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『月夜の出来事』 作者:恋羽 / 異世界 ファンタジー
全角6754.5文字
容量13509 bytes
原稿用紙約21.85枚




                         月夜の出来事
                   


 
 白の月。現実とは思えぬほどに淡く、いつ失われたとしても不思議ではない色彩。言葉に表すことの出来ない儚さを孕んだ、静かなる虚空よりの光。音の無い世界に紛れた、生の無い、しかし微かな吐息をも闇に浮かび上がらせる弱く優しさに満ちた光の守護者。
「これでもう終わりにしよう」
 暗闇の森。辺りに聞こえるのは風の揺らす葉の擦れる音。暗黒を照らすのは天上の月。 ……いつ雲が再び彼女を漆黒の闇に閉じ込めてしまうとも知れない。
 少女の視線はただ闇に蠢く木立の上の男の声に向けられていた。それ以外に周囲に生き物の気配は無い。単純な一対一の場面。誰一人、彼女に加勢する生物はいない。か弱い少女を守る障壁は無く、彼女の手には男の喉笛を突き刺すナイフも握られてはいない。唯一の彼女の武器は、ただ握り締めた拳だけなのだ。そしてそれすらも樹上の敵には届きそうに無い。
 ……彼女を待っているのは、確実なる死。男がどのような攻撃を仕掛けてくるのかはわからないが、それだけは確かに彼女の中に事実として刻まれている。……どう逃げても、逃げ切れる望みは無い。立ち向かったところで彼女の拳は空を切るのみだ。
 しかし、唯一つ、その事実に反する要素が彼女の中に残されていた。

 
『お前を、守ってみせる』
――あの言葉は偽りだったんですか……?


 心は未だに、物語の中の哀れなる死を目前に控えた弱々しい童女の様に、残酷なまでの絶対性を秘めた正義の使者の訪れを望んでいた。いや、それよりも現実的に。そしてより強く。


 正義は冷酷に、圧倒的に悪を殲滅しなければならない。悪は絶対に自らの犯した罪の報いを受けなければならない。そのはずが。
――あれほど偉そうに真理のような顔をして幼い私達に溶け込んできたというのに、……それは嘘だったの……?


 娘は樹上から彼女を睨み付けているのであろう、そして隙あらば彼女を滅ぼそうと狙っているのであろう男の視線を、微かに感じ始めていた。それは段々と現実味を帯び始め、より攻撃的に、殺気を辺りに満たしているように思えた。


――ねえ、あなたは私を助けに来てはくれないんですか?
――あなたが語った言葉は、本当に偽りだったんですか?
  

 瞬間、大気が凍りつく様に固まった。月が陰り、暗闇の時が訪れた。
 その機を見逃すほど、男は馬鹿ではない。
 空気を裂き、静かなる刃が少女に向けて放たれた。辛うじてその音から転がる様に逃れる。ただ一度だけ彼女に齎された幸運かもしれない。狙いを外した鋭い短剣は、地面に鈍い音を立て突き刺さる。
 だが、その幸運もそう長くは続きそうに無い。
 二度三度、風を切る鋭い音が闇に微かに響く。……死は彼女に迫っていた。
 自然、それは誰に向けたわけでもなく、しかし止めど無く、流れる涙。


 その時。


「遅くなってすまない、リアティ」
 声と同時に、短剣を叩き落す乾いた音がした。 
 闇は夜の風に流れる雲と共に静かに去り、暗闇に泣いていた少女、リアティは細身の影を作る一人の男の背を、夜明けの夢に近い感覚で見上げていた。
「……ちょっとの間、ここで待っていてくれ」
――リュウエル……!
 リアティの中に、その名が木霊した。
 年の頃は三十ほどの男は銀狼の如き髪を長く、背を覆うまでに伸びるままに伸ばしている。一見すると優しげにも思える顔立ちに、似合わないほどに鋭い刃と化した瞳は、髪と同じく輝く銀色をして月の光に呼応していた。身に着けた藍色のベストの下に弱々しい骨格を包んだしなやかでありながらも力を持った筋が、今は怒りに脈打っている。
 彼こそは大粒の涙を流していた少女が待ち望んだ、最愛の男。どんな恐怖からも守ってくれる、父の様に、兄の様に、しかしそのどちらとも違う、より深い想いで見つめ続けた男。
 その存在を、リアティとは違う視線で見つめる男が一人。
――あれが、拳聖サンク=リュウエル……か。敵として、申し分無い。
 サンクの瞳は確かに樹上の男を捉えていた。いや、男の瞳を捉えていたという方が正確だ。どんな闇にも、この男の殺気に溢れた瞳は隠せはしまい。
 その暗闇に浮かぶ瞳を見上げていたサンクは、その視線を森の奥に向けた。――この先で勝負してやる。その視線はそう語っていた。
 樹上の男の影が、僅かに揺れる。……その直後には、もうそこに男はいない。すでに男の体は遥かな闇の森の奥へと消えてしまっている。
 サンクはその瞳に怒りを宿らせたまま、しかし決して先を急ぐこと無く極めてゆっくりとその歩を進める。
 追い縋ろうとするリアティの手は……、サンクに届くことは無かった。
 闘いは幼い少女の目から離れ、月だけが照らす場へと移されたのだ。




 白の月は次第にその色彩を古惚けた紙切れの様に変え、そして後に流されるであろうどちらかの男の血の色に染まるべく、その時を無言で待ち続けていた。
 銀髪の男の拳がギリギリと骨の軋む音を奏でる。……幾筋もの血管を、露になった肩から腕にかけて浮かび上がらせる。しかし彼の顔には、不気味なほどの青白さが張り付いていた。
「どうやら、……天下の拳聖サンク=リュウエルが病に冒されているというのは本当の話らしいな……」
 樹上の男が、辛うじて聞こえるほどの声量で言った。その声には自信が感じられる。……サンクがリアティの身に危険が迫っていると気付くのが遅れたのもそう考えると頷けた。
 しかし、サンクは何も答えない。元から木の上で少女目掛けて短剣を投げるような男と交わす言葉など、持ち合わせてはいないとでも言うように。
 その反応の何が可笑しいのか男は笑うと、その声をすぐに止め、そして……。
 男は一瞬の気合と共に今まで立っていた太い枝を蹴り、サンクの身の丈の数倍はある高さから軽々と飛び降りた。両の手に持った短剣を銀髪目掛けて伸ばしながら。
 サンクはその男の行動をすでに読んでいた。軽い身のこなしで、それをかわす。
 短剣を木の上から投げるのでは届くまでに時間が掛かりすぎる為に、達人であるサンクに命中する確率は低い。それでは男の武器である短剣を無為に消費するだけである。だから男が至近距離での格闘に戦術を切り替える事は容易に想像できた。
 男は地に足をつけると、すぐさま背の高い茂みに身を隠す。……その一瞬、サンクの目に男の緑の髪が映った。――逃げたか……。

 
 刹那。

 
 茂みの中に身を隠した男が、音も無くサンクの背後から飛び出す。その動きに無駄は無く、突き出された右手の短剣は確実に達人の延髄を捉えていた。 
 ……それがもし拳聖と呼ばれる男でなければ勝負は決していたはずだ。
 しかし左回りに半身に構え直した拳聖は、同時に膝を高く蹴り上げ肘を振り下ろして短剣の刃を挟んでしまう。その肘や膝から血が流れる気配は無い。
 その状態で二人は止まった。辺りの空気までもがまるで止まっているかのように静まり返る。
 

 サンクが初めてまじまじと見た男の顔。明らかに若い。しかし人間味の無い冷酷さが、まるで生まれる前から他者に死を齎すことが運命付けられていたかのように男の顔に滲んでいる。どこか少女を思わせるか弱さを持ち、しかし所々に細かな傷が刻まれた顔は男を弄んだこれまでの修羅場を容易に想像させた。


「……何故、リアティを狙った。何故殺そうとした……? あの子は……」
 サンクの表情に、鬼神が宿る。
 余りにも無力な存在であるリアティを自らの手で守り育て続けると心に決めた日から、一度として乱れることの無かった静けさが、生涯感じたことの無いほどの荒ぶる感情にすり替わり今彼の中に満ち溢れていた。
 その顔を見つめながら、男は静かに笑う。
「これはこれは。拳聖の逆鱗に触れたらしいな……、好都合だ」
 その瞬間サンクの右足が地を蹴り、そして半円を描く様にそのまま男の顔に蹴りが飛ぶ。
 だがサンクは男の力量を見誤っていた。余りにも冷静さを欠いていた。本来先の攻撃を防いだ時点で男の手首を砕いていた筈だったのだ。しかし男の踏み込みが足りなかった為に短剣を挟むことになった。それは、男の力量がその程度だからだと考えていたのだ。
 

 男の左手に握られていた短剣が、サンクの足の甲に貫く。


 サンクの力が利用され、男の手も弾き飛ばされたものの拳聖の足からは血が迸った。
 顔をしかめて息を短く吐くと、サンクは男との間に距離を取る。
「幻滅だよ、拳聖さん」
 男は……、陽光に照らされたなら恐らく優男と映ったであろう顔を、鮮やかさを失い始めた月光を浴びて笑っている。その笑顔に込められた残忍な性質は、幾多の死闘を繰り広げ、その悉くを乗り越えてきたサンクの肌ですら粟立たせた。


――この男は、危険だ。


 男の青い瞳に映るサンクの表情には僅かに恐怖が滲んでいた。しかし未だ消えぬ怒りを胸に秘めている。見えぬ場所で煮え滾るそれは、いつもとは違って彼自身の平静さを保つのを手伝っていた。
――先手を取らなければ。
 あの素早い身のこなしを目の当たりにして、サンクはすぐに自分の速さでは全ての攻撃を防げないことを悟った。ならば先手を取り、一撃で敵を仕留める事を第一に考えなければならない。
――リアティ……。
 サンクの脳裏をリアティと共に過ごした一年という年月が過る。僅か十二歳の少女と師弟愛によって結ばれ生きた日々を、今もサンクは思い出せる。
――守らなければならない。リアティを守れるのは自分以外に誰もいないのだ。自分が守ってやらなければならないのだ。
「死ねぇ!!」
 自然声が溢れ出る。……リアティの為に、ただリアティの為だけに、どんな相手でも殺そう。それが例え王であろうとも、神父であろうとも。歩む道が悪魔への道であろうとも、サンクはそれを突き進む意志に燃えていた。
 足の痛みを忘れ、走り出す。血が溢れようとも気にはならない。拳は力が入り過ぎ、すでに皮が張り裂け始めている。しかしより一層、そこに力を込める。岩を砕くと言われた徒手空拳において最強の男の拳が、打ち込まれる個所を睨み付けていた。
 男は……、笑った。


「その程度か」


 言葉は、音の波は、光速すらも超越するように、サンクの正面から背後へ移動した。
 サンクの体が一瞬にして恐怖の渦に飲み込まれる。
 全ては現実離れしていた。首筋に押し当てられた短剣も、すでに拳と切り離されて血を溢れさせている両の手首も、そして自分自身の余りの不甲斐無さも。全てが現実とは思えぬほどに絶望に満ちていて、しかし果てしない現実味を帯びてそこに存在している。
 拳聖は、……その場に跪いた。
 目からは、先程リアティが流した物に似た涙が流れている。それは最早、彼の武力が、精神力が、渾身の力が、圧倒的な恐怖に敗北したことを意味していた。いや、それは夢破れた男の絶望によるのかもしれない。
 男は軽く笑うと、勇敢なるかつて拳聖と呼ばれた男を見下ろした。
 

 ……その瞬間だった。ほぼ無音に近かった森の中に、強烈な一陣の風と共に、鼓膜を掻き毟るような悲鳴が響いたのは。


 音の発信源を緑の髪の男が見つめると、そこに立っていたのは黒髪の少女、リアティだった。
 少女は奇声を上げ、跪き震える両手首の先の無い男に駆け寄った。……しかしその叫び声すらもサンクには聞こえてはいない。いや、彼はもうすでにサンクですらないのかもしれない。自分の名や、守るべき少女の声すらも彼の脳裏には残されてはいないのだろう。彼はただ変わらず震えているだけだ。
「リュウエルさん! リュウエルさん!!」
 胸に顔を押し付け呼びかける言葉は空しく森の闇に飲まれていく。残酷なまでに深遠なる闇は広がり、風は吹き抜けていくばかりだ。
 心を破壊され尽くしたサンクは、恐怖を超越した混沌を表情に湛えている。それが静かにリアティにまで伝播していく。そして、幼い少女の心までもを壊していく……。
 憎しみに満ちた漆黒の瞳が男を見上げた時、拳聖の拳を奪い、心を抉り尽くした男の顔に再び異常な笑みが満ちた。


 彼の手に握られていた短剣が、サンクの首を一振りで削ぎ落とした。


 悲鳴は起こらなかった。声を上げることすら出来ず、少女は自らの背後に落ちた最愛の男の頭部を一瞬確かに見つめ、そしてその一瞬で意識を失ってしまった。
 蒼白と化した少女の横顔を、ただ赤茶けた月明かりが照らしている。




 ……倒れ込んだ少女の体を男は担ぎ上げると、同時にサンクの頭部の銀髪を掴み上げ、森の中を歩んでいく……。
 
















「あれ? ルオン、表彰式は?」
「ん……ああ、サボった」
「サボったぁ!? こりゃあとんだ英雄さんだよ……、あ、兄ちゃん、俺の分も酒ね。樽で持って来い樽で」
 荒くれ者が昼間から酒を飲むために集まる酒場。その店のカウンターの一番奥で、周囲の喧騒から離れて一人で酒を飲む緑の髪の男がいた。それがルオン=ヒルリーフである。
 話し掛けたのは賞金稼ぎ仲間の猛者、オーベール。ルオンとは親友で、そして仕事の上でのライバルでもある。河馬か猛牛の様に大柄な彼は、カウンターをドシドシと叩きながら笑った。
「せっかく町をあげての表彰式だってのに、よくサボれるもんだなぁ」
「お前が同じ立場だったらどうするよ。こっちはただ仕事をしただけで英雄だの何だのと囃し立てられて……」
 そう言いながらルオンは紫の鮮やかな葡萄酒の入ったグラスを傾けた。それを見ながらオーベールは顎に手を当てて考え込む。
「……サボる。堅苦しいのは御免だ」
 ルオンは静かに笑った。
 オーベールの前に酒の樽が運ばれてくる。その注ぎ口に口をつけて、彼は一騎飲みのような姿勢で、それこそ浴びる様に酒を飲み始める。豪放な気質がそんな姿からも窺えた。
 高らかに息を吐いてから、再び彼はルオンの方へ意識を向ける。
「そういや噂で聞いたぜ。今回は随分強引なやり方をしたらしいじゃねえか。ガキを苛めたんだってぇ? 男の風上にも置けない奴だ全く」
 その言葉に侮蔑の表情は無い。ルオンのいつものスマートな仕事姿勢を知っているオーベールは、寧ろ茶化す様に言った。
「そんなんじゃない。……本当ならガキを連れ帰るだけでも上等だったんだけどな、あのガキ、リアティとか言ったか、色気づきやがって重罪を犯した例の拳聖さんに根強い執着心を持ってやがった。そんなガキを無理やり連れて帰ったら、噛み付かれるだろ。全く、自分が誘拐されたってことをわかっちゃいないんだ、あのガキは。だからちょっとした荒療治なんだよ、あれは」
 その言葉に、オーベールは微笑した。――普段なら、ガキの名前なんざ覚えもしないくせになぁ……。
「それにしても、なんだってその拳聖さんとやらは誘拐なんてしたのかね。それもよりによって良家のお嬢さんをさ。……一家惨殺、だったとか言ったか」
 ルオンはグラスを干すと、それをカウンターにそっと置いて……笑顔になった。
「さあね」
 そこで言葉を切ると、……少年のような、見る者が見れば少女にも見えるような顔立ちに、深い憂いが滲んだ。
「……もしかしたらそれは、あのガキが地位も名誉すらも手に入れた拳聖が最後に手に入れたかった、守りたかった希望だったから……、じゃないか」
 ルオンは唐突に立ち上がると、カウンターに銅貨を幾らか置いて席を後にした。
「おい、ところでガードになるって件は……」
 オーベルの言葉に背を向けたまま手を振り、ルオンはバーの戸を開けて外へ出る。
 照りつける陽光に眩んだその目に、あの夜に見た少女の姿が浮かんだ。
 

 ……戦う事を運命付けられた天賦の才。


 十歳ばかりの子供が、ルオンの短剣をかわしたのだ。そして彼女の漆黒の瞳は確かに彼を見つめていた。……拳聖が最後に見た夢を、守ろうとした消え入りそうな才能を彼自身も感じることが出来た。
 ルオンがリアティの心を壊したのは、その心を直す手立てがあったからだった。

 
 ……歪められてしまった心からいびつな愛を払拭する為に。


 サンクに掛けられていた懸賞金の全てを渡し、呪術士に任せたあの少女の心は、傷つき疲れ果てた少女の美しい心は、再び輝きを取り戻すだろうか。そして、彼女がサンクに見せていただろう笑みを、ルオンが見ることは……。
 ルオンは空を見上げ、その空を行く雲に習い、どこへともなく続く道を歩み始めた。










                    月夜の出来事、完
2005/08/28(Sun)11:54:29 公開 / 恋羽
■この作品の著作権は恋羽さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
 右と左の設定を使いまわし、と思っていただければ幸いです。あれより前の話というか。これまた重いですかね。……はあ。
 お読み頂ありがとうございました。できましたら感想などお聞かせ願えたらと思います。
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この作品の投稿者 及び 運営スタッフ用編集口
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