- 『恋の羽根』 作者:恋羽 / 異世界 未分類
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恋の羽根
燃えるような太陽が荒れ野の向こう側から少しずつその姿を見せ始める。陽炎を帯び、異常なまでに膨れ上がった陽の光は果てしない大地を踏み締め、見る者を圧倒しながら夜の神との幾度となく繰り返された一瞬の戦いを経て、大空の支配を得る。
陽が、マヤの横顔を蒼く霞んだ荒野の赤土を背景に絵画的な色彩で描き上げた。綺麗だ、そう言葉に出そうかと思ったが、結局僕は黙り込んだまま歩調を保つ。
そう、この世界において言葉に僕が意味を見出す必要など無い。現実とかけ離れた世界、ここがそういった世界であるということだけは僕にも理解できた。僕の隣を歩むマヤという赤毛の女ですらも現実ではないのだと。ただ僕はこの世界が夢であるかという判断を下すことは出来ない。気付いたら僕はこの世界に存在していたのだ。もしこれが夢であるならば、当然備わっている筈の現実の記憶というものが僕には無い。だからこの世界全てが夢であるとするならば、それは相当な悪夢らしい。足を落ち着けるべき現実の記憶の一切を引き剥がされ、何一つとして理解できることの無い世界に僕は今いるのだから。
「もうすぐですから」
そのやや擦れた細い女の声が、遅れを取り始めた僕を励ましている。二日もの間、殆ど休むことなく歩き続けているのだから、男の僕が女の姿をした非現実の女であるマヤに遅れを取ったとしてもそれを不名誉なことだとは思えない。が、それでも彼女の声は僕の足取りを少しだけ早めることに貢献した。
二日前にこの世界が始まった時、僕はすでに一人の老人と向かい合って立っていた。彼は皺だらけの顔を吹き付ける砂を含んだ風に顰め、しかし真摯に僕を見つめていたことを記憶している。彼にとって、彼を筆頭とした年に幾度も襲う砂嵐に壊れ果て寂れ果てた名も知らぬ村落の民にとって、僕はどうやら救世主といったような役割であることが彼らの態度の端々に見え隠れする表情からわかった。だが僕には肝心の彼等の言葉の意味が全くわからず、僕は彼等の動作や態度に従うほかなかった。彼等に逆らうことがどうやら僕に致命的な損害を与えるらしいことが容易に想像出来たからである。これがもし夢であるならば、もう少し理解し易い構造で僕を出迎えてくれても良さそうなものではないか。僕がただ優越感に浸りたいが為にこのような夢を見ているのならば、ということだが。
そうした人々とのやり取りの後、漸く僕はマヤと出会ったのだ。
彼女は奇妙な民族衣装のような物に身を包んでいた。黒い光沢のある石を数え切れぬほど貼り付けた赤い長布を体に幾重にも巻き、古い時代の狩猟民族が用いた弓を射る為の胸当てをその上に着込んでいる。布の切れ間から見え隠れするやや浅黒い肌の色は、全体にくすんだ雰囲気のこの世界の色彩感覚によく溶け込んでいた。彼女の黒く艶のある瞳と、顔立ちに凛とした印象を付加する周囲の者よりもやや高い鼻は、彼女をどこか身分や気位の高い女性として僕に印象付けたように思う。
不思議なことに、彼女の言葉だけはまるで僕の胸に直接響くようにはっきりと理解でき、また彼女も僕の言葉をよく理解した。何故彼女だけなのだろう、そう何度か考えたが、結局僕はその答えを導き出すだけの材料に恵まれなかった。
それから、僕とマヤの旅は始まった。村の人間が何か、この旅の目的について熱く語っていたが、そしてマヤがそれを通訳してくれたが、僕の眠ったような脳が司る記憶に焼きつくだけの力をその言葉の群れは持っていなかった。きっとそうなのだろうと、二日が経った今僕は考えている。
僕はこの世界における自分の不熱心さが少し気にはなったが、めまぐるしく変わり行く風景を眺めていると、この奇妙な世界に息づく人々の思惑など然程重要ではないのだろうという結論に至ってしまう。
「あそこです」
僕の周囲を彩る蓮に似た巨大な花の林の中心を飾るマヤという女が、僕にそう語りかけた。彼女ははっきりと刻まれた道筋が抉った林の先を指差している。灰色と桃色の中間色に支配された林の彼方に、青白色の建物が立ち並んでいた。
「あそこが、死の町です」
その言葉を閉ざされた口内で幾度か反芻すると、僕は改めてその沈んだ空気をこちらに流出させている町並みを見つめる。
熱情を孕んだ陽の光を浴びてなお暗い影を強調する様に立ち並んだ石造の家々は、ささやかなる祈りにも似た静謐さを醸しつつ絶対的な運命を愁えているように思えた。
死の町は海に面していた。時折紫にその色を変える海原を見下ろすようにして、切り立った崖の上に町の営みは気付かれている。
死の町という陰鬱な印象の名とは裏腹に、町は高く上った太陽を照り返す白を基調とした町並みによって成り立っていた。町の中心を貫く大きな通りには露天が並び、毒々しい色彩の果実から腹を切り裂かれた人の身の丈程の魚までが所狭しと置かれている。全てが死という言葉が人に与える印象とはかけ離れているように思えた。しかしそれは、もし僕が物の本質や内面を感じ取る能力を全く持っていなかったとしたら、ということである。そして残念なことに、少なくともこの世界における僕は、そういった能力を人並みには持っているらしかった。
何より空気が重い。体を圧迫する微風は鉛のような重みを持って吹きつける。真夏のように照りつける灼熱の太陽が未だ天上で輝いているというのに、この肌を突き刺すような寒さは一体どこに由来しているのだろう。
もしも体に感じるそれらの異常を無視できたとしても、この町の門を潜ってから何故か研ぎ澄まされ始めた僕の感性が繰り返す疑問が、結局僕をひどく息苦しい思考の檻に閉じ込めてしまう。……何故この町はこんなにも不便そうな崖の上に作られたのだろう。何故町を建立した者達は僅かな距離の先に見えている海辺を選ばなかったのだろう。その答えが己の思考の内から生まれ出ることは期待できそうに無い。
町を包む圧倒的な不快感に身を抱かれながら、僕は辛うじてマヤの軽やかな足取りを追う。彼女が差し出した臙脂色の餅を受け取ったが、それを口に入れることは遂に叶わなかった。
「ここは、何故死の町と呼ばれているんだ?」
言葉として彼女にそう伝えたのは、村の外れの崖の突端に設けられた石碑の前だった。刻まれた文字を指でなぞりながら読み上げていたマヤは、僕の言葉に不思議そうな顔を見せる。まるでその問い掛けが見当違いとでも言いたげに。
「この町には死が住んでいるんです」
その言葉は僕に更なる疑問を与えたが、彼女は僕がその答えに満足するのが当然と思っているらしくまた細い指先で石碑の文字をなぞり始める。
「死が住んでいる? それはどういう意味なんだ?」
今一度声を掛けられたマヤは、何故僕がそんなことを何度も問うのかが理解出来ないらしかった。淡く緩やかな不快が彼女の眉と眦に浮かんでいる。
「この町には、人の代わりに死が住んでいるんです。わかりませんか? あの白い町に住んでいるのは皆、死なんです。見た目が殆ど人と変わらないので気付かなかったかもしれませんが、通りですれ違ったのも全て死です。……理解していただけましたか?」
マヤは慇懃にそう言い最後には微笑すら見せたが、彼女の表情に苛立ちめいたものが幾度か漂ったのを僕は見逃さなかった。僕はありがとうと言い、少し辺りを散歩することにした。背後ではマヤが再び石碑に鋭い目を向け始める。僕はその石碑に「ごみのポイ捨てはやめましょう」と書いてあることを願ってその場を後にした。
人の代わりに死が住む町。それは本当に言葉のままの意味なのだろうか。僕が知る限り、死とは物体そのものを指し示す言葉ではなく、概念であり現象であった筈だ。それがこの町では違うのだろうか。
つまり、「死が生活している」ということなのだろうか。その矛盾した言葉が、どうもこの町に実によく似合っている気がした。この町を包む冷ややかな影はおそらく「死の生活」というものを生きた僕が見つめることによって湧き起こるのではないか。
町の大通りに作られた広場の小さな噴水の傍らに座り、僕は町に生きる様々な死を見つめる。黒い犬を引き連れて散歩をする死、元気のいい二人の幼い死、杖をつきながら長く固そうなパンを紙袋に入れて持つ老いた死。確かにこれらの生き生きとした姿は生きた人間の様に見えた。だが同時に彼等は死なのだろうとも思えてきている。これほど活発な姿を見せているが、同時に既に生命現象の終着点でもある。そう考えた時、僕は何故かこれほどまでに歪で異常な物事を簡単に飲み込めた気がした。
大空を悠々と行く連続的な閃光の源は、この仄暗い町を照らすことを拒むように遠慮がちに光を浴びせていた。平等に与えられるべき陽光すらをも歪めるほどに重苦しく立ち込めた何か、それこそが深い想念の結晶たるこの町を象徴するものなのではないか。僕の中にそうした結論が谺した。
「ここにいらっしゃったんですか」
空間を裂いて現れたとでも言うように、僕の背にマヤが声を掛けた。彼女は僕の顔に先ほどの疑問が存在していないことを悟ったらしく、赤い髪をかきあげて微笑んだ。
「明日の早朝、港から船に乗ります。今日はこの町に泊まりましょう」
この旅の目的自体が理解出来ていない僕は彼女の言葉に反論する必要性も理由も無く、力無く頷いた。彼女は一体あの石碑の前で何をしていたのだろう。そして何故僕はこの町に来たのだろうか。何一つ理解できず、しかし先程マヤが見せた不快そうな表情を思うと、僕はもう二度と質問を投げかける気にはならなかった。
海は揺らめき、果てしないその果てに灼熱の幻想を浮かべていた。
古惚けた宿の床で、僕と彼女は呼吸をするが如く当然の様に体を重ねた。熱く揺れる肢体から目を逸らした先の窓からは、月明かり以外の光を見つけ出すことは出来なかった。
目を戻した僕は何を考えるでもなく、身の内から生まれ出でる衝動を身悶えるような摩擦で薄め、果てることの無い生の存在悪をマヤの美しさで彩った。決して尽きることの無い生の痛みと触れ合い、幾億の鼓動を憂え、僕は遥か先に訪れるであろう死の時を待っているような気がした。結論など無い。結論など導き出せない。マヤの肌が如何に冷たかろうと、僕は自らの内に巣食った普遍的な情動を抑えることなどできず、彼女の凍えるような笑みを唾液で染める。果汁を貪る甲虫の様に僕は柔らかく甘い恒星であるマヤに縋り付くのだ。生臭い囁きに身を強張らせ、硬直した微温湯を注ぐ。紅く震える吐息は縁の無い闇に溶けて消えた。香の芳しい香りがいくら気高く空間に咲き誇ろうとも、満ち満ちた欲望の圧力を抑制することなど出来るはずが無い。彼女を満たした蒼い大気を汚し尽くすことこそがもしかしたら僕という存在の理由なのかもしれなかった。迸る嗚咽や繰り広げられる腐食の演舞が織り成す堕落は、連綿と続く日々の如く然るべき終結を容易には見せない。肥大した無常を飲み干す様に、僕は一切の思考を消し去った。熱情に身を委ね、偽りの無い渇望と共に揺れ動き、情の火炎を食らうようにして乱れ惑う。断ち切られた自我に優しい微笑を投げかけ、終り無き業火を浴びながら僕は僕自身を侮蔑し、歪んだ自己嫌悪と泣き叫んだ。
死の町は僕に何を齎したのだろう。夜はただ紅く、蒼く、めくるめく。
旅は続いていく。
行く当ても無く風に流される一片の羽根の様に。そう、それは羽根。理由など知らず意味など知らず、焦がれる一時を纏う淡く燃ゆる羽根。あるいはそれこそが、羽根が羽根である理由なのかもしれない。
日々うつろう情景を、曇り歪められた鏡越しにただ漠然と眺めれば、それはありふれた退屈な日常なのかもしれない。だがしかし、あらゆる配色に目を凝らす為に鏡を磨き、あらゆる術を用いて見通す全ては、日常とは非日常の集合であり、現実とは非現実の結晶であると教えてくれる。
「死は生なの」
船の甲板で潮風に吹かれながら、マヤがそう言った。「死は一時の生の陰に隠れているけど、生の裏側にあるものじゃない。生と死はイチとゼロの関係性ではないの」
「じゃあ……、あの町は死の町でもあり生の町でもあるんだね」
僕が複雑な何かを漸く理解してそう口にすると、マヤは僕の目を見つめた。
「ううん、あの町は死の町だよ」
……そういうことだそうだ。
完
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2005/08/24(Wed)18:19:58 公開 / 恋羽
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■作者からのメッセージ
はい、途切れ途切れに顔を出す変人恋羽です。お久しぶりです。
で、お久しぶりなのをいいことにむちゃくちゃな作品を載せさせていただくことにしました。もう少し完成度の高い作品もあるんですけどね、ちょっとした「小説の概念ぶっ壊せ!」的な挑戦の意味も込めて、この作品を、ということです。起承転結は無いし、この世界がどこからどこへ向かっているかも説明してないし、とにかく突っ走るだけ突っ走ってみた今日この頃です。どんなもんでしょうか、感想をお聞かせ願えたなら幸いです。
ちなみにどうでもいい話ですが、作者的な意図はタイトルの通り。
それではまたー。