- 『サヨウナラボクノニチジョウ 修正版 完結』 作者:名も無き小説書き / ファンタジー ファンタジー
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全角190209.5文字
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原稿用紙約531.85枚
先輩は、何かで一位になりたいとも有名になりたいとも思っていなかった。
ただ、普通の人と同じように授業を受けて、普通の人と同じように学校へ行って。
ただ、普通の人と同じように友達と遊んで、普通の人と同じようにケンカをして。
ただ、普通の人と同じように幸せになって、普通の人と同じように不幸になって。
ただ、普通の人と同じように人生を生きて、普通の人と同じように大人になって。
そして、そのままゆっくり息を引き取るという、そんな普通の人生を望んでいた。
特別裕福になりたいとか、特別幸運になりたいとか、特別有名になりたいとか。
特別貧乏になりたいとか、特別不幸になりたいとか、特別無名になりたいとか。
先輩は、そんなこと、これっぽっちも望まなかった。
先輩が望んでいたのは、普通で不変な日常。
先輩が望んでいたのは、僕たちという仲間。
先輩が望んでいたのは、少しの幸せと不幸。
先輩が望んでいたのは、たったそれだけだ。
先輩は、だけど、そんな望みも叶わなかった。
先輩は、だけど、そんなことを知らなかった。
僕は、思う。酷いじゃないか。
先輩は、だから、いつも笑っていた。
先輩は、だから、いつも幸せだった。
僕らは、だから、いつも呆れていた。
僕らは、だから、いつも大変だった。
僕らは、だから、いつも忙しかった。
僕らは、だから、いつも必死だった。
そう、これはちっぽけな話。本当にちっぽけな話。
ただ、話の中心に、一人の幸せそうな少女がいたことが。
この話を壮大にしているだけだった。
そんな、壮大でちっぽけな話。
僕は、また、思う。酷いじゃないか。
とにもかくにも、これは、本当にちっぽけで壮大な。
世界の命運を分ける、話だった。
零章 神/悪魔
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「この六人が集まるのも久しぶりだな」
六人のうち一番大柄な人物が、野太く低い声でそういった。服装はモスグリーンのTシャツと色褪せたジーパンという、なんとも簡単な服装である。短髪の黒髪、顔にはサングラスといくつもの傷跡がついている。百九十センチはあるだろう体躯とあいまって、一般人なら思わず道を開けてしまうような風体だ。
「まぁねー。今まで六人の仕事の関係上、四人だったり五人だったり、いっつも誰か抜けてたかんねー。半年振りくらいじゃないのかにゃー」
けらけらと笑いながら言うのは、十代後半の少女だった。こちらの服装は先ほどの男性とは違い、ひざ上二十センチはあるだろうミニスカートとハイヒール。上もノースリーブのタンクトップの上に薄桃色の半そでワイシャツを羽織ったという、いわゆる若者のファッションだ。髪型もそれは同じで、茶色く染めた髪の毛にはヘアピンなどが大量につけられていた。
「そんなこと……どうでも、いい。……用件は、何?」
ぽつりぽつりと静かに呟いたのは、こちらも同じく十代の少女だ。学校帰りなのか下はチェックのスカート、上はワイシャツの上からクリーム色のセーターを着ており、幸が薄いというか、あまり存在感を身に纏ってはいない、置物のような印象だ。存在自体が希薄といってしまえば語弊はあるだろうが、その少女に少しでも意識を向けていないと、すぐにでもまるでその少女がいなくなってしまったような錯覚に陥りそうである。
「そうそう、用件は一体なんだっつーんだよ、《一騎当千》のじいさまよぉ。俺ぁ仕事が立て込んでて、結構暇じゃねぇんだからよぉ」
椅子に座ったまま机の上に足を乗せ、不快感をあらわにしながら一人の青年が言う。赤いフード付きの上着を身に着けており、一見すれば美形の部類に入るだろうが、よく見れば両手の甲や首元には大小さまざまな刺青が施されていた。しかもそのいずれもが髑髏や蛇などを模ったものだ。
「それなら来なければいいでしょう? 第一、君の力を借りずとも、僕たち五人で九十九パーセントの仕事は完遂できます。残りの一パーセントは、君がいてもできない仕事です」
ふぅとこれ見よがしに大きなため息をついたのは、線が細い感じの一人の青年だ。高校生くらいの風貌で、顔には眼鏡がかけられている。理知的でどこか冷たい様子のその青年を一番強く印象付けているのは、その瞳である。自分以外のものならば全て利用する、そんな非情で冷徹な色が瞳には濃く含まれていた。
「んだぁ? 《雷神》さんよぉ。そんなに俺が気にいらねぇってか? そうならそうとはっきり言え、そして殺してみろよ。生憎だが、あんたごときに殺されるほど、俺ぁ弱っちくねぇぞ? あぁ!?」
「そんなこといつ言いました? あなたがそういつもいつも突っかかってくるから、だから会議が長引くんですよ。……そうですね、ここでいっそのこと、《不滅男爵》を滅してみるというのも面白そうではありますけど」
二人の視線が交差し、そこでしわがれた声がかかる。
「二人とも、ここは矛を収めてもらおう。今は仲間割れをしているときではない。六人を呼んだということは、それだけ重大な事態が発生したということじゃ、そこのところをしっかりと心に留めていてほしい。
早速本題じゃが……」
そこでしわがれた声の主である老人は、一旦大きく声を吸い込んだ。年齢はおよそ七十歳前後、老人は袴によく似た着物を身につけており、ふさふさとした白髭と白眉をたくわえている。頭髪は抜け落ちたのかそれとも自ら剃ったのはわからないが、少しも生えてはいなかった。
老人の声が、酷く静かに響き渡る。
「神が動き出した」
「悪魔が動き出したわ」
凛とした声が部屋いっぱいに響く。
部屋の中には三人しかいない。椅子や長机がいくつもあり、恐らく三十人は余裕で納まるだろうスペースにたった三人。酷く閑散とした状況だが、その閑散とした状況こそが三人の置かれている現状を示しているといっても過言ではないだろう、つまりそれほど重要な事項が検討されているのだ。
「悪魔って……前々から話していたあのことですか? それにしても、何故こんなタイミングで……突発すぎやしませんか?」
焦った気持ちを押し隠せない様子で、一人の中年女性が問いかける。
その女性のことを女性と呼ぶのにはいささか抵抗があるだろう。体躯は間違いなく成熟した女性、大体三十代後半くらいのもので間違いはない。顔もそれほど若いわけではなく、しわやしみがところどころに目立っている。しかし、その女性が醸し出している雰囲気は、間違いなく少女の―――付け加えるならば高校生くらいの―――ものだった。気のせいといえばそれまでだったが。
「わからないわ。何一つわからない。わかっているのは悪魔が動き出したという事実、それだけよ」
息を細く吐き出し、もう一人の女性が諦めを含んだ口調とともに首を横に軽く振る。その女性は高級そうな、そして事実高級なのであろうダークグレイのスーツを完璧に着こなしている。鈴のように凛と通る声はまるで声楽家のようでもあるが、何かを観察、分析しているような瞳からは女性が声楽家などの世界に生きていないことは一目瞭然だ。
「んで、その悪魔とやらをどうするんだ? 基本的に作戦参謀や指令はあんたが出すことになってる、俺たちはそれを実行するのが仕事。まさか、あんたが何の策もなしに俺たちを集めるなんてことはないだろうからよ」
一冊の本を机の上に広げながら、スーツを着た女性に向かって一人の少年が言う。外見は中学生くらい、左耳だけにピアスをつけていること以外はいたって普通な少年だ。中年女性との年齢差はおよそ二十、もう一人の女性との年齢差は十ほど。本来ならば敬語を使うべきなのだろうが、少年はそんなこと気に留めていない様子で話しかけ、パタンと本を閉じた。
「もちろん策はあるわ、まぁ安全第一の策だけどね。悪魔の持つ能力が現段階では不明瞭だから、まず最初に能力を暴くことから始めたいと思うの、動きがなければこちらから少しばかりつついて様子も見るしね。だけど基本は偵察と監視。場合によっては攻撃を加えたり、最悪殺すという選択肢も往々にしてあるとは思う、けど、それは本当に最悪の場合だけよ。能力がわからない今、悪魔を下手に刺激して全員死亡……なんてシナリオは絶対に避けたいから。
あと、敵についてだけど」
『敵』という単語を女性が口にした瞬間、二人が即座に反応する。
「私たちの邪魔をするようなら、躊躇なく消していいわ。ただし、人目に付かないところで穏便且つ迅速に。わかってるわよね」
女性はそれだけ言うと体を反転させ、背後にあった窓から夜空を見上げる。生憎、今晩は曇りで月は少しも見えなかった。
「何人死ぬのかしらね、一体。私たち三武神も、六亡星も、《お庭番》も、悪魔も……もしかしたら……」
その問いに返す言葉はなかった。
逸章 バケツマン/掃除マン
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「悪いけど……チェックメイトよ。同僚として何年も一緒に仕事をしてきたあなたを殺すのは、実際私だって気が引けるわ。けど、恨まないでね? これも全ては世界の平和のためなんだから」
満月に限りなく近い半月をバックに、一人の女性がそう言った。その声はどこまでも可憐に響き、まるで神話に伝わるローレライの姿のようにも見える。ローレライは美しい容姿と可憐な歌声で船人をかどわかし、そしてその姿に見惚れてしまった人々の乗った船を海へと沈めてしまうのだ。
その女性の姿を比喩するならば、確かにローレライという単語は間違ってはいないだろう。ただし、神話として現代まで伝わるローレライから、思わず顔を背けたくなるほどの血の臭いがするならば、の話だが。
「へっ、なぁにが『世界平和』だ。事情もよくわかってねぇ、罪も何もねぇガキをやっきになって殺そうとしているやつが、んなこと言うなんてちゃんちゃら可笑しいね」
女性に真っ向から向かって言うのは、三十代前半の男性。体からはおびただしい血液を流しているが、それでも意識はしっかりと保っているようで、口元に笑みを作っている。無論その笑みは楽しさや面白さから来る笑みではない。
二人がいる場所は歓楽街だった。金曜の夜中ということもあってか人通りの多さは半端ではない。誰も彼もが酒に酔ったように顔を赤くし、おかげで女性の血生臭さは問題視されていないようである。
「減らず口がまだ叩けたのね。まぁいいわ、さっさとあなたを殺して、あなたがどこかへ隠した悪魔を探しにいかせてもらうことにするわ。これが最後よ、あなたにとっての最後で最期よ。己の無能と愚かさを悔やみながら、この《氷姫》におとなしく殺されなさいっ!」
女性の周りの空気中で何かが急速に凝結していく。それが球形を形作ったと思った次の瞬間、それらは全て上空から降り注いだ物体によって粉微塵もいいところまでに破壊された。
上空から降り注いだ物体、それは、長さが五センチから十センチほどしかない、とても小さな短刀だった。
「―――その勝負、そこまでにしてもらおうか」
妙な具合にしわがれた低い声が、二人の頭上から降ってくる。二人は同時に身構え、後ろへと跳ぶ。
二人の間に着地したのは和服を着た老人だった。立派ともいえる白髭と白眉をたくわえ、外見だけは温厚そうな老人の姿ではあるが、白眉にほとんど隠された細長い眼からは殺気以外の何も発せられてはいない。
あたりは少しばかり騒がしくなるが、ほとんどの人間がよくある喧嘩だと思って気にも留めていない。酒に酔っていない頭で考えればこれはどう考えても喧嘩だと思うはずもないのだが、生憎というのかそれとも幸いというのか、これが異常だということに気がついた人間はいない。それもそれで異常だといえなくもないが。
「……一、今更何をしにきたって言うの? この裏切り者より先にあなたを殺してもいいのよ? 悪いけれど私、老人に優しくするような心は持っていないから。それにしても勿体無かったわね、今の攻撃。あれが私を殺せる、最初で最後のチャンスだったのに。
あなたにだって恨みはたくさんあるのよ? 何十人もいた仲間、結局私を除いて全員、あなたたち六亡星に殺されちゃったんだからね。この償いはしてもらうわよ」
「ほぅ、なかなか面白いことを言いよるな。最近二つ名を呼ばれ始めた若造が、この儂に勝てるとでも思うてか? 付け上がるにもほどがあるというものだわい。それと《氷姫》よ、このような場では本名を呼ぶことは控えることじゃな、折角二つ名というものがあるんじゃからのう……。
それに《氷姫》、儂らかて、お主らのせいで生き残りは少ない。二つ名が儂と《Mr.クロックワーク》しか残っておらん。お互い様じゃろうに」
一と呼ばれた老人は、ひょひょひょ、と顎鬚を撫でながら笑う。
「ときにそこの小僧、主が匿っている神……こちら、六亡星へと引き渡してもらえんかのぅ? もちろん悪いようにはせん、主は生かしてやるし、神も殺すような真似はせん。三武神なんぞに渡してやるよりも数倍いい判断だと思うんじゃが……どうかの?」
体全体にかかる重圧。並の人間なら怯え竦んで身動きが取れなくなることは必死だろう。そこまで男性の目の前にいる二人、特に老人から放たれる殺気は凄まじかった。びりびりと肌を刺すような威圧感、顔は笑い物腰は柔らかいが、それは慇懃とは全く似て非なるものだった。
五秒にも満たないほどの沈黙の後、まずは男性が動いた。勢いよく後ろへ駆け出す。
予備動作が十分でなかったせいだろう、様子から察するにいつもどおりの力は出せていないようだったが、それでも常人離れした速度によってみるみるうちに二人との距離は開いていく。
二人はとっさに後を追う。同じく二人も常人離れした動きだ、片方は二十歳前後の女性、もう片方は六十は軽くあろうかという老人男性なのにである。自分の二つの足のみを使用して自足四十キロほどで走ることが出来る人間は最早人間ではない。問題は外見や生物学的なものではなく、その動物が持つ本質的なもので。
「《氷姫》!ここはひとまず早い者勝ちということでどうじゃ!?」
「……上等!自分の命の心配もしておきなさいっ!」
「ざけんなっ!……そうやすやすと、捕まってたまるかぁっ!」
三人の声は、冷える夜空に吸い込まれていった。
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「浩介、これから言うことをよく聞いて。お母さんは冗談を言ってるわけじゃないから。いい? ……今まで隠してたけど、浩介、あなたは……いや、死んだあなたのお父さんもあなたも、実は超能力者なの」
もし、実の母親にそんなことを言われる日が来ると思ったことのある人は、一回挙手して欲しい。絶対にいないだろう。
超能力者なんてそんなことを言われるわけがない。普通に考えれば言われるわけがないのだが、僕自身がそんなことを言われてしまったのだからどうしようもない。
ただ、想像してみて欲しい。中学校の入学式当日の夜、夕食を食べている最中にそんなことを言われたときの心境と心情を。恐らくは数秒ぽかんと口を開けたまま呆然とし、そのまま引きつった笑いとともに母親に「何わけわかんないこと言ってるんだよ」とでも、とりあえず言ってみるだろう。他ならぬ僕がそうだったからだ。
そして、そんなことを言われてしまった人間の思考は次の三つのうちのどれかに絞られる。
一、母親の話に真摯に耳を傾ける。
二、無言で精神病院の電話番号を電話帳から探す。
三、笑って聞き流す。
の三つだ。
ちなみに僕は三番を選んだのだが、結果から見ればきっとどれも同じようなものになってしまったのだろう。結果、即ち僕は母親の言い分を認めてしまった―――訂正、認めざるを得なくなってしまったのだ。
僕が三番を選んで母親の話を聞き流していると、母親はおもむろに僕を外へと連れ出した。今でもしっかりばっちり思い出せる。あのときのことは死ぬまで忘れないだろう。
Tシャツとジーパンでは少し肌寒いくらいの風が吹いていた夜だった。母親は近くに人がいないことを確認すると、僕に何かを手渡したのだ。それはBB弾ほどの大きさの丸薬のように見えた。周りは暗かったので色や細かい形はわからなかったが、市販されている風邪薬のようなものとなんら違いはないように見えた。
母親がそれを飲むように僕に促し、僕はもちろんだが躊躇した。当たり前だ、いきなり見たこともない薬の様なものを出され、終いにはそれを飲めだというのだから。まぁ丸薬を出したということは普通に考えてそれを飲むのが当然だが、生憎あのときの僕にはそこまでの思考能力はなかった。
僕は仕方なしにそれを口に放り込み、唾液だけで飲み込んだ。唾液だけで薬を飲むのは予想外に酷だったが、それでも何とか飲み下す。
だが、僕の体に変化は何もなかった。
体が熱くなる感覚も、意識が遠のいていく感覚も、力に溢れる感覚も、爽快感や不快感すらない。いたってナチュラル、デフォルトのままであった。少しどころか大分拍子抜けしてしまう。
僕が疑問や不満の言葉を母親に投げかけようとしたとき、母親はそれを制して僕にジャンプするように指示した。僕はもちろん訝ったが、ここまで来たのだからと母親の指示されるままにジャンプした。
ジャンプを跳ぶと置き換えることはできるが、この場合、それは跳ぶではなく飛ぶとするべきだろう。そう、僕の体は事実飛んだのである。
次の瞬間、僕の視界に移るものは遠くに見える山とマンション群だけになった。今まで目の前にあった我が家である四階建てのアパートの屋上は、自分のちょうど足元付近に位置していたのである。一体何メートル跳んだのか、そして飛んでいるのか、僕にはまるで理解しがたい光景だった。
「うわぁあああ!?」
僕のそんな情けない絶叫が夜の住宅街に響き渡る。もしもこの僕の姿を地域住民が見たらどんな風に思うんだろうなどといった雑念は最早なく、あったのは重力が僕の全身にかかる感覚だけだ。
当たり前だが、僕はそのまま落下することになる。風切り音が耳元で聞こえ、地面が超高速で迫り、母親の声がドップラー効果を交えて耳に届く。なんて言っているのかさっぱりわからなかった。
僕はそのまま頭から地面に激突―――とはいかなかった。僕の二本の両足はしっかりと大地を踏みしめ、華麗に着地していたからだ。唖然とし呆然とし愕然としている僕に対し、母親は真剣にこう言った。
「正義のヒーローになりなさい」
2
僕が通う高校は、最寄の駅から歩いて十数分という割合近い場所に位置している。登校までにかかる時間はおよそ三十分、立地条件はなかなかいい。一時間以上もかかる高校でなくて良かったと安堵するが、どうせあと一ヶ月も通い続ければたった十数分の歩く道のりすら長く感じられるのだろう、人間の欲はとどまるところを知らないのだ。
「全く、人間は欲深い生き物だ」
そういうなんとなく哲学的なセリフを、これまたなんとなく呟いてみる。あと一ヶ月という見立ては恐らく間違ってはいないだろう、なんせ今日が実質上の初登校であり、僕が通うことになった県立高校の入学式なのだから。
下見として一度来たことはあるが、そのときは僕もまだ中学生だったし、今とは全然気持ちが違う、回数として数えることはできない。
そのまま足を無意識的に動かしているうちに、今日から三年間通い続けることになる我が母校となる予定の高校が見えてきた。しがない県立高校ではあるのだが、最近校舎の改装を行ったらしく、外見や内面はかなりきれいだ。
防風林のつもりなのか、校舎の周りには雑木林が生い茂っている。ぱっと見て判断するだけでもかなりの面積をその雑木林が占めているように見える。切り倒せばいいものを、と少しだけ思うのだが、環境保護を提唱されている昨今、いかに学校とも言えどそうばっさばっさ雑木林を切るのも抵抗があるのだろう。ただ単に面倒くさいだけなのかもしれないが。
赤信号で止まり、ちょうどいいので時計に視線をやる。現在時刻は八時三十分。確か始業が八時四十分のはずだから、このままのペースでいけばぎりぎり間に合うはずだ。
そう思った矢先だった。僕の少し後ろのほうで女の子の叫び声が聞こえたのだ。反射的に後ろを振り向くと、僕と同じ学校のものである制服を着た女子生徒が何事か叫んでいる。どうやらカバンをひったくられたらしい。今日は入学式だというのにかわいそうなことである。
女生徒が指差している方向に続いて振り向くと、そこにはスクーターで道路を走り去っていく小柄な人物の姿を確認。片手にはカバンのようなものをかかえている。あいつが犯人のようだ。黒い革ジャンのようなものにマスクとサングラス。完璧に疑ってくださいといっているような、それでなければテレビドラマの見すぎのような格好をしている。
僕は一瞬だけ考える。犯人との距離はおよそ五十メートルで依然広がりつつあるが、それでも「例のもの」を使えば簡単に追いつくことができる。が、ここでの問題は、その追いつく姿を大量の通行人や登校中の学生たちに目撃されてしまうことだ。スクーターに走って追いつける人間など常識の範疇を超えている、常識の範疇を超えている人間だと思われてはまずい。凄くまずい。
別に僕は正義感が強いというわけではなかったが、目の前で行われた犯罪と逃げ行く犯人をみすみす見逃すほど冷血漢ではない。しかしそれでも一番大事なのは自分の身、ということでさようなら犯人さん、そしてごめんなさい被害者さん。一瞬だけとあるフレーズとともに母親の顔が脳裏に浮かぶが、全力を持って記憶から消し去る。
僕はそのままスクーターから目を背けようとして、信じられないものを見た。
がくんと、その引ったくり犯がスクーターから滑り落ちた。スクーターはすぐに軌道を失って横転し、犯人は慣性の法則によって地面をごろごろと転がっていく。珍しい光景だが、僕はここで声を大にしていいたい、こんなことは有り得ない!
僕は見た。いや、僕だけじゃなくて周りの人も見ただろう。引ったくり犯の体がほんの一瞬空中に固定されていたのを。そしてスクーターがその犯人を残して進んでいったのも。犯人がスクーターから滑り落ちたのはそのせいだ。
こんなことは有り得ないと思ったが、事実現実に有り得てしまったのだし、周りの人に「こんなことは有り得ませんよね?」なんて聞く勇気もなかった。それに周りの人もぽかんとしていたので聞いても無駄なようだ。
「待ちなさい!」
その怒声で僕は我に帰る。周りにいたほかの方々も同様らしい。その怒声の主である一人の女生徒が駆け出し、スクーターから投げ出された犯人からカバンを奪う。先ほどの叫び声と違う声だが、恐らくは被害者の友人なのだろう。
僕はとりあえず犯人の動きが一瞬停止したミステリーについて考えることはやめ、その女性との行動を見ていた。
その女生徒は自分がスカートを穿いているということすらお構いなしに、犯人を足蹴にしながらポケットから携帯電話を取り出す。短パンも穿いていないらしく、下着が見えるラインぎりぎりまでスカートはめくれあがった。近くにいた男の視線が皆一様にそちらへ向くような気さえしてしまう。
携帯で話している内容が漏れ聞こえる。どうやら警察に電話をかけるつもりらしい。妥当な判断ではあるのだが、それにしてもこの女生徒の行動は、どうにも勇ましすぎるきらいがあるようだ。顔もなかなかにいいのでもったいないことである。
「由奈、ほらカバン。今度はしっかり持ってないとね」
「ありがとね、奈々子。それにしても……運がいいよねぇ、本当に」
どうやら被害者の女生徒の名前は由奈、そして犯人を豪快にとっ捕まえた女生徒の名前は奈々子というらしい。見た感じ同学年ということはなさそうだ。
と、そこで気がついた。「気がついた」という単語の前に「ようやく」という単語をくっつけたほうがより明確だろう。「ようやく」を「いまさら」という単語に置き換えてもいいが、僕自身のプライドを保つためにそれは止めておく。
僕はもう一度、恐る恐る時計に眼をやった。時刻は八時三十六分。ここから学校まで全力で走っていくとして、早くとも五分はかかる。しかもその間には二つほど信号がある。間に合うわけない。
ひったくり事件が起きる前まで僕の回りにいた生徒たちはいつのまにかいなくなっていた。どうやらひったくりなどそっちのけで学校へと向かったようだが、遅刻も悲しいけれどそれも人間として悲しい気がするがどうだろう。
それはともかくとして、やばい、やばい、やばすぎる。入学初日から遅刻など、いい笑い者以外の何者でもない。かといって普通に走っても間に合わない、ならばどうすればいい。諦め以外で何かいい方法は。
僕はくそっと心の中で舌打ちし、仕方なしに背負っているデイパックへと手をやった。一番小さいファスナーを開き、そこから一つの茶色い瓶を取り出す。ラベルも何も貼ってない、理科室によくありそうな茶色い小瓶の中には、BB弾ほどの粒がたくさん詰まっていた。
人が見ていないか確認し、瓶の中から一粒、ゆっくりと取り出して飲み込む。できるだけ人通りが少なそうに道に目星をつけ、僕は一気に地を蹴った。
ぐん、と体が一瞬にして加速、周りの景色があっという間に後ろへ遠ざかっていく。風が体中を押す感覚と、その風を反対に押し返している感覚を体中に感じ、僕は普段と変わらないように普段と大違いな運動能力を発揮していた。
先ほどの「例のもの」とはつまりこのことだ。身体能力向上の能力を持つ丸薬、四肢同神=B母親はこの丸薬のことをそう呼んでいた。四肢の能力を神と同等にしてしまうというところから名づけられたそうだが、僕はもちろんそこのところの事実を知らない。というか、僕は本当にこの丸薬の名前が四肢同神≠ニいう名前なのかどうかすら知らない、母親がそう呼んでいたから僕もそう呼んでいるだけなのだ。
とにかく、僕がこの丸薬、便宜上四肢同神≠ノ対して知っていることはたった一つだけ。つまり、この丸薬を飲むことによって、常人ではありえない運動神経を一定時間手に入れることができるという点のみだった。
まぁ、その代償というと少し大げさすぎるかもしれないが、これを使うとその後とても腹が減ってしまうというデメリットを持っているけれど。
十数秒くらい経ったあたりだろうか、二つ目の道路を僕がその超人的脚力をもってして飛び越えたあたりで、僕は走るのをやめた。その時点で校舎はもう目と鼻の先にあったからだ。こんな猛スピードで走ってくるのを見られたら、この後の学校生活がどうなってしまうのか想像もつかない。
結局学校に到着したのは、時計を確認してからジャスト四十秒後のことだった。それでも校舎に入っていく生徒の影はまばらで、僕に今度からもう少し家を早く出ようという心構えをさせるには十分だ。遅刻ギリギリ登校なんて胃に悪いことこの上ない。
そういえば、あの二人の少女たちは間に合うのだろうか。僕はそんなことを考える。
今日から記念すべき学校生活の一日目が始まるのだ。青春といえば学校生活と大体相場は決まっている、ついでに恋愛とも。類義語として広辞苑に記載される日ももしかすると来るかもしれない。悲しいことに僕の広辞苑にはそんな類義語は存在すらしていないのだが。
僕は外靴を脱いで上靴に履き替え、四階の教室を目指した。クラス表を見れば、どうやら僕のクラスは五組らしい。
「はじめまして。私の名前は林美里、東二中の出身だよ。君は?」
「千葉浩介。出身は南中かな。これからよろしく」
入学式も終わり、現在は学級活動の時間である。僕のクラスの担任となったのは、年齢四十前後の男性国語教師の福田という人物だった。年齢にしては薄い髪と、口元の笑いぼくろが印象的である。
福田担任は幾分か間延びした声で、僕やその他大勢のクラスメイトが想像していたとおりに自分の自己紹介を始め、さらに生徒にも自由に席を立って自己紹介をしなさいという指示を出した。ので、僕は指示通り席を立ち、近くにいた何人かのクラスメイトと自己紹介をする。同じ中学校の人間が一人いたが、クラスが違ったので話したことのない相手だ。
「よっ。お前は確か……千葉、だっけか? 俺の名前は古賀俊太。よろしく」
「こちらもよろしく。ちなみに下の名前は浩介だよ」
「おはよ〜、初めまして〜。私、桜木綾子。覚えておいてねぇ〜」
「わかった、覚えておくよ」
「ういー。どうもどうも、皆さんこれから一年間、仲良くやりましょうぜ」
「どうもこちらこそ。僕は千葉浩介で、えっと、君の名前は?」
「坂崎竜。兄貴もこの高校でよ、少なくともお前らよりは詳しいぜ。くははは」
などなど、こんな感じで自己紹介をしていく我がクラスメイト三十五名、僕を含めて三十六名だった。思ったより友好的なやつらばかりで、このクラスなら結構楽しくやれるんじゃないかと早々と思う。見る限り不良というのもいないようだ。
というか、今となっては不良というもの自体が特別天然記念物扱いを受けるほど珍しいものなのかもしれない。そういえば僕の中学校にだって、そこまではっきり不良とレッテル付けることのできるやつなんていなかった。例えば成績が悪かったり素行不良気味の生徒は何人かいたけど、それでもそいつらは皆何かしら長所や特技を一つないし二つは持っていたし、気のいいやつが多かったように記憶している。
「おーい、皆もう自己紹介を大体しただろう、ここらで席についてくれー。いきなりだとは思うが、これから委員を決めるぞー。プリント渡すから、それに載ってる委員の仕事をよく読んで、やりたいかどうか決めてくれー
まぁ別に今すぐ決めろって言うわけでもない、ただ、まぁこういう仕事や委員会があるって言うことを知っていて欲しいんだ。今、全部が決まる必要はないから、ま、気楽にやってくれや」
僕は先ほどまで座っていた席に戻り、後に前から回ってきたプリントを一枚受け取り、そしてさらに後ろへ回した。プリントにはなるほど、いくつかの委員会や局会の名前がワープロ文字で打たれてあり、その横には簡単な仕事内容が箇条書きで書き連ねてあった。
議長、学級委員、文化委員、体育委員、美化委員、生活委員、風紀委員、図書委員、さらに新聞局と放送局。合わせて九の委員、局会に、議長会を足して計十の組織があるらしかった。局会以外は全て男女一名ずつから成り立つらしく、一年の僕たちにはおおよそ関係ないことだったが、各委員、局会の長は執行部員として活動しなくてはいけないとプリントに書かれている。執行部員とはつまり、生徒会の中の選挙によって選ばれた方々プラスアルファということだ。
議長、パス。僕は場をまとめる才能がこれっぽっちもない。学級委員、パス。責任が重そうだ。文化委員、微妙。やる人がいないならやってもいいかもしれない。体育委員、こちらも微妙。文化委員と同じだ。美化委員、パス。細かい仕事が多すぎる。生活委員、パス。仕事内容から察するに朝が早い。風紀委員、できるだけパス。他人の恨みを買いたくはない。図書委員、可もなく不可もなく。基本的に僕は本が好きだ。新聞局、放送局、パス。僕はどちらのノウハウもない。
どこの委員会にも所属しないという考えもあるにはあったが、僕は別にどこかの部活に所属したいわけでもなかったし、内申を上げるために少しはそのような組織に入るのも悪くはなかった。よって、僕は半ば必然的に図書委員に立候補した。
男子図書委員の対立候補は出ず、僕は予想以上に簡単に図書委員の地位を得た。積極性に欠ける現代っ子ばかりだ。全く。
とまぁそんな風に心の中で憤慨してみるが、意味など無論ない。ちなみにもう片方の図書委員は五十嵐ひかりと言う眼鏡っ娘に決まったらしい、僕はこれから相方になるクラスメイトに視線を送り、相手がそれに気づいたときに頭を下げる。
全ての委員、局員の欄がクラスメイトの名前で埋まるのは、思ったよりも早かった。どうやらクラスメイトに欠けているのは積極性でなく、本を読んで面白いと思う心だったようだ。
割とすんなり委員が決定したことが嬉しいのか、担任福田はにこやかに笑いながら一枚のA4紙を取り出し、定規を使って線を引き出した。クラス中が担任の行動に疑問を持っていると、担任福田は窓際最前列の生徒から順に名前を聞いていく。
担任福田も当たり前だがクラス全員の名前を覚えていないらしく、わからない字があるとその都度生徒に問いかけつつ、三十六名全員の名前を聞いた後に「できた」と短く呟く。
どうやらそれは座席表で、あと一ヶ月ほどはこのままの席で授業を受けるのだという。視力の関係で前に席を移動したい生徒の希望をとった後、担任福田の「よし、今日はこれで終わり」という言葉で登校初日は終わりを告げることとなった。
思えばこのときから僕の運命は狂っていたのかもしれない。母親から超能力の事を聞かされたあの日から僕の運命は狂ったと思っていたが、もしかするとこの日まではまだ変更の余地があったのかもしれない。
僕はそのことを、下校途中に身をもって思い知らされることとなる。
それは突然だった。「きゃー!」とか「うわー!」とか、そんな感じの叫び声が耳に届いてきたのだ。現在時刻は三時を回ったところ、そして僕がいる場所は学校の玄関。変質者が出るには時刻的にも季節的にもまだ早いんじゃないかと思いながら、僕は野次馬精神からその声のしたほう、無駄に広い雑木林へと足を向けた。
……。
僕はそこで沈黙する。
そこには一組の男女がいた。二人とも顔いっぱいに恐怖と驚愕の表情を浮かべて腰を抜かしている。男子のほうは失禁さえもしてしまっているようだが、その気持ちもわからなくはない。二人が「それ」とであった経緯を丸無視するにしても、「それ」はあまりにも奇怪で、僕たち人間の想像軽く超えた生物―――いや、今はまだそれが本当に生き物なのかわからないので物体としておく―――だったからだ。
僕がみた「それ」は黒かった。光の加減で凹凸はわかるが、それだけだ。黒一色で、他の色といえば瞳の部分、いや、瞳と思われる部分の白しかない。闇夜に出てきたならば闇と同化して存在を悟れなくなるくらいの、そんな漆黒に限りなく近いような、絵の具の黒をさらに黒くしたような、そんな見事とさえ言えるような黒い色を、「それ」はしていた。
腕と脚のようなものが二本ずつ見える。どちらも丸太のように太い。人間でないことは一目瞭然だ。かといって二足歩行に限りなく近い、例えるならば旧人のような前かがみになった状態で「それ」は立っており、一般的な動物とはかけ離れているということも僕は付け足しておく。
物体が動いているということは遠くにいる僕からもよくわかった、肩で息をするように全身が絶えず上下しているのだ。
冷や汗か脂汗か、とにかく雫が一滴、僕の頬からぽたりと落ちた。
もしあれが本当に動物なのだとすると、それは恐ろしいものだ。その黒い物体の全長はどうみたって二メートル以上ある。一体どんな種類のどんな動物なのかは全く見当がつかなかったし、可能性としてはどこかの研究所から逃げ出してきたということも考えられるから始末が悪い。
この世には僕みたいな一般人が知らないことなど吐いて捨てるほどあるし、ましてや腐るほども人体を作る細胞の数ほどもある、しかも僕はその一般人が知らないことを現在進行形で体験しているのだから。そう、四肢同神≠ニいう形で。
その黒い物体が僕のほうを向いた。げっ、やばい。目が合っちまった!
僕が逃げることも声をあげることも叶わないでいると、その黒い物体は僕へとゆっくり近づいてくる。近づくにつれて徐々に荒い息が聞こえてきて、僕はその黒い物体が黒い生物だということを実感した。
気がつけば、僕の後ろには黒山の人だかりができていた。「あれなに?」「ドラマとかの撮影?」「ばっか、映画だろ」「でも、本物っぽくない?」「すげー!」「ちょ、先生呼んでこようよ」「警察のほうが……」「違うって、保健所だよ」「っつか、マジでありゃあなんなのさ」などなど、そんな声が聞こえる。
先生を呼んでくることを提案したやつ、心底ありがとう。ドラマや映画だと思ったやつ、僕と交代しやがれ。
黒い生物は遠近法によりだんだんと大きく見えてくる。それは早い話、僕に近づいてきているということだ。
逃げるべきか。僕は瞬時にそう考えるが、僕と目が合った瞬間に僕を向かってきたとなると、どうやらターゲットは僕なのかもしれない。僕はそこまで足が速いというわけではなく、こんな衆人観衆の中で四肢同神≠使おうものなら僕の平穏無事な学校生活は奪われたも同然だ。
「ヴァアアアアアァッ!」
突如として黒い生物が咆哮をあげる。どうやらようやく黒い怪物がドラマや映画の撮影などではないことを悟ったのだろう、僕の後ろにいた方々は蜘蛛の子を散らすかのように一目散に逃げ出した。
僕もそれに乗じて逃げようとしたのだが、悲しいことにその願いは叶わなかった。前方から振動とともに走り来る物体の存在を確認、咄嗟にデイパックの中から四肢同神≠取り出しつつ横に逃げる。
ブォンと壮絶な風切り音が聞こえた。その音を発生させたのは、黒い怪物の丸太のように太い腕だった。
喰らったら大変だ、そう思った。軽く骨の二、三本は折れるな、とも思った。
……冗談じゃねぇっ!
どうしろというのだ。これは遠回しに僕に戦えといっているのか。そりゃあ確かに、こんな異形な怪物に勝てるような人間は、この校舎や敷地内には僕しかいないのだろう。だからといって、これは、そんな、無茶だ!
僕は見たこともない神様に向かって問いかける。僕にどうしろっていうんですか? 僕は普通の高校生ですよ? と。
「早く逃げて!」
突然僕の右から叫び声が聞こえた。右には僕が覚えている限りでは校舎しかなかったはずだ。精神が参ってしまったことによる幻聴か、それでなければ教師か。僕は声のしたほうへと顔を向けて、そこで時が止まった。
僕が向いた方向には、確かに校舎が存在していた。校舎の壁がしっかりとそこにはあった。さらに付け加えて言えば、その壁には窓がついており、そこから一人の人間が顔を出していた。
その窓から顔を出していた人間は、「とうっ」と窓から身を乗り出してこちら側に着地し、もう一度僕に「早く逃げなさい!」とありがたい言葉をかけてくれる。
「……」
僕は依然硬直したままだった。
その人物は制服を着ていた。しっかり我が高校の制服だ。ちなみにセーラー服で、男が着用する詰襟ではない。声からもわかるように、その人物は女性のようらしい。
その人物は回転ぼうきを持っていた。それで戦うと思っているのかは知らないが、どこにでもあるような普通の回転ぼうきに見える。間違っても殺人的な光線やミサイルを発射しそうには見えない。
その人物の首から上は青かった。角は丸く加工され、四角形に近い台形で、素材はプラスチック。可動式のもち手がついており、どこの学級にも一つはある、本来は水を汲みいれるためのものが、その人物の顔の代わりに乗っていた。
「……掃除の国からきた、戦士ですか?」
僕はやっとのことでそれだけ呟く。
窓からの闖入者は、頭にバケツを被っていた。
「そうです! あたしはバケ……いえ! 掃除マンです!」
バケツマンでは格好がつかないと思ったのだろうか、闖入者は掃除マンといいなおしてから回転ぼうきを怪物へと向ける。怪物も呆気に取られていたのだろう、このときばかりは動きも止まっていた。
バケツマンにしろ掃除マンにしろ、僕は間違いなくそのネーミングはダサいと思うのだが、はてさて、人の感性というものは全くわからないものだ。
「ここはあたしがどうにかしますから、とりあえずあなたは逃げてください!」
バケツの中で声が恐ろしいくらいに反響しているはずなのだが、それでも掃除マンは声を張り上げていた。
「早く!」
回転ぼうきを怪物へと向けつつ、もう一度掃除マンが叫ぶ。自分の身の安全と、さらに掃除マンの耳の安全を守るため、僕は忠告どおり退散しようとし―――
時が止まった。
予め言っておくが、それは比喩的表現ではない。時が止まったかのように感じられたのでも、時が止まったかのように僕自身や他の何かが硬直したのでもない、本当に時が停止したのだ。
その世界に色は間違いなくあった。においも感触もあった。無いのは全ての動きだけ。木の葉も枝も、そして目の前にいる怪物も、全ての動きが停止していた。
いや、その全てに入っていない例外があった。それは僕と、そして掃除マンだ。
「早く、この間に!」
えぇと、そんなこといわれても。事情を理解しているのか、それともこの現象に掃除マンの意志が働いているのか、驚く様子もなく僕を背に庇う様に移動する掃除マン。反対に、あんまりといえばあんまりな驚き体験に思わず固まってしまう僕。
少しの間をおいて、僕はようやく駆け出した。四肢同神≠飲んでいたのをすっかり忘れていて、危なくスピードを出しすぎてしまうところだった。
母親の顔と、あるフレーズが脳裏に浮かぶ。今日二回目だ。
僕はその二つを必死でかき消しつつ、スピードを緩めて校門からゆっくりと出た。気にかかるのはあの掃除マンと自称する女生徒のことと、怪物。
瞬間、不意に視界が暗くなる。風で何かが飛ばされ、それが顔に張り付いたのだろう。どうやら時は動き出したらしい。
「なっ!? ……ふぅ、なんだこりゃ……ゴミ袋?」
そう、それはゴミ袋だった。今ではとっくに使えなくなっている、黒い色をしたゴミ袋。
「……」
ゴミ袋を見つめながら、僕は三秒間ほど硬直する。何か自分でもわからない力によって、僕の思考は支配されていた。
「あーやべー。学校に忘れ物しちゃったー」
棒読み口調でそう言う。無論忘れ物をしているわけなど無く、第一、今日学校に持ってきたものは筆記用具とファイルだけなのだ、忘れるわけが無い。
黒いゴミ袋のちょうど眼の位置辺りに穴を開ける。そういえば思い出したが、あのバケツを被っていては視界などあってないようなもののはずだが、一体全体どうするつもりなのだろう、あの掃除マン殿は。
僕はこれから忘れ物をとりに学校に戻るだけなのだ。そう、別にあの掃除マンとか言う変人を助けに行くわけではないのだ。自分に言い聞かせながら、地を力の限りに蹴りあげた。
見ている景色が瞬間的に移動。後ろへ後ろへと高速で流れていく電柱や家を眺め、僕は学校の塀を飛び越えて雑木林の中へと着地した。
慌てて辺りを見回し、あの黒い怪物と掃除マンを探すが見当たらない。どこかへ移動したのだろうか、だとしたらどこへ? 僕は思考し走り出す。
学校を一周し、しかしどちらの姿も見当たらない。教師や生徒が超高速で駆け抜けていく何か、つまり僕の姿を捉えて呆然としているが、ゴミ袋を被っているので正体はバレないはずだ。
もしかするともう学校にはいないのかもしれない。冷静に考えればそうだ、他人を巻き込みたくない人間が、わざわざ人の多いところで戦うわけが無い。僕は雑木林を一気に跳び越そうと、両足にあらん限りの力を込めた。
ぐん、と視界が動く。三段跳びや走り幅跳びや高飛びなど、陸上競技全ての世界新を出せる気がしたし事実出せてしまうのだろう。改めて人間離れしすぎた我が身に、軽いめまいを覚える。
こんなところを他人が見たら、きっと驚くだけじゃすまないだろうな。僕は体中のバネを利かせて着地した。
走りながら考える。考えなしに走っていても埒があかないのはわかっているが、場所がどこなのか想像もつかない。時間的に考えればそれほど遠くまでは行っていないはずだが、もし、あの時間の停止に僕も知らず知らずのうちに巻き込まれているとするならば、僕自身の時間感覚など何の意味も持たないことは明白だった。
とにかく走る。刑事もののドラマなどでありがちな「捜査は足でするものだ」の思想を僕は是とも非とも思っていないが、この際は走ることが一番効率的だと思った。この運動神経をもってすれば、この町全てを探しつくすのにも一時間とかからないだろう。
捜査が終わるのは思ったよりも早かった。
場所は河川敷の野球グラウンド、時刻が二時前後ということもあってか人は皆無。今日は入学式とちょっとした学級活動だけなので下校時刻は当然早いのだ。
遠くに見えるのは大きく黒い何かと、顔は遠すぎてハッキリしない我が高校のセーラー服を着た生徒、通称掃除マンが。青いバケツは被っていなかったが、代わりに近くにバケツが転がっていた。手には依然として回転ぼうき。
怪物からの攻撃。その巨体からは愚鈍というイメージしか思い浮かばないのだが、怪物は予想を裏切るスピードで腕を掃除マンへと叩きつける。
掃除マンが攻撃を回転ぼうきの柄で受け止める。柄が折れるぎりぎりのところまでしならせ、それでも威力を吸収しきれないと踏んだのだろう、掃除マンは自ら横に跳んだ。
地面で一回転し、そのまま体勢を立て直す。
怪物は一旦離れた距離をすぐさま詰め、戦闘状態に戻っていない掃除マンへと腕を振り下ろした。先ほどと同様、見かけによらず機敏な動きだ。
掃除マンは驚くべき反射速度で回転ぼうきを構え、またしても柄の部分で怪物の腕を受ける。が、回転ぼうきの柄だけでその攻撃を防ぎきることなどできはせず、さらに今回は重力もプラスされ、先ほどの攻撃より重い。回転ぼうきの柄はあっけなく真っ二つになる。
僕は回転ぼうきが折れるより前に走り出していた。間に合うかどうかわからないが、間に合わせなければいけない。一秒でもコンマ一秒でも早く間に合わなければ。
僕の体は恐るべきスピードで進んでいく。車と同等か、それ以上というくらいに速い。肌に当たる空気が痛い。
「ぶっと……べぇっ!」
腕を振りかぶり、右足で今までより強く地面を蹴る。体が宙に浮き、両足の裏には感覚がなくなった。弾丸のごとく僕は怪物へと向かっていく。
僕はそのとき見た。怪物の手の動きが不自然な具合に止まっているのを。
それは怪物の意志で止めたのではなく、違う何かによって無理矢理止められたような、そんな不自然さだった。
そう、例えるならばまるで、時が止まっているような―――
僕は思い切り手を振り下ろす。握り締めていた右拳が、怪物の左頬を完璧に捉えた。
その怪物の感触は不思議なものだった。硬くも軟らかくも、熱くも冷たくも、重くも軽くもない、どうにもあやふやな感覚だった。今まで触れたことのない感覚だった。
怪物はそのまま慣性に従って後方へと飛んでいき、地面に着地してからは滑り、距離にしておよそ三十メートルほどの地点でようやく止まった。
驚くのはそれからだった。怪物は一瞬だけ淡く発光した後、砂とも錆ともわからない、ただの黒い塵となってしまったのだ。僕がその黒い塵の正体を見極める前に、それは風によって運ばれてしまう。
少女はそんな光景を見て、口を抑えて呆然としていた。流石にあんな超高速で行動できる人間を見たならば仕方がないか。とはいえ、その少女、つまり掃除マンも常人あらざる動きをしていたのは確かだが。
掃除マンは頭を振って、
「いったぁい……ひざ、思いっきり擦っちゃったし。……回転ぼうきは折れちゃう、制服は泥と砂まみれ、掃除サボったから先生に怒られるのは確定。本当に今日はツイてないわ」
呟きつつ、ため息をつく一人の掃除マン。否、少女。
僕が視線を送っていることに気がつくと、その少女は慌てて自分の顔を片手で隠した。よほど自分の顔を見られたくないのだろうが、バケツを被っていたことを思えば納得できる。バケツを被っていたことなど誰だって知られたくないだろうから。
……もちろん本当は、あんな怪物と戦っていることを知られたくないからなのだろうが。
「……あっ! ちょ、ちょっとタンマっ! ねぇ、そこの君! バケツ被せて! お願いっ!」
顔を隠したまま叫ぶ少女。ちなみにバケツは僕の足元に転がっていた。
僕は無言でバケツを拾い上げ、片手で顔を隠した少女の頭にかぶせてやる。色々と言いたいことや聞きたいことがあったのだが、相手が口を開くまで待つことにした。
「……」
「……」
お互いに無言である。かたやバケツを被ったセーラー服少女で、かたや黒いゴミ袋を被った詰襟姿の少年だ。ここを通りがかった人が僕たちの姿を見たらどうなるのか想像してみることにする。
……やめよう、精神衛生上よくない。頭が痛くなってくる。
噂でしか聞いたことのない、最早伝説染みてもいる黄色い救急車に乗せられた自分を想像したあたりで、僕は脳の一部をシャットダウンする。
「……とりあえず、ここは何も聞きません。どうせ教えてくれないでしょうし。それに僕だって、聞かれたら困ることくらいありますからね。このゴミ袋とか」
「ゴミ袋、ねぇ。さしずめゴミ男ってとこ?」
「やめてください」
マジで嫌だった。
ゴミ袋男ならまだしも、それを略してゴミ男とは。間違ってはいないが、事実に沿っていれば何を言ってもいいというとそれは大間違いである。
「じゃあカラスマンで。全身真っ黒だしね」
「……っつーか、敬語使わなくていいですか? 先輩。どうもあなた見てると、僕のほうが知能指数が高い気がしてきましたんで」
僕が通っている学校では、一年生は赤、二年生は黄、三年生は青という風に級章で色分けがなされている。僕の詰襟には赤い級章がついており、目の前にいるバケツマンの左胸には黄色い級章がつけられていた。つまりあちらのほうが一学年上だということだ。
「うわ、毒舌っ。酷いなぁ、女の子にはもう少し優しくするもんですよぅ」
「男女平等がポリシーなんで」
なんだかだんだん馬鹿らしくなってきた。こんな与太話をするのも面倒くさいので、僕は家へ帰るべく歩き出す。
と、そのとき後ろから声がかかった。
「待ってよ、カラスマン君!」
どうやら僕の名前はいつのまにやらカラスマンに決定したらしい。この人に対して、他人が嫌がることはしてはいけませんという一般常識以前のことを教えてやれる人間はいなかったのだろうか。それとも、教えてやれる人間が全員さじを投げた問題児ということなのかもしれない。
「もしかして、もしかして君も、『適応者』なの!? だったら、一緒に戦って欲しいの! あたしと一緒に、正義のヒーローになって欲しいの!」
僕は一瞬足を止め、また歩き出した。
正義のヒーローだって?冗談じゃない。
そんな単語、もう聞き飽きたよ。
3
母親は僕のことを超能力者と呼んだが、厳密に言えば僕は超能力者ではない。確かに僕は世にも奇妙な能力を持ってはいるが、それは全て四肢同神≠ノよる恩恵であり、僕自身は何の能力も持たない高校生だからだ。
母親は昔言った。「これを使うことができるのは、全世界であなた一人」と。もしそれが本当ならば「四肢同神≠使うことのできる超能力」と言えなくもないが、それならもっと適切で適当な言葉があると思う。掃除マンの言葉を借りれば、適応者、と。
可能性として四肢同神≠ニ似たようなものが他にも複数個存在するというのは大いにありえた。そう考えればあの黒く異形としか言いようのない怪物や、現代科学の力ではどうしようもない、あの時が止まる現象にも説明がつく。
だがどうだろう? 考えてもみてくれ。ここは日本であり、それ以上でもそれ以下でもない。間違っても不思議の国ではない。一粒飲めば身体能力が劇的に向上する丸薬なんてあるはずはないし、黒い怪物が出没するということも時が止まるということもない。あってはいけないはずだ。
僕の、僕自身の本能やら常識やら世間体やら危機感やら、その他もろもろの状況認識力と状況判断力がレッドシグナルを鳴らしている。ここから先は危険だ、と。
僕はすでに、現実という世界に存在している非現実的な世界へとどっぷり浸かっており、現実逃避することも目をそらすこともできない位置にいる。母親は口うるさく「正義のヒーローになりなさい」などと言ってくるし、バケツを被った不審者にも「一緒に正義のヒーローになろうよ」と言われた。普通の高校生として生きていきたい僕に対してだ。
あるいは、僕には選択肢など残されていないのかもしれない。選択肢があったとしても、それは結局一つの結果に帰結するだけで、ただルートが違うだけのような気もする。
超能力を持った人間が必ずしも超能力者としての人生を歩まなければいけないなんて、そんなの馬鹿げている。僕はそんなの望まない。
とまぁ、大体そんな内容の話を、下校途中に出合った怪物と掃除マンのことも含めて僕は母親に伝えた。母親は僕のそんな話を聞きつつ、黙々と大皿に盛り付けられている野菜炒めを口へと運び、途中で白米や味噌汁にも口をつけ、ようやく口を開いた。
「適応者、ね。適応者、かぁ」
自嘲気味に母親が笑い、しかし僕は母親の笑い顔を睨みつけることしかできない。
「確かにそうかもねぇ。超能力者よりそっちのほうが、ニュアンス的には正しいかもしれないわねぇ……」
野菜炒めのキャベツをつまみながら、母親は続ける。
「……仕方ないか。遅かれ早かれこうなるとは思っていたし、私も全てを話す覚悟はできてるし。
……浩介、あなたのお父さんは死んだと、そう聞いてるわね。死因は交通事故だとも聞いているわね」
そう、僕の父親は、僕が子供の頃に死んでしまった。本当に昔、僕がおよそ二、三歳のときの話らしいので、僕はそのときのことを全くといっていいほど覚えていない。僕が父親に関して知っていることは全て母親から教えられたことだ。
そう、全て母親から教えられたこと。だからといって、僕に正しい情報が伝わっているとは限らない。
「全てを話すわ、これから。確かにあなたの父親は死んだ。けど、死因は交通事故なんかじゃない。殺されたのよ」
僕はごくりと喉を鳴らした。殺された。そのフレーズは一瞬にして僕の体と思考を支配する。
殺す殺されるなんてのは、ニュースで聞くことはあるにせよ普通の生活ではありえないような単語で、ましてや自分の父親が殺されたなんて。
いや、もしかすると僕は気がついていたのかもしれない。ただ単に僕が認めたくなかっただけで、母親が父親の死因についての話題を持ち出したときから、うすうすと感づいていたのかもしれない。
それから母親は、僕の父親の身に起こったことを全て話してくれた。それはあまりに壮大な話で、間違いなく漫画染みた話で。だけどその話を否定するということは僕の存在自体を否定することにもなりかねないという、なんとも酷い話だった。
それよりもまず、この酷い話を語るには、十五年前のとある事件も説明しなければいけない。
それは偶然にも、僕が生まれた年のことだった。
十五年前の事件といえば、そのとき生まれていなかった人間でさえ知らない人がいないというほど有名な事件である。
その事件は、有名だがしかし、禍根をありえないほどに残さない事件だった。いや、それは事件と呼ぶにはあまりに伝説的過ぎ、まさに現代版の神隠しと呼ぶにふさわしい。
僕は無論その事件を実際に見たことがないが、それでも噂は嫌というほど聞いている。例えば、民家千五百戸及び住民二千人以上が一夜にして消え去ったなどがその最たる例だ。
事の発端など、原因や要因などはいっさいがっさいが不明らしい。ある日を境にしていきなり小さな町が一つ消え去ったという事実だけが残り、それ以外は何も判明せず、当然解決には至っていない。
その事件は結局5W1Hのほとんどが不明のまま幕を閉じた。いつ、誰が、どこで、どのように、何を、どうしたのか、それらのほとんどが不明だったのだ。唯一明確だったのはwhenとwhereとwhatの三つ、いつ、どこで、何をだけだ。
まぁこの事件の場合、「どこで」と「何を」は同一視されるべきなのかもしれない。事件が起こった場所がそっくりそのまま消え去ったのだから。
消え去ったというのは非常にアバウトに聞こえそうだが、その事件で起こったことを消え去ったという意外に表しようがないのだ。その事件のあった場所は現在でこそ復旧が進み、とっくの昔に宅地化しているにしろ、事件が起こった直後はとても直視できない状況だったらしいからだ。
直視できない。それは陰惨だったとか残酷だったとかではなく、逆に血の一滴も肉の欠片も、遺物すらもなかったことから由来する。比喩でもなんでもなく、実際に残っていたのは何もなかったのだ。
そう、まるで蒸発してしまったかのように。
残ったのはただの平野だけだったらしい。それは確かに直視できる光景ではないだろうと僕は想像する、あまりに常軌を逸した光景すぎるからだ。
UFOの仕業か、はたまた某国の陰謀か。巷ではさまざまな流言やデマ、噂話が飛び交ったようだ。
昨日まであった、小さいながらもしっかりと存在していた村が一つ、今日になると無くなっている。それは本当に空恐ろしい出来事だろう。
かくしてその事件は、現実におきた都市伝説として現在でも脈々と語り継がれているということだ。
僕だってそんなことは知っていたし、友人とその話で盛り上がったことも何度かある。だけどそんな話が僕に金輪際関係あるわけはなかったし、普通はないと思うだろう。
だけどそんな話がここに来て、僕としても不本意なのだが、僕と大いに関係してしまうことになった。
この世には僕が持っているような四肢同神≠フ類がいくつも存在し、それらは必ずしも誰もが扱えるわけではない。その道具を扱える人間がしっかり決まっており、それ以外の人間、バケツマンの言葉を引用すれば適応者が使った場合、能力が暴走して死に至るという。
道具の能力はさまざまで、種も仕掛けもない手品くらいにしか使えないものもあれば小国を簡単に手に入れることのできるほど強力なものもある。そして、そんな危険な道具を手に入れた者たちが組織を作った。強大な力は、とかく人を悪の道へと陥れるのだ。
しかし、強大な力を悪のために使おうとする人間がいるならば、反対にその力を正義のために使おうという人間たちも、少なからずいる。そうしてできた二つの組織、悪のほうの名を六亡星、正義のほうの名を三武神という。
その二つの組織は当然のことながらぶつかりあった。殺し殺され、新たな適応者を取りこみ、それでも一般の目にはつかないように、静かにとてつもない戦争を繰り広げていた。その二つの組織、三武神のほうに僕の父親は在籍していたという。
悪の組織、つまり六亡星の目的は多々あった。もともと自分の目的のために行動する人間が、三武神という敵対勢力に対抗するために作った組織であるため、基本的に統一された思想とは無縁だったのだ。
確かに六亡星は統一された思想とは無縁だったが、その中にもある種の目標、目的はあった。それは世界の改変である。
道具を用い、まず日本を落とす。次は中国、次はロシアと、だんだん占領地を増やしていこうとしたのだ。普通の考えでは馬鹿らしいとしか思えないが、この道具を持ってすればそれもそこまで難しくはないと思えてくる。それほどこの道具は強力で強大なのだ。
対する三武神の目的は世界平和。こちらは同様の目的を持ったものの集まりであり、したがって基本的な思想は統一されている。この世から悪人を一掃するという思想だ。
二つの組織があいまみえて半年ほどたった頃、二つの組織にとって重要な事実が発覚した。その重要な事実には、一人の少女の存在が関係していた。
その少女はいわゆる道具使い、適応者ではなかった。普通の、ごく普通の一般人に過ぎなかった。ならば何故その少女が重要な事実となるのかというと、それは少女の特異性にあったのだ。
少女の特異性、それは、彼女の精神的ストレスにより人または物体の存在を消滅させることができるという、常識から考えても非常識から考えてもとんでもないものだった。
人または物体の存在を消滅。ある日突然クラスメイト一人の姿が消えたり、いつの間にか町が一つなくなっていたり、そういう事態を引き起こすことができるのだ。
この能力の一番のキモは、能力の発動条件が精神的ストレスによるものだという点だった。意識的にではなく無意識的に、だから能力をいくら使っても罪悪感が芽生えることは無く、それ以前に自身の能力が発覚することも無い。そしてストレスなど感じない人間は、この現代社会において存在するはずも無い。
何故一人の少女がこんな能力を持っているのか。それは結局わからずじまいであり、同時に二つの組織が少女の存在に気がついた理由もわからずじまいだった。母親すらも聞かされていなかったのだ。
六亡星は早速少女を捕まえようとした。少女の能力に何らかの指向性、例えば狙った人を消滅させることができるようにすれば、それはどんな武器や異能でも敵わない兵器となりうるからである。
反対に三武神は早速少女を殺害しようとした。少女の能力は明らかに危険なものであり、それが無意識のうちに発生し、他人の存在を脅かすものなのだからなおさらだった。世界平和のため、その思想の下に三武神は少女を殺害しようとしたのだ。
少女の殺害に賛成できない人間が三武神の中にいたという。その人物こそが僕の父親だというのだ。
父親は少女を殺すことに真っ向から反対し、少女を陰ながら守り続けた。その結果六亡星だけでなく三武神と新たに敵対することになったが、父親はそれでも少女を守り続けたという。
しかし、結果から言えば少女は死に、そして父親も後に息絶えた。当たり前だ、強大な力を持つ勢力二つに真っ向から敵対し、生き残れる確率など一パーセントにも満たない。正義が勝つというのは漫画や戦隊ヒーローものなどだけで、現実はそんなにうまくいかないのだ。
父親はきっと、少女を守りきるにしろ守りきれないにしろ、どの道自分は殺されると踏んでいたのだろう。だからこそ自分が死んだ後のために母親に僕の能力に関する知識や自分の戦っている相手を教え、そしてそのことを僕に伝えるようにした。
少女は殺され、そのときに少女の能力が発動しておこったのが十五年前の事件だという。自分が死ぬとき、それはとてつもなく大きな精神的ストレスがかかることは想像に難くなかった。しかもなんで自分が殺されるのか知らされぬままだ、怒りも悲しみも感じる前に、呆然としていたことだろう。
消えた町の人々に対しては悪いが、そのことについては運が悪かったとしか言いようがないのだろう。宝くじだって当選する確率が低いだけで必ず一人には当選する、その一人にあたったのがたまたまその消えた町だったということだ。
なるほど、それならばあの不可思議な事件にも合点がいく。あの出来事は間違っても人間業でないとは思っていたが、まさか僕らの同類がそんな風に関連していたとは。これでは警察だろうがなんだろうが解決できるわけがない、UFOの仕業だといったほうがまだ信憑性があるくらいだ。
「……私が教えられるのはせいぜいがここまで。あの人は私の身に危険が及ぶことを恐れて、あまり深いことを教えてくれなかったから」
母親はそういって席を立ち、空になった食器類を台所の流し台へと持っていく。僕もそれに続いた。
部屋に戻った直後、僕はベッドの上へと倒れこんだ。体を回転させ仰向けになり、白い天井と蛍光灯をぼぉっと見つめながら考える。何をって、それはもちろんこれからの我が身についてだ。
まず、僕の父親は三武神やら六亡星という、僕と同じような能力を持つやつらに殺された。片やこの能力を善の方向に、片やこの能力を悪の方向に使っているという違いはあれど、どちらにしろ自分たちの思想の下に人間を殺しているという組織に違いはない。
大体何が正しくて何が悪いのかなんて誰にもわからないのだ、ある面から見れば正しい行いも違う面から見れば正しくない行いだなんてことはそれほど珍しいことではないわけだし。
さて、と僕は思考を切り替える。今考えるべきことは二つの組織の善悪ではない。
「どうすっかなぁ、これから」
僕は呟いてみる。これから僕は一体どうすればいいのだろう。まだ全ての謎が解けたわけでもないし、全ての問題が解決したわけでは断じてないのだ。
例えば、何で掃除マンはあの怪物と戦っていたのか。それ以前にあの怪物が生まれた経緯はなんなのか。
例えば、なんで父親は僕が道具を使えるということ―――面倒くさいのでこれから適応者と呼ぶことにする―――をわかったのか。さらに僕が使える道具が四肢同神≠セということをどうしてわかったのか。
もし仮に何らかの方法で適応者と一般人を区別することができるならば、僕が二つの組織に狙われるということも考えられるからである。それは掃除マンも然りだ。もしそうならば極力慎重に行動しなければいけなくなる。
わからないことはたくさんあった。だけどそれの答えが返ってくるとは思っていないし、知りたくもない。知ったら引き返せなくなってしまう。
今日起こった全ての出来事と今日聞いた全ての話を忘れ、今までどおりの生活を続けることは可能だろう。まだ僕が適応者だということは誰にもばれてはいないわけだし、二つの組織が僕のことを見つけて仲間にしようとする確率も恐らくかなり低い。このまま能力を一生ひた隠しにしていれば、なんら日常生活に支障は出ないはずだ。
問題があるとすればあの掃除マンのことだが、僕は掃除マンには声しか聞かれていないわけだし、とぼけようと思えば簡単にとぼけることができるだろう。前述した適応者と一般人を見分ける方法があるならばそれも不安になるが、現状では存在の有無さえわかっていない、どうしようもない。
日常生活。酷く魅力的な響きのように聞こえる。ここで下手をすれば一生戻ってこないもののような気もする。
考える必要はないんじゃないか? と自問する。
当たり前だ、わかっている。と自答する。
わかっているさ、わかっているんだ。だけど。
自分があの時どんな行動をした? と自問する。
知ってるさ、覚えてるよ。と自答する。
自分はあの時、何故掃除マンを助けにいった? 何で僕は掃除マンを助けにいったんだ? 自分のことを助けてくれたからという恩を感じたからか? 意味のない正義感を振りかざしてみたかったからなのか?目の前で人が死ぬのが嫌だったからか?
違う。
僕は布団をかぶった。考えたくない答えに行き着いてしまった、自分で自分が信じられなかった。
「僕は普通に生きたいんだ。僕は日常生活を望んでいるんだ。わけのわからない戦いに巻き込まれるなんて、心底からまっぴらごめんなんだっ!」
現在時刻は知らないが、十時すら回っていないことはわかる。まったく眠たくないが、それでも必死に目を瞑る。自分自身に言い聞かせるかのように小声で叫び、意識を空白に近づけようと試みる。
予想外にもほどがあった。
僕は自分が怪物と戦ってみたかったのだと考えてしまった。
似章 邂逅/再開
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がらんとした教室内。窓から見える外は薄暗く、比較的夜遅くまで残る野球部やサッカー部などの掛け声もすでに聞こえなくなっている。
教室の電気はついておらず、机や椅子の影が僅かに見える程度の闇の中、一人の人物が教室付近で何かを呟いている。遠くから見れば独り言のようにも聞こえるだろうが、よく見ればその人物の手の中には携帯電話が握られていた。言うまでもなく教師に見つかれば没収されるが、人物はそんなこと気にも留めていないようだ。
「……はい、こちら《影武者》です。予定通り潜入には成功しました。……えぇ、すでにアーティファクトは使用しました。今のところ問題は発生していません。気がつかれてもいないようですし。
……めぼしですか? いえ、まだです。悪魔はいまだ見つけられません。流石に厳しいものがありますね、道具使いならそれほど難しくはありませんけど、悪魔となると……弱音? 冗談を。弱音なんかじゃありませんよ。
とりあえず調査は続行します。あと、生徒で道具使いを一名発見しました。アーティファクトを持っているかどうかはわかりません、戦力となるかどうかも未知数ですが、お庭番という可能性もありますので慎重に……えぇ、はい、わかってます、『人目に付かないところで、穏便且つ迅速に』でしたよね。……はい、そうですね。念のため《魔法使い》も待機させておいてもいいかもしれません。六亡星もすでに潜入しているかもしれませんし」
その人物は「それでは」と言って通話終了ボタンを押す。会話が一段落したからかふぅと細く息をつき、教室の扉を開けた。
階段を下り、廊下を歩いていると一人の男性教師とすれ違う。国語を教えている福田だ。
「堀井先生、お帰りですか?」
「えぇ、仕事は家に持って帰ります」
堀井と呼ばれた女教師は会釈をしてから微笑んだ。福田も軽く会釈し、そのまま職員室の中へと足を踏み入れる。
「……あれ? 堀井、先生? お帰りになられたんじゃ……」
「はい?」
職員室の中には、緑茶をすすりながらプリントを作成している、先ほど福田がすれ違ったばかりの堀井がいた。
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幸か不幸か、それから二週間は怪物にであうこともなく、ついでに掃除マンと出会うこともなく、僕は駆け出し図書委員として学校生活を送っていた。ちなみに図書委員の顧問は堀井という三十前後の若々しい女教師だった。僕は堀井さんと呼んでいる。
図書委員の仕事は大まかにいえば図書室の本の整理と管理で、月に一回ほどの割合で回ってくるはず司書の務めを除けばそれなりに楽しめる仕事内容だった。「はず」というのはまだ入学式から一ヶ月たっておらず、僕にその仕事が回ってきていないからである。
それほど興味はないことなのだが、どうやら女子の図書委員である五十嵐ひかりは男子間ではそれなりに人気があるらしく、クラスの男子数名から「うらやましいなぁオイ!」などと僕は言われた。顔は可もなく不可もなくといった感じなのだが、どうも眼鏡とあいまって純朴そうな雰囲気を醸し出しているのが主な要因らしい。
僕的には「うらやましいなぁオイ!」などといわれてもそれほど嬉しくはない、というのも僕には女子に対して恋愛感情以上のものを抱かないからである。
かわいいと思った女子は何人もいるが、自ら進んでお近づきになりたいと思った女子は今まで一人もいない。友人に言わせれば「人生の三分の二は損してる」らしい。その友人曰く残りの三分の一はゲーセンで遊ぶことらしいので、その友人の言葉を無視していいことは最早誰に説明するまでもないだろう。
年齢が近い妹がいる友人には、そういえばあまり異性に対して興味のある人が少なかったと今更ながら思い出すが、僕は一人っ子である。となればただの趣味嗜好の問題なのだろう。
事態が進展したのは―――それが僕にとって本当に進展かどうかはこの際別として―――そんなある日のことである。
僕が五十嵐から声をかけられたのは昼休み、グラウンドでサッカーに興じようと思っていた矢先の出来事だった。サッカーではもちろん四肢同神≠使うつもりはない。
「えーと、千葉君? なんか急に図書委員に召集かかったみたいで……堀井先生が呼んでるんだけど……えっと、サッカー行くところで本当にごめんなんだけど、えっと、ちょっと一緒に来てくれない、かな?……えと、二人必要じゃなかったら、すぐサッカーいっていいから……」
おどおどした口調でそんなセリフを言う五十嵐。あ〜、なんというのだろう、この五十嵐の姿から守ってくださいオーラが発生しているように見えるというか、まるで十八歳以上の人しか買えないようなゲームに出てくる血のつながっていない妹のような雰囲気がするというか、東京の電子街に大量に存在する大きなお兄さんの目の前に出したらすぐにでも担ぎ上げられていきそうな空気をまとっているというか。って、何を言っているんだろうね僕は。
危ない危ないと首を左右に思い切り振る。五十嵐やいまだ教室に残っている男子どもが僕の姿を不思議そうに見てくるが、知らないフリ及び気がつかないフリ。なるほど、男子から人気があるというのもわかる気がしないでもない。
「……わかったよ五十嵐。にしても急だな、堀井さんはなんつってたんだ?」
「えと……私は堀井先生から直接聞いたわけじゃないから……先輩からそう聞いただけだから……えっと、ほら副委員長の京沢先輩がそう言ってたから……」
「わかったわかった! わかったから早く行くぞ、僕ぁできるだけ早く終わらせて、サッカーしにいきたいんだからな。場所は小会議室だろ?」
この調子でこいつと喋り続けていると僕がどうにかなってしまいそうだったので、僕は会話を打ち切って足早に教室を後にする。今までに二回図書委員での会議があったが、一回目が図書室で二回目が小会議室で行われた。今は昼休み、図書室が使えないので恐らく小会議室だろう。
そういえば最近知ったことなのだが、この学校には何故か小会議室と大会議室という二つの会議室がある。基本的に大会議室は職員会議などに使用されるらしく、使用回数もそれなり多いと思うのだが、小会議室は反対に全くといっていいほど使用機会に恵まれていないようだ。図書委員会がたまに使う程度で、あとはほとんど使われていないと聞く。
小会議室が使用されていないというのはその位置も関係しているのだろう。大会議室は二階の校長室の隣にあるが、小会議室は二、三階にある渡り廊下を渡って新校舎へいき、さらに一階へと降りた後に廊下端へと向かわなければいけないのだ。早い話がとてつもなく遠いのである。
そういうわけで小会議室の使用頻度はかなり低いのだが、そんな部屋を使わされるこっちの身にもなって欲しい。
小会議室に入ると、すでにほとんどの人が席へとついていた。僕たちが席へついてすぐに残りの図書委員もそろい、堀井さんの「これから第三回図書委員会議を始めます」という発言によって会議が始まった。
図書委員会というのは委員長一名、副委員長一名、書記二名とその他の委員に分かれており、委員会議ではその四人プラス顧問である堀井さんが前に出、議題について場をまとめながら進めていくのである。堀井さんの最初の発言は、まぁ宣誓のようなものなのだろう。
どうやら今回の議題は、今度新しく購入する図書室の本についてのようである。購入する本はどうやって選ぶのか、全校でアンケートをとるのかそれとも図書委員だけで決めるのか、それとも他の方法をとるのか、そのようなものを昼休みをわざわざ使って決めるらしい。
悲しいことに全員参加だったので、僕はサッカーへ行くことはもうあきらめ、話し合いに参加することに決めた。とはいってもそれほど意見があるわけではなく、全校でアンケートをとることを肯定するような意見を一つ二つ出すことに終始していたのだが。
昼休みも残り十分を切ったあたりでようやく話がまとまった。全校で購入希望のアンケートを実施することに決まったようだ。別に僕が意見したからというわけではないだろうが、それでも自分が支持していた意見が採用されるのは多かれ少なかれ嬉しいものだ。
会議はお開きになり、僕はサッカーへいけなかったことへの文句をぶつくさ言いながら教室へと戻った。予想通りクラスに男子の姿はなく、十名前後の女子がいる教室で、僕はなんともいえない居心地の悪さを感じていた。
「ふざっけんじゃねぇわよぉっ! いい加減付きまとってくんじゃねぇっつってんでしょうが! トランクケースに詰めて津軽海峡から放り投げられたい!?」
突然そんな怒声というか罵声というか絶叫というか咆哮というか、ともかくそんな感じの大声が響き渡ったものだったので、僕は反射的に身構えてしまった。
その大声が最後まで発せられる前に、それと同じくらいの鈍い音が鳴り響いた。ゴツンというかガツンというか、何かが何かにぶつかるようなそんな音が響いたのだ。
僕は野次馬根性丸出しで大声の元へと走りだした。廊下に出て左右を確認し、そして騒ぎの現場を発見する。そこにはすでに僕と同じような野次馬が十人ほど、何かを取り囲むように集まっていた。
僕は野次馬たちを縫うように掻き分け、一体誰が何をしているのだろうかと前へと移動する。
現場は第二美術室であり、騒動を起こした張本人たちはどうやら二年生であるようだ、級章からそれは判断できる。考えるに五時間目が美術なのだろう。
美術室を覗く。僕の視界に映ったのは、鼻から血を流して壁にもたれかかるようにして倒れている一人の男子生徒の姿と、その男子生徒の前に堂々と立っている一人の女子生徒の姿だった。よくみれば、女子生徒は先日引ったくり犯を捕まえたあの女子生徒だ。
女子生徒は激しい怒りの形相で男子生徒を睨みつけていた。まるでさらにもう一発攻撃を加えようとしているかのようにも見える。
もう一方の扉を開けて教師たちがやってきた。誰かが呼んできたのかは知らないが、このクラスの担任と思われる男性教師と保健室の先生、他数名の先生が美術室へとなだれこむ。
保健室の先生は男子生徒に「大丈夫?」と声をかけながら手早くハンカチで鼻血をぬぐい、冷静に処置を施してく。他の教師は野次馬を散らしたり生徒から話を聞きだそうとしているようだ。
知り合いがどこかにいないだろうかと辺りを見回すと、美術室の入り口付近に見知った顔を一つ発見する。驚きの表情を浮かべているのは、我が図書委員会の副委員長である京沢先輩であった。失礼だが下の名前は忘れた。
「先輩? ちょっと、これ、一体どうしたんですか?」
僕は騒ぎの方向へと視線を向け、聞く。
「え? あ、図書委員の……千葉くん、でいいんだっけ?」
「ええ。これは先輩のクラスですか」
「うん、困ったことにそうなの。なんだかね、奈々子―――万屋奈々子っていう友達がいるんだけど、その娘が尾島くんっていう人を殴っちゃったみたいなんだ……」
京沢先輩はうつむき加減でそう言う。それにしてもなんでまた殴ったりなんか。あの怒声の内容を聞く限りでは、そこまでその尾島くんとやらが何か気に障るようなことをしたのだろうが。
僕がそんなことを呟くと、京沢先輩は少しはにかみながら「うん、まぁ、ちょっとね……」と言葉を濁した。それなりの理由があったのだろうと簡単に想像はついたので、僕は「そうですか」と返事をして場を切り上げる。人間誰だって、一つや二つ三つや四つ、聞かれたり知られたくないことだってあるのだ。
そのうちに昼休みの終了を告げる鐘の音がスピーカーから鳴り響き、僕はそれをいい合図にして教室へと戻った。
机につこうとして気がつく。机の上にはルーズリーフの切れ端が折りたたまれた状態でおいてあった。
僕の机においてあることは、当たり前だが僕宛の手紙なのだろう。可能性としてはポケットから零れたという可能性もあるが、こんな上手い具合に机の上にのるだろうか。
どちらにせよ中身を見なければ差出人がわからないわけだし、僕は少しばかりどきどきしながら手紙を開いた。自分宛でも他人宛でも、とりあえずラブレターの類かもしれなかったからだ。
結論から言おう。それはラブレターに酷似していた。
酷似していたというのは、その手紙には愛の言葉が書き連ねてあるのではなく、いついつにどこどこへ来てくださいというものだったからだ。ちなみに僕宛である。
差出人は……なんと五十嵐だ。おぅ? これはこれは、ひょっとするとひょっとして、もしかすると本当にもしかするかもしれませんよ? この千葉浩介、生まれて初めて愛の告白とか、そういうやつを受けてしまうかもしれませんよ?
タイミングが悪いことに五十嵐は教室内にいなかった。いたら少しばかり様子を伺って、これがイタズラかどうかを見極めようかとも思ったのだが。
「でもなぁ?」
僕は首を捻った。
差出人が五十嵐だというのは全然かまわなかったし、イタズラだと考えられなくもない。だけど、どちらにしろこれはどういうことだろう。
何故、待ち合わせの時間が六時という遅い時刻なのだろうか。そして、何故待ち合わせ場所があんなところなんだろうか。
僕はもう一度手紙に目をやる。
そこにははっきりと、「六時に小会議室へ来てください。大事な用事があります」と書かれていた。
僕は放課後、友人である古賀俊太や他のクラスメイトからの誘いを断った。本日は六時間であり、したがって下校時刻は四時を少し回ったところ、単純に考えて待ち合わせの六時まで残り二時間ほどもあるのだ。一旦家に帰ろうかとも思ったが、家へ帰ったところで家へ帰る際にかかる時間と家からここまで戻ってくる時間が大半を占める結果となるのは目に見えてわかっている。伊達に数週間ここに通っているわけではないのだ。
とはいえ、この学校の周りにはコンビニなどもあまりなく、今日は図書室が開く日ではないので図書室で時間をつぶすこともできない。どうしたものか。
僕が暇をもてあまして廊下をぶらついていると、二階の職員室前で後ろから聞きなれた声がかかった。堀井さんだ。
「あっ、千葉くん、ちょっといい?」
「堀井先生? なんですか? それ」
僕は先生が抱えている段ボール箱を指差した。中に何が入っているのか知らないが、堀井さんの表情などを見る限りではそれなりに重いものがはいってそうである。多分教科書の類だろう。
「悪いんだけど、ちょっと手伝ってくれない? いや、私、美術を教えてるんだよね。知ってたかな? でさ、資料集が届いたんだけど、これが重くて重くて。これ以外にあと五箱もあるんだよねー。で、時間があったらでいいんだけど、運ぶの手伝ってくれないかな?」
苦笑いを浮かべながらそういう堀井さん。僕は断る理由もないので潔く手伝うこととした。
「ちなみにどこへ運ぶんですか? ……よっと」
堀井さんが持っていた箱を受け取り、職員室へと入ろうとする堀井さんの背に僕は言葉を投げかける。返ってきた言葉は「遠いんだけど、小会議室」だった。
資料集が入った箱は、はっきりいってかなり重かった。男だから力があるとか女だから力がないとか、そんな理屈を超越するほどその箱は重かった。
たかが資料集、されど資料集である。一本の矢なら折れるが三本の矢ならば折れない、それと同じようにたった一冊の資料集は軽いが何冊も重なるとここまで重くなるのか。これはいい教訓である。
そこはかとなく三本の矢とは意味合いが違うような気がしないでもなかったし、それになによりいい教訓になった気が全くしないのだが、僕はそんな些細な間違いを気にせず黙々と運ぶ。手がだんだんと痺れてきた。
「大丈夫かなぁ」
堀井さんがぽつりと呟いた。僕は反射的に「何がですか?」と聞き返す。
「いや、福田先生のこと。君の担任って福田先生でしょう? あの人、この間ね、廊下で私とすれ違ったって言ったのよ」
「それとどういう関係があるんですか?」
「話を最後まで聞いてから発言すること。……いい? 私はそのとき職員室でプリントを作ってたのよ、当然そのとき廊下にいたわけないし。それなのに私とすれ違ったって。……病院紹介したほうがいいかしら?」
それとなく酷いことを言っているような気がするが、確かにそれはおかしい。特に先生の頭がおかしい疑いが持たれる。是非病院に連れて行ってあげたくなる。もちろん全て福田担任の見間違いでないと仮定した場合の話だが。僕も結構酷いことを言っているな、実際。はは。
新校舎と本校舎を繋ぐ渡り廊下に差し掛かる。空気の温度がここだけ違っているようで、涼しいというよりも肌寒いくらいの気温だ。この学校が比較的高い位置に建っていること、そして現在時刻が遅めだということも一因だろう。
「そういえば先生、小会議室の鍵は持ってるんですか?なんか持ってないように見えるんですけど」
僕は堀井さんを上から下まで眺めてみる。もちろんエロい意味ではなくて。
堀井さんは白衣を着ているのだが、両側についているポケットからは何も見えない。この学校の鍵には全て教室名が書かれたプレートがつけられているので、あまり大きくない白衣のポケットからだとそのプレートは確認できるはずなのだ。
「あ、大丈夫。資料集取りに行く前にちょっと新校舎のほうに用事あったから、そのときについでに小会議室の鍵も開けておいたの。それに千葉君、君たち生徒は知らないかもしれないけど、この学校にはマスターキーっていうものが存在するんだよ。今、私のポケットの中に入ってるんだけどね、プレートなんかついてないやつが。……と、階段ね」
階段に差し掛かったので僕らは一旦会話を中断、階段を無事に下りることに専念した。会話を交わしているくらいなんだからそれほど重いわけないだろうというやつもいるだろうが、はっきりいってそれは違う、逆なのである。余裕があるから会話を交わすのではなく、段ボール箱の重さを忘れるためにひたすら会話を交わしていたのだ。
無事に階段を下り、一階へ到着する。残り五十メートルもない。短いようでやけに長かった道のりが、これで終わるのだ。
「終わらないよ」と堀井さんが言った。
「あと四箱あるからね」
がくり。これは僕の両肩が垂れ下がる音だ。
マジですか。そうですか、あと四箱もあるんですか。つまりあと二回も小会議室まで行かなければ行けないんですか。そうですか。
決して表面には出さないようにして僕が半ば自暴自棄になったとき、ようやく小会議室へとたどり着く。
堀井さんは右手を段ボール箱から離し、代わりに右足を上げて段ボール箱の片側を支え、それから空いたほうの右手で小会議室の扉を開けた。
堀井さんが入ったので僕も続けて小会議室へと入った。まさにそのときである。
がくん。そんな擬音がまさにぴったりだと思えるような感じで、堀井さんはその場に崩れ落ちた。最初に体全体が硬直し、次にひざが曲がってくず折れるといった独特の崩れ落ち方だった。
それがもちろん貧血によるものなどではないことは一目瞭然だった。ふらついてさえいなかったのだ。
どさどさどさっと段ボール箱から資料集が零れる。僕は悪いと思いながらも力任せにダンボールを放り投げ、堀井さんに駆け寄った。
「堀井先生! 堀井先生っ! 大丈夫ですか!? しっかりしてください!」
肩をがくがくと揺らすが堀井さんは起きる気配を一向に見せない。くそっ、一体全体何がどうなってるって言うんだ!
「えっと、大丈夫……です。死んじゃいませんよ。……えっと、ただ、首に手刀を打ち込んだだけですから。えと、あと三時間もすれば起きると思いますし、水でもかければ目を覚ますと思いますけど。……えっと、まぁ、あれですけどね。新校舎に水飲み場、ありませんし。……えと、えと、そうですね、ごめんなさい、今すぐ起こすことは諦めてください」
そのとき、声が、聞こえた。
酷く緩慢で間延びした、まるで寝起き直後とも取れるようなぼんやりとした口調。今までに幾度となく聞いてきているその口調は、間違いない、僕のクラスメイトであり、図書委員としての相方でもあり、そして六時に僕をここに呼び出した―――
「……いが、らし?」
そう、五十嵐だった。僕と気を失っているらしい堀井さんの目の前一メートル前後のところに立っていたのは、一年五組出席番号女子二番五十嵐ひかりだった。
眼鏡の奥に見える瞳は少しタレ目気味で、それが彼女の性格と口調をよりいっそう確立させている。しかし、何故だろう。いつも注視しているわけではないのだが、今日、この時間に限って、その瞳はどこか何かが違っているように見えた。
僕はこんな異常事態が起こっているのに、何故か的外れな質問をしてしまう。
「……まだ六時じゃないぜ?」
五十嵐は僕のそんな言葉を聞き、薄く「ふふっ」と笑う。その微笑みは可愛らしいと素直に思うが、やはり違和感はぬぐいきれない。
「えと、残念、です。予想外、です。……えっと、なんであなたが堀井先生と一緒に来るんですか? 予想外ですし予定外ですし想定外ですし想像外です。……えと、千葉くん、私、焦ってます。意味もないのに押韻なんて使ってみました」
口調からは到底焦っているように見えないのだが、どうやら五十嵐は焦っているらしい。五十嵐が焦っているというのならば僕はなんなんだ、僕は間違いなく五十嵐以上に焦っているぞ。
そんな僕の内心を知ってから知らずか、恐らく知らないのだろう五十嵐は、僕に面と向かって歩いてくる。僕は身構え、しかし五十嵐は僕の横を通り抜けてドアをしめ、倒れている堀井さんから鍵を拾って内側から鍵をかける。この教室だけではなくこの学校中の教室は、最近何かと問題になっている防犯上の観点からか、内側から鍵をかける際にも鍵を使わなければいけない仕様になっている。
「……えと、まあ、そうですね、問題はないですけどね。えぇと、どうせ、くるのが早まっただけですし。……えっと、事後処理が少し、面倒くさくなりますけど、えと、これくらいなら許容範囲、です。
……えぇと、千葉くん? この部屋は今密室です。えと、あと、多分誰も来ません。ここなら絶好です」
なにがどう「絶好」なのか僕には皆目見当がつかなかったが、とりあえず適当に返事をしておく。
「……へぇ、そうなん、だ」
僕はその答えを発しながら、少しずつドアににじり寄る。四肢同神≠摂取していないため身体能力は普段のままだ、しかし僕のほうが五十嵐よりは運動神経がいいはずなので、ドアを開け放ってしまえば逃げることは出来る。ひとまず人に助けを求めなければいけない。
「んなぁっ!?」
大声を上げてしまった。
僕の目の前では、五十嵐が制服を脱ぎ始めていた。
スカーフを取り、続いて上着。白いワイシャツのボタンを上から順にはずしていくと、白い健康的な―――同時に素晴らしいほどに扇情的な―――肌がちらと見えた。僕は驚きのあまり声も出せずに狼狽するばかり。
五十嵐の指がワイシャツの上から二つ目のボタン、胸元のボタンをはずした辺りで一旦止まる。僕は安心したやら残念やらでまだ気持ちがぐちゃぐちゃなのだが、五十嵐はどうやらそんなことお構い無しのようで、いつもどおりの可愛らしい笑みを浮かべたままである。
一体これはどういう伏線なんだ? いや、そもそも、なんで五十嵐はこんなこと? 密室? 誰も来ない? ってなに、それはつまりあれですか? しかも服脱いでるし。ああ駄目です、僕には心に決めた人が……いないけど! いや、でもあれですよ、駄目だって。僕たちお互いのことよく知らないし、こういうのはちゃんと手順を踏んで相手の意思を確認してからじゃないと―――
「三武神」
今までの煩悩が全て吹き飛んだ。
「あ……今、ちょっと反応、しましたね? やっぱりこの色仕掛けは使えます。ほとんどの人、これに結構引っかかってくれるんですよ?」
五十嵐は表情を変えずに言う。
「えと、単刀直入に聞きます。……えと、あなた、道具使いですね? えっと、しかも三武神っていう単語、知ってますから……もしかして、あなた、えと、お庭番、ですか? えっと、えと、あれ? でも確か、お庭番は女性でしたから……えっと、じゃあ、千葉くん、あなた女装癖ありますか?」
そんなもん間違ってもあるわけはない。過去と現在と未来を振り返っても僕が女装をすることなどない。僕は普通だ。
冗談のような口調で聞いてくれればこちらとしてもまだ精神的な余裕はあるのだが、五十嵐は体中から「私は真面目に聞いてます」オーラを放っている。どうやら心底から疑問に思っているようだ。僕はとりあえず両手のひらを五十嵐に向け、落ち着いてもらうように指示する。僕の思考はもうぐちゃぐちゃだ、ここらで思考を解きほぐす作業をしてもいいころあいだろう。
それにしても、と思う。
三武神? 三武神だって? しかもさらに―――道具使い? なんで五十嵐が? いや、五十嵐も道具使い? そして、なに、お庭番? なんだそれは、僕は全く知らないし僕には全く関係ないぞそんなもの。
「ちょ、ちょっとまってくれ」。努めて落ち着きながら五十嵐に話しかける。「女装癖が云々ってより、なに、お庭番? なんだそれ。ぶっちゃけた話だけど、マジで会話の内容がわからない」
「えと、わからないんですか? 本当に、わからないんですか?」
ずいと五十嵐は迫ってくる。僕はここが正念場だ、臆してはいけないと思い、気丈な素振りで「ああ、わからないね」と言い放つ。
「えと、じゃあなんで三武神っていう単語に反応したんですか? ……ますます怪しいです。えっと、千葉くん、じゃあ六亡星も知ってますね?
……もう一回単刀直入に聞きます。えぇと、あなたは、六亡星か、お庭番か、どちらですか? それとも、本当にどちらでもないんですか?」
三武神の次は六亡星ときたか。しかし、母親との会話にお庭番は出てきていない。母親や、すでにいない父親が知らなかっただけの組織か、それとも父親の死後に新たに現れた組織なのか。とりあえずここは嘘をつくことのメリットはないと考え、最低限自分が知っている情報を話す。
「はっきり言おう。確かに僕は三武神という単語も六亡星という単語も知っている。しかし僕はお庭番という単語は知らないし、六亡星に属してもいない。もちろん何かすらわからないお庭番でもない。……そして、五十嵐、話し振りから察するに……お前は三武神だな?」
ここで相手が何かを考える素振りを見せたり、または言葉に詰まるようなら僕はそれを機に一気に攻勢に出ようとしたのだが、結果的に、僕の望みは果たせなかった。
僕の質問に対して、五十嵐は見事に、そして見ているこっちが清々しくなるくらいに胸を張って―――「もちろんです」と、答えた。つまり僕はカマをかけられたわけではないということだと思うのだが、五十嵐のそれが演技でないという証拠もないわけで。
「えぇと、そうですね。せっかくだから、自己紹介でも……えと、しておきま、しょうか。えっと、もちろん、入学式にしたようなものではないのを」
ぞくり、と、僕の背中に悪寒が走った。
ぞわり、と、僕の体中に鳥肌が立った。
やばい、と、僕の脳内に赤灯が灯った。
「えと、私は五十嵐ひかり、三武神所属です。……えっと、えと、二つ名は《影武者》で、道具名は―――」
五十嵐が自分の右手で顔を一瞬拭う。
「仮面奪取=v
そこには―――堀井さんの顔があった。セーラー服を着ているが、しかし、顔は間違いなく僕の後ろで倒れている堀井さんのものだ。よくみれば、背丈も変わっている。五十嵐の身長は僕より十センチ以上も低かったが、今は五センチくらいだ。体つきのほうも変化していて肉付きが大層よくなっている。まんま本人である。セーラー服も何故か体にちょうど合うサイズにまで大きくなっているようだ。
「どう、面白いでしょう?顔だけじゃなくて体型や声や話し方も変わるのよ。ルパン三世みたいよね。ふふふ」
僕は思い出す、ここにくるまでに堀井さんが口走ったセリフ―――「私はそのとき職員室でプリントを作ってたのよ、当然そのとき廊下にいたわけないし。それなのに私とすれ違ったって」―――を。恐らくその原因、理由は、これだ。
「僕に、そんなこと、教えていいのか?」
少なくとも僕はそのセリフを皮肉っぽく言ったつもりなのだが、五十嵐はどうやら皮肉と受け取らなかったらしく、真面目に「別に、大丈夫」と返答をする。恐らく本当に大丈夫なのだろう、それは自信の表れというよりも余裕だ。自分の強さにそれだけ自信があるのか、それとも何か他の要因があるのかは知らないが、どちらにしろ今の僕には四肢同神≠ェないわけで、しかも五十嵐の道具は身体能力向上の力がないと思われるのにもかかわらず堀井さんを手刀で一撃で気絶させた。戦闘能力の差は歴然だ。
「どう? 千葉くん。私たちの仲間にならない? そうしたら、私の体を好きにしてもいいのよ? どうせこのままじゃあ六亡星にも誘われることになるし、そっちのほうがぜんぜん得じゃないかしら?」
それは微妙に魅力的な相談だが、僕はそれほど色ボケしてはいない。それに今五十嵐は五十嵐本人ではなく堀井さんの体であり、五十嵐の許可がどうのという問題でもないような気がする。
「人殺しの仲間になれってか? 冗談きついぜ、五十嵐。いや、堀井さんって呼んだほうがいいかな?」
「どちらでもいいわ。……あと言っておくけど、誰から三武神のことを聞いたのかは知らないけど、私たちの殺人は有益な殺人よ。世のため人のための殺人。六亡星と一緒にされちゃ困るわ。……で、もう一度聞くわ。仲間にならない?」
その瞬間だった。ばりん、と音がして、部屋のガラスが粉々に砕け散った。何事かとその方向を向くが、しかし、そこには誰もおらず何もなかった。ボールが飛び込んできたんだとしても人が故意に割ったのだとしても、とにかくそこには窓ガラスを割った何かの存在がなかったのである。
五十嵐が何かしたのかと思って五十嵐のほうを向くと、五十嵐は苦笑を浮かべている。そして―――背後には掃除マン。何故か青いプラスチック製のバケツはかぶっておらず、けれどその顔は五十嵐の顔に隠れてうまく確認することは出来ない。右手にはキラリと輝く千枚通しが握られ、その切っ先は五十嵐の首にぴたりと押し付けられていた。
僕は一体何が起こったのか理解できなかったが、どうやら五十嵐は何が起こったか理解できているようで、自分が不利ということを理解していないかのように掃除マンのことを賞賛する。
「素晴らしいわね。さすがお庭番、といったところかしら。矢張り欲しいわね、あなたのその停止時計=Bガラスを割り、停止時計≠ナ時を止め、その間に私に近づく、か。
その千枚通し……なんで今持っているのかはわからないけれど、それにこの時間帯にあなたがいるのが少しばかり不幸だったけれど、別にこの現状を前もって考えていなかったわけじゃあないし、大して驚きも焦りも、しないのよね」
ふぅ、とため息をつきながら五十嵐が言う。本人が言ったとおり、どうやら強がりなどではなく本当に驚きや焦りは無いのだろうが、反対に警戒に値する。この状況を鑑みる限り二対一、四肢同神≠持っていない僕を戦力に含めないとしても一対一で、しかも体勢的には掃除マン―――五十嵐はお庭番と呼んでいたが―――が圧倒的に有利な状況、それであれほどの余裕ぶった態度が取れるということは、何か隠し玉がある可能性もあるのだ。いや、そちらのほうが可能性としては大きい。
考えうる範囲内では、まず味方の存在が挙げられる。三武神は組織だ、従って一人で行動する必要性があるわけでもない。潜入なら一人、ということも考えられなくは無かったが、敵であるお庭番―――掃除マンがいるということを知っているならば、一人で送り込むとは考えにくい。
他の案としては、五十嵐が使える道具が複数個あるという可能性だ。母親は一人につき一つしか道具は使えないというようなことを言っていた気がするが、どんなことにでもイレギュラーというものはつきものだと僕は思う。が、その可能性は低いだろう。イレギュラーというのは確率が低いからこそのイレギュラーなのだ。母親、そしてその情報源である僕の父親が知らないほかの何かがあるのかもしれないが、判断材料が現段階では少なすぎる。
「その口ぶりじゃあ、どうやらお仲間さんがいるようじゃない?」掃除マンは余裕の笑みを見せる。
「《魔法使い》? 《氷姫》? それとも二つ名なしのあたしが知らない誰か? 別にいいわ、誰がこようと。あたしが能力を知っているのは三武神ではあなただけだし、六亡星だって《Mr.クロックワーク》と《血色の白》だけ。それでも、あたしのこの停止時計≠ウえあれば、少なくとも一分半はあたしは無敵。それだけあればあなたを倒すことなんて簡単よ。それじゃ、ばいばい」
酷く冷徹な口調で―――それは河川敷で僕と交わしたものとは天地の差だった―――掃除マンは千枚通しを僅かに振りかぶる。きらりと光が反射する金属の先端は、首の皮膚など簡単に突き破ってしまうだろう。
首を刺される。間違いなく人間は死ぬだろう。
つまり、殺される。
殺される?
ということは僕は殺人事件の目撃者になってしまうのか? こんな状況で? 最悪僕が犯人になってしまわないか? いや、そもそも「目撃者は全て消す」とか言わんばかりのオーラを発していませんか、この掃除マンとやら。
逃げようとするが、僕が行動にでるより先に掃除マンの千枚通しが動く。風を切る音が聞こえ、僕は目を瞑った。
刹那、何かが燃焼する音が聞こえた。
驚いて目を開けると、そこには千枚通しを握っていた右手に炎がまとわりつき、皮膚が焼かれたことにより苦悶の表情を作っている掃除マンがいた。相も変わらず五十嵐は余裕の表情だ。
掃除マンは炎をまとった右手を制服に叩きつけて沈下させ、しかし激痛のためか顔を引きつらせて五十嵐を睨みつける。
僕はすっかり蚊帳の外だった。
「迂闊だったわ。そうか、座標……ね。聞いたことだけはあるけど、存在は覚えてたけど……それが誰かまでは、知らなかった。《魔法使い》? それとも《氷姫》? 名前からして《氷姫》は有り得ないかしら。なんにせよ学校の中は探したはずだけど、《影武者》、あんた以外の存在『感じ』なかったのに。……とにかく、くそ、メチャクチャ痛いわね。炎使い、しかも座標指定系のアーティファクトか。要注意ね」
「残念ねぇ、お庭番。それに、なんて言ったっけ、炎使い? ふふふ、《魔法使い》がたったそれだけの存在なわけないでしょう? 仮にも《魔法使い》ですよ? 二つ名持ちなんですよ? たったそれだけの存在なわけ無いじゃあないですか。外れも外れ、大外れもいいところだわ。部分点をあげられるとしたら、そうね、座標指定系ってところだけ。
……もう潮時かな。それじゃ、私は避難させてもらうわ」
そう言って、堀井さんは―――堀井さんの顔をした五十嵐ひかりは、後ろを向いてゆっくりと歩きだした。途中で「そうそう」といいながら立ち止まり振り返る。
「千葉くん、もし君が三武神に入りたいのなら、何もしないことね。何もしなければ、私たちはいずれもう一度、あなたを迎えに来る。それまでに目立つ行動してると、死ぬわよ。気をつけて」
忠告なのか脅しなのかいまいちハッキリしないセリフを僕に向けてから、五十嵐はもう一度歩き出した。掃除マンならばそんなのすぐに捕まえられると僕は思ったのだが、そこで僕はふと思い出す。「避難」だって? 退散でも逃走でもなく、「避難」、だって?
「何か来る!」
僕が叫んだのと、一体どちらが早かったのか。
音すらしなかった。ただ、いきなり部屋の中心付近から強烈な風が生まれ、その風は小会議室にあった折りたたみ式のテーブルやパイプ椅子をいとも簡単になぎ倒し、さらに僕らを壁に叩きつける。叩きつけられたときの勢いは強くなかったが、それでも目を開けていられないほどの突風だ。がたがたと窓枠がゆれ、きしみ、どこかの窓ガラスがぱりんと音を立てて割れた。
僕はついさっき目の前で交わされたばかりの言葉を思い出す。座標指定系。そして《魔法使い》。細部まではわからないが、どうやらこの突風も、その《魔法使い》とやらの道具によるものなのだろう。
気がつけばそこにはすでに五十嵐の姿は無く、薙ぎ倒されたいくつものテーブルや椅子が転がっていただけだった。さらに運が悪いことに遠くから人の声が聞こえる、今の騒ぎを聞きつけたのか、それとも消え去った五十嵐や姿知らぬ《魔法使い》が誰かに騒ぎがあったことを伝えたのか。
どちらにしろこの状況はやばい。ガラスは割られているし、椅子やテーブルは軒並み倒されている。一般人に道具の存在を話したところで無駄に決まっている。犯人扱いされるのは確実だった。
「カラスマン―――いや、千葉浩介! 早く! こっち!」
僕が声のした方向を振り向くと、そこには掃除マン、否、一人の少女が手招きしていた。ポニーテール、快活な容貌。どこかで見たことがあるような顔だが、それを思い出す前に掃除マンと名乗る少女が急かした。
「早く! 私が止めている間に!」
一体何のことやらと辺りを見回すと、何故か誰の声も聞こえてこなかった。足音も聞こえない。気がつけば、窓枠越しに見える外の景色が停止、固定されていた。
「わかった!」僕はあわてて叫んで走り出し、窓から外へと脱出する。
「残り一分ちょい! 私もいくわ!」掃除マンも僕の後に続く。
それから約一時間後、僕と掃除マンは向かい合っていた。
何故か、我が家の居間で。
ついでに僕の隣に母親までおいて。
時は遡る。
先ほど僕たちが小会議室から脱出したとき、掃除マンと名乗っていたその女生徒は、時の流れが元に戻ったと同時に僕に話し出した。
「これから時間ある? いや、なくてもいいわ、ついてきなさい。あたしにとってもあなたにとっても重要な話よ、さっきの三武神や、もう一つの組織である六亡星についての、とてつもなく重要な話。意味がわからなくてもいいわ、いずれあたしの言っていることの意味がわかることに―――」
「いや、知ってますよ」僕は掃除マンの言葉を遮って続けた。「ほとんど母親から聞きましたからね。なんでも、僕の父親はその片方、三武神に在籍していたらしいんで。
……ま、別に僕には関係ないんですよ。三武神やら六亡星やら興味はありません、組織同士で殺し合い? 結構です、勝手にやっててください。世界征服? 世界平和? どうぞご自由に。いいですか? 僕は本当はこんな道具要らなかったんだ。僕は他の人間がそうであるように、適当に生きていたかったんだ。そんな殺すとか殺されるとか世界征服だとか世界平和だとか、そんなわけのわからない世界は望んでいないんだ。
先輩、あなたが一体どんな理由であいつらと敵対しているかなんて知りたくもない。僕は僕の日常をただ過ごしたいだけなんです。僕をいちいち、わざわざ、意味もなく、あなたたちのわけのわからない戦いに巻き込まないでください! ふざけるな! わけがわからない! 僕の日常をあんたらはそんなにぶち壊しにしたいのか、僕の日常をあんたらはそんなに根こそぎ奪い取りたいのか!
消えろ! 今すぐ消えろ! 今すぐだ! 十秒、いや五秒! いいや違う、三秒以内に僕の目の前から姿を消せ! 邪魔なんだよウザいんだよ勝手にしてくれ僕に関わらないでくれ!」
力の限り僕は叫んだ。拳を振り上げ、いまにも掃除マンの胸倉を掴みかからん勢いで。校舎内に人影はない、僕が上げた大声を誰かに聞かれた可能性も、僕が掃除マンを殴ったところを見られる可能性も皆無だ。
僕自身、僕がこんなに大声で叫ぶことが出来るとは思いもしなかった。自分で言うのもなんだが、僕は本来あまり激昂したりはしないタイプなので、久しく「怒る」という感情すら曖昧だった感があるのだ。
掃除マンは、だが、そんな僕の様子に気圧された様子すら見せない。
「じゃあ一つ聞くけど、あんたは自分が殺されてもいいの? いや、あんただけじゃなくて、あんたの周りの人―――両親とか友達とかが殺されてもいいって言うの? 六亡星も三武神も、どっちも躊躇なく人を殺すわ。それこそまるで数学みたいにね。一足す一は二だけど、あいつらにとっちゃ一足す一は一にしかならないわ。誰かと誰かが殺しあって、生き残るのは一人だけなんだから。
それに、あたしはあんたに関わらないわけにはいかない。あんたがそれを望まなかったとしても、あたしはあんたがあたしの敵となる可能性がある以上、その可能性をつぶさなきゃいけない。仲間に連れ込むにしろ、そして殺すにしろ。わかってるでしょ? あんたにあたしは殺せない。あんたの道具が何か知らないけど、あたしの停止時計≠ヘ絶対無敵。逃げることなんてさせない、攻撃する前にあたしはあんたを殺し終えてる。原理がわかってもわからなくても、結局は同じこと。
十秒あげる、決めなさい。あたしの話を聞くか、それともそのポリシーを貫いてここで殺されるか、二つに一つ。……じゅーう、きゅーう、はーち」
もちろん、僕の答えなど決まっていた。それは選択というものではなく、限りなく脅迫と同様だったが、仕方がないのである。
僕はそこで回想を終了し、隣にいる母親に話しかける。
「―――まぁ、そういうことで、この人は通称掃除マン。本名は知らない。聞いてない。道具名は停止時計≠チていうらしい。じゃ、掃除マンさん、どうぞ」
「……はじめまして。通称掃除マン、本名は万屋奈々子。道具名は停止時計≠ナす。効果は、まぁ名は体を現すとおり、この道具は時間を止めます」
掃除マン―――万屋奈々子……先輩。いや……万屋さんはそういった。最初に僕と会話したとき、そして先ほど五十嵐と戦ったとき、さらに現在と、声音が面白いほどに違う。現在は他人行儀モードだ。猫かぶりモードでも可。
それにしても―――万屋奈々子。どこかで聞いた気がしないでもないが、はて、一体いつどこでなのやら。いや、それよりも驚きなのは、「時間を止めます」という万屋さんの発言。「時間を止める」。道具の名前からして、今までに起こった出来事からして、恐らくそうではないのじゃないかと睨んではいたが、矢張り、予想通りだ。
しかし、とにもかくにも、「時間を止める」。これは反則的に強力な気がする。ディテールはわからないが、「時間を止める」ということはつまり自分だけが動くことが出来るということであり、その能力の前では行動だって出来ないし思考すら叶わない。どう考えても対処の使用など存在しない。
例えば岩が目の前にあるならば破壊すればいい。例えば炎に囲まれたなら水をかければいい。例えばナイフが向かってくるなら避ければいい。しかし、「時間を止める」ということに対しての対処はない。対処されない。それは言わずもがな、無敵と同様、同等だ。
「さて、千葉くんのお母さん。どうやらあなたもこの道具の存在、そしてあたしたち適応者の存在を知っているようですが、それは一体どこまでですか? あなたの息子さん、浩介君は、あたしには何も教えてくれませんでした。ので、あなたから、浩介君が一体どこまで知っているのかを知る必要があります」
僕は、無言。
「……私が浩介にどこまで教えたかといっても、私だってほとんど夫からの受け売りで、何一つ私自身は理解できていないんですけどね。まぁ、いいでしょう。息子、浩介にどこまで教えたのか。それは……そう、ね。大体三武神と六亡星、そして私の夫が三武神にはいっていて、殺されたこと。そして、まぁ、十五年前の事件についても、教えたわ。それくらいよ、本当に。嘘はついてない。誓うわ」
そこまで聞いて、僕は万屋さんの顔を見る。青ざめていた。だがそれは沈痛や悲痛といった面持ちではなく、どちらかというと、そう、まるで有り得ないことを目にしたような、有り得ないことを耳にしたような。
「……ほん、とうですか? 十五年前の事件が、あたしたちに関係あると、あなたはそういうんですか? ……失礼しました、それはあたしも初耳だったもので」
「どういうことだよ? なんでそんなことあんたが知らないんだ? あいつらと争ってるあんただ、知ってて当然じゃないか」
僕はいつもよりあからさまに口が悪くなってしまっていた。今ならどんなに相手を傷つけることも平気で言えるような気がした。
万屋さんは僕を睨み、ふぅ、と短くため息をつく。
「一ついっておくけど、あたしが全部を知っていると思わないで。あたしはただの十六歳。あんたと一つしか違わないの。……出来れば、お母さん、もう少し詳しい話を教えてもらえますか? その十五年前の事件について」
母親は頷き、そして僕にいったこととほぼ同じような内容の話をする。もちろんそれに伴って、僕の父親の話も。
父親が三武神にいたときの話。
どうしてあんな事件が起こったのか。
事件の発端となった少女の異能。
少女を守って死んだ父親のこと。
少女の死と事件の関連性について。
「……まさか」と万屋さんが呆然とした面持ちで言葉を紡ぐ。顔面は蒼白、今にもばたりと倒れても不思議ではないくらいに血の気の引いた顔だった。息すらしていないのではないかと思われるほどに万屋さんの様子は異常だった。
「じゃあ、なに? 由奈も同じだって言うの? だから由奈は、あいつらに狙われてるって、いうの?」
僕たちの視線に気がついた万屋さんは僕たち母子を一瞥し、何かを考えるような、戸惑うような表情を一瞬だけ見せたが、それも本当に一瞬だけの話、すぐに向き直って真剣みを帯びた表情を作る。
それにしても、まただ。今万屋さんの言った「由奈」という名前、その名前にも僕は聞き覚えがあった。デジャヴ、既視感だ。この場合は既聴感か。
「わかってる。ちゃんと話すわ、安心して。……基本はやっぱりギブアンドテイクでしょう? それに、あたしも仲間が欲しい。少なくとも敵は作りたくない。ここでわざわざ敵を増やすような行為はしないわよ。……まぁ、それはあなたたちが信じてくれれば、の話なんだけどね」
そう前置きして、話し始める。
最初に言っておこう。その話は、また、馬鹿みたいに壮大な話だった。
この世には僕が持っている四肢同神≠竅A万屋さんが持っている停止時計≠ニいう道具―――どうやら三武神はアーティファクト、僕がまだ見ぬ六亡星はエンシェントと呼んでいるらしいが―――がいくつもあり、それをめぐり、それを使って二つの組織が絶え間なく戦いを繰り広げている。それは僕だって知っている。知っているのだけれど、万屋さんが言ったその内容は、僕の話をはるかに超えて壮大だった。
三武神はその名のとおりトップに三人が君臨している。それがつまり夕方であった五十嵐と、姿は見えなかったが《魔法使い》という人物、さらにその三人の中でのトップとして存在する《氷姫》なる人物だという。
組織のトップに複数人が集まっているというのは組織ならば当たり前のことだったし、驚きもしない。その点については六亡星もほとんど同じらしく、ここも字の如くトップには六人が君臨しているらしい。万屋さんは全員の名前―――二つ名、もしくは異名というやつを知っていたが、本人に言わせればそれは当たり前のことなのだそうだ。
二つ名。五十嵐の言った《影武者》だとか、《魔法使い》だとか《氷姫》だとか、とにかくその人物に与えられたその人物を端的に表す言葉。有名な人間には二つ名がつき、それは即ちそれほど強いということだ。二つ名というものは自分でつけるものではなく、強く、死なず、殺し、名を挙げた人間に知らず知らずのうちに付けられる、まぁいわゆる称号のようなものらしい。だからこそ三武神の三人と六亡星の六人、そしてその二つの傘下にいる残り十数名の二つ名持ちのことを、万屋さん他の適応者が知らないはずもない。そういうことらしいのだ。
三武神には、《影武者》、《魔法使い》、《氷姫》の三人が。
六亡星には、《一騎当千》、《Mr.クロックワーク》、《血色の白》、《雷神》、《不滅男爵》、《フェアリィ》の六人が。
トップとして君臨していなくとも二つ名を持った人間はいるという話だが、一番最重要視するとともに危険視する人間は、とりあえずはこの九人らしい。流石の万屋さんもこの九人の中で道具についてはほとんど知らないに等しいようで、二つ名持ちの中で詳細を知っているのは《Mr.クロックワーク》と《血色の白》だけということだ。
しかしそれでも、噂というレベルの話ならば万屋さんはいくつか保持していた。
曰く、不死の《不滅男爵》。致命傷を与えたことまではなんども確認されているらしいが、依然として生き続けているというところからその二つ名がついた。散弾銃を間近でくらったという、日本刀で片腕を切り落とされたという、それでも死なないらしいのだ。
曰く、最強の《一騎当千》。現存する適応者、二つ名持ちの中でも随一の適応者。逃げることすら容易ではなく、そもそも逃がさない。逃げる気持ちさえ起こさせないほどの実力差を本能的に相手にわからせるという悪魔のような強さをもつという。年齢、その他の噂などから推測するに、十五年前の事件時点ですでに六亡星入りを果たしていたらしい。
曰く、妖精の《フェアリィ》。その名のとおり自由自在に宙を舞い、また空に落ちることが出来るとも噂されている。空に落ちる。意味がわからなかったが、それが噂として広まっている以上、本当に空に落ちることが出来るのだろう。
そして、五十嵐こと《影武者》。誰も本当の姿を見たことがない、誰も《影武者》が誰かを理解したことがない。三武神の残りの二人、《魔法使い》と《氷姫》ですら《影武者》の本当の素顔を見たことがないとも言われている。
万屋さんの話は聞けば聞くほど背筋が寒くなるような話だった。ただでさえ埒外な連中、ただでさえ規格外の軍団だというのに、そこまで途方もない噂が流れているというのは戦慄以外の何物でもない。噂には尾ひれ背びれがつくのが相場だとはわかっているが、大げさではないと言い切れないところが一番困るのだった。
万屋さんが詳細を知っている二人はどちらとも六亡星で、同じくどちらとも一戦交えたことがあるのだという。どちらも殺害には至っていないらしく―――何のことはないように思えるが、それは「時を止める」という卑怯にもほどがある能力を持つ停止時計≠もった相手にしてと考えれば、敵のレベルが想像できようものだった―――万屋さんは少しばかり悔しそうな表情を見せた。
まず万屋さんは《Mr.クロックワーク》について話し始める。巨体に傷がいくつかついた顔にサングラスという、頭に「や」の字がつく仁と義を何よりも重んじるかたがたよりも恐ろしい容姿をしているとのことだった。使用武器はナイフらしいが、万屋さんはさらに付け足して言う。突然ナイフが爆発したというのだ。
《Mr.クロックワーク》の「クロックワーク」とは時計仕掛けという意味だ。恐らくはそこのところに何かしらのトリックがあるのだろう。ナイフ自体に何か爆弾のようなものが仕掛けられていないとするならば、ナイフが爆発したことが《Mr.クロックワーク》の道具の能力なのだろうか。
万屋さんは《血色の白》が自分と同じ女学生だった、と語っている。扮していただけなのかもしれないが、それでもその《血色の白》はスカートにワイシャツにセーターという服装で、スクールバッグを右手にぶら下げていたという。ふち無し眼鏡とショートカットが特徴的な少女で、武器は信じられないことに包帯とのことだ。
ワイシャツとセーターを突き破っていくつもの包帯が襲ってきた。万屋さんは「最初はめっちゃくちゃ驚いたわ」と話す。しかもそれはただの包帯ではないらしく、木の枝を軽く切断し小石を容易く粉砕し、まるで名刀のような切れ味をもって肉と骨を断絶しにかかってきたようだ。本人、《血色の白》自身が言っていたそうなのだが、道具名を天女乃衣≠ニいうらしい。
そして最後に万屋さんは、自分の停止時計≠ノついて話し始める。
万屋さんの停止時計≠ヘ、ぱっと見た感じただの金色の懐中時計で、そこいらの時計屋で簡単に売ってそうな代物ですらある。このようなものによくありそうな、何か不思議な雰囲気を出しているというわけでもない。本当に正真正銘、ただの懐中時計だ。だからこそ凶悪すぎる。能力とのギャップが酷い。
能力は「時を止める」というあまりにも強力なものだが、そのかわり制限や縛りが多くなされているようだ。まず「一日に時を止めることが出来る秒数は最大でも現実の時間で一分半のみ」であり、さらに「時間停止中に使用者の手から離れると効果を失う」という制限があり、「使用者が存在を認識しているものの時間しか停止させることが出来ない」らしく、最後に「効果範囲は最大でも前後左右上下に各百メートルずつ」で「例外もあるが基本として範囲と効果継続維持時間は反比例する」らしい。
ちなみにこれらの制限は全て自分が使って知ったことであり、実際の制限がこのようなものなのか、そして制限がこれだけなのかは本人も知らないとのことだ。
万屋さんがそうであるように僕もまたこの世の中の基本はやはりギブアンドテイクだろうとかねがねそう思っている。なので、僕は万屋さんが一息ついたときに僕自身の道具、四肢同神≠ノついての説明を反対にした。その内容はほとんどが母が僕に対して教えたものと同一で、それが原因かどうかは知らないが、万屋さんは怪訝な表情をした。
「ふぅん、身体能力向上、ね。……ま、いいわ。そういう能力もあり、なのかしら」
その言葉に疑問を覚えたが、とりあえず万屋さんの言葉を待つ。数秒の間をおいて、また万屋さんは会話を再開した。
「これが、あたしの知る最後の情報よ。……そして、あたしが狙われるべき理由で、浩介くん、あなたが見た怪物の正体、生み出される原因。聞き漏らさないで。お願い」
本当に辛そうな、今にも泣き出しそうな表情で万屋さんは懇願する。掃除マンとして怪物と戦っていた万屋さん、《お庭番》として五十嵐の命を奪おうとした万屋さん、その二つの正体を持つ彼女は、まるで頼れる人間が僕しかいないかのように頼みごとをしてきたのだ。
怪物。《お庭番》。そうだ、それこそが一番気になっていた場所だ。
何故あんな怪物が生まれてきたのか。何故万屋さんはあいつらと戦っているのか。理由は簡単だった。
万屋さんが言うには、どうやら十五年前の事件を引き起こした少女―――適応者でもないのに異能を備えていた名も知らぬ少女だ―――と似たような能力を備えた人間が存在しているということだった。その少女は、とにかくストレスによって怪物を発生させるのだという。怪物の大きさや強さはストレスの度合いによってまちまちで、だけれどその怪物は間違いなく人間にとっての脅威となりうる存在で、だからこそその少女はいつぞやの歴史の繰り返しのように二つの組織から狙われているのだという。
さらに、万屋さんはその少女を守るために戦っているのだとも言った。本当の話はもっと紆余曲折があったり私情や怨恨などが渦巻いているのかもしれないが、そこは全て割愛して重要な部分だけを挙げているようである。
とにかく冗談じゃないと思った。何の因果だ、何の因縁だ。運命は、人生は、僕をそこまで翻弄するのか。歴史は繰り返すというがこんなことは繰り返さなくたっていい。そのときばかりは本心からそう思った。十五年前のシチュエーションが、状況が、すべてそっくりそのまま現在に移ったなんてふざけている。父親が守った少女と似たような異能を持つ少女がいて、父親役は代わりに万屋さんがやって、六亡星と三武神はその少女の命を狙っていて。
僕は神様という存在を無性に殴りたくなった。
さらに、次の瞬間に自分で自分を殴りたくなった。
それは万屋さんの口から、いつかどこかで聞いた名前が零れたからだ。
「その少女の名前は、京沢由奈。あたしと同じクラスで、あなたが知っているかどうか知らないけど、図書委員会の副委員長を、確かやっていたはずよ」
惨章 三/六
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某県某山中。現在時刻は朝方の三時十二分。
森の中にひっそりと建つ建物があった。その建物は外界との接触を拒むかのように深い深い森の奥へ立てられており、遭難でもしなければ見つからない、遭難したとしてでもこんなところに入りたくは無いだろう雰囲気を出していた。四方八方を木に囲まれ、窓はあるのだが何かが貼り付けられているようで中の光は全く外に漏れず、極めつけは周辺に数人の武装した人間が立っている。
その建物自体はかなり小さく、ぱっと見ればその建物を山小屋の類か何かだろうと思う人もいるのかもしれないが、まず間違いなく山小屋の周辺には武装した人間などは存在しない。となるとここには何か特別なものがあるのだと勘繰る人間もいるし、事実この建物を偶然にも見つけて不思議に思った人間は数人、片手で足りるくらいの人数だったがそれでもいた。しかし、この建物のことは誰にも知られてはいない。答えは簡単だ、この建物を見つけた人間は、彼らにとっては運が悪かったとしか言いようが無いが、全員殺されてしまったからだ。
そこに、一人の女性。
女性は怯えた様子も無くはっきりとした足取りで建物へと向かい、そして建物を守っていた兵士たちに声をかける。
「すいません」
兵士たちが手に持っていたアサルトライフルを構え、発砲した。警告も躊躇も無く、冷静に、ただ近づいてきた女性を殺すためだけの行動。その行動の手際のよさはどう考えても常人のそれではなく、長年訓練されて培われた人間のものとしか思えないほどの正確さで、放たれた銃弾は女性の体中を―――貫かなかった。
女性は一瞬前までいた場所から横に数歩離れた場所に優雅に立っており、髪など掻き揚げていたりもする。兵士たちのヘルメットに隠された顔がみな一様に恐怖に染まるが、それでも彼らには彼らなりの意地やプライド、それに義務感もあったのだろう、臆することなくアサルトライフルのトリガーを引き続ける。たた、たたたん。たたた、たた、たん。軽快に銃弾が地面に跳ねるが、やはりそれでも女性を傷つけることは叶わない。
「残念ですね。私はさっき、『すいません、奥様やお子様がいるお方はいらっしゃいますか』と尋ねようと思ったのですが……その銃撃はノーとみなします。本当に残念ですね。愛すべき人たちに別れの言葉を告げることが出来ないというのは」
女性は今度は、木の枝の上に腰掛けていた。その女性の氷のように冷たい瞳と、同じく吹雪のように凍りついたその言葉は、いろいろな意味で兵士たちに悪寒を走らせる。彼ら兵士は直感で悟った、勝てるわけがないと。
だけれど、当たり前だが、その女性が簡単に逃がしてくれるはずも無かった。
女性が指で兵士たちを指す。それだけだった。それだけで、五人の兵士はただの肉の塊へと変化を遂げた。ぱあっと赤い霧を噴出しながら、涙を流して命乞いをしながら、一撃で頭を潰され息絶えながら。
砕け散った頭蓋。ひしゃげた両手。折れ曲がった両足。千切れた胴体。窪んだ顔面。こびりついた脳髄。におう血液。感じる死臭。女性はそれらを五感の全てをもってして感じてから、短く息を吐く。先ほどの銃撃音と、そして今の断末魔を聞きつけた兵士たちが増援としてやってくるが、結果は同じだった。
「ああっ、あ、あ、ああああああ!」
「お、俺の、俺の腕、俺の腕がぁ……」
「やっぱり、こんなことに……なるんじゃないかって……」
「いてぇよ! いってぇよぉっ!」
女性はそんな声を聞きながら、変わらぬ温度の無い瞳で兵士たちを見つめる。
そこに、建物の中から出てくる人影が一つ。
「あなたは、《不滅男爵》ね? 誰がでてくるかと、最初は思ったけど」
「ご期待に副えましたかね、《氷姫》さん」
睨み合う―――《不滅男爵》と《氷姫》なる二人。《氷姫》は枝に依然として腰を下ろしたまま、兵士たちを殲滅したのと同じように今しがた建物から出て来たばかりの《不滅男爵》に対して指を指す。さきほどは銃撃にかき消されて聞こえなかったが、ひゅおんという風切り音。
一秒後、《不滅男爵》はその場に立ち尽くしていた。まるで何事も無かったかのように。
「残念だったなぁ《氷姫》。あんたのそのエンシェント、なんつったっけなぁ? 絶対零度≠セっけ? まぁいいや。ともかく、結構便利そうだな。強力そうでもあるし。うん、やっぱりあんた、危険だ」
急にがらりと声色を変え、そういって《不滅男爵》はどこからか一本のナイフを取り出す。それを振りかぶり、次の瞬間、自分の反対側の掌へと突き刺した。
「やっぱりあんた、危険だ」。もう一度繰り返す。「だからここで、きっぱりさっぱりさっくりと殺しちまうことにするよ。いい女みてぇだけど、残念だ。
……さぁてさて、そろそろ行きましょうか行きましょうか。それとも逝きましょうか生きましょうか。どちらになるかはなってみてからのお楽しみ、それではとくと、ご覧あれっ!」
《不滅男爵》がなにごとかを言っているこの間に《氷姫》は攻撃することすら可能だった。しかし攻撃しなかった。それはひとえに、この目の前にいる《不滅男爵》という男の行為に、とても危険な感じがしたと言うほかなかったのだろう。《氷姫》は《不滅男爵》と戦いを交えるのはこれが始めてであり、組織内にも《不滅男爵》と戦ったことのあるものはいなかった。能力は未だ未知数、ならば安易に手を出すのは危険だという考えもあった。
不死の《不滅男爵》。その男性はそう噂されていた。そしてここにきての、あの不可解としか言いようの無い行動。自分の手にナイフを突き立てるという行動。その不可解さが、《氷姫》にとっては一番の気がかりだったのだ。一番怖いのは頭のいい人間でも腕力がある人間でもない、意味のわからない行動をしてくる人間なのだ。いつの時代でも人心に恐怖を植えつけるのは人外に限りなく近い心を持った人間だけ。
掛け声とともに《不滅男爵》の腕が突き出され、ナイフが引き抜かれる。赤黒い、しかし今は闇のせいでただの「何か」としか認識できない血液が飛び散り、《氷姫》は一瞬だけ我が目を疑った。
血液はそれ以上溢れ出なかった。代わりにでてきたものは異形の物質。ゼラチンのような形質を持ち、くねくねとうねる、直径五センチほどの紐のようなものが傷口から血液の代わりに生えていた。その生えている「何か」はだんだんとその長さを増していく。伸びて、伸びて、伸びて、「何か」はおよそ三メートルほどの長さにまで伸びた。
瞬間、「何か」の先端が膨らんだ。まるでラグビーボールを相似形に十倍したようなそれは、さらに先端がぱっくりと裂ける。漫画にたまに出てくる食人花の様なその外見は、まさに本質と同様だった。
その裂け目が、木の上に腰掛けていた《氷姫》を襲う。無論《氷姫》も警戒をしていたので回避行動は完璧だ。一瞬にして木の枝すら揺らさずにその場から消え去る。
裂け目は一瞬にして枝に噛み付いた。咀嚼する音が聞こえるが、嚥下の音は聞こえない。というより、そもそもそれが生き物なのかどうかすら現状では定かではないのだけれど。
「ぬるいわね」
氷点下の声が聞こえてくる。
その声が聞こえたと同時に、球形に限りなく近い氷が《不滅男爵》の右腕を貫通した。腕の太さより直径が大きいので、その攻撃は貫通というよりどちらかというと切断に近いものがある。頭を狙って一撃で仕留める自信はもちろんあった、目の前の《不滅男爵》は偽者だと疑わしくなるくらい素人的な動きだったし、そもそも完全に死角をついての攻撃だ。回避されるはずも無かったが、連れ帰って拷問にでもかければ……そんな考えを《氷姫》が持っていたこともある。
「隙だらけね。なんであなたみたいな雑魚が六亡星のトップに君臨しているんだか」
嘆息とともにその言葉を吐き出した《氷姫》は、図らずともその考えを改めることとなる。
自分が今しがた穿ったばかりのはずの《不滅男爵》の右腕からは、血液など流れていなかった。穿った後すら存在していなかったのである。
「なぜ、どうしてって顔してるなぁ。敵であるてめぇにゃ死んでも教えてやらねぇし、そもそもこの《不滅男爵》、死ぬことは無いけどなぁ」
同時に「何か」が《氷姫》を再度狙う。《氷姫》はその動きを見切って右へと回避。一人くらいならば簡単に噛み砕けてしまうほど大きな口がすぐ脇を通っていき、冷や汗さえかいてしまう。噛み付く攻撃を受けずともぶつかればその質量だけでかなりのダメージを受けてしまうだろうが、逆説それはぶつからなければダメージは受けないということで、回避することだけに専念せずとも「何か」の攻撃を見切ることなど簡単だった。
「ぎゃはは、食えっ!」
悦に入ったような声が聞こえる。その刹那ただでさえ暗い森の中がさらに暗さを増した。―――影だ。
ごおぅっと風を切る音が聞こえて、《氷姫》は見てはいけないと、余所見をしてはいけないと知っているのに、そのほうを見た。見てしまった。
見えるのは、大きな口。それだけだった。
《不滅男爵》の掌と「何か」を繋いでいる細い紐のようなものの中間付近から、先ほどやり過ごしたはずの「何か」が新たに生まれだしていた。今度のそれは先ほどのものとは比べ物にならないくらい大きい。回避行動に移るが、間に合わないことを本能が理解していた。体を捻り、地を蹴り、一歩でも遠くに一秒でも速やかに逃げようと全身の筋肉を酷使して体を動かす。だけれど、予想通りだ。間に合わない。
ぐぱぁ。その粘着質の音にあわせて《氷姫》が目を見開いた。悲鳴を上げなかったのは本人のプライドがなせるものなのか。
「食えっ! 赤色魔獣=I ぎゃはは!」
「ちっ、ぬかった―――!」
瞬間的に空気が膨張し、炸裂する。
木の葉がざわめき二人の体が軽く舞い上がる。炸裂の中心はどうやら「何か」であるらしく、「何か」は跡形も無く消え去っていた。「何か」と《不滅男爵》の掌を繋いでいた紐もかなり短くなり、最終的には掌に吸い込まれるようにして消えていく。
《不滅男爵》の掌はまただった。間違いなくナイフは掌から手の甲までを貫いたはずなのに傷跡は微塵も残っていないという、ある種の奇跡染みた事実。無論それは奇跡などではなく、全て道具―――六亡星と三武神の言葉を借りるならばエンシェントとアーティファクト―――の能力だ。
「勅令。火の力以ってして灼熱を与え給え。焦げろ」
突如上空から言葉が降り注ぐ。
「追加詠唱。勅令。風の力以ってして竜巻を与え給え。回れ」
火の粉交じりの熱風が突然吹き荒れ、あたりの木を焦がしながら勢いを急速に弱めていく。あまりにいきなりの出来事に、当然のことながら《不滅男爵》は目を覆い、目に火の粉が入らないように防護した。それはどうやら《氷姫》も同じのようで、どちらかが攻撃したというわけでもなかった。
そして《不滅男爵》が目をあけたときには、《氷姫》は消え去っていた。《不滅男爵》はそのままぽりぽりと頭をかき、あたりに敵が潜んでいないことを確認してから携帯電話を取り出す。周りに転がっている兵士たちの死体を脚で蹴飛ばしながら、どこかに電話をかける。
「……あ、《一騎当千》の爺さん? 俺、《不滅男爵》。今さ、《氷姫》と戦った直後なんだけどよ。……あぁ、逃げられたわ。たぶん《魔法使い》だと思うけど、いきなり風が吹いたりしてよぉ、冗談じゃねーさ。もう少しで仕留められたってのに、くそが。……いや、大方の予想通りだ、ああ。
……へいへい、新たな適応者かい。ってか、なんで俺ばっかに。高校なら俺よりもっと適任がいるだろ。……全員か。当然だけどな。なんせ《お庭番》と神だもんな。……あ、他に一人? わかった、けど、めんどくせーな。……わかってる、わかってますよ。
おーい、《血色の白》、いくぞ。聞いてたろ、今の会話。どうやら最終決戦くさい感じがぷんぷんするぜ」
《不滅男爵》が建物の上部に目をやると、そこから一人の人間がふわりと降りてくる。人間が上空から「降りてくる」なんてことは現実にはありえないはずなのだが、しかしその人物は実際にゆっくりと地面に降り立った。背中には羽が生えていた。
その少女はこくりと頷く。瞳には光が宿っていなかった。
「心から礼を言うわ、《魔法使い》。ありがとう。……にしても、どうして戦いを挑まなかったの? あいつの能力は確かに未知数だけど、相手だってそれは同じはずで、しかも二対一よ?」
当然といえば当然の質問を《氷姫》は《魔法使い》にする。ちなみに現在二人がいるのは上空百メートルといったところで、《魔法使い》は不思議と宙に浮く自転車をこぎ、《氷姫》はその自転車後ろの荷台部分に座っているという構図だ。空を飛ぶ自転車とそれに乗る二人の男女、不可思議にもほどがあった。
片耳にのみピアスをつけた少年、《魔法使い》は「ふん」と軽く言ってから説明を始める。
「俺は疲れてる。知ってるだろ? 俺の風林火山≠ヘ俺の精神状態やらなんやらに比例して威力が上下するって。そういうことだ。それに、まぁ《氷姫》さん、あんたは気がついてなかったみたいだし、俺も実を言うと結構さっき気づいたばかりなんだが、あっちは一人じゃない。二人だった」
「嘘!? ……だって、確かに一人分しか『感じ』なかったのに」
「俺もそうだった。確かにな。けど、それが相手の能力なのか個人的な強弱の賜物かはわからねぇ。んで、あんたも俺も結構やばめだったから、あそこは逃げておいたほうがいいと思ったのさ。情報も伝えたかったしな」
《氷姫》が「情報」という単語に眉を動かす。
「となると……《影武者》の潜入が終ったのね?」
《魔法使い》がまた「ふん」と鼻を鳴らした。どうやら癖のようである。
二人を乗せた自転車がゆっくりと下降していく。
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実際問題、「ああしたい」とか「こうなりたい」とか、そんなことを言うのは簡単なのである。願望を実現するということがどれだけ大変なことなのかは、例えばプロ野球選手やアイドル歌手のことを考えれば簡単にわかることで、甲子園を目指す高校球児や芸能プロダクションに入っている人間が全員大成したならばそれは最早仕事でもなんでもない。売れない人間と売れている人間で分かれているならばともかく、全員が売れている、活躍しているなどありえないのだ。
そんな状況、そんなプロの飽和状態ほど仕事にならないものは無い。それはすでに仕事ですらない。誰にでもなれることに金を払う物好きはいないからだ。高校球児が全員プロ野球選手になったのならば球団数など五十は軽く越えるだろうし、アイドル歌手も似たようなもの、逆に誰も目指さなくなってしまう。
ということはつまり願望を実現できないという現実が願望を実現しようとする人間を生み出すことになるのだが、はてさて、その点において僕は一体どうなのだろう。
僕には当面将来の夢などといった明確な願望はない。もちろん何かが欲しかったり何かを食べたかったりということはあるが、それは願望というよりも寧ろ欲望で、いまいちその二つの違いがわからないにしろ僕は自分の願望の無さを自覚していた。
いや、どうなのだろう。実際のところ、本当のところ、僕には願望があるのではないか、そう思ったりもする。確かに僕は平凡な人生を望んでいた。このまま無難に大学へ入り、そのまま中堅企業に勤めたり公務員になったりして、定年を迎えた後は貰えるかどうかいまいち不安が残る年金で暮らす、そんな平凡な人生を望んでいた。それは願望というのだろうかと僕は思う。
平凡な人生。それは恐らく願望というのではないと思うが、そんな一般人にとっては当たり前のようなことが僕のような逸般人には願望になりえるのかもしれない。だって僕は逸般人であり、呼んで字の如く一般を逸脱した人だからだ。
適応者。世にも不思議な能力をもつ道具を使える人間の総称。その人間には不本意ながら僕も入っており、不幸なことに僕の手元にはその道具がある。身体能力向上の道具、四肢同神≠ェ。それだけで僕が平凡な人生を望むには十分に足る理由だと思うのだが、僕の身にはさらに不幸が降りかかることとなったのだ。
三武神だった五十嵐が接触をしてきたのがつい昨日のことだ。あれは夢ではない、そんなことはもちろんわかりきっているし、夢だと信じて現実逃避を決め込むほど僕は子供じみてはいないのだが、それでもやはり信じたくは無かった。
僕のことを襲ってきた五十嵐と、そしてその日の夕方から夜にかけて僕に全てを―――本当の意味での全て、真実を教えてくれた万屋さんの話を符合することによって、その話は地球のどこかで戦争が始まっただとか某国が大陸間弾道弾の発射準備に入っただとか、その手の新聞記事と同レベル以上に真実味を帯びた話になってしまっている。けれど僕はそれでも信じたくなかった。それはすでに僕の意地だった。
考えてみよう。見ず知らずの人間に、ただ自分が適応者だからと言うだけの理由で命を狙われるということを。これを不幸といわずしてなにを不幸といおうか。僕はもちろん漫画や小説のキャラクターなんかでは絶対にないし、突如世界を暗黒に陥れた魔王をなぜか倒そうとしている高校生でもない。敵と戦う理由はこれっぽっちもないし、そもそも敵に狙われる理由だってこれっぽっちもないはずなのだ、それなのにこの状況。
やばい、涙が出て来た。涙を拭って思考する。
僕の選択肢は多くない。真っ向から相手に立ち向かう、逃げるに徹する、とりあえず相手が接触をしてくるのをまつ、の三つだ。しかし……どう考えても一番と二番はまずい気もする。世界をどうにかしようと思っているやつらに僕一人で立ち向かえるわけはないだろうし、逃げるのも同じこと、すぐに捕まるだろう。ならば消去法で必然的に三番目しかなくなるわけだけれど……ううん、なんかそれもまずい気がする。相手に先手を打たれたらどうしようもないことは必至だろう。
ということは、あれ? 打つ手なし?
僕の思考がお先真っ暗ネガティブモードに切り替わりかけた瞬間、僕の机を誰かが叩いた。驚きのあまり僕は辺りを見回してしまう。
黒い学生服が視界に入った。
「何ぼーっとしてんだよ。ただでさえ悪い頭が、いつもより悪く見えちまうぜ」
そこにいたのは古賀俊太だった。僕だって髪をセットするほうではないが、こいつは僕の数段上を行っている。四方八方という言葉がぴったりなくらいにぶっ飛んだ髪の毛、ところどころについた指紋で前が著しく見えにくくなっているだろう眼鏡、いつも突っ込んでいるズボンのポケットにはナイフやらマッチやらの危険物が入っているとかいないとか。下手したら六亡星か三武神ではないかと疑ってしまうほど変な人間である。そのくせ妙に女子からの人気は高い。人間は外見ではないということの好例だろう。
「どうした? なんか用?」
「用がなけりゃあ考え事をしてる様子のお前になんて声をかけねーよ」
なるほど確かに。でも、考え事をしている僕に用件を伝えるのはどこかが間違っている気がしないでもない。
「ま、そうか。んで、どしたの?」
「いや、英語の辞書引き見せてもらえね? あれ、今日の朝のショートホームルームで回収とか言ってたろ? やってねぇんだよ」
ちなみに現時刻は八時三十分、ショートホームルームの十分前だ。僕は入学式の教訓から八時十五分には学校へつくようにしている。
「なんで今言うお前は。……ったく、しょうがないな、貸し一つだよ」
僕はファイルから昨日の夜に済ませていた英語の辞書引きプリントを一枚取り出そうとして、そこで誰かが教室に入ってくる音を聞いてそちらを条件反射的に向いてしまい、危なく大声を上げるところだった。
五十嵐ひかりがそこにいた。
五十嵐の隣では林美里が能天気な笑顔を浮かべていた。林は背の高い女生徒で、良い言い方をすればボーイッシュな、悪い言い方をすれば男勝りなクラスメイトだ。髪の毛だってばっさりとベリーショートだし、初見では女っぽい男にしか見えないだろう。二人を見ているともっぱら林が話し役、五十嵐は聞き役に徹していたが、そんなこと今はどうでもいいのだ。
椅子や机を倒さん勢いで立ち上がり、呆然としている古賀の手に半ば無理矢理気味にプリントを握らせ、一直線に五十嵐へと向かった。何故、何故あいつがここにいるんだ? まだ何かを企んでいるのか? 学校内では僕は手を出せないと踏んだのか? くそっ。僕は吹き出そうになる汗を懸命に堪え、五十嵐と向き合う。
五十嵐は僕を目の前にしても動じていなかった。その態度は僕の焦燥をさらに強めていく。くそっ、くそっ、一体全体どういうことなんだ?
「え、えぇと、えーと……どうし、ました? 千葉、くん。……えと、そんな、怖い顔して……えっと、えと、私、なにかしましたっけ……」
「どういうことだ。どうしてお前がここにいるんだ」
周囲の人間が僕と五十嵐のやり取りを不思議そうに見つめている。下手をすると僕は頭がおかしい人間として見られているのかもしれない。それでもいいさ、五十嵐がなんでここにいるのかを突き止めればそれでいい。
「え? どうしてって……えと、だって、私、この学校の、生徒ですから。……えと、えぇと、大丈夫、ですか? 熱でも、あるんじゃないですか?」
「五十嵐、お前が『この学校の生徒』だって? とぼけるのもいい加減にしろ! なにを企んでる、何のためにここにいるんだ、《影武者》! お前らのことは昨日全部掃除マンに聞いた、僕自身お前の能力を見た。もう騙されない」
「ちょ、一体何いってるのさ千葉!? 熱でもあるんじゃないの!?」
林が僕たちの間に割ってはいる。が、僕はそんな林には目もくれず、ただ五十嵐に対してのみ言う。
「どうなんだ五十嵐! いや、《影武者》! また掃除マンを殺すためにきたのか!? それとも今度の狙いは僕なのか! どうなんだ、答えろ!」
「えっ? えぇっ!? えとえと、えぇと、えっとえっと、えと、すいません、本当に何のことかわからないんです! 《影武者》ってなんですか? 私がなにを企んでるって言うんですか!?」
目の前が一瞬にして暗転しそうな感じがした。頭をごつんと強くやられたような感じさえした。これも、これさえも演技だというのか? これでも五十嵐は、本当の五十嵐ではないというのか? この五十嵐は、これでも僕のことを殺そうとした三武神のメンバーのうちの一人だというのか?
視線が僕に集まっているのがわかる。ぼくが喚いている意味をわかる人間なんていないのだろう、他ならぬ僕自身僕が何を言っているのかわからなくなってきている。本当に五十嵐は別人なのか? じゃあ昨日の五十嵐は誰だ? ぐるぐるぐるぐると頭の中がこねくり回されて攪拌されていく。
くそっ。小さく短く毒づき、まだカバンすら下ろしていない五十嵐の手首を掴んで引っ張っていく。小さく、細い手首だった。すぐにショートホームルームが始まるがそんなこと気にして入られない、そのまま強く手を引き、玄関へと直行する。後ろから誰かの呼ぶ声が聞こえた。
階段を駆け下り、職員室の前を全力疾走し、玄関で外靴にも履き替えず、とにかく一目散に無駄に広い雑木林の中へと駆け込む。ここならば誰にも見つかる心配は無い。
「……は、はぁ、はぁ、はぁっ! さぁ、ついたぞ、五十嵐ぃ。ここなら誰にも邪魔はされない、お前と一対一だ。今度はちゃんと四肢同神≠燻揩チてる。簡単にやられはしない!」
「だから一体何のことだって言ってるんですか!? ともかく手を離してください! ショートホームルームが始まりますよ! どうしたんですか千葉くん、なんか変ですよ?……麻薬とか、やってませんよね?……人、呼びますよ。えっと、警察とか……。お願いです、離してください。
一体なんなんですか? さっきから。《影武者》だとか、企んでるとか、私の能力とか、どういう意味ですか? それ。……失礼しますっ!」
僕の手を振り払って五十嵐が駆け出す。僕もすぐさま身を反転させてその後を追おうとしたが、結果からいえばその行為は無駄に終わった。五十嵐は走り出した直後にがくんと前のめりに倒れていったからだ。
僕の記憶が一瞬にしてフラッシュバックする。僕はその倒れ方、崩れ落ち方を前に一度見たことがある。そう、それはあの時、あの場所でだ!
瞬間、がさりと音を立て、人影が姿を現した。
そこに現れたのは―――林。
とにかく僕はそのとき混乱していたのである。それは気絶している五十嵐を誰かに見られたということもそうだったし、そもそも五十嵐が本当に三武神にいる《影武者》でないかということもまだ判明していなかったし、というよりも五十嵐の気絶するタイミングと林が現れるタイミングがぴったりだったということも不自然すぎた。だから僕は、いつでも飲み込めるようにポケットの中に小分けしていた四肢同神≠取り出すことも忘れ、しばし呆然と林のことを見つめるしかなかったのである。
林は僕と倒れている五十嵐を一瞥して、次の瞬間僕に向かって走ってくる。先ほども言ったが僕は呆然と林のことを見つめるしか出来なかった。
だから。
だから僕は。
だから僕は―――
「死になさい」
身の毛もよだつ、そんな声が聞こえた。あぁ、この声を僕はどこかで聞いたことがある。いや、いつも教室で聞いていた、耳にしていた声だ。だけれど、何故だろう。その声にはどこか違和感があった。声はまったく同じだと思うのに、恐らくどんな機械にかけても声紋は一致していると思うのに、どこかが違うような感覚にとらわれた。それは声が話す人間の本質を捉えたからなのか、声帯が同じでも話す人間の本質が違うと声も変に聞こえると、そういうことなのか。
だから僕は、伸ばされた手がナイフを握っているということや、そのナイフが僕に向かっているということにとても無関心だった。さらにいえば、僕はそのままナイフが僕に突き刺さるということをなんとなく予想していながらも、そのナイフを回避しようという動作に移ることはできなかった。それは普通に僕の頭が混乱していたからだ。
冷たい鉄の感触。死ぬ。そう思った。それもいいかもしれないとも思った。こんな面倒くさい、運命に翻弄させるしかない人生なんて、こんな小説染みた運命なんて、いっそのことないほうがいいのかもしれない。そうとすら思ってしまった。
掃除マンは―――万屋さんは言った。全てを僕に教えてくれたのだ。僕はそれを聞いて恐ろしくなった、逃げたくなった。おめおめと尻尾を巻いて逃げ出したくなった。臆病風に吹かれたのだ。そんな話を聴かされて、戦いに巻き込まれるしがらみから解放されたかったのだ。
この世にはたくさんの適応者がいる。彼らはほとんどが三武神か六亡星という組織に所属しており、相反する目的のために日夜戦いを繰り広げているのだそうだ。彼らは、そして、どうしてそんなことを知ったのかは知らないが、一人の少女に目をつけた。その少女というのが十五年前の事件を引き起こした張本人。
十五年前、その少女は死んだ。間違いなく死んだ。けれどその少女と同類の異能をもった少女が、現在にも現れた。名前は京沢由奈。図書局の副局長を勤めている、僕もよく知っているあの京沢先輩だ。
一体どういうことなのだ。僕が通う学校に抗争の火種となる人物がいて、僕の父親は過去にその抗争に巻き込まれて死んだという事実があって、それは考えたくないが運命なのだとしか思えなかった。いや、これはそんな運命などという生半可な、優しい代物では決してない。これはもはや運命の悪戯云々というよりもすでに苛めとしか言いようのないレベルにまで昇華されてしまっている。
もう嫌だ。もう嫌なんだ。運命に振り回されるのは、翻弄されるのは。運命に抗っても所詮運命という奔流の中での低回にしか過ぎず、僕の望みである普通の日常なんてものはぜんぜんまったく手に入ることはなく、人が死に、殺され、僕もまた命を狙われるという危険性を孕んだ運命なんて、僕はもう嫌だった。それならば死んだほうがマシだとさえ思えるくらいには。
ナイフがずるりと体から抜ける。栓の役割をしていたナイフの刃が抜けたことによって、僕の傷口からはどばどばと、そりゃもう本当にどばどばと血液があふれ出てくる。応急処置を施しても手遅れだと簡単に理解できるほどその傷は深く、恐らく後一分や二分このままだったら簡単に気を失ってしまいそうな感じで、だけど痛みはなく、僕はなんとなくこのままでもいいかなとまで思ってしまうのだった。
あぁ、痛いなぁ。痛くて痛くて泣き出してしまいそうだ。でも大丈夫、すぐにこの痛みは薄れることになる。なぜなら僕は死ぬからだ。僕は運命に抗って死ぬからだ。いや、どうなのだろう、実際のところ。殺されるということは―――敵に殺されるということは、それはつまり運命に流されてしまったと、そういうことにならないだろうか。
……別にいいか、そんなこと。いまさら後悔したって間に合うわけでもなし、ならばいずれ訪れる死のときを目を瞑って待つことにでもしよう。
ぐらりと体が揺れた。倒れそうになる。いや、そのまま倒れた。
「はは……」
腑抜けた声が口から漏れた。痛い、痛い痛い。だけど安堵感があった。開放感もあった。ようやく因果から解き放たれるのだと、僕はようやく嬉しくなった。
どこからか「え?」という声が聞こえる。困惑した声だ。いや、まぁ当たり前だろう、友人がいきなり目の前で僕のことを刺したのだから。どんな人間だってそういう反応をして当然だ。それどころか悲鳴を上げたり気絶しなかったことに惜しみない賞賛と拍手を送りたい気分でもあったのだが、そんなことが出来るくらい傷が浅いわけなどないのである。仮にも三武神が人体の急所を間違えるものか。変装していても本質は変わらないのだ。
もっとも、本質の違いに気づいた人間なんて、僕一人しかいないようだけど。
「そうだよな、五十嵐?」
「まったく持ってそのとおりです」
五十嵐の声が―――僕の後ろから聞こえてきた。
閉じていた瞼を開いて、林のほうを向く。顔からは血の気が引いて青ざめており、今にも卒倒してしまいそうだ。気は強そうに見えるが、そして女子のほうが血には強いと聴いていたが、クラスメイトがナイフで刺されるというこの状況はどう考えても許容量をオーバー、限界点を突破しているのだろう。
先ほどの林の状態、及び行動から察するに、恐らく僕が五十嵐のことを気絶させたのだと勘違いして僕を殴ろうとしていたのだと思うが、この場合林を責めるのは酷だ。間近で見ていた僕だってあの五十嵐の気絶のフリを見抜けなかったのだし。
五十嵐はやはり、《影武者》だった。三武神だった。《影武者》が本当に五十嵐なのか、それともいつぞやの堀井さんと同じように顔などをコピーしているだけなのかはわからないが、とにかく、五十嵐は《影武者》だったのだ。
にやりと不敵に五十嵐は笑い、すると五十嵐の顔つきが変化した。同じような高校生の顔立ちだが、五十嵐よりはずいぶん大人びた―――もともと五十嵐が童顔過ぎたということもあるのだが―――顔になる。
「この顔でははじめまして。……とはいっても、この顔が本当の私の顔というわけじゃないですよ? 何回もこの能力を使っているとですね、本当の自分の顔がどれだか思い出せなくなってしまう次第でして、結局今はそのときそのときで顔を使い分けていますよ。変な感覚は最初はしましたけど、もう慣れましたし」
林などまるっきり無視して、五十嵐―――否、《影武者》は僕に微笑んだ。明るい、だけど僕にとっては不快感しか催させない笑みだった。
「残り……二、三分ってところですかね。正直興味の無い話です。内臓を確実に抉ってますからね、生き残ることは無いです。今すぐ病院へ運び込まれたなら、まぁ九死に一生ということもあるのかもしれませんけどね、でもここは雑木林で、人にはあんまり見つかりませんし」
と、そこで林に振り向いて。
「林さん、すいませんね。無関係な人は出来るだけ巻き込みたくもありませんでしたし、何より《氷姫》さんからキツイお達しをうけているのですが、あなたが私を追ってきてしまったのが悪いんですよ? それだけ私が五十嵐ひかりという人間を真似ることができたということなのでしょうけど。……残念です、殺すにしろ記憶を奪うにしろ、あまりいい結果ではありませんからね」
言ったとたん、《影武者》の姿が消える。砂の音が少しだけ聞こえ、次にその砂の音が聞こえたのは林の後ろだった。無論林がそんな《影武者》の超人染みた動きについていけるはずも無く、林は先日の堀井さんと、そして先ほどの五十嵐と同じように―――まぁ五十嵐、つまり《影武者》の場合はブラフだったのだけれど―――くず折れた。
流石に殺してはいないだろう、今いったセリフもあることだし。ならば大丈夫だ、思い残すことはもう―――ない。……ない、のか? 違う、あるとかないとかそういうことじゃなくて、思い残すこととかそういうことですらないんだ。すっかり忘れていた、すっかり忘却しきっていた。僕は一番忘れてはいけないことを忘れてしまっていた。
気がつく。出血が止まっていた。流れ出る血液は流れ出ず、衣服にしみこむ血液はしみこまず、滴り落ちる血液は滴り落ちず。あまりにも不自然に、僕の傷口に関する部分だけが止まっていた。「停止」していた。
理由はもちろん、語るまでも無い。
「元気かーい?」
「本気で言ってるんだったら、僕は今すぐ眼科と脳外科へ行くことをお勧めしますよ」
「冗談に決まってるでしょ、自殺志願者くん」
「……やっぱり知ってたんですか。それに見てたんですね?」
「あったりまえじゃない。君にも話したでしょ? 個人差はあれど、適応者は適応者の存在を『感じる』ことができるのよ。どうやら《影武者》さんは、あまり『感じ』にくいタイプの人間みたいだけど。それともその道具の効果かな」
右手に細身のナイフ、左手に停止時計≠もって。
艶やかなポニーテールと快活な表情を携えて。
掃除マンこと、万屋奈々子が、そこにいた。
僕は首だけを曲げて万屋さんを姿を見る。停止時計≠ノよって時が止められているせいだろう、僕の刺された箇所あたりはどうやっても動かせなかったのでとても不便を感じたが、結局そんなことはたいした問題ではなかった。僕は別に生きたいわけでは、生き残りたいわけではないのだから。
五十嵐―――いや、今は五十嵐の顔ではないのだから《影武者》とでも呼んでおくべきなのだろう―――は笑った。ははは、と、まるで普通の女子高生のようなあかるげな笑いだった。
「出てきましたね、《お庭番》。ぶっちゃけた話ですけれど、千葉くんを殺すつもりなど最初は無かったんです。無かったんですけれど、命令が下りましてね。使えると、そう思っていたんだそうです。即戦力とは言わないまでも、訓練をして実戦経験をつめばいいところまでいくと、そう言ってはいたんです。《氷姫》さんは。けれど、変わりました。予定が変わりました。もう一刻の猶予も予断も許されない状況に、だんだんと、じわじわと近づいてきているのです。
ですから私は殺します。あなたたちを殺し、六亡星より先に悪魔を手に入れなければなりません。残念です、まことに残念です、至極残念無念です。恨まないでくださいね、これも私の仕事なのですから―――」
消えた。《影武者》はそのままろうそくの明かりを吹き消したように姿を消し、気がつけば万屋さんも消えていた。どうやら依然として停止時計≠フ効果は残っているようなので、近くにはいるのだろうけれど……。
っていうか、僕は万屋さんの仲間でもないしいまいち正体をつかみきれていない、さらにいえば面識も大してない京沢先輩を守るつもりだって毛頭ないのだが……どうやらあちらさんはそこのところを勘違いしているようだった。
ずきん。痛んだ。
ずきんずきん。また痛んだ。
ずきんずきんずきん。またまた痛んだ。
血を止めているからといって痛みがなくなるわけではない。血が止まったということは血が止まった以外のどういう意味でもなく、血が止まったということはただ失血死をしなくなったということに過ぎないのだ。当然痛むし、その「停止」には一分三十秒というあまりにも短い時間制限がついている。
……けれど、まぁ、僕にはどうでもいいことか。どうせ死にたがりなんだし。死にたいのだし。
視界がゆらゆらと揺れた。吐き気を催す。そして急激なブラックアウトが僕を襲った。
話は昨日の夜に戻る。
万屋さんの口から「京沢由奈」という名前が出たとき、僕は不覚にも叫んでしまった。
「京沢先輩がって……どうして!?」
「え? あなた、なんで由奈のことを知ってるの!?」
すぐさま万屋さんは聞き返した。不覚だったとは思うが、まぁ別にいいだろう、どうせ「千葉浩介」という人間を調べればすぐに図書局に入っているということは知れるんだし。
「……実は僕もあの人と同じ図書局に入っているんです。あまり会話をしたことは無いんですけど、この前美術室で……そうだ! そういえばそのとき、誰かと誰かが喧嘩してて、で、今ようやく思い出しました。美術室で誰かを殴ったのって、そういえば万屋さんじゃありませんでした? 僕の教室まで怒鳴り声が―――」
「わあー! あー! あー! ……いや、まぁそうなんだけどね。だけど、今はそんなこと、どぉでもいいでしょうぅ?」
僕の頬を右手で挟みつけながら万屋さんは言った。その言葉には何か鬼気迫るようなものすら感じられ、同時に万屋さんの背後に真っ黒なオーラと般若の姿が見えたような気がしたあたりで僕は無言でうなずいた。
万屋さんは僕の頬からやっと手を離す。母親は傍観しているだけだった。まったく。
「……話が脱線しちゃったじゃないのよ。仕切りなおすわ。……君が由奈を知ってるっていうんなら話は早いわ。そう、由奈は二つの組織に狙われてる、だからあたしは由奈を守る。それだけよ。簡単でしょ? ま、そんな風にしてるうちに、いつの間にか《お庭番》なんて呼ばれてたりしてね。あたし自身も命を狙われてね」
あははと万屋さんは軽く笑い飛ばすが、それはそんな簡単なことじゃあないはずだ。そもそも動機が動機、友人を守るという動機自体がそもそも希薄すぎる。そりゃあ僕だって友情を大事にしたいとは常日頃から考えているし、友人の困難や辛苦を助けてあげたいと思うけれど、だからといって友人のために超常の能力を持つ人間を相手に戦いを挑もうとするだろうか? 少なくとも僕はノーだ。
友人を、親友を守るために、自分の命すら厭わず、戦う。しかもそれは世界のためでも自分ためですらなく、その友人のため。立派で立派で、立派過ぎて逆に疑わしくなるくらい、その言葉は聖人君子的だった。もちろんそれが悪いことだとは言わないが、あまりに立派過ぎて他の企みがあるのかも、とすら勘繰ってしまう。
第一疑問点もあった。二つの組織と戦う動機はともかくとして、それよりもまず聞いておかなければいけないことがあった。
「じゃあ万屋さん、最初に京沢先輩があいつらに命を狙われたとき、万屋さんもそばにいたんですね?」
「えぇそうよ。確か……そうね、ちょうど去年の今頃かしら、二人で学校を帰ってる途中に、見るからに頭の悪そうなやつらが近づいてきてね。はじめはただの不良かなーとか思ってたんだけど、次の瞬間いきなり刃物を向けてきてさ。その場は何とか切り抜けたけど、同じようなことが何日かおきに繰り返されるようになったのよ。もちろんいつも誰かが襲ってきたわけじゃないけど、車が突っ込んできたり、マンションの上から消火器が落ちてきたり、由奈をまるで狙ったかのように偶然が続いたわけ。今から考えればありえないくらいにお粗末だったんだけど、あの時はあいつらもあたしという適応者がいることなんて考えに入れてなかったんだから当然といえば当然よね」
その殺害方法は確かにお粗末過ぎる方法だ。下っ端の手抜き仕事にもほどがある。しかし、これで今まで一番疑問視していたことが浮き彫りになった。
「切り抜けたって、停止時計≠使って、ですか?」
僕は尋ねる。一番疑問視していたこと、それはつまり、いつどこでどうやって万屋さんは停止時計≠手に入れたのか。
僕のもつ四肢同神≠ノしろ万屋さんの持つ停止時計≠ノしろ、母親の言葉を全面的に信用するならば適応者しか使用できないわけで、さらに僕のような父親が道具に精通していた者ならばともかく万屋さんのような一般人―――僕は万屋さんの生い立ちなどを知らないので完璧な憶測でしかないのだが―――が簡単にそれを使用できるとは思えなかったのだ。脳が、体が覚醒して道具が突然使えるようになったなんてことは僕は信じない。
「えぇ。使わなくていい場合は最低限使わないようにしたけど」
「じゃあ聴きます。なんで万屋さんは停止時計≠フ使い方を知っていたんですか? というよりもまず、どうして停止時計≠持っていたんですか? おかしいじゃないですかそんなの。道具は適応者しか使えなくて、道具である停止時計≠偶然その適応者である万屋さんが持っていて。不自然すぎるじゃないですか。
どうすれば適応者が使える道具がわかるのか、なんてことはこの際関係ないことなので放っておくことにします。僕が聞きたいのはただひとつ、あなたがどうして停止時計≠ニいう道具を持っていたのか、それだけです」
「……君はあたしを疑っている、そう言うことね?」
不快感を露にしながら万屋さんは言う。しかし僕は怯まない、想像の範囲内だ。
「そういいましたかね。ですが、そう思われても仕方が無いんじゃないですか? どう考えても不自然すぎますから。確かにあなたは僕の命を救ってくれました。五十嵐―――《影武者》、でしたっけ? から救ってくれました。そのことについては心から礼を述べます。けれど、それとこれとは話が別です。
僕はあなたから、どうしてあなたが停止時計≠持っているのかということを聞く権利がありますし、あなたも僕をあなたの仲間にしたい以上はそのことについて話す義務があります。あなたが三武神や六亡星ではないと一体誰が言い切れるんですか? あなたが二つの組織の回し者ではないと、一体誰が言い切れるんですか?」
最後のほうはほとんど机に身を乗り出すような格好にすらなって、興奮のためか緊張のためか、僕は息荒く、肩を上下させながら問い詰める。僕自身でさえ今の僕が次に何を言うのか、何を言おうとしているのかを予測できない。まるで僕ではないほかの誰かか、それとも僕の理性のあずかり知らぬ僕の本能が、今の僕自身に命令を出しているかのように。
母親ですら僕のそんな姿を見て驚いていた。そりゃそうだ、僕だって驚いている。
「……そうね、確かに君の意見はごもっとも。仲間にするためにはまず信用してもらわなきゃいけないなんて当然よね。いいわ、教えてあげる、あたしと停止時計≠フ馴れ初めってやつを。この停止時計≠手に入れた理由を説明すれば、同時にそれは停止時計≠フ能力を知った理由にもなるし。
実際のところ、順番は逆なのよ。話を始める前に言っておくけどね。あたしは停止時計≠手に入れてからその能力を知ったんじゃないの。能力を知ってから……違うわね、能力を知ったからこそ、あたしは停止時計≠手に入れたのよ。
嘘だって言われたら反論できない、証拠だってない。だけどこれから話すことが真実よ。信じるか信じないかはあなたの勝手だけどね」
そういってスカートのポケットから停止時計≠万屋さんはとりだし、ぷらぷらと僕の目の前で左右に振ってみせる。金色の懐中時計。どこかノスタルジィさえ感じさせるそれは、京沢先輩を魔手から守り続け、そして万屋さんのみならず僕さえも守ってくれた不可思議な道具。
「……手に入れたって、どこから?」
「六亡星」一拍の間も開けず、万屋さんはきっぱりとそういった。
「多分君は知らないだろうからいっておくけど、六亡星も三武神も大量……というほど大量にでもないけど、道具を所有しているの。持ち主が見つかっていない道具をね。適応者が適応できる道具は絶対に一つきりだし、どっちの組織も仲間をなるべくなら増やしたいと考えてる。だから組織同士の潰しあいの他に、自分たちが所持している道具に適応する人間も、同時進行で探しているわけ。あたしはちょうどそれに目をつけられたのよ。
適応者はね、適応者の存在を『感じる』ことが出来るの。なんとなくわかるんだ。もちろんその『感じる』能力には個人差があるし、『感じられる』のにも個人差がある。自分の意志で消そうと思えば、ある程度、ある一定のレベルまでなら下げることだって出来る。いわゆる存在感みたいなものだと思ってくれてもかまわない。ただし、適応者の場合はもうちょっと第六感的な、はっきりと相手のことがわかるというやつだけどね。千葉君、君の今までの言動から察するに、君はどうやら『感じ』にくい人みたいだけど、あたしは君の存在を……そうね、学校の敷地内くらいなら存在を『感じ』れる。それはあたしの精神状態とか体調とかにも結構左右されるし、それなりに精神を集中しなきゃあ駄目なんだけど、やろうとも思えばそれほど難なく『感じ』れる。
ここに君があたしの仲間になったほうがいい理由ってのがあるよね。いつ敵が来るかわからない状況だったら、やっぱり先に敵の存在を察知できたほうがいいでしょう? どんなに千葉君、君が日常を所望したとしても、死んじゃったらどうしようもないわけだしさ。ね?」
そこまで言って、万屋さんは喉が渇いたのか目の前においてあった烏龍茶入りのグラスを手に取り、ごくりごくりと一息で飲み干す。まだ夏には随分早く夜はまだそれなりに寒いのだが、この場の切羽詰った空気は精神を刺激し、緊張からか汗を噴出させる効果を持っているようだ。僕も自然とグラスに手が伸びる。
氷がからんと音を立てて揺れ、僕はグラスをテーブルの上に戻した。
「……無反応、無返答、かぁ。まぁいいわ」別に気を悪くしたわけでもなく万屋さんは言う。
「とにかく。あたしは六亡星に目をつけられて、連れ去られた。誘拐と呼ぶにはふさわしくないような感じだったけどね。一日だけだったし。あいつらはあたしを連れてきて言ったの。『望みはないか』って。まず最初に、何を言うよりもまず最初に、『望みはないか、望みがあるなら何でも叶えよう。叶えるための力を、能力を、君に授けよう』って、そういったの。最初のうちは、そりゃああたしだって何が起こったのかわからなかったわよ。そのときまだあたしは、自分が適応者だということを知らなかったから。知るはずも無かったから」
気持ちはわかる。痛いほどわかる。何も知らない状態で、いきなり唐突に自分の異常さ、逸般さを突きつけられた人物の気持ちを、僕はとてもよく知っている。他ならぬ僕自身がそうであったように、万屋さんもまた同じような過去があったのだ。にしても、さきほどいった万屋さんの「手に入れた」というセリフと、そして「停止時計≠手に入れたことと停止時計≠フ能力を知った順番」。それで僕はこのあとの展開がなんとなく読めてしまった。
もしや、まさか。考えがあたっているのだとしたら、万屋さんはかなり凄いことをしでかしたことになる。
「んで、まぁ細かいところは省くけど、私はその六亡星の人間からこの停止時計≠フ詳細について聞いて、……奪った」
一度息を飲み込んで間を作ってから、万屋さんはそういった。「奪った」。想像通りといえば想像通り、予想通りといえば予想通りだ。すでに先ほどの時点で僕は半ばこの答えを導き出していたのだが、まぁ当たり前だろう、「時を止める」というふざけたほど強力な能力を持つ停止時計≠ネらば、逃げ出すことなど簡単だ。無論追っ手に終われる可能性も当然出てくるし―――というかそれがあるからこそ万屋さんは目をつけられたのかもしれない―――、初めて道具というものに触れる人間が道具をどれだけ扱えるのかも疑問に思ったが、それは現在にこうして万屋さんがいることが何よりの証拠だろう。
いつの間にか僕は万屋さんの言い分を全体的に認めてしまっている事実に気がつき、しかしついつい見てしまった母親の瞳が「力になってあげなさい」と語りかけてくるようにさえ感じられて。いや、実はもしかするとそれは僕の都合のいい解釈なのかもしれない。僕自身が、考えたくないことだがもしかすると、万屋さんの力になってあげたいのかもしれない。母親の瞳云々というのはそのためのただの口実、こじつけにしか過ぎないのではとも思える。
あぁ、まったく、くそぅ。
どうしてこうも誰も彼も、僕に世界の平和を守らせようとするのだ。そんなんだから、僕はその気になってしまうのだ、僕は世界の平和を守らなければいけないという気持ちになってしまうのだ。
けれど、どうすればいいのだろう。恐らくここで誘いを蹴ってしまうことは簡単だろう。簡単だろうけど、そうしてしまった場合、僕の身に何が起こるかは考えたくない。僕一人で二つの組織から身を守るということは現実的に考えて不可能に限りなく近かったし、それ以前に万屋さんは僕を殺すだろう。普通の女子高生が簡単に人を殺せるものか、なんて思うやつもいるのだと想像するが、万屋さんはそもそも「普通」の女子高生ではない。今までに何人もの人外と戦い、勝利を収め、殺してきた猛者なのだ。
ここで屈するのか? 僕はここで屈しなければいけないのか? 運命という名の奔流に飲み込まれ、運命の神様という邪悪な存在に弄ばれ、命を賭けて世界と少女の命を守ることを強制され、自分が望まない能力を無理やりもたされ、そのせいで二つの組織から狙われ、同じ高校の先輩とともに立ち向かう。そんな運命に僕は屈しなければいけないのか?
あぁ、まったく、くそぅ。
いいだろう。運命の神様とやらよ。あんたが、貴様がそこまでこの僕を、この僕の運命を弄び、この僕をどん底に貶めたいとするならば、いいだろう。僕は抵抗してやる、抗ってやる。最後の最後の最後の最後の最後の最後の本当に最後、文字通り僕自身の最期まで、僕は運命に逆らい続けてやる。
ふざけるなよ。そこで見てろ。貴様の思い通りになどさせてやるものか!
「いいですか、万屋さん」僕は至極冷静に、感情を押し殺して言う。
「共同戦線? そんなのは絶対にごめんです。ごめんですが―――いいでしょう。僕が戦わなければならないときだけは、いいでしょう、戦います。あなたと一緒に戦って見せます」
あぁ、まったく、くそぅ。
そのときの、そういったときの、万屋さんの笑顔を、僕は一生忘れないだろう。もちろん彼女は、僕のその言葉が嘘だと微塵も疑わないのである。
2
「ったく、なにやってんだか」
誰かの声が聞こえる。男の声だ。だけど級友の声ではない。僕がその声の主を考えていると、さらに声が聞こえてきた。
「死にたいとか言うなよボケ。この世には生きたくても生きていけない人間が大量にいるんだよ。この馬鹿が」
辛辣な言葉を投げかけられる。心外だ。ならばあなたは僕の気持ちがわかるのか。僕の気持ちをわかるならばそんなことが言えないはずだ。大体生きたい人間がいるならば、逆説僕のように死にたい人間がいてもおかしくないだろうに。
「そういうもんじゃねーんだよ。生きたいっつーのは人間の本能だけどな、死にたいっつーのはそうじゃねぇ。そりゃただの現実逃避だ」
じゃあなんだ、名前も知らない姿も見えないあなたは、僕が一体どんな目にあっているのかを知っているのか。僕の気持ちを理解できるのか。
「理解? 何だ、お前、高校生にもなってまだそんなことを言うのか。てめぇのことを理解しきれるのはてめぇだけだ。てめぇは俺の考えてることを全部、一から十まで理解できるって言うのか? んな人間がいたら、それはまったくの同一人物だっての。てめぇの頭はピーマンよりも空っぽなんじゃねぇのか?」
あなたは僕の置かれている状況を理解していないどころか、微塵も知らないからそんなことが言えるんですよ。反対にあなたに聞きましょう、あなたは不可思議な能力を持っているのですか? 人間を超越した運動神経や時を停止させる能力や、自分の顔を他人に移し変える能力を保有しているというのですか?
「あぁ、持っているね」
ふざけたことを言わないでください。じゃあなんですか? あなたも適応者だとでも言うんですか?
「適応者というかどうかはしらねーが、少なくとも俺はそういう能力を持ってるぜ。感謝しろよ? 俺のおかげでてめーは一命を取り留めたんだからよ」
え? は? おい、それは一体どういうことだ!? 「一命を取り留めた」だって? あんたはそういったのか!? やめてくれ、なんでそんなことをするんだ! 僕を助けないでくれ! お願いだ! 僕は生きていたくなんてないんだ! 冗談じゃない! 僕がいつ「助けてください」なんていった!?
あんたを信じたわけじゃない! けど、僕を助けるのだけはやめてくれ! 僕が一体何をしたというんだ! なぜ僕を安らかに殺させてくれないんだ!
「やめてくれ!」
僕は叫んで上体を起こした。見えるのは天井と蛍光灯。僕の体は唐草模様の布団の上に寝かされており、体には黒ずんだタオルケットが一枚かけられていた。気がつけば汗だくだ。一瞬僕の家だと思ったが、僕の家にはこんな美的センスを十二分に疑われそうな色のベッドカバーや妙な臭いがするタオルケットはないし、第一こんなに物で溢れていない。
大量の本。本。本。小説やら漫画やらゲームの攻略本やらがほとんどだ。
大量のごみ。ごみ。ごみ。全体のごみをカップラーメンの容器が四割、コンビニ弁当の容器が二割、本を包んでいるビニールカバーが一割、ビールの空き缶が二割、紙くずが残りの一割を占めている。
そう、僕がいる部屋は物が溢れかえっていた。人が居住するスペースはとられているものの、そのスペースは無理やり物品を部屋の隅によけて作ったということが人目でわかるようなもので、僕が寝ている布団だってどうやらせんべい布団、万年床のようだ。クワガタやカブトムシから角を取った上に油を塗りたくったように光っている、―――語感的には寧ろ「てかっている」といったほうがぴったり来る気がする―――三億年だか五億年前からこの地球上に存在している節足昆虫がそこかしこをこそこそと蠢いているのが見える気だって目下のところするのだが、気にしない。というか僕は何も見ていない。
僕は何も見ていないのである。黒い昆虫だって、僕の目の前にどっかと腰を下ろしている成人男性だって、何も。
「いや、『やめてくれ』も何も、もう助けちまったもんはしょーがねぇじゃねーか。だってお前よ、考えてみてくれよ。目の前で腹から血ぃだらだらどばどば流している人間がいてよ、自分にそいつを助ける力があってよ、しかも結構な美少女に『彼を助けてください』なんていわれたらさ、そりゃもう、助けるしかねーだろうが。人として、男としてよ。わかるだろ?」
「わかりませんよ」とりあえず僕はそれだけ言った。
僕の目の前にいる成人男性は、何故か着物を着ていた。着物というよりも着流しといったほうがしっくり来るような簡素さで、藍色一色、他に染め抜きの文字や柄などは全く入っていない。僕としてはそう言うシンプルなほうが断然好きなのだが、それにしてもこれはいささかシンプルすぎではないだろうか。
成人男性は腕を組んで一度うなり、気を取り直したかのように僕のほうを向いた。
「わからねぇかなぁ? どうしてわからねぇかなぁ? まぁべつにいいんだけどさ。しょうがねーし。んで、千葉浩介、自己紹介といくか」
なぜか僕の名前を知っているその成人男性は―――僕は普段面倒くさいので生徒手帳など持ち歩かない人間なので、生徒手帳を見られたという可能性は除外する。というか、生徒手帳をいちいち携帯する人間のほうが少ないように思えるけれど―――あぐらを組みなおし、僕に体の正面をまっすぐと向けた。
今までの経験上、最近の僕には自己紹介というものが有益であった試しがないため、僕はもちろんそんな自己紹介など聞きたくも無かったわけなのだが、僕が何かを言うより早く成人男性がしゃべり始めた。
「俺の名前は三浦。三浦有志。三つの浦に志が有ると書いて三浦有志。お前が言うところの『適応者』で、六亡星所属だ」
六亡星。……六亡星ぃっ!? 二つの組織のうちの一つ、世界の征服を企む悪の組織。三武神と敵対するライバル組織。五十嵐でもあり堀井先生でもあった彼女と、さらに依然として姿が見えぬ《魔法使い》の所属していた三武神と、対立する組織。それがどうしてこんなところに!?
僕は一気にその成人男性―――三浦に対する認識を改める。危険度はトリプルS。危ないどころの話じゃない。警戒レヴェルをマックスに、ポケットに四肢同神≠ェあることを確認してからあとずさる。
「六亡星だって? そんなやつがどうして僕を助けるんだ? もしや僕を助けて恩を売って、僕を六亡星に引き込もうとしているのか?」
気持ちを落ち着けるよう自分に言い聞かせながら、僕は三浦に言った。壁を背にし、しっかりと三浦を見据え、右手にはすでに四肢同神≠握っている。最悪のパターンを想定しつつ、僕はとにかく精神的な安定を確保しようと試みていた。
そういえば。僕はようやく思い至る。先ほど三浦は「結構な美少女」といったが、それはやはり、万屋さんのこと、なんだろうか。あの状況下で考えうるのは万屋さんのほかにも《影武者》と林がいたけれど、いくらなんでも《影武者》はありえないだろうし、林だって……考えにくい。いや、だけど、万屋さんは六亡星と敵対していなかっただろうか。まさか顔を知らなかったとか? わからない。
「そんなそんな、ひでぇこと言うじゃねぇか。そりゃあよ、お前みたいな能力者―――お前にとっちゃ適応者、だっけか。まぁそういうをうちらが欲しているっつーのは事実だし、お前が入ってくれるって言うのならば万々歳、諸手を挙げて、両手を挙げて喜んでやるが……生憎そんなこたぁ強制しねーよ」
そこまで言って、三浦ははっと後ろを振り返る。
無論、誰もいない。
「……っと、もう潮時、みてーだな。千葉浩介、早いとこトンズラこくぞ。死ぬ」
三浦はそれだけを早口で言い終え、僕の腕をやおらいきなり引っ張りだした。危なく肩の関節が脱臼しかけたところで玄関へと突入、勢いのまま靴を突っかけて外へ出る。
その間、二秒。
そして、刹那。
今まで僕たちがいた家が吹き飛んだ。文字通り、どがんやらどごんやら、そんな感じの擬音とともに今まで僕たちが休んでいたアパートの一室が、完全に、完璧に、粉々の粉々の粉々の、粉々の十乗くらいにまで、こうなってはいっそ気持ちいいくらいにまで粉々に粉砕した。
勢いに乗って僕たちは飛び出す。どこから? アパートの二階から、手すりを乗り越えて。着地、足がとても痺れる。痛い。感覚がない。というより何が起こってるのか理解できない、情報処理できない、能力が追いついていない。パソコンで言うところの処理落ちだ。固まる。フリーズする。思考が、意識が。
「とりあえず逃げろ! っつーか逃げるぞ! このままじゃあ死ぬ!」
その声で僕は肉体的に復活し、精神的に賦活する。とにかく全てが有耶無耶なままに四肢同神≠飲み込み、走る。目的地は―――名も知らぬ見知らぬ公園。無駄に広い林が、まるで僕の高校を想起させた。誰もいない、人っ子一人いない。猫の子一匹いない。爆発を見に行ったのか、それとももともといなかったのか。
「……ここまでくれば、大丈夫、だろ……ふぅ」と額の汗をぬぐいながら三浦。ずれ下がった着物の袖から見えた腕には、刺青が施されているのが見て取れた。しかも髑髏や蛇という悪趣味極まりないものだ。
「……一体、なにが、どうなって……」と僕。息を切らしながら左右を確認する。人の姿は依然として、無い。
「逃がさない」と女性。……女性? ……女性!? 一体どこから!?
瞬間、空気が凝固する。空気中の水分が氷結して氷を生み出し、それが陽の光を乱反射させてぎらぎらと眩しい。時刻はおよそ十二時といったところだろうか。太陽はともかくとして僕の腹時計の具合を確認しているので、恐らく正確なはずだ。
僕は刮目する。
氷の玉が―――寧ろ砲弾が、僕たちに向かって飛んできた。
「んなぁっ!?」
なんだ、なんだ、なんなんだあれは! 僕はとにかく本能的に身を翻し、必死になって回避行動に移った。四肢同神≠ヘすでに飲んでいる。頭をかかえ、出来るだけ体勢を低くし、無様に地を蹴って駆け出すことしか出来ない。いまさら格好よく生きようなんて思ってはいないけどさぁっ!
氷の砲弾が着弾する。轟音とともに砂埃が舞い上がり、あたりは一面砂煙に覆われた。もちろん僕は現状を全然全くこれっぽちも把握できていない、相手が一体誰であるのかも、そもそもの理由としてどうして僕たちが狙われるのかも。僕が何かしら狙われるようなことをした覚えは無いので、僕はきっととばっちりを受けているのだろう。
それはある意味で責任転嫁なのかもしれない。僕にだって狙われるような理由はたくさんあるし、それに僕はついさっき、午前中にも殺されかけた男なのだ。腹を刺されても生き残った―――生き残ってしまった男なのだ。くそっ!
「ほぅ、また会えたなぁ」そんなセリフが聞こえた。先ほどとは打って変わった、まるでなにやら楽しげな、嬌声にも聞こえなくも無い声。三浦の声だ。ぞくり、僕の背中が不思議と冷たくなる。どうやらやはり三浦がらみの敵のようだが、しかし、僕は一体どうするべきか。共闘するか? 冗談じゃない。逃げよう!
走り去って行く僕の後ろから会話が聞こえた。
「また死ににきたのか? いい度胸だ」
「いいえ、死ぬのはあなたのほうよ。残念だけど、あなたは私を殺せない」
「そっくりそのままそのセリフを返してやるぜ。この《不滅男爵》の二つ名どおり、俺は絶対に死なないんだよ!」
「不死ですか? そんなものは存在しません。どんなものでも死ねば死にます、殺せば死にます。そして私には、《氷姫》には、あなたを殺す力があります」
「やってみろよ。そして俺の赤色魔獣≠ノ食われて死ね」
「あなたと遊んでいる暇など無いのです。私はこれから殺しに行かなければ行けないのです。本来の、本当のターゲットはあなたではありません。
私が狙うべきターゲットは―――」
そこで会話は聞こえなくなってしまった。
そのまま一分ほど全力疾走を続け、たどり着いたのはアーケード街。レンガが地面に敷き詰められており、近年になってようやく高層ビルが一本また一本と数を増やしつつあるわが町の中でも、ここだけは開発の波が入ってこない場所だ。平日休日祝日問わず人通りは多く、青果店や雑貨屋やファストフード店やコンビニや百円ショップや錠前屋やナイフの専門店や昔懐かしいソフビ人形愛好家の店や、とにかく古今東西あらゆるものがここでは手に入る。
今日もこのアーケード外はご多分に漏れず、人でにぎわっていた。平日だというのに、そして世の中は一般的に不況だといわれている昨今なのに、不思議なものである。
足を止める。心臓がばくばく鳴っていた。肺が痛い。過呼吸気味だ。
辺りを見回した。……よし、どうやら誰もいないようだ。とりあえず万屋さんが言っていた「感じる」とか言うのをやってみようと思うが、そもそもやり方がわからない。精神を集中するとかそんなことを言っていたはずだけど、集中したところでどうしろというんだ? 僕は軽くため息をつき、十秒くらい何も考えずに酸素を体中にめぐらせ、ようやく落ち着きが出てきたところでもう一度辺りを見回した。
金髪の大学生。携帯を片手に持ったサラリーマン。泣き叫ぶ子供。それをなだめる母親。布袋に買い物を詰め込んだおばさん。真面目顔で電気店のショーウィンドウに飾ってあるテレビ番組を見ている老人。あぁ、なんて世界は平和なんだろう。この国の抱える借金が秒単位で百万以上増えていくということが、地球のどこかで武装勢力が自爆テロを起こしたということが、そして僕が世界を守るとかそう言う関係の話に巻き込まれているなんてことが嘘のように思える。けれどそれは嘘ではない、冗談でもない、夢だなんてことは有り得ない。わかってるさ、わかってるんだ。
歩き出す。足がもつれる。くそ、体力は予想外に回復していないようだ。勢いあまってよろけ、近くを歩いていた人にぶつかってしまう。
「あ、すいません」
ぶつかった相手は女の子だった。女の子、というのは正しくないのかもしれない。年齢は僕と同じかそれより一つ二つ年上、万屋さんと同じくらいだ。名前は忘れたけどどこかの高校の制服を着ていることから相手が高校生だということがわかる。黒いスカートにワイシャツにセーターという服装で、スクールバッグを右手にぶら下げていた。サボりだろう。とは言え僕だって同じことだ。
女の子はどこか表情が暗めで、最初は僕もちょっと罪悪感からかどきりとしてしまったが、どうやらそれが彼女のデフォルトらしい。ふちなし眼鏡にショートカットという組み合わせが儚げだった。
女の子は少しばかりよろけたが、すぐに体勢を立て直して僕を見る。だけどそれも本当に一瞬で、すぐに変な方向を向いてしまった。そしてぼそぼそと小声でつぶやく
「……別に……いい。気にして、ない、から……。うん、気にしないで……いい」
「あ、あぁ。すいませんでした……」
僕が軽く会釈して立ち去ろうとした瞬間。
最初に、風がひゅおんという音を立てて切り裂かれたのがわかった。
そして、今まで聞こえていた子供の泣き声が止まったのがわかった。
最後に、視界の隅でばらばらのばらばらに切断された子供が見えた。
一秒後、アーケード街が騒然たる阿鼻叫喚の悲鳴で埋め尽くされた。
「―――っ!」
赤黒い内臓。ぷんと臭う死臭。あたりを染める血液。肉の隙間からのぞく骨。生気を失った顔。転がった眼球。崩れ転がる脳髄。それらはあまりにも衝撃的で惨劇的すぎ、瞬間的に瞳が涙で潤む。
不覚にも、死にたくないと思ってしまった。
気持ちが悪いなんて感情を感じる間もなく、僕は言い知れぬ悪寒に体中を支配され、まさしく反射的に胃の中身を排出する。とっくの昔に消化された朝食とぴりぴりした酸味を伴う吐瀉物が口外へ吐き出される。はっきり言って気分は最悪、口の中を今すぐにゆすぎに行きたい気分だ。
僕はむせこみながら道路にひざを着く。どうやら吐き気を催し、そして嘔吐をしたのは僕だけではないようだが、今の僕にそんな余裕は無い。
僕の頭の上から声が降ってくる。
「……泣き虫は……嫌い。……泣く人間は、嫌い。……弱い、から。昔の、わたしを、みているみたい、だから……」
何かが見えた気がした。赤く血に染まった、白い何かが見えた気がした。
白い何かとは包帯だと、眼鏡を必要としない僕の目が捕らえた気がした。
思い出す。思い出す思い出す。万屋さんの話を、万屋さんが言っていた六亡星の話を、《血色の白》という少女の話を。
六亡星―――《血色の白》! 二つ名持ち、トップのうちの一人!
なんて最悪な邂逅だろう、せっかくあそこから逃げ出してきたというのに、これじゃあまるで道化だ。けれどまだ大丈夫、どうやら相手は僕が適応者ということに気がついていないようだ。このままうまくいけば逃げ出せるかもしれない。結局僕のそんな目論見は、悲しくも潰えてしまったのだけれど。
「わたしを、倒す? 殺す?」
その言葉が僕に向けられたものでなかったのならばどんなにか嬉しかったことだろう。僕がその声の主、《血色の白》を見ると、しっかりと彼女は僕のほうを見ていた。光が全く宿っていない、それなのに不思議と澄んだ色をしている瞳で僕をまっすぐに見つめていた。まるで射抜かれたように僕の思考は一瞬だけ停止する。
「……なんのこと、ですか」
口元をぬぐい、立ち上がって言う。
「とぼけないで。……あなた、能力者、でしょ? エンシェント……持ってる、でしょ? だから、聞いてる、の。……ねぇ、あなた、わたしのこと、殺す?」
悲鳴や嗚咽が互い違いに入り混じった喧騒の中、僕たち二人はそんな会話を交わしていた。誰も僕たちのことなど見向きもしない。現場から逃げる人と、現場へ向かう人の中で、僕たちはあえて佇んでいた。
彼女が言うエンシェントというのが僕たちが呼称するところの道具だということは知っていたので、彼女が何を言っているのかはほとんど理解することが出来たのだがしかし、僕は彼女の言っていることの意味が理解できなかった。いや、意味は当然理解できたのだが、そんなことを言う彼女の本心、本意が理解できなかったのだ。
「殺しませんよ、そんな。大体僕はただの一般人ですし」
「……そう」彼女が短くつぶやいた。
「じゃあ……もういい」
びりびりびりびり。布が裂ける音。その音の発生源は彼女、《血色の白》が着ていたワイシャツとセーターだ。
「とりあえず……気絶でも、しておいて。……下手に動くと、死んじゃうから、気をつけて。痛い思い、したくない、でしょ?」
ひゅるひゅると音を立てながら、《血色の白》の全身から包帯が飛び出してくる。見た目は普通の包帯だが、それが見た目だけだということは最早語るまでもない。普通の包帯は服を突き破ったりはしないし、何より意志を持ったように僕のことを襲いにかかったりはしないのだ。
十数本の包帯が僕に向かって一直線に飛んでくる。切っ先は鋭利だ。まるで刃物のごとく鋭く尖ったそれは、間違いなく僕を傷つけるために向かってきている。
「のああああああああぁっ!?」
見える。数多の包帯が僕に向かってくるのが。僕はそれらの包帯を狼狽しきった脳で必死に処理し、驚愕に目を見開きながらも懸命な回避行動に移ろうと試みる。四肢同神≠ノよる恩恵はやはり素晴らしかった、自分に向かってくる包帯を全て紙一重で回避することが出来たからだ。体中を小さく切られたりはしたが、死なないだけでも儲けもの、さらにこう懐へ飛び込めたとなれば言うことはない。
僕は今《血色の白》の目の前へと移動していた。ためをしっかりとつくり、右拳を硬く握り締め、《血色の白》が光を宿していない瞳を少しばかり驚きの色に染めたとき、僕はその右拳をアッパー気味に《血色の白》の腹部へと叩き込む。ずん、と鈍い感触ではなく、代わりにギブスのようなものを殴ったかのように硬い感触が伝わった。これが人の体であるはずがない。
僕の拳は相手の包帯による壁でいとも容易くガードされていた。けれど《血色の白》は威力を完全には消しきれなかったらしく、そのままある程度のスピードを保ったまま後ろへ吹き飛んだのだが、彼女は結論から言えばダメージを受けなかった。
彼女の背中には羽が生えていた。彼女はそれをばっさばっさと羽ばたかせて空をゆっくりと浮遊していたのである。当然ダメージを受けるはずは、ない。
「人、いる。……しかたない、か。追撃少ししてから、連絡、取るしかないかな。あいつに。……あいつ、ムカつくしな、あまり好きじゃないんだけど、強いし、そこは好き、かな……うん、まぁいいや。ばいばい」
空中からまたもたくさんの包帯が降り注ぐ。それらは簡単に舗装された道路を突き破り、地面に無残なヒビを生み出しつつ僕を狙い続ける。無関係な何人もの人の体を突き破り、悲鳴と嗚咽はさらに増大した。見境も容赦もない。
僕は僕の形勢不利を悟り、とにかく一目散に逃げ出した。どうやって攻撃しろというのだ、あんな上空にいる人間を。しかも相手は六亡星のトップで二つ名持ちなのだ、僕ごときが簡単に勝てるわけが無いのは明白、ならば逃げるしかない。
走りながら考える。「あいつ」とは一体誰だ? 六亡星となると、やはり、あの三浦という男だろうか。いや、憶測で物事を考えるのはよくない。特に重要なことに関しては、さまざまなデータや情報が入ってから出ないと全く見当違いの答えが出てしまいかねない。しかもそれらは僕の生命に直結するのだ。
僕はそこで気がついた。
どうして僕は、自分が生き残ることを考えてしまっているのだろう。僕は死にたいはずじゃなかったのか。そうだ、僕は死にたかったのだ。僕は生きていたくなどなかったのだ。それなのに、どうして。
あぁ、まったく、くそぅ。
理由などわかっているのだ、わかってしまったのだ。僕は死にたくなくなった、もしかするとはじめから死にたくなかったのかもしれない。死にたかったのは確かだけれど、きっと僕はそれ以上に生きたかった。まだ人生を謳歌したかった。ただ格好つけたかっただけ、悲劇のヒロイン……この場合はヒーローを演じていたかっただけなのだ。運命に絶望を感じていたことは、嫌気が指していたことは事実。だけど僕はそんな簡単に人生を捨てられるほど卓越してはいない。たった十五年しか生きていないのだから。
それに、先ほど僕は恐怖を抱いてしまった。子供の死体を目撃して、「死」という現実を間近で直視して、「死」に対する恐怖というものを抱いてしまった。僕はさきほど思ったのだ、一瞬、ちらと思ってしまったのだ、あんな風にはなりたくないと、あんな風に死にたくないと思ってしまったのだ。
それが、致命的。僕にとっての致命傷。
あぁ、まったく、くそぅ。
「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ、嫌だ嫌だ嫌なんだぁっ! 死ぬのも嫌だし生きていくのも嫌だ! なんで僕ばっかりこんな目にあわなくちゃいけないんだよおぉっ!」
喚き、叫ぶ。涙が溢れてきた。事実を理解してしまったからか、それとも己の境遇があまりにも不憫だったからかはわからないが、目の端から涙がぼろぼろと僕の意思とはまったくぜんぜん無関係に溢れ出してきた。視界が悪い。
あぁ、まったく、くそぅ。
一体どれくらい走り続けただろうか。四肢同神≠フ効果が切れ、足が疲労し疲弊しきって動かなくなってしまっているくらいまで走ったのだ、恐らく十分間は走り続けているのだろう。僕はふらふらとよろめき、地面にうつぶせに倒れこんでしまう。人の気配は無い。どうやらうまく逃げ切れたようだが、あのアーケード外は一体どうなったのだろう。いや、今は他人の心配をしている暇など僕には無いのだ、まずは自分の心配をしなければいけない。
腕時計を見る。時刻は一時五分を示していた。
……とりあえず、学校へ戻らないと。掃除マン―――じゃない、万屋さんにこのことを一刻も早く、伝えなければ。《血色の白》と、そして六亡星の三浦、さらに氷使いにあったということを話さなければ、危ない。何が危ないって、この町が、万屋さんが、僕が、そして何より京沢先輩が。
困憊していた。精神的に、肉体的に。足が重い、体が重い、心が重い、気持ちが重い。うだつがあがらない。やらなくてもいいことなのに。戦わなくたっていいはずだし、僕のみに降りかかった出来事を万屋さんに伝える必要なんて無いはずだし、京沢先輩を守る義務も僕には無いはずだ。だけどどうしてこんなに、僕は万屋さんに今日起こったことを伝えたいのだろう。どうして僕はこんなにも、万屋さんの力になりたいと、京沢先輩を守ってやりたいと、そして、二つの組織と敵対したいと、世界の平和を守りたいと思うのだろう。
一時の気の迷いだ。そう思うことにする。
立ち上がった。視線を向けると、そこには古賀俊太がたっていた。学生服を着ている。僕を連れ戻しにきたのだろうか。それにしては足取りがふらふらしているような気がするけれど。
古賀だけではなかった。堀井さんもいたし、見たことの無いおばさんもいたし、サラリーマン風の男性もいたし、金髪の不良っぽいお兄ちゃんも立っていた。互いに関係がない風にそこにいたならまだしも、その五人は一塊になって僕の視線の先百メートルくらいの位置に立っていたのだ。
どうしたのだろうと僕が首をかしげると、その一団も僕の姿を発見したのか僕のほうへと歩んでくる。にしても、古賀と堀井さんはわかるにしろ、残りの三人は一体何者だろう。間違いなく僕とは面識がない人間だ。
僕は愚かだった。気がつくべきだったのだ。自分の身に連続して何が起こったのかを思い出すべきだったのだ。二度あることは三度ある。つまり、そういうことだ。
僕が五人のことを不思議に思っていると、五人はすぐに僕と目の鼻の先まで近づいてきた。足取りがふらついているように見えた、視線が虚空を漂っているように見えた。表情がまるで人形のように無くて、片方の手をみな背中に回していた。
ぶぉん。一斉に隠されていたナイフが振り上げられ―――振り下ろされる。
四肢同神≠フ効果は、切れている。
本当に「あ」という間もなく、僕の体は一瞬にしてナイフと肉薄する。回避行動には移ることが出来そうに無い。死ぬのか。妙に冷静にそう思った。もうここまでくれば何が起こっても、自分の身にどんなことが起こってもいい。諦めてやる。流されてやる。所詮僕は運命に翻弄され続けるのだ、どうせ僕は運命の神様に嫌われているのだ。ならば、もうどうでもいい。逝きたくはないが、生きたくもないし、仕方がない、どうでもいいのだ。
そのとき、「ぐああああああ」と、咆哮が、聞こえた。獅子のごとき咆哮。あたり一面を劈く、野獣の雄叫びだ。
黒い何かがいた。
その何かとは、怪物。僕が入学初日に出会った、あの漆黒の、摩訶不思議な、正体不明の、怪物。それが僕の目の前五十メートルの地点で咆哮を上げていたのである。僕の回りにいた五人の動きが一瞬にして、同時に一瞬だけ停止する。僕はその隙を見計らって体勢を出来るだけ低くし、まるで西部劇のガンマンのように地面を転がり、ついで四肢同神≠ポケットから取り出して摂取する。
黒い怪物は咆哮を上げずに唸るだけになっていた。そこで気がつくが、前回であったときよりサイズが小さい。三分の二程度の大きさになり、体長もおよそ百七、八十センチくらいで、風体などはともかくとして人間サイズだ。それだけでかなり恐怖感は取り払われるのだが、一体なぜ、このタイミングで?
僕は五人に視線を移した。五人はすぐさま僕に向かってナイフを振るう。けれど無論、四肢同神≠摂取している僕が、そんな攻撃を食らうわけはなく。
「くそぉっ! なんで、こんなっ!」
胴体に一人一発ずつ拳を叩き込む。四肢同神≠摂取している今となっては、恐らく普通に殴れば絶命は必死だろうから、出来る限り手加減をして、だ。しかしそれでも常人の体には僕の拳は耐えられなかったらしく、一メートルほど吹き飛んで倒れた。どうやら死んではいないようだが、僕は医者でもないし、あとで救急車を呼んだほうがいいだろう。それよりも人に見つかったかどうかだけが心配だ。
黒い怪物のほうへと目を向ける。黒い怪物はゆったりとした動きであたりを見回し、鈍間な動きで一歩一歩地面を踏みしめていた。いつか出会ったときとは天地の差だ。何があったというんだろうか。というより、これは本当に何なのだろうか。
こんな怪物が生まれた経緯はともかくとして、まずはこの怪物を倒さねばならない。この怪物が前と同一というのならば、殴れば消えるはずだ。
怪物が僕を見る。前と同じパターンだ。やはり怪物は僕に向かって突進してきたので、僕は少々困惑しながらも前回と同じように怪物の頭部を力いっぱい殴りつける。予想通り怪物はさらさらと消えていった。
「……一体全体、何なんだ? ……ふぅ、やっぱり、まずは救急車、かな?」
僕は意識を怪物のことから倒れている五人に向ける。怪物のことは、まぁ万屋さんに聞けば大体はわかるだろう。今の問題はこの五人だ。
救急車を呼ぼうと僕が近くのコンビニに向かって駆け出そうとしたとき、―――残念ながら僕は今どきの高校生のステイタスとも言える携帯電話を持っていない―――僕はどうやらそんなことをする必要は無いということを理解した。
五人が五人とも、立ち上がった。
そして、さらに一人、僕の背後に人物が。
「はじめまして」と、声が聞こえる。冷静で冷徹でとても丁寧なのだけれど、なぜか苛立ってしまうような、他人の神経を逆なでするような、まるで全てのものを格下と見ているような、慇懃無礼ということばがぴったりしっくり来る口調だった。
「手荒な真似をしてすいません。どうやらその様子では、《血色の白》は捕獲に失敗したようですね、まぁもともと期待してませんけど。《不滅男爵》が真っ先に貴方を捕獲したようですが……どうせあの男の事です、ずぼらな性格が災いしたんでしょうね。
はじめまして、千葉浩介君。僕は……《雷神》。六亡星所属、トップのうちの一人、《雷神》。以後、お見知りおきを」
六亡星だって? また? 三武神は僕の命を確か狙っていたはずだけど、逆に六亡星は僕を取り込もうとしているのか? どういうことなんだ、一体。
それに、気がつかなかったけれど、《不滅男爵》? 《血色の白》とはすでに邂逅したから、まさか、三浦か? あの人が《不滅男爵》だと?
「何がなんだかわからない―――そんな顔をしていますね。気持ちはよくわかります。大丈夫です、もちろん僕たち六亡星があなたを躍起になって捕まえる原因を教えます。それどころか、六亡星のことから三武神のことから《お庭番》と呼ばれる万屋奈々子のことから神、もしくは悪魔と称され賞されている京沢由奈のことから全てお話しましょう」
「……それは、僕についてこいと? 六亡星の仲間になれば、そう言うことを全部教えてやると?」
「まぁ近いものはありますね。とりあえず話を聞いてみるだけでもどうですか? 信じられないかもしれませんけど、絶対に損はさせませんよ」
「知ってます? 悪徳商法ってのは、相手を自分の陣地に追いやってしまえば勝ったも同然なんですよ? 連れこんでしまえば、後は脅すなり粘るなりすればいいだけですから。その点で言えば、あなたたちは脅すのが大の得意そうに見えますけどね」
僕は苦々しく吐き捨てるように言う。しかし、《雷神》はにやりと見下すように笑い、僕に向きなおる。
「来たくないなら来なくていいですが、そのときはあなた、死にますよ? 知ってますよ、三武神に狙われているんでしょう? さらに僕たち六亡星からも狙われたら、生き残ることなんて出来ませんよ、普通は。例外は、まぁ《お庭番》くらいですかね。それでも僕たちの誘いを蹴るんですか? それに―――」
さらに《雷神》は、僕にとって反応せざるを得ない言葉を口に出した。
「五十嵐ひかりの身柄を、こちらは確保しているんですが。無論、本物を」
五十嵐ひかり!? なぜ六亡星が!? ……いや、そうだ。あの五十嵐は《影武者》が成り代わっていた存在だったのだから、当然本物の五十嵐もどこかにいるはずで……それを六亡星が確保した? 本当に?
僕のそんな狼狽を見て、《雷神》はさらににやりと笑った。意地の悪いというのを通り越して、反吐が出るくらいに気持ちの悪い笑いだ。
「どうします? こちらとしては、どうでもいいんですけど?」
「どうでもいい」の部分を殊更に強調して《雷神》が言う。本当に心の底から「どうでもいい」のだろう。ならば僕がこいつについていかなければどうなるのか、考えるまでも無い。殺すに決まっている。下手をすれば肉欲の対象にすらしかねない。
そんなことを言われては、従わないわけには行かない。本当に悪役、本物の悪役だ。しかも正義が必ず勝つわけではないというのが悔しい。
僕は視線を僕を取り囲んでいる五人―――特に古賀と堀井さんに移す先ほどから微動だにしていなかった。やはり、道具の効果なのだろう。
「……やっぱり、二人のことが気になりますか。当然でしょうね、クラスメイトと委員会の顧問なんですから」
そんな情報、どこで手に入れたのだろう。僕の無言を一体どう捉えたのか、《雷神》は親指を一本だけ立て、自分の首に対して横に滑らせた。俗に言う「首切り」のジェスチャーだ。
瞬間、僕を取り囲んでいた五人が、一斉にナイフを振り上げた。僕はあまりの不意にはっとし、舌打ちをしながら回避行動に移ろうとして、そこでナイフの切っ先が自分にむいていないことを理解する。
一秒後、ずぶりという音がして、ナイフの切っ先が肉にめりこんだ。五人の首に銀色の刃が生える。
「え?」僕はそんな呆けた声を出すことしか出来なかった。
勢いよく五人はナイフを首から引き抜く。頚動脈が切断されたことを表す大量の動脈血液が噴出し、ぼたぼたと血の雨を降らせる。僕はやはり呆然。
「もうこいつらは、いりません」
ははは、と、乾いた笑いを漏らす。その声を聞いて、僕の中で何かが爆発した。視界が一瞬にして真っ赤になり、何も考えられなくなる。怒り、怒り、怒り。思考と行動は全て怒りによって支配される。
「ふざ」
僕はそのあとに「けるな」とつなげようとしたのだが、それよりも早く《雷神》の拳が僕の腹部にめり込み、さらにずどんという何か鈍い音が全身を駆け巡り、同時に何か痺れる様な感覚とともに僕の意識は暗闇に飲み込まれた。
死章 《不滅男爵》/《氷姫》
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現在が平日の昼だということは、この付近に住む一般住民にとっては幸運なことだっただろう。何故なら無意味に無理由に、ただの巻き添えという形で死ぬ必要がなくなったからだ。二つ名持ち二名。その意味がわかる人間ならばここに近づかないだろうし、その意味がわからない人間でもこの殺気がむき出しになった空気が張り詰めている場へと足を踏み入れないだろうが、近づかないのと足を踏み入れないのでは大違いだ。
二つ名持ちが二名、しかも今から戦おうとしているのであれば、足を踏み入れないだけでは生ぬるい。少なくとも百メートル以上の距離をとらなければ、この《氷姫》と《不滅男爵》が向かい合っているという状況で言うと、氷の砲弾によって体の一部を根こそぎ吹き飛ばされたり赤い食人花のような「何か」に噛み砕かれかねない。だからこそ二つ名、それほどの戦闘力を有するからの二つ名。
二つ名というのは今でこそ強さの象徴、称号ではあるが、本来の意味は畏怖され忌避される存在だということを暗に示すための言わば警告のようなものだ。昔々、十五年などよりもさらに昔、一世紀や二世紀も前は、二つ名とは仲間からさえ嫌われる存在だったのだ。だからこその二つ名、だからこその警告表示。
この現状はその二つ名というものが警告表示をも表していることを如実にあらわしていた。「強い」と他人に認識されることと、「危険」と他人に認識されることイコールのようでイコールではない。「強い」という理由で戦いを挑まれることはあっても「危険」という理由で戦いを挑まれることはない。そしてこの場にいる二人の二つ名持ち、《氷姫》と《不滅男爵》につけられた二つ名は、正しく強さよりも危険性を訴えていた。
氷の砲弾が轟音を立てて地面に突き刺さる。
赤い「なにか」が遊具を容易く噛み砕く。
公園の中にはいくつもの死体が転がっている。正確に言えば五人で、そのうち三人が偶然この二人の戦いを見てしまった一般人、残りの二人は轟音を聞きつけてやってきた警官だ。幸いというべきなのかこの公園は比較的大きい割には利用者も全くおらず、しかも周りには二次被害を受ける住宅も少なく、代わりにだだっ広い雑木林が広がっていた。この公園が山の本当に麓、本格的な登山道に入る前の坂道に位置しているということが原因だろう。
一言で言えば、それは異常だった。ホラー映画のスプラッタシーンのような、直視に耐えない光景。死体を見ることにも生み出すことにも慣れた歴戦の傭兵のような存在がいたとして、そしてこの場の光景を目にしたとしても、恐らくあまりの恐怖と異様さに嘔吐するだろうということは想像できた。そこまでにその二人の戦いは恐ろしく凄まじく、恐怖の対象以外の何ものでもなく。
「―――さっきも言ったでしょう? あなたと遊んでいる暇など無いのです。私はこれから、千葉浩介と悪魔を殺しに行かなければ行けないのです。残された時間は短いようですからね」
そういって《氷姫》は氷の砲弾を数発発射し、そのまま右手に冷気をまとわせて日本刀を形作る。青く透き通る刀身は見蕩れてしまうほどに美しい。太刀筋も、そしてその日本刀を扱う人間も。
ダークグレイのスーツは運動に適してはいないのだろうが、しかし《氷姫》はそんなこと気にも留めずに攻撃を繰り出している。受ける《不滅男爵》の服装も着流しにサンダルというふざけたものではあったが。
またも空気中の水分が凝固し、氷を形作る。《氷姫》の用いる道具である絶対零度≠フ能力だ。この絶対零度≠ヘ空気中の水分を凝結させて氷にし、それを自分の意のままに形を変えたり自分の意のままに操作することが出来る。能力は単純だがその分応用が利き、どんな状況、どんな戦況にもオールマイティに戦うことが出来る万能タイプの道具だ。強い道具が全て効果が凶悪だというわけではなく、使いやすさ、臨機応変さも道具の強さの一つである。これは道具に限ったことではなく、ほかの刀や拳銃などの一般的な武器も同じだ。
十数個の氷の砲弾が《不滅男爵》に向かう。《氷姫》はそれと同時に駆け出し、一気に距離を詰めようと試みる。
瞬間的に「なにか」がさらに膨張し巨大化。直径が十メートルほどにもなったそれは、氷の砲弾や《氷姫》自身を飲み込もうと大口を開き―――刹那の空白を置いて「なにか」の根元がぶちりと千切れ、紐状のものと分離する。「なにか」は大口を開けたまま氷の砲弾や《氷姫》に向かっていき、破砕した。
瞬間的に破砕した「なにか」が縮小し、そして赤い液体となって当たり一面に撒き散らされる。特有の臭いと粘質を持つこの赤い液体の正体は、間違いなく血液だった。
ぼたぼたと血液が降りしきる中、《氷姫》は右手に以前として氷の日本刀を陽光に煌かせ、いつもと変わらぬ絶対零度の視線で《不滅男爵》をにらみつける。《氷姫》も《不滅男爵》も、自分の攻撃―――《氷姫》にとっては氷の砲弾、《不滅男爵》にとっては「なにか」の切り離し―――をもとより相手を倒す手段ではなく相手にとって壁にするためのものとして行動していたので、どちらにも動揺の色はない。
《氷姫》は氷の刃を何度も振りぬく。その速度は視覚で捕らえきれないほど速く、一瞬でも腕や刃の数が複数本に見えるほどだ。人間業であるわけがない。しかし《氷姫》を人間でないとするならば、それと相対する《不滅男爵》も無論人間でない存在なわけで。
余裕の表情で《不滅男爵》は、いつの間にか握っていた細身の刀を構える。まるで必然のごとく、刀身の色は《氷姫》の色と対比して真紅だ。その真紅の剣をもってして、《不滅男爵》は《氷姫》の神速の剣撃を全ていなし、捌き、回避する。
千葉浩介、という単語を聞いて、《不滅男爵》の表情は変化していた。余裕のみで構成されていた表情に、少しばかり感心、驚きの色が混じったのだ。
いったん後ろに下がって距離をとり、《不滅男爵》が語る。
「なぁ《氷姫》、これはお前らのポリシーに反してるんじゃねーか? なんっつったけか、ほら、あれだ」
「『人目に付かないところで、穏便且つ迅速に』よ」《不滅男爵》の後を引き継いで、《氷姫》は依然変わらぬ絶対零度の声でそう言った。
「私だってそれは守りたいのだけれど、悲しいことにそんなことをしている暇はなくなったわ。あなたたちだって知っているでしょう? 猶予は無いの。もう少しで悪魔が完璧に目覚める。あの能力が完璧になったらどうなるか―――考えるまでも無いわ。世界の破滅よ。十五年前の出来事よりも数十倍上のレヴェルで、町がひとつでもなく都市がひとつでもなく国がひとつでもなく、地球という存在が根こそぎ消えてしまうわ」
「んなこたぁどうでもいいなぁ。っつーより寧ろ、そっちのほうが俺にとっては好都合なんだ。てなわけで、俺はお前を行かせるわけにはいかないのさ。千葉浩介に関しても同じことだ。あいつの存在は、というよりあいつの能力は、お前らにとっちゃあいい迷惑なんだろうが……俺たちにとっては羨ましいくらいに最強だぜ? どうやら本人は気がついてねーみたいだけど、恐らくそれは本人だけだ。全く笑っちまうよな、神にしろ千葉浩介にしろ、ふざけてる能力を持っている本人が自分の能力を知らないっていうのはよ」
くくく、と笑って《不滅男爵》が言う。もともと《不滅男爵》には浩介と接触を持つという任務は課せられていなかったのだが、―――《不滅男爵》のようなタイプの人間が、交渉や口八丁に向いていないのは一目瞭然であるからだ―――《お庭番》、ひいては《影武者》を尾行の最中に偶然三人の邂逅を目撃したのをチャンスとしたのだ。
浩介の身柄を確保するのは簡単だった。とにかく自分に敵意が無いことを伝え、さらに自分には怪我を治すことの出来る能力が備わっているとも言って―――ニュアンスは違うがこれは事実であるし―――《お庭番》が自分に浩介の身柄を預けてくるように仕向けたのだ。最初は《お庭番》だって当然自分の存在に疑問を感じていたが、時間がなかったために深く考えもせず自分に身柄を渡してくれた。
もともと《お庭番》の所持している道具に時間制限がついていたことは知っていたし、それがごく短い時間だということも知っていた。《お庭番》が千葉浩介を助けにきたことから二人には何らかのつながりがあることも理解したので、死ぬとわかっている千葉浩介を助けるためなら、多少の無謀な決断も辞さないと判断したのだ。無論《お庭番》が《影武者》との戦いの最中であり、物事をじっくりと考える余裕が無かったこともしっかりと計算して、だ。
近くにあったアパートの中から適当に一室を選び出し、鍵がついていたので壊し、中に人がいたので殺し、そうして確保した部屋に浩介を寝かせた。いきなり六亡星に連れ帰ってもよかったのだが、日本中にいくつか点在している基地まではある程度距離があったし、何より途中で目を覚まされると始末が悪い。ので、《不滅男爵》は浩介の目が覚めるのを待ったのである。
そして、予想していなかった《氷姫》からの襲撃を受け、今に至るのだ。浩介は逃げてしまったが、まぁ仕方が無いと割り切った。前述したがもともと《不滅男爵》は浩介を捕まえる任務には就いていなかったのだ、どうせ残った二人、《血色の白》と《雷神》がうまくやってくれるだろうと思っていた。
「まぁね、その気持ちは同感だわ。でもね、あなたの言葉を借りると、そっちのほうが私たちにとっては好都合なのよ。あの子たちには己の能力をわきまえてもらっちゃ困るわ。己が能力を知らないうちにせめて殺してあげたいものね。
……もちろん、ついでにあなたも殺してあげるわよ」
ぎらりと《氷姫》の表情が変わる。今までもかなり鋭い視線だったのだが、それがさらに、まるで野生の獣、特にしなやかな猫科の動物を思わせるような鋭さをたたえた獣の瞳に変化する。同時に身にまとっていた雰囲気も一段と冷たく険しくなった。その変化をすぐさま感じ取り、《不滅男爵》も臨戦態勢をとる。今までの攻撃はほんの小手調べ―――両者の表情はそう物語っていた。
左手を剣から離し、依然として傷ついたままの左手を《氷姫》に向ける《不滅男爵》。その手のひらから現れたのは、やはり「何か」。
「もうそれは見切っているわ。何度も同じ手にかかるほど、私は馬鹿じゃない。あなたもあなたで、馬鹿の一つ覚えみたいな攻撃ばかりしてこないで頂戴!」
「喰え!」
《不滅男爵》のそんな声とともに「なにか」の口が大きく開かれ、《氷姫》の全身を飲み込もうと迫る。しかし無論そんな攻撃を甘んじて受ける《氷姫》ではない。
光の線が煌いた―――かのように見えた。瞬きを一回する暇もなく、まさに一瞬のうちに「なにか」が数十個、いや、百幾つものパーツに別れる。そのままそれは液状化し、さらに細かく霧状に分解し、飛沫のように紅の液体―――血液に変化する。血液の霧はそのまま《氷姫》に降りかかった。ただの目潰しであるが、しかし相手が十数メートルの距離を瞬く間につめることが出来るのだとしたら、その効果は絶大、まさに一撃必殺の予備動作と同様になる。
「ひゃははははぁっ! 死ねや!」
軽く地を蹴り、たった半秒たらずで《氷姫》との距離が零になる。《不滅男爵》は虫唾が走る、下卑た笑い声をあげながら右手に持った真紅の刀を振りぬいた。
ずぶり、と気持ちの悪い音がして、刃が胴体の三分の二以上を横に切り裂く。中に覗く内蔵がグロテスクだ。
「くそがぁっ!」そう叫んだのは《不滅男爵》。寧ろ、胴体を切り裂かれたのが《不滅男爵》だった。
《不滅男爵》が切り裂いたはずの《氷姫》の姿は、いまや表情すらわからぬただの氷の塊と成り果てている。叫んだ拍子にびきびきとひびが入り、そのまま刀が突き刺さっている部分から根こそぎ砕け折れる。ごとん。音がして分離、そのまま融解してただの水へと変貌した。
「死に、なさいっ!」
両手に力を込めて刀をひねり、その部分の肉を巻き込み殺いでからさらにもう一度力強く切り込む。本来の日本刀ならば脂肪や血液によって切れ味はかなり落ちているはずなのだが、《氷姫》の技量かそれとも《氷姫》の持つ絶対零度≠フ能力か、その点は無視されているようだった。
またも気持ちの悪い、怖気のするような吐き気のするような音が響いて、日本刀が右脇から抜けていく。ちょうど斜め下から掬い上げるように《不滅男爵》の体は上下に二分割され、《不滅男爵》はぐぅあああああぁと奇声を発しながら―――
《氷姫》を殴り飛ばした。
「てめぇ、滅茶苦茶痛いだろぉが。痛いだろうが痛いだろうが痛いだろうが! 俺がいくら不滅だっつってもなぁ! いてーもんはいてーんだよ! くそが、胴体真っ二つにしやがって! てめぇは絶対許さねぇ、五体ばらばらにしてもまだもの足りねぇ。覚悟しておけよ、《氷姫》。てめぇは俺を怒らせた」
全く元通りになった―――身に着けている上着は依然として真っ二つにされたままだったが―――部分をさすりつつ、《不滅男爵》はまさに怒髪天を衝く勢いで《氷姫》に叫んだ。《氷姫》は半ば呆然としていた表情を作っていたが、すぐに体勢を立て直し、氷の剣を掴みなおして立ち上がる。
《不滅男爵》が一歩足を踏み出したそのとき、《不滅男爵》の体がぐらりと揺れた。倒れこそしなかったものの、まるで立ちくらみや貧血のときのような、そんな反応。それは本当に一瞬だったので、流石の《氷姫》といえどその隙を狙うことなど不可能だったがしかし、《不滅男爵》は苦々しい、忌々しい表情を作って吐き捨てる。
「くそ、使いすぎたか。足りなくなってきたな。……どこかにいい『餌』は……」
視線だけを左右に向け、何かを探しているかのような《不滅男爵》。すると視界の端に、騒ぎを聞きつけた警官がやってきた。今までに来た警官の仲間は二人で、二人が二人とも助けを呼ぶ間もなく殺された。そして、彼もまた。
「君たち、一体何をやって―――」
「見つけたぁっ!」と《不滅男爵》が歓喜の声を上げた。途端に走り出し、常人ならば間違いなく反応できないような速度で警官に近寄り、「いただきまぁす」と、それだけ言った。
ずぶずぶずぶずぶずぶずぶと。
ずぶずぶずぶずぶずぶずぶと。
ずぶずぶずぶずぶずぶずぶりぃっ、と、肉が裂けて骨が割れ、皮膚に断層が走り血管が切断され、《不滅男爵》の胸と下腹部から計二十本、両腕の内側、上腕も二の腕もあわせた内側から計十二本、あわせて三十二本の赤い牙が生えた。
それだけではない。大体鳩尾からへその辺りがぐばぁっと横に裂け、まるで大きな口のように開かれる。本来あるべきはずの内臓の姿は、どこにも見えない。
「いただきまぁすっ!」
そして両腕と胸と下腹部に生えた牙が閉じられ、警官の姿はどこにも無くなった。代わりに《不滅男爵》の新たに出現した口からは赤い液体が滴り落ち、ぐちゃぐちゃ、ぐちゃりという咀嚼音。
この間、約一秒半。《不滅男爵》以外は動かなかった。
「ごちそうさまでした」そういって《不滅男爵》は《氷姫》のほうを向く。
「あぁ腹いっぱいで気分がいい気持ちがいい。もう最高だ」
《氷姫》は呆然とした面持ちでそれを見つめていた。死体などとっくに見慣れているだろうが、それでも人が人を喰うところなど、しかも本来口があるべきではない腹部で他人を喰らうところなど見たことも無いはずだろうから、当たり前といえば当たり前だ。二つ名とはいえ人間は人間なのだ。二つ名もちが確かに人外ばかりとはいえ、これではあまりにも人外過ぎ、すでに化け物染みているというより化け物そのものだ。
と、そこで、あたりから声が聞こえてくる。
「た、なかぁぁあああああっ! ってめぇ、一体―――!」
《不滅男爵》の視線の先十メートルほどに眼鏡をかけた警官が怒声をあげていた。拳銃を引き抜いて《不滅男爵》に照準を合わせている。警官は発砲許可が下りるまでは絶対に自分の意思で発砲することなど出来ないのだが、この警官はそんなことを無視して発砲する。それは同僚が殺されたことによる怒りだったし、自分が殺されるかもしれない恐怖からでもあった。
全弾が《不滅男爵》をそれ、そしてまたも一秒後にはその男性警官の姿が消えていた。代わりに、やはり《不滅男爵》の腹部が咀嚼をしている。
「っつーことで、なぁ《氷姫》、場所を変えようぜ」
そう楽しそうに《不滅男爵》は言うのだった。
1
夢。夢を見ていた―――気がする。とても楽しい夢だった気がする。
その世界では自分はとてもまともな人間で、至極真っ当な生活を送っていて、頼もしい親友と可愛らしい彼女と優しい両親と、幸せで幸せで幸せな毎日を送っていた気がする。なぜすべてにおいて「気がする」とつけるのかというと、それは恐らくその出来事が夢だからで、けれどその夢が本当に夢かどうかすらわからないから最初に「夢を見ていた気がする」と言っているわけなのだけれども、その出来事を僕が第三者の視点から見ていたということや次の瞬間僕がベッドから飛び跳ねるように上体を起こしたことを考えると、やはりどうやら夢らしい。
そう、僕はベッド眠っていたのだ。周りは薄暗く、どうやら倉庫みたいなものの中のようである。ベッド以外に十数個のダンボールが積み重なっているだけで、それ以外は何も見つからない、質素や簡素というよりはすでに虚無的な部屋だった。出入り口も鉄扉のひとつだけ、窓すらない。電球も蛍光灯ではなく白熱灯だ。ここが我が家ではないことは一目瞭然だったし、ホテルの一室でもないことも確かだ。そういえばどうしてか、最近―――といってもたった一日の間の出来事なのだけれど。驚くべきことだが―――僕が眼を覚ますのは我が家ではないことが多い気がする。自分の不幸というか不運な境遇も、ここまで来れば笑いたくなってくる。
すると、ぎぃ、と軋んだ音を立てて、扉が開いた。
「あ、千葉様、起きておられましたか。私は千葉様の身の回りの世話を仰せつかった、六亡星の《記憶と記録を刈り取る死神》です。はじめまして。千葉様ことなら何でも、朝昼夕三食分の調理からこのお部屋の掃除からお召しになっているもののお洗濯からご入浴の準備から、ご要望とあれば下の世話まで全て私が担当させていただきます。どうぞご自由に私めをお使いください」
「……」
「どうしました、千葉様。お体の具合でも悪いのでしょうか?」
「……」
開いた口がふさがらない僕は、当然何もしゃべることが出来ない。
鉄扉を押し開けて僕の前までやってきた上に、僕のことを心底心配してくれているこの《記憶と記録を刈り取る死神》とか言うかなり地獄な名前の人物は、とりあえず僕の思考を完璧に吹き飛ばすには十分だった。
まずこの人物は少女だった。しかもとびっきりの。というより、少女ではなく幼女のほうがニュアンス的には正しいことうけあいの容貌をこの地獄な名前の少女はしていた。外見年齢は小学生だ。目算でも身長百三十後半、体重三十キロ前後、バストとウエストがほぼサイズ的には同じで、秋で葉で原なおっきいお兄さんたちが言うところの「つるぺた」だか「萌え」だか「ロリ」だか「ぺド」だかの項目を十分に十二分に満たしている。
……なんで僕がこんなことを知っているのだろう。恐らくは誰かに毒されたのだ。いや、こんなことはどうでもいいんだ。閑話休題。
次に、この幼―――じゃなくて、この少女の服装がまた問題だった。藍色を少し淡くしたような色のドレスを着ている。裾の部分がふりふりでぽわぽわしていて、しかもなんだかそれに純白のエプロンのようなものが同化しているように見えた。頭には白いカチューシャっぽいものをつけているが、これも同じく純白で、やはり同じふりふりぽわぽわだ。どう考えても一般人が日常的に着る服でないことは確かである。
っていうか、それはどこからどう見てもメイド服だった。
ご丁寧なことに地獄な名前の少女は金髪で、しかもくるくるの縦ロールでもある。
……僕はどうすればいいんだろう。これは一体何フラグが成立してしまったのだろうか。もう僕には何がなんだかさっぱり理解できないよ。
「えぇと、大丈夫、どこが悪いとかそう言うわけじゃ、無いんだ」
僕は眩暈すらしてきた意識を必死で立て直してそれだけ言う。
「……で、ごめん、えっと―――」
「《記憶と記録を刈り取る死神》です。千葉様」
「いや、ちょっとそれは長そうだから、もう少し短くて他の呼び方にしたいんだけれど」
《記憶と記録を刈り取る死神》という二つ名を持っている以上、この少女も恐らく適応者なのだろうけれど、どうもそんな感じはしない。それとも僕が今までであった適応者がおかしかっただけなのだろうか。それにしてもテンポが狂う。どう接していいのかわからない。
「それでは、死神とお呼びください、千葉様」
「それも不吉そうで嫌なんだけど。……あ、あと、『千葉様』って呼ぶのはやめてくれないかな? すっごくこそばゆいんだよね」
「……では、私は一体どう御呼びされればよろしいのでしょうか、千葉―――さん」
「ん……じゃあ、本名教えてくれない?」
それは何気なく言った一言だったのだが、僕はそれを言った瞬間に後悔した。一瞬にして彼女の顔がこれ以上ないくらいに曇ったからだ。けれど僕がそのことに気がついたときにはすぐに彼女は元の顔に戻していて、にこにこと笑っていたりする。
にこにこと笑っているのだが、それでも彼女ははにかんだまま、本名を答えようとはしない。ややあって、彼女が口を開く。
「……『ツクモ』です。……九十九と書いて、『九十九』。苗字でも名前でも、どちらでも宜しいですよ。私には本名というものがありませんから。九十九という名前だって、実の親から与えられたものではなく、六亡星の方々から与えられた、いわば二つ名と似たようなものなのです」
悲しげに、だけれど僕には極力そのことを伝わらせないようにして、九十九ちゃんは言う。何歳なのかはわからないけれど、その部分だけを見れば本当にしっかりとした、プロフェッショナルのメイドだ。
九十九ちゃんの過去に一体何があったのか。僕は気になったが、当たり前のごとく聞かないでおくことにする。
ぎぃとまたも軋んだ音を立て、二人目の来客が姿を現した。僕と九十九ちゃんの視線がそちらへ移動し。
瞬間。
僕の体が戦慄する。
がたがたと。
がたがたがたがたがたがたがたがたと。
がたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたと僕の体が面白いくらいに震え、なんとか失禁することは踏みとどめたものの、それでも涙や冷や汗が大量に流れ出て、反対に口の中はからからに乾いてしまう。怖い。怖い怖い怖い。怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。圧倒的な恐怖、圧倒的な存在感。戦う気すら起こさせない、歯向かう気すら起こさせない、それは圧倒的な武力。その存在こそが、圧倒的な武器。
僕は今までいろいろな適応者と出会った。変な黒い怪物とも出会った。けれど、それらだってここまで頭抜けていなかった。ずば抜けていなかった。僕が今まであった彼らの異常以上に異常だった。
「まぁ、ひとまず落ち着くがよい、若人よ」そんなしわがれた声が頭上から聞こえてくる。老人の声だ。僕はその声の主の顔を、姿を、直視することが出来ない。したいのに、体が言うことを聞いてくれないのだ。
声の主は続ける。
「ひょひょひょ。儂は別に、御主を取って食おうなどという気など毛頭ないわ。気を楽にするがよいじゃろうに。萎縮する必要も射竦められる必要も無いんじゃ。儂と御主は対等の立場におるんじゃから」
ふっと僕の体から震えが消える。いつの間にか汗も収まっている。気がつけば、目の前にいる人物が今まで放っていた圧倒的な恐怖や存在感やその他諸々が消え去っていた。僕の体に今まで容赦なくかかっていたプレッシャー、重圧が消え、僕はようやく解放される。にしても、息も詰まるほどのこの圧倒的な感覚、他の適応者の誰からも味わったことの無いこの恐怖感。もしかしなくともこの人物は。
僕の思考をトレースしたのかのように、九十九ちゃんが言う。
「この御方が、現在の六亡星のトップである、《一騎当千》様です」
《一騎当千》! 現存する適応者、能力者、道具持ち、異能者の中でも最強と謳われている、《一騎当千》! もちろん僕は初めて会ったし、話だって万屋さんから聞いただけなのだけれど―――納得。これは納得せざるを得ない。確かに最強、確かに最恐。これは格が違うなんてものじゃない。これは桁が違うというものですらない。そんな言葉で言い表すには、この《一騎当千》なる人物は役不足すぎた。そんな小さな、ちっぽけな形容詞で言い表せるほど、この人物は小さくない。
なるほど、確かに最強。僕はもう一度理解する。この人物が最強でないとしたら、一体何が最強だというのだ。炎のような熱さと氷のような冷たさと、凶戦士のような狂気と聖騎士のような高貴と、野獣のような獰猛さと野鳥のような狡猾さと、それら全てを内包しているこんな人物を、一体誰が超えて最強と名乗れるだろうか。
僕は視線をおずおずと《一騎当千》に向ける。
「な、んの、用ですか? もしかすると、万屋さん―――《お庭番》がらみ、ですか? それとも京沢先輩のことですか?」
「違う」帰ってきたのは意外な答えだった。
「確かにそれもあるが、一番重要なのは御主じゃ。《お庭番》と神に一番近しい能力者という以前に、儂ら六亡星は、御主に用があるのじゃよ。御主がほいほいとついてきてくれるとは思っておらんかったので、あのような手荒な真似をして攫って来ることになってしまったがな。そのことについては深くお詫び申し上げる」
ぺこりと《一騎当千》が頭を下げた。それを見て九十九ちゃんも頭を下げる。僕はその二人と自分自身を交互に見つめた後、手持ち無沙汰になってしまって反射的に頭を下げてしまっていた。我ながら情けない。
というか、僕は今、とても凄い光景を目にしているんじゃないだろうか。最強とさえ呼ばれている《一騎当千》が、そしてなんだかよくわからないブロンドくるくる縦ロールの幼メイドが、僕に向かって、僕に自らの非礼を詫びるために頭を下げているのだ。この状況では、寧ろ僕のほうが恐縮しきってしまう。
僕は頭を上げた《一騎当千》の姿をまじまじと見る。年齢は恐らく六十か七十くらいだが、ふさふさと蓄えられた長い白髭と綺麗に剃られた頭髪のせいでそれよりも幾分か年齢は上に見えていて、どちらかといえば人間というよりも仙人といったほうがしっくり来る格好だった。服装も古めかしい羽織袴で、かなり年季が入っている。三浦と名乗った男といいこの《一騎当千》といい、六亡星の幹部は和服が好きなのだろうか。
「さて、寝起き直後で本当にすまないのじゃが、御主についてきてほしいところがあるんじゃ。《雷神》からも聞いたじゃろう、御主がこちらへと赴いてくれれば、儂らは《お庭番》のことから神のことから、そして御主が一番知りたがっているであろう御主自身がなぜここへ連れてこられたかを教えると。それならばやはり、場を改めたほうが―――」
《一騎当千》の言葉がそこで止まる。何故? 簡単だ。僕が《一騎当千》の胸倉を掴んでいるからに決まっている。ベッドから上体を起こした格好で、《一騎当千》も九十九ちゃんも目を丸くしていた。にしても、呆気ない。こんな簡単に胸倉を掴んでしまえるとは、最強という呼び名すらつく《一騎当千》だとは到底思えず、少しばかり疑問を抱かずにはいられない。けれど僕のそんな疑問など、大量の、膨大な怒りによって霧散する。
《雷神》。古賀と、堀井さんを、殺した人間。
「―――《雷神》だって!? そいつは、そいつは今どこにいる!? 教えろ!」
「ひょひょ……学友と教師を殺されたことが、そこまで不愉快か。しかし、儂にはどうすることもできんのう。儂らは何か目的があって動いているのではない。群としての行動ではなく個としての行動しかしておらん。六亡星なる組織を作ったのも、そもそもは三武神から自らの身を守るためでの、儂らが集まって何かをしようなどと、そんな考えは毛頭持っておらなんだ。確かに御主をつれてくるように命じたのは儂じゃが、《雷神》が何をしようと、儂には関係の無いことじゃて。
そうじゃろう、御主。わかったかの?」
僕の後ろから、そんな声が聞こえた。その声はあまりに冷静で、同時に薄ら寒くて、僕は少しばかりびくりと体を振るわせたものなのだが、それにしても、後ろからだって? だって、《一騎当千》は僕が胸倉を掴んでいるじゃあないか。ほら。
僕はしっかりと《一騎当千》の胸倉を掴んでいた。その《一騎当千》はにやりと気味の悪い笑みを浮かべていて、僕はその笑みにどうしても顔を背けたくなり、後ろにいる人物を見ようとして首を後ろに回し、そこで《一騎当千》と目があった。
《一騎当千》が二人いた。……いや、違う。二人どころではない。気がつけばその部屋の中に六人もの《一騎当千》が存在していた。身長、顔つき、衣服、佇まい、それら全てが六人とも一致しており、まるっきり同一人物だとしか思えない。少なくとも《影武者》のような「他人の顔を移し変える」というものではないことは一目瞭然だった。本質すら同じに感じられたのだ。
怒りが瞬間的に驚愕に変わる。道具の能力だということは薄々感づいているのだが、それらしき行動、予備動作すら無かったので、何が起こったのかは判断できなかったのである。
「『一騎当千』。儂の二つ名であり、同時にエンシェントの名前じゃ。短刀の形をしておる。《一騎当千》は一騎当千≠使うのじゃよ」
そういって六人の《一騎当千》は、全員懐から一本の短刀を取り出した。全長が二十センチほどの、本当に小さな短刀で、白い鞘に納まっている。柄の部分も白磁のように白い。まるで魔性の色。
「い、《一騎当千》様! そんなにも軽々しくご自身のエンシェントをお見せになられるなど、軽率すぎます!」
九十九ちゃんが慌てた様子で言う。けれど《一騎当千》は不敵な笑みを口元に浮かべたまま、やはり六人が六人とも顎鬚を撫でつつ、僕に言うのである。
「とりあえずついてくるがいい、御主―――いや、違うな。御主はすでに二つ名を持っているといっても、過言ではなかろう。
改めて言おう。ついてくるがいい、《終焉》。御主がついてくるならば、儂ら六亡星は、御主に全てを教えて進ぜよう」
「っつーことで、なぁ《氷姫》、場所を変えようぜ」
そんな提案に《氷姫》が容易くうなずいてしまったのは、まず目の前で人間が二人「喰われた」という事実にある程度呆然としていた、つまり意識が無意識状態になってしまっていたこともあるし、《氷姫》自身あそこで戦い続けることに抵抗を覚えたからだ。人の命を軽々しく扱うことは《氷姫》の、ひいては三武神全体の本意ではないし、被害者も目撃者も少ないほうがいい。そのような意味であそこは最悪だった。
二人が移動したのは、そこから走って五分ほどの割合近くにある―――といっても常人ならば三十分以上はかかる距離だが―――河川敷の高架下だった。この街は南北を横切るように川が流れており、河川敷には人目につかない場所もいくつかある。基本的に喧嘩や恐喝、不良の溜まり場と化しており、稀に死体が遺棄してあったり強姦の現場となったりもするほど人気の無い場所である。
ちなみに、数キロにも及ぶ河川敷の中で二人がその場所を選んだのは全くの偶然なのだろうが、その場所は以前にも浩介が黒い怪物を殴り倒した場所でもあった。
二人は十メートルほどの距離をとり、向かい合ったまま対峙していた。どちらもその場から一歩も動かない。動いたとしても、片方が前へ進めばもう片方が後ろに下がり、片方が後ろへ下がればもう片方が前へ進むという図式が出来上がり、常に二人の距離は一定だった。そのような状態が出来てからすでに十分以上が経過しているが、依然としてこの膠着状態は終わりそうに無い。
そんな一進一退の攻防、膠着状態に、先に音を挙げたのは《不滅男爵》だった。苛立ちのためか口元は引きつっている。
「おいおいおいおい、《氷姫》さんよぉ。一体いつまでこんなつまらねー殺し合いを続けてるつもりだよ。あんたは俺を殺して、《終焉》を殺して、神を殺すんじゃなかったのか? くだらねぇ。こんなつまらねー殺し合いを続けるなら、《氷姫》、俺はこの場からさっさとおさらばするぜ」
「バッドエンド?」
《氷姫》が尋ねる。
「あぁ、《終焉》だ。終焉と書いてバッドエンドと読むんだがな。なかなか頓知が利いているだろう? 所謂一つの二つ名らしい。千葉浩介についた、な」
「……ふぅん、なるほどね。確かに正鵠を射ているといえば射ているわ。六亡星、貴方がたも考えたものね。
では、《不滅男爵》。先の貴方のもう一つの質問に回答するならば、別にいいでしょう、かまいません。貴方の言う、つまらなくない殺し合いでもしましょうか。
―――逃げ場は、ありませんよ」
ぎらぎらと照りつける陽光を、何かが乱反射してきらきらと輝かせる。川の水面などではない。そもそも乱反射させる物体はどうやら《不滅男爵》頭上にあるようで、最初はただの小さな点だったものが急速に肥大化していき、ついには直径十五、六メートルほどのものに変貌する。
《不滅男爵》の頭上にあったのは、まるで大きな岩塊に酷似している氷塊だった。まるで一枚の絵画のごとく、ウイスキーグラスに落とされたロックアイスのようなそれは、何物にも縛られること無く《不滅男爵》の頭上を浮遊していた。
《不滅男爵》が回避行動に移ろうとするが、出来ない。気がつけば足が地面と張り付いていた。氷に因るものなのだろう。無論靴を脱いでいる暇など無い。氷塊が《不滅男爵》めがけて落下していく。
「だから言ったでしょう? 逃げ場はないと」
このためだったのだ。この準備をするためだったのだ。急ぎの仕事がある《氷姫》が、わざわざ十数分もかけて《不滅男爵》と一定の距離をとり続けていた理由は、この氷塊を《不滅男爵》の上に発現させ、そして押しつぶすことだったのだ。
《氷姫》の持つ絶対零度≠ェいくら氷を生み出すことが出来るといってもそれには限界がある。小さなサイズの氷を複数個出すことは可能だが、大きなサイズの氷を出すことはたった一つでも一苦労なのである。それもそのはずで、絶対零度≠ヘ無制限に氷を生み出せるのではなく、あくまで空気中の水分を凍りつかせることが出来、さらにそれを操ることが出来るだけなのだ。普通の大気中にいくつも氷を生み出せるほどの水分が含まれているはずは無いので、多少は足りない分の水分を補ってくれているのだろうが、それにも限度があることは考えるまでもなかった。
あの氷塊を作り出せるほど水分を集め、そして同時に《不滅男爵》の靴を凍りつかせ、氷塊を作り出すまでに必要だった十数分。その十数分は、そのために賭けたもの以上の成果が得られる。
「うおおおおおおぉっ!?」
《不滅男爵》が、死なないはずの《不滅男爵》が、驚きの声を上げる。当たり前だ、今回ばかりは今までのように体の一部が欠損したからすぐに修復というわけには行かない。推測でしかないのだが、《氷姫》が考えていることが事実だった場合、《不滅男爵》の再生修復能力は完全無欠というわけでなく、寧ろ穴、弱点すら在り得るのだ。そして《氷姫》の考えは、《不滅男爵》の悲鳴にも近い驚愕の声によって、彼女の考えが事実だということを如実に表していた。
つまり、《不滅男爵》の身体再生修復能力は、圧死や爆死などに対しては、全くの無力だということ。
「くそ! くそっ! くそぉっ! 謀りやがったなてめぇ!」
足を動かすが凍りついた靴は全く動きそうに無い。靴を脱ぐ暇などはもとより存在しない。
氷塊が《不滅男爵》の眼前、五メートルといったところまで迫る。
「俺は《不滅男爵》だ! 俺は不死の《不滅男爵》だ! こんな簡単に死ぬのなんて、ふざけんじゃねぇぞ!」
ぶちん、という音が聞こえた。それはあくまで気のせいにしか過ぎないのだろうが、けれどそんな、まるで堪忍袋の尾が切れたかのような音が《氷姫》の耳にはしっかりと届いたのだ。
顔面の筋肉を有り得ないくらいに捻じ曲げて怒り狂っている《不滅男爵》は、狂乱したまま両の腕を氷塊へと向ける。氷塊との距離は約四メートル、受け止めようというのだろうか。《氷姫》はそんな考えをあっさりと捨て去る。無理だ、馬鹿らしい。
そのまま踵を返して立ち去ろうとして、《氷姫》は自身の背後で轟音があたり一面を劈くのを聞いた。
がらがらと氷塊が崩れ落ちていた。大小さまざまな氷の破片は、《不滅男爵》を中心におくようにして円を描くように散らばっており、砂埃と細かい氷の塵によって《不滅男爵》の姿は見えないが《不滅男爵》はどうやら傷一つ負っていない様子である。《氷姫》はすぐさま思考を切り替える。どうやってだ、どうやってあの巨大な氷塊を砕いたというのだ。
砂埃と氷の塵が収まったころ、自然と《氷姫》のその疑問も無くなった。回答は《不滅男爵》そのものだったからだ。
《不滅男爵》の両腕は、肘の先から癒着し変化していた。即ち、巨大な赤い筒に。
「……あの氷塊を、あの短距離で、そこまで破壊できるなんて」
呟く《氷姫》。瞳は一瞬だけ驚愕だったもの、すぐに殺意の篭った絶対零度の瞳と変貌する。ぎらりと刺すような視線。けれど《不滅男爵》から帰ってきた視線は、それよりもさらに殺人的、狂的な視線。もし仮に視線に殺傷力があるならば《氷姫》の視線も十人の人間は死に至らしめられるだろうが、《不滅男爵》はその十倍、百人ほどは殺傷できるのではないかというほど危険だった。それは今まで《氷姫》が味わってきたどの危険とも違う危険。
即ち、本能から来る死の危険。圧倒的な恐怖、絶対的な死の危険。前に一度相対したことがある《一騎当千》も異常なほど恐怖感を与えてきたが、今回はそれとは別のレヴェルの恐怖である。
そんな自分自身の恐怖を打ち消すかのように《氷姫》は叫ぶ。
「……いいわ、相手にとって不足無し! 貴方の能力と弱点は全て見破った、理解したわ! 貴方のその赤色魔獣=A今度は完璧に打ち破ってみせる!」
「五月蝿い。黙って聞いてればごちゃごちゃごちゃごちゃ、本当に五月蝿いんだよ。一人分の血液、今の攻撃で失っちまったじゃねぇか、もったいない。あぁもう本当に五月蝿いし面倒くさい。《氷姫》、お前も決着つけたがってるみたいだし、終わらせよう」
《氷姫》は氷の日本刀を具現。
《不滅男爵》は赤い筒を照準。
「消えろ」
そのセリフは、一体どちらが言ったものなのか。
《不滅男爵》の赤い筒から、巨大な、本当に巨大な、直径五十メートルはあろうかという巨大な赤く丸いものが射出される。それは本来ならば「弾丸」や「砲弾」と呼ばれるべきものなのだろうが、何分それは巨大すぎた。人目を忍ぶならば決して使ってはいけないほどの巨大さだが、どっちにしろ先ほどの《氷姫》が生み出した氷塊も似たようなものなのだろう。
《氷姫》は流石に身構えるが、その瞬間赤く丸いものが収縮する。大きさは十分の一ほど、約五メートルという大きさにまで縮まるが、結果として大きいことに変わりは無い。呆気にとられた《氷姫》は、けれど日本刀を構えて振りぬく。気合一閃、一秒もせずに日本刀の刀身が伸びて伸びて伸びて伸びて伸びて伸びて伸びて、約十メートルほどの長さになる。距離はちょうど《不滅男爵》を捉えることが出来るくらいの長さだ。
視点力点作用点、てこの原理で普通はそんなもの人間が持つことなど出来るはずはないのだが、一体全体どうしてか、《氷姫》はそんな化け物染みた日本刀を容易く振りぬく。
刃が赤く丸いものに触れたとき、まさにぐにゃりという擬音語がぴたりとくるように赤く丸い何かが変容し変貌し、流石に変質まではしなかったものの、そのまま不思議な動物を形作った。外見は犬に似ているが、普通犬は頭を三つも持っていないのである。
三頭犬ケルベロス。地獄の門番とも呼ばれる、空想上の動物―――そんな単語がいまさら《氷姫》の脳裏に浮かぶ。
ぐぅおおおおおぉっ! そんな唸り声とともにケルベロスの口が大きく三つとも開かれ、我先にとこぞって《氷姫》を襲う。《氷姫》の武器である日本刀はケルベロスの足をちょうど切断したところではあるが、血液から成っているのならば当たり前だけれどケルベロスにはどうやら痛覚というものが存在しないらしく、片足がなくなったことなどお構いなしで《氷姫》を食い尽くそうと、ひねり潰そうと突撃してくる。
ケルベロスと《氷姫》の差は約一メートル半。目と鼻の先だ。逃げ場は無い。それは奇しくも先ほど《氷姫》自身が《不滅男爵》に向かって言い放ったセリフ。
「くは、くははは、かはははは、ぎゃははははははぁっ! わかったか、《氷姫》ぃ! てめぇはさっき、俺の能力を見切ったとか言いやがったが、これでもかぁっ!? これが赤色魔獣≠フ能力、本当の力! 地獄の門番、三頭犬ケルベロス! これを体の中に巣食わせる、それが俺の能力、赤色魔獣≠フ能力なんだよ馬鹿が!」
《不滅男爵》言い終わるとほぼ同時に、《氷姫》の全身が影に覆われる。そしてそのまま為す術も無く、牙と唾液に埋め尽くされた口内へと消えていった。
かちゃりと音を立て、氷の日本刀が地面に落ちる。
「―――完了、也。我が主、これで命は果たせたであろうか」
低い、呻くような、地獄の底から響く死者のような声が響く。その声はケルベロスの口から発せられているように思えた。
「御苦労だった、赤色魔獣。てめーは本当に最高だ」
それだけ言うと、「赤色魔獣」と呼ばれたケルベロスの体がどろどろと溶解し、そして《不滅男爵》の元へと吸い込まれるようにして同化した。だんだんとチョコレートが融けるように上部から融けていき、ゆっくりと《不滅男爵》の服の上から染み込むように消えていった。同時に腕に癒着していた赤い筒も消えていく。二分ほどして全てが《不滅男爵》に吸収される。
結局、《氷姫》の遺品はどこにも見当たらない。
そこで《不滅男爵》はポケットから携帯電話を取り出し、ボタンをプッシュする。相手の名前は『《一騎当千》』。
「よ、爺さん。《不滅男爵》だ。《氷姫》は無事に倒したよ。……あぁ、怪我はそこまで、無いな。危うく負けそうに……なんだ、いいだろうが。どうやら奴さん、俺の再生修復能力は見破ったらしいんだが……おぉ、そうそう。そういうことだ。無闇矢鱈に使うもんじゃねぇなぁ。……ん? 最後はケルベロスで仕留めた。わかってる、野次馬がこねぇうちにさっさとトンズラするさ。
そっちは……お、起きたのか。オッケ。わかった、すぐに戻る―――」
そこで《不滅男爵》はいったん動きを止め、「―――悪い。戻れなくなった」とだけ言ってから電話を切断する。
噴出しそうになる汗を必死で堪えながら、とにかく《不滅男爵》はこれだけ聞いた。
「どうしててめぇがここにいる?」
視線の先にいる《氷姫》は、その問いに対して「さぁ、どうしてかしらね?」と微笑み混じりで返した。身に着けているダークグレイのスーツはぼろぼろで、高級そうだったパンプスはすでにどこかへ消えてしまっている。両手両足胴体下腹部、全てに何かしら多かれ少なかれ怪我をしており、中にはかなり深く抉り取られている部分だってあったのだけれど、《氷姫》は痛みに顔をしかめることすらせずにゆっくりと足を踏み出す。
「どうしててめぇがここにいるんだ、《氷姫》ぃっ! てめぇは赤色魔獣に喰われて死んだだろうがよぉっ!」
足元の日本刀を拾い上げながら、《氷姫》。
「貴方に教える義理はないわねぇ。こっちだって結構一杯一杯だったのよ? あと二秒半遅かったらどうなっていたことか。それでも回避し切れなくて、この怪我だし。
これから、貴方を滅殺するわ。抹殺するわ。惨殺するわ。覚悟しなさい」
「何を言ってる……何を言ってるんだこのクソがぁっ! 赤色魔獣、食い尽くせぇっ! 骨も残すな! 今度は絶対に回避されるんじゃねぇぞぉっ!」
「御意」
ずるぅと体中から血液が染み出し、それがまたもあのケルベロスを形作る。しかし大きさは先ほどよりも小さく、全長が二メートルといったところだ。《氷姫》の力を過小評価したわけではないだろうから、多分周囲に見つかる関係上だろう。それでもケルベロスのかかえるその三つの口は、《氷姫》を一口で丸呑みに出来るほど大きく、さらに混沌としていた。
何か合図をするわけでもないのに、いきなりケルベロスが《氷姫》に飛び掛る。《不滅男爵》としっかりした意思の疎通を離れるということは、ある程度の言語能力や意識を備えているということだろう。ならばこのケルベロスの行動も、ケルベロス自身の意思によるものなのだろうか。
全く、貴方も馬鹿な飼い主に飼われたものね。《氷姫》はそんなことを思いながら日本刀を一振りし、氷の砲弾を出現させてからそれを一気に放つ。放たれたそれはケルベロスへ真正面から向かい、そして拮抗して砕け散った。ケルベロスのほうはたいした怪我を負った様子は無かったが、それでも一瞬の隙が出来、その隙に《氷姫》は駆けてさらに跳ぶように二、三歩、距離にして五、六メートルは後退する。
「殺せ!」
怒声を放つと同時にナイフで自分の手のひらを傷つけ、憎しみと憤怒を両の瞳に携えながら走り出す。そんな《不滅男爵》の後ろを追うようにケルベロスも《氷姫》の元へと走り、《氷姫》は自分に向けられている殺意の絶対量に少しばかり背筋を冷たくするも、すぐに笑みを浮かべる。それは開き直ったが故の笑みではなく。
ぐるああああぁっ。地獄の咆哮が響き渡り、やはり《氷姫》の全身が黒い影に覆われ、次いでケルベロスの口へと溶け込んでいく。
あまりの呆気なさに《不滅男爵》は数秒呆然とするも、すぐに口の端を歪めて笑う。
「……くは、ぎゃはははははぁっ! 何が、なぁにが『滅殺する』だ!? なぁにが『抹殺する』だぁ!? なぁにが『惨殺する』だぁっ!? 何が、何が、なぁにが―――」
ぐるああああぁっ。再度地獄の咆哮が響き渡り、けれど今度は先ほどと意味合いが全く異なっており、《不滅男爵》が視線を向けた先ではケルベロスがもがき苦しんでいた。ちょうど一秒後、三頭のうち一つのあごの部分がぴしりと音を立てて砕け散り、中から姿を現したのは。
姿を現したのは。
「―――ひょ―――!?」
「二度目は流石に辛いわね。ということで、緊急脱出。さっきも同じ方法よ」
先ほど取り落とした日本刀を拾い上げ、《氷姫》は乱れた髪を掻き揚げる。
「本当の生き物なら、今みたいなことは出来ないんだけど……それ、貴方の血液でしょう? なら、私にとって、こんな脱出方法は造作も無いわ。それでも半端じゃないくらい怪我はするけどね」
さらに増えた全身の怪我を眺めて、《氷姫》は悔やむような表情を作って《不滅男爵》と対峙する。出血量がそもそも尋常ではなかった。このまま戦いに勝っても、そのまま出血多量で倒れてしまうのではないかというくらい《氷姫》は出血していた。ケルベロスの口に飲み込まれたのだからそれも当然だが。
どろどろと液化し崩れていくケルベロスが、先と同じように《不滅男爵》へと集まり、吸収されていく。どうやらそれは《不滅男爵》の意思とは無関係で行われているようであり、《不滅男爵》は着流しを通してケルベロスを形作っていた血液が体内へ侵入することを気にした様子も無く、呆然と《氷姫》を睨み付けていた。
すでに何度目かわからない対峙。一桁ということは無いだろうが、かといって三桁ということがあるはずもないだろう。二桁、十から九十九のうちのどれかが可能性としては一番多い。きっと、あと数回の対峙で決着がつくだろうと、両者ともに考えていたに違いない。
《氷姫》が氷の日本刀を川へと突き刺す。
「終わりよ。これで本当に、終わり」
言うが早いか、ぱきぱきと川がたちまち凍結していく。冬ですらないというのに、冬だとしても有り得ない光景だというのに、そのありえない光景を作り出した《氷姫》と絶対零度=B世界平和という看板を掲げるだけのものはある。
絶対零度≠フ能力で凍らせることが出来るのは空気中の水分だけなのだが、例外的に《氷姫》が触れている液体、及び《氷姫》が絶対零度≠ナ作り出した物体に触れている液体は凍らせることが出来る。先ほどのケルベロスの顎を凍らせたのもその原理だ。
「おいおい……」
《不滅男爵》は自分の目の前にあるものを見上げ、すでに驚愕を通り越して唖然としたような表情をする。それもそのはずで、現在《不滅男爵》の眼前には《氷姫》が冷静に立っており、さらにその後ろには凍った川があり、問題はその凍った川なのである。
凍った川から、いくつもの氷の砲弾が生まれていた。大きさなどは今までと同じだが、数が比較にならないほど多い。今まではせいぜい十数個から多くても三十個程度だったのだが、凍った川から生み出されるそれは、明らかに数が多かった。五十や六十というところではなく、ぱっと見ただけでも百は下らないだろう。それが一斉に発射されるわけではなくゆっくりと移動しながら《不滅男爵》を取り囲むように移動しており、その間にも氷の砲弾は次々と数を増やす。
「おいおいおい……」
《不滅男爵》はただそう呟くだけだった。
「全方位攻撃よ。欠片も残さない、散り行くがいいわ!」
「なんだよこれはぁっ!」
二人の叫びを合図にしたかのように、今度こそ一斉に氷の砲弾が放たれる。前後左右上下問わず降り注ぐ幾百もの氷の砲弾を防ぐ術など存在せず、回避する術などさらに存在せず、大量の血飛沫を撒き散らしながら《不滅男爵》の姿が砂埃に飲み込まれて消えていく。
地震の如き振動と轟音がし、《氷姫》は舌打ちする。このままではすぐに誰かが集まってくるだろう、それでなくとも氷塊やケルベロスなどの人目につきやすい巨大なものを使ったのだ。確実に《不滅男爵》を殺すためには仕方がないとはいえ、この振動と轟音は必要経費だといえ、危ない。目撃者は消せばいいが、それでも死人は少なくしておきたかった。
《不滅男爵》からの断末魔は、無い。
砂埃が晴れるのを待つ。確実に死んだとは思うが、相手の死を見届けてから出ないと安心は出来ない。相手は二つ名で、しかも《不滅男爵》なのである。「不滅」のトリック、からくりも理解できているとはいえ、念には念を入れておいたほうがいいことには変わりない。
五秒、十秒。だんだんと立ち込めていた砂埃が晴れ、そこには―――
「嘘……」
驚愕する。今度は《不滅男爵》ではなく、《氷姫》が。思っても見なかった、予想だにしていなかった、考えてもいなかった、まるっきり全くの想定外だった。だってそうだろう、あんな大量に氷の砲弾を打ち込まれて、なんで、なんで。
「なんで死んでいないの?」
立ち尽くす《不滅男爵》。着流しはほとんど破れ飛び、それよりも傷があまりにも惨たらしい。左肩から先が無くなっており、右腕も手首から先がない。腹も大きく穿たれており、赤黒い内臓が見える。ところどころ皮膚や肉がはがれ、削げ落ち、薄桃色の皮下組織や筋肉、骨が見える。無論大量というにはあまりにも安っぽすぎるほどの血液が流れ出し、人間本来の色などどこにも見えなかった。ただ赤一色。ただ真紅一色。
死んでもおかしくない怪我なのに、《不滅男爵》の一体何がそうさせるのか、《不滅男爵》はゆっくりと《氷姫》のほうを向く。そしてにやりと笑って、人外としかいえない能力が起動した。
無くなっていた左腕が、だんだんと根元から復活していく。同じように右手も、その他の欠けた部分も、ゆっくりと根元から復活していく。再生、修復していく。それは今までのものと同様の再生修復能力だったが、今回のそれは規模が段違いだ。全身の再生修復、原理はどうであれその行為は《不滅男爵》の体に大きな負担をかけるらしく、時折ふらつきながらもようやく全身の修復が完了する。相対する《氷姫》は、驚きからかそれとも先ほどの氷の砲弾大量消費のせいか、動けない。動かない。
「ふっ……かつ、ってな。……滅茶苦茶いてぇのな。ちょっと対応間違えてたら、頭吹き飛ばされて……死んでたぞ、くそ。体力も回復してねぇし……」
「《不滅男爵》、貴方も本当に、しぶといわね。……もういいわ。私も疲れてきたことだし、貴方のその再生修復能力、完全に看破して、終わらせます。安全策をとってきましたが、怪我をしないように極力努めたのですが、どうも貴方はそれでは倒せないようです。なので、命をかけて、私が、《氷姫》が、貴方を滅します!
……はぁっ!」
右手に氷の日本刀を携え、《氷姫》は軽い気合の言葉とともに走り出す。相手の体調は万全ではない、狙うなら今しかなかった。近距離ではあの巨大な口が怖かったけれど、日本刀で間合いを取りながら戦えばそれもそこまで恐怖ではない。
「俺もいろいろと腹が減っててなぁ、赤色魔獣もそうらしい。そういうことだ。っつーことで―――」
ずぶり。ずぶりずぶりずぶりずぶり。ずぶずぶずぶずぶずぶずぶり。牙が生え口が裂け、巨大な口が開く。
「いただきまぁすっ!」
綺麗に日本刀が弧を描き、《不滅男爵》の右手が落ちる。同時に牙の数本が《氷姫》の体を捕らえ、腹部の肉を少量抉り取っていく。《不滅男爵》にあの再生修復能力があり、《氷姫》の怪我は内臓を傷つけるなど致命傷には至っていないようだ。両者の間合いがいったん離れ、そこで《不滅男爵》が異変に気がつく。
「……は? おい、おいおい、おいおいおい、一体これは、一体こりゃあ、どういうことだ? どうして……おい、どういうことだ。どういうことだ《氷姫》ぃっ!? どうして、どうして―――」
発狂したように叫ぶ。それは今までの激怒や驚愕から来るものとは全く異なった衝動で、例えるならばそれはプライドの崩壊。そしてそれから来る困惑。
「どうして俺の腕が再生しねぇんだぁ!?」
「貴方の能力、うすうす感づいてましたが、血液を媒体としてますね。最初に出したあのラグビーボールのような何かも、ケルベロスも、全て血液でした。貴方の再生修復能力もそれと同じで、血液を貴方の肉体に具現化して成り立っている―――そう判断しました。ならば対処は簡単、再生できないほどに全身を破壊するか、そもそもの前提として血液を具現化させなければいいのです。氷塊も全方位の氷弾も前者を目的としていたのですが、どうやらそれは難しいようでしたので、ならば消去法で取るべき選択肢は後者、血液を具現化させないを選んだわけです。もし仮にその判断が過ちだったとしても、そこまで問題は発生しませんし。逃げればいいだけですから。
ついでに聴きますが、《影武者》は千葉浩介―――貴方たちの言う《終焉》に対して、致命傷を与えたといっていました。《影武者》が言うからには確かなのでしょう。しかし彼は生きていた。それも貴方のせいですね。大方、貴方のその力で、彼の傷口でも塞いだんでしょう? 全く余計なことをしてくれます。
酷く困惑しているようですが、私の能力、覚えていますか? 絶対零度=B能力は―――」
走る。跳ぶように、舞うように《不滅男爵》へと近寄り、氷の日本刀がまた弧を描く。頭を狙ったその刃を《不滅男爵》は左手でガードし、しかし日本刀は左手を切断する。無論、その左手は再生しない。
どうやら《不滅男爵》は攻撃をするということすらすでに思考の中に存在しないようで、腹部と腕から生える牙がぶんぶんと暴れるだけである。腕から生えた牙はすでに意味を成さなくなったが。
両腕の切断面を見ると、そこだけが凍り付いていた。
「―――水分を凍らせる。空気中の水分限定なのですが、例外的に私が触れているものなどはオーケーなんです。どうです? 具現化出来ますか? 出来ないでしょうね。それはすでに血液ではないのですから」
「ひょ、ひょっ、《氷姫》ぃっ! て、て、てて、てめぇっ!?」
「あら、《不滅男爵》ともあろうお方が怯えるんですか。二つ名持ちでしょう? 《不滅男爵》でしょう? もう少し誇りというものを持ってくださいねぇ」
「う、うる、うる、うるせぇっ! 俺は、俺は不滅、俺は不死の《不滅男爵》なんだ! 死なない、絶対に死なない、死にたくな―――」
《不滅男爵》の言葉を遮って、日本刀が一閃。二閃。三閃。四閃。五閃目で頭部を除く全身が粉々に切り刻まれ、六閃目でついに頭部も破壊される。ばらばらと、ぱらぱらと、《不滅男爵》だったものが幾百もの部品と成り果てて、最後に放った一発の氷の砲弾で完全に消滅した。
《氷姫》はその光景をじっと見つめていたが、やがて足元に何かが落ちているのを発見し、それを拾う。赤い珠だ。大きさ的にはビー玉と同じくらいの赤い珠だった。最初は《氷姫》も首を傾げるが、すぐに思い当たる。赤色魔獣≠セ。
全ての道具に言えることなのだが、道具は絶対に壊れない。それの持ち主が死んでも残り、次の持ち主の手に渡るまで存在し続ける。それは過去の《氷姫》自身が試したことでもあるのだが、銃弾を受けようとも斬撃を受けようとも、かてて加えて巨大な氷を上から落とそうとも、壊れた試しは一度もない。道具にはさまざまな種類があり、装飾品を模したもの、武器防具を模したもの、それ以外の何かを模したもの、さまざまだ。
《氷姫》はそれを手に取り宙に放り投げる。一拍おいて、氷の日本刀が煌いた。狙いは赤色魔獣=B壊れないとわかっている、切断できるわけはないと理解している、身をもって試したことがあるのだから。だけど、それでも試してみたかったのだ。
「……やっぱり、壊れないか」
手の中に戻った、無傷のそれを眺め、《氷姫》は呟く。
人の声がし、振り向くとそこには一人の警察。交番にいる警邏の人間だろう、中年のくたびれた男性が、右手に何かを持ちながら土手の上に立っていた。温厚そうな顔つきだ。右手に持ったものは警察手帳だろうか。
「すいません、警察のものなんですが、このあたりで大きな音がしませんでしたか? いやね、近くの住民の方から、なにやら大きな犬がいるだとか氷の塊が宙を浮いているだとかいうわけのわからない通報がありま」
つながる言葉は永遠に発せられない。それもそのはずで、すでにその男性の首から上は消え失せていたからだ。変わりに、その男性の後ろには血濡れの日本刀を携えた、微笑の《氷姫》が立っている。
「知ってますけど、貴方にはもう教えても意味がありませんね。それでは」
ぐらりとバランスを崩して傾きつつあるその警察官の骸に《氷姫》は短くそれだけ言って、音も残さず消えていく。ただ、風にまぎれて「時間がない」という独り言のみが流れてきただけだった。
子供のころ、最愛の姉が死んでしまった。交通事故で、自分の目の前で、あっさりと。そのとき自分は、姉の死を悲しむでもなく、ただトラックに轢かれて姉のぐちゃぐちゃになった惨たらしい死体を見て、「死にたくない」と強く願ったものだった。
点滅している信号を見つけて、自分は急いでわたったけれど、運動神経が悪くいつものほほんのんびりと過ごしていた、加えて少し天然ボケだった最愛の姉は、飛び出したトラックに轢かれて死んだ。即死だった。曰く、トラックの運転席には死角がある分、姉の姿が著しく見えにくかったらしい。そんなことはどうでもよかった、ただ自分が憎くて、トラックが憎くて、運転手が憎くて、何より姉のように死にたくなくて、そもそも死ぬということがこのころから酷く現実味を帯びてきて、だからこそ余計死という概念に恐怖を抱いていた。
いつからだろう、自分が死ななくなったのは。いつからだろう、自分の血液が自分の欠損した部分を補ってくれるようになったのは。いつからだろう、自分の非常性を知ったのは。
いつのまにか六亡星に入っていて、知らず知らずのうちに二つ名というものを持っていて、周りから畏怖と畏敬の念で見られていて。そして結局、自分は殺される。不死のはずの、不滅のはずの自分が、殺される。死にたくなかった、死にたくなかったけれど、今になって思い返せば、別に自分は死にたくなかったわけじゃあないのかもしれない。最期の最期までそこのところの真偽はわからない。けれど。
死ぬ間際、「あぁこれで全てが終わる」とだけ思えた。後悔も自責も慙愧も後腐れもしがらみも何もなく、ただ、それだけ思えた。
結局、自分は死にたかったのだろうか、それとも死にたくなかったのだろうか。それはついにわからずじまいだった。
あぁ、姉貴。おはよう。そしてお休み。俺―――僕も今、そっちへ行くよ。遊ぼうね、一杯一杯遊ぼうね。ゲームをして、鬼ごっこをして、かくれんぼをして、トランプをしよう。約束だよ、約束だよ―――。
それは、ただ純粋に過去に囚われた、哀れな男の物語。物語という名のただの人生。三浦有志という名の、ただの男の人生。
2
一人、二人、三人、四人、五人、六人。そして僕。このかなりだだっ広い、僕の部屋五個分にも及ぶ大きさの部屋には、その七人の人物しか存在していなかった。中心にはよく学校などでも使われる長机が二つ横に並べられ、椅子が六つあり、五人が座っている。僕は逆にその六人の前においてある椅子に座り、緊張と恐怖とその他諸々の感情を人生における最大値で生産しながら、無言で六人と相対していた。空席がひとつ。その意味を理解しようとして、あの男、三浦有志と名乗った男のことを思い出す。彼はどうなったのだろうか。
左から《記憶と記録を刈り取る死神》こと九十九ちゃん。九十九ちゃんは仕事柄そういう立場なのか、椅子には座らずに五人の横でちょこんと立っていた。動かない。ありきたりな表現だが、まるでフランス人形のようだ。
椅子に座っている五人は、同じく左から《一騎当千》、《血色の白》、見たこともないいまどきの女子高生服の少女、かなり体格のいい中年男性、最後に《雷神》という順番で座っていた。
《雷神》を見た瞬間に僕の頭は沸騰し、危うくぶん殴りそうになってしまった。四肢同神≠奪われていたことも忘れていた。そこを幸いにも九十九ちゃんに止めてもらったのだけれど、僕は絶対に《雷神》という僕と同い年くらいの少年のことは許せない。殺意すら簡単に抱く。あぁ、本当に、本当の本当に腹が立つ、虫唾が走る。目を合わせたくもない。くそ。
こほん、と一つ咳をしてから《一騎当千》は語りだす。
「さて、現在空席が一つあるわけじゃが、ここには儂ら五人と同じく二つ名持ちの《不滅男爵》がつくはずじゃ。そうそう、御主が出会った、あの三浦有志じゃよ。あやつはどうやら、御主に本名のほうを名乗ったようじゃがのぅ。
それはさておくとして、じゃ。端的に言うとするならば、御主、我ら六亡星の仲間にならんか? 無論儂らは御主を殺すような真似はせん。寧ろあの忌まわしい三武神からも守ってやろう。どうやら御主の知人である《お庭番》は残念ながら我々が殺すが、別段御主にはそれほど関わりが無かった存在であろう? 命を救ってもらった過去はあれど、それは向こうが御主を利用するためにしたこと、何も恩義を感じる必要はあるまいて。
それに、のう御主。御主も知りたいじゃろう? 御主の人生を狂わせたエンシェント―――御主は道具、と呼んでいるんじゃったな。それについてのことや、さらに十五年前の御主の父親の活躍についてのことや、神、京沢由奈についてのことを、御主も知りたいじゃろう? さらに言えば、御主の級友である五十嵐ひかりの安否も気になるところじゃろうし。あの小娘については、御主が帰るときにでも引き渡すがの。無論、御主が無事に帰ることができるような返答をしたならば、じゃが」
脅迫だ。これは脅迫以外の何物でもない。そもそもこの場がすでに脅迫で、六対一という相手側が人数多数という状況下、さらに相手一人でも自分より強いというのに、どうやって相手の要求を拒めというのだろう。まるっきり悪徳業者の手口で、相手は悪徳業者よりも数百倍性質の悪い悪の組織で。本当に、運が悪いというかなんと言うか、とにかくすべてにおいて最低だ。
大体、今日一日だけでどんなことがあった? 朝は《影武者》だった五十嵐が登校していて、問い詰めたけど実は本物の五十嵐なのかと思い始めた矢先にやっぱりその五十嵐は《影武者》で、だけど《影武者》は五十嵐とはイコールではなくただ五十嵐の顔を借りていただけで、林が気絶させられて僕が止めを刺されようとしていて、そこを万屋さんが助けに来てくれたけど僕は気絶して。そういえば万屋さんはいったいどうなったのだろう。あの人のことだ、負けることは無いと思うけど。
そして気がついたら変な汚い部屋で眠っていて、僕を助けてくれた人は適応者で同時に六亡星で、いきなり外に連れ出されたと思ったら突然部屋が木っ端微塵になって、公園でへんな女の人と三浦とかいう人が戦いだして、僕が逃げた先では子供が五体ばらばらにされて殺されて、殺した張本人である《血色の白》は僕を狙っていて、さらにそこから逃げ出した先でも様子のおかしい古賀や堀井さんを含む五人に襲われて、そしたらあの黒い怪物が現れて、ついで《雷神》が出てきて合図一つで五人を自殺させて、僕を殴って。
また気がついたら今度は前よりも酷い倉庫みたいなところにいて、ロリな香りが抜群にする外人メイドさんが現れて、《一騎当千》も現れて、僕はこんなところに連れてこられて、脅迫を受けていて。
あぁもう駄目だわけがわからない。何で僕ばっかりこんな目にあうんだ? これは被害妄想なんかでは断じてない。この世の不幸が僕だけを対象としているみたいじゃないか。ふざけるなふざけるなふざけるな。僕はそこまで運命の神様に嫌われるようなことをしたか? 言ったか? 僕はこんなに理不尽に地獄的な運命の奔流に巻き込まれ流され続けて生きなければいけないのか?
腹が立つ。本当に腹が立つ。全てに対する怒りだ。自分以外全てのものに対する怒りが湧いてきた。道具も、母親も、万屋さんも、京沢先輩も、もちろん六亡星と三武神も、何から何まで全てが大嫌いだ。全て無くなってしまえ! 全て消え去ってしまえ! 大嫌いだ大嫌いだ大嫌いだ大嫌いだ、お前らみぃんな大嫌いだ!
もういい決めた、どうにでもなるがいいさ。僕の人生なんか知ったことじゃない、万屋さんの生命なんて知ったことじゃない、京沢先輩の運命なんて知ったことじゃない! 乗ってやる、乗ってやるよ! 六亡星、乗ってやる! あんたらのその頭の悪い馬鹿げた提案、頭が悪くて馬鹿げた僕が、乗ってやる! 何でもしてやる、何だって壊してやる、誰だって殺してやる。僕と四肢同神≠ェできうる限り、森羅万象有象無象、全てのものをこの世から消し去ってやる!
は、はははははは、あははははは! やってやる、やってやるさ!
「あははは、あは、あははは、はははっ!」
突如大声で、まるで気が違ったかのように笑い出した僕を見て、《一騎当千》以下六名は目を丸くする。何で僕が笑ったのか、どうして僕が笑ったのか、一向に判断がつかないからだろう。
「いいでしょう六亡星、あんたらの信念やら理想やらはまるっきり興味はありませんが、いいでしょう、乗ります。あんたらのその申し出、快く引き受けますよ。命が惜しいからじゃありません、腹が立ったんです。ただそれだけです。あははは! あぁ面白い。面白くて面白くて反吐が出そうだ」
心底面白くなさそうな口調で、僕は続けた。
「では、六亡星の皆さん、僕をいい加減帰してくれませんか? 逃げたりはしません。あなた方相手に逃げたって何一つ無駄だということは、あなた方が一番よく知っているでしょう? 何か連絡したいことがあるときは、そうですね、僕は残念ながら携帯電話など持っていないので、家の電話に普通に電話してくれれば結構です。うちは基本的に僕が出ますから。どうせあなた方のことです、僕の家の電話番号くらいはわかっているんでしょう?」
九十九ちゃんが呆気にとられた表情で僕を見ていた。呆気にとられたというよりは、僕の精神と挙動を心配してのことだろう。ありがとう九十九ちゃん、だけれど心配には及ばないよ。
こんな簡単なことなのか。六亡星相手に怯え竦まずに話すということは、こんなにも簡単だったのか。そして、僕を取り巻く最悪の運命に対処する方法は、いとも容易くできるものだったのか。開き直ってしまえば、全てを捨て去る覚悟さえしてしまえば、自暴自棄にさえなってしまえば、ここまで僕はどうでもいい存在になれるのか。全ての存在に対してどうでもよくなってしまえるのか。
笑いがこみ上げる。自嘲の笑みだ。はは、ははは。本当に馬鹿らしい。馬鹿みたいだ。今まで僕は何をやってきたというんだろう。世界のため? 万屋さんのため? 京沢先輩のため? なんだそれ、食べれるの?
僕が踵を返して扉へと足を踏み出したとき、両腕が誰かの手によってつかまれる。強い力だ。僕はその場に停止し、誰か―――二人の《一騎当千》の姿を見る。今までどおり席についている《一騎当千》もちゃんといる。けれど僕はあわてない、そもそもがどうでもいい話だった。
「少し待て、千葉浩介」
そこではじめて、《一騎当千》が僕の本名を呼ぶ。殺気をびりびりと感じる。恐ろしい恐ろしい恐ろしいが、今の僕にとっては笑いしか導き出すことは無い。
「『腹が立った』か。それもいいじゃろう。仲間になるといっている人間を、儂らは無碍に扱わん。けれど、千葉浩介。まだ儂らは言っておらんじゃろう、御主の本当の能力というものを」
「本当の、能力?」
ぴたりと僕は足を止める。その僕の行動は仕方が無い行動だろう、僕の四肢同神≠ノ、さらにこれ以上の新たな能力が隠されているというのか?
《一騎当千》は目を細めて笑い、そして他の四人をの姿を一瞥してからゆっくりと口を開く。
予め言っておこう。ふざけるな、冗談じゃない。僕はそう思い、そしてまた心の中でつぶやくのである。
あぁ、まったく、くそぅ。
さて。
現在時刻が四時であるということを考えれば学校は当然終わっているわけで、そして僕は朝のホームルーム前に教室を飛び出してしまったわけで。ならば必然的に教室に授業道具などは置いたままになっているし、というよりも完全完璧なサボり行為だ。無遅刻無欠席無早退という夢が、サボりという一番最悪な状態で途絶えてしまったわけであり、僕はそのことに少なからずため息をつきながらも学校への道を急いでいた。
四肢同神≠ヘ使わない。精神的にも肉体的にも疲れていて、四肢同神≠使って腹など減らしたくなかったし、第一僕の今の状況からしてみればそれは土台無理な話なのである。
うーん。そんな音が聞こえる。その音の出所は僕の真後ろからで、正確に言えば僕の側頭部、耳の少し後ろあたりからである。音が聞こえるたびに僕の耳に暖かく湿った風が吹きかけられ、僕は当初ぞくりと背筋を震わせていたものだが、観念して我慢しているうちにどうやら慣れてしまった。
というか、早い話がその音は僕の後ろで眠っている五十嵐ひかり―――無論本人である―――の寝言であり、僕の耳にかかる柔らかい風は寝息である。僕と五十嵐は、世間一般で言うところの「おんぶ」をしていた。無論僕がおぶる側であることは言うまでも無い。
あの後、僕の「本当の能力」とやらを《一騎当千》から聞いた後、僕はごく普通に解放された。場所をわからせないように目隠しをされ、家のある程度近くになったところでようやくおろされた。そのときには当たり前だが五十嵐も一緒で、《雷神》が言っていたことが本当だったことに僕は安堵する。
五十嵐は眠っていた。薬か、それとも道具の力かはわからないが、とにかくぐっすりと眠っていた。そのままおいていくわけにもいかなかったのでおんぶをし、今に至るというわけだ。ほかにはお姫様抱っこという選択肢もあるにはあったが、それは僕にはいろいろな壁が立ちはだかっていてできるわけも無い。
僕は学校へと向けていた足をくるりと九十度回転させ、家への道へと向かう。授業道具や鞄などはもういい、置き勉だ。取りに帰るのなんて、もうかったるくてやってられるわけが無い。
五十嵐も早く家に帰してやりたい。今朝のことはきっと家にも連絡が行っているだろうし、親だって心配しているだろう。だが生憎僕は五十嵐の家を知らない、五十嵐がこのままおきないのであれば、僕の家へ連れて行くしかなさそうである。
思えばこの五十嵐という少女も不憫というか不幸というか。
「ん……」
後ろで声がする。同時に起きた気配もした。
一拍おいて、五十嵐が以外にも冷静に尋ねてきた。
「……えと、誰ですか?」
「同じクラスの千葉浩介」
「あ、そうですか……えっと、今、どこに向かっているんです?」
「僕の家だけど……」
「へぇ。千葉君の家はどこにあるんですか?」
「ここをあと五分か十分くらい歩いた場所だよ」
「そうなんですか。えっと、初めて知りました。えと……あんまりお話したこと、無かったですよね。同じ委員会なのに……」
「そうだね。確かにそうかもね」
「それでですね、えと、千葉君」
「ん? どうしたの?」
「なんで私、おんぶされてるんでしょう?」
……。
今気がついたのか? それとも気がついていたけど聞けなかっただけなのか? どっちにしろタイミングがおかしいだろう。
「学校から帰ってたら、道端で倒れている君を発見した。だからとりあえず僕の家に連れて行こうとしておんぶしてる。わかった?」
「あ、そうなんですか。えと、えっと、ありがとう、ございます」
体勢的にお辞儀をすることができないので五十嵐は申し訳なさそうに言う。
っていうか、それで納得してしまうのか。僕たちが来た方向、明らかに学校とは違う方向なんだけどなぁ。まぁそっちのほうが僕にとっては好都合なんだけれど。
「あ、えっと、千葉君、もう私大丈夫ですからっ! おろしてくださいっ!」
いまさらになって異性におんぶをされていたことが恥ずかしくなったのだろう、五十嵐は僕の後ろで手をばたばたとして必死でおろすことを要求している。きっと顔が赤くなっているはずだ。
ここで五十嵐を引き止めてもまた変な風に思われそうなので、仕方なくおろす。六亡星のやつらが五十嵐に対して何の危害も加えていないということはわからなかったので、できるだけ負担はかけたくないのだが、本人の希望なら仕方が無い。
腰を落として五十嵐をおろす。と、地面に降り立った瞬間、五十嵐の体がぐらりと横にふらついた。バランスを保つために足を出すが、そうすると今度は後ろのほうにぐらりと言ってしまう。後ろに足をやろうとすれば今度は前が億劫になる。危ないと思う暇さえなく、五十嵐は前に倒れてきた。
前、そこにはもちろん僕がいるわけで。
僕は中腰のまま、倒れてきた五十嵐を受け止める。「抱きとめる」ではなく「受け止める」ことができたのは、あの一秒にも満たない状況下で僕はよくがんばったと思う。
「あっぶないな。五十嵐、足がふらついてるぞ。どうした? やっぱり無理するな、僕がおんぶしてやるから。救急車でも呼ぶか?」
「救急車呼ぶほどじゃありませんよぉ。大丈夫です、平気です……ととと、うわぁっ」
僕から体を離した瞬間、またも五十嵐はバランスを崩す。今度は五十嵐が僕の胸板に頬をくっつける格好になってしまった。小さい。かなり小柄だ。九十九ちゃんほどではないにしろ、サイズとしては平均を大きく下回っているだろう。
かろうじて腕を回して抱きとめることを抑え、僕はため息をついて言う。
「ぜんぜん平気じゃないだろう。五十嵐、僕がおんぶするから、早いとこおぶさってくれ。恥ずかしいだろうけどな、僕だって恥ずかしいんだ」
本心である。はっきり言って、めちゃくちゃ恥ずかしい。人がいないから、人のいない道を通っているからまだいいものの、誰か向こうから人が来るようなものならば僕は間違いなくどこかに隠れるだろう。六亡星から解放されたとき、別に五十嵐のことを放置してもよかったのだが、やっぱりそれは倫理的に駄目なような気がした。男ならまだしも女だし。
五十嵐に背を向ける。数秒迷ったような沈黙の後、おずおずとした感じで僕の体に重みが加わる。
「いくぞ」とそれだけ呟いて歩き出す。五十嵐がおきたならば目的地は五十嵐家だ。
強い風が吹いた。まだ風はそれなりに冷たく、まだ春も始まったばかりだということを如実にあらわしてくれる。五十嵐が寒くなったのかもぞもぞと体を動かすと、なぜかちょうどいいくらいに僕の体を密着する。やわらかいものが僕の背中に当たったような気がするが、きっと気のせいだろう、うん。
「……発展途上だな。五年後が楽しみだ」
僕の冗談交じりの呟きに五十嵐は「えと、何がですか?」と尋ねてくるが、もちろん僕がそれに答えるわけが無かった。
後生 三/六/五十/千/万/京
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ベッドから目を覚ます。朝日がカーテンすら通して目に入ってくる。クリーム色のカーテンを通ったことによって陽光はクリーム色へと変色し、本棚に埋め尽くされた部屋をクリーム色一色に染め上げる。今日も今日とて学校である、学校は嫌いではないが、やっぱり勉強は嫌いだ。大体、社会に出てからではなく社会に出るために必要な勉強というのは何かどこかが間違っている気がする。
私は掛け布団をはいで立ち上がる。うーんと伸びをすると、体中の間接がいい感じにぼきぼきとほぐれていく。同時にあくびも出てしまう。どうして朝一番の伸びは、こうも無駄に気持ちいいのだろう、私以外のみんなもそうなんだろうか。
今日は確か当番の日だ、ほかの委員会のみんなは面倒くさい面倒くさい言うけれど、私はああいう仕事が嫌いではなかった。確かに退屈でなんの代わり映えも無い仕事だけれど、本が大好きな私にとってはそれですら幸せなのだ。それに、本を読んでくれる人がいるというのはとても素晴らしいことで、本を読んでいる人の表情が嬉しくなったり悲しそうな表情を見るのがとても楽しい。あの人はあの本を見て何かを感じてくれている―――そう思うと、自分の小説家になりたいという願いがさらに加速する。
本というのは心の底から素晴らしいものだと思う。言ってしまえばただの文字の羅列なのに、そこには空想があり思いがあり願いがあり希望がある。自分の伝えたい物語があり、自分の伝えたい思いがある。ただの文字の羅列なのに、読んでいる人を笑わせたり涙させたりすることができる。それは本当に本当に素晴らしいもので、素晴らしいことなのだ。
本は確かに素晴らしいが、けれどやっぱり読む人のモラルも大事になってくると思う。思うのだけど、いつも図書室を占める際、机の上に何冊かの本が乗っている。少ないときでも一冊は必ず乗っていて、多いときは五冊や六冊以上が乗っている。どうして自分が読んだ本くらいしまうことができないのだろうか、私は腹が立つ。本は好きだが、本を粗末に扱う人間は大嫌いだ。逆に言えば本を懇切丁寧に扱ってくれる人間は大好きだ。
その点で言えば千葉君や五十嵐さんは大好きだ。二人とも消極的で自分から行動してくれないのは困るが、本が好きだというオーラがする。「オーラってなによ」と奈々子なら言うのかもしれない。……やっぱり言うのだろうな。
そうだ。いいことを考え付く。そろそろ図書室の本棚も雑然としてきたことだし、久しぶりに本棚の本を整理しよう。本当は当番がその日のうちに本棚の整理をすることになっているのだが、どうやらそんなことは面倒くさいと思う人が多いらしく、ほとんどなされていないのが現状だ。それにきれいに整理したとしても、一度にたくさん整理はできないせいで整理するスピードよりも汚くなるスピードのほうが速い。ここはいっそのこと、有志者を募って一気にやってしまったほうがいいのではないだろうか。
ちょうどよく本が好きそうな人が委員会に最低でも二人はいることを思い出したのだし、それにその二人以外にも参加してくれる人間がいるかもしれない。聞いてみよう。聞いたなら顧問である―――
「あれ?」
顧問は福田先生で間違いないはずだ。自分が一年生のころ、図書委員会に入ったときから変わっていない。それは確かだ。それなのに、あれ? 一体、一瞬だけ脳裏によぎった、「堀井先生」という単語は何なのだろう。堀井などという先生は学校にいなかったはずだけど。
まぁいいか。ただの気のせいだろう。階下から母親が朝食ができたと呼んでいるので、私は急いでパジャマから制服へと着替え、階下へと向かった。
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僕が六亡星の元に連れ去られ、そして僕にかかわる全てを教えてもらってからはや三日。最初は学校をサボったことだとか五十嵐を力づくで連れて行ったことだとか、あとは林が気絶したことだとか色々と不安はあった。説明の仕様がないからだ。実は僕は不思議な能力を持った人間で、何の因果か同じような能力を持つ二つの組織から狙われているんですよなんていったところで誰が信じるというのだ。家にも連絡がいっているのかもしれないと思うと、ただひたすらに憂鬱だった。
僕はびくびくしながら家に帰り、何故か母親がいつもと同じように出迎えてくれたことに少しばかり疑問を覚えた。まぁ学校からの連絡がいってないのだろうと思う。いっていたところで母親は適応者のことを全て知っているから、説明には困らないといえば困らないのだけれど、それでも「僕、六亡星の仲間になったから」とはいいにくい。
次にも同じようにびくびくしながら学校へ登校すると、やはりこちらでも相変わらずの対応だった。いつもと同じ、普段どおりの接し方をしてきたのだ。無論古賀はいなかったし、職員室に堀井さんの机もなかったが、クラスメイトのみんなは誰も気がついていないようである。
記憶が消されている。僕は理解した。六亡星か三武神、それともその両方に、他人の記憶を消すことのできる人間がいるのだろう。ならば今まで彼らの存在が見つかっていないことも納得できる。どうやら僕だけが記憶を失っていないようで、どうしてなのだろうかと考える。もしかすると適応者だからなのだろうか。
今日まで六亡星からのコンタクトも三武神からのコンタクトもなかった。万屋さんが何か言ったり聞いたりしてくるかと身構えていたのだが、教室に乗り込んでくることも放課後に出くわすこともなく、けれど心構えはしていたほうがいいだろうと僕は気を引き締める。今の僕にとっては万屋さんの追究が遅ければ遅いほど幸いだ。
目覚める。時計を見れば時刻は五時半。早く起きすぎたといつもなら思うところなのだろうが、今の僕はそんなこと微塵も思わない。というか遅すぎるくらいだ。僕がこれからすることを考えるならばできるだけ早いほうがいい、そう思ってこの時間に起きたわけなのだが、やっぱりもう少し早く起きればよかった。いまさら悔やんでも仕方が無いので、僕は早速私服に着替える。ジーンズと黒いティシャツだ。
僕は窓を開ける。朝の冷たい空気に身を震わせるも、そのまま意を決して飛び出した。落下する感覚。頬に当たる風が冷たく痛い。すでに四肢同神≠ヘ飲んでいる、そのまま体勢を直し、着地。
ちなみに、我が家は最上階の五階にある。そこから飛び降りたのだ。
僕は近所の公園へ向かう。今の時間帯ならばそこまで人気は無いだろうし、まぁそもそも人に見つかるほど長い時間をかけるつもりは無いのだけれど、それも全て相手次第。僕の頑張りも多少は意味を成すけれど、やっぱり結局、つまるところ重要なのは相手側の戦力だった。
五分くらいで公園へたどり着く。人が誰もいないことを確認した矢先、四人の人間が僕の周りを取り囲むように現れた。男が三人女が一人。全員成人しているが、それほど年を食ったようには見えないので、恐らく大学生かそこらへんだろう。一般人でないのは理解済みだ。全身を黒装束で固めた一般人などいるわけが無い。
「千葉こ」
四人の中の一人、一番背が高かった男性が声をそこで止める。正確に言えば、とめざるを得なくなった。僕の拳がきれいにあごに入ったのだから当たり前だ。男は脳を揺らされたことにより失神し、それ以上言葉を続けることも無く、そして苦悶の呻きを上げることも無く地面に倒れこんだ。
残り三人。
流石はプロである。内心は動揺があったのかもしれないが、それを全く感じさせない機敏な動きで、即座に僕に攻撃を仕掛けてくる。二人はナイフ、もう一人は拳銃だ。こんな街中で拳銃を使うなんて、と最初は思ったが、そういえばサイレンサーなるものがあるのだったか。銃火器の知識は無いに等しいので詳しいことはわからないが、向こうが使ってくるということは大丈夫なのだろう。
僕を挟み込むようにナイフが迫ってくる。同時に仕掛けてきたように見えるが、実は一秒にも満たないほどのタイムラグがあることを僕は知覚していた。ちらりと見た視界の端では、拳銃を構えた女性が僕に銃口を向けていた。回避したら躊躇わず撃つつもりなのだろう。
それにしても、あまりに単純すぎるのではないだろうか。僕に尾行がついているということはほぼ間違いないと踏んではいたが、こうも簡単に、こうも容易に攻撃を仕掛けてくるなんて。恐らく六亡星の仲間となった―――どうやって相手がそれを知ったかはわからないが―――僕をできるだけ早く抹殺しろとでも命令を受けているからなのだろうが、噂を聞く限り三武神のトップにいる《氷姫》なる人物は冷静沈着で、常に冷静な判断を下すとのことだ。そんな人がこんな性急に行動を支持するとは到底思えなかったので、この部隊を率いている人物が無能なのかそれとも部隊独自の判断なのだろう。
四人の中に―――今は一人減ってしまったので三人の中にどうやら適応者はいないようだ。もしかすると能力を使ってないだけなのかもしれないが、僕の襲撃時に真っ先に使わないような能力ならば、それほど警戒するに値しないだろう。
僕に向けられる二本のナイフ。それらのナイフの刃に横から拳をぶつけると、がきぃんという澄んだ金属音が響いて刃が根こそぎ砕け散る。驚愕に見開かれる四つの眼。僕の能力のことはもちろん聞いているのだろうが、どうも僕のことを過小評価しすぎているようだ。それともこれは単なる小手調べに過ぎないのか。
僕はその二人の顔面に拳を埋めようとするが、その前に黒光りする銃口が僕を狙っているということに気がつき、半身にして跳躍する。
ばぁんと銃声。けれどその銃声が聞こえたころには、すでに僕はその拳銃を握っている女性のもとに立っており、首に手刀を打ち込む。女性が先ほどと同様声も無く倒れた。
残り二人。
さらに跳躍。離れていた二人との距離を一気につめ、反転しながら片方の頬に裏件を叩き込む。骨と骨のぶつかる鈍い音。というよりもそれは骨が砕け散る音だ。血の塊とともに歯が数本口外へと飛んでいく。そのままその男性は数メートル吹き飛び、木に激突したところでようやく止まる。
残り一人。
「ひぃっ」と悲鳴を小さく上げて逃げようとした男性の真正面へと回りこみ、まるでこの世の地獄を見たかのような顔で僕を見たその男性は、「こんな話は聞いていない」と小さく呻くように言って地面に突っ伏する。僕の拳が鳩尾に突き刺さったからだ。
残り零人。
使用時間はおおよそ三十秒か一分といったところか。呆気ない。呆気なさ過ぎて違和感を覚えるほどに、呆気ない。僕が踵を返したそのとき。
「ざぁんねぇんでぇしたぁ!」
そんな声とともに、紅蓮の炎が僕を包み込む。発火地点は直に僕の顔。僕の顔面そのものが勢いよく燃え出し、皮膚の焦げる臭い、髪の毛の焦げる臭いが鼻をつく。熱い、痛い。全身を針で突き刺されるような、鋭い痛みだ。
物陰から出てくる人影が感じられた。瞳は熱によって開けることなどできない。本来なら危険極まりない状況なのだろうが、すでに僕の心は決まっていたし、今の僕にとってはこんな状況は危険でもなんでもない。
「あはははは! そんな簡単に油断しちゃって、馬鹿みたいだよ少年、きゃははははぁっ! 単純単純、単純もいいところ! 君が本当に、《氷姫》さんたちが悪魔と並んで危険視している《終焉》なのぉ? しんじらんなーい。こんな餓鬼で、こんな弱っちい君がぁ? 本当? ま、いいや。君を殺して、あたしはさっさと三武神の幹部に仲間入りっと。《氷姫》さんを蹴落とすわけにはいかないから、蹴落とすなら《影武者》か《魔法使い》のどっちかよね。さしあたっては《影武者》かな? 戦闘力なんて皆無って聞いたし。あ、でもでも、《魔法使い》でもいいなぁ。同じようなアーティファクトを持った人間がいても困るしね」
少女の声が聞こえる。いや、あの戦闘員たちを見ると本当は成人しているのかもしれないが、聞こえてきた声はまだ幼く黄色かった。中学生にでも聞こえるくらいだ。どうやら適応者、しかも炎使いらしいが、今、こいつはなんて言ったんだろう。《影武者》か《魔法使い》を、蹴落とす? 蹴落とすだって?
僕は首を振って炎を振り払う。たやすく炎は消え、僕はようやく目を開く。すると飛び込んできたのは、愕然とした表情の、やはり成人女性。右手の指全てに金色の指輪をはめている、どうやらそれが道具、彼女らの言うアーティファクトのようだ。
「……え? 嘘、なんでそんな、すぐに消えるのよ! しかも何で痛がらないの? 苦しがらないの!? な、何よあんた、いったい何なのよ!」
熱かった、確かに炎は熱かったけれど、それだけだ。今の僕に太刀打ちできるようなレヴェルの炎ではなかったし、まだこの能力は発展途上過ぎて使い物にならない。大方一般人が持ち得ない能力を手に入れたということだけで舞い上がり、この能力を鍛錬しようとは思っていないのだろう、そんな人間の能力に僕の能力が負けるわけはない。僕自身が負けるはずもない。
よくそんな口で先ほどの台詞が吐けたものだ。どうせ目の前の成人女性は下っ端もいいところなのだろう、用は先兵、雑兵というところにしか過ぎないのだ。思い上がるにもほどがあるだろうに。
「いいことを教えてあげましょう」僕は勤めて冷静に、殺意を押し隠しながら言った。あの六亡星の基地で怒りを覚えてから始めての敵に、初めての能力者に、高揚と興奮を覚えているのが自分でもよくわかった。
「あなたが《影武者》を、《魔法使い》を蹴落とす? そんなことできるはずがありません。ただ炎を発生させるだけのあなたでは、馬鹿の一つ覚えとしか言いようのないくらいに炎を発生させるしか能がないあなたでは、あの二人を超えることも、僕に勝つことすら叶いませんよ。それとも、とっておきの必殺技でもあるのですか?」
女性の顔が怒りで真っ赤に染まっていくのが見て取れた。能力が弱いというのに加えて、短気で頭に血が上りやすいのか。本当にどうしようもない。人間は常に冷静でいなければいけないし、もしくは人間は常に本能と狂気のままに行動しなければいけないのだ。
「なっ! ふざけるな、あたしをコケにするなぁっ!」
指輪をはめた手を僕に向かって向ける。なるほど、やはりそれが道具だったのか。僕はそう思いながら、女性の行動と炎が発生するまでの一瞬の隙をつき、右手を顔の前に持っていった。
ぼぉっと炎が発生する。僕の右手からだ。
「な、なんでなんでぇっ!? ちゃんと顔を狙ったはずなのに、どうして手が燃えるのよぉっ!」
どうやら本人はこの現象の意味を理解していないらしい。本当にこの人間は、自分の能力をどれくらい知っているのだろう。
能力にはさまざまな種類がある。それは能力自体ではなく、能力の効果範囲などのことでも同じだ。例えば《魔法使い》のような部類は座標指定系と言語命令系の両方であり、目の前にいる女性は可視域内系という具合だ。あと、僕がいまだに出合ったことのない《氷姫》なる人物の能力は遠隔操作系らしいし、僕は直接接触系だ。今までのどれにも当てはまらない特殊範囲系というのもある。
この女性の可視域内系というのはその名のとおり、可視域内ならばどこにでも自身の能力を行使できるという能力のことだ。言語命令形のように言語に頼る必要も、直接接触系のように直に相手に触れる必要も、座標指定系のようにある点から相手までの距離を考える必要もない。ただ相手を見て、念じればいい。そういう意味ではかなり便利で使い勝手がいい能力なのだが、欠点がしっかりとある。
つまり、狙った場所がもので隠れていた場合そこはすでに不可視となり、狙った場所に正確に力を行使することができないのだ。僕はそのことを事前に六亡星から聞いていたので、相手の能力の行使に合わせて顔面の前に手を出した。結果顔面に向けられていた相手の攻撃は、可視域外である顔面ではなくその手前にある右手に移ったというわけだ。
「うるさい。あんたみたいな人間、あんたみたいな適応者、存在するだけでも不愉快だ。すぐに終わらせる」
手を振ってまたも簡単に右手の炎を消す。もう一度女性が僕に向かって手を伸ばすが、僕はその瞬間に即座に女性のその手の横へと立ち、指ごと指輪を握りつぶす。ばきばきばきという、おおよそ人間の骨が砕けたときには聞こえないであろう鈍い音が響き、同時に女性の甲高い悲鳴も響き渡り、その場に女性は崩れ落ちた。
幾百もの欠片と成り果てた指輪が、地面に無残にも散らばっていく。
「はは、あはははは、あははははは! これが、これが本当の僕の能力だなんて―――なんて世界はご都合主義なんだろう! 確かにあいつらが恐れるのもわかる、こんな能力、万屋さんより規格外じゃないか! ルール破りだ、反則だ!」
僕はそう笑う。笑う。笑う。何かを皮肉った、自嘲的な笑みを浮かべて笑い続ける。この世界は、本当になんて不平等で、なんてご都合主義で、なんて他人を虐めるのが好きなんだろう。
僕はひとしきり笑った後、全力を持って跳躍した。後始末は、まぁ三武神の人間がしてくれるだろう。
一週間がすでに過ぎ、日常が戻りつつあった。僕は学校では今までどおりの、平凡でつまらなくも平和な毎日を過ごしている。面倒くさい授業、友達との談笑、あの一日を境にそれらが本当に大事なものだと僕は知った。やはり日常というものはいいものだ。
古賀と堀井さんは、悲しいことに戻ってこなかった。誰もその事実に気がついていないという言葉、僕の悲しさをさらに増大させる。しかも彼らが死んだ理由は、僕と知り合いだったからというただそれだけの理由で、それは僕という存在が殺したといっても過言ではない。
「えと、どうしました? 千葉君。なんか元気がないみたいですけど……」
気がつけば五十嵐が隣に立っていた。元気がないわけではないと自分では思っているのだが、他人からそう見えたということは、僕はそれ相応の顔をしていたのだろう。古賀と堀井さんのことを考えていたし、それにいつぞやの朝のことも関係していたのかもしれない。僕のことを殺すために、もしくは偵察するために向けられた人間たち。いよいよ僕の日常も危険性を帯びてきたということだ。
さすがに学校までは襲撃をかけてこないだろう、とややお気楽な思考をしてその考えを強制終了してから五十嵐に向かい合う。
「ん? そうかな。別に僕はそんなつもり全然ないんだ。疲れでもたまってるんだろう」
そういえば最近五十嵐と話をすることが多くなった。僕が五十嵐を六亡星から連れ帰った日からそれは顕著だ。いや、だからどうというわけでもないんだけれど、五十嵐と話をしているときのみ一部の男子の視線だとか林のニヤニヤとした視線が向けられていることだけが気になった。
「そうですか、大変ですねぇ。……えと、そうだ、えと、えっと……今度、美味しいものでも、その、えと、食べに、行きません? 甘くておいしいもの食べたら、疲れなんて簡単に吹っ飛んじゃいますよ」
はははと笑って五十嵐は本当に楽しそうに話す。僕はその姿を見て少し心が安らぐ。やはり五十嵐も女子なのだろう。なぜか顔が赤くなっているのが気になるけれど。
「簡単に吹っ飛んじゃいますか……」
「そうです、簡単に吹っ飛んじゃいますよ」
「金がたまったらな。金欠なんだ。マジで死ぬよ」
「わかりました、お金がたまったらですね」
そんな社交辞令的な会話を交わす。それに事実として財布の中に紙のお金が一枚も入っていない。福沢諭吉とはいわないまでも、夏目漱石が一人くらいいてくれればこの金欠という悲しい二文字を打破できるんだけどな。
ん? ……あれ? 気のせいか? どこからか歯軋りにも似た音がするんだけど。僕が目を向けると、なぜか慌てて顔を背ける男子が三人ほど。
……?
「あ、そうだ。えと、千葉君」
さらに新たな話題を振ってくる五十嵐。まだ話のネタがあるのか。今日は大量だな。
「えっと、なんか、京沢先輩が用事があるらしいんですよ。お手数かけるけど、放課後に図書室に寄ってくれって。私も呼ばれてるんですけど、一体どうしたんですかね?」
京沢先輩か。……くそっ! 駄目だ、気にしちゃ駄目だ。今、ここ、学校での京沢先輩は、世界を消滅できるほどの異能を秘めた神や悪魔ではないのだ。少なくとも僕がまだ「千葉浩介」でいる以上、《終焉》ではない以上、そのことを思い出してはいけない。
「わかった」
その返答がひどく生返事になってしまって、五十嵐には悪いと思いながらも、僕はそこで話を中断するべくトイレに向かった。
そして、なんだかんだ言っても放課後はやってくる。僕は五十嵐に言われたとおりに、どうやら京沢先輩が待っているらしい図書室へとやってきた。やっぱりどうしても五十嵐からの呼び出しというものに僕は知らず知らずのうちに身構えてしまう傾向があるようで、図書室の扉を前にして僕はその扉を開くことができないでいた。
今回自分を呼び出したのは京沢先輩。五十嵐だって《影武者》が化けているわけでもない。大丈夫だ、大丈夫なんだけど……なぁ。
「はぁ」と僕がため息をついた時、まるで狙ったかのようなドンピシャのタイミングで僕の肩が叩かれた。
「こーんにーちわー。ごめんね、放課後急に呼び出しちゃって。ひかりちゃんも呼んだのは知ってる? 二人に用事……というか、提案があるんだけど……」
振り向く。と、そこには京沢先輩がいつもどおりの柔和な笑みを浮かべながらたっていた。小さめのバレッタで前髪を止め、残った髪を反対側にヘアピンで留めている。後ろ髪は自然にたらし、少し下がり気味の眉に垂れ目がちの瞳、彼女の親友である万屋さんがショートヘアに溌剌としている瞳の持ち主であることを考えると、まるで正反対の人物だということが見て取れる。
京沢先輩に関してのパーソナルデータは、他には本が好きであるということくらいしか知らない。僕が見かけた限りでは常に本を手にしているし、前なんて本を読みながらの下校中、あっちへふらふらこっちへふらふらしていて電信柱に何回も頭をぶつけた挙句、電信柱に「すいませんすいません」と頭を下げていたシーンさえ見たことがある。とにかく本が好きな人らしい。
「そのことは五十嵐から聞きましたけど……提案って一体―――」
「あ、先輩、千葉君、もう来てたんですか。遅れてすいません」
五十嵐が廊下の端からかけてくる。これでちょうど三人、僕たちは五十嵐が到着するのを待ってから、図書室の中へと足を踏み入れた。
図書室の中は当たり前だが誰もいない。今日は放課後の貸し出し返却はない日なので、僕たち以外の図書委員だっていないのだ。京沢先輩は先生から鍵を借りてきたようだけれど、本当にどうしてこんなところに?
椅子を引き出して全員が座り、ようやく京沢先輩は口を開いた。
「放課後を潰させちゃってごめんね……きっと二人にも二人の予定があるだろうし、話を進めることにします」
別に僕はこれからの予定があるわけでもなく、様子を見る限りでは五十嵐もそれは同じなのだろうが、あえて僕たちは黙って京沢先輩の次の言葉を待った。
「なんていえばいいのかなぁ。単刀直入に聞くんだけど、千葉君とひかりちゃん、君たち本が好きでしょ?」
僕と五十嵐はうなずく。図書委員会に入ったのもそれが理由のようなものだ。
「二人とも知ってるよね、この図書室は利用状況が著しく悪いんだよ。本棚がとても汚いんだよね。本がぐちゃぐちゃで、本が大好きな私としては、どうしてもこの状況を打破したいの。だから私は毎日放課後、ここにきて本棚の整理をしようと思ってる。でも、一人じゃ大変そうだなって思って、そこで二人に声をかけたわけなんだ。
……やっぱり、迷惑かな。はは、別にいいの、気を使わなくても。その気になれば一人でもできるしね! ごめんね、本当に。無駄な時間使わせちゃって。二人はもう帰っていいよ!」
先輩は慌ててそういって、僕たちに何かを言う暇すら与えずに背中を押してくる。僕はとりあえず「ちょ、ちょっと待ってくださいよ」と先輩の行動をとめた。
「何勝手に自己完結してるんですか、先輩。少なくとも僕たちの意見を言わせてくださいよ。五十嵐、お前もそうだろ?」
突然話題を振られて五十嵐は焦ったが、すぐに首をこくこくと二度上下に振る。
僕は間髪いれずにこう宣言した。
「先輩、僕は手伝いますよ。先輩一人にこんな仕事を任せるわけにはいけませんし、委員会のやつらに任せてたって、絶対にはかどるわけはありませんからね。別に僕は部活にも入ってませんし、時間ならたっぷりとあるんですから」
本心である。我が校の図書室はそれほど大きくないとはいえ、それでも蔵書量は数千冊は優にあるだろう。それを放課後に先輩一人でやるなんて無茶にもほどがある。僕は今日沢先輩とそれほど親しいというわけではないが、この人が本が大好きだということは理解しているので、恐らくこの人は本のためなら自分の苦労を惜しまないだろうということをなんとなくわかっていた。
それに―――僕の問題もあった。六亡星や三武神が京沢先輩を狙ってくることは十分にありえた。注意してほしいのは、僕は別に京沢先輩を命を賭けて守るつもりも万屋さんと組んで二つの組織を潰そうとしているわけではないということだ。僕はとりあえず六亡星に所属しているが、忠誠心など微塵もない。
とにかく僕は僕の日常を壊したくなかっただけだ。京沢先輩が仮に連れ去られた場合、連れ去ったのがどちらの組織だったにしろ、僕の日常はその瞬間に瓦解するといってもいいだろう。《一騎当千》の言葉を借りれば、どうやら京沢先輩は「世界すら破壊できる」能力の持ち主らしいのだ。
僕は一秒でも長くこの日常を味わっていたかった。僕が睨みを利かせていれば、六亡星はともかく三武神は行動を起こしにくいだろうし、いざとなれば僕は京沢先輩を守るだろう。それは何も京沢先輩のためでなく、純粋に僕のために。
僕は五十嵐に視線を向ける。五十嵐は僕の視線を受け、一瞬だけびくりと体を震わせてから慌てて視線をそらし、少ししてから毅然に首を縦に振る。
「私も、やります。私だって先輩に負けないくらい本が好きですし、やっぱり図書室はきれいなほうがいいですし、それに……」
五十嵐がちらりと僕のほうを見てくる。僕がそれを疑問に思うまもなく、すぐに五十嵐は僕から視線をはずし、首をぶるぶると今度は横にふった。さっきといい今といい、本日の五十嵐はどうしてか首の動作が大きいようである。
「え、えと、えーと、気にしないでください」
僕ら二人の返答を聞いて、京沢先輩は目を潤ませながら、
「あ、ありがとう!」
と歓声を上げた。ついでに一番身近にあったもの、イコール僕の右手を力いっぱい握り締めた。五十嵐ほどではないにしろ、京沢先輩は体が大きく力があるわけではないので、僕はその微妙な力加減に一体どうしたものかと思いながら視線を中にめぐらせ、唐突に手が離されて一息つく。
ん? 気のせいか? 今、五十嵐が少しジト目で僕のことを見ていた気がするんだけど……。
「じゃあ、今日、これから早速作業に移りましょう。五時半までならいいって言われてるからね。でも、あぁ本当によかったぁ」
先輩は胸をなでおろしながら言う。大げさな気もするけど、それはそれでいいか。
僕と京沢先輩と五十嵐で、図書室の本の整理。それはまるで僕が望んでいた日常だ。黒い怪物と戦ったり、命のやり取りをしたり、刺客に命を狙われることのない、平々凡々出普遍中庸的な日常だ。あぁ、なんて素晴らしいんだろう。
いつまでもこの日常が続くように、僕はとりあえず、一番身近にあったこの図書室に願うことにした。
僕の日常なんていうものは、最初からなかったのではとさえ思えるほど、今や僕の体は半身以上非日常に浸かっていた。たとえ図書室の本棚整理という日常があるとしても、それだけでは焼け石に水だ。僕を非日常から日常へと回帰させるにはいたらないし、僕が本当にいるのはこの日常だと思わせてさえくれない。
それでも、やっぱり学校という場所は大切で、あそこがなければ僕は今すぐにでも非日常の世界、つまり六亡星や三武神と同じ能力者としての道を歩まなければならなくなってしまうだろう。僕は辛うじて学校によって日常に残してくれているのだ。
けれど、あぁ、どうしてなのだろう。どうしてここまで運命は僕を翻弄するのだろう。僕はまるで漂流者、運命という名の荒波に飲まれ、奔流に成すがままにされている漂流者そのものじゃないか。
大体からしておかしいのである。ただでさえ僕が日常を望んでいるときに、いきなり僕の驚くべき真の能力が開示される―――一体全体、どれだけ三文芝居なのか。この世に脚本家はいないだろうが、いたとしたら僕はその脚本家に才能がないことを断言してやってもいい。脚本家ではないなら小説家か漫画家でも似たようなものだ。
僕の真の能力。それは、僕が《終焉》と呼ばれる理由には十分に足るもので。そしてまた京沢先輩の能力も、神や悪魔と称されるには十分に足るもので。
六亡星の話では、京沢先輩の持っている能力は「精神的負荷により異形の怪物を生み出す」ことらしい。精神的負荷の度合いによって、生み出される異形の怪物―――そう、僕が入学初日に出会い、消滅させた、あの怪物だ―――の大きさや強さは変わり、精神的負荷の低下とともに消えていくのだという。造物主である神のごとく、または地獄から魔物を召喚する悪魔のごとく、京沢先輩はあのような怪物を生み出せるのだ。
さて。
僕はたった今、「精神負荷の低下とともに消えていく」といった。それは間違いではなく、六亡星による万屋さんや京沢先輩の監視でもはっきりしていることらしい。京沢先輩が恐れられているのはただその点があるからで、早い話、京沢先輩の精神負荷が低下しない限りあの黒い怪物は消えないのである。たとえ道具を使おうとも、たとえ何発弾丸を打ち込まれようとも、たとえ核を使ったってあの黒い怪物は消えないのだそうだ。
最早「なんだそりゃ」の世界である。京沢先輩の精神負荷、言ってしまえば機嫌が戻らない限り、あの黒い怪物は存在し続け破壊の限りを尽くすのだ。何人たりともそれをとめることは叶わない。そういうものだとすでに決定付けられているのだから。
何で唐突にこんな話を切り出すのかというと、この話は僕の真の能力を説明する布石だからだ。簡単に言ってしまえば本当に簡単に言えるのだけれど、この話から始めたほうがもっとわかりやすいと判断してのことだ。
僕ははっきりと覚えている。僕はあの怪物を殴り飛ばした。二回もだ。そしたら、怪物はいったいどうなったのだったか。考えるまでもない、砂とも錆ともわからないただの黒い塵となり、風に巻かれて消えていったのだ。「京沢先輩の精神負荷の低下」でしか消滅しないはずの黒い怪物は、僕に殴られたことによって消えたのだ!
最初に僕が黒い怪物を消滅させたとき、万屋さんは驚きの表情に満ち満ちていたが、万屋さんも黒い怪物が消える条件についてはよく理解していたのだろう。だからこそ、時間の経過でしか消滅しない黒い怪物を消滅させた僕を見たとき、内心はわけがわからなくなっていただろう。僕を仲間にしようとする万屋さんの姿勢は、おそらく本人も行っていたように仲間を作るという意味もあるのだろうが、あの黒い怪物への対処という意味合いもあったのではないだろうか。
けれどそれだけが僕の真の能力ではない。黒い怪物を消滅させる能力はいわばおまけのようなもので、というより適応者でもない京沢先輩の異能にどうして僕の能力の効果が及ぶのか見当もつかなかったが、とにかく僕の能力はもっと別であり、さらに当たり前だが適応者を対象としたものだった。
僕は思い出す。三武神からの刺客だったのであろう、自分が強いと勘違いしていた哀れな炎使いのことを。彼女の身につけていた指輪のことを。
僕の真の能力は、「他人の道具を破壊することができる」ことだった。
どうやら道具というものは絶対にどんな方法を使っても壊れないらしく、持ち主が死んでも何年も何百年も、時には十数世紀も新たな適応者に巡り合えるまで眠り続けるのだという。僕の能力はそのような既存の概念を完璧に破壊する能力だったわけで、だからこそ二つの組織は僕に《終焉》なる二つ名をつけてまで目をつけるのである。
《一騎当千》は言っていた。
「《終焉》、どうして御主の能力が、丸薬を呑まなければ発動しなかったのか考えてみたことはなかったか? 儂ら六亡星や《お庭番》が、どうしてあそこまで常人離れした身体能力を持っていたか気になった事はなかったのか? 身体能力を全体的に底上げするエンシェント? はっ、片腹が痛いにもほどがあるわ。そんなもの意味がないのじゃよ。全てのエンシェントには、もともとそのような身体能力底上げの効果が備わっておるからのぅ。
それに、じゃ。効果に時間制限があるということがそもそもおかしいじゃろう。不便すぎる。よって考えられることは二つじゃ。まず、本当に正真正銘使えないエンシェントなのか。もしくは試作品なのかも知れん。そのような可能性が第一の可能性じゃ。
そして第二の可能性は」
あの部屋で、あの僕以外に六人の六亡星がいた部屋で、《一騎当千》は締めくくりとして言い放つ。
「御主の道具が強力すぎるという可能性じゃ」
2
「へぇ。それってもしかして……いや、もしかしなくても大チャンスじゃない! 委員会の先輩がいるのがあれだけど、口実つけて二人きりになればいいだろうし、上手くいけば一緒に下校だって……!」
私の目の前では、美里ちゃんがぱっと見危ない笑みを浮かべていた。時折半開きの口から「いける、いけるわこれ」などの単語が聞こえる。
今は下校途中だ。京沢さんの申し出を引き受けてから、そのまま校門のところで私を待ってくれていた美里ちゃんと一緒に帰っている。京沢さんは途中の駅までは一緒だったが、そこから帰る方向が違うらしく、千葉君は玄関のあたりでいつの間にか消えていた。京沢さんもどこにいったのか知らないらしい。
「えと、美里ちゃん? えっと、えと、そこまで意気込んでもらわなくても、いい、かも……。別に私、えと、そこまで告白する気なんてないし……それに私、えと、本当に好きなのかどうかも、えっと……わから、ないし……」
美里ちゃんは私の友人である。中学のときから名前くらいは聞いたことがあったのだが、このたび高校にあがって同じクラスになることができた。何の縁か私と美里ちゃんは初日に意気投合し、今ではもうこのとおり、どちらかが相手の下校を待っているくらい仲のよい関係となった。
ベリーショートというらしい髪型に、少し太めの眉。身長は高く百七十はあるだろう。私は身長は逆に百五十の半ばなので少しくらいわけてほしいと思うのだが、美里ちゃんが言うには「あんたはそのサイズじゃなきゃ駄目」らしい。美里ちゃんの性格は結構男らしく、どうやらそれは上に二人男兄弟がいるからなのだそうだが、たまにおじさん臭いというのだろうか、聞くほうが赤面しかねないこと言ったりする。
前に一度体つきの話になった。私はコンプレックスというか、自分のこの周りと比べて小さい体を少なからず恨めしく思っていたが、そのことを聞いて美里ちゃんは言ったのだった。
「大丈夫! 五十嵐は結構胸がでかいから!」
きっぱりと、本当にきっぱりと、聞いている私やほかの友達が清々しくなるくらい、こともあろうに周りで談笑していた男子が赤面しつつ反対側を向くくらい、美里ちゃんは大きくきっぱりはっきりしっかりとそう宣言したのだ。何が「大丈夫」なのだろう。いや、確かに私は体の割には胸が大きいですけど、それは否定しませんけど、ですけど!
……ですけどぉ、何でこのようなところでそこまで大声で断言してしちゃうんですか美里ちゃん。
美里ちゃんはどうやら今までに数人の男の人と付き合ったことがあるらしく、やっぱりそのような……えと、少しえっちな話とか、結構振ってくることがあるんだけど……ひどいなぁ、美里ちゃん。
ちなみに私はいまだに恋愛経験ゼロである。よく周りの人は私のことを「可愛い」とか言うけど、私は自分のことを可愛いとは思わないし、第一私は口下手なのだ。異性だけではなく同性だって、どうやって話そうかわからなくなるときがある。
だから私は今、こうして帰るついでに恋愛講座を受けているのだけれども。
恋愛。そう、恋愛。恋に愛と書いて恋愛。正確に言えば恋愛の後に括弧で閉じたクエスチョンマークが付け足されるのだが、とにかく私は、少なくともあるクラスメイトを普段では考えられないくらい意識してしまっているのだ。
最初、私だってこの気持ちがどんな気持ちなのかわからなかった。ちょっと意識してしまっているかな、程度の自覚はあったが、そのちょっと意識してしまっているという事実がすでに恋の初期症状なのらしい。そんなことを自称恋の伝道師である美里ちゃんは言っていた。
もともとこの恋愛相談だって、私のそんなちょっとした仕種を不思議に思った美里ちゃんが私に何があったのか問いただし、私はこうこうこういうことがあって誰々のことが少し気になっているということを白状してしまったことからこうなったのだ。私のことを思ってのことなんだろうけど、やっぱり少し恥ずかしい。そこが美里ちゃんのいいところでもあるのだけど。
「でも、あいつもちょっと鈍すぎない?」
美里ちゃんが不満たらたらという表情で言った。
「だってあれよ? 五十嵐が『一緒に甘いものでも食べに行きませんか?』って言ってるのによ? 『今金がない』って……馬鹿じゃねーのかっつーの! どっからどう見てもデートの誘いだっつーのに、あの鈍感野郎、本当はわざとやってるんじゃねぇの!? ……五十嵐ごめん、ちょっと口が悪くなったわ」
ばつが悪そうに美里ちゃんは頬を二、三度ぽりぽりとかきその場で反転して歩き出した。私も慌ててその後を追う。
まぁ確かに私だって少し残念だ。美里ちゃんの助言のもと、一生分の勇気のうち半分くらいを振り絞って言った、限りなくデートっぽく聞こえないように工夫したデートのお誘いを、あんな簡単に流されてしまうなんて。でもあの人は「お金がたまったら」と言ってくれた。それは社交辞令なのかもしれないが、もしかしたら本気なのかもしれない。どうせ社交辞令なのだろうけど、やっぱり私は、私だけは心の中で本気にしておこう。
とりあえず、デートの約束ということになったのかな。私はそのまま美里ちゃんの後を追って走り出した。
3
京沢先輩の提案を聞き、承諾してから数分後。図書室を出て、両手に花というにはあまりに花が豪華すぎる気がしない状態で―――何しろ二人ともかなりの美少女である―――僕は玄関へと差し掛かり、そこで唐突に二人の動きが停止していることに気がつき、ついで野球部やらサッカー部やら吹奏楽部やら演劇部やらその他諸々の声が聞こえないことに気がついて、僕が振り返った先には万屋さんがいた。
いつもどおりのポニーテール。顔には鋭い表情を貼り付けている。穏便な内容の話がされないことは一目瞭然で、それは僕も想像の範疇だ。覚悟はしていた。
「千葉君、ここじゃ何だから、とりあえず人の来ないところへいきましょうか。
そういって万屋さんは僕を連れて行く。行き先は屋上だった。ほとんどの公立高校がそうであるように、我が高校もまた屋上は本来開放しておらず、しかもこんな時間帯だ。屋上が開いているはずはないのだが、いとも容易く屋上へと続く扉は開いた。万屋さんに効けば、「鍵を壊した」とのことである。いや、まぁ、それが一番手っ取り早いか。僕らにはこの道具の恩恵で超人的な身体能力が付加されているのだから、そんなことくらいは容易だろう。
「ちょっと遅くなっちゃったけど、あの日の話、詳しく聞かせてもらえる? あたしも失敗だったわ。あんな見ず知らずの男に君のことを任せちゃって。君が五体満足で帰ってきたってことが不幸中の幸いだけど、謝っておくわ。ごめん」
そういって万屋さんはぺこりと僕に頭を下げる。僕はそれを見て「いいですよ」と慌てて言った。当たり前だ、別に僕が刺されたのは万屋さんのせいでもなんでもないし、それどころか万屋さんは僕を延命させるために停止時計≠フ能力まで行使してくれたのだ。万屋さんに非があるわけではない。
言うまでもないが「あの日」とは僕が《影武者》扮する五十嵐に刺され、後に三浦有志と名乗る男と出会い、さらに《血色の白》や《雷神》に出会い、さらにさらに六亡星の基地へと連れて行かれた日だ。
万屋さんがゆっくりと顔を上げる。どうやらこれで詫びは終了、次が本題のようだ。万屋さんが身にまとっている空気が今までと違う種類の空気になり、僕もつれて緊張せざるを得ない。
そもそも万屋さんは知っているのだろうか、僕が体裁上でも六亡星の仲間になったことを。知っているならば戦闘の覚悟だってしなければいけない。そのような僕の思惑は幸運にもはずれ、万屋さんはあの日のことをまず自分から話し始める。
万屋さんの話を要約するとこうだった。突如として現れた見ず知らずの男性を最初は万屋さんはいぶかしんだが、その場には他に《影武者》もおり、このままでは僕は死ぬ以外に残された道がない。仕方なく僕の命を助けることができると言っていたその男に万屋さんは僕を預け、《影武者》と戦闘を開始したとのことだ。
最初は万屋さんが優勢だったが、小会議室での攻防と同様、またも《魔法使い》が加勢に来たらしい。二対一という構図では流石の万屋さんも分が悪いと判断し、そこから身を引いたのである。
万屋さんが僕にコンタクトを取ってこなかったのは、僕が《影武者》の変装かもしれないと考えていたからのようだ。確かに気持ちはわかる。僕が刺され、相対するように《影武者》がいる状態で、僕のことを助けると申し出る見ず知らずの男が突如現れたのだ。その男も三武神の仲間だと思わない人間がいるだろうか。
「それに」と万屋さんは言葉を続ける。
「最近おかしいのよ。三武神の動きも六亡星の動きもね。六亡星はやたらと活発化してるし、逆に三武神は最近おとなしくなってる。とはいってもあたしや由奈についてる監視は外れないし、命を狙ってくるのも相変わらず。だけど、なんか変なのよ。こう、なんていうのかな、空気がぴりぴりとしてきたの。まるで何かが起こるような、そんな感じがするのよね」
万屋さんはそう締めくくり、僕に水を向ける。僕は逡巡し、けれどここでは答える以外の選択肢がなく、滔々と訥々と語り始めることにした。とは言っても、当たり前のごとく六亡星のことは省いて、だ。三浦と名乗った男のことは仕方がなく話すしかなかったが。
まず、あの男は三浦といい、六亡星の所属だということ。
そして事実を都合のいいように省略し、僕はあの男と戦闘になったが一人の女性の介入によりそこから逃げ出すことができたということ。
最後に、そのまま家へと帰り、現在に至るということ。
重要なファクターを閉めているであろう部分を僕は全て削り、密度が八十パーセント減の話を僕は万屋さんに聞かせる。万屋さんはその話を聞いて「ふぅん」とうなずき、どうやら納得したようでそれ以上の追究はなかった。
僕は居心地が悪くなる。仕方がないことだとは言え、命の恩人でもある万屋さんを騙してしまったことがいたたまれない。僕はできるだけ早くその場を離れようとし、踵を返した瞬間に声がかかる。
「……んで、どうなの? あたしとともに二つの組織と戦うつもりになった?」
僕は、無言。
「……あんた、由奈と放課後に図書室の整理をすることになったでしょ。あいつは本が本当に好きなの。そうね、使い古された言い回しだけど、死ぬほど本が好きなのね。将来の夢は小説家で、中学が違うからわからないけど、中学のころからずっと小説を書いているらしいの。今でも書いてるってさ。
あいつのこと、あたしは凄いと思う。あんなにひとつのことに没頭できる人間なんてそうそういないと思うし、あたしはそれ以前にあいつのあの顔が好き。子供みたいな性格の割には頑固で、本当は臆病で弱虫なのに妙に強がって意地張って、それで好きな本を読んでるときとか好きな本の話をしているとかのあのすっごい眩しいきらきらした顔があたしは好き。大好き。あの顔をずっと見ていたいと思う。あの顔を途絶えさせちゃいけないと思う。だからあたしは戦う。あいつのために。由奈と、由奈の笑顔のために。そして何より、それを見ていたいあたしのために、あたしは戦う。
あんたはどうなの? あたしと同じ感情を抱けというつもりはもちろんない。けど、あんたはどうなの? あいつを守りたいとは思わない? というか、あんたは自分しか助けることができない人がいても、その人が自分とは大して係わり合いがないって理由だけで見捨てるの? 答えなさい、千葉浩介。あんたの返答如何では、あたしはあんたを殺す。停止時計≠ナ時を止めて、一思いにあんたの首を掻き切ってあげる。さぁ、答えなさい」
僕は、無言。
「答えなさい、千葉浩介」
僕は、無言。
「答えなさいっ! 《終焉》!」
さすがに今度ばかりは無言を貫くことはできず、僕ははっとして万屋さんのほうを見る。突き刺さるような視線。その視線は僕の全てを知っている視線だ。知りながら僕にそのことを言わずにいる視線だ。無論僕が先ほど嘘をついたことをも知っている視線である。
「楽な生きかたしてるんじゃねぇわよ! 辛いのはあんただけじゃねぇのよ!? あたしだって辛い、あんただって辛い、それに、何よりも一番辛いのは、由奈だってことがあんたまだわからないのっ!? 何も知らないのに、自分のせいで、自分の周りで人が傷ついて、人が死んでいくのよ!? 由奈が怒るたびに怪物が現れて、悲しむたびに怪物が現れて、何でもかんでもめちゃくちゃに壊して、時には人すら殺して! それでも由奈は何も知らずに、自分の能力も自分のおかれている立場も知らずに生きてるのよ!? 学校生活を送っているのよ!?
千葉浩介、あんただってわかるでしょう!? いきなり自分が埒外な存在だってことを知らされたときのショック、あんたは知っているでしょう!? 由奈はそれ以上に酷い、理由も知らされずに殺されるのよ!? 殺されなくても利用されるだけ利用されて、結局はいつか死ぬ。何よそれ、なんで由奈が、何であいつがそんな目にあわなくちゃいけねぇのよ! 何であたしがこんな戦いに巻き込まれなくちゃいけねぇのよ! あんただって、どうして自分がって思ってるでしょう!? みんな、みぃんなそう思ってるのよ! あんただけじゃないのよ!
あたしは、だから、絶対に終わらせる。絶対にこんなふざけ戦い終わらせる。あたしの命も由奈の命も守って、この戦いを終わらせる。……千葉浩介! あんたはどうなのよ! あんただってそれを願っているんでしょう!? あんただって一般人として生きていきたいんでしょう!? 言ってたじゃない、こんな戦いにかかわるのは真っ平ごめんだって、そう言ってたじゃない! 何で逃げるのよ、何で解決しようとしないのよ! 六亡星の仲間になんかなったって、どうせあんたは別に何か思惑があるわけじゃあねぇんでしょうっ!? なら解決しようとしなさいよ! あんたは《終焉》なんでしょう!? この際そのエンドがバッドだろうがグッドだろうがなんだっていいわ! 終わらせなさい! あたしにゃああんたの能力はわからない、けど、あんたには、終わらせることができるんでしょうっ!? だからこその《終焉》でしょうっ!?
千葉浩介っ! 《終焉》っ! 逃げるんじゃねぇわよ背を向けるんじゃねぇわよっ! 自分だけ辛いことから眼を背けて逃げる気なの!? それならあんたは最低の臆病者だっ! この世に存在する価値のないチキンだっ! あんただけがこの事態を解決できるって言うのに、あんたはそのことすら放棄して、自分だけのうのうと生きるつもりっ!? させねぇわよそんなことっ! 元の生活を取り戻したいのはあんただけじゃないっ! あたしだってそう! 他にもそんな人はたくさんいる! 《終焉》! あんたにしかできないことを目前にして、あんたは逃げる気なのっ!? あんたにとっての日常ってのは、たったそれだけの価値しかなかったって言うのっ!? ふざけんじゃねぇ、ふざけんじゃねぇわよっ!
決めなさい、答えなさい、《終焉》っ! 逃げるか、向かい合うか、それを決めなさいっ!」
僕は、無言。何かを言おうと思って、言うことすらできはしない。理由は、万屋さんの言ったことがあまりにも正論過ぎて、僕の胸にぐさぐさと突き刺さってくるから。
万屋さんは肩で息をし、眼には大量の涙すら湛え、殺意やら敵意やら憤怒やら憐憫やら哀願やらがごちゃ混ぜになった視線を僕に向ける。その視線が包括している大量の情報量、いうなれば感情量に僕は圧倒されるしかない。
久しぶりに、あの言葉がフラッシュバックする。「正義のヒーロー」。それは僕の父親のことであり、僕自身のことでもあり。
僕は小さく短く、これだけしかつぶやくことができなかった。
「後、三日ください。三日間考えて、結論が出なかった、そのときには」
吸って、吐く。最後のこの言葉だけは、僕がしっかり言わなければいけない。罷り間違っても弱気な声で言ってはいけないのだ。
「僕を、殺してください」
4
街中のアーケードである。平日だというのに人ごみはそれなりにあり、その中を学校帰りだと思われる女子高生のグループが歩いていた。五人の女生徒はそれぞれがカラフルなアクセサリー類を大量につけており、服装もやけにだらしなく、スカートはスカートでかなりタイトな長さだ。そのうちの一人、茶色い髪の毛に大量のヘアピンをつけ少女のポケットの中から携帯電話が鳴る。最新の流行曲である。
「六田ぁー、誰からぁ?」
金髪の少女が、六田と呼ばれた少女に問いかける。少女―――六田はその問いを無視し、電話番号を確認してからすぐさまポケットにしまいこむ。
「親ぁ?」
今度は別の、そばかすが印象的な少女が尋ねる。先ほどの少女もこの少女も、どちらもかなり化粧は濃く、近寄れば嫌になるくらい香水のにおいが強い。どんなものでも度を越せば悪性になるということの好例である。
六田は首を横に振り「でもごめん。ちょっち抜けなきゃいけなくなっちゃったのさー」とだけ言って駆け出す。残りの四人が何かを言おうと口を開こうとしたが、声が発せられるより先に六田が反転するほうが早かった。
六田の隣に、いつの間にか誰かがついて走っていた。こちらも少女だが、六田とはまるで格好が正反対で、スカート丈はきっちりと膝丈、ワイシャツの上から学校指定の白いカーディガンを羽織っているといった具合だ。髪も染めてはおらず、非常に艶のいい黒いショートボブに眼鏡である。
眼鏡をかけた少女が言う。
「……見た、でしょ? ……前に言ってた、やつ、らしい。三武神のほうの動きも、大体把握できたらしいし……」
「二ノ宮ちゃんもいたんだぁ。偶然だにゃー」
「……本名で呼ぶの、よくない。《一騎当千》さんが聞いたら、また何か言われる。……《フェアリィ》、小言とか、嫌いでしょ……」
二ノ宮という名らしい少女がぼそぼそと呟く。それでも六田は気にしたそぶりを微塵も見せず、「にゃはは」と笑ってから空へと飛び上がる。いや、飛び上がるという表現は正しくない。六田のその飛び上がるという行為にはまるで力というものが加わっておらず、少なくとも六田自身は何の力もこめていないように見えた。浮かんだ、という表現が一番適切ではないのだろうか。
あたりの人間が驚きに眼を丸くしている中、二ノ宮が嘆息する。
「……なに、やってるんだか。……前から思ってたけど、《フェアリィ》、あなた、馬鹿?」
「はいはい、どうせ私は二ノ宮ちゃんと四谷っち……うー、悪かった、ごめんよぉ。《血色の白》と《雷神》みたく、頭がよくありませんからにゃー。……大体、君だってそういうことは言えないはずだもんにぇー。聞いたよ聞いたよ聞いちゃったよー、この前、ここで道具使って一悶着起こしちゃったらしいにぇー」
二ノ宮は数秒黙った後、
「……そうか……」
といって、同じく飛び上がる。しかしこちらの飛び上がるはまさに文字通りの飛び上がるで、二ノ宮の背中からは二本の白い羽が出現していた。
恐らく、前にこのアーケードで起こった惨劇を眼にしていた人物がいたのだろう、その人物が飛び上がった二ノ宮の姿を見た瞬間に「殺されるぞぉっ!」と叫び、それがだんだんと周囲に伝播していく。どうやら前に一度二ノ宮のその姿を見たことがある人間は一人ではなかったらしい。
「あちゃー。すっごくパニくっちゃってるよ。大丈夫かな」
「……大丈夫。弱いやつがどうなろうと、私たちには、どうでもいいこと……だから。……でも、《フェアリィ》、あなたのその、天地廻転&ヨ利ね」
二人は下の様子を一瞥してからそのような会話を交わし、《フェアリィ》こと六田早苗と《血色の白》こと二ノ宮渚は空を飛びつつ、ある方向へと向かっていった。
「……最終決戦……」
「そうだね、最終決戦だにぇー」
火薬のにおいがする。空薬莢が落ちる音がする。何かが焦げる臭いがする。機銃掃射の音がする。血のにおいがする。呻く音がする。それらは数年前の出来事、本来自分がとっくに過ぎ去ったはずの出来事。傭兵時代の自分が幾度も通った道であり、幾度も目にし、耳にした光景だ。
それらの光景は最早過去の出来事で、六亡星の《Mr.クロックワーク》として任務についている今とはまったく時間軸の異なる出来事だ。よってその戦場の光景は自分が見ている夢だと判断できる。そして判断した瞬間に、《Mr.クロックワーク》は眼を覚ました。
あんな夢を見るのも久しい。傭兵としての経験がまだ浅かったころは夜な夜なあのような光景を夢でも見て、戦場でひどくノイローゼのようになったものだが、だんだんと戦場で人を殺すことにもなれてきたおかげで夢を見る回数も少なくなった。数年前からはぱったりと見なくなっていたのだが、何故今になって。そこで思い当たる。そうか、自分は怖いのだ。死ぬことが怖いのだ。最終決戦はもう間近に迫っている。そのせいだろう。
「ふん。俺もぬるくなったものだ」
本心だった。あのころは、世界各国を飛び回り一年の三分の二を戦場で傭兵として過ごしていたころは、いつ死んでもいいと思っていた。戦場ではそれが普通だったからだ。殺し、殺される。傭兵というのは所詮駒のひとつでしかない。何人死のうが最終的に勝ったほうが勝ちなのである。
傭兵時代はある意味では楽だった。作戦以外の何も考える必要はなく、ただ目の前にいる敵兵を撃ち殺せばいいだけで、そこには無意識性と習慣性があった。緊張感も恍惚感も死から逃れたいと思うことすらなくなり、戦争という行為自体を脊髄反射で行うことができたのだ。
それが今はどうだ。自分や他人の持つ不可思議な能力もそうだし、まず目的からして傭兵時代と異なる。相手の殲滅でも政治的戦力的な勝利でもなく、ただ一人の少女を確保するための行動、ただ一人の少女を手に入れるための殺戮。それらには無駄に自分の意識を挟む余地があるため、とうに忘却したはずの死への恐怖さえ滲み出してくるのだ。
「俺もぬるくなったものだ」
もう一度そうつぶやき、がちゃりとドアノブをまわして誰かが入ってくる。線の細い眼鏡をかけた少年、《雷神》だ。
「《Mr.クロックワーク》、ここにいたんですか。ちょっとした報告があります」
《Mr.クロックワーク》は、サングラスの奥に微かに覗かせる両の瞳で《雷神》を一瞥し、無言で視線を戻す。
その無言をどううけとったのか、《雷神》は短く言い放つ。どうもこの二人はそれほど親しい間柄にいるわけではないようで、というかそもそも《雷神》という人間は六亡星の誰からも―――ほとんどの人間ではなく、まさに誰からも―――好かれてはいない。《雷神》がまとう雰囲気や話し方を考えればそれも当然なのかもしれない。慇懃無礼というにもほどがあるのだ。
「《不滅男爵》が死にました」
ぴくりと《Mr.クロックワーク》の眉が動く。
「死んだのか。誤報という可能性は?」
「ほぼ零と考えていいですね。情報源がそもそも《氷姫》ですから。《氷姫》じきじきに、『私が《不滅男爵》を滅しました』という報告が来ています。ブラフではないでしょうね。おっと、別に僕の部下や僕自身が話しを聞いたわけではないので、あしからず。《一騎当千》さんに直に話が伝わったらしいですよ。何せあの二人は、十五年前の事件からしのぎを削りあってきた相手ですから。……失礼、そういえばあなたも、でしたね。《Mr.クロックワーク》」
底意地の悪い、見ているだけで吐き気すら催しかねない醜悪な笑みを《雷神》はデフォルトで浮かべ、《雷神》は《Mr.クロックワーク》が望みもしないのに言葉を続ける。
「にしても、十五年前の事件の再来、ですか。僕が思うにその黒い怪物を生み出す能力とやら、どうも十五年前の「物体の消滅」より程度の低いものだとは思うのですけれどね。まぁ無尽蔵、しかも半永久的に消えることのない戦闘力というものは魅力的でありますが……。
決戦とはまた古い言い回しを使いますね。正直なところいまいち僕にはピンときませんね。正確に言えば、僕にはその言葉からは粗暴な殴り合いの構図しか思い浮かばない。先に神を手に入れてしまえばいいだけのことでしょうに、どうしてそこまで大層な言葉を使うんですか? 僕の雷黒御球≠ナ傀儡にしてしまってもいいし、刻限爆砕=\――あなたのエンシェントを使ってもどうにかなるんじゃないですか? 確かに三武神の邪魔は入るでしょうが、尖兵としては悔しいですが優秀だったあの《不滅男爵》が死んだからといって、依然としてこちらのほうが戦力的には上……なのに、なぜ、僕たち五人が全員出動した上、常に《記憶と記録を刈り取る死神》を待機させておく必要が? しかも各幹部直属部隊も率いてなんて、まったく冗談じゃない規模ですよ」
幹部直属部隊。意味は名前どおりの意味である。幹部である《一騎当千》をはじめとした六人―――今は《不滅男爵》がいないので五人だが―――が自分の医師と判断ひとつで動かせる部隊のことだ。十人ほどの少人数からなっているが、そのほとんどがエンシェントの保持者であり、戦力としては十分すぎるほどといえた。その部隊を全部隊出動とは、今までに類を見ない自体である。
前回、十五年前にはこのような規模の人員は動員されなかった。というより、そこまで頭数がそろっていなかったのである。結局のところ十五年前の戦いで実際に関係したのは、およそ二十数名なのだ。そのうち生き残ったのはたったの三人だけだが。
つまり、《一騎当千》、《Mr.クロックワーク》、《氷姫》の三人だ。
ドアが開き、二人目が現れる。現れたのは《一騎当千》。
「二人はあと十数分で到着するようじゃ。そろい次第、決戦についての話をする。上手くいけば、儂らの長年の闘争は終わったも同然じゃ」
そう言って、《一騎当千》はにやりと笑い、体を翻す。その笑みは《雷神》と《Mr.クロックワーク》ですら背筋が寒くなるような、そして一瞬にしてひれ伏してしまうような威圧感と恐怖を内包していて。
余談ではあるが、《一騎当千》の名を一源斎、《Mr.クロックワーク》の名を五所川原良吾、《雷神》の名を四谷陽太郎という。
「―――せくん、百瀬君」
そう呼ばれる声を聞いて、百瀬篤ははっと顔をそちらに向ける。と、そこには一人の女子がいた。眼鏡をかけ、グレーのヘアバンドで前髪を全て後ろに持っていっている、ぱっと見た感じ厳しそうな顔つきの、そして性格はそれ以上に厳しい、篤のクラスの委員長だった。おそらくこの国中に何千人も何万人も存在するのであろう学級委員長がそう呼ばれているように、彼女もまたご多聞に漏れず「委員長」というあだ名をつけられていた。篤にはそちらのほうが馴染んでいたので、咄嗟に本名が浮かんでこない。
約零点二秒ほど思考した後、まぁどうせ「委員長と呼ぶのだからいいか」という結論に落ち着き、篤は笑顔を作って反応する。
「あれ、委員長。どうしたのさ」
「どうしたもこうしたもないわよっ」委員長は叫ぶ。「あなただけよ、高校の進路希望調査用紙出していないのは! いい、百瀬君。確かに提出期限は守ることが好ましいけど、一日くらいはまぁ許せないでもないわ。二日もまぁぎりぎり許容範囲内ね。三日となると……ちょっとお灸を据えたくなるわ。あなたは言ったわよね? 『明日持ってくる』って。『明日必ず持ってくる』とも言ったわよね? 『忘れたら何でもする』とも言ったわよね? で、なに。あなたはそう言い続けながら今日で十日目なんだけど。それは何、反抗? 私に対する反抗? 喧嘩でも売ってるつもりなの? なら高価買取してあげるけど、どうする?」
ずずいっと身を乗り出し委員長が言う。篤はそんな委員長の姿に少なからず本物の殺意がこめられていることを悟り、そしてその殺意がとてつもなく恐ろしくなり、危なくとある文章すら口走ってしまうところだった。
篤が黙っているのを見て、委員長は言う。
「百瀬君、あなた、帰宅部よね」
有無を言わせぬ質問だった。例えここで篤が「部活に入っているよ」と言っても「あっそうだからなに」とでも言われそうな語気だった。
篤はがくんがくんと首を縦に振る。
「放課後の予定はないわよね」
もう一度がくんがくんと首を縦に振る。
「プリントの提出期限、十日も過ぎているのは知っているわよね」
さらにもう一度がくんがくん。
「じゃあ放課後あなたの家に寄ってもいいわよね」
がくんがくん。そろそろ首が痛くなってきたなぁと篤が心の奥底で思ったとき、自分が条件反射でよく考えもせずに首を振ってしまったのだと気がつく。
どこに寄る? 家に寄る? いつ? 放課後? 誰が? 委員長が? なんで? プリントを回収するために? あれ? 委員長俺の家を知ってったっけ?
そんな篤の思考をまるで完全に読み取ったかのように、委員長はいつぞや本人が両方とも2・0あると自慢していた両の眼で篤の顔を睨みつけ、してやったりという表情と少しばかりの躊躇いの表情と何故か恥じらいの表情まで混ぜた顔を作り、篤に向かってこう堂々と言い放った。
っていうか、躊躇うくらいだったら言うんじゃねぇよ。篤は心の隅でつぶやく。
「知っているわけないわ、あなたの家なんて」
じゃあどうやって俺の家にくるんだ。言葉に出そうとしたとき、委員長はそれを遮って言う。
「だから、私はあなたについていくのよ」
驚いた。そりゃあもう驚いた。思わず自分の頬をつねろうとして、しかし痛いのは嫌なのでそれを思いとどまり、近くでトランプを興じている―――ふりをしながらちゃっかりと聞き耳を立てていたクラスメイトのうち一人の頬を代わりにつねり、そのクラスメイトが悲鳴を上げたのでようやく篤はこれが夢でもなんでもないということを理解する。
なんだかんだ言っても篤は中学生で、受験生である。しかも男子である。「あなたについていく」ということは一緒に下校するということで、しかも当たり前だが委員長は女子なわけで、つまり女子と一緒に下校するということで、もとよりあまり女子と交流がない篤のことである。そんなシチュエーションは初めてで、なんと言うか、あれなのだ、ドキワクなのだ。
しかもプリントを取るということは家の中に入るわけで、なんとなくそういうのもドキワクである。我ながら思春期だなぁ、と思う。
鐘が鳴りだした。と同時に教師一年目の、妙に熱血な、きっとドラマか何かに触発されたのだろうと思われる担任教師が入ってきて、委員長はそのまま「わかったわね」とだけ言って自席に戻ってしまった。
さて。
篤のドキワクな、少なくとも本人にとってはかなりの事件である委員長と一緒の下校は、篤の期待を大きく裏切るものとなった。というか、委員長は生徒玄関を出るなり猛スピードで走り出したのだ。理由を聞けば「二人で下校しているところなんて見られたら、どんな噂が立つか知れたものじゃない」とのことだ。篤は納得する。
さらに言えば、委員長は別に篤の両父親が出張中で母親もそれについていってしまい誰もいない家に入ることはなく、篤に自分の部屋から一刻も早くプリントをとってくるように言っただけで、プリントを渡されるとすぐに駆け出してしまった。
小さくなっていく委員長の後姿を見ながら篤はつぶやく。
「……わかってるさ。わかってるんだよ、わかってたことなんだよ。人生はそんな上手くいかないのさ……」
「えと、振られ……ちゃった、の?」
気がつけば後ろに一人の女子高生がいた。女子高生といっても篤のクラスメイトと並べてもなんら遜色がないくらい童顔で、体のサイズも小さい。スタイルというか、胸の部分のふくらみだけは同級生以上にあったけれど。
五十嵐ひかりである。が、篤はそんなひかりの姿を見て、はぁとため息をつく。
「何やってんだ、《影武者》」
五十嵐ひかり―――の姿を真似た《影武者》は、ぺろりと舌を出し、けれど能力のせいなのかどうか不明だが、本物の五十嵐ひかりとまったく同じ口調で喋り続ける。
「えと、えっと……えとね、この子、ひかりちゃんだっけ? が、私、とても気に入っちゃったの。だから、えと、しばらくはこの姿のままがいいなぁ、なんて、えと、思ったりして」
篤は頭を抑える。自分が聞いた「なにやってんだ」とはそういう意味ではなく、どうして《影武者》が篤の家にいるのかということなのだが、どうやら《影武者》はそんなこと気にも留めていないようだ。そのまま続けて喋りだす。
「えと、《魔法使い》。《氷姫》さんが《不滅男爵》を殺したことは、知ってる、よね。そうそう、えと、今日これからなんだけど、最終決戦について、えと、話をするっていうことらしいから……一緒にいかない?」
ここでようやく篤―――《魔法使い》には納得がいった。つまり一緒に行くために自分のことを待っていたのだろう。それにしても、不法侵入をしてまで家に入って「一緒にいかない?」はないだろう。
百瀬篤―――《魔法使い》。
本名不明―――《影武者》。
十和柊―――《氷姫》。
三人もまた、最終決戦に向かって歩き出していた。
結局のところ、誰もが願いを持っていた。
千葉浩介は日常を取り戻したいと願っていたし、万屋奈々子は京沢由奈を守りたいと願っていたし、京沢由奈は小説家になりたいと願っていた。
一源斎はこの世の終わりを見たいと願っていたし、二ノ宮渚は誰よりも強くなりたいと願っていたし、三浦有志は死にたくないと願っていたし、四谷陽太郎はこの世の全てを掌握したいと願っていたし、五所川原良吾は退屈になりたくないと願っていたし、六田早苗は自分の欲するもの全てを自分のものにしたいと願っていた。
十和柊は愛した夫の仇を討ちたいと願っていたし、百瀬篤は死別した妹のために悪を滅ぼしたいと願っていたし、名称不明の彼女はそもそも自分が戦う理由を思い出したいと願っていた。
それは恐らく、後生大事に抱えていく願いだろう。
それは恐らく、後生大事に思い続ける想いだろう。
だから人は、何かを頑張ることができるのである。
緑青 戦/闘
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「一つ聞くけどぉ……正直、今回のあれが決戦って言ってたじゃん? 具体的にはどんな感じになるのかにゃ? 期間とか動員数とか目的とか。あたし的には、そうだにぇ、ぱぱっと終わらせたいにぇ。第一陣偵察、第二陣小手調べ、第三陣本気! ってな感じで」
「《フェアリィ》、あなたはもう少し静かにできないのですかね? せっかくあの煩わしい《不滅男爵》がいなくなったと思ったら、次はあなたですか。まったく、どうして僕の周りには煩わしい人間しか集まらないのでしょう」
「でもでも、《雷神》君。君よりは私のほうが多少なりとも強いしぃ、それに君だっていちいちみんなに突っかかって、煩わしいのはお互い様だにょ」
「……誰が誰より強い、と? 返答によっては、あなたを今この場で殺しますがよろしいですか?」
「私が君より強いの。聞こえてなかったのかにゃ? ってか、君が私を殺すなんて土台無理な話だにぇ。君の攻撃は私には当たらないにょ」
「ほう、ならば今この場で試して―――」
「どちらも口を開くなこの馬鹿者共が」
ぎらり。特有の金属光沢を放つ二つの刃が、それぞれ席についていた《フェアリィ》と《雷神》ののど元へと突きつけられる。さらに言えば、その後ろには何故か二人の《一騎当千》が眼光鋭く睨みつけており、三人目の《一騎当千》が静かになった二人を見て「わかればいいのじゃ」とだけ言って顔を和らげる。それと同時に二人の後ろにいた《一騎当千》が揃って霞のごとく消え去った。
ちなみに、最後まで《Mr.クロックワーク》と《記憶と記録を刈り取る死神》―――《終焉》こと千葉浩介が呼ぶところの「九十九ちゃん」は無言を保ち続けていた。さらに《記憶と記録を刈り取る死神》に関しては常に《一騎当千》のそばに立っていた。
「仲違いをしている場合でないと言うておるに、どうして主らはそんなことですぐに争おうとするのじゃ。儂には到底理解できんな。
さて、儂が主らを呼び出したのは、《フェアリィ》の言うとおり来たるべき決戦についてじゃ。第一の目的は神の奪取。第二に《終焉》の殺害。もしくは武力により統制が取れるならば捕獲じゃ。ここのところは主らもわかっているじゃろう。それ以外のことは考慮にいれずともよい。わかっているな」
《フェアリィ》が大きく頷いたが、ほかの三人は黙って《一騎当千》のほうを見ているだけだ。
「本来ならば全軍で一気に攻めたいところだが……向こうには《お庭番》もいる。三武神のことも忘れてはならぬ。そして、《終焉》。恐らくあやつも《お庭番》の側へとつくだろう。くく、儂らを前にして、それほど怯まなかったところから見るとな」
《一騎当千》が何か言葉を続けようとして、しかしそれは《フェアリィ》の妙に能天気で軽い口調にさえぎられる。
「はぁい、私、一番最初にいきたい。さっきも言ったけど、とりあえずは二番部隊とか三番部隊、よくても一番部隊くらいを動かして、相手がどんな行動に出るのかを見てみたいにゃ」
手を上げて《フェアリィ》が発言する。その口調はいたって能天気そのものだが、顔は歪な笑いに形作られている。
「だが《フェアリィ》、俺も戦いに赴きたいんだが」
小さく大きな右手をあげたのは《Mr.クロックワーク》。全員の視線がそちらへ集まり、《一騎当千》を除く全員が驚きの表情を形作った。もともとこの《Mr.クロックワーク》という人物、十五年前の事件当時から六亡星に《一騎当千》と在籍している古株であるのだが、今までほとんど全くなにかしらの行動を起こしたことがなかったのである。こと戦闘に関しては三武神との交戦も含め―――それは今は亡き《不滅男爵》が張り切って自ら戦いに挑んでいったからでもあるのだが―――いまだ零回であり、だからこそいつもは生きているかどうかさえ疑わしいほど無表情な《血色の白》でさえ驚きの表情をしているのである。
が、当の本人であり《Mr.クロックワーク》はそんな周囲の視線を流し、朴訥にもう一度「俺も久しぶりに体を動かしたい」といった。
「……私、も。……私も、戦いたい。この間は命令、だったから、殺せなかったし。それに私、強く、なりたいから」
感情を交えない抑揚のない声で《血色の白》が発言した。その声は矢張りいつもどおり何の感情もこもっていないようにしか取れない声だったが、何故だろう、確かに感情がないようにしか思えないのに、不思議とその声には一歩も引く気はないという確固たる意志がこめられているような気がしてならなかった。
「また『強くなりたい』ですか? 《血色の白》。もうあなたのそんな言葉は聞き飽きましたよ」
「……あなたは、そう、思わないの? ……一番、弱い、のに」
「……どうしてあなたといい《フェアリィ》といい、人のことをそう弱い弱いと! ……いいでしょう、ならば僕があなた方よりも先に、神も確保し《終焉》も殺してご覧に入れましょう。それで文句はないでしょう?」
《記憶と記録を刈り取る死神》の隣で、《一騎当千》が大きくため息をついた。流石六亡星、とでも言うべきだろうか。四人が四人とも神の奪取と《終焉》の討伐に名乗りを上げ、誰もみな下がる気配を一向に見せようとはしない。
睨み合う四人を見て、《一騎当千》はもう一度大きなため息を吐き、諦めが混じった声でこういった。
「もういい、勝手にせい。主らの好きなようにするがよい。……ただし、事後処理はしっかりとしてくれよ?」
ちらと視線を横にすると、《記憶と記録を刈り取る死神》が静々と頷いた。
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「僕を殺してください」
三日前に言った台詞をもう一度つぶやいてみる。それは本心だった。仮に僕が三日前の時点での三日後、つまり今日までに決心がつかなかった場合、僕は万屋さんに殺されることを受け入れよう。怖い。そりゃあ怖いさ。前は死ぬことなんて全然怖くはないと高をくくっていたころもあったが、いろいろな出来事を見てしまったせいで、僕はすっかりそんなことを思わなくなった。
死にたいという願望。それは今までの僕が抱いていた死にたいという願望とは、かなり種類の違うものだった。僕が前に抱いていた死にたいという願望は、それはいわゆる現実逃避のための願望だった。一刻も早く死に、そして一刻も早くこの非日常から脱却し、運命の神様のふざけた悪戯にも六亡星や三武神からの刺客にも万屋さんからすらも手の届かないところへと逃げようとしたのだ。なるほど、確かに万屋さんが屋上で言ったように、逃げ以外の何物でもない。
が、今の僕は違う。少なくとも「僕を殺してください」という台詞は、この辛く僕に対して全てのものが敵になったかのような人生に終止符を打つためのものではなく、僕の尻を叩くための、ある種の決意染みたものだったのだ。
僕が自分で決定したことに万屋さんは口をはさまないだろうし、それがたとえ万屋さんと殺し合いをする運命になろうとも、万屋さんは納得してくれるだろう。なぜならそれは僕が僕自身の意志で決めたことであり、ほかの誰からの介入も入っていない、純粋な僕の決定だからである。僕が決めたことなのだ、僕が誰からの口出しもされず、僕一人の力で決めたことなのだ。誰にも口出しはさせない。
それでも結局僕が自分の事を決定しない場合、僕は素直に万屋さんに殺してほしかった。そこにはやっぱりどうしても拭いきれない厭世観というのもあったのかもしれないし、自分のことひとつ自分で決めることができない自分に対する処罰のようなものでもあるのかもしれないし、最後の最後にしかできない処置なのかもしれない。僕が暴走して、有体に言えば狂ったりキレたりしてしまう前に、誰かの手に僕が渡ってしまう前に、僕をどうにかしてほしかった。
僕の能力。その能力とは、道具破壊。万屋さん以上に反則的なその能力に対する、最善で最悪な対処の方法。それは僕を殺すこと。僕が万が一にも最悪な事態に陥った場合に備えての、策。
あぁ怖いさ。そりゃあ怖いさ! 殺されたくなんてない、死にたくなんてない。だけれどあのまま答えを見つけ出さず、自分がどう行動するかを考えず、ただのんべんだらりと過ごしていたときのことを考えれば、僕の末路など知れたものだ。誰かに殺されるか、殺されなくとも為すがままにされてしまうだろう。ここで自分が何をするか、誰と手を組み誰を敵とし、誰を守るか、それを決めなければ僕はすぐにどちらにでも傾いてしまうだろう。僕が恐怖も伴って半ばやけになって六亡星の仲間になってしまったかのように。
僕はそのことばかりをこの三日間考え続けてきた。食事中も入浴中も、無論授業中も、トイレに入っているときでさえ僕は考え続けていた。考えていなかったときといえば、そうだ、図書室の本棚整理のときくらいのものか。
図書室の本棚整理といえば、本棚は大分綺麗になってきた。毎日こまめにやっているので、汚くなる割合よりも綺麗になる割合のほうが大きく、このままのペースでいけばあと一週間くらいで終わりそうだった。最初は僕も人助け程度のつもりでやると言い出したわけなのだが、これがやってみるとなかなか熱中する。僕がもともと本好きだったということも幸いしたのだろうし、何より図書室内には僕のほかに女子が二人しかおらず、その女子は二人とも標準以上の可愛い子で、となればどんな男子でもある程度の喜びを味わうのは当然だ。
そして、今日が万屋さんとの約束の日。今日までに答えを出してくるといった、約束の日。が、今日も今日とて僕は図書室へと出向くのである。
「六法全書重い……」
「今日、うちのクラスのやつが、本当に馬鹿のことをしでかしましてね」
「二年生になると、勉強はかなりつらくなるよー」
「『政治経済年鑑』重い……」
「大分綺麗になってきましたよね」
「疲れたー」
「イミダス重い……」
「五十嵐、どうしてお前はそんな重い本ばかり選ぶんだ」
とまぁ、そんな会話をやり取りしながら、五時半。三日前よりも目に見えて綺麗になっている本棚を見ながら図書室を後にする。京沢先輩が職員室へと鍵を返している間、僕たちは玄関のところで待ちぼうけを食らっていた。
さて、これでもう残すことはない。万屋さん、いつでも来ていいぜ。僕は逃げも隠れもしない、早く現れてくれ。僕の答えはもう決まっているんだ、僕が万屋さん、あなたに言う答えはすでに決まりきっているんだ。
そう、僕は臆病者だった。僕は弱虫だった。僕はヘタレだった。僕は常に蚊帳の外にいるかのように、本当は蚊帳の中、それも中心にいたというのに、不干渉を決め込んでいたのだ。それも全て僕が駄目駄目だったせいに他ならない。だから今度こそ僕はしっかりと決めた。僕がこれからどうするのかを。
三日間の猶予。寧ろ三日が一日でもよかったほどだ。考えてみれば簡単なことだったのだから。
「あの、えと、千葉君?」
五十嵐が心配そうに声をかけてくる。おっと、表情にでも出してしまっていたか。僕は五十嵐に向かって「なんでもない」と言ってみる。
京沢先輩は、まだ来ない。
万屋さんも、まだ来ない。
やけに小っ恥ずかしい言い回しだけれど、まるで世界に僕と五十嵐しかいなくなったような錯覚にすら襲われる。
「え、えと、あの、千葉君」
五十嵐が顔を真っ赤にしながら何かを言ってくる。玄関のガラス戸越しに真っ赤な夕焼けの陽光が入ってきて、五十嵐の顔を横からさらに赤く染め上げる。あぁ、綺麗だな。心底そう思った。まるで一枚の絵画のように、その姿は完成しきっていた。
「私―――」
どごぉんっ。爆発音と破砕音が響き渡る。校舎全体が振動し、僕と五十嵐は反射的に辺りを見回すが、異変など何もない。音を考えれば調理室や科学質で爆発があったと考えるのが妥当なのだろうが、何しろ今は放課後だ、一体誰がそんな場所で爆発を起こすというのだろう。
けたたましく非常ベルが鳴り響く。
「五十嵐、お前は逃げろ! 一刻も早く逃げろ! じゃなかったら最悪―――」
僕は言葉を切り、駆け出す。ポケットの中から小分けした四肢同神≠手に取り、それを口に含みながらきょとんとした表情の五十嵐へ、二の言葉を告げる。
「死ぬぞ!」
五十嵐が後ろで何かを言っているが、その言葉は非常ベルの音にいとも容易くかき消され、僕は一回の跳躍で全ての階段を飛び越える。職員室が見えた。
予想どおりだった。爆発が起こった場所は職員室、爆発を起こしたのは六亡星か三武神のどちらか。目的は―――考える必要もない。京沢先輩に決まっている。奴らめ、とうとう、とうとう最後の手段、強行突破に乗り出してきたか。よりにもよって僕が万屋さんに返事をする日にこんな強襲とは、運が悪いにもほどがある。
さらに跳躍し、そのまま職員室へ突入する。中にはマスクで目元以外を隠した人間が十数名、それらに拳銃や刃物を突きつけられて怯えきっている教員たちが二十名ほど。中心にいたひときわ背の高いリーダー格のような人物は、お姫様抱っこの体勢で京沢先輩の体を抱えていた。
かなり大きく重量もある業務用の机は軽々と蹴倒されており、壁には大きな穴が空いている。多少の煙たいにおいもあった。
リーダー格のような人物が、僕を見つけて眼を細める。
「おぉ、《終焉》さんですか。はじめまして。私どもは《フェアリィ》様の第二番部隊です。この度は《フェアリィ》様の命を受け、神を略取しに馳せ参じました。《終焉》さんのお手を煩わせる必要など、何一つありませんよ」
どうやら男性らしいその人物は、僕に慇懃に礼をし、僕に手を差し出す。どうやら僕に一緒にこいといっているのだろう。
担任である福田が僕のそんな姿を見て、唖然としている。僕のことを知っているほかの教師も同様だ。彼らは一体なぜ自分がこんな目にあっているのかわからないのだろう。可哀想なものである。とはいえ、僕や京沢先輩や万屋さんがこの高校にいたということ自体が彼らのこのような運命を決定付けていたようなものだ。
僕は口調を変え、言う。
「……よ―――じゃない、《お庭番》は?」
「恐らく、現在は足止め用の第八部隊と交戦中のはずです。どこまで持つかわかりませんが、五分か十分は持つでしょう。この隙に基地へと神を連れて行きます」
「後始末はどうする? 教師たちにも僕たちの存在を知られてしまった」
「物体修復のエンシェントを持ったメンバーがいますし、記憶操作も同様です」
男性が振り返ったその先にいたのは、一人の少女。小学生にしか見えないその外見と、やはりこんな状況でも身につけているメイド服、それにくるくるぽわぽわの金髪。忘れようったって忘れることなどできるわけがない。
そこにいたのは九十九ちゃんだった。
「あ、《終焉》様、お久しぶりでございます。本来私は《フェアリィ》様の部隊ではないのですが、人数の都合上、そして仕事の都合上、このようになりました」
「《記憶と記録を刈り取る死神》、そろそろ出番だ。記憶を消して基地へと帰還することにしよう」
僕に対しての口調とまったく違う口調で、男性が九十九ちゃんに言った。どうやら六亡星内でもしっかりと序列のようなものがあるらしいが、僕はとりあえず何も言うことはないし、その前にすることがあるのを忘れてなどいない。
それにしても、どうしてこいつらは僕のことを信用しているのだろう。僕が裏切らないとでも思っているのだろうか。いや、そんなはずはない。《一騎当千》が僕に対する保険をかけていないわけがないし、当然僕が裏切る可能性も考えているのだろうが、どうしてこいつらはこんなにも僕に対して信頼を置いているのだろう。
保険、保険ね。……保険。いや、そもそも、あの六亡星の幹部連中とあわせたこと自体が保険なのだろうか。あんなに強い人間がいるのだから、僕が反旗を翻すわけはないと、そう考えているのだろうか。僕を恐怖で縛り付けるということなのか。もしかすると僕の存在などどうでもいいように思っているのかもしれない。
どうだっていい。僕の答えは決まっているから。僕の腹はすでに決まっているから。腹はくくった、覚悟もできた。後は行動に移すのみ。十割の確立で発生する事象を合図にして、僕は行動を移すのみなのだ。
九十九ちゃんが手を空中で振り、手を握る。それだけでかくんと教員たちは頭を垂れた。雰囲気で判断する限り死んだというわけではなさそうだ。先ほどの男性との会話を聞いている限りでは、どうやら九十九ちゃんも適応者―――二つ名持ちなのだからそれも当然といえば当然か―――らしいので、その能力なのだろう。二つ名の記憶路記録を刈り取る死神というあまりにもけったいな名前から考えれば、男性の言った記憶操作というのが能力だろうか。
不意に違和感を感じた。何の前触れもなく、突然に。そして刹那の間をおいて、僕はその違和感の正体を理解する。
骨が砕ける音、誰かの気持ち悪いくらいに悲痛な叫び、壁と人間の体が衝突したことによる陥没音が順番に聞こえてくる。その場にいた十数名が一斉にその方向を振り向く。その中にもちろん僕も入ってはいたが、僕は振り向く前から何が起こったかを理解していた。というか、ここで理解できない人間など存在するわけがない。
僕は思う。そしてその思いは、必ず通じていると信じている。
そしてその首の上からが青い、懐かしのその人物は、僕のほうをくるりと振り向いた。バケツで隠れている相手の目が見えるはずもないが、僕はそれでもその人物、掃除マンとバケツ越しに目が合ったことを確信した。
「な、な、な……」
男性の口からは「な」の後がつむぎだされない。余程驚いているのだろう。五分か十分の足止め、それさえできれば彼らの勝利は確定で、三秒前までは勝利も目前だったのだけれど、彼らは見くびっていた。《お庭番》としての彼女の強さを、そして彼女の道具の強さと彼女の想いの強さを。
万屋奈々子は一般的な女子高校生。
掃除マンは黒い怪物と戦う変質者。
《お庭番》は悪と戦う孤高の戦士。
職員室にいたのは、掃除マンかそれとも《お庭番》か、それとも万屋奈々子か。それら全てなのか。どれもが当てはまっているようで、どれもが当てはまっていないように感じられる。
「な、な―――くそぉおおおおっ! 《お庭番》んんんんっ!」
男性が叫ぶ。すでに丁寧な口調などどこかへ飛んでいってしまっていた。
彼女は職員室の中心に立っていた。足止め要員とやらを倒してきたからだろう、体中は血にまみれ、その血液が誰のものなのかなど判断できるわけもなく、体の半分以上を真紅に彩って、彼女は立ち呆けていた。
「か、かかれぇっ! 命を賭けて神を死守しろぉおおおおっ! 俺が逃げる時間さえ稼げれば、神をつれて逃げ出せる時間さえ稼げれば、それでいいんだよぉっ!」
男性がさらに叫ぶ。その声を合図にして九十九ちゃんを除く全員が彼女に飛び掛るが、僕はそれを見て呆れることしかできない。彼女の視線が僕の視線と交わり、そのたった一瞬で僕たちは意思の疎通をし。
あぁ、答えなんて決まっている。決まりきっているさ。
僕は日常を望んでいた。戦いが日常なんて認めたくなかった。だけれど、どうだろう。今の僕にとっての日常とは学校生活と、放課後の図書室の本棚整理が目下のところとなっているのだ、ならば僕は、日常を望んでいる僕はどうするべきなのか。簡単だ、僕の日常を守ればいい。本棚整理という行為を守りぬければいい。京沢先輩と五十嵐を守り、図書室と図書室にある本棚たちを守ればいい。最後に残った僕の日常、それだけはどうしても失うわけにはいかなかったのだ。
ここで僕の運命は決まり、同時に彼女の運命も決まる。もう停止時計≠ヘ使えないのだ。停止時計≠フ能力を行使できるのは現実の時間感覚で一分半のみで、様子から判断するに万屋さんはその時間制限を先ほどで使い果たしてしまった。もしくは、残っているとしても後数秒か。一分半だけの時間制限。それは僕が直々に教えてもらった情報。このまま何もしなければ彼女は六亡星によって殺され、京沢先輩も六亡星の手に渡る。
僕はどうするべきだろう。そんなこと考える必要はないのだ。僕の日常が誰と何によって形作られているかを考えればいいことだし、僕の日常を構成している誰かのことを考えれば、やっぱりそんなことを考える必要はなくなる。
一番近くにいた人間の背中を蹴りつけ、一人目。
そのまま空中で蹴りを放ち、二人目。
異変に逸早く気がついた人間の顔面を殴り飛ばし、三人目。
渾身の力をこめた左右のストレートにより、四、五、六人目。
咆哮をあげながら相手のひざを叩き折り、七、八人目。
道具使いらしき相手の道具を一殴りで破壊し、九人目。
正直そこから先は覚えていない。十人は軽く倒しただろうし、二十人くらいは倒しただろうか。よもや三十や四十ということはないはずだが、そもそも僕の記憶はそのときかなり曖昧で、覚えているのは何かを殴っていたという感覚だけだ。
相手の数が残り二人となったところで僕は動きを止める。所要時間は恐らく三十秒とたっていないのだろう、京沢先輩を抱えた男性は職員室の壁に開いた穴の前で僕の事を見ていたし、後方で遠巻きに見ていた九十九ちゃんは微動だにせず僕に視線を向けていた。そして彼女は、青いプラスティック製のバケツ越しで、恐らくはにこやかに微笑んでいるのだろう。
唖然とした男性が動揺しながら言葉を紡ぐ。即ち、どうして裏切ったんですか、と。
僕には裏切ったつもりなどなかった。もとより何か自分の欲望を満たすために六亡星に入ったわけでもなかったし、大体六亡星の各メンバーがそれぞれの目的と欲望によって行動しているというのなら、僕だって自分の日常を守りたいという目的と欲望によって行動したことになる。詭弁だろうか。そうかもしれない。だけれど、僕は決めたのだ。《お庭番》の仲間になると決めたのだ。
万屋奈々子でもなく、掃除マンでもなく、《お庭番》の仲間。それは僕が彼女と一緒に戦うことの決意表明。本当は万屋奈々子の仲間にも掃除マンの仲間にもなる覚悟は、とうの昔にできているのだけれど。
男性をにらみつけると男性は無様にも「ひぃっ」と声を漏らし、僕がゆっくりとした足取りで近づいていくにつれて男性もまた一歩ずつ下がっていく。が、すぐに穴を背にすることになる。男性はそれを見てまたも「ひぃっ」と悲鳴をもらし、京沢先輩を放り出して逃げようと足を踏み込む。だが、それ以上は男性の足は動かない。別段僕が何かをしたというわけでもないのだ、ただ、少しだけ凄んでやっただけだ。それだけでこの有様。
「逃げるか? いいよべつに、逃げなよ。京沢先輩つれて逃げてみなよ。絶対逃がさないからさ。どこまでも追い続けてやるからさ。ほら、逃げてみろよ」
さらに凄みながら、僕が一歩近づいた、そのとき。
「はいはい、そこでちょっとおしまいにしてくださいにぇー」
不意にそんな声が聞こえて、僕はきょろきょろと辺りを見回すのだが、誰もいない。隠れているわけでもなさそうだ。となると外なのだが、外にも誰の姿も見当たらない。
視界の端に移った男性の顔が歪んでいるのがわかった。ぐにゃりと、まるで己の勝利を確信したかのような、まるで僕のことを嘲笑っているような、そんな下卑た笑いだ。人を漏れなく不快にする笑い。さっきまでの悲鳴や恐怖に震えた顔が嘘のようだ。
僕は今度は駆け出そうとして、体に地獄のような負荷がかかっていることに気がついた。
歩くのが辛い、足が重い。まるで重い石を背負いながら歩いているかのようだ。
「だぁかぁらぁ、おしまいにしてくださいって言ってるのがわからないにょ? あんた、馬鹿? きゃはは」
僕はそこで、ありえないものを見た。
校舎の外壁を、散歩でもするかのように少女が歩いてきて、そのままこの職員室の中にまで入ってきたのである。
意味がわからなかった。校舎の外壁を、歩いて上ってくる、だって?
「おひさしぶりぃ、《終焉》。やっぱり、思ったとおりだわん。思ったとおり、そっち側についちゃったんだにぇ。わかっているのに、それでもやっぱり、《お庭番》の仲間なんかになっちゃったんだぁ」
ともするとスカートの中が見えそうになるほどの短いスカート丈、茶色く染めた髪の毛に大量のヘアピン。その姿は僕がいつか見た二つ名持ちのものであった。確か《フェアリィ》と言ったか。
そうだ、この部隊は《フェアリィ》の部隊だと、あの男性が言っていた。ならばこの場に《フェアリィ》がいるのも当たり前のことだったのだ。
それにしても、「思ったとおり」だって? 「思ってたとおり」、僕が万屋さんの、《お庭番》の仲間となり、部下たちをほぼ全員倒すところを見ていたというのか? なら、何故僕を仲間にするなどという必要があるんだ?
「ふ、《フェアリィ》様! お待ちしておりました!」
男性がそう言うのを聞いて、僕の目の前数メートルの地点に立っている《フェアリィ》は、そのまま無言で男性の足を払った―――のだろう。僕には、少なくとも僕には《フェアリィ》の足が動く気配を悟ることはできなかった。ただ勝手に男性がバランスを崩して転んだだけのように見えて、だけれどそんなわけはないから、きっと《フェアリィ》が足を払ったのだろうという想像に基づいた考えだ。
男性が転んだことにより、当たり前だが男性に抱えられていた京沢先輩の体が宙に浮く。が、しかし、京沢先輩の体は地面に落ちることはなかった。無論僕や万屋さんや、ましてや《フェアリィ》や九十九ちゃんではなく、まさに摩訶不思議としか言うことができない現象が働いていたのだ。
京沢先輩の体が宙に浮いていた。それは例えば波に漂っているようなものではなく、空中にただ静止しているだけという不思議な状況だった。
《フェアリィ》はそのまま二歩歩み寄り、倒れている男性の背中をローファーの裏で足蹴にしながら言い放つ。
「ねぇ、あんた。私さ、最近物覚えが悪いのかにゃ、あんたたち第二部隊に私が下した命令は、『神の確保および《お庭番》の殺害』だったように記憶してるのにぇ? んで、あんたはなに、《お庭番》も殺せずじまいで、こともあろうに神すら放り出すって? 私、そんな命令出したかにゃあ?」
体重を徐々にかけながら、《フェアリィ》が白々しく問う。
男性は苦しそうに呻き、というよりもその《フェアリィ》の体から発せられる、《一騎当千》には遠く及ばないまでも、常人を遥かに超越した異常な量の殺気に中てられ、失禁すらしながら呟く。
「い、いえっ! そ、そそ、そんな、ここことはぁっ! ありま、せんっ!」
「そうだよそうだよそうだよにぇー。私、間違ってもそんな馬鹿みたいな命令出してもいないし、最優先事項である神の確保をほっぽりだしてもいいなんていっていないよねぇえ?」
「すすすすいませんっ! でで、ですから、命だけはおた―――」
「嫌だにょーん」
ぶじゅり、と、そんな奇怪で気味の悪い音を立て、《フェアリィ》の靴底が男性の背中を踏み抜いた。臓器と筋繊維と血管と神経を全て破壊し、最も驚くべきは骨すらも破壊し、何の変哲もないただのローファーが男性の背中を踏み抜いたのだ。僕自身にかかっているこの尋常ならざる重みといい、宙に浮かんで静止し続けている京沢先輩といい、外壁を歩いてくるという登場の仕方といい、やはりこの《フェアリィ》なる女子高生も適応者のようだ。
《フェアリィ》。能力はわからないが、強い。話し方がどうもふざけているきらいがあるが、それでもやはり、強い。雰囲気でわかる。前に一度会ったときは《一騎当千》のせいなのかいまいちわからなかったが、こうして真っ向から対峙してみれば、《フェアリィ》の強さが嫌というほど理解できる。このような存在がごろごろしているというのか、全く仕舞いには笑うしかなくなる。
《フェアリィ》は片足を男性に貫通させたままで僕のほうを振り向いた。
「いやぁ私らとしても予想外かにゃ。ちょっぴりね。大体さぁ、《一騎当千》さんを始め、私ら幹部が五人もいたんだよ? 怖くて従ってくれるかなぁとか思っちゃったりしちゃったりしていたんだけど、ざぁんねん。仲間にならなくても、《お庭番》の仲間にだけはなってほしくなかったのにぃ」
僕はその台詞を聞いて合点がいく。六亡星がどうして僕が裏切るという可能性を考えていなかったのか、先ほどの「思っていたとおり」というのはどういう意味なのか、それら全ての意味を僕はたった今しがた理解することができた。
六亡星の兵隊たちが僕のことを信用していたのは、恐らくは上から僕が「六亡星の仲間になる」といったという事実だけを伝えられたからで、幹部である《フェアリィ》が僕が《お庭番》側につくと思っていたのは、もともと僕と《お庭番》である万屋さんが交流があったからだ。そうなのだ、六亡星がわざわざ僕を拉致してまであそこに連れて行ったのは、本当は僕を六亡星の仲間にするわけではなく、六亡星の強さを見せ付け、それによって僕と六亡星を敵対させないようにするためだったのだ。そして同時に《お庭番》の仲間にもさせないためだ。
あんなに強い人間がいる組織とは戦いたくない。そう思わせるために、わざわざほとんどの人間が出向き、僕と向かい合った。全ては僕の四肢同神=A《終焉》たる所以の「道具破壊」能力のせいだ。
ついでに言えば、と《フェアリィ》が言う。
どうやら僕が僕自身の能力に気がつくのは遅かれ早かれわかっていたことのようで、それは僕に差し向けられた刺客との戦闘からなのかもしれないし、一番身近にいる《お庭番》―――万屋奈々子からの指摘からなのかもしれなかった、とのことだ。万屋さんは時間の経過でしか消滅しない黒い怪物を強制的に消滅させて見せた僕のことや、もともと付加される身体能力の強化をもつ僕の道具に多少なりとも疑問を抱いていたようなのだ。
そういえば、僕の視界の端ではバケツを被った万屋さんがおり、どうして動かないのかと疑問を持つが、自分の身に起きた出来事を考えてすぐに納得する。どうやら彼女の身にも同じように地獄的な重さが加わっているのだろう。
宙に浮かんだ万屋さんに手を伸ばす《フェアリィ》。どうやらもう話すことは無いようで、そして僕たちにもすでに興味はないようで、《フェアリィ》はただ万屋さんを軽々と肩に担いで穴から外へと飛び出そうとし。
僕が、吼えた。
「まてぇえええっ!」
そんなこと、そんなことさせるものか! わずかに残った僕の日常すら、お前らは奪っていくというのか! ふざけるな、ふざけるなぁっ!
頭の中が真っ白になる。男性のときはあんなに余裕だったのに、不思議だ。不可解極まりない。
重たい体に力をこめると、いきなりするりと体が軽くなった。一瞬にして呪縛が解き放たれ、僕は危なくバランスを崩して前のめりに転びそうになるも、態勢を立て直して《フェアリィ》に突っ込む。《フェアリィ》の顔は驚愕と同時に納得。
「あたしの重力場を破ったっ!? ―――なぁる。そういうこともできるわけにぇっ!」
空いた手を《フェアリィ》が僕に向ける。
「天地廻転≠チ! 重力方向変化ぁっ!」
ぐん。僕の体が後ろに引っ張られる。いや、これは引っ張られるというよりも……落ちているっ!?
「うああああああぁっ!」
さらに咆哮。地を蹴ると、またもするりと体が後ろへ引っ張られる感覚から抜け出し、二度目、僕は《フェアリィ》に突撃する。流石のこの行動に《フェアリィ》も驚きを隠せない様子で、《フェアリィ》は0・00数秒迷い、小さく舌打ちしてからとっさの行動に移る。その行動とは、京沢先輩を僕に向かって投げつけるというものだった。
僕は突如として向かってきた京沢先輩の体をぎりぎりの反射神経で受け止め、すぐさま《フェアリィ》の姿を確認する。
そこには誰もいなかった。そういえば、と思って九十九ちゃんの姿も確認するが、やはりいない。まぁ最悪の事態を回避できただけでもよしとするか。二対一の構図でしかも万屋さんや京沢先輩をかばいながらの戦いを挑まれたならば、流石にどうしようもなさそうだったのだし。
僕はとりあえず、万屋さんに向かって言った。「これから、よろしくお願いします」と。そして万屋さんも、やはりこういうのである。「これから、よろしくお願いします」と。
僕は思う。
僕はここに来てようやく、本当に、僕の日常というものとさよならしたのだと。
さて、それからが大変だった。何が大変かって、そりゃあ職員室の机は全部ぶっ飛んでるし、壁なんかは解体工事が始まったのかと思うようなでっかい穴が開いているし、京沢先輩や教員方は眠りこけているしでもうてんやわんやだったのだ。そういえば階下に五十嵐を置いてきてしまった。どうしよう。
とにかく、僕とバケツをはずした万屋さんは、そのまま京沢先輩を連れてその場を逃げ去った。教員は、まぁ、放っておいても何とかなるだろうとか、薄情にも思ってしまったわけだ。
ちなみに、後で知ったことなのではあるが、教員の皆様方はなにやら今回のことを忘却しきっているらしい。それは五十嵐も同様で、新手の爆弾による事件ということでいつの間にかかたが着いてしまった職員室の穴のことを話すと、「へぇ、そうなんだぁ」とだけ言っていた。僕と一緒にいたことすら忘れているらしい。そういえばあの時五十嵐はいったいなんと言おうとしたのだろう、気になるが、聞いてはいけないというこの悲しいジレンマ。
ともかく、僕と万屋さんは京沢先輩を近かった万屋さんの家まで運び、会話をしながら京沢先輩が目を覚ますまで待つことにした。あと一時間してもおきなかったら、病院に行くつもりでもあった。
僕と万屋さんの間に微妙な空気が生まれる。なんと言えばいいのか、恥ずかしいとは少し違った、何を話せばいいのかわからないという間。僕も万屋さんも何かを口にしようとは思うし、何よりこのいづらい空気をどうにか収拾しようと思っているのだが、言葉を出そうとした瞬間にお互い目が合い、そのまま目をそらして……というループに突入してしまっていた。まるで付き合いだして一週間のカップルが初デートをしたときのようだ。いや、知らないけど、そんなこと。
そんなこんなで数十分が過ぎ、ついに満足な会話をすることもないまま京沢先輩が目を覚ます。最初は「うぅん」と唸っていただけだったが、すぐにゆっくりと目を覚まし、僕と万屋さんを交互に見比べた後に短くただ一言「え?」とつぶやいた。
「あれ? 夢……だったのかな。そうだよね、千葉君がねぇ……」
僕はその台詞を聞いてどきりとする。万屋さんもそれはどうやら同じようだ。まさか無意識的にあのときの出来事を記憶していたというのならば、それは一大事だ。かすかでもそのようなことを覚えておかれては困るのだ。
「……どう、したの? 由奈」
万屋さんが出来うる限り自然を装って話しかける。
「あ、奈々子。いや、たいしたことじゃないんだけど、ちょっと夢がね、まるで漫画みたいな夢だったんだよ。戦ったり浮かび上がったり。しかも主人公が千葉君で……って、あれ? どうして私、こんなところにいるの? ここ、奈々子の家だよね? それに千葉君もいるし。……私どうかした?」
僕は内心驚愕する。それは万屋さんも同じだったようだ。眠っていたにしろ、どうやら京沢先輩の脳と五感はしっかりあのときの出来事をイメージとして脳内に焼き付けていたようで、しかも何故か、恐らく九十九ちゃんが行ったのであろう記憶消去も大して効いてのか、本人は露知らず僕たちに冷や汗をかかせる。
万屋さんが慌てて話題を変えた。
「そっ、そうだ由奈。もう大丈夫なの? 調子。職員室にいったら急に爆発が起きて、それで由奈が気絶して……ちょうど近くにいた千葉君と一緒に由奈を運んできたんだけど、ちょっとでも調子が悪いなら病院に行ったほうがいいよ?」
「爆発!?」
京沢先輩は驚いた。そりゃそうだろう。
そのまま頭を二、三度ゆすり、頷く。
「……うん、大丈夫。別に怪我もないし、どこも痛くないよ。ぴんぴんしてる」
にははと笑いながら京沢先輩は両腕で力こぶを作ってみせる。僕と万屋さんは顔を見合わせ、苦笑しながら頭をかいた。京沢先輩が不思議そうな顔をして僕たちを見ているが、まぁ本人には絶対わからないだろう。というか、おそらく京沢先輩は僕たちがどうして知り合いなのかすらも知らないだろうから。
それから十分。京沢先輩と僕は万屋さんと万屋さんの母親に挨拶をし、万屋さんの家を後にする。駅まで僕と京沢先輩の二人で歩き、唐突に京沢先輩が口を開いた。
「ごめんね」
咄嗟のことだったので、それが何に対しての「ごめんね」なのか判断がつかない。僕と万屋さんで京沢先輩を運んだことが「ごめんね」なのか、それともほかの事なのか。僕のそんな感情を京沢先輩もすぐに理解したらしく、補足する。
「図書室のこと」
「あぁ」。僕は納得した。図書室の本棚整理を手伝ってくれたことに対しての「ごめんね」か。でも、こういうときは「ごめんね」ではなくやっぱり「ありがとう」なんじゃないのだろうか。僕がそう指摘すると、京沢先輩は、
「あ、そうだね。ありがとう」
と舌を出して笑う。やっぱり可愛い。
「別にいいんですよ。そりゃ最初は、ほんの少しだけ面倒くさいなぁとも思ってましたけど、回数こなすうちに面白くなりましたしね。だんだん綺麗になっていく本棚を見て嬉しいと思うというかなんというか。それに、先輩やら五十嵐やらみたいな可愛い女子と一緒にいられるんなら、きっと誰だってついてくると思いますよ」
本来の僕ならば、そんな恥ずかしい台詞は死んでも言えなかったし言わなかっただろう。それでもそんなことを言ったのは、何故だろう、この先輩にならばこの台詞を言ってもいいのではないだろうかという気がしたし、事実この先輩は僕の目から見てもかなり可愛い人だし、まぁいうなればその場のノリというやつだろうか。
京沢先輩はその言葉を聴いてわたわたと慌てだす。異性からこのような言葉を直接的に言われたのは初めてなのだろう。いや、僕だって異性にこんな言葉を言うのは初めてだけどさ。
「え? えっ? いいいいいいいやいやいやっ、私なんて全然全然。もっと可愛い人、いっぱいいるよっ!」
「……そうですか」
有り得ないくらいに狼狽する京沢先輩。これ以上何を言っても先輩は慌てふためくだけだと思ったので、僕はここで会話を打ち切る。微妙な間が生まれ、それを破ったのは京沢先輩だった。
「千葉君さぁ」
「はい」
「本、好きだよね」
「えぇ。といっても、僕は純文学とかじゃなくて、軽めのライトノベルですけどね」
僕はどうもあのハードカバーの厚みとかページの捲り辛さが嫌いだ。それにその、なんだ、あんまり個性が感じられないのだ。淡白というか無機質というか機械的というか、作者の感情や個性が余りハードカバーからは感じられない気がするのだ。
偏見だということはわかっている。ライトノベルにもつまらない作品は多々あるように、ハードカバーにも良作は腐るほどあるのだろうが、それでも値段などもあいまって手を出す気にはどうもなれない。
「……ねぇ、千葉君」
「なんですか?」
「うちにこない? ここから大体十分くらいの場所にあるんだけど」
またも唐突に京沢先輩が話題を振ってきた。うーん、どうしよう。戦闘で疲れているし、四肢同神≠フせいで結構な空腹なのだけれど、京沢先輩のお誘いを断るのも少しばかり気が引ける。
僕は逡巡し、結局先輩の後をついて歩くことにする。駅前から電車に乗るわけでもないのに駅の構内へと入り、反対側の出口へと出て、先輩の家は本当に先ほどの場所から十分ほどの位置にあった。閑静な住宅街とでもいいのだろうか、一軒家が多く立ち並ぶその区画の中の一つ、オフホワイトを基調とした色で淡くまとめられているその家が京沢先輩の家のようだ。
先輩はドアノブを回し、鍵がかかっていることを知って首をひねる。
「あれ、お父さん出掛けてるのかなぁ」
「先輩のお父さんって、何してるんですか?」
返ってきた答えは予想外で、けれど十分納得に足る範囲のもので。
「小説家」
京沢先輩は「あんまり有名じゃないけどね」と付け足して、僕を家へと招き入れる。なるほど、父親が小説家ならば、京沢先輩のあの本に対する執着や熱意というものもある意味で当然といえるだろう。万屋さんは京沢先輩が小説家になりたがっているといっていたが、蛙の子は蛙、それも道理だ。
家の外見は洋風なモダンチックなつくりだったのだが、中はどうしてか和風の空気がそこはかとなく漂っていた。が、矢張り一番目に付くものといえば、大量の本。本。本。居間は本で埋め尽くされ、ソファやテーブルの上にも積み重ねて置かれている。本のジャングルという表現は正しいだろう。
呆気に採られている僕に、京沢先輩は「お父さん、居間で仕事するから」と慌てて言い、そのまま僕の背中を押して自室へと連れて行く。
万屋さんの部屋も、また凄かった。いや、別に凄く汚いとか、凄く一般の人々には理解されがたい代物が大量に展示されているわけではなく、目に付くものといえばベッドと勉強机、それに載ったノートパソコンと本棚、それに納まっている本しか見えないのだけれど、その本の量が凄すぎた。まさに常軌を逸していた。
本棚が……八? 一つの棚に百冊はいるとして、八百冊?
部屋の中に本があるというより、本の中で生活をしているといえそうな京沢先輩の部屋は、だけれどなぜか綺麗だった。本が整理整頓されており、床に必要以上に物を置いていないのが原因だろうか、そんな京沢先輩の部屋は僕よりも数倍綺麗に見えた。
僕があまりの光景に忘我していると、京沢先輩が声をかけてきた。
「ごめんね、座るところないでしょ。適当にベッドにでも腰掛けておいて。ちょっと私、探すものあるから。すぐに見つかると思うけど……あった」
そうして、言うが早いか京沢先輩は僕に何かを手渡す。A4紙の束だ。結構分厚く、恐らく目算で四百枚程度だろうか。一番上には、なんだろう、ワープロ文字が大きく打たれている。
『魔物退治部』と、ただそれだけがその紙には印字されていた。
「何ですか? これは」
「小説」
短く京沢先輩が答える。
「私の書いたやつなの。タイトルは、書いてあるとおり『魔物退治部』。いわゆる一つの学園ファンタジー。まだ完成していない、いわゆる未完品だけどね。千葉君本が好きって言ってたから、読んでくれないかな。本当はやっぱり恥ずかしいんだけど、でも、誰かに見てもらって意見をもらったほうがいいってお父さんも言ってたし……」
なるほど、それで僕か。でも、京沢先輩には小説家の親がいるのだし、別に僕じゃなくてお父さんに見せればいいような気がするのだが。僕のそんな視線を読み取ったのか、京沢先輩は少しはにかみながら言った。
「お父さんね、『最近のファンタジーは俺の専門外だ』って言って、読んでくれないの。それにどうしても身内だと甘くなったり辛くなったりして、客観的な視点がもてないとか何とか言っていたし。……どれだけ時間がかかってもいいんだ。ただ、私は私の書いた小説を誰かに読んでほしい。それだけなの」
僕は紙の束を持ったままたちつくし、そして鞄の中へと突っ込んだ。全くこの人はずるいにもほどがある。わざわざ家まで呼ばれて、そして自室で一対一で―――あぁそういえばこの家に今は僕と京沢先輩しかいないのだったか。無防備にもほどがあると思う―――そんなことをそんな顔で言われてしまっては、断るわけにはいかないじゃないか。誰だって僕と同じはずだ。
仮にここで京沢先輩の願いを断るようなやつがいたら、そいつは全人類から最低の烙印を押された後に幾億人の男性の手によってタコ殴りにされることは決定付けられているだろうと僕は勝手に夢想することにして、京沢先輩のほうを見るとそこには京沢先輩の満面の笑みが。まるで世の中の完璧な同性愛者を除く全ての男性を虜にしてしまうような、思わず抱きしめたくなりそうなその笑みを見て僕は危うく両腕を伸ばしそうになるも、すんでのところでリビドーの撃墜に成功する。
「敵機撃墜完了! ……いや、なんでもないですよ?」
不思議そうな顔をしている京沢先輩に向かって僕はとりあえずそれだけ言う。先輩はおかしそうに笑った。
僕はため息をついた。現在位置は京沢先輩の家の目の前で、というかそもそも玄関から出てきたばかりなのだが、そこにはすでに万屋さんが立っていた。腕を組んで壁にもたれかかり、けれど青いバケツを被っていなかったり臨戦態勢に入ってはいないようなので、どうやら掃除マンでも《お庭番》でもないらしい。
「どうしたんですか?」
僕はとりあえずそれだけを聞いた。
「別に君に会いに来たわけじゃあないんだけどね。見回りってとこかな、由奈のさ。最近あいつらの動きも活発になっているみたいだし、あんまり気を抜けない状態になっているから。……そうそう、君、由奈の家で何してた?」
ぎろりと殺意がこもった視線で万屋さんは僕を睨んでくる。僕は何もありませんでしたというジェスチャーをし、慌てて話題を元に戻す。
「あ、そういえば、夜とかはどうするんですか? 流石に僕の家からここは遠すぎますし、かといって夜通し守るということはできませんから。っていうか、今までは万屋さん、あなたはどうしていたんですか? 夜にあいつらが襲ってこなかったというわけはないでしょう?」
万屋さんは怪訝そうな顔をしていたが、何かに納得したのかそれと自分の中で折り合いをつけたのか、万屋さんは少し離れた曲がり角を指差して。
「あそこ曲がったらあたしの家。ちなみにいっておくけど、ただの偶然。高校に合格してから引っ越したんだけどね」
僕はとりあえず苦笑を浮かべた。本当、偶然だよな。
困ったときは電話をしてくださいよ。僕はそれだけ言って、後ろに手を振りながらその場を離れようとして―――
万屋さんのほうを向いた。目が合う。頷く。それだけで合図は十分だった。
何かが、高速でこちらへ向かってくるのが直感的にわかった。なるほど、これが万屋さんやその他の能力者の言う『感じ』るということなのか。
「はい、こんにちは。いや、もうこんばんはなのかにゃ? まぁどうでもいいことですにゃ。今が朝だろうと昼だろうと夜だろうと、別に私には関係ありませんからにぇ」
突如として上から降ってきた声。僕と万屋さんが上、上空へと視線を向けようとするも、それは何か外的な力によって押さえつけられる。たっているのがつらいほどの、体全体に容赦なくかかる上から下への苛烈な負荷。これは、これは!
「《フェアリィ》っ!」
腕を振って力をかき消し、叫ぶ。万屋さんのほうを見ると、汗をにじませながら必死で地面に両足をつけていた。僕には道具の破壊と、どうやらそれに伴うある程度の敵の能力拮抗能力があるからこそあの強烈な負荷から脱出することができたのだろうが、《お庭番》ではどうしようもない。停止時計℃ゥ体攻撃を受けてからどうするというものでもないのだ。
僕は手当たり次第に万屋さんの周りの空間を殴りつける。と、ふっと万屋さんの体が軽くなったかのように動き出す。
「あちゃ、やっぱりかぁ。ウザいなぁ、その能力。……それにしても、素晴らしいことだと思わないかにゃ? 神と《お庭番》と《終焉》、最重要人物三人に、同時に出会えるんだから!」
僕が上を向くと、予想通り《フェアリィ》が歓声を上げていた。宙に浮いている《フェアリィ》は、前に一度見た《血色の白》のあのけったいな羽の類を生やすこともなく、自然体で中に佇んでいる。どんな能力なのか、とりあえず今の部分だけでは想像がつきにくい。
《お庭番》も《フェアリィ》のことを眺めていた。《フェアリィ》のことを《お庭番》はあの職員室の出来事で知っているのだろうが、それでも対峙するのは初めてだろう。
しかし、それにしてもあの敵は最悪だった。何が最悪かって、相手は空に浮かんでいる。遠距離での攻撃方法を持たない僕たちにはまさにどうしようもない状況といえるのだ。相手の攻撃は大体が僕の能力によって拮抗できるとは思うのだが、防御だけでは相手に勝てるわけもなく。
そういえば、と僕は辺りを見回す。夕方、《フェアリィ》は大量の部下を引き連れていたが、今回は? 僕のその思惑を上空から読み取ったのか、《フェアリィ》は依然として歓声交じりの声で言う。
「あ、大丈夫! 今回は部下、引き連れてないから! きゃはは。いやいや、流石に第二部隊程度を君たちにぶつけちゃ駄目だよにぇ。弱いこと弱いこと。エンシェント使える人間だって二人くらいしかいないって話だったし、当然っちゃあ当然だにゃ」
「何をしにきた。夕方、僕とタイマンで逃げ帰った人間が、またも僕に、今度は二人に挑戦するというのか?」
《お庭番》はまだ能力が使えないけれど。その言葉を飲み込んで、続ける。
「帰って伝えろ。京沢先輩は渡さない。そして僕たちも殺されるわけにはいかない。以上だ」
「それは無理な話だにゃー」
まるで上から吊っていた糸が切れたかのように《フェアリィ》の体が急降下を開始する。僕たちはそのあまりに咄嗟の出来事に対処することはできず、できたのは《フェアリィ》の体が地面とぶつかる際にもうもうと立ち込めた砂埃から目を守ることくらいだった。
僕は舌打ちをしながら四肢同神≠手に取り、飲み下す。《お庭番》も、まだ使えない停止時計≠準備する。相手への威嚇という意味もあるのだろうが、道具全てには身体能力補正の効果があるのだ。
《フェアリィ》が地面にぶつかる際、まさに爆発と同様の音が轟いた。どごん、ずがん、そんな擬音はどうでもいいが、とにかくそんな感覚の音だ。人間が落ちてきたときの音とは明らかに異質なそれと同時に大量の破砕音が聞こえた。そして大量の砂埃。
何が起こったのか。それを理解するのは容易ではなかった。まさか自滅だというオチではあるまい。
急に視界が移動した。体が不自然なくらいに軽くなる。先ほどとはまったく正反対の図式。僕は《お庭番》のほうを見て、そこでは《お庭番》の体が浮いていた。足が地面についていない。《お庭番》がそうだということは恐らく僕もそうなのだろうが、僕にはあの能力を拮抗させ消滅させる力がある。
僕の体を浮かせる力が消滅し、僕は地面にしりもちをつく格好で落下する。さらに《お庭番》に近づこうとして、僕はそこで《フェアリィ》の姿が消えていることを知る。
「どこだ、どこにいる!」
と、そこで僕の体がぐんと引っ張られるような力とともに、ある一点へ向かっていく。ある一点とは、僕の前方の物体―――きっと電信柱。逃げ出そうと思うが、どれだけ相手の能力を消そうとしても腕を振り回してもその力が消えることはなく、速度は加速する一方だ。
いや。と思う。この感覚は、引っ張られるというよりも……落ちている?
間に合わないと理解した瞬間、僕は体を最大限硬くしないようにして、電信柱に向かって手を伸ばす。一秒にも満たない時間の後、僕と電信柱はかなりの高速で激突した。
「がぁっ! ……く、はぁ」
あまりの痛みに一瞬だけ意識が飛びそうになる。体がみしみしとなり、肺の中から空気が全て押し出されるような感覚に、僕は反射的に空気を吸い込んでむせる。痛み―――これが痛みというものなのか。これが、正真正銘の体の痛みというやつなのか。痛みになれていない僕には、なるほど、この痛みはいささか強烈過ぎる。
僕が慌てて周囲を振り向くと、《フェアリィ》と《お庭番》が今にもお互いの拳の射程距離内といった位置で睨み合っていた。
最初に動いたのは《お庭番》。
目にも留まらぬ高速打撃を打ち込み、一瞬のうちに一発、二発……五発もの拳が《フェアリィ》を襲う。けれどその拳は《フェアリィ》には届かない、どうしてか《お庭番》の姿が後ろへとだんだん「落ちていく」。後ろへ「落ちる」。変な話だが、事実だ。
僕も気合を入れて駆け出した。足はまだ少し震えるが、それでも立てないという話ではない。
「このっ、食らえ!」
僕は近くに落ちていた直径が五センチくらいの石を投擲する。身体能力を全体的に底上げされた僕によって投擲されたその石は、プロ野球選手もぶっちぎりの時速二百キロという脅威的なスピードをもってして《フェアリィ》へと襲い掛かる。
視界の隅で《お庭番》の体が転がっているのが見えた。きっとあの落ちていく力が消失したのだろう。
「無駄だにょ」
僕の投げた石が、《フェアリィ》の数十センチ手前で急降下し、そのまま地面に盛大な音とともに突き刺さる。
《フェアリィ》はにんまりと笑みを浮かべ、言った。
「無駄だにょ。絶対に無駄なんだにょ。私には、君の攻撃も、誰の攻撃も届かないんだにょ。私の天地廻転≠ヘ絶対無敵、超無敵、完全無敵。負けなければ負けないんだにょ。きゃははは」
攻撃が届かなければ、負けない。道理だ。攻撃を受けないのに負ける道理は何もない。どこにもない。あるとすれば精神の敗北だが、仮にも六亡星、仮にも二つ名持ちが、精神の敗北を喫することなどないだろう。
「まぁいいや。んじゃね、ばいばーい。また機会があったら、会おうか」
あまりに唐突にそんなことを《フェアリィ》は言って、すっと宙へと落ちていく。僕と《お庭番》はその光景を呆然としてみていて、遠くから人のこちらへ来る声で現実へと引き戻される。そういえばここは住宅地なのだ。
目を合わせることもなく、僕はそこで《お庭番》と別れ、同時に万屋さんとも別れた。
結果としてみれば、この日はただの小手調べでしかなかったのだ。二つ名一人を二人がかりで退けてはみたものの、それは相手を窮地に追いやったというわけでは何もなく、下手をすればこちらが見逃してもらったというような感覚すら与える退きで、だからこそ僕は忘我していたわけなのだけれど、その行動の不可解さの意味がようやく理解できたのは次の日からだった。
まず、朝。人目につかない道路で、僕に襲撃をかけようとしていた恐らく三武神一派だと思われる人間と交戦、勝利。捨て駒だったのかたいした戦力も持っておらず、昨日戦った《フェアリィ》とは天地の差だった。
さらに放課後。どうやら三武神も六亡星もどちらも周囲を巻き込みたくないのか、僕が学校にいる間に狙ってくることはなかったが、それでも過去二回の《影武者》のこともあるし、つい先日京沢先輩を確保するために職員室に平気で乗り込んできたこともある。楽観視はできない。
放課後は三つ巴だった。三武神所属の二つ名持ち《ディセンバー》と《影男》と、六亡星からは曰く第一部隊を率いた《血色の白》。この戦いは双方がある程度の怪我を負い、僕も怪我を追った時点で、全員が見計らったように退散して終了。無論僕だってかなりの怪我を負った。
万屋さんも、《お庭番》も同じような状況らしい。こちらは直接狙われるというわけではなく、京沢さんに迫る刺客で大変だということだ。時間的には僕とほぼ同じ状況と、プラスして深夜に一度ということらしい。ただの下級部隊が来ることもあれば、ある程度てこずらざるを得ない精錬された小隊が編成されてくることもあるとのこと。一度《影武者》とも交戦したらしい。
まるであの《フェアリィ》と僕たちの接触を合図にしたかのように、だんだんと戦いが激化していった。戦う場所など選んでもいられないし、人に見つかる可能性だって多々ある。そのたびに記憶操作や物品修復が行われているのには驚嘆するしかないが、このままでは僕たちの肉体が疲労によって壊れてしまう。もしかするとそれが目的なのかもしれないが。
そんな戦いに明け暮れた日々が続き、五日目。僕は朝っぱらから二つ名持ちと退治する羽目になる。
僕の住むアパートの玄関先に立っていた、巨躯で傷だらけのサングラスの男は、風貌からもわかるとおり異常な強さをそもそも発していた。その巨躯をすっぽりと覆いつくせる大きなローブを身にまとってはいたが、それでもその下に鍛え上げられた筋骨隆々の体があることは想像に難くない。
その男は自分のことを《Mr.クロックワーク》と名乗り、一本のナイフを懐から取り出す。見る限り部下を引き連れてはいないようだが、それは自信の表れか、それとも奇襲にでも使うつもりか。出ないならば、一対一の戦いを好む戦闘狂なのか。
ナイフが煌く。あまりの速度に軌跡しか見えないその攻撃を、けれど僕はほとんど本能的な感で回避する。さらに追撃。縦に、横に、また縦に、斜めに、白い線が空気を切断し、わずかな真空を生み出しながら僕の体を追い詰めていく。
逃げる隙を見つけたと思った瞬間、《Mr.クロックワーク》の腕が上下に動き、ナイフを思い切りこちらに向かって投擲してきた。数メートルもない距離からの、道具によって身体能力を底上げされた状態での物品投擲。奇しくも先日僕が《フェアリィ》に行った行動と酷似している。
《Mr.クロックワーク》が投げたナイフは明らかに投擲用のそれではないのに、なぜかナイフはまっすぐ僕のほうへと飛んでくる。この距離、その速度で、回避する術などはない。
鮮血が舞った。顔面を狙っていたナイフを避けようとした際、頬、そして耳に大きく横一文字の赤い線が走る。激痛にうずくまりそうになるも、僕は叫びすらも必死で殺し、《Mr.クロックワーク》に躍りかかった。
瞬間、背後で爆発。
僕はあまり唐突さにたいした回避行動も防御行動もとることができず、そのまま前方に引き飛び、地面に強く体を打ち付けられながら、けれど何とか必死で立ち上がる。はっきり言ってめちゃくちゃ痛かった。
「終わりではない」
《Mr.クロックワーク》はそう呟いて、懐から数十本のナイフの束と、そして黒いL字型の何かをとりだした。
「なっ!? 軽機関銃かよ!?」
黒いL字型の何か―――軽機関銃を向けられる。黒い、黒い、まるで地獄のような銃口は、間違いなく僕を狙っていた。考えるよりも先に体が動く。そのまま横に跳躍するが、先ほどの爆風のせいで体の節々が痛み、思うように動けない。
ずがががががっ! そんな轟音とともに銃口から鉛の弾丸が吐き出され、僕の体の数センチ隣を通り、地面に転々と跡を残していく。あんなものを喰らったらたっていることもままならないだろう、喰らうわけには絶対にいかなかった。
約一秒後、フルオートにしていたらしい軽機関銃からは弾丸が吐き出されなくなる。が、息をつく暇もなく、《Mr.クロックワーク》は僕の前に一瞬で移動する。左手には十数本のナイフがまとめて保持されており、人間業ではないような動作でそれら全てを正確に投げてくる。
僅かな隙間を見つけ、そこに体をねじ込むようにしてナイフを回避し―――足元で爆発が起こった。小規模な爆発だったが、それはけれど連続して僕の周りで起こり、爆風と飛んできたナイフによって僕の体は極限まで痛めつけられ傷つけられる。
「―――!」
最早声もあげることができない。この人間は、この目の前に立つ《Mr.クロックワーク》という人間は、強すぎる。今までまともに戦ったことのある二つ名持ちは《フェアリィ》だけで、対峙したということも含めるならば《影武者》もそうだが、あの二人より間違いなくこちらのほうが強い。能力の違い、というのもあるのかもしれないが、それでもこの人間は絶対に強すぎる。
僕の思考を吹き飛ばすかのように、僕の背後でまた爆発が起きる。がらがらと何かが崩れ落ちる音。
痛い。もう何も考えられない。そのうち痛みもなくなって、この爆発の正体なんかどうでもよくなって、死んでしまうのだということしか思わなくなって、それでも死というものは怖くて、あぁそうだ、万屋さんだって京沢先輩だって死ぬのは怖くて嫌なはずだ。
なら、仕方がない。僕だけが一足お先にこの日常から逃げるわけにはいかない。
「なめんなっ! 僕だって死ぬわけにゃあいかないんだっ!」
僕が止めを刺そうと近づいてくる《Mr.クロックワーク》に飛び掛ろうとしたそのとき。
「よく言ったわ」
《Mr.クロックワーク》の後ろから声が聞こえた。無論《Mr.クロックワーク》が言ったわけでもあるまい。
巨躯の影からちょこんとのぞく、青いプラスティック製のバケツ。そして《Mr.クロックワーク》のわき腹に深々と刺さっているナイフ。指されている本人の表情はサングラスで見えないが、たいした痛がっている様子もないところから見ると、やせ我慢などではないのだろう。
《Mr.クロックワーク》は何を思ったのか、今まで握っていた弾丸が装填されていない軽機関銃を万屋さんに向けて放り投げた。万屋さんはその行動の意味がよくわかっていないようで呆けており、それは僕も同じだ。一体弾丸の装填されていない軽機関銃を、それも放り投げるという行為にどのような意味があるというのだろうか。
それでも僕は咄嗟に叫んでいた。理由はない。あるとしてもそれは直感的なもの過ぎたからだ。
「逃げろぉっ!」
ずんと空気が震えて、たった今まで《Mr.クロックワーク》の手に握られていた軽機関銃が跡形もなく爆散する。しかし、そこから万屋さんの姿はとっくの昔に消えてなくなっていた。
「停止時計=c…」
僕は久しぶりに見たその道具の能力を見てつぶやく。
「ご名答。ごめんね、遅くなっちゃって。猛ダッシュしたんだけどさ」
青いバケツを被って掃除マンであり、さらに臨戦状態で《お庭番》ともなっている万屋さんは、僕の隣でバケツによる反響音を響かせながらそう言うのだ。
僕と万屋さんは隣り合ったままバケツ越しに微笑んで―――万屋さんの顔は見えないけれど、きっと笑っている―――《Mr.クロックワーク》を睨みつける。僕たちの目の前に聳え立つ山のような大男は、ナイフで深々とわき腹を刺されてさらに血液が流れ出しているというのに全くの無表情だった。その状況は戦慄せざるを得ない。
男が片方のひざをついた。しかしその体勢は自らの意思に反して倒れたというよりは、反対に自分の意思によって倒れたかのような行動だった。《Mr.クロックワーク》はひざを突き、片手を地面につけ、僕たちのほうを見て―――笑った。明らかに笑った。それは明らかに誰のどんな目から見ても、面白いものを見つけた子供の笑顔がさらに歪んで狂ったかのように見えただろう。
その笑顔を保ったまま、けれど何も言わずに背を向ける《Mr.クロックワーク》。僕たちはさせまいと足を動かそうとするが、動線上の地面が突如として爆発を起こした。ばらばらに散った土くれや石の塊が振ってきて、同時にどうして今まで気づかなかっただろうかと思われるアパートの住人の慌てたような声が聞こえる。どうせそれもまた道具の能力なのだろう。本当に何でもありの世界だ。
「これ被って!」
万屋さんがポケットから取り出した何かを僕にかぶせる。僕の司会は一瞬にしてくろ一色に染まり、それを触ってからようやくそれが何であるかを悟る。今では使われていない黒いゴミ袋だ。
かくして、僕ことごみ男と、万屋さんこと掃除マンは、その場から必死で逃走した。
2
放課後である。図書室である。本棚整理の時間である。
本来ならばすでに本棚整理は終わっているはずなのだけれど、依然として僕や五十嵐や京沢先輩がこの部屋へと赴いているのには理由がある。まだ仕事が残っているのだ。
いや、しっかりと本棚整理の仕事は終えたし、それ以降も当番制で誰かが放課後には必ず図書室の整理をしようという話にもなっていたのだけれど、なんと図書委員会の顧問であり我がクラスの担任でもある福田がこういってきやがったのだ。
「『最近新しい本が届くことになっていてな、だが我が校の図書室はそこまでスペースがあるわけではない。だから貸し出しカードを確認して、長期間読まれて無い本を選別してほしいんだ。その選別が終了しだい新しい本を届けるから。お前ら、やってくれるな?』だって? 全く、人を小間使いか雑用係か何かと勘違いしているんじゃないのか?」
僕は貸し出しカードの最終貸し出し日を確認しながらぼやく。
「仕方ないよ。私たちが選ばれたのだって、どうせ委員会でやることになってもみんなサボるからだろうし。結局私たち三人でこの仕事をすることは変わらないんだよ」
「えと、うん。そうだよ。今までの仕事の、えと、延長線上にあるんだから、別にいいんじゃない、かな。……それに……」
にこにこと笑いながら京沢先輩。続けて五十嵐。いや、まぁ僕だって二人と一緒に会話しながら作業するのは楽しいし、別に用事だってあるわけでもないし、何より京沢先輩を守りやすいってのもあるんだけど……。
駄目だ、どうしても堀井さんのことを思い出してしまう。
《雷神》に殺された古賀と堀井さん。いまや二人に関する記憶はこの世からあらかた消滅していた。クラスには不自然に一つ残った空き机があるけれど、誰もそのことを気にする人間などいないし、委員会の顧問であったはずの堀井さんだって誰も覚えちゃあいないのだ。
「こら、サボらないでよ」
僕の首に何かが巻きつき、一拍送れて背中に重みが加わる。京沢先輩が僕に後ろから抱き着いているのだ。なんだか最近京沢先輩がスキンシップ過多なような気がするが、どうなのだろう。もしかするとこちらが本当の京沢先輩かもしれないし、というかすでに幾度に渡るこのような行為にもすでに僕は慣れてしまっているので、どうとも思わないのが幸いなのだろうか。
五十嵐と目が合う。五十嵐は恥ずかしそうに顔を背けるが、何故だろう、何か僕を見る瞳に変な感情が入っていたような気がするが、はて?
「ちょっと止めてくださいよ先輩、重いんでずがらああああああああぁっ! すいませんすいませんすいません! ギブギブギブ! 首を絞めないでください首を絞めないでください落ちる落ちる落ちる落ちるぅっ! 五十嵐も見ていないで助けてぐれぇっ……」
「誰が重いのかな? ねぇひかりちゃん」
「え、えと、えぇと……はは」
苦笑しながら五十嵐は頬をぽりぽりと掻いた。
それから三十分がすでに経過し、外は夕日によって真っ赤に染まっている。もうここらが潮時だろうと思った矢先に、京沢先輩が立ち上がった。
「さて、もうそろそろあがろうか。……と、その前にお手洗い行ってくるね。ひかりちゃんは?」
「あ、えと、私は、いいです」
「わかった。じゃあ千葉君、ひかりちゃんがいくら可愛いからって、変なことをしちゃ駄目だからね」
「しませんよ」
そんな軽口を叩きながら京沢先輩が図書室を後にする。残ったのは静寂。
そういえば、僕と五十嵐と京沢先輩は、少し前まではお互い口も全然聴いたことの無い関係だったんだよなぁ。ただ図書委員会に入っていて、僕と五十嵐は大した交流も無いクラスメイトというだけの関係。その関係がこんな、まるで親友のような会話ができるまですぐだとは。
五十嵐の顔が夕日に彩られ、赤く染まっている。可愛いな、と素直に思う。そういえば前にも一度こんなことがあったな、あの時は《フェアリィ》の部隊が攻めてきて大変だったっけと過去を思い出している最中に、五十嵐の声がかかった。
「えと、えっと、千葉君、まつげのところに……ごみが、ついてる、よ」
五十嵐の顔が赤く見える。どうせ夕日のせいだろう。手の甲で両目をこする。
「どうだ?」
「えと、まだ……」
「まだ取れてないか?」
「……えと、うん……」
「まだ?」
「……えっと……うん、まだ……。……私が、とろうか?」
「あ、そうだな。お願いするよ」
五十嵐が近づいてきて、手が伸びてきたので僕は眼を瞑る。
少しだけ遅れて、唇にやわらかいものが当たる感触と、体にのしかかる重み。……え? あれ?
目を開けると、すぐそこに五十嵐の顔のどアップが。僕の唇に与えられるやわらかさは依然として継続し、代わりにだんだんと僕の思考回路が奪われていく。五十嵐? え? 何を? 唇? なにこれ? あれ?
五十嵐と僕の唇が離れ、うっすらと唾液が糸を引いたような気がした。ようやく五十嵐の顔の全体が見える状態になって、そこで僕は五十嵐の目じりに涙が大量にたまっていることに気がつき、最後に顔の赤みが夕日に照らされているからではないことを知る。
「いが、らし?」
「私っ!」
五十嵐の大声なんてこれがきっと最初で最後だろうと思えるほど、五十嵐はうつむきながら大声を出した。時折少しだけしゃくりあげていたり、洟をすする音が聞こえてきたりもする。
泣いて、いるのか?
「……私、千葉君のことが、好きです。大好きです。いきなりだけど、順番めちゃくちゃだけど、大好きなんです。……はは、困っちゃうよね、きっと。こんなこと言われても。ごめん、本当にごめんね。ははは。……じゃあねっ!」
五十嵐は口癖である「えと」を一回も使わず、そのまま僕が静止する暇もなくかばんを引っつかみ、図書室から出て行ってしまう。がらら、がらら、がしゃん。扉の閉まる音だけがその場を支配し、完璧な静寂に囲まれた中、僕は呆然とするしかなかった。
唇に手を触れてみる。湿り気を帯びるそこはまだ五十嵐の感触と暖かさが残っていた。
五十嵐が、僕のことを、好き? 確認してみるが、駄目だ、どうもまだ頭が混乱しているようで、上手く気持ちの整理をつけることができない。
くそっ。頭を掻き毟りながら毒づいて、僕は京沢先輩には悪いけれど帰る用意をする。メモでも残しておけば問題は無いだろう。かばんを取って、歩き出し、そこでぼくは足がふらついて盛大に転んだ。はは、余程驚いているらしいな。
転んだ拍子に鞄の中のものがぶちまけられる。教科書、筆箱、ファイル、紙の束……紙の束? これは、そうだ、前に京沢先輩からもらった小説じゃないか。そうか、読もう読もうとずっと思って、だけどここのところ敵の襲撃が多かったからずっと読めていなくて……。
散らばった小説をまとめようとして、僕はその小説を眺める。途中からだったが、どうやらファンタジーだということがわかる。
僕は読んで、読んで、読んで―――笑うしかなかった。本当に、正真正銘、誠心誠意笑うしかなかった。何だこれは、一体どういうことなんだ。もしかして、いや、つまり、そういうこと、なのか? すべてが勘違いで、全ての情報が間違いで、真実はこの小説の中に凝縮されていたと、そういうことなのか? そうか、そういうことなんだ。
「はは、はははは! 結局、結局誰も本当のことを知らなかったのか。《一騎当千》も、《氷姫》も、他の誰も、真実を知らずに戦ってきたというのだ。なんていう、なんていう酷い現実だ。なんていう酷い現実だ」
「冗談じゃない!」
どがん。
僕のその叫びと呼応したかのように、学校全体をびりびりと振動させるような、耳を劈く音が轟いた。僕はそのまま鞄を放り出し、四肢同神≠飲み込みながら図書室の扉を壊す勢いで開け放ち、窓を開けずに突き破って走り抜けた。
六亡星か、三武神か、どっちだ!? 僕が学校にいるときに襲ってくるなんて久しぶりだなぁっ!
僕は走って、そこで人が倒れているのを見る。傍らには一人の小柄な人間が佇んでおり、逆光によってよくわからないが、そこから数歩進んだところで唐突に僕は現実を理解する。何が起こっているのかを理解する。
倒れているのは、五十嵐。口から、体中から血を流し、セーラー服を赤く染めて地面に倒れている。
佇んでいるのは、《血色の白》。先端が赤く染まった包帯を縦横無尽に体からはやし、佇んでいる。
「いがらしぃっ!」
僕は絶叫した。
「……私、千葉君のことが、好きです。大好きです。いきなりだけど、順番めちゃくちゃだけど、大好きなんです。……はは、困っちゃうよね、きっと。こんなこと言われても。ごめん、本当にごめんね。ははは。……じゃあねっ!」
告白をしてしまった。それ以前にキスまでしてしまった。やりかたがよくわからなかったファーストキス。巷ではレモンの味だのなんだの言われていたが、正直なところ今の私はいっぱいいっぱいでそんな味などを感じる余裕は無かった。とにかく恥ずかしくて、とにかくどもったり舌を噛んだりしないことに気をつけていて、精神的にぎりぎりだったのだ。
告白。生まれて始めての、告白。はっきり言って緊張した。このようなプランを立案したのは美里ちゃんだ。もう少しで図書室の仕事が終わってしまうということを伝えると、美里ちゃんは「じゃあその前に告りなさい」となんとも素早い判断をした。
そりゃあ私だって、いつかこの気持ちに決着をつけなければいけないということはわかっている。たとえ振られようとも、何らかの形で気持ちを伝えるということはしなくてはいけないということを知っている。けれど、美里ちゃんの計画立案したプランは、どうにも私には勇気を必要としすぎるものだった。
『不意打ちのキスからの愛の告白』。美里ちゃんが計画したのはそのようなものだ。愛の告白だけでも死にそうなのに、それなのにキス? もしかしたら美里ちゃんは私の命を間接的に奪おうとしているんじゃないだろうかと思えるほど無謀な、少なくとも私にとっては無謀なことだった。
「でも、男って既成事実に弱いから。それに、告白だけじゃああの鈍感男、気がつきそうに無いかそれとも冗談だと受け取って流す可能性がありそうだからね」
美里ちゃんの弁である。あのまま放っておけばキスどころかもっと深いところまで勧められると思ったが、あの時はキスもできるかどうか不安だった。だって、キスですよ? 唇と唇を、こう、ぶちゅっとしてしまうんですよ? 独り言で弁解をしてしまうくらい私は危なかった。
けど、結局キスをすることはできた。思い切り古典的な方法だったが。
告白もすることができた。そのあとにすぐ恥ずかしくなってしまったけれど。
返事は聞いていない。聞くのが怖いとかそういうことじゃなくて、純粋に私が聞く前に恥ずかしくて逃げ出してしまったせいだ。どうしよう、明日、答えを聞くべきか、聞かざるべきか。
まぁ、キスや告白ができた時点で、私は私的に一歩進歩した。それだけは確実だった。
それに、無理やり一方的なキスだとしても、自分の好きな人間とキスをすることができたのだ。それにしっかりと自分の想いを伝えることもできた。これ以上満足なことがあるだろうか。
私が上機嫌で中庭あたりに差し掛かったとき、一人の少女が目の前に現れた。本当はもともといたのかもしれないけれど、私にはその少女が突然煙のように現れたかのようにすら思えてしまった。
その少女は他校の制服を着ていた。眼鏡とショートカット、それにどうしてか生気が無いように見える瞳。用があるのですかと聞いてみると、その少女は頷いた。
一秒遅れて、腕とお腹と足と胸と首が熱くなる。喩えるならば、そう、焼けた鉄の棒を無理やり押し付けられたかのような、灼熱した感覚。熱く、痛く、どろりとし、何も考えることができなくなっていく。
お母さん、お父さん。それに、あぁ、千葉君。
視界が急激に白くなっていく中、そこで私の世界は闇になった。
「いがらしぃっ!」
僕は叫んだ。叫ぶしかなかった。だってそうだろう? 少し前までは笑っていたのに、僕にキスをしたのに、僕に告白をして顔を赤らめていたのに、そのまま逃げるようにと図書室を走り去っていったのに、こんな、こんなっ!
「許さない。絶対に許してやるものか貴様覚悟しろこのやろう死ね!」
感情の奔流が僕を飲み込み、自分で自分が何を言っているのかがわからなくなる。僕はそのまま感情に身を任せ、目の前の《血色の白》に向かって拳を叩きつける。
しかし《血色の白》は僕の攻撃が当たる瞬間に上空へと飛び上がり、先端が鋭利な包帯を幾本も僕に向かって放ってくる。僕は五十嵐の冷たくなりつつある体を抱きかかえ、横っ飛びで回避した。
「五十嵐、五十嵐っ! 五十嵐ぃっ! 起きろよ目を覚ませよどうして眠っているんだよおぉっ! 死んだって? 冗談じゃないそんなの!」
頬を叩くが五十嵐は一向に目を覚ます気配など無い。そうこうしているうちに上空の《血色の白》はもう一度ナイフのごとき包帯の雨を降らせてくる。
「あああああぁっ! 《血色の白》ぉっ!」
僕が先ほどより大きな声で絶叫したそのとき。
空中で巻き起こる大きな炎の塊。それは包帯を飲み込み焼き尽くし、ただの灰へと化す。僕はその光景を呆然として眺めるしかできない。
「おい、そこのあんた。あんただよあんた、《終焉》。ここは一つ、共同戦線といこうじゃないか?」
いつの間にいたのか、隣には中学生くらいの男子。
「君は……?」
「《魔法使い》と呼ばれている人間さ。三武神のな」
僕はもうそんなものに驚かない。異常事態というものに、自分の想像外の事態ということに、悲しいことにすでに慣れてしまっているからだ。
『共同戦線』。僕はその言葉に顔を顰める。
「どういうことだ」
「どういうこともこういうことも、そういうことさ。共同戦線。一緒に戦おうぜって言ってるんだよ」
「どうしてだ」
「理由は、まぁはしょって説明すりゃあ、今は三つ巴の最終決戦なわけだ。《終焉》と《お庭番》VS三武神VS六亡星って具合にな。こちらとしては確かにお前と《お庭番》と悪魔の存在は邪魔だが、それ以上に邪魔なのが六亡星だ。だから俺たちはお前らと共同戦線を張ることを希望する。少なくとも共同戦線を張っている間、三武神はお前らも悪魔も狙わない。六亡星だけを潰したいんだ、今は」
僕は一瞬思案する。この男子、《魔法使い》の言ったことが真実であり、なおかつ《魔法使い》や三武神全体がその約束を守るとは思えない。が、今の僕はすでに《魔法使い》から助けてもらっている身で、現状では敵が多すぎるというのも事実だ。どうするべきか、一度万屋さんに確認をとるべきか。
「《お庭番》に確認を取る」
僕のその言葉に《魔法使い》は笑って。
「確認をとるっつーことは、お前自身は賛同するってことだな。よっしゃ、じゃあここは任せろ。……よぉ《血色の白》。《魔法使い》は、あんまり弱くねぇからな。気をつけろよぉっ!」
上空に浮かんでいる《血色の白》はかなりの間思案顔をしていたが、やがて瞳を僕たちにむけて、ふっとため息をついた。
僕はその光景を見ながら踵を返し、五十嵐の遺体をすでに何人もの人間に踏み荒らされている、校舎の脇にある花壇に寝かせてから万屋さんの元に向かった。万屋さんは京沢先輩を守っているのだろうから、京沢先輩が行っている場所を予想すればよく、京沢先輩が最後に向かったのは恐らくトイレだ。一階トイレ周辺にいるに違いない。
まさに地獄絵図だった。幾人ものお互いの組織の戦闘員の死体が重なり合って倒れている。放課後というのが幸いして生徒の姿は無いが、中には一人や二人、先の五十嵐のような犠牲者もいた。僕はそれを見て無性に憤りを覚えている。
と、いきなり死体の山から人が立ち上がり、僕の行く先をふさぐ。一人や二人なら蹴散らしていけるのだが、それが数十人単位となると僕の立ち止まらざるを得ない。死体は重なり合い、だんだんと壁のようにうずたかくなっていく。
後ろを見ると、生身の人間たちが追いかけてきていた。全員が黒い服を身にまとっている。六亡星の戦闘員なのだろう、いい度胸だ!
人を殴り、殴り、殴り、殴り、殴り、殴り殴り殴り殴り殴り殴り殴り殴り。人を蹴り、蹴り、蹴り、蹴り、蹴り、蹴り蹴り蹴り蹴り蹴り蹴り蹴り蹴り。僕は悲鳴と血液を撒き散らしながら倒れていく男たち―――中には女もいたけれど―――をなぎ倒しつつ、一番後ろに控えていた道具持ちらしい男性と向かい合う。
男性は腰にぶら下げていた日本刀を一瞬にして引き抜き、低いたと思った瞬間には僕の髪の毛がぱらぱらと地面に落ちる。居合い、というやつか。今はぎりぎりのところで回避できたが、次は―――次は当たるわけが無い。こんなとろい攻撃、何様のつもりだ!?
返す刀で日本刀が向かう。僕はそれを一歩引いて回避し、しかしその途端に日本刀の刃がぐぉんと唸りながらその長さを伸ばす。刃が肩に食い込み、血がゆっくりと流れ出る。痛みはあるが、だからどうしたというのだ? その痛みは、僕のこの怒りを、憤りを、昂ぶりを、激情を、押さえつけることができるほど強力なものではない!
「六亡星の構成員が一人、伸縮じざ」
名乗る最中に顔面に裏拳一発。少し間をおいて地面に転がった日本刀を叩き折ると、その男性は素っ頓狂なうめき声を上げてのどを掻き毟り、白目をむいて倒れる。こいつは馬鹿か? ここは戦場。戦場で名乗る暇なんかあるわけが無いだろう。昔の武士でも気取っているのかこいつは。
僕はすぐさま一歩前に足を踏み出す。と、今までいた場所に何かが光の速さとほぼ同等の速度で落下し、そこを焦がす。一体それが何なのかなど考えるまでも無い。雷だ。
現れたのは、数個の黒い球。サイズを小さくした黒水晶のようだ。そしてその黒水晶を従えるかのように中心にいるのは、《雷神》。やはり前にあったときと同様の下卑た笑いと表情を作っている。
「矢張り彼ごときじゃあ、矢張り第一部隊ごときじゃああなたを止められないですか。仕方ありません、本当ならば漁夫の利を得ようと思っていたのですが、こうなってしまってはねぇ。逃げることはできませんよ、僕の雷黒御球≠ヘ電気によって生きとし生けるもの全てを操ります。死体が散乱しているこの校内からはまず逃走不可能です。
……どいつもこいつも僕を馬鹿にしやがって。誰が弱いって? 誰が弱いって言うんだ!? 僕は強い、ほらこのとおり、最初に《終焉》を殺すのはこの僕だ!」
ばちち。そんな音を黒水晶がたてる。《雷神》を攻撃するか? あんな大量の道具の攻撃をかいくぐって?
「死んでく」
一瞬にして《雷神》の頭部が、何の前触れも無く吹き飛んだ。脳漿と脳髄とその他諸々の気持ち悪い物体を撒き散らし、少し遅れて頭部のみの無い《雷神》の体が倒れる。生きているわけが無い。
僕が人の気配を感じて振り向くと、そこには一人の美麗な女性が立っていた。年齢は三十前後といったところだろうか、ロングの黒髪をたらし、柔和に、しかし絶対零度の瞳を持つその女性は、僕に微笑みかける。
「さきほど《魔法使い》から聞きました。とりあえずは一応、私たち三武神と共同戦線を張るということでよろしいのですね? はじめまして……いえ、会うのは二度目ですか。《不滅男爵》のときに一度出会ってますからね。まぁそんなことはどうでもいいのです、私は三武神の幹部のうちの一人、《氷姫》です。以後よろしく」
僕はその瞳に射竦められ、けれどどうにか体と精神の自由を保ちつつ、会釈をする。どうやら《魔法使い》が言っていたように本当に最終決戦のようだ。恐らくこの戦いにお互いの持ちうる全て戦力を注ぎ込んでいるのだろう。六亡星と三武神が同時に行動を仕掛けてきたのはただの偶然とは到底思えなかったが、この際過程などどうでもいい。
「現在の状況を報告すると、《魔法使い》と《血色の白》が現在交戦中、《雷神》はたった今私が殺し、《フェアリィ》は三武神の小隊を五組ほど潰して今なお残りの小隊と交戦中ということらしいわ。ちなみに《影武者》は情報系等の混乱および指揮する人間たちの暗殺ね」
小隊五組ということは、確か小隊が十人ほどの集まりだったはずだから、五十人ほどの人間を殺しているのか。
「残りの二人、《一騎当千》と《Mr.クロックワーク》にはあまり目立った動きは見られないわ。《一騎当千》の足取りはよくわからないし、《Mr.クロックワーク》にしたって地雷もどきや時限爆弾もどきをあちこちにセットしているだけだもの。三武神の被害も多いけれど六亡星の被害だって同じくらいに大きい。……まぁいいのだけれどね、一騎当千≠熈刻限爆砕≠焉Aどちらも能力は知っているから」
僕はそこで疑問に思う。残りの二人、だって? 《血色の白》、《雷神》、《フェアリィ》に、残りの二人は《一騎当千》、《Mr.クロックワーク》。五人しかいない計算になる。六亡星というのだから幹部は六人いなければいけないというわけではないが、前に万屋さんから聞いた話では、今の五人のほかに《不滅男爵》がいたはずだ。
僕のそんな疑問を察したのか、《氷姫》はたいした感情を交えずに言う。
「あぁ、《不滅男爵》ね。あいつは私がとっくに殺したわ」
殺した。《不滅男爵》を。日本刀で斬られようとも拳銃で撃たれても死なないという噂のあの《不滅男爵》を、目の前にいるこの女性が、殺した。僕だって本人を見た事は無いが、そのようなうわさが広まっているということは、そして六亡星の幹部にいるということは、やはりそれなりの強さがあっただろうに。
不滅さえも、この女性は、この《氷姫》は、滅すことができると言うのか。
「それにしても、本当に六亡星はわけがわからない集団ね。無駄な行動が多すぎる。この《雷神》したってそう。戦場で無駄口を叩く暇があったならば、その時間をもっと目的遂行のために使うべきよ。そうじゃない?」
「僕とのこの会話は、無駄口じゃないんですか?」
「無駄口よ。無駄口だけど、それほど無駄でもないし、大体私をこんな雑魚と一緒にしないでくれる? 私は十五年前の事件の生き残り、そんじょそこらのアーティファクト所有者とは格が違うのよ」
僕ははっとする。十五年前、だって? ならば僕の父親とも一戦交えたことがあるのかもしれない。僕の親の敵がこいつなのかもしれない。だとしたら―――いや、だとしても、何をどうこうする気も無い。僕はすでに決別したからだ。それに、今の僕は、悲しいことに三武神の気持ちも六亡星の気持ちもなんとなくだが理解できる。
全員何かしらの理由があるのだ。その理由というものが、僕の場合は日常を望むということだっただけで、一歩違えば本当に三武神や六亡星の仲間になっていた可能性だって有りうるのだ。
「……僕はこの辺で。《お庭番》を探さなければいけないのですから」
《氷姫》のほうを向くことなく、僕は死体の山を蹴り崩し、そのままもう一度走り出した。
―――そして時間にして約二分後、僕は万屋さんと、その腕に抱きかかえられている京沢先輩を発見する。万屋さんには夥しい量の血液が付着しており、まるで万屋さん自身の傷のようだ。いや、事実として万屋さんの血液もその中にはあるのだろう。
死屍累々と築かれていく死体の山を見て、僕はようやくこの惨劇を客観的に知る。今の僕は恐らく万屋さんにも負けないほど血生臭いのだ。
「千葉君! あなたは大丈夫!? 今、三武神と六亡星が入り乱れていて……!」
興奮した様子で話す万屋さんを制して、僕はとりあえず一番重要な話題を振る。
「万屋さん! 三武神から共同戦線の話が出ました。六亡星を倒すの手伝う代わりに、その間は僕やあなたや京沢先輩には手を一切出さないということです。僕はすでに《魔法使い》と《氷姫》に出会い、ある程度助けられました。彼らの言っていることは間違いありません。僕は仕方ありませんが、彼ら三武神を全面的に信頼します。少なくともこの場だけは。万屋さんはどうしますか?」
万屋さんは驚愕に目を見開いていたが、すぐに思案顔になる。質問は無い。質問などしている暇など無いということを万屋さんはよく知っているのだ。
「……わかった、あんたの言うことを信じて、私も乗ってやるわ、その提案。でも、極力油断しないようにはしてよ」
「わかっています。……ところで万屋さん、その京沢先輩はどうしたんですか?」
僕は万屋さんの手の中で眠っている京沢先輩に視線を移しながら言う。もしかして京沢先輩を腕に抱き、もしくは担ぎ上げながら敵と今まで戦ってきたというのか? まさか。なんていうことだ。
「気絶させたわ。よくわけがわかってないみたいだったし、下手にするよりは気絶させたほうがいいのよ。精神的負荷をかけると、ね……」
そうだ、精神的負荷をかけると、またあの黒い怪物が生まれてしまう。それだけはなんとしても避けなければいけない。が……違うのだ。黒い怪物は確かに京沢先輩の能力で生まれたのだが、本当は少し違うのだ。違うのだ、京沢先輩の能力を誰もがみんな勘違いしているのだ。それは《一騎当千》も《氷姫》も、そして万屋さんも。
「万屋さん―――」
僕が声をかけようとしたとき、万屋さんは僕の言葉を遮って言葉を吐く。
「千葉君、そういえば、最近由奈、変じゃなかった? 最近凄く変だったんだ、特にさっき、あたしとあったときなんて、顔面蒼白でふらふらしていてさ。今聞くようなことじゃないのはわかっているけど―――」
僕たちに向かって走りくる三人の黒服を、僕が二人、万屋さんが一人秒殺して、万屋さんは会話を開始する。
「最近由奈の黒い怪物を生み出す回数が減ってきてたの。いや、寧ろ、ほとんど無かったっていってもいいわ。凄く元気もよかったし。けど、それで今日のあれでしょ。何かあるのかなぁってさ」
そうなのか。万屋さんの元気がここのところよかったなんて、僕には全く気がつかなかったけれど。
「さぁ? 代わったところといえば、そうですね。最近はあの人、僕に対してのスキンシップが過多になってきたようなくらいですけど……あれ?」
万屋さんは震えていた。かたかたと、わなわなと、目を見開いて顔を真っ青にして、万屋さんは震えていた。
「どういうことよ、それ」
押し殺したような声で言う。
「いや、どういうことって、すぐ僕にぺたぺた触ってきたり、挙句の果てには抱きついてきたり……」
「嘘、嘘よ! 嘘でしょ!? そんなこと、そんなことありえないのに!?」
「え? いや、ありえないってことはないでしょう? 現実に僕は奏されているわけですし……」
「ありえないのよ、そんなことはあるはずが無いのよ!」
「いや、そんなこと、言われても……」
僕は一連の台詞の真意がわからず、そしてどうして万屋さんがそんなことを否定するのかわからず、僕は首をひねるしかない。
万屋さんはそれっきり黙ってしまった。そういえば当初はひっきりなしに聞こえてきた、怒号と断末魔の叫びと破砕音が、今ではとっくに聞こえなくなっていた。お互いの組織もほぼすでに壊滅状態ということなのか。
万屋さんがつぶやきだす。
「嘘……あるはずがないのよ。……だって、だって―――」
「―――由奈は男子には触れないのよ!?」
由奈は、男子には、触れない? それは一体どういう意味だろう。いや、それはそのとおりの意味で、京沢先輩が男には触れないという意味なのだろうが、じゃあなんだ、あの図書室整理を僕たちと一緒にしていた京沢先輩は、偽者だったというのか。そんなことがあるはずが無い。僕が気がつかないはずがない。時間はかかったにせよ、二回目に五十嵐に化けた《影武者》を見破ったのだ、誰であろうが今度こそ見破れないはずは無いというのに。
そう、あれは間違いなく京沢先輩本人だった。それは僕が保障する。ならば、一体、どういうことだ?
「前に一回、かなり前だけどあたしが美術室でクラスメイトの男子を殴ったことがあるでしょ? 知ってるはずよね。あたしがあの男子を殴った原因が、あの男子が由奈に言い寄った挙句、手を握ったってことにあるの。由奈が嫌がっているのにね。
由奈から聞いてないんだ。由奈はね、先天性の男性恐怖症なの。とは言っても話すのは問題なくて、男子に触れるのだけが駄目。男子に触れた瞬間、ばたんと倒れちゃう。そうだったのよ? 少なくとも去年、高一のときまでは」
ならば、それは一体どういうことだ? 京沢先輩は、自ら僕に触りに来ていたけれど、それは一体どういうことだ?
僕の頭に一瞬だがちらりとその答えがよぎったとき、僕と万屋さんを地獄が襲った。
視線の先に現れた―――《Mr.クロックワーク》。手には大量のナイフを握っており、矢張りそれを前回と同じようにありえない正確さで僕たちに向かって投擲してくる。僕と万屋さんはすんでのところでそれに気がつき、回避。十数本のナイフが僕たちの髪を切断し、皮膚を凪ぎ、肉を引き裂いて飛んでいく。ぎりぎり致命傷は避けたが、それでも完全に回避できるわけも無い。
万屋さんと京沢先輩を見ると、よかった、大丈夫なようだ。
が、僕たちはすっかり失念していた。まるで前に戦ったときのリプレイのように、ナイフが飛んでいった方向、僕たちの後方で、爆発が起こるのを。
顔を見合わせ、逃げる。とりあえず三武神にも助けをあおごう。こいつは、僕たちだけで勝てるほど弱くは無い。しかし、そこで上空から白い線が降り注ぎ、僕たちを攻撃すると同時に行く手を阻む。上空を見ると、くそっ! 《血色の白》か!
「危ないっ!」
万屋さんの声が飛んで、僕は高速で僕に向かってくるものを何とか回避する。あれは……なんだ、氷の球?
現れた女性―――《氷姫》を見て、僕は唖然とする。何故《氷姫》が僕を狙う、何故三武神が僕を狙うのだ!?
「勅令。火の力以ってして灼熱を与え給え。焦げろ」
まるで呪文の詠唱のような声が聞こえてきたと思った瞬間に、《血色の白》が小さく舌打ちして空中を素早く移動する。次の瞬間についさっきまで《血色の白》がいた空中にが燃え上がり、その間にも《Mr.クロックワーク》は懐からいつぞやの軽機関銃を抜き出して《氷姫》と僕たちに向かって一斉掃射する。
「燃えろ」
同じ声でさらに声が続けられる。と、今度は僕たち五人の中心付近で大きな炎が燃え盛った。
「焼けろ!」
今度は爆発を伴う炎が起こる。
「炭と化せ!」
《Mr.クロックワーク》が軽機関銃を撃ちつつ回避行動に移る。僕たちは現状に呆然としながらも必死で物陰に隠れようとし、次の瞬間大量の熱風と火の粉によって息ができなくなる。
「灰燼となって消え失せろぉっ!」
ひときわ大きな、まさに大爆発とでもいえるようなほどの炎が生み出され、火の粉と熱風を撒き散らしながら広がっていく。息をするだけでのどが焼ける感覚だ。なんだ、一体なんだというのだこれは。
その熱風のもつの風速と風圧により僕たちの隠れていた木が根こそぎ吹き飛ばされる。舌打ちをして逃げようとするも、体が以上に重くなり、容易には動けない。あぁくそっ、こんなときにっ! ふざけるな、ふざけるな。《フェアリィ》まで来たというのか! 一体どれだけ幹部がそろえば気が済む!?
目を開けば、《氷姫》の隣にはいつのまにか《魔法使い》と一人の少女―――初めてみる顔なのだが、恐らくは《影武者》だろう―――、《血色の白》と並ぶようにして《フェアリィ》、全員と対峙するかのように《Mr.クロックワーク》が中心付近に立っており、そして、さらに僕たち七人を取り囲むようにして存在するのは―――
「これが本当の最終決戦ということじゃなあ。ひょひょ、面白い面白い。幹部の生き残り全員と、《終焉》に《お庭番》、そして神までそろっちょる。ひょひょひょ」
大量の、そう、本当に大量の、百人ほどの《一騎当千》が存在していた。屋内に、屋上に、屋外に、いたるところに《一騎当千》が立っている。
「わりぃな」そう言ったのは《魔法使い》。
「もう共同戦線は終了だ。六亡星の部下を全員倒したんでな。残りはこいつらだけだ」
一体何が開戦の合図になったのか。
万屋さんが京沢さんを抱きかかえたまま飛び出す。どこかに連れて行くつもりだろう、賢い判断だ。
《氷姫》が大量の氷の弾丸を空中に生み出し、それを敵味方の区別なく無差別の方向に大量発射する。
百人の《一騎当千》が躍り出る。右手には全員そろって短刀を持っており、ある《一騎当千》は《氷姫》、またある《一騎当千》は僕にと、戦力を分散して攻撃を仕掛けてくる。
《Mr.クロックワーク》と《フェアリィ》は、お互い示し合わせてはいないのだろうが、ほぼ同時に《氷姫》に向かっていく。
《血色の白》の制服を突き破って、いつもどおりの鋭利な包帯が顔をのぞかせる。今回違ったのは、なんと《血色の白》の背中にある羽からも大量の羽が伸びていたことだ。
《魔法使い》は呪文の詠唱らしきものを開始した。《魔法使い》が呪文の詠唱を終了すると、地面から巨大な岩が突き出し、地形を容赦なく変えていく。
《影武者》は万屋さんが逃げ出すのを見るなり、すぐにその跡を追っていた。自分には大して戦闘能力が無いことを知っているからだろう。
飛んでくる氷の弾丸を回避し、《Mr.クロックワーク》の軽機関銃の流れ弾にもできる限り気を配る。僕の前に立ちはだかる《一騎当千》。短刀が煌き、右、左。屈んで回避。が、ナイフの振り下ろし。靴の裏で受け止め反撃する。足を払い、バランスを崩したところで腹部に拳。老人をいたわれ? なんだそりゃ。しかし一発入れた瞬間に《一騎当千》の姿が消えた。どういうことだ?
どごんと足元で爆発。僕の体が宙に舞い、そこを跳躍した二人の《一騎当千》が襲ってくる。短刀の攻撃を手で受け止める。肉の避ける感覚。手のひらが熱い。一気に貫かれたからだ。しかしそのまま着地し、とりあえず間合いを離す。今度は背後から大量の氷の球。さらに《氷姫》がこちらに向かってくるのが見えた。右手には氷でできた日本刀。
日本刀が地面を抉り、大きな跡を残す。衝撃だけでも凄まじい。しかし束の間に《Mr.クロックワーク》が投げたナイフが僕のすぐそばに。《氷姫》ともども倒すつもりだ。一瞬で一番被害が少なそうな地点を見切り、そこへ体を滑り込ませるが、次の瞬間には僕の体がばちりと衝撃を受ける。電気だろう。しかし《雷神》はいないはずだ。消去法でいくならば……《魔法使い》か。
そこへ畳み掛けるように包帯が降り注ぐ。痺れる体を必死で転がし、それらを回避しようと試みるも、そんなことができるわけもなく、僕の腕や太もも、腹部を包帯が貫いていく。包帯で怪我するなんて冗談にもならない。
悲鳴を必死でこらえ、一番近くにいた《Mr.クロックワーク》へ殴りかかる。そこで僕の体が重くなり、何とかひざを突くのまでは我慢するが、動きが止まる。《フェアリィ》の能力だ。本当、なんて邪魔なことを。すぐに解除できるとは言え、《Mr.クロックワーク》相手にこの間合いで、しかもこの一瞬の隙は、冗談ではなく本気で死に直結しかねない。
悲鳴と怒声の入り混じった声を上げ、体中の骨を折らんばかりに体をねじり上げ、回避行動に移る。左鎖骨を断ち切り、さらには筋肉や腱も断ち切り、ナイフがめり込む。
数秒遅れて、ナイフが爆発した。爆発自体はごくごく小規模なものだったが、それでも体の内部からの爆発だ、想像を絶する痛みが体中を駆け巡り、ともするとショック死ものの苦痛が襲う。が、それでも気絶すらしない。気絶などしていられるものか。
左手が動かない。骨が砕け、筋肉組織もとっくに壊れきっている。右腕だけで僕はこれからこいつらと戦わなければいけないのか。
いったん引かなければ。引いて、体勢を立て直さなければ。早々簡単に向こうが僕に逃げさせてくれるわけは無いだろうが、それでもここにいて戦い続けるよりはずっとましだ。一縷の望みにかけてやろうじゃないか。
僕は絶叫し、走る。場所は万屋さんが向かった場所へ。
僕の行動に一番最初に気がついたのは《一騎当千》。すでに半分以下にまで減っているそのうちの数対が僕を追う。ついで《血色の白》も《魔法使い》との戦いを中止させ、僕を追ってくる。
走り、走り、走り、辿り着く。学校の一番端、雑木林の浅い部分にある物置。前々から決めていた場所だ。万が一のときは、ここに京沢先輩を保護しようと。
「万屋さん!」
僕が辿り着いたのと、そして万屋さんの胸にナイフが吸い込まれていったのは、一体どちらが早かったのか。
勝てるわけが無かったのだ。京沢先輩を守りながらなんて、普通に考えれば勝てるわけが無かったのだ。しかも万屋さんは、今までの戦いで停止時計≠フ時間制限を減らしている。無謀すぎた、無茶すぎたのだ。
物置の脇に倒れている京沢先輩の姿が見える。助けなければ、そう思って走り出すが、目の前を僕に気がついた《影武者》がふさぎ、その前に僕自身の体力と肉体がすでに限界を突破していた。気力と精神はまだ十分にあるのだけれど、どうしてもその二つがついていかない。もんどりうって倒れこむ。
あぁ、僕は死んでしまうのか。そう思う。思うしかなかった。奥の手は無いのか? 何かかの状況をひっくり返せる方法は無いのか? ……あるわけがない。あるわけがないけれど、僕は往生際が悪いのだ。
「先輩、京沢先輩! おきてください、京沢先輩っ! 僕です、千葉です! 千葉浩介ですっ! 先輩! 京沢由奈先輩っ! おきてくださいっ! 早く、早く逃げてください! お願いです先輩! おきてくださいっ!」
僕の声が届いたのか、いやどうせ偶然だろうが、とにかく、そこで京沢先輩は、ゆっくりとまぶたを開く。そして周りを確認する暇もなく僕の姿を視界に入れて、誰も予想だにしない出来事が起こった。
京沢先輩がとても悲痛な表情を作り、「あ……」と何かを思い出したようにつぶやいた瞬間である。みしみしと、めきめきと何かが割れる音が聞こえ、何かが空間と空間の間から出現する。
それはあの黒い怪物だった。
万屋さんが、最近はほとんどでなくなったといったあの黒い怪物。精神的負荷がたまらなければ出ないはずの怪物。確かにこの状況を見れば精神的負荷など一瞬にしてたまるのだろうが、京沢先輩が見たのは周囲の状況でなく、この僕だったはず。僕が一体何をしたというのだ。
京沢先輩は何かに取り憑かれたかのように呟いた。
「嫌だよ……せっかく好きな人ができたのに、せっかく好きな人と話せるようになったのに、せっかく好きな人に触れるようになったのに、誰かに取られちゃうなんていやぁっ! こんな世界、私は望んでない! 私はこんな世界、望んでないよぉっ! やっぱりここは現実なんだ、小説みたいに何でもかんでも上手くいくわけじゃあないんだ! もう嫌! こんな世界―――」
駄目です、京沢先輩。その先を言ったら、その先を言ってしまったら、その先を口に出してしまったら、全てが本当に終わってしまう!
「こんな世界、なくなっちゃえばいいんだ!」
「そんなわけがあるわけないでしょう!?」
僕は叫んだ。京沢先輩は驚き、突然の黒い怪物の登場に戸惑っていた《影武者》や《一騎当千》も僕の大声に驚いた。
「先輩、現実を見てください。先輩のために、万屋さんは死にました。死んだんです。五十嵐も、あなたや僕たちの巻き添えで死にました。僕だって京沢先輩を守り、自分自身の日常を守ろうとしたからこそ、このような大怪我をしています。……先輩、知っていますか? あなたにはこの世界を破壊する能力があります。けれど、あなたにはこの世界を創り出す能力もあります」
僕の背後で人の動く気配。《一騎当千》か、それとも《影武者》か、どちらかが僕を殺そうとでもしているのだろう。別にいい。変わりはしない。
京沢先輩は僕にいわれてはじめて気がついたのか、血まみれの僕や、少し離れたところで動かなくなっている万屋さんの姿を見て、口を抑えて丸くなる。吐き気を催したのだろう。それも仕方の無いことだ。
僕はそれでも、そんな京沢先輩に声をかける。
「先輩、あの小説の続きを、ラストを考えてください。すでに考えてあるなら、さらに細かいところまで考えてください。僕にくれた小説の続きを脳内で書いてください。先輩、あなたの能力は、本当はそんな大層な能力なんかじゃあないんです。ちっぽけで利己的な、自分の現実逃避のための能力なんですよ」
京沢先輩は僕のほうを見て、全く意味がわからないというような顔をしていた。
「意味がわからないのも当然です。けれど、お願い、しまっ」
首に何かが侵入する。最後に見たのは先輩が驚愕に目を見開いて、そしてゆっくりと一回頷いたところと、空が夕焼けから緑青に変わっていくという不思議な光景だった。
終章 後日談/前日想
0
結局のところ、京沢先輩の能力とはどういうものだったのか。それは僕にもわかっていなかった。ただ、僕は見た。小説には、少なからず僕たちのことが書かれていたということを。
道具は超能力に置き換えられ、笑ってしまいそうだが掃除マンはごみ男―――そういえば万屋さんは女なのに、どうして「マン」なのだろう―――に置き換えられ、組織は矢張り二つだったけれどそのうちの片方はあの黒い怪物を使って世界の破壊を企んでいたりした。けれどこれでは三武神や六亡星が生まれたときから京沢先輩はあの小説を書いていたことになってしまう。だから僕は思うのだ、もしかすると京沢先輩の能力によって、過去すら改変されてしまったのかもしれない、と。
京沢先輩は現実逃避がしたかった。この世に嫌気が差していたのかもしれない。そこは本人に聞かなければわからないが、とりあえず先輩がこの現実世界に対して嫌なことを抱くたびに、京沢先輩の能力は発動する。そして京沢先輩が望み、作り出した、自分の小説の世界のものや事象や設定をこの現実世界に引き込んでくるのだ。今まではそれが黒い怪物だったというだけで、実は僕たちが使っていた道具や、先ほど僕が言っていたように過去すらも京沢先輩が書いた小説の中から引き込まれてしまったのではないだろうかと僕は考えている。けど、結局、この事実は闇の中だ。誰に聞いてもわかることは無いのだ。
全く、困るよなぁ。
1
「おーい、五十嵐、帰るぞ」
「あ、えと、うん。ちょっとまってて……」
「おやおやご両人、今日もあつあつですなぁ」
「黙れ林。っつーか、滅多なことを言うな」
「どうだか。すでにエロエロなことをしているかもな」
「っておい、古賀も黙れよ」
「……」
「五十嵐も何か言ってくれよぉ……」
「あ、いたいた。おーい、千葉君にひかりちゃん」
「一緒に帰んない? なんかさ、由奈がおいしいケーキ屋を見つけたらしくてさ」
「ケーキ屋?」
「うわ、五十嵐の目が光った」
「えと、だって、千葉君とケーキを食べに行くって、前に約束、しましたよね? ……あれ? しましたっけ? してませんよね? 何ででしょう、したような覚えがあるんですけど……」
「うわぁ! デートの約束をもうしてやがる!」
「五十嵐ぃ、どうしてお前はそんな勘違いを!」
「酷いわ千葉君! あたしというものがありながら!」
「え? 千葉君、私だけじゃなくて奈々子まで毒牙にかけたって言うの!?」
「ぬぁにー! 千葉、それは本当かぁっ!」
「万屋さんも京沢先輩も、それは新手の虐めですか!? 虐めですね!? そうなんですね!? そうなんでしょう!?」
「こうなったら千葉君に奢ってもらうしかないわねぇ」
「あたし、賛成」
「えと、あたし、も……」
「こらそこっ! そういう会話を本人通さずに決定するなよ!」
2
あるところに一人の少女がいました。一人の少女は何不自由なく育ってきましたが、ある日、この世界というものに飽き飽きしてしまったのです。毎日が変わらないということは平和でいいことですが、雲が流れるようなゆったりと日々しかやってこないということが、少女には我慢なら無かったのです。
しかしそう簡単に面白いことなどおきません。ですから、少女は自分の希望と夢と空想を、パソコンの中に表現しようとしました。自分が憧れ望んだ異形の世界を、ファンタジーの世界を、そして異性にも触ることができる世界を、小説としてパソコンのモニターの中に表現しようとしました。
黒い怪物。それは敵でした。自分の敵、世の中の敵。世の中において倒さなければいけない敵。だけれどその敵は絶対に倒すことができないのです。だって敵はいつの時代も存在していて、いつの時代もみんなの心の中に潜んでいるものだから。いつの時代も人間を形作っているものだから。
超能力。それは夢でした。こうなればいいな、こうなったら楽しそうだな、こうなったら退屈しないですむのにな。少女の夢と願いと空想が結晶し、具現化し、物語の中に登場したものがそれでした。普通の日常なんかつまらない。平和は嬉しいけれど、のんびり穏やかなのは結構だけれど、それじゃあ何か物足りない。
これはちっぽけな物語だった。ただ、一人の少女がつまらない現実から目を背け、小説世界を望んでいたというだけの物語。世界の命運を左右するなんて、そんな大層なものじゃない、もっと個人的でちっぽけな物語に他ならなかった。
三人の少女と一人の少年と、そして多数の人間を巻き込んだ物語はこれで一つの終わりを告げ、また新たな物語を少女がつむぎだすのかどうかは神のみぞ知る。もしかするとまた新たな出来事が起こるのかもしれないし、起きないのかもしれない。
とりあえずわかることは唯一つ。
次回作があるとしても、次回作の幕があけるまでには、まだ当分時間があるということだけだ。
end
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■作者からのメッセージ
ファンタジーです。よくある学園(?)ファンタジーです。
前作、僕と死神彼女と魔王から大体半年以上あとに書いたものなので、文体が滅茶苦茶変わってたり変わってなかったり。
交信がストップしていたのですが、その間に全て書き上げ、細部の修正もして……で、どうせならとまた最初から一気に再掲載いたしました。
実際のところ、この行為が利用規約に引っかかるかどうかは定かではないので、注意されたら直しますが……。
それでは、テキストデータなのに六百バイトを越えたと言うわけのわからない作品、サヨウナラボクノニチジョウを、どうかお楽しみください。
以下、特殊な読み方
《氷姫》……ひょうき
四肢同神=c…ししどうしん
《血色の白》……ちいろのしろ
天女乃衣=c…てんにょのころも