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『BRESS 〜幸在らんことを〜 完結』 作者:turugi / リアル・現代 ファンタジー
全角105919文字
容量211838 bytes
原稿用紙約323.45枚
岡山県児島半島に面した瀬戸内海沿岸。そんな小さな規模ではあるが、そこには確かな異常が紛れ込んでいる。現実というひどく曖昧な世界の中で、主人公「石川 剣」はゆっくりと、しかし確実に、非現実という名の別世界へと足を踏み入れていく。ある日突然蒼い光が見えるようになったことから全ては始まった――
第一章『蒼い夕暮れ』

 五月の初め、満開に咲き乱れる桃色の花弁を揺らしながら、惜別と出会いの場を見守っていた桜も散り、人々は何かと始まる新しい生活にも慣れ始めていた頃。しかし、慣れてしまったが故に新鮮さに欠けてしまい、五月病という精神的病に侵されてしまう。
 そんな季節の雨が降る日に、それは密かに始まっていた。運命という名の必然が、誰にも気付かれる事もなく……

      ◆◇

「はぁぁ〜」
 昨日過ぎ去った台風の名残がしとしとと目の前に降り続ける中、まだどことなく真新しい感じを残す高校の制服に身を包み、支給されているのであろうバッグを肩にかけた石川 剣は目に掛かるか掛からないかくらいの黒髪をいじりながら、一人深いため息をついていた。
 特に何か落ち込んでいるというわけではない。雨が降っているというのに傘を持っていないという現状は、確かに落ち込むに値するものかもしれないが、大して大降りでもない梅雨の雨を気にするほど剣は繊細な心を持っていない。
 ではなぜため息を吐いているのかと言えば理由は簡単。剣はものの見事に五月病にかかっていた。
 ただでさえ人とのかかわりを持とうとしない性格の自分に、すぐに友人と呼べる存在ができるわけもなく……しかもどう言う訳か、同じ中学出身でこの瀬戸内海沿岸に建つ誠心商業高校を受験した生徒が自分を含めて二人しか居ないと言うこの現状が、それにより一層拍車をかけていた。ちなみにその同じ中学出身という奴には未だに会ったことがない。
 変わり映えしない日常。繰り返しの生活。集団に埋没していく自分---
「あー、鬱だ……」
 そう今の心境を苦笑とともに呟くと、剣は梅雨の雨降る中へとその足を進めた---
「!!」
 と、不意に後方から視線を感じた剣は歩みかけていた足を止め、振り返った。
「…………」
 しかし、そこには誰の姿もなく、人気のない靴置き場が広がるだけだ。
時刻は五時半。部活をしている人たちが帰るには早すぎる。かといって帰宅部組みはとっくに帰っている時間帯だ。
「……気のせいか」
 また一人呟くと剣は再び前を向き歩きだした。
 しばらく無言で歩いていたが剣は確かに何者かの気配を感じていた。校門を出てしばらく経つが、その気配はなくならない。それどころか雨音と自分の足音以外にも、ばしゃっ、ばしゃっ、という雨に濡れた道を歩くときに聞こえる特有の足音が自分の後方から聞こえてくる。
(確かに誰か居る。一定の間隔を保ったままだし明らかに俺をつけているよな、これは。しかし、こんなに足音を立てて……後をつけていると言えるのか?気配も消す気がないみたいだし……まるで気付いてくれとでも言ってるようなつけかただな)
 そこまで考えた上で剣は簡単な結論を出した。
(危険はない---よな?)
 そんなことを考えながら念のため歩調に強弱をつけてみるが、やはりその何者かの足音は一定の間隔を保ったままだ。それを確認すると剣は道が長い直線になりしばらく進んだところで足を止めた。ここなら隠れるところなど何所にも無いと考えてのことだ。後ろから聞こえていた足音も、自分が止まると同時に聞こえなくなっている。
「ふぅ……」
……ばっ!!
 剣は一呼吸置くと一気に振り返った。
「!?」
 それを目にして愕然とする剣。

 そこで剣が目にしたものは、自分と同じ制服に身を包んだ一人の少女だった。

 それだけなら問題ない。問題はないのだが、彼女は明らかのその体を隠しきれていない電柱から、顔をはみ出して---もとい覗かして、こちらを凝視していた。しかもまだ自分が見つかっていないと思っているのか、その愚かともいえる行動をやめようとする気配はない。
 ---と、その視線が剣の目を捉えた。そうなれば二人が見つめ合う形になるのは当然。そしてその状況下で、場に微妙な沈黙が流れるのも、また当然の結果と言えるだろう。
「…………」
 そのまましっかり十秒ほど見つめ合った後、剣は唐突に、半ば面倒くさそうに口を開いた。
「何やってるんだ……朝倉さん」
 そこにいたのは同じクラスの朝倉 瑞樹だった。
肩まである髪を両側の毛先でゆるく結び、小さな顔に柔和そうな瞳。今は困ったように赤くなっているその顔は、見たものが思わず微笑んでしまいそうな、そんな雰囲気を持つ少女。それが朝倉 瑞樹だ。
---入学当初、といってもまだ一ヶ月前の話だが、まだ校舎の右も左も分からなかった頃、剣は放課後特にすることも無く昼寝できそうな場所はないかと校舎内をうろうろしていたところ、中庭で一人途方にくれている感じの少女がいた。周りをきょろきょろと見回しながら右往左往しているその様は、見ているとあからさまに『困っています』といった感じだった。
「どうしたんだ?」
 次の瞬間、剣は自分のとった行動に少なからず驚いていた。普段なら絶対こんなことはしないのだが、この少女には見覚えがある。その少女こそ隣の席の朝倉 瑞樹だった。それだけなら剣も放っておいただろうがその時はなぜか思わず声を掛けてしまっていた。声を掛けた後、電波か? 電波なのか!? と、自分を警戒したくらいだ。そのくらい剣にとって自分のとった行動は意外だった。
「あ、あのっ……」
 剣の問いに瑞樹は顔を真っ赤にしながら答える。
「し、職員室を探していて、それでっ、その、迷ってしまって……あの、職員室って何所でしょうか?」
 顔を真っ赤にして下を向きながら、小さな、本当に小さな声で瑞樹は聞いてきた。
 その後剣は苦笑しながらも職員室のまでの道順を教えその場を立ち去ろうとしたその時、瑞樹が何気なくはなった一言。
「ありがとうございました。先輩」
その言葉を聞いた瞬間剣はその場に凍りついた。
「先輩って……」
 毎日顔を合わせている、しかも隣の席の奴の顔を覚えていないなんて……。
 いや、そんなことよりも。そんなことよりも剣を傷つけていたのは、
「俺ってそんなに老け顔かなぁ……」
トテトテと走り去っていく瑞樹の背中を見つめながら、剣は一人呟くのだった。
 翌日、お互いに苦笑しながら(瑞樹は半泣きだった気がするが)自己紹介をしたのを覚えている。その際瑞樹が「すいません、すいませんっ! 本っ当にすいません!!」と平謝りをしていたのは言うまでもない---

 閑話休題。そんなことがあったということでよく話をするようになった。元々、お互いに人付き合いが苦手な性質だったので親しい友達というのもいなかった。もっとも、剣はそうゆうのが面倒くさく、瑞樹は極度の人見知りと理由は異なるが。とにかく、そんな二人なので学校で生活していると何か人に尋ねたい時などは聞きあうことが多くなり、その結果、普段の会話も増え親しくなった。そんな仲だ。ちなみに後をつけられるようなことをした覚えはない。
「あ、雨が降ってるから、それで、石川君、傘持ってなかったし、風邪引いちゃうと思って……」
 さすがに名前を呼ばれれば自分は見つかっていると気付いたのか、瑞樹は顔を赤く染めながら答えた。
 ……朝倉さんの性格からして声を掛けるタイミングを計ってたらそのままずるずると尾行まがいなことになって、余計声を掛けづらくなっちゃったってとこか。
そう考え一人微笑している剣を横目で窺いながら、瑞樹はさらに言う。
「石川君、風邪引いちゃうといけないから、その、一緒に、傘っ」
「大丈夫だよ。これくらい、降ってるうちに入らないから」
 空を見上げながら答える剣。
「じゃあ、帰り道私も同じだから、その、い、一緒に帰っていい?」
 手に持った傘をしまいつつ瑞樹が尋ねる。
「別にいいけど……って何で傘しまってんの?」
「えっ? だって石川君が濡れてるのに私だけ傘差してるのもなんだか悪いもん」
さも当然のように言いながら歩き出す瑞樹。
「いや、それじゃ朝倉さんが濡れちゃうじゃないか」
「大丈夫だよ。さっき石川君もこんなの降ってるうちに入らないって言ってたし」
「…………」
そう言われると返す言葉がない。瑞樹はこれが素で悪気がないだけになおさらに。かといってこのまま帰るという選択は自分にはとれそうにない。故に、剣は内心苦笑しつつ瑞樹が最初に出した提案をもちだすのだった。
「やっぱり傘に入れさしてもらうよ。風邪引くのも嫌だしね」

      ◇◆

「そういえば石川君は部活何にするかもう決めた?」
 赤い一つ傘の下、左側を歩く瑞樹が聞いてきた。今傘を持っているのは剣だ。
「いや。まだ何にするかは決めてないけど、とりあえず幽霊部員大歓迎ってところを探すつもりだな」
「それうちの学校じゃ難しいと思うよ」
 苦笑と共に海の近くから吹く潮風に揺られる黒髪を抑えながら瑞樹は言う。
「だよなぁ……」
答える剣も苦笑いだ。
剣たちの通う誠心商業高校は「誠」の「心」を育むべく、文武両道に異様なまで力を入れている。特に部活動のほうは凄まじく、部という部が県大会、又は全国レベルとその名を連ね、それ目当てでここを受ける人も決して少なくはない。よって、そんな状況下におかれる新入生は皆、場の雰囲気に気圧され最初は何かしらの部に入ることを余儀なくされる。
 担任曰く、
「強制ではないが、この先の就職や進学に向けてなるべく部に入るように」
 とのことだ。確かに、そう、確かに強制ではないのだが……。
 ---当初担任のその台詞を聞いた剣は、周りがいろんな部へ入部していく中、面倒くさいの一言で帰宅部を通していたのだが、事あるごとに幾人かの先生方が、
「石川ぁ、青春の汗ってのわなぁ、俺にみたいに歳とったら流せないんだぞ!!」
とか、
「苦楽を共にした友人とゆうのは永遠の財産になるものです」
 など、何かとしつこくそれでいて遠まわしに入部を勧めてくるのでたまったものではない。
 更には放課後薄暗くなってきた時刻にトイレで用をたしていると、いつの間にか隣に白衣を着た顔色の悪い長髪年齢不詳気味の男が現れ耳元で、
「科学部を4649…………」
 なんて死語を囁かれた日にはあんた!! おかげで出るものも出なくなってしまったのを覚えている。
 とにかく、このままでは登校拒否にでもなりかねないと、『自主的に』何かしらの部に入ることを決意したのは数日前だ。
「まぁ、体育系はないな。入るなら文科系だと思うよ、俺は」
「だよね。石川君は体育系って感じしないもんね」
 瑞樹は両手を合わせて嬉しそうに微笑んでいる。
「あのね、私もね、入るんなら文科系かなって思ってるんだよ?」
「…………!?」
 その言葉にはっとする剣。
さっきの話の流れからか瑞樹も自分と同じ文科系の部に入りたいといっている。ということは、瑞樹はまだ部に入っていないということになる。つまりは自分と同じように、あの教師たちのしつこい勧誘を受けているはずである。
(あの執拗なまでの勧誘というか一種の脅しに耐えているとは、なかなか、意外と真の強い子なのかもしれないな)
 などと瑞樹に対する考えを改めているうちに二人の足は、数m下に海が広がる海岸沿いにさしかかっていた。ここは、海に沈んでいく夕日が青い海をオレンジがかった赤に染めていく光景が眺められる、剣のお気に入りの場所だ。夜になればライトアップされ毎日多大な赤字を量産している瀬戸大橋を眺めることもできる。時刻はもうすぐ日没、今あの雲の向こうには赤々と燃えるように輝く夕日が海に向かって傾いているはずだ。
「……ん?」
 不意に足を止める剣、隣の瑞樹も慌てて足を止めている。
「ど、どうしたの? 石川君、急に……」
「あれは----つっ!?」
 崖下のところどころ細い木がはえた場所が淡く蒼白い光を放っている。
 まるで薄い青色をした霧を放出しているかのような、そんな蒼だ。
剣はそれを確認すると同時に妙な圧迫感に襲われた。脈が自分でも分かるほど急速に高鳴っていく。目はその一点を凝視したまま逸らすことができない。
 知らず知らずのうちに体まで震えだし、全身からは冷や汗が流れはじめている。
「……っ!!」
 呼吸も荒くなり、その場に立ち続けていることもままならなくなってきた時。
「何? あそこに何かあるの?」
 瑞樹の言葉にはっと我にかえる剣。激しく高鳴る鼓動も次第に静かになっていく。瑞樹はというと、背伸びしてさっきまで剣が見ていた方向を見ている。そこではまだ淡く蒼白い光が輝いているがその光に気付いている様子はない。
……見えていないのか?
 そう思い剣はその場を立ち去ることにした。妙な圧迫感はまだ感じ続けている、一秒たりともこの場に留まっていたくなかった。
「ごめん、何でもないからもう行こうか」
「えっ? ……うん」
 そういうと二人はまた歩き始めた。

      ◇◆

 先の場所から歩き続けること数分。二人の間には沈黙が続いていた。正確には瑞樹が何度か剣に話しかけてはいるのだが何を話しても上の空で、
「あぁ……」
 としか返事が返ってこない。
 瑞樹は、
……何か考え事してるのかな?
 と思い。ならば邪魔しないようにと自分も黙っているのだが、内心不機嫌になっている自分を感じている。
 偶然、靴置き場で彼を見かけた時声をかけようとして思わず隠れてしまった。
その後運よく気付いてもらうことが出来たが、何を考えているのか今は何を話しかけても反応してもらえない。
 自分は完璧に後手に廻る人間だ。
 自ら行動を起こすときは、剣に話しかける時もそうだったようにどうしても怖気づいてしまう。
相手が初対面だった時や、目上の存在だった時、又は好きな人が相手だと特に……
それを過ぎれば普通に話すことが出来るのだが、最初の一歩を踏み出すことがどうしても出来ない。だから相手が沈黙を保っている場合、自分にはそれを打開する手段が存在しない。
……お話ししたいなぁ。
 そう考えながら、剣の横顔を盗み見るが、やはり何か考え事をしているようで眉根を寄せている。
「はあぁー」
瑞樹は一つため息をつくと気を取り直し、前を見た。辺りに人影はなく、海に沿った道が真っ直ぐと続いている。傘を打つ雨音と小波の音が周囲を包み、沈黙を静寂へと塗り変えてくれる。いかに目の前の海が荒れていても、その音を聞いているとなぜか心は和んでくる。
水が持つ音には不思議な力が宿っているに違いない。
根拠はないが、瑞樹は静かにそう思った。
 と、小波の音に澄ましていた耳に、不意に機械的な音が入り込んできた。
 音に反応して顔を上げると、長く伸びる道の向こうから、一台のバイクが来るのが見える。そのバイクは、はたから見ていても分かるくらい徐々にスピードを上げていた。
『なにしてるんだろう?』から『どうしたんだろう?』と瑞樹の思いが変わり始めたころには、既に目の前までバイクが迫ってきていた。
「えっ?」
 あまりに近づき過ぎているバイクに向かい瑞樹は思わず声を発していた。
「ん?」
 奇しくもこの時初めて剣がまともな反応を返してくる。
 そして、この後の出来事は本当に一瞬であった。
 なおも接近してくるバイク。
 それに気がつく剣。
 あまりに近いバイクとの間は一瞬でつまり、そして通り過ぎていった。
 車道側を歩いていた瑞樹を跳ね飛ばして……

      ◇◆

 ボー然と立ち尽くす剣。
 その足元では瑞樹が倒れていた。
 何が起こったかは分かっていた。
理解はしている。
しかし、そこから先が真っ白だった。
何をすればいいのか分からない。
妙に時間が長く感じられる。背中には悪寒に似た感覚が走っていた。
さっきまで隣にいた少女が倒れている。
動く気配もない。
あの時と同じ。動かない。動かない、動かない、あの時? 動かない動かない動かない……ただただ時間だけが過ぎていく中、剣はようやく体を動かすことができるようになってきた。何も考えることが出来ず何も感じぬ体を持つ中、剣はたどたどしい動きで瑞樹に触れようとした。
---その時、
「ぅ、痛ぁ……」
 倒れていた瑞樹が起き上がり剣を見上げた。
「はぃぃ!?」
 あまりにも意外な展開に目を見開き、思わず変な声を上げてしまった剣。
その剣のうろたえように吃驚した様子の瑞樹は、大きめの目を何度も瞬きしている。
わけが分からない剣は必死に回らない頭を動かしながら聞く。
「あー……朝倉さん。轢かれたんじゃ?」
それを聞いてなぜ剣がうろたえているのかを知り説明を始める瑞樹。
「あ、あのね。私、轢かれてないよ? バイクは隣を通過しただけで……それで、それでね? その時に、何かドン、って衝撃みたいなのがきて、倒れちゃったの……」
 そこまで聞いてようやく頭が回り始める剣。まだ座っている状態の瑞樹に手を差し伸べつつ言う。
「じゃあ、轢かれて……ない?」
「うん」
「怪我もない?」
「お尻うっちゃたけどね」
「生きてる?」
「えっと? 足はちゃんとついてる……」
「じゃあ、何ともないんだな……」
 ほぅーっとしたように、へなへなとその場にへたり込む剣。
「は…………はは……あはははははははは」
 緊張が一気に解け笑い出す剣。その様子を瑞樹がきょとんとした様子で眺めている。
「あっ!!」
 不意に黙って剣の笑いを眺めていた瑞樹が声を上げた。
「どうした? やっぱりどこか怪我してたとか?」
瑞樹にしては珍しく大声を上げたので剣は少し心配になる。
「……ない」
「は?」
「ない!!」
「だから何??」
「鞄がないの!!」
「あ……」
 言われて初めて気付く。確かに、今剣が肩に掛けているものと同じ形をした瑞樹の通学鞄がなくなっている。
「まさか……」
剣が言う。
「さっきのって……」
 瑞樹があとを継ぐ。そして二人は同時に叫んだ。
『ひったくり!?』

◇◆

 バイクが去っていった方向、つまり二人が数分欠けて歩いてきた直線の道を見ると、小さいがまだ後姿を見ることが出来た。
 剣が躊躇していた時間は一瞬の出来事だったようだ。
 それを確認した剣はおもむろに走り出した。小雨とはいえ道路はまだ濡れている。そんなにスピードは出せないだろうという考えがあったが。
「とわいえ、あっちのほうが断然早いか……」
 どんどんとバイクとの差が開いていく中、剣は反対方向、つまりバイクの向こう側から走ってくる男が見えた。自分と同じ制服を着たその男は右腕をぐるぐる回しながらなぜか満面の笑みを浮かべ、肩まである金髪を靡かせながら走っている。
 剣が、そのひったくりを捕まえてくれ、と叫ぼうとした次の瞬間、金髪の男が信じられない行動をとった。
「シゲキ☆スーパーローリングひったくり撃退ラリアァァァット!!!!」
 瞬間、小さな悲鳴と鈍い衝撃音がここまで響いてくる。音と同時にひったくりが後方へ吹っ飛び、バイクはそのままよろよろと進み海に落ちた。
「な……!?」
 剣は全力疾走から小走りになり、その様子を見る目が点になっていた。口も開いたままふさがらないがあんな光景を見た後では仕方がない。
 当の金髪はというと道路に転がってピクリとも動かないひったくりをつついて安堵の息を漏らしている。どうやら気絶しているだけで生きているようだ。
「はぁ……はぁ……あ、んた、一体?」
 剣は金髪の元までたどり着くと息も絶え絶え話し掛けようとしたが金髪がそれを制した。
「まぁとりあえず落ち着きぃや。はい、深呼吸。吸ってぇー、吐いてぇー」
 つられて深呼吸する剣。
「そうそう、それでええ。落ち着いたか?」
「え、まぁ……一応」
 荒れた呼吸を整え、ひとまず落ち着いた剣は改めて金髪の男を見た。
 年齢は一つ上くらいだろうか、長い金髪を片にかかるかかからないかくらいまで伸ばし左耳には赤いピアス、顔は男の剣が見ても格好いいと思えるくらい整っている。口調はさっきから微妙な関西弁を使っているがおそらくそっちの出身ではないだろう。なぜなら使っている関西弁が微妙だから。間違ってはいないのだろうがどこか違う、そんな感じだ。
「なぁ、何か忘れとるんとちゃうか?」
 すると金髪がものほしそうな表情を浮かべ聞いてきた。
「は?」
「ほれ、俺は嬢ちゃんが取られた鞄を取り返したわけやんか?いわば恩人や」
「……まぁ、そうゆうことになるかな」
「そうゆう人に対して言うべき言葉があるやろ?」
 そこまで聞いて剣は金髪の言わんとしていることが分かった。
「……ありがと」
 すると金髪は顔をきりっと引き締め、こんなことを言ってのけた。
「いや、礼を言われるほどのことじゃないで」
「今自分がいわせたんじゃ……」
 そうこうしているうちに剣が放り出した傘と鞄を持った瑞樹が追いついてきた。
「はい、石川君荷物」
「ありがと」
「よぉ、嬢ちゃん。悪者は俺が退治したで」
 満面の笑みを浮かべた金髪が瑞樹に向ってガッツポーズを決めて見せた。
「は、はい。あの、ありがとう。護条君……でも、ちょっとやりすぎかな」
 瑞樹は心配そうに完全にのびているひったくりを見ている。
 同じくひったくりへと視線を向けた金髪は腕を組み言う。
「そこらへんは自業自得っちゅーやつや」
 と、そこまでの会話を聞きおかしな事に気付いた剣は、片手を前に突き出しながら言った。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。護条君って……朝倉さん知り合い!?」
 瑞樹が初対面のはずの金髪の名を口にしたので剣は驚いた。それにあの瑞樹とこの金髪が知り合いであるとは、なんというか、考え難い。
 ……キャラ的にすれ違ってるだろ!?
 そう思う剣に金髪がさも意外そうに聞いてきた。
「はぁ? なにゆーとんねん自分」
「えっ、なにゆーとんねって言われても……」
「まさかこいつ……」
「……みたいだね」
 金髪だけならまだしも瑞樹にまで呆れた顔をされた剣はいささか傷ついた。
「な、なんだよ」
うろたえる剣。
「あのね石川君、このひとは--」
「ええ、自己紹介くらい自分でできるさかいに」
 そう瑞樹の言葉を遮ると金髪は右手を胸に当て自己紹介を始めた。
「俺の名前は護条 茂貴。シゲって呼んでくれればええ。あぁ親しみ込めてシゲちゃんでもかまへんよ。好物はコンビ二弁当、嫌いなもんは自分が作った料理。ちなみにスリーサイズは、ひ・み・つ、や」
 そこまで言うと茂貴は少し間を空けた。
「…………」
「…………」
 対する剣と瑞樹は無反応。
「……あ〜ギャグやでギャグ、笑ってくれな。ご両人。まぁええわ。で、あんさんが気にしとった嬢ちゃんとの関係はク・ラ・ス・メート! つまりあんさんもクラスメート。わかったか? 石川」
「ク、クラスメートォ!??」
 驚愕する剣。
「そ、クラスメート♪ にしてもクラスでも目立つほうの俺のこと覚えとらんっちゅーのはヤバイんとちゃう?」
「目立つほうとゆうより一番目立ってると思う」
「…………」
 さらっときつい一言を置いていった瑞樹に何も言えない茂貴。そんな二人のやりとりを見ながらクラスの奴の顔くらい覚えようと誓う剣であった。
 それからしばらく会話をした後そろそろ帰ろうという雰囲気になったところで瑞樹が気付いた。
「あの、私の鞄は?」
「そこに--ってあれ? ないな。もうしかして、さっきのラリアットのとき吹っ飛んだとか?」
それを聞いて辺りを探し始める三人。
「あっ! あれとちゃうか」
 茂貴が崖下を指差して叫んだ。
「おいおい、よりによってあんな所に……」
 瑞樹の鞄は崖から伸びている枝にひっかかっていた。その下は浜になっていて降りられないこともない。
「まぁ、下も即海っちゅうわけやないから降りられるやろ」
 言葉を発しながら早々と崖下へと降りていく茂貴。
「あっ、待てよ、俺も行く」
 そういうと剣は瑞樹に、そこで待っているように、と言い残すと、茂貴を追うように崖自分も崖を降り始めた。
「よっ、もうちょい」
「けっこーぬかるんでるな」
 二人は雨でぬかるんでいる崖を慎重に降りていく。
 鞄が引っかかっている枝も、そんなに低い所に生えていなかったのでその場所へたどり着くのにはそう苦労する必要はなかった。
 ようやく鞄に手が届くあたりまでたどり着いた剣はいったん動きを止め言う。
「片手じゃ無理だな……護条。ちょっと片手を持って体を支えてくれないか」
「……シゲって呼んでくれな嫌や」
 即答だった。
「…………」
無言で見つめ返してみるが茂貴が動く気配はない。どうやら本気みだいだ。
「……シゲ、片手で体を支えてくれないか」
「ほいきた、俺に任せんかい♪ しっかり剣の体支えたるでぇ」
 即答だった。
「……なんか頭痛くなってきた」
 呼び方も剣になってるし、などと考えながら剣は片手を茂貴に任せ、鞄に手を伸ばしている。
「くっ……もうちょっと、よっ! お、取れた取れた♪ これで上に戻れるな」
 そう言い体を支える茂貴をみるが、何やら深刻そうな顔で首を横に振っていた。
「残念やけどそれは無理みたいや」
「は? 何言ってんだ」
「なぜってそれは、今俺らの全体重を支えとるこの枝が、限界を迎えたみたいやから」
なぜか満面の笑顔で言う茂貴の言葉を主張するように枝がしなりにしなっている。
今にも限界を迎えようという意思を告げるかのように、嫌な音を立てている枝が--
 ……折れた。
「こんのっ! 大馬鹿やろぉぉぉぉ!!!」
「バカやのうてアホってゆうてー!!」
 間抜けな悲鳴を上げながら二人は落ちていった。

      ◇◆

「どうしよう……」
 剣と茂貴が降りていった崖を見つめながら瑞樹は一人呟いていた。
 今、彼女の隣には今やすっかりその存在を忘れられているひったくりが横たわっている。
気を失っているとはいえこのような人と二人きりというのは誰でも嫌だろう。しかも幸か不幸かさっきから人っ子一人通りもしない。それが余計に瑞樹を心細くさせている。
まぁ、人が通ったとしてもこの状況を見てなんと思うか……。その点、自分はうまく説明できそうにないのでこれはこれでいいのかもしれない。
「うっ……」
そんなことを考えている隣でひったくりが短く呻いた。
「ひぅっ!」
 まるでそれに答えるように瑞樹も短い悲鳴を上げる。ひったくりは当分目覚めることはないだろう、と剣が言っていたがもし、もしも目を覚ましたらと考えるとやっぱり怖い。
「うぅっ……」
またひったくりが呻く。
「どうしよう……」
 打ち所が悪かったのか額に脂汗を浮かべている。とりあえずハンカチでそれを拭こうとするが怖くて近づけない。
「どうしよう……」
 見るとすぐそこに太い木の棒が転がっていた。
「…………」
 無言でそれを見つめる瑞樹。ひったくりが目を覚ましたらやっぱり怖い、でも呻いているのを見ていると心配になる。
「--よしっ!」
 瑞樹は一人気合を入れるとひったくりに近づいていった。
右手にハンカチ、左手に木の棒を持って。人が通ればそれこそ何か誤解するような光景になっているが本人はそれにまったく気付いていない。瑞樹はひったくりの汗を拭きつつ、ふぅ、と息をつくと、
「石川君たち早く帰ってこないかなぁ」
 と一人呟いた。剣たちは今それどころじゃないのだが瑞樹がそれを知るよしもない。

      ◇◆

「いってぇー……」
「下が砂浜で良かったで、ほんま」
 剣たちは今砂浜の上で横たわっていた。砂浜といえど、満ち潮のときは海水で沈んでしまうような場所なので二人の服はどろどろだ。
「それにしても結構落ちたな、無傷なのが不思議なくらいだ」
「ほんまに。それでも嬢ちゃんの鞄を放さんかった剣には感服や」
「うるさいな。それにしても問題はここからどうやって上るか、だ」
剣は今しがた落ちてきた崖を見上げながら言う。見ただけでもざっと十m位あるだろうか、自力で登るには少々無理がある。
……我ながらよく無事だったよな。
そんな類の思考をめぐらせる中、隣を見ると茂貴が妙に深刻な顔をしてある一点を凝視していた。
「何やってるんだ? シゲ」
「んぁ? なんでもあらへんよ」
 何食わぬ顔でいう茂貴を見て剣は直感的に、こいつは嘘をついている、と思った。さっきからなにかとふざけたがる茂貴が普通を装っている。それを見ていると逆に不自然に見えるってもんだ。何を隠しているか聞いてもどうせ答えはしないだろう。
 ……じゃなけりゃ誤魔化したりしないだろうしな。
ならば、茂貴が何を見ていたかが分かれば何を隠しているかがわかるはずだ。そう考えると剣は茂貴がさっき見ていた方向を見る。

するとそこには淡く蒼白い光が輝いていた。

ひったくりを追いかけて、来た道を戻っているうちにさっきの場所まで戻ってきてしまったのだ。
それを確認したとたん、またもや例の圧迫感に襲われる剣。あっという間に冷静さを失う。
脈が高くなり呼吸が荒く、なのに体温はどんどん低下していっている。体が冷えているのが自分でも分かる。しだいに意識が朦朧としてきて気が遠くなって--
「剣! しっかりせぇ!!」
その声にはっ、とする剣。気がつくと茂貴が肩を揺すっている。
「……す、すまん。もう大丈夫だ」
 落ち着いてきた剣は思う。
シゲの視線を追ってみたらあの光があった……ということは、シゲにも視えてるのか?
と、思いと共に剣はそれを口にする。
「なぁ、シゲにも視えてるのか? なんて言うか--あの光が」
 真っ直ぐと自分を見て尋ねる剣に茂貴は少しおどけたように言った。
「俺に言わせてみれば剣が視えとるっちゅうことに驚きやな」
 その意味深な答えに剣が上げるのは疑問の声だ。
「……何か知ってるような言い方だな?」
「別にたいしたことは知らへんよ」
「でもあれについては何か知ってるんだろう?」
「せやからたいしたことは知らへんよ。ほんまに。まぁ、話せっちゅうんなら話すけどな」
 そこで茂貴は一呼吸おくとゆっくりと語りだした。
「……あれは一種の霊現象や。聞いたことぐらいはあるやろ? 妙な発光体を視たぁ、とか火の玉を視た! とか、あれはその光の一種や。霊現象っちゅうくらいやから当然視える奴と視えん奴がおる。剣は間抜けな顔して霊力持ちみたいやな、一丁前に」
「どうゆう意味だよ」
くくっ、と笑う茂貴。
「まぁ、なんも知らんと、その一丁前に霊力持っとる奴がたまにその光の力に『当てられて』さっきの剣みたいになるわけや。まぁ、波長が合ったともいうな」
「なんでシゲは大丈夫だったんだ?」
「俺は慣れやな。不意に力に出くわしても自分を見失うたりしぃへんから、用は集中力。それに普通の奴も、あぁ、今言う普通ゆうんは見える奴で、ゆう意味やからな。まぁ、不意を衝かれん限りあんな状態になることはめったにあらへん。その証拠に今の剣は平静を保っとるやろ? そもそも、そんな霊媒体質もっとるやつかて、めったにおらへんけどな」
 言われて自分が何ともないことを確認する剣。
「そう言われれば、そうだな」
 そう言い隣の茂貴を見る。茂貴は真剣な顔で光をじっと視ている。さっきからずいぶんと真面目に語っている茂貴にまるで別人だ、と感心する剣。もうしかしたらこっちが素なんじゃないのか、などと考えている剣に茂貴が独り言のように続ける。
「にしてもここまで距離があるのにこの霊圧……一体何がおるんや? ---まぁどんな化け物がおるにせよ、触らぬ神に崇り無しや。分かったらさっさと帰るで、剣」
 そう言うと言葉通りにさっさと歩を進め帰る茂貴。
剣も無言でその後に続いた。
 気が付けば、今まで降っていた小雨は止み、雲間に垣間見える赤い夕日が淡い光を通して見える。
 蒼い夕日がゆっくりと、青い海へと落ちてゆく。

第二章 『静かな始まり』

 かん高い電子音が鳴り響く部屋の中、剣は電子レンジの前に行くと今日茂貴に教えられた『生涯出会った中でもっとも気に入るコンビニ弁当BESTI』の内6番目だったかな? (実はあまり真面目に聞いていなかった)まぁ、それくらいに位置する弁当を取り出すとテーブルにそれを置き、食べようかという時点で飲み物がないことに気付き今度はお茶を入れるべくポットへと向かった。
なぜ高一の、まだ少年とも言える年頃の剣が自宅でコンビニ弁当を食べているかというと、彼は今マンションで一人暮らしをしていた。
両親は自分が5歳の頃に死んでいる。中三までは親戚の老夫婦の元で暮らしていたが今回高校入学を機に前々から決意していた一人暮らしの話を切り出した。
幼い頃より世話を受けているため今では本当の両親のように感じられるがその反面、自分が居候の身であるということにほんの少しであるが、後ろめたさみたいなものを感じていたのも確かだ。仕送りはいらないというには言ったが、預金には毎月小額ではない金額が振り込まれている。これでは何のために家を出たのか分からないので今のところそのお金には手をつけていないが、バイト代だけで生活するには少々苦しくなってきた最近。自分の決して多くない意地が崩壊するのもそう遠い日ではないだろう。
迷惑をかけたくないがための一人暮らしだったが、これが結構大変だった。今まで炊事洗濯とは無縁だった自分がいきなりそういう事をしなければならない世界に飛び込むわけだから、洗ってない食器や洗濯物が溜まるのも無理がないわけで、と誰に言うでもなく言い訳をしている自分を感じながら、
……堕落してんなぁ。
と感じる今日この頃だった。
お茶を注ぎ終えテーブルに戻るとTVの電源をつける。
TVの音を聞きながら剣は今日の出来事について考えていた。瑞樹には見えず自分と茂貴には見えた妙な蒼白い光、あの時感じた圧迫感、それに茂貴が言っていた光についての説明。
あの時は場の雰囲気と茂貴の真剣さに圧されて、話を信じた、みたいな対応をとってしまったが、本来自分はその手の話をあまり信じないタイプの人間だ。だってそうだろ? いきなり何か光ったと思ったら『あーそれは霊現象の一部ですよ』それをそのまま『はいそうですか』なんてなるわけがないだろう普通。そんな対応取れる高校生がいたなら俺はそいつにその場で即腕のいい精神科医を紹介したいね。あいにくそんな知り合い居ないけどな。
 しかし、それでもその場でシゲを笑い飛ばすことが出来なかったのは、やっぱり自分があの妙な体験をしてしまったせいだろうか。朝倉さんには見えていなかったみたいだし、圧迫感も確かに感じていた。
 あれが大掛かりな芝居だったら、それなら最初からシゲと朝倉さんが知り合いだったのも頷ける。しかし、そんなことする意味がないし失礼な話だが、朝倉さんがそこまで演技力があるとは思えない。
 そもそも幽霊とはプラズマであって有機生命体ではないはずだ。自分の意思なんてないのである。確かケンブリッジ大学の前学監の故T・C・レスブリッジとかいう人が、「『幽霊』は一種の『テープレコーディング』である」みたいなことを言っていたはずだ。そうだ、幽霊なんて実在しない。そこんところを明日はシゲにいってやらなければならないだろう。
幽霊なんてものは実在しない。そう、自分の目で確かめてもいないのに相手に言われただけで納得なんて出来るわけがない。
幽霊なんて非現実的な代物をいきなり容認できない程度には、自分は常識人でいるつもりだ。
「ふぁ……あーぁ」
剣はそこまで考え自分を納得させると、欠伸を合図に就寝すべく準備を始めた。
翌日、自分がその非現実を容認せざるを得ない状況に、つまり、その目でそれを確認する羽目に会うとも知らずに--

      ◆◇

『明朝四時ごろ瀬戸----で……土砂--十分…………お気を付け下さい』
 翌日、剣はTVから流れる朝のニュースの音で目を覚ました。昨夜TVを消すのを忘れたまま寝てしまったのだ、とまだ覚醒しきってない頭で状況を整理する。
 毎朝見ているニュース番組が流れているのを確認すると普段より少々寝すぎてしまったことに気付き、少し急ぎ気味に身支度を整える。
準備が整った頃には既にニュースも事故関係の話から別の話へと移り変わっていた。どうやらいつもどおりの時間に登校することが出来そうだ。

いつもどおりの時間にいつものようにマンションを出ると、そこにはいつもと違う光景が広がっていた。

      ◆◇

「ごきげんよう。剣君」
そこには淡く微笑む一人の少女が立っていた。
後ろにオレンジオ色のムルシエラゴを従えて。高級車の上に『超』がつく車だ。
「あぁ、ごきげんよう。冬華先輩。今朝はどうしてこんなところに? 確か俺の家と逆方向にありませんでしたっけ、家」
 まるでそれが当然であるかのように高級車を待たせるこの少女は実際、それが当然な存在だった。
代々瀬戸内周辺で莫大な権限を持っており、富豪と称しても決しても間違いではない瀬戸家。歴史あるその家系は遡れば江戸時代まで至るという。その瀬戸家長女にして時期頭首こそが目の前の、知・美・権を持つ少女、瀬戸 冬華その人だ。
瀬戸家時期頭首は静かに喋りだす。
「えぇ、実は最近風水に凝っているんです」
「はぁ」
 話がいまいちつかめない。
「それで占ってみたところ、今日は南東の方角で素敵な出会いがあると出たんです」
 そこで冬華は、ふふっ、と微笑。
「そしたら偶然剣君が」
「あー、それは偶然。って家の真ん前で待っていて言う台詞じゃないですね」
「あら、小さなことを気にする男は大きくなれませんよ?」
 口元を押さえ言う冬華。顔は相変わらず微笑んだまま。
 それにしても、風水一つでこんな朝っぱらからこんなとこまで来るなんて、金持ちは暇なのか……?
そんなことが頭に浮かぶがすぐにそれを否定。そんな細かいことを考えていたらきりがない。
彼女は昔からこうなのだから……。
「ところで剣君。せっかく偶然出会ったんですから学校まで送っていきましょうか?」
「……あくまで偶然を貫き通しますか。せっかくですが結構です。朝はなるべく歩くようにしていますから」
 ……冬華先輩と関るとろくなことがないから。
と心の中で呟くと剣はその場を立ち去ろうとした。
 すると冬華が首を左右に振りながら、
「そうですか、残念です。朝のHRまで既に十分を切りましたが剣君がそういうのなら仕方が無いです。ちなみに徒歩では学校まで二十分はかかりますねぇ」
 眉尻を下げ、本当に残念そうにそんなことを言ってのけた。
「…………」
 どうやら冬華と会話をしている時間が長すぎたらしい。いつも通りに家を出てそのまま会話へと入ったのだから当然といえば当然なのだが。
余談だが剣は無遅刻無欠席、と皆勤賞を狙っていたりする。
 ぴたりと動きを止めた剣に対し冬華は、片手を頬に当て、いつも通りの悪意の欠片も見られない淡い微笑とともに言う。
「あら、剣君。急がないと遅刻しますよ?」

      ◇◆

 時間にすると剣がニュースの音で目を覚ました頃、瑞樹は学校へと向かってその足を向けていた。
別にそんなに早く登校する必要も無いのだが、瑞樹はこの時間帯の雰囲気が好きだった。人通りも少なく、ここまで見かけたのはオレンジ色の車が一台道路を通り抜けて行ったくらいだ。
意外と昇るのが早い朝日を眺めながら、夜中の内に凍りついた朝の冷気を吸って肺に満たす。たったそれだけのことだが、まさに至福の時と言っても過言ではない。そんな平和な時間が瑞樹は好きだった。
「あれ?」
しばらく歩くと瑞樹は人だかりを見つけて疑問の声を発した。
いつもならこの時間帯は誰も居ないはずだ。
 なのにそこには、ざっと数えて20人くらいの人だかりができている。よく見れば誠心の生徒も何人か確認することが出来る。
 その誰もが皆、海のほうに視線を向けなにやら雑談を交わしている。
 そこに居る人全てが同じ方向を見ていれば自分も同じものを見ようとするのが人間の性。
だから瑞樹もその本能に従い、海のほうを見るとそこには--
「がけ崩れ見たいやな」
「わっ!!」
 急に声を掛けられびっくりする瑞樹。横には金髪が目立つ少年、もとい茂貴が立っていた。
「ご、護条君。こんな朝早くにどうしたの?」
「うわっ。嬢ちゃんはクラスで一番目立っとる金髪美少年は朝早ように登校なんてしぃへんと思っとるんやね……差別はあかんなぁ」
 問いに大げさに答える茂貴。対して瑞樹は苦笑気味だ。
「いろいろつっこむべきなんだろうけど、あえて黙っておこうかな。もうしかして、昨日のことまだ根に持ってる?」
 確か自分はクラスで茂貴が一番目立つというようなことを言ったはずだ。
「ん? そんなことあらへんよ。ただ、嬢ちゃんが俺に対して厳しいなぁって……」
 遠い目をして答える茂貴。
「そういうのうを根に持ってるって言うの! もういいよ、ところでこの騒ぎは?」
「せやからがけ崩れらしいで。昨日剣と一緒に落ちたって話したやろ? そこら辺が崩れたらしい。ちょいと時間がずれといたら俺も剣もぺっちゃんこやったなー」
 ははは、と笑う茂貴。だがその目はどこか笑っていない。もっと別のことを考えているような、そんな目だった。
そういえば、石川君も昨日鞄を取ってきてくれた後、こんな目をしていたよね……。
 そんなことを思う瑞樹は、昨日の剣と同じ目をしている茂貴に尋ねる。
「護条君……昨日、私の鞄とってくれてる最中、そのっ、何かあったの?」
 一瞬にして顔が素に戻る茂貴。
「何かってなんや?」
「え、えっと、昨日二人が戻ってきた時、雰囲気が、あの、何て言うか、重かったっていうか、考え事してたっていうか……その、そんな感じです」
 言っているうちに自信がなくなってきたのか、しだいにうつむき加減になっていく。おまけに口調はいつの間にか敬語だ。
(まいったなー、剣はともかく俺までそこらへん見抜かれとるとは、案外人みとるんやねー嬢ちゃんは……)
 そこまで考えると茂貴は観念したように語りだす。
「隠しとるつもりやったんやけど、ばれたもんはしゃーないな。教えちゃるけど剣には黙っとけよ?」
 それを聞いて、はっと顔を上げる瑞樹。
「やっぱり何かあったのね?」
 真剣な表情で言う。
「あぁ、実はな嬢ちゃん……」
 あまりに真剣な茂貴の声色に息を飲む瑞樹。
「実は?」
「昨日剣と崖に落ちて分かったこと何やけど」
 そこでいったん話を切る。もったいぶった物言いにじれったくなった瑞樹は先を急かす。剣が昨日なんであんな目をしていたのか分かるかもしれない、と。気付けば両手は硬く握られ、自分が緊張していると自覚する。
「何が、何が分かったんですか?」
 次の瞬間、茂貴は両手を硬く握り勢いよくまくし立てる。
「剣が嬢ちゃんに『ぞっこんLOVE』やっちゅうことが、分かったんや!!」
「…………」
 瑞樹は無反応。顔を硬直させたまま微動だにしない。
 さすがに無理があったか、と思い茂貴が次の言い訳を思案しだしたその時。
「え、あの、その、私なんて、石川君が私を……。え、でもそんな。私なんて、もったいないよぉ……あのぉ、でも、あぁぁ」
 そのまま蒸発してしまうのではないかというくらい顔を真っ赤にさせ、両手をぶんぶん振りながら混乱している。さっきの一瞬の間は、あまりの衝撃のために脳が停止してしまっていたようだ。
 そんな予想以上の瑞樹の反応に苦笑しながら、茂貴は崖のほうを見て、瑞樹で言う考え事をする目をしている。
 混乱中の瑞樹はそんな茂貴に気付いていない。
……まさか移動するタイプの奴やったとは……。
 思考をめぐらせる茂貴は、それこそ瑞樹に気付かれないような小さな声で呟いた。
「やっかいなことに、なってきたかもしれへんな……」
 茂貴が見つめるその先に、あるべきものが無くなっていた。
 あの、淡く輝く蒼い光が--

      ◇◆

 チョークが規則的に黒板をたたく音、シャーペンがノートの上を走る音、40人余りの生徒の息遣い。
そして教師の、聞く者をそれだけで眠りに誘うかのような話を聞き流しながら、剣は隣の瑞樹を意味も無く眺めていた。
いや、瑞樹を見ている理由ならある。
今朝から瑞樹の様子がおかしいのだ。
挨拶一つにしても何所となくぎこちない。しかもそれは剣に対するものだけであって、他の人との会話はごく普通にこなしていた。
 それどころか避けられている気さえする。
それから時間はあっという間に経ち、今は4限目。これが終われば昼休みだ。
 しかし、おかしいのはそれだけではなかった。会話をする時緊張しているとか、目を合わせないとか、上げれば限がないがそれはもはや彼女の特徴と言ってもいいので目を瞑るとしても---
 と、その時ノートをとっていた瑞樹が一瞬こちらを見、目が合った。
『…………』
 授業中なのでお互い無言。
別に剣は何かした覚えは無い。確かに無いはずなのだが……。
……この反応はなぜなんだろうなぁ。
 瑞樹は剣と目が合うと一瞬にして顔を真っ赤にし、即座に目を逸らす。
 今は俯き加減に、意味も無くシャーペンをいじっている。
……あー、耳まで赤いし。
 そう、朝からずっとこの調子なのである。
瑞樹が顔を真っ赤にさせるなどそれこそ彼女のアイデンディティーと化しているといっても過言ではないが、目を合わせただけであそこまで露骨に、なおかつ瞬間的に変化を見せるほどひどくはなかったはずだ。
……はて、俺は一体彼女に何をしただろうか?
剣はそんなことを考えつつも隣の、ゆでダコ状態の瑞樹を見、まぁある意味面白いかな、と一人苦笑。
すると、黒板に英文を書き終えた教師がこちらを向き、びしっ、と指を刺しながらいった。
「はい。そこで一人怪しく微笑んでいる石川君! 何だかご機嫌みたいなので、この英文を訳してくれませんか〜?」
 突然当てられてしまったが、意識の大半を思考に費やしていた剣は当然何所を訳せばいいのか分からず素直にこう言うしかなかった。
「へっ? あ、えーと……すいません。どこですか?」
 それを言うとその教師、もとい笹井先生は(実は担任だったりするのだが)なぜか胸を張って言う。
「しょうがないですねー。石川君、ちゃんと話を聞いてないとダメですよー。しょうがないのでここは先生が訳します。昨日はちゃんと予習してきたので今日は自信ありますから♪」
 最後に担任あるまじき発言が聞こえたが聞き流しておこう。クラスも手馴れた雰囲気である。
「えー、『私の友人は銀行で寝そべると空を見上げて歌いだした』です。しかし、奇抜な行動をとる人ですねー。こんな教科書でいいのか先生は日本の将来が不安になってきました」
 深刻な顔をして言う笹井に対し、教室全体は静まり返っている。
多分生徒達の頭の中は今、『不安なのは日本の将来じゃなくてあんたの頭の中だ!』と見事統一されていることだろう。
案外生徒全員の意思疎通のための作戦なのかもしれない。高校教師恐るべし。
「え? えっ……皆さんそんなに静まり返ってどうしたんですかー?」
 場の雰囲気にやっと気がついたのか不安げに周りを見回す笹井。しかし、誰もが窓の外に目を逸らし、目を合わそうとしない。
しかたないので助け舟を出す剣。
「あー、先生。そこはもしかしてbankの訳を間違えたんじゃありませんか?」
「何を言いますかー! bankは『銀行』という意味だってしっかり辞書まで引いて調べたんですよ。間違いありません!」
 それくらい頭に入れておいてほしいな……って調べてそれかよ! と内心突っ込む剣。
「え〜と、『銀行』という意味ともう一つ『丘』って意味があったと思いますよ……」
 あそこまで断言されてそこを指摘するのは胸を痛めたが、今後の授業のためにあえて目を瞑ることにする。
 剣の話を聞いて笹井はしばらく辞書を引いていたがその手が止まり、
「うぅ〜」
 と、気の抜ける声とともに教卓に突っ伏して動かなくなった。
 今は前の席の生徒に慰められている。
「いよいよ日本の将来も不安になってきたな……」
 窓の外を見て言う剣の呟きに、生徒全員が無言で頷く。
 クラスが一つになった瞬間だった。

      ◇◆

「くそっ!!」
 台風経過から二日目、まだ少々荒れ気味の波が浜を打つ音が規則的に続く浜辺で一人の男が歩いていた。
 男はしばらく歩くと、ある鉄の塊の前でその足を止めまた呟く。
「くそっ。あのガキ共が!」
 そこには見事に半壊したバイクが打ち上げられていた。昨日、自分はラリアットで吹っ飛び愛車はこの有様である。
 あの後、気がつくと自分は道路に仰向けに転がっていた。どうやらそのまま放って行かれたらしいということをその場で悟り、憤りを感じるも、見上げればそこにある月と潮風が妙に胸に染み、怒るよりも先に落ち込んでしまった。
 しかしそれも今こうして見つけた愛車を見て怒りへと変わる。
「殺してやる。あのガキ共……ぜってー殺してやる……!」
 怒りにより我を忘れたひったくりはその怒りの矛先をもう動くことの無いバイクへと向け、ひたすらに蹴り続ける。
「あのガキ! くそっ! こけにしやがって……!! くそっ、くそっ! 殺してやらねーと気が済まねぇ……!!」
 ただひたすらに叫びバイクを蹴り続けるひったくりに、答える声があった。
--その願い、叶えましょう
「あぁ?」
 声はするが姿は見えず。声からして女の声だろうか、辺りを見回すが人影すら見つけることは出来なかった。
しかしその謎の声は頭の中で歌うように響き続ける。

--其は我を望むもの、
我は其を望むもの。
汝、力を欲するならば、
その血と肉を捧げるがいい。
汝、望みを叶えるならば、
その魂を捧げるがいい。
意思は無く
形無く、
ただ我が望みを叶えるために--

 その声が後半部分にさしかかるころには既にひったくりの意識は無くなっていた。
 いや、朦朧とであるが意識はある。だが自分の体がどこか遠くにあるように感じられ、自分の制御下にその体は無い。感じるのは軽い浮遊感。
 まるで普段自分が生活している世界から半歩ずれたかのような、不思議な感覚。
時が経つにつれその意識さえ無くなっていき、明確な殺意だけが残されていく。
両手は、だらん、と地に向かい、目はうつろにしか開かない。
かすかに覗くその瞳には知性のかけらも残っておらず、当然視点も定まらない。
そんな中、知性を失くした男が思うは一つ。

--復讐を、

  復讐を。

  復讐を、

  復讐を--

彼の動きはたどたどしく、その目は何所も見ていない。
その目は何も見えてはいない。
既にそこに意思は無く、思いを馳せることも無い。
ただ一つ、思いを告げるは『復讐を』。
果たしてそれは己の意思か、
はたまた別の何者か、
それを知る者は、もう居ない。
 
時は静かに動き出し、殺戮者を作り出す---

第三章『馳せる想い』

 昼休み。朝から続く授業から開放された生徒たちが、つかの間の休息に心休める時間。しかし、季節はまだ五月、入学して一ヶ月しか経っていないその教室は、いくつかグループが見られるもののまだ一人で弁当を食べようとする者も決して少なくなかった。
 剣もその例外ではなく、4限目のやけに長く感じられた笹井の授業から開放され、今まさに昼食にありつかんとする時にそれは聞こえてきた。
『一年七組の石川 剣君。護条 茂貴君。至急第一視聴覚室まで来てください。繰り返します。一年七組の---』
 不意に自分の名が挙がったことに驚きつつ同じく名前を呼ばれた茂貴を探す。目立つ金髪はすぐに見つかったが、見えるのは頭だけ。茂貴は机に突っ伏して熟睡中だった。
 ……そういや4限目も寝てたなこの野郎。
 剣は茂貴の元まで行くと肩を揺すって起こしに掛かる。
 しかし、茂貴はよほどその窓側の席が気持ちいいのかまだ夢の中だ。仕方ないので机においてあった教科書を手に取り丸めると、茂貴の頭を叩く。
「おーぃ、おーきーろー」
 何回も何回も叩く。ひたすらに叩き続けるが茂貴が起きる気配はない。
「……この野郎」
 剣は仕方なく最終手段へと移る。その手を自分の左足へと伸ばし、履いていたスリッパを握ると、大きく振りかぶり--と、そこで手を止める。
このままスリッパの裏側で叩くと痛そうだと表と裏を逆にする。
 ……慈悲深いな、俺。
 よしっ、と一人納得する剣。これで心置きなく茂貴の頭をすっ飛ばせる。
剣は何のためらいも無くその手を--
……振り降ろした。それはもう容赦なく。
 瞬間、教室全体に聞いていて気持ちがいいほどの音がこだまする。
「いったぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
 いすを倒し勢いよく立ち上がる茂貴。
「何や! 地震か!! 地震なんか!? 蛍光灯でも頭に落ちてきたんか!?」
 そう叫ぶと机の下に潜り始める。
「…………」
 何も言わずその場を立ち去る剣。
 同じく何も言わず机の下から這い上がり後に続く茂貴。
「そらな、あえて何も言わへんっちゅうつっこみもあるけどな……やられとる本人は案外辛いもんやで」
 そう言い残すと二人は教室を後にした。
「で、剣は今何所に向っとるんや」
 黙々と廊下を進む剣に茂貴は尋ねる。
「何も知らずについてきてたのか? しょうがない奴だな」
 はぁ、とため息をつく剣。
 対する茂貴は肩をすくめるだけにとどまる。
「放送で呼び出しがかかったんだよ。俺とシゲが第一視聴覚室に。何か身に覚えあるか?少なくとも俺には無い」
「身に覚えなぁ……剣と一緒に呼ばれるようなことはした覚えあらへんな」
 その茂貴の意味深な返答に剣は疑問の声を上げる。
「一緒に呼ばれるようなことはって、一人ならあるのかよ?」
 すると茂貴は、さぁな、と話をはぐらかすと。話題を変えた。
「ところで剣、なんや嬢ちゃんの様子がおかしかったみたいやけど何かあったんか?」
 その問いに、一瞬動きを止める剣。
「わかるのか?」
 問いに茂貴はやけにニヤニヤした顔で答える。
「そらなーあれだけ湯でダコ状態になっとるのに気付くなっちゅう方が無理やろう……で、何があったんや? まさか押し倒したんか!? そらあかんはーちゃんと手順ふまな嬢ちゃんも怒るわなー」
 剣の背中を叩きながら言うその顔はやはりニヤニヤしていた。
「そんなことするわけないだろ! 真面目に考えてくれよ。本当に身に覚えがないんだって……」
 肩を落とす剣に茂貴が言う。
「そんなもん嬢ちゃんに聞けば早い話やないか。今日いつでも出来たはずやで。何でそれをしぃへんのや?」
「そ、そんなこと出来るかよ」
「なんでや」
「な、なんでやって……」
 そう言われるとうまく答えられない。
気にならないから? それは違う。そもそも気になるからこんなに悩んでるわけだし。
じゃぁ、恥ずかしいからか? それもなにか違う。別にそういうことで話しかけるのに恥ずかしいとは思わない。
……じゃぁなぜ?
結局のところ自分は聞く勇気がないのかもしれない。瑞樹の反応を見ていれば彼女が自分にどういう感情を抱いてくれているかは分かる。
でもそれを明確なことにするのを自分は恐れているのかもしれない。
人間関係が面倒だとか、そんなことに興味はないとか、そういうのはやっぱり、いつの間にか自分の中に出来た言い訳なのだろう。
そしてその言い訳にしがみついているうちに、それが本当の自分だと錯覚してしまうのだ。自分はそういう人間だ。人間関係が面倒で、恋愛などに興味はなく、人の深い部分を知る気もない。自分の気持ちを知ってもらおう何て問題外だと。
本当は、それが怖いだけの、ただの臆病な人間だというのに。
だがしかし--
更に剣は思いを馳せる。
……それに気がついたところで、俺の何が変わるというのだろう。
自分の気持ちはどうなのか、それが自分には分からない。
気がつけば、茂貴の顔にさっきまでのニヤニヤした表情はない。茂貴は前に一歩踏み出すと剣のほうを向き静かに告げる。
「完璧思考型人間の剣に忠告や。なんやだんまりしていろいろ考えとるみたいやけど、たまには考えるより先に行動起こすことも大切なんやで? 百の思考は一の行動にも劣る、ってな。うん、今ええこと言うた。自分」
それだけ言うと茂貴はまた前を向き、続ける。
「それにな、嬢ちゃんはいっつも一生懸命やろ? それを自分の気持ちが整理つかへんからゆう理由で、無碍にしたらあかんなぁ。そいつはかなり失礼な話しやで」
 前を歩く茂貴の背中を見ながら、剣は一言。
「シゲに心眼能力があったとは知らなかったな」
「素直やないのぉ、自分。まぁ、頑張りや。あんさんらなら上手いこと行く気がするわ、多分」
 その言葉に苦笑しながら剣が言う。
「ずいぶんと無責任な言葉だな」
「知らへんかった? 観客は、いっつも好きなこと言うて無責任なんやで」
 目の前には、視聴覚室が迫っていた。 

      ◇◆

「はぁー」
剣と茂貴が教室から出て行くのを見ると、瑞樹は今日何度目かになるため息をこぼしていた。
茂貴が今朝あんなことを言ってきたので今日はずっと緊張しっぱなしだ。多分剣はそんな自分の事を不審に思っていることだろう。
それを考えるとどうしても出てくるため息を止めることが出来ない。
いつものように一人で昼食を食べようと、机にお弁当を広げ始める瑞樹に声をかける人が居た。
「ため息ばっかりついて、何か悩み事ですかー?」
 反射的に顔を上げる瑞樹はそこに立つ意外な人物の名前を呼ぶ。
「笹井先生、どうしてこんなところに?」
 目の前には容器の上に果物からから揚げまで、なぜかいろんな種類の食べ物をのせた笹井が立っていた。
 瑞樹の問いに人差し指を立て、自慢げに答える笹井。
「それはいい質問ですねー。教師たるもの生徒とのコミュニケーションをとらなければいけません。だから皆さんと一緒にご飯でも食べようと思って教室に来たんです。ちなみに学食行くお金がないからとかじゃありませんよー」
 あぁ、それでいろんな食べ物が……と一人納得している瑞樹に笹井が続ける。
「そしたら朝倉さんがため息連発しているじゃありませんか」
 そう言いながら笹井は身近な場所にあるいすを引き寄せると瑞樹の机に寄せて座った。
「で、何か悩み事ですか? 悩みというものは年長者に相談しといて損はないですよ? あー言いたくないならそれでもいいですよー。無理やり聞き出すとかしたくありませんからねー」
 次の瞬間、瑞樹は思わず思っていることをそのまま口にしてしまった。
「あ、先生がまともなこと言ってる……」
「せ、先生を何だと思ってるんですかー!」
 本気で涙ぐむ笹井。
 それを見て慌てて弁解する。
「い、いえ。違うんです。すいません! つい口が滑ってしまって……」
「口が滑ったって言ったー!」
 今にも泣き出しそうな笹井に更に慌てる瑞樹。
「あー、えっと、先生。この春巻きあげるから泣かないで下さい」
 その言葉に笹井は目じりを押さえながら言う。
 これではどちらが生徒か分からない。普段は人見知りの激しい瑞樹ですら笹井のペースにすっかりはまり、最初からまともな会話が成立している。
 笹井が目上の存在に見えないというのも大きな要因となっているのも事実だが。
「うぅ……りんごがいいです」
「……意外と目ざといですね。あぁもう、りんごだってあげちゃいます。お願いですから泣かないで下さい、ね?」
 その言葉にようやく落ち着いた様子になる。
「うぅ、それで、ひっく、朝倉さんは……どうして、ひっく、ため息ばかり?」
 まだ涙腺が緩んでいるようで所々つっかえながら質問してくる。
「その状態で私の心配ですか、ある意味凄いですね……」
 笹井の相手をしているうちは落ち込んだ雰囲気は無くなっていたのだが、こうして質問され、さっきまでの事を思い出し始めるとやはりため息が出る。
「はぁ〜」
 そのため息が聞こえると笹井が言う。
「またそうやってため息をつくー。知っていますか? ため息一つつくごとに幸せが一つ逃げていくんですよー? だから先生に言ってみて下さい。何か打開策が出てくるかもしれませんよ?」
 どこら辺が、だから、なのか分からないが、せっかくなので相談してみようと思う瑞樹だが、なにせ人を好きになったのが初めてなのでこういう相談をするのも初めてだ。何から話せばいいのか分からない。
 試行錯誤の末、瑞樹の相談はこの言葉から始まった。
「先生は恋ってしたことありますか?」
 その、高校生にしては素直かつ純粋なこの質問に、笹井も同じく素直かつ正直にこう答える。
「ないですよー」
「…………」
 相談終了。
 これはいくらなんでもあんまりではないだろうか。
そもそも年長者に相談するメリットというのは自分が今直面している壁を既に越えた経験があり、それをアドバイスとして提供するから生まれてくるものであって……。
 などと多少停止気味の頭で、年長者に対する相談のメリットについて考える瑞樹に笹井が次の言葉をかける。
「あ、そうですかー。朝倉さんは今そういう悩みを抱えているんですねー」
 どこまでいってもマイペースな笹井。
「えぇ、まぁそんなとこです」
何だかこのやり取りがどうでも良くなってきた瑞樹にとって、次に笹井がかけてきた言葉はまさに不意打ちといってもよかった。
「朝倉さんは本当に石川君が好きなんですねー」
「えっ? え、あの、えーと、何で? どうして、まだ言ってないですよね?」
 言葉の意味が良くわかっていない様子の笹井は不思議そうに尋ねてくる。
「どうしたんですかー? そんなに慌てて。言ってないって何をですか」
「だから、その、私が、い、石川君を好きだって……こと、です」
 最後のほうは本当に小さな声になってしまったが、笹井は何とか聞き取れたようだ。あーなるほどー、と言うと言葉を続ける。
「えっとですねー。分かるんですよ。教卓に立ってみると、そのクラスの雰囲気というか、この人は今こんなこと考えているんだろうなーっていうのが」
 そのわりには授業中、何かと問題ばかり起こしているような気もするがそれは今置いておくことにする。
「それでですねー。私はまだないですけど、石川君のためにそこまで悩める朝倉さんは本当に石川君のことが好きなんだなーって思ったんです。違いますか?」
「えと、あの……はい」
 自分は確かに剣のことが好きだ、改めてその部分を自覚する瑞樹。
多分自分の顔は今、思っている以上に真っ赤だろう。どうしても面を上げることが出来ない。
「じゃぁそれでいいじゃないですか。そんなに悩めるくらい好きならそれで。それに、悩んでも変わらない想いなら、悩むだけ損だと思いませんかー?」 
 瑞樹に言葉はなく、ただ頷くだけだった。そんな瑞樹に笹井は続ける。
「それと、一生懸命な朝倉さんだから言えることですけど。どんな方向へ転ぶかは分かりませんけど、一生懸命伝えれば相手の気持ちって言うのは必ず動くものなのです! 朝倉さんみたいな良い人なら必ずいい方向へですよー。先生が保障します!!」
 笹井の言葉に何だか胸が温かくなる瑞樹。
「たまには良い事言いますね先生、最後の一言が余計でしたけど」
「な、なんですかそれー!」
 笹井の反応に真っ赤な笑顔で返しながら、瑞樹は素直に感謝した。

      ◇◆

「遅かったですね、二人とも」
 視聴覚室に入ると、そこには微笑む冬華が一人、椅子に座り待ち構えていた。
 視聴覚室というだけあって、今まで聞こえていた外の騒音はまったく聞こえない。
「なんや姫さんか。誰や思うたやないか」
 茂貴が冬華を見つつ、つまらなそうな反応を返す。
「って、冬華先輩とシゲって知り合い!?」
 前にも似たようなことがあったなーと一人思う剣に茂貴が言う。
「んぁ? 知り合いっちゅーか腐れ縁やな。姫さんとは」
「あら、失礼な言い様ですね。あなたにはまだ貸しがあるはずですけど?」
 微笑む冬華に対し苦笑を浮かべ焦った様子の茂貴。
「じょ、冗談やなかいっ。ほんまにー本気にせんといてーな」
 何となく二人の上下関係が分かったところで、剣は尋ねる。
「えーと、今回は何で俺たち二人をここへ?」
 その質問に冬華は、ふふっ、と微笑。
「良い質問ですね、剣君。今日呼び出したのは他でもありません。実はこの誠心商業高校に新たに『心霊現象研究部』を発足しようと思いまして--」
 と、そこまで言う冬華の言葉を遮るようにして二人は叫ぶ。
『心霊現象研究部ぅ!?』
「ちょい待てや、まさか俺ら二人がそのいかにも変人が集まりそうな怪しい部に入るっちゅうわけやないやろうな?」
「だ、第一なんで俺達二人なんですか!!」
 口々に言う二人の言葉に絶えず微笑む冬華が続ける。
「あらあら、せっかちさんですね。女の言葉を最後まで待てない男は嫌われますよ?」
 その言葉に静かになる二人。それを確認すると冬華はまた話し出す。
「では続けます。その部発足に至って私は、部員は量より質を押したいと思いました。ですからこの部への入部条件に『霊感を保持していること』という条件をつけることにしたのです。ちなみに学校側の許可はもうとってありますからご心配なく」
 そこまで言うと冬華は二人の反応を待つ。
「って結局入部せー言うとることに変わりはないやないかいっ!!」
「いや、つっ込むとこそこじゃないだろ! 冬華先輩は何で俺たちが霊感持っているって知っているんですか!?」
 それを聞いて茂貴も一瞬ぽかんとした顔になっていたが、慌てたように問いただす。
「せ、せや。何で姫さんは知っとるんや!」
 茂貴ならいざしれず剣の霊感に至っては昨日発覚したばかりで、自分でも知らなかったことだ。それを今日になって冬華に遠まわしであるが指摘されたんだから驚くなというほうが無理である。
 そんな二人の反応に片手で口を隠すように笑いながら冬華は答える。
「ふふふっ、あなた方は瀬戸家を甘く見てらっしゃるんじゃありませんか?」
 その言葉に、そうだ、その通りだと剣は問答無用に納得する。
理由はどうであれこの生真面目な商業高校に、そんないかにも怪しい部を圧力一つで作ることも可能な権力を持っているのが瀬戸家である。
 その情報網も侮ることは出来ない。
 その気になれば剣が一年前、貯金といって隠したまま行方不明になった一万円札だって見つけてくるかもしれない。
 今度頼んで探してもらおうか……。
 そんなことを考えていると冬華が言葉を続ける。
「それと茂貴。もう話をごまかさなくても良いですよ。今日は剣君にあの話をするために来て頂きましたから」
 しれっとした態度で言う冬華だが剣には何の事だか分からない。茂貴はというと、
「なんや、それならそうとはよ言うてーな。演技するのも疲れるんやで?」
(いや、だから二人だけ分かったような態度とられても……)
 困惑した様子の剣に微笑を浮かべた冬華が唐突に話を切り出す。

「剣君。最初に警告しておきます。蒼い光を見ても決して近づかないで下さい」

「はぃ?」
 あまりにも予想外な発言に剣の思考は付いていく事が出来ない。
 しかし、その反応を予想していたのか冬華はかまうことなく言葉を続ける。
「明朝、あの剣君たちが落ちた場所で崖崩れがありました。そのときに気付いたのですが、あの蒼い光が消えてい--」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
 まだいささか混乱気味の剣だが、その冬華の言葉の矛盾に反応する。
 話の腰を折ることになるが今度は何も言ってこない。
「なんです?」
「えっと、ですね……まず何で俺たちが落ちたこと知っているんですか? 考えてみれば昨日の今日ですよ? それに霊感の話だっておかしいです。よく考えれば分かる事ですが。その時、『視えている』ってことが分かるのは自分だけのはずです。はたから見ていてそれが分かるはずがない。それにあの光が消えた!? ……いや、消えたのならそれで良いじゃないんですか? 第一、消えたんなら近づきようが無いじゃないですか」
 一つ疑問が浮かんでくれば次々と言葉が出てくる。
次々と繰り出される剣の問いの内の一つに、茂貴が答える。
「あ、それ俺が姫さんに報告しとったからや」
 さらりと言ってのける茂貴に唖然となる剣。
「なんで?」
 当然そうなるだろう。
 そのやり取りを見てため息と共に冬華が入ってくる。
「茂貴。あなたは余計剣君を混乱させる気ですか?」
「俺は剣の質問に答えたっただけやで」
「あなたは話を省きすぎるんです」
 少しむっとした様子の茂貴はなお反論する。
「ならあの質問にどう説明せぇっちゅうんや」
 二人のやり取りを見て控えめに片手を上げて剣が言う。
「あの〜……俺の質問はどうなったんですか?」
 その声に冬華は、はっとしたように剣を見。一つ咳払いをすると話を再開する。
「失礼しました。とりあえず茂貴……黙ってなさい」
 珍しくそのまま何も言わなくなる茂貴。
やはり、なぜか冬華には頭が上がらないらしい。
「先程茂貴も言っていましたが、剣君の昨日の出来事に関しては彼から報告を受けています。なぜそんなことをするのかという質問には後で答えますから、今は蒼い光についての話に移ります。いいですね?」
 いいですね? と聞いてはいるものの、どこか有無を言わせぬ雰囲気が漂っていた。故に剣は『はい』と答えるしか出来ない。
「では続けます。最初、茂貴から話を聞いた時。それほどの強い力を持つのなら、その場に留まり続け、執念という形で凄まじい力を持つ地縛霊の類のものかと思いました。しかし、崖崩れのあったその日、その光は消えていたんです」
 その言葉に、剣はさっき持った疑問をもう一度口にする。
「あの、消えちゃったんならそれでお終いじゃないんですか?」
「いえ、あれ程の強い霊圧を放つ存在がたった一晩で消えてしまうとは考えがたいです。故に、あれは移動したものと推測します」
「それで、や」
冬華の言葉を茂貴が継ぐ。
黙れといわれて黙ってはいたが、どうやら我慢できなくなってしまったらしい。よほど喋りたかったのか一気に喋りだす。
 冬華はそれをとがめる様子も無く、静かに茂貴の話を聞いている。
「移動するんなら地縛霊ゆうんは考えられん。その場から移動することが出来へんからや。せやったら残るは浮遊霊か憑依霊かっちゅーくらいやけども、浮遊霊ゆうのも考えられん。奴らは自由に移動出来る代わりにそれほど力を持っとらん。せやからあの光の正体は憑依霊タイプの奴になるんやないかっちゅうのが今の俺と姫さんの意見や。憑依霊も常に憑依する体求めてさ迷うとるからな」
 そこまで一気に言うと満足したのか、茂貴はふぅ〜と吐息一つ溢し剣を見ると、剣が口を開けたまま、ぽかんとした表情になっているので思わず吹き出す。
「なんや、そないな間抜け面して」
 間抜け面と言われたが今の剣には反論する気さえ起こらない。
 信じる信じないの話ではなく、二人の話にただただ圧倒されたのだ。
 そんな剣を放って冬華が話を続ける。
「とりあえずまだ正体が分かってない上に移動するということが考えられる以上、光を視ることの出来る剣君には、警告が必要と考えて今回の話に踏み切ったわけですけど……理解してくれましたか?」
 理解してくれましたか、と言われても、今まで普通に生活してきた自分にいきなりそんな話しをすれば混乱するのは明白なわけで……と、自分に言い聞かせるが、ここまで真剣に話してくれているのに曖昧な返事をするのは心苦しく、必死になって今までの話を整理する。
 とりあえず自分に何とか霊とか種類はいまいち分からない。しかし二人は自分の身を案じてくれているのだろう。
 例え視つけても近づくな、二人が言いたいのはこれだ。そして出来れば報告しろといったところか。しかしここで一つ問題がある。そんな忠告をされても無意味なのだ。なぜなら、剣は幽霊の存在を全く信じていないのだから。そんなことを考えていると冬華が声をかけてきた。
「どうかしましたか?」
「あ、いえ。冬華先輩の話は理解しました。でも……せっかくのご忠告ありがたいんですが……」
 そこで剣は一旦言葉を切る。そこへ今度は茂貴が問う。
「ありがたいけど、どないしたんや?」
 冬華と茂貴の視線が剣に集中する。そんな中、少し緊張しながら剣は続ける。
「俺は、なんていうか、幽霊の存在を信じていないんです」
 その言葉に、茂貴と冬華は顔を見合わせ、次の瞬間。おかしそうに笑い出した。
「な、なんですか? 二人とも」
 うろたえる剣に冬華がいう。
「ふふふ……いえ。失礼しました。剣君が凄く真剣にもっともらしいことを言うので、おかしくて……」
 その言葉に茂貴が続く。
「あんなぁ、剣の言うとおり幽霊をマジで信じとる奴はけっこー少ない。けどな? 剣は昨日あれをみたやないか? あの蒼い光を。それでもまだ信じられへんか?」
 剣はそばにある椅子に腰掛け、そういう茂貴に向かい腕と足を組むと言った。
「いや、あの光は確かに見た。それは信じられる。ただ、俺の中で理解している【幽霊】と、シゲや冬華先輩の言う【幽霊】は多分違う。俺の理解している【幽霊】には、危険がない」
 その言葉に、冬華は首をかしげ、優しく微笑むと言った。
「私たちとは【幽霊】に対する認識の仕方が違うというわけですね? 面白そうです。よかったら聞かせてくれませんか? 剣君の言う【幽霊】について」
 冬華に言われ剣は微かに頷くと、腕を組んだまま顎に右手を持っていき視線を下に、そして少しの間沈黙した後、言葉をつむぎ始めた。
「俺の認識する【幽霊】とは、一種の記録なんですよ。こんな言葉があるのを知ってますか? 『【幽霊】とは、現実には一種の【テープ・レコーディング】である。強い感情は、一種の【磁場】にそれ自体を刻印することが出来る。このレコーディングされた記録をそれに敏感な人間は【取り出す】ことができる』という言葉です」
「確か、T・C・レスブリッジ……」
 冬華が静かに呟いた。
「はい。そうです。これにより分かることは、【幽霊】は現在ではなく、過去の時空を生きている、ということです。例えば、実際ある床より一cmほど高い部分をふわふわと、浮くようにして歩く幽霊。この幽霊が歩いているのは随分過去の床なんです。だからその床がすりへる前の、自分が生きていた時代の床を歩いているんです。このように、俺が認識する【幽霊】とは過去の残滓であり、今を生きる我々にはなんら関与しない。だから、注意するほどのことでもない、ということです」
 言い終わると、剣は深く息をはき、黙る。
「なるほど、面白い話ですね。過去の残滓ですか……あながち間違いともいえませんが、一つ欠点があります」
 冬華の言葉に顔を上げる剣。
「剣君の話だと、【幽霊】とは過去の映像ですね? 簡単な話しです。私たちのように霊感を保持している人たちは、【幽霊】と会話することが出来るのですから。過去との会話はできません。彼らは過去の残滓ですが映像ではありません。なぜならそこには執念と言う形ではありますが、意思が存在するのですから」
「でも……」
「そうです。これは実際に会話できる人にしか分からないことです。出来ない人と討論しても、水掛け論になるだけで解決しません。ですが……」
 そこまで言うと冬華は深く微笑み、言う。
「剣君にはそれが出来ます。結論を出すのは、それをしてからでも遅くはないと思いますよ?」
「…………」
 ……それをしてからでも遅くはない。
冬華の言葉を心の中で繰り返す剣。
(それをしてからでも遅くはない……それをしてからでも、ん? それをしてからでも?)
 それを繰り返しているうちに剣はひとつの事実に気がついた。冬華が言わんとしていること、それは--
「あの、冬華先輩?」
 まるで何かを確認するかのような剣の声に、冬華は聞いているこっちが馬鹿馬鹿しくなるような、いつもどおりの微笑みとともにいう。
「なんですか? 剣君」
「その、先輩の話を聞いていると、その幽霊かなにかと会話しなさいって言ってるように聞こえるんですけど」
「あら、そのように言ったと思いますけど。それがなにか?」
「えー、最初の『蒼い光を視ても近づくな』という話しと矛盾していませんか?」
「…………」
 沈黙。
 茂貴の爆笑する声が聞こえているがそれは無視する。
 と、その沈黙は冬華のいかにも『いい事を思いつきました』といった感じの両手を合わす音で終わりを向かえた。
「そうです。一人では近づいてはいけませんよ? 危険ですから」
 そこでいったん言葉をとめると冬華は深い笑みを浮かべ言う。
「ですから、私たちと一緒に行動すればいいんですよ。今ちょうど茂貴と私はその蒼い光を調べている最中なので--」
 ……そこで視聴覚室に昼休み残り五分前を告げる予鈴が鳴り響く。
 その音を聞いてここが学校であるということを思い出す剣。
 あんな話しをしていたせいで頭の感覚が妙に現実感を失っていた感じだ。視聴覚室ということで外の騒音から遮断されていたせいでもあるだろう。
 冬華と茂貴もそれは同じらしく予鈴と共に肩の力が抜けた感じになっている。
「中途半端な形で話が終わってしまいましたね。続きは放課後、私の車の中でしましょう。校門前に来てください。新たな部の発足記念でもありますから、ご自宅までお送りしますね」
 いつも通りの微笑とともにそういってのけた冬華に、剣と茂貴はかすかに驚く。
「え!? 『心霊現象研究部』って本気だったんですか!?」
「剣連れてくる口実やなかったんか!?」
 二人の言葉に微笑みのみ返すと冬華は視聴覚室を後にした。
 残された二人はしばし無言だったがおもむろに剣が呟く。
「それにしても、どうしていきなり新しい部なんか……?」
 その呟きに答える声が一つ。
「そういやー姫さん言っといたな。風水で、『今年は新しいことに挑戦する年』って出たゆうて……」
『はぁ〜』
 二人はどっと疲れが押し寄せてきたかのようなため息をつくと、教室へと来た時に比べすっかり重くなった足を進めるのだった。

第四章『そして全ては動き出す』

 放課後、HRが終わるとすぐに剣は茂貴と共に校門へと向う予定だったが、茂貴がまたしても熟睡してしまい、起こすのに手間取り少々遅れ気味だ。
 5・6限目の授業はまったく集中できなかったが、あんな話を聞いた後では仕方が無い、と誰に言うわけででもなく言い訳をする。
「ったく、あんまり遅くなると冬華先輩怒るだろ?」
 茂貴は頭を掻きつつ、あくび一つおくと答える。
「しゃーないやろ。あんな面白う無い授業されて、寝るな言うんは無理な相談やで。それにな、あの姫さんがそないに小さいことでいちいち怒るかいな」
 まったく反省している様子の無い茂貴に剣はため息一つつくと、下駄箱で瑞樹が立っているのに気付く。
 しきりに辺りを見回しているので誰かと待ち合わせでもしているのだろう。自分は冬華との待ち合わせがあるし、何より今日は避けられているみたいなのでそのまま靴を履き替え行こうとすると、
「あ、あの、石川君」
 声を掛けられてしまった。
 朝からあれだけ避けられていたので、声を掛けられるとは微塵も思っていなかった剣はいささか驚いた。顔には出さなかったが。
 ……女心は秋の空ってやつか?
 思いながら瑞樹を見るとやはり顔は真っ赤で鞄を持つ両手は硬く握られている。ただ、視線だけがいつもと違い自分の顔を捉えていることがわかる。
(嬢ちゃんはいっつも一生懸命やろ?)
 そんな瑞樹を視界に捉えながらも、昼休みに茂貴に言われた言葉を思い出す剣。言われて初めて気付いたが、こうして見る瑞樹は確かに『一生懸命』というものが伝わってくる。それが自分に向けられているということも分かっているので、なんとも言えない、強いて言うならこそばゆい。そう、こそばゆい気分だ。
しかしそれと同時に、さらに茂貴に言われた言葉を思い出す。
(--自分の気持ちが整理つかへんからゆう理由で、無碍にしたらあかんなぁ。そいつはかなり失礼な話しやで)
 だから剣はこそばゆいと同時に、それ以上の後ろめたい気持ちでいっぱいになる。
 一生懸命な瑞樹を目の前にすればするほど、それに中途半端にしか答えられない自分に……。
 そんなことを思いつつ瑞樹のことで自分をそんな心境へと追いやる原因を作った茂貴を見ると、彼はニヤニヤと笑っている。こういうときに限って喋る気はないらしい。
 ……さて、どう対応をとるべきか。と思案するがそう都合よくいい案が一瞬にして浮かんでくるわけがない。
 ……いや、普通でいいんだ。普通で。
「何?」
 結局、考えながらの返事なのでかなり冷たい言い方になってしまった。
 瑞樹はその声にびくっと反応すると、さらに緊張したように言う。
「あの、い、石川君と、その、えっとぉ、出来ればでいいんだけど--い、一緒に……あ〜……い、一緒に帰りませんか!」
 昨日のように雨が降っているなどの口実が無いため、いつもの瑞樹にしてはかなりストレートな言葉だった。
 彼女はこういった感情をそのまま表に出すことが出来る。故に瑞樹の言葉には嘘がない。 
うらやましい人だな、と剣は思う。自分の思う意をそのまま言葉にするとは、どういう気持ちになるのだろう、と。
 思いを馳せながら、剣は申し訳なさそうに答える。
「ゴメン、実は今日シゲと一緒に冬華先輩の車で送ってもらう予定なんだ」
 その言葉に、見ていて明らかに落ち込んだ様子の瑞樹。本人にそのつもりは無いのだろうが、瑞樹の反応を見ていると罪悪感を抱かずに居られない。
 そんな剣の様子に気付いた様子も無く瑞樹は問う。
「え? 冬華先輩って、あの瀬戸先輩なの?」
 無理に作った笑顔が痛々しい。
「あ、あぁ。多分朝倉さんが思ってる人で合ってると思うよ」
 つつ、と視線を逸らしながら答える剣。
「知らなかったぁ。石川君が、あの瀬戸先輩とそんなに仲が良かったなんて。凄いね」
 冬華はその瀬戸家次期党首と言う肩書きもさることながら、彼女の行う数々の武勇伝(奇行ともいう)のため知名度はかなり高い。ちなみに男性ファンの多し。
「いや、中学が一緒でさ……皆が思ってるより普通な人だよ--多分」
「そっか、そうだよね。お嬢様って印象があるからどうしても想像が勝っちゃう。いけないことだね」
 そう言うと瑞樹は一礼した後、剣と茂貴の二人に言う。
「それじゃ、瀬戸先輩を待たせちゃいけないから行くね? 呼び止めちゃってごめん」
 それだけ言うと小走りに去っていく瑞樹。その背中がやけに寂しそうに見えてしまうのは剣だけだろうか--
「ええ子やなー……ほんまに」
 それまで黙っていた茂貴が唐突に口を開く。
 その言葉にどう返していいか分からず、剣はしばらく考えた末こう返すのが精一杯だった。
「分ってるよ」

      ◇◆

「それにしても遅かったですね? 何かあったのですか?」
 剣たちは今、ゆっくりと走るシルバーセラフの中にいる。
さすが高級車というべきか振動は皆無といっていいほど無かった。
今までそんな車とは無縁だった(まぁ、普通はそうなのだが)剣は、まるで部屋が移動しているみたいだ、といささか感動気味だ。
ちなみに席は冬華の左側に剣。座席を倒しその上に胡坐を組んで、進行方向に背を向けるようにして茂貴が座っているといった形になっている。この車の価値を知っているものが見れば、おそらく何らかの文句か何かを言ってくるだろうが生憎茂貴はそんなことを気にするような神経を持っていない。冬華も気にしていないようだ。冬華のお抱え運転手はさっきから一言も口を開いていない。
「それがなぁ、俺ははよ行かな! ゆうて言ったんやけどな、剣がなんやかわいい嬢ちゃんと長う話ししょったせいでなー」
二人の会話を適当に聞き流していた剣は、茂貴のその言葉に反応した。
 え、何か俺罪なすりつけられてる? と。
「ちょっと待てシゲ! そもそも遅くなったのはシゲが熟睡して中々目覚まさなかったからだろ!?」
 その言葉に茂貴は目を丸くし、悲しそうに剣のことを見る。
「そんな、剣が人に罪をなすりつけるような奴やったなんて……軽蔑や!!」
「いや、その台詞そのままシゲに返すから……」
 二人のやり取りに、いつもの微笑を浮かべた冬華が入ってくる。
「どうでもいいですけど、そろそろ話しを本題に移らせてもらってもよろしいですか?」
 その一言で静かになる二人。
 冬華の言葉には場を静粛にさせる力があるようだ。
 二人が落ち着いたことを確認すると話始める。
「それでは、昼休みの続きを始めましょうか」
 昼休みの続きと言えば、蒼い光を追いかけている冬華と茂貴に同行するかどうかという話しだったはずだ。
 だから剣は、自分の持っている疑問と返事を織り交ぜて率直に答えを出す。
「一つ気になることがあるので、それに答えてもらえれば一緒にその蒼い光を探したいと思います」
 その言葉に軽い調子で茂貴が答える。
「お、質問か? ええで、何でも聞いてみ」
 茂貴のほうに顔を向け剣は言う。
「じゃぁ聞くけど、何で二人はそんなにその手の話しに詳しいんだ? それにどうして幽霊のことなんで調べてるんだよ。そんなことしないだろう? 普通」
この抱いて当然な剣の疑問を聞き、二人は顔を見合わせると、冬華は微笑を、対して茂貴は渋い顔をしていた。
「あぁ〜、じゃぁ俺から話すわ。昔な、ゆーても中三の頃の話しやけども。親と大喧嘩やらかしてしもうて、そのまま家飛び出してん。そん時に日本中旅して巡りょうる中、自分の視えるゆう特技活かしてそっち系の問題解決させる商売しとったんや。これでも自分の力に気付いてから勉強したさかいに知識は持っとったからな。何とか食い繋いでいけたわ。1年間くらいな」
 そう言い笑う茂貴の後を、微笑を浮かべた冬華が継ぐ。
「ちなみに、その旅に出る際に多少ですが軍資金を出したのは私です。そしてその後高校に入れるように手配したのも、今住んでいる家の事も、私の助けがあったからこそ、ですよね? 茂貴?」
 その言葉に、うっと呻く茂貴。剣は笑いながら思う。
……だからシゲは冬華先輩に頭が上がらないんだなぁ。
 そして思いとは別に浮かんだ疑問を口にする。
「そういえば、冬華先輩はどうしてそんなにすんなりとお金を渡しちゃったんですか?」
「すんなり?」
 言葉とともに珍しく微笑を苦笑に変えた冬華は言う。
「家出した後クラスメートというだけで自宅の門の前に座り込み、顔を合わせるたびに『よっ、姫さん。もうかりまっか?』ですよ? まぁ、それなりに話しはする仲でしたけど……しかし、それを一ヶ月も続けられれば、あんなお金厄介払いのはした金です」
 そこで言葉を切ると、今度は苦笑を深い笑みに変え。
「しかし、恩は売っておくものですね。まさかそんな経験を積んで帰ってくるとは思いもしませんでした。おかげで今回の件でもいろいろと動いてもらっていますし」
 その言葉に肩を落として言う茂貴。
「はぁ〜金出してもろたからゆうて土産持って瀬戸家行ったんが間違いやったな--まさかあんなことに巻き込まれるとは……」
「え、何かあったのか?」
 剣が疑問を持つのも当然なのだが、茂貴はどうでもいいのか、半ばなげやりに返答してくる。
「あぁ、厄介ごとに巻き込まれてそのまま姫さんに捕まったんや」
 これ以上詮索しても、その事について話してはくれないだろうと思った剣は、そこである一つの事実に気付く。
「あのさ、さっきの話聞いてて思ったんだけどさ……」
「なんや?」
「シゲって、俺より一個年上?」
「…………」
 何をいまさら、とでも言うような顔で見つめ返してくる茂貴。
「ま、そんなことはどうでもいいんだけどさ。話戻すけど、どうして冬華先輩はそんなに蒼い光について調べているんですか?」
「そうですね。それは、瀬戸家が昔からそういうことをしてきたから、と答えるべきでしょうね」
 二人の会話にさびしい茂貴の声が割り込んでくる。
「何気に俺、どうでもいい存在で終わらされとるんとちゃう?」
 そんな茂貴の言い分に耳を貸す気配すらない二人は続ける。
「昔からしてきた?」
「簡単に言いますと、代々霊力を保持している瀬戸家はそれを活かし、遥か昔よりここまで大きくなったようなものですから。今になってそれを辞めるつもりはありません、ということです」
「伝統みたいなものですか?」
 冬華は微笑一つとともに答える。
「そんなところです」
 と、どうでもいい存在として扱われ少々落ち込み気味だった茂貴が二人の会話に入ってくる。
 ……立ち直りの早い男だな、と苦笑する剣。
「で、今回姫さんはそろそろ独り立ちせなっちゅうことで、霊的事件に関しては親の援助が受けられへんねん。そ・こ・で! この才能溢れる俺に助けを求めて来たっちゅうわけやな」
 自慢気に語る茂貴を完璧に無視して冬華が言う。
「これで剣君の質問には大体答えられましたね」
 シゲはしばらく放置だな、と内心茂貴に合掌すると剣も冬華に続き茂貴を無視。
「はい。一応は答えてもらいました。つまり、冬華先輩は今親の援助が得られないので、霊感持ちらしい俺に協力してほしい。ということですね?」
「そういうことになります」
 それだけで言葉を切る冬華。答えは自分で考えろということらしい。
 本来ならこういうことは面倒なのでやらないのだが、今回はどうやら冬華が困っているらしいのと、たまには行動してみるのもいいかなという、何に影響されたかもわからない気まぐれで返事が決まった。
「わかりました。冬華先輩に協力さしてもらいます。それに、やっぱり気になりますからね。幽霊と会話が可能なのかどうか」
 と、ここでひと段落といわんばかりに会話は途切れ、車内に沈黙が降りる。
 茂貴は落ち込み気味だが放っておくこととしよう。
 学校近辺では渋滞に巻き込まれ、歩いたほうが速いといったペースで走っていたシルバーセラフも、今は剣の家へと向って海岸沿いを走っていた。
 夕暮れ時のこの時間帯は人通りも少なく、近辺を走っている車は自分たちだけのようだ。
(そういえば昨日もこの時間帯に蒼い光に気付いたんだよなぁ……)
そう、まだあの蒼い光に出合ってから一日しか経っていないのだ。なのに自分の心境がずいぶんと変わってしまったように剣は思えた。
 部活をどうしようとか考えていた自分がずいぶん昔に感じるな、と一人物思いに耽る剣の前で茂貴が突然--
「これは!?」
 叫んだ。気付けば隣に座る冬華も表情を緊一色に染めていた。
「ど、どうしたんだよ? 二人と--!?」
 遅れて剣も気づく。
 体中を妙な圧迫感が襲ってきた。
 体を胸から押しつぶされたかのように呼吸が苦しい。
 剣はこの感覚を知っている。
 まだ記憶に新しいこの感じ。
 昨日と同じこの気配。
 これは--
「あの蒼い光か!?」
「いや、気配だけや」
「しかし、これはかなり近いです」
 と、気付けば車は止まっていた。
 何事かと前を見れば、運転手が困惑した表情で振り返り言う。
「冬華様。前から道路の真ん中を歩いてくる男が……」
 その言葉に身を乗り出すようにして茂貴が前方を確認する。
「あ、あの男は……」
茂貴の指すあの男、もといひったくりが、服装は昨日のままに、ゆったりとした動きで向ってきていた。その左手に真っ白な鞘を、右手に柄の部分が白い日本刀を携えて、その全身から--

蒼い光を放ちながら---

      ◇◆

 瑞樹は今混乱の中にいた。目の前には異様な光景が広がっている。
普段生活する中ではおよそ見ることが無かったであろう光景が。しかし現にこうしてそれは目の前に広がっている。

今瑞樹の目の前では、日本刀を携えた男が、黒い車に向って歩み寄っていた。

何が起こっているのかは分からない。分からないがあの男には見覚えがあった。先日自分の鞄を取ったひったくりだ。
その目は虚ろで何所も見ていない。廃人を思わせるその表情とは裏腹に、引きずるような歩みであるがその歩は確実に一台の黒い車へと向っている。
自分はここで逃げるべきなのかもしれない。事実体は恐怖し、意思は逃げろと告げている。
しかし、男が自分のところへ来ているわけではないと分かっていても、恐怖を感じることに変わりは無く、逃げろと告げる意思に反して体を動かすことが出来ない。
だから瑞樹は気付かなかった。恐怖に混乱するあまり、その男の歩みが、車ではなく自分に向かっていることに--

      ◇◆

「おい! どうなってるんだ!? 何であのひったくりから蒼い光が出てきてるんだよ!?」
車内、混乱する剣の言葉に眉をひそめながら冬華はいたって冷静に返事を返す。
「ひったくりとは何のことか分かりませんが、あの男が蒼い光を放っている。それは彼が憑依霊の類のものに体をのっとられたからでしょう」
 何所までいっても冷静な冬華の物言いに、混乱していた剣は多少であるが落ち着きを取り戻した。
 みっともないことに混乱してしまった自分を恥じつつも、剣は落ち着いた様子の冬華に尋ねる。
「えっと、それじゃぁ。どうすればあの男を元に戻せるんですか?」
 冬華に出したその問いに茂貴が答えた。
「今は無理や」
「へ?」
 茂貴らしい簡潔かつ配慮に欠ける返答に剣はまた混乱し始める。こうもいっきに状況が変わっていけば冷静で居られるほうがどうかしているだろう。
 そもそも自分はそんなに頭のいいほうじゃない。
 そんな剣の様子に気付いたのか冬華が茂貴の言葉に付け足す。
「憑依した霊をその体から分離させるにはそれなりの準備が必要なんです。まさかもう体を手に入れたなんて思ってもいませんでしたから、今その準備はありません」
 後半はため息を吐くように告げる冬華の言葉に剣は焦り気味に言う。
「じゃぁ、どうするんですか? 仮にも相手は日本刀持ってますよ!?」
 ゆっくりと近づいてくるひったくりを確認しつつ茂貴が答えた。
「逃げる」
 ははは、またそんな簡潔な物言いを、と思うが言葉には出さない。ゆっくりではあるが敵は確実に近づいてきている。それに茂貴の言い分に間違いがあるとは思わない。
さすが冬華のお抱え運転手。三人の会話を聞いていたのか、いつの間にかベンツは進行方向を変え、もと来た道を戻ろうと発進したその時、
「朝倉さん!?」
 剣は自分の目を疑った。そこには昨日自分が取り戻した鞄を片手に、瑞樹が凍りついたかのようにその場で固まっている。
 運転手が急いでブレーキを踏むがいかんせん止まりきれず、瑞樹を少々通り過ぎてしまった。
 止まると同時に剣は車を飛び出す。
 このままでは瑞樹がひったくりに襲われてしまう、と。
「!?」
 瑞樹の元までたどり着くまで三秒と掛からなかった。
 そのはずなのに、と剣は思う。
 
 目の前には、すでにひったくりが両手をだらんと下げ立っていた。

 おかしい。
ひったくりから自分たちの場所まで距離にしてゆうに二十mはあったはずだ。
その間合いを一瞬にして詰めるなんて不可能ではないだろうか……
そんな剣の思考を遮るかのように、ひったくりが右手のみをゆっくりと上段に構える。
その動きに剣と瑞樹は戦慄した。
このままでは斬られる、と。
ひったくりが今まさにその手を振り下さんとした刹那、剣はその振り上げた手に掴みかかった。
……引けばやられる。
そんな本能とも言うべき判断が功を制したのか、刃が自分たちに向ってくることはなかった。
剣は全力をもってその手を押し返そうとするが、
「く……!!」
 ひったくりの力は人間のものとは思えぬほど強かった。相手の右手一本に対しこちらは両手で押しているにもかかわらず、じりじりと、海に向かって自分が後退していっているのが分かる。片手一本で、しかも左手の方を、だらん、と下げたままの、ろくに腰に力も入れていない状態でこんな力が出るはずがない。
 気付けば、背後に広がる海。
……その前に崖があるんだけどな--。
このままでは自分は崖に落ちてしまうだろう。この前みたいに下が砂浜というわけでもなさそうだ。
茂貴と冬華が焦ったように車から出てきているのが視界の端に見えたが、間に合いそうにない。
このままじゃ、---落ちる。
そう思うと同時に剣は体重を後ろにかけ、背中から地面に倒れるようにその身を沈めた。必然的にひったくりの体勢が前に崩れる。
それと同時に相手のみぞおちの部分に右足をあて、一気に蹴り上げた。
要領は巴投げ。
まさに相手の前に出る力を利用したこの技なら、ひったくりだけが海に落ち自分は助かるはずだ。
--そのはずだった。
「えっ!?」
 いつの間にか、鞘を持っていたひったくりの左手が自分の右手を掴んでいた。
 既に身を空中に投げ出されたひったくりは重力に従って落ちていく。
右手を掴まれた剣もそれに伴い落ちていく---が、そのまま落ちていくだけのはずの体が途中で止まる。ひったくりの放した日本刀の鞘だけが海へと落ちていくのが見える。
まるで自分の近い未来を表しているかのように。
「あ、朝倉さん」
気がつけば、それまで凍りついたように固まっていた瑞樹が剣の左手を掴んでいた。
「----っ」
その顔には苦悶の表情を浮かべている。
それはそうだろう、ひったくりはまだ自分の右手を掴んだままだ。瑞樹は男二人分の体重を支えていることになるのだから--
と、視線をひったくりに移した剣はその光景に愕然とした。
「な……! こいつ、正気か!?」
なんと、片手に日本刀を持ったままのひったくりが、またそれを構えなおし自分を斬ろうとしているではないか。顔もこちらに向いている。
正気の沙汰じゃない、と思うがその思考をすぐに中断。忘れていたが相手は何かに憑依され、既に意思が存在しない。
彼の動きを見ていると、ただ人を斬りたいというものに見えてくる。
くそっ、もうこの斬撃を防ぐ手立ては無い--と、剣が斬撃を予想したその刹那、不意に聞こえた短い悲鳴。
「きゃっ」
瑞樹の上げた短い悲鳴と共に、突然全身を無重力感が襲う。
「え?」
 つかの間の無重力感はすぐに無くなり、落下に伴う下から上への圧迫感へと変わっていく。
 海へと向って落ちていく刹那、瑞樹が力尽きたのだと遅ればせながら気付いた剣は成す術も無い。
瑞樹の悲鳴をバックに、三人はその身を重力へと引っ張られていくのだった。
そして海に落ちた刹那。ひったくりが海面に叩きつけられた拍子で手放した白い日本刀を咄嗟に瑞樹が手に取っている瞬間が垣間見えた。
 しかし、その光景も一瞬の出来事に終わり、剣は凄い勢いで海面を流されていくのだった……。
      ◇◆

「やばい、やばい、やばい、やばい、やばいで! マジで!! 剣と嬢ちゃんが崖に落ちてもうたやないかいっ!!!」
 茂貴は三人が落ちていった崖下を覗き込んでいるが、誰の姿も確認することは出来ない。
「茂貴。落ち着きなさい」
 強い口調で言う冬華に茂貴は掴みかかる。
「落ち着け? 落ち着けやと!? 剣と嬢ちゃんが落ちたんやで? これが落ち着いとれるか!! 考えてみぃ。一昨日は嵐やったんやで。海はあれだけ荒れとるやないか! 今がどんな状況か姫さんわかっとるんか!!」
 冬華は何も言わず襟を掴まれ苦しそうに、ただ茂貴を見つめ返している。しばし無言で睨み付ける様に冬華を見ていた茂貴だが、突き放すようにその手を離す。
「くそっ!」
 それだけ言うと茂貴はその場に座りこんだ。
 そんな茂貴を見下ろしながら、冬華はゆっくりと言葉を選ぶように言葉を紡ぐ。
「茂貴、こんな時だからこそ、落ち着きなさい、といっているんです。それとも、あなたはもう、剣君と、あの女の子について、諦めたのですか?」
そんな冬華の諭すような言葉に、ぐっと顔を歪める茂貴。
「俺かて諦めとうない。諦めとうないけど、どうすりゃええんや! 崖から海に落ちたんやで? 何もできへんやないか!!」
 地面に拳を叩きつけながら叫ぶ茂貴に冬華は、
「その台詞が既に諦めているというんです。そんな言葉を叫ぶ暇があるのなら、考えなさい! 今自分に出来ることを、あなたは何もしないまま諦めるつもりですか! 茂貴は、私の知っている茂貴は、そんな口先だけで物事を諦めるような人ではないです!!」
 後半、半ば叫ぶような形になった冬華の言葉。吃驚したように顔を上げた茂貴は、その目を疑った。
 あの冬華が泣いていたのだ。微かに体を震わせ、目尻から溢れる様に一滴の涙が頬をつたっている。
冬華らしい、静かな涙だった。
 それを見た瞬間、茂貴の頭は、まるで冷や水でも掛けられたかのように冷たく澄んでいった。
 それと同時に思う。
……なにやっとんや、俺は、と。
……わかっとったはずや、一年前のあの時に。姫さんはちょいと環境が他とは違うだけで、後は普通の女と変わらんゆうて--。
(結局、俺はなんも変わっとらんのか……)
 --情けない……情けない、あまりにも情けなさ過ぎるで、護条 茂貴!
 思いと共に立ち上がる茂貴。
 冬華は吃驚したように茂貴を見つめるが、その表情を確認すると共に、安心したかのように息を漏らす。
 そんな冬華の頭を軽く叩きながら、茂貴は力強い笑みを浮かべ言う。
「悪かったな、姫さん。一緒に考えようか、無い知恵絞って、剣と嬢ちゃん助ける方法をな」
 空からは、小雨がいくつか降り始めていた。

      ◇◆

 荒れ狂う波に翻弄されながら、瑞樹は海面を漂っていた。
 いや、漂うという言葉は間違っているだろう。
 そんなレベルの話しではない、一昨日の嵐のせいで完璧に怪物そのものと化した海は、いとも簡単に瑞樹を飲みこんでいた。
 泳ぐこともままならないこの状況で、瑞樹はひたすら同じ思いを馳せ続ける。
(石川君。助けて、石川君--!!)
 しかし、思い虚しく体は冷たい海へと沈んでゆく。
何度も何度も手をかくが、それも海水を撫でるに留まる。
藁をもすがる思いの瑞樹は、自分の方向に飛んできたため反射的に手にした日本刀を握ったままだ。
もう何度海水を掻いただろうか、そろそろ体を動かすことも萎えてきた。
冷たい海水が確実に体を蝕んでくる。
もはや持っている意味もない邪魔なだけの日本刀を、ぎゅっと、強く握り締める瑞樹。
握ったところで何かが起こるわけでもなく、意識は次第に遠くなり、
(い、し……か、わ……く--)
 それを最後に、彼女の意識は途絶えた。

第五章『悪戯な出会い』

 海から砂浜へ、そしてまた海へ。打ち寄せる波に打たれ、剣はその目を覚ました。
 全身が麻痺していて、痺れるような感覚と圧迫感しか残っていない。服が濡れているためか、恐ろしいほど体が重く動かすことさえ億劫になってくる。
何より記憶が曖昧だ。
自分がなぜここにいるのか、なぜ倒れているのか、なぜ全身がこんなに濡れているのか、思考がはっきりしないまま、剣は考えることも億劫にとりあえずその身を波が来ない砂浜まで持っていくべく立ち上がろうとする。
だが力が入らず、またその身を海水へと沈めることとなった。
仕方なく這うように体を砂浜まで持っていく。波が荒れているため今の剣にとっては結構な距離を移動することになったが、その間すっかり曖昧になった記憶を取り戻すことが出来た。
どうやら自分は奇跡的に、あの荒れ狂う波から打ち上げられることが出来たらしい。
「朝倉さんは--」
 そう呟くと当たりを見渡すが、視界の端にバイクの残骸が見えるのみで自分のほかに人影は見当たらなかった。
「くそっ……」
 それだけ確認すると、剣は仰向けに倒れる。見上げた空は曇っていて小雨が少々降っている。
まるで自分の今の心境を代弁するかのように、灰色から黒に近い色にまで、意外と色彩に飛んだ色を帯び、暗雲が広がっていた。
 ……いっそのこと、灰色一色であってくれれば良いものを--。
 どうでもいいがそんなことを思ってしまう。
蒼い光についての疑問、その光を放っていたひったくりとの戦闘、海に飲まれたことによる疲労、瑞樹に対する安否の不安。
そんな、いろんな思いと感情が入り混じった自分の心境を見せ付けられているようで、その思いはさらに暗鬱なものへと変わっていく。
 ……何で俺だけ助かってんだよ、朝倉さんを巻き込む形で落ちといて、男の自分がこの様だ。体力的に自分より劣る朝倉さんは--。
 一瞬そんなことが脳裏をよぎる。が、どうしてもそれは受け入れられなかった。何よりまだ諦めたくない。
 今ある状況から判断すればそれが出て当然の答えなのだが、剣はそれを拒絶する。そして、後悔と怒りでそれを塗りつぶすかのように剣は吼えた。
「何俺だけ助かってんだよ!!」
 両手を硬く握り。
「朝倉さんは関係ないだろ!? 何で彼女がこんな目に合うんだよ! 何で、なんでだよ!」
 思えば最近自分は驚いてばかりいた。何も知らずにただ驚いてばかりいた。
 自分には関係ないと思っていたのに気付けばこの有様だ。今までのうのうと暮らしてきた自分にとって、それは仕方が無いことかもしれない。
どうしようもないことなのかもしれない。急にこんな状況に追いやれた剣を、誰も責めることは出来ないだろう。
 しかし、あの時。
……ひったくりとの交戦のとき、もっと自分が考えて動いていれば瑞樹まで巻き込むことは無かったかもしれない。
と、誰よりも剣はそう感じ、自分を責めていた。
 それを考えると剣はどうしようもない後悔の念に押され、力の入らない体を硬くしながらも吼えた。
「ちくしょう……! ちくしょぉぉぉぉぉ!!!」
 その言葉に答える声が一つ。

--貴様、力を欲するか?

「え?」
 急な問いかけに吃驚し、首だけを動かし辺りを見渡すが、さっき見た通り自分の見える範囲では誰も確認することは出来ない。
 空耳か、と剣が思い始めたその時、

--聞け。己を無力と嘆く少年よ、
貴様に力を与えよう。
我にその身をゆだねるならば、
望む力を与えよう。
常に欲する人間よ、
手にするならば覚悟せよ。
その意思、
その血、
その体、
すべてを我に捧げると。
善あることを、
悪あることを、
何より人であることを、
全てを捨てると、
覚悟せよ--

 聞いている者をそれだけで自分は格下であると認めさせるような、そんな地響きのように太い男の声に剣は言葉を失った。
 正確には声を発することが出来ない。
体の自由は既に無く、しかし、かろうじてだが意思はある。
自分の制御下から離れた体は、ゆっくりと立ち上がった。
 動かすことさえ億劫だった自分の体が動いたことに驚きつつも、剣は目の前に広がる光景に更に驚くこととなる。

 ……馬鹿な! なぜこんな所にこんなものがあるんだ。
 
ゆっくりと、自分の制御下に無い体が進むその先には、さっきは気にも留めなかった、既に残骸となったバイクが一台あるのみだ。
 
 しかし、

 なぜかそのバイクから、

 いや、こちらからは見えないそのバイクの背後から


 --蒼い光が放たれていた。

      ◇◆

 そこは海か山なのか。どちらとも言えるが、どちらでもないとも言える。そんな海と山との境目に、その屋敷は存在していた。
 まるでその地が出来たその時から存在していたかのように背景と同化するその屋敷は、実際、築百年余りを誇る。
 月日が経つにつれ崩壊していく家もあるが、その屋敷は逆に年を重ねるごとにその威圧感を増していっているようだった。
木造作りだからこそ成せる業かもしれない。これがコンクリート造りならただの廃屋になっていただろう。
 そのどこか現実離れした威圧感故に近所の子供の間では『幽霊屋敷』と名高い屋敷の門前に、茂貴と冬華は立っていた。
「うっはぁー。いつ来ても威圧感凄いでー。ほれ見てみー姫さん。鳥肌たってきた」
 やたら大きい門を見上げつつ茂貴は隣の冬華に自分の右腕を見せている。
 それを一瞥しつつ冬華は答える。
「人の家を見て毎回鳥肌立てないで下さい。しかも住人の目の前でそれを披露するのも控えていただければ幸いです」
 そのやたら冷たい言いように眉をひそめる茂貴。しばし思案した後、何か思い当たる節が見つかったのか妙にニヤニヤした表情になる。
 その変化に気付き、今度は冬華が眉をひそめることとなった。
「なんですか、そのにやけ顔は。あれですか、遂に脳をやられましたか? 腕のいい精神科医を紹介しましょうか? 今なら初回得点としてどんな疲れも吹っ飛ぶ白い粉がついてきますよ?」
 なお冷たい言い方だが、茂貴がニヤニヤした表情を変えることはなかった。
 そして、その表情を崩さぬまま茂貴が言う。
「まーまー、そないに照れんでもええやないか」
 その言葉により一層眉をひそめることとなる冬華。
「私が照れる? 何を言っているのか良く分かりませんが……一体私がなぜ--」
 と、冬華の言葉を遮るように茂貴が言う。
「ふっふっふ、皆まで言うな。わかっとる。誰でも泣くことぐらいあるわなー。しっかし貴重な体験したわ。めったに見られん泣き顔やったからなぁ……」
「なっ……!!」
 その言葉に二の句が出なくなる冬華、どうやら図星らしい。
 そんな冬華に、茂貴は満面の笑みと共に右手の親指をたてて言う。
「安心せぇ、姫さん。泣き顔も可愛かったで!! もう俺の網膜と脳膜がしっかりとその姿焼き付けてもうて、勢い余って念写できてしまい--」
 と、そこで茂貴の言葉が途切れる。
 その横顔に冬華の拳が飛んできたのだ。張り手ではなく拳が。
打撃音と共に吹っ飛ぶ茂貴。地面に倒れたまま満面の笑みを浮かべている茂貴を見下ろしつつ、冬華は一人呟いた。
「記憶を無くす程の衝撃って、一体どれくらいのものなのでしょうか……」
 その誰に言うでもない呟きに答える声が一つ。
「帰って来ていきなり物騒なことを言うね、姉さん」
 答えに反応して後ろを向けば、中学の制服に身を包んだ一人の少年が立っていた。
 背中まで伸びる長い長髪に女性と見間違うほどの美形。長い手足は一見細く見えるが鍛えているのだろうことが窺えるほどに筋肉がついている。細いというより引き締まっているというほうが妥当だろう。しかしその体も筋肉質というわけではなく、見るものを魅了するかのような美しさで整っている。
冬華のことを姉さんと呼ぶこの少年こそ、瀬戸家長男、瀬戸 秋都(せと あきと)だ。ちなみに中学三年生、もっか受験勉強中。
「あら、秋都。物騒も何も、人生の汚点を脳に刻んだ男の記憶を殺そうとしているだけよ?」
「姉さん。その当て字はどうかと思うな……」
 苦笑と共に言う秋都は倒れている茂貴に一瞥やると起こしにかかる。
「ほら、茂貴さん。起きて!! このままじゃ姉さんに記憶を消されちゃうよ?」
 何度か体を揺さぶると、茂貴は小さなうめき声を上げつつ目を覚ました。
 すると、まだ意識が朦朧とする茂貴は秋都の顔を見、手を取り、
「どこぞのべっぴんさんか存じませんが、助けていただいてありがとう。お礼に今度一緒に食事でもどないでしょ--」
 と、そこで茂貴の言葉が途切れる。
 その横顔に秋都の張り手が飛んできたのだ。今度は拳ではなく張り手が。
 顔の頬を打つ破裂音と共に吹っ飛ぶ茂貴。気を失うまでには及ばなかったらしく、打たれた頬を押さえ、秋都の顔を見ると、はっと正気に戻ったかのように立ち上がる。
 それを見た秋都は遠い目をして言った。
「ごめんね、茂貴さん。でも、ほら、僕さ、そんな趣味無いから……」
「ごめんなさい。秋都。お姉ちゃん、茂貴にそんな趣味があったなんて知らなかったから---!!」
 両手で顔を覆うようにして嘆く冬華。
「なんや、凄い勢いで誤解されとるなー」
 このままではやばい、本能がそう告げると茂貴は話の流れを変えるべくここに来た目的、つまり話を原点に戻した。
「そないなことより姫さん。瀬戸家の資料室に入れてほしいんやけど」
 その茂貴の台詞に、首をかしげる冬華。
「資料室? いいですけど……なぜそんなところに? そういえばまだ聞いて無かったですよね。茂貴の案を」
 その会話に秋都が入ってくる。
「え、何の話? そういえば茂貴さんはどうして今日家に来たの?」
 問いに、茂貴は秋都の方に体を向けると真剣な顔で答えた。
「秋。今な、姫さんと大事な大人の話しょうるんや。すまんけど、ちょっと席はずしてくれへんか?」
 対しちょっと吃驚した表情を浮かべた後、照れたような顔になる秋都。
「お、大人の話?」
「せや、大事な大人の話しせなあかんねん」
 それを聞くと秋都は早口に、やはりどこか照れたようにまくしたてる。
 心なしか顔が赤い。
「そ、そうだよね。姉さんも茂貴さんも、もう17歳だもんね? そうなってもおかしくないよね。そっかー、大人の話かぁ……」
 そう呟きながら去っていく秋都はどこか上の空で、何度か壁にぶつかっていた。
「人の弟に何吹き込んでいるんですか」
 ため息混じりに冬華は言う。
「いやぁ、秋は純粋に育っとるなー。あいつからかうとおもろいんやって」
 笑いながら言う茂貴は、ふと表情を引き締めるとさきの台詞をもう一度言う。
「じゃぁ、姫さん。続きは資料室の中で話すわ。瀬戸内海周辺を記した海図が必要やからな」

      ◇◆

「で、茂貴はなぜこれが必要だと?」
 見渡す限り和一色で統一された部屋で、茂貴と冬華は大きな机の上に瀬戸内海周辺を記した海図を広げていた。
「何でや思う?」
 逆に質問で返される形となってしまい、しばし思案するような表情を浮かべる冬華に茂貴がさらに言う。
「へっへっへ〜。分からんみたいやからヒントや。一昨日は嵐やったな? で、海は荒れとる」
「えぇ。そのせいであの時、茂貴は取り乱したのですから忘れるはずがありません」
 したり顔で言う冬華に茂貴が言う。
「またぁ、余計なこと覚とらんといてぇな。まぁええわ。で、その嵐のせいで海が荒れたこと以外にもう一つ、変わったことがあんねん」
「変わったこと……?」
 嵐のせいで変わること、海図まで出したからには海に関係したことだということは間違いないだろう。 
 嵐のせいで変わること? 波が荒れること以外に何があるというのだろうか?
 尚考え込んだ様子の冬華に、人差し指を立て、それを左右に振りながら茂貴が言った。
「じゃぁ第二ヒントや。一つ、それは嵐のせいで以前に増して強くなったもんや。一つ、それは例え海の底に潜ったとしても効果の変わらんもんや。一つ、それは時にして人をあっちゅう間にq単位で移動させるもんや」
 そこまで聞いてはっとした表情になり呟く冬華。
「--潮の流れ」
 その言葉に満足したかのように茂貴が頷く。
「ご名答」
「潮の流れ。幸いここらは陸に向って流れとる箇所が多い。それに今の状況やと流れも早くて強い。もしあの二人がうまいことその流れにのってくれりゃぁ--」
 その言葉を継ぐ冬華。
「今頃浜に打ち上げられている、と?」
「せや」
 頷く茂貴にやや不安気に冬華が言う。
「言いたいことは分かりましたが、その可能性は余りにも--」
 続きを口にしたくないのか、口を紡ぐ冬華。茂貴が仕方なさそうに残りの部分を言った。
「低いか?」
 その言葉に躊躇しながら頷く。
それを見た茂貴はため息混じりに言葉を紡ぐ。
「あのなぁ、姫さん。諦めるな言うたんは、ど・こ・の・ど・い・つ・や? 確かにその可能性は低いかもしれん。けどな、0っちゅうわけやないやろ? せやから俺は諦めん。姫さんに、諦めるな言われたからには絶対にや」
 言いたいことを言い終わったのか、一人海図から瑞樹と剣が打ち上げられている可能性がある部分をピックアップし始める茂貴。
 すると横から指が伸びてきて浜のある箇所を指差しながら言う。
「ここと、ここ。それにここもですね……それぐらいでしょうか?」
 唖然とする茂貴を見ながら冬華は微笑と共に言う。
「相変わらず仕事が遅いんですよ、茂貴は」

      ◇◆

 ゆっくりと、剣はその歩を進めていた。目の前にはバイクが一台。その背後からは蒼い光が霧のように放たれている。気付いた途端、今まで感じなかったのが不思議なくらいの
圧迫感が体中を駆け巡った。どうやら自分はまだこの霊感とやらをうまく使いこなせていないらしい。
 朦朧としていた意識は歩いているうちになんとか取り戻すことが出来たが、未だに体の自由は奪われたままだ。

……一体何が起こってるんだ……。このまま歩いていけば間違いなく蒼い光の正体がわかるかもしれないけど--あのひったくりみたいに体をのっとられる可能性も大きいよな。
嫌だなぁ……まぁ、体の自由がきかない以上考えても仕方ないんだけどさぁ……。
 
そんなことを考えながらもゆっくり進むその歩みはバイクを通過しようとしていた。そこで剣は一つの事実に気付く。

……でも光がここにあるって事はひったくりの奴、開放されたってことかな?

更にもう一つ、茂貴の台詞を思い出す。
(--憑依霊も常に憑依する体求めてさ迷うとるからな)

……………俺って今、めちゃくちゃやばくないですか?
 
その誰に言うでもない剣の思考を無視するかのように、体は通過したバイクを背にゆっくりと、顔を上げた。
 そこには蒼い光を放つ、今回の事件の原因が--居るはずだった。

……あれ?
 
誰も居ない。そこには幽霊と思われる存在はどこにも見あたらなかった。しかし、ひったくりに取り付いていた幽霊がここには居るはずだ。
 その証拠に、目の前に広がる一帯では未だに蒼い光が放たれている。
 それなのに、そこには居るはずの憑依霊が居ないではないか。あるのはあのひったくりが持っていた、全身が深い漆黒の黒で統一された日本刀だけだ。どうやら流されてきたらしい。

……どういうことだ?
 思いに辺りを見回そうとするが、体の自由が利かないためそれは叶わない。
 そして、剣の意思とは別の思考を持ったかのように右手が黒い日本刀へと伸びる。と、そこで剣はひとつの可能性に思い至った。
 まるで誰かに操られているかのように体の自由が効かない。ひったくりと同じように武器を手にしようとしている。以上のことから考えられることは--
……もうしかして、……俺って既に、誰かに憑依されちゃっている?
貴重体験!? と剣が心の中で叫ぶと同時に、右手が日本刀を掴んだ。
何とも妙な気分だ。自分の思考を遮るように自分の右手が動くなんて……
などと冷静に思考できるのは自分の体がどこか他人の物のように、いわば第三者の視点で見えているからか--
と、そこで今自分が日本刀を手に取っていたことを思い出す。
 自分が既に霊の類のものに憑依されていると言うのなら、これから何らかの行動を起こすはずだ。あのひったくりのように……。しかし、
 ……何ともない?
 予想に反し、自分の制御下にない体は行動を起こそうとする気配はない。
 ……どういうことだ?
 そう、心の中で呟く剣に話しかける声があった。
 否。響いてきた。
 脳に直接。
「何!? --貴様。霊力保持者か!?」
「は? ん、あぁ、そんな大袈裟なものじゃないけど一応は視える人かな--って、声出てるし!!」
 いきなり質問されたため、喋れないことも忘れ反射的に答える形となったが声を発することが出来た。それどころか、体の自由まで戻ってきているではないか。
「そうか、貴様目覚めたばかりだな? 故に知覚出来ずに途中まで洗脳し、導いてしまったのか……」
 嘆いているようにも聞こえるその物言いに眉をひそめながら、剣は問いを投げかける。
「何一人で納得してるんだ? って、そんなことより何所から話しかけてきてるんだ? 隠れてるなら出てこいよ。霊能力保持者か!? 何て言ってるんだから俺のこと操ってた幽霊か何かなんだろ! 何で自由にしたか分からないが、こっちはてめぇに言いたいことが山ほどあるんだ。聞こえてるんならさっさと出て来い!!」
 日本刀片手に叫ぶ剣。しばし沈黙があった後、答える声があった。嘲笑ともとれる笑いと共に。
「はっ……。間抜けもここまで来れば才能だな。我を手にしながらも出て来いとは……、無理な注文をする輩もいたものだ」
 まさか返事が返ってくるとは思っていなかった剣は少し驚いたが、すぐに太い男の声の言う意味について考え始めた。
 そして、瞬時に言葉の意味を理解するとゆっくりと、日本刀を持った右手を目の前に上げながら言う。
「ま、まさか--」
 少々驚きの入り混じった声を遮るようにして、男の声が聞こえた。そして今度は分かる。響くようなその男の声が、一体何所から発せられたものなのかが。
「気が付いたか……」
 その声の発信源である右手を見ながら剣は確信する。
 --こいつが元凶だ。

 今までバイクの近辺で発せられていたと思っていた蒼い光が……。
 まるで溢れ出るように、鞘に収められた日本刀から発せられていた。

      ◇◆ 
 
 なぜかは知らないが、自分は今声が出せて体の自由も戻ってきている。洗脳がどうとか言っていたところを聞くと、自分にはそれが効かなかったみたいだ。なら事は自分に有利に進んでいると判断しても良いだろう。
なぜそうなったのかは分からないが、それはこれから聞き出せばいいと判断する。
意外と言えば意外だったが、不確定だった相手の姿が確認されたことで、フリーズしていた剣の頭は徐々に回転の速度を上げていった。
 ……過去の残滓とか、映像とかいうレベルじゃないよな、もう。
「それにしても、鈍いな貴様は」
 ……喋ってるし。
「どうした? 遠い目をして」
 と、馬鹿にしたような口調で問うてくる日本刀に剣は疑問を口にする。
「いや、何でもない。ところで、あんたは一体何なんだ? 俺の知ってるの本当は普通喋らない」
 剣の質問に即答する日本刀。
「貴様に説明する義理は無い。分かれば我を手放し何所へでも立ち去るが良い」
 その随分勝手な物言いに微妙にムカッとくる剣。この荒れ狂う海に落ちるはめになった原因を作った奴に『義理はない』などと言われて頭にくるなと言うほうが無理だ。
「な、勝手なこと言いやがって。分かってるんだろ!? お前のせいで俺は死にかけたんだぞ。知覚がどうとか洗脳がどうとか、それにあんたが何なのか、ちゃんと説明するまで俺は死んでも離さないからな!!」
 剣の言葉を聞いてため息混じりに日本刀が言う。
「……面倒な者に拾われたものだ」
 もし今こいつに体があったなら、両手を顔の位置まで挙げ肩をすくめると、首を左右に振りながら『ヤレヤレ』とでも言っているような、そんなアメリカンなジェスチャーを交えていたに違いない。そんな台詞だった。
 不覚にもその状況を想像してしまい、またもやムカッとくる剣。
「ひ、拾われたって……俺だって拾いたくて拾ったわけじゃねーよ! あんたが無理矢理拾わせたんだろうが! 被害者面するんじゃねー!!」
 その怒号に日本刀はさらっと返してくる。
「我に顔は無い。故に被害者面など出来ないのだが……、幻覚でも見たのか? いくら壊れようとかまわんが奇怪な行動をとり始める前に我を手放せ」
 その時、剣の中で切れてはならない何かが切れた。
 静かに肩を小刻みに振るわせ始める剣。怒りに体が反応でもしたのか、
「ふふふ。ふっふっふ--」
 否、笑っていた。剣は怒りの余りその表情が笑みへと変化していた。その変化が分かるのか日本刀が怪訝な声をよこしてくる。
「どうした、壊れたか。面倒な、人間とは何と精神の弱い生き物か……」
 尚毒舌な日本刀に剣は陰鬱な声で喋り始めた。
「ふふ、ふふふふ。分かってないみたいだなぁ。今自分がどな状況下に置かれているのかが……」
 言葉と共に日本刀の鞘を抜く。
銀色に輝くその刃は見ているものを魅了する程に美しいが、今の剣にそんなものは見えていない。
 右手に刀、鞘は捨て、左手にはなぜか十円玉を握り剣は暗い声で呟く。
「一生消えない落書きを刻んでやろう……」
 台詞の意味するところが分かったのかその陰湿かつ狡猾な剣の切れっぷりに、日本刀から放たれる声は落ち着いてはいるがさっきまでの毒舌はなかった。
「待て。まず落ち着け少年よ。話し合おうではないか。忘れたか? 我らは意思と言葉を持っている」

      ◇◆

「これで何箇所目や?」
 黒いシルバーセラフに揺られながら座席に深く腰掛け問う茂貴の顔は、少々疲れ気味だ。
「6箇所目です」
 答える冬華は涼しげな声をよこしてくる。しかしその顔は決して余裕があるとはいえない。
 二人は今、剣と瑞樹が打ち上げられている可能性があると思える場所を回っていた。
 冬華が言った通り今の場所で6箇所目。そこには二人の声と表情を見聞きすれば分かる通り剣と瑞樹の姿は見当たらなかった。
 時間からして、潮の流れに乗っているならば既に砂浜にいるはずである。
 残る箇所は全部で3つ。しかもその内の一つは、今時分たちが居る場所から結構離れている。もし打ち上げられているならば衰弱しているであろう事が考えられる今、出来るだけ早く見つけて介護したほうがいい。
それを考えると、実質残る箇所は2箇所といえるだろう。
『…………』
 自然と車内に沈黙が降りる。
「冬華様。着きました」
 と、車を運転していた男が口を開いた。
「わかりました」
 それだけ言うと二人は車を降り砂浜へとその歩を進めた。心なしかその足どりは重い。
 今二人の視界に映るのは荒れる海、続く砂浜、暗雲広がる空、バイクの残骸、日本刀片手に一人怒鳴っている剣。
 それだけ確認すると冬華と茂貴は、またダメだったか…とでもいうようにため息をつき、車に戻ろうと振り返ると同時にその足を止めた。
『…………』
 流れるのは、今までのとは種類の異なる微妙な沈黙。遠く離れて背中越しに剣の罵倒。
「なぁ、何で剣はあないに元気なんや?」
 なぜか声を潜めて言う茂貴。
 答える冬華の声もなぜか囁き声だ。
「わかりません。しかも何やら凶器片手に一人で怒鳴っていますね……」
 二人の頬を、つっとつたう冷たい汗。
 ちなみに剣は今、十円玉片手に不気味な笑い声を上げている。
「まさか海に飲まれたショックで……」
 その冬華の言葉に茂貴が続く。
「……壊れたんか?」
 その言葉と同時に空を見上げる冬華と茂貴。
「姫さん。例えどうなろうとも、俺らは剣の友達や……」
「えぇ、もちろんです」
 遠くを見ながら言う二人に背後から呼びかける声が二つ。
「あー! やっぱりシゲと冬華先輩じゃないか!!」
「この二人も力を持っているな……」
 二人が遠くを見つめている間に背後までやって来ていた剣が、鞘に納めた日本刀を持ち、その顔には再会を喜ぶ笑みを浮かべ立っていた。
 この時、茂貴と冬華の背中に冷たい汗が伝ったのは言うまでもない。
 ゆっくりと、まるで機械のように硬い動きで振り返る二人。冗談のようなやり取りをしていたが二人は内心緊張していた。遠くから視た剣から蒼い光が放たれていたからだ。
 見たところ、あのひったくりの様に体をのっとられている様子は無かった。しかし、警戒することに越したことは無い。そして何よりも二人を警戒させたのは背後から聞こえてきた声が二つあったことだった。
 しかもこちらに霊感が備わっていることが分かったような発言だ。
「いやー剣。無事で何よりやったなー」
「えぇ、本当に。浜に打ち上げられるなんて奇跡に近いですよ? 体のほうは大丈夫ですか? 頭など打っていたら大変ですよ?」
 完全に振り返ってもそこには剣一人しか居ないことを確認した冬華と茂貴は剣が手に持っている日本刀に注目する。
「ところで剣君。さっき私たちに話しかける声が二つ聞こえた気がするのですが……何より、ご自分から蒼い光が出ていることはご存知ですか?」
 そう一気に言う冬華の顔はあくまで微笑。対しその言葉に動きを止める剣。その表情は口元が引きつり苦笑いになっている。
「そのことなんですけど―――」
 そう置くと剣は右手に握ってある日本刀を前に突き出し言う。
「こいつから放たれています」
 冬華の二つの質問の内一つしか答えていないが、茂貴と冬華の視線が黒塗りの日本刀へと集まった瞬間、残りの答えが出た。
「貴様、こいつ呼ばわりとは失礼極まりないな。我とて歴とした黒鋼(くろがね)という名が存在する」
「!?」
 その地響きのような男の声に目を見開く冬華と茂貴。
「に、日本刀が。日本刀が――!?」
無理も無いだろう。いきなり目の前の日本刀が言葉を発したのだから……
 驚き覚めやらぬ震えた口調で茂貴が言う。
「日本刀が、自分も貴様呼ばわりの癖に礼儀語っとる……」
 続く冬華も微笑を浮かべたまま人差し指を立てると、
「まさに『他人の振り見て我が振りなおせ』とはこのことですね」
「って、驚くとこそこかよっ! しかも何気に嫌味だしそれ!!」
 そんな剣にしれっとした口調で答える茂貴。
「ん? 別に驚くほどでもあらへんで。そこの黒鋼、やったっけ? 自分、九十九神やろ?」
 その茂貴の問いに肯定の意を表す黒鋼。
『如何にも。我は九十九の神となり、人の言葉を発することが可能となった』
 と、剣が疑問の声を発する。
「あのさ、九十九神って、――何?」
 その言葉に苦笑気味の茂貴。そないなことも知らんのか、とでも言いたそうだ。
 その剣の問いに答えるのは冬華。
「九十九神というのは、自分の役割を終えることが出来ず捨てられていった物や長い年月放って置かれた物が魂を宿した状態のことです。しかし捨てられた物にすぐに魂が宿るというものではなく、その名の通り九十九の年月が必要といわれています。しかし、妙ですね――」
 口を右手で覆うようにして考え込む冬華。
「妙って何がや?」
 そんな茂貴の問いが聞こえていないのか独り言のように冬華が続ける。
「九十九神は意思は持っても他の体を乗っ取る程の力はないはずです。なのにあの男はどうみても憑依された状態でした……しかし今の剣君はその様子が無いです。一体どういうことでしょうか……」
 そんな冬華の独り言ともとれる呟きに答えたのは意外にも剣だった。
「そんなの答えなんてすぐ出るじゃないですか」
 茂貴も冬華も驚いたように剣を見る。その顔には一体なぜ? と書いてあるようだ。
 そんな二人を見た剣は黒鋼に一瞥やると声を低く呟いた。
「本人に聞けばいい。――答えてくれるよなぁ?」
 その片手には言われずもがな十円玉が握られている。
 冬華と茂貴も剣の言わんとしている事を理解したのか、意地悪げな笑みと共に口々に言い出す。
「そうですね、その立派な刀身に『なまくら刀』とでも記入しましょうか」
「んじゃ、俺は鞘のほうに『アホの入れもん』ゆうて書いとこう。鞘に収められるだけでアホの称号を手に入れられるで」
 愉快そうに案を述べ始める二人。本気でやりかねない雰囲気を放つ二人に気圧されたのか、冬華の持った疑問に答える黒鋼。
その声は威厳こそ失われていないが何所となく楽しそうな、まるで会話を楽しんでいるかのような口調だった。
「……そこの二人はこの者と違って話せそうだな。なぜ憑依できるか、それは我が妖刀だからに他ならない。我は妖刀。近づけばその手に柄を握りたい欲求に駆られ、手に取った者の殺意を極限まで高めた上で、人並みはずれた力を与える。元々妖刀とはそれだけのものだ。しかし、九十九神となった今、我は意思を持ち、それを己の意思で行うことが出来るようになっただけのこと」
 そこに話がわからない奴、と遠まわしに言われた剣が呟く。
「そんなこと言って、今俺に捕まってるくせに」
 そんな剣の呟きにも答える黒鋼。意外と律儀な性格なのかもしれない。
「それは貴様が霊能力者だからだ。霊力を持つ者は我の洗脳に対し抵抗力を持つ。本来ならば貴様らが我を知覚できるように、我も力を持つものを知覚することが出来るのだが……、何分貴様はその力が薄すぎた。気がつかず洗脳してしまい、我を手にすることにより霊力が完全に目覚めてしまったようだ……」
 その黒鋼の言葉を静かに聞いていた茂貴が静かに口を開いた。
「なるほど。妖刀の九十九神化……、おもろい実例やな。しかもいくつかの偶然が重なってあんさんは今俺らの手の中や。――いっぺん俺らも襲われとるし、放っておくことはできへん。悪いけど、破壊さしてもらうで」
 そう言い剣の握る黒鋼に手を伸ばす茂貴。
 と、黒鋼が多少困惑したように喋りだす。
「待て。何の話だ? 我は意思を持ってから殺意は抱いておらん」
 その言葉に茂貴は手を止める。眉根を寄せつつも追及の言葉を口にする。
「今更しらばっくれても無駄や! 自分あの時ひったくりの体つこうて俺らを殺そうとしとったやないか!!」
 その茂貴の台詞に更に困惑した様子の黒鋼。
「貴様らを殺そうと? ひったくりの体? どういうことだ。我はたった今貴様らの存在を知ったというのに、どうして殺そうとすることが出来る――まさか……!?」
 黒鋼が何かに気付くと同時に、いままで黙って話を聞いていた冬華も気付く。
「色が、違う…?」
 その言葉に最初に反応したのは剣だった。
「え? ……あ!! どうして。そんな、まさか――」
 遅れて気付いた茂貴もその目を見開き、食い入るように黒鋼を視ている。
 そんな三人の思いを確認するかのように、黒鋼がゆっくりと告げた。
「どうやら貴様らは会ったみたいだな。我の兄妹刀にして、同じく妖刀の、白鋼に――」

第六章『過ぎ去った時』

「まいりましたね」
 海岸沿いを走る車から流れる景色を眺めながら、冬華はため息をつくように呟いた。
「何がや?」
 そういう茂貴も外の景色を眺めている。
「いろいろです」
「いろいろか」
「はい」
「さよか」
 しばしの沈黙。
 剣を自宅まで連れて行った後なので今車内には冬華と茂貴しか居ない。正確には運転手もいることには居るが、会話に入ってくることはまず無いだろう。相変わらず広がっている暗雲を眺めながら訥々と冬華が言葉をつむぎ始める。
「剣君。大丈夫でしょうか?」
「大丈夫やろ。それにしゃーなかった思うで? 黒鋼を手にした影響である、身体能力の向上のおかげで今は海におぼれた疲労をカバーできとんやから。それに黒鋼自身も言っといたしな『瀬戸家は好かぬ』ゆうて」
 剣を自宅まで送った際、黒鋼を瀬戸家で保管しておくと冬華が言ったのだが、黒鋼自身がそれを拒否。しかも、剣の体力を自分の力で保っているなどの話も聞かされ、無理やり連れて行くことも出来ず、結局剣が黒鋼を持ったままその場を分かれることとなった。
 茂貴の言葉を聞いた冬華は首を横に振りながら言う。
「違います。黒鋼のことではなく、朝倉 瑞樹さんのことです。私はその方のことをよく知りませんが、剣君は親しかったみたいですね?」
 その言葉で冬華が何を言いたかったのかようやく理解する茂貴。視線は窓の外に向けたまま、茂貴は声の調子を変えることなく言う。
「大丈夫やろ」
 その返事に冬華は顔を茂貴のほうに向けた。
「それは私たちだからできる考え方でしょう? あの後、砂浜を全部見て回った後の剣君の顔を見なかったのですか?」
 しばしの思考の後、茂貴が口を開く。
「それこそしゃーないやろ。それに俺らは今自分に出来ることは全部やった。その結果がこれや。それで剣がショック受けるんはしゃーないし、俺らが何ゆうても今の剣には届かんのもまぁ、……しゃーない」
 そこでいったん言葉を切ると、顔を冬華のほうへ向け言う。
「とにかく、今はそっとしとくのが一番や思うで。心配するのはけっこーな事やけどな。そのせぇでもしもの時なんもしてへんかった。じゃぁ、それこそなんもならんやろ?」
 後半は両肩を持ち上げるようにして言う茂貴。冬華はしばらく茂貴を見ていたが、また視線を窓の外に向けると言った。
「そうですね」
 茂貴はまだ冬華を見たまま続ける。
「せやったら調べるでー。姫さんのご先祖さんはやんちゃやっとったみたいやからな。黒鋼の奴姫さんと初対面なのにあれはないやんなぁ『瀬戸家は好かぬ』て。そーとー嫌われとるみたいやで」
 冗談っぽく言って見せるが笑ってくれなかった。変わりにはっきりした声で顔は外に向けたまま冬華は宣言する。
「茂貴。私は、やれることは全てやろうと思います」
 その真剣な口調に圧される茂貴。何か冗談でも言ってやろうかと思ったが、思いとどまる。
 なぜなら、、窓の外を見る冬華の横顔が、何かを決意したように見えたから……

      ◇◆

暗闇。天井にある電灯は、仕事を与えられることなく沈黙を守っている。時刻は深夜零時を回ったところ。都会ならいざ知れず、山と海とに囲まれたはっきり言えば田舎なこの瀬戸内海周辺では、この時間帯になれば人の気配はまるでなくなってしまう。
 故に視界は闇しか捉えず、耳には雑音も入らない。それでも部屋の何所に何があるのか分かってしまうのは、住まううちに体が覚えてしまったのか、それとも窓から微かに入る蒼白い月明かりのおかげなのか。
 まぁ、どちらにしても今の彼には関係ないことだろう。窓際にあるベッドの上。
 剣は家に帰ってきてから約五時間。闇の中でただ天井を見上げていた。と、ふいに闇の中。この部屋には五時間ぶりに声が響いた。
「貴様。いつまでそうやっているつもりだ」
 響くようなその声にも剣は何の反応も示さない。

--あの後、つまり剣と冬華たちが合流した後。三人は念の為残り二ヶ所になった砂浜も廻ってみたが、そこに瑞樹の姿はなかった。
 海は荒れ、時間からして潮の流れに乗っていれば既に打ち上げられているはずの砂浜にその姿がなかったのだ。つまりそれの意味するところは……自然と車内に沈黙が流れる。その中で剣の落ち込みようはひどいものだった。茂貴と冬華はそんな剣にかける言葉がみつからないのか、やはり気まずそうに黙っている。聞こえるのは車の排気音と三人の静かの息使いのみだ。
 やっと車内に音が響いたのは、剣の家の前に車が着いたときだった。その声の主である冬華で、その黒鋼は瀬戸家で保管しておくので、剣君は家に帰って早く休むといいといったものだった。しかし黒鋼の、『瀬戸家は好かぬ』の一言でこれを断念。無理やり連れて行っても良かったのだが、これも黒鋼の、『我を手にすることによって海より打ち上げられた疲労をなくしているというのに、今こやつから我を奪えば--』という言葉で断念せざるを得なくなり、現在に至る--。

 暗闇に響いた黒鋼の声に剣は何も答えない。黒鋼も返事を期待していなかったのかそれ以上何か言う気配はない。

 さぁぁぁぁぁ--

 沈黙で支配された部屋に微風に揺れる木々のざわめきと静かに振る雨音が響く。それがおさまり、また沈黙が訪れた時、ようやく剣が口を開いた。
「わからないんだ」
「何がだ?」
呟くようなその台詞に即座に答えながら黒鋼は思う。
(朝倉とか言う女の死を認めることが出来ないのだろう)
 剣の手にある黒鋼は、茂樹たちとの会話を聞きだいだいの事情は察している。思いに対し剣が口にした言葉は意外なものだった。
「朝倉さんはあんな海に落ちて俺みたいに砂浜に打ち上げられなかったんだ。それが何を意味するかくらい分かってる。分かってるはずなんだけど--」
 そこで剣は言葉をいったん切った。そこに感情の色はない。
「俺は何でこんなに普通で居られるんだ? 何で涙も出てこないんだ? なぁ、何も感じないんだ。そう、何も……黒鋼、どうして俺はこんなにも普通にしていられるんだろう--」
 たずねられた黒鋼は思う。
……こんなに長時間も暗闇の中天井を見上げ続けて何が普通か、と。
……己で気付いていないだけで涙が出ぬほどの衝撃を受けているのだろう。本当の悲しみとは、後から波となって押し寄せてくるものである。失うことよりも、人は不在の重みに耐えられない生き物だ。小僧の得る悲しみは、これからだろう。
その旨を伝えようとした時、剣が、はっ、と何かを思い出だしたように起き上がり声を上げた。
「なぁ、黒鋼の兄妹刀の白鋼って言ったっけ? そいつも、黒鋼と同じくらいの力を持ってるのか?」
 剣の質問の意図するところが分からず、とりあえず問われるがままに答える黒鋼。
「あぁ、白鋼は我と同等の力を持つ妖刀。力の差異はほぼないと思われるが……、それがどうした?」
 それがどうした? と言う黒鋼の問いには答えず、剣はさらに言葉を続ける。
「じゃぁ、白鋼を手にしても身体能力が上がるわけだ……。それって、どれくらい上がるんだ?」
「どれくらいに、と問われても……例えば? 貴様の言う例が可か不可かで答えよう」
「じゃぁ……」
 そこで、息を呑みゆっくりと問う剣。
「あの荒れた瀬戸内海を泳ぐ事は可能か?」
 相も変わらず即答する黒鋼。
「可能だ。術者が沈めば手にされている我らも同じ運命を辿ることになるからな。おそらく意地でも岸へ向かうだろう……貴様、泳いで朝倉とかいう娘を助けに行こうなどと思っていないだろうな? そんなことをしてももう遅いぞ」
 嫌な予感に心配する黒鋼の言葉を聞き、剣はさっきまでと同一人物とは思えないくらいの明るい声で答える。
「あははははは。そうか、そうなのか。じゃぁ、大丈夫じゃないか。俺が泳ぐ? まさか、そんなことはしないさ。それに、その必要もないみたいだ」
 さっきから剣の言葉の意味が分からず、混乱している黒鋼は、痺れを切らしたように問うた。
「一体どういうことだ? 何を言っている」
 問われた剣は、笑いすぎたためか目じりに涙を浮かべながら答えた。
「見たんだよ。白鋼との交戦で海に落ちる瞬間。一緒に海に落ちた朝倉さんが、白鋼をつかんでいるのを」
 説明しながらも安堵に溢れた笑顔のまま、目じりに溜まった涙を拭こうともしない剣。そんな剣の右手、短いながらも今の剣の現状を知るには十分な説明を受けた黒鋼は、冷静に通告する。
「成程。確かにその娘は助かっただろう。しかし、忘れるな。その朝倉とか言う娘。白鋼を手にした時点で自我を奪われているということを……。同時に、人を滅する殺戮者になったということも、なにより、その--」
 黒鋼の警告とも言える言葉を制するように、剣が言葉を口にする。
「わかってる、わかってるよ。そんなこと……。ただ、もう少しだけ、浸らしてくれ。朝倉さんが生きているって分かった、この感情に--」
 再びベッドに倒れこみ、笑顔で言う剣の頬に、目じりに浮かんでいたそれとは種類の異なる涙が幾筋も流れていた。

      ◇◆

 剣が瑞樹の生存を確信してから一時間。つまり現在時刻、深夜の一時を少し経過したところ。その深夜と証するに十分な時間に剣は瀬戸家の大きな門の前に立っていた。目の前では大きなワゴン(剣の認識する限り三台目の車)に既に乗り込んである茂貴と冬華が見える。というのも剣が朝倉生存の余韻に浸った後、冬華に連絡した結果、冬華が急に焦ったように集合を命令したためだ。
 どうやら茂貴と冬華が何かを調べていたらしいということは、剣が瀬戸家に到着し、そこに茂貴がいた時点でなんとなしに気付いたことだが、なぜ焦ったように自分を招いたのかは分からないまま現在に至る。
 と、冬華が剣の姿を確認すると急ぐように声をかけてきた。
「剣君。はやく車に乗ってください。急を要します」
 冬華に急かされ、わけが分からないまま大型のワゴンに乗り込む剣。中では既に茂貴が乗っている。と、その茂貴の奥にもう一人、見慣れた人物がいることに気付く。
「やっときたんですねー。石川君」
「…………」
 車に乗り、座りかけたまま硬直する剣。無理もないだろう。なぜなら、
「……なんで笹井先生がここにいるんですか」
 言葉通り、笹井が座っていたのだから。なにやら数十枚に及ぶ紙の束を持っている。
「なんや、剣は知らんかったんか? 笹井ちゃんのこと」
「笹井ちゃんって……」
 さも当然のように担任をちゃん付けで呼ぶ茂貴に引きつった笑みを返す剣。その表情のまま、とりあえず自分はきちんと座ることにする。冬華も後から続いて座席に腰掛けた。
「さて、時間もないのでさっさと現在の状況を説明します。まず笹井は私の、いわゆる御付と言いますか、執事と言いますか……、まぁそんな感じです。学校にいるのも私の近くにいるためです。詳しい説明は必要がないので省きますが一つだけ、今何故その笹井がここに乗っているのかということを。実は黒鋼の、『瀬戸家は好かぬ』という発言から、昔瀬戸家と繋がりがあったと推測できたのでそれを笹井に調べてもらっていました。私もまだ詳しい説明は聞いていないので、その解説のために同乗してもらっています。ちなみに剣君に早急に来るようにとお伝えしたのは、その笹井の情報に、ちょっと放ってはおけないものがありましたので……」
 と、最後の部分で語尾が下がっていく冬華。彼女にしては珍しいことだ。そんなことを思っていた剣の思考を遮るようにして笹井が口を挿む。その口調は自慢気だ。
「先生の情報収集能力はちょっと凄いですよー。この短時間でくろがねさん達の関係から性質まで調べちゃいましたからねぇー」
 えっへん、とでも効果音を付けたくなるような口調でそう言ってのける笹井。
「って、笹井ちゃん黒鋼の発音おかしいで……」
 苦笑しながら言う茂貴。
 ……あぁ、何故だろう。不思議と笹井先生がここに居ることに違和感を感じない。
 どこか微妙にずれているそれぞれの思考。しかしそれに気付くものは誰もおらず、笹井は自慢気な態度のまま報告を始める。手の持った大きな幾重もの用紙を取り出しながら。
「えーっとですね、まず瀬戸家との繋がりですけど--」
「ちょーっとまったー!!」
 急に叫びだす剣。笹井はそんな大きな声にびくっとなり両手で頭を抱えている。
「なんや? えらい大きな声出して。見てみい。笹井ちゃんがびびっとるやないか」
「なんや? じゃねぇ。なんだそのいかにも紙芝居ですって感じの紙は!!」
 笹井が持っていた紙は分厚い形紙で、クレヨンのようなもので色とりどりに塗りたくられていた。さっき一瞬見えた一枚目の表紙には、『瀬戸家とクロ&シロの怪しい関係』と、文字が大小さまざまに描かれていたのが確認できた。
「紙芝居ですって感じやのうて、紙芝居やで、紙芝居。笹井ちゃんの情報報告はこれやないとあかんねん」
 さも当然のように言う茂貴。
「剣君。余り時間がないのでつまらないことで騒がないで下さい」
 冬華にまで釘を刺されてしまった。いまいち状況がつかめないままとりあえず謝っておく剣。
「あぁ……、すいません。笹井先生、続けてください」
 ……俺か? 俺がおかしいのか!?
 心の中で叫んでみるが当然答えてくれる声はない。黒鋼に関しては一言も喋ろうとしない。
「えう、もう良いですか? 始めますよ? えーっと、ちなみに飴とかはないので我慢してくださいねー」
 ゆったりとした笑顔でそういうと、幼稚な絵で埋め尽くされた紙をゆっくりとめくりながら笹井の状況報告兼紙芝居が始まったのだった。

      ◇◆

「むかぁーし、むかし。時は現在より数百年前。東京がまだ江戸と呼ばれていた時代。そんな時代の瀬戸内海沿岸にある小さな村に、一人の鍛冶職人が住んでいました」
 そんな笹井の真剣な口調から紙芝居は始まった。
「その鍛冶職人は高い霊力を保持していました。その者が打った刀は時が経てば全てが妖刀と呼ばれる類のものとなり、それを手にした者は殺戮を繰り返した挙句、その誰もが悲運の死を遂げたという」
 普段の彼女からは想像できないほど真剣な口調で物語を語っている。剣はそんな笹井の声にすっかり聞き入ってしまっていた。恐らく冬華と茂貴もそうだろう。黒鋼に関しては何を考えているのかちょっと想像できない。自分の誕生を語られていることには気付いているだろうが、その心中を察するには彼のことを剣は知らなすぎた。そんな剣の思いに関係なく、笹井の語りは進行していく。と、ここで紙は二枚目へ突入。
「その鍛冶職人は確かに名の売れた職人でしたが、同じ村に住む村人たちからは恐れられる存在でした。なぜなら、妖刀とは打ち手の心の影響を受け出来上がるものだからです。すなわち、その職人の打つ刀が全て妖刀になったというのなら、その鍛冶職人は明らかに邪心の持ち主と言えるからです。このままではいつ自分たちの身に危険が及ぶか解らないと、村人たちは職人に、村を出て行くように迫るまでとなりました」
 そして紙は三枚目へ、そこには村人たちが職人に詰め寄る場面が描かれていた。
 ……どうでもいいけど、あの絵はどうにかならないのか。
 そこに描かれる村人と職人は、子供が書いたような幼稚なものだった。声に出していいはしないが、剣は心の中でため息を吐くと再び視線と耳を笹井へと向ける。
「しかし、職人は頑としてそれを受け入れようとしません。それどころか家に閉じこもり出てこない始末です。そこで村人たちは考えました。いくら言っても出て行かないのなら仕方がない、忍びないが殺してしまおうと。……昔の人は恐ろしいこと考えますねー。言うこと聞かないなら殺してしまえー、ですよ?」
 物語ではない笹井の言葉にくすりと笑うと、冬華が言った。
「もしその時代に笹井が生きていたのなら、恐らく数回は殺されていますね」
 ……笑顔で言う冬華先輩が怖い。
 冬華の遠まわしな、日ごろの行動に対するものであろう忠告を受け笹井は、
「そうですねー。先生はこの時代に生きていてよかったですよーって思いますねー」
 ゆったりとした笑顔と共に首を傾ける笹井。
……気付いていないあたり笹井先生も侮れない。ってゆーか、冬華先輩に対しても先生口調なのか!? この先生に怖いものはないのか!?
剣の頬を汗がつたう中、笹井は物語を進行していく。
「さてさて、蒼白い月が夜空に浮かぶ肌寒い夜。村人たちは手に武器にりそうなものを持ち寄り職人のも元へと集まっていました。一週間ほど職人は鍛冶場に籠ったままでしたが、時折聞こえる物音に、まだ中にいるということは明白でした。殺してしまおうと提案したはいいものの、相手は曲がりなりにも刃物を精製する職人。しかもそれが妖刀とあればなおさらに危険であると思われます。故に村人たちは三十人ほどいる村の男手を全て集め、いわゆる集団リンチ(別名フクロ)で職人さんをボコってやろうと考えたわけですねー」
 物騒な台詞と共に、三名目の紙を取り出す笹井そこには二枚目と同じ幼稚な絵で描かれた村人たちが武器を片手に集まっているシーンが、描かれていなかった。
「あー先生。何でこのシーンだけ妙にリアルなんですか。村人たち目血走ってるし。武器も妙に光ってますよね」
 引きつった笑みと共に言う剣に笹井は自慢気に答える。
「よく聞いてくれましたねー石川君。実は先生も不安でしたよー。初めてこんぴゅーたーに挑戦しましたからー」
「って、CG加工かよ!! よりによってこの部分だけ!」
 剣の反応に首を傾げつつ、ここだけではないですよーと言いながらその後に続く数枚の紙を取り出した。
「えっとですねー、この後に続く村人惨殺シーンに、その後のくろがねさんが千人の打ち手を渡る刀達成までの軌跡とー。あーこの子供が刀持ってるシーンなんか圧巻ですねー」
 にこやかに説明と一緒に取り出した紙を見やり、剣のひきつった笑みはより一層深められる。目じりに涙が浮かんでいるかもしれない……。それくらい、そこに描かれた光景はリアルだった。
「先生。これって急遽作ったものですよね? よく一人で作れましたね。時間なかったでしょうに……」
 もう見る気にもなれない絵からは視線を逸らしつつ、剣は問うた。と、それに答える笹井とは別の声が一つ。
「えぇ、瀬戸家の技術スタッフに無理にお願いして作らせましたからね。もし剣君の到着までに完成できなければ給料の額は変わらないが、中身が給料分のチロルチョコになると……」
 ……冬華先輩。それは俺の知る限りではお願いじゃなくて、脅しだ。と、内心思うが口にすることは無い。
 このままではらちが明かないので(剣が絵を直視できないという問題も浮上したため)紙芝居をやめ、口での伝達だけで調べた内容を報告することになった。なら、最初からそうしろと思うのだが、そこらへんはご愛嬌。はっきりいえば瀬戸家の人間の考えることは常識の範疇を光年単位で逸脱しているので考えないものとする。
 さて、黒鋼と白鋼の誕生は、以下のようなものであった。

      ◇◆

 時は今より数百年前。東京がまだ江戸と呼ばれていた時代。場所は今で言う瀬戸内海周辺。その海岸沿いにある小さな村にある一人の鍛冶職人がいました。その鍛冶職人が霊力を保持しているのは先の笹井の話でわかっていると思われるので話しを省こう。
 さて、話しは笹井の語った物語の続き。火事場に立て籠もった鍛冶職人を、三十人余りの村人たちが手に武器持ち寄り、暗殺よろしく。鍛冶職人を殺害しに行くところから話しは始まる。

 --夜空に浮かぶ月明かりの下、数十人の男が鍛冶屋の前に集まっていた。その手には鎌や鍬又は包丁まで、おそらく武器になるであろう物を持ち寄って。
 木々のざわめきすらない静寂の中、男のうちの一人が目の前にある引き戸に手をかけ、勢いよく戸を開けた。
 戸を開く音が夜の闇に響くと同時に、村人たちは火事場に足を踏み入れようとして、踏みとどまった。
「!?」
 皆が同時に息を呑む。
 そこには明らかに衰弱しきった職人が胡坐を組んで座っていた。その右側には全体が黒塗りの刀が、左側には白塗りの刀が置いてある。二振りの刀は鞘が抜かれ、開けられた戸から漏れた月光がその刀身を蒼白く輝かせている。暗闇の中蒼く輝く二振りの刃は場に漂い始めた異様な空気をより一層際だたせていた。
男たちが誰一人として動けないでいるなか、
「--っていた」
 すっかり衰弱し、喋ることもままならないと判断できる職人が静かに口を開いた。
「わかっていた……。貴様たちが私を殺しに来るであろうことは…………。だから、私はここに籠もった。『これ』を完成させるため……、我が霊力のすべてを注ぎ、全てを斬るために、全てを屠る為に、最愛こそを斬るために、全身全霊を掛け『これ』を……!!」
 そこで、少し間を取ると、一気にその名を口にする。
「この生まれし時よりの妖刀、黒鋼と、白鋼を……!!」
 そう叫ぶと同時に右側にある黒塗りの刀、つまり黒鋼を手に取り、男たちに斬りかかった。
「…………なっ!?」
 突然の出来事に男たちは誰一人として動くことができない。
いや、突然ではなかったとしても反応できなかっただろう。もはや職人の動きは人間のものと思えないほど異常だった。
 そして、一秒と経たないうちにそこに立つのは返り血を浴びて体を朱に染める職人ただ一人となっていた。
 その後職人は黒鋼を持ったまま姿を消し、白鋼はそのまま放置されていたところ、刀集めを趣味とする大名に引き取られた。
 それから五年後、黒鋼はその持ち主を次々と廻るように変え、千の打ち手に握られたという。千をも超える生き血を吸いし妖刀として近隣の、村人から侍まで全ての人々に恐れられていた。その力は例え幼子が手にしたとしても変わることなく、鬼人の如く周りの者を叩き斬ったと言う。
 事態を重く見た人々は黒鋼と同等の力を持つ白鋼を所有しているとゆう大名のもとへ行き、黒鋼の封印を申し出た。大名はこれを承諾し、見事白鋼で黒鋼封印を成し遂げる。
 それ以来妖刀を打つ者も居なくなった世で、誰もがその存在を忘れていったとゆう。
 時代は江戸、瀬戸内海沿岸とゆう小さな規模で起こった、歴史書にも名を残さない、本当に起こったかどうかさえ不確かな、小さな、小さな物語。

      ◇◆

「……で、結局のところ俺を早急に呼び出さなければならなかった理由ってなんなんですか?」
 剣たち四人と一振りを乗せた車は、静かに波打つ海岸沿いを走っている。さっきから他の車を見ていないがこの時間帯では仕方が無い。そんな自分たちの車のエンジン音だけが音として聞こえる車内。
剣は話を聞き終え、最初に浮上してきた疑問を投げかけた。
「それは--」
 と、途中で珍しく言葉を詰まらせる冬華。そんな冬華を見かねてか、茂貴が助け舟を出す。
「ええよ。姫さん。俺が言うからに。……剣、さっきの話聞いて疑問に思ったこと無いか?」
 茂貴は暗に、剣の意外に問題に対する解答の見つけ方が上手い、簡単に言えばきれるその頭が自ら確信をついた疑問を投げかけてくることを期待して言葉を放った。
 そして剣は無意識に、見事その茂貴の期待に答える。
「あぁ、いくつかあるけど……関係ないことだと思う」
 一言置くと、剣は視線を少し上に上げ、言葉を整理するように自分の思ったことを言い始めた。
「まず……、そうだな。黒鋼と白鋼が誕生してそれを手に取った職人は身体能力が上がってたよな? でもそれはおかしくないか? 鍛冶職人は霊力を持ってたはずだろ? なら、なぜ妖刀である黒鋼の力を得ることが出来るんだ? それともう一つ。何故五年という短い間に黒鋼はそんな千もの人間を巡ったのか。まぁ、千なんてのは大袈裟に言った数字だとは思うけど、でも、普通そんなに変わるものじゃないだろ。何故なら黒鋼を手にした人は意識すら乗っ取られるものの絶対的な人知を超えた強さを手に入れられるはずだから。……そう簡単に持ち主が斬られるとも限らないし、都合よく持ち主が死ぬとも思えない」
 言い終わると、以上と言う感じに周りの面々を見回す剣。本当はまだ疑問に思っていることがあるが、それこそ関係がないようなので自粛するつもりだ。
「さっすが、剣。ええとこついとるやん。ま、最初の疑問。職人の身体能力が上がったのは別に問題やあらへん。実は剣も、その気になれば意識を保ったまま身体能力上げれるんやで? たった今でも黒鋼を手にしたことによって受ける影響を受けとるっちゅうわけや。意識を乗っ取られること意外にやけど」
 軽く笑みを浮かべ最初の疑問に答える茂貴。
「……今でも?」
 眉を寄せながら黒鋼を見る剣。
「ええ。でなければ剣君が海に落ちた疲労も無く立ち上がっている理由がわかりません。黒鋼自身も言っていましたが、今剣君はその疲労を黒鋼の力によってカバーされています。ですから、その気になれば人を超える動きが可能と推測できます」
 冬華が、茂貴の言葉に補足を加える。剣は、茂貴と冬華の間でのやりとりを知って間もないが、茂貴の言葉に冬華が補足。このパターンがこの二人の会話パターンだということが解ってきた。冬華一人では話が長くなるし茂貴一人では細かい部分が足りない。まるで、お互いに足りない部分を補っているようだ。と、余計なことを考える剣に、意外な所から次の疑問に対する答えを告げる声が飛んできた。
「小僧。次の貴様の問いには我が答えよう」
「はわわわわ。なんですかー。急に何所から聞こえてくるんですかぁ? このダンディーな声はー」
 黒鋼が急に喋りだしたためか、笹井が吃驚したようにうろたえている。
「冬華先輩。笹井先生って黒鋼のこと--」
「いえ、知っています。自分が調べていたのですから当然ですが、急に知らない声が聞こえてきたので吃驚したのでしょう」
「はいはい。大丈夫やから落ち着こうなー、笹井ちゃん。こわないでー」
 茂貴が、きょろきょろと周囲を見回し、いまだ警戒を解かない笹井をなだめるように頭をなでている。
「……続けていいのか?」
 黒鋼が遠慮がちに声を放ってくる。
「あぁ、聞かせてくれ。それにしても意外だな。黒鋼が自分から情報をよこすなんて」
 思ったことをそのまま疑問にする剣。しかし、それは冬華や茂貴も思っているところは同じらしく、小さく頷いている。
「なんてことはない。ただの利潤の一致だ」
 そんな周囲の様子を気にするでもなく、一言で片付ける黒鋼。そして話を続ける。
「貴様の二つ目の問いの答えだ。何故我が短期間のうちに持ち主を次々と変えて言ったかと言うものだったな……。貴様以外のものたちは既に答えを知っているように見えるが、あえて我が説明をしてやろう。貴様には少々酷な話になると思うからな」
 そう言い少し間をおく黒鋼。
 ……俺以外が知ってるって事は、やっぱりこれが俺を急いでここに呼んだ理由なんだろうな。
 考える剣の思考を待つように、黒鋼が話を続ける。
「生まれし時よりの妖刀である我らは、一つの特性を持つ。何故そうなったのかは解らんが……。しかしこの特性こそが、我を人々から恐れさせる存在としたのは間違いない」
 遠まわしな黒鋼の言葉にいらいらし始めた剣は結論を急かすように言う。
「何が言いたいんだ? 俺にとって酷になる話しって何なんだよ?」
「そう急ぐな。物には順序がある。構えの無いような状態で貴様がこれを聞けば相当なショックを受けるであろう事は容易に想像できる。故にこうしてくだいた説明をしているのだ。少しは辛抱しろ」
 説くような物言いに更に反駁しそうになるが、押さえ込む剣。
「いいか? 我らは確かに手にしたものの意識を奪い、殺意を高める。しかし、それだけでは他の妖刀となんら変わらぬ。我らが生み手はその全身全霊を込め、我らを発生させた。他のものと同じであってはならんのだ。そして、我らに与えられた特性が--」
 黒鋼は一呼吸置くように間をおくと、静かに告げた。
「--最愛を殺すこと」
「……は?」
 重い黒鋼の言葉に、間の抜けた声を返す剣。
 ……最愛を殺す? どういうことだよ。それが何で俺の質問に答えたことになるんだよ? 訳が解らない。最愛だって? なんだよそれ。何の最愛だよ。妖刀の持ち主のか? 持ち主の標的が最愛になるって言うのかよ? そういうことかよ!? 最愛を殺せば持ち主が変わるってことか? それが特性? そうなのか、じゃぁ、待てよ--
 爆発的に回転する剣の思考を、今度は無視するように黒鋼は話を続ける。
「我らの特性がそれだ。最愛。正確に言えば、我らを手にする直前に強く思っていた人物を斬りたい欲求に狩られる、と言った方がいいだろう……。その想いが憎しみであれ、なんであれ、だ」
 黒鋼の言葉は、耳に入っても脳には入り込んでこない。
それくらい、今の剣は混乱していた。そして、黒鋼にばかり喋らしているのに気が引けたのか、冬華が後を継ぐ。
「つまり剣君の言う通り、崖から落ちた際に朝倉さんが白鋼を手にしていたというのなら、その時に強く思っていた人物を斬るために、今現在活動をしているということです」
 あえて事務的な口調で喋る冬華。まるで、こんな辛い報告など速く終わって欲しいと言っているかのように……。
 そんな冬華の言葉にも耳を傾けている様子の無い剣は更に思う。
 --朝倉さんが、あの時に強く想っていた人物って……。
「そして、恐らくですが。朝倉さんが強く想っている人物と言うのが、一緒に崖から落ちた人物でもある、石川君ではないかと--」
「恐らくではない」
 冬華の言葉に即座に横槍を入れてくる黒鋼。
「我らは常に繋がっている。故に、お互いの状況は分かり合っている。情報の交換ではなく、そういうものなのだ。強制的に知らされるし、知ってしまう。お互い何を考えているのかまではわからないが……。そして、朝倉とか言う白鋼の現在の持ち主の頭の中だが--」
 まるで死刑宣告のそれのようにきっぱりと言い放つ黒鋼に、返す言葉もない剣はただ呆然と、いや、やっとと言うべきか、他の言葉に耳を傾けた。黒鋼の、その言葉に。
「石川 剣。貴様のことで一杯だ--」 

第七章『各々想いは交差する』

 ……どうしてあの時、主様は私を連れて行ってくれなかったのですか? 私だってあなたのお役に立ちたかったのに……。なのに主様は私を置いていかれた。あなたのお選びになったあいつとはなんら変わりはないというのに。
どうして私ではなかったのですか? 私は不要な存在なのですか? 私は居なくても良かったのですか? ならば何故、私はここに産まれたのですか? 必要なかったのなら、何故……。何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故……。

――何故私は、存在しているのですか……?

      ◇◆

 鼓動。
 まるで深い眠りについているかのような感覚に沈んでいる中。瑞樹は己のものか、はたまた別の何者かわからない音を聞いていた。度重なるその音の中から、そのうち声が聞こえてくる。悲しみに満ちた、行き場を失った様な悲しい声を。
 いや、聞こえるといったものではない。
 それはまるで自分の中から響いてくるような、しかし己の意思では決して無い。しかし、限りなく自分の意思にも近いもの……。
 そう、それはまるで、同調。
同じ思いを秘めているもの同士が感じるものだ。
共感ではない。これは二人が一つになったような、そんな感覚だった。

      ◇◆

「それは……、どういうことだよ」
 黒鋼の発言から誰も声を発することなく数秒の沈黙が降りた後、剣が言葉をつむいだ。
「聞いたままの意味だ。今から朝倉とか言う娘が貴様を殺しにやってくる」
 容赦なく、きっぱりと言い放つ黒鋼。
「そんなことわかってるよ!」
 剣は必死になって現状を理解しようと努める。瑞樹が自分を殺しにやってくる。それは分かった。今考えねばならないことは他にある。
「俺を狙ってやってくるなら、あるんだろ? 俺がやらなきゃならないことが」
 そうだ、やるべきことをやらねばならない。言ってからそれを自覚する剣。瑞樹がもう死んでしまったと思ったあの時に比べれば、自分の命を狙っているなんて些細な問題だ。むしろ向こうから来てくれるのだから有り難いといえるだろう。
 そんなことを考えている自分に苦笑しながらも周囲の返答を待つ。
「はい。今の剣君にしか出来ないことがあります」
 そんな剣に、いつのまにかいつもの微笑を浮かべた冬華が答えを返してきた。
「目的地が近いので手短に言わせてもらいますね。まず結論を言いますと、剣君には白鋼と戦ってもらいます。向こうと同等の力を持っているのはこちらでは黒鋼を手にしている剣君しか居ないので変更は出来ません。私たちはバックアップに回ります。といっても出来ることは限られていますので最終的には一騎打ちと言う形になりますのでそのつもりで。次に勝利条件です。これはいたって単純ですね。朝倉さんの手から白鋼を手放させることが出来ればこちらの勝ちです。そうすれば朝倉さんの意識は開放されますから」
 いいですね。と言う冬華の言葉に剣が言う。
「本当に手離させるだけでいいんですか? 確か妖刀は離れていても人を洗脳か何かできるんじゃなかったんですか?」
「そうです。しかし、力の供給が出来るのは直接触れ合っている時だけですから、それさえどうにかしてしまえば勝ったも同然でしょ? 妖刀の特性を考えるとそうなります。遠距離での洗脳は動作が緩慢になりますから大変なのはやはり……、白鋼が朝倉さんの体を支配しているその間」
 一呼吸置くと冬華は言う。
「さっきの台詞に、どこか間違いはありますか?」
 冬華は微笑を絶やさぬまま、まるで学校での教師に対する質問のように声を上げた。それが誰に対して向けられたものなのかは言うまでもない。
 そして、それに答える短い声が一つ。
「相違ない」
 車内に黒鋼の声が響いた。
 剣はその短い返答に苦笑しつつ、冬華に尋ねた。
「最初に聞くべきだったんだろうけど……。冬華先輩、一体何所に向かって走ってるんですか?」
 冬華はあら、言ってなかったですか? と言うと目的地の場所を告げた。
「誠心商業高等学校。わけあって、今夜は貸切状態なんです」

      ◇◆

 存在意義。
それについて考え始めたのはいつのことだったろうか。とらわれるようにこれを考えている今。この思考の始まりはいつからだったろうか……。
あの時。主様が自分を置いていった時からだろうか?
本来の役割を与えられず観賞するものとして飾られ続けた時だろうか?
それとも、自分が望む道を歩んできたあいつと刃を交えた時だっただろうか?
あいつを封印するために岩の中に居たあの永きに渡る時間の中だろうか?
わからない。そもそもこれを考えるのも何度目だろうか……。
ただはっきりと分かるのは、今自分は証明したいということだ。
ここに在るということを。
どうやって証明すればいいかは分かっている。
……私は刀。私は人を斬る為に在る。それさえすれば、認められる。展示品ではなく封印の道具でもない。私は一振りの刃であると。認められれば、あの時のように、主様に置いていかれた時のような、屈辱と孤独を味わうこともないに違いない。それに、何より、こんな思考にとらわれることもない。
認めさせなければ、私は、ここに在っていいのだということを。
--認めて、もらわなければ……。

      ◇◆

 瑞樹は、不思議な声を感じていた。
 聞いているものが思わず泣いてしまいそうなほどの訴えを秘めた声を。
"私はここにある"
 強い訴えを聞いた瑞樹は、思わず思ってしまう。
 ……なんて可哀想なのだろう、と。
 集団行動が目立つ学校でも静かな自分はよく考える。自分はここにいなくてもいいのではないのだろうかと。いなくても何も変わらなくて、自分が居なくなったということすら誰も気付かないのではないか、と。
 何てことはない。ふと思う、その程度のことでしかないが、そんなことが脳裏をよぎった後、瑞樹は必ずと言っていいほど更に思う。
それは、恐ろしいことだと。
 自分はいてもいなくてもいい存在だと思うだけで、どうしようもない恐怖にとらわれてしまう。なのに今自分の聞いている音無き声は、幾年もの間その恐怖を味わい続けていたのだということが分かる。
 そして、渇望している。
 その渇きを知った時、瑞樹はどうしてもその声の主を助けたいと思った。助けなければならないと、こんな思いを持ち続けて良い訳がないと、強く、強くそう思った。

      ◇◆

 剣たちは今、小雨降る中、誠心高校の校門の前に立っていた。
 神妙な顔つきで鍵の掛かっていない校門を開け中に入っていく冬華に、同じく緊張にこわばった表情を浮かべた剣が続く。
 そして、最後に半目になりながら首を時折、かくっ、と動かしている茂貴と笹井が続いた。
「……冬華先輩」
 所々若葉を見せ始めた誠心商業高校名物『桜並木』を進む中。おもむろに剣が呟く。
「どうかしましたか? ……目が据わってますよ、剣君」
 何事かと振り向く冬華に、剣は据わった視線を背後に向けながらいう。
「どうかしましたか? じゃないですよ! やる気無いんですか! あの二人は!!」
 剣が指すあの二人とは、最後尾をふらふらと歩いてくる茂貴と笹井だ。
「なんや、そないなけったいな視線を向けてきてからに。こわいなー剣は。過労死するタイプや」
 茂貴は、にやりと不敵な笑みを浮かべながらそんな台詞をはくが、首を左右に揺らしながらいかにも眠そうな目でそんなことを言われても更に相手を怒らせるだけだ。
 対し、隣を歩く笹井は、顔を下に向け安らかな寝息をたてながら歩くといった芸当を披露している。
 行動を見てわかるように、この二人車内で妙におとなしいと思っていたら呑気に寝ていやがったのだ。
「そうだな、俺は過労死するタイプかもしれない。でもな、シゲ。残念なことにシゲは今死ぬかもしれないんだ……」 
 本当に残念そうに言うと、すらっと、黒鋼を鞘から抜く剣。その目は完全に据わっている。
「峰だぞ」
 黒鋼の低い声が響く。
「待ち! ちょい待ちって剣。ほらあれや、あれ。俺は迫りくる戦いに向けて体力を温存しとったんや!!」
 さすがに眠気も覚めたのか、必死になって両手を顔の前で左右に振る茂貴。と、無言で黒鋼を上段に構える剣と半笑いで両手を振り回す茂貴の間を通り抜ける影が一つ。
 まるで夢遊病者のそれのようにふらふらと歩く笹井だ。
『…………』
 無言で通り過ぎる笹井を見送る二人。騒ぎで皆が足を止めていたが、眠っている笹井は当然それに気付くこともなく、一定のテンポで直進していく。
あっけにとられた顔でそれを見送っていた二人に冬華の声が聞こえてきた。
「……あ」
 その何かを危惧したような冬華の声に、体勢はそのまま、剣と茂貴はふらふらと進む笹井の進行方向を見た。
 そしてそこには、一本の桜の木が聳え立っている。このまま進めば確実に--。
「へぶっ!」
 --当たった。
鈍い衝突音と共に桜の花弁にたまった小雨の雫が落ちてきて笹井の服を濡らしている。
「ひぅ……」
 今しがたぶつかったばかりの額を押さえながら、何事かと周囲を見渡している笹井。冬華と茂貴は、あっちゃーという効果音がついたとしてもおかしくないようなリアクションをとっている。 
 しばらくきょろきょろとしていた笹井は、ある瞬間を境にぴたりと止まった。
 おそらく脳内が告げているのだろう、理解不能と。
「ひ、ひ……」
 停止と共に小刻みに息を吸い始める笹井。まるでこれは、
「泣き出す前兆のような……」
 そんな剣の言葉が引き金となったかのように、笹井は大声で泣き始めた。
「ひぇ、ひあぁぁぁぁん!」
「うおぉ!?」
 びくっ、と体を強張らせる剣。
「はいはい。痛かったですねぇー」
 いつの間にか笹井の下まで近づいていた冬華は、手馴れた様に笹井の頭をなでている。
「ち、ちがっ……う」
 嗚咽を漏らしながら何とか言葉を紡ぐ笹井。
「? どうしたんですか? 痛くて吃驚したんじゃ……」
 笹井をどう慰めたものかわかない様子の冬華は小首をかしげている。そんな冬華の問いに答えたわけでもないのだろうが、結果的にそうなるような言葉を笹井は紡ぐ。
「わ、私は、く、車にのっていたんじゃ、ひぅ。ないんですかー!?」
「って、そこからかいな!!」
 茂貴の絶妙なタイミングで放たれた突込みが、虚しく小雨降る夜の闇に包まれた校舎へと響いていった。

      ◇◆

「笹井先生をつれてきた意味ってあるんですか?」
 剣は、涙目で先頭を歩く笹井を見据えながら言った。
 そしてそれに答える声が二つ。
「ありますよ」
「あるで」
 剣の両脇を歩く冬華と茂貴だ。二人はゆったりとした歩調で歩く笹井に合わせつつ剣に説明を始めた。
「笹井は優秀な情報収集者であると共に有能な結界師もあるんですよ」
「結界師?」
 聞きなれない言葉に聞き返す剣。
そういえばさっきから笹井を先頭にして歩いているのはそれが理由なのか、という思いも同時に巡らせ、笹井を目で追いながらの問いだ。
「はい。剣君も結界という言葉くらいは聞いたことがあるでしょう?」
 剣の問いに逆に問いを返してくる冬華。そして剣は考える。自分の持つ結界のイメージについて。
 ……結界と言われてもゲームで出てくるようなものしか知らないしなぁ。
「ははっ……」
 素直に結界と言う単語の意味について考えている自分に思わず苦笑を漏らす剣。霊など存在しないという持論を持っていた自分が一日でここまで変わるものなのかと。
「どうしました?」
 剣の苦笑に反応してか、答えが中々返ってこないためか、冬華が声を掛けてくる。
「いえ、何でもないです」
 首を振りながら答える剣は間を置かず言葉を続けた。
「結界ですが、やっぱり隕石止めてみたり、光学系攻撃捻じ曲げてみたりするあれですか?」
「それは結界と言うよりも防御壁の類では……」
 苦笑しながら言う冬華に眉をひそめつつ返す剣。
「悪かったですね、何も分からなくて。仕方ないじゃないですか。その手の知識なんて持ってないんですから」
 少しむっとした言い方になったというのが伝わったのか、苦笑を微笑にかえた冬華が答える。
「すいません。知らないことは悪いことではありません。悪いのは、それをそのままにしておくことです。その点剣君は疑問を周りの人に問うと言うことを知っています。それはとても素敵なことだと思いますよ」
 小雨振る夜桜を背に、静かに首をかしげながら言う冬華は、まるで一枚の名画のようだった。

      ◇◆

「さて、終わりましたよー」
 んっ、と伸びをしながら笹井が目の前の椅子にへたり込むようにして座り、机に突っ伏していた。
「お疲れ様です」
 微笑みながら労いの言葉をかける。
 今、冬華、笹井、茂貴の三人は誰も居ない教室に居た。表の表札には一―Bと書かれ、闇が見える窓からは小雨降る暗雲に遠く離れた瀬戸内海が見えることから現在地が地上よりも高いことを告げている。
 北校舎三階。それが今冬華たちが居る場所だ。
「それにしても、どうして石川君だけ先に行かしちゃったんですかー?」
 机に突っ伏したまま声だけを笹井が放ってくる。
 さらに、
「結界の説明も最後までしてなかったですよねー」
 と続けざまに言っている。
 答えようと口を開くと、己が声を発するより先に隣から声が聞こえてきた。
「そりゃ、剣に嬢ちゃんの相手さすんは気が引けるからやろ。第一、これは俺らで終わらさなあかん話しやったはずや。考えてもみぃ。日本刀片手に嬢ちゃんと剣が対峙する場面なんて歓迎できる話ちゃうやろ?」
 と言う茂貴は肩を軽くすくめ、机に浅く腰掛けていた。
 ……本当に茂貴は私の考えていることが分かりますね。
 まるで繋がっているみたいだ、と考えたところで苦笑し冬華は言葉を継ぐ。
「それに、おそらく気付いてしまうでしょうから、私達が剣君の元に朝倉さんを行かすことなく、決着を付けるつもりだと言うことに。結界の説明をしてしまいますとね――」
 ……それは本当に避けるべき事態です。元より彼を巻き込んだのは――。
 思いを馳せる冬華の頭に、掌が乗ってきた。
 いつの間にか自分の隣まで移動してきた茂貴だ。
「……なんですか」
 顎に手を持っていった、考え事をしている姿勢のまま問う。
「あん? なんもあらへんよ。ただ、一人で背負い込もうとしとる馬鹿がおるんちゃうかなぁ思うて」
 に、と笑む茂貴の表情を斜め下から見上げつつ冬華は更に思う。
 ……本当に、繋がっているのでしょうか?
 自分の馬鹿みたいな考えに苦笑を漏らすと同時に、机に突っ伏したままの笹井から呑気な声が飛んできた。
「大きな気配が只今校門付近を進行中ですよー。私の結界内にはいってきましたー。一名様ごあんなーい」

      ◇◆

「なぁ、やっぱり俺も下で居るべきなんじゃないのかな?」
 屋上前階段。剣は屋上へ通じる扉を背に、右手に向かいそんな問いかけを放っていた。
 ――校舎内の廊下を歩いている時、剣は当然皆と行動を共にするつもりでいた。しかし、そこで冬華が放った一言。
「私たちは結界を張りに行きますので、剣君は先に屋上に行っていて下さい。専門的なことをしなければならないので、少人数で動いた方が良いんですよ」
 いつも通りの微笑で言われ、何の疑問も抱かず剣は屋上へと向かったのだが――
「やっぱりおかしいよな。もし結界を張ってる最中に白鋼が来たらどうするつもりなんだろう。それに少人数とか言っているけど、俺を一人屋上に向かわせただけだし」
 考え始めれば次々と浮かび上がってくる疑問。故に剣は先の疑問を問いかける。
「なぁ、やっぱり俺も下に行った方が……」
「いつからそんなに他力本願になった? 己がそう思うなら行けばよかろう」
 ため息を吐くような声で黒鋼が即答を返してくる。
 その言葉に、うっ、と軽く声を漏らすも、剣は決心したように屋上の階段を下りていこうとしたところで――足を止めた。
「どうした?」
 黒鋼が声を掛けえてくるが、剣はその言葉にこそ疑問を覚える。
「どうしたって、何が?」
 言いつつまた屋上の扉の前へと戻っていく。
「下へ向かうのではなかったのか?」
 少しばかり、黒鋼の声がいぶかしむ様になってきたと感じるが、特に気にすることでもないだろうと思い腰を下ろす。
「いや、やっぱりいいよ。冬華先輩だって何か考えがあってのことだろうし……」
 何の気なしに答える剣。ほとんど無意識と言っても良いだろう。無意識に、ここに居るべきだと思ったのだ。下には行くべきではない、と。
「…………」
 その剣の台詞に黒鋼は返事をよこそうとしてくる様子は無い。
 ならばもう何も言うことはないわけで……。剣は、静かに冬華たちが登ってくるのを待つことにした。
 降りようとした階段の少し先に、笹井特製の札の様な物が張ってあるのだが剣がそれに気付くことはない。現に今座っている位置からも見えるのだが、剣にはそれが『当然の風景のように見えて』何の意識を向けることなく、静かに腰を下ろしたままだった。

      ◇◆

 ……ここに居る。確かな気配を感じる。この娘の中で確固たる存在として在る少年は確かにこの建物に居る。それが分かれば私は使命を果たさなければならない。最愛を斬らねばならない。まだ一度もそれを成したことのない私は、誰の中にも存在していないのだから。誰も私を日本刀として、刃としてみてくれることはなかった。主様でさえもなかったのだから、自分で証明するしかないのだ。
 私は確かな日本刀で、人を斬ることが出来ると――。
 少年の気配はこの建物の最上階。そこに行けば、私の百数余年に渡る祈願は認められる。
 ――認められる。

      ◇◆

「さて、お客さんもご到着のようやし? お出迎えせなあかんやろ」
 両手を合わせることでパシッと音を鳴らし、廊下へと出つつ言う茂貴。夜ということもあり教室内は真っ暗と言っても良いほどだったが、廊下はそれ以上に暗く感じる。錯覚だろうが、学校、病院、いや、自宅でも良いだろう。真夜中のそれは昼間とはまるで違う。一言で言えば、――世界が変わる。
 夜の学校独特の気配が周囲を包み、廊下に自分の足音が響く。
小さく聞こえるのは外を降る小雨の音だ。
 一度振り返ると、そこには教室から同じく出てこようとする笹井の姿。
「笹井ちゃんは危ないから教室で待機やでー」
「くれぐれも出てくることのないようお願いしますよ?」
 隣を歩く冬華も似たようなことを言っている。口調は淡々としているが、そこにある笹井への気遣いは確りと感じて取れる。
 ……意外と照れ屋やからなぁ姫さんは。
 思わず苦笑が漏れた。
「冬華様ぁ。茂貴君が怪しい笑みを浮かべていますよー。夜の学校だから暗闇に乗じて野獣と化す気ですよー。男は狼ですよー」
 教室前でドアから顔だけ出し、言いつけ通り出てこようとしない笹井の声が飛んでくる。
「なにゆーとんねや。そんなことあるわけないやろ? 暗闇に乗じて襲うほど、男護条 茂貴、落ちた覚えはないで」
 と、胸を張り答えた横。つまり冬華が、すすす、と離れていく。
「わ、私は茂貴を信用していますから。笹井も変なことを言ってはいけませんよ?」
 口ではそういっているが、しっかり距離をとられた上に軽く自分の体を抱くようにしてガードが固くなっているあたり警戒されているらしい。
 ……あぁ、意外と照れ屋さんから、姫さんは。
 そう思うことで自分を慰めることにする。
「まぁ、冗談は置いといて。真面目な話し姫さんも一緒におる気かいな? 気配で分かる思うけど、順調に接近中やで、白鋼は」
「愚問ですね。もとより私の仕事ですよ? これは。罠を仕掛けたのだって私ですし。道を作ったのは笹井です。作戦を考えたのが私なら、情報を集めたのは笹井ですね……。あら、どうしたことでしょう……、ここに何もしていない人が一人」
 と、距離をとっている冬華の人差し指が静かにこちらを向いている。
「せやからここからが俺の出番やないかい……。まぁ、今回は相手傷つけられへんさかいに、ちぃっとばかしやり難いけども……。やる方としては楽なことに変わりはないで。改めて笹井ちゃんに感謝やな」
 淡々と歩を進めながら言う。
「にしても、改めて考えたらホンマ楽な話やんなぁ」
「何が、ですか?」
 冬華の問いに頭の後ろで手を組みながら答える。
「何が言うて、決まっとるやないか。笹井ちゃんの結界の話しやて。考えてもみぃ、俺も初めて聞いたときは吃驚したけども、何やったっけ? 笹井ちゃんの台詞『真に優秀な結界とは、相手に結界があるということすら気付かせないものです。あからさまな結界など、三流の仕事ですよ』やったっけ?」
「それは私の台詞です」
 頼りもとない記憶を辿る様に眉を寄せ言う茂貴の台詞を一言で一蹴する冬華。しかし思うところは同じなのか似たようなことを言う。
「確かに楽な話ではあります。先の結界を枝分かれする道の一つ一つに仕掛けてしまえば、対象者は無意識のうちに限定された道を進むことになりますからね。罠だって仕掛けたい放題ですよ……。私たちは待っているだけでいいのですから」
 苦笑を漏らしつつ言う冬華。
「そういや、聞いてへんけど今回はどんな罠しかけたんや? 手の込んだもんばっかり仕掛けるやろ姫さんは。実は毎回楽しみにしとるんやで」
 今回は話が急だったため、自分に伝えることなく罠は冬華が一人でさっさと用意したのだ。故に間際になる今までその内容は聞かされていない。
「場所が場所ですからね、今回は学校ならではの物をふんだんに使用していますよ?」
 心底楽しそうな口調と表情で言う冬華はどこか怪しい笑みを浮かべ言う。茂貴は無意識に鳥肌が立つのを感じた。
 ……なんや、嫌な予感がするなぁ……。
  身の危険から来る予感ではなく、漠然と、何故かは分からないが、茂貴は冬華の笑みに遊び心が見て取れたような気がした――。

第八章『己が抱く信念は』

 薄暗い廊下が永遠と続く中、だらんと日本刀を右手に下げた少女――、もとい瑞樹がゆっくりと歩を進める。
 その目は虚ろで、表情には感情と言うものが一切見られない。夢遊病者のようにゆらゆらと進むその様は、見るものにゾンビの動きを連想させるだろう……。その虚ろな目の奥では理性の光など見られるわけもなく、しかし確かに思考するものがそこには在った。
 瑞樹の右手に引きずられるかたちとなっているが体の支配権を持っている白鋼だ。
 ……もう少し、もう少しで……、私の存在が認められる。日本刀としての存在が、最愛を斬ることによって、この少女の記憶に強く残ることが出来る。斬ったものと親しい者たちの記憶にも、私は鮮明に残ることが出来る――!!
 まるで取り付かれたように己の存在を他に残すことに対して執着心をみせる白鋼。もし表情と言うものがあったなら、彼女は笑みを浮かべていただろう。
 そんな感情を胸に秘め、白鋼が思い出すのは自分と対なる道を進んだもう一振りの日本刀、黒鋼のことだ。今も微かに気配を察することが出来る。その位置からして黒鋼と共にいるのは自分の標的でもある石川 剣とかいう少年だろう。何故彼が人間に肩入れしているのかは不明だが……、対峙する事になればそれは二度目ということになる。
 そして自然と思い出す過去。

 ――それは今から百数余年、黒鋼が「千の生き血を吸いし妖刀」として恐れられ、白鋼は瀬戸家と言う霊能力の名家に観賞用として飾られていた時の事だ。
「相手はあの黒鋼だぞ!? まともに行って勝てるわけがないだろう!!」
「だからと言って、行かないというわけにもいかない。それにこれがある、戦力差はほぼ皆無と言ってもいいだろう」
 ……いったい何の騒ぎ?
 白鋼が観賞用として飾られている前で、背の高い男と頬に傷のある男の二人が討論している。図的には背の高い男が傷の男を諭しているといったものらしい。自分の妖刀としての洗脳にかからないところを見ると彼らは共に霊能力者だろう。
 まだ九十九神となっていない白鋼は喋ることができないため二人の会話を聞くことしか出来ない。
「では貴様が行けばいいだろう! 何故私が行かねばならない!? 奴を封印する、そういう類の話しは貴様の方が得意だろう!」
 その台詞に背の高い男が嘆くような、哀れむような視線を傷の男に向けたのを感じる。どうやら黒鋼を封印する話しらしい。そしてその会話から察するに、その役を買って出る者は居ないようだ。しかし、黒鋼を封印する際に使用されるのは自分であるということは確定しているように思えた。
 五年と言う歳月を経て、黒鋼との再開を果たすこととなったらしい自分の感想は至極単純、――羨ましい、だ。
 ……これ程までに人間に認知され恐れられているのか、黒鋼は。あぁ、憎い……。憎いほど羨ましい。あの時主様に連れて行かれたというだけで……、運だけでこうも道が分かれてしまうものなのか。私はこうして観賞用として飾られているだけだというのに……。しかも黒鋼、貴様の封印の道具としてその役を終えようとしている。あぁ……、羨ましい――。あの時主様に選ばれた貴様が羨ましい。周囲に認知されている貴様が羨ましい。日本刀としての存在を全うしている貴様が羨ましい。私はこうも……、惨めな道を歩んできたというのに――。
「……剣の腕は貴様の方が達つ。悔しいことにな。もし私に貴様と同じ腕があったなら、これを手に私は喜んで黒鋼の元へ向かっただろう!!」
 これと言い、自分を指差す背の高い男。
 ……私は名すら呼ばれないのか。道具として使われる私は、何のために存在しているんだ?
 白鋼の思いなど知る由もない二人は、尚も討論を続ける。
「では行けばいい! 兎に角私には行く気は毛頭とない! そもそも村民無勢が黒鋼を恐れているだけだろう? 私たちには何等影響のない話」
 そう言い捨てた傷の男は、怒りを全身で表すことで逃げるようにその場を去っていった。
 そして後に残された背の高い男が無言でこちらを見ている。恐らく黒鋼に向かう決意を固めているのだろう。その目には色濃く黒鋼の力に対する恐怖が見て取れる。
 ……そしてそこには、私に対する思いなど微塵もないな。
 落胆にも似た思いを旨に、白鋼は静かに長身の男に摑まれた――。

 ――と、そこまで思い出し意識を過去から現在へと向ける白鋼。その後は自分が思い出しても意味はないとの判断だ。瀬戸家の長身の男に振り回される自分に、一体何の意思があっただろうか。その結果黒鋼を封印するに至ったが、それは自分の実力ではない。現にあの後封印の道具として黒鋼と共に封じられた自分は民衆に何の認識すらされず長身の男が脚光を浴びた。別に皆に注目されたかったわけではない。封印の道具として認識されても日本刀の自分は何の喜びも感じれなかっただろう。むしろ侮辱とすらとれる。しかし、あの時皆の中に残ったのであろう男のことは、羨ましいと思った。
 人間相手に何を思っているのかと思いもしたが、羨ましい、それが自分の正直な気持ちだということに、ひたすら波打ち際の洞窟にて過ごした百数余年の中で気がついた。
 それと同時に今も尚思う。
 ……誰の心にも残らない私は、一体何のために存在しているのですか……?

      ◇◆

 クスクスと笑う冬華の後ろ。茂貴はその後姿を見つめつつ壁に背を預けていた。
「なぁ姫さん。何をしとんやそれは」
 目の前の冬華は窓のガラスに何やら細工を施しているようだ。さっきからセロハンテープを定期的に剥がす音が廊下に響いている。
「これは朝倉さんに正気に戻っていただくための布石です。茂貴の仕事は私の準備が出来るまでの時間稼ぎですね……」
 いいつつ冬華はセロハンテープを窓に張っている。
「了解。で、作戦はさっき聞いた通りでええんやな? 嬢ちゃんの体に六望星の入った物を直接当てることによって一時的に意識を取り戻させて――」
「朝倉さんに白鋼を捨てさせれば、私たちの勝利です」
 後を引き継ぐようにして言った冬華が振り返り微笑を見せる。その微笑を見ながら茂貴は懐から六望星の入った札を何枚か取り出した。月明かりもないためその様は窓ガラスに鏡の如くしっかりと写っている。
 外は相変わらずの小雨のようだ。
 目を細め鏡のような窓から外に視線を移す。そこに見えるのは色濃く染まった空に影として移る屋上のフェンスだ。
 フェンスが周囲より濃い色として見える辺り外は完全な闇と言うわけではないのだろう。それを確かめた茂貴はおもむろに壁から背を離し札を上着の内側のポケットに仕舞う。
「兎に角、この避けようもない作戦なら嬢ちゃんと剣がやり合うこともなさそうやな……」
「えぇ、私の趣味…………。ではなく時間稼ぎの罠もそろそろネタ切れになる頃だと思いますので早々に準備を終わらせましょう」
 途中誤魔化すようにして早口にまくし立てる冬華がセロハンテープや懐中電灯などを片付けている。それを見つつ茂貴は呟く。
「……さて、どうなるか楽しみやね」

      ◇◆

 校舎同じくして冬華と茂貴がセロハンテープ片手に作戦の打ち合わせをしている頃。冬華達の位置が四階ならその二つ下。
 つまり南校舎二階では精神的に疲れ果てた白鋼が居た。
「……なんだったの。あれは」
 思わず呟きが漏れる。その女性の声は高く、夜の廊下に良く響く。
 先ほど階段を上ろうとした際、上からなにやら網のようなものが落ちてきたのだ。しかもその網からは、傍から見ても分かるくらいに霊的な力が見て取れたため明らかに自分を意識した罠だろう。ご丁寧に網に霊水でも振り掛けたのだろうか。その場は回避することが出来たが次も上手くいくとは限らない……。
 自然と歩調はゆっくりと慎重になる。
 ……まさかこの短期間でこんな細工をしてくるとは思いもしなかった。私は早く石川 剣を斬りたいというのに。何故私の邪魔をするのですか!!
 先ほどの呟きとは違い旨の内で叫ぶ白鋼。
 ――と、目の前にいきなり影が飛び出してきた。
「!?」
 咄嗟に剥き出しの刃を横薙ぎに振るう。打撃音と共に吹っ飛んだそれは廊下の壁に激突し、しかし痛みを感じている様子もなくゆっくりと立ち上がる。
「……くっ、式紙でも使える奴が居るというの?」
 良く見ればその影には肉体がなかった。そう、骨しかないのだ。
 ……骸骨を使役できるとは、中々の力がある相手だと判断できるでしょう。
 相手の後頭部には「第二理科室」と書かれているが、きっと何かの暗号だろう。額に札が張ってあるのを見る限り誰かに使役されていることは間違いない。
「こんな所でもたついているわけには――」
 いけないんです、と言いかけたが後ろから気配を感じた白鋼は咄嗟にその場で体勢を落とし、そのまま新たな敵が居るであろう場から距離をとるため走る。
「……また奇怪な輩を使いますね」
 瑞樹の視界に頼らずとも白鋼にはそれがなんであるかが視えた。
 既に遥か後方。バックブローを決め損ねた体制からこちらを追いかけようと体の向きを変えるその相手には、体の左半分の皮膚が存在しなかった。内臓や脳といった本来なら見えるはずのない臓器がもろに外気にさらされている。案の定その額には札が張ってあり、皮膚のある右腕に「第二理科室」と太い字で書かれていた。
「…………」
 その様に産まれて始めて生理的嫌悪と言うものを覚える白鋼。瑞樹の表情は何等変わりないが、白鋼自身は眉を顰める。骸骨と臓器丸出し男に追いかけられるなんて滅多に出来る体験ではないが……。
「こんな体験したくもありませんっ!」
 刀身から声を響かせれば、三階へと通じる階段の前で足を止め振り返る。
 ……私の目的を邪魔する輩には消えてもらいます。
 思い瑞樹の体を使役する白鋼。身体能力の向上した今の状態ならあんな化け物相手に遅れを取るようなことはまずないはずだ。
 迫り来る骸骨達との距離はさほどない、一度別の体でこの少女を襲った時と大体同じ距離だろう。ならば話しは簡単だ。
 跳躍。
 一気に地面を蹴れば低速に飛ぶ白鋼。いや滑空と言う言葉の方がしっくりくるであろう動きをもって一瞬にして距離を詰める。
「……散りなさい」
 横に並び走る骸骨達の顔面に向かい横薙ぎに一太刀を浴びせた。大きな打撃音が廊下内に響き、振り返れば頭部の砕けた二つの影が前のめりに倒れるところだった。
 無言でその様を見詰めていた白鋼は、心の中で軽く溜息を吐くと静かに階段を上りふいに足を止めた。
 ――音だ。
 硬質な重い音が廊下に響いている。
 もちろん自分の発しているものではない。一定のテンポで聞こえるこの音は恐らく足音だろう。
 しかしこの音はおかしい。
 いくらなんでも音が重すぎるのだ。
 そうまるで……、石の塊が動いているかのような――、
「……嘘です」
 それを見た瞬間、思わず呟いていた。相手は廊下の反対側、しかし非常口前のため緑色の光がその全容を照らしている。
 白鋼はなんとそれに見覚えがあった。
 それもそのはず。ついさっき校門から入る際に見たばかりなのだから覚えていない方がおかしいだろう。でもおかしい、自分の記憶が正しければ「あれ」は石で出来た台座の上に載っていたはずだ。その台座に書いてあった言葉だってしっかり記憶している。確か「初代校長:大熊源一郎」……。
 ――そうそれは、校長の石像だった。
 スーツ姿に立派な髭を生やした石造がゆっくりとこちらに歩を進める。逃げようと思えば簡単に逃げ切れるだろうが、きっと彼は石川 剣を斬る時に邪魔になる。防壁を築いたところでその尽くを破壊してくるだろう。ならば、憂いはここで立たねばならない。
 思いと同時に石造に向かい疾走する白鋼。形としては先ほど骸骨と半分皮膚のない奴を倒した時と変わりない攻撃を叩き込むためだ。しかしその前の助走があるぶんその威力は比較にならないが……。
 目の前にまで迫った石造にむかい疾走しつつ大きく自分自身を振りかぶる。
 極限まで高められた力と自分の刀身をもってすれば例え石の塊であろうと軽く粉砕することが出来るはずだ。
「……っ!!」
 勢いに任せた一撃で袈裟斬りに相手を粉砕する。それはまさに剛剣と証するに値する一撃だ。
 剣速に任せた一撃を受けた石造は音もなくその場に崩れ去る。右肩から袈裟斬りを受けたため、二つに砕かれた石造は尚も動いているがこれでは移動もままならないだろう。 
 ……ならばもうこの石造には用はないですね。
 物言わぬがじたばたもがく石造に一瞥やれば、興味をなくしたかの用に階段を上ることにする。
 この建物の頂上に居ると思われる石川 剣との距離もあとわずかだろう。
 ……もうすぐ、もうすぐ私は彼を斬ることで己の存在を皆に知らしめることが出来る。
 歓喜に静かに打ち震える白鋼は、階段を上り終えた四階でまたもや足を止める破目になった。
 ……先を急いでいるというのに。
 そこには――、
「そないに急がんと、ちょっと寄っていかへん?」
 ――金髪の目立つ青年が一人、軽薄な笑みを浮かべ立っていた。

      ◇◆

 長く続く廊下は暗闇に支配され、その先は何所まで続いているのか分からないほど濃い闇が広がっていた。その闇の先、硬質な音を響かせながら接近してくる影が一つ。
 その右手からは蒼白い光が霧のように漏れている。その蒼は暗闇の中よく映え、見ているの者を幻想の世界へ誘うかのごとく輝いていた。
「いや、見惚れとる場合やないんやけどな」
 いやいやいや、と顔の前で両手を振る茂貴。確かに見惚れるに値する光景だがその光の発信源に目をやれば嫌でも目は覚める。
 その光の発信源。
 つまり白鋼の刀身を目に止め両手で頬を叩く。流石に相手は日本刀、一撃受ければそれで終わりだ。気合を入れなければならない。
 目の前の白鋼に支配された瑞樹を見やり、思わず眉根を寄せる。その容姿は確かに瑞樹のものだが、一目見てそれと分からないくらいに表情がなく、海に落ちたまま来た証拠にその髪は重く肌に張り付き先からは雫を滴らせている。
「まるでB級ホラー映画やな……。場所も学校、相手は知人の成れの果て……。ただ、隣に姫さんが居らんのが残念やね。考えてみぃ。『きゃーこわいー!』言うて姫さんが抱きついてくるんやで? 鼻血もんやろ?」
 悠然と、まるで世間話をするかの如く話しかける茂貴。しかしそれに取り合う様子も無い白鋼は、静かに朝倉 瑞樹の体を使役する。その距離約二十メートル、廊下の端に居る茂貴は階段を上がってきたばかりの白鋼に向かい浅く両腕を広げながら尚も続ける。一瞬にして詰めるこが可能な、又は詰められる距離にも関わらず。
「分かるか? この姫さんの震える姿の良さが。普段気丈に振るまっとるぶんそういう姿を滅多に見せへん。やからこその価値何やけども……、お前にはわからへんやろうなぁ……」
 残念そうに溜息混じりに言う茂貴。言いつつそのポケットから三十センチほどの長さの短剣らしきものを二本取り出す。その双刃には奇怪な文字で印のような模様が彫られていた。
 それを視認したのか、白鋼もだらんと下げたままだった両腕を僅かに構える動きを見せる。
「何故って常にそないな薄気味悪い雰囲気漂わせとんやろ? そないな奴にギャップの差で生まれる良さを分かれいうんは無理やろうな」
 両手に短剣を持ったまま肩を上げやれやれとでも言いたげなジェスチャーを取ってみせる。しかし目の前の白鋼は気にした様子もなく、ずるずるという表現がぴったりくる動きでこちらとの距離を詰めてきていた。
 ……成る程、会話する気はないってことやね。
「なぁ、そないな無口でクールなキャラ辞めて会話を楽しもうやな――うお!?」
 一瞬にして距離を詰めてきた白鋼が下げていた刀身をこちらの顔面めがけ一気に振り上げてきた。
 咄嗟に持っていた短剣を交差し受け止める茂貴。
 しかしその一撃の威力凄まじく、受け止めた体はやすやすと宙をまうが、
「よっと!」
 その勢いを利用して空中で宙返りを決めて見せ悠々と廊下に着地した。
「……無駄口を叩くってのはこのことかいな。いや、意味が違うか」
 苦笑し目の前の白鋼を見据える茂貴は体制を低くし、二本の短剣を構える。
 心拍数はやや高め、体に異常なし。さきの一撃でも二本の刀身は傷一つついていないということを確認し今度は自ら白鋼との距離を一気に詰める。
 当然迎え撃ってくるのは白鋼の刃だ。
 先ほど振り上げた刃をそのまま振り下ろしてくる。それを体を半歩ずらすことで避けた茂貴は上から白鋼を短剣で押さえ込むようにして動きを封じる。白鋼の一撃がどれ程のものであったかは廊下にめり込んだ切っ先を見れば分かるだろう。
 その姿勢のまま懐から札を取り出し、瑞樹に目掛け突き出したところで――、
 ――押さえつけていた白鋼がその力を持って横薙ぎに一線を繰り出してきた。白鋼を食い込ませていたはずの廊下は無残にもそのまま抉り取られている。
「マジか?!」
 それを視認した茂貴は突き出していた手に持っている札を迫り来る刃に向け放る。
 その札に白鋼の刃が接触すると同時に、接点から目を瞑りたくなる様な強い光が漏れ茂貴は後方に吹っ飛ばされた。
 後ろから廊下に投げ出されそのまま数メートル勢いで滑る。
「くっ……、なんちゅう力や」
 もちろん白鋼に対するものもあるが、自分を守ってくれた札に対する台詞でもある。節々に来る鈍痛に顔を顰め上げれば自分と同じくらいの距離を白鋼も飛ばされていたらしいことが分かった。
 二人の中心に位置する札が空中で粉々になりそのまま霧散していく。
 ……嬢ちゃんを傷つけられへんからもうあれは使えへんなぁ。
 苦笑し思いのほか威力の大きかった懐の中の札を確認する。冬華にも瑞樹の正気を取り戻させるだけでなく白鋼の攻撃を防ぐためにも使えるとは聞いていたが、これでは当の瑞樹が傷ついてしまうではないか。余り多用するべきではないと心に誓い静かに立ち上がるが、白鋼が攻めてくる様子はない。
「……その札は何ですか?」
 余程気になったんだろうか。白鋼の声が廊下に響く。
「なんや、やっと会話するきになったんかいな」
 ……へぇー、白鋼って女やったんや……。
 初めて聞く声に新鮮な気持ちで思いを馳せれば茂貴は短剣を持ったまま、器用に懐から左手で札を取り出し口を開く。
「ちゅうか、そないな事聞かれても普通敵には答えへんやろ? と、答えるのがあんさんの敵たる俺の答えるべき台詞なんやけども……。親切な俺はなんと懇切丁寧に悪意を持って説明してあげよう」
「…………」
 言いつつ、札を離れた白鋼に向かいよく見えるように突き出す。少し間をあけ相手の返答を待ってみるがこれ以上喋る気はないらしい。
 ま、ええか。と一言置けば茂貴はゆっくりと且つ完結に話し始める。
「取り出したるは、この六望星!! 嬢ちゃんの体に直に貼り付けることで、ななな何と! あんさんに乗っ取られた嬢ちゃんの意識を取り戻すことが出来る言う優れもんや! 今なら白鋼の鞘もついてくるという……、お買い得やね?」
 実は海に落ちた際に浮いていた鞘は回収済みだ。白鋼を収めていたくらいだから何か力のあるものかと思ったが、如何せん普通の鞘だった。
「と言うことで、大人しく札貼られんかいっ!!」
 言えば、左手の短剣を投擲。投げた短剣の後を追うようにして走る茂貴は懐から札を取り出す。
 目の前まで迫った白鋼は不意な攻撃に避けることが出来ず、日本刀を横に一閃することで飛んできた短剣を弾いている。
 甲高い金属と金属がぶつかる音が響いた直後、茂貴は白鋼の空いた懐へと飛び込んだ。
「ほなご苦労さん」
 そのまま瑞樹の体に左手の札を貼り付けようとしたその時、
「――ぐふっ!?」
 蹴りだ。
 女の脚力とは思えない蹴りをくらい、思わず鳩尾を押さえその場にしゃがみこむ。
 白鋼は刀身を振り下ろせる体勢ではなかった為油断していた。
 ……まさか、蹴りを使うてくるとは思わへんかったな。
 思わず苦笑が漏れるが動こうとはしない。
 白鋼が目の前で、横に振りかぶった刀身をこちらに向ける様を見上げているが苦笑は崩れない。
「く、くっくくくく……、あはははははははは!!!!」
 その苦笑を浮かべたまま、茂貴は声高らかに笑い始めた。気付けばその苦笑も、笑いを堪える笑みに変化している。
「何がおかしい」
 訝しげに問うてくる白鋼。当然だろう、死を目の前にした男が突然笑い始めたのだ。思わず刃を横に薙ぐのを止めた様子の白鋼は、そのまま答えを待っているらしい。
対し、笑いを止めるつもりもない茂貴は苦しそうに喋り始める。
「あはははは!! な、何が、おかしいって……。あんさんが、ものごっつう間抜けやから」
 その言葉に白鋼が眉を寄せているのが分かる。見た目では分からないが、自分をいぶかしんでいるのが気配で分かるのだ。
 だから茂貴は叫んだ。相手の動きを更に封じるために、廊下全体に響く高らかな声で。
「さぁ! 何の事か知りたいなら、今すぐ俺を斬ってみい!! その上で自分の間抜けさを呪いーや」
 叫んだ直後、窓を背後にしてたつ白鋼の後ろから、つまり窓から光がくる。思わず目を顰めてしまいそうなほどの光だ。そして静かに白鋼の刃が振り下ろされるのを待っている茂貴。しかし目の前の刃が自分に向かい落ちてくる気配は一向にない。
「どないした? ほれ、斬ってみいって、斬って」
 刃を振り下ろすどころか動く気配すらない白鋼に、思わずニヤリとした笑みがこぼれる。そう、作戦が上手く言ったのだ。恐らく白鋼は今必死に動こうとしているのだろうが、それは無理な話しだ。
「気になるやろ? 何で自分が動けへんか……。優しい俺が教えちゃるわ」
 言えばさっと自分の懐から札を取り出す。
「さぁ、さっきも言ったこの札。後ろから光があるんやからよう見えるやろ? 俺からはあんさんはシルエットでしか見えへんけどな。兎に角や、この札を貼ると嬢ちゃんの意識がもどるってのはさっき話したやんな? 条件はこの六望星を嬢ちゃんに直接ペタってするっちゅう話しや。で、説明すると力があるのはこの札やのうて六望星自体。つまり、別にこの札をはらんでもええっちゅうことやね。意味分かるか? あんさんはこの札を警戒しとったみたいやけど、別にこれを使わんでも動きを封じるくらい容易にできるっちゅうことが」
 言えばニ、と笑む茂貴。ここからでは見えないが今瑞樹の背には六望星が写っているだろう。この校舎からは反対に位置する校舎の屋上から、冬華が光を作ってくれているはずだ。
 そう、つまり影。今白鋼の動きを封じているのは、さっき冬華が窓に貼っていたセロハンテープで出来た六望星の影だ。茂貴の仕事は、あからさまな動きで白鋼の気を引き指定された位置に誘導し、その場で動けなくすることだったのだ。
「ちゅうことで、ほなご苦労さん」
 言えば何の躊躇いもなく札を瑞樹の手に貼り付ける茂貴。
「――――、ご、じょう……くん……?」
 弱弱しいが、瑞樹の意識が面に上がっくる。作戦は成功したのだ。


 ――それから一分後。そこには腹部を横一線に斬りかかられ血を吐く茂貴の姿があった。

      ◇◆

「はぁっ、はぁっ」
 白鋼と遭遇する可能性のある廊下を、冬華は今全力で駆けている。茂貴と白鋼のいる廊下とは反対側の位置に居た冬華は事の成り行きをしっかり見ていた。
 ……途中までは、上手く言っていたのに!
 心中思うが今更結果が変わるわけがなく、それ以上に冬華の心を占める対象が存在する今ではそれを考えても仕方がない。
「……茂貴」
 しかし思いとは別に頭に浮かび上がってくるのは、今しがた目にして離れない光景だ。 

 ――冬華は茂貴の居る反対側の校舎の屋上で、対峙する二人の様子を見ていた。茂貴が冬華の指定した場所、つまりここから発する光で出来る六望星の影が当たる位置に白鋼を移動させるのを見逃さないために。タイミング一つ間違えれば茂貴が危ない。そう思いより集中する中で、白鋼が指定した位置に来た。それを見た冬華は、手に持っている少し大きめのライトをつけた。
 闇に一筋の白光で出来た道が出来る。
 冬華の位置からでは茂貴や白鋼たちの細かい表情などは見えないが大体の位置関係は分かる。そして自分の視界の中では今確かに影は白鋼を捉えたはずだ。瑞樹の体が邪魔で茂貴の動きを視認することは出来ないが、影が瑞樹の体を捉えている以上、今あの体の支配権は白鋼から瑞樹に移ったはずである。
「ふぅ」
 思わず溜息がこぼれる。
 これで剣と瑞樹を真剣片手に対峙させるという悪夢は見ないですむ。
 と、溜息を浮かべる冬華の視界に動きがあった。それは本来ならば、つまり作戦通りだったならば、意識を取り戻した瑞樹が白鋼を捨てるというものだったはずだが、しかし現実は違った。
 横に構えている白鋼の刃を茂貴に向かい振り抜くという、考えうる限り最悪の動きをもって、冬華の前に悪夢が広がったのだ。
「……なっ!!」
 思わず屋上のフェンスに身を寄せる。ここから窓までの距離は直線で二十メートル程だろうか、その距離から冬華の瞳には瑞樹の背が見える。そしてその背がゆっくりとその場を後にしようと動いた時。自分が照らしている明かりが、茂貴が倒れその回りを赤く染めている光景を映し出したのだ――

「はっ、はぁっ……茂貴っ!!」
 短く叫ぶことで無駄な回想を遮断する冬華。自分の右側にある窓が次から次えと後ろへと流れていく。しかし、その全く変わらないと思わせる情景が、自分は果たして進んでいるのか? と言った疑念を抱かせる。そして焦る気持ちが余計それに拍車をかけた。そんなことはありえないと分かっていても、一度浮かんだ馬鹿げた疑念は晴れてはくれない。
 等間隔でよぎる窓、奥の見えない廊下、同じく等間隔でよぎる窓とは反対側にある教室。
 いくら進んでも茂貴の姿は見えてこない、明かりは固定したまま置いて来ているのでその場所に着けば直ぐにわかるはずなのに。
 焦る冬華を飲み込むようにして、目の前の廊下は永遠と闇が続いている。
 ――と階段を上ったところで、目の前に一筋の白光が見えた。
「…………」
 冬華は思わず一度足を止めてしまう。
 何故なら、そこにはうつ伏せにして倒れる茂貴を囲むように真っ赤な血が溜まっていたのだから。
 一瞬思考が止まりかけるが、その場面を覚悟していなかったわけではないので冬華は比較的早く動くことが出来た。今までの焦燥から抱いていた幻想も嘘のように頭から消えている。今は目の前に、演劇中の主人公が浴びるスポットライトの如く光を浴び倒れている茂貴の姿しか目に入らない。
「茂貴! しっかりしなさい!!」
 出来るだけ大きな声で叫び茂貴を呼びかけようと努めたが、それは恐らく悲鳴に近い叫びになっていただろう。しかし、その声虚しく茂貴が反応を示す様子はない。
 ……焦ってはいけない焦ってはいけない焦ってはいけない焦ってはいけない。
 呪文のように同じ言葉を頭の中で繰り返す。今避けるべき事態は混乱で、それにより自分が危険に及ぶならまだしも、今命に関わる状態にあるのは茂貴の方だ。
「だから……、焦ってはいけません」
 自分に言い聞かせるようにして口に出すと、それは力となって返ってくる。
「茂貴! 茂貴っ!!」
 そして再度呼びかけを開始する。しかしそれはさっきの悲鳴のようなものではなく、理性の見える叫びだ。気を失っている者、生と死の狭間を彷徨っている者には声をかけて呼びかけたほうが良いと言うことを昔聞いた覚えがあった冬華は、呼びかけを繰り返しつつ茂貴の体をうつ伏せから仰向けにしようとし――
「これは」
 そこに在る光景に、冬華は一瞬我が目を疑った。

      ◇◆

 ……どういうことでしょう。
 廊下に響く足音を後につれ、ゆっくりと歩く白鋼は一人思う。二つの意味を含めた疑問に答えなど用意されているわけがなく、ただ暗鬱とした雰囲気のみが廊下に漂っていた。小雨だった雨は少しその強さを上げ自己を主張しているかのように窓ガラスを叩いている。 
 まるで主張する術を知らない自分を嘲笑っているかのように見え、それが余計に白鋼の気分を沈ませた。
 ……いったい、何故?
 その気分を消し去るように、目の前に上げられる疑問を再度闇に問いかける。それは意味のない自問。自答は当然返ってこない。何故なら自分は、その答えを求めて尋ねているのだから。繰り返される二つの自問は、尋ねるたびに蓄積されその濃度をより濃くしていくのだろう。水を求め砂漠を彷徨う遭難者のように、白鋼は答えを欲していた。
 外には雨が降り、当て付けの様に窓ガラスを叩き続けている。
 ……何故さっき、彼を斬った時の手応えがなかったのですか? 何故さっき、この子は私を手放すことを拒否したのですか?
 疑問はより濃く、具体的になっていく。
 歩調は一定のテンポを保ち屋上を目指しているが、思考は止まったままだった。
 ……いや、それも今に始まったことではありませんね。
 少し自嘲気味に言葉が浮かぶ。自分の思考はずっと止まったままだ。遥か昔から、最初に抱いた疑問から、ずっと。
 ……何故私は、存在しているのでしょうか?
 何時から浮かんだ疑問かは覚えていない。しかし自分がもっとも長く考え続けている疑問が、自然と脳裏をよぎる。
 ……どうしてそんなに悲しいことを言うの?
 疑問。
 突然降ってきた疑問に白鋼は驚いた。その疑問は自分のものではない、と。そんな事は考えたことも無ければ聞いた今でもそうだとは思はない。しかし今確かに白鋼の思考にはその疑問が浮かんできた。何故そんなに悲しいことを言うのかと。無意識にそんな事を思っていたのかと自分を疑い始めた時に、それはまたきた。
 ……白鋼さんは、どうして自分は存在しているのか何て悲しいことを考えるの?
 分かった。
 それは疑問ではなく、問いかけだった。白鋼に対する純粋な問いかけ。今までしていた自問とは違う他者からの問いかけだ。そしてそれをしてくる心当たりは一人しか居ない。その事実を確認すべく、白鋼は自ら思考をその声に向けた。今自分が支配しているはずの意識、朝倉 瑞樹とかいう娘の方へ。
 ……人間は、存在することに意味を求めるでしょう。それと同じです。私は自分が在るということに意味を求める。そして日本刀である私の存在意義は人を斬る事。しかし、私はそれをしたことがない。存在意義を果たせていない、百数余年もの間。だからこそ私は思うのです。何故私は、存在しているのだろうと。
 今まで誰にも言ったことのなかった思いを、白鋼はゆっくりと告げた。慣れないことをしているので違和感がないでもないが、この瑞樹との会話により自問の答えが出る可能性が在るのならと我慢することにした。人との会話は初めてなので何か得ることが出来るかもしれないという、あくまで打算的な考えでもあった。
 ……存在することになんて、意味はないと思います。
 短い返答が返ってくる。
 それは、その言葉は、今まで白鋼が悩んできたことを全て否定しているようなものだ。故に白鋼は自分が不機嫌になっているのを自覚した。
 ……どうしてそんなに落ち着いていられるのですか。覚えているでしょう。あなたは友人を斬ったのですよ? しかもあなたが自ら下した決断によって起きた事です。なのに、なのにどうしてそんなに落ち着いていられるのですか。
 静かに白鋼は切り出した。不可解な出来事ではあったし話も繋がっていないが、先の言葉に明らかな苛立ちを覚えた白鋼はどうしても瑞樹を攻めるような言葉を発したかったのだ。
 白鋼が支配している瑞樹の歩みは止まることなく一定のペースを保ち屋上への階段を上り始めている。靴のまま歩く廊下に、硬質な音がこだまし辺りは静寂に包まれ、それに准ずるかのように瑞樹の声が止んだ。
 …………。
 瑞樹を黙らせることに成功した白鋼だが、気が晴れる事はない。むしろ余計に胸の内を締める形容し難いもやもやした感覚が強くなっただけだ。
 ……あたなは、友を斬ったのです。あなたの判断で斬ったようなものです。あなたが、あなたが彼を斬ったのです。
 その感覚を払拭したいがために言葉を紡ぐ。瑞樹に向かい、ひたすら同じ言葉を紡ぐ白鋼は逆に自分が追い詰められていっていることに気付いていない。
 …………。
 その白鋼の言葉に、瑞樹の沈黙の雰囲気が変わった。
 さっきまでの沈黙は自責の念に駆られてのものだろう。しかし、今の沈黙は、明らかに――
 ……何故、何故そんなに私を哀れんでいるかのような目で見るのですか!
 実際瑞樹が白鋼を見ているわけではない。しかし感じるのだ。彼女が自分を哀れんでいるということを。哀れんだ目で自分を見ているということを。暗闇の中、ひたすら窓を叩く雨の音を聞きながら白鋼は声にならない思いを叫ぶ。
 ……何とか言いなさい! 私を何も知らないあなたが、私を哀れんでいい訳がない! 無知が成す哀れみなど、愚弄以外の何でもありません!!
 また疑問が増えた。何故私はこんなに不快な思いをしているのだろうかという疑問が。相手はただ沈黙しているだけだというのに、どうしてこんなにも不快に思うのだろうか。
 …………。
 そんな白鋼の思いは恐らく筒抜けだろう。そして、その疑問と叫びを聞いたはずの瑞樹が放つ沈黙の雰囲気が少し変わった。哀れみから、逡巡に。言ってもいいのだろうか、といった思いが伝わってくる。瑞樹は今、明らかに迷っている。

 ……気付いて……、いないの?

 躊躇いがちなその言葉。
 白鋼は無意識のうちに、瑞樹の意識を遠くへと追いやった。
 二つの意思が存在した場所に、再び静寂が訪れる。そこにいる一つの意思は、一つの言葉によってどうしようもない戸惑いを与えられた。……気付いて……、いないの? 静寂が訪れたその場所に、同じ言葉が繰り返し響いている。まるで喉に刺さった魚の骨のように、妙な違和感と不快さがそこにはあるのだ。言葉の意味は分からないが、強制的に、白鋼は戸惑いを与えられた。
 内なる意識の外側では、気の利いたBGMのように雨が窓を叩いている。
 屋上は目前まで迫っていた。

      ◇◆

「来る」
 突然闇に響き渡る太い声。
「外に出ろ、ここは狭い」
 屋上の扉に背を預け座っている剣に向かい発せられる声は黒鋼のものだ。金属で出来た屋上の扉はさっきから軽快なリズムで音を刻んでいる。外の雨脚が速くなってきた証拠だろう。それに伴い剣の心臓の音も、だんだんと脈打つ速度を上げていく。
「でもまだ冬華先輩たちが来てない。準備をしに出て行ったきりだろ? まさか、途中で襲われて――」
「我らは目標である最愛以外を襲うということはせん。するとしたら、それは相手が邪魔をしてきたときだけだ。おおかた貴様に気を遣って白鋼を仕留めようとしたのだろう。上手くはいかなかったようだがな」
 剣の言葉を遮るようにして言う黒鋼は尚言葉を続ける。
「死んでいるということはあるまい。あれは殺すということに欠けている存在だからな……。小僧、外へ出ろ。再三と言わせるようなら力は貸さんぞ」
 そう締めくくると黒鋼は沈黙した。
「欠けているってどういうことだよ?」
 自分の左腕に向かい問うが返ってくる答えはない。むしろ不機嫌なオーラがにじみ出ているかのような錯覚を覚えた。つっと、剣の頬を冷や汗が伝う。口の右端を上げ苦笑の表情を浮かべると、剣は重い扉をゆっくりと開けた。
 ぎいぃぃ……、といった錆びた音が夜の校舎に木霊する。静まり返った屋上はただ広く、やはり雨が強く降っていた。昼間は灰色の濃淡で彩られた空も、今では黒一色に染まっている。
 ……こっちの方が、分かりやすくて俺は好きだな。
 そんな事を思いつつ、屋上の真ん中まで移動する剣。強い雨のため視界がいいとは決して言えない。しかも服が冷たい雨を吸い、どんどん重くなっていった。身体能力が向上しているので些細なことにしか感じられなかったが、海での疲労のことも考えれば黒鋼を放した時の自分は想像したくなかった。
 水溜りの上を歩く時のような音を一歩一歩歩くごとに響かせながら、屋上の中央についた剣はゆっくりと振り返る。そこには何も居なかったが、確かに気配は感じ取ることができる。そう、黒鋼がさっき言ったとおり、既に直ぐ底まで白鋼は着ていたらしい。
 何故なら、自分の左手から発している蒼い光と同じものが、屋上の階段から漏れているのだから――。

第九章『知り得た在り方』

 雨が頬を強く叩きつける中。剣は屋上の入り口前に立つ瑞樹に向かい、静かに鞘から抜かれた黒鋼の刀身を正眼に構えていた。抜かれた鞘はそのまま投げ捨てている。黒鋼に言われやったことだ。対しまったく構える様子を見せない瑞樹は両腕をだらんと下げたままだ。その右手には白鋼がしっかりと握られている。間合いは三畳あるかないかと言ったところだ。自分の身体能力がどれ程向上しているのか分からないが、一瞬で詰められる間合いだろうと、剣は判断を下した。
 日本刀はおろか、竹刀すら産まれてこの方握ったこともない為、扱いなど分からないがそれは瑞樹も同じだろうと高をくくり、目の前の動く気配を見せない体を見据える。その瑞樹は全く動く気配を見せないが、それが逆に不気味だった。いっそのこと襲い掛かってきてくれたほうが楽だと言うのに、目の前の瑞樹は、正確には白鋼は、全く瑞樹の体を使役しようとする気配を見せないでいる。その為必然的に瑞樹を観察するような形になっている剣は、その外見に思わず唾を飲み込んだ。
 髪から滴り落ちる水滴は止まることなく、肌にべったりと張り付いている。その乱れた髪の合間から覗く肌は何所までも白く、同じく白い表情を右手から発する蒼白い光が照らしていた。俯き加減の顔に表情は当然ない。虚ろではない、無表情というわけでもない。それはどこか、廃人を思わせる表情だった。
 と、ゆっくりと一歩を踏み出してくる白鋼。
「…………」
 思わず黒鋼を強く握りなおした瞬間、それはきた。
 踏み出した一歩で地を蹴り、爆発的な勢いで目の前まで迫ってきたのだ。構えは上段。そのまま振り下ろしてきそうなので、黒鋼でそれを受けようとすると。
「右に跳べ」
 いきなりの黒鋼の台詞。
 極限状態にある剣は考える暇もなく、言われるがままに全力で右に跳んだ。今なら何を言われても即座にそのまま実行してしまうだろう。
 そして思いのほか上がっていた自分の脚力に驚いた。先の白鋼の踏み込み同様、一度地を蹴ればかなりの距離が進めるらしい。
「ぐっ!!」
 それが今、地面を平行に跳んだ挙句フェンスに激突して止まった自分で証明されたわけだ。
「何だよ、いきなり跳べって」
 地面に這い蹲っていたびしょ濡れの体を起こしつつ黒鋼に文句を言う。
「受けるな。貴様の動きで何度も白鋼の斬撃を受けていては我の身が持たん……。日本刀とは、状況により案外折れやすいのでな」
 溜息混じりに呟く黒鋼は更に一言。
「貴様は考えるな、我に従え」
「なっ……! それじゃぁ、操られているのと変わらないじゃないか俺!」
 肩を落としつつも素人の自分に何が出来る訳でもなく、しかも白鋼がいつ更なる攻撃を仕掛けてくるかも分からない今の状況から剣は黒鋼を信用してみることにした。
「分かったよ。言う通りにする……。ただ、朝倉さんを傷つけるような真似だけはしてくれるなよ。十円玉は常備してる」
「…………」
 最後の一言に黒鋼が苦笑するのが感じ取れ、剣も笑みを浮かべそうになったところで白鋼が仕掛けてきた。
「来た!!」
 横薙ぎに振るってくる刃は鈍く光り、今にも首を刈らんとする勢いだ。
「しゃがめ」
 言われた通りしゃがめば上を通り過ぎる蒼い光を纏った刃。その刃が素早い斬り返しで間髪居れず迫り来る。
「……鞘で受けろ」
 咄嗟の言葉に一瞬意味を掴みそこねたが、地面を見れば丁度自分が鞘を投げ捨てた位置だった。意地でも鍔迫り合いを避ける黒鋼に内心苦笑しつつも、鞘を右手で拾い全力で白鋼の刃に合わせる。
 がちぃっ! という音が一瞬したかと思えば手に重い斬撃を受けた時特有の鈍い感触が来て黒塗りの鞘が宙を舞った。しかしそれは白鋼も同様で雨に濡れた飛沫を散らしながら振り抜こうとした刃を後退させている。
 ……好機。
 これを機にしゃがんだ体勢から瑞樹の懐に入り込む剣。ここから白鋼を奪い取れば! そう思い手を伸ばす剣の手を、
「!?」
 瑞樹の左手が掴んだ。
 ……おい、これはおかしいだろう。
 摑まれた手が動かない。
「ちょっと……、待てって」
 白鋼と黒鋼の力が同等ならば、上がる力もまた同じのはずだ。それなら、元から力で上を行く自分は力比べで負けるはずがないではないか。それなのに現状はその剣の予想を覆しえしていた。
「くっそぉ……っ……!!」
 いくら力を入れてもびくともしない自分の右手は瑞樹の左手により安々と捻り上げられ、力の入っていない鳩尾を不意に蹴られた。
「ぐっ――っ!!」
 一瞬声にならない悲鳴を上げ、吹っ飛ぶ剣。
「――っ」
 ガシャンという音と共に、またもやフェンスによりその動きを止められるが、呼吸がままならない状況にさらされてしまった。はっはっ、と短く息を吐くが吸う事が儘ならない。
 何とか立ち上がろうと顔を上げれば、既にそこには瑞樹の姿があった。虚ろな表情でこちらを見下ろしている。いや、見てはいない。瑞樹はこちらを見る必要がないのだ。虚ろな目はただ静かに虚空を眺め、蒼く光る白鋼がその光に鈍い銀色の刃の輝きを重ねこちらを窺っている。
 苦悶の表情で戦慄する剣の顔に容赦なく雨が叩きつけてくる。それに目を細め何とか体勢を整えようというところで、白鋼の刃が白銀の軌跡を残し迫ってきた。
「……左腕を横に突き出せ」
 懐をがら空きにしろと、雨降る夜の屋上に、黒鋼の声がただ響く。

      ◇◆

 壊れろ!
 気付けば旨の内で叫ぶ自分が居る。何度も斬撃は空を切るが、そんなことは構わない。最愛を、石川剣を斬ろうとしていたはずだが彼を見た途端に他のものなど目に入らなくなっていた。ただひたすらに彼の、黒鋼の破壊のみを望む自分が居るのだ。
 自分の日本刀としての存在は、石川剣を斬った時こそ確固たるものとして確立される。そのはずなのに、今は黒鋼の破壊しか考えられない。
 ……何故でしょう。
 こんな時にも自問をしてしまう自分の考えに、一人自分らしいと思い形無き笑みを浮かべる。そして、この自分の疑問にはすぐさま応えることができた。

 嫉妬。

 そう、これは嫉妬だ。自分の望む道を進み幾人もの生き血を吸い、主様にさえ選ばれた。いくら自分が望んでも手に入らなかったものを、黒鋼は産まれた時から手にしていたのだ。しかも彼を封印するために自分の百数余年は無駄に費やされた。
 ……それだけの仕打ちを受け続けた私の願望が、長い時を経て今やっと成就するというのに。それなのに! それなのにっ!!
 思いと共に繰り出される連撃は尽く交わされている。

 ……何故あなたは邪魔をするのですか!!

 叫び石川剣の手を取れば、そのまま蹴りを鳩尾に決める。長年蓄積された思いは嫉妬に変わり、そしてそれは今を持って憎しみと化したのだ。そう自分に言い聞かせ、跳んだ黒鋼との間合いを一瞬にして詰める。
 ……壊れろ、壊れろ、壊れろ壊れろ壊れろ壊れろ壊れろ壊れろ壊れろ壊れろ壊れろ壊れろ壊れろ壊れろ壊れろ壊れろ…………。
 反芻する言葉を旨に秘め、白鋼は己自身を黒く染まった曇り空に向かい、高々と振りかぶった。

      ◇◆

 白銀の軌跡を目前に、剣は黒鋼が発した台詞の意図が掴めぬまま、黒鋼を持った左手を横に突き出す。その動きは必然的に自分の胸をがら空きにするという行為に他ならなかったが、今の自分にはこの場を回避する術を持っていない。その為黙って黒鋼の指示に従ったのだ。余りの恐怖に目を瞑っての行動となってしまったが……。
 強く閉じた目が捉えるのは闇。その闇の中、剣は自分に降り注ぐであろう白鋼の刃を想像し、戦慄した。刹那とも言える時間の中で、自分の肉が裂け血が飛び散る場面まで想像が及んだところで剣が耳にした音は、伸びるような高音だった。まるで鉄と鉄を打ち合わせたかのような。それと同時に自分の左腕に振動が伝ってくる。
「…………?」
 恐る恐る目を開けば、そこには信じられない光景が広がっていた。黒鋼を打ち付ける白鋼の姿だ。何故そうなったのかは分からない、分からないが。
 ……白鋼は俺をじゃなくて黒鋼を狙っている?
「起きろ。力比べでは勝てんぞ」
 考える暇もなく黒鋼の声が聞こえる。慌てて立ち上がった剣は跳ぶようにして距離をとった。
 そしてそのまま黒鋼を問いただそうと口を開いたところで、
「問うな、馳せるな、前を見ろ」
 見事に三つの命令が下る。
「…………」
 命令に従った訳ではないが、その黒鋼の口調に呆れた剣は結果的にそれに沿う行動をとっていた。
 と、唐突に神速の刃が左手目掛けて飛んでくる。
「くそっ!」
 何時の間にか間合いを詰めてきた白鋼の斬撃だ。いきなりのことで避ける間もなく刃を合わせる事となり、白鋼の斬撃を受けたまま身を回転し攻撃に転じる。そして当然のようにそれに合わせてくる白鋼。どうやら本当に黒鋼を打ち付けることしか頭にないらしい。
 何故そうなのかは分からないがこれを利用しない手はない、と続けざまに刃を振るう剣。
 その動きは洗礼されたものでは決してなく無駄の多いものだったが、白鋼は逐一それに合わせた動きで刃を合わせてくる。
 ……これなら!
 思い黒鋼を瑞樹の左側に振るう剣。当然のようにそれに合わせてくる白鋼は瑞樹の右手に握られている。故に今白鋼の柄は剣の目の前に曝された形となり、瑞樹の左手は交差するため先程のように止めることもままならない状態だ。黒鋼を左手に握っている剣も同じ状態になっているが、先に仕掛けたのは自分、それを受ける白鋼を上から押さえる形になっているので圧倒的に有利だ。それが例え力で負けているとしても稼げる時間は一瞬でいい。そしてその一瞬が、剣に悠々と白鋼の柄を握り締めることを成功させる。
 同時に白鋼の動きがぴたりと止まり、瑞樹の表情にだんだん生気が戻っていく。
「……石川、君」
 瑞樹の双眸は静かにこちらを見据えており、雫が落ちる前髪がその表情を隠していた。しかし肌に付く髪の間から見えた眉尻は下がって見え、悲しんでいる表情を剣に連想させる。
 ……何が悲しいんだ?
 疑問に思いながらも白鋼を握る手に力を籠め剣は口を開いた。
「朝倉さん。とりあえずこの日本刀を放してくれないかな? 朝倉さんは今までこの日本刀に操られてたんだよ」
 恐らく事情を知らないだろう瑞樹にそれだけ説明すると、促すようにして白鋼の柄を引く。突拍子もない事この上ないように聞こえるだろうが、状況が状況だ。恐らく無理矢理にでも信じるだろう。自分が初めて茂貴の話を聞いた時のように。
 放せば白鋼はまた瑞樹の体を使役するであろう現状で会話などしている暇はない。今まで蓄積していた疲労から気を失うだろうが、それを説明すれば手放ことに恐怖心を抱くことが用意に予想できたため、あえて言わずにおいた。
「知ってる」
「え?」
 俯き加減に呟く瑞樹の声が聞き取れなかった剣は思わず疑問の声を上げる。
「知ってる。白鋼さんが私を操っていた事、護条君や石川君が私を助けようとしてくれた事、それに私が石川君を斬ろうとしていた事も……」
 ……白鋼を介しての情報か? まぁ何にしても、それだけ話がわかってるのなら説明の必要もないか。
 それだけ思うと剣は安堵し瑞樹に微笑みかける。
「よかった。説明の手間が省けたよ。詳しくは後で話すけど、俺もシゲも冬華先輩も、皆朝倉さんを助けるために頑張ったんだ。知ってるだろう? 白鋼は妖刀、人を斬る存在だ。今も現に朝倉さんの体を乗っ取ってたしね。そんな存在を、放っておくわけにはいかない」
 最後の一言は妙に実感の篭った台詞となっていた。二度も殺されかけたのだから当然と言えば当然なのだが、それでも剣は、瑞樹が人を斬らなくて良かったと思う。気が小さくて優しい彼女は、きっと自責の念に駆られてしまうだろうから……。
「知ってる」
 そして先程と同じ台詞が聞こえる。
 しかし今度は問い返すことをしない。いや、正確には出来なかった。何故なら、その声に迷いと同じくらいの覚悟を感じて取れたから。
「私より、石川君たちの方がいっぱい知ってるんだろうと思うけど、私のほうが知ってることがあるよ」
 一度言葉をきり、唾を飲み込むようにして自分を落ち着かせる様子を見せた瑞樹が、また吶々と語り始める。その目は伏せ目で、決して剣を見ようとしていなかったが、それでも彼女はがんばろうとしているんだと言うことが容易に分かった。
「……それは、白鋼さんのこと。彼女はずっと人が斬れなくて、それにずっと悩んでて、自分が要らない存在だなんて思ってて……。誰にも認めてもらえない存在で、不要の存在で、日本刀として居る意味のない存在で……、そんな事ばかり思ってる人なの。何で、何で自分は存在しているんだろう? ってそんな事を本気で悩むような人なの!」
 俯き加減のその瞳から、涙が流れているのかどうかは分からない。しかし叩きつける雨の雫が幾筋も瑞樹の頬を伝い、涙のように見えた。彼女は白鋼を何の躊躇いもなく「人」と証している。そこにはなんの違和感もなく、ただ瑞樹が白鋼を同等に捉えているんだということが分かり、それが剣に瑞樹の次の台詞を連想させる。
「だから、私は白鋼さんを手放せない。もし私が彼女を手放したらそれこそ本当に、誰にも必要とされない存在だって、彼女は思ってしまうから……」
「…………」
 いつになく真剣な瞳で剣を見上げた瑞樹の顔は、いつも通り弱々しく見えた。しかし彼女は、その手に握る存在をしっかり支えようと踏ん張っているのだ。例えそれがどんな存在であれ、一つの意思を貫く姿は美しい。
 一瞬、剣の脳裏をそんな言葉が過ぎる。
 ……こんなに美しい存在の邪魔をしちゃいけないな……。いや、前言撤回。何かシゲみたいな台詞だ。
 臭い台詞は自分には似合わない。苦笑した剣は、言葉なく静かに白鋼の柄から手を放した。白鋼も、黒鋼も、喋れるのに言葉はなく、静かに瑞樹の弁を聞いていた。
「人に仇を成す存在だから破壊するって言うのは、ひどく傲慢な考え方だと私は思う……」
 不思議なことに、剣が白鋼を放したというのに瑞樹は正気を取り戻したままだった。何故かは分からない。しかし、悪い気がしないのは確かだ。
 日本刀を片手に、雨降る夜の屋上で向かい合う二人。その距離は既にないに等しく、手を伸ばせば触れ合うことの出来る距離だ。二人の間にあるのが許されるのは、空から降ってくる無数の雨粒のみとなっていた。
 そしてそんな中、瑞樹は初めて聞くこととなる、剣は幾度となく聞いた、太い声が響いた。
「朝倉瑞樹、我は貴女を敬服する」
 そしてその言葉が出ると同時に剣の左腕が上がった。
「なっ!? 黒鋼!!」
 最初に洗脳しようとした時同様、霊力の弱い自分の左腕を無理矢理乗っ取ったのだ。そして黒鋼を持つ左手を上げた理由は一つしか考えられない。
 白鋼の支配下にない今の瑞樹なら、確かにこの斬撃を逃れることは出来ないだろう。それ以前に、瑞樹は白鋼の刀身を下げたままだ。
 そして瑞樹には到底反応できるようではない速度で、黒鋼が振り下ろされた。
「やめろおぉぉぉ!!!」
 剣の叫びに、激しいく鳴り響く金属音が重なった。
 白鋼だ。
 反応できない瑞樹に代わり、白鋼が黒鋼の斬撃を受けるべく動いたのだ。しかしその支配は右腕だけのものらしい。それは瑞樹の驚いた表情が物語っている。そして、その驚いた表情にはきっともう一つ意味が在るのだろう。
 黒鋼が放った渾身の一撃を無理な形で受けた白鋼の刀身は、その半分から上を見事に失っている。
 蒼い光と鋼色の軌跡を残し、失われた刀身が、静かに弧を描いていた。

      ◇◆

 本当は気付いていたのかも知れない。
 それでいて気付かないふりをしていたのだ。現実を見たくなかったから。誰にも理解できる感情ではないだろうから。だから目を閉じ耳を塞いだ。
 ――私は、日本刀で在りたかった。

 雨降る闇に残像を残しながら舞う自分の半身を、白鋼は初めて知覚する。日本刀としての自分を、その体から切断する事によって初めて知る事ができたのだ。一度も人を斬ることのなかった刃。それが今自分の目の前を舞っている。
 そして白鋼は即座に気付いた。日本刀である自分には在りえないその姿に。

 鈍く光る鋼色の刃は、とても人を斬れるような代物ではなかったのだ。

 例えるならば模造刀。限りなく真剣に近いが、決して本物のそれと同じ効果を発揮する事は許されない物。しかし真剣を模して造られたものは、己を真剣であると勘違いしても仕方がないではないのだろうか。真剣である事を夢見るのはあたりまえの事ではないだろうか。
 ……少なくとも私は、そう在りたかった。
 思い静かに弧を描く己の半身を知覚する白鋼。
 それはまるでコマ送りに映し出される映像のように遅く見えた。山形に舞う刀身が臨界点に達し、地に向かい始める刹那、白鋼は思考する。変わった持ち主を持ったものですねと。
 初めはただの臆病者かと思った。自分を表現できない引っ込み思案な娘だと。しかし、実際は違った。
 ……このお嬢さんは優しすぎるんですね。だから他の人が傷つく事を恐れて何も言えないでいる。こんな私にも気を遣って……。全く、不器用な人ですね。おかげで体が勝手に動いてしまったじゃないですか。
 苦笑まじりに一人思う。黒鋼の殺意在る一撃は確実に瑞樹を狙っていた。自分とは違い、人を断つことのできる刃だ。それを知覚したとき、体は動いていた。危ない、と。
 咄嗟のこととはいえ無意識の行動ではなく、明らかに瑞樹の身の危険を察しての行動だ。
 ……これは、産まれたときからの差でしょうか。私の存在理由の為でしょうか?
 刃のない自分の体を現実に突きつけられ、全てを思い出した白鋼は一人思う。自分の存在は無駄ではなかったのか、と。
 目を背けてきた現実はいつの間にか記憶にない事となり、日本刀としての自分を追い求めるようになっていた。そんな自分が成して来た事は、本来の目的を思い出した今、無駄ではなかったのだろうか、と。
 人を斬るために産まれていなかった自分が抱いてきた『何故存在しているのでしょうか』という疑問。それをいつから考え出したのか思い出せないでいたが、今分かった。思い出したのではなく、気付いたのだ。
 ……結局、自分の存在に対する疑問は、産まれたその時から抱いていたのですね。
 刃を模る斬れない刃。それを持つ自分は産まれた時から矛盾を感じていたのだ。その抱えきれない疑問は切望となり、切望していた叶わぬ夢は己の中でいつか叶うものとなった。人さえ斬れば、人に刃をむけさえすれば、私の存在意義は確証されると。しかし実際に斬れない刀など使う人が居るわけもなく、己が真剣を模した存在であるという事には気付けないでいた。
 そして本人気付かぬまま、本来の目的である事に使われたのだ。
 ……黒鋼の封印。
 それが自分の存在理由だ。彼に対成す存在の自分は、とことん反対に造られたらしい。存在理由までも……。
 だから最愛を斬る彼を模した思考の自分は、実際石川剣と共にいる彼を見たとき本来の在り方に無意識に従ったのだ。本能と言い換えてもいいその激情は、抑える事も出来ず彼に斬撃を与え続けた。自分はそれにすら気付かず憎しみという偽りの感情を持って刃を振るっていたのだ。
 ……全く、道化ですね。
 鈍く光を放つ半身は、ようやく地に到達する。傍目から見れば真剣そのものな自分の刀身から出る蒼い光は、徐々にその光を弱めていっている。恐らく自分も同じ状態なのだろう。
 意識もだんだんと薄れていっているのが分かった。
 最後に心優しい少女に礼を述べて逝こうと思ったが、どうやら言葉を発する事も出来なくなってしまったようだ。
 ……全く、本来の自分に気付けず随分紆余曲折した人生を歩んでしまいましたがね。しかし現実を目の前にしたいまでも、私はやはり日本刀として在りたかった。こうして日本刀を模した形である以上、私は日本刀で……、あり、た……か……っ……。
 薄ら寒い意識の中、蒼い光が空へ昇る。雨が降り、最後まで寒かった刀身は今も尚冷えているが、唯一つ。

 最後まで自分の柄を包む手の温もりは、悪い気がしなかった。

第十章『赤い夕暮れ』

「とりあえず、洗いざらい喋ってもらおうか」
 剣は自分の左手が握っている黒塗りの日本刀に向けてつぶやいた。
 さっきまで座っていたベッドは夕日が当たって暑過ぎたので今はすぐ近くのソファーに座っている状態だ。白い壁が四方を取り囲み、その部屋にはベッドが二組置いてある。一つのベッドにはさっきまで自分が座っていたため現在は誰も使用する者が居ないが、もう一つのベッドには茂貴が横になっていた。何でも肋骨が二・三本ほど折れているとかで後一日くらい意識を失ったままだろうとのことだ。命に別状はないらしい。手術の方も三時間ほど前に終わり、こうしてベッドで落ち着いているというわけだ。
 瀬戸家が保有する病院。それが現在いる場所だった。
 屋上で全てが決着する頃には朝日が昇り始めており、その後直ぐにこの病院へとやってきたが到着した時には朝日は昇りきっていた。それからはひたすら待つしかなかったのだ。手術室の前で待ち、手術が終わった今、茂貴と同じ病室に移されている。自分は黒鋼をずっと握ったままなので疲れはない。病院に着いたとき、冬華に今手放しておいた方が後々楽だとは忠告されたが茂貴があんな状態だったし他にも知りたい事で溢れていたので断った。
 冬華も、剣君がそれでいいのなら、と強く言ってくることはなかったので未だに黒鋼は剣の手の中だ。
「急かすな。同じことを二度も語るのは面倒だ。さっき出て行った娘が帰ってくるのを待て」
 そしてその黒鋼が静かに言葉を返してくる。
 窓の外では今朝までの雨が嘘のように、所々に雲を残しているが晴れと言える空が広がっていた。時刻は既に夕方になろうとしている。西日が強くなってきた。
 と、黒鋼を見詰める剣の耳に控えめなノックの音が聞こえてきた。そして遅れて「入りますよ?」という声が聞こえてくる。
「あぁ、どうぞ」
 返事をすると静かにドアが開いた。その瞬間慌しく廊下を歩き回る看護士などの姿と賑やかな喧騒が聞こえてきたが、それも冬華がドアを閉めると同時に聞こえなくなる。
「お待たせしました。剣君はお茶でしたよね?」
 言いつつソファーの前にある机に缶を置いている。そして向いに腰掛けた冬華は膝の上で一緒に買ってきた缶を抱えている。
「ありがとうございます。すいませんね、買ってきてもらっちゃっ……て?」
「いえ、気にしなくていいですよ。仮にも剣君だって病人なんですから。黒鋼さんを放した時は茂貴と仲良くベッドインです」
 にこにこと微笑を絶やさない冬華はお茶を手に持ったままじーっとそれを見詰めている剣に小首を傾げた。
「どうかしましたか?」
「……いえ、変わったお茶だなと思いまして」 
 剣の右手にはでかでかと『落武者』と書かれた缶が握られている。
「それですか、今度瀬戸家で出す新商品なんですよ? 他にも『や〜い お茶』とか『HELLシャー!』とかがあります。今剣君が手に持っているのは高ぶった精神を落ち着ける効果がありますね。荒ぶる武士すら落ち着かせるお茶。略して『落武者』です」
 にこやかに語る冬華の手には体脂肪撲殺HELLシャー! と書かれた缶が握られている。缶には釘バットを持ったキャラクターが体脂肪という文字を撲殺している様をリアルに再現したイラストがプリントされていた。瀬戸家の絵師はリアル思考らしい。
「微妙にいろんなところにひっかかりそうな商品ですね……」
 言いつつ器用に右手だけでプルを上げた剣は、緑茶の香りがする落武者を口につける。何だか落ち込んだ気分になった。
「ところで、朝倉さんはどうなってるんですか?」
 落ちた肩を奮い立たせながら剣は今居ない瑞樹の事をたずねた。
「朝倉さんは筋肉などの内部の損傷が激しいので暫らくはまともに動けそうもないですね。茂貴と同じで明日中には目覚めるでしょうが、暫らく入院生活ですね」
「そう、ですか……」
 あの後、白鋼が放つ蒼い光が夜空へと散っていったと同時に瑞樹の体が、糸の切れた操り人形のように崩れた。呼吸も怪しい状態だったが、そのまま茂貴と同じくこの病院へ運ばれたのだ。白鋼が瑞樹の体を操りあれだけの動きをしたのは、人の体だったからだ。つまり、普段は脳が自分の力を制御しているが、白鋼はそれをする必要がない。そのため人の限界を超えた動きをする事ができたのだ。だから剣の力をも超える事ができた。二重でパワーアップをしていたという事だろう。
 しかしその代償に瑞樹の神経はぼろぼろだ。
「今は隣の病室で点滴をうったまま寝ています。命に別状はないのでよしとしましょう?」
 両手を合わせ、下からこちらの顔を覗き込むようにして言う冬華に、はいとだけ答えてお茶を飲む。
「ふぅ……」
 少し気分が落ち着いた気がした。
 花瓶に飾ってある花の花弁が、ひらりと床に落ちていった。それを見た剣は、気分を入れ替え左手を前に突き出す。
 黒鋼だ。
 そのまま黒塗りの日本刀を冬華と自分の机の上に載せ、
「冬華先輩ももどって来たし、そろそろ話してくれないか」
 静かに呟いた。
「……ふむ、何から話したものか」
 ようやく話す気になったらしく、重い声が響く。
「とりあえず、白鋼は何だったのか。分からないのはそれです。あの方は日本刀ではなかったのですか?」
 冬華が質問をし、黒鋼が少し沈黙した。今までのような拒絶するような沈黙ではなく、次の言葉を捜すかのような沈黙だ。その証拠に、黒鋼はまた直ぐに喋りはじめた。
「良かろう。まず白鋼。あれは日本刀を模ってはいるが日本刀ではない。我を封印するために作られたものだ。その刃は人を斬る事が許されず、ただ我と斬り結ぶためだけに存在したのだ。考えてもみろ。白鋼は瀬戸家に保管されていたのだぞ。霊力を持つ者が持てば莫大な力を得ることができる白鋼を、瀬戸家は何故使用しなかった?」
 ゆっくりと、一定のテンポで喋る黒鋼がふいに問うてきた。いきなりの問いだったが答えは簡単だ。
「人を斬ることが出来なかったから」
 剣はほぼ即答に近い間で回答を口にした。
「そうだ。刃を待たぬ刀など、模造刀と何等変わらぬ。木刀片手に戦に向う馬鹿はおらんだろう……。瀬戸家の連中は白鋼が刃を持たぬと知っていたから鑑賞するものとして飾っていたのだろう。あれがどんな思いで過ごしてきたのかは、初めて刃を合わせた時に知った……。自分を日本刀だと思い込んでいるという事をな」
「ちょっといいかな?」
 一言置いて黒鋼の話を遮った剣は右手に持った缶を机に置いた。
「なんだ?」
 一言、黒鋼が声を返してくる。それを聞いた剣は口を開いた。
「どうして黒鋼は、白鋼が日本刀じゃなくて封印の道具だって知ってたんだ? だって、普通分からないだろ。出来て直ぐ離れ離れになったんだから……」
 眉を顰め不思議そうに言う剣に、馬鹿にしたような声が飛んできた。
「阿呆が」
 いや、完全に馬鹿にしていた。
「我を持ち去ったのは、我を造った人間だ。それぐらい知っておいて当然だろう。それに持ち主が霊力を持っていたとしても、少しくらいなら思いや過去が見えるのでな……、その時に知った事だ。我ができた目的と、白鋼が出来た目的は」
「黒鋼が出来た目的?」
 剣が首を傾げる。それに答えたのは黒鋼ではなく冬華だ。
「黒鋼さんが出来た目的は前の話を聞いた通り、人を斬る事でしょう……。しかし分かりませんね。何故あなたを造った方は人を斬る存在と、それを封じる存在の二つを作ったのですか? 確か鍛冶職人さんは人を憎んだから、その全身全霊を籠めて二振りの日本刀を造り上げたのではありませんでしたか? 正確には、一振りの日本刀と、一つの封印の道具ですが……」
 後半に細かい指摘を残しつつ、冬華は静かに問うた。そして問い終われば手に持ったお茶の缶のプルを上げ一口飲む。
「我が造り手も人だったという事だ」
「ん?」
 首を傾げる剣。その前では冬華も同じように首をかしげている。ただ顔にはいつも通りの微笑が浮かんでいたが。
「つまり、我が出来た目的は人を斬るため。つまり我が造り手の憎しみの念により出来た存在だ。しかし、人に限らず全ての物は支えあって生きている。花粉を運ぶ蜂然り、木に巣食う虫然りだ。そして当然、我が作り手もその仕組みに組み込まれていた。己を理解し支えてくれる存在を欲していたのだ。つまり、人を憎んでいたが愛してもいた。後者の念から出来たのが、白鋼だ。当然それは人を救うものでなければならない。人を傷つけないものでなければならない。故に白鋼には刃がなく、我を封じる力が与えられたということだ。もっとも、我らを造り終え霊力を使い果たした状態に村人たちが押し入ってきたため我に体をのっとられる破目になったのだがな……、皮肉な話しだ」
 ふん、と鼻を鳴らすような声を上げれば黒鋼は沈黙した。どうやらこちらの質問に逐一答えていくという形に形式を変更したらしい。
 それを悟った剣は今まで聞いた事を踏まえた質問をする。
「なぁ、じゃぁ今回の黒鋼の目的はいったいなんだったんだ? 白鋼に近づけばまた封印されるかもしれなかっただろう? なのに自分から進んで近づいていったよな。それに確かこんな事もいってた。俺に黒鋼が情報を寄越してくれる時、言ったよな『利潤の一致だ』って。あの時にした黒鋼の説明は、白鋼が最愛である俺を殺しに来るっていったものだった。その時は俺も白鋼は日本刀だって思ってたから何も思わなかったけど、今思えばあれは嘘だったんだな?」
 少し攻めるような口調になってしまったが騙されていたと気付いた直後の台詞だから仕方がない。現に騙されたと気付いた今は不機嫌になっている。そのせいで何度殺されると思った事か。それにそれが初めからわかっていればもっと積極的に行動が起こせたはずだ。茂貴の怪我もなかったかもしれない。
 それが黒鋼の嘘一つでここまで被害が出たのだ。文句の一つも言いたくなる。
「目的か……」
「そう、目的だ」
 珍しくこちらの言葉を反芻し、本題に入ろうとしない。
「…………」
 しかし先程と同様、それが言葉を捜す沈黙だと分かっているので剣は黙って待つことにした。いい加減同じ体勢でいることには飽きてくる。疲れは感じないにしても精神的に同じ姿勢で長時間いるのは苦痛だ。それに黒鋼を手放した時のことを考えると余り歓迎できる状況でもない。
「白鋼を破壊することだ」
 待った結果帰ってきたのは短い返答だった。短い返答だったが、今まで聞いた話を総合すれば納得できない話しではない。自分を封印する唯一の道具である白鋼を破壊してしまえば実質黒鋼を脅かす存在はいない。自分たち霊能力者の手に渡っているとしても、長い目で見ればどうということはないのかもしれない。
 百数余年も在り続けた日本刀の時間に対する感覚なんて剣には想像もつかなかったが。
「納得できません」
 そこに凛とした声が響く。
 言うまでもなく冬華だ。彼女は手に持ったお茶を大きく傾ければそれを机に置き。膝の上に両手を軽く添え言う。
「確かに白鋼さんを破壊する事が目的だったというのは本当でしょう。しかし、その理由が納得できないんです」
「え、だって白鋼が居なくなれば黒鋼は自由に――」
「それなら私たちに嘘をつく必要がありません。朝倉さんを操り人を斬ろうとしている時点で破壊する事は決定しているようなものですから。そこに人を斬れるような代物ではないと分かればもっと効率よく破壊が出来たはずです。黒鋼さん、あなたが付いた嘘は白鋼さんのためのものだったのではないですか?」
 剣の台詞を遮るようにして、冬華が言葉を紡ぐ。いつも通りの微笑を浮かべ、しかし声色は若干真剣味帯びたもので。
 ……白鋼のためについた嘘?
 声には出さなかったが剣は内心首をかしげた。
「聞かせてみろ、貴様が考える理由とやらを」
 黒鋼の声も若干先程よりも真剣味を帯びているように聞こえ、剣は思わず息を呑んだ。いったい、他にどんな理由があるというのだと。
「では、簡単に説明させていただきます。まず私たちについた嘘は、白鋼さんを真剣だと思わせるようなものでした。これにより得をするのは白鋼さんしか居ません。私たちは、相手にするのは真剣だという事に畏怖の念を抱き動きが制限されます。しかしそれは白鋼さんの破壊を目的とするあなたの望むところではありません。しかし嘘をつかざるを得なくなった。それは何故か? 理由は簡単です。それは私たちが霊能力者だったから……」
「…………」
 そこでいったん言葉をきる冬華。しかし黒鋼は無言のままで口をはさもうとはしてこない。剣も無言だが、これは冬華の言葉の意味するところが全く分からないため口のはさみようがないのだ。故に冬華は話を再開する。
「次に私たちが霊能力者だった場合とそうでない場合の違いを考えます。その差も簡単ですね。持ち主が正気であるかないかです。おそらく黒鋼さんは最初に拾った人が霊能力者ではなかった場合、そのまま白鋼さんの下へ向ったはずです。その人の体を操って。しかし私たちは霊能力者だった。当然正気です。そして黒鋼さんの目的のためには、白鋼さんが日本刀であるという事を私たちに思い込ませておく必要があったのです」
「えーっと……、それが何故かを今考えてるんですよね」
 前置きがやたら長くなったが結局はそこに辿り着くらしいということが分かった剣は顎に手をやり考え込むようにして唸った。
「そうです剣君。そこなんです」
 びしっと、指を指してくる冬華。突然の事に思わずびくっと体が震える。
「何故私たちに日本刀であると思わせる必要があったのか。それは、私たちを騙すことが目的だったのではありません。白鋼さんを騙す事こそが真の目的だったのではありませんか? 白鋼さん自身が自分は日本刀であると思い続けさせるために」
 冬華は言い終わると空になったお茶を部屋の隅にあるゴミ箱へと捨てに行った。
『…………』
 冬華が戻って来るまで黒鋼は無言。自分も喋りだせるような雰囲気ではなかったため口を噤んだままだ。
 そして冬華が戻って来ても黒鋼は口を開こうとはしなかった。狭い病室に沈黙が降りる。
「一つ問おう。何故そう言いきれる」
「石川君に聞きました。あなたは最後に、こう言ったらしいですね。『朝倉瑞樹、我は貴女を敬服する』と。ふふふ、では私からも一言……。黒鋼さん、意外と情が深い方なんですね」
 口に手を添え微笑む冬華。そしてそれを聞いた黒鋼は、一瞬面食らったかのように「む……」と一言漏らせば。
「ふ……、ふふふ。ふははははははは!! 全く、聡明な娘だな。朝倉瑞樹といい、瀬戸冬華といい、昔と比べ随分女が頭角を現してきたものだ」
 本当に愉快そうに、まるで仕掛け悪戯を見破られてしまったかのように爽快に黒鋼は大声で笑った。
「ど、どういうことだよ?」
 剣は笑いあう二人を交互に見やりうろたえる。
「ふふふ……、私から説明しますね。宜しいですか? 黒鋼さん」
「あぁ、好きにするがいい。我も冬華の考えを拝聴したい」
 冬華のことを認めたのか、呼び方が貴様から冬華に変わっていることに気付いた剣は思わず笑いそうになってしまったが何とか堪える。そんあ剣には気付いた様子のない冬華が説明を始める。
「つまり黒鋼さんは、白鋼さんを日本刀として葬ろうと考えたんですよ。ずっと自分を日本刀と思い込んでいた彼女に、実はそうではないと今更真実を突きつけるのは酷だと考えたんですね。日本刀という形を模って生まれ、日本刀として人生を歩む事を望んだ彼女を、日本刀として終わらせようと……、黒鋼さんは考えたんです」
「……成る程。確かに情に深い」
「黙れ」
 妙に納得してしまい、思わず黒鋼を持ったまま腕を組み頷く。それに間髪居れず反応してくるあたり照れているのだろう。その答えを聞き安堵しているあたり自分も黒鋼に対し感情移入していた証拠だなと、剣は一人思った。
「しかし、最後に白鋼は自分を理解し支えようとしてくれる者に出会えたのだ。例え存在に懸ける思いがどうであれ、千人の手を渡ってもそんな相手には巡り合えなかった私には、奴が羨ましく思える。本当に……、我らは逆の道を進んだな」
 かつて千の生き血を吸ったといわれる妖刀は、静かにそう締めくくった。
「さて、剣君。聞きたいことは大体聞けたのでそろそろ寝た方がいいですよ」
 少し沈黙が流れた後、冬華はそう言えば静かに立ち上がりベッドへと促してくる。
「あ、はい」
 素直に従い入ったベッドは、西日により随分暖かくなっていた。開いた窓から入る風が心地良い。黒鋼を握ったままベッドに横になった剣は静かに左腕を冬華の方に差し出す。――と、そこで唐突に質問が浮かび、そのままの姿勢で剣は黒鋼に問いかけた。
「なぁ、目的を果たしたあんたは、また昔みたいに人を斬り続けるのか?」
「…………」
 突然上がった疑問に応える声はなく、ただ沈黙が続いた。
 どれ程沈黙が続いただろうか。黙ったままの黒鋼がもう口を開く事はないと判断した冬華が、ゆっくりと柄を抜き取っていく。
 無言で黒鋼を取ろうとする冬華。今黒鋼を放せば、今までの疲労が一気に押し寄せてきて当分意識を失ったままだろう。
 そして黒鋼を手放す瞬間。太い声が聞こえた気がした。

 ……人に疎まれる事は、そろそろ疲れた、と。

 その声を最後に、剣の体に疲労が襲い体が重くなっていく。
 病室の窓を横目に移した視界は何所までも赤く、もう夕日が蒼く見えることもない。海をも染める夕日が赤い海に沈んでいくのを重くなっていく瞼の隙間から眺めながら、剣は一人届くかどうか分からない思いを心の中で呟いた。

 ……じゃぁ、今度は……、俺があんたを支えてやるよ。

 その思いを最後に、剣の視界は暗く、暗く――。



第一部【双刀の物語】 完
2005/09/03(Sat)00:37:34 公開 / turugi
■この作品の著作権はturugiさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
はじめましての方は初めまして。私のことを記憶の片隅に残しておられる方は、す、凄いですね(滝汗)――もといお久しぶりです。
まずは、ここまで読んでくださったことに感謝を。長かったと思います……。読まれていない方は――、よ、読んでみませんか? いや、ネタバレとかいのでこの先を読んでもまったくかまいませんがね。

さて、2004年夏頃(約一年前)にこの作品をここに載せさせていただいていた者です。その際は、まぁいろいろごたごたしていましたので離れていたのですが、何故か戻ってまいりました。そして戻ってきたからには放置していた前作を完結させねば次の投稿すらままなりませんので、こうして一気にUPさせていただいたしだいであります。まったく読み手に優しくないことこの上ない。どうしようもない人ですね私は(本人えらく反省しております)。
それにしてもこの【BRESS】処女作ですのでいろいろ思い入れの強いものです。一応独学で調べては居ますが、まだまだ至らぬ点は数多くあると思います。ですから、お気づきの際にはアドバイス・報告・批評等お願いいたします。
もちろん感想もいただけるとありがたいです。

では皆様、ご縁が合えばまた合いましょう。

一気にUPされたこの作品、読むような人は果たして存在するのだろうかと思いつつ――
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