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『ひとひらの君と柔らかな手のひら』 作者:栖川唯貴 / 恋愛小説 ファンタジー
全角23046.5文字
容量46093 bytes
原稿用紙約69.75枚
だから、俺は、その手を握り返す――ささやかな青春ファンタジー。


 朝、教室のドアを開けると、俺の席に知らない女子がいた。誰かとお喋りをするわけでもなく、あたかもそこが自分の席であるかのように、背を伸ばして一人で座っていた。
 腰まで届きそうなほどの髪は黒く艶やかで、わずかにのぞく頬の白さと対照的だった。
 後ろ姿しか見えなかったが、少なくともクラスの女子でないことは間違いなかった。見かけたことのない背格好だ。
「あの……そこ、俺の席なんだけど」
 声をかけても彼女はぴくりとも動かなかった。まるでマネキンみたいだ。
 うつむきかげんなせいで顔もよくわからない。なんなんだこの子は。
「聞いてる?」
 爪の先で机をコンコンと鳴らす。すると彼女は顔を上げて、恨みがましい目つきで俺をねめつけた。
「裏切り者!」
 彼女は叫んで弾かれたように立ち上がり、いきなり俺の胸を突き飛ばしてきた。
「うおっ!」
 俺は思わずよろめく。体勢を立て直そうとするも、かかとになにかがぶつかってバランスが崩れた。慌ててそばの机につかまったが、体重を支えきれずに机も巻き添えにして尻餅をついた。
「痛っ……」
 机がその角で俺の膝に一撃くれてから、派手な音を立てて床に横倒しになった。中に入っていた教科書やノートがばらばらと散らばった。
 だが、少女の姿はなくなっていた。あたりを見まわしてもどこにもいない。
 わけがわからなかった。
「なんなんだい、朝っぱらから」
 陣内の迷惑そうな声が頭上から降ってきた。
「あ、いや……」
 俺は立ち上がることすら忘れて呆然としていた。
 陣内に小突かれて、黒髪の少女のことを説明する。
「なに寝ぼけてるんだい。そんな子はそこにはいなかったよ」
 まわりのやつらも、俺の席には誰も座っていなかったと答えた。
「夢でも見てたのか……?」
 いや、そんなわけない。はっきりと、突き飛ばされた感覚があったじゃないか。
「きっとリコだね」
 マジなのかネタなのか、少なくとも口調は大真面目に陣内は言い放った。
「はあ? リコって、あのリコか?」
「そのリコ以外にどのリコがあるんだい」
 どこの誰が、いつから言い始めたのかもわからない、ちょっとした噂だ。
 詳しくは知らないが、なんでもリコはこの学校の女子生徒で、五年ほど前に在籍していたらしい。付き合っていた男に二股を掛けられた悲劇のヒロインで、ライバルの女に殺されたんだか自殺したんだか、とにかく亡くなってしまったのだという。
 つまりは幽霊であり、二股を掛ける男に対して強烈な恨みを持っているというのだ。リコに処罰されると、二度と恋ができなくなるという。
「ありえねえよ。ただの噂話だろ」
 俺は腰を上げて尻をはたいてから、陣内の机を元に戻して、教科書やノートを拾い集めた。
「怖いのかい?」
「男のくせにそんな噂を真に受けるな」
「三浦君、君は知っているのかい? ここ一ヶ月で実際に二人も被害者が出てるんだよ。二人が見たというリコの特徴も一致してるし、二人とも複数の女子と付き合ってたらしいじゃないか」
 陣内は悪いやつじゃないんだが、少しオカルト思想が入っているきらいがある。だから、いつもなら「そうだな」と適当にうなずいて流すのだが、リコの噂は今や学校内の誰もが知っていることで、その存在を疑わない生徒も少なくなかった。特に女子。
「くだらねえ」
 幽霊や妖怪なんていうのは、それ自体が存在するから噂になるのではなく、噂があるから生まれる、というか見えてしまうだけなのだと思う。
「あーあ、君が二股をかけるような男だったとはね」
 失望したように陣内が言う。いちいち反論する気にもなれなかった。
 確かに客観的な視点で言ったら、状況的に二股と言えなくもないのかもしれない。でも俺だって、悩みたくて悩んでるわけじゃないし、自分で望んでそうなったわけでもない。できることなら、諦めなければいけないものはすっぱりと諦めたい。
 それでもまだ、俺の脳裏には由佳の笑顔がちらついてしまう。
 胸の芯が縮むような苦しみは、三日前の夜から続いている。

         *

 もちろんそのときは、そんなふうになるなんて予想もしなかった。
 俺と由佳はその日、映画を観たり、ウインドウショッピングをしたりと、ごく普通の高校生がするようなデートをした。
 五月の風は身を投げ出したくなるくらいに爽やかで、俺の気持ちもふわふわと浮ついていた。不安がなかったわけではないが、それは彼女と二人で遊ぶのが初めてだったからで、不安というよりは緊張感に近いものだった。
 それでも彼女は楽しそうな笑顔を見せてくれていたし、腕や肩が触れ合うほどに距離も近かった。
 そもそも、遊びに誘った俺に対して嬉しそうに応じてくれたこともあって、不安よりも期待のほうが大きかった。正直、脈アリだと思っていた。どこまで期待していいものか、考え出すと大変だったけれども。
「さて……」
 ショッピングに歩き疲れて、適当な店で食事を済ますと、時計の針は八時を過ぎようとしていた。
 あとのことは特に予定しておらず、その場の空気と状況次第……なんて適当に考えていた。だが実際には、方向性を左右できるほどのなにかがあったわけでもなく、「おなかもいっぱいになったし、帰ろっか」なんて言われたら、ほかに気の利いた提案なんて思いつかなかった。
 別に、すぐに彼女をどうこうしたいわけじゃなかったが……このまま「じゃあまたね」で終わってしまったら、本当にただ遊んでメシ食っただけになってしまう。かといって、喉まで出かかった気持ちをここで声にしたところで、伝わるものも伝わらなくなってしまう気がする。いくらなんでもパスタ屋の前はまずい。
「ね、ちょっと散歩しない?」
 うだうだ考えていると、由佳が顔をのぞき込んできた。軽く梳いた肩までの髪を揺らして、取り繕うように彼女は笑った。
「たくさん食べちゃったから、軽く歩きたいなーって」
「別に気にすることないだろ」
 むしろ、どちらかと言えば痩せているほうだろう。スカートから伸びる脚は程良く細く、出るトコはそれなりに出ている……そんな彼女の姿を見ると心底そう思う。
「まあ、いいけどな」
 彼女の提案を断る理由なんてなかった。このまままっすぐ駅に向かうよりはずっとよかった。
 繁華街の夜は週末だけあって人が多い。酔っぱらいの集団や仕事帰りの中年男性や暇そうな高校生。もちろんカップルもいる。俺たちもその一部に見られているのだろうか。
 由佳は黙って俺の隣を歩いている。どこを見るでもなくうつむいていて、正面の人とぶつかりそうになって慌てて避けた。
 昼間からそんなことが何度かあった。基本的にはいつもと変わらず明るい面を見せているのだが、時折ふっと思い出したように重い顔をした。
「大丈夫だよ、ちょっと気になることがあるだけ。ありがと」
 俺が訊ねると由佳はそう言っていたが、ここ最近、バイト中にも不注意で皿を割ったり、客の注文を間違えることがあったので、そばで見ていてずっと気になっていた。もっとも、彼女の場合、そもそもあんまり注意深いほうではないのだが。
 歩いているうちに、人の姿がまばらになってきた。三〇階建てくらいの巨大なビルの周囲は、ちょっとした広場みたいになっている。街灯の明かりがモザイク状のタイルに影を作っていた。
 由佳と交わしていたどうでもいい会話も、静けさに吸い込まれるようにして終わってしまう。
 言うなら今がそのタイミングだった。
 まずは、本題に持っていくための話題を切り出すべきだろう。出会ったときのことからだろうか。
 ……本当に言ってしまうのか?
 沈黙が息苦しい。胸の鼓動にあわせて耳の奥が強く脈打った。口の中がカラカラだった。
「利弥(としや)君」
 由佳が突然俺の名前を呼んで、立ち止まった。これまでとは明らかに違うその声色は、ぴんと張りつめていた。
「話があるんだけど、いい?」
 かすかに語尾が震えていた。俺を見上げる好奇心の強そうなその瞳には、不安にも似た色が混ざっている。
「ああ、どうしたんだ?」
 返事はそれで精一杯だった。声の代わりに心臓が喉から飛び出てしまいそうだった。
 言い出しそうで、言い出さなかった。なにが言いたいのか。そんなにも言い出しづらいことなのか。
「お願いだから真剣に聞いてね」
 と由佳は前置きする。そして、おもむろに口を開いた。
「今まで黙ってたんだけどね……実はわたし、あなたのお母さんなの」
 ――
 一瞬、なにを言われたのかわからなかった。まるで外国の言葉みたいな、単純な音の高低にしか聞こえなかった。オカアサンナノ。
「……お母さん?」
 俺の問いかけに、由佳は「うん」と神妙にうなずく。
 お母さん。……一体なにを言ってるんだ? 冗談だとしたらまったく笑えないし、突拍子のないことを口走って周囲を困らせるような趣味も、彼女にはないはずだった。
「どういう意味、それ」
「ごめんね、驚くのも無理ないよね。でも本当。わたしが利弥を産んだんだよ。信じられないでしょ? だから、最初はずっと隠し通すつもりだった……でも、利弥と一緒に働いてるうちにね、やっぱり友達のフリじゃ嫌だって思ったの。打ち明けようか、しばらく悩んだんだけど」
「……本気で言ってるのか?」
「ウソついてるように見える?」
「いや、だってさ、普通に考えてありえないだろ」
 確かに俺は母親の顔を知らないし、生きているのか死んでいるのかすらわからない。だから、もしかしたらいつか、こういう日が来るかもしれないと思ったことはあった。だが、子どもより親のほうが年下だなんて、いくらなんでも起こりえない。
 俺がそう言うと、由佳は笑ったような、困ったような、複雑な顔をした。嬉しいけれども素直に喜べない、そんな感じだ。
「わたし、こう見えても四三歳なんだよ。利弥には一六歳って言ったけど」
 俺は思わず吹き出した。
「ムチャ言うなよ」
 どんなに若作りしたって、四〇を越えたおばさんが女子高生に見えるわけがない。実際、彼女と知り合ってから三ヶ月くらいになるが、彼女の年齢を疑ったことは一度だってなかった。
「信じられない、っか。無理ないよね」
 由佳は一気に力が抜けたかのように、そばのベンチにすとんと腰を落とした。
「一〇年以上眠ってて、起きたら若返ってたなんて、わたしだって夢じゃないかって思うよ」
 うつむく由佳を見下ろしながら、俺はただため息を漏らすことしかできなかった。演技なのか妄想なのかそれとも真実なのか。冗談を言ってるようには見えないけれども。
「わけわかんねえよ……」
 ただひとつ確実なのは、名前。俺と彼女は偶然にも同じ名字だということ。そして、母さんの下の名前も、彼女と同じ「由佳」だということ。
「信じてくれない?」
 懇願するようなまなざしで問いかけてくる。
 ふと、これは彼女なりの意思表示なのかもしれないと思った。ものすごく遠まわしな拒絶というか、いわゆる「お兄ちゃんみたいな存在だから」という断り文句と一緒で、つまるところ、俺とは一線を引いた付き合いしか望んでいない、ということが言いたいんじゃないか。
 そんなことを考えていると、いきなり由佳の手が俺の腕を撫でた。
「ここ、ときどき痛くなったりしない? 傷跡残ってる?」
「……なんで知ってるんだ?」
 赤ん坊の頃についた古傷は、たぶん一生消えない。長袖しか着ないこの時期に、腕まくりをしたことはないし、誰かに話したこともなかった。
「事故のとき、とにかく利弥だけは守らなきゃって思ったんだよ。でも、一瞬だったから……気がついたら目の前に利弥が倒れてて、ここからいっぱい血が出てたの。すごい声で泣いてたから、意識があるんだなぁって安心したら、すぐにわたしのほうが……」
「いいかげんにしろって」
 俺は由佳の手を振り払った。彼女は肩をひくりとさせて手を引っ込め、悲しそうに瞳を歪めた。
 泣きたいのは俺のほうだ。目の前にいる彼女が少し前とは別人に見えた。なんでそんなこと言うんだ。言えるんだ。
 由佳はすぐに笑顔を取り戻した。
「そうだよね、いきなりでびっくりしたよね。ごめん。でも、わかってほしいな。今すぐじゃなくてもいいから、ね」
 優しく諭すように彼女は言った。俺の返事を待っているようだったが、うんともすんとも返せなかった。
「いこっか」
 由佳は歩き出す。こちらに背中を向けて、駅に向かっていく。俺はかろうじてそのあとについていった。地面を踏んでいる感触がなかった。
「そういえば、利弥もわたしに言いたいことあるんじゃない? なんとなく、そんな感じだったけど」
 のんきな口調で由佳が振り返った。
「なんもねえって」
 俺は由佳の目を見られなかった。
 今さら言ったところで、もう、どうにもならない。「おまえのことが好きだ、付き合ってくれ」だなんて、万が一、彼女の言ったことが真実だとしたら、なおさら言えるわけがなかった。

 自分の部屋だった。
 由佳に言われたことが頭から離れなくて、どういうルートを使って帰ってきたのかさえ、正確に思い出せなかった。俺はただベッドに身を沈めながら、由佳のことを考えていた。
 女の子に振られたことがないわけじゃない。好みじゃないと言われたこともあるし、他に好きな男がいると言われて、実はその男が俺の親友だったこともある。それでも、はっきりとした拒否の意志が伝わってきただけましだった。
 そもそも由佳は、どんなつもりであんなことを言ったんだろう。今にして思えば、俺に好意を持たれて困るなら、もっと別の言葉があったように思う。それなのに、わざわざあんな話をして理解を求めようとするなんて、そこにどれだけの意味があるのか。あるとすれば、その内容が真実だからではないかと考えてしまう。
「事故、か……」
 交通事故だった。直接的な記憶はないが、そのときの状況は伯母さんから何度か聞いたことがある。歩道のない狭い道路で、赤ん坊の俺を抱えた母さんが、道路中央側に突然飛び出し、通りかかった車に撥ねられた。「飛び出した」と運転手は言ったらしいが、目撃者がいないため本当かどうかはわからない。
 俺は一階のキッチンに足を運んで、洗い物をする伯母さんに当時のことを聞いてみた。「忘れたわよ、そんな昔のこと」とめんどくさそうに言われた。
「事故のショックで若返ってたとか、そんなことないよな?」
「あるわけないでしょそんなこと」
 食器の扱い方が荒くなり、声も明らかに不機嫌になっていたので、俺はそそくさとリビングに逃げた。
 伯母さんは母さんの姉だが、仲は良くなかったらしい。母さんが事故で意識不明になっても、見舞いにすら行かなかったというから筋金入りだ。だから、その息子である俺を引き取ることにも反対していた。
 とはいえ、状況的にそれは、成人になるまで面倒を見るということに近かったから、無理もないと思う。母さんは一年経っても意識不明のままだったし、父さんは俺を見捨てて蒸発。しばらく面倒を見てくれていた婆ちゃんも、心労のせいか病気で他界してしまっていた。
 だから、伯父さんが強く言ってくれなかったら、俺はどこかの施設の世話になっていたに違いない。
 もちろん、当時の俺は言葉すら喋れないくらいに幼かったから、母さんのことも父さんのことも婆ちゃんのことも覚えていない。俺の記憶が始まったときすでに、伯母さんとその娘がそばにいた。
 伯母さんは娘には優しかったが、俺に対してはきつくあたることが多かった。お菓子やおもちゃを泣いて欲しがれば、彼女には買い与えられたのに、俺には我慢しなさいとしつけされた。「余計なお金ないんだから」が伯母さんの口癖だった。
 教育方針なのか差別なのかは、考えても無意味なのでどうでもいい。とにかく俺はそんなふうに育てられたから、いろんなことを自然と遠慮してきた。高校受験のときも私立は受けなかったし、こづかいだって雀の涙ほどだった。
 グレなかったのはたぶん、伯父さんがいてくれたからだと思う。ときどき内緒で遊びに連れて行ってくれたり、ゲームを買ってくれたりした。
 もっとも今では、バイトで小遣いくらいなら稼ぐことができたし、娘も数年前に結婚して家を出ていったので、気楽なもんだった。ただずっと疑問に思っていたのは、入院していた母さんがどこに行ってしまったのかということ。父さんが蒸発したあとは独り身の婆ちゃんが医療費を払っていたらしいが、婆ちゃんが亡くなってからの行方がわからなかった。
 最初は伯母さんがこっそり払っていて、だから「お金がない」と言っているのかとも思っていたが、そうでもないらしい。ただ、伯父さんが言うには、ある日病院に行くとベッドには違う患者が寝ていて、病院の関係者によると「別の病院に移った」とのこと。どこからお金が出て、誰の許可でやったことかは教えてもらえなかったそうだ。おかしな話だと未だに思う。
「伯父さん」
 伯母さんが寝室に引っ込むのを待ってから、俺は伯父さんに声をかけた。伯父さんはビールを片手にスポーツ新聞を読んでいた。
「変な話だけどさ。俺の母さん、本当は死んでるんじゃないか?」
 別の病院に移ったというのは、俺を絶望させないための伯父さんなりの優しさだったのかもしれないと考えた。もしそうだとしたら、由佳の言っていたことは、やっぱり例え話かなんかだったということになる。
「さっきからそんな話ばかりだな。なにかあったのか」
「いや、別になんもないけどさ」
 俺があらためて先の質問を投げかけると、伯父さんは「さあ、どうなんだろうな」と答えた。なんとなく、とぼけているようにも聞こえた。
「俺ももう、子供じゃないんだからさ、なにを言われたって誰のせいにもしない。だから、本当のこと言ってくれよ」
 伯父さんは新聞から目を上げて、困った顔をした。
「そんなことを言われてもなぁ、わからんものはわからんよ。もう一五年も経つんだぞ」
「ほかの病院に移ったっていうのは事実なのか?」
「ああ、それはな。それだけは確かだ。そのあとのことは、どうだかな……」
 伯父さんは小さくあくびをして、そろそろ寝る、と言った。

 翌日、俺はバイトをサボった。というより、サボることになったと言ったほうが正しい。学校が終わってからバイト先のファミレスに到着すると、由佳が待ち構えていて「病院に行こ」と腕を引っ張られたのだ。
「ちょ、待てよ、そっちもこれからバイトだろ?」
「店長に休むって言っといたよ。代わりの人も見つけたし」
「勝手なことすんなよ。それになんで俺が病院なんか行かなきゃならないんだ? 別にどこも悪くねえよ」
「わたしがずっと入院してたところだよ。挨拶くらいしといたほうがいいでしょ?」
 話によると、その病院は某大学の付属病院で、そこの教授がずっと由佳の面倒を見てきたらしい。そして今もそこからバイト先まで通っているのだという。
 確かに、バイトなんかそっちのけにしてもよかった。白黒はっきりするならさせてほしい。そう思う一方で、確信に満ちた由佳の言動が、すべてを物語っているような気がして怖かった。知りたくない。でも知りたい。知らなきゃいけない。俺は由佳の誘いを断らなかった。
「そういえばさ、事故ってどういう事故だったんだ?」
 大学病院の廊下を目的の部屋に向かって歩きながら、俺は由佳に訊いてみた。
 彼女が語ったそのときの状況は、伯母さんから聞かされてきた内容とほとんど一致していた。
「そのときね、薬を飲んでたの。そのせいだと思うんだけど、いきなり頭の中が真っ白になって、ふらふらしちゃって。だから車のほうは悪くないんだよ」
「どんな薬なんだ?」
「お肌の薬」
「塗り薬でふらついたのか?」
「飲み薬だよ。未認可っていうか、新しく開発された薬のモニターしてたのね。遺伝子に働きかけて身体の中からお肌のハリを保ちます、っていうフレコミだったかな」
 意識不明になり、いつ目覚めるのかわからないまま一年が過ぎた頃、明らかに若返っている彼女の身体にここの教授が興味を持った。彼は、彼女を研究対象とする代わりに、万全の医療を無償で提供すると婆ちゃんに話をつけ、自分の所属する病院に移送させたのだという。
 由佳の説明は、俺が把握している過去の出来事を、隣り合ったパズルのピースのようにカチリと補っていた。そのことを婆ちゃんが伯母さんに知らせなかったのは、単純に、二人の仲を考慮してその必要がないと判断したんだろう。
 もし俺が子供の頃からそのことを知っていたら、どうなっていただろう。きっと、若返っていても、俺にとってはあくまで母親でしかなく……手を繋いで歩きたいと思うようなことも、なかっただろう。
「もうすぐだよ」
 エレベーターで最上階まで来ると、すぐ目の前に仕切りの壁と扉があった。「中学生未満のお子様はご遠慮ください」「関係者以外立ち入り禁止」そんな看板が立っていた。由佳は「ただいま」と受付の中年看護婦に声をかけた。
「あら、おかえりなさい。利弥くんも来たのね」
「俺のこと知ってるんですか?」
「いつも由佳ちゃんから聞いてるもの。あ、先生呼んでおくわね」
 彼女はそう言って受話器に手をかけた。由佳は短く礼を言って、そのまま扉の奥に進んでいった。
「ここだよ」
 由佳の部屋は廊下の突き当たりだった。ドアを開けるとそこは六畳ほどの個室で、夕陽色に染まる街並みが窓から一望できた。なにかの計測器なのか、ベッドの横には見慣れない機械がたくさん置かれていた。ただそのほかにも、テレビ、雑誌、食べかけのお菓子に、服や化粧品なんかも置かれていて、病室とは思えない生活感が漂っていた。どことなく、懐かしさを感じさせる匂いだった。
 しばらくすると、件の教授が姿を現した。由佳は彼を「水谷先生」と親しげに呼んだ。五〇代くらいに見えた。
 水谷先生は簡単に自己紹介し、「こんなもので納得できるかわからないけど」と俺に封筒を渡した。そして、彼女の観察経過について力を込めて語り始めた。若返りの幅は経過時間とともに少なくなっているということ。ここ一年は成長してもいないし若返ってもいないということ。飲んでいた薬が原因としか考えられないが、因果関係は証明できていないということ……とかなんとか。
 いろいろと細かいことを説明されたが、ほとんどが右から左に抜けていった。俺の意識は聴覚ではなく視覚に集中していた。
 封筒の中に入っていたのは一枚の紙だった。俺はその内容を何度も繰り返し確認し、一字一句をなぞるように視線を這わせていた。
 そこに書かれていたのは、由佳との親子関係を証明するDNA鑑定の結果だった。
 一年前に目覚めた由佳は、俺の所在を突き止めるために探偵を使い、科学で裏付けを取ったらしい。髪の毛でも手に入れたのだろうか。そして俺と接触するために、同じ店でバイトをすることにした、と。
 そうか、まあ、そりゃあそうだ。そうでもしなきゃ、いくら親子だって、わかるわけない。
「こういうの、あるんならよ、先に見せろよ」
 こうして形として突きつけられると、なんとも言いようがなかった。つかみきれなかった現実味が、一気に具体化して目の前に横たわった。あなたは由佳に恋をしてはいけません。そう書いてあるように見える。
「うん、ごめんね」
 由佳は静かにベッドを見据えながら、つぶやくように言った。
 俺はトイレに行くと告げて、屋上に出た。鉄の扉が背後で閉まって一人になると、途端に力が入らなくなった。扉に背中を預けながらずるずるとへたり込んだ。
「こんなことばっかりじゃねえか……」
 どれだけ好きになったって、いつも報われない。しかも、知らなかったとはいえ、相手は実の母親で、いろんなことを想像して……最悪だ。変態じゃないか。どうしろっていうんだ。どうしようもないじゃないか!
「くそっ!」
 手の中にあった鑑定書をグシャグシャに丸めて、引き裂いた。紙切れが風に乗り、オレンジ色の空を舞っていく。
 証明書がなくなったって、事実は変わらない。好きになるなら女の子としてではなく、母親としてでなければいけない。どんなに理不尽でもそれが現実なのだ。一を三で割って、割り切れなかった部分は見なかったことにしなければいけない。
 それができなかったら、不幸になるのは俺だけではないのだ。

 一人で帰りたい気分だった。病室の由佳に声をかけると「駅まで送るよ」と言われたが、断った。しかし、それでもついてくる彼女を追い返す気力もなかった。
 陽が沈んでいるせいか少し肌寒かったが、国道沿いにしばらく歩いていると、寒さを感じることはなくなった。
「ね、信じてくれたよね?」
 赤信号で立ち止まると、隣を歩いていた由佳が頃合いを見計らったかのように切り出した。
「ああ、まあな」
 歩行者信号の赤い光を見つめたまま、短く答えた。
「そっか、よかった」
 心底安堵したように由佳が言う。俺はそんな彼女に目を向けることができなかった。彼女の笑顔ですべてが許せてしまうような、そんな気持ちになってしまうことが怖かった。
「これからもよろしくね、利弥」
 突然、左手に柔らかいものが触れた。目をやると、由佳の右手が俺の左手を握っていた。俺は思わずその手を引っ込めそうになった。
「な、なんだよ」
 言葉が口をついて出た。なに考えてるんだ。
「まだ赤信号だからね」
 おどけたように由佳は笑って、繋いだ手を前後にぶらぶらさせた。
「そんなガキじゃねえよ」
「そっか、ガキじゃないっか」
「見りゃわかるだろ?」
「うん、大きいもんね。わたしより大きいよ。あんなに小さかったのにね」
 青信号を渡りきっても、彼女はその手を離さなかった。
「利弥がちゃんと歩けるようになったらね、こうやって手を繋いで、いろんなところに行きたかったんだ」
「だから、ガキじゃねえって言ってるだろ」
 やりきれなくなって、俺は由佳の手を振り切った。もともと繋がっていなかったものが離れただけなのに、なにかが減ってしまった気がした。本当はもっと繋いでいたかった。ずっと繋ぎたかった。相思相愛の恋人同士として、いろんなところに行きたかった。
「ごめんね。もう、大人だもんね」
 と、少し寂しそうに由佳は言った。
 駅に近づくと道が賑やかになってきた。飲食店やコンビニと同じくらい不動産屋もある。由佳はその前を通るたびに立ち止まって、窓ガラス一面に貼られた間取り図を、真剣に見比べていた。
「いつまでも病院にいるのもやだしね」
 そのかたわらで、俺はとある視線を気にしていた。女の子だった。一体いつからそこにいたのか、道の真ん中でなにをするでもなくたたずみながら、こちらを静かに見つめていた。
 目が合うと、彼女は柔らかくほほえんだ。
 どこかで見た顔だった。年齢は俺と同じくらいだろう。とろんと溶けたような瞳に、遠慮がちな薄い唇。長めの髪はわずかな風でもさらりとそよぎそうで、小柄な身体を清潔な印象のワンピースで包んでいた。
 ――橋本知奈美。
 ふとその名前が浮かんだ。小学校六年の頃、「おまえらデキてるんじゃないか」と冷やかされるほどに仲のいい女子が、一人だけいた。中学に上がるのと同時に別のクラスになって、自然と会わなくなってしまったのだが……いや、まさか。でも、見れば見るほど本人じゃないかと思えてくる。
「あの、三浦さん……ですよね?」
 口を開いたのは彼女が先だった。俺が彼女の名前を確かめると、こくりとうなずいて返された。
「久しぶりだな。五年ぶりか」
 思わぬ再会に俺はどぎまぎした。確かに彼女は当時からかわいかったが、思い出の中で美化されているはずなのに、いい意味でしか驚かされない。楚々とした雰囲気を身にまとっていて、胸の奥がぎゅうっと締めつけられるような感じがした。
「そちらの方は彼女さんですか?」
 由佳のことを気にする知奈美に俺は首を振った。
「いや……友達だよ」
 まさか母親と紹介するわけにもいかなかった。由佳もその点について文句は言わなかった。目にゴミでも入ったのか、まぶたをぱちくりさせている。
「そうなんですか。友達とお部屋探しなんですか?」
「別に俺が探してるわけじゃないよ」
「えー、ほんとですか?」
 言って、知奈美は冗談っぽく笑った。その笑みには確かに小学生の頃の面影があった。嬉しくて、くすぐったかった。
 卒業してからどうなったのか、今はなにをやっているのか。話し始めたらきりがなかった。「また今度、ゆっくり話しませんか?」と言われて、メールアドレスを交換した。
「あとでメールしますから、お返事くださいね」
 知奈美は最後にそう言って、人混みの中に消えていった。
「かわいい子だね」
 由佳の声色は心なしか不機嫌そうだった。
「ああ、まあ、そうだな」
「なんとなく、利弥に気があるみたいだったよ」
「んなわけあるかよ」
 当時、俺は知奈美のことが好きだった。今から思えばあれが初恋だったのかもしれない。だが、彼女が俺に想いを寄せていたとは思えなかったし、仮にそうだとしても、今日までずっとその気持ちが続いているわけがない。
「それじゃ、また明日ね」
 改札を抜ける俺に由佳が手を振った。その顔がどことなく不安げに見えた。

         *

 結局、朝の一件以来、リコは姿を現さなかった。やっぱりしょせんはただの噂話だ。「身のまわりに気をつけることだね」と陣内に見送られたが、特になにごともなく家に着いた。
 携帯を見ると、メールが入っていた。知奈美からだった。だが、内容を読もうとしたところで、いきなり画面に「充電してください」のメッセージが表示されて真っ暗になってしまった。
 舌打ちして俺は自室に入ると、鞄を放り出すよりも先に携帯を充電器に置いた。
 朝には満タンだった電池残量は、放課後の時点で一目盛りしか残っていなかった。これまで三日くらいは余裕だったのに、今日はほぼすべてが知奈美とのメールに消費されていた。
 一体何通やりとりしたのか。休み時間になる度に携帯を開くのが楽しみだったし、昼休みはチャット状態だった。授業中も気になって、机の中でこっそり開いたりしていた。新着メールが届いていなくても、前に届いたのを読み返したりもした。
 中には由佳からのメールもあった。受信ボックスの画面の中に、由佳と知奈美の名前が並んでいるのを見て、いたたまれない気分になった。
「今日バイト休みでしょ? 一緒にご飯食べない?」
 由佳からの誘いは、五時限目が終わったあたりに入っていた。まだ返事は出していなかった。
 俺は私服に着替えるとベッドに寝転がった。一通のメールが読めるほどに充電されるまで、何秒かかるんだろう。いてもたってもいられなくて、充電器に載せた状態のまま携帯を開いた。
「今、付き合ってる人はいるんですか?」
 知奈美の質問は唐突だった。一体どんな答えを期待して送ってきたのか……。
「いないよ。どうしてそんなこと聞くんだ?」
「もしいたら、彼女さんに悪いじゃないですか。好きな人が他の女の子と一緒に遊んでたら、わたしだったらつらいです」
 返事は二、三分で届いた。どうやらすぐに返せる状況にあるらしい。
「そっちはどうなの? 彼氏とか、好きな人とか」
 今度はすぐには返ってこなかった。いろいろと勘繰られているのかもしれない。送ったメールの内容に後悔したが、今更取り消せなかった。返信が来るまでに一〇分ほどかかった。
「彼氏さんはいないんですよ。三浦さんには好きな子いるんですか?」
 画面を見つめたまま、しばらく考え込んだ。
 ふとした瞬間、由佳のことを考えることはある。たとえば風呂に入っているとき、今頃なにをやっているんだろうとか、うまいものを食べて、由佳にも食べさせてやりたい、とか。でもそれが、異性的なものなのか家族的なものなのかはわからなかった。
 ただ、少なくとも、夜、なんとなく悶々としたときに、由佳の裸を想像することはしないようになったけれども……。
 いきなり着メロが鳴って、携帯を取り落としそうになった。よりによって由佳からの着信だった。
 出づらかったが、無視するのも気が引けた。電話に出ると、メールで送ってきた件に関してだった。返事がなかったのでしびれを切らしたらしい。
「悪い、今日はやめとく。あんま調子よくなくてさ」
「えっ、どうかしたの? 風邪?」
「別にそういうわけじゃねえけど」
「ふぅん……そっか。わかった。ゆっくり休んでね」
 由佳の口調は、やっぱりどこか子供に言い聞かす母親みたいだった。同じ言葉でも、伯母さんの言い方とは温かさが違った。
 腹の底からため息が漏れた。ひどい罪悪感だった。
 もっとも、彼女の誘いを断ったことと、それとはまったく関係ない。最初にメールを読んだときから、行く気がしなかった。単純に距離を置きたかった。
 知奈美からのメールを再度開く。
「三浦さんには好きな子いるんですか?」
 俺がそれに対して「わからない」という主旨のレスを返すと、またすぐに知奈美からの返事があった。
「よかったら、今度の日曜日に映画を観に行きませんか?」

 学校帰りに捨て猫にエサをやっているところを見かけたのが、そもそものきっかけだった。家の方向が違うので登下校中に会うことはなかったのだが、その日は俺が友達の家に寄り道をしていて、そこから自宅に向かう途中で知奈美の姿を見かけたのだった。
 彼女は成績優秀で人当たりもよかったせいか、学級委員を務めていた。その日はその集まりだかなんだかで下校が遅くなっていて、俺が家に帰る時間帯と重なったのはそのためだった気がする。
 捨て猫は段ボールの中に入っていて、なんたら不動産管理地、という看板の立った空き地に放置されていた。知奈美は給食の牛乳を開けずにランドセルの中にしまい、学校帰りに猫に与えるということを一週間ほど続けているらしかった。
「ほんとはうちで飼いたいんだけど、お母さん動物嫌いだから……あ、三浦くんのうちは?」
「俺んとこも無理だよ。でも、いつまでもここに置いとくわけにもいかないよな……」
「やっぱり、ダメかな?」
「保健所の人に連れてかれるかもしれないぞ」
「えーっ、そんな、どうしよう……」
 不安で涙目になった知奈美に向かって、「どうしようもないよ」とはさすがに言えなかった。すでにそのとき、俺にとって彼女は特別な存在だった。といっても、ろくに話したことなんてなかったし、単純に「かわいい」=「好き」と感じていただけかもしれない。それでも、知奈美の力になりたいと本気で思ったことは事実だった。
 とりあえず危険から遠ざけるため、猫を段ボールごと学校の敷地内に移動させることにした。プールの下に、ちょうどいい隠し場所があるのを知っていた。冬だからそう簡単には見つからないだろうと思った。
 実際、最後まで誰にも見つからなかった。最後というのは、そこに移してから一〇日くらい経った日のことで、その猫が動かなくなった日のことだった。病気のせいなのか、少しずつ元気がなくなっていくのを心配していた矢先だった。
 俺は特に動物好きでもなかったが、そこまで面倒を見ていると愛着を感じていて、それだけに、冷たい猫に触れたショックは隠せなかった。大粒の涙をぽろぽろとこぼす知奈美を見て、取り返しのつかないことをしてしまったと思った。暗くて寒いところを住処にさせた責任が重くのしかかって、押し潰されそうだった。「ごめん」としか言えなかった。知奈美はただ泣いていた。
「お墓、作ってあげなきゃ」
 やがて彼女が涙声でそう言った。俺は段ボールごと猫を抱えて、埋葬場所を探すことにした。知奈美は鼻をすすりながら黙ってついてきた。
 体育館の裏にしようかとも思ったが、昼間もほとんど陽があたらないのがかわいそうに思えて、近くの公園まで足を運んだ。砂場に落ちていたシャベルを使って、木の根元に埋めた。
 うつむいたまま「帰るね」とつぶやいた知奈美の背中に、俺は声をかけられなかった。
 次の日から彼女は俺に話しかけなくなった。完全に嫌われたと思った。俺は机に突っ伏すことが多くなった。なにをやっても楽しくなかった。
 何日か経ったある日、知奈美から声をかけられた。
「いろいろありがとう。猫のこと」
 ただ単に元気が出なかっただけらしい。俺のことが嫌いになったわけではなく、責めてもいなかった。俺は心底救われた気がした。
 それ以来、知奈美とはちょくちょくと話すようになった。学級委員の仕事を手伝ったり、勉強を教えてもらったりしていたので、クラス内で冷やかされることもあったが、結局なにもないまま卒業した。

「ふふ、そんなことありましたね」
 知奈美はそう言ってほほえんで、懐かしそうに目を細めた。
 二人で映画を観たあとなのに、映画の話題ではなく、猫の話題で盛り上がったのは、ごく普通のノラ猫が道端で丸くなっていたからだった。知奈美はその猫を見つけると、小走りするように近づいていって、頭や背中を撫でていた。優しい横顔のその姿が、小学生時代の彼女と重なって映った。
「結局、あの猫に名前つけなかったんだよな」
「そうなんですよね。なんで名前つけなかったんだろうって、すごく後悔したんですよ」
 そのあと彼女からの提案で、猫を埋葬した公園に行ってみることになった。午後一番の上映が終わったばかりだったので、まだ時間は充分だった。距離もそう遠くはないが、歩くにはしんどいほどに離れているのでバスに乗った。乗客はほとんどいなかった。
「猫に触れたことがそんなに嬉しかった?」
「えっ、どうしてですか?」
「そんな顔してるよ、さっきから」
 窓際の席に座った知奈美は、はにかむように笑って「違いますよ」と言った。
「わたしのこと、ちゃんと覚えててくれたんだな、って。五年も前のことなんて、普通、忘れちゃうじゃないですか」
「ああ……まあ、そうだな。他に覚えてることなんて卒業式くらいだし」
「……それって、わたしのこと、卒業式と同じくらい特別だったっていうことですか?」
 知奈美は盗み見るようにこちらに目を向けながら、心なしか紅潮した頬で首を傾げた。わずかに開いた窓から入ってくる風が、彼女の長い髪を揺らしている。甘い香りが鼻をくすぐった。
「そういうことになるのかな」
 俺は否定しなかった。耳たぶが次第に熱くなってくる。
「わたしのこと好きでした?」
 冗談っぽい言い方ではなく、なにかを期待するような含みがその一言にはあった。
「好きっていうか……」
 反射的に言いかけて、言葉に詰まった。目をそらして窓の向こうを見る。もちろんそんなところに答えは書いてない。
「そうだな、好きだったよ。あの頃はな」
 語尾を強調したのは単純に照れ臭いからだった。あの頃は子供だったからとか、本当はもっと色々な言葉でフォローというかカムフラージュしたかったが、うまく言葉が出なかった。
「わたしは今でも好きです」
 俺は思わず知奈美の顔を凝視した。彼女の瞳は今にも零れそうなほど潤んでいた。
 突然、知奈美が身を乗り出して、その次の瞬間には目の前に彼女の閉じたまぶたがあり、唇には不思議な柔らかさがあった。
 キスされている。頭が理解するのに少しかかった。
 驚いて後ろに避けると、ほとんど同時に次のバス停のアナウンスが流れた。
「ごっ、ごめんなさい」
 我に返ったかのように、知奈美は慌てて姿勢を戻した。膝の上で固く両手を握って、耳まで赤く染めていた。
「いや……別に……」
 それくらいのことしか言えなかった。頭が熱かった。
 なにも考えられなかった。今でも好きです。そしてキス。それ以上のことになるとすぐに崩れてしまう。ただ唇の感触だけがはっきりと残っていた。
 バスを降りても、言えたのは「あっちだな」とか、ほとんど意味のない言葉で、知奈美の気持ちに触れることはできなかった。どう応えたらいいのか……どう応えたいのかが自分でもわからなかった。
 公園はバス停から歩いて二、三分だった。
「懐かしいですね」
 ブランコや滑り台は、ペンキが塗り替えられたのか真新しい色合いだったが、広場の中央にそびえ立つ大きな木や、奥に見える神社の鳥居は当時のままだった。
「確かこのへんだよな」
 木の根元を見下ろす。掘っているところを大人に見つかったらやばいと思って、道路のある入り口側ではなく、神社側のほうに埋めていたはずだった。
「はい、そうですね。このあたりです」
 埋めた直後は地面の色が周囲と少し違ったが、今ではもう見分けがつかない。
 知奈美はしゃがみ込んで、左右の手のひらを合わせて目を閉じた。俺もそれにならった。鳥の声も木のざわめきもない静かな場所だ。すぐ隣から知奈美の息遣いが小さく聞こえた。
 俺は立ち上がって、神社のほうに向かって歩き出した。歩きながら考えたかった。
 鳥居をくぐって石段を上る。次第に空気がひんやりとしてきた。
 知奈美が俺に好意を寄せてくれるのは嬉しかった。小学生の頃に初めて好きになった子が、今、俺を好きでいてくれている。ずっと好きでいてくれた。彼女のことをもっと知りたいし、仲良くしたい。キスだって、それ以上だって、したい。
 けれども、どうしても拭えない後ろめたさがある。由佳の笑顔を裏切ってしまうような気がした。
「気にすることないよな……」
 彼女は俺のことを子供としか思っていない。だから、恋愛のことで気がねすることなんてないじゃないか。
 知奈美と付き合ってみるのもいいかもしれない。そう思った。今はまだ、知奈美ほどはっきりとは言えないけれども、また小学生の頃みたいに……いや、それ以上に、好きになれるかもしれない。こういう形で再会できたのだって、運命的な感じがするじゃないか。
「そうだよな……」
 俺は知奈美に伝えようと思って、振り返った。
 目の前に少女がいた。驚く声を上げる間もなく、俺は彼女に首を絞められた。数日前に俺の席に座っていた黒髪の少女、リコだった。
「裏切り者」
 俺はリコの手を引き離そうとする。
 しかし、びくともしない。その細い腕のどこにそんな力があるのか。
 なんだよ裏切り者って。声にならなかった。
 彼女は軽々と俺の身体を持ち上げた。つま先が地面から離れる。
「ぐっ……」
 喉仏にリコの指が食い込む。息ができない。
 脚をばたつかせて蹴りを入れても、リコはまったく動じなかった。
 視界が霞んでくる。知奈美はどこに行った……?
 探そうとした次の瞬間、ガンッと鉄みたいな硬質な音がして、俺は地面に投げ出された。
 ひとしきり咳き込みながら、状況を確認する。
 リコは両手を抱え込むようにしてうずくまっていた。
 そのかたわらには、鉄パイプを振り下ろした格好の知奈美がいた。
 ……意外に大胆なことをする。
「大丈夫ですか!」
 知奈美が駆け寄ってきて、俺の顔をのぞき込んだ。
「ああ、なんとかな」
 リコがおもむろに顔を上げ、鋭い視線で知奈美をねめつけた。
「その男を許すわけにはいかない。邪魔するな!」
「い、嫌です!」
 知奈美は両手で鉄パイプを握りしめた。俺はその手から半ば強引にそれを取り上げて、彼女の前に身体を滑り込ませた。リコに向かって身構える。
「ダメです、わたしじゃないと」
 知奈美が言うが早いか、リコが地面を蹴ってこちらとの距離を詰める。
 俺は鉄パイプを思いっきりなぎ払った。
 金属の棒がリコの脇腹に命中する。鈍い感覚が手に伝わってきた。
 骨までやったかどうかはわからないが、少なくともただではいられない……はずだった。
 確かに彼女は衝撃で体勢を崩した。だが、それだけだった。
 一瞬、彼女は不敵な笑みを浮かべた。痛みを感じているそぶりなどまったくなかった。
 俺はリコに胸ぐらを捕まれる。世界が一回転した。背負い投げの要領で石畳にたたきつけられ、思わずうめき声が漏れた。
「残念ね。現実はユメを殺せないの」
 淡々と彼女は言って、地面に落ちた鉄パイプを拾った。
 俺はなんとか起き上がろうとするが、頭がくらくらして思うように身体が動かない。
「お願いです、やめてください!」
 俺とリコの間に知奈美が横から入った。なに考えてるんだ。
「逃げろ! 知奈美!」
 叫ぶと、知奈美が俺のほうを振り返った。
 名前を呼んだせいなのか、それとも、なにかを言いたかったのか。
 振り返りざま、長い髪がふわりとふくらんでいた。そしてその頭上から、銀色の金属棒が迫っていた。
 そのようすが、なぜだかスローモーションで見えた。
 実際にはほんの一瞬だった。振り下ろされたそれを防ぐ手だてなんてなかった。
 嫌な音がした。
 鉄パイプは頭部を直撃していた。
 操り人形の糸を切ったかのように、知奈美はその場に崩れた。
「ちな……知奈美っ!」
 俺は彼女に呼びかけた。
 知奈美はぴくりとも動かない。
「ウザいのよ」
 吐き捨てるようにリコは言った。
 俺は横たわる知奈美の身体を揺すった。反応がない。
「おい、知奈美、知奈美!」
 さらに強く揺すったが、まったく動かなかった。
「なんでだよ……知奈美は関係ないじゃねえか!」
「ろくでもない男に熱を上げるからこうなるんだわ」
 嘲笑うように見下ろしながらリコが言った。
「ふざけんなよ……こっちの気も知らねえくせに、勝手抜かしやがって」
「男の気持ちなんてわかりたくもない!」
 リコが鉄パイプを振り上げる。
 俺は反射的に頭を引っ込め、腕を上げた。
 だがその武器が振り下ろされることはなかった。
 リコの背後から、その腕を鷲づかみにする人影があった。由佳だった。
「……バ、バク!」
 振り返ったリコの表情は、俺のところからは確認できなかった。ただその声は悲鳴に近かった。
「あなた、最低だよ」
 汚いものを見るような目でリコを見据えながら、由佳は言った。そして、その腕をつかむ手とは反対側の腕を突き出し、彼女の身体を押した。
 リコがよろめく。よろめきながら消えていく。その光景に俺は目を疑った。髪も、顔も、制服も、砂のように崩れて飛び散っていった。最後には鉄パイプだけが残されて、地面に転がった。
「利弥、大丈夫?」
 由佳は腰をかがめて俺の腕や脚に触れる。
「今のは一体……」
「きっとどこかの変な噂話だよ。ただのユメが想像の世界から出てきただけ。もう消したから大丈夫だよ」
「消した……ってよ、そんなことより、救急車! 知奈美が頭を殴られたんだ!」
 俺は声を張り上げたが、由佳は力なく首を振った。
「……ダメだよ、利弥」
「なにがダメなんだよ!」
「利弥……」
 由佳はなにかを言いかけたが、いたたまれなくなったかのように背を向けた。
「なんなんだよ!」
 俺は駆けだして由佳の背中を追った。こんなことになるなら、携帯を忘れたことに気づいたときに引き返せばよかった。家を出てからたった二、三分だったのに。
「おい、携帯貸せよ!」
「救急車なんか呼んだって意味ないよ!」
「いいから貸せって!」
 由佳を捕まえると、バッグから強引に携帯を奪った。すぐさま119番に掛けて状況を伝える。
 俺は知奈美の元に戻ると、彼女を仰向けにして肩を抱き上げた。特に出血しているようすはない。息もあるが、ぐったりとしている。なにかできることはないのか。応急処置。人工呼吸のやり方だって覚えていない。そもそもそんなのここでは無意味だろう。
「知奈美、救急車呼んだからな」
 なにも応えてくれなかった。
 由佳はかたわらにたたずみながら、静かにうつむいていた。
 サイレンの音が公園の入り口で止まって、担架を持った二人の男が駆け足でやってくる。「ここです、こっちです」と俺は手を挙げた。
「負傷者の方はどこですか」
「この子です、鉄パイプで頭を殴られて、全然、意識もないみたいなんです!」
 俺は知奈美を抱えながら説明したが、救急隊員は「は?」と気の抜けたような声を出した。いかつい顔の隊員が口元をへの字に曲げて、不愉快そうに口を開いた。
「あのねえ、君。いたずらは困るんだよ」
「嘘じゃないんです! 早く、助けてあげてください!」
「……助けるもなにも、君も彼女も元気そうじゃないか」
 隊員が「彼女」と言って目をやったのは由佳のほうだった。
「いいかげんにしてください、この子ですよ!」
 俺は知奈美を抱え上げて詰め寄ったが、隊員はため息をつくだけだった。
「いいかげんにするのは君のほうだろ。この子この子って、君と彼女以外にどの子がいるんだ?」
 隊員の二人は露骨に怒りをあらわにしながら、俺の前から去っていった。
「もう、まわりの人には見えないよ。存在力がなくなってきてるんだよ」
 ぼそぼそとつぶやくように由佳が言う。
「……なんだよそれ。俺の目の前にちゃんといるじゃねえかよ」
「それは利弥が想像主だから……」
 ふと見ると、知奈美の身体が先程の少女と同じように消え始めていた。細胞単位までばらばらになるかのように、足の先や手の先からなくなっていく。
「お、おい、なんなんだよ、やめてくれよ!」
「……さん」
 知奈美がうっすらと目を開けていた。なにかを言おうとして、口を小さく動かしている。
「知奈美、どうした?」
 俺は彼女の口元に耳を近づけた。
「お願いがあるんです」
 自分が消えかかっていることがわかっていたのか、いなかったのか。完全に消えて重みすらなくなってしまう前に、蚊の泣くような細々とした声で、彼女は言った。
「できたら、わたしのこと……また、好きになってくれませんか?」

 最初に会ったときから、由佳は知奈美がユメであることに気づいていたらしい。
「右目は現実だけが見えるんだけど、左目は現実とユメが両方見えるの。だから、ユメだけは奥行きが変な感じだし、片方ずつ見比べればすぐわかるんだよ」
 帰りのバスに揺られながら、彼女はそう説明した。意識不明で眠り続けている間、そういう力を与えられる夢を見ていたのだという。現実世界に出てきたユメは謀反者であり、それに制裁を加えることを使命とする代わりに、目覚めることを許されたらしい。
「どっちみち、知奈美は消される運命だったってことかよ」
「そのほうが利弥のためだよ。使命とかじゃなくてね、本当に利弥のことを考えてそう思うの。ユメと付き合ったって、最初はいいかもしれないけど……いつかおかしくなっちゃうんだよ。ユメは成長しないから」
 どうせ傷つくなら早いほうが浅く済む。だから由佳は俺たちのあとを尾行していた。デートが終わって知奈美が一人になってから、消すつもりだったらしい。結果的に、由佳が知奈美に手を下すことはなかったわけだが。
 一週間が経って、学校内でリコの噂がぱったりと出なくなったことに気づいたが、どうでもいいことだった。知奈美はユメだった。ただそれだけだ。思い出の中の初恋の少女が理想化されて、想像の世界から出てきただけだったのだ。
 寝ている間に見た夢は起きたらすぐに忘れてしまうが、知奈美の存在が占めていた部分は、空洞としてぽっかりと残って埋まらなかった。彼女の声や唇の感触は、俺にとっては確かに現実だった……。
「なあ、俺が見てたのはユメの知奈美だよな。本物の知奈美は、どうなってるんだ?」
 バイト帰り、ふとそんなことを思いついて由佳に訊ねた。
「今どうしてるかはわたしにはわからないよ。でも、ユメがいなくなったからって現実の本人には関係ないよ」
「そうだよな、ただの想像だもんな……」
「会ってみれば? 結構、利弥の想像通りの女の子だったりするかもよ。わたしも手伝うよ?」
 由佳は相変わらずあれこれと口を出してきて、よく言えば親身なのだが、今はうざったく感じることのほうが多かった。そんな彼女につっけんどんな態度を取ってしまうこともあったが、変わらず接してくれた。
「でも、いきなり誘い出したって、のこのこ出てこないだろ、普通」
「うーん、そっか。手紙でも書くとか。わたしだったら会ってみたいって思うかも。初恋なんでしょ?」
「俺にとってはそうだけどさ。現実はどうだか」
 最終的に、無難な路線で同窓カラオケ大会を企画することにした。
 知奈美が参加するか不参加になるかは賭けだったが、ダメだったらそれはそれで元クラスメイトとカラオケを楽しんで、また次の方法を考えればよかった。
 卒業アルバムを参考にして、元クラスメイト全員に案内状を送った。数日で返信ハガキが次々と返ってきたが、知奈美からのものはなかなか届かなかった。郵便事故の可能性とか伯母さんの度忘れの可能性とか、考え始めると落ち着かなかった。
 もしかしたら、彼女にとっては小学校の頃のことなんてどうでもよくて、返信ハガキを投函することすら面倒なのかもしれない。
 そんなふうにすら思い始めたとき、締め切りの三日前に知奈美からの返信は届いた。家のポストをのぞくのが習慣としてすっかり染みついた頃で、期待も薄れてため息ばかりついていた頃だった。
 ハガキ裏面の署名欄に、女の子っぽい小さな字で「橋本知奈美」と書かれていた。カラオケは、参加のほうに丸がついていた。

「来るなら連絡くれればいいのに。どうしたの?」
 ベッドで漫画を読んでいた由佳は、起き上がってちょっと意外そうな顔をした。俺がこの病室に来たのは最初の一回きりだったし、寄るつもりもなかった。なかったのだが、会いたくてたまらなかった。
 由佳の顔を見た途端、冷たい身体を風呂で温めたみたいにじんとなった。
「一緒にメシでもどうかと思ってさ」
「めずらしいね、利弥から誘ってくれるなんて。いいよ、準備するから外で待ってて」
「屋上に行ってる」
 俺は階段を上って屋上に出た。世界はオレンジ色に染まっている。以前にここに来たときも同じような景色だった。
 俺は金網に近づいて、地元の街がある方角を眺めた。さすがに一時間分もの距離があると、霞んでしまってまったく見えない。
「今日、カラオケじゃなかったの?」
 背後から由佳に声をかけられた。髪を整え、服も着替えていた。少しだけ化粧もしているようだ。俺はそんなに長く突っ立っていたんだろうか。
「もう終わったよ。昼からだったからな」
 夕飯をかねた二次会に多くのメンバーが流れ、知奈美もその中に含まれていたが、俺は適当に理由をつけて参加しなかった。カラオケ自体、途中で抜け出したいくらいだった。
「どうだったの、知奈美ちゃん」
 由佳は俺の横顔をのぞき込むようにしながら、遠慮がちに言った。
 脳裏に知奈美の姿がよみがえる。派手な色に染めたバサバサの髪と、パステルカラーのマニキュア。短いスカート丈。外国人みたいな身振り手振りだった。
「会わなきゃよかったよ」
 俺は下唇を噛んだ。がっかりだとか、残念だとか、そういう感情は通り越してしまっていた。
「かわいくなかったの?」
「そういう問題じゃねえよ。ただ、違いすぎて……見た目も中身も、あまりにも、さ。俺のこともほとんど覚えてないって」
「そうなんだ……」
 由佳は静かに相槌を打った。
「彼氏も三人いてさ、財布とかバッグとか、いろいろ買ってくれるんだってよ。『全然ヤバくないよ、あいつバカだもんあはは』ってさ。笑っちまうよな」
 いつしか声が湿っていた。目頭が熱かった。悲しいのか悔しいのかみじめなのかわからなかった。ユメの知奈美が最後に言った言葉を思い出すと、えぐられるように胸が痛んだ。
「泣いちゃダメだよ、男の子なんだから」
 あやすような口調で言いながら、由佳は俺の頭を撫でた。「よしよし」とまるで子供扱いだったが、不思議と気持ちが落ち着いた。いつまでもそうしてほしかった。彼女ならそうしてくれる気がした。だからこそ、俺はここに来たのかもしれない。どんなときでも、どんな俺でも、優しく迎え入れてくれる。
「わたしちょっと電話してくるね。お店、空いてるか訊いてみる」
 由佳はきびすを返した。気を利かせたつもりなんだろう。
 俺は振り返って彼女を呼んだ。

「お母さん」

 由佳は立ち止まって俺を見た。くるりと大きなその瞳が、虚を突かれたかのようにさらに大きくなっていた。
「ありがとう」
 彼女は「うん」とうなずいて、満面の笑みを浮かべた。雲ひとつない青空みたいな、すがすがしい笑顔だった。つられて俺も笑った。
「行こうぜ、店なんかどこでもいいだろ?」
「利弥がいいなら、いいよ、ラーメンでもハンバーガーでも」
「じゃあ親子丼な」
「ふふ、それもいいかもね」
 俺が歩き出すと、由佳も肩を並べた。彼女の右手が俺の左手を握った。一本ずつ交互に指が絡んでいた。嬉しそうな彼女の顔を横目にしながら、俺はその手をしっかりと握り返した。


2005/09/08(Thu)01:55:28 公開 / 栖川唯貴
■この作品の著作権は栖川唯貴さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
初めまして。雰囲気小説だなぁと思います。セカチューとか、いま会いにゆきますとか……ああいう系統は嫌いじゃないんです。ふわふわした感じが。最後はちょっと煮え切らない感じを出してみたつもりです。普通は母親と手なんか繋ぎませんからね。本当に『俺』は彼女のことを母親として認識してるのか? 結局『俺』は単に甘えたいだけで、リコの指摘通り、浮気者なのかもしれません。
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