
 待てよ……。親父? おい。変じいは俺の父さんだろ。まあ、今は心に留めておくとするけど。
「御車様は俺が停めようとして、電話を掛けてからずっと駐車場にいたんだけど」
「御車様って何だよ」
 ああそうだった。御車様何て知らないんだった。そこから説明しなきゃ駄目か……。
「御車様は、……あれじゃよ。あれじゃ。ううんと……」
 変じいは何とか説明しようとしている。何か言いたそうだが、言葉が出てこないのか父さんに、「あれじゃあれじゃ」っと言って指を振っている。
「あれじゃってば! ぇへ! へっほ!」
 咳をした。
「だから喋るなって。それに記憶もとんぢまったか? もう歳だなおまえは。何歳だっけ?」
 ひたすら言いたいことを探している変じいに、追い打ちを掛けるように父さんが質問を投げかけた。
「あん? なんじゃ、歳は知っておるじゃろう。わしは今年で……そうじゃのう……五十四かな?」
 え!? 五十四? 若いだろう。見た目はどう見ても七十は越えている。
 よれよれで、顔はくしゃくしゃで、時代を感じさせる服を着ている。それに……。
「え? 五十四か。俺はてっきり七十だと思ってた。だってよ、お前戦争のことを良く喋るじゃねえか。五十って事は戦争自体を体験してねえって事だよな」
 父さんが俺の思ってたことをそっくりそのまま声に出した。
 そう。戦争の話をよく家の踊り場でしてたっけ。五十って事は戦争は終わってったよな。
「戦争? あああれか。あれあれじゃ。あれじゃよ」
「またあれか? 痴呆だな」
「痴呆とは違う。あれは、……本で読んだのじゃよ」
「本で読んだ!? じゃあ今の今まで本で読んだことをぺらぺら喋っていたと言うことか。まるで本当に体験したように。はあ、呆れる」
 父さんと変じいのやり取りは、普通のように見えるが何か違う。動作が常に付いている。二人とも、何故か手が動いている。それだけじゃない。これもなぜだか分からないんだが、父さんは度々回転する。
「あ! 思いじゃした! 御車様は、おみゃあがガキの時乗ってた車じゃよ。あれが御車様じゃ! へっほ」
 突然、変じいが大きな声を出した。っと思うと、御車様の話だった。
「だから――。あれか。そういやああれは俺が一度乗っただけで、貴様が捨てたじゃねえか。俺は、高級車だったと思うんだが」
「捨てたんじゃない。母さんが売ってしまったんじゃ」
 御車様は高級車か。あの平凡な車として俺が中古で買った奴が……。
「ああそうか―――」
 突然静かになってしまった。何も喋ろうとしない。変じいも父さんも黙りこくってしまった。それでも、父さんは度々回っている。変だ。
「そう、そういえば。今まで話を聞いてて思ったんだけど、じいさんのこと親父って言ってたけど……」
「はあ? 何か変か? ――あぁそうか。お前には言ってなかったな。ここにいる変態じじいは、俺のくそ親父だ」
「へ?」
「なんだよ、その変な顔は?」
 父さんが、鼻で笑いながら言った。
「いや……前俺に爺さんが、俺のことを息子だと言ったから……」
 言ってはいけないことを言ったかもしれない。やはり実は俺は、変じいが都母さんの間に産まれた子供で、父さんの血は何も受け継いでいないのではないか。
 父さんの顔から、笑顔が消えた。と思った瞬間に、吹き出した。
「ははは! またか。じじい。またやったのか」
 またやった? 何のことだ?
「大史、お前引っかかったな」
「引っかかった? 何が?」
「何がって? 教えてやんねえ」
 むかつく口調だ。
 父さんが、笑いながら、意地の悪い子供みたいな事を言ってきた。
 そして直ぐ、父さんが、大声で笑い変じいの顔を見ながら、またかまたかと連発していた。
 そんな父さんを見てか、これまでじっと何かを考え、大人しくしていた母さんが、「うるさい。静かにしな!」っと父さんの頭を叩き始めた。
「はは……」
 こう見ると、夫婦漫才を見ているようだ。母さんはずっと頭を叩いている。何故ここまでして叩くんだ?
「痛、痛。ははは! 痛い! ……叩くのは止めろ」
 母さんの手が、父さんの頭に当たるごとに、父さんの口が開いている。
「だってあんたに、あたしは恨みを持っているんですよ」
 母さんが、こんな所で問題発言をした。
「恨みか、ああ、あはあは」
 何故笑うんだ。父さんは、何かを思いだしたであろうにやけた顔をしている。
「叩きますよ。あたしが、あんたでどれだけ恥を掻いていたことか。これで発散します。ハッ、ハッ、ハッ!」
 最初漫才のように見えていたが、次第に両親のこの行動が怖くなってきた。変じいに同じ言葉を連発している父さんを、ストレスを発散するために頭を叩き続ける母さん。こんな二人は、今まで見たことがない。いや、見たくはないな。
 そして遂に、母さんの発散行動に耐えられなくなったのか、父さんが母さんを怒鳴りつけた。だが、母さんは手を止めたが、謝ろうとしない。それどころか、まだ叩き足りないと言う顔をしている。俺が知っている、大人しい母さんではない。 
 それから、母さんの顔がいつもの顔に戻ったところで、やっと母さんが謝ると、さっきのことが嘘のようにまた一気に病室が静まり返ってしまった。
「居ずらいなぁ」
「何か言ったか?」
 しまった。心の中で言ったはずがつい口に出てしまった。
 俺は、顔の前の手を横に振り誤魔化した。
「話を戻そうな」
 父さんが真面目な顔に戻り、簡潔に説明してくれた。
「今ここにくたばってんのは確かに、俺の親父であり、お前の爺ちゃんだ」
 俺の実の父さんではなく、実の祖父だったのか。でも何で、うそをつくんだ。
「此奴がなんで、お前を息子と言ったのかは分からないが、お前が今の今までじいさんと会えなかったのには、深いわけも浅いわけもない」
 はあ? 何訳のわからん事言ってんだ?
「つまり、じいさんは俺の母さんつまりお前のばばあ喧嘩をして出ていったのだよ」
 あ? 喧嘩?
「どういうことだよ。意味が分かんない」
 一応話すこと話したぞっと言うような父さんの顔が、今の俺の一言で、怪訝な顔になった。
「そうじゃなー。喧嘩をしたのは確か……」
「俺が中学の時だ」
 突然話し出して直ぐに詰まった変じいの言葉を繋いだのは父さんだった。
「そうじゃったそうじゃった……へほっ。えっほ!」
「喋るからいけないんだぞ。そう、それから母さんには一度も会って無いよな。俺には一年に何度か会って、不満を俺にぶつけてたっけ」
 咳をした変じいを軽く叱り、昔を懐かしんでか、ベットにもたれかけて父さんが微笑んで言った。
「はは。でも、ここで疑問なんだが、お前と親父は知り合いだったのか?」
 いきなり話を変えてきたと思えばそんな質問を投げてくるとは。
 俺が答えようとしたとき、誰か入ってきたのか、両親が背筋をピンッと伸ばし深く礼をした。
「ほらっお前も」
 父さんが顔を上げ、俺にもそれを促した。
 俺は誰が来たのか分からずにいたが、後ろを振り返ると、あの時不気味な笑いをした医者が落ち着いて立っていた。
「あー。あなたはさっきの」
 俺は、医者を見て慌てて礼をした。
「やはり親族の方でしたか」
「先程は失礼しました。そして、ありがとう御座いました」
「いえいえ。医者として当然の事をしたまでで―――」
 さっきは微笑んで気味が悪い人物だと思っていたが、この言葉を聞いたら安心する。医者はやはりこうでなくっちゃ。自分の中で、医者という職のイメージが少し変わったような気がした。
「――あの、父の……」
「それでは、外で。お爺さんの息子さんと……」
 父さんが、変じいの容態を聞こうやっとの思いで口を開くと、感じ取った医者が咄嗟に話を理解した。
「じゃあ俺が行きます」
 変じいの容態も気になったが、それより何故あの時医者は微笑んだのか気になったので、医者の言葉を繋いで自分が話を聞くことを申し出た。
「では、二人は私と一緒に来て下さい。何か御座いましたら、ナースコールを押し下さい」
 医者は、俺と父さんに指示し、母さんに変じいの様態が悪化したときのためにと指示をした。

「お爺さんは、」
「父はどうなんでしょうか」
 応接室の通されて早速変じいの調子のことについて話し始めた。
「落ち着いて下さい」
 医者が、食らいついてきた父さんをなだめた。
「落ち着いていますよ。いやー、爺がこの先短いのなら、さっさとやりたいことさせておきたいものですから」
 鬼だ。自分の父親ながら、これまでひどい人間だったとはショックだ。いくら変じいとはいえ、これには変じいに同情する。
 さすがに医者もこれには呆れたのか、表情が変わっていた。
 お医者さんここは一発言っちゃって下さい。
「ふん。そう言うことですか……」
 よし。渇を入れて下さい。
「あの人は大丈夫ですよ。まだ大丈夫だと思います。しかしながら、まだ予断は許しません。少々心臓が弱いようで、」
 おい。何で? 何で叱らないんだよ。あぁ、また医者のイメージが変わっていく。
「はあぁ」
「ん? どうかしましたか?」
 心の中で叫んだ筈が、つい溜め息となって出てきてしまった。そこを見落とさなかった医者は、どうしたか、とこれこそ叱りそうな表情で問いてきた。
「あっいやいやいや。つ、続けて下さい」
 医者はそう、と言いつつ目をぱっと見開いた。
 危ねー。俺が怒られる所だった。ふうー。おういかんいかん。
「では、心臓が弱いみたいで、ちょっと無理をすると発作が起こる恐れがありますので、もう暫くはここで様子を見てみましょう。あっそうそう。大史……さんでしたか? あなたがここにお爺さんを連れてきた時に、「発作が起きて」とおしゃっていたかと思いますが、」
 医者が淡々と説明するのを俺と父さんは聞き入った。
 そして話が、俺が変じいを連れてきたことになった。
「はい。確かに、あの時変、いやじいさんが胸を抑えていたので発作かと思ったのですが」
 俺があの時のことを簡潔に答えると、医者は頷いて一息入れて話し始めた。父さんは何のことか分からないと、俺と医者の顔を交互に見て説明を求めていた。
「ふむ。やはりそうですか。いやね、私も最初は発作が起きたかと思ったのですよ。でも、あなたが私を呼びに来て、私があの人の所に行くまでの間少々時間がありましたよね。どうです? おかしいとは思いませんか? だって、発作が起きたはずなのにこの間気絶せずにずっとそこに居たのですよ。おかしいですよ。うんおかしい」
 医者は、淡々とまるで事件の真相を解くかのように話していた。最後にはこちらにも問い掛けてきそうな感じで腕組みをして、医者とは思えない感じだ。そして、胸ポケットに手をやって何かの箱を取り出した。煙草だ。しかし、直ぐに自分の立場を思い出したのか、直ぐそれを仕舞って腕組みを解いて元の医者に戻った。
 そんな医者の行動を見て、俺と父さんは呆気にとられてしまった。が、俺は直ぐに気になっていたあの微笑みについて聞いた。
「あーそうそう、それですが、さっきも言ったようにあれは発作ではなくですね、あれはあの人の芝居だったんですよ」
「す、芝居?」
 声が裏返った。と、父さんが何かを思いだしたのか、急に勢いよく話し出した。
「そういえば、あいつ人を騙すのが好きだった。いつも母さんをおどかして、離婚届突きつけられてたっけ。あぁ思い出す」
 離婚届って……子供の時にあれを目の前にするなんて、何て家庭環境だ。
 というか、さっき父さん俺に「引っかかったな」何て事言ってたけど、これのことか。今は、恐らくわざと医者に合わせたんだな。多分。
「はは。そうでしたか。――大史さん、良いんですよね。あの時私は、あの人から、あなたに心配を掛けさせたいと、あなたに対して異常な状態を示したそうです。何故判明したかと言いますと」
「注射が嫌いだから」
 俺は、大史と言われて驚いていた。何故俺の名を知っているのか。まぁいい。
 俺は医者の話を繋いぐと、その通りと俺に指を指してきた。
「だからです。私が、来たらあの人発作が起きていたのも忘れてひたすら、「注射は嫌じゃ注射は嫌じゃ」と言ってたんですよ。それで白状したんですよ。ははは」
 また流された。ここまで来て、変じいの容態の話どころか、あの微笑みについても聞き出せてない。いや、容態は少しであるが、話したか。
「あの、」
「はい?」
「あの時俺に、「峠です」と伝えに来たときに微笑みましたよね。何で微笑んだりしたんですか?」
 やっと聞けた。さあ、どう答えるんだ?
「峠? ……ああ、あれねはい。確かに微笑みました。さっきも話したように、芝居好きですから。あれも、あの人があなたに心配を掛けさせたいが如く付いた嘘です。私は、あまり嘘を付いたことがない程の正直者ですから、これが私の悪いところでね……」
 そうか。発作事件も峠事件も、二つとも俺に心配を掛けさせるための芝居だったのか――。
 俺は、医者が自分のことについて話しているのも気にせずに、しみじみと変じいについて思った。
「……私の悪い点はそこでね、うん」
「あの、では私はこの辺りで帰宅してもよろしいでしょうか」
 父さんが話が止まらない医者の話を無理矢理止めて切りだした。
「ははは。すいません。自分の話をし出すと止まらないもので。――そうですね。大丈夫だと思います。何かありました等というか何かあったら、こちらできちんと適切な処置をしますので」
「では、私たちは一旦帰宅します。父をよろしく願います」
 父さんはその場に立ち、ドアの前に行った。
「ほら、大史」
「…………」
 俺は上の空だった。
「大史!」
「は、はい!」
 俺は強く名前を呼ばれたのに驚いて、気を付けをしてしまった。普段の癖である。
 いつも会社では、名前で呼ばれているのでこうなってしまったのだ。
「帰るぞ」
「あぁ」
 俺と父さんは、一度病室に戻り、母さんを連れ、変じいに声を掛けてから行くことにした。
「じゃあ、じじい俺等は一度帰るから、下手な真似すんじゃねえぞ」
 脅しだよ。これ。
「は? 帰るじゃと? ――うぅぅぅ。痛痛!」
 帰ると言うと、変じいは突然胸に手を当て苦しみ始めた。
「ふう。まったく全部お見通しだよ」
 父さんは、鼻高々に変じいに言った。
「痛。けっ言いおったな! そこの藪医者」
「おいじいさん、失礼なこと言うなよ」
 変じいが発した言葉に、俺が指摘すると、直ぐに変じいの初めて見る睨んだ目が返ってきた。
 げ、キモイ。
「藪医者で結構結構。私は、天才藪医者ですから」
 医者が、変じいの言葉に笑って意味不明な言葉を返した。
「それじゃあお父さん、私たちはこれで行きますけど、何かして欲しいことはありますか?」
 母さんが口を開いた。久々に聞いたような気がした。
「良い!」
 変じいが俺や、父さん医者の時の態度とは打って変わった態度で母さんに返事をした。
「そうですか」
 母さんはそう言うと、父さんに行きましょうと目で合図をした。
 それを、確かに理解した父さんは俺に外に出ろとまたもや目で合図をした。俺はそれに従い、外に出ると、直ぐに父さん母さんと、そして医者と出てきた。
 俺等は、三階にある病室から、エレベーターで一階に下りた。時間はもうすでに、午後十二時となっていた。家を出たのが、夕方だったのに。
「それでは、ご苦労様でした。今後のことは私たち医者に任せて下さい。また、出来ましたらお爺さんの服や下着などを持ってきて下さい」
 外に出たら、誰がここまで持ってきたのかそこには御車様がスタンバイしていた。
 俺と父さんと母さんが御車様に乗り込んだところで、医者が俺達に呼びかけた。
「それは、お前に役目だからな!」
 父さんが俺の肩を、わざと強く叩いてそう言った。
「わっ、ああ」
 俺は、だるそうに言うと、不満だったのか理由をグチャグチャと言ってきた。
 俺は気にせずに、御車様のエンジンを付けようとした。
「うん? ……あれ?」
 鍵穴にキーを差し込んでキーを回すのだが、なかなか手強い。エンジンが点かない。
 メーターを見ても、ガソリンは満タン、バッテリーも別に異常はない。ではなぜ?
「どうした?」
 父さんが、俺の様子がおかしいのに気付いて声を変えてきた。
「どうかなさいましたか?」
 医者も堪らず、近寄ってきて投げかけた。
「それがエンジンがかからないんですよ」
 エンジンが、と医者が続けて言った。
 なんでここに来てエンジンが点かないんだよ。
「先生!!」
 とここで、看護士が玄関から飛び出してきた。




 
   十二


「どうかしましたか?」
 医者が、走ってきた看護士に落ち着いて聞いた。
 看護士は何か言おうとしているのだが、咳き込んで何を言っているのか分からない。
「落ち着いて落ち着いて。さあ、深呼吸とスリーサイズ、ね」
 セクハラを堂々と……この医者が。何を言い出すか。
「はあ、ふうぅ。はあ、ふうぅ。はい。上から……」
 言うんだ。どれどれ真剣に聞こうか。
「違います!」
 ノリツッコミ。
 医者は、デレデレとした表情になっていた。父さんも、やはり期待していたようだ。そして何故か母さんも期待していたようだ。顔が、ニアケテいる。
 看護士が再び呼吸を整え、用件を落ち着いて伝える。
「あの変なお爺さんの容態が急変して……。それだけですが、それを伝えに来たのです」
 なっ――。今なんて言った!? 変じいの容態が急変? さっきまであんなに元気だったじゃねえか……。あっそんなことより、早く変じいを助けに行こう。先生!
 それを聞いて、変じいを心配した俺は、すぐに御車様から降りようとしたところ、すでにドアが開いていた。
 しかし、そんな俺を見ても父さんも母さんも表情一つ変えずに唯笑っているだけであった。
 何でだよ。何で。何でだよ! 変じいが大変なんだぞ! 何で、何で平然としていられるんだよ! それでも、変じいの息子か!
 俺は、父さんに叫びたくなった。が、俺はそんなことよりもすぐに変じいのもとに行ってやりたかったので、医者、父さん母さんのことなんか気にせずに、御車様の中に置いて外に出た。
「おい! どうした?」
 父さんが、焦って出ていく俺を見て、鼻で笑いながら話し掛けた。
「爺の所だよ……」
「おい! 何泣いてんだよ」
 父さんの言葉で自分が涙を流していることに気が付いた。
 何で泣いているのかは自分でも分からない。でも、これだけは言える。変じいと別れたくない。唯それだけだが。
 別れたくないが故に泣いている。いや、変だ。変じいはまだ――。
「待って下さい」
 病院の中に入ろうと走り出そうとしたとき、医者が俺の腕を掴んで言った。
「大史さん忘れましたか?」
「…………」
 俺は無言でしっかりと医者を見つめているようだ。医者もまた俺をしっかり見つめているのが分かる。それくらい目と目が合っている。
「大史さん。お爺さんは芝居が得意なんですよ」
 医者が、落ち着かせようとしているのが分かる。
 だからどうした。芝居がだろうが何だろうが、変じいの容態が急変したんだぞ、たとえそれが変じいの遊びだと分かっていても患者の元に駆けつけるのが医者ってもんじゃねえのか?
 俺は、医者の手を振り払い、医者をちらっと睨み付けて、再び背を向けて変じいの元に向かって走った。
「大史! 待て。大史!」
 後ろから、父さんの俺を呼ぶ声が聞こえたが、自分の父親を見捨てるような人なんかどうでも良いと思い、構わず走った。
「大――!」
 
 * * * * * * 

「大史!」
 何故行くんだ。あのじじいは、どうせまた嘘を付こうとしているだけなのに。何故その嘘に気付かないんだ。
 大史の父――太平は、自分に背を向け走って病院の中に入っていく息子に、何もできないで御車様のドアの前で、立ち尽くしている。
「どうしたんでしょうかね。――あっ、そうそう、君君」
 医者が、呆然と立ち尽くしている太平に声を掛けた。無視だ。
 無視されたので、看護士に声を掛けた。
「へ? 私ですか?」
 看護士がキョロキョロして医者に目を向けた。
「君以外に誰が居るんだ。まあ、まあいい。ところで、君はお爺さんに何か頼まれたのかい?」
「いえ。私は唯、患者さんが苦しんで大声を出していたので、先生を呼びに来たのです。何か大変息が荒かったので急いできたら、何だか嘘みたいで……」
 看護士が首を傾げながら言った。
 すると、医者が血相を変えて、看護士の顔を、目を見開いて覗き込んで言った。
「それをなんで早く言わないんですか! それに、何で直ぐに他の先生に言わなかったのですか! ああ大変だ。それじゃあ今、大史さんが行ったのは正解じゃないですか! ああ、私の面目がー……」
 医者は、大声を出して、その場に倒れて、頭を抱えている。
「すいません。ナースステイションに誰もいなかったもので」
 看護士は、段々声のトーンを落としていった。
「おい! 藪医者!」
 頭を抱え、膝をついて倒れている医者に、突然太平が飛びつき胸ぐらを掴んで更に大きな声で言った。
「今何て言った! 何が、面目だ! 俺も父親として、息子として最低なことをしてしまったという事じゃねえか! どうしてくれるんだ!」
 太平は、医者を前後に揺らしながら怒鳴り声をあげた。
 何故だ。何故なんだ。
 親父……親父……。
「私も、立場がないんだよ! はっきり言って、私にとってあんな気味が悪いじじいなんてどうでも良いんですよ! 聞いてみれば、御車何タラとか、芝居好きとか、気味が悪い!」
 医者は、いらん事まで怒りにまかせて、太平に対して喋ってしまった。
 そして、すぐ自分の失態に気付いたのか、赤面した。
「す、すみません。つい……」
 だがもう遅かった。それを聞いた、太平が再び飛びついてきた。
「――貴様、……まあ俺は最初から医者なんて信じちゃあいなかったが、これ程までとは。一発殴らせてくれ」
 赤面して謝った医者に対して、強い口調でありながら自分の感情を最小限にして、不気味な優しさで、医者に了解を求めた。
 すると、医者は直ぐに頷くと、強く歯を噛み締めた。
「じゃあ、やらせてっ―――」
 一方の男の大きい握り拳が、もう一方の男の痩せた顔にめり込んで、嫌な音がした。あまりにもひどい音であったから、その場にいた看護士や太平の妻は咄嗟に耳を塞いだ。
「――おい! 友紀(ゆき)! 大史を追うぞ!」
 倒れた医者を下目で見て、鼻を鳴らし、妻を呼んですぐに病院の方へ走った。
 それを見た、医者は顎から血を流していた。
「先生、大丈夫ですか!」
 看護士が医者を心配して、近寄って血を止めようと持っていたハンカチで顎に手を伸ばした。
 しかし、看護士が親切に伸ばした手を、この男が払いのけた。
「ははふぅあ、ははふぅあ! ははひひははふう゛ひ、ひへ! ひへ!」
 医者は、意味不明で、何を言おうとしているか分からない。だが、それでも手を前にひたすら振って、看護士を怒鳴りつけていた。実際怒鳴りつけているのかもどうか分からない。
「はあ?」
「ひへ!!」
 意味が分からないと、怪訝な顔をした看護士に対して、医者はまたもや意味不明な言葉を発しながら、手を振った。
「行けば、行けば良いんですね。分かりました。お爺さんの病室に行きます」
 言葉が通じたと、安心した医者は、看護士が病院に入っていったのを見送って、その場に倒れた。気を失った――。

「何階だ!」
 エレベーターに入り、太平は妻の友紀に大声で聞いた。
「四階じゃあないですか?」
 友紀は、落ち着いて答えた。
「本当だろうな?」
「知りません」
 太平は四階なのか自信が無いのか、友紀に聞き返した。
 聞き返された友紀は、これまた落ち着いて言った。
 妻のこの言葉を聞いた太平は、妻を怒鳴りつけようと思ったが、自分も知らないのだからと止めた。
「じゃあ五階だ!」
「そうしますか」
 
 太平は、エレベーター内の案内板の『五階――手術室1,2,3』と書かれているのに気付かずに、五階のボタンを押した。
 五階に着くと、勿論のことだが、そこは真っ暗で異様な雰囲気を漂わせていた。
「よし! ここか!」
 太平の声に何の反応も示さない友紀は、「私は四階を探してきます」と言うと、さっさとドアを閉めて行ってしまった。
「ふーん。ここか」
 太平は、何の疑いもなくエレベーターを降りて、探すとも言っていないのにドアを閉められて置いていかれたことで、父親の状態の心配や、病室を探さなければいけないと言う焦りなんかより、ただただ‘怖い’と言う気持ちだけが沸き上がっていた。
 周りを見回しても、有るのは闇だけ。唯一光があると言えば、非常口への道を示す緑色の光だけ。普通光があると、安心するが、この光は安心と言うより更に恐怖を舞い込んでしまう。
 この光によって照らされた廊下は、こう暗いとどうしてかあの世に通じるように感じてしまう。まあ、病院なのだからあの世と言っても正しいと言えば正しいかもしれない。
 太平は、エレベーターから降りて一歩も動けずにいる。いや、動けずにいると言うより、動かそうとしても指一本曲げることが出来ない。
 太平は、四階にいるはずの妻の元に行きたかったが、その願いも叶いそうにない。恐怖だけが、どんどん増えている。それに……。
「おい! だ、誰だ! 誰か居るのか?」
 声が裏返ってしまったが、もうどうでもいい。光で照らされている廊下とは反対側の廊下から、何者かの足音が聞こえてくるのだ。

 * * * * * *

 変じい……。大丈夫か、変じい!
 俺は、階段を見つけるのに少々時間が掛かってしまったが、三階まで階段で駆け上がってすぐに、変じいのいる病室に向かった。
「変じ……おっと。じじい!」
 俺は、目の前に見えた病室に向かって声を張り上げた。
 もうすぐで、苦しんでる変じいを助けられる。待ってろよ! 変じい!
「お待ち下さい」
 と目の前に白い手が突然出てきて、俺はビックリして尻餅をついてしまった。
「な、なんですか?」
 見ると、そこには少々老いた女性看護士がいた。
「大声を出すなんて、非常識です! お帰り下さい!」
 な、何だと!? ここまできて、しかも変じいが苦しんでいるというのに、帰れだと? あんたこそ何様だ! 患者が苦しんでいるというのに、こんな所にいて。
「言わせてもらいますが、あなたこそこんな所で……。んんああ、私の、祖父が苦しんで居るんですよ!」
 俺は、看護士の軽蔑する目に見つめられ、言いたいことも言えなくなってしまった。
「苦しんでる?」
 看護士は、見つめるのを止め、首を傾げた。
「そう苦しんでるんです!」
「静かにして下さい。それに、誰が苦しんでるんですか?」
 看護士は、再び大声を出した俺に、今度は優しく注意した。
「だ、誰が?」
 誰がと言われると困る。目の前に変じいが居るのは分かっているが、名前までは知らなかった。誰だ? 変じいだ。
「行ってみれば分かります」
 まさか、ここで名前は分からないと言うわけにはいかないので、看護士を連れて病室まで行くことを提案した。
「ふん。分かりました。では行ってみましょう」
 意外にも簡単にいった。自分から、止めて、帰らせようとしたのに、すんなりと一緒に病室に行こうとするとは――。
 俺は、変じいが今どんな状態なのか知るはずもなく、先程まで焦っていたことも忘れて、看護士を連れて歩いて目の前の病室まで行った。
 一つ、二つ目の病室の前に来たところで、変じいの居るはず病室から、一人の白衣を着た背の高い男性と、これまた白衣を着た女性看護士――隣にいる看護士より遙かに若い――が俯いたまま出てきた。
 それを見て止まろうかと思ったが、気になるので更に進んだ。
 三つ、四つ……あれ? 四つ目まで来たところで、隣にいた看護師が、すでに先程の所で止まっているのに気が付いた。
 どうしたのだろうか。その看護士まで俯いている。
 五つ目の病室まで来た。ここが、変じいの居る病室。
 ドアの前まで来ると、そこにいたのは、医者であることが分かった。さっき本性を露わにした、あの医者とは全然違うオーラが出ていた。
「どうかしましたか? あの……爺ちゃんは……」
「親族の方ですか?」
 医者は、顔を上げて冷静に聞いてきた。
「はい……」
「お爺さんは……」
 とその時、閉まった病室のドアの向こうから何か聞こえてきた。
 よく耳をすませてみると、それは呻き声や、嗚咽したりする音だった。
「……お爺さんは……」
 医者の言葉を聞く前に、俺は病室の中に入った。
「え……」
 そこには、俺の背中を見送ったはずの両親の姿があった――。

 * * * * * *

 五階に置いてきた夫を想像して、友紀はエレベーターの中で高笑いした。
 今頃どうなっているだろう。夫の怖がった顔が見てみたい。ふふふ。
 友紀は、五階に手術室がある事を最初から知っていたのである。今までのストレスを発散するために行ったことであった。
 さてと、四階に着いたは良いけど、私としてはあんな爺どうなっても良いのよね。死のうが苦しもうが。だけど、あのケチな息子でもあそこまでなるんだから、探さないわけには行かないわよね。でも……。
「食堂には、患者はいるはずもないわ」
 四階は食堂であった。食堂以外に何もなく、エレベーターから出ると、五階の雰囲気までではないが、やはり闇があった。でも、自販機などの光は所所点いていった。
 はあ、暇。このまま帰ってしまおうかしら。面倒くさい。私、見たい映画があるのよね。あっでもでも、このままあのじじいに死なれでもしたら、葬式代が掛かるわ。それは、大きな出費。
「うーん。はあ、仕方がない。五階に行くか――」
 太平の惨めな顔も見たいし。
 友紀は、食堂の目の前一人でぶつぶつ喋ってから、階段であの気味が悪い五階に行くことにした。

 わあ、誰かが近づいてくる。
 友紀ー!! 友紀ー!! 愛する友紀!!
「助けてくれー!! 俺はまだ死にたくない! 友紀ー!!」
 太平は、何者かのが近づいてくることで、恐怖が頂点に達していた。
 自分はどれだけ惨めな顔をしているだろう。小便はちびってたまるものかと思っていたが、それも達成できなかった。ああ、情けない。情けない……。格好悪い。
「ふふふ。ははは!」
 と、遂にその足音の正体がここまで来たのか、それともまた別の何かが来たのか、突然女の甲高い笑い声が聞こえてきた。これは怖い。
「わああああ!! 助けてくれー! 友紀!!」
「何ですか?」
 へ……。誰だ? 答えたが、誰だ?

 五階に着いた。
 目の前は闇だ。やはり、先程の食堂とは雰囲気が違う。異様な空気が漂っているのが、肌を感じて分かる。だが、怖いとは思わない。
 何故怖いと思うか不思議で堪らない。だって、ここは私たちの病気や怪我などを、医者の技術を使って直してくれるところではないか。それなのに、怖いなんて。私が、一番恐れるのは、ナースステイションだわ。だって、あそこに行ったら、いつ患者に対しての悪口を語り合っているか知れたもんじゃないもの。ああ怖い。
 友紀がそんなことを考えているうちに、いつの間にか棒立ちをしている夫の元に着いてしまった。
 ああ、何て情けないの。惨めな顔。ふっ。
「ふっふふふ。ははは!!」
 友紀は、場所をわきまえずに声を上げて笑った。
 ぷっ。また惨めな顔をして。
 友紀の声に、驚いた太平が声を上げた。
「友紀!!」
 あら、返事しなきゃ。
「何ですか?」
 返事をすると、太平がとぼけた顔をした。

 誰だ? 返事をしたぞ?
 返事をされた途端、太平の体が軽くなった様に動いた。
 返事をした何者かが近づいてくる。太平は、動かせる体に喜びを感じながら、後ずさりをした。
「何故逃げるんですか?」
 何故逃げる? お前が怪しいからだ。
 後ずさりしていくと、明かりがあることにやっと気付いた。それが分かって前を見ると、そこには、妻の友紀が居ることを確認した。
「何だお前か……」
 なんだ? お前? さっきまで、血相変えてここに立っていたのに。
「っで、どうだった? 病室はあったか?」
 太平は、今までのことを隠そうとしているようだが、息が荒くて何があったかは大体予測できる。
「有りませんでした。というより、思い出しました。お義父さんは、三階にいます」
 太平は目が点になった。今の今まで、ここで頑張ったのに……三階だと!? ふ、ふざけるな。
「そう、そうか。じゃあはや、早く行こう」
 太平には、もう怒る気力さえなくなっていた。
「そうですね」
 二人はエレベーターに乗り込むと、三階のボタンを押した。エレベーターの中は、暖かい、安心できる光に満ちあふれていた。
 太平は、隅に行きもたれ掛かかり、額の汗を拭った。
「あっ、五階って手術室だったんですね」
 突然友紀が、まるで今知ったかのように五階が手術室だったことを太平に教えた。それを聞いた、太平の顔から血の気が引いていくのが分かって、友紀は嬉しくなった。
 ――ポーンッ。
 三階に着く音がした。
 まだ、太平は血相を変えている。このままここに入院した方が良いんじゃないかと思わせる。
「さっ行きましょう」
「へ? あっ、ああ」
 太平は、友紀を押しのけてすぐにとある所に向かった。それは。
「痛っ」
 くそー。どこに向かった? あの男は。
 友紀は、太平を追いかけていくと、白衣を着た女性達に助けを求めている太平を発見した。そこは、自分が最も恐れる場所、ナースステイション。
 太平が、何かが分かったと思われる顔をして、こちらに戻ってきた。生き生きした顔だ。
「じじいはここから、三つ目の病室だそうだ。それにしても不思議だよな。じじいが苦しんでるって言ったのに、全然普通にしているから」
「ちっ」
 太平の生き生きした顔を見た友紀は、軽く舌打ちをした。
「へ?」
「ああ、いや。やっぱり嘘だった、とかね」
「そうかもな」
 二人は、まあいいと、病室に向かった。病室を見つけるだけでこんなに時間が掛かったのだから、もうすでに大史が着いていると思っていた。
 一つ、二つ、三つ目。ここだ。病室は暗い。予想が外れたようだ。まだ、大史すら来ていないようだ。
 ドアを開けようとしたとき、声がした。
「お爺さん!」
 大史かと思ったが、声が高かったので違うと直ぐに分かった。
 見ると、あの時俺達にじじいの様態を教えに来たときの看護士だ。
「ああ、どうも」
 太平は、馴れ馴れしく手を挙げて返事をした。
「どうも。それで、お爺さんの様態はどうですか?」
「いや、今からです」
 咳き込んでいる看護士にいつの間にか、友紀がハンカチを渡していた。
「ありがとう御座います。――じゃあまだ、確認していないんですね」
 看護士はそう言うと、先に来ていた二人よりも先にドアを開けた。
 ドアを開けると、すぐに病室の電気を点けた。
 電気を点けると、そこにはじじいが静かに寝ていた。
 何だ……。やっぱり大丈夫じゃないか。心配して損をした。
「お爺さん! 大丈夫ですか!」
 と、看護士が大きな声でじじいに声をかけ始めた。
 何をして居るんだ、この看護士は!? 静かに寝かせていればいいのに。
「…………」
 看護士の目が、厳しくなったかと思うと、何かのボタンを押した。ナースコールだ。 ボタンを押すと、向こうから声がした。男の看護士のようだ。声が低い。
「どうかしましたか?」
 それを聞いた看護士が、怒鳴りつけるように言った。
「どうかしたじゃない! 早く、早く先生を呼びなさい!!」
「え……」
「早く!!」
「わ、分かりました!」
 ナースコールを切ってからは、心臓マッサージをしている。
 そして、一分も経たないうちに先生と言われた医者が一人凄い勢いで病室に飛び込んできた。
「はいっはいっ! 邪魔っ邪魔っ!」
 医者は、二人を押しのけて、白衣を整えてから看護士に今の状況を求めているのか、看護士に話し掛けている。
「うん。うん。……そうか……。じゃあ、明日」
 医者は、笑顔で看護士とハイタッチをした。
「先生!! 親父は! どうなんですか!?」
 そんな医者に対して、太平が怒鳴った。
 親父はどうなるんだ……。親父は……。確かに、気味が悪くて、しつこくて、一緒にいてもこっちが生きている心地がしなくて、悪いだらけの爺だが、それでも……それでも――――助けてくれ。
「カウンターショック!」
 突然医者が看護士に大声で言った。
「はい!」
 返事をした看護士は、急いで外に飛び出して行った。
 そしてすぐに、看護士が病室の中に何かの機械を持ってきた。
「そこの二人は離れて!」
 看護士は、それから二つに別れた物を持ってクリームのような物を付けて変じいの体に付けた。
 すると、変じいの体が勢い良く跳ね上がった。どうやら、これは世で言う‘電気ショック’と言われる物だろう。
「先生!」
 反応がなかった。
「もう一度!」
 また、看護士が変じいの体にそれを付けた。
 すると、また跳ね上がった。反応がない。
 もう一度。
「先生! 戻りました!」
 ―ピッ。ピッ。ピッ。ピッ。
 カウンターショックたる物と一緒に付いてる、心電図が反応し、波打ちし始めた。
「戻ったか。よし」
 医者は、変じいに駆け寄って突然話し掛けた。
「お爺さん! 聞こえますか! お爺さん!」
 何回も何回も、変じいの肩を叩いて。
「お二人は、外へ――」
 医者が、太平と友紀に話し掛けようと後ろを振り向いた。しかし、そこにはすでに二人の姿はなかった。
「おい! 親父!」
 親、親父? 
 それを聞いた医者は、前を向くとそこには変じいに話し掛けている二人の姿があった。
「二人とも、外へ――」
「――先生、三人にしてあげましょう。一応落ち着いたんだし」
 また二人に、注意しようとしたところ、看護士がそれを遮った。
「だがな……。まだ、この人は生きられる。もう少しやれば」
「良いじゃないですか、どうせ生きててもどうってことないでしょ」
「それもそうだな。って……」
 変じいは、手を重たそうに挙げている。
「親父なんだ? 良く聞こえねえ」
 太平は、何かを喋りたがっている変じいに気が付いた。
「……はあ、はあ。大、大は……」
「はあ? 大? 大史か!? もう少し待て、直ぐに来るから」
 ったくこんな時に、あいつは何をやっているんだ。じじい、待ってろ。直ぐに来るからな!
「うぅぅぅ……」
 っと突然変じいが苦しみ始めた。
「ど、どうした!」
 苦しみ始めた変じいを見て、太平はパニックになってしまった。
「邪魔だ! どけ!」
 近くにいた医者は、パニックになっている太平を、無理矢理変じいの元から引き離して、怒鳴り声をあげた。
 医者の声にもひるまず、というか聞こえてないのかも知れないが、太平は既に我を忘れて変じいに向かって大声で叫んでいる。
 そんな太平を友紀は抑えてはいるが、それも無駄かも知れない。それほど太平はパニックに陥っていた。
 ――ピピッ! ピピッ!
 心電図の波が乱れ始めた。
「いけない! お孫さんに会うんでしょ!!」
 医者が、変じいに人工呼吸器を付け色々処置をしながら呼びかけた。
「父さん!!」
 太平は更に混乱している。
 ――ピピピッ! ピピッ! ピッ!
 心電図の波が、緩やかになってきた。段々直線に向かってきているのが分かる。「死ぬな!」
 珍しくこの医者が叫んだらしく、それを見て一瞬看護士がビックリした表情を見せた。
 ――ピッ! ピッ。ピッ――――――。
 心電図が直線になった。真っ直ぐどこへ続くか分からないというほど長く真っ直ぐに。緑色の線が音を立てて。
「駄目だ……」
 医者は、心電図の様子を見て、直ぐに変じいの瞳孔を確かめた後死亡を確認したのか、人工呼吸器を外し、時計を見た。
「午前六時〇〇分、御臨終です」
 それを聞いて、友紀は太平を抑えるのを止めた。
 太平は友紀から放されて、直ぐに変じいのもとに駆け寄ろうとしたが、ショックで力が抜けていた。その場に崩れ、大声で泣き始めた。
 友紀も泣いた。葬式にお金を掛けなきゃいけないことを胸に秘めて。
「失礼します」
 医者は、二人と既に息を引き取った変じいに声を掛け、看護士と共に二人の泣き声が響く病室を出た。
「じじい!」
 病室を出て、ドアを閉めたところで一人の男の声が聞こえた。
 見ると、どこにでも居るような奴だった。
 何て幸せな奴だ。大声を出して、起こられてやがる。しかも少し笑っているではないか。今ここでは、一人の愛された爺さんが死んでいったって言うのに。
 男は直ぐに、怒鳴りつけた看護士と歩いてこちらに向かってくる。
「誰だ?」
 こっちに気づかないのか? 看護士も気にせずにこちらに来る。今一人亡くなったのだぞ。
 男と看護士はやっと気付いたのか、足を止めた。が止まったのは看護士だけで、男はまだやってくる。
 そして、遂に男が医者の目の前まで来た。
「どうかしましたか? あの……爺ちゃんは……」
 何なんだ? いきなり話し掛けるとは。
「失礼ですが、親族の方ですか?」
「はい……」
 親族。そうか此奴が、ずっと爺さんが言っていた大史って奴か。今頃ノコノコ来るとは暇な奴だ。最低だ。
「どうかしたんですか!」
 仕方がない。
「お爺さんは……」
 答えようとしたとき、病室の中から泣き声が先程よりも大きく聞こえてきた。
「なんだ!?」
「……お爺さんは……」
 医者が、話そうとする前に男が勝手に病室のドアを開けた。
「え……」
 ――――――――――!!
「大史!!」
 ドアの所に立ち尽くしている男を見て、パニックで混乱で泣きまくっていた太平が大きな声で名前を言った。






   十三

 
「何で、もっと早く来なかった……」
 太平は、変じいの傍らで小さく呟いた。依然涙は流れているが、喋れないほどではないようだ。
「迷ったんだ……、普通に階段を上ってきたはずなのに」
 大史の言葉に、変じいがしていたように太平突然目を見開いた。涙はまだ流れてはいるが。
「そうだ、爺は? どうなんだよ」
 大史の言葉に、目を見開いていた太平がガクンと首を下げた。
「まさか……。死……のか?」
 大史は、感づき腰が抜けたようだ。地べたに崩れ落ちた。
「――ずっと、そうずっと……お前のことを呼んでいた」
 大史は、もう耳に何も入らなくなっていた。
 変じいが死んだ。あの不死身だと思っていた変態トラブル爺が。最後の最後までトラブルを起こしておいて、すんなりと死にやがって。
 大史は、変じいをいつの間にか心の中で恨んでいた。何に対する物かと言われても何に対する恨みなのか。分からない――。

 病室には、友紀と、太平、大史、そして変じいがいる。
 太平と大史は、二人で地べたに座っている。何もすることなく、大史は呆然と口を開けている。太平は、頭を下げたまま動かない。そして友紀は、財布を調べている。
「ちょっと。あんた!」
 友紀が太平に声を掛けた。
 だが、太平の耳にも、大史の耳にも友紀の声は届いていない。
「太平!」
 更にもう一度、大きな声で呼びかけた。
 しかし、未だに太平はその声に答えようとしない。
「金がないのよ!」
 その発言にやっと友紀の方を向いた。その太平の顔は、この世の終わりのように顔色が悪くなっていた。
「まったく、男なのにだらしないわね。あのね、葬式の費用はいくらくら――」
 場違いな質問に、堪忍袋の緒が切れた。
 太平が、友紀の頬を強く叩いた。
「――痛っ! なにすんのよ! えっ――――」
 え――――。
 頬を叩かれて逆上した友紀が、振り向きそこに立っている人物に愕然とした。まさか自分に手を挙げるとは。昔から優しく、自分にも逆らったことがなかったこの子が……。
 友紀を叩いたのは、夫太平ではなく、なんと息子大史であった。
 いくらなんでも、その言葉はないであろうと太平も友紀に怒鳴り声をあげようとしたが、声を出す力もなくなっていた。
「何で……」
 友紀の投げかけに対して、大史は即答した。
「何で? 葬式だと? 貴様よくもそんなことを」
 大史は、変じいの死んだ事での喪失感や、この発言による怒りで興奮していた。
「爺が死んで……。貴様のせいで俺は、俺は……死に目にも――」
 自分が、もう何を言っているか分からないで居た。
 まさか死人が居る病室で口論が起きるとは。日本中さがしてもそれほど多くはないだろう。ん、否意外に多いかも知れない。
「何よ、あんたのせいでしょっ。私のせいにしないでくださらない!?」
 友紀は冷静だった。冷静に息子を嘲笑った。そして立ち上がった。
「何だと!? 畜生!」
 次の瞬間、自分でも二回目は許されることでないと分かってはいたが、衝動で手が出てしまった。
 友紀の頬には、先程のより更に赤い手形が付いていた。 
「なっ、何すんのよ! 卑怯者!」
 もう親子ではない。そう言わんばかりの目で、友紀は大史を睨み付けた。
 しかし、その目には涙も浮かんでいた。
 大史は卑怯者呼ばわれしたことに、更に怒りを増してしまった。
「卑怯者だ!? 貴様だって――」
 大史が何かを言おうとした瞬間に、それは遮られた。
 自分の顔面に何かがめり込んだ。
 遂に太平が動いたのだ。もう我慢出来なくなったのだ。

 音が一瞬、いや止まっている。病室の音と言う音が全て無くなったかのようだ。
 一体何が起こったんだ? さっき俺が母さんに暴言を吐いて、それに怒った親父が飛びついてきたまでは覚えているのだが――。撲たれると思い、目をつぶったのだが、それから撲たれることもなく音が止まったようだ。止まったと言うより無くなったと言った方が当たりかも知れない。自分の心臓の音がとても大きく聞こえる。一体何が起こった?

「何をやっとるんじゃ!」
 ん! 音が戻った。それに聞いた事がある声だ。親父じゃない、母さんでもない。看護士や医者の声でもない。渋い。爺? でも誰だ?
「全く、わしが死んだくらいで、すぐに喧嘩をしおって。みっともない」
 わし? 死んだ? 誰だ? 
 母さんは? 親父は? 
「友紀さんよぉ。わしのことが嫌いでも構わん。しかしなあ、ここは病院だし、病室じゃ、少しの礼儀はわきまえてもらいたいものじゃ。葬式のことを早々に考えてくれるのは嬉しいのだが……な」
 声の主は、友紀を優しく子供に教えるように注意した。
 目を開けても構わないだろうか。このまま開けない方が良いだろうか。
「太平よ。わしのことを心配してくれたことは有り難いと思う。それに、息子の母親に対する態度に怒り、母親を助けようとしたことも良い。しかし、やっぱり手を挙げるのはいかんな。父親だし、母親に対する態度は受け入れられるものではない。しかし、それだけで、手を挙げることはやめなさい。大変見苦しい物だ」
 更に声の主は、父さんまでも少し厳しいが、教えるように注意した。
 やっぱり俺は、親父に殴られたようだな。今の話だとそのようだ。
 ここまでくると、もう大体そこにいるのは誰だか、予想はつくが、それでは、普通では考えられないことが起きてしまうことになる。
「もう目を開けよ。――――大史」
 俺は、何の抵抗もなく、すんなり返事をした。そして、気付いた時にはもう目を開けていた。
 眩しい。目を開けたは良いが、これでは、前が見えない。
「テレビの見過ぎじゃ。確かにわしは生き返ったぞ、大史、お前に最後に伝えることがあった事を思い出してな」
 何も言ってないのに何だよ。確かにって……誰もそんなの聞いてないぞ。
 確かにテレビの見過ぎかも知れないな。だから、目を開けても眩しすぎると思っているのかも知れない。
 ほら、こういう場合、ドラマとかアニメとかだと、奇跡的な出会いみたいな感じで、何もない場所に死んだ筈の人が出てきて、最後に伝えたかったことを伝える、みたいな。
 何回か瞬きをして、大きく目を見開いてみた。すると、眩しいくはなくなった。そしてそこがどこだかはっきりした。唯の病室。
「な、だから言ったじゃろ」
 ピントが少しずつ合っていく。
 ベットに誰かが座っている。
 誰だ? ピントが合ってくる。
「まだ分からんか?」
 合った。ピントがあった。
「じじい? 変じいか?」
 いつ着たのか分からないが、ベットには白装束の爺が。さっきまでは、最後に洗ったのはいつだったのか分からない程に汚れが目立つ着物を着ていた。病院側が脱がせようとしても、頑として脱ごうとしなかったのに。
「変ずう?」
 いけねっ。これは本人には、知れていないネーミングだった。住宅街のガキ共が付けた。
 変じいは、俺が変じいの存在にやっと気付いたことに喜んだ。
 何だよ、せっかく会えたのにそのどうでも良い返事は。
 何か言いたそうな事は確かなのだが、口を開く気配がない。それどころか、今までベットに正座していた変じいが、寝ようとしている。
「おい、先生を呼んでくるからな。寝るなよ。――親父……?」
 俺は、再び寝ようとしており確かに生き返った変じいを見て、医者を呼ぼうと思い、親父を呼ぶために振り返った。しかし、そこには親父の姿も、母さんの姿もなくなっていた。それだけじゃない。何故かは分からないが、病室のドアが無くなっている。これでは、呼びに行くも何も外へにも出られないではないか。
「おい! じじい――」

 ――おい。ガキや。耳を貸せいや。
「ん? ガキって……。じじいか?」
 ――そうじゃ。すまん。大史よ、お前に伝えたいことがあって、な。わしは今また霊になった。
「死んだのか?」
 ――まあぁな。さて、もう遊びは終わりじゃ。こっちにいられる時間が、三十分しか無くなってしまった。
「三十分。十分だろ。それより、どこに居るんだ、今」
 ――洒落か? まあ良い。言ったろ、わしは死んだと。わしは、今お前の頭の中で、心の中で話しておる。格好いいのぉ、わし。
「格好悪い。気持ち悪い。――目の前がベットと、光だけというのはそのためか」
 ――大史。
 俺は、今はっきりと頭の中とかではなく、はっきりと耳を通して聞こえた声に、大きく返事をした。それと同時に、ベットに変じいが座っていることに気付いた。
「大史。これから言うことを忘れるでないぞ」
 俺は、何を言う出すんだよっと言いたかったが、口が開かないで居た。手足も動かない。まるで、金縛りにあって居るようだ。金縛りとはいえど、恐怖はない。
「大史。わしとの出会いを覚えておるか? あれはお前が、あそこの家に始めて来た時だった。まあ、お前は覚えてないだろうがな。と言うか、わしがお前の顔を見ただけで、実際に話はしなかったな。その時は何もしなかったが、お前の乗っていた車が、わしが昔乗っていた車だと分かった。そう、御車様じゃ。それから、お前と交流をしたくてな、色々と試したが、駄目じゃった。しかし、ある時お前さんが近くの空き地に、御車様との素敵なドリャイブから帰ってきた。それからじゃな、お前との交流が始まったのは」
 そうだったけ? 俺としては、前々から交流があったと思うのだが。それに、あれってやっぱり夢ではなかったんだ。いや、吐き気が……。
 これから何を言い出すんだ?
「お前にとって、あそこで出会った人々は多かったはずじゃ。例えば、……分からん」
 オバンだ。久しぶりかな? いや、ここに来る前までは、オバンと格闘してたんだ。それより、……そうだ。変態警察官。出会いかぁ。
「大史。喋りすぎた。もう行かなくては。聞けよ。――――出会いは大切じゃ。出会いで、人生が変わると言っては言い過ぎかもしれん。しかし、わしは、少なくともわしは人生が変わった一人じゃ。お前に会えて良かった。色々と死ぬ前に体験できたしな。それに、お前のお陰で、息子とも再会できた。お前に出会えたからじゃ。ありがとう。大史。出会いは大切にな。決して無駄にするでないぞ。これからの人生頑張れよ! あと、もう一つ。死ぬときくらい静かに死なせておくれよ。お母さんを、女性を撲つのはやめなさい。男としてみっともない。じゃあな――――」

 


 目を開けると、目の前に蛍光灯が二つ見えた。自分は寝ていたようだ。ここはどこだ? 変じいは?
「大史!」
 誰だ? 
 声がした直ぐ後に、目も前に親父が顔を出した。
「父さん!? どうしたんだよ、そんなに慌てて」
「すまなかったな。俺が怒りにまかせて殴ったばかりに、お前がベット付近で倒れてしまったんだ」
 俺の方こそ、と言いたかったが口に出来なかった。
「……変じ、いや、じじいは?」
「じじい? あぁ親父のことか。今少しの間、霊安室に」
 そうか。霊安室に。
「じじいの言葉、効いたな」
 親父は、怪訝な顔になった。
「大史、もう少し寝てろ。倒れた衝撃で、頭を強く打ったらしい」
 親父は気付いてない。というか、どういうことだ?
 変じいは、俺と話をする前に確かに親父達とも話をしたはず。それなのに、覚えてない?


「お爺さんは、頑張りました。ちゃんと送ってあげて下さい」
 変じいの遺体を、専用の車に乗せ、最後に付き添った医者が俺達に言った。
「分かっています。父はちゃんと―――」
 言いかけて、また親父の目には涙が浮かんでいた。近くでは、母さんがまだ怒っているのかそっぽを向いている。
「あの……」
 とあまり聞きたくはないが、聞いてしまったこの聞き覚えのある声。
 最後まで付き添った医者の隣に、一回り小さく見える医者がもう一人居た。
 親父がその存在に気が付いた。軽く会釈した。
「あの時は申し訳御座いませんでした。まさか、お亡くなりになられるとは。本当に申し訳ありません!」
 医者は、土下座した。
「いやいや、私こそ気が立っていまして、もう……もういいんです。頭を上げて下さい」
 親父の医者をなだめる言葉の後に、医者はもう一度謝罪の言葉を言ってから直ぐに病院の方へ戻ってしまった。
 不思議だ。自分の、親父が死んだのに。それも、病院側の処置のお陰で死んだのに、こんなに落ち着いて入られるなんて。親父って。
「ありがとう御座いました」
 親父と俺、は頭を下げた。母さんも一応頭を下げたが、何かぶつぶつ言っていた。そして、俺達は御車様の所に向かった。
「あっ、そうだった。ちょっと待って下さい!」
 向きを変えて歩き出そうとしたとき、医者とは違う女性の声がした。
 もう一度振り返ると、あの時の若い方の看護士だった。
「何ですか?」
 俺は、親父に母さんと先に御車様の所に行くよう言って、看護士の対応に答えることにした。
 看護士は、これっと俺に差し出してきた。
「これは? 見ての所チラシに見えますが」
 看護士は、俺の質問に対して、再びそれを取り、ひっくり返し指さした。
 裏には文字が羅列していた。何かの文章のようだ。
「誰からですか?」
「鈍いですねー。お爺さんからの手紙です。わしが死んだら一番若い奴に渡してくれって、私のお尻を触りながら言われまして」
 最後まで、変態爺だったようだ。
 俺は、看護士に感謝の言葉を述べて、一礼して御車様の所に急いだ。






   エピローグ
   

「め、名称? 何だ、これ……」
 店員から書類を渡され、次々と必要な事項に書き込んでいくと、『名称』の欄があった。
 車の名前だ。
 御車様の名前って……。知らねえや。
「あの……」
 目の前にいるこの店の店員に、質問を投げ掛ける前にあっちの方から声を掛けられてしまった。
 俺は、仕方なく「はい?」っと返事をした。
「あの、本当によろしいんですか?」
「何が、ですか?」
 店員は、はいっと返事をして続けた。
「話を聞くと、こちらは大変大事な物のようで……」
 俺は頷いた。先程まで、俺はこの店員に、今までの経緯(いきさつ)を何故が丁寧に話していたのだ。話が終わってから、此奴の顔を見たら、口をポカンと開けて、何も聞いていなかったなっと思ったが、この質問を受けて、どうやらちゃんと聞いてたらしい。
 更に店員が続ける。
「その……お爺さんの形見のようで。そんな代物を、ここで手放してしまってよろしいのですか? 思い出が失われてしまいますが。一度契約されたら、解約はこちらでは受け付けてませんので……。正直、私らとしては貴方はお客様なので、こう言うことにはあまり深いところまでは、お関わりはしないことになっているのですが、こればかりは……」
 店員は、表情を変えずに淡々と、しかし俺に何か訴えている様にも見える。
「――そのように、あなたが車との素敵な思い出を語られましたから、ホントに宜しいのですか?」
 素敵? 誰も素敵とは言っていないぞ。それどころか、俺は御車様のお陰で、吐いたり、変な奴に襲われたり、恐怖体験をしたりで大変だったんだ。散々だった。でも――。
「本当に、素敵だと思ってます?」
 俺はふと店員に尋ねてみた。はっきり言って、素敵な思い出など無いに等しい。
 その質問に対して、店員はふっと鼻で軽く笑い、
「いえ、全く。あっ……」
 と、自然にぼろが出てしまったようだ。すぐに下を向いてしまった。
「良いんですよ。顔を上げて下さい。――素敵な思い出なんか無くても。それよりも、変ですがいろんな体験をさせてもらいましたよ――この車には」
 店員は、そうですかっと笑っていた。その笑顔に、俺も笑ってみた。
「何か?」
 え。いや、あんたが笑ってたから――。
 一応謝っておくか。
「何故、こうしようと御決断頂けたのでしょうか?」
 俺が、一応謝ろうとしようとしたとき、唐突にだが、綺麗に質問をしてきた。
 まあ、聞かれないって事はないとは考えていたが。まあいい。
「――実は、祖父の遺言に書かれてあったからです。『あの車を、最後の願いとして、売ってくれ』っと書いてたものですから」
 少し、丁寧に言い過ぎたかもしれない。実際に、書かれていたのは、もうちょっと凄い。どう凄いかというと……。あのいつどこのチラシか分からない物の裏に、少々乱雑に書かれた文章。遺言だった。


『爺だ。お前に頼みたいことがあるのじゃ。遺言ってもんじゃな。
 聞けよ。簡単に言って、御車様のことじゃ。分かっておる、おみゃあの車だと言うことは。しかし、元はわしの車じゃからな。それは分かっておると思うが。
 わしも死んだ事だし、もう御車様何て言う必要はなくなったわけだが、御車様はやはり御車様だ。何だかわしにもよく分からんが。本題じゃ、あの車を残しておいても良いが、わしとしては、あれを売ってほしいんじゃ。頼む。
 理由は聞かんでくれ。と言うより、わしが死んでからこれを受け取るわけだから、理由が聞きたくても聞けないって事か。ははは、ざまあみろっ。
 ああそうそう。あともう一つ、わしの住んでいたとこに、婆さんが居たろう。そうじゃあの臭う奴じゃ。あの婆さんには気を付けろな。あの婆、もうわしの部屋にはおらん。多分じゃが、おみゃあの部屋におると思う。それも押入に。あれは、わしの妻でも知り合いでもない。突然わしの家に、いたんじゃ。そしていつの間にかに居候。風呂にも一週間は入らんから、臭いがひどくてなあ。と言うわけだから気を付けろな。んじゃ、そう言う訳じゃ。頼むじょ。
 最後に、    大史、   て   た  。これ   、幸   』


 ひどい文だ。今まさに目の前で言われているように感じる文章だ。
 ただ最後の部分だけ、何故か所々、文字が消えていた。水とかに濡れて消えたとかではなく、これは確かに、(ボールペンで書いてあるので)修正液で消した、または最初っから書いてないのではないかと言うほどに、この部分だけ綺麗だ。
 ――車を売れと。だから今、ここにいる。カーショップ。売ると言っても俺は金をもらわずに引き取ってもらおうと思っている。俺と変じいの思い出は、金では言い表せないほどの物だからな。

  *  *  *  *  *  

 俺は、変じいの遺言書を読んだ後、直ぐに自分の部屋の押入を調べた。すると、この手紙に書かれていた通り、本当に押入の中にあの婆――汚ばばあ――がうずくまって入っていたのだ。いつ侵入したのか聞いても、うんともすんとも言わない。
「う……臭っ」
 押入を開けて直ぐ、異様な臭いが顔に掛かってきた。俺は、咄嗟に腕で顔を覆っていた。
 今まであまり近くでは見たこともなかったから分からなかったが、よく見ると頭からシラミが出ているではないか。さらに顔や、見え隠れしている体の一部はどす黒くなっていた。恐らく垢だろう。一週間どころか、一度も入っていないんじゃないか? そう思わせるほどだ。
「へへへ」
 そんな俺を見てか、目の前にいる汚ばばあが変じいを思わせる様に、不気味に笑った。
 何でここにいるんだ。鍵はちゃんと掛けていったはずなのに。窓も開いているはずがない。不法侵入じゃないか。しかも、これで二回目。やっぱり警察を呼ぶしかないか? でも、警察を呼んだところで何て言うんだ? 「俺の家に勝手に入り込んだ婆です」なんて言っても信じてもらえないだろう。俺の家にいるのだから、良くて空き巣、悪くて親戚と解釈されなくもない。
 それに、警察もこんな臭い婆なんて連れていきたくないだろうし。
 もし、此奴が不法侵入で罪を問われるとしたら、『住居侵入罪』にあたるか。確かそれは、三年以内の懲役、または十万円以下の罰金。こんなに臭いって事は、体を洗う事もできないほどで、金すら持っていないだろうから、後者は無理だ。でも待てよ、何で風呂に入っていないと言い切れる。元から臭いのかも知れないぞ。まあどうでも良い。――と言うことは三年以内の懲役。駄目だ、警察は絶対に取り合ってくれないな。こんな奴を留置所になんかに置いておいたら、署内は臭くて臭くて仕事どころじゃなくなるからな。
 でも待てよ此奴、なんか正当な理由があって入り込んだのかも。いや、どんな理由だよ。風呂に入りたいとか……そんなことは……。変じいが死んだことを知っておいて何だってここに来る理由がある。でもなあ、もし理由があったら、侵入罪は適応されないかも知れない。そんなことになったら、ここに一緒に住むことになってしまう。そんなのは、絶対にごめんだ。そんなことになったら、変じい、汚ばばあと並んで、変態平、何て呼ばれるかもしれない。それに――――。
「何さっきから一人でぶつぶつ言っておるのじゃい。――それに、正当な理由なんか無い。くそ爺さんから、あんたの合い鍵を貰っておったから入ったまでじゃい。わしが一日帰ってこなかったら、これで隣の若い者の部屋に入っておけって言われたのじゃい」
 突然、考え事をしていた俺の頭の中に、掠れて低音な声が入り込んできた。これは明らかに不法侵入だ。
「くそ爺さんは、どうしたんじゃい?」
 ふんっ、答えるか。でも、何でさっき俺の考えてることを?
「さっきも言ったろ、てめえがぶつぶつ声に言っておったからじゃい」
 俺は、いつの間にか考えていることを声に出してしまっているようだ。少し恥ずかしくなった。
「そこら辺、気を付けなきゃな。それより、くそ爺さんはどうしたんじゃい?」
 体は臭いが、俺のことを心配してくれたようだ。案外良い奴かも知れないな。でも、やっぱり一緒には住めない。それとこれは別だ。
「早く答えろよ! くそ爺さんはどうしたんじゃい?」
 何だよ、今良い奴だと思ったのに。それに、
「事情は知ってるんだろ」
「知らんから聞いておるんじゃい。早く答えんか!」
 知らないのか。何て答えれば……。って何で躊躇してんだ? 俺は、何此奴に気を遣ってンだよ。それでも、変じいの知り合いって事は確かだからな。でも、はっきり言わないとまた何を言われるか分からないから、言ってしまおう。
「分かった。変じいのことを教えよう。――残念ながら、永眠しました。……死にました」
 何故か、俺はそう言うと目をしたに移動させてしまった。自分でも分からないが、無意識のうちにやってしまった行動だった。しかも、敬語になっていた。
「死んだか……。まあ、そろそろ寿命だったもんな。そうか。俺は、それが聞きたかったのじゃい」
 え……何だか意外にあっさりしてるな。悲しんだりはしないようだ。
 そう言うと、最後に「ではな、またどこかで会えたら良いな、御主人」と言って、声が聞こえなくなった。 
 俺は、その言葉に不思議に思い、顔を上げた。御主人とは何のことなのか。そのことが気になったが、すでにそこには、いつどこからどうやって出ていったのか分からないが、汚ばばあの姿はなくなっていた。一体何がしたくてここに来たのか、それも分からないまま。
 変じいと言い、汚ばばあと言い、不思議な体験をさせてくれる奴らだった。
 

  *  *  *  *  *  

「何か、不思議な感じで、良いお爺さんだったのですね」
 俺が、また思い出に浸っていると、店員が割って入ってきてそんなことを言った。
 ‘不思議な感じで良いお爺さん’。んー、俺には理解できない言葉だ。‘不思議な感じ’は、当たっているが、‘良いお爺さん’て言うのは、こんな短い会話で何でそう言いきれるのか。 
「はー……。ところで、名称と言うところですが」
「いつお引き渡しで? お家(いえ)まで行かせましょうか? 何か、貴方様だけ、特に親切にしたいのです」
 俺が、質問したかったことを遂に切り出せたかと思うと、聞いていなかったのか、更に複数の質問を一度に投げ掛けてきた。
 全く話を聞かない店員だ。言葉はそんなに悪くないのに、聞く耳持たずってとこか。まっいいか。名称は分からないんだから。
「いや、今日。と言うか今すぐに御願いします」
 その複数の質問を、俺は一度に簡単に返した。
 すると、店員はその言葉に目を一気に見開いて、口を開けて。
「そ、そんな! も、もう少し思い出を大切になされた方が……」
 はあ!? 何で此奴に、こんな事を言われなきゃいけないんだよ。思い出は、大切にしているつもりだよ。それに、どう決断しようが、それは当事者自身の問題だろ。
「――良いんですよ。今日で、その方が私としても、祖父としても良いと思いますし」
 俺は、感情を心の中にぐっと抑えて、出来るだけ笑って丁寧に答えた。
「……苦渋の決断と言ったところでしょうか」
 苦渋の決断? 使うところを間違っているような。
 店員は、深刻そうな顔をしている。隠そうと必死になっているようだが、もろ顔に出ている。
 普通は、ここで感情を抑えなきゃいけないのは、店員の方だろ。何で、立場が逆になってるんだよ。
「っと思いましたが、良い方ですね。泣けてきますよ」
 何だよ、この店員は。今までの顔は、芝居だったって事か。かなり、鍛えられているな。――役者になれるんじゃないか? トントンとキャラを変えられるなんて。変な奴。
 俺は、このへんてこな店員とこれ以上会話はしたくはなかったので、早々に書類を提出した。すると、その書類を貰った店員は、それを手に、「少々お待ちを」と言って、奥の部屋の行ってしまった。
「はあー。何か疲れる店だなあ。――御車様、今日でお別れだ」
 俺は、ネクタイをしているわけでもないのに、ネクタイを緩める様な仕草をしながら、御車様の方を向いて、語りかけた。御車様は、外におり、ただ普通にそこに止まっているようだが、俺には笑っているようにも見えた。
「別れるのは寂しいが、今度は俺達のような騒がしい主人ではなくて、もっと清楚で、すばらしい主人に出会えよ」
 御車様のためにも、俺や変じいの様な変な人物ではなく、もっと清楚で楽しく車を大事にしてくれる主人に買われて欲しいと強く思った。
 ――プッププー! プッププー!
「うん。頑張れよ。この先……」
 御車様の返事が聞こえた。店員が帰ってきたら、早足に帰ろう。目が潤んできた。こんな所では泣けない、と言うか泣きたくはない。ここで泣いてしまったら、変人扱いされるに違いない。
「お待たせしました。今さっき、確認のためお宅の車さんのクラクションを二度程リズムを付けて鳴らさせていただきました。と、では鍵の方を頂戴してよろしいですか?」
 え……。クラクションを鳴らした……? 感動をしたのに。この店員のお陰で、台無しだ。何て事を。
「鍵? ああこれね、ほらよ」
 俺は、店員に対してイライラしてきていた。だからか、鍵を店員に投げつけてしまった。
「はい。それでは、失礼ながら金額の方ですが……、メーカーの方が良いので、後ほど査定させていただいてお知らせしますので」
 俺の態度に、何の反応も示さなかった。
「いや、さっきも言ったはずだけど、お金は良いから。これは、俺の判断だけど、お金なんていらない」
 やっぱり聞いていなかったのか……。呆れる。こんな店員、もう一度教育し直さなきゃ、ここは直ぐに潰れるぞ。
「そんなことは。タダで引き取るわけには、こちらとしてもそんな失礼なこと、創業二十年以来、私がこの店に来て八年一度もそんなことはした、例がありませんので」
 店員は、驚きを隠せないようで、何度も手を横に振っている。
 俺の、頭の中で言った事を聞いていたような感じだ。そして、驚きなのはこの店員、八年もこの店に? 良くもってるなあ。
「いえ、お金を払う方が、私たちにとっては失礼な行為です。ですので、査定もお金も必要有りません」
 言った。よく言ったぞ、自分。
「分かりました。では、そうさせていただきます。しかし、色々と整備も必要なので査定の方はこちらでさせていただきます。では、コーヒーでもいかがです?」
 何か、俺にしたいんだな。そうか、さっき俺だけ例外に親切にしたい何て言ってたっけ。でも、御車様と別れたくないからか、目は潤みぱなっしだ。
「否、結構。俺は、もう失礼させていただきます」
 ここにいたら、いくら変じいの遺言だとしても、気分が変わって御車様を売らないことに成りかねない。正直に言ったら、別れたくないもんな。それに、鼻水も出てきた。俺は、もう御車様とはさよならもしたのだ。もうここにも用はない。
「そうでございますか」
 店員は、そう言うと、俺を外まで見送るために、「どうぞ」っと言って歩き出した。
 俺は、その店員の後を追う。
「おい、待て。店員!」
 俺が店員の後に付けて歩き出そうとしたとき、後ろから乱暴な声がした。しかし、俺は客だ。店員でもない。気にしないで、外に行こう。
「おいおいおいおい。ちょっと待てって」
 だが、俺が歩き出すと再び慌てた感じの声が、飛んできた。
「ちょっと、店員さん?」
 俺は、客だ。だから、後ろにいる男――恐らく客――の対応は出来ない。なので、前を急ぐ店員に、客が居ると声を掛けた。
 だが、いくら声を掛けても見向きもしない。
「俺はあんたに、聞いてんだよ。そこの店員」
 後ろにいる男は、明らかに俺のことを店員と勘違いしているようだ。仕方がないか……。前にいる店員が気付かないのだ。俺が、店員の代わりをしてやるか。そう思い、俺は後ろを振り返り、男に対して返事をした。
「はい? 何でしょうか?」
 後ろを振り返って、男の顔を見ると何故か怪訝な顔をしていた。
 え? 何、何だよ。返事しただろう。何か変か?
「いや、俺は……っていうか、あんた何?」
 男が、俺に対して掛けた言葉をそれだった。
「……そこの店員、っていうから返事をしたのですが。貴方、私のことを呼んだのですよね。私を店員と勘違いして」
 俺は、口を開けて困っている男に、何故返事をしたのか、その理由を言った。
「勘違いしているのは、あんたの方だよ。俺は、あんたに声を掛けたのではなく、そこにいる金髪の兄ちゃんに声を掛けたんだ」
 男は淡々と、その金髪の人間がいる方を指で示して言った。
 俺は、男が示した方を見た。するとそこには、確かに金髪で、耳にはピアスを付け、煙草を吸いながら色々と書類をいじっている若い男がいた。
 店員にしたら、随分と格好がなっていない。先ず、仕事をする上でピアスはまずいだろう。それに、あの頭。しかし、書類をいじっているところや、服装が先程の店員と同じであることから、何とか店員であるのだなっと分かる。
「ん? あっ……。申し訳御座いません! 気付きませんでした。何かご用で?」
 その店員は、俺達の視線に気付いたのだろう。書類に目を通していたが、顔を上げ、吸っていた煙草を消して、深くそして勢いを付けて頭を下げた。そして、俺達の方を向いて言った。
「お前が本当の店員だろう?」
 俺の隣にいた男が一歩前に乗り出して質問した。
 その店員は、「はい」とか「そうですが」などと声を出さずに頷くだけだった。明らかに先程に店員の態度が違う。新人か、教育をあまりちゃんと受けていないアルバイトか……。しかし、それでも満足だったのか男は、納得した様子で続けて言った。
「最近人気の車で、格好良くて、安くて、走りやすい車無い?」
 なんて我が儘な。そんな車有る訳無いだろう。第一、最近人気の車で、安いなんてそんな都合のいい話がある訳無い。
「少々お待ちを」
 そう言い、その店員は再び書類に目を通した。
 そんな都合のいい話が――有るとは到底思えない。
「あった。――御座いますよ」
 店員は、書類から何かを見つけて声を上げた。そして、俺達の方を見て返事をした。
 俺は、その店員の一言で、このカーショップの事を心の中で褒めていた。この店は凄い。
「それは、どんな車かな?」
 男は、間もなく店員に質問した。
 確かに、気になる。どんな車なんだ? 一体どこの何奴が、そんな車を売ったのかも気になるがそれまでは分からないだろうな。残念だが……。
「はい。えー、外に御座いますので、こちらへどうぞ」
 店員はそう言うと、男を外へ促した。勿論俺もその後を追う。というか、俺は元々外へ出ようとしていたのだ。その時、ちょっとした勘違いでこう言うことになったのだ。

 外へ出ると、そこには御車様、そして先程の店員が待ちかまえていた。
「どうかなさいましたか? なかなかお出でにならないものですから」
 先程俺の相手をした店員が、出てきた瞬間声を掛けてきた。
 気になったら、中まで探しにこいよ。
「いやー、申し訳ない。ちょっとした勘違いで……」
 俺は、頭を掻きながらそう応えた。その言葉に店員は、それ以上発言せず、そこに立ったままだった。
「でさあ、その車ってどこよ」
 おっと、忘れていた。隣にいる男が、いつまでも出てこない車にイライラした様子であの若い店員に言った。
「お客様。どうかなされました?」
 俺のそばにいた店員が、俺に「しばしお待ちを」と言い、隣にいる男に声を掛けた。
「どうもこうもねえよ。あそこにいる金髪野郎が俺の希望している車を見せてやるって言ったのに、なかなかそれを見せようとしねえんだよ。それどころか、そこにずっと突っ立っているだけじゃねえか」
 男は、腕組みをしながら店員にクレームを言った。
 それを聞いた店員は、「お客様? それはどのような物で?」と聞いた。すると、男は先程俺達の前で言ったことを、丁寧にその店員に教えている。
「分かりました。それは、こちらで御座います」
 店員は、男の言葉を聞き終えると、直ぐに前に手を広げてそれを紹介した。
 って、それって、御車様のことか? と言うことは、残念ながら売ったのは俺って事か。
「何!? この車が? これが、俺が希望した」
「人気で、格好よく、安く、乗りやすい車です」
 店員は、男の言葉を素早く繋いだ。
 いやいや、格好良くはないし、乗り易くもないぞ。値段や人気の方は分からないが。どうするか、これは男に本当のことを言うべきか? いや、言わない方が身のためかもな。
「へえー。まあ、そう言われてみると、そうかもな。これ、名前は?」
 男は、暗示に掛かってしまったようだ。御車様が良い車だって? 元持ち主とはいえ、冗談もいいとこだ。面白い体験はさせてくれるが……。
「名前ですか? それは……」
「ベルデセスメンツです」
 メンツ!? それは初耳だ。そんなに良い車だったのか……。全然気付かなかった。タダで売るなんて言わなければ良かった……。
 店員が、言葉に詰まると、空かさず御車様の後方にいた金髪が言葉を繋いだ。巧いコンビネーションだ。この二人、慣れているな。
「いや、社名じゃなくてね。俺が聞いているのは、この車の正式名称」
 せっかく、巧いコンビネーションだったのに、それも虚しく男は、車の正式名称を聞いてきた。
「少々お待ちを」
 店員は、そこで男にそう言い、一礼して、更に金髪を手招きしてこちらに呼び、俺の方を振り返った。
「お客様、あの車は、元は貴方様のです。ですから、お名前を聞かせていただけませんか?」
 金髪もこちら側に着いた。そして、今俺に話し掛けた店員から事情を聞いているようだ。
 店員は、男の方を向き、俺が目の前にある車の元の持ち主だと言うことを説明していた。そして、男は「そうか」っとあっけなく応えて、俺の方に来ずに御車様の方に行った。詳しく見たいのだろう。
「で、お名前は?」
「た、大史ですけど」
 店員に顔を近づけられて、少し緊張した。だからか、俺は何故か自分の名前を言ってしまった。
 案の定、店員もその言葉に口をポカンと開けている。金髪の方は、そんなに面白かったのかっと思うほどに、腹を抱えて笑っている。それを見て、店員の方も微かに微笑んだ。
「いや、すいません。実は――俺にも、分からないのですよ」
 それを聞いて、二人の店員は顔を見合わせ何かを言っている。先程まで笑っていたとは思えない。

  *  *  *  *  *   

 大史の言葉に、唖然とし、副店長と金髪の新人店員は顔を見合わせた。
「名前も知らないなんて、なんて言う客だ」
 副店長は、不満げに言う。
「居るんですよ。そう言う人もたまに。それより、どうします?」
 金髪の新人店員は、副店長をなだめて、これからのことについて持ちかけた。
「どうするもこうもないだろう。ここは、正直に」
「否そうもいきませんよ。ここで、名前は知らないなんて言ったら、買う気が失せて仕舞うかもしれないですよ」
 新人店員は、冷静に落ち着いて続けた。
「もう一度聞いてみましょう。それでも分からなかったら、もう適当に言ってしまいましょう」
「ふむ。そうだな」
 副店長は、何か気に入らないのか新人店員の言葉に不満げに同意した。

  *  *  *  *  *  

「あの、本当にご存知無いのですか? 何度もお聞きますが」
 しつこい奴らだなあ。知らないもんは知らないんだよ。
「申し訳ないが――」
 店員は、「そうで……御座いますか」っと不満げに言って、男の所に行った。
 ――プップー! プップッ!
 とここで、御車様がクラクションをあげた。これには、初めての経験である男を始めとする店員二人もまた驚いていた。
「な、何なんだ? 一体。これは、故障?」
「おい、何言ってんだ! そんな縁起でもない」
 金髪が、言った言葉に対して、男の所から走って戻ってきたもう一人の店員が大声でそう怒鳴った。
「そうか!」
 とここで、男が声を張り上げた。
 その声に、店員は見る見るうちに顔色を変えていった。
「ど、どうかなされました?」
 顔色を変えながらも、恐る恐る店員は男に尋ねた。
「いやね。良いことを考えちゃって」
 男はその顔に似合う事もないながら、ウキウキしながら続ける。
「名前は私で付けるよ。申し訳ない。せっかく調べてもらったのに」
 自分で付けるって、どういう意味だ?
 その言葉を聞いて安心したらしい、先程まで顔色が真っ青になっていた、店員の顔色がスウッと戻ってきた。
「それは良いですね。何か良い案でもお浮かびに?」
「うん。この車は、さっきのように勝手にクラクションが鳴った。これはとてもすばらしいことだ。すばらしく変わった車だ。それ故、この車の名前は、‘Eccenttric’風変わりて言う意味を持つのだが、どうだね?」
 男は生き生きと、店員に話し掛けた。元の持ち主俺でなく。
「うん。それは良い名前ですね! 早速それを正式名称に――」
 店員も、男の調子に乗って生き生きとした様子で返事をしている。
「ちょっ、ちょっと待って下さい、風変わりって言うだけじゃ何か可笑しいのではないのでしょうか? しかも、何故いきなり、‘Eccentric’なんですか? 他にもいろいろあるのに」
 金髪が、ここで反論と言うか質問を投げ掛けたことに、もう一人の店員は顔をしかめて、金髪を睨んだ。
「あ!? 客の意見に、ケチを付ける気か? 別に良いだろう。俺が今好きなアーティストの名前だよ。意味もそのままだし、この車には丁度良いと思ってな。文句有るか?」
 男は、声を上げ、眉をつり上げて、金髪に乱暴な言葉を投げつけた。
「失礼いたしました。ですが、風変わりだけでは何か物足りないと思いまして」
 金髪は、顎に手を置いて落ち着いて、推理をしているような感じで続けた。
「せっかく良い名前を、今お付けになったのですから。車だと言うことを知らしめるためにも、それ相応の名前を付けなければと思います。だとしても、普通に‘car’では面白みがないので……」
 何なんだ? 全く話に着いていけない。元は俺の車だってのに。俺には、全く相談しようともしないなんて。しかし、相談されたところで、何も応えられないから別に良いか。
「そんなことを言っては失礼ではないか。お前、お客様にお謝りしなさい」
 もう一人の店員が、金髪にきつく言った。
 だが、男は「面白いじゃないか、聞いてみよう」と言って、金髪に話すように促した。
「ありがとう御座います。そうですねえ。――車には、基本として‘car’があげられますが、‘Eccentric car’では何か腑に落ちない。かといって‘carriage’という、四輪車を表す単語もどうかと思う。これだと長いですからね。さてどうしたらよいか――」
 金髪は、下を向いてしまった。悩んでいるようだ。
「ラテン語なんかはどうです?」
 ここで、大史は一つ提案を出した。
 やっと、話に入っていけた。しかも、なかなかの提案だ。
「それは良い考えだ、私はラテン語は分からないが、大学生のように見える君はラテン語くらいは分かるだろ」
 男が、大史の提案に賛成して、更に金髪に提案した。
「申し訳ありません。私は、こう見えて、こんな頭をしておりますが、ここの正社員で、大学生ではないのです。大卒でも御座いませんので、ラテン語は存じ上げておりません。と言うことで、トラックという意味を表す‘lorry’というのはどうでしょう?」
 金髪は、一度頭を下げ、サラッと話を流して、新たに提案した。
「トラックって言ったら、トラックって言う単語でしょ」
 男ともう一人の店員が声を合わせていった。
「いや、それでは面白みがないじゃあないですか」
「――もう、何でも良いでしょう」
 遂に耐えられなくなったのか、もう一人の店員がここで投げやりの発言をした。
 この発言には俺も賛成だ。俺の元車なのに、全く話に入っていけないなんて悲しい。早く帰ればいいのだろうが、何か気になって帰れないで居るのだ。名前は確かに、この話の流れから言って気になるが、もうこの辺でそろそろ飽きてきた。もうどうでも良いだろう。
「何と失礼なことを! 副店長、これはお客様の提案ですよ。きちんとと考えて下さい」
 あっ、この店員、副店長だったのか。今頃知ったなんて……。
「客? 俺は、新人で出しゃばっているお前に話し掛けて居るんだ。そこで、お客の名を出すなよ! トラックだろうが何だろうが何でも良い! だったら、‘Van’で良いんじゃないか? 昔何かで漫画になってたような――」
 ヤケになった様子で、副店長は適当に何か言った。この言葉に、男は嫌そうな顔をしている。しかし、突然金髪が「それです!」と声を上げた。
「私が出しゃばっていることで、お客様、副店長共にご不快な思いをしているのでしたら、お謝りいたします」
 そこで、先程の態度とは裏腹、金髪は、丁寧に深く頭を下げた。――そして続ける。
「ありがとうございます。これで納得がいきます。――確かに‘Van’だと、トラックという意味があるし、何か面白く感じる」
 ひょんな事で、決定したことに一番驚いているのはこの副店長だろう。
「では、正式名称を言わせて貰って宜しいでしょうか?」
 そう言うと、金髪の店員は男の方を向いた。
「御願いします」
 男が言った。
 その言葉に、金髪は、一回二回と咳払いをした。
「はい、では、正式名称は。‘Eccentric Van’にさせていただきます」
 ――プッーー!!
 名前が決定した途端、御車様がクラクションを長く長く鳴らし続けた。
 やっと、決まったのか。‘Eccentric Van’良い名じゃないか。御車様に新しい名前か。いや、もうこうなれば、御車様じゃないな。
「うむ。私は納得です。副店長さんは?」
「お客様、勝手な行動、誠に申し訳御座いませんでした。私も、異論は御座いません」
 副店長は、深く頭を下げて言った。
「それじゃあ、名前も決定したことだし、誠に勝手ながら、私はここで――」
 そう言って帰ろうとしたのだが、そこには、既に二人の店員そして男の姿はなく、店の中に入っていた。
 いつの間に……。少し目を離しただけなのに……。俺は、どうでもいいのかい。まあいい。‘Eccentric Van’お前は、俺の中ではずっと御車様のまんまだ。
 俺は、目の前にドンと構えている車に向かってそう心の中で言った。これ以上ここにいると、涙が出てきそうだ。
 俺は、振り返り、カーショップと車を背に、御車様との思い出をもう一度振り替えりながら、家路を急いだ――――。


 












 ――――――完





2006/03/15(Wed)21:55:38 公開 / 勿桍筑ィ
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■作者からのメッセージ
ここを、携帯で見たのが十三日の朝八時でした。その時は、まだ何の異常もなく皆さんの作品がきちんと存在しておりました。しかし、午後になって再度ここに来ると、なんと作品が消えておりました。ビックリでした。皆さんの感想も消えてしまったなんて……。残念です。しかし、残念がっても仕方有りません。ネット上では、仕方がないですね。と、今日午後七時くらいに携帯で見たところ、なんと一部復旧しているではありませんか。紅堂様には、感謝いたします。
また、感想も消えているかと思いましたが、何故か感想だけ存在しておりました。なぜ? まあいいのですがね。
さて、今回の更新は以前更新された物を再度更新したに過ぎません。作品自体が消える前に、読んでいた方は何ら変わりはありません。

それでは、余談ばかりでしたが、この辺で――。
お読みいただけたら、感想願います。
では、失礼いたします。

※皆様がおっしゃっている事で、何故父親が出てくるか分からない方へ、その箇所は書いてあったのですが、私の文章力の無さが故上手くそれが伝わらなかったと言うことが判明しました。ゆえに、その部分を五〜七−20050731の七の部分に書きました。ご覧下さい。

※もし、初めて読んでいただいた方がいたならば、一〜四は−20050615で、五〜七は−20050731で、語句検索の所で、‘御車様’と打って頂けると出てきます。
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