- 『魔女と、魔女と呼ばれる咎人と 完』 作者:アタベ / ファンタジー 未分類
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ひねくれた主人公が素直になる話です
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今、目の前に広がる世界は、何度目の世界だったか。
リキメナが覚えていることは、大洪水で一度世界が滅び、二度目の世界は天使と悪魔の戦争の末に滅び、天使たちが作った永遠の王国といわれた三度目の世界は、人間の戦争で滅びた。
なら、今は四度目の世界か。三度世界が滅んでもまだ生きているリキメナにとっては、もはや時の流れなど関係がない。
リキメナは罪を犯した。
リキメナが犯した罪は、それほどに大きく、幾ら時を重ねても到底償いきれるものではないからだ。
そして、現在もリキメナの贖罪は続いている。いつか、償いきれることを信じて。
何百年も前はアスファルトが敷かれていた地面も、今は草花が萌えている。そこには、アスファルト同様に、過去には機能していた超高層ビルが、未だに聳え立っている。かつては摩天楼と謳われたビルも、今では歪なオブジェクトに成り果てていた。
昔はこれに人が住んでいた、と言ったとしても、今の世界に生きる人々は信じてくれるだろうか。多分信じはしないだろうな、とリキメナは思う。リキメナ自身、このオブジェに人が住んでいたことを信じられないからだ。
風が吹き、リキメナの長い黒髪と風が踊りだす。その軽やかなステップがリキメナの思考を現在に呼び戻す。
草花も、風と一緒に踊っていた。なんとも素朴な舞踏会だろうか。
草花の舞踏会で、一際リキメナの眼を惹く王子様を見つけた。
小さな、青紫の花を咲かす植物。勿忘草が、リキメナの眼を支配する。
それは、リキメナの罪の証。
それは、リキメナとあのヒトとの、愛の証。
咎人リキメナは贖罪のために、勿忘草を植え続ける。
殆どの人が、国が、ターグという名の神を、唯一神として信仰している。何度世界が滅び、生まれ変わっても、信仰の対象に変化はない。当たり前だ。人間は神の被造物なのだから。それが、神の意思なのだから。
変わらないのは信仰だけではない。人間は争いを辞めない。神も争いをなくそうとはしないようだ。人間の争いが激化していき、ついには人間が滅び、そして再び生まれる。そういった循環が、世界には出来上がっていた。
第四の世界の文明も、中世程度まで復元されている。リキメナにとっては、二度目の中世時代だ。この時代が、最も生活がし辛い時代でもある。中世は、魔女狩りの全盛期だ。歴史は繰り返されている。
この時代では、女というだけで罪に問われたりもする。一度魔女だと決め付けられれば、その決定は絶対に覆りはしない。拷問の末に殺されるのだ。不死の存在のリキメナにとっては大きな問題という訳ではないが、不老不死という能力は魔女と呼ばれるのに十分すぎる要素でもある。この時代、魔女に人権などない。いや、人権という物が確立されたのはもう少し後のことだったか。歴史が繰り返しているのならばリキメナの考えは正しいことになる。
この時代、宗教の力がかなり強く、ターグ以外の神を信仰する者は異端者、神の敵として処刑される。ターグを信じない者には生きる権利がないのだ。
ターグ教の敵は、それだけではない。両の目の色が違う者など、どこかが神が初めに創った人間と形が違う者も、処刑されている。そういった異形の者たちは本来人間が持ちえることのない力を持っている。ターグ教ではその力を悪魔の力とみなし異形の者たちを悪魔の子と呼んだ。または、魔女、とも呼ばれるようになった。
言うまでもないが魔女も神の敵とされ、神の敵を裁く行為、魔女狩りが人間の、神の子の義務となった。異形の者たちがどれだけ神を信じようが魔女狩りの対象外にはならない。魔女は神の子にとって絶対悪であり、魔女を殺すことは絶対の正義だからだ。
国も魔女を捕らえた者、殺した者に栄誉と報酬を与えた。魔女と呼ばれる者たちは神の子を恐れ魔女狩りから逃れるために、町には近寄らず、人里離れた境地に安息を求めた。魔女にとっても、それが当たり前のことになりつつあった。
太陽が沈みかけている。陽が表情を変えると世界も色を変え、世界は鮮やかな赤色に塗りつぶされる。川の水も例外ではなかった。
水鏡に写る、左右色の違う瞳も、淡く赤く染められている。人間ではない証が水鏡の上で、不規則に揺れる。まるで、お前は絶対人間にはなれない、と嘲笑っているかのように。
魔女トゥフィエは、髪を抜くくらいの力を水鏡に込め、鏡を割る。醜い顔が更に醜くなっていく。
自分が魔女と呼ばれ、忌み嫌われることが当たり前の事なのだと感じるようになってかなりの時が過ぎた。意味もなく流され続けて、ここまで来た。果たして自分は、何処まで流されていくのだろうか。考えたところで小石程の興味しか沸かなかった。
トィフィエが興味を持つ物は一つだけ、魔女と呼ばれる生き物は、どうすれば他人に迷惑をかけずに生きられるのか、それだけだ。魔女は存在を認識されるだけで人間に憎悪を生み出す。魔女は憎悪の象徴。それは、変えがたい現実だ。
魔女だというだけで人々からは武器を持って追われ、何度殺されかけたことか。町の中心で魔女の死体を貼り付けにされていることも何度も見かけた。
魔女は迷惑かけずに生きることなんて出来ないのかも知れない、と最近は思うようになってきたが、そういった一つの答えが出せたとしても、トゥフィエには死ぬ勇気などないのだから、意味のないことだ。
本当に、どうしようもない生き物だと、自身を嘲笑する。
気付けば、水鏡は元に戻っていた。不毛なことをだらだらと考えていたものだ。トゥフィエは自分の顔を見るのが馬鹿らしく思えて、水鏡を覗くのを辞めた。
立ち上がり、辺りを見渡す。陽の光を遮り、四角形の影を作り出している建築物らしきものが眼に入った。よく今までこの存在に気が付かなかったものだ。
――それほど自分の顔は注意を引く物でもないだろうに。
「とりあえず今夜は、あそこで寝ようかな」
人間でもない癖に少しでも人間らしい生活を求めてしまう。やはり人間から生み出された物の宿命なのか。それとも、人間に対する憧れが強すぎるのか。
「多分、両方だろうな」
心に言い聞かせるように、トゥフィエは言った。トゥフィエの声は、川のせせらぎと共に、下流まで流されていった。
トィフィエは陽を遮る建築物に向けて歩き出す。目の前には小さな森が広がっていた。トゥフィエは森を、闇を怖がるような年でもない。枯れ枝が肌に爪を立てることにも躊躇せす、トゥフィエは森の中へ歩を進めた。
森は、意外と早く抜けられたが、日が落ちるのも意外に早かった。抜けた先には小さな草原が陽だまりのように広がっていた。
四角形の建築物も、もちろん存在している。近くで見ると、この建築物の壮大さがよくわかる。かなり風化しているが、それでも虚栄心を糧に建てられた王の城とは一線を引いている。未だに自分たちは、過去の人類には追いつけていない。それを見ていると、追いつける気がしない。
トゥフィエは建築物に歩を進める。足に触れる草花は近づくなと忠告しているように感じる。確かに、このような美しい場所に自分などお呼びでないのかも知れないが。
草花の絨毯から石畳に足を移動させる。中はかなり暗い。陽の通り道が殆ど存在していないらしい。申し訳程度に光が石で出来た壁や天井を照らしていた。
外の草花の庭園とは世界が違うような錯覚を覚える。外には居辛さを感じたトゥフィエだったが、中では不思議と心が落ち着く。
「あれ。お客さんかな?」
中途半端な暗闇の中から、中途半端な明るい声が聞こえた。どうやら先客がいたらしい。
「つっても、わたしの家って訳じゃないんだけど」
マッチの光程度の笑顔を、女が浮かべた。
声の主がトゥフィエの前に姿を現す。暗くて全体を見ることは出来ないが、年齢は二十歳前後くらうだろうか。幼くはないが、年長者の女性らしさも感じない。髪は、切り出した木材のような淡い茶色をしていて、背の半分くらいまで伸びている。服装は厚めの長袖の物にロングスカートを着こなしている。肌の露出が殆どない。
「若い女の子がこんな夜にどうしたの?」
「そういう貴女だって人のことは言えないでしょ」
若いといっても、トゥフィエの年齢は見た目とつりあっていない。見た目だけで言えば、目の前と女と年も近いだろうが、トゥフィエは見た目の年齢より、十年は多く生きている。魔女は人間とは年の取り方が違うらしい。
「そりゃそうだ。まあ、どちらも訳ありってことね」
女は能天気な声ばかり聞かせてくる。トゥフィエの瞳の色に気が付いていないのだろうか。
「貴女、お名前は? わたしはリキメナ」
「……トゥフィエ」
どちらも姓は明かさない。リキメナもそれなりの事情を抱えているのか。トゥフィエの場合は忘れてしまっただけなのだが。
「トゥフィエちゃんね。よろしく」
何の躊躇いもなく、トゥフィエの手を伸ばすリキメナ。だが、トゥフィエにはその手を握る気はなかった。
「……よろしく。でも、そんなに長くは此処にはいないから」
貴女と馴れ合う気がないことを、はっきりさせておく。むしろ、馴れ合う事などできやしないのだから。
「でしょうね。長居するような場所でもないから」
あくまでリキメナはトゥフィエに明るく話しかけてくる。
「まあ、居たいなら居たいでいいんだけど」
少々眩しいくらいの笑顔で、リキメナが言った。
――調子が狂う。本気でわたしが魔女だって気付いてないのか?
リキメナに返事を返すことなく、トゥフィエはそんなことを考えていた。
リキメナの瞳を見てみるが、自分と同類という訳でもなかった。
なんだか、落ち着かない。
――なんなんだ、この女は。
「ねえ、貴女」
「何?」
「わたしが魔女だって、分からないの?」
自身の心のざわめきを静めるためなら、自分が魔女だと知られても構わない。どうせ遅かれ早かれ分かることだ。
「知ってるよ。瞳の色を見れば誰でも分かるしね」
リキメナは笑顔で、予想外なことを口にした。
リキメナは、最初からトゥフィエが魔女だと知っていた。
ざわめきを静めるどころか、心は更に騒ぎ出した。
「だったらなんで貴女は、わたしに普通に接せられるの?」
声を荒げそうになるのを、どうにか抑えた。何故自分は苛立っているのか、何も分からない。
「トゥフィエちゃんは、普通に接してほしくないの?」
苛立つトゥフィエを嘲笑うかのように、リキメナは冷静に声を発する。
「と、いうよりも、普通の接し方って何?」
リキメナの冷静な声音はトゥフィエにとって良い冷却材になって、少しずつトゥフィエの心を冷やしていく。
「……普通人間は魔女を疎ましく思うわ」
「それって、普通じゃないよ。同じ人間なのに」
「同じ人間? 馬鹿なこと言わないで。触れることなく人を殺せるような存在が人間だっていうの?」
トゥフィエが初めて人を殺した瞬間、自分は人間でないと悟った。
「うーん。人間は人間を殺すからねぇ。触れるか触れないかとか、別に問題じゃないと思うんだけど」
リキメナがわざとらしく首を傾げて見せた。
「とりあえず、わたしは魔女も人間だと思ってるから、接し方が変だって言われても困るんだけど……。でも、ちょっと馴れ馴れしかったかな。それが気に入らなかったのなら、ごめんね」
リキメナが深く頭を下げる。それと同時に少し長い髪がふわりと舞う。
「謝らないで。貴女は何も悪くないわ。あんまり、人と話すことがなかったから、戸惑っちゃって。ごめんなさい、リキメナ」
結果として、心のざわめきを静めることが出来た。だが、リキメナという女性については、何も分からない。ますます不思議な女性に思えてくる。
「初めて名前を呼んでくれたね」
頭を上げ、楽しそうにリキメナが言う。言動がどこか幼く感じるのに、彼女が放つ雰囲気には、幼さなど欠片もない。
「あと、そうそう。眠るのなら、一階より上は危ないから辞めておいた方がいいよ。床が抜けそうだから」
そう忠告して、リキメナは出口に向かった。
「何処に行くの?」
なんとなく、訊いてみた。
「散歩。今夜はお月様がキレイだからね」
リキメナが答えた。なんてことのない、普通の答えだった。何か期待していた訳ではないが、少し、興ざめた感覚を覚えた。
リキメナは振り返らず、軽くトゥフィエに手を振って、外に出て行った。トゥフィエは月に興味などないので、リキメナを追おうとは思わなかった。
独りになったトゥフィエは、建物の中を見渡した。椅子と机が何台か置かれている。皆、一様に埃を被っているが、まだ使えそうだ。しかし、それらは寝具としてはあまり有効には使えそうにない。トゥフィエは結局、隅に座り込み、眠ることにした。
広い場所で眠るのは少し落ち着かないが、贅沢は言ってられない。
眼を閉じて、何時間過ぎただろうか。今夜は何故か寝付けなかった。原因がリキメナだということは、考えるまでもないことだった。
トゥフィエは、睡眠を求めていない身体を起こし、外に出ることにした。出口からは淡く月光が差し込んでいる。
光に引き寄せられる虫のように、トゥフィエは月光を求め、外に出た。
外界は、優しさと、安堵感を感じさせる黒で化粧が施されていた。
時間によって色を変える世界。世界の表情のなんと多いことか。今の表情はどんな感情を抱いて浮かべたものなのか、トゥフィエには想像もつかない。
世界の色は黒だけではなかった。空を見上げると、月以外に地上を照らす星が、競いあうように輝いている。星たちの輝きは、月にも負けてはいない。
――俯いてばかりだったから、気が付かなかった……。
「眠れない?」
月と星に照らされながら、リキメナがトゥフィエに歩み寄る。
「月が眩しすぎるから」
冗談だと分かるように、笑みを浮かべてリキメナに言った。
「そうね。今日はお月様の機嫌が良いみたいだ」
リキメナも穏やかで、陽炎のような笑顔を返し、そのまま笑顔を張り付かせたまま、建物の壁まで風に揺れる木の葉のように移動した。
「ねぇ、少し、お話しない?」
リキメナは壁を背にして腰を下ろした。話をする気があるのなら、隣に腰を下ろせ、ということか。
「いいよ。どうせ眠れそうにないし」
リキメナの隣に腰を下ろし、話をする気があることを、態度でも伝える。
しかし、座ったのはいいが何を話していいのかトゥフィエには見当がつかない。
暫くの間、風と草が奏でる子守歌に耳を傾ける。
「トゥフィエちゃんは、お花って好き?」
先に子守唄に聞き飽きたのはリキメナだった。
「花、ね。嫌いじゃないけど」
嫌いではないが好きというほど花には詳しくない。
「好きな花とかってある?」
「そうね……」
少し考えてみる。花を見て綺麗だ、と感じることはよくあるが、名前はなんだろう、と考えることなど殆どない。花の名前を知っていて、尚且つ自分の気に入った花とは何があっただろうか。
「タンポポ、とか」
答えてみて、今の自分には似合わないな、と思った。自分が子供だったころに、母親に教えてもらった花の名前。幼い頃は、綿毛を飛ばして遊んでいたものだった。
それが自分の、たった一つだけの幸せな思い出だったことに気が付く。
未練がましくも忘れられない、両親との思い出。
「タンポポかぁ。わたしも好きだな。今の時季ならたくさん咲いてるよね。タンポポの逞しさにはホントに頭が下がるよ。見習いたいくらい」
自然に、リキメナは笑う。リキメナの笑顔を見ていると、自分が惨めに感じて仕方がない。
「ほら、そこにもタンポポが咲いてる」
リキメナがトゥフィエの足元を指差した。そこには控えめに笑顔を咲かせる小さな花が顔を出していた。
「花はさ、どれだけ時間が過ぎても毎年同じ顔を見せてくれるから、わたしは好きなの」
花を見るときのリキメナの眼は、何処か悲しげな印象を受ける。
「わたしも、分かる気がする」
毎年、花が咲くのを楽しみに待つというのも、それはそれで良いかもしれない。
風がタンポポを揺らす。会話が途切れ、風と草との談笑に二人は包まれる。どうやら子守唄の演奏は終わったらしい。
「あの、リキメナ。訊いていい?」
「あんたは一体何者なんだ、とか?」
やはり、リキメナには悟られていた。
「リキメナの言うとおりよ。魔女でもないのに、どうしてこんな処にいるのか、気になって」
トゥフィエは嫌なら答えなくても構わない、と付け足した。
リキメナはすぐには返事を返さず、考えるような素振りを見せる。
「えーっとねぇ。魔女じゃないってこともないんだけど……」
何故か照れたような笑みを浮かべるリキメナ。
「トゥフィエちゃんは知らない? 遥か昔に天使を誘惑して、不老不死の力を手に入れた魔女の話」
リキメナが何を伝えようとしているのかが、トゥフィエにはよく理解できない。
「子供の頃に、童話で聞いたことがあるけど」
その童話の内容は、人間の女に恋をした天使が一生その女と暮らせるように、不老不死の力を与えたのだけど、天使は人間に人外の力を与えた罰で永久に牢に入れられてしまい、女は魔女として今も生き続けている。確か、そんな内容だったと記憶している。
「その天使を惑わした女がわたし。つまり、元人間なの。だから眼の色だって同じ」
内容とリキメナの口調が噛み合っていない。そのせいで、酷く現実味のない話に聞こえる。
「あと、なんでこんな場所に居るかというとね、大勢人間がいるのが苦手なの。自分が他人と違いすぎるから、余計に寂しく感じちゃって……」
リキメナの笑顔の中に影が落ちる。
「贅沢な悩みだよね。その気になればいつでも普通に暮らせるのに。トゥフィエちゃんは、瞳のせいで、したくても出来ないのに」
ついには笑顔も消えて、泣き顔になりかけていた。
「別に気にしなくていいよ」
少しはリキメナの表情が戻ればいい、と声をかける。今のトゥフィエには、この程度の言葉しか、かけてあげられる余裕がなかった。リキメナの話は真実が偽りか、判断が出来ないでいるのだ。
「でも、さっきの話、本当なの?」
こんなことを訊いたところで嘘でしたと答えてくれる可能性は零に近い。本当ですと答えてくれたとしても、今の状況に変化はないだろうが、トゥフィエは訊いてしまった。
「信じられなくても仕方ないかな。証拠もないしね。とりあえず、嘘を言ったつもりはないけど」
トゥフィエに疑われていることもさして気にしてはいないようだ。
「本当のことなら、なんでわたしなんかに教えてくれるの?」
「わたしは、別に隠すようなこととは思ってないから。伝えるようなことでもないけど。でも、訊かれたら答える。それだけ」
さばさばと、リキメナが答える。なんとなく納得出来る答えだ。
「訊きたいことはもうないの?」
もっと質問してくれ、と催促するのではなく、質問があるのならしておいた方がいい、とそういう意味の言葉として、トゥフィエは受け取った。
「もうないわ」
訊きたいことは大体教えてもらった。仮にまだ質問があったとしても、今は頭の中の整理の方を優先したい。
「わたし、そろそろ寝るわね。話の相手してくれて、ありがとう」
トゥフィエが立ち上がる。
「貴女は?」
「今日は金星でも見ようかと思ってね。もう少し夜更かししてるよ」
見慣れた、幼さを感じさせる笑顔でリキメナが答えた。
「そう、それじゃあ、おやすみ。リキメナ」
「おやすみなさい。トゥフィエちゃん」
二人で、軽く手を振り合って、トゥフィエは建物の中に入る。
リキメナの話が偽りか真実かは、とりあえず、真実に近いということで自身を納得させ、今日はもう、眠ることにした。
何故かは分からないが、よく眠れそうな気がした。
落ち行く月を眺めながら、自分は本当に孤独が嫌いなのだと、リキメナは実感した。若い同性の人間と言葉を交わすだけで、ここまで楽しく感じるとは。何千年と生きていても、精神年齢の方は外見と変わらないらしい。自分が人間ではないと未だに認められないのも、精神年齢の低さが原因だろう。
「天使を誘惑した魔女……かぁ」
――わたしが彼を好きにならなければ、彼も牢に入れられることもなかったのに。わたしが生きていなければ、彼とわたしが逢うこともなかったのに。
今では死すら許されない自分の身体を何度呪ったか。自身の魂の軽さに、何度絶望したことか。完全な絶望すらも許されない罪深さを、何度悔いたことか。
「ごめんなさい、アザゼル様。わたしまだ、貴女のことが好きなんです。ごめんなさい」
汚れた涙を流したところで、何の意味もないことは分かっていたが、リキメナは、溢れる涙を止める術を、知らなかった。
眠気に浅く浸かっているトゥフィエの耳を、打楽器のような賑やかな声がくすぐる。どうやら熟睡していたようだ。トゥフィエはそのくすぐったさを我慢できず、心地良かった眠気の泉から、這い出ることにした。
見慣れない、黒く薄汚れた天井が真っ先に眼に入る。建物の中は少し薄暗いが、今が朝だということは分かった。
鬱陶しく纏わりつく眠気の雫を少しずつ払い落としながら、身体を起こす。出口からはトゥフィエを誘うように、温かな陽が差し込んでいる。陽と一緒に幼い子供の声と、楽しそうなリキメナの声も建物の中に入りこんでいた。それらの声は、トゥフィエの眠気を払うのに、それなりに役に立った。
完全に身体と頭を覚醒させるには、陽を浴びた方が効率がいいし、身体も陽を求めている。トゥフィエは、身体が求めるがままに、足を進ませた。
一歩、外界に足を踏み出すと同時に、トゥフィエは眼の前に手をかざす。一瞬でトゥフィエの身体は影色から陽色に塗り替えられるが眼だけはまだ、影色をしている。陽色に染められるのも時間の問題だが。
「お姉ちゃん、誰?」
トゥフィエの耳をくすぐっていた声と同類の声が聞こえた。トゥフィエは声が聞こえた方へ、足元に視線を向ける。
「リキメナお姉ちゃんのお友達?」
トゥフィエの足元には、純白のワンピースを纏った幼い少女がいた。身に纏うワンピースの白さには少し負けるがワンピースから伸びている手足も清潔感を覚えるほどの白さだ。少女は無邪気な笑顔をトゥフィエに向けていた。
「あれ? お姉ちゃんの眼、色が片方違うね」
少女が無邪気に、瞳の色を指摘した。
「お父さんとおんなじだ」
少女が笑顔で言った。裏のない、ただ笑うだけの行為だ。幼いからこそ出来ることだろう。
「この子は?」
いきなり話しかけてきた少女に困惑しつつ、リキメナに説明を求める。
「シィちゃん。自己紹介してあげて」
リキメナには説明する気はないようだ。
「うん。はじめまして、お姉ちゃん。あたしはシィっていうの。お姉ちゃんのお名前は?」
元気よく自身の名を名のり、トゥフィエに手を差し出す。トゥフィエが想像していた子供とまったく同じ態度だ。
「はじめまして、シィちゃん。わたしはトゥフィエ。よろしくね」
シィの笑顔には劣るが、出来る限りの笑顔でトゥフィエは答え、軽くシィの手を握る。久しく浮かべていなかった笑顔だが、意外にも笑顔の浮かべ方を忘れてはいなかったようだ。
「シィちゃんは、何処に住んでるの?」
ここの近くに町などあっただろうか。あったとしても魔女の娘など住まわしてはくれないだろう。
「えーとねぇ、ここからもっと上に行ったところにあたしのお家があるの」
「じゃあ、結構遠いのね。シィちゃんは迷ったりしないの?」
――山道をこんな幼い子供が下ったり登ったり出来るのか。
「大丈夫だよ。だって木が道を教えてくれるもの」
いとも容易く発したシィの声は、自分がどれだけ重大なことを発しているのかを、何も理解できていない。
「……へぇ。シィちゃんは木の声が聞こえるんだ。すごいね」
何故かは分からないが、冷静に努めて、シィに答えた。
シィの言葉を、感覚で真実だと判断した。シィの言葉が真実なら、迷わず山を行き来出来ることも納得出来る。やはり、魔女(異形の者を総じて魔女と呼ぶ)の血を引く者は、姿は人間と同じでも何かしら人外の力を持って生まれてくるのか。それよりも魔女と人間の間に子供が出来たことが驚きだが。
「トゥフィエお姉ちゃんは、あたしのお友達になってくれる?」
シィが期待に満ちた瞳をトゥフィエに向ける。その瞳は自身を写す鏡のようで、自分の醜さをはっきりと写していた。
「いいよ。わたしはシィちゃんのお友達だよ」
本心ではないがシィの期待に満ちた瞳で見られては、断れる気がしない。
「本当? 嬉しい!」
罪悪感を覚えるくらいに、シィは素直に喜んだ。
シィの笑顔をみているとたまらなく哀しくなる。世界は、この笑顔を生かそうとはしないからだ。シィの真っ白な笑顔が滅茶苦茶に汚されてしまうと思うと子供の純粋さなど無ければいいのにと思う。
――どうせ、いつかはなくしてしまうものなら、持っていても仕方が無いのに。
「どうしたの? トゥフィエお姉ちゃん」
シィはトゥフィエの笑顔に違和を感じたらしい。子供の感受性とはすごいものだ。
「なんでもない」
何故か、自分の考えを悟られてはいけないと感じ、トゥフィエは嘘を重ねる。シィを騙せるかどうかはわからないが、笑顔を張り付け直した。
「そう。だったらいいの」
シィは笑顔を浮かべてはいるが、何処か腑に落ちない様子だ。
「そうよ。聞いて。リキメナお姉ちゃんってすごいのよ。何でも知ってるの」
トゥフィエの表情よりもリキメナのことの方がシィの興味を引くらしい。
「なんでもって訳じゃないけどね。ちょっとした昔話」
暫く黙っていたリキメナがシィの言葉を訂正する。
「トゥフィエお姉ちゃんもリキメナお姉ちゃんのお話聞いてみて、とっても楽しいお話を聞かせてくれるのよ」
シィが興奮しながら、眼を輝かせて言う。
「そう、ならわたしも聞かせてもらおうかな」
シィの言う楽しいお話にはあまり興味がある訳ではないが、シィに付き合ってあげることにした。トゥフィエが考える友達らしいことといえば、このくらいしか思いつかなかった。リキメナもトゥフィエが本気でないことくらい分かっているだろうが。
「期待に副えるかどうかは分からないけど、ご希望とあらばお話しよう」
リキメナは、思い出話でもするかのような調子で語り始めた。例えば、昔は鉄の塊が空を飛んでいた、とか、人間が月まで飛んで行った、とか。
トゥフィエには嘘にしか聞こえなかった。子供騙しの戯言だ。嬉しそうにリキメナの話を聞いているシィの表情を見ていると、そんなことは金を積まれても言える訳がない。
暫く、リキメナの語りに耳を傾け、シィの驚く表情を眺めながら時が流れるのを待つ。
こんな時を過ごしたのは何年ぶりだろうか。まるで、母親に抱かれているかのような安心感だった。
ずっと、このままでいたいと思う自分を、いつまでもこの時は続かない、と戒める。そうしないと、幸せが終わった時の喪失感に耐えられそうにないから。
幸せという海の真ん中で、溺れないように必死にもがく。溺れてしまうと、二度と上がってはこられない。
一時期の幸せは、死と等しい意味を持つとトゥフィエは認識していた。
「そうだ。トゥフィエお姉ちゃん。リキメナお姉ちゃんのお花畑見たことある?」
リキメナの昔話にも飽きたシィが、こんなことを訊いてきた。
「いいえ。見たことないけど」
「というよりも、わたしのお花畑って訳でもないんだけど」
何時か聞いたことのある文句をリキメナが口にする。
「そのお花畑ってすごくキレイなのよ」
自慢するような、それでいて感動を伝えようと努力しているのが分かるシィの声。
「一緒に見に行きましょ」
やはり、トゥフィエが想像していたとおりの言葉だ。トゥフィエを慕うシィの瞳は、絶対に一緒に来てくれると確信しているようだ。
出来ればシィの相手はしてあげたいが、これ以上シィと親しくなるのは、怖い。このままでは、幸せに溺れてしまいそうだ。
「今日は我儘なお姫様に付き合ってあげましょうよ」
横から、リキメナが口を挟む。まるで、何を怖がってるの? と蔑むように。もちろん、トゥフィエの被害妄想だが。
「そうね、じゃあ行こうか」
トゥフィエは、自分が負けず嫌いな性格であることを思いだしながら、立ち上がる。気付けば、シィの表情を曇らせないように努めていた。
シィの笑顔は本当に温かい。その笑顔は自身の冷えた心を溶かしているのかも知れない。幸せの海に引きずりこもうとしている笑顔に、足首を掴まれた感覚だ。
気を抜けば、絶対にそこからは抜け出せなくなる。足掻きを止めてはいけない。そう頭では理解していても、トゥフィエの感覚は幸せに浸食され始めていた。
「シィちゃん。案内してくれる?」
「うん! ついてきて」
シィは弾むような声で言った。その声には従わされる何かがあった。リキメナもシィの声に反応し、重たそうに腰を上げる。リキメナの動作には若さが感じられなかった。
いつもと同じ速さで歩くトゥフィエとリキメナの数メートル先で、踊るようにシィが花畑に向かっている。
「子供って、いいね」
リキメナが唐突に言った。
「いきなり何よ」
トゥフィエにリキメナに返す返事など用意されていない。
「別にぃ。なんとなく」
先刻は若さなど感じさせなかったリキメナが、今度は年頃の女のような態度を見せる。他人をからかうように浮かべている笑顔もまた、若さを感じさせる。
どちらも、トゥフィエには出来ないことだ。
「まぁ、リキメナの気持ちも分からないでもないかな」
子供に対して好意を感じているのはトゥフィエも同じだ。
「わたしも、母親になりたいな……」
おそらくその言葉は、トゥフィエに向けたものではないのだろう。仮に自分に向けられた言葉だったとしても、トゥフィエは何と答えればいいか分からなかった。それほどに、リキメナの表情は愁いを帯びていたからだ。
トゥフィエは無言で、リキメナの次の声を待つ。今のリキメナに話題を振るような真似はトゥフィエには出来ない。
「お姉ちゃーん! 置いてっちゃうよ!」
シィの声が思ったより遠くから聞こえた。シィの声がした方向に目を向けると立ち止まり手を振っているシィが確認できる。
「ごめんね」
先に返事を返したのはリキメナだった。先刻の表情も風を受ける水面のように表情を変えている。
「ちょっと待っててね。すぐ追いつくから」
リキメナが小さく駆ける。
「ほら、トゥフィエちゃんも。お姫様を待たしちゃ駄目じゃない」
「言われなくたって分かってるわ」
――シィを待たしているのは私だけではないだろうに。調子の良い奴だ。
そうは思っていても、リキメナの笑顔は何処か憎めない。
トゥフィエはリキメナに倣って駆ける。シィは二人が走りだしたのを確認すると、足を止めるのを止め、自身も走りだした。
草原を駆けるシィが、まるで風に運ばれているように見えた。
シィの足は結構速い。本気で走らないとシィに追いつくのは困難だ。普段なら走る行為など疲れるだけで、あえて走ろうとは思わなかったが、今は何故か走ることを楽しく感じている。自然と笑みが零れるほどに。
全力では走らないが、シィを見失わない程度の速さを保ちつつ、シィの背を追った。リキメナもトゥフィエと同じ速さで走っている。リキメナの表情にも笑みが張り付けられていた。
シィを散々追いかけさせられ、トゥフィエの呼吸も少しだけ荒くなった。額に汗が貼りついているのが分かる。
「遅いよ。お姉ちゃん」
シィはまだ走り足りないと言わんばかりにトゥフィエとリキメナを待っていた。
「見て、あそこだよ」
シィが指差したそこには、いつか自身の顔を覗き見た川原があり、その辺りにはシィが楽しそうに語ってくれた、文字どおり花畑があった。深緑と青紫で編まれた絨毯は地表を覗かせてはいない。絨毯に刺繍を施しているのはすべて花。中々望むことの出来ない風景だ。
「すごいでしょ。全部リキメナが育てたんだよ」
まるで自分のことのように、誇らしげにシィが言った。
「まあ、お花は水あげれば勝手に育ってくれるんだけど」
熱く語るシィとは対称的にリキメナは冷静に口を挟む。
「キレイね。何ていう花なの?」
「勿忘草。わたしが一番好きなお花。花言葉は誠実とか真実の愛とか、どれもわたしにはあんまり関係ないなぁ」
ころころとリキメナが笑う。自嘲気味な笑みだ。リキメナの見せる笑顔の殆どがそう感じさせる。
「トゥフィエお姉ちゃん。せいじつって何?」
あの元気なシィが黙っている訳もなかった。
「真面目で優しいってこと」
トゥフィエが答えた意味が正確ではないかも知れないが、おそらくかする程度には近い答えだと思う。
「そうなんだ。リキメナお姉ちゃんは真面目で優しくないの?」
――流石は子供だ。はっきりと訊くな。
自分で自分を真面目だと称するような人間の殆どが真面目ではないし、自分を優しいと称するのも気恥ずかしいものがある。
――リキメナは何と答えるのだろう。
「うーん、真面目ではないけど……」
やはりリキメナは答えを考えている。
「優しいかどうかは、シィちゃんが決めていいよ」
結局リキメナは自分で答えを出さなかったが、その答えが適しているのかも知れない。
「じゃあリキメナお姉ちゃんは優しい」
「ありがとう」
リキメナがシィに向けた笑顔は、シィの笑顔を鏡に映したようなものだった。なのに、その笑顔も自嘲気味なものに映してしまう自分の精神は、かなり過去に自身でも知らない内に病んでしまっていたことを思い知らされる。
この病んだ精神を、目の前に広がる勿忘草が少しは楽にしてくれることを願う。
まだ、花を愛でる心くらいはなくなっていないと思うから。
「今日はここでのんびりしましょうよ」
リキメナが、川原に向かう斜辺に、衣類が汚れるのを気にする様子もなく腰を下ろした。座りこんだリキメナの胸を背もたれにするようにシィも腰を下ろしていた。
まるで、仲の良い親子のようだ。
「トゥフィエちゃんも座ったら?」
リキメナが自身の隣に視線を送る。トゥフィエは躊躇なくリキメナの隣に腰を下ろした。
川の流れる音が聞こえる。風の音も聞こえる。風に押され、草花どうしがかすれる音も、不思議なくらい鮮明に聞こえる。リキメナとシィの吐息の音でさえ、今のトゥフィエには認識出来ていた。
――心が安らぐっていうのは、こういうことなのかな。
いつもとは質の違う空気に包まれて、懐かしいような、哀しいような、言葉では表現しづらい感情が地面を濡らす雨の雫のように、ぽたり、ぽたりとトゥフィエの心を染めていく。
その雨の雫は、夏の初めに雨に濡れたいと感じるそれと同質の物で、雫に染められながらも不快感は覚えず、むしろ全身で雫を感じていたいくらいだった。
「トゥフィエお姉ちゃん。どうしたの?」
言葉に表せない感慨を感じていたトゥフィエを現実世界に呼び戻すように、シィが声をかける。
「なんでもない。ただお花に見とれてただけだよ。本当にキレイだから」
キレイ以外の何かを感じているはずなのに、それを表す言葉をトゥフィエは知らない。この勿忘草をキレイの一言でしか言い表せない自分の学の浅さが少し辛い。
それから、トゥフィエたちは会話を楽しむでもなく、リキメナの言葉どおりただのんびりと時間が過ぎるのを待っていた。その途中シィはリキメナに身体を預けて眠りについた。確かにこの時間帯は睡魔に襲われやすい。それに加えてトゥフィエたちを包む空気や、このゆっくりと流れる時間がゆりかごのようにトゥフィエたちの眠気を誘っていた。シィのように眠るほどの睡魔ではないが。
「我儘お姫様はお昼寝中」
瞳を閉じ、すうすうと柔らかな寝息を吐くシィの髪をリキメナが撫でる。
「シィってリキメナを信頼してるのね」
「子供はなんでも信じちゃうものだから」
まるでそれが真理だというように、リキメナが言った。
その言葉を最後に会話が途切れた。
数秒の沈黙の後、
「リキメナはどうしてここで花を育てようと思ったの?」
素朴な疑問をぶつけてみた。こういったことに深い意味などないのかも知れないが。
「一言でいえば暇だから、かな」
「暇?」
「そう、暇なの。わたしってば不老不死だからさ。ずっと生きててもすることがないの。だからって何もしないで過ごすのも退屈でしょ。それで暇潰しで色んなところに花を育ててるの。最初はただの暇潰しで始めたけど、花が育っていのを見てるのが何だか楽しくなってきて、今じゃ基本的には花を植えてまわってる」
不老不死。まだ完全には信じられないがリキメナの話を聞いていると信じようという気になる。
「ちなみに、わたしがここの近くで寝泊りしてるのはこの花たちの成長がみたかったから。秋に種を植えたから、そろそろ一年が経つのかぁ。早いなぁ」
最後の一言は確実に独り言だ。
――リキメナは一年も花に費やしたというのか。
トゥフィエは驚くよりも呆れた。感覚が自分とはまったくと言っていいほどにずれている。
「何? その顔」
「別に、本当に暇なんだなって」
「そうねぇ。まあ時間も気にせずのんびり出来るのは素敵よ」
「それは同感」
感覚がずれていても、共感出来ることはあるらしい。
「昔は、今みたいな時間がずっと続けばいいなって思ってたけど、終わりがあるからいいなって感じられるんだって、そんな気がするの」
呟くように、リキメナが言った。
「ごめん。何言ってるかよく分からないね」
「でも、なんとなくとだけど、分かる気がするわ」
「――そっか。ありがと」
何に対しての礼かはトゥフィエには分からなかったが、素直に礼を受け取ることにした。
そして、また会話が途切れ、沈黙が現れる。今度の沈黙は陽の色が変わるまで切り裂かれることはなかった。
この世を包む苦痛など忘れたかのように眠るシィを建築物の前までトゥフィエは川原から負ぶって帰った。
トゥフィエはシィを地面に下ろし、小さく肩を揺する。
「起きて、シィちゃん」
空は果ての方から徐徐と赤く染められている。あと、数時間と過ぎれば闇が訪れる。
「んう……? トゥフィエ、お姉ちゃん? わたし、眠ってたの?」
目を擦りながら、シィが重たそうに瞼を持ち上げる。
「ええ。気持ち良さそうに眠ってた」
まだ眠り足りなさそうまシィが愛らしくて、自然と笑みが浮かんでくる。
「そろそろお家に帰らないと、お父さん心配するよ」
「そうねぇ。今日はちょっとのんびりさせすぎたかも」
リキメナが苦笑いを浮かべ、
「この子を一人で帰す訳にもいかないし……。トゥフィエちゃん、シィちゃんをお家まで送ってくれないかな。お願い」
両手を合わせて、申し訳なさそうに言った。
「別に構わないけど」
何故自分に頼むのか、トゥフィエには理由が分からなかったが、断る理由もないのでリキメナの頼みを聞くことにした。
「ありがとう」
大袈裟に感じる程にリキメナが喜んだ。ここまで大袈裟に喜ばれると、逆に嘘のように感じる。本心が分かり難いリキメナなら尚のことだ。その大袈裟な態度が、自分の疑問と関係しているようにもトゥフィエは感じていた。
「じゃあ、シィちゃん。気を付けて帰ってね」
「うん! リキメナお姉ちゃん、また明日遊ぼうね!」
シィ、先刻の眠気など冗談だと思わせるような溌溂とした声に、リキメナは無言の笑顔で返事を返した。その、リキメナの笑顔に違和感を覚えるのは、トゥフィエの気のせいなのだろうか。
「行こうか」
トゥフィエはシィの小さな手を握る。シィの手はヒトを感じさせる程に温かかった。
「お家まで案内してね」
「任せて」
シィが、枯れることのない、花のような笑顔で言葉を返し、
「こっちよ」
と、森の中にトゥフィエの手を引いて入っていく。森に足を踏み入れるシィからは恐怖心など欠片ほども感じられない。迷いのない足取りで、森の中を歩いている。普通の子供なら、薄暗い森の中など良い恐怖の対象だと思うのだが、やはり木の声が聞こえると言うだけあって、シィにとっては森の中も、普段歩く道とそう変わらないらしい。
トゥフィエは、シィが進む道無き道が正しいことを信じて、シィに手を引かれながら森の奥へと進んでいった。
トゥフィエとシィが森の中へ完全に足を踏み入れるのを確認したリキメナは、盛大に溜め息を吐き出す。
鬱な気分になるのも仕方が無い、と思う。
「はぁ……。花が散るまでここに居たかったなぁ」
独りだからと、声を小さくすることなく誰にも気を遣わず愚痴を垂れ流す。
――勿忘草の花が散るまで、あと数十日だというのに。
リキメナがこの場所に留まれない理由。それは、辺りを包む気配から悟った。
魔女狩りが行われる、と。
千年以上も生きて、何度も人間に殺されれば、殺気にも敏感にもなるだろう。
――約一年もこんな場所で寝泊りしていれば、近くの村で不審がられるのは当然のことなのだろうが。
「トゥフィエちゃん。お願いだから帰ってこないでよ」
誰に頼むのかは考えていないが、とにかく誰かに頼んだ。神以外の誰かに。
「串刺しにされるのは、わたしだけで十分だから」
――魔女狩りに、出来れば来ないでほしい。来るのなら早く私を殺しに来て欲しい。自分は傷つくだけで、死ぬことなど有り得ないのだから。
廃ビルに背を預けて、リキメナは腰を下ろす。
そして、自分を殺すために訪れるだろう一団を独りで待つ。恐怖で身体の振るえが止まらない。何度、槍で滅多刺しにされようが、身体の一部を切り落とされようが、火あぶりにされようが、死に値する痛みに慣れることは、リキメナには出来なかった。
自分で自分の身体を抱き締める。だが、それも慰めにもならなかった。
「怖い。アザゼル様……」
叶うことのない願い事のように、その言葉は彼には届かない。
その名を口に出すことが、一番気休めになった。自分が彼に頼っていい筈がないのは分かっていても、彼の名を自分が口にすることが罪だと分かっていても、リキメナの頭の中には胸を槍で突き刺されて出来た消えることのない傷跡のように、今も彼の名が刻まれていた。
――アザゼル様に縋ってはいけない。今、自分を襲っている恐怖も、これから受けるだろう苦痛も彼に対しての贖罪なのだから。
止まらない振るえを抑えながら、耐え難い恐怖に耐えながら、リキメナはその時が訪れるのを、独りで待つ。
空の色も、うっすらと闇に包まれようとしていた。
どのくらい長く山林の中を歩いているのか、トゥフィエはふと考えてみた。考えてから不毛なことだと気付いて考えるのを止めた。
シィの迷いのない足取りが、トゥフィエが山中で迷っていないと信じることの出来る唯一の要素になっていた。
「もうすぐだよ」
息も切らしていないシィがそう告げる。目の前を見ると、木々の間から木が見えない。どうやらシィの言葉は嘘ではないらしい。
トゥフィエは足に力を入れ直し、木々のカーテンを通り抜ける。
カーテンをめくった先はもちろん森とは一線を引いていて、森とは別の空間が広がっていた。地面に草が茂っている場所があれば、耕され地肌が剥き出しになっている場所もある。その空間の中央に、リキメナが寝泊りしていたあの建築物を思わせる四角形の、石で出来た建築物が、頭だけを覗かせていた。
これも、過去の遺産なのだろうか。
よく見ると、畑に水を上げている男性がいた。彼がシィの父親だろうか。見た目は老いを感じさせない中年男性で、細くもなく太くもなく、逞しい印象も受けない。髪は長く目にかかるくらいまで伸びていて、故意に伸ばしているようには感じない。
「お父さん。ただいま」
トゥフィエの手を離し、シィが転がるように彼の方へと駆ける。シィの父親は突然の娘の突進に驚いた様子を見せながらも、自然にシィの身体を受け止める。
「遅かったね。心配したんだよ」
その父親の言葉は娘を守る障壁のようにシィを包んだ。
「ごめんなさい。でも、トゥフィエお姉ちゃんが送ってきてくれたから安心して」
シィが口にした名前を聞いた父親がこちらを見た。自分の知らない人物が娘を送ったところで、父親にしてみれば安心は出来ないと思うのだが。
「貴女がトゥフィエさんですか。リキメナさんのお友達ですか?」
彼は落ち着いた笑顔を貼り付けながら、ゆっくりとトゥフィエに歩みより、
「今日は娘の相手をさせてしまったみたいで、すみません」
軽く頭を下げる。
「いえ、そんな……」
トゥフィエも彼につられて頭を下げる。
「はじめまして、トゥフィエさん。シィの父親のウルリックです」
ウルリックが手を差し出した。
トゥフィエの顔を見つめるウルリックの瞳は、やはり左右非対称だった。
「は、はじめまして。トゥフィエです」
リキメナと初めて逢ったときのようにいかない。リキメナの握手は断ったのに、彼の握手は断れなかった。
――情けない。男性だからって緊張するなんて。しかもウルリックさんには奥さんがいるのに。
「元気な娘さんですね」
自身に纏わりつく緊張を振り払うように、言葉を発する。
「ええ。お転婆で元気すぎるくらいですよ」
娘が可愛くて仕方が無いと言うように、シィの髪を撫でながらウルリックが答えた。髪を撫でられるシィは、飼い主に甘える猫のような表情を浮かべていた。
「あの、それじゃあ私はこれで」
シィを家まで送ったのなら自分がここにいる意味もない。
「ああ、待ってください。娘を送ってくださったお礼をしないと」
「お礼なんて構いませんから」
「でしたら、夕食でも一緒に如何ですか。お礼といってもそのくらいのことしか出来ないので」
人の良い表情が、淡く笑顔を浮かべることで更にお人よしな印象が増す。
「でも、迷惑でしょうし……」
夕食に誘われるなど、トゥフィエは今まで一度も経験したことがなかった。初めての体験にどう対応すればいいのか、よく分からない。
「迷惑だなんてとんでもない。それに娘も喜びますから」
「一緒にご飯食べよう?」
駄目押しのシィの誘い。笑顔という伝家の宝刀の剣先をトゥフィエに向けた。ここまで歓迎されておいて誘いを断るのも失礼に当たるかも知れない。
ウルリックの言葉が世に言う社交辞令というものとも思えない。
「……それじゃあ、お邪魔させてもらってもいいですか?」
結局、トゥフィエは伝家の宝刀に切られる前に降参することになった。
「ええ、どうぞお邪魔してください」
そのウルリックの声を聞いてから、断ればよかったとトゥフィエは後悔した。
ウルリックとシィに導かれ、トゥフィエは未踏の境地に足を踏み入れる。外見では何年も過去に建てられた廃墟なのだが、内装はすべてが木材で修復されていた。修復されていない箇所はすべて石で出来ているのでウルリックが修復したであろう箇所の大体に予想がつく。
そんなことよりも――これまで感じたことのないほどの緊張がトゥフィエを襲っていた。胸の内で暴れまわる心臓は胸だけでは窮屈だと言わんばかりに、身体中を駆け巡っているようだ。今、背後から不意に声をかけられれば、平常でいられる気がしない。
緊張よりも、戸惑いの方が強いのかも知れない。異性と言葉を交わしたことなど、片手の指で簡単に表すことが出来る。それに加えて両の瞳の色が違う男性自体がかなり珍しい。
基本、独りで生きてきたトゥフィエは他人との接し方がよく分からない。同性のリキメナとはあまり問題はなかったのだが、異性となると話は別だ。慣れないことなので、緊張もするし戸惑いもする。
――どうしてこんなことになってしまったのか。
あの廃墟にリキメナがいた時点で、トゥフィエが予定していた一日の過ごし方とはまったくかけ離れた一日を送ることになった。そもそも、最初の予定では誰とも知り合いになるという予定などなくただあの場所で一泊するだけだったはずが、シィと出逢い、その父親ウルリックと出逢い、しかも現在その親子の家に上がりこんでいる。一日前の自分には絶対に想像もつかなかったことだろう。
「くつろいでいてくださいね。とりあえず、そこの椅子にでも座っていてください」
未だ視点の定まらないトゥフィエに追い討ちをかけるようにウルリックが声をかける。
「は、はい」
ぎこちなく笑みを浮かべて、返事を返すのが精一杯だった。そんなトゥフィエの態度にも気が付かないウルリックは家の奥、厨房だと思われる場所まで移動していた。
トゥフィエはウルリックに促されたとおり、目の前に確認出来る木製の椅子に腰を掛けた。
「ねぇ、トゥフィエお姉ちゃん。お姉ちゃんはどうしてあそこにいたの?」
ちょこん、とシィがトゥフィエの隣の椅子に腰掛けた。トゥフィエの唯一の救いがシィの明るい声だった。
シィがいうあそことは、間違いなくあの廃墟のことを指しているのだろう。
「うーん。なんていったらいいのかな」
人間の町から離れることが日常になっていたトゥフィエは、シィの質問に即答出来なかった。
あまりにも、逃げることが当たり前になっていたから。
「お家を探してたの」
考えた末に思い浮かんだ言葉がそれだった。
分かりやすく、簡単な言葉で伝えるならば、その一言に尽きると思う。幼く、異形の者に対する扱いの酷さを知らないシィに、人間の町に居ると命が危ないから、と伝えたところで半分も理解出来ないだろう。
「お姉ちゃんはお家がないの?」
可哀想、とシィの目が語っていた。だが、不思議と同情される腹立たしさは感じなかった。むしろ、シィの哀しげな視線がつらい。
「まあ、無くてもあんまり困ることはないから」
シィの表情を和らげようようと、出来るだけ明るい調子で答えた。明るく答えるような事でもないのだが。
「だから、そんな顔しないで」
昼間のシィに倣って笑顔を浮かべる。シィに出会ってから確実に笑顔を浮かべるのが簡単になっていた。
出来れば、シィは笑顔でいてほしい。
「トゥフィエさん」
不意にウルリックの呼ぶ声が聞こえた。
「な、なんですか?」
小心者な自分を励ましつつ、ウルリックに返事を返した。
「スープが温まるまでお話してくれませんか? シィ以外と話すは本当に久しぶりでして。こんなところに住んでいるから仕方が無いことですけど、やっぱり寂しいと感じたりもするんですよ」
シィの表情が笑顔に変わるのを確認する前に、ウルリックの声に反応してしまった。ウルリックの笑顔は、頼みを断ると罪悪感を覚えさせるような強制力を感じさせる。
「話くらいだったら別に構いませんけど……。私、人と話すのに慣れてないんで、多分退屈すると思います」
「構いませんよ。私の話を聞いてくれるだけでも十分ですから」
言いつつ、ウルリックはトゥフィエと向かいあう位置にある椅子に腰掛けた。
話を聞くだけなら、自分でもどうにかなりそうとは思うものの、やはり不安はある。
「そういえば、シィちゃんのお母さんは何処にいらっしゃるんですか?」
トゥフィエなりに努力して、とりあえず話題を振ってみた。
「妻はシィを産んだ時に亡くなりまして」
「そうだったんですか……。すみません」
見事に撃沈した。ウルリックに申し訳なくて、トゥフィエは頭を下げる。
――どうしてこの話題を振ってしまったのか。もっと別のこともあっただろうに。
浅はかな自分を軽蔑した。
「いえいえ。お気になさらずに」
微笑を崩さず、ウルリックが言った。
「妻と初めて逢ったのはもう、かなり前になりますかね。私も年をとったものです。確か、トゥフィエさんと同じくらいの年の時だったかな」
思い出を懐かしむように話すウルリックの表情からは、哀しさも読み取れるし、楽しんでいるようにも見え、トゥフィエにはウルリックの感情を推し測ることなど不可能だった。
「トゥフィエさんも、瞳のせいで苦労なさっているんでしょう」
「……」
どう答えていいか、よく分からない。
ウルリックの言葉は、自分の苦しみを理解しているものの言葉。恐らく、いや確実に同情などという感情は込められていないだろうし、トゥフィエもそうは感じない。
「わたしもね、この瞳のせいで結構苦労しました。町にも住めませんでしたし。まあ、だからここに住んでいるんですが」
本当に楽しそうにウルリックは言葉を話す。ウルリックの声は、聞いていて心地良さを感じるのは何故だろうか。
「でも、妻だけは、他の人は違ってたんです。私の瞳を見て、綺麗と言ってくれました。今まで私は自分の瞳をおぞましいと感じていたものですから、あの時は本当に驚きましたよ」
「そんな人も、いるんですね。私は、逢ったこともありませんし、そんな人、いないと思ってました」
正直な感想をウルリックに送る。
「そうですか。私は運が良かったようです。――貴女は、昔の私とよく似ていますよ。と、そろそろスープも温まりましたかね」
話を中断させ、ウルリックが立ちあがり、厨房へと進んでいった。
昔の自分とよく似ている。そう云われてもトゥフィエはウルリックの昔を知らないのだから判断のしようがない。はっきりと分かることは、自分は今のウルリックとはまったく似ていないということだ。
「お父さん。とっても楽しそう」
珍しく静かにしていたシィが、思い出したかのように言った。
「そうなの?」
「うん」
シィの声には絶対の自信があった。一緒に暮らしている娘だから分かることなのだろう。
スープを皿に注いでいるウルリックの後ろ姿を見ながら、本当に楽しそうだったかを判断しようとしたが、出来る訳もなかった。
ウルリックは両手で盆を持ち、盆の上には人数分の皿に湯気を上げるスープが注がれていた。
「どうぞ」
丁寧に、皿に注がれたスープが波立たないくらいの速さでテーブルに皿を置いていく。
「ありがとう…ございます」
全員分の皿を置き終わったウルリックがトゥフィエとシィに向かいあう位置に腰を下ろした。
何気なくスープを見る。一口大に切られた野菜が身体の一部を覗かせていた。決して豪華ではない、普通の夕食。それすらも目にする機会のなかったトゥフィエは、湯気の香りを吸い込むだけで哀しくなる。
「頂きまーす!」
ウルリックが運んできたスープがシィの気持ちを一変させたようだ。
少々気分が落ち込んでいるトゥフィエを尻目にシィがスプーンを握り勢いよくスープに口を付ける。
トゥフィエはスプーンを握ったままスープを見つめていた。
「どうかしましたか?」
トゥフィエの態度にもウルリックは笑顔で反応する。シィのものとは質が違うが、ウルリックの笑顔も心地良く感じる。
「お姉ちゃん食べないの? 美味しいよ?」
「う、うん」
シィに促されてやっとトゥフィエはスープに口を付ける気になった。
「それじゃあ、頂きますね」
小さくウルリックに頭を下げ、スープとじ芋を掬ったスプーンを口に運ぶ。
スープは薄い塩味で、味のよく分からないトゥフィエでも、素直に美味しいと思った。
――でも、それ以上に、温かい。
「美味しいです」
忘れていた感情が溢れ出すが感情を表情に出さないように、声が震えてしまうことを恐れつつ、トゥフィエは感想を述べる。
「そうですか。それはよかった」
なんとも嬉しそうに、シィとはやはり親子なのだと再度思わせる笑顔でウルリックが言った。
「ところでシィ。今日はどんなことをして遊んできたんだい?」
「えーとねぇ。リキメナお姉ちゃんにお話してもらってねぇ、あとお花畑でお昼寝したの」
子供らしい言葉足らずな説明だが、シィの身振り手振りの一生懸命さが単語量の少なさを補っていた。
親子の会話というものは、トゥフィエの目の前の会話の事を云うのかも知れないな、とぼんやりとトゥフィエは思った。
「楽しかったかい?」
「うん!」
迷うことなくシィが答えた。声が大きくても清々しさを覚えるようなシィの声。
――私は、本当にここに居ていいのだろうか。
二人の笑顔溢れる親子の会話を聞いていると、自分が邪魔者に思えて仕方が無かった。まるで、水の中に一滴だけ落とされた油のようだ。
トゥフィエは羨ましさと疎外感を覚えると同時に、二人の姿を見て希望が持てた。魔女とその子供でも、こうして幸せそうな笑顔を浮かべて生活することが出来る、と。
思考を現実に呼び戻すと、スープを一口しか食べていないことに気付く。
トゥフィエは思い出したかのようにスープを口に運んだ。一口目と何も変わらない。味も、温かさも。心の冷たさとスープの温かさの温度差で、心が壊れそうだ。
「お姉ちゃん。どうしたの?」
シィがこちらを見た。シィの顔には笑顔がなかった。
「どうかしたって?」
シィは何を言っているのだろうか。自分はどうもしていないというのに。
「だって……」
シィが不思議そうな眼差しでトゥフィエを見る。
――だって、なに?
「だってお姉ちゃん。泣いてるよ?」
――泣いている? 私が?
シィの言葉を確認するためにトゥフィエはぎこちなく手を自分の目元に動かした。
何故か水滴が手に付着した。
――何故?
「えっ――。なんで、なんで私……」
無意識の内に涙を流していたのには驚いたが、それほど感情が昂っている訳でもない。
涙も一筋で止まり、溢れ出すことはなかった。
――なんだろう、この気持ち。なんだか懐かしい気がする。
「大丈夫? お姉ちゃん」
シィの声は本気で心配しているように聞こえた。
「大丈夫……」
大丈夫、だと思う。頭は混乱しているが、取り乱すほどではない。
「すみません……、私……」
頬を少々濡らした涙の筋を、トゥフィエは袖で拭う。
「謝ることはないですよ」
動転するトゥフィエを宥めるようにウルリックが言った。トゥフィエはその声に弾かれるように、ウルリックの顔を見た。
「感情なんて、自分ではどうしようもない時はあります」
ウルリックの言葉で、少しだけ、ほんの少しだけ冷静になれた気がした。
「そう――ですね。でも、単純に、嬉しいだけなのかも知れません。こうやって一人以上で食事が出来るのが。あんまり久しぶりだったから、嬉しいっていう気持ち、忘れてたみたいで」
嬉しいと感じる心を忘れていた以前に、自分に対する差別や迫害を受けすぎて、感覚が麻痺していたようだ。
――感覚が麻痺してもつらさや哀しさといった負の感情はしっかりと記憶しているのに、正の感情を忘れているなんて、本当に私らしい。
「そうですか。なら、思い出せてよかったですね」
「よかったね。お姉ちゃん」
「ありがとう。シィちゃん。ウルリックさん、お騒がせしました」
軽く、頭を下げる。謝らなくてもいいとウルリックは言ってくれたが、そんなことも忘れてトゥフィエは頭を下げていた。
湯気を上げなくなったスープに口を付ける。まだ十分温かかった。
本当に、温かかった。
「落ち着きましたか?」
食器を洗い終えたウルリックがテーブルの椅子に腰掛ける。トゥフィエは最初に座った場所から一歩も動いていない。洗い物くらいさせてくれ、とウルッリックに申し出たが笑顔で断られてしまったので、ウルリックが皿を洗っている間トゥフィエは時間を持て余していたのだ。
「はい、とりあえず」
自分でも自然に、笑えたと思う。
「シィちゃんは眠ったんですか?」
時間的には真夜中というほど夜が更けている訳ではないが、間違いなく今は夜だ。
「えぇ。子供は夜が退屈ですから。すぐに明日が来て欲しいんでしょうね」
ウルリックがシィのことを話す時はいつも優しげな表情になる。
「お子さんのこと、本当に大切なんですね」
ウルリックとは素の自分で話が出来る。両の瞳の色が違うのが一つの要因だろう。それ以上にウルリックが持つ年長者の落ち着いた雰囲気がそうさせるのかも知れない。完全に心の緊張が解れていた。そのお蔭で自分でも驚く程に気持ちが楽になっていた。
忘れていた本当の自分を、思い出せたような気がした。
「亡くなった妻の娘ですから」
妻の死すらも笑ってウルリックは話した。その笑みはどこか儚さを感じさせて、陽の光に照らされる雪の結晶のように、ふとした拍子に消えてしまいそうだ。
トゥフィエの知る限り微笑を崩さなかったウルリックの微笑は消え、視線を窓の外に向けた。
「どうしました?」
「いえ、森が何やら騒がしいので」
窓の外を見ながら、ウルリックは何か思案している。そして、何かを感じとったようだ。
シィの能力は父親譲りらしい。
「リキメナさんが心配ですね。ちょっと様子を見に行きましょうか」
ウルリックが椅子から腰を上げる。
「私が行きます。ウルリックさんはシィちゃんと一緒にいてあげてください。少し案内してくれれば一人でリキメナの所までいけますから」
申し出てから、以前の自分からは考えられないことを口にしていたことに気付く。
――リキメナとは赤の他人ではなかったのか。初めは馴れ合う気なんてなかったのに。
今ではリキメナを心配する自分がいた。
――結局、私は強がっていただけだった。本心では誰かと繋がっていたかった。誰でもいいから私に優しく接して欲しかった。
私は、どうしようもないくらいに、寂しがり屋なままだ。
「それに、いつまでもお邪魔させてもらう訳にもいきませんし」
「そんなこと。ずっといてくれても構いません」
気さくに、ウルリックが笑う。
「独りでいるのは、つらいものです。私は、シィがいるから、シィという逃げ場所があるから生きていられています。私たちでよければ、いつでも貴女の逃げ場所になれますから」
素直に甘えたくなるウルリックの声は、死んでしまった自分の父親を思い出させる。
「ありがとうございます」
トゥフィエは深く頭を下げる。
社交辞令としてではなく、ウルリックの本心として、トゥフィエはその言葉を受け取った。
「と、お喋りしている場合ではないですね。急ぎましょう」
「はい」
トゥフィエはウルリックと共に家を出た。
一日違っても、空に浮かぶ月の形は変わらず円形を描いている。その月光に照らされていると不安な気持ちに襲われる。
――何もなければいいのだが。
そう願えば願う程に、トゥフィエの心に生まれる不安は増え続ける。その不安は、急げ、とトゥフィエを急かしている。
ウルリックの表情も何処か険しく見える。
「付いてきてください」
トゥフィエは月に嘲笑されているような気持ちのまま、ウルリックの背を追って山を下った。
足音が近づいてくる。自分に死をもたらす足音が。何人いるのだろう。結構な大人数だということは足音から推測出来る。
ここで自分が殺されれば、運が良ければウルリック親子や、トゥフィエが魔女狩りに遭わないかも知れない。村人が、魔女はリキメナ一人と判断すればの話だが。
流石に都合の良すぎる考え方だとリキメナは思う。だが、価値の無い自分の命を捧げることで、彼らに危険が及ぶ確立が低くなるのなら、迷うことなどない。
足音が、リキメナの目の前に現れた。成人男性が十人弱くらいだろうか。手には一様に武器を握り、殺気と恐怖をリキメナに浴びせるように向けていた。武器といっても長い棒に包丁を括り付けたような粗末なものだが、リキメナを殺すには十分すぎる凶器だ。
リキメナは腰を上げる。
「本当にいやがった。こいつが魔女か」
完全に怯えている村人たち。
「魔女だったらどうするの?」
彼らに一歩ずつ、ゆっくりと歩み寄りながら、リキメナは普段と変わりない口調で訊いた。
――どうせ殺されるのなら、贖罪のために、潔く殺されよう。最後まで怯えているのは、なんだかみっともない。
「わたしを殺すの?」
手が届く距離まで歩み寄った。彼らの顔が恐怖に歪む。
――そんなに怯えるのなら、殺せばいいのに。
やはり、田舎の村だけはあって、魔女の認識もかなり違っているらしい。都会のようなところでは、魔女だと分かれば喜んで殺そうとするものだが、たまに魔女に怯え、魔女を殺すと呪いがかかるだとか、簡単に人間を殺す魔法が使えるだとか、魔獣を飼っているだとか、創作小説にでも登場しそうな魔女を想像している者たちもいる。
彼らも恐らく、そういった類の人間なのだろう。不老不死という要素も、かなり現実ではありえないことなのだが。
リキメナの両の瞳の色が同じなことも彼らには関係ない。要は自分たちの近くにある非日常がなくなればいいのだから。
「ねぇ、どうなの?」
更に一歩、彼らに近づく。抱きつけるほどの距離まで近づいた。少し首を伸ばせば口付けも出来るほどの距離だ。
「ひ、ひぃ!」
彼らの中の一人がリキメナから離れようとして転んだ。
村人の恐怖する表情を見ながら、自分はいつから、魔女を演じるようになったのだろうと考えた。自分と正反対な人格。時折、今の自分が本当の自分なのかも知れないと感じる。
「大丈夫?」
転んだ彼の仕草が、失礼だとは思いつつも可笑しくて笑ってしまう。
むしろ、今だけは、魔女の自分が本物で、いつもの自分が偽物だ。
「何も怖がることないよ。貴方たちが握ってるそれをわたしに突きたてれば、わたしは簡単に死ぬんだから」
怖がることはないと口にしたが、それが逆効果だとリキメナは分かっている。
村人たちには、自分を殺す覚悟がないようにリキメナは思えた。事を起こさせるのに一番適当な手段は、相手を恐怖させることだと思った。この手の人種、特にリキメナに怯えている彼らは恐怖に耐えられなくなった瞬間に恐怖から逃れるためにリキメナを殺す。経験から大体は想像がつく。
「どうしたの? わたしは貴方たちに何もしないよ」
この空間に不適切なほど、満面の笑みを浮かべ、
「今だけだけどね」
と付け足した。
今殺しておかないと今後どうなっても知らない、と警告の意味を込めて彼らに送る。
「ほら、何処でも刺せばいいよ。怖がることない。さぁ」
娼婦のように、怯える村人の頬を撫で、誘う。彼は声にならない悲鳴を上げた。
「うわぁぁぁ!」
激痛がリキメナを襲う。
雄叫びを上げ、頬を撫でた村人とは別の村人がリキメナの脇腹に槍を突き立てていた。
「……っそう。それでいい」
痛みに耐えつつ、口調を変えないように努める。
「でもそれだけじゃ足りないよ」
殺されると分かった時は、いつも恐怖しているのに、殺される直前はいつも自ら死を望んでいる。心の何処かで期待しているのだ。安らぎが訪れるかも知れないと。永遠に続く贖罪が終わるかも知れないと。
「魔女めぇぇ!」
どうやら、先刻の一撃がきっかけに村人の殆どが覚悟は決まったらしい。
次は胸に槍が刺さった。返り血が刺した本人に飛び散るが、興奮状態にあるらしい彼は気に留める様子はない。
そして、狂ったように叫びながらリキメナの身体に刃を突き立てていく。
足、腕、胸、肩……、
――今度は何処を刺されたのかな。
苦痛はやがて快感に変わっていった。
――なんだか、あったかい。
何度も、刃を突き立ては抜き、そしてまた突き立てる。もうリキメナの身体は槍に支えられている。刃がリキメナの身体から離れれば、リキメナはもう自分の力では立てない。
ぼやける視界の中に入ってきたのは、村人の泣きそうな顔で笑顔を浮かべた表情だった。
――楽しそうだね。
少しずつ、リキメナの身体に突き刺さる刃の量も減ってきた。そして、見慣れた紅色に染まったリキメナは仰向けに倒れた。
「や、やっちまった……」
「死んだよな?」
怯えた声が聞こえた。
「首はどうする?」
「そんな気味の悪いことが出来るか! 死体なんて野犬が食ってくれる」
これから死のうとしている者に投げかける言葉。
「そんなことより、俺、血がかかっちまった! 呪われちまうよ!」
何人もの男の声が聞こえる。
「さっさと帰ろうぜ! 俺気味が悪い」
「俺も同感だ。この傷だ。いくら魔女でも絶対死んでるよ」
――心配なくてもわたしはこれから死ぬよ。
「そ、そうだな。早いとこ帰ろう」
どうやら意見はまとまったようだ。いつまでも血塗れの女など見たくはないだろう。
村人たちは、リキメナの血が付着した刃を気味が悪いと仰向けになっているリキメナに投げつけ、逃げるように森に消えていった。
やっと、夜らしい静寂が訪れた。といっても、リキメナの聴覚もあまり機能していない。
月が、ざまあねえなと嘲笑っている。
心とは裏腹に、まだ身体は生きようとして、まだ意識を髪一本で繋ぎ止めていた。
「そんな……リキメナ……」
なんとか、声のした方へ首を向ける。
トゥフィエが、帰ってきていた。
――ウルリックさん。いい人だったでしょ?
声にならない声を、笑顔かどうかもわからない表情を浮かべた気になって、トゥフィエに伝わったつもりになった。
髪が、切れた。
――もう、眠たい。
「嘘……」
トゥフィエはその場に力なく、松葉杖を奪われた怪我人のように崩れ落ちた。
地面にぼろきれのように倒れているリキメナの、光を宿していない瞳がこちらを向いていた。自分は恐らく、リキメナの瞳には映っていない。
経験から、リキメナの身に何が起こったのか、すぐに見当がついた。
それでも、唐突過ぎる。
ほんの数時間前までは笑顔で言葉を話し、動いていたというのに、この変わりようは一体なんなのだろうか。
トゥフィエは近寄ることも出来ず、離れてリキメナだったものを見ることしか出来なかった。
今まで、魔女の死体は何度も見てきた。焼かれて人間の形を失くしてしまった者や、首だけになっていた者も。だが、知りあったばかりの魔女の死体を見るのは初めてだ。
――リキメナとは、こんな別れ方しか出来ないの?
自分の気持ちを理解した矢先、この仕打ちはつらすぎる。
――あの笑顔は何処に行った? あの軽い口調は何処に消えた? 魔女だと皆が忌々しく思う私に明るく話しかけてくれたあの声は、もう聞けないの? 私の本当の声を聞かせることは出来ないの?
後悔、そんな陳腐な言葉が今の自分にはお似合いだった。
リキメナを照らす月と星が、酷く残酷に感じる。闇夜なのに、何故こんなにも鮮明に紅を照らすのか。リキメナの淡い笑顔を照らす必要が何処にあるのか。トゥフィエの都合など月と星には関係ないのは分かっていても、どうしても恨み言を頭の中に浮かべてしまう。精一杯、リキメナの死を拒絶しているが、死という結果を見せ付けられ、徐にだが認めつつある。
リキメナの姿を見ると、どれだけ惨い殺され方をしたのかが、吐き気がするほどに分かる。
リキメナが殺されて悲しいとか、悔しいとか、殺した相手が憎いとか、そんなことよりを考える余裕もなく、どうして? という疑問ばかりが頭の中を支配する。恐らく、頭はちゃんと思考していない。
疑問符ばかりが頭の中で生まれ過ぎて、小さな頭は今にも壊れそうになる。疑問に答えてくれる者もいない。一人で答えのない疑問を考えることがどれだけ不毛なことかを考えるだけの頭は残っていない。
――どうしてリキメナが殺されるの? 魔女だから殺されるの? どうして魔女は殺されるの?
答えてくれる者がいないから自分に疑問を投げかける。
――そんなこと私が分かる訳ないじゃない!
不毛と思われた疑問の中から意外にも一つだけ分かったことがあった。
なんて理不尽な理由で殺されたのだろう、と。
戻りつつある思考が最初に生み出したのは自分でもよく分からない怒りにも似た、感情を昂らせるようなものだった。
魔女は人間に命を狙われるものだという認識が、トゥフィエの中で変わっていく。今までトゥフィエは命を狙われることがあっても命を奪われたことはない。リキメナの死で、やっと自分の認識が狂っていたことに気付かされた。
こんなことが、当たり前であっていい筈がない。
リキメナは一体近くの村に何をしたというのだ。ただ、花を育てていただけなのに、こんな殺され方をしなければいけないのか。
もう、魔女だからという理由だけでは納得は出来ない。
――こんな簡単なことに気が付けなかったなんて、私は馬鹿だ。
『やっとくたばったわね』
トゥフィエの思考を切り裂くように、闇夜の中から女性の声が聞こえた。その声は明らかに侮蔑が込められていた。
声に続いて、トゥフィエを大きな、身体ごと吹き飛ばされそうなほどの衝撃破が襲った。トゥフィエは反射的に眼を閉じた。足にも力を込める。
「くっ……!」
衝撃破に二度は起こらなかった。何が起こったのかを確認するべく、トゥフィエは閉じていた眼を開く。
今、自分が確認していることは、本当に瞳に映ったものなのか。何が起こったというのか。
トゥフィエは、リキメナの傍らに光を自ら放っている人影を確認していた。背には三対の白い翼が生え、身には翼の色と変わらない白いローブを纏っている。髪は、闇夜を切り裂くような黄金の髪が地面に接するほどに伸びていた。
「て……んし?」
突如現れた彼女の姿を見る限り、第一印象ではそう想像させる。背に翼を生やしている人の形をした者など、天使と悪魔しか、トゥフィエは思いつかない。それ以上に、トゥフィエを浄化しかねないほどに放たれている高潔さや、神聖さが天使だと判断した大きな理由だ。
しかし、一番トゥフィエの眼を惹くものは、リキメナを屑のように見る視線と眼だった。
トゥフィエは状況が理解できないまま、未知に対する恐怖でその場から一歩も動けず天使のような女性を見つめることしか出来なかった。
「起きなさい」
彼女はトゥフィエには気が付いていないようだ。
彼女の声は、視線と同じか、むしろそれ以上の侮蔑の感情が込められていた。
息絶えているリキメナの頭を翼を生やした彼女が、子供が玩具を蹴るように思い切り蹴り上げた。
鈍い音がトゥフィエまで届いた。トゥフィエはリキメナの頭が蹴り上げられる瞬間を直視出来なかった。
反らした視線を再度リキメナへ向けると、更に信じられないことに、リキメナが自身の身体を震わせていたのだ。
――何がおこっているの?
明らかに以上な状況を無意識の内にトゥフィエはを受け入れようとしていた。それでも、恐怖は影のように付いてきてはいる。
今のトゥフィエには、傍観者になる他に、術はなかった。
何もない世界から、呼び戻された。何処か、名残惜しい。
リキメナは身体を起こし、目を開いた。先刻までの身体の痛みもない。あるのは殺された事実と血で染まった衣類。
目の前に立つ、綺麗な天使を地面に座り込んだまま見上げる。彼女からは憎しみが強く感じ取れる。
――わたしが悪いのだから、仕方の無いことだけど。
「……お久しぶりです。ウザ様」
言い終えると、ウザの足がリキメナの顔を遠慮なく蹴り飛ばした。リキメナはその衝撃に耐え切れず再度地面に倒れこんだ。
「私の許可なしに喋るな。あと私の名を呼ぶな。汚らわしい」
その声は、どうしようもない愚か者に、最後に投げかけてやる忠告のように思えた。
「……すみません」
頬から顔全体に伝わる痛みを少しでも小さくしようと片手で頬を抑えながら、リキメナは先刻の無礼を詫びる。
「屑が」
感情の込められていないウザの蔑みの言葉と同時にまた、足がリキメナの顔を捉えた。先刻と同じように、再度地面に倒れる。口の中に味がした。どうやら切ったようだ。
「同じことを何度も言わせるな」
生き返ったばかりで重く感じる身体をリキメナは再度持ち上げ、ウザの方へ向く。
今度は喋らない。無言で、ウザの言葉を待つ。
リキメナの目の前にいるのは天使ウザ。かなり位の高い天使らしいがリキメナは良く分からない。不老不死の能力を手に入れたリキメナを監視するのがウザの役目だ。何度死のうが必ずウザがリキメナを蘇らせる。ウザはリキメナが命を落とすのを毎回楽しみにしている。
リキメナは天使を誘惑した罪で神に不老不死の能力を与えられた。永遠に罪を償い、そして苦しめ、という意味だった。
ウザはアザゼルが好きだった。だが、アザゼルは人間だったリキメナを愛した。人間と天使が気持ちを通わすことが罪だと分かっていても、アザゼルはリキメナを愛するのを止めなかったし、リキメナもアザゼルを愛することを止めなかった。そして、アザゼルは罪に問われ、永遠に牢に入れられることになった。
愚かな自分のせいで想い人に永遠に逢えなくなってしまったウザには、本当に申し訳なく思う。
「このくらいじゃあ足りないのよ。あんたの罪を償うのには」
無言で返事を返した。「分かっています」と。
――貴女には、何度死んでも謝りきれない。
「どうして神はこんな屑に贖罪の機会など与えたのか、理解に苦しむ。神がお許しになれば、あんたを私の手で必ず地獄に送ってやるわ」
俯いたまま、ウザの声を聞く。彼女に対する罪悪感から、顔を直視できない。
ウザの声に感情が込もりだした。ウザの言葉は紛れもなく本心だし、リキメナ自身感じていることでもある。
神の命令で天使は地上に生きる生命には手出しが出来ないらしい。リキメナも例外ではなかった。神の命令を破れば、アザゼルのように永遠に牢に入れられるか、堕天するしかないようだ。ウザの目の前には心から憎む相手がいるの、何も手が出せないとは、気の毒で仕方がない。
「あと、お前もだ。ネフィリム」
リキメナから視線が外れた。ウザの視線の先には混乱した表情でこちらを見ているトゥフィエがいた。ウザに睨まれたトゥフィエは怯えるだけで何も出来ない。
「醜い姿を晒して見るに耐えない。あれが生きている時点で今度の世界はおかしい。あんたの浅ましく穢れた心をそのまま受け継いだ姿があれよ」
ウザはリキメナだけでなく、トゥフィエにまで侮蔑の言葉を送った。リキメナは、トゥフィエが醜いと称するウザの感性が理解できない。
「あの子は私と違って醜くも穢れてもいません。あの子以外のネフィリムも、私なんかとは違います」
許可なく喋るなと命令されていたが、無視した。無言でいればウザの言葉を認めることと同じ意味だと思ったからだ。
「私はあんたに喋っていいと許可した記憶はないが?」
ウザの美しい顔が怒りに歪む。こうなると予想は出来ていたが誰かを怒らすことは、あまりいいものではない。
「すみません」
謝ったところで逆効果かも知れないが、無礼は詫びなくてはいけない。
「まあいい。あんたに構ってる訳にもいかない」
以外にも、三回目の蹴りは飛んではこなかった。
「あんたが何度死のうが、何度でも私が蘇らしてやる」
そう言い残し、ウザの姿は夜の草原から消えた。
その後の毎回のように訪れる静寂は、その度に自分が人間ではないのだと思い知らせてくれて、親切過ぎて哀しくなる。
哀しすぎて、泣けてくる。
そんな、泣き虫なわたし。
忽然と、翼を生やした女性は消えてしまった。その場から離れたのではなく、その場から消えたのだ。女性が消えた瞬間、この場を包む空気が変わった。。
夜の草原には血に塗れたリキメナと、驚きと戸惑いで上手く身体を動かせないトゥフィエだけがいた。
リキメナは動き、声を発していた。それは、生きている証にもなるだろう。しかし、トゥフィエはリキメナが動きだす前に、血塗れになり動かないリキメナの姿を見ている。あの傷で息絶えない者などいる筈がない。なら、何故リキメナは生きているのか。
不老不死、その言葉が自分を納得させるために思い出される。リキメナが口にしていた言葉だ。
――だとしたら、リキメナは――。
自分がリキメナに怯えていることに気付く。
――あれと比べれば、私なんてまだまだ人間だ。そう、あれは化け物、人間じゃない。
頭では否定出来ても、本能ではそう感じている。浅ましい自分の本性を垣間見たが、絶望する余裕の殆どがリキメナに対する恐怖に潰されていた。
リキメナが立ち上がり、こちらを見た。
「ひっ」
リキメナから視線を外せず、身体も動かすことが出来なかった。
「見てたん……だよね」
少し、リキメナの声は震えていた。
月光がリキメナの表情を淡く照らす。
「やっぱり、気持ち悪いよね」
リキメナが、泣いていた。月に照らされているリキメナの哀しげな表情は、自分を支配しようとしている恐怖を吹き払うほどに女性らしくて、同性の自分でも綺麗だと思った。人間ではないと感じ始めた矢先こんな人間らしい表情を浮かべられ、トゥフィエの心は風に揺られる蝋燭の火のように揺れていた。
「出来れば、見て欲しくなかったな」
涙を流しながら、リキメナが笑った。
――どうして、こんなに自然に笑うの?
「見てのとおり、わたしは人間じゃないの」
リキメナの笑顔は、以前見たことがあるものとまったく同じだった。自嘲気味た感じがするところも、何もかもが、同じだった。
トゥフィエの目の前で泣きながら笑っている女は、どうしようもないくらいにトゥフィエが知っているリキメナだった。
そう思えると、怯えて足も動かなかった自分が馬鹿らしく思えた。リキメナが、少しも怖くない訳ではないが、恐怖を多少は理性で抑え込められるようにはなれた。
「でも、貴女はリキメナだわ」
震える足を無視して、トゥフィエは立ち上がる。本心でそう思っているかどうかは自分でも分からない。むしろ、そう思いたいという願望に近い。
「怖く……ないの?」
リキメナの表情が変わる。初めて見る、リキメナの人を疑うような、探るような表情。その表情がリキメナの素顔のように見えた。
「……少しだけ。でも、さっきも言ったけど、貴女はリキメナ。私が知っているリキメナでしょう?」
トゥフィエが知っているリキメナなら、怖がる必要もない。
「だったら私は、貴女が生きていて良かったと思う」
あの翼を生やした女性のことや、リキメナが生き返ったことなど、理解出来ないことも多いが、今はリキメナが生きている事実を、とりあえず受け入れようとトゥフィエは思う。
「本当にそう思ってくれるの?」
「多分」
トゥフィエはリキメナに歩み寄る。いつまでも間を開けて言葉を交わす気にはなれない。それにちゃんと近づいてリキメナの顔を見たかった。
「だって、リキメナが好きだって……やっと分かったから」
似合わないな、と思いつつ、トゥフィエは笑顔を張り付けた。
好きなんて単語を使ったのは何年ぶりだろう。使い慣れない言葉だけに気恥ずかしく感じるが、自分の気持ちを分かりやすく伝えるのに最も適した言葉はそれだった。
――もう、意地を張るのも辞めにしよう。私は、独りが嫌いなのだから。
――素直になろう。独りが嫌なら、自分から一緒にいてくれる人を見つけよう。そうしないといつまで経っても私は独りだ。
「わたしのことが、好き?」
リキメナはトゥフィエの言葉を予想していなかったらしく、怯えたような表情から、きょとんとした表情に変わる。まるで、言葉の意味が理解出来ないと言うように。
「そう。私は貴女に好意を持ってる。だから、好き。何度も言わせないで」
やっとリキメナが言葉の意味を理解してくれた。こういう告白は、言い終えてから恥ずかしさを強く感じる。
トゥフィエの告白を受けたリキメナの表情が、子供が丸めた紙のように、くしゃくしゃに歪ませ、
「ありがとう。トゥフィエちゃん」
頬を濡らしていた涙を更に溢れさせ、必死に涙を拭っていた。
ぼろぼろと泣き出すリキメナにどういう態度で接すればいいか、トゥフィエには見当がつかない。自分と比べてウルリックは大人だと実感する。いきなり泣き出した自分にあれだけ落ち着いて対応できたのだから。
「ありがとう」
もう一度、リキメナが言った。リキメナの泣き顔には何も違和感がなくて、綺麗というよりも、羨ましいくらいに可愛らしかった。
「どういたしまして」
リキメナの飾らない一言は、思いの他トゥフィエを動揺させた。だが、トゥフィエには照れ隠しをする気などない。
「リキメナも私と同じで泣き虫ね」
少し、冒険してみたくなって、泣きじゃくるリキメナを自分の胸に抱き寄せた。いつか、母親が自分にしてくれたように。
リキメナは抵抗しなかった。トゥフィエが抱き寄せると、リキメナはそのまま、トゥフィエに身体を預けた。抱き寄せてから血が自分にも付いてしまうことが分かったが、どうでもいいことだった。
「泣かないで」
リキメナの身体は驚くほどに冷たく、自分の熱を分けてあげたいと思うほどだった。
今になって考えれば、自分は不老不死を気味悪がらず、当たり前のことのように受け入れていた。人外の要素を持つリキメナに抵抗を感じない自分は、何処かおかしいのだろうと思う。そもそもおかしくて当たり前だ。自分は、魔女なのだから。人間とは違う。
それでも、自分は独りではない。リキメナだって、普通ではないのだから。
「不老不死でも、そうでなくても、リキメナはリキメナだから」
胸の中で、リキメナが頷いたような気がした。
――何やってるんだろう、私。でも、悪い気はしない。
夜はどのくらい更けたのだろうかとふと夜空を見上げてみた。見上げたところで空は変わらず黒くて暗くて、闇が広がっているだけだった。その闇を和らげるように、月光が地上を平等に照らしている。トゥフィエも、リキメナも、平等に。
二人は、リキメナの血を洗い流すために勿忘草の咲く川原に来ていた。というよりも、血を洗おうとトゥフィエが提案しただけで、リキメナの意見ではない。それでも、リキメナは反対せず、ついてきてくれた。トゥフィエはそのリキメナの態度は賛成の合図だと前向きに思うことにした。だが、リキメナは川に向かおうとはせず、勿忘草を見渡せる場所に腰を下ろし動かなかった。トゥフィエもどうしていいか分からず、リキメナに付き合い隣に腰を下ろした。リキメナは、落ち着いてはきたものの、口数は少なく昼間のような明るい表情など浮かべる訳もなかった。いつも張り付けていた微笑も眠りについていて、今は無表情で、何処か悲しげな表情が目を覚ましていた。今まで見ることの出来なかったリキメナの側面が覗けたような気がした。
リキメナにかける言葉が思いつかないトゥフィエは、ちらちらとリキメナの表情を窺いながら、かけるべき言葉を思案しているが、そう簡単には思いつきそうにもない。
「血、洗わないの?」
沈黙の心地悪さが我慢できず、かけなくてもいいような言葉をかけてしまった。自分の堪え性のなさには涙が出る。出来れば先刻の一言はなかったことにしたい。
「……うん」
膝を抱えたまま俯くリキメナが、小さく答えた。
「服をね、脱ぎたくないの。わたしの身体、汚いし、気持ち悪いから」
リキメナの言葉は何も飾られていなくて、純粋なリキメナの気持ちが込められていた。
「さっきのわたし、見たでしょう。ああいう殺され方をね、もう数え切れないくらいされてきたんだ。でもね、傷口は残らないの。そのかわりに傷口が残るよりも、もっと気持ち悪いものがわたしの身体にはあるんだよ」
声を震わせながら、リキメナが告白する。むしろそれは不老不死の自分に対する愚痴のような、ぼやきのような、素のリキメナの呟きだった。
「このままでいる訳にはいかないでしょ。私に見られるのが嫌なら、別の場所で待ってるけど」
自分の身体を他人に晒すことが、リキメナにとってどれだけ苦痛を伴うことなのか、トゥフィエには想像もつかない。ここまで連れてきたこと自体余計なお世話だったかも知れないと、少し後悔した。
「でも私は、そんなの気にしないから」
無責任な言葉かも知れないが、トゥフィエには根拠のない自信があった。
俯いていたリキメナの顔がこちらを向いた。
「優しいんだね。トゥフィエちゃん」
控えめな、夜空に光る小さな一つの星のような、眼を凝らしてやっと見つけられるくらいの笑みを、リキメナが浮かべた。
「こんなにも構ってもらったのは何年ぶりだろう。ホントに、久しぶりだよ」
涙を溜めていた瞳を細めてリキメナが笑い、片目から、一筋だけ涙が頬を伝った。
「ありがとう。トゥフィエちゃん。じゃあここは、トゥフィエちゃんの言うことを聞こうかな」
先刻までの落ち込んだような声から、いきなり不自然なくらいに明るいものに変わった。空元気だということが、簡単に想像がつく。
「気持ち悪いけど、我慢してね」
そう忠告して、リキメナが腰をあげ、トゥフィエに背を向け川にゆっくりと進んでいく。
川の傍で立ち止まり、徐に服を脱ぎ始めた。
「これが、わたしの身体。不老不死の証。これのお蔭で身体に傷が残らないし、老いもしない」
淡々と、リキメナが語る。
服の間から覗かせていたのはリキメナの白い肌などではなく、刃物で付けられた傷跡だった。リキメナが完全に服を脱ぎ終わると、それがただの傷跡でないことが分かった。月光に淡く照らされているリキメナの背にはトゥフィエが傷跡だと思ったそれが蛇のように、まるで呪文のような模様を作り隙間なく身体中に走っていた。
その模様は、先刻のリキメナの惨状の酷さを薄くさせるほどに、痛々しい。リキメナを照らすものが月光だけではっきりとは見えないにしても、眼を覆いたくなるほどにリキメナの裸体は衝撃的だった。リキメナがどれだけ苦しんできたのか、想像したくなかった。むしろ想像することなど不可能だ。
リキメナの身体を見ていると、自分の身体にまで痛みが伝わってくる。
「ね。あんまり、気持ちのいいものじゃないでしょ」
数秒間言葉を失い、言葉のかわりに涙が流れた。
「……ごめん。私、簡単に考え過ぎてた」
――何が私はそんなの気にしない、だ。
「それでも十分嬉しいよ」
振り返り、リキメナがいつもの笑みを咲かせる。あの、自嘲気味た笑みだ。
そんな、リキメナの笑顔が、つらい。
「どうして、リキメナは無理して笑うの?」
止めてほしかった。嘘だと分かっているのに嘘をつかれているようで嫌だった。
「笑ってないと、泣きそうになっちゃうから」
笑いながら、リキメナが答えた。
「一度泣いちゃうとね。なかなか止まらないの、涙が」
そう言い終えると、リキメナはトゥフィエに痛々しい背を見せ、足を川に浸す。
川のせせらぐ音に混じって水どうしがぶつかりあう心地良い音が聞こえた。リキメナが川に浸っている間、トゥフィエはリキメナを見ていた。泣かないための微笑を浮かべながら、柔らかな動作で水を浴びる。
その仕草が、見惚れるほどに女性らしかった。
血を洗い終えたリキメナと並んで、トゥフィエは勿忘草を眺めていた。
昼にも、同じようなことをした記憶があるが、あの時はまったく状況が違う。自分がこれほどまでリキメナに干渉するとは、思いもしなかった。
「ねぇ、リキメナ。質問していい?」
「なにかな?」
声が返ってきた。
「さっきの翼を生やした人が言ってたけど、ネフィリムって何?」
あの女性は間違いなく自分に向かって「ネフィリム」と言った。初めて聞いた単語だった。
水どうしがぶつかる音が止んだ。リキメナは少し、悩んだような表情を見せ、口を開いた。
「天使と人間の間に生まれた子供のことを、昔はネフィリムって呼んでたの。今では少しでも天使の血を引いている人のことも、天使の間ではネフィリムって呼んでるみたい」
妙に冷静な、単純に説明するためだけの声が聞こえた。
「じゃあ、私も天使の血を引いてるの? なんであの人は私にあんなことを?」
あの女性がトゥフィエに言葉をかけるとき、かなりの嫌悪が込められていたのがかなり印象深い。
「天使と人間が交わるのは、禁じられていることなの。だから、その子供や、天使の血を引いている人間も、天使には嫌われてる。大昔にね、禁忌を破って人間と交わった天使がたくさんいたの。わたしは、初めて天使と交わった人間なの。今でも禁忌を破って人間と交わる天使だっているから、天使の血は途切れることなく今も繋がってる。もしかしたら、今の人たちの半分はネフィリムの子孫かも知れない。だから、たまに強く天使の血を引いた人が、瞳の色が普通じゃなかったり、不思議な力が使えたりもする」
リキメナは平気な顔をして天使という単語を使う。トゥフィエにとって非日常だったことを常識のように話す。だが、この状況自体が非日常なので別段戸惑うことはなかった。
「言ってみれば、わたしが魔女の生みの親なの。わたしのせいで、殺される理由もない人が死んでる。今になって、わたしはとんでもないことをしたんだなって」
トゥフィエに届くリキメナの声はまるで懺悔しているような印象を受ける。軽い口調で話していても、言葉に込められた感情を誤魔化しきれていない。
「あの頃は、本当に若かったよ。好きな人が人間じゃなくても、本気で幸せになれるって、どうにかなるって思ってたからね」
砕けた小さな笑顔で、リキメナが言った。
「そう思ってたのが今では、わたしはこんな身体になって、あの人は牢に入れられてしまった」
一度、言葉を区切り、息を吸い込む。
「ここの花はね、わたしの好きな人が好きだった花なの。今はわたしのせいで牢から出られないけど、いつか出られた時にこの花を見て少しでも喜んでくれればいいなって」
リキメナの話を聞きながら、素直に彼女は強いとトゥフィエは感じた。笑っていないと泣いてしまうとリキメナは言ったが、そのための笑みですら力強さを感じるのだ。この笑顔は、誰かのために浮かべるような、安心感を与えるためのような、そんな笑顔だった。自身を笑っているのではなく、自身に笑いかけているのかも知れない。そういう笑い方の出来るリキメナを同じ女として尊敬したい。
気付けば、夜の闇も薄くなっていた。それでも、まだ太陽は昇ってはいない。半端な、夜と朝の間。本当に長い夜だった。
「リキメナは、これからどうするの?」
「そうだねぇ。また別の場所に花でも植えに行くよ」
「その服のままで?」
リキメナの服は魔女狩りに遭った時にずたずたにされてしまっていて、多量の血が染み付いている。流石にこの格好のまま町に出入りするのは難しいだろう。
「あぁ、そういえば」
自身の服装をリキメナは見直す。まるでトゥフィエの言葉で初めて気付いたかのような態度だ。
「どうしようか」
リキメナはわざとらしく、頭を抱えてみせた。暫く、リキメナは唸るだけで言葉を発しない。トゥフィエは呆れた気持ちでリキメナを見守った。
「そうだ」
そして、わざとらしく閃いた、とでも言わんばかりに頭を上げる。
「ウルリックさんにいらない服をもらっちゃおう」
リキメナが明るく振舞いながら提案した。先刻までのリキメナとはまるで別人だ。
「道、分かるの?」
「わたしは長生きしてるから安心して」
説得力のあるようなないような言葉だ。リキメナの自信に溢れた口調のせいでどちらかというと説得力のある言葉のように聞こえるが。
「それより、いいの? ウルリックさんにこんなに甘えちゃって」
「大丈夫だと思うよ。困った時は何時でも来て下さいって言ってくれてるから。あの人は社交辞令なんて言わない人だよ」
「まあ、それは私も思うけど」
そう思うのだが、なんだかウルリックを利用しているようで戸惑いも生まれる。
「困った時は素直に人に頼るのが一番。頼れる人がいるなら尚更」
先刻と同様に、自信溢れる、力強い声だ。
説得力のある言葉だと思う。自分に明らかに足りていない要素だ。
言い返す言葉も思いつかない。
「そうね。それじゃあ、年長者に従うことにするわ」
ただ、単純に楽しくて、笑っていた。
――あぁ、懐かしいなぁ、この感じ。凄く、楽しい。
笑顔の元栓を締められないまま、リキメナの隣を歩く。
空はもう、朝に近づいていた。
ウルリック宅に到着し、血塗れのリキメナの衣類を見たウルリックは、これでもかというほどに驚き、これでもかというほどにリキメナを心配した。そのウルリックの心配も、リキメナの笑顔で言い放った「大丈夫です」の一言で無用な心配だとウルリックも悟った。何故リキメナが血塗れなのかも、あえて聞かなかったようだ。
ウルリックはリキメナが服を催促するよりも先に妻の衣服を準備してくれた。
「こんな立派なものを頂いて、本当にいいんですか」
服をもらおうと言い出したのは自分だが、譲り受けるものがウルリックの妻のものとなると、流石に気が引ける。
「いいんですよ。持っていても虫に食われるだけですから。シィには大きすぎるし、シィが成長するまでには穴だらけになって切られなくなりますよ」
断ることを許さない笑みで、リキメナに服を手渡す。これはもう断れないと観念して、ウルリックが手渡した服を受け取る。
「そういうことなら、ありがたく頂ますね」
「どうぞどうぞ」
受け取った服をさっそく広げてみた。白いブラウスにベージュの綿生地のパンツ。衣類は不思議と過去のものを引き継がれている。一度目の中世の衣類より、今の中世の衣類の方が着心地がいいのでリキメナには嬉しい限りである。しかも、ウルリックに渡された洋服は肌の露出が少ないので、願ったり叶ったりだ。
「家で着替えてきても構いませんよ。ついでにシィも起こしてくれるとありがたいんですけど」
「任せてください。それじゃ、お邪魔しますね」
暫くして、シィと一緒にリキメナが着替えて出てきた。何を着ても似合う女性だなと思う。
「リキメナお姉ちゃん、いなくなっちゃうの?」
シィの第一声は朝の挨拶ではなく、リキメナについてだった。
「こら、シィ。おはようございますは」
父親らしく、娘の無礼を見逃さない。別にトゥフィエも、多分リキメナも子供相手に無礼に感じることはないが。
「ごめんなさい。おはよう、お父さん、トゥフィエお姉ちゃん、リキメナお姉ちゃん」
シィも子供らしく素直に謝り全員に挨拶をした。
「おはよう、シィちゃん」
トゥフィエはシィに挨拶を返す。
「ねぇ、本当にリキメナお姉ちゃんはいなくなっちゃうの?」
やはりそれが気になるらしい。危機迫るような表情でシィはこの場にいる全員に質問を投げかける。
「本当だよ」
答えたのはリキメナだった。
「そろそろ別の場所も見てみたいしね」
かなり残念そうな表情を見せるシィとは対称的に、リキメナの表情からは晴々しさのようなものが感じとれる。
「寂しいよ」
「我儘を言ってはいけないよ。リキメナさんは一年もいてくれたじゃないか」
ウルリックが優しくシィを諭す。当のシィは納得出来ない様子だ。
「一年間、楽しかったよ。シィちゃん」
柔らかな動作で、シィの頭を撫でる。
「だからね、シィちゃん。わたしは最後も楽しくお別れしたいの。駄目かな?」
陰るシィの表情を、リキメナの笑顔が照らす。シィもリキメナの願いを叶えてあげたいのだろうが、難しいことだと思う。未だに笑顔を覗かせないシィを、トゥフィエは見守る。
少々黙り考えた後、シィの表情から少しずつ陰りが薄くなってきた。
「分かった。リキメナお姉ちゃん」
淡いながらも笑みを張り付けている。偉いな、と素直に思った。
暇な時、時間が余った時は、トゥフィエはよく川原まで足を運んでいた。半年前までは勿忘草を敷き詰められていた川原も、今は茎だけで鮮やかな色は見つけられない。季節が変わったのだから仕方のないことだが。それでも、リキメナの足跡はしっかりと残されている。トゥフィエの心にも。
この自然な笑顔を、リキメナに見せてあげたいなと思う。
あの時のリキメナとシィの別れが、トゥフィエにとってもリキメナとの別れになった。本心ではリキメナと一緒に行きたいとは思ってはいたが、この瞳の色のこともあり、リキメナに迷惑がかかることが簡単に予想出来たので、想いは言葉にはならなかった。多分、リキメナも一緒に行くことを許しはしなかっただろうから、別に後悔もなかった。
自分はというと、ウルリックが一緒に住まないかと誘ってくれて、行くあてもないトゥフィエは結局ウルリックの厚意を断れず、ウルリック宅に住まわしてもらうことになった。トゥフィエが一緒に住むと決まった時のシィの喜び様は、忘れられない。
初めのうちは、本当にいいのだろうかと感じ戸惑いばかりだった。異性と一緒に生活するというのは特に、だ。だが、半年も生活を共にするとそんな疑問は考えなくなったし、戸惑いもなくなっていた。
トゥフィエの現在の目標は包丁の使い方を覚えることだ。料理も出来ればしたいが、包丁を握った私を見てウルリックが苦笑いを浮かべなくなるまでは、それも夢のまた夢なのだ。その他にも野菜の育て方とか慣れることはまだ多々あるが、苦痛なんて何もない。
そんな充実した生活を送り出してから、自分でも分かるくらいに笑顔が自然なものになった。
今の自分の気持ちを表すなら、幸せの一言だ。
「トゥフィエお姉ちゃん。帰ろう」
振り返ると、シィが立っていた。半年で少し背が伸びていた。空を見上げれば、陽も沈んで色を変えつつあった。長い間ここにいたものだ。
「そうだね。そろそろ晩ご飯だ」
ゆっくりと、腰を持ち上げる。あの時とは違う、少し肌寒い風がトゥフィエの目の前を通り過ぎる。
この安息が、誰にも邪魔されないものだとトゥフィエは信じて、自分の逃げ場所へと、足を進めた。
来年の春は、自分も勿忘草を育ててみようかな。彼女を忘れないように。
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2005/08/31(Wed)13:02:59 公開 / アタベ
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■作者からのメッセージ
感想とか、頂けたら幸いです。
頑張って完結させたいと思います。
更新しました。一回目 二回目 三回目 四回目 五回目 書き直し 六回目 七回目 八回目完結 六、七回目も少し書き直し
私の小説に感想など書いて頂き本当にありがとうございます。感無量です。
皆さんに頂いたアドバイスが今後の小説にいかせるよう頑張りたいと思います。
やっと完結しました。初めは短編のつもりで書き始めたはずがだらだらと無意味に長くなってしまいました。
それで、書き終えて気付いたことを挙げてみると、
一つ、短編を上手くまとめる文章力は自分にはない。
二つ、人物描写が全然駄目だ。
三つ、短編で書くような内容じゃなかった。
四つ、気持ちの変化を表す文章力もない。
と、挙げるときりがないです。要はかなり背伸びして書いたはいいがやはり駄目だったということです。
結局、設定の方もあやふやで中途半端で、目もあてられないです。それでも、こんな駄目な小説でも読んで頂けたら幸いです。