- 『シンの恋』 作者:浅葱 / 恋愛小説 未分類
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全角50420文字
容量100840 bytes
原稿用紙約158.05枚
同級生を、「幼馴染」とは気づかずに惚れてしまった「僕」。はっきり言って、めちゃくちゃ戸惑っている。けど、この恋をきっかけにして、僕は少しずつ変わっていける気がする。ていうか、変わっていきたい。ホント、少しずつでいいから。
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陰気くさい。
人は僕をそう呼ぶ。高校一年で、昼休み中ずっと教室のど真ん中で本を読んでいれば、自然とそうなってしまうものなのかもしれない。
「現代の若者は本を読まない」といわれている。それはこの高校でも例外ではい。どいつもこいつも、新聞すら読まないようなアホ面ばっかりだ。自分達がそこでどんなことを言われているかも知らないに違いない。
全く、テレビだとかゲームだとかが多すぎるからこんなことになるんだ。いや、僕もテレビも見るしゲームもするが、学校で『本』の話題が出てきたことが一回でもあったか?
とにかく奴等が多すぎるから僕のような人間が肩身の狭い思いをする羽目になるのだ。いくら僕が馬鹿だからって、影で何を言われているかなんてことは手にとるようにわかる。「オタコン」とか、「本だけがお友達」とか、どうせそんなようなことだ。
教室で本を読むことはもう無理だ。これ以上あそこで本を読むなんて、公衆の面前で「キティちゃん大好き!」と叫ぶぐらいどうかしている。
そう思ったからこそ、自分の居場所を教室から図書室に変えたわけだ。どうせ教室はうるさいし、あそこで読んでればますます陰口が増えるんだろうと思ったからだ。
全く、逃げるようで情けないったらない。くそ、馬鹿どもめが。馬か鹿ならグラウンドにでもいって走って来いといいたいところだが、馬鹿の方が多いんでそんなこといえやしない。どっちの動物にも蹴られるのが落ちだ。
まあとにかく、これからは状況は少しはマシになるはずだろう。図書館だったら近所に市立図書館があったから、わざわざしょぼい学校の図書室なぞへは行かなかったが、考えてみればどんなに小さくても図書室は図書館なのだ。きっと静かで、整っていて、本を読むのにはそれこそ最適な……。
なんだこりゃ?
僕は呆然となった。口があんぐり開くのが、自分でも分かった。
昼休みの図書室は、一言で言えばうるさすぎるのであった。
……ふざけんじゃねえぞ。
図書室の中は、男も女もごった返して、何か下らない冗談を言って笑っていたのである。これじゃ教室と変わらないじゃないか。ただでさえ標準より狭い図書室だから、人口密度は異様に高い。
ていうか、なんであの司書(という名のおばさん)はあいつらと一緒にしゃべってるんだ?一体何の仕事して給料もらってるんだ。最近の教育現場はこれだからいけない。
くそ。僕は舌打ちをした。
教室であれだけしゃべり散らしているくせに、ここまで来て何をそんなにしゃべるんだ?どうせ家に帰っても携帯使ってちゃらちゃら喋るんだろうが。
「あー!てめーらいいかげん静かにしやがれ!」
それは心の中の叫びで終わった。
情けない。
とはいったものの、しゃべり場と化してもここは一応『図書室』なのだ。『図書室』で本を読むんだから、別に変でもなんでもない。
僕は騒音に耐えながらも、とりあえず並んである本に手を掛けることにした。
……あれ……これって……マジ?
騒音の中、一人感動している自分がいた。多分、真面目に本棚に向かって行ったのは僕だけだったと思う。
市立の図書館では絶対に『貸し出し中』の本が、そこにはズラリと並んであったのである。考えてみれば当たり前なわけだが、これだけ本を読む奴が少ないと、図書室を『利用』する人間も少なくなるわけだ。市立の図書館にわざわざ来るような人はほとんど、本に用事があるような人ばかりだから、話題の本というのはほぼ間違いなく貸し出し中なわけだ。
それでいて、この作家陣。これらの本の選別は、あの司書が行ったんだろう。
あのおばはん、なかなかやるじゃないか。どん底の評価は少しだけ上がった。あとは、あのニワトリどもを黙らせろ。いや、その前にお前が黙れ。そうすりゃ汚名は返上してやる。
とにかく、こうして僕はその図書室に通うことになった。部活の無い日には放課後にも行くことにした。
そんな生活を始めて半年。一年生だった僕等は二年になり、当然クラス替えもした。あの猿たちから解放された……と思ったら、二年の教室には別の動物達が住み着いていた。仕方なく、僕はまた図書室に通い詰になったのだった。
事件は、ちょうど桜が散り始めた頃に起こった。現場は、あの図書室だ。
5月13日。金曜日。あとで考えると、この日を境に僕の高校生活は大きく変わっていったと思う。
最後の鐘が鳴った。数学の張り詰めた空気が終わりをつげると、どいつもこいつも部活に向かって教室を飛び出していった。
金曜日は部活の無い日だから、いつものように図書室へ向かった。
昼は動物園みたいな図書室も、放課後に行くと雰囲気ががらりと変わる。動物どもが皆部活にいってしまったせいだ。人はせいぜい2、3人。司書は黙々と書箱を整理中。誰も喋る者はいない。黙って本を探し、本を読む。これこそがまさしく『図書室』の雰囲気だ。
僕は新着図書を片っ端からあさり始めた。タイトルと帯びを見て、内容がよさそうなものを探す。
『死体はしゃべる』
間違いなくグロテクスだ。
『殺し屋』
左の奴と同じだな。
『冬のノクターン』
ドラマのノベルは台詞ばっかりだ。
僕だってどんな本でも読んでいるわけじゃない。時代小説とかファンタジーなんかは僕の好む分野ではない。昔のことなんか歴史の授業だけで充分だし、漫画で見ればいいようなものをわざわざ小説で見ることはないと思う。激しいアクションなんかは映画や漫画の方がいい。
と、棚の上の方に目がとまった。新刊なので、表紙が見えるように置いてある。背景は青い空。写真の女性の長い髪が、風になびいている。でもその女の人の顔は、うまい具合に見えない角度にある。
『春風 片山京香』
お?片山京香の新刊か。
右手を伸ばした。本の背表紙をつかむ。
「あ……」
思わず出されたような声が聞こえた。
手を止めた。横を見た。
僕の血は凍りついた。
女の子が左手を伸ばして立っていた。上履きの色を見ると、どうやら同学年らしい。僕の取ろうとした本を、ちょうど彼女もとろうとしていたようだった。いや、今そんなことはどうでもいい。
「あ、あ、あの」
くそ。これじゃあ後ろめたさが丸出しじゃないか。
何が後ろめたいかって、片山京香。彼女は、恋愛小説の専門家なのだ。
声の調子をなんとかしろ。どもりをどうにかしろ。
「か、借りたいんなら、どうぞ」
ちくしょう、だめだ。
「え?」
彼女はきょとんとした顔でこっちを見た。
くらりときた。
どうしよう、逃げ出したい。ふだん人と話さないからこんな時に苦労するんだ。
彼女のその「え?」は少し高めのアルトだった。それでいて、まるで赤ん坊のように無垢で幼い。
次に何を言えばいいんだ?そういえばここ半年間、女子と言葉を交わしたことは全く無かった。緊張もするわけだ。
「ありがと」
彼女は本を手に取ると、それをカウンターへ持って行った。
あら。あなたここ使うの始めて?はい。じゃ、学年とクラスと番号言って。2年5組……。
僕はただ馬鹿みたいにそこに突っ立っていて、彼女と司書のやり取りを眺めていた。
口がぽかんと開いているのに気づき、慌ててそれを閉じる。
気づいたら、図書室には僕と司書だけが残されていた。
恋愛小説を見ている男を、女はどう思うのだろう。
僕が恋愛小説をこれまで避けてきたのは、そんな思いが原因だった。
女子の目の前でエロ本を平気で読む男子生徒。そういう馬鹿どもが、女子にどんな目で見られているかは知っている。
僕は『陰気臭い』などと敬遠されているが、本を読んだことのない女子に、気味悪く思われようがどうってことはない。
だが、いつでも静かでつつましく、本もそれなりに読むような娘……つまり僕の好む女の子のタイプ……に『スケベ』と思われるのは絶対に嫌だった。僕だって一応男だから、好みの女子にはよく思われていたい。
エロ本と官能小説は同じようなもんだし、最近の恋愛小説の中には必ずといっていいほど官能的なシーンが含まれている。いくらか美化されているにせよ、男と女が交わることに変わりは無い。
男が恋愛小説を読むこと……それが公になるということは、「俺は恋愛がしたいんだ!」って叫んでるようなもんじゃあないだろうか。
だから、それが好きな奴とは周囲に思われたくなかった。片山京香の本にはまっていることだって、出来る限りバレないように……。
だが、ばれてしまった。
家に帰って、ベッドに倒れこんだ。何もする気が起きない。確か今日は、英語の宿題が出てたはずだ。だが……知るか、そんなもん。
僕は天井を見上げながら、あの子の顔を思い出そうとした。
顔はほっそりしていて、やさしそうな感じだった。平均よりほんの少しだけ黒い肌。あの雰囲気は、あまりクラスの中で騒いでいるような女子じゃない。髪の毛は短く切りそろえられ、微妙に茶髪がかっていたが、あれは多分地毛だ。華奢な体つきで、ちょっとでも触れると粉々になってしまいそうな細い腕……。
要するに、可愛かった。
あれなら、もう男がいるんだろうな……。胸の奥がシクリと痛んだ……くそ。なんだっていうんだ。
彼女と司書との会話を思い出そうとした。
学年とクラスと番号言って。
2年5組と言っていた。
2年……5組?
って、うちのクラスじゃないか!
僕は人の顔と名前を覚えるのが最強に苦手だ。今度のこの件だって、ことの重大さに気づくのが遅かった。あの場で彼女がうちのクラスだと分かっていれば、いくらでも言い訳できただろうに……。別のクラスの奴なんだからあんまり気まずくもないかな……などと、僕が無意識に考えていたのだろう。つくづく甘い。普段から妥協をしすぎていると、ここぞというときに諦めてしまう。とは、どっかのスポーツの本に書いてあったことだ。
問題はそんなことではない。
彼女が明日からどう動くかで、僕の居場所がどれほど狭るかが決まる。まあ既に彼女にあの現場を目撃されたわけだから、いくらかは狭まってるわけだけれども。
彼女はおしゃべりなタイプではない。クラスで目立つような女子ならば、僕の小さな頭の片隅にも、その顔が残っているはずなのだ。
では、あまりしゃべらないタイプなのか?うん。これは多分そうだろう。
だが、しゃべらない人間には種類というものがある。
単純に、人付き合いが苦手だったり嫌いだったり、諦めている人間。
対して、人付き合いはいいけど、話題がなかったりして、主に聞き役の人間。
まあ、僕の場合、80%くらいは前者なのだろう。残りの20%は、誰も本を読まないので、本に関する話題がなくてつまらないせいもある。
彼女の場合はどうなるのだろう。
前者だったら僕は大方救われるのだが、後者だったら困る。何故なら話題がないということは、『話題を探している』ということなのだ。そして、人の噂話を女子は好むということを、僕は知っている。特に目立たないような女子こそ、影の方ではチクチク言っているものだ。
とにかく、全ては明日にかかっているのだ。明日、皆の目線が僕に注がれているようだったら……。
考えただけで背筋が凍った。
単なる思い込みかもしれない。だが、僕はもの凄く気になった。
彼女は今、僕のことを考えているのか?僕のことを気持ち悪いとでも思っているのだろうか。それとも……。いや、それは、ないな。
彼女(くそ、名前も聞いておけばよかった)は、どんな人間なんだ?それが、今、知りたい。どんな重要な英単語よりも。
英単語?
「やべ!」
僕は慌てて英語の教科書を広げた。
睡眠時間が2時間ほどつぶれた。
拍子抜けした。
わざわざ遅刻までして皆の顔色をうかがったのが馬鹿みたいだった。皆の僕を見る目は、昨日までと全く同じだったのだ。つまり『無関心』という奴だ。
「天宮クン、遅刻だヨ」
そんなことは分かっている。というか、それを狙ってきたのだ。皆の目がどういう光り方をするか、それを確かめるためだった。
そして、2年5組の担任だが、僕は未だにこれの名前を覚えていない。まあ、皆がこの人を『ボーラー』などと呼んでいることは確かだ。あだ名の由来は知らないが、この教師は至って事務的で、この人の授業でいまだ『眠らなかった』生徒はいないという、ある意味では伝説の教師だ。
僕は鞄をどさっと置く。
思わず大きなため息が漏れた。なんだか重大な一仕事を終えたような気分だ。実際には僕は何もしていないのだけれど。
だが、まだ事件は残っていた。
彼女は……?
彼女は……言わずと知れた『目撃者』は……窓側の一番後ろという、超特等席に座っていた。教師の目線は気にしないで済むが、集中しようと思ったときに黒板が見ずらい。
僕はといえば、教室のド真ん中に位置する席だ。黒板は見やすいのだが、教師の視線の基本点になっている。どの席にも欠点はあるものだ。
彼女は窓の外を見やっていた。前の女子のおしゃべりには参加しようともしない。僕はそんな彼女の横顔を、食い入るように見つめている。周囲に感づかれると面倒なので、時折目を逸らす。だが、実際は誰も僕のことなど見ていなかったかもしれない。
と、その時だ。
彼女は鞄の中からブックカバーに包まれた本を取り出すと、丁寧にそれを開き、ページに視線を落とした。
衝撃的な光景だった。N極とN極が反発しあうなんてのは磁石の話で、人間だったらそうはならない。とにかくその瞬間、僕の心の中は、彼女に対する深い好感のようなものに支配された。
教室の中で、本を読む。
そんな人間が……僕のほかにもいたというのか。
彼女に本というのは、あまりにも似合いすぎる。かすかに見える横顔は、真剣そのものだった。更によく見れば、彼女の茶色い目は少し潤んでいた。どうやら物語りは佳境らしい……。
「…みや……天宮!」
後ろを振り返った。同じ剣道部の梶木がそこに立っていた。
「何をぼーっとしてんだよ、さっきから何回も呼んでんのに」
「別に」すっとぼけた。僕が今どこを見ていたかなんてことは、誰にも知られたくない。大体こいつは人一倍軽い奴なのだ。
「で、なんだよ」
「金貸してくれ」
「は?」
「かね・貸してくれ」
こんの大馬鹿野朗。そんな下らないことで俺を呼んだってのか。
「なんでだよ」自分でも分かるくらい、僕の声はいらついていた。
「それがさぁ、どおおしても欲しい本があってさあ」
ほう、この馬鹿もついに本を読むようになったか。
「なんて本だよ」
梶木は僕に耳打ちをした。
「里見彩香の写真集。お前にもみしてやるからさ。な?なんなら部室に置いてある俺のコレクションを一冊……」
「帰れ、お前」掛け値なしの本心だ。
僕は再び彼女に視線を戻した……が、彼女はすでにそこにいなかった。どうやら女友達に呼ばれたらしい。
梶木ィ……!
僕は思いっきり歯軋りをした。そうとは気づかずに、奴はぶすっとして言い放った。
「なんだよ……お前だって興味あるくせによ……」
どんなに暗い奴でも一生懸命やってれば、部活の仲間とは楽しくやっていける……という僕の見解はそこそこ当たっていると思う。梶木(という名のエロティック男子)が消えたあと、僕は再び独りになった。
部活の仲間と話すことはいいものだが、今回ばかりは梶木が消えてくれて助かった。教室の中で独りになってから、僕はひとり物思いにふけった。
一体、この気持ちはなんなんだ?無意識のうちに、やたら彼女を見ていたり、それを邪魔する梶木に腹を立てたり、彼女の顔を出来るだけ正確に頭に映し出そうとしたり……。
まさか……。
まさかまさかまさか……。
これは……こ…。
いや、馬鹿な。僕が昨日の今日で人を好きになったりするわけがないじゃないか。小説に出てくる主人公じゃないし、一目ぼれなんてのは僕にはまずありえない。一目ぼれってのは、要するに外見だけで惚れたってことだろ?僕がそんな状況に簡単に陥ってしまったなんて自分で認めたくない。
しかし……僕は、外見だけで彼女に惚れたのか?
彼女は僕と同じ(近い)種類の人間だ。いくらか綺麗な顔をしているにしても、性質は変わらない。共鳴……なんてのは僕が一方的に彼女を思っているから通用しない言葉かもしれないが、僕は同じ種類であるが故に彼女に惹かれ……。
はっとした。
いつのまにか、僕は『彼女が好き』だと自分で認めている。冗談じゃない。僕が彼女みたいな可愛い娘とつりあうわけがないじゃないか。振られて傷つくのがオチだ。そもそも、僕は親しい友達だって全然いないのに、『彼女(GF)』なんか作れるわけがないだろうが。ていうか、彼女の名前も分からないのに、『愛』だの『恋』だのなんて全く馬鹿げている。
じゃあ、名前を覚えればいいのか?
……。
ああもう、うんざりだ!
机に両手を叩きつけた。一瞬の、しかし、ばかでかい音が教室に響いた。
おしゃべりがピタリと止む。叩いた直後に後悔したが、もう遅い。皆の視線を痛いほど感じる。誰かなんか冗談でもいってくれればいいのに、こういうときに、誰も何も言わない。彼女がその場にいなかったのが唯一の救いだ。
僕は教室の目という目から逃げるように、そこを飛び出した。教室のドアを閉めると、何事もなかったかのようにざわめきが蘇った。
好きじゃねえ。あんな奴、好きじゃねえ。
こういうのを、無駄な努力というのだ。
実際には、僕は図書室へ行き、いつのまにか彼女の姿を探し始めていた。だが、彼女は部活のお仲間に呼ばれていったわけで、当然そこにはいない。
もういいかげんはっきり認めなければならない。よく言うじゃないか。『惚れるだけなら自由だ』と。僕の今のこの状況は、そういうものだ。自分をごまかしそうとしたってそんなことはどのみち無理だ。
動物は本能に基づいて行動する。人間も結局は動物なのだ。理性も本能に屈服せざるを得ない。その本能がこういっている。
「僕は、彼女に恋をしている」
昨日の今日で『恋』だ。そうなってしまったのは、僕が軽い人間だからじゃない。たった二日間で僕を惹きつける何かを彼女が持っていた。ただ、それだけのことだ。
僕は保健の授業などそっちのけで、2年5組の名簿を(初めて)真剣に見た。名簿は出席番号順だが、座席はそうではない。クラス替えの当初は番号順なのだが、あの騒がしい女子どもが「この席やだー!」などとほざき、いつのまにか席替えとなってしまった。
どんなに付き合いが悪くても、やかましい奴の名前というものは嫌でも覚えるものだ。僕は名簿からそいつらの名前を片っ端から消していった。残ったのは7人だ。なんで7人もいるんだ……と思ったが、それは要するに自業自得という奴だ。
いや、そもそもなんで席替えしたのに座席表を作ってないんだ?うちの連中は、後始末をちゃんとしないからたちが悪い。
くそ、一体どれだよ……。残ったやつを適当に読み上げてみる。
加藤直子。
斎藤望。
山田亜美。
長島静香。
稲本ちはる。
あれ?ちはるってこの学校だったのか?
「稲本さん。じゃあここを読んで下さい」
意識がウシガエル教師のだみ声に戻った。異様なほど気持ち悪い、じゃなかった、優しい声でそう言ったのは保健の野島だ。ちなみに、オスである。
次の瞬間。
「私達が結婚をする際には、両者の心身の健康と……」
窓側の一番後ろの席から。
あの声がした。
稲本・ちはる……?
僕は無意識に首が窓側の一番後ろへ向けられていることに気づき、無理やり顔をもとに戻した。
ちはるが……。
あの、ちはるに……。
俺は惚れちまったのか。
「結婚をする際には」
もう彼女は読み終えたようだったが、僕の頭の中ではあの少し高めのアルトの声が何回も繰り返されていた。
「結婚をする際には、結婚をする際には、結婚をする際には」
内容もそういうものなだけに、考えるだけで顔が熱くなる。
ちはる……。
「天宮」
冷たい声で、僕は一気に現実に引き戻された。野島だ。どっちにしてもウシガエルはウシガエルでしかないのだが、異性(異種)とはうってかわって同性(どっちにしても異種)への語調は、見下すようないやらしさがあった。
「ここを、読め」
命令口調だ。ここって、
「どこですか?」
「お前、聞いてなかっただろう」
それはお前の授業がつまらないからだ……なんていう本心を言える生徒はかっこいいと思うが、同時に馬鹿だとも思う。仕方ない。全国の高校生が、同じような気持ちでいるのだ。
「……はい」
一応、反抗心丸出しの態度だった。野島をにらみつけ、返事は低くした。だが、そんな心境へは見向きもせずに、野島は続けた。
「飯田さん。43ページの8行目を読んで下さい」
僕は聞こえないように舌打ちをした。飯田の時は行数まで教えやがって。女子に優しいのは別に紳士なんかじゃねえぞ。このスケベガエル。お前にはホルモンなんか出てない。出てるのは油だけだ。
最近、学校での事件が多発しているというが、要因は教育がわにもあるのかもしれない。
だが、そのすぐ直後にちはるのことを考えてしまうあたり、僕はすでに相当彼女に惚れているのだった。
このへんで事情を説明しておかねばなるまい。
天宮というのは察しの通り僕のことだ。天宮と書いてアマミヤと読む。天と宮なんて、平安時代からみれば最強の組み合わせなのだろうが、現代の視点から見ると、かっこ悪いとしか思えない。命名者はよほど高慢で馬鹿な男だったに違いない。(それでも一応僕の先祖なのだが)素直に『雨宮』とか『天野』とか、メジャーなものにして欲しかった。
で、名前は、心。キモい名前だと言わないでくれ。そんなことは充分分かっている。一応断っておくが、これは『ココロ』と読むんじゃなくて『シン』と読む。シンイチとかそういうのじゃなくて、ただの『シン』。でも、9割がたの初対面の人間はシンではなくココロと読みやがる。天宮ココロ。なんとまあ独創的な名前であろうか。いくら僕の親でも、そんな少女漫画の主人公みたいな読みかたにするものか。
紙に書いてみると『天宮心』と占い師みたいな名前だが、発音してみると『アマミヤシン』という、まあまともなものに聞こえる。
今、出てきた稲本ちはるというのは、僕の幼馴染……と呼べるのかどうか微妙なラインにいる。
なんでこんなややこしい言い方をしたかといえば、それもややこしい説明になる。
彼女は僕が三歳だか四歳だかの時に近所に越してきた。
当時、僕には一緒に遊ぶメンバーというものが大体決まっていて(男女混合)、大抵5人か6人でおにごっこなり、だるまさんが転んだなり、ドッヂボールなりして遊んでいた。
そこに現れたのが稲本ちはるだ。今みたいなショートカットじゃなくて、髪の毛を生まれてから切っていないくらいにのばしていた。今でも服装ははっきり覚えいる。意識したからではなくて、それだけ印象的だったからだ。
トラえもんのTシャツに、男の子が穿くような短パン。そして、靴には仮面らいだあのイラスト。
格好は全っ然女の子ではない。そして、行動も女の子とは思えなかった。
僕達のグループ(ヒロユキ戦隊などと呼んでいた)に入るための『しれん』を、彼女は難なくやりこなし、すぐさま『にゅーたい』が決定した。
そして、ちはるは我々の『たいちょー』である花田浩之までもが認める『たんいん』となった。
足はヒロユキより速い。ドッヂボールではヒロユキよりも強い弾を投げる。ケンカで負けても決して涙を見せない。
だが、ちはるは一度としてそれを威張ったり、自分が隊長になるとは言わなかった。常に物静かで、ぎゃあぎゃあ騒いだりもしない。こういうのは、男勝りとは……多分言わないはずだ。
で、それから僕等は一応ヒロユキ戦隊の仲間として、結構楽しくやってきたのだが、小学校に入ると、クラスが別々になるわ、新しい友達は出来るわで、ヒロユキ戦隊は自動的に解散になった。橋の下にあったあの『ひろゆきせんたいひみつきち』の看板も、いつの間にかなくなっていた。
ちはるとは5年生になってやっと同じクラスになった。「やっと」なんていったけど、別にその時はそれを喜んだとかいうわけではない。そのことに関して、僕は「ふーん」という感想しか持たなかった。その時のちはるは、今みたいにショートカットじゃなくて、髪を後ろで結い上げていて、「くの一」みたいな身軽な女の子だったと思う。
彼女と席が隣になったことがある。どんなことを話したか……なんてことはあまり覚えていない。ていうか、口より先に手が出てた気がする。
まあ、出てたのは手だけでなく足もだったが。僕の小学校の机は、基本は、男女隣同士の席で、しかも机はくっついていたから、それも自然といえば自然なことだった。
どちらともなく相手の机の下に足を滑り込ませる。そうすると、やられた方は相手の足を蹴る。相手の肘が自分の机に乗っかってると、それを脇にどけたくなる。どけられた方はまたやり返す……てな具合だ。
自分の陣地を広げよう……ということだ。実際はそんなもん広げたって大した意味なんかないのだけれど。これは小学生だけに当てはまることではない気がする。
仕掛ける方はほとんど僕だった。ほとんどということは、いくらかは彼女も仕掛けるわけだったが、それは仕掛け人の僕に対する仕返しみたいな感じだった。
今になって考えると、なんであんなことしたのかなと思う。
男子が相手だったら、そんなことはしなかった。つまり、僕は女子に対して、いやもっと言えば彼女に対してだけそんな馬鹿げたことをしてきたのだ。
よーく、よおおおく、過去の自分を探ってみる。そうすると、その時には意識なんかしていなかったものが見えてくるものだ。ちょうど、本を繰り返し読む時みたいに。
で、その結果を申し上げますと。
僕は彼女の怒った、そしてちょっと面白がっているようなその顔をみるのが好きだった。そして、僕が彼女にちょっかいを出している間は、彼女の目には僕しか映っていないのだった。彼女の意識は僕にしか向いていないのだ……。なんてな。
要するに、あれだ。その……。
あの頃からすでに、僕は彼女に惚れていたのかもしれない。ただ、それをハッキリと意識しなかっただけで。
中学校に上がると、彼女とは別々の中学になった。近所だというのに、学区の境目と家同士の境目が同じ位置にあったのだった。
それから、ええと、4年か。
彼女は随分変わった。そして、多分僕も。
だから、図書室で出会った時に、お互いが分からなかったのだろう。
なんてことを考えていたら、頭を思い切りぶったたかれた。教師にではなく、竹刀にだ。
「ぼーっとすんなあ!こら!」
一団と声を張り上げるのは、3年の金本先輩だ。引退が間近に迫ってきているせいか、やたらと気合が入っている。だが、気合があればどうにかなるものでもないらしい。
そもそもこの学校は剣道が強いわけでもないのだ。部員もあまりその気合というか気迫というものがなく、とりあえず「体動かせりゃいいや」などという軽い心情の奴が多い。武道館なんて名ばっかりで、卓球部が週に二回ピンポンしに来る始末だ。
高校で「剣道やってます!」なんていうと、もんのすごくキツイ練習をこなし、もんのすごく厳しい顧問がいて、でも青春は謳歌してるというイメージを持つかもしれないが、実態はこんなもんだ。
キツくないわけでもないといった微妙な練習と、無関心な顧問。これが青春と呼べるようなもんだか、僕にはさっぱり分からない。
そんな環境で、金本先輩は結構頑張ってきた方だと思う。なんでも一年の頃から部活は皆勤賞なんだそうだ(授業の方は……?)。昔の漫画にでも出てきそうな典型的な部活バカ。でも実力は全然ない。一年生のうまい奴に敗れたこともある。
「てめえら、たるんでるぞ」
部活の終わりに、金本先輩はゴリラのような顔で部員をずぃーっと見渡した。別に部長でも副部長でもないのだが、最近彼等が部活に顔を出さなくなったことで、部の主導権はこのマッスルもとい金本先輩が握っていた。
「いいか、俺達はここ数十年間ずっと、ずううーーっと負けっぱなしだ。市の大会で優勝すら出来てないんだぞ。他の部の連中にも顔向け出来んだろうが!このままじゃ武道館が卓球場になっちまうんだぞ!それでもいいのかっ!」
なーんて、ハッパをかけてみたって、小中学生と違って高校生はこしゃくな脳みそを持っているので、誰も反応しない。そんなことは剣道部が廃部にでもならなけりゃありえない。そもそも実力のない人のいうことなんか説得力に欠ける……といった感じだ。それはまあそうかなとも思うが、金本先輩は僕達より頑張っているし、おそらく部長や副部長よりも剣道の勉強なんかしているに違いない。それなのに、全くやる気のないような連中に負ける。どうやら運命的に剣道の才能がないらしい。彼が少し気の毒に思える。
先輩は突然はーっとため息を吐き、ぼやくように言った。
「……解散」
2年生のほとんどは、勝つことに……というか部活を真面目にやることにすっかり冷めてしまっていたが、僕は金本先輩派だった。3年のこのクソ忙しい(らしい)時期にこうして部活をやっているなんて相当剣道に思い入れがあるんだろう。
どうしてこの連中は中途半端にやってる先輩ばっかり見るんだか不思議でしょうがない。本来軽蔑されるべき人間がちやほやされるのは不当ってもんじゃないか。はたからみると全くかっこ悪い部活だなあと思う。『ぐだぐだ』という擬態語がぴったりだ。
といっても、基本的に悪い奴はいない。僕が金本派だからって誰も僕を軽蔑なんかしないし、部内では僕は結構慕われている。金本先輩と違って、僕は2年の中でも上の方の実力を持っているからだと思われる。
だが、1年の時は8人中7番というかなり不甲斐ない順位だった。入部して、ものの3ヶ月でもうやる気のうせかけた僕を見て、
<お前は努力をしていないんだ>
そう言ったのはやっぱり金本先輩だ。
<勝てないなんて悩みは、練習を真剣にやる奴が持つもんだ。いいか>
「どうせ出来ないからやらない」て奴はどんなに頑張っても勝つことは出来ない。
「出来ないからこそやらなくては」という奴が最後に勝つんだ……。
世の中、勝者だけがかっこいいってわけでもないらしい。
僕が部活を真剣にやるのはこの人への忠誠心のようなものがあったからだし、少なくともクラスよりは部活の方が100倍も楽しかったからでもある。
そして……今やこれが部活の目的の9割を占める……ちはるのことがあるからだ……。
梶木の情報では、ちはるは今、バスケ部に入っている。だからどうしたと思うだろうが、これは僕にとって郵政法案なんかよりよっぽどの大問題なのだった。
なんつったって、うちの女子バスケ部の実力は、インターハイ出場は当たり前くらいのレベルにあるのだ。厳しい練習を耐え抜いているせいか、自然と部員もハキハキしていて、うちのクラスのメス猿の中にも何人かバスケ部がいる。
剣道部とは偉い違いだ。バスケ部から見たら剣道部なんて、
「ださい」
「ぱっとしない」
「レベルが低い」エトセトラ。
いずれにしたってこれっぽっちもいい評判なんかありはしない。そんな部活の一部である僕を、女バスの方々がまともに見てくれるとは到底思えない。フラミンゴがネズミでも見る感じだろう。
万が一(文字通り1万分の1)彼女も僕のことを好きになったって、部員達に猛反発されるのは目に見えている。アンタニハモットイイオトコガイル。てな具合にだ。
だから僕は強くならなければならないのだ。何も剣道だけに限ったことじゃない。彼女に『好きです』と言っても(実際言えるかどうかは別として)全然不思議じゃないような状況を、自分自身で作り上げなければいけない。
「お前……何一人でぶつぶつ言ってるんだ?」
梶木だった。
ちはるを見つけてから一週間が過ぎようとしていた。図書館の件以来、僕は彼女に何にも話し掛けることが出来ないでいる。不甲斐ないってことは自分でもよく分かっているが、ただでさえクラスの中ではしゃべらない僕が、惚れた女(しかも昔からの知り合い)の手前、陽気に「おはよう」などとも言えるわけがなかった。だが、こういう風に自分に言い訳ばっかりしてたんでは、ちはるに何も話せないまま終わってしまうんではないだろうか。
ったく、何をやってるんだ俺は。
話題ならいくらでもあるだろうが。
昔の話とか、片山京香の話でもいい。
しっかりしろよ、俺。
いくら自分自身を罵ってみたところで、状況は全く変わらない。
僕は、自分が席を立ち、彼女の元に歩み寄り、彼女の前の席に座るまでを想定した。それだけで顔が赤くなる始末だ。
大体、普段何も話さない男子生徒が、女子に向かって熱心に話すのをみたら、周囲はどう思うだろう?「俺はこいつに惚れてるんだぞ」と叫んでるようなもんだ。下手すればちはるにもそれを知られてしまうかもしれない。
だが、話し掛けないにしても、こうやって遠くから彼女を眺めるストーカーみたいな行動は、彼女に気味悪がられて突き放されるような気もする。周囲の目を感じて無理やり首を黒板に向けるなんてことは、はっきり言ってこれも情けない。どうにかしなければならないのにどうにも出来ない。自分で自分の情けなさが嫌になる。
二人っきりの時間が欲しい。それも、自然に、成り行き上で出来上がったような時間が。彼女とゆっくり、二人っきりで話したい。なんでもいいんだ。今の僕のことをもっと知ってもらいたい。そして、今の彼女のことを知りたい。
畜生。2年5組の僕と彼女を除いた40人が、インフルエンザにでもかかっちまえばいいのに。……だが今は5月だ……。
頭を抱えていた僕に、突然低めの声が突き刺さった。
「えっとォー、席替えするんでぇー、くじ引きにきて下さぁい」
メス猿っていうか、メスゴリラだな……と思いながら、僕はノロノロとくじを引きに行った。なんで一ヶ月に一回のペースなんだ?面倒くさいったらない。席にはすぐ飽きるくせに、なんでおしゃべりには飽きないんだ?
引いたくじは最後の一枚だった。『残りものには福がある』とかいうことわざを思い浮かべてみる。福ねえ……。
紙には大きく『1』と書いてあった。
果たしてこれは福なのだろうか?
惚れた女が真後ろにいるってのに、勉強なんかはかどるわけがない。後ろを見ると変に思われそうだ。彼女が今何をしているのか、気になって仕方が無いのに、じっくり見ることが出来ない。
さらに言えば、自分の座りかたや癖なんかがどれもおかしなものに思える。授業が終わったあとに伸びをすることも彼女から見れば「何こいつ」などと思われてしまいそうで(思い込みなんだろうが)それも出来ない。
一番廊下側の一番前の席。隣にサッカー部のハッスルモンキー。左斜め後ろにはバレー部のさわやか少年。
……そして、真後ろに稲本ちはる……。
ちはると席が近くなったのは喜ぶべきことのはず……なのだが、実際には僕の状況は昨日までと変わらない。要するに、何も話せていない。
別に試みなかったわけじゃない。だが後ろを向いた途端に、何を言うべきなのか分からなくなって、目が合わないうちに顔を前へ動かす……ということが、ここ一週間で数百回はあったような気がする。
一度も話していないというのはつまり、彼女も僕に話し掛けようとしていないってことだ。『話さないってことは、俺は嫌われてるのかも……だから話し掛けたらもっと嫌われる』なんていうのは僕の都合のいい言い訳か。
例えば、ちはるが消しゴムを落として僕がそれを拾ってやれば、彼女は特に嫌そうな顔もせず、笑顔で「ありがと」という。その笑顔が見たいがために、僕は彼女の落とした消しゴムに飛びつき(悟られない程度に素早く)、何食わぬ顔で机の上にそっと置く。実際には鼻の下を伸ばしてるのかもしれないが。
基本的にちはるは男子と会話をしないのだった。それだから僕も話さないというのはやっぱり情けないが、顔から火が出るのを止められない以上、話す=僕の気持ちを暴露するということになってしまうんではないか?
そんなこんなで、二人っきりになるという僕の願望は、席替えして一週間経った今でも実現していない。というか、そもそもこのくそやかましいクラスの中でそんな願望を持つこと自体が間違っているのかもしれない。
くそ、なんて歯がゆいんだ。
それから4日後。5月27日、金曜日。部活の定休日(卓球部の武道館使用日)だったので、例によって僕は図書室で時間を潰すことにした。
僕がちはるに『春風』を渡してから2週間が経った。あれから2週間もたってしまったなんて信じられない。あの日起こったことの全てが、僕の頭の中に焼きついてはなれないようだ。
図書室には僕と司書の二人だけなので、信じられないほど静かだった。この学校にこんな静かな場所あったっけなと疑いたくなる。……まあいい。これでゆっくり本を探せる。
僕は一冊の本を手に取った。赤羽根正吾の『トリップ』だ。15歳の少年の家出。最近映画化した話題作だ。
どうでもいい話だが、原作を読まないくせに映画ばっかり見る連中には非常に腹が立つ。この間、クラスの誰かが片山京香原作の「夜明け」という映画を見て「全然面白くない。ていうか、わけわかんねー!」などと言っていた。
原作は、闇の社会に生きる者と一般の社会人の恋愛をつづった斬新かつ痛烈なものだったが、どうやら映画の監督がへぼだったらしい。映画の出来は正にそいつの感想どおりになった。「つまらない。わけがわからん」ということだ。
監督にも腹が立ったが、ろくに原作を見もしないで「夜明け」がつまらないなどと決め付けている奴にはもっと腹が立った。片山京香の愛読者(ファンとは呼ばないでくれ)として、彼女の本が侮辱されるのは許せない。「夜明け」は少し恐かったが、なかなか面白いものだった。ページをめくるのを止められなくて、たったの3時間で読み終えたほどだ。
僕は「トリップ」を手にとり、ページをパラパラとめくってみた。
「計画を立てなければいけない」
「ここを出るが、その前に果たしておかねばならないことがある」
「仕方が無い。橋の下で野宿をするはめになっても……」
そんな言葉が目に入った。
これは……『買い』だ。いや『借り』だ。
そう思い、カウンターへそれを持って行った。
と、その時。
全身が凍りついた。
図書室のドアが開けられ、
彼女……稲本ちはるが、
入ってきた。
『トリップ』を落としそうになって、慌てて右手に命令を与える。でも、もう本なんか落とそうが何しようが関係なかった。
僕の目には、彼女以外のものの色が失われてしまったかのようだった。モノクロの景色の中で、彼女だけがフルカラーだった。
二人きり。
この状況をどれほど待っていただろうか。誰の視線も感じることもなく、互いに何の障碍もなく話せる状況……。
だけど、僕の考えられる全ての機能はその場で停止してしまった。体どころか口も動かない。何か話すべきだ……でも何を?
くそ。なんで何も考えなかったんだ。図書室の貸し出し期限は2週間。てことはちはるが今日『春風』を返す可能性は充分あったのに。
「シン」
我に返った。……シン。彼女の口でそう呼ばれるのは何年振りだろう……。
「この間は、ありがと」
「……は?」
「だから、この本」
彼女は印籠のように『春風』を僕に向けて言った。
「ああ……ウン」
『ああ……ウン』じゃネエダロ。もっと他に気の利いた言葉は言えねえのか。自分で自分が嫌になる……って、これで何回目だ。
突然、ちはるがふふっと笑った。慌てて自分の行動を見直してみる。……別におかしなことはしてないよな。
「……なんだよ」
「シン、この間あたしに敬語使ったでしょ」
げ。
まさか、ちはるはあの時すでに僕だって気づいてたっていうのか?
いや、待て待て、てことは、すでにそこから彼女が僕のことを意識……。って阿呆。今そんなこと考えてる場合じゃないだろうが。
「しょうがないじゃん。分からなかったんだからさ」
全く、もっと気の利いた返答できないのか。いくらなんでも正直すぎる。
「そんなにあたし、変わった?」
「鏡に聞けよ」
「シンに聞いてんの!」
そんなにドアップまで近づくな……!心臓の爆発音が、彼女に聞こえてやしないだろうかと不安になってしまうほどだ。
「変わったんじゃねえか」
くそ。俺は今、どんな顔をしてるんだ。真っ赤な顔なんかしてないだろうな。苦し紛れに、なんとか言ってみる。
「そんなこと、わざわざここで言わなくたっていいじゃねえかよ、教室があるだろ」
「……だって、教室じゃ……」
教室じゃ……何だっていうんだ?と思ったにも関わらず。
「まあ、それはいいか」などとどうして口走っちまうんだ。
「でも驚いた、シンって本読むんだ」
「お前が本読むのも驚きだよ」
「なにそれー。あたしって、そんな読書家っぽくない?」
「ぽくねえよ」
嘘だった。本当は本を読んでる時のちはるは一番ちはるらしかった。なのに本音を出すまい出すまいとするのは、そうやってそれを言っているうちに、うっかり口を滑らせて、僕の『本音の中の本音』をぶちまけそうになるからだった。
ちはるがぷうと頬を膨らませる。まるで漫画の中の女の子みたいに、その仕草は様になっていた。
チキショー。なんて可愛いんだ。一体何だってこんなことに……。
「はい」
ちはるが『春風』を僕に差し出す。その差し出しかたが、まるでバレンタインデーにチョコを渡すかのような仕草そっくりで、
「はい?」間抜けにも、僕はそう聞き返してしまった。
「だから、借りるでしょ。この本」
「あ、うん……サンキュ」
僕は『春風』を受け取ると、さんざん迷った末に、気になっていたことを聞いた。
「男子がこんなの読むのって、やっぱり気持ち悪い?」
「えー?そんなことないよー。お目が高いじゃない。いいよね、片山京香って」
お目が高いじゃない。
心の中のしこりが少しだけ取れた気がした。
「あ、もしかして、それ、コンプレックスー?」
「やっかましい」
彼女の頭をぽんと叩く。髪の毛は思いのほか柔らかく、さらりとした感触だった。ちはるはくすぐったそうに笑った。僕も少し微笑んだ。
だが、表向きとは裏腹に、僕の心拍数は限界まで高まっていた。
やべえ。
髪の毛に……触っちまった。
馬鹿。変に意識するな。ここはあくまでさりげなく、さりげなく、さりげなく……。
「でで、で」
しまった。
「え?何?」
「え?あ、悪い。噛んじまった」
なんとかごまかす。
「でもさ、お前、これ、返却してないんじゃない?」
「……あ」
慌てて本を僕の手からひったくり、ちはるはカウンターへ向かって行った。その間に、僕は大きな大きな大きな深呼吸をした。
落ち着け。たかが髪の毛だろうが。落ち着け落ち着け落ち着け……!
そうこうしてるうちに、彼女は戻ってきた。
「はい」
再び本を僕の手に渡す。
「ばっかだなあ」
「やっかましい」僕の真似をしたらしい。ちはるはクスクス笑っている。
今度は変に意識してしまい、右手を動かすことすら出来なかった。そのかわり、ぎこちなく「ふん」ということには成功した。
「片山京香っていいよねえ……」
「え?ああ。そうだな」
ちはるが顔をしかめる。
「ちゃんと聞いてるのー?」
「聞いてるよ」
これまた嘘だ。僕の意識はもう上の空を越えて上の宇宙だった。
え……と、今、こいつ、なんていったんだっけ?
「片山京香っていいよねえ……」だったよな?よし。
「ホント、いいよな。あの人の小説ってさあ、話の組み立てっていうか、背景っていうか、その辺のアレがマジでうまいよな。笑えるところは読者も登場人物と一緒になって笑えるけど、いざって時にはビシって決めるのな」
惚れた女の前で、こんなにも饒舌になれるなんて思いもよらなかった。案外僕はおしゃべり好きなのかもしれない。いや、それともこれは火事場の馬鹿力って奴か?
「結構、シンって考えてるんだね」
「う。……まあな」
まんざらでもない。
ちはるはいたずらっぽくくすりと笑った。なんとなく、気品というものを連想させる。
「それじゃ、あたし部活だから」
「え?今日部活あるのか?」
「当たり前でしょー。休みなんかある方がおかしいよ。市の体育館6時から借りて練習。それまでは外でランニング」
「……って、何キロくらい?」
「10キロ」恐ろしいことをさらりと言ってのける。
じじじじ、10キロ?じゅっ・きろ?なんだそりゃ?陸上部より多いんじゃないか?
「ふーん、大変だな」ポーカーフェイスという言葉をここまで意識したことはない。
「だから本読む暇もそんなに無いの。でも、バスケは楽しいけど」
「……本と、どっちが楽しい?」
「バスケ」
即答だ。多少がっかりする所があった。
「じゃあ、またね」
「ああ。じゃな」
彼女は踵を返した。
ちはるのその小さな背中が遠ざかる……遠ざかる……。
彼女が行ってしまう。この機会を逃したら、次はいつちはると話せるだろう?
そう思うのと、声をかけるのは同時だった。
「なあ」
「んー?」
彼女が振り向く、その顔が再び視界に入ると同時に、また脳が機能停止してしまった。
「……あ、悪い。言う事忘れちまった。じゃな」
ちはるはけげんそうにまゆを引き寄せた。
「またね」
今度こそ、彼女は行ってしまった。図書室のドアが閉まった音が、冷たく耳に響いた。
「好きだよ」
たったの4文字なのに……。
なんで口に出せないんだ?
俺が本当に彼女に伝えたいのは、本の話でも部活の話でもない。その、たったの4文字だけなのに……!
「若いわねえ……」司書のババアが呑気に言った。
八つ当たりしてもどうにもなるものではない。ちはるがいなくなって、ほっとすると同時に失望してもいた。
ちはるより10枚も20枚も劣っている僕という人間に。
その夜。
僕は、ベッドの中にて、ひたすら考えていた。
彼女とああして二人っきりで(司書には見られていたが)話せたことは、もうスキップしてもいいくらい喜ばしいことなのだ。
「お目が高いじゃない」
「結構シンって考えてるんだね」
何度も、何度も言葉が蘇る。そして、「シン」という時の彼女の目や口を思い浮かべるだけで……他のことなんかどうでもよくなってしまうのだった。
シン……。苗字でなく、名前で呼ばれるのは、何か、本当にそういう関係のような響きがあった。なーんて、意識してるのは100パーセント僕だけなんだろうけど。
そして、彼女は「またね」と言った。あれは、「またこうして話そうね」ってことなんじゃないのか?いや、そうだ。そうに決まっている。ていうか、そう思いたい……!
だが、そのすぐ後に、高ぶった気分は一気に冷めていくのだ。
本よりもバスケの方が楽しい。
それでなんで僕の気分が悪くなったかと言えば、僕よりもバスケ部の部員達の方が大切だと宣言されたようなものだったからだ。いや、実際その通りなのだと、その時に思い知らされた。僕とちはるの唯一のつながりである本は、彼女の中で一番ではないのだ。
そして、そのバスケ部は練習量も実績も、今の剣道部と比べたら月とスッポンだ。たとえ僕がどれだけ頑張っても、引退までの残りの一年で県大会制覇なんてことは絶対に無理だ。
剣道部はあの通り、メンバーはやる気がほとんど無い。練習内容も可もなく不可もなくといったところなのだ。
そしてそんなことを思っている僕でも、部活よりも本の方が楽しいと考えているのだ。そんな状況で勝てるほど、スポーツは甘くない。
剣道部の休みは週に三回。
バスケ部は休みなし。練習は剣道部の100倍はハード……。
僕は、ちはるの遥か後ろを歩いている。そして、彼女は歩いてはいない。止まってもいない。走っているのだ。このままだと、彼女のいる所から、僕は見えなくなってしまう……。
とはいったものの、部活のことばかり考えているわけにはいかないのだった。梅雨の季節に入ると気分が晴れなくなるのは、何も天気のせいばかりではない。
1学期の期末試験が始まろうとしていた。中学校の時から試験というものは、『嫌な学校行事』のワースト1として君臨している。ちなみにワースト2はマラソン大会だ。
僕は部活<勉強といった生活パターンだったため、試験3週間前には、剣道の練習はほとんど出来なくなってきていた。勉強なんかよりも何かスポーツが出来た方がかっこよく見えるんだろうが、それよりも進路のほうが大事だ。学歴なんて関係ないなどと最近は耳にするけれど、いいところに行っておくに越したことはない……というのが僕の考え。
勿論、剣道を真剣にやって、ちはると対等の条件になろうということも大事だったが、しっかり自分の力で飯を食っていけるようになることも大事だ。口にするだけで恥ずかしいが、将来的に、その……ちはると……あー…ちはるを、養っていけるぐらいの力をつけるためにも、それは大事なことだと思う。とにかく目先のことだけに追われて、先のことをなんにも考えないなんてのは、まっぴらだ。ろくに計画を立てないと本当にろくなことにはならない。
なんて偉そうに言ってみても、僕の成績は飛びぬけていいわけではないのだった。学年には『10』が6個もあるなんて化け物もいるようだが、僕の成績の平均は7.5。そいつらがライオンなら僕はせいぜい狼くらいのレベルだろう。孤独な一匹狼という言葉が浮かんだ。なるほど、これは結構適切な表現かも。
呑気なことを言っている場合ではない。
表現といえば、英語の範囲の多さが尋常ではなかった。文法から英単語から、果ては発音問題まで……。
畜生、俺は日本人だ。なんだって無理やり国際化なんか図るんだこの国は。別に外国に行きたいなんて俺は思ってねえぞ。
一通り悪態をついた後、どうにか格闘するわけだ。
だが、試験というのは言うまでもなく英語だけのはずがない。現代文、古典、数学が2つに、日本史と地理、生物と化学……というラインナップは中間試験のもので、期末試験になるとさらに、保健と、家庭科と、美術という、入試にも僕の将来に全ッ然関係ない教科まで勉強『させられる』。特に保健なんかは、教員があのウシガエル野島なだけに、もうやる気なんかゼロといっていい。いっそのこと保健なんか白紙で提出しようかとも思ったりするわけだが、あのウシガエルのことだ。容赦なく「1」をつけられるのは目に見えている。生徒はどんなにあがいても教育機関に屈服せざるを得ないのかもしれない。
だが、文字通り僕には死ぬ気でやるしかなかった。うだうだ言ってても彼等が何かしてくれるわけでもなし。癪な話だが、自分がルールに従うしかないわけだ。
そんな僕の意識とはまるっっきり正反対に、他の連中を見ていると全く試験前という感じがしない。昼休みに必死こいて数学の問題集なんかやっている自分がアホらしくなる。実際にはアホらしいのは僕ではなく向こうなのだが、やはり少数派というのは辛いものなのだ。
そういう風に思うのは、何よりも、ちはるが僕のように必死になって勉強をしていなかったからかもしれない。彼女は、特におしゃべりをして騒ぎ立てるわけでもなかったが、相変わらず休み時間になると本を取り出して、静かに読んでいるのだった。(その姿をじっと見つめられない辺り、やはりこの席は曲者だと思う)
なんで勉強しないの?などとは教室で聞けるはずもなく、ちはるはちはるで、僕と話すには、『教室じゃ……』だそうだしで、僕等はあれから全然話せていない。いや、本当は僕になんかもう話し掛けるつもりはないのか?図書室で僕と話そうとしたのは、ただ単に二人っきりの気まずい空気をかき消すために過ぎなかったのではないか?
ただでさえ、試験勉強で気が狂いそうなのに、こんなことを考えると止まらなくなってしまう。
そして、ここにきて更に色恋沙汰の悩みが現れてしまった。
ちょうど試験一週間前にあたる日のことだ。
その朝のHRのことだ。ちはるの席の隣に座っていたバレー部の男子が、不意にひそひそ声で言った。
「稲本さん、頼む、消しゴム貸して!
なっ……!
顔を黒板に向きながらも、僕は絶句していた。
この野郎。ちはるに消しゴム借りるだと?俺でさえそんなことしたことないのに、お前……こらあ……。
「え?小出君、自分のは?」
いっそのこと、ちはるには黙って消しゴムを渡して欲しかった。そうすれば、小出の野郎にちはるの声を聞かせなくて済んだのに。
「ないから頼んでるんだよー。助けてくれ!お願いしまっすよ」
アクセントおかしいぞ、おい。大体消しゴムなんか、前の席のサッカー部に借りればいいのに、なんだってこいつ……!
「……はい」
ボーラーが何か話している。だが、こんな状況でそんな話が耳に入るわけがない。ただでさえつまらない話は、もはやつまらない域を越えて耳に入らない。
それ以降、小出は何も言わなかったので、僕は少しホッとした。ホッとする以前に、またしても情けなさに襲われた。
あいつがやったように、僕はちはるに何かを頼んだこともない。それどころか、今にして思えば、まだちはるの苗字も名前も言えずにいるのだ。こんなことでホッとしてるなんてのは、僕って、相当ヤバイんじゃないか?
だが、一番最悪なのはそんなことではなかった。
昼休み。僕は鞄の中から弁当を取り出して食っていた。女子バスケ部の連中が、ちはるを昼飯に誘っていたが、今日はどうせすぐ委員会だからいいと彼女は言った。
ちはるが真後ろで弁当を食べていると思うと妙に落ち着かなかったが、それでもその瞬間は、甘酸っぱい心地よさがあった。今日こそは周りに人もいないし、話せるかも……などという、妙な期待もあったわけだ。
しかし、そこに登場したのが、またしてもあの小出だった。奴はどうやらトイレに行っていたらしく、その両手をズボンで拭きながら、どっかりと席に着いた。席というのは言うまでもなく、ちはるの隣の席だ。
奴はしばらく弁当を食っていたが、やがてこう言った。
「稲本さんってさあ、何の本読んでんの?」
……てめえ、何言ってんだ?その台詞は俺のもんだぞ……!
はらわたが煮え繰り返るとはこのことだ。弁当を食うのもどうでもよくなり、割り箸を力強く握り締める。自分の指が折れるかと思ったが、それでもやめられない。頭に血が上る。
「え?えっと……高瀬恭一」
「ああ……タイトルは?」
ちはるは少し口篭もった。
おいおい、高瀬恭一って、恋愛小説家だろ?最近ある賞を受賞した人だ。その作品は確か……。
「……恋文」
消え入るような声だった。
こんの野郎!その話題は俺が聞くもんだぞ!しかも、「恋文」だと!?そんな台詞をちはるに吐かせやがって……!
キリキリという音がする。それが自分の歯軋りの音だとはわからないくらい、僕はキていた。
そんな僕のほとばしるような怒りがわかるはずもなく、奴は続けた。
「へえ……。恋愛小説かあ……」
話題を続けなければと思ったのか(小出に好感を持ったとは思いたくない)、ちはるは言った。
「小出君は、本読むの?」
「ああ。まあ、ね」
嘘をつけ。本を読む奴があの賞を取った作品を見逃すものか。
「俺もさ、本読みたいとは思ってるんだけど、なかなかどんなのから読めばいいのか分からなくてさ」
つまりは読まないってことだろうが。
「自分が読みたいと思ったものからだよ」
僕は怒りを少し忘れて感心してしまった。なるほど、全くその通りだ。別に本を読むことは義務でもなんでもないのだから。だが、忘れかけていた怒りはすぐに戻ってきた。奴はへえ……というありきたり過ぎる感想を発し、こうのたまったのだった。
「じゃあ、稲本さんが読み終わったら、それ貸して。結構熱心に読んでたから、面白いんじゃないの?」
バキ。
ちはるがこっちを見る。小出の野郎もつられてこっちを見た。僕の手の中で、割り箸が割れていた。見た以上は何か言わなきゃ駄目だと思ったんだかなんだか知らないが、小出の奴はまたしてもほざいた。
「……何やってんだ、お前、馬鹿だな」
僕は舌打ちをした。何やってんだって見りゃ分かるだろうが。お前にキレてるんだよ。
闘争心剥き出しの顔で、奴を睨みつける。
こんなにぶちぎれているというのに、当り障りのなさそうな言葉を選んでいる自分がつくづく嫌だった。
いいか、それは俺の役目だ。ロクに本も読まないような奴がちはるから本を借りようなんてのは千年早いってんだ……いっそそんな風に本音をぶちまけられたらどんなに楽だったろう。
「……なんだよ」
小出はひどく不機嫌な顔で僕を見ていた。だが、不機嫌なのはこっちだって同じことだ。
「……下心が見え見えなんだよ」
やっとの思いでそう言ってやる。
「あ?」えらくドスのきいた声だ。ちはるの時とは全く態度が違う。こいつもウシガエル野島とおんなじだ。
「本なんざ読まねえんだろ、おめえはよ」
「なんでそんなこと分かんだコラ」
この野郎。本を読む人間と口喧嘩しようなんていい度胸じゃねえか。
「最近読んだ本の名前言ってみな」
「あぁ?なんでそんなことお前に……」
「言えないのか?」
奴は言葉に詰まった。適当なタイトルなんかが出てくるわけがない。
「どうした」
「十五少年漂流記」
「あー、あれか。中1の時の課題図書だったな」
即座に言ってやる。
「最近読んだんだよ」
「あ、そ。で、作者の名前知ってるか?」
「そんなとこいちいち見ねえよ馬鹿」
「じゃあ、登場人物言ってみな」
「……んだと?」
「最近読んだんなら、十五人のうちの六人位は分かるだろうよ……あと、あいつ、なんつったけな、あの、子ども達を殺そうとした奴」
「……!」
小出は憤怒そのものの顔で僕を見ていた。僕は見下すように奴を眺めた。一見すると色白の細顔だが、今のこいつの顔は赤く、風船みたいに膨れ上がっていた。なかなかの見物だ。携帯に取りたいくらいだ。
ちはるの前で恥かかせてやる。こんなハッタリ野郎にちはるを落とさせてたまるか。
「忘れた」
「そりゃそうだろうな。何しろ4年前だから」
「あれはそんな面白くなかったんだよ」
馬鹿が。あの本を面白くないなどという奴は、よっぽど夢がない奴か、あるいは訳し方が気に入らない奴だけだ。
「『は』ってことは、他には面白かった奴があるんだな?言ってみな、俺もそれ読みたいからさ」
小出の野郎は黙っている。
「ま、どっちにしろ『恋文』は辞めといたほうがいいぜ。『はじめて』の奴にはちょっっと難しいからさ。桜木朋子とか、誰でも楽しめる奴から見てった方がいい」
奴は黙って下を向いていた。牙を向ける猛獣のような表情だったが、本物と違い、飛び掛ってはこなかった。
その時、校内放送が入った。
「えー、美化委員に連絡します。委員会を始めますので、社会科教室に集まってください」同じ内容がもう一度繰り返されると、ちはるはそろそろと立ち上がった。
「じゃあ、あたし、委員会だから」
「え?ああ」
それまで居心地悪そうに黙っていたちはるは、立ち上がるなり、さっさと教室を出て行ってしまった。彼女がドアを開け、それを閉め、廊下を歩く音が遠ざかるまで僕はずっとそこを眺めていた。
と、その時。
目の前に小出の赤い顔があった。
やばい、と思った瞬間。
左頬に奴の右拳が食い込んでいた。
僕はそのままちはるの机に右頬を叩きつけた。右の痛みはそんなんでもなかったが、今殴られた左頬は焼けるように熱い。間違いなく腫れている。
「ふざけやがって」
「何やってんだお前ら!」
野球部の東間が叫んだ。『お前ら』じゃなくて『お前』だと言いたかったが、声が出なかった。
僕は顔を上げ、目の前の敵に向かって中指を突き上げて見せた。
今度は座っている僕の腹めがけて、勢いよく右足が飛んできた。
吐き気と痛みが襲った。思いっきりみぞおちに入ってしまった。喉の奥から何か得体の知れない液体が出てくる。目の前がかすむ。だが、僕はみぞに入った小出の右足を、自分の両手で抑えつけていた。地面についている奴の残りの足を、迷わず右足で思い切り蹴る。
奴はバランスを崩し、そのまま後ろに倒れ……。
が、誰かがそれを止めた。
それが誰かは、もう分からなかった。目の前が真っ暗になる。遠くで誰かの叫び声が聞こえる。そのまま僕の意識はなくなった。
次にを開けた時にはそこは僕の席ではなく、教室でもなく、保健室だった。ベッドの上で眠っていたらしい。白い壁紙に白い床のこの部屋は、なんともいえない雰囲気がある。黒板もない、人もいない。机は白。目が覚めると迷うことなく保健室だと分かる。ここはそういう場所だ。
「起きたかこの馬鹿」
梶木だった。普段はお調子者なのに、真剣そのものの顔をしてるのは、この保健室の独特の雰囲気のせいだろうか。
「ったく、信じられねえな。お前が教室であんなにキレるなんてよ」
「俺がキレたんじゃない。キレたのは小出の方」
「お前も小出蹴ってたジャン。俺が止めてなかったらあいつ、椅子に頭打ってたぜ」
「アレ、お前が止めたのか」
「……なんだよ」
「残念」
「馬鹿」
僕は時計を見ようとした。が、無い。時計が無い。
「今、何時間目?」
「6時間目。ま、俺もこーして数学サボれたからいーけどさ」
僕は苦笑した。なんだったんださっきの真面目ヅラは。
「何言ってんだ馬鹿。この大事な時期に。今日の授業って思いっきりテスト範囲じゃねえかよ。参ったな……」
「そんなこたぁどうでもいいんだよ。俺、別に留年しなけりゃいいし」
お前もか……。なんだってこの学校はこんな勉強に無頓着な奴ばっかりなんだ?勉強家が目立ってしょうがない。つまりは僕のことだけど。
「それでさあ、なんでお前キレたわけよ」
「だから、俺はキレてないって。あれは言わば正当防衛だ、正当防衛」
「んなこたどうでもいっつの。なんであんな風になったんだって聞いてんの」
「小出から何も聞いてないのか?」
「あいつ、それどころじゃねーんだもん」
「……は?」
まさか頭打って入院……馬鹿。頭の中で一人ツッコむ。それは梶木が阻止したんだろうが。
「マジ切れだマジ切れ。お前が目ぇ閉じた時も、あいつお前を蹴ろうとしてたぜ。まあ、東間が殴ったら少し落ち着いたけどよ」
「……はは」
あの図体のでかい筋肉の塊にか。気の毒に。そう思いながら僕はニヤニヤ笑いを止められなかった。
「あのさあ、これ、真面目に聞いてるんだから真面目に答えろよな。小出がキレる所なんて初めて見たぞ俺は」
そんなもの、こっちだって初めてだ。キレた高校生を見るのは。高校生くらいになると、少なくとも学校では、自分を抑えこむものだ。あるいは仮面を被るようになると言ってもいい。
「別に大した理由なんかないって」
「ならどんな理由だよ」
僕は言葉に詰まった。ここから先を話せば、ちはるへの思いを暴露することになる。
「俺が言ったことに、小出がキレただけだよ」僕は慎重に言った。
「何て言ったんだお前」
さて、どうしようか。
「……下心が見え見えなんだよ」
「……なんだそりゃ」
僕はなるべくちはるへの気持ちがバレないように話した。
「アイツ、小出さ。稲本ちはるに惚れてるみたいなんだわ」
「何ィ?」
おいおい、まさかお前まで惚れてるっていうんじゃ。
「なんでお前そんなこと知ってるんだ?」
「見てりゃ分かるよ」
僕が見てたのは小出じゃなくてちはるの方だったが、それは言わないでおく。小出の雰囲気が自分がちはるを見るときの雰囲気に似ているような気がしたことも。
「それで」
「それでさ、アイツ、ち、稲本の気を引くためにさ、読みもしねえ本の話題をアイツに持ち掛けやがったんだ。自分がさも読書家みたいな感じでさ。それで、俺が頭にきて」
「……下心が見え見えなんだよ、か?」
僕は頷いた。よし。上手く話せたぞ。
梶木はフームと唸った。三枚目が考える様は、どうもミスマッチだなとひそかに思ってみる。
「お前さ、そりゃ無神経だったんじゃねえか?」
僕は面食らった。あまりにも予想外の言葉だった。
「はあ?」
「考えてもみろよ。アイツ、女には結構弱いタイプだろ?」
だろ?なんていわれたってそんなこと知るわけがない。今まで話したクラスメートなんて数人しかいない。
「それがさあ、稲本に話し掛けるのにどんだけ勇気が要ったと思うよ。それこそ何言うか考えに考えて、緊張の真っ只中で話し掛けたんだろうさ。それを……」
「ちょっと待てよ。考えに考え抜いた話題が、嘘っぱちの話題だったってことか?」
僕は思わず言った。
「まあ、そのことは置いとけよ。とにかくあいつは惚れた女に初めて話し掛けようとした。その最初の瞬間を、お前に台無しにされたんだぜ。そりゃキレてもおかしくねえっつの」
僕は内心イライラしていた。彼は大事なことを見落としている。この僕も、ちはるに惚れている、ということを。
惚れた女が他の男から親しげに話し掛けられている(しかもその話題が絶対に譲れないものだった)時の心境なんか、お前には分からないだろ。小出の野郎が俺のポジションを奪おうとした(しかも見栄をはって)時の怒りも。
だけどそう言った時のことを考えると、僕の口は固まってしまうのだった。
別に彼を信頼してないワケじゃない。梶木はいい奴だということはハッキリ分かっている。決してからかうような気持ちで言いふらしたりはしないだろう。
だが、僕の気持ちをちはるより先に梶木に伝えるのは、何か違う気がした。それに、梶木がついうっかり口を滑らすことも、ないとは言い切れない。そして、小学校みたいに、「おい、あいつお前のこと好きなんだって」というように、他人の口から言われたのではシャレにもならない。
「まあ、お前が怒るのも分からなくはないけどよ」
僕の顔をどう勘違いしたか、梶木は言った。
「応援してやろうや、あいつのコイをよ」
「ふざけんな」
思わず本音が出てしまった。梶木が怪訝そうにこっちを見る。
「あんなすぐキレる奴と稲本がつりあうと思うか?お前は稲本のこと、ちょっとでも考えてるのかよ」
一応、本心だった。勿論それは本心の三割ほどしかなかったけど。あとの七割は……。
ちはるとつりあうのは、俺だけだ。という、自信というか願望というか、そんなものだ。
「まあな、お前は気分悪い思いしたからアレだけどさ、ちゃんと付き合えば、いい友達だぜ」
こいつめ。その顔でよくそんなクサイ台詞がはけるものだ。
いい友達だ?冗談じゃねえぞ。奴は友達なんかじゃない。敵だ。
蹴落としてやる。
教室に帰ると、誰もが僕に視線を向けた。そして、すぐにそらせた。舌打ちをする。
別に僕は何も悪い事をしてないのに。皆が僕を殺人犯みたいな目で見てくる。いつもこうだ。どちらが正しいかなんていうのは、どちらが付き合いがいいかでほとんど決まってしまう。
僕は視線に気がつかない振りをして席に着いた。
そういえば、ちはるはこのことを知っているのかな、と思ってみる。別にやましいことは何も無い。無いが、誤解される可能性は大いにある。
いかん、今日はテスト一週間前だぞ、とりあえずこの件はお預けだ。
でも、もしちはるが本当に誤解していたらその時はどうする?この授業が終わった後に後ろ向いて聞いてみるか?いや、それは多分駄目だ。ちはるもそれは嫌がるだろう……なんてったって教室の中だし、小出の奴も側にいるし……。
そんなことをかんがえて間にHRは終わり、ちはるはさっさと部活へ行ってしまった。少しでも早く練習時間を確保しようとしているらしい。あるいはやはりクラスよりも部活の方が数千倍も楽しいのかもしれない。そこら辺は僕と似ている。
僕も今日は部活のある日だった。だが、どうせもたもた集合するに決まっている。試験前ということで、来ない奴もいるかもしれない。多分今日も金本先輩が一番乗りだろう。そこら辺は全然バスケ部に似ていない。
試験一週間前に入ると、部活は強制的に休みになるから、試験が終わるまでの一週間、剣道はまるきり出来ないことになる。だからこそ部活の練習には出ておくべきだと思うのだが、実際に来たのは、2年生5人と金本先輩だけで、1年生はゼロ。
だらしない部活だな、と僕は思った。一部員でもはっきり分かるのだから、相当重症だ。
どういうわけか今、僕は稲本ちはるの家のまん前にいる。
別に、大した理由ではない。試験勉強をやろうにも、教科書を学校に忘れたために、何もすることがなくなってしまったのだ。
そして、そのへんをぶらぶらしているうちに、ここに辿り着いてしまった。
なんとなく、ちはるの顔が見たいと思っただけなのだが……。馬鹿が。僕が通りかかった所にタイミングよくちはるが現れることなんてそうそう無い。
仮にあったとしても、道路の行き止まりに位置するこの家だ。そこまでわざわざ来る僕を、ちはるはどう思うだろう?「偶然通りかかってさー、ハハハー」なんて言い訳が通るわけがない。もし、今ちはるに会ったらストーカーでも見るような目になるかもしれない。
僕はちはるの家を眺めながら考えた。そういえば、ちはるの家に入ったことは一度もなかった。男女混合のグループで、家の中で遊ぶこともあまりなかったし、たまにそんなことがあっても、その場所はいつも花田ヒロユキの家だった。
つまり、ここは僕にとって全くの未知の空間ということになる。なんだかそういう言い方をすると結構エロティックだ。……ええい。やめろやめろ。こんなんだから男は直接的な何たるかを求めるものだ……などと言われるのだ。
というか、これじゃ本当にストーカーじゃないか。わざわざ惚れた女の家の前に来て妄想なんかするなんて。こんなんだったら、いずれはちはるの家の中まで乗り込んでしまうんじゃないか?
自分の浅はかさに失笑しながら、僕は踵を返した。
と、その時。
固まった。それこそ頭から足の指先に至るまで、全部だ。
う、そ、だ、ろ……。
今さら隠れようもない。完全に目が合ってしまった。目の前にいる、稲本ちはるその人と。
制服のまま、自転車にまたがっている。
彼女も僕も、何を言えばいいのか分からずに、ただそこにいた。僕の頭の中ではあらゆる言い訳や言い逃れが渦巻いていた。
「ちょっと道に迷っちまってさ」
「この本貸しに来た」
「偶然通りかかってさー、ハハハー」
相当頭が混乱していたらしい。最後に思いついたのは、さっき考えたばっかりのことだった。
その時、ついにちはるが言った。
「……何やってんの?」
やばい。まだ考えがまとまってないぞ。
「なんで制服なんだ?」
今聞いてるのはあっちだぞ。オイ。自分の中に他人がいるかのようだった。
「部活。ねえ、それより、どうしたの?」
別に。なんでもないよ。ただ近くまで来たからさ、久しぶりにちらっと見てこうかなんてさ。って言えばいいのに……。
「あのさ、今日のこと、なんだけど、なんか聞いてる?」
やはり今日は頭がおかしいかもしれない。
「今日のこと?」
「ホラ、俺と小出のさ」
「ああ」
……やっぱり、聞いていたか。誰に聞かされたかは大方見当がつく。
バスケ部のメスゴリラ。
「……感想は?」
僕はおそるおそる聞いてみた。
「シン、あれ位で怒ることないんじゃない?」
ハンマーで頭を殴られた気がした。「原因は、何?」とか、「シンから仕掛けたの?」とか、まずはそういう喧嘩そのものに関することから聞かれると勝手に思っていたのだ。
しかし、驚きの感情を抜きにして考えてみると、言いたいことはたくさん出てきた。
怒るのだって当たり前じゃないか。俺はお前を好きで、だけど小出もお前を好きで、その小出がお前に向かってなれなれしくしてたんだぞ。
でも、こんなロマンチックとはほど遠い場所でそんな台詞が出せるわけがない。代わりに、僕はこう言っていた。
「なんかさ」
ゆっくり言葉を選ぶ。
「頭に来るんだ。ああいうの見てると。他人のご機嫌とるためにはどんなことだってする、みたいなのさ」
しかも、自分が惚れた女に向かって、なんてのは勿論言えるはずがなかった。
「それって、本のこと?」
ちはるの声からは、少し幼さが消えている気がした。ふざけているのといないのとではすぐに分かる。
「そう」
多少たじろぎながらも、僕は答えた。
「『下心が見え見えなんだよ』」僕は数時間前の台詞を繰り返した。
「小出君って……」
ちはるの言葉はそれから先に続かなかった。だが、僕には察しがついた。どんなに鈍い女だって、自分に対して『下心が見え見え』の奴がいたら、そいつが自分に惚れてることは察しがつく。
「そうだよ」
僕は、先を待たずに言った。
「お前、気をつけろよ。あいつ、また絡んでくるぜ」
絡んでるのはお前の方じゃないかという小出の声が聞こえるような気がしたが、馬鹿め。好きな女に絡んで何が悪い。それは正に小出の意見じゃないかと言われそうだが……、こうなるともう正しいのは全て俺だ。奴の言うことは全て間違いだ。
そう思いながら、僕は自分自身に何かしらの罪悪感を覚えていた。
自分の気持ちを伝えられないくせに、勝手に小出の気持ちを伝えちまっていいのか?
いくら恋敵だからって、それは行き過ぎじゃないのか?
「ねえ、シン。もし本当にそうならあたしどうすればいいのかな」
「どういう意味さ」
「だから、小出君があたしのこと……その……、す、好きだって分かったら、あたし、小出君に何か言うべきなのかなって」
思わず足がぐらつく。さっきの罪悪感はどこかに吹っ飛んだ。
「な……、んだよそれ」
「だから」
「お前……もしかしてあいつのこと好きなのか?」
思わず、自転車に歩み寄る。自分の心臓が激しく動悸をうっていることが分かる。答えが聞きたいような聞きたくないような、そんな気分だった。
「好きじゃ、ないけど」
「けど?」促す。思わず語調が強くなっていたことに気づいた。
「……嫌いじゃないよ」
しぶしぶといった感じで、ちはるは言った。その顔が、すねた子供みたいで、もの凄く愛らしかった。……いかん、何考えてんだ。こんな時に。
「でも、アイしてるとか、そういうのじゃないの。だから、小出君があたしのこと好きだとしても、あたしはそうじゃないの」
聞いたか小出。僕はにやけそうになる顔を必死で抑えた。お前に脈は無いみたいだぜ。
「でも」
思わず体がこわばる。
「あたしは小出君にこれからどう接していけばいいのかな。なんにも気づかなかったフリして、今日みたいにおしゃべりすればいい?それとも、あんたなんか大っ嫌いっていう態度になればいい?」
チリリーン。
ちはるの背後で軽快な音がした。見てみると、大学生らしい、体格のいい男が自転車に乗っていた。かなり迷惑そうな顔をしている。僕とちはるは道のはしに避けた。
「こんなとこで話すことじゃないかもな」
僕は苦笑して言った。
「……そうだね」
「……あっ、おい、待てよ」
自分の家に向かって自転車を運ぶちはるを、慌てて呼び止める。ちはるが振り向く。それ以上何も言わない。
「場所、変えようぜ」
「……え?」
頼むからそんなどっちつかずな反応は止めてくれ。ここで断られた時のことを考えると、心臓が破裂しそうだった。
「……だから、さ。こんなとこじゃなくて、桃の木公園かどっかで話すか」
ちはるは黙って僕を見ている。
「もう帰るんなら……いいけどさ」
なるべくすねた感じにならないように努力した。が、無駄だった。気づいてみたら、語尾が小さくなっていた。情けねえ……!
ちはるは背を向け、何も言わずに自転車を自分の家の敷地に置いた。
……やっぱりな。そりゃそうさ。と思いながら、少し安心している自分がいた。やっとこの緊張感から解放されるのか……という自分が。
でも、またあの「またね」を期待して、僕はちはるを見つめていた。そして、ちはるは僕を見て、こう言った。
「……行こ」
ヤバイという形容詞はこんな時のためにあるんだろう。
僕は今、ちはるの左を歩いている。彼女は制服で、僕が私服というのは偉くミスマッチだ。だが、ゴチャゴチャ言ったって、こればっかりはどうにもならない。
こんなことになって、嬉しいのには間違いない。が、僕のこの複雑な心情は、とてもそんな一言で片付けられるレヴェルではなかった。
一体コイツはどういうつもりで僕なんかと一緒に歩いてるんだ?ていうか、なんで僕と話そうなんて思ってるんだ?ひょっとして、ちはるも僕のこと好きだっていうのか?
いやそれはまず無いだろう。常識的に考えて、ほとんどの分野において、自分より劣る男を好きになる女などいるはずがない。そういう人間を『物好き』というのだ。
でも、可能性が全く無いともいえない。どうしても、妙な期待は捨てきれない。それは宝くじへの期待に似ている。
もしかしたら、今日から、僕等は……その……、始まるかもしれないのだ。
「桃の木公園も久しぶりだよな」
僕は公園のベンチに腰掛けながら言ってみた。
正式な名称はたしか『中通第三青少年広場』とかだったと思うが、そんなことはどうでもいい。長ったらしい名前がめんどくさいということで、『桃の木公園』というのが定着してしまった。
公園といってもあるのはせいぜいブランコと滑り台と、砂場と、あととってつけたようなベンチがあるだけだ。僕等の高校の辺りは空き地だらけだが、こっちではそういう土地は少ない。
「話の続きだけど」
ちはるも腰掛けた。僕のようなどっかりした座りかたじゃなくて、なんというか、ちはるのそれは、ゆったりとした座りかただった。
僕は少し黙って考えた。
小出と、ちはる。
僕の視点からしてみれば、小出なんかとちはるを引き合わせるのはごめんだ。脈は無いといっても、人の感情なんて、いつどこで変わるか分からないのだ。それなら相思相愛に(考えただけでも腹が煮え繰り返る)なんかならないように、小出とはばっさり離れてしまった方がいいに決まっている。
そうなれば、梶木の奴がまたややこしくするかもしれない。つまり、小出とちはるがちょっと話してるのを見て、勝手に燃えて、「恋愛サポート」なんか始めたりするかもしれない。
でも、結局のところ、それは僕の考えでしかないわけだ。
「あのさ」
僕は考え考え言った。
「お前はどうなんだよ」
「え?」
「つまりさ、お前は小出とどうしたいんだよ。俺に色々聞いてくるけど、お前はあいつが大嫌いってわけでもないんだろ?」
「……うん。まあ」
「でも、好きでもない」
「そう」
「ならさ、あれこれ考えたってしょうがないんじゃないのか?これまでと同じでいいと思うな。つまり、近すぎず、遠すぎず、ってとこ」
ちはるはまじまじと僕を見た。
「それって結構難しいよ」
「何言ってんだよ、『これまでと同じ』だぜ?つまり、今お前はあいつに対してそんな感じだってこと。いや、どっちかっつうと『遠い』かな」
そして、僕はどうなんだろう。ちはると僕は、小出みたいに「近すぎず遠すぎず」なんだろうか?それとも少しは彼女の心に近づいているのだろうか?
「よく見てるね」
「人間観察が趣味なんだ」
ちはるがぷっと吹き出した。
「なにそれー」
冗談にするのは成功したが、「よく見てるね」と言われた瞬間、これ以上上がるはずがないと思っていた心拍数が、更に上がっていた。心臓の血管が切れるかと思った。
「とにかくさあ、小出のことは何も考えるなよ。お前は何も見なかったし、何も気づかなかった。そういうことにしとけ。今日のことで変に態度変えたりはしない方がいいと思うな」
勿論、そんなのは建前でしかなくて、本当は彼女には小出を突き放してもらいたかった。だけど、ちはるがそこまでしたくないと言っている以上、どうすることも出来ない。今の僕にそこまで指図する資格はない。
「ま、期待させるようなことはするなよな。男って奴はなあ、欲望が強いから、何しでかすかわかんないもんだ」
「シンも男じゃない」
「う。そうデシタ」
ちはるはクスクス笑っている。
その時、ピリリリリという音が鳴った。
「あたしだ」
「レトロな着メロじゃん」
というか、着信音だったけど。
「着メロのとりかた分かんないの」
い、今時?
相当な機械音痴だ。高校生でそれは結構珍しい。
「メール?」
「……早く帰って来なさい。お母さんだ」
僕は自分の携帯を取り出して時間を見てみた。たまげた。もう8時半を過ぎていた。そろそろ僕も帰らなければ面倒なことになりそうだ。
「……んじゃ、帰るか」
言いたくなかったが、仕方がない。僕が親にうるさく言われようがなんだっていいが、ちはるにそういう思いをさせるのは気が引ける。
「うん。色々ありがとね」
そして、僕等は公園を出て、とりあえずちはるの家の前までついていった。
「あのさ」
僕は彼女の家の前で口を開いた。彼女が振り向く。言いたいことは腐る程あった。
お前、俺のことどう思ってるんだ?
これからも、よろしくな。
あるいは、もっとストレートに、好きです。
「お前さ……」
逆光で顔はよく見えないが、ちはるはじっと僕を見ている。僕の思いつめたような言い方が気にかかっているのか、理由ははっきりとはわからない。
言え。
「……試験勉強どう?」
馬鹿野朗……。
もう授業の時間よりも多いんじゃないかと思うくらいの勉強量をこなし、怒涛のような試験の波が、ついに過ぎ去った。
正直に言うと、僕の試験はズタボロだった。英語では単語をど忘れするし、数学では+と−の書き間違いが4個ほど見つかったし、現代文は終了時間を10分勘違いした。
それだけならまだいい。
こともあろうに、あのウシガエル野島の保健の試験で、解答欄を一個ずらして書いてしまっていた。それに気づいたのが試験終了十分前で、慌ててそこを全部消したのだが、それがいけなかった。パニック状態に陥り、消す前の答えを覚えていなかったのだ。また一から試験をやりなおす羽目になり、解答用紙は消しゴムの威力でぐっちゃぐっちゃになり、少し破れた。もうすっかりやる気が萎えてしまったが、それでも僕は健気にも試験に取り組もうとした。が、3分の1ほどの空欄を残した状態で、非常にも終了のチャイムが鳴った。それは同時に全ての試験の終了の合図だった。
……ふっ。燃え尽きたよ……真っ白にな……。という感じだった。
実際僕の頭の中は真っ白で、他の連中の歓喜の声が、遥か遠くのことのように思えたものだ。
こんなことになったのは、僕の集中力が足りなかったからに過ぎない。
そして、その原因ははっきり分かっているのだった。
言うまでもなく、ちはるのことだった。
彼女はあれから、小出を突き放すわけでもなく、かといって妙に期待させるわけでもないような、文字通り微妙な態度で接している。
だが、小出に「微妙な態度で接している」といっても、僕は教室では「接する」ことすら出来ていない。小出は彼女に何の気なしに話せるのに、僕がそうはいかないのは、一体どういうことだ。
きっと、「喋らない奴」という皆のイメージから、僕自身がなかなか抜け出せないからかもしれない。それならば、僕はもう「天宮心」をぶち壊して、新しい自分でも作りたいような気分だった。
そんなこと思ってもどうせできっこないのだが。
ただでさえ頭に来ていたのに、あのウシガエル(もう名前は省略)がまたしてもやってくれた。
試験明け最初の授業は、当然試験が帰ってくるものだ。でも、別に期待していたわけではない。それどころか、嫌な予感がビンビンだった。
普通試験は出席番号順に返すのが普通だ。それなのに、今回はどういう気まぐれか、
「じゃあネ、今日は一番最後から返すか」ということだった。
いままで言っていなかったが、僕の出席番号は1番(アマミヤだから)。つまり、今日の場合、一番最後に試験を返されることになる。
そして、あのウシガエルは、そのヌメヌメした口調で、さんざん嫌味を言ってくれた。
「全く、お前、なんだこの点数は」
「クラスでビリだぞビリ」
なんとなく予想がついていたことだったが、何もこんな所で言わなくたっていいじゃないかと思う。一応、教室中はテストの結果に興奮した輩でざわついていたし、奴の声は馬鹿でかいというほどのものではなかったから、周囲には知られずに済んだかもしれない。それでも、教卓のすぐ側の席の女には聞こえたかもしれないし、嫌味をいう時間が、くどくどくどくどくど……要するに、長かった。
「普段の授業で聞いていないからこういうことになるんだ」
「これでちょっとはいい薬になったか」
「いいか、保健を見くびるなよ」
いいかげんにしろよ。と思った。さすがに教室のざわめきも落ち着いてきていた。相対的に見て、僕が教卓の側に立っている時間はめちゃくちゃ長かった。握り締めた拳に、じんわりと汗がにじむ。
「そもそも、ここの学校の生徒は、部活も勉強も真面目に取り組むはずなのに、お前は部活の方の成績も芳しくないだろう。ったく、両方中途半端な奴だな」
プチン、と音が聞こえた気がした。
「うるせえよ……」
「何?」奴は怪訝そうに眉をひそめた。
「るせえっつってんだよ!」
ダン!と音が聞こえた。握り締めた拳を解放してやった。残念ながら、叩いたのはウシガエルではなく教卓だったが。
「お前がこの学校を語れるほど、お前は偉いってのかよ!ああ!?」
言い出したら止まらなかった。隣のクラスに聞こえるほどのでかい声だった。
「大体なあ、一位が出ればビリも出るだろ!てめえはそいつら全員にいちいち説教たれてんのか?ああ!?てめえこそ、その腐った性格どうにかしろってんだ!」
立ち去り際に、教卓を思い切り蹴った。
僕が席に着いて、まだ怒り心頭なのを見ても、ウシガエルは何事もなかったかのように喋りだした。平均点がどうのこうのとか言っていた気がする。そして、授業の終わりに、奴はこう言ったのだった。
「天宮。オマエ後で職員室に来い」
関心・意欲・態度。
要するに授業態度のことなんだろうが、中にはそこを「気に入るか気に入らないか」で判断する教員がいるのでタチが悪い。別に僕は間違ったことは言っていないと思うのだが、生徒に怒鳴られるという屈辱を味わった野島は、そこをまるっきり無視した。
僕の保健の成績は「1」という、最低を越えた超最低ランクが、確定を越えてもはや必然となっていた。
当然この事件は瞬く間に生徒に広がり、その授業の直後では、ご丁寧に、わざわざ他のクラスからも僕を見に集まってきていた。
「あいつあいつ」
「野島を怒鳴りつけたんだって?」
「なんで?」
「野島が野島だからだろ」
「やるなあ、天宮。でも、馬鹿だよな」
それは非常に納得だが、もうちょっと節度ある行動を取って欲しいものだ。
でも、あの小出は、全然興味もないように窓の外を眺めていた。それどころか、面白くない、というように、しきりに僕を睨んでは舌打ちをしていた。梶木が言うには、彼は保健のテストがクラスでトップだったらしい。「なんでトップよりもビリがちやほやされるんだ」という感じだろう。
でも、僕はこの状況を全く楽しんでいなかった。僕の(非常に)輝かしい行動が皆に伝わったことは間違いないのだが、同時にそれは「保健がクラスでビリ」という醜態を、学校中にさらすようなものだったからだ。
当然、これはちはるにも伝わっているわけで……、そう考えると気が気じゃなかった。ちはるも僕を見てクスクス笑っていたが、その意味は一体なんだったんだろう?
考えるだけ、無駄だった。放課後の図書室で、彼女は僕を見つけると、近づいてこう言ったのだった。
「シン、やるじゃない」
予想とはまるで違って、その声はまるで笑いをかみ殺してるみたいに感じられた。それでも、これで安心だと思うほど僕はお調子者でもなかった。
「冗談きついぜ。「1」だぜ「1」」
「……何が?」
「成績だよ!」
ちはるはぷーと吹き出した。
「笑うことねえだろ。真剣に悩んでるんだぜ俺は」
「まだ分からないじゃない、そんなの」
どうもこいつは楽天的な性格のようだ。
「分かるよ。あいつはなあ、一度言ったことを決して曲げない奴なんだぞ」
「……ほめてるみたいね」
「……実際そうなんだもんよ。悪い意味でだけど」
「シンって、頭悪いの?」
もっとも恐れていた話題に入ってしまった。それにしても単刀直入に聞いてくる奴だ。古い仲だからあたりまえか。
「悪い」
保健に関しては、嘘ではない。
「国語はいくつ?」
「92」
「……」
ちはるがぷうっとむくれる。頬を膨らませて、ホントに子供みたいだ。小学生のころと変わっていないんじゃないか?でもその華奢な体つきは女のもので、首の下のふくらみもそう……。
そんな僕の視線に気づくことなく、彼女は続けた。
「数学!」
「83」
「英語!」
「79」
「……もういい」
「ふふん」と僕が言うと、彼女はげんこつを振り上げてきた。
なんだか、ずっとこうしていたい気がした。彼女と他愛のない話をして、時には冗談なんか言ってみたりして、彼女が笑ってくれるのを待つ。それは、ちはるに何かとちょっかいを出していた小学生の頃に戻ったような、そんな錯覚さえ起こした。
そして、そんな機会は少しずつ、でも確実に増えてきているのだ。
あの夜の散歩以来、相変わらず教室では話し掛けないものの、彼女は前より頻繁に図書室に来て、僕と適当におしゃべりをして、部活へ行く。
でも言うまでもなく、僕はちはるとそういう関係にあるわけではないから、それ以上のことは何も出来ない。もういい加減なんらかの行動に出てもいい気もするが、そっちのムードに持ってくだけの技術が無いのと、告白などという、人生最初(そして最後でありたい)の恋の試練に挑戦するだけの勇気がないのとで、今にいたる。
ちはるが僕をどういう風に見ているかが分からないのが一番痛い。女バスの方々と変わらない、『友達』としてみているのか、それとも『異性』としてみているのか、それさえわかれば、僕だってもう少し何かしようと思っているが……。「脈」がちょっとでもあるんだか、それとも、全然ないんだか、せめてそれくらいは知っておきたいじゃないか。
「じゃ、もう行かなきゃ」
「はいよ。じゃな」
ちはるは踵を返した。彼女の短い髪がかすかに揺れる。
「またねー」
彼女は、首だけをこっちに向けて微笑みながら言った。その後は、振り返ることもなく、あまりにもあっさりと図書室を出て行ってしまった。
僕はため息を吐いた。もし彼女が僕を好きなら、少しでも一緒にいたいと思うもんじゃないか?でも、彼女はそんな素振りは見せなかった。あのあっさり具合がその証拠だ。
それとも、女って奴は、もうちょっと複雑に出来ていたりするんだろうか?例えば、会えないことで、より愛が深まる……みたいなことを少女漫画とかで読んでるんじゃないか?
分からん。全く分からん。
「……ちくしょう」
思わずそう言ったのは、僕……ではなく、司書のババアだった。僕と目が合うと、彼女は慌てて視線をそらし、手元の本の整理をし始めた。
……てんめえ……。いつから見てやがった……!
僕が図書室から出た瞬間に、奴のクスクス笑いが聞こえた。
三年生の引退がいよいよ近づいてきていた。部長や副部長もさすがに部活に顔を出すようになり、剣道部はかつてないほどの活況を見せた。
「やだよ俺、こんな体育会みたいなの」
始まって10分も経たないうちに、二年生の篠田がほざきだした。三年生が優先的に武道館を使うため、一、二年生はこの梅雨明けのクソ熱い時に外を走ることになるのだ。
いや、勿論剣道の防具を装備して、サウナ同然の武道館で動くよりは涼しいのだが、室内の部活というものはどうも日光に弱い。どいつもこいつも色白で、最後に外で走ったのが半年前という有様だ。
「シガイセンがきついっつーの!冗談抜きで火傷するぜ……」
「ジャージで走りな」僕はイライラして言った。ただでさえキツイ練習なのに嫌だ嫌だ言ってたらやる気なんか消えてなくなってしまう。
「いや、それもちょっと……」
俺が仕切れるんだったら、こんなのび太の権化みたいな奴は速攻でクビにしてやる。とにかく剣道部は一度ぶっ壊してイメージを変えなければいけない。
などと決意してみても、実際練習はキツイ。少しでも手を抜けば金本先輩の怒声が飛ぶし、暑いし、めったにやらないランニングのせいで足が悲鳴をあげてるにも関わらず、足さばきを300回というハードメニューだ。金本先輩が作ったことは間違いない。
「どおおおぉぉぉぉ!!」
その金本先輩は、武道館の中、誰よりもでかい声で吼えていた。あれだけの練習をして、まだあんな巨大な声を出せるとは、大した精神というか持久力というか……。ひょっとしたら、陸上の長距離なんかやると成功するのかもしれない。
「声が出てねえぞおおお!!」
その怒声に、部員(ほぼ)全員が雑巾を絞ったような声を出した。
「なんだなんだその声はあ!もっと腹の底から声を出さんかあ!」
もうほとんどヤケクソといった感じで、部員が大声を出すと、金本先輩はやっと満足したのか、もう何も言わなかった。
練習熱心なのはいいかもしれないが、ありゃちょっと行き過ぎだ……というのが、二年生の世論だった。
二年生の、とわざわざつけたのは、一年生の世論は違うものだからだ。
「金本先輩はカッコいい」
というのは存在しえない意見であって、実際には、
「金本の野郎は狂ってる。キツ過ぎる」
これが一年生の見解だ。つまり、二年生よりももっとひどい評価だということであった。今年の一年生はどうやら、僕等とは(別の意味で)次元が違うらしい。一年どもが入部して3ヶ月。早くも一人退部した。なんでもそいつはいま、演劇部のマネージャーをしているらしい(文化部のマネージャーってなんなんだ。剣道部にはそんなのいないのに)。
「ようし!次!天宮!篠田!入れ!」
部内での練習試合。これが終わった者から、防具を外すことが出来る。つまり、本日最後の練習だ。
「やああああぁぁぁぁ!!!」
僕は鬱憤をはらすつもりで大声を出した。目の前にいる篠田が体をひく。
ビビってるな。
すかさず真正面からきりかかる。篠田が竹刀でそれを受け止めた。互いにその状態で押し合う。一瞬でも気を抜いたら吹っ飛ばされる、そういう状況だ。
奴の呼吸の音が聞こえる。面越しに、うっすらと顔が見える。汗が目の中に入って、かゆい。うっとおしい。
知るか!
篠田の体が吹っ飛ぶ。すかさず自分の足を前に送る。腹をめがけて、竹刀を叩き込む。
「胴!」
バシイという軽快な音がして、金本先輩が「一本!次!」と叫ぶ。
その場から離れた場所に座り、僕は面の紐をゆっくりほどいていった。やがて、それらが全部ほどけ、面が顔から外れる。冷たい風が汗だくの顔に当たり、頬を冷やした。サウナから出た瞬間のようだ。剣道をやっている時の中で、一番気分がいい瞬間だ。
僕は篠田の野郎を見て、ニヤリと笑ってやった。
やっぱり、やらない奴は駄目なんだよ。
高校生ともなると、大抵友達と一緒帰るものだ。
クラスでは人付き合いの悪い僕も、部活では別だった。「嫌われたくないから」とかそういう理由でつるむのではなく、ただ純粋に皆でいると楽しいからだ。クラスの連中と、部活の連中とでは、どこかが決定的に違うのである。どこがだと言われても困るけど。
でもやっぱり、そんな部活の連中の中でも好き嫌いというものはあって、二年生の中でも、大きく分けて「金本派」と「ぐだぐだ派」があった。練習の時にはいちいちそんなこと気にしないが、こうやって話したり、一緒に帰ったりするメンバーは、その二つによって違ってくる。
言うまでもなく、僕は金本派だったが。
「なあなあ、天宮は次の部長誰になると思うよ?」
駐輪場への道中、二年の杉浦が言った。
最近はそんな次世代の話題で持ちきりだった。さすがに三年生の前では口にする者はいないが。
「梶木じゃねえの?」
「馬鹿野郎。俺が部長なんかになったら、部活崩壊じゃい」
「もう既に結構崩壊してるんじゃねえか?」
僕が言った。冗談なんかじゃなく、真面目な意見だ。こんなふうに言いたいことを言えるというのは、結構楽なものだ。
「そうかぁ?」と、矢野。
「まあ、そうだよなー、篠田とか、あと一年とかな」と梶木。
「でもよー、前の代よりはよくなってきてるんじゃねえのか?俺達が一年のときなんて、三年生誰も来なかったじゃん」
「そりゃ確かによくなってきてはいるかもしれんけどさ、1が2になったくらいのもんだろ?大体今の一年生が三年になったときのこと考えるとさ」
僕はそこで言葉を切った。10メートルくらい先に、女子の軍団がいたのだ。そしてよく見ればそれは……。
女子バスケ部だ。ということは……。
いた。ちはる。汗でびしょびしょの髪をなびかせて、仲間たちと何か笑っている。
「あーまーみーやー?おい、天宮!」
はっとした。
「なんだなんだお前。ぼーっとしやがって」
矢野が僕の顔めがけて団扇を振っていた。
「コラコラコラ」
杉浦がニヤニヤしながらたしなめた。
「なんだよ」
「天宮クンはなあ……あの方々にみとれておられるのだよ」
なっ……!
いや、実際に僕がみとれていたのは「あの方々」じゃなくて「あの方」だったが、それにしても、杉浦の意外な洞察力には舌を巻く思いだった。
「えー……馬鹿てめーやめとけよ。女バスはなあ、全員が全員男勝りだぞ」
と矢野。
「その前に、天宮じゃ落とせねえだろ」
と梶木。大きなお世話だこの野郎。でもそれを言ってしまうと、杉浦の言ったことを肯定することになるので、やめておく。自分の思慮深さにつくづく感嘆してしまう。
「ドアホ。そんなんじゃねえよ」
「じゃあどんなんだってんだよ」と、矢野。
「それはだな」
杉浦の馬鹿が真面目くさって言った。
「本日のオカズなのだよ。あいってえ!」
教科書をたっぷり含んだ手提げ鞄が、奴の頭に直撃した。
「お前と一緒にするな」
そうこうしている間に、女バスの方々は自転車に乗ってしまっていた。
僕は舌打ちした。ふざけんじゃねえぞ、せっかくのチャンスを、こんな猥談で不意にされてたまるか。
「俺、今日ちょっと用事あるからさ」
「おう」梶木と矢野が同時に答えた。しかし杉浦だけは眉をひそめている。
嫌な予感がした。そして、案の定……。
「じゃな」
そそくさと立ち去ろうとする僕に無かって、杉浦のこんちくしょうめ、
「レイブはやめとけよー!」
などと大声で叫んだ。
僕は中指を突き上げてみせ、急いで自転車に飛び乗った。
ったくあの大バカヤローめ。女バスの連中に聞こえてやしないだろうな。いや、聞こえてたとしても冗談だろうというくらい分かるだろうけど……。
僕は本日二度目の舌打ちをした。市内でトップ校と言われるこの学校だが、こういう奴はどこにでもいるものらしい。一体なんであんなのが入学試験を通ったんだ(特に面接は)?何かの間違いだったとしか思えない。
僕は一旦ブレーキをかけ、自転車のギアを最大に変えながら、女バスの軍団が遠くへ行くのをじっと見ていた。
彼女等の声が遠くなるのを確認して、一気にペダルをこぐ。この瞬間を待っていたのだ。
「ぬおおおおおーーー!!!」
恥ずかしながら、そんな声を発していた。本気を出す時には、どうしても声を出さないとその気になれない。職業病みたいなものだ。部活病とでも命名するか。
あんまり必死にこいでいたせいか、ちはるに追いつくどころか追い越して、結構な距離をとってしまった。慌ててブレーキをかけると、自分の体が前につんのめった。
ちはるが笑った。
「急いでるの?」
「えっ?あ、いや、別に、そうでもないけどさ」
そろそろ会話にも慣れていい頃だと思うのだが、いかんせんどうにもならない。
「じゃーなーに?あの猛ダッシュ」
「いや、だからさ」
しどろもどろ。
「お前に追いつこうと思ってさ」
言ってしまった後で、猛烈に後悔した。あんまり恥ずかしくて、顔で目玉焼きが出来そうだった。多分暗いからばれずに済んだだろうけど。
「ったく、そんなことわざわざ聞くなよなぁ」
ちはるはぷっと吹き出した。
「あ、それ、照れてるのー?」
「ちがっ!」
ちはるはクスクス笑っている。
そんな顔を見ていたら、真面目に否定している自分が馬鹿馬鹿しくなってしまった。やがて、とうとう僕も口元を緩めてみせた。
僕等は、しばらく黙って、自転車を引きずりながら歩いていた。その間せいぜい交わした言葉といえば、部活のことだけだった。
だけど、それは重苦しいような沈黙ではなく……そう、甘い味のする沈黙だった。話すことが無いのではなく、話す必要の無いような、そんな沈黙。
そしてふっと、端から見れば、僕等は『男と女』にしか見えないんだろうな、なんてことを考えると、自転車を引きずりながらスキップしてしまいそうになる。いっそ、同級生にこの状況を見て欲しいような気もした。
実際、結構ちはるは僕に相当心を開いてくれてるように見える。数ある男の中でも、かなりいい位置にいることは確かだ。
僕等は今、ちょうど人気の無い踏み切りで、電車が過ぎるのを待っていた。あのレトロな音が、リズミカルに周囲に響く。
「ねえ、シン」
「……ん?」
いままで生きてきた中で、多分一番幸せな気分のまま、僕はちはるを見やった。
「……シンはさ……」
一瞬ヒュッと音がし、直後に電車が目の前を通っていった。轟音があたりを包み、電車のライトが周囲を照らす。さっきの静寂が嘘のようだった。
だけど、ちはるの声はその轟音の前でも、はっきりと伝わってきた。
シンはさ……。
好きな人、いるの?
電車が過ぎ去り、再び静寂がおとずれてからも、僕はじっとちはるを見つめていた。
どういうことだ?
その質問って……。つまり、そう。聞かれたのと同じ意味だ。ちはるは僕に好きな人がいるのか知りたいのだ。
でも……なんで?
ぐるぐると思案をめぐらせてる僕に向かって、ちはるは遠慮がちに尋ねた。
「シン?」
僕は黙っていた。
「あの……悪いこと聞いちゃった?」
僕は黙っていた。
「……行こ」
ちはるは歩こうとした。でも、僕は線路の上に突っ立っていたままだった。オレンジ色の光が僕の顔を照らす。
「シン」
「……いるよ」
やっとのことで僕はそう言った。そう、目の前にその人はいるのだ。でも、そこまで言う勇気はなかった。情けないことに、僕はちはるの反応を見ようとしていたのだった。
彼女が、それで寂しがるか、それとも無関心か。
でも……。
(陰気くせえ)
不意にそんな自分に圧倒的な嫌悪感が襲ってきて、それは僕の視線を無理やり彼女からもぎ離させた。
「でも、どうしてそんなこと聞くんだよ?」
そんな台詞を言うのに、鉄の扉を押し開けるくらいの労力がいった。僕の頭の中はもうぐるぐるにかき混ぜられていた。
「……あのね、相談したいことがあって」
「……なんだよ」
笑え。自惚れ屋とでもなんとでも言え。
僕は、彼女からの告白を期待した。『好きだよ』と言われるかもしれないと、冗談抜きで、その時思ったのだ。
実際には、彼女は思い直したように微笑み、こう言ったのだ。あの優しいアルトで、言った。
「……ん。やっぱいいや。帰ろ。もう遅いし」
体の力が抜け落ちるのを感じた。一歩間違えれば、その場にしゃがみこんでしまいそうだ。
なんなんだ、相談したいことって……。
その前に、なんで俺に好きな人がいるかなんて聞かなきゃいけないんだ。
「待てよ」
ちはるがビクリとして、足を止める。一緒に引きずっていた自転車も止める。
自分で引き止めておきながら、僕は尚もためらい、そして、言った。
「お前にも、好きな人いるのか?」
(最終部分)
「心―?ったく、遅いわよ、アンタのせいで夕飯がねぇ……」
「ちょっと、アンタ何その顔。真っ青よ。どうした?具合でも悪い?」
「寝るって、ちょっと……」
「心!」
遠くの方で雑音が聞こえる。
なんだっていうんだ。
畜生、畜生、畜生……!
顔の見えない男がいる。僕を見て、指さし、そして笑っている。
誰だ。
お前は誰だよ!
目が覚めた。
でも……あの記憶だけは、一生目を覚まさなくてよかった。
それは、どこにいても、何をしていても、僕の神経を焼き払おうとする。あの夜からもう二日は経ったと思うのだが。いや、三日か。でも、そんなことは大した問題じゃない。
ここ、二、三日の記憶が全く無い。自分がどこにいたのかも、何時に起きたのかも、何を食ったのかも、全然何も覚えていない。
理由は分かりきっている。あの夜の記憶が、あまりにも鮮烈すぎるのだ。他の意識を粉々にして、それは僕の頭の中で暴れ狂っている。
僕の問いに、彼女はしばらく黙っていた。僕の目をまっすぐに見て。
虫の声が聞こえる。
それがやがて、止む。
また虫の声が響く。
そして、永遠に感じられた時間が過ぎ去り、ついに彼女はゆっくりと言ったのだ。
「……いるよ」
それは僕じゃない。
一瞬にして悟った。
もしも僕だったら、ちはるが僕に向かって、ハッキリとそんなことを言えるわけはないのだ。
その瞬間、僕の足元がまるで脚の取れた椅子みたいに、ぐらぐらと揺らいだ。地面の方が崩れるかと思った。
(止めろ)
止まらない。おまけに、顔の筋肉も変な具合に動く、それが、涙腺が刺激されているのだと感じた時。
(おい!何やってるんだ!)自分を罵倒した。
無理やり、感情を押さえつけた。口を開けた。声が出ない。目の前に、ちはるが立っている。
決定的になってしまう。ちはるへの思いが、決定的にその人に知られてしまう。どんな意図で今の質問をしたのかも、分かってしまう。
そう自分に言い聞かせた。
泣くんなら、家に帰ってから泣け。目の前には、ちはるが、ちはるがいるんだぞ……!
この時ほど、自分の思った通りに体が動いてくれないことが、わずらわしく感じられたことはなかった。
「シン?」
とうとうちはるが声に出して言った。自分がどんな顔をしているか、考える余裕も無かった。
「……ハハ。なんか、今日の練習キツくってさ、今ごろになって痛み出してきやがった」
「……」
ちはるは黙って僕を見ていた。その沈黙が、僕の恐れていることでなければいいと、強く、本当に強く思った。
そして、ふっと『奴』の顔が浮かんだ。……小出。
僕は、小出と同じことをしようとしていた。自分の思ったように自分の思いを伝えられないだけでなく、更にそのことで、稲本ちはるを困らせてしまおうとしていたのだ。
「あーー、いててて。で?そいつ、俺の知ってる奴なのか?」
いいぞ。声の調子も平静になりつつあった。だが、その仮面は割れたガラスをつなぎあわせたようなもので、ちょっと指を触れただけで、ガラガラと崩れてしまいそうだった。ちはるがこれ以上仮面に触れないことを祈るしかなかった。
ちはるは黙って首を横に振った。
「……そっか。ちょっと意外だったな。お前にそんな色っぽい話があったなんて」
ちはるはやっと笑ってくれた。さっきのは、僕の杞憂だったのか。それとも……。
「でも、まだ告白もしてないから」
「へぇ……。まぁ、ほどほどにな。あんま熱持つなよ、フられた時にキツイからな」
そして、正に、それが僕の今の状況だった。
「……うん」
「じゃな」
「ん。またね」
でも、もう僕に「また」は無いかもしれない。
恋が、こんなにもあっけなく終わるとは思ってもみなかった。
この恋は終わろうとしている。僕はちゃんとした告白すらしていないというのに。
だが、そう、恋の終わりなんて、唐突なものかもしれない。実際、僕は杉浦に冗談を言われたときも、こんなことになるなんてことは微塵も思っていなかったのだ。
何も稲本ちはるだけが女ではない。長い人生、これからいくらでも新しい恋なんてあるじゃないか。
そんな一般論は、僕にとってはどうでもいい。
僕にとっては、まさに稲本ちはるだけが女だった。そして彼女への失恋は、僕の人生の終わりにも近い傷を与えている。彼女が一体誰にほれているのか、それすらも分からないというのに。
だが、ある意味では、彼女の相手を知らなくてよかったとも思う。
もしもそいつが分かっていたら、僕は今ごろ少年院の中にいるかもしれないのだ。
僕は、冷たい木の床の上に、裸足で立っていた。
「来たな、天宮」
「……はい」
ぼんやりと答える。
ここは、どこだ?
今、何時だ?
目の前に立っていたのは金本先輩だった。それが分かったとき、ここは武道館で、今は放課後なのだと、初めて気がついた。
金本先輩は、そのがっしりとした体つきで、剣道着のまま、そこに仁王立ちしていた。
「なかなか早いな。ま、俺には負けるけどな」
「……ハハ」
先輩が早いのは、午後に授業とってないからでしょ。
そんな長い台詞を言おうなんて、今の僕にはどだい無理な話だった。口を聞くのもめんどくさい。僕は右腕に乗っかっている手提げ鞄を肩にもたせ、ゆっくりと更衣室へ向かって行った。
「おい」
僕は尚も歩き続けていた。
「天宮!」
金本先輩が叫んだ。
「てめえ、一体何してやがる」
「……はい?」
「そっち、倉庫だぞ」
本当だった。ドアを開けたら、中にあったのは、使い古しの防具と竹刀の束だった。
「おい」
金本先輩はまた言った。
僕はゾンビみたいにゆっくりと、金本先輩を見やった。
「どうしたんだ?」
「……何が」
そして、ああこの人先輩だったんだっけと思いなおし、「ですか?」と付け加えた。
「お前、ひどい顔してるぞ」
……だろうな。
そういえば、この間、姉貴にもそんなことを言われた気がする。でも、僕はその時のことを、あんまり覚えていない。その後は、真っ暗い部屋の中で一人で過ごしていた。
「……なんとか言ったらどうだ」
「……すいません」
元気なんか出せない。今の僕には、それは拷問に近い。空元気なんて言葉があるが、それすらも沸いてこないのだ。
「なんだその弱っちい声は。いつも声出してるだろうが。声」
金本先輩はイライラと言った。それでも何も言わない僕に向かって、
「お前、今日部活出るな」そう言った。
思わず顔を上げた僕に向かって、先輩は尚も続けた。
「声の出ない状態で剣道なんか出来ねえ。どのみち、その状態じゃ練習にもなりゃしないだろ。何があったかは知らんけどな、部活にそういう死人みたいな面して出てくるな。全員の士気が下がる」
「……はい」
仕方ない。何も話してないんだから、先輩が僕の気持ちを知ろうなんて無理な話だ。
僕は、今来た方向とは逆の方向、つまり武道館の出口に向かって歩いて行った。金本先輩の視線を痛いほど感じながら。
その時、梶木がそこへ入ってきた。
「こんちわー……?」
陽気な顔が、一瞬にして変わった。その場の空気が痛いことは、誰の目にも明らかだった。
「どうしたんすか?」
僕は構わず、梶木の横を通り過ぎようとした。
「おい、天宮」
「ほっとけ」
金本先輩が言った。
「おう、天宮」
僕は振り返って彼を見た。
「試合は朝の8時に、全員市民体育館に集合だ」
試合、というのは三日後に控えている三年生の引退試合のことだった。そして、金本先輩は付け足した。
「全員だ。欠席は厳禁」
僕は、何も言わずに武道館を出て行った。
家の中には、誰もいなかった。
僕は部屋のベッドに倒れこみ、枕に顔をうずめた。
何も考えたくない。何も思いたくない。何も要らない。本当に欲しいものは、手の届かない所にある。
ピンポーン。
何の音だ……?
ピンポーン。
ああ、インターホンか。
ピンポーン。
僕は芋虫みたいに起き上がり、のそのそとベッドからすべり落ちた。立ち上がり、部屋のドアを開け、出て、閉める。そんな当たり前の動作も面倒くさい。
しかし、さっきから何回鳴らしてるんだ。一体どこのどいつだ。
階段を降り、玄関にたどりつく。決して急いだわけではないのに、あの音はまだ鳴っている。
ドアを開ける。
「いるんじゃねえか」
聞きなれた、図太い声だった。
「ちょ……何しに」
聞いちゃいなかった。金本先輩はドアをぐいっと開け、玄関は瞬く間にオープンスペースになった。
「どうだ、ちっとはすっきりしたか」
「……」
「声を出せ、情けない」
「……はい、まあ」
「まあいい……ここニ、三日、お前、全然覇気がねえが……、女がらみだろ」
鋭い。こんなにも鈍そうな顔をしているというのに、人は見かけによらない。
「……よく分かりますね」
先輩は寂しそうにふっと笑った。
「経験済みだ」
僕は黙っていた。ここでそんなことを詳しく聞く気にはなれない。
「まあ、そんなことはどうでもいいんだ」
そして、先輩は僕をまっすぐに見据えて言った。
「お前、フラれたのか」
言われたことの意味を理解するまで、まるまる10秒かかった。
フラレタノカ。
振られてはいない。そもそも、僕はちゃんと告白すらしていないのだ。でも、そんなことをしたって無駄なのだった。彼女にはもう、好きな人がいる。
僕は首を横に振った。
「なんだそりゃ」
僕は何も言わずに床を見ていた。
「話してみろよ」
僕はためらった。口に出すことで、それが本当に確定してしまうような気がしたのだ。
金本先輩がドアの外に目を向けた時、僕は口を開けた。
「……俺が、惚れた、女には、好きな人が、いたんです」
一言一言ごとに、またもや涙腺が刺激された。思わず下を向く。
だけど、金本先輩は構わなかった。
「告白したのか」
「……いえ」
金本先輩は突然こっちを向いて、僕を睨みつけた。
「てめえ、まさかそれで諦めちまってんのか?」
僕は、答えに詰まった。そう、僕は諦めている。
でも、もともとちはるに関しては僕はある種の劣等感を抱いていたのだ。そのちはるが惚れた相手……僕なんかじゃかなわないことは、間違いないのだ。
「お前はよ、レギュラーになれなかったら、そこで部活やめるか?」
僕は下を向いたままだった。そして、ぼそりと言った。
「これはそんなレベルの話じゃないんですよ」
突然、金本先輩が僕の胸倉をつかんだ。憤怒の表情で、僕を睨みつけている。距離なんか無いに等しい。彼の鼻息が聞こえた。
「……ふざけんじゃねえぞ……」
僕が唖然としていたら、また突然、金本先輩は僕を突き放した。
「告ってもいねえくせに、うだうだ言ってるんじゃねえ、惚れた女に好きな奴がいようがいまいが関係ねえだろうが!」
ものすごい形相だ。今にも飛び掛ってきそうな牛に似ている。
「お前がそんな根性の無い奴だとは思わなかったぜ。『そんなレベル』だ?そんな風にどっちにも中途半端だから、女に振り向いてももらえねえんだよ!」
どんなに鋭い突きよりも、その言葉は僕を貫いた。多分、ダメージ的にはあの夜と同じくらいの威力だったと思う。
金本先輩はそんな僕を見て、チッと舌打ちしただけだった。
ドアがバタンと閉まった。
僕はついに、先輩の顔をまともに見ることが出来なかった。
告ってもいねえくせに、うだうだ言ってるんじゃねえ!
どっちにも、中途半端……か。
そう。金本先輩の言う事は確かに正しいのかもしれない。ちはるが誰を好きだろうが、彼女をこちらに向かせることが出来るだけの男になればいいのだ。
だが、口で言うなら、誰にでも出来る。そう、少なくとも今の僕は、それほどの男ではない。
彼女を惚れさせる。好きな男を忘れさせるくらい。
そのために、どれだけの時間を待ち、どれほど自分を磨き、どれほどの嫉妬に耐えなければならないというのだ。
それに、ちはるが本当に『片思い』かどうかも分からない。ひょっとしたら、実はもうそいつと付き合っているかもしれない。だとしたらそいつをまずどうにかしなければいけない。
でも、その前に、ちはるのその『相手』が誰なんだかを知らなければならない。
道が長すぎる。ジジイにでもなってしまうんじゃないか。
無理だ。
本当にそうか?
そして。
現在練習中。暇な奴全員来い。学校の武道館。 金本。
「おう」
「こんばんわっす」
「挨拶ぁいいから、さっさと着替えろや」
「練習って……一人でやってたんですか?」
「おうよ。いいかげん追い込みだからな。あさってだぜ」
「部長も副部長も来てないんすか?」
「今、呼んだ」
俺はあきれ返って先輩を見た。メールを見て、意を決して家からぶっ飛んできたというのに、これじゃあまりにお粗末だ。
「で」
彼は重々しく言った。
「立ち直ったか」
俺は答えずに、服を脱ぎ捨てた。バッグの中から剣道着を引っ張りだす。
「……ラクショー」
「あ?」
俺はニヤリと笑ってみせ、倉庫の中にある竹刀を取りに行った。
小手。面。胴。3つの防具を取り出し、床に置いた。不意に、独特のにおいが俺の鼻をついた。洗濯されることが無い代物から発せられる、あの臭いだ。
何年ぶりにこいつをかいだんだろうな……。と思い、直後に、あ、3日ぶりか、と思った。3連休なんてそんなに珍しくないが、今度のそれはいつものとは全然違っていたのだ。
「ちわーっす、おう、天宮来たか。やるなあ、こんな遅くに」
梶木……。
俺は笑って見せた。
「お前もだろ」
梶木がふふっと笑った。防具を取りに、奥の方へ歩いていく。
俺は、やがて一言だけ言った。
色々、心配かけました。
梶木と先輩は、何も言わずに僕を見ている。やがて、先輩が叫んだ。
「っしゃあ!やるか!」
「うっす!」
その時、入口が妙に騒がしくなった。
「おーおー、盛り上がってんなー」
「おめーら早すぎ」
駄目だ、また、目頭が……。
終わってみるとあっけなかった。
決勝で、前大会の優勝校と当たり、金本先輩は引き分け、副部長も引き分け、部長が判定負けだった。
だが、剣道部はこれまでに見せたことがない成績を残した。市内準優勝。
勿論、先輩の誰もこの結果に納得してはいなかった。
「てめえら、いいか、来年はあそこを倒せ。絶対倒せ」
そう言う金本先輩の頬に、一筋の線が見えたのは、多分俺だけだったと思う。
次の代の部長は、意外なことに、俺だった。部長に言わせれば「2年の中で誰よりも部活に出てるし、確かな資質もある」らしい。一応「無理ですよ、やっぱ……」などと言ったのだが、誰もそんなこと聞いちゃいなかった。
「お前がやらなきゃ、俺は毎日様子見に来るからな」
金本先輩のこの言葉が全然冗談に聞こえなかったのが部内全員一致の要因だったと、俺はひそかに思っている。どうやら、金本先輩が来るよりは、まだ俺が仕切った方がマシと思われたのかもしれない。
だが、俺はそんな顔をした部員どもをずいーっと見回し、こう言ってやった。
「てめえら、覚悟しとけよ」
俺は、今、制服を着て、誰もいない武道館に一人立っている。
卒業生の名札が、また増えた。
先輩が引退し、明日からはこの俺がここを仕切ることになる。改めて立って見ると、武道館はなかなか広かった。いつも最初に来ていた先輩は、いつもこんな感じだったのだろうか。
不意に、彼女の顔が俺の脳裏に現れ、俺を襲った。鋭い痛みが頭の奥に走る。
こうしてまたこの武道館の真ん中に立てたのは、あいつらのお陰かもしれない。剣道部の部員達、そして、金本先輩。あの人たちの目の前では、どうにかして自分に喝を入れようとするようにした。
金本先輩が俺の家から帰った後、自分の器の小ささを噛みしめながら、僕は思ったのだ。もう二度とあんな情けない姿を晒すものか。
でも、そう。それはあくまで彼等の前だけで、一人でいると、どうしても下を向いてしまう。
「上を向いて歩こう、ってさ、古いけどいい曲だよね」
ち……。
歯を食いしばる。竹刀を握った。
またあいつが現れた。顔の無い男。見えない敵。
くそったれ!
「ああああぁぁぁぁ!!!」
竹刀を振る。空気を切る音がする。目の前の幻影も切れてしまえ。
1、2、3、4……。
待ってろよ。ちはる。
8、9、10……。
俺は奴からお前を奪う。
30、31、32……。
絶対諦めない。
俺は天井を見上げた。
1学期の成績は覚悟していたとおり、これまでで最悪のものだった。平均の成績が、7.6という、超ロースコアが出てしまった。やはり、保健の「1」が相当足を引っ張っていた。
当然これは親の怒りに触れ、長―い長―いお説教を食らう羽目になった。挙句の果てに、その説教に耐えかねた俺が、なんだ、その……親の前で暴走して、一週間飯を自分で作るというおまけまでついた。
「いえーい、勝った勝ったー」
終業式の後、俺の家の前で、ちはるは得意げに成績表を見せた。
「シン、だめねー」
「うるっっさいなぁ。いいか、よーく見てみろよ、お前、俺に勝ってるの保健だけじゃねえか」
俺は赤文字の1を指差して言った。つまり保健だ。
「勝ちは勝ちでしょー?男の約束破るつもり?」
「お前。女だろ」
「シンは男でしょ」
俺はちぇっと言って、笑った。どうも口ではこいつに勝てない。成績でも負けたけど。全く、俺の立場がない。いや、この場合、悪いのは俺じゃなくて、あの暴君野島だろ?
「とにかく、約束守ってね」
惚れた女にドアップで攻められると、大抵の男はそれに屈服するんだろう。
「はいはい……」
『勝った方のいうことをなんでも聞く』
まあ、ガキだと言えばガキだが、そんなところがちはるらしい。
「で、俺は何をすればいいんすかね?」
ちはるはクスリと笑った。
「本、買って」
「は?」
「本」
「……はいよ。どんな本?」
「片山京香」即答。
「でも、お前、あの人の本全部読まなかったか?」
「いいじゃない、別に」
まあ、その真意は聞かないでおこう。読んだ本を、不意にまた読みたくなるというのはたまにあるものだ。それにしたって、別に図書館で借りればいいじゃないか。
「しょうがねえなあ。片山京香の何だよ」
「ん。ありがと」
ちはるはにっこり笑って俺を見た。
……ちくしょう。またこれだ。でも、前よりは大分マシになったと思う。今では一瞬だけだ。頭が機能停止するのは。
そして、その機能が回復した時、彼女は何故か俺の目を見ようとせずに、言った。その本のタイトル。
「……春風」
彼女と俺が図書室で出会ったときの、あの本だった。
彼女の真意はわからない。そしてやっぱり俺は、それを一晩中考えるんだろうと思う。そんなあたり、俺は変わってないかもしれない。
そう、多分俺はそんなに変わってないと思う。それにまだまだ弱いかもしれない。
だけど、どんなことがあっても、この気持ちだけは消させない。
折れない。誰にも折らせない。
俺の芯。
(またね、シン)
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2005/10/28(Fri)17:29:24 公開 / 浅葱
■この作品の著作権は浅葱さんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
最終回だというのに、更新が遅れました。申し訳ありません。
結構クサイですね……(笑)。
やっぱりラストが中途半端かな?元々このお話自体こんなに続けるとは思ってなかったのですが、(「始まった瞬間に終わる」とかいう題名でした)私は楽しんで書けました。
読んでくださった皆様にも、楽しんでもらえていたら、本当に嬉しいですね。
そして、京雅様。甘木様。毎回毎回感想ありがとうございました。中途半端かもしれませんが、とりあえずシンの話はここで終わりになります。
これから私はかなり忙しくなるので、またここに投稿できるのはいつになることやら……(はあ)。
さて。一番最後の言葉にはちょっとした意味をこめました。
いつになるか分かりませんが、またシンを書きたいと思っています。
では