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『濁流へ』 作者:恋羽 / 異世界 ファンタジー
全角20577文字
容量41154 bytes
原稿用紙約62.75 枚
 

 





                      濁流へ








 一瞬で夢とわかる夢の中。そして明らかにいつも通りの悪夢の中。
 少女はただ黙り込んでいた。
 重く、澱の様に心に溜まっていくものがある。吐き出す場所も無く、しかし堰は余りにも強固で、胸は異常なまでの圧迫感に張り裂けそうだった。
 ……悪夢は森の中に始まる。
 闇が満ち、全てが漆黒に染まっていた……。闇は鮮やかに心に描かれる。
 蠢き揺れ、張り詰め、凍りつく。大きく変わり続ける彼女の生活の中、変わらない夢。
 それは……、決して変わらない結末に収束する。
 闇が濡れる。肌が溶ける。月に咽ぶ。……緑が笑う。
 その瞬間が訪れると、少女は心が幾つもの鋭利な刃に貫かれ切り裂かれ、壊されそうなほどに疼く。
 何一つ救いの無い世界に悲鳴が木霊す時、漸く悪夢は消え行く。
――お願い。もう二度と……、私を苦しめないで……。





 目を覚ましたのは、西日の差し込む洞穴。
 岩肌に無数に張り付いた珪素を含んだ石が、奥底の知れない曲がりくねった深い穴の中へと光を運ぶ。光沢のある石の囁きが、静かに彼女を目覚めさせる。
 見上げていた低い天井に揺れる蝙蝠がぽつりといた。自らを何かから守るように羽で覆い隠すその様は、彼女にかつての自分を連想させた。
「……リアティ、起きろ」
 体を起こした黒髪の少女リアティの背後から、しわがれた男の声がかかる。
 振り向いたリアティの目に男の黒皮のジャケットの背が映った。金色の髪を短く切った後頭部も見ることが出来る。
「ディエル」
 リアティの小さな声にディエルと呼ばれた男が振り返る。
 この男の顔を見る度に、リアティは自分自身と男の姿を重ねてしまう。
 鋭い眼光。顔に刻まれた幾筋もの傷跡。特に大きな眉間から鼻先に掛けての傷は、どこか誇らしげに彼の顔に張り付いている。口元に漂う沈黙に満ちた殺意。表情一つ崩さずに泣き叫ぶ子供の首を刈り取るその残忍さによく似合った、黒い獣の皮で出来た衣服。その研ぎ澄まされた印象は、恐らく他者の眼に映る自分によく似ているのだろう。それがリアティにはわかっていた。
「そろそろ……、仕事の時間だ」
 低い声が彼女に語りかける。リアティはただ頷き、そして立ち上がった。
 ディエルは一切無表情を崩さずに、布袋から干した骨付き肉を取り出してリアティの方へ投げる。それをリアティは無言で受け取り、静かに口にした。
――何故、この男は私を殺さないのだろう。
 リアティはよく考えてしまう。殺意の塊で、利害を抜きに人を自慢の曲刀で殺めることを唯一生甲斐にしているように見えるディエルが、リアティを生かしておく理由とは一体何なのだろう。孤独な殺人鬼は何故彼女を生かし、その上行動を共にしているのだろう。
 それ以上にリアティが疑問に思っているのは自分自身のことだった。
 人間を虫けらでも見るような目で見つめ、単純な快楽の為だけに殺す……、それがこのディエルという男だというのに、何故自分はこの男の元から逃れようとしないだろうか。
 しかしそんな思案も結局徒労に終わることは目に見えているのだ。それも全て四年前に由来していることは彼女が一番知っているのだから。
 リアティは、記憶の無い女であった。四年以上前のことを何一つ覚えてはいない。そしてそれからの出来事についても、記憶に靄が掛かった様に掠れた映像以外は思い出せない。……全ては四年前の何らかの出来事によるのだ、リアティは漠然とそう思っていた。
 記憶の無い、生きる術も無い少女は、自分の意思とは関係無く始まりの場所にいた。慈悲も無く、精霊の御霊などどこにも感じられない、悪と性愛と堕落の蔓延る教会に預けられていて、そんな教会の現実を嫌悪しながらも、しかしどこに行くあても無くそして行く理由も勇気も無いリアティは、ただ流れる日々を苦痛と共に生きていた。
 そんな時であった。……ディエルが教会を破滅に追い込んだのは。
 破壊、殺戮、断末魔。狂気、悪意、混沌。……それがリアティの聞いた、悪しき秩序への鎮魂歌であった。
 周りにいた無邪気な子供達も容赦無く殺され、血と炎の渦巻く教会は地獄そのものの様に思えた。
 そんな中、最後に残されたリアティを見つけたディエルは……、炎の巷から彼女を連れ出し、……そして今に至るのだ。
「……リアティ、もう行くぞ」
「うん」
 ディエルが痺れを切らした様に言うと、リアティはほとんど喉を通らなかった干し肉を自分の布袋にしまいこむ。そしてそれを背負う。
 足早に洞穴を抜け出したディエルの腰で、名刀アーグの鞘が沈みかけた夕日に照らされて血の色に染まっていた。




 黒い馬の背に揺られながら、ディエルは村を目指す。その後ろを栗毛の馬の背に乗ったリアティが追った。
 平坦な硬い砂地を行く二頭の馬。闇が刻々と辺りに降り始め、彼方の空が不気味な雲に覆われていた。その黒い雲は、どうやら雷雨を伴ってこちらへ進んでいる様に見える。
 リアティがディエルの背中を見つめ馬を駆っていると、ディエルが速度を落としリアティの馬の横に自分の馬を寄せ始めた。
「……今日はこれを使え」
 並走する馬の背で、ディエルは手にした小刀を差し出して、馬の蹄の音に掻き消えそうな声で言った。
 リアティは一瞬顔を歪めてから首を振る。
「ごめん、……刃物は嫌いなんだ。知ってるでしょ?」
「……わかっている。だが」
 一旦言葉を切り、ディエルは僅かに目を細めた。
「今日はどうも、悪い予感がする」
 ディエルのその様子に、何かただならぬ気配を感じたリアティだったが、しかしその小刀を受け取る気にはなれなかった。……刃物を持つと、急に頭が割れる様に痛くなる。それが何故なのかは知らないが、とにかく何者かと対峙した時にその頭痛が徒となることは避けなければならない。
「ごめんなさい、でも私にはこれがあるから」
 リアティはそう言って手綱から両手を離し、右の拳で左の掌を殴りつけた。その乾いた音に馬の耳が後ろを向いた。
 彼女のその言葉にディエルは頷く。そうだ。この女は素手ではディエルを凌ぐほどの力を持っているのだ、何を心配することがあるのだ、と。
 しかし彼女のその言葉を聞いた後ですら、脳裏を過る不安を拭い去ることは出来なかった。 
――何を考えているのだ……。何を恐れる必要がある……。死などありふれたものではないか。恐怖や心配など戦いには必要無い、剣を鈍らせるだけだ。
 ……空はディエルの中に蟠る奇妙な予感を助長するかのように、遠く雷鳴を轟かせるのみだった。




 アルフェールの村。牧羊と綿花の栽培が盛んであり、その二つの産業を生業とする人々が平和に生活を送る小さな村だ。しかし、そんな平和な村が五年に渡り西のガンド公国と東の山間の国、リエメール王国との間に起こった戦争により、大きな時代の波に飲まれていた。
 村には鉄製の甲冑に身を包んだ兵士達が我が物顔で歩き回り、羊毛とミルクを提供する筈の羊達は殺され肉と化した。それも全て、アルフェール村が二つの国のほぼ中間に位置する不幸な村であったことがただ一つの要因であった。たった二百人程度の人間が細々と暮らす集落が、貧弱な要塞として何度となく使用されるのだ。
 現在村に拠点を置いているのはリエメール王国側の男爵、ドルガフとその配下五百の兵士達である。もとより兵力、軍事力共に拮抗していた二国間の争いは、勢い良く燃え上がるような戦いではなく、寧ろ泥仕合の様相を呈していた。長く燻り続ける戦火は両国の国土を焼き、そして両国に挟まれ国境を成していたアルフェールの村はさながら焦土と化している。
 二人は、その村の端に馬を留めた。
「あの村……、何があったの?」
 リアティが遠目に見える小さな集落を指差して言った。何里先だろう、小高い丘の二人が眼下に見下ろす先に、燃え上がる家々が見える。
「……あの村はドルガフの兵士が群れていたはずだが」
 小さく、黒い服に身を包んだディエルは呟いた。辺りがほぼ完全なる闇に染まり始めると、彼の金髪の髪だけが空間に浮かんでいる様に見える。その姿は亡霊の様であった。
 二人の男女はつい最近まで、盗賊に近い生活を送っていた。村や集落を襲い、食料を奪い、最後には村ごと焼き払う、そんな生活を。
 しかし数日前、彼の腕前に目をつけた西の国の使者が彼とリアティが暮らすあの洞穴に訪ねてきた。
「戦局がガンド公国に傾くよう、協力してくれないか」
 恐れを知らない若い使者の申し出に、ディエルは僅かに笑ってしまった。……誰とも手を組まないことで知られる殺人鬼が、自国の為に命を賭ける使者の言葉に心を動かされた瞬間であった。
 その青年から託された第一の仕事。それがドルガフ男爵率いる兵団の殲滅及び男爵自身の殺害である。そして、ディエルが初めて自分の意思ではない行動を取る、その記念すべき戦いの日だというのに。彼の中に先程の胸騒ぎが木霊し始めた。
「……どうするの? ディエル」
 問い掛けるリアティの言葉に答えようともせず、ディエルは村へと続く下り坂を歩き始めた。




 辿り着いたアルフェールの村は、怒号に満ちていた。
 天然の要塞の様に周囲を切り立った崖に囲まれている集落は、木で出来た家が密集し、それが故に今火災に見舞われているらしかった。
 息絶えた我が子を抱き泣き叫ぶ母。姿を見失った恋人の名を大声で呼ぶ若い男。夢遊病者の様に炎に包まれた村を歩き回る人々。流れる血潮と燃え盛る火炎に塗れ、人間達は人間としての尊厳を失いつつあった。
 その村を貫く様に通された一本の大通りに、二人の男女が立ち尽くしている。
 リアティは、その光景を無表情で見つめていた。それを見て同情心を抱くことも無く、ましてやかつての自分が経験した事件を思い返すことも無い。心までもを無関心に染め尽くし、炎の乱舞をただ見つめている。
「何があったんだろうね」
「……リアティ、気を抜くな。……危険だ」
「危険?」
 リアティは笑いそうになるのを堪え、聞き返した。以前自らの手によってこれと似通った世界を作り上げてきた男の口から聞かれる言葉とはとても思えない。幾千の人間の命を、剣の一振りによって絶ってきた男の言葉とは。
 ディエルはそれ以上何も言わず、炎の喧騒の先に見えている大きな建物を目指す。そこがドルガフの使っている邸宅であることは知っていた。
 ……一歩踏み出す度、男の体に殺気が満ちる。踏み締める砂利の音が不気味に闇に響いていた。その背を見つめると、リアティは寒気すら感じてしまう。辺りの騒がしさが、ただ一人の男の為に聞こえなくなるほどに。
――ディエルが怯えてる……?
 リアティはふとそう感じた。彼ほどの使い手が、いや、この広いゴウェルト大陸一の実力者と言ってもいいほどの力を持つ男が、この道の先に待つ何かに怯えている。所構わず殺気を迸らせ、一分の隙すら感じさせない。
 若い女は、その殺意に満ちた背中を早足で追いかける。




 その館は村の家々からは大分隔たった位置に建てられている。石造りの外壁は切り出した灰色のまま、二人を見下ろす様に聳え立っている。それはさながら、切り立った崖。その壁に取りつけられた窓の内で、弱々しい光が不穏に揺れていた。
 高い塀がその館の周囲を取り囲み、そして長く伸びていたアルフェールの村からの道筋はその塀の一箇所に作られた金属製の重苦しい門に突き当たり途切れている。鈍色の門扉は堅く閉ざされていた。
 門の両端に兵装を施した門番が二人、近付いてくるディエルを見つめながら立っていた。……ディエルはその二人の視線に一切反応を示さず、ただ一直線に門へと向かっていく。
 リアティは……、門番の二人の目に、よく見慣れたもの――それは狂気と呼ぶのがふさわしいかもしれない――を見つけ、ディエルが先に言っていた危険がどうやらこの建物の中にあるらしいことを悟っていた。
「止まれ。この館に近寄ってはならん」
 門番の一人が、ディエルの殺気に気圧される事無く言った。……生ける者全てを恐怖に震えさせる悪魔の眼差しを受けて尚、門番は冷めたい瞳で男を睨み付けていた。
 しかし、最早殺意の塊にその心を埋め尽くされたディエルに、人間の言葉は届きはしない。
 ディエルはまるで舞踏でもするかのように優雅に、しかしリアティの鋭い目にしか映らないほどの速さで、抜き放った曲刀と共に右回りに体を回転させ、再び歩みを始めた。その後ろで二人の門番の首が転がったことすら眼中に無いとでも言うように。
 閉ざされた門の横に取りつけられた、こちらもまた鉄製らしい小さな扉を、ディエルは開けようとする。しかしそこには鍵が掛けられているらしく、簡単には開かない。
「少し待って」
 リアティは後ろから声を掛けると、助走をつけて扉に飛び蹴りを見舞った。凄まじい威力のそれは、衝撃音と共に鉄の扉を石塀から引き剥がしてしまう。
 塀の内側に入ると、ディエルは正面の入り口に足を進める。……辺りには生き物の気配すら感じられない。あれほどの音を発して扉を蹴破ったというのに、誰一人として兵士が顔を出さないというのはどういうわけだろう。リアティはその異様さに気味の悪さを感じる。そしてそれ以上に、彼女の中に不思議な胸の高鳴りが聞こえ始めていた。
「……リアティ、お前は帰ってくれ」
「そんな、何故?」
 リアティは少し声を荒げ、ディエルに問うた。ディエルは振り向き、……その真剣な眼差しを彼女に向ける。
 黒髪の女は、何故自分がディエルと一緒に館の中に入ろうとしているのかを疑問に思っていた。何一つ理由は無い。ここでディエルを待っている方が遥かに楽だ。そして、この仕事に協力したとしても、彼女に利益は無い。
 だがこの館の中で何かが彼女を待っている、そんな予感があった。何か、彼女の根源を揺るがすほどに強烈な何かが。その予感は余りにも漠然としたものだったが、しかし彼女にとっては現実にも等しい足音を持って彼女に迫っている気がした。そしてディエルが恐れているのも、きっとその存在なのではないか、そんな気がするのだ。
「……多分、ここにいるのは、怪物だ」
「怪物? そんなのそこらじゅうのどこにでもいるじゃない。私がそんなものに遅れを取ると――」
「……駄目だ。おそらく……この中で待っているのは、そんな低次元のものじゃない。化け物だ。……俺にはお前を守る自信が無い」
 その言葉に、リアティは言葉を失うほどに驚いた。彼が畏怖する怪物の強さのことではない。彼の口から出た言葉に対してである。
 守る。およそ殺人鬼には似つかわしくない言葉であった。……何度と無く彼と共に村を襲い金品を奪ったリアティは、ディエルのその言葉の意味を探した。それは余りにも簡単に見つけられる答えだったが、しかしディエルという存在がその答えを現実味の無いものへと変えてしまう。
――そうか……、だから私は殺されなかったのか……。
 彼の口から溢れ出た言葉によって、漸く彼女の中で何度と無く繰り返された疑問の一つが解決された。そして、彼女自身についての疑問の一つも。
 彼女自身、ディエルの存在に彼と似通った感覚を覚えていたのだ。他人の金品を奪い、哀れな命を奪いながら生きた日々の中で、それは余りに非現実な想いではあったが。愛と呼ぶには冷たく血の通わない、不完全に揺れる弱い繋がり……。
「……あの洞穴で、待っていてくれ」
 しかし、だとするならば尚のこと、リアティは戦いたいと望む。
「……たった一つの、俺の願いだ。頼む」
 孤高の殺人鬼、ディエル=レンバーグが、十六歳の娘に頭を下げた瞬間だった。
 リアティはまだ心に闘志を漲らせていたが、その姿を見せられると頷かざるを得なかった。
「わかった。……待ってる」
 そう言い残し、少女は先程蹴破った扉へと歩を進めた。それ以上何も言わず、しばしの別れに言葉を交わそうともせず。
 ディエルは残されたただ一言の祝福の言葉を噛み締めると、再び全身にただならぬ殺気を宿し、館の中へと足を踏み入れていった……。



 リアティを門の外で静かに待ち受けている存在が二つ、そこにあった。
 その姿を彼女が両の眼に捉える。瞬間、彼女の中にあった和やかなる心情は鮮やかな殺意に摩り替わる。
 しかし……、その存在をよく見つめると、リアティの中に狼狽が浮かぶ。
――首が、無い。
 その姿には見覚えがあった。真新しい鉄製の甲冑。その下に身に着けられた鎖の襦袢。しかしそれはそこにあってはならないのだ。門柱の横の地面に横たわっているはずなのだから。
 それは先程、ディエルの手によって殺められた筈の二人の門番。……切り落とされた首が確かに彼等の体の後ろに転がっている。当然彼等の肩の上にあるはずの顔は無い。
 語ることも無く、のろのろと向かってくる体だけの男達を、リアティは必死に殴り飛ばす。普段冷静な彼女にとっても彼等の存在は脅威であった。
 倒れ込んだ彼等はまたのろのろと立ち上がり、こちらへと向かってくる。
――きりが無い。
 リアティは手に感じた急所の感覚と彼等の動きを照らし合わせてそう判断すると、村へと伸びる道を駆け出した。
 疾風の如く駆けるリアティに首の無い門番の体が追いつくはずも無く、二つの体は立ち止まり黒髪の女を見送る。
 だが……、異常な世界は館の門が終わりではなかった。
 辿り着いた村の入り口。そこから見える光景は、先程の地獄絵図を凌ぐものだった。
 死に絶えた筈の乳児が母の肉を嬉々として食らう。焼け爛れた裸体の女は縮れた髪を振り乱し恋人を襲う。先程よりも一段上の悲鳴があちらこちらで上がり、しかしそれは炎の発する轟音に吸い取られ、代わりに怒れる死者の叫びが響き渡っている。
 一体何が起こったのか。リアティは恐怖よりも驚きに目を見開き、しかし立ち止まる訳にもいかずにより一層歩を早めた。




 暗く、微かな蝋燭の明かりに照らされたホール。時にはダンスパーティでも開かれたのだろう広い空間。臙脂の絨毯が敷き詰められ、正面に見える大きな階段は巨大な口髭の男の肖像に突き当り両側に分かれ二階へと伸びていた。あの肖像の人物がおそらくドルガフ男爵なのだろう。
 その広大なホールに一人、男が立ち尽くしている。こちらに背中を向けたその男の後姿に、ディエルは見覚えがあった。
 灰色で染め尽くされた細身の後姿。背中にすら殺気が溢れ、見るものを圧倒する迫力がある。そしてその緑の背に垂れた長い髪……。ディエルは懐かしさすら覚えた。
「ルオン」
 やはりこの男だったか。ディエルは館に足を踏み入れる時に感じた予感を思い出し、それが間違いではなかったことを確信する。
 掛けた声に、男がゆらりと振り返る。静かに、その顔がディエルの目に映った。
 その顔に、ディエルは違和感を感じる。――違う、これはルオンではない。しかし……。
 少女の様に可愛らしさを持った顔立ち。目は鋭さとは無縁というほどに丸く垂れ、しかし顔には細かく刻まれた幾つもの傷は男が戦いの中で育まれたことを示している。それは確かにルオンだった。
 だが、ディエルの知るルオンという男とは違う。それは余りにもかつての宿敵とは違う、その顔に宿った表情だった。
「お前は……、誰だ?」
 歪んだ眉根。こけた頬。紫の乾いた唇。そのどれもが記憶の中に鮮やかに宿る、ディエルを追い詰めたあのルオンとは僅かに違っていた。あの高名な若き賞金稼ぎ、ルオン=ヒルリーフではない。
 勿論流れた数年の年月が天才短剣使いを変えてしまったのかもしれなかった。しかし……正義に燃えたあの男が、こんな下卑た表情をその端正な顔に浮かばせるとはどうしても思えない。
 ルオンと同じ顔をした男は、……何も語ろうとはしなかった。その答えの代わりに、彼は腰に帯びた短剣のホルダーから二本を取り上げると、睨み付けるディエルに向ける。
――やはり、違う。
 ルオン=ヒルリーフは、多弁な男であった。そして、ディエルのような賞金首に対してどこか親近感に近いものを持った男であり、言葉には表さないものの自分に近い年齢にして大陸屈指の使い手であったディエルに対してはどこか敬意を持っている様にも思えたほどだ。彼の繰り出す一撃一撃に、それが滲んでいた。
 それがどうだ。……目の前の彼の姿に似た男は、ディエルを憎悪に似た表情で睨み付けているだけだ。
「……その男は、ルオン=ヒルリーフではありませんよ」
 蝋燭の灯りの届かない暗がり、二つに分かれた階段の右側から男の声が発せられた。
「誰だ」
 殺気に満ちた瞳をそちらに向けると、男が階段を下ってくる。
「彼は今頃、遺跡を漁る旅をしている筈です。……そこにいるのは彼の父の体から精巧に作った偽物ですよ」
 段々とその姿を現したのは、銀の眼鏡だけが印象的な優男だった。チェック地のシャツや長い手足などはディエルの目には映らない。彼の目はただ男の目を見つめていた。
「偽物……」
 男の眼鏡の裏で、ブラウンの瞳がいやらしくにやけた。その表情はどこかディエルを睨み付けるルオンの姿と似ている。
「申し遅れました、私は古代遺物の研究をしているファルガウスト=ソルテグレと申す者です」




 振り掛かる亡者の手を逃れ走るリアティは、その足取りを徐々に緩めていた。
 何より息苦しい。燃え盛る木製の家が放つ煙が目や喉にしみる。館に向かう時にはこれほどの煙や熱風は無かった。どうやら風が出てきたらしい。それもリアティにとってはその体を押し返される逆風が。
 とうとう足を止めてしまったリアティは、炎に包まれた道の中心で鼻と口を手で覆った。――苦しい。
 息を荒げ、しかし立ち止まり続ける危険を思い、リアティは重い足を前へと踏み出す。
 だが……。呼吸などという生理現象を忘れてしまった亡者達が、炎の風に焼かれながら彼女に追い縋る。苦しむ女の足が緩んだことは、生ある者から否応無く命を奪う衝動によってのみ蠢く彼等にとって好都合だった。
 炎を帯びた男の死骸が、彼女の背後から近付き、その肩に手を置いた。
 しかし、リアティとて相当の使い手である。彼女の命を様々な修羅場で繋ぎ続けてきた野生の勘と言ってもいいものが、背後から迫りくる危機を確かに捉えていた。
 すぐさま男には後ろ蹴りが衝突する。その女とは思えない力に、男の体は宙を舞い熱を持ち始めた地面へと倒れこむ。
 ……リアティの体は、そこで限界を迎えた。
 正面から、背後から、迫り来る死人の歩む気配を感じながら、しかし体はもうこれ以上動かない。
――死ぬのか……。
 リアティの内に、静かな諦めが芽生え始めた。痛みに対する恐怖以外に、彼女が死に抗う理由は無かった。それを彼女自身が一番知っているのだ。だからこそ今まで、死地に身を置いてきたのだ。彼女は、どこかで死を望んでいた。
 その時、彼女の中にディエルの顔が浮かぶ。
――駄目だよ……、死んじゃ駄目。生きなきゃ……。
 彼女の目に、心からの涙が流れた。
 自分には待たなければならない人がいる。それが無性に嬉しく思えた。自分を守ってくれる誰かがいる。今までに感じたことの無い華々しい感情が心の奥底から湧き起こった。
 リアティは渾身の力で体を起こす。熱風は強く吹き荒れ、灰と煙が舞い踊っている。だが、彼女はもう少し進める気がした。
 ……その彼女の前に、三つの行ける屍が立ちはだかる……。リアティは、希望を胸に秘め、絶望の淵に自分がいることを確かに感じていた。
 彼女の体がゆらりと揺れ、そのまま土の上に倒れこんでしまうと、その体に三人の亡者がゆったりと襲いかかる。


 その瞬間だった。


 赤い炎に白刃が閃く。空を舞った影の手に握られた短剣が、二つの亡骸を脳天から縦に裂いた。
 その気配にようやく気付いた亡者が振り向くと……、紅色の光に包まれた中に、新緑の草原に似た色彩が映えている、緑の髪の男がいた。
 しかし緩慢な亡者の眼がそれを捉えた直後、彼の体は首と腰の二箇所を一撃の元に切断されていた。
 リアティの気絶した体を抱えると、緑の髪の男は今来た道を丘の方角へと戻り始めた……。




 ディエルは苦戦を強いられていた。
 ルオンの偽物という男が繰り出す短剣は、それぞれが全く別の生命体の様に空間を切り取り、削ぎ落とし、戯れ遊ぶ。男の素早い身のこなしは確かにかつて剣を交えたルオンそのものだった。蛇の様に揺れ動く腕は、その動きを見抜く事を拒み、彼の間合いに踏み込むことが容易ではないことを無言で語っていた。
 ディエルは後退り、舌打ちをする。男はまるで階段の上にいるファルガウストを狙っているディエルの心を読んでいるように、階段を守る様に張り付いて離れない。
 ファルガウストの高笑いが揺らめく灯りに照らされるホールに響き渡った。
「無駄ですよ無駄。あのルオン=ヒルリーフのコピーですよ? この大陸で、敵う者はいないとされている、伝説的な短剣使い。……この最強の兵士を造る為に、どれだけ私が苦労したことか」
「……お前が造ったのか」
 ディエルの目が、殺気を帯びて長身の男を睨み付ける。その殺気が殊更に男の狂気を駆り立てている様だ。
「ええ――とはいっても、私がしたのは古代遺跡から発掘した高度な技術を駆使して創られた遺物を、遺跡の壁に記された通りの方法で使った、ただそれだけのことではあるんですがね。その遺跡がある辺りには、特に霊科学が発達した文明が存在していたようですね。しかしその文明は愚かながらも強大な力を持った他の種族によって滅ぼされた。その文明が最後の兵器として開発したこの道具は使われずに、ね」
 ファルガウストは右の手に持った石の短い棒のような物を自慢げにディエルに向けて振った。――あの棒があれば、こんなおかしな現象が起こせるのか。
「この高度遺物『マムシスの羽』があれば、死骸を意のままに操ることが出来るんです……、そこの死骸みたいにね。ドルガフ男爵も私にこれの研究をさせていました。しかし、こういう可能性について考えなかったんでしょうかねぇ、あの軍人は」
「殺したのか」
 ディエルの問い掛けにファルガウストはまた大袈裟に笑った。
「当たり前でしょう。死者を操ることが出来る私が、あんな愚かな男に従う理由はありませんから。研究資金を用意してくれたことには感謝していますが」
 ディエルはそれに対して特に何の感情も感じはしなかった。もとよりドルガフは殺される運命だったのだ。たった五百の兵士ではディエルの攻撃を防ぐ盾にすらなりはしない。
 しかし……。死骸を操るというその力には、どこか不愉快さを感じた。彼自身何千もの人々を殺め葬ってきたという事実がそう感じさせているのかもしれない。または、生ある者全てに共通する感性がそうさせているのだろうか。
 ……ディエルの目は当面の敵であるルオンのコピーを見つめる。
「その死骸は特別製でしてねぇ、本来この『マムシスの羽』は死者の生前の戦闘能力以上のものは引き出せないのですが……。伯父の発掘品の中から幾つか高度遺物を拝借して、父親の体から息子であるルオン=ヒルリーフを私の手で造り上げることに成功したんです……。貴方がどこの誰かは知りませんが、果たして大陸一の男を倒すことが出来ますか?」
 その言葉とほぼ同時に、コピーが飛ぶ。その跳躍力は人間とは思えないほどで、たったそれだけで孤高の殺人鬼の目は一瞬奪われる。
 だが、ファルガウストは知らなかった。光の道を歩むルオン=ヒルリーフとは違う世界に、もう一人大陸一と呼ばれ恐れられた男がいたことを。血塗られた闇の道を歩む、狂気に支配された悪魔を。
 跳んだコピーを無視し、その手から投げ下ろされる無数のナイフを踊る様にかわす。その流れるような動きは何度と無くこのホールで繰り広げられたであろうダンスパーティを思わせ、しかし踊るディエルの体に宿る冷たい感情はファルガウストの目を見開かせるのには十分だった。
 残像を残す様に静と動の繰り返しを演じ、短剣の雨の中を優雅に通り過ぎる。その姿を目で追う者にはそれが遅く、悠長な速度に思えただろう。だが、その速度は決して遅くはなかった。その証拠にコピーは未だ跳躍から着地という現象の帰結を迎えていない。
 その動きのまま階段を昇るディエルは、ゆっくりと愛刀アーグを腰の後ろに回した鞘から抜く。
 瞬間、ファルガウストの表情が――いやらしく歪んだ。
「コピーはあの死骸一つと、言いましたか?」
 いつの間にそこに隠れていたのか、彼の背後から漸く跳躍を終えたコピーと同じ顔をしたもう一人のコピーが短剣を繰り出した。
 左手の短剣を辛うじてかわしたが、右手の短剣がディエルの頬を掠める。熱い血潮がそこから迸った。ディエルは思わず後ろに下がる。
 が。そこには先程のコピーが詰め寄っていた。コピーの短剣が背後からディエルの背を抉る。
 ……ディエルは死を覚悟した。しかしそう簡単に首を差し出すわけにはいかない、と後ろ蹴りで背後のコピーを跳ね飛ばすと、目の前のファルガウストに迫る。
――死なば諸共、だ。
 背中の傷から流れる血を感じていたが、痛みに表情を歪めることもなく曲刀を握り締める手に力を込める。コピーが間に立ちはだかったが、あくまで狙いをファルガウストに絞った殺人鬼は意に介さない。
 そしてディエルがアーグ振り上げた瞬間。
 頭上からディエルの刃目掛けて降ってきたのは、紛れも無くまたルオンのコピーであった。
 その手に握られていた短剣が、切っ先を水平に保ったままギロチンの如く落ちてくる。
 ディエルは間一髪身を仰け反らせそれをかわそうとするが……一瞬遅かった。鼻先を縦に切られる。その痛みは冷徹な殺人鬼にすら耐え難いものだった。
「ふふふ……、とりあえず今造ってあるのはこの三体だけですが、たったこれだけでも数千数万の軍隊に匹敵するでしょうねぇ。これから私が造る最高の兵士を擁する兵団は、果たしてどれだけ強大な物になるんでしょうか、ねぇ」
 ……この男は自分とは違う種類の狂気に憑かれているらしい。それは自分にすら勝る肥大を遂げた異常心理。古代遺跡への深い探求心がいつからか物欲や出世欲に形を変え、この男に根付いてしまったのだろう。そして食らい尽くされていった彼自身の人格。それを思うと、ファルガウストを哀れむ気持ちすらディエルの中に湧き起こった。
 しかしもう彼には、この哀れな男を救う方法は無い。三体の屍に、彼は殺される運命なのだろう。それをどこかで悟ってしまう自分を見つけていた。
 ファルガウストを守る様に二人。背後に一人。並みの使い手ならばどうにでもなるが、相手はかつてたった一人でディエルに立ち向かい生き残った、あのルオン=ヒルリーフなのだ。彼と同等とは言えないまでも、それが三人となれば如何にディエルが強いとは言っても打ち勝つのは難しい。せめてファルガウストを道連れにして、その力を無力化しようと試みたが、どうやら唯一の機会も逸してしまったようだ。……あの使者の青年の願いは、別の形として裏切られてしまった。
 最強の殺人鬼が遂に自らの死と対峙した時、だった。


 空間を切り裂く様に、短く澄んだ音が鳴った。


 たった一度のその音がディエルの耳に届き、そしてそのたった一度の音が彼を死の安息から再び現実へと引き戻したのだった。
 空気を裂いたのは、……短剣。コピーの一人によって叩き落されたその短剣は、紛れも無く……。
 開け放たれたままのホールへと続く入り口。いつの間にか雷鳴が轟き始めた館のその入り口に、一人の男が立っていた。短剣はそちらから投げられた。
 白の閃光に一瞬照らされたその髪色は、……緑。
 自然ホールにいた全員がその方向を見る。
 その十の瞳に見つめられた男は、自分によく似た三つの人影に驚いた様子だった。
「……なんで、ここにいるんだ?」
 ファルガウストが小さく、しかしヒステリックな響きを込めて呟いた。それも仕方の無いことだ。彼が苦心の末造り上げたコピーのモデル、ルオン=ヒルリーフが確かにそこに立っていたのだから。
 階段上に無造作に並ぶ十の瞳を、ルオンは静かに睨みつけていた。
 そこにルオンに続いて館に足を踏み入れた人影がある。
「あれぇ? あそこにもルオンがいるよ」
「俺はあんなに不細工じゃないだろ。……どうやらここでソルテグレの親族が古代遺物の研究をしてるっていうのは本当らしいな」
 大陸一の短剣使いルオンと、その横に立つやや小柄な人影。その声はやや高く、少年を思わせた。
 また一度、雷が空間に二人の姿を浮かばせる。そこにルオンと共に浮かび上がったのは、ブラウンの髪を古い時代の騎士の様に刈上げた雀斑の少年だった。生成りのシャツを着た少年は上半身に防具らしき物を殆ど身につけていない。辛うじて防具と呼べるのは肘に付けられた真鍮製らしい肘当てくらいである。しかし下半身については完璧といえるほどに行き届いた、鉄製の具足でしっかりと身を包んでいる。それらががしゃがしゃと賑やかな音を鳴らした。
「ジャウ、ちょっと時間が掛かりそうだ。『エリザの甲冑』を着といてくれ」
「うん、わかった」
 二人は階段の上から見つめる視線を気にせず、そう言葉を交わした。
 ジャウと呼ばれた少年は、その華奢な腰に巻きつけられた布袋から大振りのペンのような物を取り出し、自分のシャツの胸に何やら描き始めた。古代文字らしいそれは、大きな模様の様にそこに張り付く。
 それが描き終えられた直後。
 どこから発せられたとも知れない、青く雷光や星の光に似た閃光が辺りを照らした。その大いなる光はホール全体を満遍なく満たし、そして少年の幼い顔立ちまでもを鮮やかに露にする。それを見つめる者の目に驚きと音の無い溜息を浮かばせながら。
 光は次第に形を成し始め、突然少年の守る物の無いひ弱な上半身を覆う様に集まり始める。収束していくそれはより青さを増し、少年の頭から腰までを厳重に守る甲冑にその姿を変えた。青く輝く甲冑は、少年を完全に覆い尽くしている。
 その様子を見守っていたルオンは現象の結末を見て取ると、静かに階段に向かって歩き始める。その一歩に、ファルガウストはハッと息を呑んだ。
「何を怯える必要がある!? こっちには三体もコピーがあるんだ、本物がたった一人で向かってきたところで敵う訳も無い!」
 ……ディエルは襲ってきた痛みに耐えながらも、さながら置物の様に固まってしまった三体の死骸の脇をすり抜け、ルオンに歩み寄った。
 二人の視線が、数年振りに交わされる。敵でありながら友情に似た感情で繋がり合った二人の伝説的な強者が、今再び合い見えたのだ。久しぶりに見たルオンの顔はあの頃より幾分大人びていたが、しかし少年のような顔立ちは少しも変わらない。今更ながら自分を追いかけていた頃の彼は本当に少年だったのだろうということを考えさせられる。
「ルオン……」
「やっぱり、あんたか」
 ルオンの目に懐かしむような表情が浮かぶ。今はすでに賞金稼ぎから身を引いたルオンには、傷ついたディエルを捕らえようという意思は無い。いや、かつてのルオンであっても、自らの力によって捕らえたのではない賞金首を獲物として扱うことは無かっただろう。やはり真実のルオン=ヒルリーフはどこか騎士道にも似た正義感に満ちていた。
「気付いていたのか」
 かつてとは随分変わってしまった自分の顔を、ルオンに見分けることが出来るとは思っていなかった。
 ルオンが爽やかに笑う。
「その眉間からの傷をつけた本人だからね」
 ディエルはルオンに顎で示された傷を無意識にさすり、そして……笑った。
 笑ったのはいつ以来だろう。だが、この大陸一の短剣使いと剣を交えていた頃、確かに自分は笑っていた気がする。子供の様に無邪気に。
「……かなり、手強い」
 ディエルは笑顔を傷の痛みによる苦痛に歪め、彼の傍らに立つ男と同じ顔をした三人の亡骸を見遣った。
「……ちょっと質問がある。あの俺と同じような顔をした連中、どうやって造られたんだ……?」
 すでに何かを知っている様子のルオンの口ぶりに、ディエルは表情を変えずに答えた。
「どうやら、お前の父親の死体を元にして造られたものらしい。そして高度遺物とかいう物で、ファルガウスト、あの眼鏡の男だ、あいつが操っているらしい」
「わかった」
 ルオンは一言答えると、傷ついたディエルに下がっている様に目で合図し、自らは一歩前へ出た。ディエルは緩慢な動きで青い甲冑の少年の所まで辿り着くと、絨毯に座りこむ。もうそれ以上歩く力は残されていなかった。
「何をしている! 動け!」
 ファルガウストの憎々しげな声が、ホールに響き渡った。三体の亡骸が銅像の様に動かないのは、おそらく彼自身の精神の乱れによるのだろう。暫くして死骸はゆるゆると動き始めた。


「……村に火を放ったのはお前か?」


 その一言は天上の閃光を伴ってファルガウストに届いた。ゆっくりと歩み寄るルオンは少しもその歩みを早めようとはしない。極めてゆっくりと、しかし確実に、階段へと迫る。遅れて、空気の爆ぜる音が轟いた。
「……ええ、そうですよ。死者を操る実験を知っている連中が何人もあそこにはいましたからねぇ。他に漏れて、実験に使ったドルガフの配下の兵士が全員死んでいるなんてことが知れたら、さすがにたった三人だけの兵隊じゃどうにもなりませんからね。村の全員が死ぬまでは、この『マムシスの羽』で死者を暴れさせておきますよ」
 心ここに在らず、といった様子ではあったが、ファルガウストはなるべく落ち着いた口調で話している様だ。
「……それで火を放ったのか」
 しかし眼鏡の男はその問い掛けに答え様とはせず、自らの作品に守られていることを思い出し、落ち着きを取り戻し始めた。
 死骸の一つを指差し、ファルガウストは笑顔を作る。
「貴方に似てるでしょう? でも似てるのは顔だけじゃありません。力も技も、あなたにそっくりに造ってあるんですよ。貴方は言うなれば、三人の自分自身と戦うんですよ」
 冷笑と共に、平静を取り戻したらしいファルガウストの言葉が発せられる。三体の死骸は身構え、ルオンとの距離を計っている。
 しかし、そんな六つの視線を無視し、ルオンは歩調を保ち続けた。
「そうか……。それにしては随分と酷い偽物だな」
 その言葉が終わると同時に、一体のコピーの間合いにルオンは足を踏み入れた。その瞬間コピーは跳びかかる。
「駄目だよ、それじゃあ」
 ディエルの横に立っているジャウが、小さな声でそう呟いた。
 短剣を逆手に持ち、高い位置から攻撃を仕掛ける。あと僅かで、短剣の切っ先がルオンの目を潰す、その瞬間。


 ルオンが腰のホルダーから抜き打った短剣が小さく半円を描き、空中に火花が起こった。


 コピーは驚きの目でその現象を見つめ、そして後ろに退く。見ると、コピーの手に持たれた短剣の刃の部分が……全て削げ落ちていた。足元に輝く金属片が転がっている。
「そんな安物で、よくディエル=レンバーグを追い詰めたな……。まあ昔は確かに俺も安物の短剣を使っていたが、な」
 ルオンは笑い、ホルダーに収めた十本の短剣を全て抜いて手に持ち、見せた。
「素人には普通の短剣に見えるんだろうが、これは名工が俺の為だけに鍛えた品だ。岩も砕くし、甲冑も切ることが出来る」
 もしも最初から三体のコピーを正面から相手にしていたなら、ディエルとて遅れを取ることは無かっただろう。そして、相手がルオンであることが殺人鬼の剣を鈍らせたことは明らかだった。かつて剣を交え、語らった宿敵にして唯一の友人、それがディエルにとってのルオンだったのだから。
「……それがどうした。こちらは頭数で勝っている、負けるはずが無い!」
 ファルガウストは怒りに震える様に言い放つと、三体の死骸がそれぞれ違う動きでルオンに向かってくる。一つは地を這う様に低く、一つは円舞の様に剣を横薙ぎに振り回しながら、一つは跳んで空中から短剣を投げ落とす。
 しかし、その動きはルオンにすれば余りに愚鈍であった。……単純極まりない。達人同士が交わす気配の争いや、心の静寂を競い合う深みが無い。何より次に待つ行動の一つ一つが先に読めてしまう。機転の利かない、自らの選択を狭める攻撃。


「……そろそろ終わらせてもらう」


 ルオンは緊迫した状況で静かにそれだけ言うと、上から降る短剣の雨を歩きながら避け、刃を帯びた円舞を素手で弾き、足元を狙う突進を軽く飛び越える。目指すはただ、ファルガウストのみだった。
「お前がもし武器を持って戦うことがあったなら、もう少し苦戦したかもしれない。だが……、結局はお前が俺に勝る技でも持たない限り、お前が造る俺の偽物は俺が一対一で対する以上俺には勝てない」
 小さく悲鳴を上げたファルガウストにはっきりと見える様に、ルオンは一振りの短剣を高々と掲げた。
 しかし……。ファルガウストにはまだ一つ、選択肢が残されていた。
「後ろを見てみろ。ほら、お前の仲間が危な」
 その下劣な笑顔が言葉を終えぬ間に、ファルガウストの眉間に短剣が深々と突き刺さった。
 その一連の動作を終えてルオンが振り返ると、ジャウがコピーに首元に短剣を突き付けられながらこちらに手を振っていた……。

 



「『エリザの甲冑』があんな安物の短剣で貫ける訳無いのにね。馬鹿だなぁ、あいつ」
「ああ、……しかしそれにしても、あそこまで研究を突き詰めてる親戚がいるなんて思わなかったな」
 ルオンは一応の傷の手当てを施したディエルを背中に負い、あちらこちらを跳びまわる無邪気なジャウと言葉を交わしながら、帰りの道を歩いていた。
「その人、どうするの?」
 ジャウはルオンに声を掛けながら、次第に視界から逸れ始める雨の中煙を上げ続ける村を見つめた。……二人はあの村を通りぬける気にはなれず、道を大きく迂回してコーエルの町へ帰るつもりだ。
「どうしたもんか……」
 ルオンにはわかっていた。おそらく、ディエルのこの出血の量から考えても、助かる見込みは少ないだろう、と。それがルオンの言葉に滲み、ジャウの心に伝ってしまう。
 そこで二人の間に沈黙が流れた。雨の降り続ける中を歩いていると、そんな静けさもそれほど苦にはならない。
 ジャウは手に握った『マムシスの羽』に目を落とす。彼は文献の中でこの棒状の遺物を見たことがある。滅びを前に高度な技術と霊科学を駆使して作り上げられた謎の遺物。失われた古代史の殆ど全てを網羅しているとされる二千ページに及ぶ父の著書にすら、この遺物が使用された記録は見られなかった。
「どうやって使う為に……、作られたんだろうね。ファルガウストみたいに、やっぱり死者の軍団を作る為だったのかな」
 ジャウの言葉に、ルオンは首を傾げた。父から古代遺跡や遺物について英才教育が施されたジャウにわからないことを、ルオンに尋ねたところでわかる筈もない。
「さあ。ただ俺が思うに、その滅びた古代人はもう少しロマンチストの集まりだったんじゃないかな。戦いに巻き込まれて死んでしまった恋人ともう一度言葉を交わしたい、そんな感じの願いが、こういう遺物を今の時代に残している気がする」


「……違う」


 ルオンの言葉に、彼の背中から弱々しい否定の言葉が掛けられた。
「なんだ、起きてたのか」
 ルオンは迷惑そうにそう言いながら、濡れた地面に膝を突いてディエルを下ろす。
「おじさん、何かわかるの?」
 ジャウは彼より幾分背の高いディエルの顔を期待に満ちた目で見上げる。
 ディエルの呼吸は荒く、……顔面は蒼白である。ルオンは彼の顔に死人の形相を見た。……背中を刺された傷が深かったのだ。止血の為に巻きつけた布が、もう赤く染まっている。すでに目には光が無い。ルオンはすぐにディエルの腕を抱える様に掴んだ。
 ディエルは体を不安定に揺らしながら、静かに手を前に差し出す。
「何? おじさん」
 その意味がわからず訊く少年に答える力は、もうすでにディエルには残されていないのかもしれない。
「ジャウ、『マムシスの羽』だ。早く」
 ルオンの声に、ジャウは大事そうに抱えていた木切れに似たそれを手渡す。
「これは……、どうやるんだ……」
 言葉を発すると共に、ディエルは地面に倒れこむ。ルオンの手が、地面との激しい激突を出来る限り優しい着地に変えた。
「ええと、そこのスイッチを押しながら念じれば、思った死者が思い通りに動く筈だよ」
 言われるまま、震える指先をスイッチに押し当てる。握力がもうすでに失われつつあった。しかし歯を食いしばる様にスイッチを押した。
 そして念ずる。かつて古代人が願ったよりも遥かに強い思念が彼から発せられる。それを生きている二人には感じることが出来ないが、男の最期の一念がどこか純粋に二人の目に映っていた。
 

 何分の間続いただろう。その念は途切れる事無く大陸全土に渡るまで強く強く発せられ続けた。全ての死者に届くほどに強く、そして優しげに。


 その念が途切れた時、ディエルはすでに息絶えていた……。






 雨の降る中で、リアティは静かに目を覚ました。顔に冷たい土の感覚を感じ、黒髪の少女は体を起こす。
 辺りを見回すと、彼女は村から離れた丘の中腹にいることがわかった。見下ろすと、あの異常な世界が繰り広げられた村が、今は炎を弱め黒煙を上げ続けている。


――あの洞穴で、待っていてくれ。


 ディエルの言葉が唐突に蘇った。そうだ、自分はこんな所で倒れていてはいけない。あの二人の洞穴へ戻らなければいけない。
 リアティは頷くと、立ち上がり自分の体に怪我が無いことを確認し、丘を上った。
 ……黒い馬は残されたまま、草を食んでいる。僅かに胸騒ぎが起こったが、リアティはディエルを最強だと考えている。滅多な事が彼に限ってある筈が無い。
 彼女は自分の栗毛の馬の背に跨り、棲家であるあの洞穴へと馬を駆った。
 


 帰り着いた洞穴には……ディエルの姿は無かった。
 しかしすぐに帰ってくるだろう、そうリアティは信じ待った。
 二日、三日。……洞穴に残された全ての食料を食らい尽くし、何も食べる物が無くなった後も。
 ……彼が帰ってこないまま、一ヶ月が無為に過ぎ去ったのだった……。
――もう……帰ってこないの?
 毎夜の悪夢は、現実の喪失感に摩り替わった。





「それにしても、凄かったよね。あのおじさん」
「ああ」
 安い宿の不潔なシーツに腹を立てながら、ルオンは無愛想に答えた。この一ヶ月、特に何の宝の情報も無いままに繰り返した昼と夜、ジャウの口から毎日の様に出るのが、ディエルの壮絶な死の瞬間のことだった。
 窓の外で夜に鳴く虫が微かに聞こえてくる。
「きっと古代人達も、ああやって『マムシスの羽』を使ってもらって、本望だったと思うよ」
「ああ」
 同じ言葉を昨日聞いた……その言葉を噛み殺し、ルオンは頷く。
「でも……、あのおじさんなんで殺人鬼になっちゃったのかな」
 久々に、ジャウの口から違う疑問が発せられる。しかしルオンにはすぐには答えようとはしなかった。僅かに憂いを力無い笑顔に込め、自分の中で考えを纏める。長い間結論を付けかねていた疑問だった。
「あいつにとっての正義だったから、じゃないか。俺とディエルの存在がいつの間に光と闇と決められたかは知らないが、人間のやることなんてのは元から光と闇なんてはっきりした分かれたものじゃない。……ディエルは人を殺す時、相手の首を一撃で切り飛ばしていた。多分やられた人間は痛みを感じずに死んだだろう。怪物や残忍な野盗が溢れているこのご時世、一番楽な死に方だったかもしれないな」
 ルオンの言葉に、ジャウはいまいち納得は出来ないでいた。人を殺すことは、どう考えても誉められた行為ではない。自分や誰かを守る為、例えばファルガウストにルオンがした様な場合は除いて、絶対に許されるべきではないと思っている。
 だが……、ディエルが死を目の前にして行った、あの行為はどう見ても邪気に満ちたものではなかった。それだけは若いジャウにも解る。
「あいつは、もしかしたら昔の俺とは違う形で、人々を救おうとしていたのかもしれない」
 そう言葉を結んだルオンは、失われたかつての宿敵であり、剣を交わし語り合った深い友人の死をもう一度、悼んでいた……。




 リアティは、コーエルの町の通りに立ち尽していた。
 ディエルは結局洞穴には現れないまま、一ヶ月以上の日々が流れ、リアティは大きな諦めを感じて洞穴を抜け出したのだ。
 途中、あの別れの日を迎えたアルフェールの村を遠目に見た。大きな崖に挟まれる様に立ち並んでいたあの集落は大きな焦げ跡と化し、そこに復興の兆しも人の気配も感じる事は出来なかった。そして焼けること無かったあの石造りの建物は、変わらずそのままに高い塀でその姿を隠していた。
 ディエルは死んだのか。それを確かめる為にあの建物へ足を運ぶべきか、何度もリアティは思い悩んだ。
 しかし、それを確かめてどうするのだ、という結論がいつも彼女に齎された。もし死んでいたなら共に戦わなかった自分を責めることになるだろう。もし亡骸が見つからなければ、彼が最後に語ったあの言葉は全て嘘だったのか、そう考え苦しむことになるだろう。だから結局、確かめにいくことは無かった。
 コーエルの町の酒場で、トレジャーハンターのガードが町の通りで仕事を待っていると聞き、仕事も無く手持ちの金も少なくなり始めたリアティは沢山の猛者達に混じり、通りに立つ。
 宝を求め、冒険に挑む純粋な熱情との出会いを静かに待ちながら。
 ……通りの外れから、一人の少年が歩いてくる。汗臭い猛者達を品定めでもするかのように眺め、そしてリアティの方へと近付いてきた。
 そのブラウンの髪の少年の目が、リアティの所で止まった。


「君、ガード志望?」


 その言葉が、リアティを緑の髪の男との出会いに導いていく。
 静かなる運命の濁流は、たった十六歳の少女を飲み込み、戦いと欲望の日々へと駆りたてるのだ……。






 ルオンは、名刀アーグの刺さった土の盛り上がり、簡素な土葬の跡に花を手向ける。
 その横には、幾つもの似たような墓が並んでいた。
「大陸中で、白骨や首無し死体が自分の墓を作って入っていたんだってさ」
 緑の髪が、鮮やかな草木と共に静かな風に、揺れた……。












                  濁流へ、完
2005/08/30(Tue)13:50:21 公開 / 恋羽
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