オリジナル小説 投稿掲示板『登竜門』へようこそ! ... 創作小説投稿/小説掲示板

 誤動作・不具合に気付いた際には管理板『バグ報告スレッド』へご一報お願い致します。

 システム拡張変更予定(感想書き込みできませんが、作品探したり読むのは早いかと)。
 全作品から原稿枚数順表示や、 評価(ポイント)合計順コメント数順ができます。
 利用者の方々に支えられて開設から10年、これまでで5400件以上の作品。作品の為にもシステムメンテ等して参ります。

 縦書きビューワがNoto Serif JP対応になりました(Androidスマホ対応)。是非「[縦] 」から読んでください。by 運営者:紅堂幹人(@MikitoKudow) Facebook

-20031231 -20040229 -20040430 -20040530 -20040731
-20040930 -20041130 -20050115 -20050315 -20050430
-20050615 -20050731 -20050915 -20051115 -20060120
-20060331 -20060430 -20060630 -20061231 -20070615
-20071031 -20080130 -20080730 -20081130 -20091031
-20100301 -20100831 -20110331 -20120331 -girls_compilation
-completed_01 -completed_02 -completed_03 -completed_04 -incomp_01
-incomp_02 -現行ログ
メニュー
お知らせ・概要など
必読【利用規約】
クッキー環境設定
RSS 1.0 feed
Atom 1.0 feed
リレー小説板β
雑談掲示板
討論・管理掲示板
サポートツール

『黒研究所〜青い空へ〜【完】』 作者:十魏 / 異世界 ファンタジー
全角32331.5文字
容量64663 bytes
原稿用紙約95.15枚

「いくのですか」

 少年の声に、立ち上がろうとしていたその男は笑った。軽く微笑んだ。
「あぁ、もう行くよ」
 男は手に持った布に包まれた獲物を胸に抱きしめた。なんだろう、ひどく満たされた気持ちになる。
「貴方の出番はまだですよ、もう少し休んでいてください」
 少年は、抑揚のない声で告げた。男はあぁとまた笑った。
「時間が決まっているのか、知らなかったよ」
「そんなわけではないですけどね……まぁ色々。暗黙のルールっていいましょうか」
「へぇ」
 男は言いながら、手に持った獲物をまた抱きしめる。少年はその動作を見て言った。
「落ち着きませんか?」
「いいや。何故?」
「気持ちがうずいているように、見えるから」
 無理もありませんけどね。少年はそう付け足した。しかし、男はキョトンと少年を見ている。それから、また軽く微笑んだ。
「いや……逆だな。ひどく、気持ちが落ち着いている。いっそすがすがしいくらいさ」
 男は腕の中の獲物をそっと撫でた。本当だった。気持ちは、静かで。透明色で。自分はこんなに静かに笑うことができたのか、と男は自分自身に感心していた。
「そう……かもしれませんね」
 ほのかに白い息を吐きながら言う少年の声のトーンが少しだけ、下がった、ように男は思った。僅かに覗く金色の髪を覆い隠す深い帽子は少年の顔に影を落とし、目元は大きな色眼鏡で覆われている。表情が全く読み取れないうえ、話し声にはほとんど変化がみられなかった。
 一体、感情というものをこの小さな体のどこに隠しているのだろうと、思うくらいに。男は少年を見た。自分の四分の三ほどの背丈しかない少年。しかし、男の案内人であり、この場所では彼が全てを支配するのだ。
 男の、運命を。

「君は……暇なのか?」
 話が途切れた後も自分の前に無言のまま立つ少年を見て、男は尋ねた。
「そんなわけではありません。しかし、私の今の仕事は貴方の案内ですから。貴方を送り出すまでは、私は貴方の担当として働いています」
 少年がそう答える。男の失礼な質問にも、相変わらず淡々とした声。男は思わず、苦笑をこぼしてしまった。
「そうか、では少し俺の昔話に付き合ってくれるか?」
「時間内なら構いませんよ。どうぞ」
 少年はそう告げた。少し袖の長いジャケットに包まれた腕を組んだまま、男を見据える。男も腰をおろしたまま、目の前の少年を見あげた。ザワリ。風が吹く。
 あぁ、ここは寒いんだ。ふと男は実感した。温度を今の今まで、体感しなかった。寒くても温かくても、関係なかった。しかし今思えば、吐く息が時々白く曇る。ふと、男は少年のことを思った。
 薄手のジャケット一つのこの少年は。寒くないのか、と。
 しかし、この場所はそれも無意味な場所かもしれない。寒さとか暑さを感じる意味のない場所。
 ここは、命を失わせる、出発点。

「……俺は黒い力を持っていたんだ」
 男の言葉に少年は少しだけ顔の角度をあげた。それは、少年の僅かな驚きの現れだったのだろうか。その僅かな変化に男は気付かなかった。
「黒い力は、政府が行ってきた妖魔族への侵略活動や、魔法機械工場からの環境汚染の反動だ。ヒトは踏み込んではいけない領域へ踏み込んだ……その、反動だ」
 男は、そっと自分の獲物を抱きしめる。ヒトの形を持ちながら、妖魔族以上のパワーを持つ、黒の子ども。
「俺の黒い力は、生まれてすぐに一族を破滅させることで消えた。幼子の力の暴走を、誰も止めれなかった」
「……貴方は、失われた黒の子どもだったのですか」
 少年が少しトーンをおとした声で言う。失われた黒の子ども。男のように黒の力を暴走させることで、失うことのできた、子どもたちのこと。通例の黒の子ども同様に政府に保護され、育てられる。
「黒の子どもを軍人として育てるのは、保護法で禁止されているとききましたが」
「へぇよく知っているね。あぁ、だが俺自身が軍人になりたいと言ったんだ。その場合は法でも認められている」
 男はそう言って笑った。座っている足と足の間に獲物の先を付き、もう片側の先を両手で握り締めた。その笑顔はひどく落ち着いていて、そして、幸せそうだった。
 男は、つぶやいた。
「軍人にね、なりたかったんだよ」

 風がビュンと通り抜けた。外からは、風に混じり、機械音が響いてくる。一人の若い、ようやく少年から卒業したような青年が、二人の前を通り過ぎた。傍らには少年と同じ出で立ちをした、背の高い案内人。少年と同じように、表情が全く読み取れないような。
 青年は少年と男を見て、瞬間息を飲んだ。男も青年を見て、ゴーグルに覆われた眼を少し細める。
「どうした?」
 青年の側に立つ、背の高い案内人が青年を見る。青年は、黙って首をふった。案内人は傍らを一瞥して、少年に軽く頭を下げた。そして青年に対し、行くぞ、と低く一言。青年は、黙って床を見つめていた。
 案内人の男は、いぶかしむように青年を見つめる。
「行くぞ」
 もう一度だけ、声。少年ほどではないが、やはり声は無機質な印象をもつ。
 青年はやがてゆっくりと顔をあげて、案内人に従った。意を決したような表情は、まだ少しあどけないながらも、一人の、何かを背負った男としての顔をしていた。
 男は青年と案内人を見つめた。青年は案内人に示された場所に立つ。今、正に彼は”発つ”のだ。
「その場所に入ったらもう私語は慎んでくれ。黙って……待て」
 案内人は青年にそう告げた。青年は神妙な顔で頷く。今ごろ、祈りでも捧げているのかもしれない。男はそう思った。祈り。それは……何に対する?
 男は自分のそばに立つ、自らの案内人である少年を見た。少年もまた、今発とうとしている青年の方を見ていた。読み取れない表情は、しかし、何の感情の変化もなさそうだった。男はまた、視線を戻した。
 ふと、目が合った。顔をあげた青年と。青年の眼が男を見て、男も、青年をゴーグル越しに見つめた。青年の表情が歪み、そして僅かに空気が揺れ動いた。
「隊長っ!」
 はじける様な叫び声が、瞬間響いた。男は驚きもせず、その声を聞いた。驚くどころか、むしろ……どこか、安心のような、嬉しさのような、思いを抱いて。傍らの少年は、そしてあの背の高い案内人は、どう思っているのだろうか。男は思った。しかしその二人は、感情の動きを見せず、成り行きを見守っていた。
 青年は、泣きそうな表情でもう一度、隊長、と呟いた。
「俺……俺、あんなことしたけれど、でも俺……っ、貴方に会えて、貴方の元で、闘えたことを……」
 青年は息を飲んだ。泣きそうだった。泣きそうになりながらも、青年は、告げた。

――誇りに、思ってます。

 男は、微笑んだ。何も言ってやろうとは思わなかった。それは無粋だと思った。この場所であぁやって叫ぶこと自体、無粋だと思った。でも、彼がそうしたことは無粋だと思いながらも、嬉しかった。ただ、嬉しかった。男は青年に向かって、敬礼した。それは優しい仕草だった。とても、とても。
 泣きそうだった青年は、笑った。泣き笑いのような表情を浮かべて、敬礼を返した。
 案内人は青年に静かに告げた。
「その場所での私語は慎むように言ったはずだが」
「……すいません」
「これは俺のミスとなり、俺の点数がひかれることになる」
「……すいません」
「気は済んだか?」
 青年は顔をあげた。申し訳なさそうな顔をして、抑揚のない声に僅かに恐怖しながらも、その顔はどこか先ほどとは違っていた。青年は、頷いた。
「……思い残しは、もうないのか?」
「はい」
「なら、良い」
 案内人は、そう言うと空を見上げた。外に開ききったその場所は、もうほとんど建物というよりは外のようなものだった。案内人は言った。
「見てみろ、空だ」
「え……」
 青年は、顔をあげた。空は、青かった。
「お前の命の、散る場所だ。見ておけ」
「……はい」
「お前の命はここに散る。そして、お前の命で他の命は救われる。それを……覚えておけ」
「……はい」
「誇りを持って、発て。お前はもう……罪人ではない」
 青年は、案内人を見た。そして大きく頷いた。泣きそうな顔も怯えた表情も何もかも消えうせ、それはひどく美しい戦う男の顔をしていた。案内人は機械に手をかけた。
「では行こう。健闘を祈る。……お前に神の加護があるように」
 案内人はスイッチを下ろした。光があたりに溢れ、その次の瞬間にその場所は、また先ほどどおりに、青年がその場所に立つ前の様子に戻っていた。青年と、案内人の姿をなくして。
 青年は発ったのだ。あの空のもとへ。

「……あの案内人はどこへ行ったんだ?」
 男は、傍らの少年に思った疑問を率直に尋ねた。少年はチラリと男の方を見て、あの無機質な声で答えた。
「彼は、案内人です。担当者の担当場所まで一緒に行き、最後まで担当者を見送ります。……見張ると言った方が正しいでしょうか」
 あぁなるほど、男は頷いた。案内人というのは、要は見張りなのだ。自分たち、もう既に"ヒトでない"自分たちの、見張り。そしてこの少年も、自分の見張り。
「……知り合いでしたか」
 少年が僅かに声のトーンを下げて呟いた。それは独り言のようにも聞こえたが、男はあぁと頷いた。
「俺の隊に居た一人だ。軍法違反で……その処罰だよ」
「……軍内殺人は、軍法で最も厳しく取り締まられているんでしたね」
「へぇ、ホント君詳しいね。色々」
 男は、かつて部下だった青年を思った。多少やんちゃなところもあったが、素直で明るく、そして臆病で調子者の青年だった。カッとして仲間とけんかになることはよくあったが、まさか仲間を殺すとは思わなかった。そういう人間には見えなかった。
 男は自分の獲物を見つめた。見つめながら思い出す。殺人の理由は随分あと、奴が軍規裁判にかけられている頃に分かった。任務最中に敵方の子どもを殺そうとした仲間ともめて、その子どもに拳銃を向けて撃った仲間に対し、青年も思わず拳銃を向けた。そして撃った。それが全てだった。
 甘い話でしかなかった。敵方の子どもはこちらに敵意を持っていた。拳銃も使えた。任務の邪魔になるなら、殺すしかない。それをかばった。仲間を殺してまで。それは、単なるエゴで甘えで、褒められた話ではないけれど。
 男は思い出す。青年の笑顔を。かつて、聞いたことがあった。年の離れた弟が、病死したのだと。その弟と相手の子どもを重ねたのかもしれない。軍人には必要ないその甘さ、男は何故か放っておけなかった。あちこちにあたって、情状酌量の余地があると訴えた。しかし、一人の地位の低い兵への裁判にそんなに時間がかかるわけもなく、すぐに判決は出され、軍内で一番重い罪を犯した彼には、やはり思ったとおりの刑が与えられた。
 彼に出された刑は、極刑だった。しかし。普通の極刑ではなく。
 多少の情状酌量はあったのかもしれない。彼の刑は、彼に選択権を与えた。最終的な死は免れない。しかし、普通の死刑か、それとも"ココ"に来るか、それを選べと。
 ココにくること。それは、世間では名誉な死として言われ、そして軍内では最悪な死だと言われる。軍人の誇りをなくした、と。少しでも命を永らえることを選び、潔い死ではないと、軍内では罵られる。でもあの青年はココを選んだ。何を思ってココを選んだのか、それは、彼にしかわからないけれど。
「ねえ、アイツは……決死か、それとも必死か、どっちなんだ?」
 男は少年に尋ねた。あの青年の選んだ結末を知りたかった。敵の子どもの命を助けようとして、自分の命を失うことになった、あの青年の。少年はゆっくりと男に視線を移し、そして首を振った。
「他の方の情報は教えられません。規則です」
 少年の言葉に、男はハッとした。少年のこの対応は当たり前すぎるもので、自分の質問の愚かさに多少の決まりの悪さを男は感じた。
「あ……そうか。悪い」
「いえ」
「規則を破ると、君の点数が引かれるのだな」
 男は先ほどの案内人を思い出して、苦笑しながら言った。点数を引かれるといいながら、全く責めなかった。感情の揺れは全く見えなかったけど、きっと、あの案内人は優しいのだろう。
「……さっきの、彼のことですか」
「あぁ。……優しい人なんだな」
「……彼は、前任のプサイが担当者に道連れにされたために後を継ぎました。でも、あのように、よく担当者の思いを開放させてやるくせがあります。プサイを引き継ぐものは、少し優しい人間の節があるみたいですね」
 少年はそう言ってから俯いた。すいません、しゃべりすぎました、そう告げる少年が何だか歳相応に見えて男は笑った。そして、ふと思った。
「プサイを引き継ぐってことは……ココはギリシャ文字のコードネームなのか」
「ええ」
「へえ。んじゃ君の、名前は?」
 少年は顔をあげた。何か言いたそうに一瞬口を開いたが、すぐ閉じた。そしてまた、ゆっくりと床に視線を戻す。
「別に知らなくて良いことです。教える義務はありません」
「……そうか」
 男はクスリと笑った。少しだけ寂しさを感じた自分に、驚きながら。でも、コードネームを知ったところで特に意味も何もなく、だから男もすぐに自分の思いを消すことができた。
 ザワリ。また風が吹いた。青い空の元から。男は青い空の向こうを見つめた。

「私からも、一つ聞いて良いですか?」
 少年が、突然そう呟いた。淡々とした無機質な声も、話しているうちに多少の変化を感じれるようになった。少年の声のトーンが僅かに落ちるのは、彼の気遣いや遠慮の表れらしいと、男には分かってきた。
 この小さな、そしてひどく大人びた少年は、どうしてこうも感情を抑えた振る舞いをするのだろうか。男は不思議に思った。それ以前に、何故このような場所で働いているのか。場所の特殊さ故、多少の力をもつのだろうとはわかるけれど。
 不思議な、少年だ。そして彼が、何かを尋ねようとしている。
「何だ?」
 男は内心に感じた、奇妙な喜びのような感情を不思議に思いながら、少年に笑顔を投げかける。男は本当に良く笑う人だった。昔から、いつも笑顔で居る人だった。でも、この場所で、今この少年に見せてるような静かな、穏やかな、夜の海のような笑顔は、これまで他人に見せたことがなかった。
「……通例、失われた黒の子どもは自分が黒の子どもだという実感も記憶も全てなくすと聞きます。そして回りもそれを教えることをしてはいけないと……貴方は、何故知っているのですか?」
 少年は最後に、これは個人的な質問ですから答えたくなければ答えなくて結構です、と付け足した。真面目な、というより機械的な声で個人的な質問という、その違和感に男は少しだけ目を細めた。
 この子は一体、どうやって生きてきたのだろうか。自分の育った場所を思い出しながら、男は思った。
「……俺はね、」
 男は暫くの沈黙の後、そう言った。少年がゆっくりと男に視線を投げかけてくる。
「俺は、全く何も知らずに政府の元で育った。俺の育った場所はすごく環境が良くて、俺担当の保護官……まぁ保護者代わりになる人は、とても優しくて。生まれてすぐに一族を亡くした"生き残り"の俺に同情的だった」
 男は、自分の保護官を思い出す。小さい頃は本当の親だと思っていた。そんな小さく幼い自分に一族が亡くなったことを教えてくれて、可哀想でかわいい子と抱きしめてくれていた。その人は知っていた筈なのに。その幼子の一族がどうやって死んだかを。
「俺が自分が失われた黒い子どもだと知ったのは本当に偶然だった。軍学校に入学する少し前に、父……あぁ、保護官は自分を父と呼べと言って、俺もずっとそうしていたんだ。その父の仕事場に言ったときに偶然通りかかった人たちの会話だった。直接的ではないが、興味をもつには充分な話だった」
 その後、男はこっそりと調べ出した。しかしこっそり調べなくても、話はすぐに分かった。そう思うと黒の子供に対する、特に失われた黒の子どもに対する保護法というのは、随分緩いものだったのかもしれない。
「軍学校に入学して暫くだったかな。父が倒れたと聞いて、俺は父のもとへ急いだ。しかし父の病気はもう末期で……あとは静かに死を待つだけだった。それを目の当たりにした俺は、父に全てを教えて欲しいと頼んだんだ」
 男は父が語ってくれたことを思い出す。背の高い人だったのに、病床の父は、ずっと小さく見えた。それでも幼い頃の男を、一族を失ったかわいそうな幼子を抱きしめてくれたときと同じ笑顔で、男の話を聞いてくれた。男は父に自分は黒い力を持っていたのか、と尋ねた。父は頷いた。一族を自分が殺した、という話も男は調べて分かっていた。それも父は、静かに認めた。
「悲しかったよ。本当なら否定して欲しかった……一族を自分が破滅させていたなんて、16歳の俺には、自分がまるで悪魔の化身かとも思ったさ」
「悪魔の化身……ですか……」
 少年は白い息を吐きながらそう小さく呟いた。悪魔の化身、その言葉は、本当に当時の男の心情そのものだった。自分は、生きている資格がないと感じた、あの頃の。
「はっきりいって、死のうかとすら思ったよ。おぞましくて仕方なかった。黒い力に対して、知識はあったし恐怖を感じながらも差別する気はなかった。でも、自分とは無縁のものだと思ってた。世界が違うと――でも、自分自身の話だった。途端、おぞましくて恐ろしくて……心のそこでは黒い力を差別していた自分に気付いたんだ」
「……黒い力っていうのは、どうしても敬遠されるものですからね」
 少年の相槌に、男は笑った。素直というか、的確なコメントを返すなぁと思うと、その機械の様な正確さが何だか逆に少し人間らしさを感じて、笑いながら男は頷いた。
「俺はどうしたら良い? そう、俺は父に言った。軍人になんか勿論なる資格なんてない、生きていて良いのかすらわからない、そんな俺は。でも父は意外にもアッサリ言ったんだ、"軍人になるんだろ?"って」
 
 "一族の滅亡はお前のせいじゃない。でもお前がその命をもってわびたいというのなら、軍人になって、一人でも多くの命を助けてあげなさい。そして死ぬその瞬間まで、軍人でいなさい。お前がそんな立派な軍人になってくれたなら、俺は、これ以上なく誇りに思うよ……"

「まるで、救いの言葉のようだったよ。……俺は、その瞬間、生涯を軍人にかけようと、決めたんだ」
 男はそう言って、グッと獲物を握りこんだ。軍学校に入ってからずっと、自分と共に戦ってきた"相棒"。父親が死の前に自分に贈ってくれた、割と上等な旧式の銃。最新の、小型でもっと威力の強い銃はいくらでもあった。周りからもそういったものを進められて、でも男はずっとその旧式の"相棒"と共に戦場を駆け抜けてきた。いつしか、軍内でもトップクラスになっていた銃の腕を駆使し、時には人の命と向き合い、命を助けると同じくらい命を奪い、仲間と共に戦場を駆け巡っていた。
 上官も仲間も、皆が認めてくれていた。自分と"相棒"の実力を。
 そうやって、軍人として生きてきた。そうやって、これからもずっとずっと軍人として生きていこうと思っていた。生きていける、はずだった。
「父は俺が軍学校を卒業する前に亡くなった。亡くなる直前、父は俺を強く優しく激励してくれた。自分自身ですら悪魔のように感じた、こんなおぞましい能力を持った俺を、父は本当に愛してくれていた――そう、感じたよ」
「その保護官は、すばらしい方だったのですね」
 少年の言葉に男は静かに微笑んで頷いた。父の死後、自分を名目上引き取った新たな保護官は、軍の上層部の男で、父というより祖父のようなものだった。父の生前も何度か出会ったことがあるその老人は、男の笑い顔を見て父と似ていると、そう言った。何よりも嬉しい褒め言葉だった。
「俺は父を尊敬していた。自分の素性を知ってからは、一層強く尊敬した。父と約束した、死ぬ瞬間まで軍人として人の命を助けるという誓い……それは、俺の生きる意味そのものだったし、こんな俺を愛してくれた父への敬意の意味でもあったんだ……」
 男はそう呟いて、獲物をまた抱きしめた。そうして、布越しに"相棒"をそっと撫でた。
エゴでも何でも、良かった。自分の中で勝手に美化していようが何でも、男には構わなかった。父が生きる意味を与えてくれたのだ。もっと言えば"生きていて良い"と、その言葉を与えてくれた、だから生きてこれたのだ。男はずっとそう考えてきていたし、その想いは今だって少しも揺るがない。
 ふと男は顔をあげて少年を見た。少年はまた白い息を吐いた。僅かに指先だけが覗く袖の長いジャケットの袖口を少年は口元に当てた。そうして目を少し細める少年は、きっと気付いたのだろう。男は思った。いや、本当はもうずっと最初から気付いていたのかもしれない。
 矛盾が、あるんだ。男は獲物を見つめながら思う。今の話には、正確に言えば今の話と男の行動には根本的な矛盾があるのだ。少年もきっと思っただろう。
 男の決意は、父との誓いは、本物だった。何より男の中での強い真実。だからこそ、矛盾が生じる。そしてそれは、矛盾以上に、もっと意味のある真実でもあった。
 男は静かに空を見上げた。空が青い。空をジッと見つめた。あの、幼い部下を思いながら見つめた。幼い部下がここに来ることになった理由を思った。そして父との誓いと、病床の父の静かでやさしい笑顔を思った。そうして青い空を見つめていた。
 少年は男を見た。無表情のまま、少年も男につられるように空に視線を移した。青い空を見上げる少年は何だか幼くて、男は優しく笑った。
「……貴方は、自分から望んだのでしたね」
 少年はまるで独り言のように空を見上げたまま呟いた。あぁやっぱり、男は少年を見て心の中でつぶやいてまた笑った。少年は気付いていた、矛盾に。その理由をもしかしたらこの小さな案内人は聞きたいのかもしれない。でもどう聞いたらいいか分からないのかもしれない、男はそう感じて、だから笑った。
 感情を見せないこの少年は、もしかしたら。すごくすごく不器用なだけなのかもしれない。そう思いながら、小さな少年を見つめた。少年の目は青い空を見つめていた。

「――指がね、動かないんだ」
 男はそっと、息を吐き出しながらそう言った。少年はゆっくりと青い空から男へ視線を動かした。
「半年ぐらい前だったかな、利き手の人差し指と中指がある日突然動かしにくくなくなったんだ……今じゃもう、左手の指はほとんどが麻痺してる。自分の意思で動かせるのは親指だけだ」
 男はそう言ってそっと左手を持ち上げた。掲げた左手は親指が鈍く前後に動くときに、小指と薬指が小刻みに揺れるだけだった。少し前かがみの人差し指と中指は時が止まったようで、震えてすらなかった。
 少年はただ、その様子を静かに見つめていた。白い息を吐いて、そっと目を細めて。
「これじゃぁね、引き金が引けないんだ」
 男はそっと手を自分の下に引き寄せて、右手でその麻痺した手を握る。それは、"相棒"を握り締めていたときのような、気持ちで。
「最初は焦ったが、まぁ……銃はずっと得意としてきたものだ、一応両手で扱えたし問題はなかった。俺の使う銃は大型で片手で撃つものじゃないが、銃身を支えるぐらいなら指が二本麻痺した左手でも大丈夫か、と。もしそれがムリでも、不本意だが小型の銃にすれば右手だけ使えれば済む……問題はなかったはずだった」
 男は、また相棒を抱き寄せた。麻痺しだした頃は、相棒を手放すことも考えた。この相棒にこだわるより、軍人であることにこだわりたかったから。父との誓い、自分の生きる意味のために。
 だけど、現実は残酷だった。
「麻痺の原因はわからなかったが、何かの傷の後遺症だろうぐらいに思っていた……ある日突然右目の視力が急激に下がるまでは、ね」
 左手の指二本が麻痺して、間もなく。朝目覚めると違和感を感じた。世界が僅かにデコボコに見える、その理由はすぐにわかった。それまで矯正したことのなかった正常な視力は、ある日突然右目から消えうせた。どうにか見えてはいるものの、モノの形をなんとか把握できる程度の視力しか裸眼の右目には残されていなかった。
 男はようやく、自分の体の異変に気付いたのだった。
「……魔法機械性アレルギーですか」
「へぇ、よくわかったね」
 男は少し驚きをにじませた声を上げた。少年は、構わず淡々とした声で続ける。
「その突然性の麻痺は、魔法機械性アレルギーの最も一般的な症状ですから」
 少年はそう答えた。男は改めて少年の聡明さに驚いていた。黒の子ども、軍、そして魔法機械性アレルギー。少年は様々な知識を備えたその小さな体の向きを少し変え、そしてやはり感情をほとんどあらわさない目で男を見た。男は軽く苦笑した。そしてまた空を見上げた。
「よりによって、劇症麻痺だ」
 男は自嘲気味に呟いた。
「薬である程度進行は抑えられるし、内臓が麻痺する確率は0.7パーセント……ほとんど心配ない。でも感覚器や末端神経の麻痺は充分あり得る、戦場でいきなり足が麻痺する可能性だってないとはいえない。劇症麻痺は前触れが全くない。そうなると、仲間すら危険に巻き込む恐れがあるんだ」
「――あぁ、だから」
 少年は、小さく頷くようにしてそう呟いた。賢い少年は全てを悟ったようだった。
「だから劇症麻痺は軍の特別指定病に入っているのですね」
「あぁ、そういうことだ」
 男はまた苦笑しながら答えた。なんてこの少年との会話はスムーズなんだろう。男が全てを言わずとも、少年はその博学と理解力の高さで男の言いたいことを読み取っていた。
 軍の特別指定病に入っている、すなわち。
「俺の意思なんて関係ない……この病気を発症した時点で、俺は軍人でいられなくなったんだ」
 緩やかで、それでいて絶対的かつ強制的な退軍。男には拒む術なんてなかった。軍退職の手続きをとりながら、男は軍法違反を犯したかつての部下を思い出したときがあった。軍法裁判所に部下が送られて、自分は彼のためにできうるだけの手をとろうとした。結局その努力は空しく、彼には極刑が決まった。手の麻痺がおきたのはその後間もなくだった。次いで片目の視力をほとんど失った。その僅か二、三ヶ月の間の怒涛の出来事に思いを馳せながら男は大きく息をついた。
 あの部下は、それでも軍人として軍を去った。少なくとも男はそう思っている。決して褒められたものではなくても、単なるエゴでも。それでも彼は軍人だった。
 でも自分は軍人としてその場所を去ることができない。軍を去る日が来るなんて思いも寄らなかった。軍を去るというのは、この世を去ると同時に行われる行為だと思っていた。そして自分はもう、軍人でいることを認められない。身に降りかかった病ゆえ、軍人であることを捨てる選択を余儀なくされたのだ。自分は軍人でなくなるために、この場所を去るのだ。たとえそれが本意でなくても「自らの意思」という形の元で。
「同情する人、惜しむ人はいても……誰も、俺を責めはしなかった。あまりに理不尽だと悔しがってくれる人もいた。でも皆、最終的には病に冒された俺を温かい気持ちで送り出してくれたんだ」
「温かい気持ち、ですか」
 少年は、男の言葉を繰り返した。男はその言葉にまた自嘲気味に笑う。うわべだけの言葉は、この少年には全く通用しない。無機質な印象を押し出すこの少年は、ただ淡々としたまま男の核心をついてくる。
 男は相棒を胸に引き寄せる。そして相棒の先端に顔を埋め、少年から目を逸らした。
 もう全ては男の中で解決して、気分は落ち着いて、ただ静かに"そのとき"を待っていた筈なのに。自分から始めたこの過去物語は、まだこんなにも自分の心をかき乱す。男はまた軽く苦笑した。自分が何だかこっけいな気がして、男は笑う。そして呟いた。
「俺はそんなもの、望んでいなかったのに」
 男の呟きは、かすかだった。ザワリ。風が、その呟きを青い空のもとへ運んでいくように吹いた。少年は瞬間空を見上げ、また男に目線を直した。男は、顔をあげていた。そして少年を見ると、静かに笑った。
 その笑顔は、自嘲のような苦笑のような、それでいて、ただただ純粋なような。
「ただ、死ぬ瞬間まで軍人として……軍人として生きて軍人として死にたかった。最後は戦場で、誰かを守って死にたかった」
 少年は無言のまま男を見た。男は一度目を閉じて、大きく静かに白い息を吐いた。そうしてまたそっと相棒に顔を伏せる。そうして発せられた声は、穏やかだった。限りなく穏やかな声で、男は静かに少年に告げた。
「ただ、それだけで良かったんだ……」

 命をかけてたくさんの人を救い、それは時に多くの命を奪うことで成し遂げられてきたことであったが、そうやって戦って、最後は静かに人の命を守って死ぬ。それは男の誓いだった。理想だった。希望だった。それは幼いエゴのような、それでも男にとっては生きる意味そのものだった。それを男は奪われた。生きる意味を奪われた男は、命の危険のない場所へ、平和な日常へと帰された。
「……新しい保護官は俺に、軍法裁判所を新しい職場として用意していてくれた。軍にこだわるならこういう形もありだろう、という言葉は優しくて……残酷だった」
 温かい思いやりは、男にとって何の意味もなさなかった。たくさんの命を扱ってきたこの腕で、次は軍法違反した者の命を扱う。それを選ぶことは、残酷以外のなんでもなかった。
 本当に裁かれなきゃいけないのは、きっと、自分なのに。

「だから俺は、決めたんだ」


 "この命を、多くの人の命の為に、散らせる場所を――"


 男は自ら決めた。軍では罵られるこの場所を男は選んだ。既に自分は軍人ではない、でも軍人であった頃の思いのままこの場所に男はいた。
 もう誰かを守るために戦えないなら、後はいかに誰かを守って死ぬかだった。そうまで男は、誓いに、誰かを守ることにこだわっていた。自分の中に絶対的な罪悪感を抱えたままずっと戦い続けていた男は、平和に生きることは何の意味もなさず、ただ罪悪感のみを育てるものだと気付いていた。
 この命を、誰かの為に。誰かを守って死ぬために。
 男の決断を、エゴを、ずっと激しく反対していた保護官は最後に小さく呟いた。"お前の人生を決めるのは、お前だから" 男は最後まで、自分に与えられた保護の手の温かさを感じることができた。ありがとう、と呟いた声あまりに小さかったが、きっと保護官には届いていたはずだ。そうして男はこの場所を選んだ。
 ヒトの姿を持ちながら、ヒトでない。黒の子どもに使われる形容詞は、今の男にも、この場所を"発つ"全てのヒトにも使われる。男はもう、ヒトではない。

 男はもうすぐ"発つ"。多くの命を救うものとして、"人間兵器"と呼ばれるその姿で、敵陣に。

 それが、男の見つけた答えだった。




「そろそろ、ですね」
 僅かに沈黙した空間に、少年が小さく呟く声が響く。男は、あぁと頷くとゆっくりと立ち上がった。そしてまた、あの穏やかな笑顔を浮かべた。
「コイツも、連れて行っても構わないか?」
「ええ、かまいませんよ」
 男は"相棒"を右肩に担ぎこんだ。布にくるまれたままの"相棒"の、確かな重さに安心する。少年はそれを見て、小さな声で言った。
「――大丈夫ですか」
「ん? ……なぜ?」
「先ほどの貴方は、多少冷静を失っているように、感じましたから」
 杞憂なら結構です、と少年は告げた。こんな冷静に杞憂という言葉を告げる少年はやはりアンバランスで、男は笑う。笑いながら大丈夫だ、と答えた。
「確かに少し冷静は失っていた……それは認めるよ。でも、もう平気だ」
「平気、なのですか?」
 少年は、淡々とした声でそう言った。そうして見上げてくる少年の目は無機質なようで、でも真っすぐに男を見つめていた。
「……怖くないのですか?」
 少年の言葉は、少しだけ感情をにじませていた。それは何だか、まるで悲しそうな。少年の見つめる姿に一瞬年相応の幼さがにじんだのを見て、男はゆっくりと微笑んだ。
「俺はね、自分の決断に満足しているんだ」
「……満足……?」
「あぁ、だから怖くはないよ。……全てを、生きる意味を失ったと感じた、あの時の恐怖に比べたら、何も」
 男はそう言うと、少年の頭にそっと手を置いた。深く被られた帽子の下の少年を、軽く2、3回撫でるように叩いた。少年に対して失礼な行為かもしれないと思ったが、思うより先に体が動いていた。
「――何でしょうか」
 少年が僅かに上を見上げて、呟いた。大きな色眼鏡の向こうに、少年の瞳がかすかに見えて男は少しだけ嬉しそうに、笑った。
「話を聞いてくれて、ありがとう」
 少年は、男を見上げたままだった。少年はやがて、白い息と共に小さく首を振った。それを見て男は、笑った。
「……俺はね、本当は最期は戦場で誰かを守って死にたかった」
 男はそう言いながら、少年から静かに手をどかした。
「そして、理想をいえば、できたら子どもを――君ぐらいの年頃の子を守って……そんな最期が良かったんだ」
 それはきっと、自分をいつも守ってくれた父の姿に自分の姿を重ね合わせた理想。それは理想で、でもあの幼い部下はそれを実行し、結果として命を失った。たとえ軍内では認められなくても、少なくとも男は。あの部下を心より認めていた。自分の理想を実行した、あの素直な幼い部下を。
 勝手な理想だけどね、と笑った男を少年はまだ見上げたままだった。少年の瞳は、ゴーグルに覆われた男の右目をじっと見ていた。もうあまり機能していない、その目を。
「守れますよ」
 少年は、突然そう告げた。男は驚いたように少年を見る。やはり淡々とした口調で、少年は言う。
「貴方の命によって、守られる命があります。その中には子どもだっています……もっと言えば、貴方の命によって、この国の軍の者や一般の者……」
 そこまで言って、少年は小さく息を吐いた。白く曇る、息。そして、ゆっくりと言葉を続ける。
「言うなれば、私だって、貴方に守られることになります」
 男は、その言葉を聞いて暫くポカンとしていた。だがやがて、男はフッと笑った。少年の優しさを男は感じていた。
「そうか、そう言ってもらえると本当に嬉しいよ。ありがとう」
「……礼を言う必要はありません。私は本当のことを言っただけです」
「そうか」
 男は笑い混じりの声でそう言うと、もうほとんど指が動かない左手で顔を覆い空を仰いだ。そうして小さな笑い声を漏らした。
 指の間から覗く空。青くて、限りなく青くて。あぁなんて。なんて綺麗なんだろう。
「……俺は今、最高に幸せだよ」
 少年が男を見上げた。男にはそれは気配でわかった。しかし見上げた男は空を仰いでいる。少年もまた、空を仰いだ。
「理想の死に方が、できるんだ。こうやって死ぬんだ、そう思ってたとおりに……本当に、幸せだよ」
 男の声は震えていた。少年はそれに気付いたのかどうか、ただ黙って側にいて、空を見上げていた。青い空をジッと見つめている少年の帽子の上に、すっと、男の手がまた下りてきた。
「――手を」
 その直後に小さく少年が呟く。男は少年に視線をうつし、少年からその手をどけた。やはり失礼な行為だったのだろうかとボンヤリと男は思ったが、どうやら様子が違うことに気付く。
「手を、ここへ」
 少年はそう言って、手を差し出してきた。男は一瞬面くらい、その後少年の小さな手の上に自らの手を重ねた。手の大きさの違いに、その小さな手に、少年がまだほんの小さな、やっと10ぐらいの少年なんだと男は実感した。
 小さなその少年は、男の手をとると指に口付けた。麻痺した、かつて相棒を愛し続けた、その左手。
 麻痺した指に、小さな少年の口付け。

「貴方に、神のご加護がありますように――」


 男は、その安らかな言葉に目を閉じた。
 幸せだと感じていた。

 行きましょうか、という少年の声。男はあぁと小さく頷いた。小さな少年から受けた祈りを左手に包み込み、男は少年の後についた。
「――ありがとう」
 その背中に向かって男は呼びかけた。いいえ、と少年は呟いた。

 こちらこそ、少年がそう呟いたような気がした。風の音ではっきりとは届かなかったけれど。
 男は最後まで優しい笑顔のままだった。

 そして、その命で人を救うために。
 青空のもとへ、発っていった。


 小さな祈りと、幸せを、抱きしめて。





-another story-



「アイナス」

 その男は、岩場に座る小さな少年へ声をかけた。小さな少年は、僅かに振り向く。
「……プサイ」
 それきり、その子どもはまた遠い空へ視線を投げた。青く鮮やかだった空を、紅い太陽がゆるやかに染めゆく。
「アイナス?」
 もう一度、プサイと呼ばれた男は小さな少年の名前を呼ぶ。そうして少年のもとへ近づいた。
「アイナス、どうかしたか?」
「……べつに、なにも」
「冗談」
 プサイは、アイナスの横へ腰掛けてそんな風に言う。その言葉に小さな少年は、何も反応をしめさない。
「なんて顔してるんだ」
 プサイが苦笑混じりにそう言った。アイナスは何も表情に変化を示さず、ただ紅くなる空を見つめている。しかしプサイには少年の感情が伝わっていた。プサイは小さくため息をついた。
「今日は久しぶりに案内役をしていたな、今日の仕事は、良くなかったか?」
「……いいえ、そんなことは」
 アイナスの小さな否定を聞いて、プサイはまた息をついた。息が白く曇る。この少年にしては珍しい、幼い態度にプサイは戸惑っていた。その少年は遠い空を見つめている。プサイも同じように空を見た。
「――今日の私の担当は、とても良い人でしたよ」
 やがて、ポツリともれた言葉。プサイはゆっくりと小さな子どもを振り返る。
「確か、俺が今日担当した……あの最後に叫んだ、男の知り合いだったか」
「えぇ、彼の隊の、部下だと言ってました」
「あの様子だとよほど慕っていたんだろうな」
 プサイは自分が担当した若い青年を思い出して言う。隊長、と呼んだ相手に思いを告げた後の表情。泣きそうだった怯えを含む顔は、一人前の顔に変わっていたあの青年。青年が隊長と呼んだ男がしたことは、敬礼だけだったのに。それだけで良かったのだ。
 たったそれだけで、人一人の気持ちを落ち着けたその隊長と呼ばれた男。プサイは傍らの少年を見る。この子にその男は、何かをもたらしたのだろうか。
 紅い陽を見つめる少年をプサイは見つめる。――願わくば。そう、プサイは小さく心で祈った。祈らずにはいられなかった。どうか、この子の重みになる何かを、その男がもたらしていないように。
 この子には、お願いだからもう重みを背負わせないでほしい。

「――彼は」
 小さく、アイナスは呟いた。紅い陽を見ながら、小さく。
「彼は、失われた子どもだったそうです」
 プサイは息をのむ。思わず振り返ったプサイに、少年はただ色眼鏡に覆われた瞳で遠くを見つめて続ける。
「そして彼は、魔法機械性アレルギーに冒されていました。だから、軍を退職して、そしてここに来たと――」
 そうしてアイナスは、その小さな自らの手を見つめる。それからまるで感情のこもらない声で言う。
「どうして、黒の子どもはいつも、魔法機械なんかに振り回されないといけないんでしょうか――」
 プサイは、ただ空を見て帽子をとった。自らの色眼鏡を外しながら、プサイは己の持つ知識を思い起こす。黒の子どもは、通例の5〜7倍の割合で魔法機械性アレルギーにかかる。特に失われた黒の子どもの場合は、通常の黒の子どもの更に1.5倍の発病率……その割合は、もう3割を越す。失われた子どもの3人に1人はその病を患うのだ。そもそも黒の子どもがその力を備えるようになったのは、魔法機械工場の汚染や妖魔族への侵略活動が原因と見られている。この小さな子どもの言うとおり、黒の力を持つ者はいつも、魔法機械によってその力を持って生まれ、魔法機械によって発病して、苦しめられているのだ。魔法機械工場の整備が進んだ今も、その汚染を完全に食い止めることはできていない。その苦しみは消えてはいない。
 プサイは、帽子と色眼鏡を外した整ったその容姿で、少年を見た。この子もなんだ、そう思うと苦しくなる。
 この小さな少年もまた、苦しんでいるのだ、そう思うと。
「初めて、失われた子どもに会いました……失われた子どもは、その妖魔族のようなパワーこそは失いますが、知能や運動能力が大抵秀でていて、何より、」
「――ひどく豊かな人間性と、絶対的なカリスマ性を備えている場合が多い、だったか」
 アイナスの言葉に、プサイは続ける。黒の子どもについては、人並み以上に知識は備わっていた。失われた黒の子どもは、大抵"人の上にたつことのできる"要素を強く備えている。だからこそ、彼らもまた保護されるのだ。有能な人材を迫害なんかで失いたくない、政府の手によって。
「――彼は、正にその通りでした。ひどく惹かれる何かを持っていて、そして……とても、優しい方でした。でも、彼もまた"兵器"として発っていきました、私が、送り出したんです」
「アイナス?」
 少年の様子がおかしいことに、プサイは気付く。呼んだ声にも気付かないように、アイナスは続ける。
「もっと言えば、彼をその姿に、"ヒトではない"姿に作り変えたのは私です。私の力です。私はそうやって、この力で」
「アイナス、落ち着け。何を言っている」
「この力で、たくさんの人を"ヒトでない"ものに変えてきたんです。そうやって、この黒い力で、例えば彼のような人を、罪人でも何でもない人を」
「アイナス、もういいから。落ち着くんだ」
「私より、生きている意味のある様な人を、必要とされるような人までも、私は、」
「アイナスッ!」

「私は殺していくのです……!」

 言葉とほぼ同時に空に一瞬稲妻が走る。それと同時に、小さな体を抱きしめる腕と、ハッとしたような表情を見せる小さな少年。紅い陽を覆うように走った稲妻は、一瞬で消え、空は静かになる。抱きしめてくる腕の強さに、アイナスは息を飲んだ。
「アイナス、落ち着け。バカなことを言うんじゃない」
 プサイが押し殺したような声で、そう言う。その腕に抱きしめられたアイナスは、目を瞬かせてゆっくりと白い息を吐いた。
「……すいません、プサイ」
 小さい声でそう言うアイナスを、プサイはもう一度強く抱きしめた。腕の中の小さな少年は、いくら賢いと言えど本当にまだ子どもなのだ。抱きしめる腕に簡単に収まるぐらいに。こんなに小さな子どもは、しかし自分の中に強力すぎる力を抱く。自分で操ることができないほど、強力な力を。気が高まると暴走するその力を抑える術を持たない少年は、いつからか感情を極力抑えるようになった。感情を抑えた大人びた話し方で、表情もほとんど揺るがさず。そんなアイナスを、プサイはただ抱きしめた。
「すいませんプサイ、もう大丈夫ですから……離して、平気です」
 アイナスの言葉に、プサイはその手を解いた。そして、少年の頭を静かに撫でた。心の中が、苦しかった。自分は無力だとプサイは感じた。この小さな少年の苦しみを、自分は何も癒してあげれないのだろうか。
 紅い空をプサイは見つめた。隣のアイナスもまた見つめていた。一瞬走った稲妻の、形跡を何も残していない空を。昼間の、青い形跡を残さない空を。

「……ねぇ、プサイ。私、彼に貴方の話をしたんです」
「俺の?」
 ややあって、アイナスが静かにそんなことを言った。プサイはその言葉に、隣に座るその少年を見る。
「えぇ、貴方が彼の部下を担当していたときに……貴方の話を少し。その時、彼に貴方がプサイだと話したら私のコードネームをきかれたんです」
 アイナスはそう言って、少しだけ微笑んだ。感情を殺す少年は、だけどプサイの前では多少は……同い年の子どもに比べると、それはあまりに微弱ではあるが、それでも感情をあらわす。それを見て、プサイも安心したような表情をする。
「それで? アイナスは何て答えたんだ?」
「私は……」
 アイナスはそう言って、自分の足元へ視線を落とした。腰掛ける大きな岩に手をついて足を揺らすその姿は幼いのに、雰囲気はまるで押し殺したように。プサイはもう慣れてしまったその雰囲気に、でもやはり心が痛むのだけは変わらなかった。
「私は、答えられませんでした。コードネームがないといえば、自分がこの場所で特別なものであると言ってるようなもの……私は彼に、」
 アイナスはそこで戸惑ったように言葉を切る。そうして視線を漂わせ、再び紅い空を見つめた。
「彼に、自分が特別だと思われたく……なかったのだと、思います」
「――めずらしいな、アイナスが初対面の人にそれほどに関心を示すなんて」
 プサイは、少しからかうような口調でそう言った。幼い少年の言葉を重く受け止めてはいけない気がしていた。確かにアイナスは、特別だ。アイナスは、他の所員とは違う。ヒトを"ヒトでない"姿に作るパワーを持った少年。それが、アイナス。
 そんな彼の言葉は、時々ひどく繊細だ。アイナスの気持ちは、ひどく強いようでいて、本当はガラスよりも脆い気もしていた。だからこそプサイは、自分が軽く返してやらないとアイナスが苦しむような気がして。プサイはアイナスと話すとき、よくそうした口調を用いる。アイナスはそれに気付いたのだろうか、クスッと笑った。
「黒の子どもは、失われた子どもに惹かれるそうですよ」
「……え?」
「そういう噂と言いますか、まぁそんなお話があるのですよ。何の根拠も科学的論証もない他愛ない話ですけど……私も、でも彼に惹かれた……うん、とても、」
 素敵な方でしたよ、とそう言って、アイナスは小さく微笑んで白い息を吐いた。プサイもまた、白い息を吐いて、そうかと一言相槌を打った。他に言葉が思い付かなかった。
 アイナスが少しだけ咳き込んだ。プサイは心配そうに、アイナスに大丈夫かと問う。アイナスは、魔法機械のアレルギーが原因で気管支を少し病んでいる。そんな少年に、プサイはもう帰ろうかと言った。気管支の弱い子どもには、夕暮れのその場所は寒すぎる。でも少年は拒んだ。
「もう少し、空を見ていたいです――」
 プサイは、少年の言葉に静かに息を吐いた。
「……じゃぁ少し歩こうか。じっとしていては冷えるから」
 プサイはそう提案し、アイナスは了承した。プサイはただ、できるだけアイナスの思うようにさせてあげたかった。

 夕暮れの草むら。岩場。そのすぐ近くの小高い丘に、二人の"職場"である建物が聳え立つ。二人の人影はゆっくり歩いていた。静かなその地は、その建物の他はただ岩場を含んだ草むらが広がり、やがてそれは小さな森へと変わってゆく。森から流れている小さな清い水の流れ。穏やかな風景は、しかし夕焼け空の下はどこか閑散とした寂しさを含む。ここは、ある種で隔離されたような場所。ヒトの住む地から遠く、ただ自然の中にひとつ、自然でない"その場所"が存在する土地。そこを、アイナスとプサイは歩いていた。
 ――世界には、たくさんの力が存在するのにどうして黒の力だけ特別なのだろう。歩きながらプサイは、何度も自分に繰り返してきた質問を思い、隣を歩くアイナスと同じように空を見る。
 紅い空、さっきまでは青かったその空。ふと側に立つ木を見る。黄色い葉、夏には緑の葉をつけていた。赤、青、黄、緑。世界には、いくつもの色の名をもつ力がずっと昔から存在していた。
 世界には二種類のヒトがいる。力を持つものと、持たないもの。その割合はほぼ半々で、だから世界は力を持つものも持たないものも同様に受け入れてきた。でも、黒の力はその強力さと特殊さゆえにずっと特別視されてきた。
 "ヒトの形ををした妖魔族"……その言葉は、黒の子どもの強力すぎる力と、ヒトの驕り高さを表している。
 プサイは空を見つめ続けた。青さを失って紅く染まる空は、あぁこんなに綺麗なのに。でもヒトの世界は、どんどん醜く染まってゆく気がしていた。
 プサイは代々青い力を持つ家系に生まれた。兄弟の中で力をもっていたのはプサイだけだった。青い力――ヒーリング力。僅かな傷や軽い病気ぐらいなら、瞬間で癒す力をプサイは持っている。でも、隣を歩く少年の病気は青い力のヒーリング力じゃどうしようもできない。それがもどかしかった。
 また小さく咳き込んだアイナスの背をプサイはそっとさすった。力の宿る右手で何度もさすると、アイナスははにかんだような笑顔で見上げてきた。
「歩くのは逆に辛いか」
「大丈夫です、ありがとうプサイ。少し楽になりました」
「――本当に治してやれたら良いのに」
 プサイは苦笑交じりで言う。それでもとりあえずはアイナスを少し楽になったというんだ、それだけでも喜ばしいことだった。三年前、初めてアイナスに会った頃は、今よりもっと幼いアイナスは青の力のその僅かなヒーリングさえも拒んだ。発症して間もないアレルギーに苦しむ、まだ幼児からようやく少年となったようなその体は、青い力の作用を全身で拒んでいた。癒しというものに、あまりに馴染みがない小さな子ども。そんな少年にプサイは少しずつヒーリングを与えた。長い時間をかけて、少しずつ、このように笑顔を見せるように心を開いてきたと同様に、少年の体もまたプサイのヒーリングを受け入れていった。
 その少年は、ポツリと呟いた。
「プサイの力は、本当に綺麗ですね」
「綺麗、か?」
「えぇ本当に。……空のように、あぁ、今の空は紅いけれども、まるで昼間の空のように、綺麗」
「紅い空も、綺麗だと思うが」
「えぇ、紅い空も……綺麗です。赤い力も、綺麗ですよね」
 力を綺麗と呼ぶ。アイナスの感性はひどく豊かなものだった。やはりこの子どもはひどく繊細なんだと感じ入る。でもそれ以上に悲しみを。綺麗という言葉は、だって、あまりに真実であると同時に虚空なのだ。
 力と呼ばれるものは、基本的にはそんなに強くない。そもそも、ヒトの力はあまりに微弱だ。ヒトの持つ力は妖魔族のものとは違う。妖魔族は、その妖魔族を互いに殺せるほどの力をもつ――それをヒトは魔力と呼んでいた。しかし妖魔族とヒトの世界は決して交わることがなかった。妖魔族は、ヒトを愛していた。弱いヒトを、妖魔族は決して攻撃しようとしなく、その世界は永い間交わることがなかったのに。
 境界を破ったのは、ヒトだった。
 ヒトは魔力を永い間恐れ、同時に憧れていた。魔力を研究し続けたヒトは、それを科学的に作り上げる術を編み出した。それが魔法機械工場の始まりだった。
 ヒトはそうしてどんどん驕り高ぶっていった。妖魔族の世界に、ヒトは踏み込んだ。魔法機械の力をもっと高めたいがゆえに。どうしてヒトは自分たちのもつ、弱くて優しい力だけで満足しなかったんだろう。何故、彼らは強いものを常に望み、自分たちとカタチの違うモノを攻撃して良いと、思ってしまうのだろう。
 結局、妖魔族への侵略活動は本当に一時期で終わってしまった。終わらざるを得なかった。ヒトを愛す妖魔族といえども、境界線を破ったヒトを守り、自分たちの世界を荒らされるのを許すことは、できなかった。それでも妖魔族は、ヒトの世界を必要以上に荒らそうとはしなかった。ただ彼らは、世界の境界を守りたかっただけなのだ。結局その戦いはヒトのワガママでしかなく、その戦いがもたらしたのは。
 幸か不幸か、あれほど望んだ、妖魔族の力。
 ヒトの今までの力とは異なる力を持つ、"ヒトの姿をした妖魔族"とも言われる子どもたち。

 黒の子どもが、ヒトの世界に生まれてきたのだった。

 恐怖と畏怖と希望と憎悪の対象として。



「……なぁアイナス。俺は前々から思っていたんだが」
 暫くの沈黙の後、ふと思い付いたようにプサイが呟いた。少し前を歩いていたアイナスが振り返る。
「なんでしょう?」
「何故、アイナスは、コードネームを使わないんだ?」
 先ほどのアイナスの言葉から気になっていた質問を、プサイはためらいがちに投げかける。アイナスは確かに言った、コードネームのない自分は特別だと言うようなものだ、と。
 確かにアイナスは他の者と違う。通称黒研究所、軍の重要施設の一部でもある、この場所の所長はこの10になったばかりの小さな少年だ。アイナスの通例以上に強い黒の力の消費方法……というよりは利用方法、として編み出された、人間兵器を作り出し、送り出す黒研究所という闇の場所。
 アイナスは、他の所員とはその役割が違う。基本が案内人……作り出された人間兵器を、必要な場所へ送り込み、その"武器"の最期を見送る者や、研究事務……送り込まれてきた、まだ"兵器"となっていない人の管理及び検査を行い、或いは様々な報告書の作成などを行うことがギリシャ文字のコードネームを持つ所員たちの仕事であるに対し、アイナスは基本的には作り出す人。ヒトを"ヒトでない"ものに、兵器というものに作るのがこの幼い少年の仕事であり、彼のみに許された、彼しか行えない仕事。
 彼は、あの場所で一人、コードネームを持たず本名で呼ばれる存在であるのだ。
 アイナスはプサイを見ていた目を、ゆっくりと閉じた。
「……ヒトが生き死にする可能性のある場所での本名はあまりに無意味でしょう?」
 幼い子どもは、そう答えた。プサイがその言葉の重みに息を飲むと同時に、アイナスは続ける。
「どんどんヒトが入れ代る場所で、本当の名前よりコードネームを使ったほうが手っ取り早いし、いらぬ想いに駆られなくても良い。だからコードネームを使うことを決めたのです。でも、私は出入りがないから。コードネームなんて必要ないんです」
 アイナスは少しいたずらっぽく笑う。プサイはそれを見て、自分の質問の愚かさに自分自身に呆れた。コードネームなんてそんなもの、本当は自分にとってもあまり意味ないのに、あえてそれに意味を求めた自分に。
 今の言葉で、これまで感じたことはあったけども、はっきりとわかってしまった。コードネームは、この子供が感じたくないから使うのだ。ヒトがいなくなったということを感じたくなくて。ヒトが出て、ヒトが入るこの場所。この闇の場所は、場所の特殊さゆえにヒトの生死にも関わる。仕事に従事するヒトも、半分近くは短い周期で入れ替わる。そして、彼はそういったヒトの名前を知りたくないのだ。名前を知れば、そのヒトが死んだときいなくなった時、実感してしまう。でも、コードネームならそれはない。また同じコードネームのものが来る。そうやってヒトの循環を、この子はあの場所が存在する限りずっと見ていかないといけないのだ。あの場所は、この子の力。
 そうだ。この少年はこんなにも、命というものに、死というものに、居なくなるものに敏感なのに。
「……まぁ、コードネームなんてなんでもいいんだがな」
「なんですか、それ」
 何だかきまりが悪くなってそう言ったプサイに、アイナスは笑い混じりに答えた。そう、コードネームとか、そんなのは本当はどうでもいいんだ。プサイはふと、前を歩く少年の頭に触れる。振り返ったアイナスに、彼は優しく告げた。
「それに、アイナスと言う名は、良い名だしな」
「……でも変わった名でしょう」
「そうか? 俺は好きだがな」
 プサイはそう言って笑う。笑いながら、少年にそっと手を差し出した。手の中には、今先ほど少年の頭にとまっていたのを捕まえた小さな蜻蛉。差し出された蜻蛉に静かに手を伸ばすアイナス。そしてプサイは言う。
「……イノセント、だろう」
 途端アイナスは蜻蛉を持ったままキョトンとした目をしてプサイを見上げた。やがて、その言葉を理解していったのか、その目に少しずつ驚きと、そして照れとはにかみ、同時に絶望のようなものが溢れてきて。
「……覚えて、いらっしゃったのですか」
 僅かに沈んだ声がそう告げた。俯くようにして、蜻蛉を見つめる。
「忘れるわけないよ。何て良い名だろうと思ったからな」
「皮肉も良いところですよ、こんな、名前」
 アイナスはそう吐き捨てるように言った。アイナス――innoce、それはinnocentから捩った名。その名はアイナスが自分で唯一認識できる、両親から貰ったもの。そして、彼にとっては、最も皮肉な名前。
「黒の子どもに、"純潔な、潔白な"なんて言葉……いったい何を思ってつけたのか」
 その言葉に、プサイは不思議そうに首を傾げた。
「何をって、そりゃあアイナス、貴方の成長を思ってだろ?」
「……え?」
 僅かに沈んだ声のまま淡々と述べたアイナスだったが、プサイの言葉に思わず声を上げる。プサイは続ける。
「貴方にそのように成長してほしいという、親の愛だよ。アイナス」
「……私に? そんな馬鹿な。だって、私は黒の力を持っているのですよ?」
「そんなの関係ないだろう、親にとっては。親は子どもの成長を祈るもんだろ」
 アイナスはまるで初めてきいた知識であるかのように、その言葉をただ呆然と聞いた。蜻蛉をもつ手が、僅か震える。アイナスにとって、それはあまりに信じがたい話で。
「だって、プサイ。それではまるで……」
 アイナスはそこで俯いた。その少年にしては珍しく取り乱しているが、それは先ほど空に稲妻を走らせたような気の高まりというより、ただ純粋に当惑している様子だった。俯いたアイナスは、やがて、ひどく細い声で呟いた。

 それではまるで、私が両親に愛されていたようじゃないですか――

 プサイはその言葉に逆に呆然とした。そして漏れそうだった息を、飲んだ。分かっていたはずだ、でもまさかこんなにもひどかったか。
 この子どもが与えられる保護の手や愛されることにあまり慣れていないのは、三年前からこの子の保護官を引き受けているプサイには重々承知のことだった。だがこれほど深かっただろうか、この子のその不器用さは。
 与えられるものに対する疑いや怯えは、もしかしたら生まれた瞬間から無意識に始まっていたのだろうか。
「……私も、あの人みたいに愛されていたと……そう言うの、ですか」
「あの人?」
「今日私が担当した……彼は、保護官に本当に愛されていたと。幸せだったと、そう……」
 アイナスはただボンヤリとそう呟いた。少年はあの男の笑顔を思い出していた。穏やかな、柔らかい笑みだった。本当に"父"は愛してくれたと言っていた。そうやって笑う人。もしかしたら自分は彼の、"誰かに愛されていた"と優しく笑うその姿に、惹かれたのかもしれない。
 プサイは、その言葉にただゆっくりと首を振った。首を振って、彼は言う。
「――アイナス、俺は昔聞いたんだけどね。貴方が生まれて間もなく政府に保護されるとき、貴方の両親は最初引き渡しをためらったんだそうだ」
「え」
「我が子を我が手で育てたいと……結局は、強いパワーを持つ子どもを不用意に育てるとその子どもの寿命をも縮める恐れがあるという説得のもと、その子どもを引き渡した。アイナス、という名をつけてから」
 アイナスは、プサイを困惑した目で見上げてきた。何で、この子は。プサイは口惜しさすら感じて思う。賢くて大人びているこの子は、こんなにも愛されていたのかどうかということで怯えた顔を見せる。幼いんだ、こんなにも。
 そっとプサイはアイナスの頭を撫でた。力を持つその右手で、ただ一度だけ。
「アイナス、いい名前だと思うよ。本当に。……貴方のために付けられた名前だ」

 風がフワリと吹いた。それはひんやりとしていて、でもアイナスはあまり寒いとは思わなかった。
 "仕事場"――黒研究所にいるときは、寒さは感じない。暑さも。あの場所は、外に開けていながらも、ほとんど外のような場所もありながらも、寒くも暑くもない。あそこは、感情も感覚もまるで凍るような場所。だからあの場所から一歩外に出ると寒さが身にしみるのだ。でもさっきまで身にしみるようだった寒さ、息までも白く凍らすその寒さ、それが和らいでいる。
 それは彼のおかげなのだろうか? プサイの力が、こうやって力を与えてくれているのだろうか?
「ねぇプサイ……私、私の名前が嫌いだったんです」
 アイナスは持っていた蜻蛉を、静かに空いている片方の掌の上に置いて言った。
「……そうか」
「でも、私……それと同時にこの名前は、親から貰ったから、唯一のものだと思っていたから、だから私は自分はコードネームを持たないことにした。この名前を、誰かにも認めてもらいたくて、」
「うん」
「私……単純ですよね、この名前、少し好きになりそうです」
 アイナスは戸惑ったような声のまま、少しだけ笑った。ザワッとまた風が吹き、小さな蜻蛉はハッとしたようにアイナスの掌から飛び立つ。それを目で追い、それきり彼は紅い夕陽をまた見つめた。その表情はすぐに笑顔を消したものの、いつもの押し殺したような無表情ではなく。――この子の心が少しでも安らぐのだったら。プサイはその顔を見ながら思う。これで良いんだ、そう思う。真実をこの子は知らなくても良い。
 
 あの男、失われた黒の子どもだったというあの男は保護官に愛されていた。そうアイナスは言った。プサイはアイナスの隣にいたあの男を思い返す。自分の担当した青年の上司だったと言うあの男を。ひどく穏やかな顔をしていた。この場所では珍しく。穏やかで優しい笑顔を見せていた。
 黒研究所は人を人間兵器に作り変える。そうはいっても、要はこの場所は、ある種の罪人や軍法違反者、稀に志願者などを特攻兵として送り出す場所だ。彼らの体に、確実に特攻として威力を持つ爆弾などを組み込ますのがアイナスが成す仕事。この子どもの力によって、強力な爆弾などがヒトの身体に簡単に組み込まれる。それでも尚、違和感も痛みも感じずそれまでの自分と全く違わず存在できるが、それでももう既にヒトでなく"人間兵器"となったあの男が、しかし、どうやったらあんなに穏やかで居られるのだろう。彼は勿論、自分の体を兵器に作り変えたのがこの子どものパワーによるものだとは知らなかっただろうけど、きっと知ってもあの男はあの態度を崩さなかっただろう。
 アイナスがあの男に惹かれるのも無理はないかもしれない。プサイはそう思った。あんな穏やかな笑顔、アイナスは様々なものを兵器として作り変え、そして時には案内人として送り出した。でもかつてあそこまで優しい笑顔でアイナスと語り合った"人間兵器"は存在しただろうか?
 風が吹き、蜻蛉が舞う。すっかり紅に染まった一面に、舞う蜻蛉。穏やかな心休まる風景は、寒々しい哀愁を共に帯びる。プラスとマイナス、全く違うものを共に抱くその風景は、黒の子ども達のようだとプサイは思う。
 プサイはそんなに黒の子どもに詳しいというわけではない。ただこの少年の保護官を三年前に言い渡されたとき、政府の者が言った言葉を忘れない。黒の子どもが一体どういう存在なのか、その身で感じれたあの日。
 あの穏やかな笑みを持つ男は保護官に愛されていた。それがどこまで真実なのか、プサイには計り知れない。アイナスはきっと、話を聞いてあの男が愛されていたのだという事を実感したのだろうけど。でもそれの後ろに意図が隠されていると知ったら? この子どもはどんな反応をするだろう。考えて、その反応が容易に想像でき、プサイは小さく息をついた。
 この子はきっと、そんなに反応を示さない。ただ息を飲み、そうですかと呟き、そしてその表情を無表情にするだけ。そうしてこの子の中でまた、愛されるということへの与えられるものへの恐怖と不信が大きくなる。それだけだ。
「……アイナス?」
 ふと気付くと、目の前を歩いていたアイナスが大きな岩の近くに立ち止まっている。
「どうした? 大丈夫か」
 具合が悪くなったかと思って聞いたが、どうやら様子が違う。少年は振り返るとプサイを見上げて言った。
「プサイ、見てください。ほら」
 アイナスが岩と岩にはさまれた部分を指差す。示した先。その場所に白い、一輪の花。それを見てプサイは目を瞬かせた。その花は。
「……コスモス?」
「ですよね、やはり」
「何でこんな場所に……コスモスなんてそんな一輪だけ勝手に咲く花じゃないだろうに」
 プサイはアイナスの隣に並ぶと、その奇妙に一輪だけ咲く花を見た。背丈がすっかり伸びきって立派に成長している花。アイナスが小さく笑う。
「さぁ、風で種が飛ばされたのかもしれませんし」
「なんにしろ、よく立派に育ったものだな」
「栽培されるような花であっても、自然と育ってしまうものなのですね」
 アイナスは、自分の肩丈ほどもある大きな岩によりかかると、その向こうで揺れる背丈の高い白い花を見やった。本当は真っ白なのだろうその花は、しかし辺り一面の紅にそまりうっすら紅い。ゆらり、風に揺れる花。
 花なんてそんなものだ。必死に愛し、一生懸命ヒトに育てられた花もあれば、誰も知らない場所で静かに成長している花もある。そんなものなのだ。でもヒトは綺麗な花を咲かそうと花を育てる。プサイはそう思い、先ほど考えていた思いを思い出す。
 愛されていたことの裏に隠されているかもしれない真実。保護官は、その名の通り黒の子どもを保護する。保護官にも様々あるが、彼らは基本として黒の子どもを本当に保護してあげるのが役割だ。保護……そして愛すること。それは、強力な力を持った黒の子ども、或いはその力ゆえに何らかの破壊や暴走を犯した失われた子ども、どちらにせよ彼らが少しでもヒトとして成長するため、ヒトとして扱われるために必要なのだが。彼らがヒトとしてヒトに愛され、自分の存在を他者に認められ、自分の存在を自分でも認められ、そうしてその力を悲観するのみでなく世に、国のために役立てようとしてもらうために。
 でもそれ以上にもっと、もっと深く打算的な意味が保護官の役割に含まれているのだ。それをプサイが知ったのは、三年前。アイナスの保護官を言い渡されたその日だった。


    『あの子はどうも警戒心が強くてね。
     そしてあの子の抱く黒の力もあまりに強力で、不安定だ。
     不安定さゆえか、今までの保護官にはどうしても必要以上に懐こうとしなかった』
 
 思い出すのは、政府の長の執務室での会話。プサイはあるとき呼び出され、そんな話をされた。

    『君の祖父は立派な医者だった。その上青い力にも長けていた。
     50年以上前、黒の子どもがはじめて生まれたときも
     君の祖父は研究員の一員として、特に黒の子どもの心のケアに、尽力してくれたよ』

 話の意図がボンヤリ見えてきたものの、根本的な意味がわからない。それをなぜ、自分に? 政府とは交流があるものの、それは実家が代々政府直属の医者だというだけ。自分は単なる新米の軍医師なのに。

    『君もおじいさんに負けず劣らず立派な青い力の使い手らしいね。
     そこで君に、あの子の保護官を頼みたいのだよ――』

 なんとも、突然すぎる話だった。頼みたいとは言っても、それは政府の命令だ。よほどの理由がない限り拒むこともできない。与えられた、あまりに突然の指令。軍医師の仕事は退職し、黒研究所への勤務が言い渡され、ちょうど欠番になったばかりというプサイの名が与えられた。その場所の所長、つまり上官にあたる子どもの保護官。何だかめちゃくちゃな話に、彼はただ呆気にとられていた。

    『……一つだけ、お聞きして宜しいですか』

 話がどんどん進む中、プサイは静かにそう告げた。許しを得ると、まだ年若い彼は述べた。

    『どうして、私のような者がそのような役を頂くことになったのでしょうか』

 その質問に与えられたのは、低い声の答え。そしてそれは、黒の子どもに対する、一つの真実。

    『保護官というのは、黒の子どもを守り育てる役割だ。
     愛してやり、存在を認めてやるためにある。
     ――そして、もしものときに、黒の子どもを処分するために、だ』

    『……処分、ですか』

    『あぁ、まぁそれは最終手段であって滅多に起きるものではないよ。
     彼らの力は、私たちに持たないものを与えてくれる重要で貴重なものだ』

 そう簡単にそういった決断は下さないよ、と長は笑って言った。だがその処分という言葉が、プサイの心から離れなかった。

    『黒の子どもの力は強い。普通にヒトを殺す威力すらある。
     だが、彼らはひどく脆さを抱いていてね。やはり彼らもヒトだ。
     自分を愛してくれたものには気も許すし、その相手を簡単には殺せない。
     今までもそれは実証されてきた。だから保護官は彼らを愛し、彼らから信頼を受け、
     万一は彼らを処分する……そういう事だ』

 だがあの子は、中々今の保護官に気を許さない。それで君に白羽の矢が立ったのだよ。かつて最初の黒の子どもの信頼を得た君の祖父と、君はそっくりだ。私も君を見て、安心して任せれると思ったよ。
 長の言葉を聞きながら、プサイはその言の重要性にただ息を飲むだけだった。黒の子どもをいつでも処分できるように、信頼を得よというのか。彼らもヒトだから愛してくれた相手は殺せないと言ったが、保護官だってヒトだろう。愛した相手を、自分を信頼してくれるその幼い相手を、いくら万一と言えどもそう簡単に殺せるか。だがいくらそう思っても、政府の長相手にそんな事を言えるはずもなく。
 ただ、プサイは頷いた。自分に課せられたものがどれだけの大きさなのか、全く見当もつかないまま。

    『わかりました。その役、承りました――』

 長が僅かに笑ったのを覚えている。今思うとあれは、嘲笑だったか苦笑だったか、或いは自嘲の笑だったか。それはわからないけれど。具体的な話はまた改めて、書類なりで通達してゆくと告げられ、プサイは辞し部屋を退出しようとした。部屋を退出しかけたプサイに言ったのか、それとも独り言なのか、どちらとも言えるような感じで、最後に長は言った。

    『……あの子は力が強力すぎて、自分自身に怯えている。かわいそうな子だよ』

 その言葉の真意は、分からないまま。


 あのときのあの言葉が長の本心なのか、それともまた何か含まれているのか。
 少なくとも、若いプサイにとってはその前の内容があまりに衝撃的な話だった。長は当たり前のように、黒の子どもを処分と言い切っていた。世の中では黒の子どもは"ヒトの形をした妖魔族"とも呼ばれる。処分、妖魔族。なんで、ただ強い力を持つだけなのに、彼らはそれだけでヒトとして認められないの。ヒトとして成長し、ヒトとして育てると言いながら、根本的には黒の子どもはヒトとして扱われていないじゃないか。プサイは、あの話を聞いた日、ずっとそう思っていた。悩んでいた。保護官を務められるほど、自分は強くないと思って。
 でも、プサイは現在その子の保護官をしている。確かに警戒心の強かった子どもは、中々懐こうとせず、哀しいくらい大人びていたアイナスは、今。こうやって。
「プサイ、コスモスの花言葉知ってますか」
「花言葉? 俺が知ってると思うか」
「いいえ」
 そう言ってちょっとだけ笑う。あの頃より、笑うようになった。自分から話し掛けてくれるようになった。こうやって、少しづつ心を開くようになって、自分は確かに保護官を全うしているだろう。でも、プサイは不安になる。この子がこうやって心を開いてくれるたびに、少し。自分が保護官を全うしていることに対する嫌悪。だってそれは、もしかしたら自分がこの子を殺すための準備であるのかもしれないのだから。でもそれは、もっと残酷な話にかわるのだ。この子はこうやって心をようやく開いたことにより、その相手に殺される羽目になるのかもしれないのだから。
 プサイは笑った。この子には、でも絶対知られてはいけない。自分がいくら苦しんでもいい。この罪悪感や嫌悪に自分はいくら苦しんでも構わない。でも、もうこの子に重みを背負わせないで。この子が安らげるなら、それだけでいいから。
「なんだ、花言葉」
 プサイは思いを振り切るように明るい声で言った。プサイの問に、アイナスは花を見て答える。
「調和、美麗。そんな感じだったと思います。あと……真心とか」
「ふうん。本当に貴方は何でも知っているんだな」
 プサイは少し笑って、少年の頭を撫でた。すると少年は真っすぐにプサイを見上げてきた。
「この前、私の10の誕生日に、以前の保護官がコスモスをくださったのです。そのとき教えてもらいました」
「え、あぁ……そういえば、コスモスがあったな、確か。あれ、前任から頂いていたのか」
 その日は、アイナスは政府の方に仕事があり、プサイはアイナスを送った後いつもどおりに黒研究所へ向かった。迎えに行ったとき、少年はコスモスの花束を持っていた。誕生日祝いと言っていたが、まさか前任の保護官からとは思わっていなかったからプサイは驚く。
「えぇ。彼女、私を見て……ずいぶん落ち着かれましたね、とおっしゃってましたよ」
「うん? 待て、貴方の前の保護官って女の方だったのか?」
「あれ、プサイは知らなかったのですか?」
 アイナスはそう言うとその女性の名前を述べた。大分年配の、しかしひどく上品で温和そうな女性がプサイの中でその名に結びつく。あの人か……プサイは思った。小さなアイナスが、懐くことをしなかった相手。相手はでも、とても優しい人だ。そんな優しく温和な女性に、でも懐くことができなかった、幼い子ども。
「……彼女おっしゃってました、良い保護官に巡り会えたようですねって。笑って」
 そう言ってアイナスは、少しだけ照れくさそうに笑った。落ち着いた、本当にそうプサイも思う。歳に似合わず落ち着いているのは昔から変わらないけれど、そういう意味じゃない。雰囲気が、様子が。今でも時々乱れるけれど、自分の仕事に対して時々哀しいくらいに雰囲気は乱れるけど、あの頃に比べて不安定さはずっと減った。
 それは、自分のおかげだと前の保護官はそう言ってくれたのだろうか。そうだと思って、いいのだろうか。プサイはなんとも言えない思いで少年を見た。少年はまたコスモスを見つめていた。その表情は、気付いたら無に近かった。

 ゴウと風の音が少し変わった。紅の陽が、少しづつ大地に隠れようとしている。そうなると陽が暮れるまでは時間がないことは、プサイもアイナスもよく知っている。
「……アイナス、もう良いか? そろそろ帰らないと、本当に風邪を引く」
「そうですね」
 アイナスもそう答える。岩場に預けていた身を起し、プサイは先に少し歩き出す。少し歩いてそして振り向く。
「アイナス? 行くぞ」
 プサイは岩場に顔を伏せている子どもの名を呼ぶ。しかしアイナスは、はいと言ったきり動かない。プサイは小さくため息をついて、アイナスに近寄ろうとした。と、アイナスの声。
「ねぇプサイ……私、思うんですけど」
「うん?」
 プサイは足をとめ、アイナスを見やる。
「さきほど、私の両親の話をしましたけど……でも結局は両親も私を引き渡したってことは、やっぱり私が怖かったってことでしょうか」
 アイナスの言葉にプサイは目を見開く。アイナスは、コスモスを見つめたまま、言い放った。
「アイナス、それは別に……」
「そうじゃなかったとしても、もし私が今こうやって人間兵器を作る黒研究所の所長であると知ったら……私を愛していてくれたかもしれないという両親は、それでも、私を我が子と認めるでしょうか」
「……!」
 プサイは、瞬間息を飲み込んだ。この子は、子どもだ。プサイは心から思った。親の愛をほしがっている子どもなんだ。まだそうすることが当たり前の子どもなんだ。それを親の手から引き離したのは、法律と政府。大人びた口調で親の愛を求めるアイナスに、プサイは悲しみすら覚えた。自分の無力を感じながら。
「アイナス、あの……」
「でも、別に親は、構わないんです」
 だけど、アイナスはそう言ってそっと振り向いた。そして、口の中で小さく、小さく呟いた。
「親は構わないけど……でも、」

  ラグル、貴方は私が怖いですか――


 プサイは、ただ、その少年を見つめていた。言葉が脳に伝わると同時に、もう少しで涙が溢れそうになるのを、耐えた。
 この子が求めたのは自分だった。親の愛ではなく、この、保護官の愛を。そう思ったとき、プサイは、先ほど聞いた失われた男の話を一瞬だけ思った。そして感じた。きっと、その男の保護官も、本気で愛したのだろう、と。本当に愛したのだろう、我が子として。そうじゃないといけないと思った。そうじゃないと、あまりに理不尽すぎると勝手に思った。あの穏やかな笑顔は、きっと、うわべだけの愛では生まれないんだ。
 この子が、自分に本当に心を開いているか、本当は怖かった。だってアイナスはいつもプサイと呼ぶ。職場以外でも、そのコードネームで。この子の心の奥深くには、踏み込めないのかもしれない。この子はこちらには踏み込んでくれないのかもしれない。そう思って。ただ、怖くて。
 でも、この子が求めてくれるなら。ラグル、と怯えたようにはじめて本名で呼んでくれたアイナスが求めるのなら。

 プサイ――ラグルは、静かに少年を抱きしめた。どうか、愛されることに、そんなに怯えないで。
「こんな小さな、腕に収まるぐらいの子どものどこが怖いんだ――」
 優しい声でそう言ってやると、アイナスの体が震えた。泣きはしない。この子は決して泣くことをしなかった。愛されることに慣れていない不器用な少年。ラグルは、その体をまた抱きしめて言った。
「冷えてるな……熱でも出されたら困る。さぁ、」

 帰ろう。

 ラグルの言葉に、アイナスは腕の中で静かに頷いた。そうして腕が離されると、静かに歩き出した。数歩前で、彼はくるりと振り向くと、笑顔を見せた。
「ありがとう。プサイ……帰りましょう」
 また、コードネームに戻っていたけど。でも、また少し歩み寄ってくれた気がした。ラグルはあぁと頷くと、小さく微笑む。アイナスの背中を追って、ゆっくり歩き出した。
 ふと一度、振り返ると、風にゆれる小さなコスモス。その周りを戸惑うように飛ぶ蜻蛉がいた。ゆらりゆら、風が触れた真心の花に、怯えていたような小さな蜻蛉が、包まれるようにそっと止まった。
 秋桜と蜻蛉を包むように風が優しく吹き抜けた。その風が、アイナスとラグルも包み込む。
 
 少年は黙って空を見上げた。紅から薄い紺色に変わっていく。
 青から紅、そして紺と循環する空の色。
 またやってくる青い空。優しい力と同じ色の空。すぐ側を歩いている、優しい力の主。

 青い空のもとへ送り出した、多くの命を思い。
 今日送り出した、穏やかな笑顔を思い。
 
 ただ、安らぎを祈って、小さな案内人は祈りを捧げた。



2005/10/11(Tue)16:57:52 公開 / 十魏
■この作品の著作権は十魏さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
 another story追加投稿です。なんと言うか、思った以上に長くなりすぎました。話だれていると言うか、あまり動きがないのに説明ばっかりみたいな話になった気がして悔しいです。設定は結構気に入ってるからこそ余計に。
 でもanother storyというより、前半の方が寧ろプロローグってカンジですかね。前半と後半のテーマは少しずれている感じもしますが、根本は同じ筈です。後半で世界観を少し感じた後に前半を読むとまた違った雰囲気かもしれません。まるで後から味の出るするめみたいになれたら嬉しいです(何か違う)最近するめ食べてないなぁ……。大好きなのに。
 とりあえずこの話はこれで完結ですが、この設定は結構気に入ってるので、また機会あったら彼らを描きたいと思います。では、読んでくださった方、どうもありがとうございました。 
 ※ 10/11誤字修正などしました。
この作品に対する感想 - 昇順
感想記事の投稿は現在ありません。
名前 E-Mail 文章感想 簡易感想
簡易感想をラジオボタンで選択した場合、コメント欄の本文は無視され、選んだ定型文(0pt)が投稿されます。

この作品の投稿者 及び 運営スタッフ用編集口
スタッフ用:
投稿者用: 編集 削除