- 『便利屋稼業1 [完結]』 作者:風間新輝 / アクション お笑い
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全角53365.5文字
容量106731 bytes
原稿用紙約154.95枚
普段はちゃらんぽらんの女好きでも決めるときは決めてくれるそんな男の織り成す戦いと笑いの物語
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1 ことの始まりは始まったばかりの生命
――何でも請け負います。街の便利屋。依頼料は法外価格!
大通りを二本ほど裏へと進んだ港区のボロアパートにこのように書かれた看板は掲げられている。こここそが我が事務所兼住宅だ。俺の名は菊島順一。とある理由でほとほと困り果てている。これが依頼なら、まだ問題はないのだがなぁ。
話は二時間前に遡るのだが、それ以前の事も話しておいたほうがいいだろう。
昨晩は旧友に酒を奢らせ、膨大な量を飲んだために、今朝は死ぬほどに頭がわれそうだった。
そして、二時間前、俺は薄汚く薄い布団から起き上がるのも億劫だったのだが、吐き気はK点越え寸前だったので、起き上がった。目覚めの目的がトイレというそれはもう素晴らしいお目覚めだった。胃酸によりすっぱ〜くなったお口をお水でゆすぎ、新鮮な空気を入れるために建てつけの悪い扉を開いた。
新鮮といっても所詮は都会の空気。あまり気分がすっとするものでもないのだが、今日は違った。こういうと高原のような爽やかなみたいな風でも入ってきたのかと思う人もいるかもしれないが、悪いほうに違った。排泄物の臭いだったのだ。吐いて幾分楽になったのに吐き気がぶり返してきた。
な、なんと臭いの発生源は赤ん坊だったのだ。俺の部屋の前に段ボール箱に入れられて置かれていたのだ。段ボール箱に入れるなんてどんな親だよ。まったくさ〜。あっ、紙が入ってる。このパターンは……、やな予感。恐る恐る、俺は二つ折りの紙を開いた。
「この子はあなたとの子です。お任せしました」と書かれていた。
やっぱり〜! てか、お任せって〜!!! 勘弁してくれよ。
相手は誰だろう? 心当たりはないと言い切れないんだよな。マリかユキかショウコかそれとも……。これも全部神様のせいだ。この俺をかっこよく生みすぎたんだ。というかこの事態をどうしたらいいんだ。警察に連絡するのか。いや、俺みたいな善良な市民も疑われるのが世の常だ。しかも、どことなく俺に似ている気もするしなぁ。
息子らしき赤ん坊の大きく無垢な瞳と俺の目がちょっとだけあった。途端に泣き出した。な、なんで泣いてるんだ? 見当もつかない。ベビーシッターは便利屋の仕事外だ。看板に、ベビーシッターは除くと書いておかなくては。すっかり忘れていた。そ、そうだ、笹木に頼れば。いや、でもなぁ、笹木も無理そうだ。まあ、俺一人じゃどうしようもないしな。もしものときは笹木をスケープゴートにしよう。それがベストだ。世界の中心で俺を崇めろって話だ。
俺は赤ん坊を抱き上げ、近所のコーヒー屋へ突っ走っていた。スーツ姿で赤ん坊を抱え走る俺はかなり通行人の目を引いていたが、構っている余裕などなかった。普段は大通りの裏なため、通行人などいないのに本日に限っているあたりもついてない。俺は事務所から更に裏へと進み、落書きやらなんやらで汚れた通りを赤ん坊を落とさないように気をつけながら走る。
寂れたコーヒー屋についた。西部劇にでてくるような両開きの扉を進む。コーヒー屋なので客が飲んでいるのはコーヒーだ。ビールやウィスキーなら雰囲気ばっちりなのに。やはり、いつ入っても客のガラが悪い。立地条件が悪いのも原因の一つだ。お隣さんは高利の金融屋と一生お関わりになりたくない事務所だしなあ。お隣の事務所に入る時は、赤い糸で結ばれてる指を失う時なのかな? もしくは、天使がお迎えしてくれる時になるのかな? 入る機会がありませんように。
「おっさん、助けてくれ〜。前の仕事よりヤバイんだ。手伝ってくれ」
俺はかなり悲壮な顔をしていただろう。酔いと背中に隠した赤ん坊のためなんだけど。
「ちっ、てめえ今度は何したんだ?」
笹木は大きな体を折り、コーヒーを煎れている。左手はすっかり白くなった髭を撫でている。食品衛生上よくないことは確実だ。でも、味は少々苦めでお目覚めばっちしで、香ばしい香りが魅力的なAランク(当社のランクで)ちなみに、ここにいるのは自分のお仕事を大きな声で言えない人達で、ヤバイ仕事なんて言葉は日常茶飯事なので問題はなかったりする。
「なんか臭くないか?」
顔に傷がある怖いおやっさんが気づいたようだ。たぶん、お隣の事務所の御方だ。
「おっさん、とりあえず奥に行かせてくれ」
俺は返事を待たず、奥に入り込もうとした。途端に俺の背中で赤ん坊が泣き出した。誰もが俺に注目している。情けないが仕方ない。
「俺の子らしいんだ」
「らしいってのは何だよ?」
笹木は髭面でダンディなお顔を唇の片側をつり上げ、B級映画の悪役にお顔を変貌させた。推測はついているに違いないのに聞いてくるあたりが意地悪だ。
「事務所の前にあなたが父親って書いた紙と一緒に段ボールに入ってたんだ」
「で、俺に何しろっーんだ?」
そんなつっけんどんに言わなくてもいいのに。俺だって本当に勘弁してほしいんだよ。
「この子をなんとかしてほしいんだよ」
「何とかって?」
「とりあえず泣きやませてくれよ」
こっちが泣きたいくらいだよ。笹木は赤ん坊を奥の自宅に連れていった。俺もすかさずついていく。これ以上、この場にいたくなかった。店の客の視線が痛かったんだ。笹木は押し入れから古いオムツを取り出し、手慣れた手つきで交換し、赤ん坊を抱き上げた。なぜ、こんなことが得意なんだろうか謎だ。
「なあ、おっさん。アサシンの前はベビーシッターをしてたなんてことはないよな?」
実は、笹木は元アサシンで、銃器、刀、毒、爆弾などの多岐にわたる道具を使いこなすことから現役時は「死の配達者、笹木信二」として名を博していた。あくまで裏の業界での話なのは言うまでもない。
「アホか、お前は。そんなわけがあるか!」
笹木も俺と同じような羽目に陥ったことがあるようだ。古い紙オムツがあったのもその証拠であろう。
「おい、薬局かスーパーにでも行って、オムツを買ってこい」
言われるがままにスーツ姿のまま、ゆっくりと薬局に向かう俺。情けない。この俺がオムツを買いにいくなんて。溜め息をつき、薬局に入った。薬局は清潔そのものといった印象で俺のような人間には性が合わない。俺は紙オムツと二日酔いの薬を持って、レジへと向かった。レジの店員は白衣を着ていて、黒髪が長く、笑顔が美しそうな女性だった。いつもなら、口説いて、電話番号をゲットするところだが、今はそうもいかない。若い女性の目の前に紙オムツを出している自分がもの凄く恥ずかしいことをしているみたいに感じ、俺は煙草をくわえ、火をつけようとした。
「赤の他人の私が言うことじゃないと思うんですけど、お子さんがいらっしゃいますよね?お子さんの体のためにも煙草はやめたほうがいいと思いますよ」
俺の子供ではないとも言えないしなぁ。
「いや、その……。そう、俺の姉の子供なんです。赤ん坊がいる間は吸わないようにします」
なんでこんなところで説教されてるんだろう? そして、なんで言い訳をしているんだろう? レジ袋を左手に持ち、俺は惨めな気持ちで薬局を出た。
1・5 菊島の奮闘
ここはお昼休み中の笹木の店。俺がなぜここにいるかというと、昨日現れた赤ん坊の育成レクチャーを笹木から聞くためだ。そして、俺の腕には息子らしき赤ん坊がいる。
「脱脂粉乳より、母乳のほうが、安全だ。化学物質のせいで母乳も怪しいらしいがな。お前は脱脂粉乳を与えるのだから、関係ないか。母乳なんてやりようがないからな。ミルクの温度は人肌にするのを忘れるなよ。おい、聞いてるのか!」
「いや、寝顔は可愛いなと思って」
「お前な、ふざけるなよ」
俺は笹木なんぞアルゴン扱いで腕の中でぐっすりと眠る赤ん坊を見つめていた。空気は大事なので、組成の少ないというかたぶんいらないアルゴンだ。
昨日、事務所に連れかえってからは大変だった。夜泣き、ミルク、オムツ交換。まさにてんやわんや。何回起こされたかわからない。それでも寝ているとキュートだ。親とか、関係なしに無条件で可愛い
「おい、親馬鹿。俺はお前に聞かれたから教えてやってるんだぞ」
無視をきめこんで、赤ん坊を見つめる俺に笹木が怒鳴りつける。にしても親馬鹿とはなんてことを。未だに自分の息子ではないという気持ちが6割なんだぞ。親だっていう実感もないし。
「悪い、悪い。あのさ、風呂とか入れるのか?」
「さっき言っただろ! 濡れたタオルで優しく拭いてやるんだよ」
そんなことを言ってたような気もする。そんな怒ると血圧あがるぞと言ってやりたいとこだが、殴られるのでやめた。殴られて喜ぶような趣味はない。
「ミルクを飲ませてもすぐに吐いちゃうんだけど、どうしたらいいんだ?」
昨日、事務所のソファに散々吐かれた。気分は最悪だったよ。皮のソファが台無し。
「背中をさすってゲップさせてやるんだよ。昨日言っただろうが」
いや、言ってねーよ。モウロクジジイが。昨日はオムツの替え方を見せてもらっただけだ。ミルクだって、市販のものを買ってきて、試行錯誤しながら、無理矢理作ったんだし。
「言ってないって。死の配達人、笹木信二が痴呆症かよ」
拳が一発、拳が二発、……拳が一発足りない(気分はJホラーで)いや、冗談。もう十分。痛いっ〜の。本当のこと言っただけなのにさ。
「ところで、この子の名前は?」
笹木のやつ、言ってないことに気づいて話を変えたな。顔色も変わってるから、まるわかりだよ。でも、あくまで本日は教えを乞う身分なので、何も言えない可愛そうな俺。
「まだ考えてない」
そうか、識別のために名前が必要なんだよな。酷い言いようだが、気を悪くしないように。名前なんてのは基本としては識別記号なんだから。
「オギャアァ、オギャア」
赤ん坊は突然泣き出した。小さな体からは想像もつかない大音量だ。顔は真っ赤で、泣き声も顔も必死だ。何かを訴えかけているようだ。でも、俺にはまったくわからない。
「どうやら、お腹がすいたらしいな。早くミルクを作ってやれ」
笹木は俺の腕に抱かれた我が子を抱き上げた。俺は言われるがままにキッチンでミルクを作る。
「はいはい、できたよ」
完成したミルク入れた哺乳びんを笹木に言って渡した。
「温度が高い! 人肌ぐらいと言っただろうが」
はあ〜。面倒だな。それでも人肌の温度になるまで冷ます俺。
「ほら、人肌ぐらいになったろ?」
笹木先生に再提出。
「じゃ、この子に飲ましてやれ」
俺に赤ん坊を手渡そうと笹木は腕を伸ばした。
「っておい、見本くらい見せろや! なんで俺がやるんや! 昨日失敗したゆうたやろ」
つい、関西弁になってしまった。自分の行動が謎だ。関西方面にいたことないのに。
「そ、そうか。じゃ、見てろよ」
俺の関西弁に驚いた笹木は赤ん坊の口にゆっくりと哺乳びんを近づけ、赤ん坊の小さな口にくわえさせた。小さな手を哺乳びんに伸ばし、懸命にミルクを飲んでいる。
その様子を見つめているだけで、なぜか心地よく、時間の流れまでもが緩やかになった気がする。今までの俺にはない、昨日からじわじわと大きくなっている感覚だ。生を受けたばかりの弱々しくも健気で純粋な命が、殺伐としたこの街で生きてきた俺が纏う、纏わざるをえなかった、我が身を守るためのマントを引きはがしているのだろうか? そんなことが理由ではないのかもしれない。自分でも自分の感情が理解できていないのだ。でも、俺はとにかくこの命を守り、育みたいと思っている。それだけは事実だ。親という実感もないのに。
「おっさん、かわってくんないかな?」
笹木は俺を見て、無言で赤ん坊を手渡した。俺はミルクを飲ませ、背中をさすってやった。こんな小さくても生きているんだな。背中をさする手に確かな暖かさを感じ、そう思った。そんな感慨を知るはずのない赤ん坊は大きなゲップをした。自然と俺の頬は緩んでいた。
「おっさん、後は特に何か教えてもらわないとまずいことある?」
笹木は首を横に振った。
「じゃ、帰るよ。また、何かあったら頼むよ」
俺は赤ん坊を抱き、立ち上がった。
「ちょっと待っていろ」
笹木は何かをごそごそと探している。なんだろう?
「これを持っていけ」
ノート一冊が入るような紙袋を持ってきた。実際に、それらしきものが入っているようだ。
「ありがとう」
俺は礼を言い、紙袋を受け取り、帰路についた。
我が事務所に着き、煙草を一服しようと思ったのだが、薬局で言われたことを思いだし、やめることにした。そうだ。あの紙袋の中身を見ておかないとな。俺は紙袋から本のような物を取り出した。タイトルは……運を呼び込む命名方法。あのおっさん、こんなものまで持っているとは。俺はペラペラとページを捲る。
う〜ん、勇太、伸介、敏宏、孝之、太郎、一郎、……。中々、決まらないものだな。この本を読んだがために、名前は識別記号なんて考えはなくなった。名前が一生を決めるとか書いてあるし。
俺が決まらない名前と名前の決まらない赤ん坊の夜泣きのために、徹夜を強いられたのは言うまでもない。
2 今回の仕事は護衛。こえ〜はピストル
赤ん坊が我が事務所に来て、一週間が経った。笹木大先生(先輩かな?)に基本事項を教えてもらったため、オムツ交換やミルクの与え方などはもうすっかり慣れたが、やはり仕事よりかなりきつい。ミルクは人肌程度の温度にするなどの徹底ぶりのためかもしれない。それは普通だろと突っ込まれそうだな。ちなみに赤ん坊の名前は祐介に決まった。ありきたりな名前(全世界の祐介さん、ごめんなさい)で申し訳ないと心の中で謝ってはいるが、名前が片仮名とか無理矢理、漢字変換したものではないから、まだマシだろう。徹夜で考えたのだから、許して欲しい。
何とか祐介を寝かしつけ、俺はその寝顔を眺める。父親ってのもいいもんだな。まだ、親になったという実感もそんなにないのだが、そのようなことをつい思ってしまう。それだけの力が、無垢な瞳にはある。大きくなったら、一緒にキャッチボールでもするんだろうか? それともサッカーだろうか?
俺はしまりのない顔のまま、祐介を起こさないように気をつけつつ、ソファに寝転がった。疲れのためか、すぐに意識が遠のいていった。それでも、きっと俺は幸せそうな寝顔をしていたに違いない。
突然の泣き声に俺はビクッと起き上がった。まだ、ソファに寝転がって一時間しか経ってない。赤ん坊は泣くのが仕事らしいが、毎晩泣くのは勘弁してほしいものだ。毎晩泣かせるのが俺の日課だったのにさ。頼むから、俺みたいに仕事をしたくない日はしないような大きな人間になってくれ。まあ、俺みたいになってもまずいか。それこそ人生の負け組だ。あくまで一般から見てであって、俺はこの生活に満足しているから関係ないんだけど。
夜泣きをする祐介をなんとかなだめて、寝かしつけた。今日だけで何回起こされるんだろう? この一週間で三キロも体重が落ちてしまっているし、疲労はピークに達している。全国の子育てをしたことのある奥さん達を本気で尊敬するよ。
結局、今日だけで四回起こされた。朝には廃人寸前だ。祐介にミルクを与え、オムツの交換を済ませ、ソファに座り、うとうとしていると電話が鳴った。内心、朝っぱらから誰だよと思いながらも電話をとる。まあ、朝っぱらといっても、十時だから仕方ない。たぶん、一般ピーポーからすれば、朝っぱらじゃないんだろうな。
「便利屋、菊島オフィスですけど、ご用件は?」
口調は少々冷たくなる。だが、こんな時に電話をかけるヤツが悪い。
「あの、私を暫くの間、護衛してもらえませんか?」
電話から聞こえてきた声は若い女の声だった。しかも、聞き覚えがある。でも、誰かはわからない。
「うちの依頼料はかなり高いですよ。その代わり、今のところ、成功率百%ですけどね」
自慢ではないが、事実なのだから仕方ない。
「今、渋谷駅にいます。ここは人が多いから、手出ししてきませんが、見張られてます」
女の声は少しだけ震えていた。ちっ、そこまで緊迫しているなら仕方ないか。俺は女性の味方だし。
「わかりました。そちらに向かいます。俺は黒のスーツにサングラスでそちらに行きますから。俺を見つけたら、ウインクを二回してください」
俺は駐車場に行き、黒のクラウンに乗り込み、笹木の元に向かった。助手席に座る祐介を預けるためだ。ベビーシートを買うべきかななどと思いつつ、笹木の元に車を走らせた。頭の中はこれから仕事だというのに、祐介のことで一杯だった。正直、女にでもここまでのめり込んだことはなかった。
「おっさん、祐介を預かっておいてくれ」
有無を言わさず、笹木に祐介を預け、クラウンに乗り込んだ。笹木は裏業界で唯一信用できる人物だ。表業界にはほとんど知り合いがいないんだけど。はぁ〜。ちょっとだけ虚しいな。クラウンに乗り込み、サングラスをかけた。行きの安全運転とは打って変り法定速度の二倍近いスピードで裏道を飛ばし、渋谷に向かった。裏道を幾度か回り、大通りにでた。やはり大通りは大渋滞だった。裏道は距離なら、大通りの倍だが、時間なら、半分だ。
俺はスーツ姿でゆっくりとクラウンから降り、人混みをかきわけ、電話ボックスへと進んだ。 俺は目だけで周囲を見渡した。Tシャツにジーンズの女がウインクを二回した。この女が依頼人のようだ。俺はこの女の腕を掴み、クラウンまで一気に走る。この女がタイプだったからではない。
一瞬だが、この女の後方にいた男の上着から黒い鉄の塊が見えたからだ。それが何かは言わずもがなだ。しかも、一人ではなく、更に後方にもう一人いた。この業界では最低でも二人一組が当たり前だ。つまり、相手はたぶんだがプロ。
「急げ! 相手はプロだぜ!」
俺は依頼人に叫びつつ、全力で走る。ちっ、プロが相手なら、エンジンをかけたままにしておくべきだったな。途中、人と何回もぶつかったが、気にしてられなかった。むしろ、ちんたら歩いてんじゃねぇ、邪魔なんだよというのが本音だった。奴らも当然追いかけてくる。しかし、体積と面積の問題上、俺たちの方が速い。
急いでクラウンに乗り込み、俺は助手席側の扉を開け、依頼人を乗せ、キーを回し、エンジンをかけ、一気に車を走らせた。奴らは黒いベンツに乗り込んでいた。らしいといえば、かなりらしい車だ。こういう人種は皆が皆、同じような選択なので、バリエーションに乏しい。
俺はわざと事務所とは反対に進み、しかも裏道を走る。ここは俺のホームグラウンドなので、撒くのは簡単だと思っていた。俺の顔には自然と余裕の笑みが浮かんでいたことだろう。
しかし、予想外の展開が起きた。裏道に入るなり、ベンツの助手席に座った方の男が窓から身をのりだし、銃を構えた。標的を殺すためなら、手段は選ばないという中々に厄介な主義の人物らしい。この手の職業の人間に多い主義だ。真っ直ぐな道になるなり、乾いた音が弾ける。サイレンサーをつけていても、俺の耳にはばっちりと聞こえる。右側のミラーが一瞬で粉砕される。俺は逆に安心した。狙うならタイヤかエンジンにするべきなのだ。それなのに撃ったのはミラー。そして、この車は防弾ガラスだ。つまり相手は三流。この俺に敵うはずもない。
しかし、依頼人にとっては銃の恐怖は強大だった。顔はさっきから真っ青だったのだが、今は可哀想に震えてまでいる。銃まで持っているとは思わなかったのだろう。俺は一気に車を加速させ、大通りに出た。人気のある所では、流石に殺らないというのは渋谷駅の件でわかっていた。俺はそのまま渋谷から首都高速に入った。俺はETCに加入しているため、料金所の渋滞を回避できた。奴らは渋滞にはまっている。
「時代遅れなんだよ」
にやりと笑いながら呟き、車を猛スピードで走らせた。そのまま霞が関を通りすぎ、新宿まで常時、時速百二十キロで飛ばし、新宿で降りた。これで撒けたはずだ。そこからは港区の事務所に戻るだけだった。勿論さっきのベンツが来ていないこと確認しながら、ゆっくりと車を運転し、事務所についた。
俺は事務所に依頼人を連れていった。依頼人は未だに両腕で肩を抱いて震えていて、かなり怯えているようだった。だが、一方で俺はほっと一息ついた。
しかし、まず撒いたとは思うが、少々不安が残る。とはいえ、事務所からなら、注意も行き届く。つまり、事務所は二階にあり、車の出入りがあれば、すぐわかるということだ。察しのいい人ならお察しだろうが、逃げにくくもある。その時は俺の腕の見せどころだ。こうして、俺は依頼人を椅子に座らせ、漸く依頼人の顔をじっくり眺めることができた。依頼人は長い黒髪に、大きな瞳、笑顔が美しそうな印象の女性だ。まだ二十代前半ってとこだ。どこかで見た気がする。声にも聞覚えがあった。あっ、一週間前に薬局で俺に説教をした女性だ!
俺は依頼人の気を落ち着けるためにハーブティーをいれ、カップを依頼人の前に置いた。ハーブには人を落ち着ける効果がある。実は偶然に驚いた自分を落ち着けるためでもあった。
「俺は菊島順一。あなたは?」
俺はゆっくりと、微笑みながら話しかけた。
「西野和子です」
和子は大分落ち着いたようで、しっかりとした声で返答した。
「では、和子さん、何故、俺に仕事を依頼したんですか? あんな看板こそありますが、一般人はここに依頼しません」
そう、ここに来るのは人に言えないことをしている人ばかりだ。
「私は山本亮平さんからここに助けを求めるように言われたんです」
山本亮平は逃がし屋だ。十年来の付き合いがある仕事仲間だ。でも、あいつが関わっているとなると厄介な仕事になりそうだ。
「あいつとはどこで?」
この女性と山本の接点が俺には思いつかなかった。
「これを話すには狙われている理由も話さなくてはならないんですけど、聞いたらあなたも確実に狙われますよ」
俺はゆっくりと頷いた。ここまで聞いて、引けるはずがなかった。
「私は佐久間文麿の愛人をしていました。彼から見れば、確かに愛人という立場でしたが、私は彼を愛していました」
へ〜、佐久間文麿ね〜。どこかで聞いたことがあるような。えっ、まさか!?
「佐久間文麿というと最近、病気を患い、容態が良くないと言われているあの佐久間文麿ですか!?」
和子はこくりと頷いた。驚きのあまり、つい説明口調になる俺。ここで動じないようなら、かっこいいんだろうけど、俺にはまだ無理だ。でも、本当に愛しているなら、変わった趣味をしてるな〜。美人なのに。佐久間文麿はもう六十近く、そろそろお爺さんと世間では判断される年代で、世界規模の自動車会社の会長でもある。これはまたやな予感。
「あの〜、まさか、遺書にあなたに遺産を与えるとか書いていらっしゃって、本妻が佐久間氏が死ぬ前にあなたの命を奪おうなんてお話ではないですよね?」
「なんでおわかりになったんですか?」
おいおい。当たりかよ〜。勘弁してくれよ。流石に規模でかすぎだろ。しかも、話を聞いちゃったから後戻りはできないしなぁ。
「それで山本はどこに関連してくるんですか?」
何とか平静を保ちつつ、俺は訊いた。
「山本さんは彼の手下というか、厄介事を頼む相手だったみたいで、どこからか私が彼の奥さん、佐久間麻利江に命を狙われているという情報を掴んだみたいなんです。それで、私が遺書通りのお金を手に入れたら、その5%を逃がす代わりに支払うという契約をしたんです」
佐久間文麿の遺産の五%でも一般ピーポーにはお目にかかれない額になるはずだ。
「今、ここにいないし、電話もなかったということはあいつは捕まってしまったんですね?」
「はい。私を逃がした時に、捕まってしまったんだと思います」
和子の顔はかなり暗くなった。和子も最悪の状態を想像してしまったのだろう。
そして、それは九分九厘間違いないだろう。俺は腐れ縁とはいえ友の追悼のために煙草をくわえた。そして火をつけ、窓際に置いた。
煙は一条の揺らめく線となり、薄汚い都会を旅立った。涙を流したりはしなかった。これが常に死と隣り合わせの裏だからだ。
2・5 菊島の葛藤
「ええっとですね。和子さん、俺の事務所から出ないようにしてもらえますか?」
山本の弔いがすんでから開口一番に俺は言った。和子は顔を上げ、俺を見た。意外だったようだ。
「でも、着替えも何も持ってきていないですし、それに……」
少々、上目使いに和子は俺を見た。つい、襲いたくなるような可愛らしい顔だった。一児の父としては最低だな、俺って。
「それになんですか?」
いかん、いかんと心の中で頭を振り、俺は煩悩というか本能を振り払い、和子に笑いかけながら、言葉を促した。下卑な笑いになってないかが少々不安だった。
「その、し、下着の替えだけは何とかして欲しいんです」
顔を真っ赤にさせながら、俺に言う。こっちまでつられて、赤面してしまった。下着の心配など気にしなくてもよいほど、親密な関係になりたいものだが、お仕事とプライベートを混合しないのが俺の主義。
「その、それは信用のおける者に買いに行かせるとします。もの凄く嫌だとは思いますが、あなたの身を最優先に考えているので、お許しください」
事務的口調になんとか戻し、冷静さを保っているふりをする。てか、やっぱり聞かないとまずいよな。
「あの失礼ですが、下着はどれぐらいのサイズを」
和子は俺に耳打ちをした。それだけでも俺の理性は三十%減なんですけど。ここには俺と和子しかいないのだから、普通に言ってもいいような気もするが、やはりそこはまだ二十代の女性ですから。ちなみに恥じらいのある女性が好みな俺にはかなりストライクゾーンっていうかホームランボール。つまりど真ん中。
「○●△×☆◎です。誰にも言わないでくださいね」
ちなみに記号のところは普通にサイズが入るんだけど、俺は女性の味方だから、割愛。
「いえ、あの。買いに行かせる者には言っておかないと……」
「そうですね。私、ちょっと馬鹿みたいですね」
ちょっと元気をなくした様子で声のトーンも落ちる。表情がころころ変わるので、見てて飽きないというか、そこも魅力的。なんで佐久間みたいなジーサンの愛人なんてやってたんだろ? もったいなさすぎ。
「あ、あのですね。仕事の話に戻しましょう。えっとですね、ここは正直、依頼料は法外なんですよ」
おいおい、話を変えようとしたんだけど、命狙われてた人に仕事の話とかお金の話って、最低な話題じゃん、俺ってば最低。冴えてなさすぎ。
「一億円でどうですか?」
やっぱり、そんなもんか。って一億!? 和子の金銭感覚って一体?
「それで手をうちましょう」
さも当然と言わんばかりの口調で返答するが、実際は一億円と和子の魅力にくらくら。ああ、美人とお金に目がない俺。浅ましいな。
俺は携帯を取り出し、短縮に入れた笹木の店の番号にかける。
「もしもし、おっさん、頼みがあるんだけど」
「祐介を無理矢理預けといて、さらに何かあるのか」
うわっ、かなり不機嫌そう。まあ、殴られても仕方が無い状況だから、仕方ない。
「○●△×☆◎のサイズの女ものの下着買ってきてくれないか? あと、小麦粉も買ってきて」
「俺がか?」
あのダンディーな笹木が下着をレジに出して、店員に白い目プラスぎこちない笑顔で見られているのを想像するだけで大爆笑ものだ。
「頼むよ。やってくれないか?」
内なる葛藤(笑いとの)を頭の隅に追いやり、口調は真剣そのもの。
「わかった。後で金とるからな」
笹木は口は悪いが実際はかなりいい人。少々、悪い事をした気もするが、笑えるほうが俺的に上回っている。でも、実際、笹木以外に頼める人いないし。
「できれば、チンピラでも雇って運び屋に使ってくれ。金は必要経費プラス十万払うから」
「わかった」
笹木のその言葉を聞き、俺は電話をきった。そして、床に転がり回り、大爆笑。さあ、行け、笹木。女性の下着を買いに行くのだ。
「どうされたんですか?」
頭でもいかれたのかと思ったのか、和子は心底心配そうに聞いてきた。う〜ん、こういう時にマジに聞かれると恥ずかしいな。なに笑ってんの、気色悪いよとか、そのようなノリのが助かるんだけどな。咳払いをし、俺は立ち上がり、軽くスーツを払う。
「ちょっと今から仕込みに行くんで、ここにいてくださいね」
俺はがさがさと押し入れや引き出しから目当てのものを引っ張りだし、外に出た。今、俺の手にあるのは、手品師からぱくった、もとい、いただいた激細テグスと鈴。螺旋階段へと近づき、がさがさと仕掛けを製作する。気分は日曜大工。よし、完成だ。流石、俺。かなり自己満足し、部屋へと帰る。あとは、そうそう、アレをやっておかないと。五年前に購入したラジカセに空のテープを入れ、言葉を吹き込む。何を入れたかはひ・み・つ。
仕込みもすみ、ソファでごろごろしていると気がつけば、意識は遠のいていってしまった。もの凄く妙な表現だ。気がついてるはずないじゃん。
「起きてください。ご飯ですよ」
誰かの優しげな声。そっか、ご飯か。でも、誰が作ったんだ? 寝起きで猿並にしか働いていない頭を振りながら、体を起こした。目の前にいるのは、和子だ。そして、料理がテーブルに並んでいる。時計は八時をまわったところだった。って料理? あれ? なんで?
「えっ、用意してくださったんですか?」
「はい、暫くお世話になるんですし、料理ぐらいは」
すげぇ。料理ができるって、マジでポイント高くないか? ありきたりだけどさ。席につき、手をあわせる。人と食事を共にするのって何年ぶりだろ? いつも付き合ってる女はあくまでお遊びや一晩の快楽を求めるだけの相手だから、食事なんかしないし。
「いただきます」
俺の様子を見る和子はまさに天使の微笑みを湛えていた。まずは卵とニラの炒めものを食べる。やばい。うまい。なんだろ? ニラにきちんと火が通っていて、しかも、味付けに何か秘密がある。でも、わかんない。次は、味噌汁。普通にあわせ味噌を使った味噌汁だが、辛すぎることもなく、薄すぎることもなく、絶妙なお味。無言で食事をがっつく俺にびっくりしている様子の和子。でも、気にしない。
「ごちそうさま」
平らげるのはすぐだった。もうかなり満足。俺は皿を片づけ、洗い物に取りかかる。
「私、やりますから」
「いや、あんな美味しい食事を食べさせていただいて何もしないなら、ばちが当たりますよ」
これは本音だった。
「あの、じゃ、お風呂入っていいですか?」
「どうぞ。着替えは僕の使ってください。箪笥に入ってますから。大きいと思いますが、我慢してください」
「覗かないでくださいね」
和子はニッコリと笑い、俺に言った。そんな気はなかったのに、そう言われた。はあ、俺って信用ないな。俺は溜め息をつき、黙々と洗い物に奮闘する。
「お風呂あがりましたよ」
洗い物が片づいたのとほぼ同時に話かけられた。振り向くと、風呂上がりの和子がいた。髪はまだ濡れていて、頬は少々赤い。髪をバスタオルで拭く仕草にぐっときた。でも、我慢。
「薄汚い布団で申し訳ありませんが、俺の部屋で寝てください」
「菊島さんは?」
「ソファで寝ますから」
「そんなのは駄目ですよ」
優しさが伝わってきて、ありがたい言葉だ。
「男の顔を立ててくださいよ」
俺はニッコリと笑いかけた。
「ありがとうございます」
丁寧にお礼を言い、和子は俺の部屋に入っていくかと思ったら、入る前に立ち止まり、振り返った。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
俺が返事をすると和子は俺の部屋に入っていった。俺は着替えを用意し、シャワーを浴びた。 それから寝ようとしたのだが、中々寝つけなかった。だって男と女が一つ屋根の下だよ。しかも美人も美人、大美人(?)。野郎ならきっと気持ちがわかるはずだ。
3 安息は一時。人、時は常に動く
和子が事務所に来てから、もう一週間が経つ。女性と一週間も同じ屋根の下に生活していて、手を出さないのは聊か男の嗜みに反するというものだが、くどいようだが、公私混同をしないのが俺の主義だ。和子がここに来たために祐介はずっと預けっぱなしだ。祐介に会いたい。あの可愛らしい寝顔を眺めていたい。この俺が男に会いたいと思うなんてな。少々、自嘲気味な笑みを浮かべ、溜め息をつく。和子との契約金一億円を祐介のために貯金することで許して貰おう。でも、子供には金より愛だよな。俺らしくもない台詞が最近妙に頭をよぎるようになった。俺にとって祐介の影響力は絶大なわけだ。
「あの〜、お子さんは今どこにいるんですか?」
「信頼できる人の所に預けてある。あんた、俺のこと覚えてたのか?」
祐介のことを考えていた矢先に祐介のことを訊かれ、内心を読まれている気がして、口調は少々乱暴になってしまった。相手は依頼人だというのに。
「いえ、あの、一週間前、ここに来た時から訊こうかなと思ってたんですけど、言い出しにくくて。余計なお世話ですよね。よく言われるんです」
俺のひどい反応に少しうつむきながら言った。
「いえ、すみません。考え事をしていて」
そのように俺は言ったが、和子は黙ってしまい、気まずい沈黙が生じてしまった。最低だな。憂い顔の美人が好きというやつが偶にいるが、やはり女性は笑顔が一番だ。女性を幸せにして笑顔でいさせることが、男の役目で最高の報酬だ。でも、この状況を打破する術を持たなかったので、俺は本当に和子の護衛について考え始めた。
現時点では、着替えなどは俺の服をできるだけ使用してもらっている。下着などは笹木に頼み、俺の金で雇わせたチンピラに運ばせているが、チンピラは捕まれば、居場所をすぐ吐くし、ここも安全とは言えない。これは所詮金でしか繋がってないわけだから仕方ない。そして、相手はプロなのだから、既にここはバレていてもおかしくはない。むしろバレていて当然だ。一度逃がしたために慎重になっているのか、それとも人員を集めているのだろうか? この束の間の均衡はいつ崩壊してもおかしくない。こちらもある程度の手は打った。しかし、それもどこまで通用するだろうか?
「あの、コーヒーでもいれましょうか?」
和子が俺に少し遠慮がちに話しかけてきた。俺が腕をくみ、眉間に皺を寄せ、考え込んでいたので気を使ったのだろう。
「お願いします」
満面の笑みではなく、少し深みを残した、軽薄ではない笑み、つまりは男の魅力を増長する笑みを浮かべた。しかし、和子はまったく気にせず、コーヒーをいれに行ってしまった。和子の趣味が変わっているとはいえ、ちょっとショックだ。俺の仕事と同様に成功率百%だったのに。
突如、鈴が鳴った。悲嘆する俺を待ってくれる程、時というのは甘くないらしい。俺が1階の螺旋階段に仕掛けた罠に誰かがかかったようだ。俺が仕掛けたトラップは、見えにくいテグスに触れると鈴が鳴るという単純なものだ。俺の耳は特別製なため、はっきり聞こえたのだ。恥ずかしながら、この耳の良さは特別な家庭環境のせいだったりする。あんまり、思い出したくないので、考えないでおこう。
「コーヒーは止めにしましょう。和子さんはトイレに隠れていてください。嫌なお客さんがいらっしゃったのかもしれません」
俺は和子をトイレにこもらせ、念のため押し入れから愛刀の緋翔を取り出した。緋翔は日本にはもう数少なくなった真の刀匠が鍛えあげた日本刀だ。
俺は玄関から廊下に出た。予想通り、いかつく、見た感じも悪人な黒服三人と白のスーツにサングラスをかけ、彫りが深く、鼻が高く、長髪で、俺には劣るが中々の美形で長身な男が二階への唯一の移動手段である螺旋階段を上ってきていた。白スーツがリーダーのようだ。歳の頃合いは二十代前半だ。北欧系の血が混ざっているかもしれない。
四人が相手ではちょいときついな。手練だと厄介だ。
俺は自分の部屋に駆け込み、ラジカセのボタンを押し、白い粉を巻き散らした。かなり大量にまいた。たぶんいけるはず。
「和子さん、出てきてください」
トイレから出てきた和子の腕を掴み、ベランダまで引っ張っていく。駅でも思ったのだが、腕が白くて細くてきれいだなんて不謹慎にも思ったりする。二階ということもあり、外に見張りはいない。プロと言っても二流だな。俺なら、二階から飛び降りるのを考慮し、部屋の外にも見張りを用意しておく。
俺は和子をベランダづたいに隣の部屋に移らせた。隣は空き家だったのが幸いした。俺は窓を閉め、ベランダにしゃがみこんだ。ちょうどその時、玄関の扉が開いた。足音は二つだ。黒服が入ってきたのだろう。
「俺はここだよ〜ん。てめえらみて〜なハジキがね〜と戦えな〜いような屑には捕まんね〜よ」
ラジカセから相手を馬鹿にするような俺の声が流れた。
「こんなちゃっちい仕掛けに騙されると思ってるのか? 馬鹿が」
黒服の一人が吐き捨て、さっさと出てこいと言わんばかりに銃を発砲した。
かかった!
そう思った瞬間、部屋の中で爆発が起きた。あの白い粉は笹木に買ってきてもらった小麦粉だったのだ。有名な粉塵爆発だ。説明はいらないと思うが、可燃性で固形粉末の物質が空中に浮遊している際に火炎や電気火花で点火され、爆発を起こすものだ。よい子はまねしないように。悪い大人が悪用するのが一番まずいんだけど。あと二人。黒服と白スーツだ。爆発を聞きつけ、入ってくるだろうか? 一旦引くのだろうか?
「キャッ!」
隣の部屋から和子の悲鳴が聞こえた。ちっ、読まれていたようだ。あの白スーツの美形はきれる男のようだ。二流というのは訂正しなくてはならない。退路や俺の行動もある程度読んでいたようだ。つまり、部屋の外に見張りがいなかったのは、相手の仕掛けた巧みな罠だったのだ。はっきり言って、あまり関わりたくない相手だ。だが、やらねばならない。
俺はこっそりとベランダから隣のベランダに移り、しゃがみこんだ。相手は二人。まず確実に銃を持っている。緋翔を目の前に持っていき、一瞬、目を瞑る。覚悟を決めろ。恐怖を抑え込め。勝負は一瞬。
俺は目を開き、一気に隣の部屋に入り込み、一瞬間だが躊躇をした黒服に斬りかかる。黒服の銃は撃鉄を起こしたが、狙いが定まってない。黒服は慌てて狙いを定める。だが、もう遅い。黒服が引き金を引こうとした殺那、緋翔は文字通りに緋色の液体を宙に舞わせ、黒服を肩口から斬り裂いた。ずるりと黒服の体が崩れた。
同時に響きわたる、二発が一発に聞こえるほど速い鉄の凶器の咆哮。白スーツの右手の自動小銃から放たれた弾丸の一発は黒服の背中を貫き、もう一発が俺の足をかすめた。黒服が盾になってくれたお陰で、幸いにかすり傷ですんだが、俺は床に倒れこんでしまった。走ることはまず不可能だろう。立ちあがることもかなり怪しい。白スーツの美形は今の今まで味方だった者を躊躇うことなく、無表情のまま撃つほど、冷静で冷徹で冷酷な性格のようだ。
「菊島さん!!」
和子が叫んだ。その表情は銃を持った男に捕まっている我が身ではなく、俺の怪我を心配しているようだった。
白スーツがこちらを見た。それだけで全身から嫌な汗が溢れ出る。爬虫類。そう、サングラスの奥のヤツの目は爬虫類のような冷たさを湛えているのだ。爬虫類が獲物を捕えた瞬間に見せる歓喜を湛えているようでもあった。恐怖に俺の身はすくみ、自然と歯が鳴る。絶体絶命。万事休す。ここが俺の最期か……、嫌だ。死にたくない。祐介のためにも死ねない。
しかし、白スーツは俺を一瞥しただけで、和子の腕を引っ張り、連れて行こうとした。
「待て」
俺の声はかすれるように小さく、白スーツには聞こえなかっただろう。白スーツはそのまま、出て行った。
俺はなんとか立ち上がり、ヤツを追おうとした。立ち上がるというそれだけの事なのに、かなりの時間がかかった。足の痛みのせいだけではなく、ヤツに対する恐怖のせいだった。俺の心の弱さのせいで、和子は連れ去られてしまった。和子は俺の心配をしてくれたのに、自分はきっと恐怖に怯えていたに違いないのに。
無情にも和子とヤツを乗せた青いBMWは部屋の窓から見える道路を通りすぎていった。俺の事務所からは見えない位置に停めていたのだろう。俺は和子を連れ去られるのを指をくわえて見ているだけだった。そう、無力だった。
俺が今ここにいるのも白スーツに生かされただけだ。俺は、壁に拳を叩きつけていた。叩きつけた拳から血が流れても痛みはなかった。ただただ悔しかった。情けなかった。
4 逆襲は狡猾に冷静にそして、計画的に。ご利用と同じ
冷静になれ。落ち着け。怒りで冷静さを失うのは最も危険だろうが。明鏡止水ってやつが最も重要だと再三にわたり、あの人に言われてきたじゃないか。俺は大きく深呼吸をし、自分に言い聞かせ、ゆっくりと立ち上がった。頭はいつも通り、クレバーでいい加減な状態に戻ってきていた。落ち着いてきたら、撃たれた足の傷が焼けるように痛みだしてきた。
でも、こいつは生きている証拠だ。そう、生きている。生かされたんだろうが、なんだろうが、俺は生きている! 逆襲できるということだ。
次は俺の番だ。逆襲ためには状況を把握しなくてはならない。あくまで、逆襲は狡猾に計画的におこなわなくてはならないものだ。
まずは情報整理だ。襲撃のおかげでわかったことは、和子を連れ去ったからにはそれなりの理由があることだ。つまり、何らかの生かしておく価値が和子にあるということだ。とはいえ、和子の身が危険なのは変わらない。
後は、腕前からいってもリーダー格が出てきたということから敵は少数精鋭だということ。いや、粉塵爆発に気づかなかったから、そこまで手練だらけではないな。そして、白スーツの使っていた自動小銃は一九四二年にドイツで開発されたFG42だったはずだ。威力が高く、戦争にも使われるのだが、自動小銃はでかくて目立つため、今では拳銃が武器市場のメインのはずだし、FG42の数は少ないはずだ。だから白スーツの居場所を何とか絞り込めるはずだ。
それよりも、とりあえず、今すべきは足の治療だな。かなり足が痛い。泣きそうかも。
俺は痛む足を引きずりながら、自分の事務所へと戻った。当然、この足ではベランダづたいには行けないので、玄関からだ。入るべきではなかったかもしれない。すぐに後悔する羽目になった。中はかな〜りグロテスクかつスプラッタ。黒服二人の死体はまっくろくろすけ。確実にウェルダンだ。勿論食べる気など毛ほどもない。人の皮膚がやけたことによる異臭で鼻がひん曲がりそうになる。できるだけ見ないようにして、かつ鼻をつまみながら、押し入れから、救急箱を取り出した。押し入れの中身までは無事だった。足にヨードチンキを塗り、包帯を巻き、テープでとめる。応急処置は医者以上という自信があったりする。怪我に溢れた生活を送ってきてたわけ。ちなみにヨードチンキは漢字で書くと、沃度丁幾だ。走ることは無理かもしれないが、歩くのなら、痛みを堪えれば、問題ない。思ったよりは酷くなかったようだ。
さて、次はここの二つと隣の一つの元人間の処分をどうするかだな。始末屋に頼んでおこう。この世の中、色々な職業があるもので、便利と言えば便利だが、便利屋だけに手広くやっている俺には商売がたきにもなりうる。始末の仕事も結構ギャラがいいし。まあ、いいや。俺は携帯をスーツの胸ポケットから取り出し、ボタンを押す。
「もしもし、菊島だけど、厄介事に巻き込まれちまったんだ。モノは三つ。いつも通り、金は銀行に振り込んでおくから、よろしく」
用件だけを一方的に告げ、電話を切った。むこうも商売だから、これで十分。それに商売がたきでもあるしね。親しくする必要はないんだ。
俺は押し入れの奥の金庫から、シルバー製の十字架のチョーカーを首から下げた。これを着けたからにはもう負けるわけにはいかない。そう、あの人の名を汚さないためにも、負けるわけにはいかない。
俺はゆっくりと愛車のクラウンへと向かった。ゆっくりとしか動けなかったというのが実情だったりする。当然、緋翔にもご同行をしてもらう。これからが俺の逆襲の始まりだ。
笹木の店には急用のため本日休業という紙がはってあった。こう書いてあっても、ほとんどの場合、笹木はここにいる。
「おっさん、入るぜ」
返事はないが勝手に上がり込む俺。住居不法侵入だ。ここらの住人は誰も公僕ってのには頼んないから関係ないんだけど。
突然の鉄拳。
気がつくと俺は床に倒れこんでいた。
「おっさん、何すんだよ!」
理不尽な一撃だ。威力は相当のものだ。黒のティーシャツから覗くことのできる笹木の二の腕は俺よりも太い。本当に六十超えてるのかと疑いたくもなる。
「実の子を一週間も預けておくからだ」
それは重々承知だ。でも、仕事があったのだ。しかも、人命に関わる仕事だ。それを投げ出せるほど、俺は冷酷になれない。冷酷になれないやつはこの業界では二流以下だが、性格を変えるのは今更不可能だし、情を捨てたら、人間失格だと俺は思う。
「おっさんに迷惑かけたのはすまないと思ってるよ」
「そうじゃない。息子を一週間も預けておくお前の無神経さに怒ってるんだ」
普段がダンディーな顔つきだけに怒ると怖いし、説得力がある。マフィアの親分もびっくりだ。
「俺だって好きで預けておいたわけじゃない。仕事だったんだ。預けたのだって、祐介の身に何かあるといけないからだ」
笹木は鼻を鳴らし、あさっての方向を向いた。かなりご立腹のようだ。
「おっさん、悪かった」
俺が悪かったのだから、言い訳しても駄目だ。俺は素直に頭を下げた。
「祐介は奥にいる」
「まだ片づいてないんだ。あと二日だけ預かってくれないか?」
俺を睨みつけながらも笹木は頷いた。
「頼みがあるんだ。FG42の流通ルートを教えて欲しいんだ」
笹木は元アサシンだけあって、未だに武器の流通ルートはかなり詳しい。引退しても情報が入ってくるからだと以前、話していた。
「お前なんかに教えることはない。祐介を預かるのは子供に罪はないからだ」
全くもって、おっしゃる通り。調子がいいにもほどがあるというものだ。でも、俺は白スーツから和子を救いださなくてはならない。俺は床に頭をつけ、土下座をした。
「情けないな。プライドはないのか?」
すっかりあきれ顔の笹木は溜め息をついた。情けないのは承知の上だったが、それよりも笹木に呆れられたことのほうが、俺には嫌で、惨めなことだった。
「プライドなんて今はいらない。ここでこの仕事を投げ出したら、自分で自分を許せないんだ。このままじゃ、父親以前に男ですらないんだ!」
地面に膝をつけたまま、笹木を見据え、俺は叫んだ。この言葉に嘘はない。
突如、扉が開き、黒い何かが入り込んできた。
「赤ん坊はここか。まさか、こんなとこにいるとはな」
俺が、見た何かは人間だった。黒いスーツを着て、右手にはショットガン。先程の黒服より装備からもわかるように身分が高いらしい。気配を隠し、ここまで近づいたことからも実力の高さが窺い知れた。
「ジイサン、ガキを連れてこい」
とっさに俺は緋翔を鞘ごとベルトに挟み、背中に隠した。
「てめえも動くんじゃねぇ」
俺はゆっくり手を上げた。笹木は祐介を抱え、連れてきた。巧い。流石は笹木だ。黒スーツには見えてないが、俺には見えているものがある。とはいえ、相手はプロ。隙をつかねば、笹木の策も無駄に終わるだろうし、そう容易には、隙を作ってはくれないだろう。
「ところでさ、あんた、ずっと扉の外で立ち聞きしてたのか? せめて美女のストーカーにしとけよ。どっちにしても、変態に変わりはないけどな」
問答無用で撃たれたら、たまらないが、俺は軽口をたたいた。黒スーツの注意がこちらに移った。あくまでそれは一瞬で、すぐに祐介と笹木の方に視線を戻し、黒スーツが祐介に銃口を向けた。だが、もう笹木の間合いだった。笹木は隠していたナイフで黒スーツの右手首を斬りつけた。黒スーツは一瞬怯み、ショットガンの銃口を下げた。
「順一!」
笹木が叫んだ。俺は緋翔を抜き、一気に間合いをつめた。足の状態など気にしていられなかった。そして、黒スーツの腹をないだ。鮮血が舞い、俺の体に血が付着した。生温かいこの感触はいつ味わっても気持ちのいいものではない。黒スーツは床に倒れ臥した。それでも、黒スーツは苦痛に顔を歪めながらも傷ついた右手でショットガンを発砲した。弾は標的をかすめることなく、壁にめり込んだ。それが黒スーツの最期のあがきだった。
「巻き込んでしまったみたいだな。おっさん、すまない。他を当たるよ」
笹木から聞き出せるのがベストだったが、こうなっては仕方ない。これ以上、笹木を巻き込むわけにもいかなかった。
「待て。俺もついて行く。ヤツの狙いは祐介だったようだし、ここももう安全じゃないみたいだからな。だが、おまえを許したわけではないからな」
笹木は立ち去ろうと背を向けた俺に言った。俺は笹木の方に顔を向けた。笹木は険しい顔をしながら、こちらを見ている。いつもの笹木の目つきとは異なり、怒るでもなく、感情を露にするわけでもなく、冷静に相手に死を届けるアサシン特有の目つきになっていた。その殺意は俺に向けられたものではないだろうが、思わずぞっとする。
「でも、祐介はどうするんだ?」
俺の声は笹木に気圧されたのか、少々高くなっていた。
「奴らの狙いは祐介だった。俺らといた方が安全だ」
異論はあったが、有無を言わさぬ口調に俺は圧倒されていて、何も言えなかった。奴らの狙いが祐介だったのは事実だ。しかし、なぜ祐介が目的だったのだろうか? 別口なのだろうか? でもなぁ、生まれたばかりの我が子に恨みを抱くものがいるはずもない。
俺の思考は突然、途切れた。祐介が泣き出したからだ。生命の危機を回避し、ほっとして泣き出してしまったのだろうか? なぜ祐介が泣き出したのかを考え、目を合わせた俺たち二人に、先程までの緊迫感はなかった。
5 武器商人は危険で危険。俺が聞けんなら、仕事は棄権。
「おっさん、流通ルートを教えてくれよ。何処に向かえばいいか、わからないよ」
俺はクラウンのエンジンをかけながら、笹木に尋ねた。笹木は祐介を抱き、後部座席に座っている。祐介はぐっすり眠っている。
祐介を抱いているため、先程までの恐ろしい雰囲気を出してはいないが、それでも普段と異なり、顔は真剣で、深い皺がますます深く刻まれていた。
「シュウの所だ。そこからはわからん。だが、あれはシュウの所を絶対に通っているはずだ。数量まではわからんが、大きな流れではないはずだから、二桁はいかないだろうな」
どの商人に武器が流れたかはわかるらしいが、流石に笹木でもそこからはわからないらしい。 シュウの名を知らない者は裏業界にはいない。そして、シュウというのは通称に過ぎない。武器商人は本名で商売をすることが万が一にもない。それどころか、名前すら持たない場合もある。それは、密航してきた外国人や親に捨てられ、名を持たない者だ。こういう連中はあくまで捨てゴマで、だいたいの場合がそいつらを使うことで莫大な利益を得ているヤツがいる。
しかし、シュウは一風変わった人物で、すべてを自分一人で行っているらしい。当然、本当かどうかはわからない。しかし、品は完璧で東京ではNo.1の武器商人だ。それだけは疑う余地のない事実だ。
「シュウは池袋にいるんだよな?」
「ああ。信頼関係の為に一ヶ所にとどまるというのがヤツなりの流儀らしい」
笹木の言い方はなぜか皮肉めいていた。
「簡単に教えてくれるかな?」
「本気で言ってるのか? 簡単に教えてくれるわけないだろ。武器商人ってのは秘密を厳守することで、クライアントの信頼を得るんだぞ」
無理だろうとわかりつつも、マイナス要素があまりにも多いから、希望的観測を述べただけだ。なのに、笹木は呆れてものも言えないというような顔をした。
「冗談だよ。わかってるよ]
それだけを言い、俺はクラウンを池袋へと走らせた。
そろそろ、日が落ち、辺りは闇を纏い始めようとしているのだが、通りは大勢の人でごった返していた。
ここにいる誰もが自分の意思でこの通りを歩いているはずだが、一定の方向に進んでいく流れに身をおくと、個の意思は消失し、集団の意思だけが存在しているような気持ちになる。そんな中に異質な三人、竹刀いれのような袋を片手に持ち、黒スーツにサングラスの二十八歳美形、ダンディなのに黒のティーシャツにジーンズというラフな服装の六十代とその腕でぐっすりと眠っている赤ん坊が混じっていた。
俺達は一日中、日を浴びていないようなビルとビルの間の道を抜け、表向きはビジネスホテルという体裁をとっている5階建ての建物へと近づいていった。
「順一、これを持っていくか?」
笹木がジーンズとベルトの間に挟んでいた物を取り出した。トカレフだった。トカレフは初速が速く、貫通力が強い。日本に入ってくるのは中国製で、現地名「黒星」と呼ばれている。しかし、発明したのは、旧ソ連だ。
「銃だけは使わない。あんたが一番知っているだろう?」
あの日以来、俺は銃を使うことも持つこともなくなった。
「だが、守るべき者がいるだろう? 自分の意地より大事なものがあるんじゃないのか?」
それでも、俺には……。
「その無言が答えだな。まあ、いい。シュウは一番上にいるはずだ」
笹木はジーンズとベルトの間にトカレフを挟み、先程までと同様にティーシャツで隠し、目前の建物へと歩いていった。
右側にフロントがあり、二階へと上がる階段とエレベーターの間に古そうだが、立派な置き時計が置かれていた。左側の片隅に欧米系の顔立ちの男が、ホテルのボーイのような服装で、立っていた。百九十センチを優に越す身長の持ち主で、体重もかなりありそうだ。ボーイ服は正にはちきれんばかりだった。
「どんなご用件ですか?」
多少イントネーションに違和感があるが、流暢な日本語で話しかけられた。
「はは、ここはホテルでしょう。泊まる以外に目的があるはずがないじゃないですか。頭、大丈夫?」
もちろん、冗談だが、相手はそうととってくれなかったらしい。白いお顔がみるみる紅潮していった。
「なめんなよ! イエローモンキー。ここをどこだと思ってるんだ」
あらら、まだこんな言葉を使う人がいたんだ。というか、顔が真っ赤で、そっちの方がお猿サンだと教えてあげたほうがいいのだろうか? 日本人は親切というのが、世界の共通認識らしいし。
「シュウに用事があるんだ。通してもらうぞ」
笹木は冷静に言った。シュウの名前が出て、少々、落ち着いたようだが、青い瞳はまだ俺を睨んでいる。熱心に見つめられるのは女性だけでいいのに。
「わかった。案内する。嘘ならば、死ぬだけだからな」
しかし、ヤツの目は如実に後で覚えてろと物語っていた。まあ、俺には女との約束しか覚えていられないんだけど。
それにしても、やけにあっさりしている。普通は雇い主に確認しない限り、俺達のような得体のしれない人間を案内するはずがない。まあ、いい。なんだろうが行けば、わかるはずだ。
俺達はエレベーターへと案内された。それぐらいなら、俺達でもわかる。中に入って案内が要る理由がわかった。エレベーターの操作盤に五階へ行くためのボタンがなかったのだ。少々、関心が湧いたので、ヤツの手元を見ていた。すると、ヤツは一階から四階までのボタンを全部押した。期待していたぶん、がっかりした。格闘ゲームのコマンドじゃないんだからさ。そうこう考えているうちに、五階に着いた。
五階は外観や一階のロビーの寂れた様子とは異なり、極めて豪勢な雰囲気だ。豪勢さが嫌味に見えないあたりはシュウという人物のセンスの良さが大きく影響しているのだろう。絨毯一つをとってもそれが言える。赤を基調としているために品がなく派手に見えやすいはずなのに、白壁のお陰で、品がなく見えない。よく見ると、白壁にも装飾が施されているあたりも抜かりがないと言える。金持ちにはよく見られる、無駄に多い絵画や甲冑や毛皮などはなく、調度品は壺が一つ隅に置かれているだけだった。
「名前はなんだ? シュウ様にお聞きする」
ヤツは偉そうに俺達に命令口調で言った。案内役なら敬語を使えと言ってやりたいところだが、それを我慢する俺。大人の対応というやつだ。しかし、どうしようか。俺にはアポもコネもないからなぁ。
「笹木信二が来たと言えば、わかるはずだ」
笹木がヤツに言った。引退してからは、コネを使わないことを笹木が公言していただけに、俺は少々ばつが悪かった。俺が巻き込まなければ、今もガラの悪い客相手にコーヒーをいれているはずなのだから。
ヤツは頑丈そうな金属製の扉の近くの電話機からシュウに笹木が来たことを伝えた。この頑丈そうな扉も、ヤツが俺達をあっさり連れてきた理由だろう。
「入れ」
金属製の扉を開け、ヤツはそう言った。命令口調なのはやはり気に食わないが、その言葉に従った。
「笹木、久しぶりだな」
シュウはにこやかに笹木を出迎えた。でも、どこかトゲがある気がする。シュウは五十代後半といった歳だろうが、髪はまだ黒く、オールバックの髪型が決まっており、若々しい。これで背が高ければ、紺のスーツがよく似合うのだろうが、身長は百六十五センチほどしかない。
「ああ、久しいな。十と何年になる?」
笹木も顔は笑っているが、目は笑っていない。老獪な二人は互いに牽制しあっているようだった。
「十五年だ。最後に会ったのはお前が引退した時だからな」
シュウの言葉に笹木は反応したのか、一瞬だが、殺意がシュウに向けられていた。
「もうそんなに経つのか、あの時から。お前のことを忘れたことはなかった」
笹木は顔こそ穏やかそうに保っていたが、しっかりと拳がにぎられていた。
「私もだ。しばらくは夜も眠れないほどだったからな。ところで、そっちの若者と赤子は誰だ?」
シュウは笹木を見据え、紺のスーツの内ポケットに手を突っ込んだまま、笹木に言った。おそらくは銃を握りしめているのだろう。どうやら俺と祐介のことらしい。祐介はというと、未だにぐっすりと眠っている。
「俺は菊島順一といいます。取るに足らない男なんで覚えていただかなくて結構です。そして、その赤子は俺の息子です」
俺は仕事用トークで丁寧に話す。
「中々、君は面白い男だね。笹木とこんな所に来たからにはそれなりの理由があるのだろう?」
本題に入ろうということらしい。敢えて俺は入り口につっ立ったままのヤツをちらりと見た。
「ジョセフ、下がれ」
シュウは俺の視線の意味を汲みとったようだ。ヤツはジョセフというらしい。ジョセフは渋々下がり、エレベーターに乗り込んでいった。
「単刀直入に言います。そっちの方がわかりやすいですからね。FG42をあなたから買った人物を教えていただきたいのです」
「教えると思っているのか?」
シュウの目つきは急に鋭くなった。
「いえ、教えていただけるとは思ってません。でも、シュウさん自身の命とヤツの情報を天秤にかけられたら、どうです?」
俺は左手に隠し持っていたバタフライナイフの刃をだし、一瞬の間に間合いを詰め、ナイフを首筋に突きつけた。緋翔の入った竹刀いれはあくまで囮だった。武器を手に持っていれば、そちらに嫌でも目につくものなのだ。手品師と同じ要領だ。普段のシュウならば、このようなことにはならないのだろうが、笹木に注意が向いていたのが仇となった。
突然、襲いかかってくるとは思わなかったのだろう。シュウは一瞬だけ、目を大きく見開いた。だが、すぐに感情を押し殺し、平静を装った。そこは、流石は熟練の武器商人と言えるだろう。それでも額から汗がつたっていた。
「脅されても殺されても、私はクライアントの情報は漏らさない。と言いたいところだが、私だって命は惜しい。条件を一つ呑んでくれれば、教えよう」
俺が躊躇いなく、人を殺せる人種だと読み取ったらしい。それにしてもあっさりしすぎな気がする。シュウほどの人物がこんなにも簡単にクライアントの情報を教えるだろうか? それ以前にこの業界に携わって長い人間がこんなに簡単に隙をつくり、ナイフを首筋にあてられるだろうか? 笹木に集中していたから? どちらにしても俺にとっては好都合な展開に向かっているのは事実だ。
「条件次第ですね」
「条件は相手を教える代わりに確実に相手を殺すことと私が情報を漏らしたことを口外しないことだ」
一つと言いながら、条件は二つだ。そんなことはどうでもいい。シュウは信頼が損なわれるのを最も危惧しているようだ。こちらとしてはおいしい条件だ。少々、おいしすぎる気もする。
「わかりました。では、教えてください」
「あれを買ったのは一人しかいない。里中竜童という男だ。最近できた組織のトップなのだが、里中が冴えているために勢いがある。ダークワイトという組織名だ。私が卸したのは七挺だ」
ダークワイト。どこかで聞いたな。思い出した。警察官僚暗殺事件の黒幕との噂があった組織だ。確か、八王子を根城にしていたはずだ。
「どうもすみませんでした。ご無礼をお許しください。約束は必ず守ります」
俺はナイフの刃をしまい、ズボンのポケットに入れ、立ち去った。シュウのスーツから拳銃が出てこないかと内心びくついていたのだが、そのようなことはなかった。俺達はエレベーターに乗り込んだ。
「結構、ものわかりがいい人で助かったよ」
俺は本当にそう思っていた。よくこんなんで生きてこれたなと思ったぐらいだ。まあ、あの性格でのらくらで乗り切ってきたのかもしれないが。
「あいつに気を許すな。エレベーターから出た瞬間に蜂の巣にされるかもしれないぞ。俺と一緒にいるんだからな」
笹木はそう言って、二階のボタンを押した上で、一階のボタンを押した。笹木は本当に蜂の巣にされると考えているようだ。そんなことあるわけないだろと思いながらも、笹木に続いて俺は二階で降りた。
二階には三つの部屋とその奥にトイレがあった。ここはあくまで表向きはビジネスホテルだが、客が泊まっているはずがないし、物音ひとつしないので、まず三つの部屋は無人だ。
エレベーターが一階に着くなりに連続した銃声がおきた。俺一人だったら、今頃、東京湾へ運び出すために、トラックに乗せられようとしていただろう。笹木に感謝しなくてはならない。
エレベーターに俺達が乗っていなかったのだから、階段でシュウの部下があがってくるのは時間の問題だった。当然、エレベーターは先程の銃弾の嵐ため、使用できなくなっていた。それは階数表示が消えていたことからも明白だった。二階の窓から一階へとおりることは可能だろうが、祐介を抱えていては無理だし、笹木も無理かもしれない。それに俺自身も足の怪我という不安要素がある。そのような考えをしていると、案の定、物音を立てないように階段を上る足音が聞こえた。数は二人分だ。くどいようだが、俺の耳は特別製だ。
こういう建物なら、アレがあるはずだ。あった! 俺はアレのホースを持ち、放射した。炭酸ガスが奴らの視界を遮った。そう、アレとは消火器のことだ。突然の窒息効果のある不燃性ガスに驚き、銃をむやみに発砲している。その隙に俺は緋翔を取り出した。
「おっさんは祐介を連れて、奥の部屋に隠れていてくれ」
俺は小声で囁き、笹木はそれに従い、奥の部屋へと入っていった。祐介は、先程の銃声に目を覚ますことなく、未だにぐっすりと眠っていた。なかなかの強心臓を持っているようで、祐介は将来が有望だななどと考えていたのだが、親馬鹿のままではいられないようだ。
奴らは咳き込みながらも、二階へと着実に階段を上っていた。俺は近くの柱に身を隠し、緋翔を構えた。
始めに現れたのは東洋人だった。手が長く、背は高くないが、細身なため、背が高いように見える男だ。その長い手にはベレッタM92を携えていた。口径九mm、装弾数十五の自動拳銃で、各国の軍や警察組織でも使用されているものだ。その後ろにはジョセフがいる。手にはショットガンを持っている。さあ、どうしようか。一人に斬りかかれば、もう一人に撃たれる。仕方がない。俺はポケットからバタフライナイフを取り出し、祐介と笹木が隠れている部屋の方に投げた。ナイフは床とぶつかり、コトンと音を立てた。
今だ! 一瞬とはいえ、気がそれるはずだと判断し、まずは東洋人に斬りかかる。やはり東洋人は虚を突かれたような顔をしていた。俺は、肩口から斬り落とそうとしたが、東洋人はとっさに後ろに下がり、避けようとする。鮮血が辺りに散るが、浅い。致命傷には至らないはずだ。普段の足の状態なら間違いなく、殺せたはずだった。
少々、悔しく思いながらも、俺は追撃の手を休めず、一歩踏み込み、返す刀で斬りかかる。今度は完全に緋翔の軌道が東洋人を捉えていた。反撃に移る暇もなく、東洋人の体は崩れ落ちた。 俺はそれを見届けることなく、ジョセフの方へと身を踊らせようとした。その俺の視界に入ったのは黒い円。ジョセフがこちらへと銃口を向けたのだ。
「モンキー、シュウ様からのお許しも出たからな」
ジョセフは銃口を向けたまま、嫌味ったらしく片端の唇を歪めている。ちっ。東洋人を仕留めるのに時間がかかったからな。
しかし、白スーツの時とは異なり、死と隣接した際の、背筋が凍るような感覚がしない。俺ぐらいになると、この感覚だけで相手の腕前がわかる。まあ、こんな感覚になるような相手と対峙する機会は遠慮したいのだが。こいつが相手なら、撃鉄を起こす動作と引き金を引く動作のダブルアクションの間に斬りこめる自信がある。でも、それはあくまで万全の状態ならの話で、今なら成功率は五十%〜七十五%ぐらいだろう。白スーツめ、これで死んだら、毎晩枕元に立ってやるからな。
「さあて、モンキー、神様にお祈りはいいのか? まあ、モンキーを救う神なんかいないか」
ジョセフは撃鉄を指をかけた。
「あんまりしつこいと、女に相手にされないぜ」
ジョセフの顔が赤みを帯びた。図星だったらしい。
響きわたる一発の銃声。
驚愕の表情を浮かべ、ショットガンを落とすジョセフ。その手には赤き血が滴り、床に赤き紋様を描いていた。笹木の右手に握られたトカレフの銃弾がジョセフの右手を貫いたのだった。
左手でショットガンを拾おうとするジョセフの顎を俺の足が蹴り上げた。俺の革靴には先端と踵に鉄板が仕込んであったりする。脳を揺さぶられ、間違いなく混濁した意識ながら、それでもジョセフはショットガンを拾おうとする。俺は緋翔の赤き刀身を煌めかせ、ジョセフの首を刎ね落とした。俺の目の前に転がった生首は、未だに死への恐怖、憎しみ、無念、ありとあらゆる負の感情を浮かべていた。その表情を見ていたくなかった為に、俺は笹木のほうに顔を向け、緋翔を片づけた。
「おっさん、ベストタイミングだよ。助かった」
トカレフを片手に佇む笹木は映画俳優など目じゃないほど決まっていた。これで黒いティーシャツがスーツだったら、文句のつけようがなかったんだが。
「ふん、あの程度なら、俺の助けがなくても殺れただろうが」
人が礼を言っているのだから、素直に受け取ればいいものを。
「足を怪我してるから、結構危なかったんだぜ」
笹木に笑いかけると、笹木も少しだけ笑い返した。
「次が来るかもしれない。早く脱出するぞ」
笹木は言うなり、先程まで隠れていた部屋から祐介を連れてきて、俺に手渡した。未だにぐっすりと寝ている。その寝顔はやはり可愛らしく、このような血生臭い所にはふさわしくなかった。祐介が夜もそのように寝ていてくれるなら、とてもありがたいのだけどな。そうはうまくはいかないのが現実で、この一週間で身に染みて実感したことだった。
「ああ、そうだな」
俺は笹木の言葉に従い、一階へと階段へと向かった。先程、無理に動いたせいか、足の痛みが酷くなっていた。だが、俺は祐介を落とさないようにしっかりと抱きしめ、階段を急いで下りた。
一階のロビーに佇む一つの人影。身長は低めで、オールバックの髪型をした男。つまり、その人影はシュウだったのだ。
「ちっ、使えない奴らだ」
シュウは吐き捨てるかのように呟いた。
「質が悪い。しかも、たった二人で、俺がいるのに殺せると思ったのか?」
笹木はシュウを見据え、言い放った。
「お前が来た時から、二人ではどうにもならないとは思っていた。老いたとはいえ、スリーガンズの笹木信二だからな」
シュウもまた、笹木を見据え、言った。スリーガンズとはなんなのだろうか。二人の会話は俺の存在を無視していた。
「お前がスリーガンズを口にするな!」
笹木は激昂し、叫んだ。
「おっさん、どうしたんだよ?」
全く話を把握できない俺は笹木の怒る理由もわからず、愚かにも笹木に尋ねていた。
「いいから、お前は下がっていろ。こいつとは因縁があるんだ」
笹木は重々しく、威圧感を漂わせ、言い、トカレフを取り出した。何があったのかは俺にはわからないが、ここまで真剣な笹木を見たことがなかった。笹木は背筋が凍るような、殺意のこもった視線をシュウへと向けていた。
「笹木、私を十五年前に殺しておくべきだったな。できれば、会いたくなかった」
シュウが笹木に話しかける。右手にはトカレフを持っている。これも笹木の言うところの因縁なのだろうか? 二人の武器は同じものだった。
「やはり、お前もトカレフか」
「過去にけりをつけるなら、これしかないだろう。なあ、これだけは聞いておきたい。菊島という男はあいつの息子なのか?」
笹木は押し黙ったまま、何も言わない。ただ、更に目つきが鋭くなっただけだった。あいつとはあの人のことだろうが、何故シュウがあの人を知っているのかは俺にわかるはずもなかった。
「そうか、その無言が答えなんだな」
シュウはちらりと俺を見た。しかし、何を言うわけでもなく、また笹木と対峙した。両者はゆっくりと間合いを詰め、互いに銃を構える。確実に外さない距離に至ったのか、二人は止まった。おそらく、勝負は一瞬だ。緊迫した雰囲気に俺まで冷や汗をかいていた。
しばしの静寂。それは、これから行われる死闘、少なくとも一人の死に対し、あまりにも平穏で不気味だった。ロビーの置き時計が鳴り、静寂が破られた。それが合図だったかのように、両者が撃鉄を起こした。後は、どちらが引金を先に引くかだ。
響き渡った銃声は一発だけだった。
笹木がトカレフを握った右手を落とした。それと同時にシュウの体がゆっくりと傾き、そのまま重力に引かれるように倒れた。シュウの左胸には緋色の液体がスーツへと染みを作っていた。それが東京で一番の武器商人の最期であった。
「おっさん、あのさ、あいつとは……」
笹木はゆっくりと俺のほうに振り返った。因縁のある相手を倒したはずなのに、その表情はどこか悲しげだった。
「なんだ?」
「やっぱりいいや。そろそろ行こうぜ」
俺には聞きたいことがあったのだが、その顔を見たために何も言えなかった。俺は祐介を抱きしめたまま、クラウンへと歩きだした。
「おっさん、どこかいい隠れ家ってないかな?」
俺はクラウンを運転しながら、尋ねた。
「なんでだ?」
笹木は怪訝そうに眉をひそめた。すぐにけりをつけに行くものだと思っていたらしい。
「ちょっと準備がしたいんだ」
俺はにやりと笑った。
「そうか。なら、新宿に向かえ。俺の昔馴染みがホテルを経営しているからな」
「ありがとう」
俺の頭にはさまざまな復讐の術が沸き上がっていた。
5・5 菊島の企み
「俺は菊島といいます。突然訪れてすみません」
俺は丁寧に男に頭を下げた。
まさか、こんな高級なホテルのオーナーと笹木が知り合いとは。
ここは新宿にある三十階建てのホテルだ。一泊十万は下らないと容易に想像がつくほど立派なホテルだった。プール、ジム、有名なレストラン、マッサージといった施設まで内設し、しかも、表通りに位置し、立地条件も完璧という素晴らしさ。
「信さんの頼みじゃ、断れないよ。信さんは命の恩人だからね」
ここのホテルオーナーは恰幅のよく、白髪混じりの五十代から六十代の男性で目尻の皺が優しそうな印象を醸し出していた。なんで笹木が命の恩人なのかが謎だ。よく考えたら、命の恩人ってどんなだよ。
「空いてるフロアってありますか?」
これだけ高級なホテルに空いてるフロアなどないだろうと検討はついていたが、俺は駄目元で聞いていた。案の定、オーナーは腕を組み、短い首を傾げてから、首を振った。
「屋上とかでも広ければ、いいんですけど」
俺がこれからしようとしていることはかなり危険なことだ。だから、絶対に広い場所が必要だった。
「そんな所でいいなら、あいてるけど」
わざわざ、高級なホテルに来といてという感情が、ありありとオーナーから読み取れた。
「そこを貸していただけますか?」
「いいよ。信さんは普通の部屋でいいんだよね?」
オーナーは唐突に笹木に話をふった。
「ああ。すまんな」
「おっさん、俺はちょっと用事があるから、祐介を頼んだよ」
笹木が頷いたのを横目に俺はクラウンへと歩いていった。
時刻が九時をまわっているというのに、人通りはますます盛んになっていく。俺はその中を目的地へと歩く。俺は目的地へと到着し、中へと入り込んだ。どこが目的地かと引っ張っておいてなんだが、ここは単なる大手のホームセンターだ。
俺は肥料とアルミニウム粉末を探す。
アルミニウム粉末は中々ないかな? おっ、あった。これだけ品物が揃ってたら、あんまり便利屋は必要じゃないなぁ。まあ、俺の場合、表沙汰にできない物事を扱ってるから関係ないんだけど。俺は目的の物を手に持ち、レジに向かった。レジの店員は若いネーチャンだった。女性で
はなく、ネーチャン。つまり、見た感じからして、遊んでそうな感じ。長い金髪と赤メッシュの入った髪は痛んでいて、ボロボロ。でも、顔はそこそこ可愛らしい。誘えばすぐ引っ掛かるタイプだ。
「ねぇ、名前なんていうの? バイト終わったら、俺と遊ばない?」
「私、ハルコ。あと一時間ぐらいかかるけど〜、それでよければ、いいかな〜」
よし。脈ありだな。俺を見つめる彼女はもう恋する乙女。それは言いすぎだけどさ。一晩遊ぶくらいなら、ありだと思ってる顔だ。あっ、やべっ! 俺ってば何やってんだよ。今はそんな事態じゃないじゃないか。悲しきは、自分のストライクゾーンの女性は口説くべしという我が習性だよなぁ。
「あっ、電話がかかってきちゃった。ちょっとごめんね」
俺は着信があったかのようなふりをして、携帯を耳にあてる。
「もしもし、俺だけど、えっ!? 仕事の契約が破棄されそう?」
儚い一人芝居をする俺。情けない。
「ごめん。仕事入っちゃったから。今度遊ぼう」
俺がそういうと彼女はじっと、こっちを睨んでくる。俺の迫真の演技はバレバレなのか?
「お釣りは君が使ってよ。本当にごめんね」
俺は五千円札を取り出し、彼女に手渡した。そのまま、レジ袋にも入れてもらわず、購入した肥料とアルミニウム粉末を手に脱兎の如く店を出た。一万円札ではなく、五千円札なあたりが俺だよな。ちょっと自分
のケチさを情けなく思いつつ、俺はクラウンに乗り込み、次の目的地へと走らせた。
「なあ、今から防弾チョッキ二つと日本刀を一振り用意できるか?」
俺は片手でハンドル操作をし、電話をかけていた。相手は流し屋だ。軍のお古やら、規格外品を横流ししてもらい、裏業界に売りつけるのが仕事が流し屋の仕事だ。
「できるけど、業務時間外だから、二割増しな」
「助かる。ありがとう。今からじゃ、まずいよな?」
用意をするのだから、当然、時間がいるはずだ。
「今からでいいぜ」
電話からは予想外の答えが返ってきた。ちっ、二割増しにする必要ないのに要求しやがったな。せこいやつだ。俺は先程の自分の行為をすっかり忘れている。というか、自分はOK、他人はだめ。争い事の起こる理由や人という生き物を説明するのに最適な俺はアクセルを踏み、流し屋の倉庫へとクラウンを急がせた。
「用意はできてるか?」
「まあな。お前の日本刀ほどじゃないが、そこそこのものだぜ」
作業着のようなものを着た男は言った。何回か物を流してもらっているが、俺は未だにそいつの名前すら知らなかった。知ってるのは、風貌が東南アジア系だというくらいだ。俺の緋翔を知っているのはこれ以上の刀を流してくれと頼んだ際に見せたからだ。見つからないのは承知の上で冷やかしただけだったんだけどさ。
「そっか。料金は振り込んどくから」
俺はそう相手に告げ、物を受けとり、早々に立ち去った。あんまりいい刀じゃなくてよかったんだがなぁ。まあ、いいや。俺は次の目的地へと向かった。忙しいこと、この上ない。
俺は漆黒を携え、周囲を見回す。辺りには誰もいない。音もない。ここには戻ってこないと踏んだのだろうか。いや、和子が捕まったから、俺はもう用無しなのだろう。
誰もいない部屋に俺は入った。ここは我が事務所。そして、現在、粉塵爆発のために未だ使える状況じゃなかったりする。無期限休業状態だ。ぼろぼろになったここに来たために、負けた時のことが思い出され、悔しい。悔しい。悔しい。
「糞〜〜!! 何で負けたんだ。糞っ。油断だ。油断してたんだ」
俺は壁を思い切り殴りつける。
始末屋のやつ、ついでに掃除ぐらいしてけっ〜の。元人間とその血痕はなくなっていたが、部屋はやはり爆発のせいでボロボロ。お気に入りのソファは見れたものじゃないし。まあ、始末屋の仕事はあくまで死体の始末だけだし、ここで爆破させるように仕向けたのは俺なんだから仕方がないんだけどさ。でも、愚痴りたくなる心情は理解して欲しい。いや、やつ当たりだ。情けない。
俺は額に手を当て、天井を眺め、頭を冷やす。
落ち着いたところで、俺は踏み場のないほど汚れた部屋を目当ての物のためにゆっくりと進む。押し入れの中にあるはずだよな。俺は押し入れを開け、金属製の箱を探していた。耐震、耐熱構造にしてあるし、中は固定してあるから大丈夫だとは思うけどなぁ。正直、取り出すだけで恐かった。よくこんな物があるところで、粉塵爆発なんかさせたなぁ。忘れてたからなんだけどさ、俺ってば、お馬鹿サン。てへっ。
念には念を入れ、揺らさないように慎重に持ち出し、クラウンのトランクに詰め込んだ。う〜ん。トランクの中に入れたが、安全だろうか? 俺は疑問に思いながらも、クラウンを発車させた。それにしても荷物多くなったなぁ。
「えっと、笹木信二の部屋は何号室かな?」
俺は両手に荷物を抱え、フロントのボーイに尋ねた。荷物とは肥料とアルミニウム粉末と金属製の箱と防弾チョッキに日本刀だ。防弾チョッキと日本刀は気づかれないように大きい鞄に収納してある。きっと、このボーイは、俺のことをこんなに荷物抱えて、何だろうと思って
いるだろう。
「1809号室でございます。あちらにエレベーターがございますので、そちらからどうぞ。お荷物を運ばせましょうか?」
エレベーターの位置ぐらい見れば、わかるってと突っ込みたいとこだったが、向こうはきっとマニュアル通り接客しているのだから仕方ない。俺は荷物についての申し出を断り、軽く礼を述べた上で、エレベーターに向かった。俺はボタンを押し、エレベーターを待った。1階にくるまで長いよなぁ。俺は未だに十六階を示すエレベーターの階数表示を眺めていた。
ようやく1階にエレベーターが着き、俺は乗り込んだ。エレベーターの中はとても広かった。大きな病院にあるベッドごと患者を運ぶことができるエレベーターとほぼ同等の広さと言えば、おわかりいただけるだろう。俺は十八階のボタンを押し、荷物を置き、髪をセットしながら、到着を待った。俺のスーツの胸ポケットにはいつも櫛が入っている。俺なりのこだわりだ。俺はようやく十八階に着いたエレベーターを降り、1809号室を探した。
あった。ここだな。
俺はインターホンを鳴らした。俺が名を告げ、暫くすると笹木がドアを開けた。中に入って、俺はとてもびっくりした。部屋の中はまるで中世ヨーロッパの王室のようだったのだ。まあ、王室がどんなものかなんて知らないけどさ。調度品も一つ一つが豪勢で、ベッドは我が部屋にあるものの二倍はある。我が事務所が狭いからかもしれないが、とにかく、それぐらい立派だった。
「おっさん、滅茶苦茶いい部屋じゃん。なんで、こんな大きなホテルのオーナーと知り合いなんだよ?」
兼ねてからの疑問を俺は笹木にぶつけた。
「あいつはああ見えて遣り手でな。法に反しはしないが、認められてもいないような悪どいこともしていた。そのため、同業者に命を狙われていたんだ。それを助けたのが俺だ」
にやりと笑い、笹木は言った。あんな感じのいいオーナーがそんな人なんて。人は見かけによらないとはまさにこのことだ。
「祐介は?」
俺が訊くと、笹木は親指をベッドに向けた。俺はベッドで眠る祐介に近づき、そっと髪を撫でた。
「悪いけど、仕込みがあるんだ。祐介を頼むよ」
俺はゆっくりと音をたてないように部屋を出た。俺は再度エレベーターにのり、屋上へと向かった。屋上は当然だが暗く、広さを正確に測ることはできないが、十分な広さはあると考え、作業に移った。
「菊島の三分間クッキング」
俺は一人呟き、用意を始めた。どれくらいかかるんだろう? 三分では無理だよな。まあ、材料は硝酸アンモニウム、箱の中身、アルミニウム粉末、水だけなんだけど。慎重に慎重を期して、作業しないとな。失敗したら、洒落にならないし。察しの人はおわかりだろうが、何を作るかは企業秘密だ。企業なんかじゃないけどね。白スーツめ、楽しみに待ってろよ。俺は広々とした屋上で独り薄笑いを浮かべていた。
う〜ん、我ながら気色悪いな。
6 終わり。終末。終焉。始まり。開始。未来。
「ふぅ、そろそろ起きないとな」
俺はゆっくりと起き上がった。結局、昨夜からの作業は明け方に終わり、俺はほんの少しの休息を笹木の部屋でとっただけだった。でも、今日でけりをつけるのだと考えだけで、気持ちが昂ぶり、眠気はまったくなかった。
俺は身支度をし終え、笹木を起こすことにした。
「笹木、起きてくれ」
「朝か。行くのか?」
笹木は寝起きとは思えない凛とした顔をしていた。
「ああ。おっさんには祐介とここにいて欲しい」
「ここまで来て、引くつもりはない。それに祐介も狙われている以上、安全な場所はないんだぞ」
笹木の言うことにも一理あるが、祐介を守りながら戦っては勝てる相手ではない。そして、これから向かう先はここより危険なのは間違いないのだ。
「祐介を守りながらじゃ、勝てない相手なんだ。頼むよ」
なんとしても祐介を守りたい。それが俺の望みだ。そして、和子を助け出す。
「祐介を守りたいのはわかるが、お前がいないとこで、祐介が死んだら一生悔やむことになるぞ。それに祐介には見届ける権利がある。お前なら、わかるだろう?」
笹木は俺の目を見たまま、言い聞かせるように言った。なぜかはわからないが、その目には切実な願いが込められているようだった。まるで自分のことのように。
祐介が俺の目の届かぬところで死んでしまったら、きっと後悔するだろう。あの日よりも後悔するかもしれない。寝ていても起きていても死霊につきまとわれているかのような地獄の日々よりもつらいかもしれないのだ。
「でも……」
笹木は俺に詰め寄り、肩に手を置いた。
「俺みたいな思いはさせたくないんだ」
苦虫を噛み潰したような、こちらが見ていて辛くなるような悲壮な顔をしていた。
「わかったよ」
俺が殺されれば、いずれ祐介も笹木も殺されるのだ。こうなったら、一蓮托生といくしかあるまい。父親としての背中を祐介に見せてやろうじゃないか。
笹木は祐介を抱き上げ、早く行くぞと言わんばかりに俺を見た。俺達は部屋を出て、駐車場に向かい、クラウンに乗り込んだ。
「トカレフは持ってきておいたが、勝ち目はあるのか?」
「半々ってとこだよ。とりあえず、これを着といてくれ」
俺は昨晩購入した防弾チョッキを笹木に手渡した。笹木は黒のティーシャツの上に防弾チョッキを装着した。
「おい。トカレフを持っていけ。使う使わんはどちらでもいい」
笹木は俺に無理矢理トカレフを押しつけた。こんな物、持ちたくもないというのが俺の実情だが、笹木は俺の心配をして渡してくれたのだから、返す気にもなれず、黙って受け取った。
「これから道すがら作戦を話すからな」
俺はそう言い、八王子にあるダークワイトのアジトに向け、クラウンを走らせた。
「この辺りで止めといて、後は徒歩で行こう」
俺は笹木に言い、クラウンを道路の脇に止めた。天気は快晴。これから俺は血で血を洗うような戦いに身を投じるというのに、天は余りにも透き通った青だ。俺は皮肉な空模様を眺めつつ、歩き出した。
ビルが自身の存在を強調せんと立ち並び、人通りもいつも通り多い。これだけを見れば、確実に日常の一齣に過ぎなかった。
「なあ、祐介は車の中って訳にはいかないのか?」
祐介を連れていくと心に決めたのだが、既にそれは綻び始めていた。澄み切った空や日常の風景が何も知らぬ祐介を戦場に連れていくことを躊躇わせたのだ。
「祐介は俺が背負っていく。それにさっき聞いた作戦なら、そこまでヤバくはない」
「わかったよ」
ヤバくないはずがないのに、笹木は瓢瓢としていた。ここら辺がくぐってきた修羅場の数の違いかもしれない。
俺と笹木は朝でさえ暗いビルとビルの隙間を抜け、さらに幾度か抜けた。薄暗く、非日常がそこらに転がってそうな、俺達の『居場所』へと辿りついた。
「さぁて、そろそろ緋翔さんの出番かな」
俺は呟き、緋翔を抜いた。黒服に身を包んだ男が立っていたからだ。未だにこちらに気づいてはいないようだ。ちなみに昨日購入した刀は今のところ、腰の鞘に入っている。
俺は笹木を手で制し、それから一気に駆け出した。そして、黒服を斬り込める間合いまで入り込む。突然の敵襲に黒服は明らかに困惑していた。しかし、俺に慈悲はない。肩から袈裟切りをし、斬り殺す。驚愕の顔をしたまま死に逝く黒服には見向きもせず、俺は笹木の方へ振り返り、こちらに来るよう合図した。
奴らのアジトは大きいとは言えなかった。むしろ余りにも小さく、古ぼけている。白かったであろう壁は黒ずみ、所々裂傷が入っている。年月の経過が目に見えてわかるような建物だった。
「おっさん、ここでいいんだよな?」
「ああ。見張りがいたのだから、間違いないだろう」
どこか腑に落ちないと思いつつも、俺は扉を開けて中へと入り込んだ。中も外見と同様に酷い有り様だった。辺りを鼠が駆け回り、天井の四隅にはクモの巣が張り巡らされている。しかし、カビの臭いや埃っぽさはない。換気がされているということだ。入口にはクモの巣がなかったことからも人の出入りがあったのは間違いのない事実のようだ。
俺は耳をすませた。微かな物音、空気の移動がある。それは俺の立っている地点より下からのものだった。つまり地下があるのだ。
俺は微かな空気の移動を頼りに床を調べた。僅かにではあるが床に切れ目があった。片端に手を乗せるともう片方の端が上がった。忍者屋敷のような隠し扉の下は階段になっていた。笹木もその仕掛けを使い、下りてきた。この扉はリバーシブルにできていて、人が通ったら、反転し、どちらにしてもわからないようになるのだ。俺は自慢の耳で敵が周りにいないことを確認しつつ、俺は歩を進めた。様々な時に役に立っているが、これはあの人に地雷の埋まった道を音だけを手掛りにして歩かされたからだ。そのことに関し、俺が殺してやりたいと思ったのは言うまでもないが、今ではそれすら叶わないのだ。
今ではあの人のことなんて余り思い出さなかったのにな。チョーカーを着けているからかな。
感傷的になっているのを振り払い、俺は更に進み、階段を下りた所にある扉に手をかけた。手ぶりで笹木にトカレフを出すように指示し、扉を開けた。
そこには黒服が三人いた。俺は一人に斬りかかるが既に銃を構えている。
連続した乾いた銃声。
笹木のトカレフが高速で火を噴いたのだ。一瞬の間もなく、銃を構えたまま、黒服達は倒れた。
「老いても、まだまだ青二才には負けられないな。死の配達人の字には続きがあるんだぜ。殺那のマダーイーグルだ。知っているだろう?」
笹木は誰に言うとでもなく言った。かっこいいのだが、誰に言ってるのかわからない。
「お前に言ってるんだ。出てきな。相手に不足はないだろうが。部下なんぞをあてやがって」
笹木が舌打ちをし、何者かが物陰から現れた。手足が長く、身長は低い。皆と同様に黒服を着ている。黒く丸いサングラスをつけていて、その奥の眼光は窺いしれなかった。
「流石ですね。笹木さん」
男は舌舐めずりをした。
「気配や物音は全くさせてないが、殺意がもれてるんだよ。こいつは俺が殺る。順一は見てな」 笹木は俺に祐介を手渡し、男と対峙した。微かな殺気に反応したことからも、笹木は徐徐に現役時代の勘を取り戻しているようだった。死の配達人の勘を。
「中々結構なご忠告ですね。以後気をつけましょう」
「残念だが、その忠告は役に立たない。ここで死ぬんだからな」
「得物を持った時点で言葉など無粋。殺し合いを始めましょう。二丁拳銃のタクマ、参る!」
タクマ一気に駆け、銃を笹木へと向け、弾を放つ。
笹木はそれを見越していたかのように横に飛びつつ、トカレフをぶっぱなす。二つの轟音と共にタクマと笹木、両方の足元に穴があいたが、ダメージはない。タクマが銃弾に反応し、後ろに下がった。笹木のほうが予想済みだった分、体勢を立て直すのが速い。その隙を見逃さず、笹木はトカレフを標的の頭に合わせた。
「小僧。チェックメイトだ」
無情な銃声が響き、銃弾がタクマの額を貫き、タクマはもの言わぬ肉塊となるはずだった。しかし、タクマは長い手足と全身のばねを利用し、恐ろしいほどの瞬発力で横に避け、笹木へと銃を構える。
「甘く見過ぎですよ」
タクマはぼそりと呟いた。その声は銃声と重なったために、特殊な耳を持つ俺にしか聞き取れなかっただろう。
一瞬の油断のため、少しだが、笹木の反応が遅れ、銃弾が足をかすめた。この隙にと言わんばかりにタクマは銃を構える。
しかし、笹木は最小限、そして最速の動きで体勢を立て直し、銃弾を避ける。笹木はタクマを睨みつける。
その時、確かに場の空気が変わった気がした。その異変は殺気だった。あの笹木が本気を出すのだ。
押していたはずのタクマの顔が引き攣った。恐怖、緊張。そのような感情が窺えた。額からは玉のような汗がつたっている。笹木の出す殺気に気圧されているのだ。
タクマは今までと異なり、早撃ちに切り替えたようで、笹木に銃撃を浴びせんと銃を連射する。精度は先程に比べると格段に劣る。もし、ただ早く撃つだけならここまで精度が落ちることはなかったのだろう。しかし、ここには相手がいる。しかも、生きた伝説が相手なのだ。あの人の次に裏で有名な男こそ、笹木信二なのだ。
精度の悪い射撃に当たるような笹木ではない。銃撃の際の銃口の角度、タイミング、速度、その全てを見切り、笹木は最小限の動きで避ける。
タクマの銃が弾切れを起こした瞬間、正に刹那と言える時間で、笹木はトカレフを構えた。いや、射ったのだ。銃撃音を聞いて漸く笹木が撃ったことに気づけたほどだ。
当然のことだが、銃はきちんと構えてから射たねば標的に当たらない。適当に構えただけでは、撃った後の反動等でぶれが生じ、どこに跳ぶかわからないのだ。だから、普通はその間のタイムラグがある。しかし、笹木は殺那にして標的を捉えるのだ。これが笹木の刹那のマダーイーグルという字の理由なのだ。先程の三人への連射も速かったが、こちらは郡を抜いて速かった。タクマは眉間を撃ち抜かれ、ゆっくりと倒れた。正確無比、針を通すようなというありきたりな形容をせざるを得ないほど、精確だった。苦痛を感じる暇すらなかったのか、その表情は死に対する恐怖、憎悪といったものは見受けられなかった。
「それにしても広いな」
俺達はタクマを倒し、笹木に祐介をまた預け進んでいた。笹木の言うところの広いとは地下自体に対してで道が広いわけではない。
「ああ。しかし、一人も敵が来ないとは不自然だな」
「いいんだよ。敵が多くても俺の作戦には関係ないんだから。おっさんだってわかってんだろ?」
俺は無駄話をしつつも曲がりくねる通路を確実に目的地へと進んでいた。道が曲がりくねっているせいで正確にはわからないが、笹木の言ったように地下は地上に比べとても広い。 俺達は曲がりくねる道を左に曲がった。
「くっくっくっ、ようこそ。態々死ににいらっしゃるとは酔狂ですね」
背は低く、身軽そうな猫背の男が立っていた。
右側だけが異様に長い髪が見ていて、鬱陶しい。手に持つナイフが得物らしいが、厚手の上着にまだ何か隠しているのかもしれない。暗器使いなのだろうか。
「あんたの髪のが酔狂じゃないか。ふっ、笑わせてくれるぜ」
俺が鼻で笑った瞬間に男はナイフを顔面めがけ投げてきた。言葉遣いと異なり、かなり短気なやつだ。当然のように俺は楽に避けた。
「俺がお相手してやるよ。かかってきな」
俺はくいくいっと手招きをし、相手を挑発した。
「お望み通り殺してやるよ」
男はナイフを三連投する。俺は前進しつつ、緋翔で打ち払う。
このタイミングなら、殺れる! 俺は男を斬りつける。男は投げナイフではなく、多少大振りのナイフで受けとめる。俺は足払いをかけようとするが、男は後ろに跳び、かわす。
そして、上着に手を入れ、俺に向け投げナイフを投げつける。蹴りの動作で一瞬止まっていたためにぎりぎりのタイミングだが、それでも紙一重で避けた。いや、俺の髪を僅かに切ったから、髪一重か。
「それだけの腕があれば、普通に裏でもいいセンいくのに。何故こんなところにいるのか、俺には理解出来ないぜ」
俺は男に話し掛ける。ダークワイトはあくまで新勢力。タクマといい、このレベルの使い手がごろごろいるはずがないのだ。
「私より親分のが強いですよ。唯一私が負けた男ですからね。私程度に苦戦してるようでは、親分には勝てない。私が命を懸けてでもあなたを殺しますから会うこともないでしょうがね」
「何故そこまで竜童を心酔する?」
俺は少し声を荒げた。
「簡単ですよ。親分の心意気に惹かれたんです。親分は私に裏の頂点に立つと言った。誰もが蔑まれることのない世界を裏から創ると誓ったのです。裏にいれば、わかるでしょう? 明かりの中でも高みにいる醜い、それこそ豚のような人間が、生きるために暗闇の中で這い回っている私たちに命令するんですよ。しかも見下しながら、道具のように。親分の一言が、諦めて、膿みかけの傷みたいにじくじくしながら、苦痛の中で、何もできず蔓延する私をどれだけ救ってくれたか」
男はわずかに声を上擦らせ言った。その声は歓喜や期待に満ちているようだった。
「無力な女を誘拐し、罪のない赤子まで手をかけようとするそんな男に付き従うのか!!」
俺は叫んでいた。敵の、竜童の考えが、あの人の考えに重なって。憎むべき敵なのに、和子を誘拐し、祐介を殺そうとした敵なのに、あの人の影のために許してしまいそうで。
「大義のためには、多少の犠牲はつきものです。あなたが理解してくれるとはおもいませんがね。所詮、私とあなたは敵。平行線は交わったりしないのです。ですが、あなたに敬意を払い、私の必殺技を見せてあげましょう。これを見て生きている者はいません」
唇の片端を曲げ、男はいやらしく笑う。
「頭の悪いあんたに教えてやるよ。必殺技は必ず殺す技だぜ。生きているやつなんているはずないんだよ」
自信満々の宣言に軽口で返し、俺は男と幾らか距離をとり、対峙した。敵を憎み、単なる敵だと見なすためにも俺は軽口を叩き、自分らしくあろうとする。冷静に戦おうとする。
この距離は若干遠いな。俺としてはもう少し距離を縮めたいところだな。向こうはナイフ投げと超至近距離でのナイフがあるからな。どちらにせよ俺には不都合な距離だ。後はこの通路の狭さもかなり鬱陶しいな。横薙ぎの斬撃は封じられたようなものだし。
「短刀術、飛翔不可避乱血舞!」
微妙なネーミングと共に男は上着を俺の上に放り投げた。
俺は頭上の上着に注意を払う。しかし、何も起こらない。
ちっ。フェイクか。俺は一歩下がろうとする。しかし、既に男は目の前まで来ている。速い! 男は小回りの利くナイフ、こちらは一撃必殺用の日本刀。しかも、大太刀だ。通路は狭い。
この男、短気だが、頭は切れる。
俺は男の繰り出す斬撃を飛翔で受けつつ、反撃のタイミングを窺う。男はにやりと笑う。
「私が何を投げたか、わかっているかな?」
男が俺に告げた瞬間、俺の肩に衝撃が走った。生温かい血が滴る。
なんだ? うしろからだと? 何故?
考えは巧く纏まらない。でも、敵は待ってくれるほど優しくはない。隙を突き、男はナイフで斬りつけてくる。
避けろ。体を捻れ。
頭の中で声がする。俺はそれに従い、体を捻る。
男の斬撃は俺の腰に携えた鞘に当たった。昨晩、流し屋から購入した刀についていたものだ。その意味でもついていた。その他には俺のシックスセンスが冴えていたとしか言いようがないだろう。
俺は右足を軸に回転し、鉄入りの靴で回し蹴りを腹に入れる。男はよろめきながらも、一歩後退し、ナイフを構える。俺も一歩下がり、呼吸を整える。
前方に湾曲したナイフが転がっていた。これが俺を後ろから攻撃したものの正体なのだろう。男は上着を投げた際にこのナイフも投げていたのだ。いや、おそらくは一瞬、注意が上着に逸れた時に投げたのだろう。
「残念だったな。必殺じゃなくなったぜ。後はどうするんだ?」
俺は軽口を叩きつつ、相手の出方を窺う。既に上着を放ってしまっているし、必殺用のナイフも使用したとなると、もう術はさほど残されていないだろう。
「お察しの通り、私に残された術はない。後はこの命を賭して、死力をつくすのみ」
男は大振りのナイフを右手に構え、投げナイフを左手に構えた。
男は姿勢を低くし、俺に向け、疾走する。男は低姿勢から、右手の大振りのナイフで斬り上げる。予想通りだ。俺はそれを飛翔でいなす。当然、次は投げナイフで斬りつけてくる。
暗器使いは手の内を明かさないからこそ、手ごわいのだ。手の内を晒した男は既に負けが決っていたのだ。それは男にも十分わかっていたに違いない。それでも男は引くということをしなかった。
俺は、投げナイフを打ち払い、高い音をたて、ナイフが宙を舞う。
鮮血が舞う。返す刀で肩から脇腹へと斬りつけたのだ。
「かはっ」
男は血を吐き、一瞬、目を見開き、倒れた。これだけの死闘を演じた相手の名を知る機会はなかった。
「勝てたのは偶然の要素のお陰だ。敬服するぜ」
俺は男の上着を拾いあげ、男に被せた。死者の屍を晒すのに対し、胸を傷めるなんて愁傷な心がけは俺にはない。ただ、竜童への忠義に従い、戦ったこの男の死体が晒されているのは忍びない気がしたのだ。俺が殺すのは私利私欲のために他人から搾取するようなやつらばかりでこのような男はいなかった。だからなのだろうか。自分でも納得のいく答えを得ることはできていなかった。
俺達は更に進み、左に折れた通路を曲がった。
黒い扉。
俺は上着を脱ぎ捨て、右手にライターを握った。俺は黒い扉を勢い良く蹴り開けた。
今まで見た地下の部屋では一番広い部屋だ。無機質で、殺風景な部屋。裏稼業のアジトらしいといえば、らしいのかもしれない。
いくつもの黒い穴、――銃口がこちらに向けられている。しかし、俺を見て、そこにいる全ての人の顔が青くなり、ひきつった。
「皆さん、スラリー爆薬をここで爆破させれば、どうなるかはおわかりのようで」
俺はシニカルな笑顔を讃え、中にいるやつらを眺めた。総勢十七人。当然、その中に里中竜童はいた。
スラリー爆薬とは含水爆薬のことで、硝酸アンモニウム、TNT(トリニトロトルエン)、アルミニウム粉末を混ぜ、水を加え、スラリー(かゆ)状にしたものだ。アメリカのM・A・クックらが一九五〇年代に発明したもので、反応性は鈍いが、威力はとてつもなく恐ろしいという爆薬なのだ。
俺が昨日作っていたのはこれだったのだ。そして、俺はそれをパックにいれ、体に巻き付けているのだ。
「ハッタリだ! 爆薬を体につけるような狂ったやつがいるはずがない」
いかつい顔をした男は叫んだ。
「試してみるか? 死はまぬがれないぜ」
俺の冷酷な微笑に男は黙り込んだ。
「全員武器を捨てろ。下手に撃てば爆破するぜ」
俺は命令をし、笹木に目配せをした。笹木はすぐに理解し、やつらの捨てた武器を拾いあげた。
「和子さん、迎えに来ましたよ」
和子の目は虚ろで、虚空を見つめている。腕はだらりと弛緩している。やつらに連れていかれてからの恐怖や疲労。確かにそれもあるのだろうが、明らかに様子はもっと酷いものだった。自白剤を射たれたのだろう。爪は剥がされ、手には傷が目立つ。拷問されたのだろう。
力のない女性を誘拐して、拷問するなんて。吐き気がする。
俺はそれを見て、絶対に竜童を倒すという強い意志が湧いた。先程の強敵のために竜童の思想とあの人の思想がかぶっていたのだが、それは消え失せた。
あの人は弱者を傷つけない。あの人は自分が傷ついてでも弱いものを守る。だから、だから、俺がいる。ここにいる。
あの人だったら、矛盾してるぜと一蹴してくれる。自分が実践しないのに、大義を掲げても誰もついてきやしないと言うはずだ。竜童をあの人の思想の後継者だと俺は思わない。
俺は竜童に腰の刀を投げ渡した。
「なんだ?」
竜童はいぶかしげに眉根を寄せる。
「いつぞやのけりをつけようじゃないか」
「勝敗は決したはずだ」
「俺は認めちゃいないぜ。殺し合いを始めよう。こっちにはお前の肩に死神が見えているのだからな」
背負っているものは重い。覚悟はついている。生き残る覚悟。相手の命を奪う覚悟。仕事をやり遂げる覚悟。自分の誇りを取り戻す決意。
それを胸に俺は竜童と対峙する。初めて対峙した際の恐怖はない。背負っているものが打ち消してくれている。
竜童は了承したのか、刀を抜き、鞘を投げ捨てた。
「さしでの決闘だ。お前らは手を出すなよ。こいつは本当に爆破させる男だ」
竜童は俺の目を見たまま、部下に指示をした。
「行くぞっ!」
俺は地を蹴り、一気に間合いを詰め、横薙ぎの一撃を放つ。しかし、見越していたかのように竜童は俺の一撃を刀で受け、同時に蹴りを放つ。俺は反転し、蹴りをかわしつつ、緋翔で突きを試みる。
竜童は一歩下がり、突きを避ける。
俺の首を裂かんという横薙ぎの一撃で反撃をする。俺はしゃがんでかわすが、前髪が斬れ宙を舞う。それに臆することなく、俺は下から上へと飛翔を突き上げる。竜童は体を捻り避け、後ろに跳躍する。
俺は更に追い、緋翔を縦に振る。金属同士の撃ち合う音がし、僅かに火花が散る。俺の刀が止まる。上体の力で、竜童を押し、体勢を崩す。竜童は足を開き、体勢を立て直す。立て直すと同時にその反動を使い、俺に突きを放つ。俺はそれをかわし、左足で回し蹴りを竜童の脇腹に放つ。竜童は敢えてその蹴りを受け、腕で俺の足を挟み、動きを止める。刀を右から左に持ち替え、斬りつけてくる。俺は本能的に危険を察知し、足を抑えられたまま、右に体を回転しながら、倒れこむ。背中の肩から腰までを斬り裂かれ、生温かい血が流れる。倒れこみながらも空いた右足で竜童の腿を蹴る。俺の左足を挟む力が緩んだ。流石に斬られながらも一矢報いに反撃を試みるとは思わなかったのだろう。俺は足を引き抜き、そのまま床を転がり、一度間合いをとる。
「ちっ、やるな」
刀なら一日の長が俺にあるという判断は思い込みだった。
互角。いや、こちらの方が体術で劣る分、不利だ。
「あんたこそ、以前は子犬のように脅えていたのが、嘘のようだよ。執念みたいなものを感じるよ」
竜童は端正な顔を歪め、笑う。
「愛くるしかっただろ? 今は何に見える?」
軽口に軽口で返し、共に間合いを詰める。俺の狙いは一撃必殺の突き。やつはそれを考えた上で、その一撃をかわしてから必殺の一撃を放つため、上段に構えている。
「うらぁ!」
俺は突きを放つ。竜童は身を捻り、最小限の避けをする。俺の一撃は腹をずれ、脇腹の肉を僅かにえぐる。
攻撃後の隙をついて、竜童は刀を縦に振る。俺は左に転がり、致命傷を避ける。しかし、竜童の斬撃が必殺のタイミングだったために右の肩を斬られ、生暖かい血が流れる。利き腕を斬られたのは痛いが、俺の与えた脇腹の傷の分、攻撃に転じるのが遅れて、これなのだから仕方ない。
でも、腕は動く。まだ戦える。俺は体勢を立て直し、緋翔を構える。
しかし、既に竜童は止めをさすために刀を上段から振りおろそうとしている。
振りが大きい!
終わりを目の前にして、ようやく見せた竜童の隙だった。俺は身を低く屈め、重心を落としたまま、竜童の斬撃をかいくぐり、懐に入り込む。刀ではなく、竜童の腕が俺の肩に落とされる。傷口に当たる。
俺は怯まず、全体重を乗せ、緋翔で竜童の腹を貫く。竜童が体を捻ったために致命傷には至らず、俺を蹴り飛ばす。竜童は間合いを取る。
「なあ、一つ聞いておきたい。なんで弱者がいない社会を創るという大義を抱えているのに、和子に自白剤を打つなんてことをした! 大義に反するだろう?」
「俺は弱い。力がない。だから、嫌でも犠牲を払ってでも大義のためにこの道を貫く。伝説でも成し得なかったことを俺がやるには、甘さをすてないと成し遂げられない。進むことすらできない」
その顔は悲痛で、真摯な表情だった。
「そんなんじゃ、薄っぺらで実現しようとしても誰も従わない。あの人なら、そう言う」
これほどの決意を持った人間に俺が何を言っても無駄なのはわかっていた。竜童の道は俺が昔、捨てた、逃げ出したものだった。自分にはあの人のなれないと自分の限界を決めて。
竜童より俺の方が薄っぺらなのだ。
「何を言っても無駄だ。俺は変わらない。止めたいなら、殺すしかないんだ。刀で語り合うしかな」
竜童は刀を青眼に――切っ先を俺の目に向け、中段に――構える。
俺は緋翔を八双に――右肩の方に緋翔を引き、上段に――構える。
竜童は突きでくるのだろうか。青眼は臨機応変な構えだ。何で来るかはわからない。一方、俺は八双の構え。間合いを誤魔化し、狙うは必殺の一撃。竜童と俺の間合いは両者にとって必殺の間合い、圏内だ。
俺の右肩、背中から血が滴っている。血を流しすぎている。この一撃で決めるしかない。竜童も腹からじくじくと血を流している。たぶん、竜童もこの一撃に懸けるのだろう。つまり、これからの一振り――刹那における閃光が全てを決める。
俺は柄を握りなおす。汗で滑りそうだった。竜童の額からも珠のような汗が滴っている。生死が次の一瞬で決まるというのに、心は落ち着いている。こちらに殺意を向けている竜童の瞳に映る自分の姿すら見える。
俺は目を見開く。
殺る! 決める!
俺と竜童もどちらも始動は同時。中段からの容赦のない殺意だけの切っ先が俺の眉間に直線的に最短距離で迫り来る。
まだだ! 我慢しろ! 限界の後にこそ必殺がある。
俺は身捻る。防御ではなく、攻撃のために!
瞼の上を竜童の刀の切っ先が捉える。鮮血が舞い散る。俺は緋翔を振り下ろす。自分の限界を超えた最高速度で振り下ろす。緋翔が空気を鋭く裂く風きり音が聞こえる。
最高速の緋翔が竜童の肩から腰へと斬り裂き、辺りに鮮血を撒き散らかす。全ての動きが遅い。時間も竜童の動きも。
竜童の体はずるりと崩れた。
「あんた、強いな。名前、教えてくれよ。殺られたやつの名ぐらい知りたい」
悔しそうに、でも、全力を出し切ったことに満足したような忸怩たる思いと爽快さを瞳に湛えている。だが、すでにその顔には死相が浮かんでいた。
「菊島順一。いや、キクトジュニアだ」
「そうか。あの伝説の息子なら、仕方ないよな」
これが竜童の最期の言葉となった。
俺は伝説の殺し屋、キクトの息子なのだ。キクトは十字のチョーカーに悪の撲滅を誓う義の殺し屋。最強最高。敵からすると恐怖の害悪だったらしい。
俺が竜童を倒したことで生まれた静寂を掻き消す突然の銃声。
「ぐぁっ」
くぐもった声がする。その声は笹木のものだった。
「おっさん!」
笹木は足を押さえている。太股から血が流れている。
「動くんじゃねぇ。親分を殺しやがって。てめぇら殺してやるよ。爆破できるもんなら、させてみろよ」
この男は武器を捨てず、隙を狙っていたらしい。その目には大粒の泪。
「いいのかい? 皆、道連れだぜ」
「俺らは親分を尊敬し、慕っていた。だから、お前を殺す。俺らの命は親分のものだったんだよ」
「そんなつまんねぇ人生を背負って生きたくなんかないな。てめぇの人生を他人に預けるなんて逃避だぜ」
俺が愚弄したと同時に銃声。笹木の太股に更に穴があいた。笹木は両足を塞がれてしまったのだ。
ちっ、糞。冷静になれ。我を忘れるな。
「顔色一つ変えやしない。つまんねぇな。ガキならどうだ?」
笹木の背にいた祐介に男は手を伸ばし、片手で持ち上げ、銃口を押しつける。
「オギャアァ。アアァ」
祐介が怯えて泣き叫ぶ。
「やめて! 健一を殺さないで!」
悲痛な叫び。腹の底からの、悲痛な悲痛な叫び。和子の目には先程までと違い、明白に意志が宿っていた。
「やめろぉ!」
乾いた残酷な音。殺那。空気が凍りつく。一瞬の静寂のはずが、時空の歪に迷い込んだように永遠に亘る地獄のように感じられる。
俺は自分を疑う。俺を憎む。厭う。嘲笑う。俺の父親、キクトが銃で殺されて以降、忌み嫌っていた銃を人に向け、撃った。心臓を殺意の塊で撃ち抜いて命を奪った。あれだけ毛嫌いして敬遠していたのに、自分の誓いを衝動的に、なんの抵抗もなく使った。後から後から纏わりつくような恐怖が襲ってくる。手が震える。意識がなくなりそうで、浮遊感のような、地に足がつかぬような、なんとも形容しようのない感覚が俺の中で蠢いている。
「しっかりしろ」
それが誰の声だったのかは俺にはわからない。でも、その声が俺を現実に引き戻した。
祐介に、いや健一に和子が駆け寄る。祐介が和子の子どもだというならば、辻褄は合う。遺産相続者を殺そうとして、祐介つまり健一の命を狙っていたのだ。
俺は笹木に、第二の父と言える存在に、絶対的信頼をおける存在に駆け寄る。実の母が健一にはいるのだから。
「おっさん、大丈夫か?」
「ああ。問題はない。痛いがな」
笹木は苦痛に顔を歪めながらも俺に微笑みかける。
「なあ、あんたら、早く帰ってくれ。親分を殺したあんたらは憎い。だから、あいつがガキを人質にとっても不干渉だった」
二人減り、十五人になった男達の一人が話しかけてきた。その口調は無理矢理感情を押し殺しているようだった。
「でもな、親分は誰が死んでも怨むなって言ってたんだ。哀しむことはあっても裏はそういうもんだからってな。あんたらが俺らを皆殺しにするっていうなら、命を賭けて戦う。いなくなるなら、早く消えてくれ。俺らはこの仕事から手を引く」
「すまない」
俺は哀しみをその瞳に宿らせた男に呟いた。
男は首を軽く横に振る。
「和子さん、言いたいことは多多あると思いますが、今は逃げるべきです。健一くんをお願いします」
俺は和子を見ず、笹木に肩を貸し、歩き出した。
曲がりくねった道を戻る。和子と健一にとっては日常へと。誰も何も言葉を発することなく、一定の速度で時が流れるかのように。俺も歩く。地上に上がり、クラウンへと向かっていても、クラウンに乗り、笹木のコーヒー屋へ向かっていても、なお誰も口を開かない。
誰も何も口を開かぬまま、クラウンは漸く笹木のコーヒー屋へと着いた。
漸く終わる。漸く終末。漸く始まり。終わりが来て、始まりが歩き出す。
俺は喫茶店へと入り込み、和子と健一くんと向き合い座る。笹木は俺の隣に座る。痛みのためか、顔は険しい。
「俺はあなたに依頼されただけ。だから、ここで話を聞く権利はないと思います。話したくないなら、話さなくて結構です。むしろ、護衛の依頼を叶えられなかったので、違約金を払い、謝らないといけないんですから」
俺は和子の顔の青痣、腫れた瞼、そして剥がされた爪を見ていた。とても痛々しく惨い状態だ。
「いえ、菊島さんには話さなくてはならないのです。山本さんから菊島さんのことを聞いたのは話しましたね。ええとですね、まず第一に我が子の身を案じ、私は彼の手下に我が子を託したのです。たぶん、彼の手下は命の危険を感じて、菊島さんの子と偽り預けたのでしょう。たぶんですが、山本さんがもしもの時は菊島さんに頼るよう言っていたのでしょう。私が追っ手から逃げる時に山本さんが捕まり、私は菊島さんに頼った。まさか、我が子が菊島さんのところにいるとは思いませんでした」
和子の顔は恐ろしく真面目な顔だった。俺といた時には感じられなかった強さがあった。拳銃に脅えていた面影はどこにもなかった。これが母というものなのだろう。母の顔も知らない俺にはわからないのだけれど、きっとそうだ。
この話を聞けば、きっと健一が狙われた理由も見えてくる。そんな確信が俺にはあった。
「健一くんはあなたと誰の子なんですか? 佐久間文麿の子ではないという気がするんです」
「そうです……。健一は私と文麿の息子、佐久間清麿との子です。駆け落ち同然に結婚したんです。清麿はもう死んでしまいましたし、私はもう佐久間家とは関係がないんです。でも、健一には……」
和子は一瞬、虚をつかれたような感じだったが、すぐに顔を元に戻した。清麿が死んだと言ったときの顔は悲痛に埋まっていた。
「それで血の繋がりがある、つまり下世話な話ですが、遺産相続権がある、健一くんは命を狙われ、あなたは命を狙われなかったわけですね」
「はい。騙したようになってしまってすみません」
「そんなことないですよ。実際にあなたは困っていたし、助けを必要としていたんですから。……、最後に健一くんを抱かせて頂けますか?」
「祐介でいいですよ」
和子は慈愛に満ちた顔をしていた。俺は優しく小さな祐介の体を抱きしめた。暖かく、確かなぬくもりと確かな命を感じた。
祐介は満面の笑顔を浮かべ、キャッキャッと笑った。その最高の天使のような笑顔をみれただけで、満足だった。
「いつでも会いにきてください。この子もきっと喜びます」
和子はにっこりと微笑む。確かな幸せがあるんだなと俺は感じた。
「……、もう危険はないはずです。もう家に帰っても大丈夫ですよ。俺にも次の仕事がありますから」
俺は和子に帰れというニュアンスを伝えるため、強い語気で冷酷さを出して話した。俺が健一を返すと、和子は何度も頭を下げ、出ていった。
7.翔る飛翔跡を濁さず
「おっさん、俺、でかけてくるから」
「どこへだ? まだ怪我は完治してないだろ?」
笹木はいぶかしげに俺を見る。事件が終わって早々にでかけるのだから、いぶかしむのも無理はない。
「おっさんと違ってまだ若いから、待たせている女がいるんだよ」
自分でも時代遅れだと思いながら、小指を立てる。
笹木は呆れ顔である。呆れ顔というのはどことなく間抜けで面白い。笹木だからよりだ。
俺は笹木のコーヒー屋を出た。
クラウンに乗り込み、相棒の飛翔を傍らに置く。ギアをいれ、速度を上げる。これ以上待たせては失礼だからだ。首都高速に入り、玉川で第三京浜に乗り換える。一時間ほど乗り続け、高速を降りる。
厄介な渋滞に巻き込まれながら、煙草を吸う。前ほどおいしいとは感じなかった。前を走る横浜ナンバーにクラクションを浴びせる。なぜか、俺は若干いらいらしていた。外は快晴で、往来を行く人たちはそれなりに幸せそうで、ひがみ根性丸出しでアクセルべったり踏んで、突っ込んじゃいたくなった。真っ黄色のシャツを着た人が腕を組んで歩いているからではない。
大通りを右に曲がると一気に車の数が減った。大都会を真似たような町並みは大通りだけで、一本奥に入るだけで、田舎というわけではないが、ちらほら田んぼが見えたり、道が狭くなり、やたら曲がっていたりする。
時折、タイヤを田んぼに絡めとられそうになりながらも、三十分ほどで、目的地に着いた。三メートル近い塀に囲まれているため、中の様子はわからないが、大きさは百坪を優に超えるだろう。仰々しい正面口には、二人の大柄な見張りと監視カメラが何台か置かれている。スーツにサングラスといういかにもという格好はやめてほしいものだが、まあ、好みというかわかりやすさ重視というかそんなものなのだろう。
俺は道を間違えたかのようにUターンをし、見張りの視界に入らないところで、車を停め、降りる。
さらに、見張りの視界に入らないように回り込みつつ、塀の側面の真ん中のあたりに着いた。三メートルも塀の高さがあると、常人なら、ここから侵入は無理だとあきらめるだろう。しかーし、この俺にとってはこんな塀などないも同じだ。ある程度の深さまで、飛翔を地面に突きたて、飛翔の鍔のあたりに紐を結びつけ、その先は自分で持つ。そして、柄の先に飛び乗る。忍者顔負けの芸当だ。道具を使うのかよなんて突っ込みは勘弁こうむる。飛翔は相棒なのだから、力を借りて然りだ。単なる踏み台という意見も聞こえるが無視だ。ボールは友達と言いつつ、ぼこんぼこん蹴り飛ばす人もいるんだからオールオッケーだ。
後はちょいとジャンプして、塀の上に上半身を預ける。ここで勢いよく中に侵入するなんてのは愚の骨頂だ。下に竹やりがあったらアウト。それでなくても足を捻りかねない。以前これで怪我したことがあったりするが、そんなことは過去の一時点の話というか汚点だ。
塀にへばりつきつつ、周りを俯瞰する。中央にどこぞの日本庭園にあるお屋敷の何倍かの大きさの屋敷があり、その左手には、蔵があり、その奥におそらく使用人が暮らす建物がある。足元の庭には、白砂や小石を敷いて水面に見立てたり、石の紋様で水の流れを表す枯山水で装飾されている。
俺は、飛翔に結んだ紐を引き寄せ、手元に寄せる。後で手入れするからななんて心の中でつぶやく。刀に語りかけるほど俺はクレイジーではない。ちなみにクレイジーを使った熟語に夢中であるというのもあったりするが、その意味ではない。
俺は慎重に下に降り、歩き出した。餓鬼のように足を滑らせるかのように擦って歩く。枯山水は勿論ぐちゃぐちゃになった。金持ちの道楽なんざくそ食らえだ。こんな風に会いたい人に会うというだけでも結構大変なのだ。
おそらく、目的の人物は屋敷の奥、つまり北の部屋にいる。日本家屋だからきっとそうなのだ。
俺は屋敷の玄関から入り込んだ。外を厳重にしてあるから、大丈夫と考えたのか、中は手薄だ。耳のおかげで簡単に気配の少なさがわかる。
長い木造の廊下を土足のまま進み、一番奥の部屋へと進んだ。そこ以外の部屋からは物音もしない。使用人はこの屋敷に入らないように命じられているのかもしれない。
横開きの木製の古そうな扉を勢いよく、開けた。
「なによ。騒々しいわね。ここには無闇に入るなって言ったでしょう。首にするわよ」
鏡の前に座って化粧をしている女がこちらを振り向いた。未亡人になったばかりとは思えないほど派手な格好をしている。胸のあたりが大きく開き、ぴっちりしたシャツに黒のミニスカートという格好だ。ぱっと見は三十代前半に見えるが、実際は四十代半ばだろう。厚化粧で真っ赤なルージュをつけている。美人は美人なのだが、細く吊り上がった眉や目、いやらしく曲がりそうな唇が意地悪そうな印象を抱かせる。
「あなたが佐久間麻利江さんですね?」
「あなたは誰? まあ、いいわ。いい男だから抱いてあげてもいいわよ。お金ならいくらでもあげるわ」
麻利江は上目遣いに俺をみつめながら、いやらしく唇の片側を吊り上げる。
「私はあなたの命を頂きにきたんです」
俺は冷酷に告げる。麻利江は平然としている。
「ふうん、お金が欲しいわけ? 誰かに雇われたの? 一億、二億? それぐらいなら楽に払えるわよ。どうせ金なんでしょう」
麻利江は嘲笑うかのように高い声で笑う。低俗で、醜くて、吐き気がする。
俺は飛翔を抜いた。
「待て!」
大男二人が音もなく、麻利江の後ろ扉から出てきた。中々端正な顔立ちをしているのだが、能面のような無表情さと、まったく同じ顔をしているため、どことなく不気味だ。始めから存在していることはわかっていたが、先に目的を済ませられればと思っていたのだ。つまり想定の範囲内。どこまでが想定かは言った本人もわからなかったのだが。
「ばればれなんだから、あと二人も出て来いよ。人にお見せできねえ面なのか? それともチキン野郎なのか?」
因みにturkey――七面鳥は馬鹿だ。
「なぜわかった? 気配も物音も立てていないはずだ」
能面二人のうちの右側の男が言った。
「お生憎さまな、センサーが敏感になっちまってんだよ」
俺が嘲ると、男たちの出てきた扉から、女性が二人出てきた。その手にはトンファーが握られている。因みに男たちは中国の曲刀を携えている。いわずもがなかもしれないが、女性二人も同じような顔をしていて、しかも、無表情だ。四人が並んでいると、日本人形が合わせ鏡で二人に見えているように感じる。
「なんかお前ら怖いな。うん、正直不気味」
つい本音を漏らしてしまった。これでこの山は最後になるというのに、緊張感が一切なくなってしまった。
「ふざけるな。俺たち相手に余裕などないはずだ。四式参る」
似ているとはいえ、四式だとは思わなかった。四式は家族で暗殺を行うという変り種だ。一人一人の実力はたいしたことないのだが、他方向攻撃のコンビネーション且つ識別のしにくさから、集団としての実力は一流となると聞いたことがある。遺伝的に双子ができやすく、さらにこの生業のために整形手術をうけるというから驚きだ。とはいえ、武器が銃などの遠距離用ではないため、最近は落ちめだ。単に暗殺――要人などの隙を突いての殺人なら、刀などでも問題ない。さらに言えば、音をなく殺せれば、人目にもつかずにやれるが、要人が堅気ではなく、殺しの手駒を持っている場合は銃がないときついのだ。裏同士の殺し合いでは警察の介入もないからだ。
男二人のうちの片側が俺の死角に入るように、正面から走ってくる。スピードはそれなりどまりだが、もう一人がどう攻撃してくるのかがわからない。俺は飛翔を抜いたまま、後ろに飛び退く。下がったその左右からトンファーが俺の顔面を狙っている。三方向から、同時に攻撃が来る! 対処できるか? そう思ったが、その動きはとても遅い。正面から襲ってくる男の動きも遅い。なのに、俺だけは速く動くことができる。左右のトンファーを一歩後退してかわし、左の女のあごに掌底を食らわし、右の女の首を飛翔で切り裂く。鮮血がゆっくりと舞う。
時間の感覚が狂ってしまったかのような異様な感覚だ。俺が移動することで生じる空気の流れすら掴めるような気がする。
俺はさらに一歩下がり、時の流れを待つ。首を裂かれた女は自分に何が起こったのかわからないのか、無表情のまま倒れこむ。それに重なるかのように、掌底により脳を揺さぶられた女が倒れこむ。男のうち後ろにいた方は高くジャンプをして、俺に曲刀による一撃を食らわせようとしている。おそらく前の男の背中と肩を利用し、高く飛んだのだろう。
正面の男も俺を貫こうと曲刀を突き出す。しかし、もう俺はそこにはいない。繰り出された二つの斬撃の行き先は気を失った女だ。
一撃が腹を貫き、一撃が額をかち割る。その瞬間、男の瞳が大きく見開かれる。きっと現実が見えた。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!! 妹が、妹が、妹がああああああ!!」
狂ったように男二人は叫び、曲刀を力なく落とした。無表情な顔から初めて窺えた表情は絶望。血のつながりという強固のものを頼りこの業界で生きてきた。なのに、それを失った。ましてや、自身の手で。
襲ってきたのだから、敵なのだから、戦う。それは仕方ない。でも、大切なものを失う悲しみは俺にも痛いほどわかる。悲痛な叫びが俺の胸の芯にまで飛び込んでくる。これ以上見ていられなかった。俺は飛翔を、血のついた凶器を二度振るった。あっけなく、悲痛な表情を浮かべたまま、二人の男の首は胴体から離れた。
俺は唇を噛み締めたまま、麻利江の方に向き直った。麻利江は四式が負けるとは、ましてこんな短時間に殺されるとは思っていなかったのか、恐怖に震えながら、目を見開いている。
「た、助けて。ね、お金ならい、いくらでも払うから。あ、あなただって雇われたんでしょう?」
飛翔を振りかぶった俺を見て、歯をがたがたいわせながら、麻利江は懇願する。
また、金だ。自分の命すら金で買おうとするのか。こんなやつのために……。
俺は憎悪を込め、飛翔で麻利江の喉を浅く裂いた。鮮血が喉からわずかに舞う。こんな人間での同じ血の色をしているのかと思うと更に嫌気がさす。
「なんで……」
「自分の胸に聞いてみろ」
さらに腹を抉り、爪を剥ぎ、和子が味わった苦痛を味あわせて殺してやろうかと思ったがやめた。頚動脈は切っていないから、こののまましばらくのたうちまわって苦しみながら死ぬのを待っていようと思ったのだ。
麻利江は呼吸困難で顔を紫にしながらも、虫けらのようにのたうちまわって、這い回って、声にならない声で呻いて、手遅れの生にしがみつこうとする。その姿は醜かった。見開かれた目も怨みのために寄った眉間の皺もすべてが醜かった。人間の醜い感情の集合体のように見える。
こんなやつのために、山本が死んで、伝説という重荷を継ごうとした竜童が死んで、何の罪もない和子が拷問を受けて傷つけられて、俺の愛してやまない息子、祐介も命を狙われた。こんな、こんな、金に囚われて、罪を罪とも思わない醜い虫けらのためにだ!
虫けらの唇が開き、何かを言おうと何度も繰り返し繰り返し、もがいている。声にはならず、ヒューという空気が喉から音が洩れるだけだ。それでも、唇の動きから何が言いたいのかはわかる。
――なんで? 助けて。
この二つだけだ。
俺は飛翔を力の限り、乱暴に振り落とし、首を切り落とした。
結局、怒りからきた残酷さが残したものは嫌気だけだった。
晴れ渡った空に比べて、この国はちっぽけで、さらにその中でちっぽけな虫けらのせいで、金持ちの道楽の枯山水や巨万の富なんかより、それどころか、この広大な蒼い空よりも価値のある者がいなくなり、傷つけられた虚しさ、悲しみ。そして、それを防ぐだけの力を持たなかった俺の無力さ。
俺は俺なりのやり方で、俺らしくいい加減に、でも完璧に大切な者を守ってやる。どこまで俺にできるのかはわからない。親父なんかみたいに裏から世の中を変えるなんてことはできない。できると思うほどうぬぼれてもいない。俺もやっぱりちっぽけだから。でも、すこしずつでも、前に進んで吼えてやる。俺の息子がこの醜くも艶やかな世界ですこしでも楽に生きていけるように、すこしでも、多くの人間を、弱者を悲しみから救えるように、俺は道をつくる。たとえ、それが獣道でも、茨の道でもないよりはましだ。
――きっと、それが正解だぜ。
そうやって誰かが囁いた気がした。
「ありがと」
俺はそっと呟いた。
8.エピローグ
俺はカウンターの中で身を潜めていた。
「菊島さんはいらっしゃらないんですか?」
赤子を胸に抱いた薄幸の美女、和子は寂しげに呟く。
「ああ。あの馬鹿、仕事が忙しいらしくてな」
笹木は呆れたように言う。名演技だ。本当に呆れているのかもしれないが。
「用件は? また報酬の件か?」
「ええ。あれだけ傷ついてまで、私とこの子をまもってくれたんだから、せめて報酬だけでもうけっとってもらわないと」
和子は腕の中の健一を見て、話した。
「きっと、あいつはあんたとその子に教えられたことのほうが多いと思ってるぜ。もう報酬はもらってるんだ」
笹木は優しく微笑む。
「でも、……」
和子はうけっとってもらうまで通い続けるという強い意志を抱いていた。
「まだわかんねえのか! 邪魔だって言ってるんだ! 毎日かよわれても迷惑なんだよ」
「……、菊島さんにありがとうございますって、感謝してもしきれないって伝えといてください」
和子は悲しそうに目を伏せながら、大きなアタッシュケースをテーブルに置いた。そして、何度も頭を下げ、店を出て行った。
「なあ、こんなんで本当にいいのか? 血の繋がりはなくても、あの子はお前の息子だろう?」
笹木は俺に目を向け、やさしく呟く。
「いいんだ。まだ父親になるにはまだ早い。いい女が俺を待ってるんだよ。そんなことよりもさ、あのさ、その、憎まれ役買ってくれたり、いろいろ助けてくれてありがとう」
俺はズボンをはらいながら、立ち上がり、言った。本当はつらいけど、息子には血生臭くて、闇だらけの裏にこれ以上関わってほしくなかった。息子には明るい世界で頑張ってほしいと心から思ったのだ。
「何、言ってんだ。がきはた頼ればいいんだよ」
笹木はコーヒーを淹れながら、にやりと笑う。
「がきってなんだよ。俺は二十八だぞ」
「がきはがきだ。お前は俺の二番目の息子なんだからな」
「なんだよ。ったくよぉ」
俺は恥ずかしくもうれしくも思いながら、カウンター席の椅子に座った。
「飲め。おごりだ。今回は頑張ったからな」
俺は、湯気の立ち昇る熱いコーヒーを飲みこんだ。涙が頬をゆっくりとつたっていた。
「おっさん、熱すぎだよ。飲めないって」
「ああ、熱すぎたな」
俺は涙をぬぐって笑った。笹木も笑い皺を作りながら笑った。
息子が未来で笑えるように、俺にはどうなるのかわからないけど、ここで笑っても届くはずもないけど、少しでも幸せの手本になれるように、俺は、笑う。
Fin.
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2006/04/20(Thu)21:09:13 公開 / 風間新輝
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■作者からのメッセージ
ついに完結です。まだ誤字訂正、御意見等では書き直したりもしますが、これにて完結。以前お読みいただいた方も新たにお読みいただく方もたのしんでいただけたらうれしいです。