- 『肝の味』 作者:時貞 / ショート*2 ホラー
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全角4132文字
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原稿用紙約12.4枚
小磯達郎は、仕事帰りに馴染みの居酒屋で一杯やっていた。
店内は程よく賑わっており、二十人も入れば満員のフロアーは八割方埋まっていた。
ここ連日の猛暑で、ビールの売上が急上昇していると聞く。営業マンとして外回り勤務の多い小磯は、皺くちゃになった背広を小脇に抱え、額から大粒の汗をかきながらこの店へと駆け込んだのであった。
いつものカウンターでビールの大ジョッキを二杯飲み終えた小磯は、程よく酔いが回り始めていた。イカの刺身と焼き鳥をつまみに、今度は冷酒を注文する。冷えた冷酒をちびちび舐めながら店内に置かれたテレビを眺めていると、ふいに隣で酒を飲んでいた男が声を掛けてきた。
「いやぁ、今夜も暑いですね」
小磯はお猪口(ちょこ)を口に当てたまま、ゆっくりと振り返る。
「はぁ……このところ毎日暑いですね」
小磯に声を掛けた男は、見たところ小磯より一回りは年上であろうと思われる、五十年配の小柄な男であった。白髪交じりの頭髪を後ろに撫で付け、いかにも柔和そうな目が細く垂れている。背広姿の小磯とは違い、ベージュの綿のスラックスに白いポロシャツ姿であった。
「よかったら、お一ついかがです?」
男はそう言って、小磯に小鉢を差し出した。見たところ、あん肝の薄切りのようである。
「ああ、どうもすみません。いただきます」
このような大衆居酒屋ならではの、一人客どおしの交流――小磯は男の小鉢のあん肝を一切れ箸でつまむと、軽く頭を下げつつ口に運んだ。あん肝のコクのある甘味が、舌の上でとろけるように広がる。
「うん、美味い。これは酒がすすみますねえ」
小磯はお猪口に残った冷酒を飲み干した。男はにこにこと笑顔を向けながら、コップ酒を口に運んでいる。
「お口に召しましたか?」
「ええ、これほど美味いあん肝は、はじめて食べたかもしれませんよ。……へぇ、この店にもこんな美味いあん肝があったんだ」
小磯は本心からそう言った。安いだけが取り得のこの店で、他のつまみに比べると、そのあん肝の味はまさに格別であった。
「はっはっは、実は、そのあん肝は私が持参したものなんですよ。ここの店主とは昔、ちょっとした付き合いがありましてな。たまにこうしてウチの店の肝を分けてやる代わりに、こっちはタダ酒を飲ましてもらってると言うわけなんです」
男はそう言うと、細い目をさらに細めて微笑んだ。小磯が問い掛ける。
「へえ、あなたもどちらかでお店を経営されてるんですか?」
「はぁ、ここから程近い小さな店なんですが、ちょっとした小料理屋を細々とやっております」
そう言って男は、空になった小磯のお猪口に冷酒を注ぎ足した。
「そうなんですか。僕もこの辺りの店は一通りめぐったつもりでしたが、存じ上げませんでしたよ。……それじゃ、今日はお店の方はお休みですか?」
「いやいや、ウチの店は開店時間が遅いんです。……さて、もうこれ以上飲んだら営業に差し障るし、これから戻って店を開けるとしますかね。それじゃあ、どうも」
男はそう言うと、軽くお辞儀をしてカウンターから腰を浮かしかけた。
小磯が口を開く。
「あの、もし良かったら、お店の場所と名前を教えていただけませんか?」
「……ああ、ええ。ここで会ったのも何かのご縁、では、よろしかったら一度お越しください」
男はスラックスのポケットからマッチ箱を取り出すと、小磯に手渡した。
「それでは、失礼します」
小磯は手渡されたマッチ箱をながめた。真っ黒な装丁に、白くて小さな文字が浮かんでいる。店の名前は《宿り木(やどりぎ)》と読むらしい。住所は、男の言ったとおりここから程近い場所のようだった。
マッチ箱をワイシャツの胸ポケットにしまって顔を上げると、あの男の姿はもう店内から消えていた。
居酒屋でほどほどに酔った小磯は、千鳥足で駅へと向かっていた。
十時近くになっているにも関わらず、むっとするような蒸し暑さである。小磯は額から流れる汗をハンカチで押さえながら、駅へと歩を進めた。
無性に喉の渇きを覚え、思わず立ち止まる。見回すと、少し先にジュースの自動販売機が設置されていた。小磯は足早に自動販売機に近づくと、背広の内ポケットから黒皮の財布を取り出した。
「ちっ! 小銭も千円札もねえや」
財布の中身は一万円紙幣と五千円紙幣が一枚ずつ、それに五円硬貨と一円硬貨が数枚あるのみであった。小磯は舌打ちしながら、他のポケットをまさぐりはじめる。ワイシャツの胸ポケットに手が触れ、先ほどの居酒屋で男にもらったマッチ箱に気が付いた。
おもむろにマッチ箱を取り出す。
「そういえば、この店ってこの辺りのはずだな」
小磯は一人呟くと、あらためてマッチ箱に書かれた住所を確認した。やはり、小磯がいま立っている場所からは目と鼻の先である。
先ほど味わったあん肝の味を思い出し、思わず喉がごくりと鳴った。
「よし、ちょっと寄ってみるか」
小磯はすでに、店へと歩き出していた。
その店――《宿り木》は、薄暗い路地裏にひっそりと建っていた。わずか八坪程度の小さな小料理屋である。小磯は紫紺の暖簾をくぐり、音を立てて旧式の引き戸を開けた。
「へい、いらっしゃいませ。……ああ、どうもどうも」
カウンターの向こうで手を動かしていた店主――さきほど居酒屋で知り合った小男が顔をあげると、親しげな笑みで声を掛けてきた。
「さきほどはどうも。近くまで来たんで、寄らせていただきました」
小磯も微笑み返すと、カウンターの中央の席に腰を降ろす。どうやら今夜は客足が悪いらしく、他の客の姿は見当たらなかった。店内は狭いながらも清掃が行き届いており、小奇麗な印象を受ける。全体的に木目調でまとめられた装飾は、ちょっとした老舗の寿司屋のようであった。どうやらこの店主が一人で切り盛りしているらしい。
小磯はまず、壜ビールを注文した。それから手元に置かれたメニューをながめる。肉料理を中心に、様々な料理の名が連ねてあった。刺身、焼き物、煮物、蒸し物……小磯はメニューを畳むと、店主のお任せ料理を出してもらうことに決めた。
店主はてきぱきと手を動かしながら、小磯の前に小鉢に盛った料理を並べていく。
「さっきの店で結構つまんできてるだろうから、軽い物を中心にお出ししますよ」
店主はそう言って、小磯のグラスにビールを注ぎ足す。
「いやぁ、どれも美味そうな料理ですね。まだまだ食べられそうですから、色々と出してくださいよ」
小磯はビールで口を湿らせてから、出された料理に次々と手を出した。どれも素朴な味付けながら、独特な旨味がある。先ほど食べたあん肝の薄切りには、今度は少しピリ辛のタレが絡めてあり、これまた絶品の味わいであった。肉料理はどれも柔らかく、クセのない独特な味付けがなされている。
「大将、本当に腕がいいねえ! どの料理も絶品だよ。この、ジャガイモと煮込んである肉は何の肉だい?」
「へえ、それは猪の肉ですよ」
「猪かぁ。前に食べたときはちょっとクセがあったけど、これは全然クセがないし、柔らかくて本当に美味いねえ」
「ありがとうございます。……あ、ビールをお出ししましょうか?」
「ああ、お願いします」
小磯はグラスのビールを一気にあけた。店主が新しい壜ビールの栓を抜き、小磯のグラスになみなみと注ぎ足す。小磯は様々な料理に舌鼓を打ちながら、おおいに飲んだのであった。
気が付くと、もう終電間近の時刻である――。
「いやぁ大将、すっかり美味い料理をごちそうになったよ。これからもちょくちょく寄らせてもらおうかな」
「ありがとうございます。これからもどうぞ御ひいきに。お気をつけてお帰りください……」
小磯は上機嫌で引き戸を開けると、鼻歌を口ずさみながら蒸し暑い夜道を歩きはじめたのであった。
●
小料理屋《宿り木》は、裏側の庭に回ると石壁で囲まれた頑強な倉庫、それに大きなガレージがある。
庭の周囲は背の高い樹木に覆われ、ただでさえ人気の少ないこの一帯から、完全に他人の目を覆ってしまっていた。
店主の男が頑丈な鉄柵作りの門を開けると、それを合図に一台の黒塗りのワゴン車が滑り込んできた。
ワゴン車の運転席側のドアが開き、カーキ色の作業服に帽子、マスクとサングラスを掛けた男が降り立つ。そして、静かに店主のもとへと近づいていった。
店主が抑えた声を掛ける。
「このところ忙しいようだねえ」
ワゴン車に乗ってきた男が、サングラスを外しながらそれにこたえた。
「ああ、表立って騒がれちゃあいないが、裏じゃ黒岩組との抗争がかなり激化してるからな。……ああそうだ、親父さんがよろしくと言ってたぜ」
「ふむ、組長も元気そうだね。で、今回はどんな代物(ブツ)だい?」
作業服の男がワゴン車の後部トランクを開ける。中には、毛布でくるまれた大きな物体が横たえてあった。作業服の男は、力いっぱいその大きな物体を引き摺り下ろすと、呼吸を弾ませながらこう言った。
「女だ。黒岩組の若頭、岩本哲雄の情婦だった女だ」
店主はゆっくりと腰をかがめ、毛布の先を捲ってみた。
埃にまみれた長い黒髪がちらりと覗く。作業服の男は再びサングラスを掛けなおすと、口早にこう言った。
「じゃあ、今回も上手く処理を頼むぜ! 礼金は後で別の奴に運ばせるから」
「ほっほっほ、安心なさい。いつもどおり美味く料理してみせるよ……」
店主の垂れ下がった細い目を見て、作業服の男は思わずぞくりと背筋に悪寒を覚えた。
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「こんばんはぁ」
紫紺の暖簾をくぐって、小磯達郎が《宿り木》に顔を出す。このところ連日通いつめ、すっかり常連客となりつつあった。
「へい、いらっしゃい! 今夜も暑いですねえ」
マスターはいつもながらテキパキと手を動かしつつ、小磯に冷たいお絞りを手渡した。
「うん、本当に暑いねえ。まずはビールをもらおうか。……大将、今夜のおすすめは?」
店主は、細い目でにっこりと微笑みながらそれにこたえる。
「へえ、活きのいいレバ刺しと、猪の若肉が入っておりますが……」
小磯はごくりと生唾を飲み下した。
了
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2005/08/26(Fri)15:00:32 公開 / 時貞
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■作者からのメッセージ
お読みくださり誠にありがとうございます!!
頓挫している連載物に手をつけようと考えていたのですが、ここしばらくはSSで勉強させていただこうと思いました。前回の反省点を踏まえてホラー系にチャレンジしてみたのですが…うーん、やはり難しいですねえ(汗)良いタイトルがなかなか思い浮かばず、なんだか前作と微妙にかぶったタイトルになってしまいました(汗)何でもけっこうですので、ご感想やアドバイスなどをいただけると助かります。どうぞよろしくお願い致します。