- 『姫神 ―ひめのがみ― ―完―』 作者:神夜 / アクション ファンタジー
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全角93702.5文字
容量187405 bytes
原稿用紙約266.45枚
「プロローグ」
彼女は偉大だった。
人間でありながら殻神(からがみ)を殲滅するだけの霊力を持ち、人間でありながら時には堕神(おちがみ)さえも圧倒した。
彼女の名を東仙雫(とうせんしずく)という。
わたしのたった一人の契約者であり、わたしのたった一人の親友と呼べる存在。彼女はわたしに名前を与え、感情を与え、喜びを与え、そして笑顔を与えてくれた。この世で最も失いたくはない人。奉り神であるわたしが唯一心を許した人間。
楽しかった。彼女と共に過ごしたその時間が、何千年という時の中でも一番楽しかった。多くの時間を費やしてもわたしが見つけられなかったものを、彼女は数年ですべてを教え、与えてくれた。一人で生きていくことしか知らなかったわたしに、光を見せてくれた。
彼女は偉大だった。
人間でありながら殻神を殲滅するだけの霊力を持ち、人間でありながら時には堕神さえも圧倒した。
しかしそれ故に、その身を滅ぼした。堕神に憑かれ、自我を失った。
彼女は言っていた。涙を流し、精一杯に笑い。それでも彼女は言っていた。
――妃奈(ひな)が、わたしを殺して。
だからわたしは彼女を殺した。それが彼女との約束だったから。
その瞬間、わたしは初めて涙というものを流した。奉り神であるわたしに、感情を持ったことで歪みが生じていた。奉り神には必要ないもの。流すべきではないもの。それでもわたしは涙を流した。自分で止めることができなかった。
涙を流しながら、わたしは詠い、
紅い瞳をした彼女の下半身を吹き飛ばした。
真っ赤な鮮血が飛び散ったのを憶えている。堕神は瀕死の重傷を負い、それでも彼女から離脱し、そのまま姿を消した。
残ったのは、下半身が無いわたしの契約者と、血溜まりだけだった。
血に染まった手をそっと差し伸べ、彼女はわたしの頬に触れた。綺麗な黒い瞳でわたしを見て、彼女は笑っていた。
――……ありがとう。
そう言ったのを憶えている。彼女がわたしに対して礼を言ったのは、後にも先にもそれだけだった。
冷たく震える手を握り返し、わたしは笑った。
――どう致しまして、雫様。
彼女は苦笑した。
――最後の最期まで、呼び捨てにしてくれなかったね……。
最後の最期まで、わたしは意固地になっていた。
――それが、奉り神であるわたしです。
彼女が笑うと同時に口から大量の血があふれた。咳き込んだ拍子に生温かいその血がわたしの顔を染めた。
わたしは自分に言い聞かせていた。泣くな、笑え、と。彼女が与えてくれた笑顔を見せてあげろ、と。
彼女の手から力が抜けた。瞼を瞑りながら、最期の言葉を残した。
――おやすみ、妃奈……。
精一杯に笑った。
――おやすみなさい、雫様。
彼女はそれっきり動かなかった。
人間とはなぜこれ程までに脆く儚く、そして弱いのだろう。なぜこれ程までに脆く儚く弱い彼女にこれ程の力があったのだろう。
彼女は偉大だった。だからこそ、その身を滅ぼした。
人間で在るが故に堕神に憑かれ、人間で在るが故にどうしようもなく。
わたしの契約者であるが故に、わたし自ら彼女を殺した。
泣かないでいたかった。でも、涙は止まってくれなかった。
雨が降って来て欲しいと思った。泣いていることを知られたくなかった。
冷たく動かない彼女の体を抱き締め、わたしはいつまでもいつまでも泣いていた。
涙が枯れるまで、泣いていた。
わたしは奉り神――姫神(ひめのがみ)だ。
名前は必要なかった。だけどわたしは捨てなかった。
彼女の与えてくれたものを何一つ失いたくはなかった。
名前も感情も喜びも笑顔も、わたしは捨てなかった。
だからこそ、今のわたしがここにある。
わたしは奉り神。
姫神――その名を、妃奈という。
彼女が与えてくれた名だ。
わたしの、大好きな名だ。
「神との契約」
毎年、夏休みになると祖母の家へ一週間泊まり行くというのが天野詠志(あまのえいし)の風習だった。
それは高校二年生になった今年も変わらない。毎年のように祖母の家で一週間を過ごし、毎年のようにまた来年と言い残して帰って行く。詠志が生まれて十七年、それは一度も変わったことがなかった。
そしてもちろん今年も、それが変わることはないと思っていた。
しかし、それが大きく変動することになる。
この物語は、《彼女》に出逢ってしまった所から始まっていた。
◎
姫之市という町は、巨大な山脈と広大な海に囲まれた田舎町だった。
交通の便は驚くほど不便で、山中に電車など通っているはずもなく、隣町に行こうと思ったら一日二本しかないバスに乗って一時間以上揺られなければならない。姫之市内で車を見かけるなんてのは結構稀なことで、「車の数よりトラクターの数の方が多い」というのは住人が揶揄するのによく使う言葉である。
そんな不便な町だが、だからこそ自然が生きているのだ。山脈から吹き降ろす風は心地良く、海からは塩の香りが漂う。場所によっては農地の地平線だって見えるし、大概の家が一階建てであり邪魔する物はないので高台に上れば町を一望することだってできる。都会暮らしの人が見れば不便だと思うかもしれないが、実際に姫之市に住んでいる人のすべてがこの町を好いていた。大した名所も無いこの町だが、そんな自然豊かな場所を求めて観光客が良く訪れ、町は賑わっている。都会で暮らしているからこそ、田舎に憧れるのかもしれない。そしてその内の一人が、天野詠志という青年だった。
詠志はこの町が好きだった。地元の高校を卒業したらここに住もうかと本気で考えるほど好きだった。祖母の家は姫之市のちょうど真ん中辺りに位置する。そこまでバスに乗って行けば徒歩で数分程度なのだが、詠志は二つ前のバス停で降りた。毎年子供のようにこの町を歩き回っているので地理には詳しい。地元の人にも負けないのではないかと思う。だからこそ、散歩がてらに歩こうと決めたのだ。
クラクションを鳴らして遠ざかって行くバスを見送り、詠志は一人背伸びをし、胸いっぱいに空気を吸い込む。詠志が住んでいるのはここからバスで二時間はかかる場所で、かなり大きな新都である。そこの空気とは比べ物にならない。胸いっぱいに広がった空気は、本当に新鮮で美味しいとさえ感じる。見上げる太陽は本当に大きく輝いている。ビルの隙間から見る太陽とは大違いだ。本当に一緒のものなのかと疑いたくもなる。
深呼吸を一通りし終わったら、詠志は地面に置いていたバックを肩に掛けて歩き出す。この中には携帯電話と財布、それに一週間分の着替えが入っている。詠志が小学生だった頃は両親も一緒にこの町に来ていて荷物も多かったのだが、中学生になると両親は一人で行けと言い始めた。両親は多忙だった。でも放ったらかしって訳ではなかったし、詠志は両親が好きだった。迷惑はかけたくないと、詠志は中学からは一人でこの町に来るようになり、荷物も少なくなったのだ。
真っ直ぐに続く砂の地面の感触は楽しかった。時折吹く風には塩の香りとセミの声が混じっていて、周りに何も無いため見渡しが良く、夏だというのに涼しかった。一年振りに訪れる田舎町に胸を躍らせ、詠志は歩き続ける。それから十分ほど行くと、小さな名もない石造りの橋が見えて来る。懐かしくて思わず頬が緩まり、そこまで走った。石橋の上から下を流れる小川を見下げる。小学生の頃はここでよく魚を獲っていた。魚を獲るのは祖父がすごく上手で、しかし詠志は一匹も捕まえることができずに大泣きしたのを憶えている。川の流れに昔を思い出し、優雅に泳ぐ魚を見つめる。予定を一つ追加だ。ここで釣りをしよう。
少しだけここを離れるのに心残りがあったが仕方がない。詠志はまた歩き出す。山を見上げ、畑を眺め、鳥を見つけ、花を見た。子供の頃に戻ったような感覚。純粋に今の時間が楽しかった。そして太陽の位置が少しだけ変わっていることに気づく。バックの中に入っていた携帯電話のディスプレイで時刻を確認すると、昼の二時を回っていた。どうやらバスを降りてからすでに一時間ほど経っていたようだ。そろそろ着かないと祖父と祖母が心配するだろうと思う。
少しだけ歩調を速める。やがてポツポツと民家が見え始める。町並みは去年と何も変わっていなくて、遠くに見える一軒家は確か佐藤さん家だ。あと十五分も行けば天野家に到着である。家に着いたら飯でも食おう。昼を抜いていたので腹が減っていた。祖母の家の飯は美味かった。それは炊飯器を使わず、まだ竈で炊いているからだろう。そこら辺も詠志が毎年ここを訪れる理由の一つだった。
考えるとさらに空腹が広がり、早く行こうと歩調を上げたそのとき、何かが動いた。
歩みを止めて振り返る。草むらがガサガサと音を立てて動いている。それはつまり、そこに何かがいるという合図だった。野生動物かもしれない、と詠志は思う。ここには狐も狸もいる。猪もいるらしいがまだ見たことがない。興味が湧いた。腹ごしらえの前に少し寄り道をしようと思い立つ。
草むらに歩み寄り、その近くにしゃがんでじっとしていること数秒、音を発していた生き物がひょっこりと顔を現した。狐か狸だろうと思っていたそれは、意外にはもっと小さな、茶色い野兎だった。しかし猪と同じでまだ見たことがない野生動物である。微かな感動を込め、野兎に手を伸ばす。噛まれはしないだろと無用心だったかもしれないが、事実野兎は詠志の手に鼻を当て匂いを嗅いでいただけで噛み付きはしなかった。可愛くなって抱き上げようと手を伸ばした瞬間、野兎の耳がピンと上がった。何かを感じるようにじっとその場で待機し、それからすぐにさっきまでいた草むらに飛び込んで姿を消してしまった。
疑問に感じる。今の野兎は自分を警戒して逃げたのではないはずだ。ならば何か危険な物がここに近づいているのではないか。昔祖父に言われたことを思い出す。――野生動物が逃げたらお前も逃げろ、何か近くにいるかもしれないからな。
寒気を覚えた。詠志は急いで立ち上がり、その一歩を踏み出そうと
一瞬だった。林の奥から何かが突然吹き飛んで来て、気づいたらそれに体当たりされて道路を外れて畑に突っ込んでいた。最初の衝撃から身を守ってくれたのは着替えの入ったバックだった。これがなかったら腕でも折れていたかもしれない――そう思うのも束の間、土の上を何度も転がった。意識が虚ろになり、このまま死んでしまうのではないか感じた刹那、
視界がはっきりとした。太陽の眩しさに思わず顔を顰め、そして体に覆い被さっている何かに気づいた。どうやらそれに吹き飛ばされたらしい。まさか猪の突進でも食らったのではないかと胸の辺りを見て、
詠志に覆い被さっていたそれは、猪よりも状況は困難だった。
死んでいる、とまず最初にそう思った。
傷だらけだったし、血が出ていたし、目を閉じていたし、慌てていたせいで息をしているかどうかさえもわからなかった。だからそう思った。体の痛みなど忘れ、詠志は上半身を起こす。と、覆い被さっていたそれは力なく地面に横たわった。
状況が整理できない。ただ、見たままを説明するとなれば、それは巫女装束を纏った、傷だらけの少女だった。肩ほどの長さの髪が風に揺れて、少女は小さな呻き声を漏らす。それで思考が戻って来た。この子はまだ死んでいない。詠志は急いで少女の肩を抱えて揺する。
「お、おいっ、なあ、起きろって」
しかし一向に目覚める気配はなく、怪我人は揺らさない方がいいのではないかと今更に気づいた。
どうしようもなくなって、呆然とその子を見つめた。傷だらけだが、よく見れば血は出ていなかった。だが巫女装束に付着した血はまだ新しく水分を持っている。そして白っぽいその髪の奥の顔は、すごく幼く見えた。子供のような気もするが、もっと上のような気がする。たぶん中学生くらいではないだろうか。だけどなぜそんな少女が吹き飛んできたのか、なぜこの少女は傷だらけなのか、そして最もな疑問が、なぜ巫女装束など着ているのか。しかしこのまま放っておく訳にはいかないだろうと思う。取り敢えず助けを呼ぶか救急車を呼ぶか。
どちらにしたところで携帯電話が必要だろうと思い、すぐそこにあったバックに手を伸ばした。
少女が目を覚ましたのは、ちょうどそのときだった。伸ばした手を引っ込め、覗き込むように言葉をかける。
「ええっと、だいじょうぶか? どこか痛むんだったらすぐに救急車呼ぶけど、どうする?」
少女は虚ろな瞳で詠志を見つめ、そしてこう言った。
「――……雫様」
意味がわからなかった。
「え? 雫様って、誰? 君の知り合い?」
少女の腕が詠志の首を回される。それが無性に恥ずかしく、怪我人だということをお構いなしに引き剥がそうと力を込めるが少女の腕はビクともしなかった。詠志では考えられない以上の力でぐっと引き寄せられる。
まるで甘えるような口調だった。
「――今一度、契約を……」
「け、契約って……え、ちょっと、ま――」
気づいたら、詠志と少女の唇が重なっていた。
頭が真っ白になった。意識がパニックを通り越して考えるのを放棄した。それでもどこかで初めてだったのになと馬鹿げたことを思う。
唐突に右手の甲が熱を帯びた。尋常ではないその熱さに意識を取り戻し、思考が働くと同時に少女がそっと離れた。どういうことかと攻め立てようと少女に詰め寄ろうとして、詠志はその動きを止めた。
不思議な光景だった。少女の傷が、みるみる内に完治していく。蒸気を上げて傷口が癒え、そこに残ったのは透き通るように白い肌だけだった。巫女装束に付着した血もいつの間にか蒸発していて、白っぽい髪がふわりと揺れる。少女の瞳に活力が生まれ、さっきまでの幼さなど感じさせないほど凛々しく変化する。それがまるで、何十年も前にありとあらゆる覚悟を決めたような雰囲気を出していた。
そして、それだけでは終らなかった。異様な光景だった。少女の後ろ、詠志が見ているその地面が変化し始める。そこから何かが出て来るようだった。地面色に変質していたそれはカメレオンを連想させる。擬態のように体の色を変えたそれは、ゆっくりと立ち上がる。見上げるような大きさのそれは、異形の姿をしていた。人間では絶対にない。今まで生きてきた中でこのような姿の生き物を見たこともない。
それは自らの足で立ち、自らの手を持っていて、がばりと開いた口から牙が覗き、白い息を吐き出した。巨大な人間を思わせるその異形の姿は、例えるならそう、まるで――
「……鬼……?」
言葉が自然と口から出ていた。
見上げるほど大きなその鬼は、一体だけではなかった。先の鬼同様、地面から這い出てくるように起き上がり、その色を変えた。紅い色をした二体の鬼は、同時に白い息を吐きながら少女を見下げる。
殺される。本気でそう思った。何をおいても今すぐここから逃げなければならない。脳が恐怖に支配され、それでもそれだけを命令する。詠志が少女の手を引いて走り出そうとするより一歩早くに、少女は立ち上がった。見下げる鬼を真っ直ぐに見上げる。今にも戦い出し兼ねない雰囲気。
こいつ正気かと思う。頭を打って気が違ったのではないかと思う。
気づいたら叫んでいた。
「何やってんだバカっ! 早く逃げろっ!」
しかし必死な詠志とは裏腹に、少女は実に楽しそうに笑った。
「わたしが殻神如きに負けるとでも? 雫様、どうしたのですか? しばらく見ない内に臆病になりましたね」
雫様ってだから誰だよ、と心のどこかでつぶやいた自分がいた。
少女が右手をすっと前に出し、左手をそこに添える。
「――すぐに終ります。それまで待っていてください」
それは、一体何だったのだろう。知らない内に、逃げろという命令がなくなっていた。
ただなぜか確信があった。この少女が負けるはずがない、という根拠も無い確信。だけどそれだけで、恐怖はなくなっていた。
少女は鬼に向かって言う。
「下がれ殻神。もはやお前達に勝ち目などない。それでも向かうと言うのか」
鬼が吼えた。大地を揺るがせ大気を裂き、突風のような風が詠志を突き抜ける。
その叫びこそが返答だったのだろう。始まりの合図だった。
二体の鬼がその腕を上げ、真っ直ぐ少女へと振り下ろす。あんなものを食らえば即死は間違いないだろう。しかし少女はそれを避けようという素振りも、焦ったような素振りも見せない。まるでそんなもの無意味だと言わんばかりに少女はじっと鬼を見据え、左手を添えた右手を鬼へ向ける。
風が吹いていた。
少女が詠う。
「真術・火の句・五節――《火炎波動》」
刹那、少女の手からバチッと静電気にも似た音が鳴り、そこから何かが生まれた。
バスケットボール程度の白く丸い球体だった。それを凝視すること一瞬、一気に球体を炎が渦巻く。燃え盛るそれは太陽を思わせ、向けられたそこには鬼がいる。
鬼の腕が少女を叩き潰すかどうかという時間差で、炎の球体が瞬間的に撃ち出された。真っ直ぐに目でも追えない速さで撃ち出されたそれは鬼の顔面を直撃し、弾けた。爆音と爆風が巻き起こる。爆音に意識を奪われ、爆風に煽られて詠志の体が後ろに飛ぶ。回転する視界の中で見たのは、上半身が無くなり風化するように消滅していく鬼だけだった。
地面に叩き付けられる。何度も転がってようやく静止したと安堵する瞬間、また少女の声が聞こえた。それは先ほど詠った言葉と全く同じだった。再度爆音と爆風が詠志の体を襲う。無意識に地面へと体を押さえ込み、それをやり過ごした。風が吹くその光景に視線を上げると、立っているのは少女ただ一人だけだった。二体の鬼の姿はどこにもなかった。
呆然と動くこともできずに呆けていると、地面が動いた。地震だと思った。慌てて辺りを見まして初めて、視線がどんどん上がって行っていることに気づく。置かれた状況をやっと理解した。自分は、鬼の上にいる。もう一体鬼がいたのだ。それも詠志の真下に。
思考が麻痺して指一本動かすことができない。視界の中で立っていた少女がこっちを振り向いた。右手が向けられる。待て、と心の中で叫ぶ。だがそれも少女には届かなかった。詠うと同時にそこから球体が生まれ、炎を帯び、撃ち出された。焼け死ぬことを覚悟で目を閉じた。
体重が消えたような錯覚に陥り、続いて衝撃が背中を打ち付ける。どうやら自分は仰向けに落ちたらしかった。目を開けたそこに、消えゆく鬼を見た。それが完全に風化すると同時に視界が暗くなる。それが影だと気づいたのは一体いつだったろうか。
視線を上げたそこに、巫女装束を纏った少女がいた。少女はなぜか目を見開いて驚いたような表情をしている。その真意はわからないが、驚愕していることだけはすぐにわかった。唐突に眠気を感じる。抗うだけの力はなかった。
意識が深い闇へと落ちていく。それを何とか押し止め、薄皮一枚で繋がっている意識で少女へと声をかけようとする。口を必死に動かしたところで、気力が尽きた。
テレビの電源を切るように、意識が途絶える。
――間違えた。
その声を聞いたのは夢か現か、詠志にはわからなかった。
◎
祖母の家というのは、ある種の故郷のようなものだった。
もちろん詠志が産まれたのはここではない。産まれ育ったのは新都にある我が家である。ただ、なぜか祖母の家にいるとここが故郷のように思えてしまうのだ。それはたぶん、匂いなんじゃないかと詠志は考えている。新都にある家とは違い、祖母の家は昔ながらの木造で建てられている。大型の台風でも来たら簡単に壊れてしまうのではないかというくらいに古く、年季の入った家だ。だからこそ、匂いがあるのだ。人を懐かしいと思わせる木造独特の匂い。山の息吹や海の潮風に似ている。それを感じると落ち着くのだ。詠志はその匂いが好きだった。無機質な我が家より、祖母の家の方が居て落ち着くというのは少し変なのかもしれないが好きなものは好きだから仕方ない。
目を覚ます切っ掛けとなったのは、そんな匂いだったように思う。
ぼんやりと意識を取り戻し、最初に見たのは剥き出しの黄ばんだ蛍光灯だった。続いて視線を動かすと仏壇があり、その上に飾られているのは祖父の父親と母親の白黒写真。仏壇の横の壁にはどこの誰が書いたのはわからない掛け軸と祖父が趣味で集めている骨董品の壺、さらに祖母が暇潰しで完成させた金閣寺の大きなパズル。開け放たれた窓から射す光は少しだけ赤くて、もう夕暮れだということを知らせていた。
自分の置かれた状況を少しずつ理解していく。自分は布団の上に寝ていて、腹には薄いタオルケットが掛けられてあった。窓から吹き込む風に体を撫でられ、ようやく確信に至った。ここは、詠志が毎年訪れる祖母の家である。そしてこの部屋はそのときに詠志がいつも寝ている寝室だった。何だか妙に安心して、一息ついた際に喉が微かに痛んだ。喉が渇いていた。冷たい水が飲みたいと思い、体を起こす。
部屋の襖が開いたのは、ちょうどそのときだった。襖の奥から顔を覗かせたのは祖母で、詠志を見るとにっこりとしわくちゃの顔で笑った。その手には氷水の入ったコップを一つ、お盆に載せて持っていた。
「起きたかい詠志。ほら、これ」
掠れた声で返事を返し、差し出されたコップを受け取った。キンキンに冷えたコップの感触は心地良く、乾いた喉を潤すには持って来いだと思う。コップに口を付け、中身を一気に飲み干した。喉と歯が冷たさに痛み、それが収まってからコップを祖母に返す。
思考がやっとまともに働くようになった。
「――婆ちゃん、おれ、何でここにいるの?」
記憶が曖昧だった。何かとんでもないことに巻き込まれたような記憶があるが、それが何だったのかよくわからない。脳にフィルターが掛かったように白くなっていた。
そんな詠志のすぐ隣に座り、祖母は少しだけ心配そうに言う。
「覚えてないのかい? あんた、脱水症状で倒れてたんだよ。あんまり遅いんで心配になってお爺さんと捜しに行ったら、片瀬さんトコの畑で倒れてたんだよ。お医者さん呼んで診てもらったら脱水症状だって。起きたらちゃんと何か飲ませてやれって。もうだいじょうぶなのかい?」
体に異常はない。喉も潤った。頭が少しだけふらふらするが倒れたのならそれも仕方がないだろう。
「だいじょうぶ。ごめん、心配かけて」
祖母はにっこり笑うだけで、それ以上は何も言ってこなかった。窓から風が吹き込むと同時に、開いたままの襖から今度は祖父か顔を出した。起き上がっている詠志を見ると煙草のヤニで汚れた歯を出してにかっと笑った。
「詠志、もうだいじょうなのか? ったく、脱水症状で倒れるなんて面白い孫だのォ」
祖父はそういうことをよく平気で言う。詠志が川で溺れて死にかけても、蜂に刺されて驚くほど腕が腫れても、今と同じようなことを言われた憶えがある。しかしそれは口だけで、一番迅速に事態を収めるのは決まって祖父だった。今回も詠志のことで一番動いてくれたのはこの祖父だろう。だから詠志は笑い、「ありがとう」とお礼を言った。祖父も祖母と一緒で、笑うだけでそれ以上何も言って来なかった。
やがて祖母が「お腹減ってるかい?」と訊ねてきたので、減ってる、と素直に肯く。すると祖母は「もうすぐ出来るから後でこっち来な」と言い残し部屋を去って行く。それに続いて祖父が「ビールあったか? 詠志にも飲ませてやらにゃあならん」と提案し、祖母に「まだ未成年ですよ」と止められていた。遠ざかって行く二人の声を聞きながら、詠志は一人天井を見上げた。同じように続く木目を呆然と見つめ、物思いに耽る。
もうすでに、何もかも思い出していた。フィルターはとうの昔に消えている。巫女装束を纏った少女のことも、鬼のような生き物のことも、それを倒した火の玉のことも、何もかも鮮明に思い出していた。が、結論をまとめるとただの一言である。
あれは、夢だった。それだけだ。自分は祖母の言う通り、脱水症状でぶっ倒れたのだろう。考えてみれば当たり前だった。水分も無しにあの太陽の空の下を一時間も歩き回っていたら倒れても不思議はなかった。ただ問題は、どこまでが現実でどこからが夢だったのかということだ。夢にしてはあまりに現実染みていたため、はっきりとどこからどこまでというのが自信を持って言い切れない。しかし少し考えれば嫌でもわかる。
夢は、あの少女が出て来た所から始まっていたのだ。たぶん野兎を見たのは現実だ。あの後、確か野兎が逃げたので自分も逃げようとしたはずだった。おそらくそこで立ち眩みか何かを起こし、そのまま倒れて脱水症状にでもなったのだろう。やがて祖父と祖母に救出され今に至る。それにしてもなぜ自分はあんな夢を見たのだろうか。もしかしたら自分は心の隅では鬼を叩きのめす巫女に憧れているのではないかと少しだけ恥ずかしくなり、しかしただの夢なので深く追求しても仕方ないと思う。
不思議な夢を見た、ただそれだけだった。何が変わる訳でも何がどうなる訳でもない。夢は所詮夢で終わり、数時間後にはキレイさっぱり忘れてしまっているのだろう。だが夢の中で女の子とキスをするなど、自分はそれほどまでに欲求不満なのかと我が事ながら情けなくなる。自嘲染みた笑いがこぼれた。その場で大きく背伸びをして、空腹を改めて感じ、窓から見える景色に心洗われる。祖父と祖母が居るであろう居間に行こうと思い、詠志は立ち上がろうとする。
正座をしていた。
巫女装束を纏った少女は、まるでお手本のように綺麗な正座をして、じっと詠志を見つめていた。
あのとき、少女にキスされたときのように頭の中が真っ白になった。中途半端に立ち上がろうとしていたのが原因になり、詠志はその場に尻餅を着いた。口を開けるが言葉らしい言葉は出て来なくて、自分がどうしたいのかもわからずに何も言えない。まるで餌を貪る金魚のように口をパクパクさせ、目の前でこっちを見つめている少女に震える指を差す。
呂律が上手く回らない、
「お、おま、な、なんでここにっ!?」
あれは夢ではなかったのか。夢の中の出演者の少女がなぜこの現実世界にいるのか。まさか自分は脱水症状で倒れた挙句、太陽の熱で熱射病にも罹り、脳みそが完全に麻痺してあっちの世界の住人になってしまったのではないかと本気で思う。
窓の外でセミが鳴いていた。
慌てふためく詠志とは百八十度違い、少女はゆっくりと口を開く。
「自己紹介をしておきましょう。わたしは奉り神の姫神。名を妃奈。――貴方は?」
あまりに冷静だった少女に毒気を抜かれたような気分だった。体が落ち着いて震えが止まる。いつまでも情けない格好でいるのもどうかと思い、詠志は布団の上に座り直す。胡坐にしようかと思ったが、少女が正座だったのでこっちも正座にした。足が窮屈である。正座をしたのなんてあれはいつ以来だったか――。
少女の問いに、無意識に答えていた。
「え、あ。え、詠志、天野詠志」
「天野詠志様。承知しました。以後よろしくお願いします」
少女はあくまで無表情で、そのまま少しだけ頭を下げた。それにつられ、詠志も慌てて頭を下げる。次に頭を上げるのは同時で、微妙な角度で噛み合った視線が外せないまま、何とも言えない時間が過ぎた。こうして見ると少女は無表情だが、それでもどこか柔らかそうな雰囲気を持っていた。話せばすぐに笑ってくれそうな気がする。要らぬ考えを切り捨てる。
取り敢えず確認することが一つ。
「――これって、夢?」
自分でも情けない質問だったと思う。少女は無言で首を振る。
ふむ。つまりは現実だ。うん、それはわかってる。問題は次だ。どこからまとめればいいのかよくわからなくなっていた。いろいろな映像が飛び交う中、詠志はまず一番簡単な所からまとめようと思った。目の前に居るこの少女は誰なのか。先ほど自己紹介されたままを思い浮かべる。奉り神の姫神とか意味のわからないことを言ったあと、名前を名乗ったはずだ。確かええっと、
「……妃奈、」
「はい」
「あ、ごめん呼んだだけ」
「そうですか」
では次に行こう。この際だから奉り神だとか姫神だとかは置いておこう。たぶん苗字か何かだろう。本題は、もしこの妃奈と名乗る少女が本当に存在するのであれば、詠志が夢だと思ったあの光景は現実だということになる。つまり巨大な鬼もそれを倒した火の玉も実在するのだ。脳の片隅でそんな馬鹿なと嘲り笑う。だが大半がそう考えれば何かすっきりすると思っている。そして一番の問題がここに来て思い返された。その問題に比べれば鬼も火の玉もどうでもいい。もしこの妃奈が実在し、あの光景が夢ではないとするのであれば、自分はとんでもないことをされたことになる。
年下だと思われる女の子に、唇を奪われた。本当に、本当に我が事ながら情けなくなる。確かに彼女を作らないで学園生活を送って来たのは詠志である。しかしそれは十九までは童貞を貫き通すという友達との協定のせいであり、心の隅でそれは本当に好きな人とやるものだと乙女みたいなクソ恥ずかしいことを思っていた詠志に責任がある。が、それをまさか年下に奪われるとは何たることか。目の前が真っ白になったり真っ黒になったり、今日は視界の迷彩が大忙しである。
真相を確かめるべく、一縷の望みを賭け、詠志は言った。
「つかぬ事を訊くが、もしかしておれとお前って……その、」
妃奈は何とも微妙な返答を返して来た。
「契約しました」
恐る恐る、
「……それはつまり?」
「接吻しました」
そのあまり耳にしない単語の意味を、詠志はしばらく飲み込めなかった。頭の中のネットワークをフル活動させ、『せっぷん』という語句で探し当てる。一件だけヒットした。『接吻』、簡単に言うと『口付け』、詠志にもわかり易く直すとつまり、『キス』になる。コンセントが抜けた電化製品の気分になった。今度こそ目の前が本当の暗闇になった。青春が終ったような、今から始まるような、何とも言い難い気持ち。たぶん漫画なら滝のような涙が出るはずだった。
そんな詠志を救ったのは、
「……あの、詠志さ――」
「詠志、もう準備出来たぞ」
祖父の声だった。ばっと顔を上げた詠志を見て、祖父は「何て顔してんだ。早く来い」と何事もなかったかのように居間へ戻ろうとする。ものすごい違和感があった。一瞬だけ躊躇い、詠志は祖父の背中に声をかけようとして、
それより早くに妃奈が言う。
「無駄です。詠志様以外に、わたしの姿は視えません」
それで納得した。いや、無理矢理納得させた。通りで祖父が何も言わない訳だ。視えていないのだから気づきようもない。しかしもし本当にそうならこの妃奈という少女は一体何なのだろう。姿を消せる人間など見たことも聞いたこともない。だったら幽霊か物の怪の類か。それともこの家に古くから住み着いている座敷わらしか。考えれば考えるほど泥沼に身を落としそうだった。だから詠志はそこで思考を打ち切り、立ち上がる。
腹が減っては戦はできん、というのはつまり、腹が減っては考えがまとまらん、と同じだと詠志は思う。正座のままで疲れないのか、じっとこっちを見つめている妃奈に言い残す。
「おれ飯食ってくるから。まだ話あるんだったらここにいて」
妃奈は無言で肯いただけだった。
それを横目で確認してから詠志は居間へ向かった。踏み締める度に掠れた音が出る床を歩き、祖父と祖母がちゃぶ台を前に座っている部屋へと辿り着く。最もスペースが広いと思われるちゃぶ台の位置に腰を下ろし、目の前に並べられている飯を眺める。家で見る飯とはやはり違う。朝から何も食っていない腹が空腹を我慢できず鳴いた。三人揃って飯を食い始める。
美味いはずだった。今まで祖母の家で食べた料理の中で不味いと思ったのはよくわからない虫の佃煮だけで、それ以外は何を食っても美味かったはずだった。しかしどうだ、いま目の前に並んでいるこの飯は。釜戸でふっくらと炊き上がったご飯、今朝海で獲れたばかりの新鮮な魚、畑で栽培している日光を存分に浴びた野菜のサラダ、祖母が丹念込めて作り上げた漬物、よくわからない生き物の肉。どれもこれも美味そうなのだ。事実絶対に美味いはずなのだ。なのにどうして、その味がよくわからないのだろう。箸を片手に固まっている詠志に「どうした?」と心配してくる祖父に何でもないと首を振り、空腹を満たすために適当に口の中に放り込んだ。やっぱり味がよくわからなかった。
結局、自分は集中できなかったんだと思う。女の子を一人待たせて自分だけが飯を食うことに、最後まで抵抗があったのだろう。食べ物の味なんてぜんぜんわからなかったし、祖父達と何を話したのかさえろくに憶えていない。食事が終るとすぐに妃奈が待つ部屋へと向かった。妃奈はやっぱりそこにいて、詠志がここを離れる前と全く同じ場所で全く同じように正座をしていた。
詠志が来ると視線を上げ、何か言いたそうに口を開きかけ、すぐに閉じた。詠志が布団の上に胡坐を掻いてどかりと座り込む。
「よし、当ててやろう」
妃奈は不思議そうに首を傾げ、「何をですか?」と問う。
詠志は自信たっぷりにこう言った。
「わたしも腹減った飯食わせろ、ってことだろ?」
「いえ、違います。わたしに食物は必要ありませんから」
「……あ、そう」
それからすぐに妃奈の表情が真剣になる。
「――本題に入っていいですか?」
反射的に詠志も少しだけ身構え、妃奈の言葉に耳を傾ける。
「詠志様は何も言わずに聞いてください。質問は後でまとめた方がわかり易いですから。まず、わたしはこの姫之市に奉られている神、姫神です。八百万の神と言った方が詠志様にはわかり易いかもしれません。次に昼間、わたしが倒したあの異形について先に説明しておきます。この姫之市には姫神であるわたしと、山海大山主(さんかいおおやまのぬし)という神がいました。しかしその神は今から一七二年前に堕神となり、わたしの領域を侵食し始めた。あの異形はその堕神が生み出した分身、主の命令だけを実行する殻神と呼ばれるものです。――ここまでで質問は?」
そのときちょうどこの部屋の前を通りかかった祖父に、詠志は声をかける。
「爺ちゃん、この町の神様って何て言う名前?」
祖父は足を止め、一秒だけ考えてから答えた。
「姫神様だな。ああ、それともう一人、山海大山主って神様もいたな。それがどうした?」
「ううん、何でもない。ありがとう。――続けて」
何とも言えない表情で詠志を見つめてから、妃奈は再び口を開く。
「わたしが殻神を倒したあの術について話します。あれは八百万の神だけが使える、真の術と書いて《真術》と呼ばれるものです。通常、八百万の神はその術を使い、季節を変え気候を操り、本来然るべきときのために使う力です。しかしもう一方で、別の使い道があります。それが堕神への攻撃手段。堕神とは人間の負の感情、憎しみ妬み欲望などの概念に囚われ、我を失った神のことです。そして堕神となった神は真術を失い、その代わりに負の感情で生み出す殻神を攻撃手段として用いるのです。そうなってしまった以上、わたしたち八百万の神は堕神を消滅させなければなりません。堕神は災いしか齎さない。だから消滅させるんです。――質問は?」
今度は祖母が来たので、詠志は声をかける。
「婆ちゃん、堕神って知ってる?」
祖母は不思議そうに詠志を見つめたあと、思い出したかのように答えた。
「神様じゃなくなった神様のことだね。それがどうかしたかい?」
「ううん、何でもない。ありがとう。――続けて」
もはや妃奈は何の変化も表さずに続ける。
「最後にわたしと、詠志様のことについてです。最初から話すと、わたしには一五〇年前、契約者がいました。東仙雫様という、女性の方です。彼女は人間でありながら殻神を殲滅できるだけの霊力を持ち、人間でありながら時には堕神さえも圧倒しました。しかし彼女はそれ故に命を落とした。堕神に憑かれ、自我を失った。だからわたしが殺しました。霊力が強い人間ほど堕神には憑かれ易く、霊力が強い人間ほど堕神に力を与えるからです。もう一度言います、だからわたしが雫様を殺しました。そして時が流れての今日、わたしは三七体の殻神と戦いました。ただ、殻神が何十体束になろうとわたしには絶対に勝てません。――しかし、今日だけは例外でした。殻神の前で僅かな動揺を見せてしまい、微かな隙を突かれて攻撃されました。そして吹き飛ばれた所に、」
妃奈はじっと詠志を見つめていた。言いたいことがすぐにわかった。
「……おれがいた訳か」
答えをもらって納得したのか、妃奈はまた続ける。
「はい。殻神の攻撃により、わたしの意識が朦朧としていたせいもあります。普通は霊力のない人間に神は視えません。しかしわたしの術が薄れ、霊力も持たない貴方にぶつかり、そして貴方はわたしの姿を視ることができた。ですからわたしは、その中で見た貴方と、雫様を間違えて視てしまった。在り得ないことだとわかっていながら、わたしは雫様に甘えた。だから、わたしは貴方と契約した。契約の証を見せます」
唐突に、右手の甲がじわりと熱を帯びた。妃奈にキスされたときに感じた熱と同じだ。
そっと自分の右手を見てみると、そこに何かが浮かび上がっていた。刺青に似ていると思う。何の形を表しているのかはわからない。ふと視線を上げたそこに、全く同じ刺青が妃奈の右手にも入れられていたのを見た。そして熱が帯びたのと同じくらい唐突にそれが引いていき、刺青が消えた。
「今のが証です。わたし達は刻印と呼んでいます。神と契約した人間は互いに同じ刻印を持ち、どちらかがこの世から消滅するまで消えはしません。つまり、わたしが消えるか貴方が死ぬか、どちらか一方がいなくならない限り契約は続きます。契約が続いている場合、わたしは常に契約者である詠志様の近くにいます。それが契約を求めたわたしの役割なのです。――質問はありますか?」
細かいことはまずはどうでもいい。取り敢えず絶対に聞いておかなければならないことが二つ。
「二つある。一つ目がその山海大山主って堕神が、東仙雫っていう人を殺したのか?」
妃奈は顔色を変えなかった。
「いえ。確かに雫様に憑いたのはその堕神ですが、雫様を殺したのはわたしです」
「……。……二つ目、この契約ってのは、どうすれば無くせる?」
妃奈が怪訝な顔をする。それは明確に、貴方は人の話をちゃんと聞いているのですか、と語っていた。
「先ほども言いましたが、一度契約を交わせばどちらかがこの世からいなくなるまで持続します。消すことはできません」
そして詠志は、最も思うことをだたの一言で表した。
「それは身勝手なんじゃないのか」
苦虫を噛み潰したように、妃奈の表情が初めて崩れた。視線をあらぬ方向へ避け、何かを思い悩むように口を硬く閉ざす。
それを見て、詠志ははっきりとした確信が生まれた。この少女は、淡々と話を続けていたが、少なからず負い目を感じているのだろう。しかしだからと言って素直に納得できるほど、詠志は人が良い訳でも物分りが言い訳でもないのだ。
「一つだけ言っておくけど、おれはこの町に一週間しかいない。それを過ぎたらここを出て自分の家に帰る」
妃奈は視線を戻さない。追い討ちをかけるように、詠志は言い放つ。
「それにさ、ぶっちゃけると、君の言っていることが現実だとは到底思えない。いきなり神様とか言われても信じられる人間がどこにいる? 大半の人間は君のことを危ない人だと思うぞ。……譲っておれはそう思わないが、信じられるかと言えばはっきり否定する。それでも君はまだ、おれと契約していると言うのか?」
詠志の言葉に、妃奈の視線がゆっくりと上がる。
その瞳は、まるで助けを求めるかのように潤んでいた。一瞬だけ心が揺らいだがそれでも必死に押し止める。その手に乗るか、と詠志は思う。
「断る。それにイマイチ君の言っていることがわからない。契約してどうしろって言うんだよ。それにもし君があの殻神ってヤツと戦うんなら、おれは願い下げだ。何が楽しくて自分から死にに行かなくちゃならないんだ。君の間違いで命を捨てるほど、おれはお人好しじゃないんでね。だから、諦めて帰ってくれ」
自分でも、酷い言い方だと思った。
だけどそうでもしなければ、おそらく自分はこの話に乗ってしまうだろう。まさか妃奈の信じた訳ではないが、それでも放って置けば自分は必ず首を突っ込むだろう。妃奈のために何かできないかと少ない脳みそを活用させるだろう。自分は、少女の間違いで命を捨てるかもしれない、愚かなお人好しである可能性があるのだから。お前は将来詐欺師に引っ掛からないように神経を研ぎ澄まして生きて行かなければならないというのは、小学校の頃の担任に言われた言葉だった。
妃奈は一度だけ視線を外した後、潤んだ瞳を一喝させてすっと立ち上がった。真っ直ぐに、吹っ切れたという感じに詠志を見つめて小さく頭を下げた。
「わかりました。わたしの身勝手でしたね。非礼を詫びます。……もう逢うこともない契約者ですが、最後に貴方に一言だけ言わせてください」
見据える妃奈の瞳は、驚くほど澄んでいた。
「話を聞いてくれて、ありがとう」
それだけ言い残すと、妃奈はゆっくりと歩き出した。
畳の部屋を音も立てずに進み、胡坐を掻いて座っている詠志の隣を横切る。詠志は今、自分がどんな表情をしているのかさえわからない。無表情で押し通しているのか、それとも馬鹿みたいに笑っているのか、もしくは後悔に塗り潰された表情をしているのか。わからない、わからないのだが口が自然と震える。喉まで出かかった正体不明の何かが出てしまいそうだった。やめろ、と心の中の自分が警告を発したのをはっきりと感じた。
妃奈は最後に一度だけ立ち止まり、僅かに詠志に向かって頭を下げ、開け放たれていた窓から外に出ようと踵を返した。気配が遠のくその瞬間、詠志は過ちを犯した。
「――ただ、」
妃奈が動きを止め、詠志の背中をじっと見つめる。
待て、まだ間に合う。今すぐ何でもないと首を振って別れろ。何事もない一週間を過ごし、我が町へ帰れ。
意思とは別に、自分の口は言葉を紡ぐ。
「ただ、おれはここに一週間はいる」
だからお前はお人好しなのだ。将来絶対に詐欺師に引っ掛かってその身を地の底まで落とすのだ。お前には結婚詐欺がお似合いなのだ。女性に騙されるがオチなのだ。まだ、まだ間に合う。今なら訂正できる。だから、
黙れ。自分の意思を捻じ伏せる。詐欺師も結婚詐欺も上等だ。この身が地の底まで落ちるのなら、地獄の底からでも這い上がってみせる。所詮は一度きりの短い人生だ。一か八かに賭けるも楽しいのではないか。博打は苦手だが勝ってみせる。人生最初で最後の大博打。神も閻魔も上等である。この世で一番強いのは馬鹿であるはずだった。
自分は、驚くほどのお人好しだと思う。
詠志は後ろを振り返り、こっちを見つめている妃奈に笑いかけた。
「だから、それまででいいんなら契約者とやらになってやる。それでもし気が向いたら……夏休みの最後まで付き合ってやる。それが今のおれの精一杯の妥協案だ。受けるか蹴るかは君に任せる」
妃奈はしばらく言葉を発しなかった。何を考えているのかわからない無表情で詠志を見つめ、身動きせずにじっとしている。
窓から吹き込む風が妃奈の髪を舞わせ、山から盛大に聞こえていたセミの声が大きくなる。今更にこの部屋からは海が見えることを思い出し、巨大な太陽が半分以上水平線に飲み込まれていた。キラキラと輝く海はどこまで広くて、夕日の中を名前も知らない鳥が飛んでいる。
妃奈が笑ったように見えた。
朱色に染まったその中で、妃奈が確かに笑ったように思う。
幻想的な光景だった。巫女装束を纏った少女は夕日の中で佇み、無邪気に笑っていた。
やがて妃奈は歩き出し、詠志の前に正座で座る。その頃にはさっきまでの無表情に戻っていた。それが少しだけ勿体無いと思っていると、妃奈はまた頭を下げた。
「……ありがとうございます、詠志様」
急に照れ臭くなる。
「あ、いや。別に……。てゆーかその『様』っていうのやめてくれないか? 何だか落ち着かない」
その問いを返す妃奈は、嬉しいような懐かしいような、そんな表情をしていた。
「それが、奉り神であるわたしです」
自分は正しいことをしたと思う。間違いがあるとは思えない。
だから、詠志は笑った。
「まあいいや。取り敢えず、よろしく」
手を差し出すと、妃奈はその意図を理解して詠志の手を握り返す。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
太陽がゆっくりと傾き始めていた。
巨大な太陽が海に飲み込まれて行く。セミの声が聞こえなくなり、代わりに小さな虫のオーケストラが音楽を奏で始める。
毎年何も変わらなかった夏の一週間は、大きく変動しつつあった。
しかしそれでも、詠志は後悔しない。
奉り神である姫神、妃奈。
この一週間を、彼女と過ごそうと決めたのだから。
詠志の夏が動き出す。
この物語は、《彼女》に出逢い、そして始まった――。
「田舎町の神話」
釣りをしようと思った。
この姫之市に来たときに追加した予定の一つだ。祖父にその考えを話し、詠志が小さい頃に使っていた自作の釣竿を探してもらった。物置から引っ張り出されたそれは、竹の枝を切り取ってその先に釣り糸を結び、糸の先端に毛鉤を装着した典型的なものである。リールの付いた現代型もあったのだが、気分が出ると思って原始型を選択した。
片手に釣竿、片手にバケツを持って詠志は家を出る。照り付ける太陽のわりに気温は涼しく、森から聞こえる盛大なセミの声は大音量の音楽よりも心地良くて、海から漂う波の音は風鈴の音色に似ていた。麦わら帽子を被ろうかどうか迷ったのだが、自分には似合わないだろうということで却下される。大き過ぎる太陽を見上げ、やっぱりこの町は良い所だと詠志は思う。
釣りをする場所は、名もない石橋をもう少し上った所にある、流れが比較的に緩い渓流だ。この町は山と海が異様に近いため、淡水と海水の交わる位置がかなり曖昧だった。山から湧き出た水が姫之市に流れ、小さな小川を作り、畑を潤し、自然を育み、やがて海へと辿り着く。河口を見極めるが大変難しいのはその辺りが原因である。
詠志がやって来たのは周りを木々に囲まれた山の中だった。川の水は飲めるほど透き通っていて、そこを優雅に泳ぐ魚の輝きが宝石のように綺麗だ。太陽の光は木々の葉で遮られており、その隙間から射す明かりが小さなスポットライトのようだった。詠志は大きな石の上に攀じ登り、足を投げ出して腰掛ける。バケツを傍らに置いて釣竿に毛鉤が付いているのかを確認する。
釣りをするのは実に何年振りだろう。最後にしたのは確か小学校六年生の夏ではなかったか。あの頃の感覚を思い出し、リールも付いていない竿を振って毛鉤を飛ばす。水面に落ちると同時にゆっくりと沈み、川の流れに任せて本当の虫のように見せかける。あとはこのまま待つだけだ。餌で釣るならもう少しいろいろとやらねばならないが、面倒だった。だからこれが一番良い。
神経を竿を持つ手に集中させ、詠志は木々の隙間から空を仰いだ。耳に入るのは川のせせらぎとセミの声だけ。のんびりと過ごすこの時間がただ気持ち良かった。日陰になっているこの場所はそれだけで眠ってしまいそうなほど快適で、時折吹く風は詠志を深い睡魔へと導いているかのようだ。意識が虚ろになったそのとき、早速当たりがあった。糸が引っ張られ、竿の先が微かに揺れる。眠気を吹き飛ばし、詠志は竿の先を見据える。後は食い付くのを待つだけだ。じっとしていること三秒、唐突に声が聞こえた。
「こっちおいで」
その声が聞こえると同時に竿の揺れが止まり、何事もなかったかのように静止した。
詠志は声が聞こえた方へ視線を向ける。そこに、巫女装束を纏った少女がいた。奉り神である姫神、詠志と契約した妃奈である。妃奈は巫女装束の裾を手で摘まんで上げ、川の踝までしかない浅瀬に入っていた。そしてその肩には、一羽の緑色の小鳥が乗っていた。
不思議な光景だった。水面が美しく煌めくそこで、巫女装束を纏った神の少女が緑の小鳥と戯れている。時間の流れがそこだけは緩くなり、周りの空気自体が透き通っているように思える。小鳥の頭を軽く撫で、妃奈は本当に嬉しそうに笑っている。それは詠志が見た中で、最も幼い笑顔に見えた。
その光景を見て詠志も微かに笑い、視線を川へ戻す。次の魚が釣れるまで、少し物思いに耽ようと思う。
妃奈と契約して、今日で三日になる。その三日で何が変わったといえば、特に何もなかった。殻神も現れないし、世界はどこまでも平和だった。詠志がこの町に来た次の日、つまり妃奈と契約して二日目の昨日になる訳だが、時間があったのでいろいろと訊いてみた。大体はわかっていたのだが、さらに詳しく物事を追求してみたのだ。
そもそも、八百万の神との契約とは、一体何なのか。まずはそこからだ。通常、霊力の無い人間には神の姿は視えない。神が自ら姿を現せば話は別だが、ただ霊力があってもその力が小さければ視ることはできない。神を独自で視ようと思うのなら、半端ではない霊力が必要とのことだ。しかし一度契約してしまえば、契約者である限りは霊力の無い人間でも視えるらしい。そしてその契約とは何なのか。それは人間が神の力を必要とする際に、選ばれた人間が神下ろしをするときに交わすものである。神の力を必要とする際とはどんなときなのか、妃奈は簡単に教えてくれた。例えば、集中豪雨で町が水没しそうになったときや、感染病で町が死に絶えそうになったときなど、人間の力ではどうしようもなくなったときに神下ろし、つまりは契約をして、神の力を用いてそれを切り抜けるというものだ。
竿が揺れた。待つこと数秒、
「こっちおいで」
妃奈の声がして竿が静止した。
神下ろしをする選ばれた人間は、代表的に言うなれば巫女だった。霊力を持つ、心身共に清められた巫女が神と契約して町を救う。ただそれは無償で行えることではない。何かを成し得るためには代償が必要だった。人間は神の力を使って町を救うのと引き換えに、その契約した神が望むものを与えなければならない。神によって求めるものそれぞれだが、最も多いものがその人間の魂である。契約した人間の死後、その魂を貰い受ける。それが昔からの神と人間の関係だった。しかしここ数十年で人間は異様に進歩し、自ら町を救うまでに知識を得た。そして結果的に、それが人間の霊力を奪うことになる。今では神と契約する巫女どころか、神の姿が視える人間さえ殆どいなくなったと言う。妃奈が言うには、一五〇年前に契約した東仙雫という女性以降は、霊力を持った人間は見たことがないらしい。
竿が揺れた。待つこと数秒、
「こっちおいで」
妃奈の声がして竿が静止した。
しかし詠志と妃奈の契約は、神である妃奈自ら望んだことであり、代償は必要ないと言っていた。だがまあ、これで何か寄こせと言ってくるのはあまりに理不尽だろう。どちから言えば詠志が妃奈に何かを望む立場だ。そしてここからが、詠志の一番気になる所だった。なぜ、神である妃奈が人間の姿をしていて、しかも巫女装束など纏っているのか。その問いに、妃奈はこう答えた。曰く、「神に決まった姿はありません。ですが人間に視られたときの騒ぎを最小限にするためにこの姿を装っているだけです。神によって男性だったり女性だったり、子供だったり大人だったり老人だったり、それぞれです。それと、この服装についてはわたしが好きだからです」だそうだ。深く考えるのはやめようと思う。似合っていればそれでいいのだ。
竿が揺れた。待つこと数秒、
「こっちおいで」
妃奈の声がして竿が静止した。
もう一つ、堕神についてのことだ。一七二年前に堕神となった神、山海大山主。それからというもの、その堕神はこの姫之市を、そして姫神を自らの力にしようと狙い続けているそうだ。二二年間、妃奈は一人で堕神と戦っていたらしい。しかしそんなある日、一人の十歳にも満たない少女が妃奈の下へ現れる。それが東仙雫だ。その辺りは詳しく教えてくれなかったが、妃奈はそこで初めて人間と契約したと言う。それから十五年、妃奈は東仙雫と共に堕神と戦い抜いた。しかしそんなとき、堕神は東仙雫に憑いた。だから妃奈が殺した。そのときに負った傷を癒すのと失った力を取り戻すために、堕神は一〇〇年以上その身を隠している。時折妃奈を攻撃しに来るのは殻神だけで、妃奈が言うにはそれはただ居場所を知られたくないがため攪乱させようとしているだけだそうだ。だが最近ではそれが本格的な攻撃へとなってきていることから、力が回復しかかっているのか、もしくはすでに堕神は完全に力を取り戻しているのか。どちらにせよ、再び堕神と戦うのはそう遠くない。そのとき、妃奈はどうするのか、そして自分はどうなるのだろう。漠然とそんなことを思う。
竿が揺れた。数秒待つ前に、詠志は妃奈へ視線を向けた。
「――ところで妃奈。一つ訊いていいか?」
妃奈は不思議そうに詠志に視線を向ける。まだ肩に乗っていた小鳥が「ピピッ」と鳴いた。
詠志は言う。
「実はお前、さっきからおれの邪魔してないか?」
「してませんけど」
「――じゃあ、お前の足元に集まってるその魚は何だ?」
妃奈はわざとらしく視線を足元に向け、そこで泳ぐ魚を見つめる。それからまた視線が詠志に戻って来て、知らぬ顔で首を傾げる。
「わかりません」
わかりませんのはずあるか、と詠志は思う。
妃奈の足元には、数え切れないほどの魚が泳いでいた。さっきまで詠志の前の川を縦横無尽に泳いでいた魚の姿は全く見えず、代わりに妃奈の足元にはものすごい数の魚。しかもさっきから当たりが来ると同時に妃奈の声が聞こえて魚が逃げて行く。物思いに耽ていたせいであまり気にも止めなかったが、よくよく考えればおかしな話である。
何とも言えない心境になり、詠志は毛鉤を一時回収する。それから妃奈の足元、魚があふれ返っている場所へ向けて毛鉤を放る。
「バイバイ」
妃奈がそうつぶやいた瞬間、毛鉤が水面に落ちるより早くに魚は川へと散って行く。何もいない水面、妃奈の足のすぐ側に毛鉤が虚しく落ちる。
石の上に座ったまま、詠志はじっと妃奈を見据える。妃奈も立ったまま、じっと詠志を見据え返す。肩に乗っていた小鳥が空へと舞い上がると同時に、詠志の腹に確信が満ち満ちた。情けないため息を吐き出す。
「わかった、わかったよチクショウ。生き物殺すなって言いたいんだろお前は」
あれは確か妃奈と契約した夜の出来事だ。素晴らしいこの町だが、さすがに完璧と言う訳ではなかった。田舎町だからこそ、虫がうじゃうじゃといる訳だ。別に無害な虫なら詠志も放っておく。しかしその夜に現れたのは蚊だった。一匹や二匹ではなかった。大量発生だ。もちろん手で息の根を止めようとした。そしたら妃奈に怒られた。そりゃもう恐かった。だから今回もそれに似ているのだろう。今日釣りに行こう言っても、妃奈はあまり良い顔をしなかった。それはつまり、釣った魚が食われるからなのだろう。この町を守る神として、無駄な殺生を起こしてはならないというのはわかるのだが、これではあまりに窮屈である。魚釣りに来て魚が釣れないなんてのは無性に退屈で仕方がない。
釣るくらいならいいじゃないか、と詠志は思う。その考えを話したら、妃奈は真面目な顔で語り始めた。
「では詠志様は、釣られた魚の痛みを考えたことがありますか? 口に針が刺さり、逃げれば逃げるほど人間は楽しみ、その度に痛みが倍増し、何も考えずに素手で魚を触る。人間の手の体温でも魚にとっては高温だというのを知っていますか? ただの娯楽のために、なぜ同じ生き物である魚がそれほどまでに痛みを負わなければならないのでしょうか。わたしから見れば人間も魚も同じこの世界に生きる生き物です。ただ人間の方が優れていて知能が上なだけです。しかしたったそれだけのためになぜ痛みを負わなければならないのですか? 確かに人間が生きて行くために他の生き物を殺さなければならないのはある程度は仕方ありません。ですがたかだか娯楽のために命を奪うなどわたしは姫神として許すことはできません。それは契約者である詠志様とて同じです。この意味、わかりますか?」
結局は、詠志が折れた。折れなければ何をされるかわかったものではない。
毛鉤を回収して、何も入れなかったバケツを持って石の上から滑り下りた。妃奈の所まで歩んで行き、呆れたように苦笑する。
「いいよ、わかった釣りはやめる。そろそろ腹減ったから帰ろう」
妃奈は一瞬だけ無言になり、そっと川辺から上がった。それから上目づかいに詠志を見つめる。
自分の顔に何かついているのだろうか。詠志は顔を触ってみたが別に異常はない。それでも見つめてくる妃奈へ問いかける。
「どうした?」
妃奈はただ一言、こう言った。
「――ごめんなさい」
「あ? 何で謝るんだよ?」
居心地が悪そうに視線を外し、妃奈は小さな声で続ける。
「詠志様の楽しみを奪ったことは申し訳ないと思います。ですがわたしには……」
ああ、なんだそんなことかと詠志は思う。
「それなら気にすんな。坊主だって思えば何とでもなるし。いいから帰るぞ」
歩き出す詠志の背中を見つめ、しばらくしてから妃奈も歩き出す。
正直というか何というか、神とは皆こうなのか、それとも妃奈だけが特別なのか。他に神など視たこともないので比較はできないが、それでも何となく妃奈は少し違うんだろうなと思う。神が人間などと契約を結ぶというのは、おそらく余程のことなのだろう。人間が崇める存在を対等の場所まで引っ張り出すのだ。本当はもっと堅苦しい関係にならなければならないのではないか。だが別にそんな関係を望む訳ではない。どちらかと言えば今のままの方が気楽でいい。それに、一緒にいて楽しいと感じる。多少問題はあるにせよ、気にしなければ意味はないのだから。
山を下り、詠志は畑が広がる場所へと帰って来た。携帯電話を家に置いてきたのではっきりとした時刻はわからないが、釣りに出掛けたのが朝の九時過ぎだったはずだ。あれから二時間ほどしか経っていないはずだから、十一時頃だろう。畑には農作業をしている人がちらほらと見受けられた。年寄りが多いが、稀に二十代前半の若者が畑を耕しているのを見かける。珍しいと言えばそうなのだが、この町ではそれが当たり前なのかもしれなかった。
周りから見たら、詠志は一人で歩いているはずだ。しかし現実には、隣に妃奈がいる。妃奈は普通の人には視えない。実験してみたところ、妃奈は鏡にも写らなかった。ただ詠志が妃奈に触れることはできるし、何かを持つことだってできる。だが妃奈が視えている詠志にしてみれば普通の光景でも、他人から視れば異様な光景に違いない。なにせ物が宙に浮かんでいるように視えるはずなのだから。神様といっても、まるで幽霊みたいな存在だった。時折、自分は神ではなく幽霊に憑かれたのではないかと思うときがある。もちろんそんなことを妃奈に向かって言ったことはない。反応が恐いのであくまで心の中でそっと思っているだけである。
太陽の下を歩き続けること数十分、天野家に到着する。竿とバケツを玄関に放り出し、どつけば簡単に壊れそうな玄関を開けて中に入った。ただいま、と言う前にちょうど祖父が廊下に出ていて、詠志が手ぶらなのを確認すると実に楽しそうに笑った。
「その様子だと、坊主だったようだの?」
詠志は苦笑する、
「まあね。神様に邪魔されたから」
横目で妃奈を見ると、申し訳なさそうな、不満そうな、そんな表情をしていた。
祖父は不思議そうに詠志を見たあと、ようやく理解して盛大に笑った。
「そうかそうか、神様に邪魔されたんならしょうがねえわな。おう、もうすぐ飯の準備出来るからシャワーでも浴びて来い」
「ん、わかった」
廊下を歩き、詠志の荷物が置いてある部屋へ向かう。
バックの横に座り込んで中身を漁る。適当な着替えを探し出し、立ち上がろうとしてふと視線を向けると、妃奈が真剣な表情で窓の外を見ていた。ただならぬ雰囲気があった。まさか――、そんな不安が過ぎり、声をかけようとすると先に妃奈がこちらを振り返った。
言葉に詰まった詠志を見据え、妃奈は無表情に言う。
「どうしたのですか?」
「あ。いや、」
勘違い、だったのだろうか。
「何でもない。シャワー浴びて来るからここで待ってて」
「はい」
肯く妃奈を横目で見ながら、詠志は風呂場へ向かう。
気のせいだったのだろうと、無理矢理自分を納得させた。それにしても神とは不思議なものである。昨夜、詠志は妃奈に「お前、風呂とか入らなくて良いのか?」と訊いてみたところ、返答は「必要ありません」だった。神であっても見た目は女の子だ、身嗜みを整えるくらいした方が良いのではないか。そう訊くと、妃奈は机の上にあったボールペンで自分の手の甲に黒いインクを引いた。それから詠志に向けて視線を送ると同時に、黒い線が光に包まれて消えた。そこにあったのはそれまでと変わらない白い肌だけだった。妃奈が言うには、自分で意識すれば体などすぐにでも綺麗にできるらしい。風呂要らずなのだが、素直に羨ましいと思えないのは詠志だけだろうか。
そんなことを思い起こしながら、詠志は脱衣所で服を脱いだ。祖母の家は全体的に古臭い。しかし浴槽だけは別で、年寄りに残された最後の娯楽だと言いながら祖父が業者と共に改造し、風呂場には最新鋭の技術が導入されていた。田舎の家の風呂にジャグジーがあるのは夢を少しばかり壊す光景であるが、使う側としては快適だった。釜風呂だと雰囲気はあるが実際に入りたいとは思わないのが本音である。
シャワーのレバーを押し込み、降り注ぐ微温湯に身を委ねる。
シャワーの水が鼻に入って詠志が咽返しているその頃、一人部屋に残されていた妃奈は窓の側に佇んでいた。
目を閉じ、神経を研ぎ澄ます。居る、と妃奈は思う。遠過ぎて正確な位置までは掴めないが、ここから東の方角で殻神が動いている。目的も無しに彷徨っていることから、妃奈を捜しているのであろう。おそらく、すでに向こうは妃奈が人間と再び契約したということを知っているはずだ。だがしかしその居場所まではわかっていない。だからこそ殻神を出鱈目に動かして誘き出そうとしているのだろう。
どうするかと少しだけ悩む。しかし結果はすでに見えていた。自分の現契約者は戦う術を知らない。だからこそ、自分一人が戦わねばならない。できるなら、詠志には知られずに。知られたら、詠志はどうするだろうか。すぐにでも我が町へと帰ってしまうのだろうか。それが嫌だった。詠志個人に特別な感情を抱いている訳ではない。そうではなく、契約者に対して特別な感情を抱いている自分がいる。
雫が教えてくれたことだった。雫といると楽しかった。だからこそ、詠志といても楽しかった。二人はどこか似ている。自分を神として見ないところとか、まるで自分が人間のように接してくれることとか。普通はそんな関係は許されない。人間は神の前では平伏すもの。だがそれを覆したのは、雫だった。自分の心が動かされたのだ。だからこんな関係が続いている。
そして妃奈は、この関係が好きである。人間といると楽しい。雫以外に心を許せる人間などいないと思っていたが、最初が雫だったからこそ、詠志に対しても心が開けるかもしれない。それにはまだ時間が必要だが、現に自分は馴染んでいる。
だから、好きなのだ。
だから、この関係を壊したくはないのだ。
妃奈は目を開ける。決まった。目の前の窓を開け、妃奈は跳ぶ。一度目の跳躍で塀を飛び越し、二度目の跳躍で高々と舞い上がった。信じられない速度、信じられない光景。詠志が見たらそれだけで言葉を失くすような異様で、そして美しい姫神の姿。風を裂き、妃奈は殻神の気配を追う。
こうやって、詠志に黙って殻神と戦うのはこれで二度目だ。一度目は契約したあの日の深夜。あのときの殻神の数は五体だった。が、あれは昼間に三七体の殻神を倒していたからだ。今日は一体、何体いるだろうか。気配は一体だけであるがそんなはずはない。一体だけで勝てると思うほど、堕神は馬鹿ではない。一桁の殻神など何の意味も成さないことを理解しているはずだった。
――そうなのでしょう、淘魔(とうま)。
それは山海大山主が堕神へと身を落とした際に現れた意識。人間の負の感情に塗り潰された瞬間にあふれ出た暗く忌まわしい闇。堕神、山海大山主の変わり果てた姿、それが淘魔。雫に憑いた、あの堕神だ。
四度目の跳躍で、妃奈は見つけた。地面色に変色し、動いている異形を。
空中に舞ったまま右手で標準を定め、左手で固定する。
妃奈は詠う。
「真術・風の句・二節――《迅壊(じんかい)》」
刹那、妃奈の右手から一陣の衝撃波が生まれる。
それは一陣の刃。触れれば何もかも切り裂く突風。
それが真上から、殻神の胴体を切断した。土の地面が一線に抉れ、殻神が風化して行く。その場に妃奈が着地すると同時に、辺りの光景が一気に歪んだ。まるで異次元にでも迷い込む前兆のように視界が歪み、気づいたときには周りに殻神の壁が出来上がっていた。妃奈は瞬時にその数を確認する。
一八体。少ない。ただの小手調べなのか、それとも何か裏があるのか。だが関係ない。すべて風化させるだけだ。時間はあまり無い。だったら、一撃で決める。
両手を地面に当て、妃奈はまた詠う。
「真術・土の句・八節――《砂塵鏡(さじんきょう)》」
地面がぐらりと揺れた。地震にも似たその中で、殻神達はバランスも崩さずに中心にいる妃奈へと容赦無く腕を振り下ろす。
そんな馬鹿正直な攻撃で傷を負わそうなど不可能だった。揺れが収まった瞬間、何かが地面から突き出た。簡単に例えるなら、土で構成された棘のようなものだった。それが妃奈に一番近い殻神を串刺しにすると、次の獲物を仕留めるべく活動し始める。一瞬だった。人間ならば瞬きをするほどの時間で、その棘は何十本にも枝分かれし、一八体すべての殻神を串刺しにした。
静寂の一秒が過ぎたとき、棘が消え殻神が風化して行く。その中で妃奈は立ち上がり、すっと一点を見つめる。ここからかなり離れた森の中腹だった。そこをじっと見据え、気配が消えたと妃奈は思う。先ほど僅かだったが確かに強い気配を感じた。殻神ではない。おそらく――
そして、考えるよりも早くに、妃奈は地面を蹴った。四度目の跳躍の後、辿り着いたのは窓が開けっ放しになっていた一軒の家。窓から中に入り、慌てて正座した瞬間、タオルを肩に巻いた詠志が姿を現した。
「悪い、待たせた。飯食いに行くからお前も来い」
何事もなかったかのように、妃奈は肯く。
「はい」
立ち上がり、詠志の後を追う。
良かった、気づかれていない。まだ早いのだ。
まだ、気づかれてはならない。
もう少しだけ、このままでいたかった。
そう、もう少しだけ、このままで。
◎
姫之市の夜に、街灯など必要なかった。
嘘のような月明かりだけで視界が十二分に保てる。都会ではまず在り得ない光景だった。雲一つ無い夜空に漂う月は太陽に負けないくらいに大きく静かに明るくて、それに比例して星は満天に広がり、宇宙の広さについて深く考えさせる。
詠志はそんな夜空の下、縁側に座ってスイカを食っていた。耳に届くのは昼と変わらぬ波の音と、セミに代わって鳴く鈴虫の音色だけである。普段なら騒音だと思えるようなその鳴き声も、今はただ純粋に清々しかった。手に持っているスイカは美味くて、まるで空に浮かぶ半月を手にしているかのような感覚。どこへでも行けそうな開放感があった。
詠志の隣には妃奈が座っていて、同じように夜空を見上げている。月明かりに照らされた妃奈の横顔は、人間とは到底思えないほど神秘的だった。そりゃ人間じゃなく神様だし、という当たり前の指摘は今は論外である。気分が壊れる。
スイカに噛ぶり付き、甘い味を堪能して種を庭に吐き出す。小さな頃はその種が芽を出すものだと本気で信じていた。もしかしたら出るかもしれないが、詠志の知る限りで吐き捨てたスイカの種が芽を出したという事例は聞いたことがない。しかしもし本当に芽を出したらこの庭はスイカ畑になってしまうのだろうと子供みたいなことを思う。
ふと唐突に、こっちを向いている妃奈の視線に気づいた。
「妃奈も食う?」
スイカを少しだけ上げて訊ねてみたのだが、妃奈は首を振った。
「いいえ。わたしは食べれませんから」
またスイカに噛ぶり付きながら、
「前から訊きたかったんだけど、人間の姿してんのに何も食べれないのか?」
妃奈は視線をまた夜空に向け、なぜか少しだけ楽しそうに言葉を紡ぐ。
「この姿を装っているだけで、中身はわたしたち、八百万の神です。食べることができるのなら必然的に空腹を感じます。神様が空腹で倒れる、なんて格好悪いじゃないですか」
そりゃそうか、と詠志は種を吐き出しながら思う。
道端で行き倒れてたのが神様で、その理由が空腹だとすれば物語的には楽しいが現実的に見れば幻滅である。しかし腹が減らないというのはある意味羨ましいが、ある意味悲しい。なぜなら、こんなに美味いスイカを食えないのだから。
「でも何かは食べるんだろ? 体を維持するために、とかそんな感じで」
意外な質問です、とばかりに妃奈は詠志を見つめ、言葉を探しながら答える。
「そう、ですね……。強いて言えば、太陽の光とか、空気とか。そんな感じでしょうか」
「何だか植物の光合成みたいだな」
「みたいですね」
何が楽しいのか、二人揃って笑う。
一通り笑い終わったとき、詠志は手に持っていたスイカに食べる箇所が無くなっていることに気づいた。妃奈とは反対側にある皿の上にスイカを置き、布巾で手を拭く。それから精一杯に背伸びをして後ろに倒れ込む。屋根に隠れてちょうど月が見えなくなった。空と海が交わる水平線をぼんやりと眺め、吹き込む風に身を任せる。しばらくそのままでいると、妃奈も詠志のようにそっと後ろに体を倒した。
少し考えれば、それは不思議な光景だった。月の明かりが照らすそこで、平凡なただの高校生と、巫女装束を守った神の少女が、似たように寝そべっている。
何も変わらずに過ぎ去ると思っていた一週間。毎年同じように祖母の家で一週間を過ごして帰って行くその風習。それが、今年の夏は大きく変動していた。神との契約という、実に漫画染みたことに巻き込まれ、挙げ句の果てには堕神を倒すというファンタジーのような展開に発展しつつある。詠志は水平線を見据え、鈴虫の音色を聞きながら、漠然とこれは夢ではないかと思った。何もかも夢なのではないか。自分は脱水症状でぶっ倒れ、今現在も眠っているのではないか。その中でぼんやりと夢の中を漂っているだけなのではないか。世界は一ミリたりとも動いてはおらず、自分の時間も止まっているのではないか。ふと気づけば、隣の少女はいなくなっているのではないか。
これは、夢なのではないか。
自然に視線が向かっていた。隣に寝転ぶ、一人の少女。巫女装束を纏い、肩までの長さの髪が床に広がり、月に照られたその表情はすごく幼く、しかし詠志などでは到底想像できない永い年月を生きている。この姫之市に奉られた神、姫神。これは果たして現実なのだろうか。自分は、本当にここに存在しているのだろうか。
そんな詠志の心情を察したかのように、妃奈がゆっくりと口を開いた。
「……時々、思うんです。これは、夢なんじゃないかって」
まさか心の中を読まれたのではないかと少しだけ焦り、詠志は慌てたように言う。
「え、あ、ああっと。……ゆ、夢っ?」
「はい。神であるわたしが人間と対等に過ごしている。ですがわたしはその関係が好きです。だからこそ不安になる。これは本当に現実なんだろうかって。これは夢なんじゃないかって」
妃奈は静かに、夜空を見上げたまま言葉を紡ぐ。
「わたしは何千もの時の中を一人で過ごしてきました。ずっと昔から、わたしはこの町を知っています。小さな変化はあるにせよ、この町はいつまでも変わらない。昔のままの光景で残っている。それを見ていると、まるで自分が夢の中にいるみたいに思えるんです」
それから少しだけ寂しそうに笑い、詠志に視線を向けて言った。
「――神様がそんなこと思ったら、やっぱりおかしいですね」
その視線を真っ直ぐに見据え、詠志は思う。
やはり、妃奈は普通の神とは違うのだろう。確証はないが確信があった。そしてそんな神と契約した自分は、どうするのだろう。
妃奈から視線を外し、目を瞑る。当初の約束では、自分はあと四日でこの町から出て行く。しかし気が向いたら夏休みの最後まで付き合ってやると提案した。あれからそのことについて詠志は触れていないし、妃奈からも触れてこなかった。ただこの三日を過ごしただけだ。自分はどうするのだろう。あと四日でこの町から帰るのか、それとも夏休みの最後までここに残るのか。だがもしここに最後まで残っても、すべてが終ったときに一体何が残るというのだろうか。そもそも妃奈と契約したその意味が、詠志には無いのだ。妃奈の力を借りる必要も無いし、妃奈に何かを与える必要も無い。殻神という化け物に対抗できる術を自分は持っていないし、妃奈から見れば自分はただの足手纏いでしかないのではないか。そんなことを思う。
妃奈の今の目的は堕神、山海大山主を消滅させること。それに詠志の力は必要無い。仮にもし詠志が何かの役に立ち、堕神を消滅させたとしよう。だがそのあとに残る物とは一体なんだ? 学校が始まったら嫌でも詠志はここから帰らなくてはならない。そのとき妃奈はどうするのか。契約はどうなってしまうのか。契約が続いている場合、わたしは常に契約者である詠志様の近くにいます、と妃奈は言った。だがこの町に奉られている姫神が、果たしてこの町を離れられるのだろうか。詠志と共にこの町を出れるのだろうか。もし無理だとするなら、契約はどうなってしまうのか。
答えが見つからない自問自答を繰り返す。訊けば何もかもわかる気はする。が、どうしてか訊く気にはなれなかった。訊いてしまえば、この関係が崩れてしまうような気がする。それが、なぜか無性に嫌だった。答えは、永久に出て来ないのかもしれなかった。
「あーもう、くそっ!」
突然に詠志はそう吼えて上半身を起こした。それに隣の妃奈が驚いたように詠志を見つめる。
ばっと振り返り、妃奈を見た。ただ一言、こう言い放つ。
「寝るっ!」
きょとん、とすること二秒、妃奈がゆっくりと起き上がって肯いた。
「はい。おやすみなさい」
「おやすみ!」
立ち上がって踵を返し、寝室の畳に敷かれた布団の上に仰向けに倒れ込んだ。
枕の近くに置いてあるはずの携帯電話を手探りで探し出して目の前に持って来る。ディスプレイで時刻を確認するとまだ八時半だった。我が事ながらやはり情けない。高校二年の健康な男児が夏休みの半ば、しかも夜の九時にも満たない時間に寝るとは何事だろう。もちろん眠気など一切無いし、目を瞑っても睡魔はやって来ない。
寝る、と言った手前今から縁側に戻るのも気が引ける。詠志は音を立てないでそっと姿勢を変え、まだ縁側に座っている妃奈の背中を視界に収める。月明かりが、まるで妃奈の体を光らせているようだった。今にも妃奈がその光に溶けて消えてしまいそうな不安に駆られた。喉まで言葉が出かかり、それを無意識に押し止めていた。
波の音と鈴虫の音は鳴り止まない。それ以外は何も聞こえない静寂があった。祖父と祖母はもう寝てしまったのだろうか。年寄りは就寝が早く起床も早いと聞いたことがある。あれは本当なのかと少しだけ疑問に思う。
妃奈の背中から視線を外し、天井を見上げる。同じように続く木目を数え、詠志は耳を澄ました。都会の夜とは大違いだ。人の声や車の排気音、トラックがバックする合図に原チャリのセルモーターの回る音、パトカーと消防車のサイレン、コンポから大音量で流れる人気アイドルユニットの新曲、下手糞が引くギターの音。ここでは、詠志が毎日耳にしてたものが一切聞こえなかった。聞こえるのはやっぱり波と鈴虫の音だけだ。
どこかの木でボケたセミが一節だけ鳴いた。
一体、どれだけの時間をそうしていたのだろう。訪れた睡魔に思考が塗り潰されそうになったとき、その声を聞いた。
「――雫様、」
意識が睡魔の中を漂う、
「そっちは楽しいですか? 天国は、居心地が良いですか?」
彷徨っていた意識がゆっくりと浮上する、
「あれからまだ少ししか……いえ、雫様から見ればもう一五〇年も経っていると思うのでしょうね。でもわたしから見れば少しです。人間の寿命は短過ぎる。だからこそ楽しいのかもしれませんね。わたしのように永く生きていても、楽しい時間はほんの僅かしかありませんから」
いつの間にか閉じていた瞼をゆっくりと開ける、
「その楽しい時間を与えてくれたのは雫様、貴方です。何もない、空っぽだったわたしに何もかも与えてくれた。たった数年で、貴方はわたしにすべてを教え、そして与えてくれたんです。感謝しています。そしてもう一つ、感謝しなければならないことがあります」
妃奈が嬉しそうに微笑んだのがわかった。
「貴方の御かげで、わたしは詠志様に出逢うことができました。貴方の御かげで詠志様と契約することができました。貴方のときとは違い、詠志様と居られる時間は僅かです。だから、わたしはその時間を楽しみたいんです。雫様が教えてくれた、このわたしの心で。……やっぱり、神様がそう思うのはおかしいのでしょうか? でも貴方なら、そんなことないと笑い飛ばしてくれるのでしょうね」
最後に、夜空を見上げ、妃奈は言う。
「雫様。貴方は今、幸せですか……?」
開けっ放しになっている窓から、一陣の風が舞い込んで来る。
詠志は布団の上にゆっくりと起き上がり、静かに胡坐を掻いた。じっと妃奈の背中を見据え、詠志は拳を握る。
口は意識せずとも、言葉を紡いでいた。
「……一人でいるのって、やっぱり辛いのか?」
え?、と妃奈が振り返る。
「……詠志様。起きていたのですか」
座ったままで、詠志はもう一度同じ言葉を口にする。
「一人でいるのって、やっぱり辛いのか?」
妃奈は無言になる。じっと詠志の顔を見つめ、やがて視線が外れる。詠志に背を向け、妃奈は夜空に浮かぶ半月を仰いだ。
巫女装束を纏う神の少女は、幸せそうな表情をしていた。
「雫様と出逢う前はそんなことを考えることも感じることもありませんでした。考える必要も感じる必要もなかったからです。でも、雫様が教えてくれた。人間と関わるそのぬくもりと優しさを。わたしはそのぬくもりが好きです。そこからわたしの考えが変わったのかもしれません。この町が、この町に生きとし生けるものすべてがわたしの一部であり、そして家族です」
一瞬だけ言葉を切り、妃奈は続ける。
「雫様がいなくなったときは……正直、辛かったです。ですが情けない顔はしていられません。そんな顔をしていたら雫様に怒られてしまいます。だからわらたしは、笑うことにしたんです。彼女がくれた、この笑顔を見せてあげようと思ったんです。彼女がいてくれたからこそ、今のわたしがあります」
――わたしは今、幸せです。その言葉をつぶやいた妃奈は、詠志をそっと振り返った。
「それに、今は詠志様もいてくれる。だからわたしは、幸せなんです」
そう言って微笑んだ妃奈の瞳は、とても澄んでいた。
不思議な光景だったに違いない。神様と人間が、たった六畳半の部屋の中で、話しをしている。
人間は神様へ「辛いか」と訊く。神様は人間に「幸せ」だと言う。
窓の外から風が吹き込み、それに乗って波の音と鈴虫の鳴き声が舞い込んでくる。
田舎町での、神話のような出来事。
それは、不思議な光景だったに違いない。
「蛍のように」
それは、奉り神である姫神と、一人の少女の、遠い昔に起こった語られることのない物語。
誰も知らぬ、二人だけの物語。世界の中の、一つの物語。
その日は、小さな小さな白い雪が、灰色の空に沢山、舞っていた。
◎
雪が降り始めたのは、確か明け方頃だったはずだ。昨夜から気温が一気に低くなり、空を黒い雲が覆い、無風のその中で今年最初の冬が訪れた。
灰色に染まった空から、冷たく、そして儚い冬が舞い降りてくる。一つ一つの塊が小さく、地面に落ちればすぐに溶けて消えてしまう。それでも雪は諦めずに空から舞い降りてくる。この地に冬を伝えようと、その身を削りながら降りてくる。
神社の境内にある石畳に佇み、巫女装束を纏った少女が一人、両腕を広げて雪を見上げていた。深々と降る雪の中で、少女は無表情に両手を広げて佇んでいる。その姿は、大凡人間では考えられないほどに美しい光景だった。しかしそれもそのはずだ。彼女は、人間ではないのだから。彼女は、この神社に奉られている神、姫神なのだから。
姫神は何もせず、ただ灰色の空を見上げている。無表情なそこから何を考えているのかは皆目検討もつかない。雪は積もることなく、ずっとずっと振り続けている。まるで世界を、このまま凍りつかせてしまうかのように。
一体どれだけの時間が流れ、一体どれだけの間そうしていたのだろう。
姫神の視線がふっと下がる。見ているのは、境内から続く石段だった。気配がするのだ。そこから、人間がここに向かって上がって来ている。ただその人間は少しだけ厄介だった。人間では考えられないほどの霊力を、無意識に垂れ流しているような感じがする。制御の仕方を知らないのか、それとも制御できないのか、または単なる馬鹿なのか。たがこのままこれほどの霊力を漂わされては迷惑この上ない。もし邪魔なようなら、この世から消えてもらうより他になかった。姫神はその場を一歩も動かず、じっと石段を見据える。
雪が降り注ぐその中で、石段を上がって来たのは、十歳にも満たない小さな少女だった。異常だと言うなら、そうなのかもしれない。少女の服はボロボロに裂け、全身に大量の返り血を浴び、頬には涙の筋に沿って血が下に流れているような痕がある。そして、この霊力を漂わせているのは間違いなくその少女だ。それが姫神の疑問だった。これほどまでの霊力を人間が持っているなど見たことも無いし聞いたことも無い。無意識にあふれ出させていることで考えられる可能性は一つ、おそらく少女の内に秘められていた霊力が何かの拍子で抉じ開けられ、膨大な量があふれ出しているのだろう。ただ、その量は人間では考えられない。異常とは、まさにそれだった。
少女が何者なのかを知るべく、姫神は真っ直ぐに見据える。少女は境内に立ち入り、そこに立っている姫神の姿を視界に収めた。やはり、これほどまでの霊力があるなら姿を確認されてしまうのは必然なのだろう。
少女は小さな拳を力一杯握り締め、口を開いた。
「……あなたが『姫神』なの?」
姫神はあくまで無表情だった。
「だとしたら?」
少女は言い切る。
「わたしと、『契約』して」
この少女は何か勘違いをしている。子供のお遊びで人間と契約するなど馬鹿過ぎるが故に話にならない。
「断る。貴様のような子供と契約して、わたしに一体何の価値がある」
「かちなんてない。だけど、わたしはあなたと『契約』したいの」
少女は真剣な瞳で姫神を見つめる。この歳の子供にしてみれば、まず不可能と思われる瞳をしていた。何もかも決め、ここにいる。そんな覚悟が見て取れた。この少女の服はなぜボロボロに裂け、この少女はなぜ返り血を浴びていて、この少女はなぜこれほどまでの霊力を持っているのか。この少女にこの瞳をさせるその真意とは何か。醜い人間がこの瞳をするときは限られている。それは、【世界】を知ったときだけだ。
そして少女は、この歳でそれを知っている。面白い、と姫神は思う。
「貴様がわたしと契約を結びたいと思うその理由は何だ?」
その問いを向けたとき、僅かに少女の目に涙が溜まり、それを慌てて拭き取りながらはっきりと言った。
「『堕神』をたおしたいの……っ」
堕神――この辺りでそこまで身を落とした神は、山海大山主だけだ。姫神が二二年前から現在も戦っている堕神である。なぜ人間が堕神を倒そうなどと不可能なことを思うのか。
その答えを、少女は口にする。
「父上と母上が『堕神』にころされたの……。だからわたしが『堕神』をたおすの」
――下らぬ。
興醒めしたかのように露骨に視線を外し、姫神は少女に背を向けて歩き出す。
一瞬でも期待した自分が酷く哀れに思えた。なぜ人間とはこうも醜い生き物なのだろう。親類が殺され、その犯人が自分の手に負えない堕神だとわかるとすぐに私利私欲のために神と契約などという愚考に辿り着く。同胞殺しに明け暮れる毎日を過ごす人間と契約など神の名が汚れるだけだ。人間と契約する神の気が知れない。一体人間の何を見てそのような行為をするのか、全くわからない。吐き気がする。
この少女も他の人間と何一つ変わらない。自分の霊力が異常なことを棚に上げ、この神社まで立ち入った。そしてあろうことか姫神に向かって契約しろと言い放つ。虫唾が走る。こんな小さな子供ですら殺意を抱き、私利私欲のために神と契約をしようと考える。人間とは、どこまでも醜く汚い生き物だ。結局は自業自得だろう。堕神が少女の両親を殺したのは、おそらくただ巻き込まれただけだ。堕神の本当の狙いはこの少女だったに違いない。大方少女の膨大な霊力が詰まった魂を喰らい、自らの力にしようとして取り逃がしたのだろう。殺意の源はそこだ。目の前で両親の首を飛ばされたか胴体を引き千切られたか。そんな光景を目の当たりにして、敵討ちでもしようと愚かしいことを思い立ったのだろう。
沢山だ。人間などと関わりたくもない。原則としてこの町は自分が守らなくてはならないのだが、しかしそこに生きている人間がどうなろうと知ったことではなかった。堕神に殺されたければ殺されればいいのだ。そっちの方が世のためだ。他の動物達が無意味に苦しむ必要もなくなる。自分が堕神を倒す前に、この町の人間など皆殺しにされてしまっても別に何も感じない。人間などに、生きる価値はないのだから。
歩く姫神の腕を、少女が引っ張った。
「まって! おねがい、わたしと『契約』してっ!」
「何度も言わせるな。今すぐにでもここから立ち去らなければ貴様を殺す」
「だったら、わたしをころしてもいいから、『堕神』をたおして……っ!」
ピタリ、と姫神の足が止まる。腕にしがみ付いていた少女がその背にぶつかる。
「……一つだけ訊こう。貴様が堕神を倒したいと思うのは、両親の敵討ちのためか?」
鼻をぶつけたのか、少女はそこを摩っていた。それから涙の溜まった瞳を真っ直ぐに向け、少女は言う。
「ちがうっ。わたしのようなこどもをださないためにたおすの……っ!」
――ほう。良い瞳をするではないか。
無くなったと思った興味が少しだけ湧き上がる。私利私欲のためではなく、人のために神と契約しようとしているのだ。子供の純粋な気持ちがそう思い立たせたのだろうか。その言葉を本心で言った人間を、今までに見たことがなかった。それを確かめる必要がある。神は人と対峙する。
姫神は少女を見下げ、少女は姫神を見上げる。雪は降り続けていた。
少女の瞳は真剣だった。一片の曇りもない。先の言葉はやはり本心から出されたものなのだろう。親を殺した堕神を敵討ちで倒すのではなく、自分と同じ境遇の子供を出さないために堕神を倒す。この少女がどうやって堕神の手から逃れたのかは知らない。しかしここに来る道中、少女は何を思っていたのだろう。憎しみはなかったはずだ。諦めでもない。それは、一縷の希望だったのかもしれない。
【世界】を知ってもなお、こういう瞳をできる人間がいるなどとは正直驚いた。が、だからと言って契約をするかどうかと言えばそれはまた別問題だった。人間は嫌いである。どの道自分の手で消滅させなければならない堕神を、なぜ態々足手纏いを増やしてまで少女と共に倒さなければならないのか。それならば一人で戦った方がずっと楽である。確かにこの少女の霊力は半端ではないが、しかし実際はそれを操るだけの力量はないし、そもそもそれは人間で考えての多さであり、神や堕神に比べれば無いも同然だった。所詮は神と人間は交わるべきではない関係なのだ。この少女の瞳に興味はあるが、もはや関係のないことだった。
死に急ぐこともあるまい。少女は人間の世界で、人間と暮らせば良い。堕神を倒すのは自分の仕事なのだから大人しくしていろ。姫神は少女にそう言おうとした。だが、言えなかった。
唐突だった。境内の石段から、殻神が姿を現した。一体だけではない。周りにも居る。いつの間にか神社自体が殻神によって包囲されていた。すぐにはその数を把握できない。そのままで対峙していたのは、ほんの僅かな時間だけだった。何が合図になったのか、殻神が一斉に地面を抉って空に舞い上がった。空中で塊となったそれは、姫神と少女に黒い隕石のように突っ込んでくる。
なぜ気づけなかった――?
これほどまでの数の殻神の接近を気づけないはずはない。しかし気配は一切感じなかった。その疑問は、目の前の少女を見て氷解した。この少女が漂わせる膨大な霊力のせいで、感覚が狂っていた。それにさえ気づけなかった自分は本当に愚かだった。
悪態を吐き捨て、真術を発動させようと腕を上げたそのときには、黒い塊はもはや目前だった。
間に合わない、その言葉が頭を過ぎった瞬間、声が聞こえた。
「『縛道(ばくどう)の壊――《破戒刹(はかいせつ)》』」
その言葉が引き金となり、辺りに漂っていた膨大な霊力が一瞬で凝縮する。一点に凝縮されたその力は、真術と同等の威力を持っていた。そしてそれは、真術よりも速く確実に獲物を破壊する。
霊力が凝縮した場所は、塊と化している殻神の中央だった。外側から壊すのではなく、内側からそれは炸裂する。
内側から霊力が爆発し、殻神が一斉に弾けた。爆風が姫神の横を突風のように突き抜ける。殻神は地面に落ちてから風化するのではなく、空中ですでに風化していた。灰が雪と混ざって地面に降り注ぐ。漂っていたはずの霊力が完全に無くなっていた。姫神は言葉を失くし、呆然と目の前の少女を見据える。
少女は何もせず、先ほどまで殻神がいた空中を見上げていた。
姫神は、やっと少女の言った言葉の意味を理解する。
「貴様……まさか東仙一族の末裔か……?」
《縛道の壊》。
それは、人間が堕神へと対抗するために作られた唯一の術。もはや失われたと思っていた秘術だった。産まれ付き人間の中では群を抜いて霊力が高い一族がそれを生み出したと聞く。その一族が東仙。これでようやく合点がいった。この少女の異常なまでの霊力の高さ。東仙一族の末裔ならば、これほどの霊力があっても納得できる。もっとも、ここまで高い霊力を持った者は見たことがないのだが。言うところの、天才なのだろう。
少女は無表情に姫神を見上げ、僅かに肯いた。放心しているようにも見える。おそらくこの少女は自分のしたことの重大さを全く理解していないのだろう。人間でありながら殻神をあれ程までに容易く殲滅させるなど、まず不可能な芸当だった。歴代の東仙一族でも一人に付き三体程度を相手にしてやっとだろう。それなのに、この少女は十にも満たないその歳で、神でさえ躊躇った数と攻撃を一瞬で破壊した。しかも言霊を乗せずにあの威力を出している。もし縛道の壊を完全なものにすれば、この少女は必ずや化けるはずだった。
姫神は高らかに笑う。この世に奉られて初めて、共に戦いたいと思う人間と出逢った。
「貴様、名を何という?」
少女はまだ呆然としたまま、小さくぽつりと答えた。
「……東仙……雫……」
姫神は満足そうに肯き、灰色の空を見据えて言い放つ。
「聞こえるか堕神! 今この瞬間を持って、この少女はわたしの契約者となった! わたしに許可無く触れることは許さん! 心せよ。わたしの契約者は、必ずや貴様を倒すために化けるだろう。わたしがすべてを教える。そのときまで残り僅かな時間を過ごすが良い! 覚悟しておけっ!」
「――じゃあ……?」
見上げる少女に、今度は姫神が肯く。
「契約しよう。約束だ。この瞬間より、わたしがお前を守ってやる」
「……う、うんっ」
ポロポロと、小さな涙を流し、少女は笑った。
「契約の代償を言う。もしお前が堕神に憑かれたらわたしがお前を殺す。逆にわたしが堕神になったのならお前がわたしを殺せ。良いな?」
強い意志を持ち、少女は肯く。
姫神はふっと表情を緩め、少女の頭に手を置いた。
「よかろう。それでは契約をしようぞ、『雫様』」
雪が舞い降りるその中で、神は人間と契約の義を交わした。
それは、誰にも語られることない、二人しか知らぬ、一つの物語。
後に姫神は、『妃奈』と呼ばれるようになる。
◎
唐突に目が覚めた。
寝起きにも関わらず意識ははっきりとしていて、眠気は一切無い。こんなにすっきりとした目覚めは初めてだった。耳に届く、いつもながらの波の音とセミの声をぼんやりと聞きながら、詠志はすっと起き上がる。
涼しい朝だった。そのままの体勢で身動き一つせず、詠志は考え込む。何か、夢を見ていたような気がする。大切な、すごく深い夢を。しかしそれがどうしても思い出せない。根本が出て来るのを拒否しているようだ。考えれば考えるほど夢は形を崩し、どんどん意識の下に溶けては消えていく。完全に夢が溶けたそのとき、詠志は一人で首を捻った。何の夢を見ていたんだっけ。そう思うが、やはり思い出せない。
漠然と残っている映像を手繰り寄せるのなら、確か夢の中の季節は冬だったはずだ。登場人物は二人、いや、三人のような、だがもっと出て来たような気もするし、爆発が起きて雪が降っていて、巫女さんと女の子が何か話して、五色の戦隊ヒーローが煙幕と共に登場し、敵が集まって巨大化して特大ロボットが変形してそれからええっと。思い出せないものを無理に思い出そうとすると、変なものがぐちゃぐちゃに混ざった。結構シリアスな感じの夢だったはずだが、今現在詠志が思い浮かべているのはただの子供向け戦隊番組のような夢に成り果てている。
思い出すのを止めた。これ以上考えたらさらに壊れるような気がしてならない。下らない妄想を捨て、詠志は時刻を確認しようと思った。外の陽射しから考えるに九時か十時のような気がする。が、自信を持って答えることができないので正確な時間が知りたかった。
枕元に置いてあるはずの携帯電話を見ようと視線を向け、詠志はやっと気づいた。体の動きが止まり、それをじっと見つめる。
詠志が寝ていた布団のすぐ隣で、妃奈が寝息を立てていた。
別に慌てはしなかった。その代わりに、見惚れていたというのが本当のところだった。初めて妃奈の寝顔を見た。いつも詠志が寝るまで起きていて、詠志が目覚めるより早くに必ず起きていた。もしかしたら妃奈は眠っていないのではないかと思ったが、こうして見るとやはり睡眠はちゃんと必要なのであろう。ただ、この数日では初めての出来事なだけにそれはなぜか新鮮で、純粋に眠っている妃奈の寝顔は見た目よりずっと幼く可愛かった。
動くこともせず、呼吸をするのさえも忘れて妃奈の寝顔に見入っていた自分に気づき、詠志は慌てて首を振って視線を外した。その拍子に目に止まった携帯電話を手に取り、ディスプレイを確認する。九時三十五分。予想は大体当たっていた。それが少しだけ誇らしく、満足そうに詠志は起き上がる。
不意に自分が羽織っていたタオルケットに気づき、起こさないようにそっと妃奈に掛けてやった。もし妹がいたらこんな感じなのかもしれない、と詠志は思う。もちろんそんなことを面と向かって妃奈に言うだけの度胸はなかった。神を妹と見るとは何事ですか、とか何とかそんなことを言われそうな予感がする。だが一人っ子の詠志は、こういう何でもない気配りが好きだった。本当に兄妹がいればこういう当たり前のことをしてやるのが密かな夢だった。
妃奈がまだ寝ていることを確認し、音を立てずに襖を開けてそこから洗面所へ向かう。顔を洗って寝癖を直し、居間へ行くと祖父も祖母もちゃぶ台の前に座り込んで茶をすすっていた。詠志に気づくと軽く挨拶を口にしたので、詠志も「おはよう」と言ってちゃぶ台の前に腰を下ろした。祖母が朝食を食べるかどうか訊いてきたので、取り敢えず少な目で食べると返答する。
居間にあるテレビからは、一昔前に流行った時代劇の再放送が流されていた。
「詠志、お前今年も明後日に帰るのか?」
祖母が注いでくれた茶をすすっていると、祖父にそんなことを言われた。
詠志がこの町に来て、今日で五日目である。予定では明後日に帰らねばならない。夏休みはあと半月ほど残ってはいるが、宿題などの面倒事を置きっ放しになっているのが何とも言えず、結局は帰らなければ自分が後で痛い目を見るのだ。八月三十一日になって必死に宿題を片付ける自分の姿を想像し、哀れに思えて思わず苦笑した。
湯飲みをちゃぶ台に戻し、詠志は時代劇に視線を送りながら答える。
「ああ、うん。明後日には帰――」
そのとき、詠志の視界には時代劇など映っていなかった。
詠志の視界に映っていたのは、妃奈の寝顔だった。自分は、安易に最悪な返答をするところだったと悔やむ。
視線を落とし、湯飲みに入る緑茶を見据える。まだ何も決めていなかった自分はどうかしていると今更に気づいた。あと二日だ。予定では詠志がここに居るのはあと二日しか無いのである。ただ、予定を先延ばしにすることはできる。夏休みが終るまでここに残ることも一応は可能だった。が、残ればまず間違いなく八月三十一日に地獄を見るのは明白だった。だったら予定通り明後日にここを出て行け、と言う自分と、妃奈をこのままにして行っていいのか、と言う自分がいる。
もし、自分が明後日にここを出て行ったら妃奈はどうするのだろうか。堕神はまだ倒していないし、妃奈がここを離れるとは思えない。つまり、ここを出るのなら妃奈を一人残して行かねばならないということだ。しかし妃奈は詠志が生まれるずっと昔から一人だったのではないか。今更また一人になっても別に、
唐突に、『わたしは今、幸せです』とつぶやいた妃奈の声を思い出した。それに連鎖して、『今は詠志様もいてくれる。だからわたしは、幸せなんです』という言葉まで鮮明に蘇った。あのときの妃奈の微笑みが、澄んだ瞳が鮮明にフラッシュバックする。自分はとんでもない過ちを犯すところだった、と詠志は思う。昔から一人だったから今更元に戻っても別に――平気、だと? 自分のいい加減さに腹が立った。確かに間違いで契約などをしてしまい、こんなことに巻き込まれた被害者は詠志である。しかし今のこの状況を望んだのもまた詠志自身である。今更投げ出すくらいなら、あのときに妃奈を突き放せば良かったのだ。中途半端に肩入れして一番辛いのは詠志ではない、妃奈のはずだ。
自分は、驚くほどのお人好しだと思う。自分は、少女の間違いで命を捨てる可能性があると思う。自分は、少女のために夏休みの最後の日に地獄を見るような馬鹿だとも思う。だから、お人好しなのだろう。我が事ながら、やはり少しばかり情けない話である。
しかしそれを決断するのはまだ一足早い。決めるのは、妃奈と話し合うまで待たなければならない。迷惑だと言われれば自分は潔く帰ろう。ただ、もし迷惑ではないと言われたら、そのときは。
「――それなんだけどさ、もう少し考えていい?」
意外な生き物に遭遇したときのように、祖父が驚いた表情を見せた。
「どうした? 珍しいって言うより、初めてじゃないのか。まあ、お前が帰らないって言うんなら気が済むまで居ていいが……どうしてまた?」
詠志は、湯飲みの中に茶柱が立っていることに気づいた。
「何となく、かな」
「詠志、あんた帰らないのかい?」
声を出したのは朝食を持って来た祖母だった。
詠志は祖母に視線を向ける。
「駄目かな?」
ちゃぶ台に茶碗などを並べながら、祖母は笑った。
「いいやいいや、居たいなら居るといいんだよ。ね、お爺さん」
「おうよ。ここに住んでもいいくらいだな」
そう言って、祖父は豪快に笑うのだった。
そんな二人に「ありがとう」と口にして、並べられた朝食に手を付けた。どれもこれも美味かった。
妃奈が起きたら訊いてみよう、と詠志は思う。そのときにどうやって会話を始めるのかを朝食を食べながら考える。いきなり「おれ、明後日帰った方がいい?」なんて直球的なのはもちろん却下だ。もっとソフトに、自然にその話に持っていく方法はないものか。焼き魚を箸で突きながら思案してみるが、いつまで経っても良い案は出て来なかった。
そういう話ができる機会が欲しい。今まで、この五日間でその話を切り出さなかっただけに中途半端な状況で言っても意味がないような気がする。同情とかで片付けられる問題ではないし、決断を下すのなら妃奈の本心を聞いてからだ。答えがどうであれ、それに従おう。だから今は、その本心が聞けるシチュエーションが必要だった。別にそんなもの考えずに普通に訊けばいいような気もするが、なぜかそこに拘ってしまう。何だか告白するときみたいだ、と告白などしたことないくせに詠志は思う。
考えている内に、いつの間にか朝食を食べ終わっていた。時代劇に見入っている祖父と祖母に「ごちそうさま」と言い残し、最後に茶を飲み干して立ち上がる。そのまま妃奈が眠っている部屋へ向かった。結局良い案は思い付かなかったが、その場その場で切り抜けられるだろうと開き直る。全く持って無駄な思案をしたような気がするが、この結論に達したのだから無駄ではなかったと信じたい。
詠志が寝泊りしている部屋へ行くと、妃奈はまだ眠っていた。妃奈がこんなに寝るなど正直意外だった。縁側に腰を下ろし、ぼんやりと妃奈の方を見つめる。規則正しく聞こえる微かな寝息が優しく、タオルケットが寝息に合わせて上下に動くのが少しだけ愛らしかった。ふと唐突に、寝るときまで巫女装束を着ていることに気づき、寝苦しくはないのだろうかとどうでもいいことを思う。
巫女装束など着たことがない詠志にとって、それは大いなる疑問だった。暇潰しにそれを追求してみる。普通の軽い服より布が厚いし、スカートとは違い袴では動き難いのではないか。だがそれを着てみたことがないのではっきりとしたことが言えないのが痛い。だからと言って実際に着てみたらどうだろうか、などという案は即答で却下だ。着たらアブナイ人になる。それだけは嫌だ。この歳で人道を外したくはない。まだ青春を保っていたいのだ。……ってアホか、何を真剣にそんなことを考えているんだ。そんなことを考えている時点で半ば人道を外しているように思えた。疑問に思うのなら、考える前に本人に訊けばいいのだ。よし、これ以上人道を外さないように妃奈が起きたら疑問をぶつけよう。
縁側に射す太陽の光を見上げ、詠志はぽつりと無意識に言葉を漏らす。
「……その服、動き難くないのかって訊いてみよう」
「そんなことはないですよ。動き易いです」
「あ、そうなの? へえ、意外だな」
「動き難かったら着ていませんよ」
そりゃそうだ、と風に吹かれて詠志は笑った。
しかしその笑いは長く続かなかった。状況を、やっと理解した。背筋が凍るような感じがして、オイルが切れたブリキ人形のようにゆっくりと振り返る。
そこに、上半身を起こしてこっちを見ている妃奈がいた。
何とも言い表せない無言の一秒が過ぎたとき、詠志は縁側から庭に転げ落ちた。心の中で、『うわっ! 聞かれた!? てゆーかおれ何で声に出してあんなこと訊いてんだ!?』と叫び、のっそりと縁側に攀じ登る。じっと妃奈を見据え、心の動揺を見抜かれないようににっこりと詠志は笑う。
「お、おはよう、妃奈」
別段気にした様子も無く、妃奈も笑う。
「おはようございます、詠志様」
その気にした様子も無いのが逆に、妃奈が気遣ってそうしてくれているのではないかと焦りが増す。これから最も重要なことを訊かなければならないのに、なぜこんな馬鹿みたいなミスをしてしまうのか。そもそも巫女装束の服装のことなどはただの暇潰しのために考えていただけであり、本気でそれを質問しようとしていたのかと言えば、たぶんしなかっただろうと思う。
我が事ながら、毎度のように情けなくなる。これで完全に重要な話を切り出す機会を永久に失ったような気がする。しかしそんなことより、今は妃奈の誤解を解いておくのが先だ。もしかしたら妃奈は何も思っていなくて、詠志の言葉でその意味を掴む可能性もあるのだが、うだうだ言ってる暇はなかった。伸ばせば伸ばすほど言い難くなるに決まっているのだ。だから言うなら今しか――
そのタイミングを、妃奈の声が遮った。
「……わたしは、随分と寝ていたようですね」
そう言った妃奈は、少しだけ申し訳なさそうな、そんな表情をしていた。
誤解を解くのを諦めた。もういい、妃奈が何も思っていないのに賭けよう。
「あ……うん。結構寝てたな。疲れてるのか?」
「いえ、そんなことはないです。ただ……」
「ただ?」
詠志の問いに、妃奈はゆっくりと微笑んだ。
「夢を、見ていました」
何かが頭の中を横切った。それが溶けて消えた夢の欠けらだったことに詠志はついに気づかなかったが、口が自然とその言葉を紡いでいた。
「あのさ……妃奈って、昔と今の性格違ってたりする?」
水でもかけられたように妃奈が驚いて言葉を失う。その表情を見たとき、まさか自分は何か妃奈の勘に触ることでも言ってしまったのではないかと思う。しかもどうして自分からそんなことを言ったのかもわからないし、そもそも性格が違うも何も昔の妃奈を知らないのだ。なのになぜ自分はそんなことを言ってしまったのだろうか。
妃奈は不思議そうに詠志を見つめ、ぽつりと返答する。
「どうして……詠志様がそれを……?」
どう答えるものか悩んでいる内に時間は流れ、口篭り気味に声を出だして適当な出任せを並べた。
「どうしてって……ええっと、昔の妃奈ってどんなのかなって思って。あ、でも答えたくなかったら別に、」
「そうですね。昔のわたしは、今とは全然違うと思います」
そう言った妃奈の表情が、とても優しかったことに気づいた。それは、子供に子守唄を聞かせる母親の表情に似ていた。
嬉しそうに話す妃奈の言葉に耳を傾ける。
「昔のわたしは、他の神からは《鬼神》と呼ばれていたんです」
「鬼神?」
今の妃奈には全く似つかわしくないその呼び名を思わず繰り返す。
「はい。感情を持たず、人間を守ることもせず、ただ自分に与えられた役割をこなすだけの神だったんですよ、わたし。でもそんなわたしが変わったのは、雫様に出逢えてからです。変だとは思いませんでしたか? なぜ神であるわたしが、雫様や詠志様を『様』を付けて呼ぶのか」
そう言えば、と詠志は思う。妃奈に言われて初めてそれに思い至った。
確かに、考えればおかしな話である。なぜ神である妃奈が人間に対して『様』を付けるのか。最初に妃奈と出逢ったときにはその呼び方を恥ずかしく思ってやめてくれと言ったが妃奈は変えなかった。別にそれに意味があるとは思ってもみなかった。本当は詠志が妃奈に対して『様』を付けるのが普通なのだろう。しかし妃奈はそんなことを強要しなかったし、それで妃奈も満足しているようだった。ではなぜ妃奈だけが、神よりも下に位置する人間に対して『様』を付けるのか。その答えを妃奈は言う。
「それは、わたしが変わったっていう証なんです。本当はその立場は逆なんですが、わたしは敢えて契約者を『様』と呼んでいます。わたしに変わる切っ掛けをくれた雫様。鬼神と呼ばれていたわたしに光を見せてくれた人。この性格はわたしが作ったって言うより、雫様に教え込まれたって言った方が正しいのかもしれませんけどね」
妃奈は少しだけ苦笑して、詠志を見据えた。
「そして詠志様もわたしの契約者です。詠志様もまた、わたしに光を見せてくれた。わたしの間違いで契約して巻き込んでしまったのに、詠志様はわたしを見捨てなかった。だから、詠志様も『様』を付けて呼んでいるんです」
妃奈が立ち上がる。タオルケットをそっと畳の上に置き、小さく頭を下げた。
「あと二日しか詠志様と一緒にはいることはできません。だからそれまで、改めてよろしくお願いします」
願ってもないシチュエーションのはずだった。しかし、詠志の口からは何も出て来なかった。夏休みの最後まで付き合ってやる、その一言がついに言えず、詠志は拳を握る。情けなかった。ここ一番で怖気づくとは情けないにも程がある。自分が惨めに思えて仕方なかった。たった一言が口にできない。
何も言えなくなってしまった詠志に、妃奈が助け舟を出すように言う。
「今夜、少しだけわたしに時間をください。詠志様に見せたいものがあります」
そう言って微笑んだ妃奈の表情が、いつまでも目に焼き付いてた。
◎
大き過ぎる太陽が水平線に沈み、青い空が紺色に塗り変わり、月と星が満天に輝き、セミに代わり鈴虫が鳴くその中で、詠志は妃奈に連れられて夜の山を歩いていた。そこは数日前に詠志が釣りをした所からさらに上へと登った山の山頂に近い場所だった。
街灯もない獣道のようなそこを懐中電灯も持たずに進んでいるのだが、視界は意外にもはっきりとしている。辺りを完全に囲む巨大な木々の葉の隙間から射す月明かりに照らされた森は、淡い光に満ちていた。細かいものの見分けがつかないが、普通に歩く分には問題ない。前を行く妃奈に置いて行かれないように後に続く。
「なあ、どこ行くんだよ? そろそろ教えてくれてもいいだろ?」
妃奈は前を向いたまま、嬉しそうに秘密を押し通す。
「着いてからのお楽しみです」
さっきから、そのやり取りを一体何度繰り返しただろう。
昼間から今現在まで、妃奈は詠志に目的の場所を一切教えなかった。ただ着いてからのお楽しみと押し通すだけで、どこに何を見に行くのかを妃奈は絶対に言わない。この山に登り始めた当初は、魚の遊戯でも見せてくれるのかとよくわからない予想を立てたが、川を通り越した辺りでそれは違うと当たり前に判明。
妃奈は歩き続けた。息切れ一つせずにすいすいと獣道を行く妃奈。しかし詠志にしてみれば、それはかなりの重労働だった。荷物は何も持っていないのだが慣れない獣道を歩くのは相当根気のいる行動であり、妃奈の背中を見失ったらこのまま遭難するのではないかと本気で思って必死に後を付いて行く。そんな詠志に気を遣ったのか、妃奈が少しだけ歩調を緩めた。その気遣いが無性に嬉しくて、安心したそのとき、ふと気づいた。切羽詰っていたからなのか、森に入るまでは盛大に聞こえていたはずの鈴虫の音色が全く聞こえなくなっていた。
不思議だった。いつから聞こえなくなっていたのだろう。耳に届くのは落ち葉を踏み締める乾いた音だけだ。それを除けば、静か過ぎる夜だった。静寂、というものをこの町に来て何度も体験したが、少なくとも何かしらの雑音は混じっていた。だが、今はそれが無い。立ち止まれば、感じるのは何も無い無音の世界のはずだった。唐突に、このまま歩き続けて辿り着く場所とは、もしかしたら神の世界への入り口なのではないのかと思う。神という存在の実在を知っているだけに否定できないのが少しだけ怖かった。
不安に駆られ、前を歩く妃奈へ声をかけようとしたそのとき、何の前触れもなく妃奈が振り返った。
まさかここが、と一瞬だけ身構えた詠志に、妃奈が笑いかける。
「ここです。こっちに来てください」
よくわからないが従う。やっと、ここがこの山の山頂だったことに気づいた。
やがて、詠志がその一歩を踏み出したとき、一気に視界が開ける。
辺りを木々に囲まれていた先ほどまでの光景がまるで嘘のように、そこにあるのは広大な草原だった。山の頂上が平らになっているかのような形状。雑草は人間の手が入っておらず太股ほどの高さまで自然に生い茂り、風が吹き抜ける度に波のように草が揺れる。そこから見る夜空は本当にすぐそこに思えて、手を伸ばせば届きそうとはまさにそれだった。
この町は田舎だ。だが素晴らしい町だ。だからこそ、こんな場所があってもいいのではないか。
無意識に歩き出す。妃奈の横を通り抜け、詠志は草原の真ん中へ辿り着く。両腕を一杯に広げ、詠志はつぶやいた。
「――すげえ」
飛ぼうと思ったら、本当に飛べるはずだった。頭上に広がるこの無限の夜空を縦横無尽に飛び回れるかのような開放感。ここに縛るものなど何一つ存在しない。世界のすべてが在りのままで、ここには在った。人間が作り出した詠志の知っている世界からバスで二時間、さらにそこから一時間も歩かない内にここに辿り着くことができる。たったそれだけしか離れていない場所でも、世界はこうも違う。十七年しか生きていないのに世界はどこも同じだと思っていた自分が青いと思い直す。
そして、詠志は自分がまだまだ青いのだということを思い知った。
神である妃奈にしかできないこと。それを、詠志は見る。
姫神は詠う。
「真術・火の句・一節――《蛍火》」
草原に風が吹き抜けた刹那、何かが夜空へパァアアっと舞い上がった。
緑色の発光体。それが何であるかを、詠志はすぐに理解した。実物を見たこともないし、おそらくこの光も実物ではないのだろう。だがしかし、それが何を表しているのかは一目瞭然だった。妃奈の詠った言葉の意味、そのままだ。
夜空にゆっくりと舞う光は、蛍のようだった。無限に広がる夜空を無数の蛍が漂っているその光景は、まるで自分が宇宙のど真ん中にでもいるような気分になる。初めて、心から綺麗だと思った。世界がこれ程までに綺麗だとは思いもしなかった。詠志が知らない世界は、まだまだごまんとあるのだろう。それを、妃奈は見せたかったのかもしれない。
しばらくして、舞っていた光が夜空に飲まれて消えた。少しだけ残念な気持ちになって、玩具をねだる子供のような視線を妃奈に向ける。妃奈がその視線に気づくと、本当に見せたいものはここからです、とばかりに微笑む。
その意味を、詠志は聞くのではなく、見た。
生い茂った雑草の中から、唐突に蛍が舞い上がった。今度は作り物ではない。正真正銘の、本物の蛍が現れたのだ。それは一匹ではなく、先ほどの妃奈の見せた光よりも数が多い。夢のような光景。ここが詠志の知っている世界ではなく、異次元のような光景。詠志の周りを無限に飛び続ける蛍の群れ。光っては消え、光っては消える。それを繰り返すだけの単調な作業。しかし、だからこそ純粋に綺麗なのだ。
本物の蛍の光は、想像していたよりもずっと神秘的で、何よりも美しかった。
「綺麗だとは思いませんか?」
いつの間にか隣に来ていた妃奈が詠志にそっと訊ねる。
返答は、決まっていた。
「ああ。すげえよ。蛍って初めて見た……なんつーか、やっぱすげえ」
そんな単純な言葉しか出て来ないがそれで十分だった。隣に並ぶ妃奈と一緒に、詠志はずっとその光景に見入っていた。
いつまでも消えはしない光。幻影ではない現実。蛍の寿命は人間に比べれば驚くほど短い。故に儚く、この一瞬一瞬にすべてを賭ける。どうでもいいような時間を沢山過ごして来た詠志にとって、それは切実に見習う必要があった。人間の寿命は蛍に比べれば驚くほど長い。その長さが次があると考えさせてしまう。機会を逃しても次がある、だからだいじょうぶ。そんな言い訳染みたことを平気で言い、本当に大切なものを見逃して行く。実際に、今までがそうだった。どうでもいいような時間を沢山過ごして来た。思い直そう。もう、やめようではないか。
この一瞬に賭けよう、と詠志は思う。下らない意地やプライドを捨て、自分の思った通りに進んでみよう。それがどんな結果になろうとも、後で後悔するよりかは百倍も千倍もマシなはずだった。自分の本音を正直に曝け出そう。そう、この蛍のように。
「おれさ、ここに残るよ」
「――……え?」
何もかも吹っ切れた、そんな気がした。声が意識せずとも陽気になってしまうのは嬉しいからだろうか。
「考えるのはもうやめだ。おれは、妃奈が望むのならここに残る。堕神だろうが殻神だろうが上等だ。まとめて相手にしてやる。……つっても、おれにできることなんて何もねえような気がするけどな」
苦笑して妃奈に視線を移す。妃奈は、じっと詠志を見据えていた。
「……いいんですか、本当に……? もしかしたら、命を落とすかもしれないんですよ……?」
詠志は笑う。ようやく、妃奈を心の底から信じ切れたと思う。
「そんときは、妃奈が守ってくれるんだろ?」
きょとん、と詠志を見据えていた妃奈は、やがて姿勢を正し真っ直ぐに視線を向けて来た。
その瞳に確かな光を宿らせ、優しく微笑む。
妃奈は言う。
「誓いましょう。わたしが命に代えても、貴方をお守りします。貴方は、わたしの光ですから。わたしが、詠志様を守り抜いてみせます」
それだけを聞きたかったのかもしれない。揺ぎない絆が欲しかったのかもしれない。
妃奈と、この町で過ごしていたかった。
「約束な」
そう言って、詠志は小指を差し出した。
その意図を察し、妃奈の小指がそっと重なる。
妃奈の笑顔が、妃奈の声が、妃奈の吐息が、妃奈の体温が、何もかも愛おしかった。
二人で笑い、約束のおまじないを唱える。ゆーびきーりげんまんうそついたらはりせんぼんのーます。不思議な、どこか間の抜けた言葉だったに違いない。それでも、それが確かな絆となる。詠志はそう思う。
蛍の光は、いつまで経っても消えはしない。
幻想的なその中で、神様は、人間と約束を交わす。
この時間が永遠に続きますように。そう、願っていた。
「今宵限りのぬくもり」
八月末のこの日、姫之市では毎年恒例の山海祭という大きな祭りが開催されることになっていた。
その祭りは姫之市の住民が町全体で執り行う田舎町にしてみれば大規模な行事である。開催場所は姫神神社の手前にある、大きな広場だ。その広場の中央には何日も前から大きな櫓が組み上げられ、そこの天辺にある太鼓からは当日に鳴らす者の手によって試し打ちの音が何度も響く。櫓から四方に伸びるワイヤーには町の子供によるイラスト付きの提灯が幾つも吊るされていて、灯りが灯されるその日をまだかまだかと待ち侘びていた。
円状に木が切り取られている広場には、櫓を中心にぐるりと一周する形で数多くの屋台が並べられている。食べ物の屋台では定番の焼きそばからトウモロコシ、フランクフルト、カキ氷、綿飴、りんご飴など種類豊富な物が続き、この町独特の魚の塩焼きなども売られている。遊戯の屋台も同じように定番のクジ、射的、輪投げ、金魚すくい、水風船、お面とあり、その他にもマニアックな物も揃っていて、何と言っても目玉がこの町独特のお化け屋敷である。これは森のハイキングコースを改良した場所をコースとし、小中学生以下なら無料、大人でも二百円という格安で入れる上に怖く楽しいと評判で毎年大いに賑わっている。大人の世界に入れば酒の早飲みや大飲み勝負などが繰り広げられているが、毎年少なくとも三台以上は救急車が呼ばれる大変危険が伴う大人の遊びだ。
屋台は山海祭が始まる二日前ほどから静かに営業を始めているのだが、それはただの手慣らしである。本番に備え隠し玉は取っておくし、いざ祭りが始まればそれまでとは打って代わって大声を張り上げるのだ。準備運動をしている、と言い表すのが一番的確なのかもしれない。
祭りの開始時刻は夕方の十七時きっかり。それまでに広場に入っていても良いのだが、どの店もその時間になるまでは一時営業を中止しているのであまり意味はない。祭りが始まるその瞬間まで店主は石造のように固まって力を貯めているのだ。祭りはオールナイトで開かれるため、そうでもしなければ途中で力尽きる可能性がある。そうなってしまえば意味がない。最後の最後まで声を張り上げてこそ、この町の祭りには相応しいのだ。
そして、山海祭当日のこの日は、昼頃から太鼓の音が聞こえなくなり、屋台から響いていた声も途絶えた。
町全体が不気味なほど静まり返り、十七時零分が訪れるのを提灯と共にじっと待ち侘びている。
◎
その祭りのことを知ったのは三日前のことだった。
何やら町全体が賑やかになっていたことに気づき、詠志は妃奈に訊ねてみた。
すると妃奈は意外そうな顔をして詠志を見つめ、それからこう説明する。
「知らないのですか? 毎年この時期になると、この町は山海祭というお祭りを開くんです。大きく賑やかなお祭りですよ。毎年ここに来ていると言ってましたから、詠志様も知っているものだと思ってたのですが……」
知らなかった、と詠志は正直に答えた。
そもそも詠志が毎年この町にいる期間は一週間だけである。今年は例外で八月末まで残っているが、いつもはそこに達する前に帰ってしまうので祭りの話など聞いたこともないし無論行ったこともない。祖父も祖母もそれに付いては何も教えてくれなかったはずだ。少し気になって祖父に訊ねてみたところ、別段悪びれる様子も無く豪快に笑ってこう言った。「そうだそうだ、毎年言おう言おうと思ってたんだけど忘れちまうんだよ。それで詠志が帰ったあとにいつも思い出して『しまった』って悔やんだもんだ。だがまあ、今年はだいじょうぶだながっはっはっは」
不満はあるにせよ、たぶん祭りのことを聞かされても行こうとは思わなかったはずである。毎年の風習を崩す気はなかったし、何より一人で行ってもつまらないだけだ。知り合いが一緒なら喜んで行きそうだが、一人で大きな祭りに行って楽しめるとは到底思えないのが現状だった。だから「祭りがある」と言われてもただ一言だけ「そうなんだ」と返して終ると思う。
だがしかし、今年は違った。一緒に行ける知り合いがいるのだ。この町で知り合った、というより契約した神様である。駄目元で誘ってみたところ、妃奈はすぐに「いいですよ」と笑ってくれた。祭りなど久しく行っていないことを思い、それから三日、詠志は遠足を前にした子供のように緊張と期待でよく寝付けなかった。
そんなこんなで平和な三日が過ぎ去り、今日、つまりは山海祭の当日が訪れたのだった。
朝日が昇り切った空は雲一つない立派な快晴で、冗談のように青く透き抜ける青空はどこまでもどこまでも続いているような最高の祭り日和。夜の二十時には盛大に花火も打ち上げられるらしく、このままの天気で進めば見晴らしは素晴らしいものになるはずだった。活気づいていたはずの町が徐々に静まり返ったのは祭りへの期待が減速したのではなく、逆に加速している証だ。開始時刻の十七時のそのときまで町には深夜のような静寂が満ちていた。その雰囲気を嗅ぎ取ったのか、セミの声も今日だけは聞こえなかった。太陽の照り付ける音さえ聞こえてきそうなその中で響くのは、唯一波の音だけだった。
祭りを堪能するため、詠志は昼食を抜いて腹を空けておいた。祭りで食う物は格別に美味いのだ。小さな頃、両親に連れられて行った祭りのことを思う。頭にバッタをモデルにしたヒーローのお面を付け、手首に風船を二つ携え、左手に特大の綿飴と金魚の入った水袋、右手には焼きそばを持っていた。そのときに食べた綿飴はどんな飴玉よりも甘かったし、焼きそばに至っては世界中探してもこれ以上美味しいものはないのではないのかと思ったほどだ。それは今でも間違いだったとは思わない。祭りで食うものは、雰囲気と気分で何倍も何十倍も美味さが増す不思議な効力を持っているのだ。だからそれを味わうためには腹を空かしておく必要があり、必然的に昼食は抜きとなる。
天野家から姫神神社までは徒歩で三十分ほど行った所にある。祭りが始まるちょうどに到着したかったので、詠志は苦笑する妃奈を連れて十六時二十五分に家を出た。まるっきり子供だったに違いない。感情が昂っていた。何年か振りに祭りに行く、というのも原因の一つだったろうが、もう一つ、決定的なものがあった。
それは、一緒に行く相手が妃奈であるということ。学校の友達と下らない協約を立ててしまったせいでこの歳になっても彼女の一つも作らなかったし、女の子と二人きりで祭りに行くことなど一度もなかった。せいぜい五、六人のグループの中に女子が二、三人いたくらいである。だからこそ、ここまで感情が昂っているのかもしれない。妃奈と二人きりで初めて行く場所の祭り。めちゃくちゃ楽しみだ妃奈は祭りってよく行くのかなしかし腹減ったな向こう着いたら速攻で焼きそばかたこ焼きを食べよう、というのが詠志の腹の中である。
子供のように笑っている詠志に、妃奈が表情を緩める。
「楽しそうですね」
隣を並んで歩く妃奈に視線を向け、詠志は言う。
「おうよ、すげえ楽しみだ。妃奈はその祭りに行ったことあるのか?」
「雫様に連れられて一度だけ。それ以降は一度もありません」
ふと気にかかる。
「てゆーと、ずっと前からその祭りってあるのか?」
「ええ。もう一〇〇年以上も前からあります」
この町の歴史の深さについて少しだけ関心した瞬間だった。
詠志が住んでいる町にも小さな祭りはあるのだが、新都なだけにそれが開催されるようになったのはほんの数年前だったはずだ。それに比べ、この町は少なくとも一〇〇年以上前から祭りを開催しているのであり、妃奈はそれよりずっと前、千年以上もこの町にいることになる。つまり、この町の歴史は、詠志の町とは比べものにならない量を抱え、比べものにならない時間を過ごして来たのだ。
そして、その中で生きてきた妃奈のことを思う。それほどの永い永い時間を、妃奈は一人で過ごしてきたのだろう。ただ、東仙雫という女性に出逢う前まではそのことに関しては何も思わなかった。しかし東仙雫と出逢い、考えが変わったのだ。今こうしている時間が、妃奈にとっての幸せなのだろう。だったら、詠志にできることは一つだけだ。
この時間を、命一杯楽しもう。
そう心に決め、視線を前に移したとき、疎らに人影があるのに気づいた。一体どこから現れたのか、いつの間にか詠志の前にも後ろにも多くの人が集まり出していた。老人夫婦や家族連れ、この町にはいないと思っていた詠志と同じくらいの歳の高校生男女。小さな子供は父親に肩車をしてもらい、女性の多くは浴衣を着ていた。皆、本当に楽しそうな顔をしていた。そして目指す場所は詠志と同じだ。山海祭の会場、姫神神社だ。
横に並ぶ少女へ視線を向ける。そこにいるのは、巫女装束を纏った妃奈だ。何とも言えない表情で妃奈を見ていると、その視線に気づいた妃奈はふわりと笑った。
「浴衣の方がいいですか?」
考えを見抜かれたことに動揺を隠し切れなかった。
「あ、いやっ。べ、別にそういう訳じゃ……」
自分でもみっともないと思う仕草で手を振り慌てて声を上げたが、誰がどう見たってそれは見苦しい言い訳だった。
だが正直な話をすれば、その通りである。祭りなのだから浴衣姿というのも見てみたかったな、というのが本音だ。しかしもう遅いのだろう。着替えなどをする場所はないし、そもそも妃奈が浴衣を持っているかどうかすら危う――
そんな心配をする詠志の目の前で、妃奈の体が微かに光った。そしてその光が収まった頃、妃奈が身に着けてる服装は巫女装束ではく、薄い緑の綺麗な浴衣だった。言葉を失くして呆然としている詠志に視線を向け、妃奈は少しだけ照れ臭そうに笑う。
「似合ってます?」
似合ってる、似合ってるのだが。そうかそういうことか、と詠志は思う。
確か妃奈が言っていたような気がする。『神に決まった姿はありません。ですが人間に視られたときの騒ぎを最小限にするためにこの姿を装っているだけです。神によって男性だったり女性だったり、子供だったり大人だったり老人だったり、それぞれです。それと、この服装についてはわたしが好きだからです』とか何とか。それを言い換えれば、そのときの気分で性別も服装もすぐに替えることもできるのだろう。便利なのだが、何だか素直に感心できない。風呂にも入らずに体を綺麗にできたりすぐに服を替えられたり、神とは羨ましいのかそうでもないのかよくわからないものである。
しかしまあ、いま言えることは一つだ。
「似合ってる。ただ性別はだけは換えないでくれ、頼むから」
意外そうに妃奈は苦笑する、
「だいじょうぶですよ。わたしはこの体が気に入っていますから」
「そうか、それを聞いて安心したよ」
心から安心した。
性別がどうであれ妃奈は妃奈である、と言えば聞こえは良いが、問題は別にあるのだ。妃奈が女の子だったから良いのだが、もし男の子なら心に一生ものの深い傷を負うところである。なにせ『初めて』を奪われているのだ。それが今の妃奈だから納得できるどころか嬉しかったりもするが、もし男ならもう二度と立ち直れなかっただろう。それがなければ妃奈が男の姿を装っても問題はな……いや、問題ある。すごくある。挙げれば数え切れないくらいにあるので今は何も言うまい、と詠志は心を閉ざした。
やがて人波がある一定の場所に吸い寄せられて行く。そこは小さな石段だった。数段しかないその石段の上に、何かとんでもないものがあるような雰囲気が漂っている。そこが会場なのだろう。もう家を出てかれこれ三十分ほど経っているはずだ。太陽が沈み出し、辺りを朱色に染め上げる。つまり、あと数分で祭りが始まるのだ。
石段の前に佇み、詠志は深呼吸をする。敢えて時間は確認しない。この石段を上り切ったその瞬間に大喝采が生まれて祭りがヒートアップする、というのが理想な光景だ。時間を確認すればそれも可能だろうが、それをしないのがミソだ。運に賭けてこそ、その意味がある。
隣にいる浴衣を着た妃奈へ視線を向ける。
「行っか」
「はい」
妃奈が肯き、詠志と共にその一歩を踏み出し、
そして、
刹那、大喝采が弾けた。
地震でも起きたかのような揺れが伝わり、世界の中心まで振るえたに違いないその瞬間に石段の頂上が光に満ちた。提灯に灯りが灯り、大喝采を掻き消すように太鼓の音が盛大に響き渡る。屋台の店主が声を張り上げて客を寄せ、ロケット花火が何発も打ち出されて夕日の中へと消えて破裂した。
山海祭開始の合図だった。
呆気に取られていた。中途半端に出した足がそのまま停止している。予想外の事態だった。確かにこういう光景を望んでいたはずなのだが、それはこの石段を上り切った瞬間でこそ意味があり、そもそもまさか本当に大喝采が巻き起こるなど思ってもみなかった。小学校の運動会などの比ではない。アイドルユニットのコンサートに来た大勢のファン以上の熱狂だった。
「どうしたんですか? 行かないんですか?」
「お、おお」
妃奈の声に我に返り、詠志は石段をゆっくりと上がって行く。十段ほどで石段は終わり、大きな広場が姿を表す。
この町が田舎なんて嘘だ、と詠志は思う。一体この町のどこにこれほどまでの人間がいたのか、広場は人で埋め尽くされていた。頭上から弾ける櫓の上の太鼓の音に圧倒され、四方八方から響き渡る屋台の店主の声に圧倒され、そこを取り巻く人の多さに圧倒される。石段に立ち竦み、詠志はどこを見ていいかわからずに視線を彷徨わせる。
普段ならこんな光景を見たら疲れるからやめよう、と思ったかもしれない。しかしこの町の祭りには、不思議な力があった。詠志の腹の底から湧いて出て来るのは疲れでも諦めでもない、期待と興奮だった。表情が綻ぶのが自分でもはっきりとわかった。
「すっげえ、マジですげえ」
そのつぶやきは祭りの喧騒に飲まれて掻き消された。
それでも、そのつぶやきを妃奈は鮮明に聞き取っていた。得意顔で詠志を見やる。
「言ったでしょ、大きく賑やかな祭りだって」
「侮ってた。素ですごいと思う。って、駄目だ、我慢できないっ。行こうぜ!」
歩いているつもりが少しだけ早足になってしまう。その横に妃奈はしっかりとくっ付いて歩き出す。
適当な屋台に飛び込んで焼きそばかたこ焼きでも食おうかと思っていたが、いざ来てみると戸惑うばかりでどれに行くのかをちゃんと決めれない。客寄せの声に耳を傾ける。「出来立ての焼きそばだよ! 熱い内に買ってきな!」「今ならたこ焼きにたこが二つ入りっ! お買い得だ!」「外れナシ! 当たり大放出! 早いもの勝ち!」「今なら話題の新作ゲームがあるよ! そこのカップルさん一発やってきなって!」「最初だけ特別に大きさ二倍の綿飴! 今すぐ買わなきゃ損!」「さっき港で取れたばかりの新鮮な魚の塩焼き! 格別だよ!」「怖いが楽しい! 驚いたら殴っても蹴っても引っ掻いても噛み付いても抱き付いてもいい何でもありのお化け屋敷! 今から開演だっ! 一人でも十人でもどんと来い! アベックならなおのこと大歓迎っ!!」
すべてがすべてごっちゃごちゃに混ざって何を言っているのかをはっきりと聞き取れない。そうこうしている内に屋台から漂う香ばしい匂いが空腹を限界に達しさせた。考えるのはやめだ、まずは手っ取り早く手短なものを貪ろうとすぐそこにあった焼きそばの屋台に駆け込んだ。威勢の良いおばちゃんに財布から百円玉二枚を取り出して渡すと、これでもかというくらいに山盛りにされてはみ出た焼きそばのパックが出て来た。これで二百円とは格安ではないかと思う。
立ちながら食っても良かったのだが、面倒だったので取り敢えず欲しい食い物をすべて買い揃えた後でまとめて食い、それから他の屋台を見て回ろうと決める。焼きそば片手に歩き出して、広場の屋台を半分も回らない内に手が一杯になった。櫓の側に用意されている多くのベンチの中に空席を見つけ、そこに腰を下ろす。そこでやっと妃奈のことを思い出し、心配になってふと視線を向けると同時に、横に妃奈が腰掛けていた。
詠志の手に持っているものを不思議そうに見つめ、呆然と言葉を漏らす。
「……それ、全部食べるんですか?」
「ん、もちろん食う」
そう言った手前、当たり前だがすべて食うつもりだった。詠志がものの数分で買い込んだものは、焼きそばとたこ焼きを一パックずつと、フランクフルトにトウモロコシが二本、ついでに缶ジュースを一缶。確かに一人で食うにはほんの少しだけ多いのかもしれないが、昼飯を抜いていたので腹が減っているし、祭りのこの雰囲気があればどれだけでも食えるはずだった。
「妃奈も食うか?」
しかし妃奈は首を振る。
「前にも言いましたが、わたしは食べれませんから」
「違うって、気分だよ気分。綿飴とか持ってたらそれっぽい気分になるだろ?」
その言葉を口にしたとき、妃奈が久しぶりに真剣な表情になった。
「忘れているのですか? わたしは、詠志様以外には視えないのですよ?」
「あ……、」
自分は、とんでもない馬鹿だった。
「……悪い、そんなつもりじゃ……」
「いえ、気にしないでください」
そう言って笑った妃奈の笑顔を見たとき、胸の奥がズキリと痛んだ。
祭りに浮かれ、最低なことを口走った自分が酷く情けなかった。少し考えれわかったことだったはずだ。それになのに、自分は無責任な言葉を吐いてしまう。この時間を命一杯楽しもうと思ったのはどこのどいつだったか。こんな出だしで躓いて幸せな時間を与えてやれるとでも思っているのか。もっと真面目にやれ、気を引き締めろ、そして笑え。決めたのなら最後までやり遂げてみせろ、だから笑うのだ。最後まで、妃奈を楽しませてやれ。
詠志は唐突に手に持っていた焼きそばに襲いかかった。ものすごい勢いでそれを平らげ、今度はたこ焼きに牙を剥く。さらにフランクフルトもトウモロコシもやっつけた。最後に缶ジュースのプルタブを開け放ち、中身を一気飲みする。立ち上がってゴミをベンチの脇のゴミ箱にぶち込み、詠志は呆気に取られていた妃奈に笑いかける。
「行くか。楽しもうぜ、妃奈」
その意図を感じとったのか、妃奈も笑う。
「はい」
これでいい。この祭りが終るまで、妃奈には笑っていてもらおう。それが、今の詠志にできることだ。
それでは次はどこに行こうか。目に止まった屋台へ立ち寄っては眺め、また別の屋台へ立ち寄るという行動を数回繰り返した後、ふとその屋台を目にした。いや、正確にはそこで商売をしている店主にだ。人混みを通り抜け、詠志は妃奈と共にそこへ向かう。その屋台には大きく『綿飴』と書いてあった。売っているものはそのままの意味で、屋台の中には綿飴を作る機械などが置いてあり、完成品が何本も並べられていた。
そして、そこで綿飴を作っているのは詠志の祖母だった。それともう一人、祖母とは幼馴染だという佐藤さんだ。祖母は詠志を見つけるとしわくちゃの顔でにっこりと笑って手招きする。
「詠志、寄ってきな」
吸い寄せられるように店の前に立つと、佐藤さんが「久しぶりだねえ」と祖母と似たように笑う。確か佐藤さんと会うのは三年振りだったろうか。小さい頃はよく飴玉を貰ったような記憶があり、祖母に負けず劣らず優しかったのを憶えている。詠志は軽く「お久しぶりです」と頭を下げた。祖母に「爺ちゃんは?」と訊ねると、ここから少し離れた屋台を指差した。そこには大きく『大酒飲み勝負!』と書いてあり、そこで桶のような馬鹿でかい器で酒を煽っているのは詠志の祖父と佐藤さんの旦那さんだった。救急車が呼ばれないことを切に願う。そんな詠志に祖母が「綿飴食べるかい?」と訊いて来たのでもちろん食べると返答すると、祖母は予想外の行動に出た。
そっと詠志の隣を指差し、笑う。
「その子はお友達かい?」
「――え?」
祖母が指差している先には、妃奈がいる。
まさか祖母には妃奈の姿が視えているのか、まさか祖母にはそれほどまでの霊力が。などと真剣に考えた詠志の隣で、妃奈が軽く頭を下げて「初めまして」と言う。軽く挨拶を交わす二人を見つめていると、佐藤さんが綿飴を二人分差し出してくれた。片方を詠志が持ち、もう片方を妃奈自ら手に取る。
行きましょう、と平然と歩き出す妃奈の後を祖母と佐藤さんにお礼を言ってから慌てて追いかけた。状況がさっぱりわからない詠志に対し、妃奈はしてやったりという本当に幼い表情で詠志を見つめた。
「気分、なんですよね?」
気分。それはさっき詠志が妃奈に言った言葉だ。ということは、妃奈は自分から――
何だか無性に嬉しく、そして可笑しかった。
「ああ、気分だ気分。遊ぶか!」
肯く妃奈と一緒に、詠志は祭りに身を投げる。
こんなにも楽しい祭りは初めてかもしれない。時間を忘れて遊ぶなんていつ以来だろう。
この時間が、ただ純粋に楽しかった。
やがて夕日が水平線に沈み、今度は花火へ向けて祭りはさらに加速して行く。
この姫之市で行われる山海祭という祭りは、詠志が行ったことのある祭りの中で最も活気づいていた。とにかくすごかった。櫓から轟く太鼓の音は決して鳴り止むことはなく、客寄せの声が途切れることもない。加えて花火へと向けて祭りはさらに賑やかになり、客は花火が打ち上げられる二十時を待ち侘びている。
そんな中で、詠志と妃奈は大いに祭りを堪能していた。妃奈の分の綿飴を詠志が強奪し、それに怒ったような表情をする妃奈と一緒に立ち寄った輪投げ屋で勝負をした。なぜか輪投げは妃奈が冗談のように上手くて、一個も景品が取れなかった詠志に対し、妃奈は小さなクマのキーホルダーが二つに、目玉商品と書かれていたメイカー物の高級品ライターが一つ。そのライターは店で買えば万はいくであろう品物で、もちろん店側もそれを考えて機械のように正確に通さない限り取れない仕組みになっていたはずなのだが、妃奈は機械のように正確にそれに通した。泣く泣く商品を渡す店主からライターを受け取り、しかし妃奈は使わないのでお返ししますと返却した。まるで神様を見るような視線を妃奈に向け、店主は何度も何度も頭を下げていた。まあ、神様を見るような視線と言うのは嘘ではない。本当に神様なんだし。
敗北感を味わっていた詠志に、妃奈は二つ取ったキーホルダーの内の一つをくれた。嬉しかったのだが、すごく負けた気がした。汚名挽回ということで、今度は射的に挑戦する。射的は、昔の詠志の得意分野だった。がしかし、それは昔の話である。腕は錆び付くものであり、これも詠志の惨敗で幕を閉じることになる。そこで取った狐のようなお面を頭に付け、妃奈は嬉しそうに詠志の隣を歩く。一方の詠志は肩をがっくりと落としている。惨めだったに違いない。
妃奈が満足そうだったから良いと言えば良いのだが、何だかやるせない気持ちになる。何か本当に挽回しなければならないと思い、詠志は屋台を出鱈目に回った。が、結局は何をしても詠志は妃奈に勝てず、勝負する事に荷物が増えるのは妃奈だけだった。さすがに両手一杯の景品を抱えたまま回るのは大変だったので、妃奈は近くで遊んでいた子供に景品をすべてあげた。ありがとうおねえちゃんと言って走り去って行く子供の背を見つめ、妃奈はいつまでも笑っていた。
妃奈の手元に残っている景品は、山のようにあった中のたった二つだけだった。輪投げで取ったクマのキーホルダーと射的で取った狐のお面である。「それはどうしてやらなかったんだ?」と訊けば、妃奈は少しだけ照れ臭そうにクマを指差し「これは詠志様とお揃いだからです」と言い、お面については個人的に気に入ったらしい。妃奈から貰ったお揃いのクマのキーホルダーは、今は詠志のポケットの中にある携帯電話にストラップとして付けてある。
大方屋台を回ったとき、シメとしてこの祭りの目玉のお化け屋敷に入ろうということになった。詠志は遊園地などのお化け屋敷はまったくの平気である。幽霊だろうが亡霊だろうがどんと来いという感じだった。だから怖がる必要はなかったし、それより先にもしかしたら妃奈が怖がって何やらオイシイ展開になるのではないかと思っていた。
が、いざフタを開けてみればその考えが百八十度違うものになる。正直な話、反則だと思う。怖くはなかった。だが、反則だった。提灯の灯りだけが広がる薄暗いハイキングコースは不気味な雰囲気を醸し出していて、背後から聞こえて来る祭りの喧騒が逆にお化けのテーマソングみたいに響いていた。それだけで怖がりな人なら泣き出しそうだったが、問題はお化け役の人がめちゃくちゃベストタイミングで出て来ることだった。衣装は別に怖くないしじっと見れば笑えてくるような感じなのだが、それがいきなり出て来ると驚くものである。さすがは選び抜かれてお化け役に抜擢された猛者たちだ。人の驚くタイミングというものをしっかりと弁えている。詠志は一体何度、悲鳴を上げただろう。
そんな詠志の隣で、妃奈はずっと笑っていた。驚くことは一度もなかった。だから驚く詠志を見て笑っていたのである。下手したら詠志の方から妃奈に抱き付いてしまう可能性も少なからずあったその中で、すでに心臓は限界まで鼓動を打っていて、ついに詠志は妃奈に物理的に泣きを入れた。隣を歩く妃奈の手を、無意識に握っていた。
お化けにさえ驚かなかった妃奈だが、それにはなぜか驚いた顔をしていた。「どうしたのですか?」と首を傾げる妃奈に、詠志はできる限り精一杯に虚勢を張って、さも当然のように「何となく」と返す。しばらく呆然としていた妃奈だが、やがてにっこりと笑い、「そうですか」と詠志の手を握り返してくれた。なぜかそれだけで途方もない安心感があった。が、やっぱり驚くものは驚くのである。実に惨めだった。その光景を見たお化けにも笑われた。どうしようもない敗北感に浸りながら、最後の最後までお化けに驚かされて詠志はお化け屋敷を脱出したのだった。
それからまた転々と屋台を回って花火が打ち上げられる瞬間を待った。
結局、繋いだ手はずっとそのままだった。
それからしばらくして、花火が始まる十分ほど前に、妃奈が突然「少しだけ付き合ってください」と詠志を連れて歩き出した。どこに行くのかが疑問だったのたが、蛍を見せてくれたときのように教えてくれはしないだろうと思って無駄な検索をやめてそれに従った。妃奈が詠志を連れて来たのは、広場の一番奥にある周りを木々に囲まれた小さく長い石段だった。頂上が闇に溶け込んで見えない、長い石段の前に立ち止まり、妃奈は繋いでいた手をそっと離した。
「付いて来てください」
そう言って先に歩き出す妃奈の後を、詠志は一段遅れて追いかけて行く。
そこには、祭りの広場からは想像できないくらいの静寂が満ちていた。まるでこの石段から世界が違うようなそんな錯覚を受ける。どんどん遠くなる祭りの喧騒に後ろ髪を引かれる思いで、しかし決して振り返ることなく前を行く妃奈の背中を見つめる。
人気がない闇の石段を歩く。途中で『立ち入り禁止』という立て札を見つけたが、妃奈はそれには構わずさらに上へと進んで行く。抵抗があったが、妃奈が通ったので問題はないだろうと詠志も後に続いた。それから数分上ったとき、視界が開けた。闇を月明かりが掻き消し、まず目に飛び込んで来たのは赤く大きい鳥居だった。ここが神社だと気づくことができたのはそれの御かげである。そしてその鳥居を潜り抜け、石畳に佇み、次に目にしたのは古く小さな建物だった。それが、この町の神社である。
そこに奉られている神の名を、詠志は月明かりだけで確認した。そこには、《姫神》と書かれている。つまりここが、
前を歩いていた妃奈が、ゆっくりと振り返った。
「ここが、わたしの生まれた場所です。そしてもう一つ。……ここは、雫様が眠る場所です」
――ああ、そうか。詠志はそう思った。
妃奈が見せたかったもの。それは、自分自身だったのだろう。漠然とそう感じた。
唐突に、右手に熱が帯びた。ふと見れば、右手の甲に刻印が浮かび上がっていた。久しく見ていないのですっかり忘れていたもの。詠志と妃奈を繋ぐ唯一の形ある証。これがある限り、自分達は契約という絆を持っているのだと詠志は改めて思う。そして、その刻印を現せ、妃奈は一体何をしたいのだろうか。
困惑する詠志が視線を向けると、妃奈は無表情を装っていた。しかしその中にある後悔の念がはっきりと見て取れる。妃奈がその口を開く。
「……詠志様に、一つだけ、嘘をついていたことがあります……」
「嘘?」
聞き返した詠志に対し、妃奈は肯く。
「わたしは、契約は一度交わせばどちらかがいなくなるまで継続されると言いました。ですが、それは嘘なんです」
無表情が崩れ、思い詰めた表情が現れ、それでも妃奈は言葉を紡ぐ。
「本当は、契約を解除できるんです。ただ、それはある条件のときだけ適応されます」
「条件……?」
妃奈の真剣な瞳から目が離せなくなる。彼女は、後悔しているように思えた。
「はい。条件――それは、神自ら契約を要求した場合です。その場合に限り、契約を破棄することが可能になります。詠志様が望めば、今すぐにでもこの刻印を消し去ることができます。……最初に、そのことを黙っていたのは謝ります。でも、わたしは、失いたくなかった。わたしの間違いで契約してしまったとはいえ、貴方は契約者です。だから、わたしは貴方を失いたくはなかった……。証である、刻印を破棄して欲しくはなかったんです」
これだけは、訊いておきたかった。
「どうして……今になってそれをおれに?」
その問いに、妃奈は笑った。クマのキーボルダーをそっと手で握り、頭に狐のお面を付けたまま、妃奈は笑っていた。
「楽しかったからです。詠志様といられる時間が、純粋に楽しかった。だから、詠志様に嘘はつきたくなかった……。やっとはっきりしたんです、わたしの気持ちに。貴方に嘘はつきたくない。それがどんな結果になろうとも、わたしは拒まない。同情でも哀れみでもいい加減でもなく、貴方の本心と向き合いたくなったんです」
笑いを打ち消し、妃奈は詠志を見据える。
「――決めてください。契約を破棄して自らの町へ帰るか。……それとも、命の危険を犯してまでわたしの契約者で居続けるのか。それを貴方に、決めて欲しいんです」
妃奈と見つめ合ったまま、遥か遠くから聞こえるような祭りの喧騒に耳を傾けたとき、歓声が巻き起こった。
詠志の背後で、唐突に光は炸裂する。七色に光るそれは、花火だった。もうすでに始まってしまったのだろう。でも、詠志は振り返ることはしない。今決めなければならないのだ。真っ直ぐに向き合ったこの神の少女の問いに、自分の本心を返さなければならない。
ただ、もう答えは出てしまっているのだろう、と詠志は思う。もし最初にその話を聞かされたのなら、もしかしたら破棄していたかもしれない。でも、今は違う。自分はお人好しである。しかし妃奈も、それに負けず劣らずのお人好しだった。契約破棄のことを言わなければ詠志とはずっと契約者という関係でいられたのに、それを自ら壊すような提案をしている。それは、嘘をつきたくないがため。だったら、それに応えてあげようと詠志は思う。
「妃奈」
詠志は笑う。
約束をしよう。この少女と同じだけの覚悟と、同じだけの想いの力を、約束という形に変えよう。
「妃奈がおれを守ってくれるんだったら、おれも妃奈を守ってやる。お前はおれにとっての光だ。お前がおれに光を見出したように、おれもお前に光を見出した。それが途絶えてしまわないように、おれはお前を、お前はおれを守ろう。――契約継続の条件ってとこかな」
この少女の力になろう。自分にできることは何でもしよう。
楽しかったから。彼女といると時間を忘れたから。この町で、妃奈と一緒に過ごして行こうと決めたから。だから、迷わず進もう。力になれることなんて本当は何もないのかもしれない。だけど、一緒にいるだけで君が安心するのであれば。一緒にいるだけで君が笑っていられるのなら。おれは、君の側にいよう。
それが、約束だ。
見つめていた妃奈の表情が緩む。やがて妃奈は、花火の光を全身に浴びながら、綺麗な瞳に僅かな涙を溜め、それでも優しく微笑んだ。
「ありがとう、ございます……っ、詠志様……」
今はその笑顔だけを、見ていたかった。
この祭りが終るまでは、ずっと笑っていて欲しかった。
隣まで歩んで来た妃奈と一緒に、花火を振り返る。夜空に打ち上げられて舞うそれは、とても美しかった。妃奈が笑っている。それだけで満足できた。こんな光景がいつまでも続けばいいと思う。終ることなく、そう、続けば、いいと思った。
この田舎町で、神話のようなこの物語を、いつまでも。
そして、詠志は気づいた。
鳥居の上に人影があることに。
その人影が、にたりと笑っていることに。
神話がいとも簡単に、木端微塵に壊されることに。
人影は言う。
「よォ。久しぶりだなァ、姫神」
それはまるで昔の友人に再開したかのような口調。陽気そうで、どこか嬉しさを噛み締めているようなそんな口調。街中で聞いたら思わず表情が緩んでしまいそうなその声。響くのは、歓喜の声だったはずだ。
なのに。どうして。――背筋が、凍りついているんだろう。
隣にいたはずの妃奈から笑顔が消え失せた。花火を背景に鳥居から石畳に降り立った人影は、ゆっくりと近づいて来る。月明かりに照らされて映し出されたその人影は、男だった。見た目は二十代前半であり、瞳が灼熱のように紅く、髪が金髪でイマドキの服を着込み、ジーンズのポケットに両手を突っ込んでいる。まるで絵に描いたかのような滑らかな顔立ちに、一八〇は超えているであろうその長身。
「淘魔……っ!」
妃奈がつぶやいたその瞬間、詠志の体が宙に舞った。妃奈に抱えられて跳んだのだと気づくまでにかなりの時間が必要だった。妃奈はたった一回の跳躍で男から離れ、神社のすぐ前まで移動した。そこに着地すると同時に詠志を後ろに押しやり、ものすごい剣幕で一喝する。
「そこにいてください! 絶対にこっちに来ないで!!」
訳のわからない詠志を置き去りに、妃奈は三歩前に歩み出る。
男はまだ笑っていた。そしてその姿勢がそっと屈み、ポケットから出した右手が石畳に触れる。刹那、地震のような振動が巻き起こる。バランスを崩して尻餅を着いた詠志の視界の中で、妃奈が立っているすぐ横から何かが飛び出す。
それは砂でできた手だったように思う。瞬きをすれば見失ってしまうようなその速さの中で、それは妃奈の頭のすぐ横を叩くように通り抜けた。妃奈は身動き一つせずに男を睨み付けている。その手が男の元へ辿り着くと動きを止め、何かを差し出した。男がそれを受け取ると同時に砂の手はさあっと消える。
男が手に持っているもの。それは、妃奈がしていた狐のお面だった。男はそれを顔に付け、その奥から先ほどとは打って変わった不気味な声を発する。
「何だァこの様ァ? 神が人間と戯れて何してんだァ、アア? 鬼神と呼ばれていたテメぇはどこ行ったんだよ?」
ピシッとプラスチックが軋む乾いた音が鳴り、やがて男が顔に付けていたお面が縦一線に真っ二つに割れ、カツン、コツンと石畳の上に落下する。その破片を革靴を履いた足で粉々に踏み砕き、男は視線を妃奈に向ける。
別に詠志に視線が向けられている訳ではない。確かに男は妃奈を見ている。しかし、それなのに詠志は体が震え出すのを止められなかった。まるで切先を喉元に押し当てられているような圧迫感。ここを一歩でも動いたらその先に待っているものは死だと直感していた。無様な格好のまま、詠志は身動き一つできない。腹の奥に、ずしりと重い確信が満ち満ちた。この妃奈と対峙している男こそ、一〇〇年以上前から今現在も妃奈と争っている、妃奈の契約者だった東仙雫に憑いた、神ではなくなった神、堕神。
山海大山主の変わり果てた姿。その名を、淘魔。
淘魔は妃奈を睨みつけたまま、口元を緩めた。
「だがしかし、まさかとは思っていたが……お前、また人間と契約したんだってなァ? 殻神から伝えられた伝達だったからイマイチ信じられなかったが、どうやら本当のようだな。……くっくっく、しかも今回の人間は霊力ナシの役立たずだ。東仙の方がまだマシだったなァ、姫神」
妃奈の低い声が響き渡る。
「黙れ。それ以上わたしの契約者を愚弄したら、貴様の存在をこの世から葬る」
「ほう、そうだその眼だ。鬼神と呼ばれていた頃のその眼がおれァ好きでねぇ。だが……甘い。お前は変わった。だからこそ、このおれには勝てない。覚えているか? 十七日前のことを」
「黙れと言っているのわからないのかっ!」
妃奈が動く。右手を淘魔に向け、詠った。
「真術・火の句・七節――《龍炎火(りゅうえんか)》!」
妃奈の手から何かが疾った。火花を噴出しながら淘魔に突っ込んで行くそれは、炎で構成された一匹の龍だった。龍は口を限界まで抉じ開け、獲物を食い尽くすように淘魔へと襲いかかる。
淘魔は慌てた様子もなく、ゆっくりとした動作で両手を地面に押し当てた。瞬間、大地が揺れて石畳から何かが現れた。見覚えがあった。それは、地面色に変種する異形、妃奈と初めて出逢ったときに見た、紅い鬼の形をした殻神と呼ばれるものだった。殻神が二体、妃奈が放った龍から主を守るように立ちはだかる。
龍が殻神に直撃し、一瞬でそこから境内は炎上する。その後ろにいた淘魔も例外ではなく、劫火と化した炎に飲み込まれた。音を立てて燃え盛るそれを尻餅を着きながら呆然と見つめる詠志の視界の中で、劫火の中から平然と淘魔は歩み出て来る。傷どころか、服も汚れていない。そんな男に寒気を覚えて詠志はさらに震え、妃奈は歯を食い縛る。
両手を大きく両側に広げ、堕神は笑う。
「今まで傷を負わすことができなかった姫神に、ついに一撃を見舞った殻神がいた。物は試しとはまさにこれだったなァ。そして、それがお前の最大の欠点だ」
詠志の、妃奈の見ているその目前で、淘魔が右手を地面に押し当てる。
何をしようとしているのか、妃奈にはわかっていたはずだった。だからそれを阻止するために、妃奈は再び真術を詠おうとした。が、それより一歩早くに、淘魔が地面からそれを引き摺り出す。詠志の知っている殻神ではない。大きさは普通の人間等、それがどんどんと形を組み換え、より人間へと近づいて行く。妃奈は意識的にそれから視線を外し、淘魔へと狙いを定め、真術を詠う、
「真術・風の」
『妃奈、待って』
殻神が、口をきいた。
「――っ!?」
妃奈の詩(うた)は止まる。体が強張り、目を見開く。淘魔によって引き摺り出された殻神は、完全なる人間の姿へと変貌を遂げていた。それも本格的な人間で、もはや近くで見ても本物だと思ってしまうほど精密に化けている。それは、女性だった。髪が長く、優しそうな感じの人だった。詠志は、なぜかその人に見覚えがあるような気がした。
いつの間にか、その殻神の後ろから、淘魔の姿が消えている。花火の音が響くその中で風が揺れ、妃奈のすぐ耳元で声が漂う。
「――ほうら、隙ができたァ」
反射だけで妃奈は真横に跳んだ。
しかしその拳は獲物を逃さない。逃げた分の距離を腕の長さで無理矢理帳消しにて、その鳩尾に人間ならそれだけで死に至る重い一撃を叩き込む。骨の軋む音がした。空中で静止しているその光景は夢のようで、淘魔の拳の反動で妃奈の体がくの字に曲がり、眼が虚ろになって口から血を吐いた。その光景が、夢であってほしかった。その光景が、まるでスローモーションのように見えた。
妃奈を空中に残したまま、淘魔は拳を引き、さらに力を込めてもう一撃鳩尾に食らわせ、それとは逆の拳で頬を殴り付け、鳩尾から引き抜いた拳で顎を強打する。後ろに吹き飛びそうになった妃奈の体を髪の毛を鷲掴んで引き止め、力任せに振り回して詠志のもとへボウリングの玉のように投げ付ける。どうすることもできなかった。突っ込んで来た妃奈を庇うこともできず、圧力に体が耐え切れずに妃奈と一緒にとんでもない力で後ろに飛ばされた。
回転する視界が止まったのは、神社の柱に頭を打ち付けた瞬間だった。今まで聞いたこともないような音と衝撃が弾け、喉の奥にマスタードでもぶち込まれたような感じがして、視界が一瞬だけ真っ白になり、だがすぐに回復して、立ち上がろうにもふらふらして視界がぐにゃぐにゃに歪んでいて、詠志はその場に倒れ込む。その中で意識を失っているようにぐったりと倒れる妃奈の姿を見つけ、立ち上がることがついにできず、昆虫のような本能で這うようにそこへ向かう。
遠くなった耳に堕神の声を聞いたように思う。
「気色悪い動きだなァおい。まァそれもしゃァねえか、人間なんて所詮そんなモンだ。だからよォ、潔く……死ね」
頭を掴まれ、強引に持ち上げられた。もともと差があり過ぎるその身長差をどうすることもできなくて、詠志の足が完全に地面から離れた。実に楽しそうにこちらを見ている淘魔の表情を、掴まれた指の隙間から睨み付ける。
怖さはなかった。痛みも忘れた。すべてが麻痺してしまっている。ただ、それでも怒りだけが生み出される。そして、怒りだけがあって何もできない自分がどうしようもなく情けなく、悔しかった。守ってやると言った側から守れなかった。尻餅着いて震えて、何もできなかった。そのとき、詠志は自分の本心に巣食う闇に気づいた。自分は、心のどこかで本当は何も起こらないと高をくくっていた。堕神や殻神なんてのは本当はいなくて、妃奈といつまでも平和にいられると思っていた。だって、これまでがそうだったから。何も起こらなくて平和だったから。だから、そう思っていた。
「本当にそうだと思うのか?」
まるで詠志の心の中を読んでいるような口調。そして事実、淘魔は詠志の心の中を正確に読み取っていた。
「お前が姫神と契約してからのこの十七日間、おれは十一回殻神を差し向けた。その中でお前は一度も姫神と行動を共にしていなかった。それはなぜか? それはな、姫神がお前に隠れて戦ってからだよ。姫神がお前のことを思って黙ってたからだよ。霊力ナシの役立たずが邪魔だったからだよ。クソ弱ぇ人間と契約しちまって、どうしようもなかったからだよ。そしてお前に力が無いが故に、姫神はこうなってる。守ってやるだァ? 寝ぼけてんじゃねぇぞムシケラァ。お前はなァ、ただの荷物でしかないんだよ。足手纏いでしかないんだよ。お前はどう足掻いたところで、堕神(おれ)や神には近づけない、何より、東仙みたいになれるはずもねえんだよ、才能の無いテメぇにはなァ。身の程を知れ、下等生物が」
黙れ。黙れ。黙れ、黙れっ!
うるさいっ! 言われなくてもわかってるっ! おれは神になんかなれないし、お前にも勝てないことくらい! ましてや妃奈にすべてを与えた東仙雫になれるとも勝てるとも思っちゃいえね! ただそれでも約束した! だから、おれは妃奈を守るっ!! それだけだ!!
有りっ丈の力を振り絞り、詠志は拳を握った。指の隙間から見えるその余裕の現れた顔に拳を振り回す。が、そんなものが当たるはずもなかった。邪魔な蝿を見るように詠志の拳を見つめ、何でもないような動作でそれを避ける。力が残っていたのは、その一発分だけだった。気を抜いたら今すぐにも意識が途絶えてしまいそうなほど頭の中がぐちゃぐちゃになっている。
怒りはどうしようもない情けなさと悔しさに変わり、行き場を失くした感情は涙となってあふれ出す。
「おいおい泣くなよ。情けねぇなァ、気持ち悪いなァ。だがまァ、お前のその感情がおれの力となる。おれが憎いか? おれを殺したいか? さァ、お前の中にある負の感情を爆発させろ。それが、おれの飯になる」
もはや力の入らない拳を握り締める。
妃奈を守りたかった。妃奈と一緒にいたかった。妃奈の声が聞きたかった。妃奈の笑顔が見たかった。
妃奈に、笑っていた欲しかった。それさえも叶えることができずに、自分は一体何をしているのだろう。我が事ながら情けなくて言葉も出ない。自分にこいつを倒すだけの力なんてある訳ない。でも、それでもたった一撃でもいい。その顔に、傷を残してやりたかった。妃奈のために、少しでも力になりたかった。
淘魔は欠伸を噛み殺し、頭を掻く。
「あーもういいや。どうせ今日はただ準備運動で来ただけだしなァ。この分なら明日には決まるだろうしよ。だからさァ、お前、死んで」
妃奈を殴りつけた拳がゆっくりと形を作る。
あれで殴られたら、生身の詠志など即死だろう。思考が上手く回らない。心のどこかで、ああ、死ぬんだなと思った。ぼんやりとする意識の中で、迫り来る拳を見ながら、詠志は詠うその声を聞いた。
「……真術っ、・土の句・二節……――《刃(やいば)》……」
詠志の真下から、土の刃が一瞬で突き出る。
それに気づいた淘魔は瞬間的に詠志を掴む手を離し、繰り出した拳を止めて後ろに大きく跳躍した。夜空へと舞い上がった刃は砂と化し、雨のように降り注ぐ。
その中で、妃奈は立ち上がり、手の甲で口から流れ出た血を拭う。
「わたしの許可無く、詠志様に触れるな……っ!」
妃奈の殺気の篭った視線を受けてものなお、淘魔は笑みを崩さなかった。
「それは悪かった、以後気をつけるとしよう。……今夜はこれで引き上げさせてもらうぜ。聞いてたろ? これは一五〇年前にお前に負わされた傷が癒えたかどうか試す準備運動だってなァ。明日、またおれはお前に遭いに来る。そのときに、お前の力、このおれが貰い受ける。覚悟しておけ、姫神」
そして闇に溶け込むように、淘魔の姿がふっと消えた。張り詰めていた空気が和らぎ、遠くから聞こえる祭りの喧騒と花火の光がはっきりと戻って来た。
妃奈は淘魔が消えた闇を数秒だけ見据えてから、すぐに振り返った。そこに倒れる詠志に近づき、体を起こす。
「……詠志様、」
詠志は妃奈から視線を外す。妃奈の顔を、真っ直ぐに見ていられなかった。
体が、今度は別の理由で震え出す。
「……わりぃ、おれ、何もできなかった……守るっつったクセに、何もできなかった、何も……っ。わりぃ、ホント、わりぃ……」
行き場を失くした情けなさと、悔しさが、自分でも抑えられない涙となってさらに流れた。
守れなかった。何もできなかった。妃奈は自分の知らない所で戦っていた。そして、自分がいたから妃奈は傷を負った。笑っていて欲しかっただけなのに、それだけなのに。何も、してやれなかった。
そんな、どうしようもない感情で涙を流す詠志に、妃奈はそっと笑いかける。
「そんなことありませんよ……。詠志様は、わたしのために命を張ってくれた。それだけで、十分過ぎます。そうやって、わたしを、守ってくれたじゃないですか。だから――」
ふと視線を上げたそこに、殻神がいた。
殻神は、手を上げていた。
殻神は、手を振り下ろした。
その手は、詠志の腹を圧し潰した。肋骨が砕ける音が響き、詠志の口から血が噴き出て、妃奈の顔を染め、殻神は消えた。
気づいたときには、薄皮一枚で繋がっていた詠志の意識が、途絶えていた。
気絶ではない。それは、絶命に等しかった。
「詠志……様……?」
祭りの喧騒が聞こえる。花火の光が照らす。
顔に付着した血液は、あの日の光景をフラッシュバックさせる。
その場で、妃奈は絶叫する。
◎
失いたくなかった。
この世でたった一人、鬼神と呼ばれていたわたしが唯一心を許した人間。何も無かったわたしに、すべてを与え、教えてくれた契約者――東仙雫。彼女だけを失いたくはなかった。彼女と共に、この世界で生きていたかった。わかっていたはずなのに。それが叶わないことくらい、わかっていたはずなのに。神と堕神の争いに、人間が入っても大差がないことくらい。それは逆に、その人間を追い詰めることになることくらいわかっていたはずだった。
それでもわたしは望んだ。彼女と共に戦い抜くことを。彼女と共に、過ごして行くことを。それが救い難い間違いだった。気づいていたはずだった。知っていたはずだった。人間と関わるなど、神には不幸しか撒き散らさないということを。その不幸は神だけではなく、人間も、関係を持ったすべての者を不幸にする。そうじゃなければ、誰も苦しまなかったはずだ。だって、そうじゃなきゃ、最も死んで欲しくない人を、わたしの手で殺すことになんてならなかったはずだ。
顔に付着した鮮血がどうしようもなく怖かった。わかっていたはずなのに。人間と契約しても、不幸しか手に入れられないことくらい。涙を流すのはいつもわたしだ。ただ、たった一度きりなら良かったのだ。間違いなく不幸はあった。だけど、その中に幸せも確かにあった。幸せというその光が、自分を変えたのだ。そして、自分は弱くなった。人間のぬくもりに逃げるようになってしまっていた。
失う痛みをわかっていたはずなのに、わたしはまた光を求めて契約を交わした。天野詠志。彼もまた、光を見せてくれた。東仙雫に負けないくらい、ぬくもりの光を与えてくれた。幸せだった。それは断言できる。彼といると楽しかったし、何より幸せだった。彼は彼女と一緒で光に満ちていた。その光が、わたしは好きだった。ぬくもりが、本当に大好きだった。
それが、弱くなってしまった原因。光の先にあるのは揺ぎ無い絶望。真っ赤に染まる光景だけだ。失いたくはない。もう、二度と、失いたくはない。彼女は助けられなかったけど、彼は助けてあげられる。約束した。命に代えても、彼を守ると。だから約束を果たそう。そして、戻ろう。あの頃の自分に。何もかも封じ込め、鬼神と呼ばれていた頃の自分に戻ろう。
今宵限りで、名前も、感情も、喜びも、そして笑顔さえも捨てよう。わたしは奉り神、姫神。鬼神と呼ばれる、最低の神だ。あの頃に自分に、戻ろう。
だから今宵だけは、別れを惜しませてください。
今夜だけでは、思いっきり泣かせてください。
最後にもう一度だけ、笑わせてください。
貴方の名を、呼ばせてください――。
妃奈はそっと、詠志の体を抱き締める。意識は無く、心臓の鼓動も極限まで小さくなっている。だけどまだ間に合う。まだ死んではいない。詠志を助けよう。大好きなぬくもりをくれたこの人を、死なせはしない。もう二度と、過ちは繰り返さない。
頬を伝う涙は、詠志の顔を濡らす。今宵限りの涙。涙を流しながら、最後にもう一度だけ妃奈は笑う。
そして、彼の名を呼ぶ。
「……詠志様」
強く、強く。彼の体を抱き締める。
「だいじょうぶですよ……わたしが、貴方をお守りします。もう、辛い想いはさせません……。お別れです……今まで、ありがとうございました」
妃奈は目を閉じ、詠志の唇に自分の唇を重ねる。
刹那、妃奈の体から何かが詠志の中へと流れ込む。それは、神と契約者だけにある力。妃奈と詠志が初めて契約したときにも現れた力だ。霊力を与える代わりにどちらかの傷を癒す。あのとき、詠志は霊力を無くして妃奈を回復させた。だから代償として意識が途絶え、倒れたのだ。でも、今は違う。姫神である妃奈の霊力なら十分過ぎるほど傷を癒すことができる。詠志を、元通りにすることができる。
妃奈が唇を離し、目を開けたときには、詠志の心臓の鼓動は大きくなっていた。傷は完全に癒えているはずだった。目覚めるまでにまだ相当の時間が必要だろうが、もう心配することは何もない。詠志は、生きている。
最後に残った仕事は、あとたった一つ。過ちを繰り返さないために。詠志に、辛い想いをさせないために。そして何より、自分が元に戻るために必要なこと。
天野詠志の中にある記憶から、姫神に関するすべての記憶を封印する。それが、今の妃奈から詠志にしてやれるたった一つの優しさ。
大切な人を苦しませないようにしてやれる、最後の絆。
妃奈は涙を流しながらゆっくりと微笑み、詠志の頬にそっと手を触れた。このぬくもりを忘れるために、妃奈はそれを感じる。思い残すことがないように、詠志との関係を完全に断ち切るために。
祭りの喧騒が聞こえていた。花火の光が照らしていた。
その詠声は、どこまで響いていた。
真術・封の句・一節――《隠蔽》
その瞬間に、天野詠志の中から、姫神に関する記憶だけが封印された。
その瞬間から、姫神は、名前を、感情を、喜びを、笑顔を、そしてぬくもりを捨てた。
鬼神が、ここに蘇る。
闇が、光を覆い尽くす。
「姫神と二人の契約者」
窓の外は相変わらず太陽の光で満ちていて、セミの鳴き声と波の音が響いていた。
まず最初に、詠志は目が覚めてから天井の木目を数えて、ああそうだここは祖母の家だと思い出し、上半身を起こして今が何時か知りたくて携帯電話を探した。だが枕元を探しても一向に見つかる気配はなく、ふと気づくと携帯電話はなぜかポケットの中に入っていた。昨日、入れたまま寝てしまったのだろうか。ぼんやりとそんなことを思い、携帯電話を取り出す。折り畳み式のそれを広げ、ディスプレイで時間を確認する。そのとき、ちょうど目に入った日付を見て言葉を失くした。
今日は八月二十三日で、時刻は昼の十一時二十五分だった。嘘だろ、と思う自分がいた。思考が追い付かない。なぜ自分が八月末まで祖母の家にいるのかが不思議で仕方なかった。毎年の風習からするのなら、夏休みである八月の最初に祖母の家に来て一週間を過ごして帰って行くというのが当たり前だった。なのに、なぜこんな時期まで自分はここにいるのだろう。
それを、唐突に思い出した。確か今年は自分からここに残ると言い出したのではなかったか。理由は祖父から聞いた祭りに行きたくなったからではなかったか。その証拠に、昨日は祭りに行ったのだからそれで間違いない。今年に限ってなぜそう思ったのかはイマイチ思い出せないが、そういう年もあるのだろうと納得した。しかしこの時期まで残っているとなると大変な事態である。新都にある家には、学校から出された膨大な量の宿題があるはずだ。現実逃避で祖母の家でほのぼのやっている暇はないのだ。今すぐ帰らなければ豪い目に遭うに決まっている。
こんな所でのんびり寝ている場合ではないのだ。詠志は携帯電話を折り畳み、立ち上がろうとした祭にそれに気づいた。
携帯電話に、小さいクマのキーホルダーが二つ、ストラップとして付けてあった。
それをまじまじと見つめ、漠然と、こんなの付けてたっけ? と思う。が、すぐに祭りで取った景品だったことを思い出し、それからだからこんなことしている場合じゃないんだってと慌てて立ち上がる。襖を開けて居間へ駆け込むと、そこで祖母が茶を飲んでいた。祖母は詠志を見ると「起きたのかい?」と笑う。
「ああ、うん。てゆーかさ、おれの荷物ってすぐに全部まとめれる?」
突然の問いに、祖母が不思議そうな顔をする。
「どうしたんだい急に。帰るのかい? この前は居るって言ってたじゃないか」
一秒も考え内に適当な答えを返す、
「家に宿題置いてあるのすっかり忘れてたみたい。だから帰らないと」
祖母はなぜか、少しだけ困惑したような表情をしていた。
「……詠志、二つだけ訊いていいかい?」
正直な話、時間が惜しいと思った。この町から出て行くには、一日二本しかないバスに乗らなければならない。一本目は朝の九時、二本目は昼の一時に来て、それっきりだ。もし乗り遅れれば明日まで待たなくてはならない。そうなればさらに豪い目に遭う。一刻も早く宿題を片付けなければ間に合わないのだ。
だがしかし、邪険に扱う訳にもいかず、詠志は内心で焦りながら取り敢えず「なに?」と手短に返す。
祖母は少しだけ考え、一つ目を言う。
「昨日、いつ帰って来たんだい? いつの間にか布団に入って寝ていたから訊けなかったんだけど……」
そういえば昨日、いつ帰って来たっけ――とは思うものの、深く考えても結局答えは同じ場所にしか辿り着かないような気がしたので、詠志はそのままを返した。
「花火が終ってすぐだよ、たぶん」
そこから先を覚えていないのだからそれが正解だ。
時間が過ぎて行く。まだ十分に余裕はあるのだが、もしものときに備え少しでも早くバス停に到着していたかった。
そして祖母は、二つ目の問いを詠志に訊ねた。
「昨日、一緒にいた女の子はどうしたんだい?」
「ああ、別に何でもな――」
――……は? 祖母は今、一体何と言ったのか。――一緒にいた女の子? 詠志は思考を巡らす。そんな子いたっけ、と詠志は思う。確か昨日の祭りは詠志一人で行って遊んで帰って来たはずだ。誰とも一緒にいなかったはずだ。そもそもこの町には年に一度、一週間だけ訪れるのであって、そこで友達ができるとは思えないし、女の子と知り合うとも到底思えない。たぶん、祖母は勘違いしているのであろう。たまたま詠志の隣にいた女の子を、詠志の連れだと思い込んだに違いない。そうに決まっている。そうでなければ、一緒にいたという自分が忘れるはずもないのだから。
言葉に詰まった詠志に、祖母は僅かに期待しているような表情をしていたのだが、「そんな子いなかったよ」と言う詠志の返答に表情が曇った。
「詠志、あんた憶えてないのかい?」
「憶えてないって言うか、おれ、昨日一人だったでしょ?」
祖母は一瞬だけ言葉を閉ざし、すぐに苦笑した。
「――そうかい、勘違いだったみたいだね。あんたの荷物、そこにあるので全部だよ」
居間の端を指差したそこに、詠志の着替えが綺麗に折り畳んであった。「ありがとう」と短くお礼を返し、詠志はそれを掴んで寝室に戻る。そこに置いてあったバックを手繰り寄せ、ファスナーを開けて中へ無造作に突っ込む。今更に携帯電話とは違う方のポケットに財布が入っていたことに気づき、ついでに中に放り込んでファスナーを閉めた。居間から聞こえた「詠志、お昼ご飯はどうするんだい?」と言う祖母の声に「遠慮しとく」と返し、バックを肩に掛ける。携帯電話を手に取り、時刻を確認する。十一時五十二分。まだ昼飯を食って行くくらいの余裕はあるだろうが、途中、また何かに気を取られたらそんな時間すぐだ。
何かって何だっけ? 携帯電話を持ちながら、詠志はそんなことを思う。すぐに「ああ、野兎のことか」と思い出し、携帯電話をポケットの中に入れた。詠志はまた居間に戻り、なぜか困惑しているような表情を浮かべる祖母に訊ねる。
「爺ちゃんは?」
「二日酔いで寝てるよ」
そう言えば昨日、祭りで祖父は桶のような馬鹿でかい器で酒を煽ってたっけ。あれからまだ結構な量を飲んでいたようだし、救急車は呼ばれなかったらしいが、二日酔いはするのであろう。と言うより、あれだけの量を飲み二日酔いでもしなければそれこそ化け物である。
祖父には伝言を伝えてもらおうと思い、詠志は立ったまま視線を正す。
「爺ちゃんには婆ちゃんから言っておいて。えっと、お世話になりました。また来年、よろしくお願いします」
そう言って頭を下げる。祖母が笑う。
「また来年おいで。お爺さんも楽しみに待ってるからね」
「うん。バイバイ」
軽く手を振り、祖母と別れた。居間を出て廊下を歩き、薄汚れたスニーカーに足を突っ込み、爪先を押し付けながらどつけば簡単に壊れそうな玄関を開けた。一度だけ振り返り、座敷わらしでも横切りそうなこの家に軽く頭を下げる。
そして詠志はゆっくりと外に歩み出て、玄関を閉めた。これで、今年の夏の風習が終る。巨大な太陽の光を体に浴び、盛大に聞こえるセミの声に耳を澄まし、心地良く響く波の音に胸を躍らせる。
今年も楽しかった。また来年も必ず来よう。
そうして、詠志は我が町へ向けて歩き出す。
◎
山の中腹にある、木々の葉の隙間から射すスポットライトのような木漏れ日のその中を、一人の少女がとんでもない速さで駆け抜けて行く。もしここに人がいれば、それは一陣の風となって吹き抜けて行くに違いない。少女は巫女装束に身を包み込み、まったくの無表情で突き進んでいた。尋常では考えられない速さ、人間ではまず不可能な跳躍。それもそのはずだ。彼女は、人間ではないのだから。彼女はこの町に奉られている神様、姫神なのだから。
姫神はある場所に、戸惑うことなく向かっていた。一度の跳躍で落ち葉が舞い上がり、二度の跳躍で木々がざわめく。木漏れ日が漏れるそこを、彼女は信じられない速さと正確さで風のように流れて行く。彼女の黒い瞳は、真っ直ぐに前だけを見据えている。その瞳はまるで鷹のように鋭く、それで射抜かれればそれだけで身動きができなくなり、気づいたら意識が途絶えているに違いない。それは殺気と呼ぶに相応しいものだった。
そしてそんな圧倒的な殺気を放つ姫神が目指している場所は、ただ一点だけだ。そこは、かつて昔の契約者と共に夜空を見上げた場所。そこは、かつて現契約者と共に蛍を見た場所。そこは、捨てたはずのものを思い出させるぬくもりの詰まった場所だった。だが、振り返りはしない。もう捨てたものを見ようとは思わない。思い出しそうなら捻じ伏せるまで。思い出せないように胸の奥に封印するだけ。それだけのことだ。
過去は過去。今の自分に必要なのはこれからの未来だけだ。過去はもう、あの夜に捨てて来たのだ。だから、今の自分にできることはたった一つだけ。
――堕神・淘魔の存在をこの世から消し去ること。在ってはならぬ存在。それこそがすべての元凶だ。
それが原因で自分はぬくもりを知った。それが原因で自分は弱くなった。借りは返そう。今度は貴様が、不幸になる番だ。その引導を渡すのは他の誰でもない、この姫神である。使命を果たそうではないか。原則を思い出そうではないか。何を置いてもまず、この世から堕神の存在を消し去れ。思い起こそう。そして完全に思い出そう。あの頃の自分を。鬼神と呼ばれていた頃の自分の力を。あの頃の自分は無意識に力を制御していたのをわかっていた。
開放しよう。失うものはもう何も無い。欲しいものも何も無い。だから開放しよう。その影響でこの町に住む人間がどうなろうと知ったことではない。自分は、与えられた役割をただこなすだけの神だ。他の神から鬼神と恐れられたのはこの姫神だ。原点に戻るだけ。そうだ、それだけだ。
開放しよう。自分の中に秘められた、この力を。
姫神がすっと目を閉じた数秒後、その目を開いた刹那、周りの木々が根こそぎ圧し折れた。葉がまるで風に乗せられたように高々と吹き上げられる。それは、ある種の衝撃波だった。姫神が通った道のりに沿い、何十年も経て育った木々が一瞬で圧し折れて行く。その度にそこに巣を作っていた鳥達の鳴き声が森に響き渡る。その中で、緑色をした小鳥が一羽、駆け抜ける姫神を寂しそうに見つめている。
しかし姫神は、そんな光景にもまったく興味を示さず、ただ、もうすぐだ、とだけ思う。今度は引けを取らない。隙など見せはしない。ぬくもりを持っていた頃の自分はどうしようもなく弱かった。なにせ『東仙雫の姿をした殻神に名を呼ばれたくらいで、真術を止めて動きを封じられてしまう』のだから。だが、もうそんなことはない。過去は切り捨てた。名前も感情も喜びも笑顔も、そしてぬくもりさえも捨てて来たのだ。もはや自分を止められるものは存在しない。突き進もう。堕神を、この世から消滅させよう。そう、それが鬼神・姫神だ。
全身を駆け巡る力の制御を、完全に開放する。同時に圧し折れる木の範囲が広がる。これが、今現在の最高潮だ。しかし昔の自分に秘められた力はまだまだこんなものではない。まだ上を目指せる。もっと威力を高められるはずだ。そして、小細工は一切無い。神に与えられた唯一のもの、真術。堕神へと身を堕とした淘魔には使えない気高き術。これで、貴様の首を断ち切る。
前に出した右足に力を込め、地面を抉りながら姫神は空に舞い上がる。木々に囲まれたそこから、視界が一気に開けた。木々が無くなっている、草が生い茂った草原。山の頂上だ。上空から見据えるそこに、一人の男が佇んでいる。距離を隔ててもはっきりと視線が噛み合う。淘魔は、なおも笑っていた。その表情を見た瞬間、なぜか頭に血が昇った。
殺してやる。開放した力が一瞬で凝縮され、右手で標準を合わせ、意識せずともそれを詠っていた。
「真術・風の句・二節――《迅壊(じんかい)》!」
刹那、姫神の右手から一陣の衝撃波が生まれる。一陣の刃、触れれば何もかも切り裂く突風。
以前よりも、その威力は確実に増していた。比べるにも値しないほど、真術の威力が上がっている。ぬくもりを知ってしまった自分の力と、鬼神であった頃の自分の力は、やはりまったくの別物だった。
風は上空から獲物の首を狙う。淘魔はゆっくりと流れるような動作で地面に両手を押さえ付け、殻神を出現させた。一体ではない、その数合計にして八体。淘魔の表情から笑みが消えていることを見ると、どうやら気づいたらしい。姫神が、以前の姫神ではないことに。風は一体目の殻神を切り裂くくらいじゃ勢いを衰えることもなく、真っ直ぐに獲物を狙いに吹き抜ける。六体目までは問題なかったが、七体目の殻神の胴体を切断した際に威力が完全に弱まり、八体目の殻神には何の影響も及ぼさなかった。が、その光景を見ながら姫神は一つの確信を抱く。もし先ほどと同じ状況になったら、次は殺せる。
長い跳躍の後、姫神は草原に降り立つ。数メートルを残して対峙する淘魔を見据える。
「……どういう心境の変化だ? 驚いたぞ……あの頃のお前が、完全に蘇っているじゃァないか」
淘魔にまた笑みが戻って来る、妃奈の頭にまた血が昇る。
「黙れ。今日を持って、貴様の存在を消し去る」
「その言葉を聞くのは一体何度目だったかなァ? やれるモンならやってみろよ、『妃奈ちゃん』」
姫神の目つきが変わった。瞬間的に先と同じ言葉を詠い、そこを中心として一瞬で草原の草が毟り取られた。舞い上がって森に消えた草の下から現れたのは味気無い地面。
そして、淘魔の視界が舞い上がったその草で僅かに遮られた瞬間、そこにいたはずの姫神の姿は無くなっている。勘、だった。淘魔は体を全力で右に反らす。風のように速く、寸前までそこにあったはずの淘魔の体目掛けて一陣の刃が吹き抜ける。それは地面に縦一線の傷跡を残して過ぎ去り、先ほどの攻防で一体だけ残っていた殻神を真っ二つに切断した。
風化して行く殻神を見ながら、淘魔は背後に回っている姫神に気づいた。淘魔はただ一つ、迅い、とだけ思う。
姫神はただ一言だけ言葉を漏らす。
「次は、確実に貴様を切断する」
「……こりゃァまァ驚きだ。手加減してもらってるのかい、おれァ。……非礼を詫びる。おれが悪かった。……――ここからは、おれも全力でお前を食らおう」
淘魔は地面に両手を当て、ぬァアッ! と声を張り上げる。地面が揺れ、剥き出しになったそこから姫神を囲むように数十体の殻神が這い出て来る。
姫神は辺りを一度だけ確認すると、その場にしゃがみ込んだ。殻神が四方八方から突っ込んで来る。それを横目で確認しながら詠う。
「真術・土の句・四節――《地天(ちてん)》」
数十体の殻神の足元から、一挙に無数の小さな何か突き出てくる。
まるで転地が逆になったそこから、雨が降り注いでいるかのようだった。地面から浮き出たそれは、一粒一粒が石のような細かな塊で、しかし各々に意思を持っているかの如く殻神を貫いては空に消える。姫神の周りを囲んでいた殻神が一体、また一体と風化して行くその中で、たった一体の殻神だけがそれを避けながら姫神に攻撃を仕掛けて来る。
その場から飛び退く。地面が殻神の攻撃で抉られ、姫神は空に突き上がった飛礫(つぶて)に意思を投げかけてその殻神の息の根を止める。そして、風化して行くその殻神に注意を引かれ、淘魔の姿を見失ってしまっている自分に気づく。
又しても声は、耳元で漂う。
「――食らえ」
自分の体が空中にあったことを今更に思い出し、咄嗟に身動きが取れなかった。それでも姫神は身を捻り、
遅かった。振り下ろされた淘魔の腕は、姫神の腹部を確実に捕らえる。物凄い圧力がかかり、体が地面に吸い寄せられるように突っ込んで行く。その一秒も無いであろう状況の中で、姫神は体を回転させて衝撃を殺して地面に着地する。
そこから離れた場所に淘魔も着地した。その顔からは笑みが消えている。真剣に姫神を食らおうとしている証拠だった。
どうするものか。姫神はそう思う。殻神の本来の使用手段は攻撃ではない。それは、攪乱である。殻神を数十体単位出現させ、それに攻撃をさせて避けたところへ追い討ちをかけて相手を仕留めるというのが本来の堕神の戦闘手段だ。このまま争い続けても埒が明かないのは明白だった。現に、これまでがそうだったのだから。何か決定的な隙を作って攻撃しない限り、両者の争いは決して終ることがない。それが神と堕神の戦いだ。
だったら、答えは一つ。今までの自分ではできなかったこと。それが、今ならできるはずだった。そもそも神が真術を発動させる際に詩(うた)を詠わなければならないのと同様、堕神が殻神を出現させる場合には両手を地面に押し当てて力を送り込み、大地と融合させて具現化させる必要があるのだ。神は両腕を使えないようになったとしても、詠うことさえできれば真術を使える。しかし堕神は両腕を落とせば殻神を出現させることはできなくなるのだ。そしてそれは、物理攻撃しかできない堕神の攻撃力を完全に絶やすことに繋がる。もちろん相手もそれを最も警戒して守りを硬くしているだろう。だが、関係ない。今の自分になら問題は無いはずだった。やるべきことは一つ、淘魔の腕を切り落とす。
狙いを定め、姫神は詠う。
「真術・風の句・四節――《風陣刹(ふうじんせつ)》」
風が舞う。姫神を中心として、目には見えない無数のカマイタチが発生する。削岩機のように地面を抉り取りながら、真っ直ぐに堕神を切断しようと舞い狂う。
瞬間的に迫り来るそれに、淘魔は両手を地面に押し当てて気合の一声と共に殻神を再度出現させる。数にして五体。淘魔は舌打ちする。予想していた数より少ないのだ。それだけ、この真術は速かった。そしてその五体の殻神は、カマイタチに触れると同時に木っ端微塵に砕かれた。まるで紙のように頼りないその姿に悪態を付き、淘魔は上空に逃げる。
姫神は逃さない。視線を跳び上がる淘魔へ向け、両手を振り上げる。カマイタチがその向きを変える。地面を這っていたそれは、一瞬で上空へ舞い上がり、淘魔を追うように突っ込んで行く。避けれないと判断したのか、淘魔は空中で身を硬くして両手を前に重ね合わせ、力を込める。それが合図になり、地面から先の影響で出現が遅れた殻神が一体だけ現れ、上空に舞い上がって淘魔を守るように立ちはだかり、カマイタチの餌食になった。
風化して行くその中から、それでも残っていた風が淘魔の体を裂いた。左肩と右足から血が噴き出し、体勢を崩した淘魔はそれでも激突するかどうかというギリギリで、地面に姿勢を低くして着地する。こちらを見据えている姫神に殺気を返す。それを見て、姫神はただ一言、浅い、とだけ思う。
淘魔がゆっくりと立ち上がる。
「……テメぇ、一体誰だ? 腑抜けたお前とも、鬼神と呼ばれていた頃のお前とも違う。お前は、一体何者だ?」
知れたことだった。
「鬼神・姫神。貴様の存在を、消し去る者だ」
淘魔の表情から完全に余裕の笑みが消えていた。
「そうかい。だがなァ、そりゃァ甘めぇぜ。お前はおれには勝てない。なぜなら、お前には欠点があるからだ」
確かに昨日までの自分は欠点だらけだっただろう。それは認めよう。
だが、今は違う。敗因の要素はもう何も無い。今度は、切り裂いてくれよう。隙を見せはしない。消し去ってくれる。
淘魔が地面に手を押し当てる、大地が揺れる。これまでの比ではない。這い出て来る殻神の数もこれまでとは違うだろう。
しかし関係ないのだ。目の前の存在を、殺すだけ。それだけだ。そう思い、姫神が口を開こうとしたそのとき、唐突に右手から熱があふれ出た。驚いてそこに視線を移すと、なぜか刻印が浮かび上がっていた。それは、神と人間が契約したときだけに現れる紋章。神と契約者を繋ぐ唯一の目に見える絆。それはつまり、奉り神である姫神と、人間である天野詠志を繋ぐ絆だった。しかし、なぜ刻印が浮かび上がるのかがわからない。自分から念じた訳ではない。ならばなぜ、刻印が――?
答えは、すぐに出てしまった。契約者である、天野詠志が自らそれを望んだから。が、それは不可能なはずだった。なにせ彼の記憶からは姫神のことは愚か、契約のことすらも封印されているはずのなだから。だが現にこうして浮かび上がってしまっている。推測するのは簡単だった。天野詠志に施した真術を、天野詠志自身が打ち消した。しかしそれは不可能なはずだった。人間が真術を打ち消すなど、まさかそんなことがあるはずない。あっていいはずもないのだ。なのに、どうして――?
それが、堕神との戦いで見せた決定的な隙へと生まれ変わる。動揺する姫神の瞳の動きに、淘魔は勘付いていた。表情に、あの笑みが宿る。地面に付けていた両手に、今までとは比べ物にならない量の力を注ぎ込む。隠し玉を取ってはいたが、今の姫神にはもしかしたら通用しなかったかもしれない。そうなれば分が悪いのはこちらだった。鬼神と呼ばれていた頃の姫神よりも、今の姫神は強かった。もし隙が見つけられなければこちらが負けていたかもしれない。しかし、こちらから仕掛けなくても、姫神は隙を見せた。それが、自分への勝利へと繋がることを淘魔は確信していた。姫神は、何も変わっていない。
地面に送り込んだ力の波長を合わせ、殻神を構成する。体に宿る有りっ丈の人間の感情を注ぎ込む。それに比例して殻神はその数を増す。一体、二体、三体。そこから先は一気だった。一秒も必要なかった。全力の力は、一瞬で七八体の殻神を作り出した。それがこの山の山頂を覆い尽くすかの如く広がって行く。現れた殻神の中に淘魔は姿を隠す。
姫神はやっと我に返った。違う、今はそんなことを気にしている暇はない。もう捨てて来たはずのものだ。集中しろ、目の前の敵を殲滅しろ、今はただそれだけのために行動しろ。辺りを完全に殻神で取り囲まれていた。だいじょうぶだ、これだけの数がいても乗り切れるはずだ。だって、これまでがそうだったのから。だからだいじょうぶだ。集中すれば問題はない。
姫神は風に乗せて詠う。
「真術・火の句・二節――《劫火乱舞》」
刹那、辺りを舞っていた風が炎と化した。姫神の視界が届く範囲がすべて炎に包まれる。そこにいた殻神も例外ではなく、荒れ狂う劫火に飲み込まれた。次々と風化して行く殻神の中に、神経を研ぎ澄まして淘魔の姿を探す。
だが炎に包まれてもなお攻撃を仕掛けて来る殻神にそれを遮られる。殻神を飲み込んだ劫火は、七八体の内、五三体を瞬時に消滅させた。しかしそれでもまだ残っていた殻神の攻撃が伸びて来る。それを一つ一つ確実にかわしながら必死に淘魔の気配を追い、視界に入った殻神を片っ端から焼き払う。それを何度か繰り返した後、唐突に淘魔の気配を感知する。
姫神の真下だった。その場から跳び上がり、地面に向けて荒れ狂っている炎を凝縮させ、打ち放つ。大地に爆発にも似た影響を及ぼし、姫神の真下に巨大な穴が開く。土煙が晴れ渡ったそこにいたのは、一体の殻神だけだった。それがゆっくりと風化して行く中、姫神は自分の言葉に嫌気が刺した。これまでがそうだったからだいじょうぶ、だと。これまでを捨てて来たのに、なぜ過去を振り返る。これまでの一〇〇年は殻神だけの戦いだったのだ。そんなもの、堕神が入ったこの戦いの中には何の意味も持たない。堕神が加わることにより、殻神はその真価を発揮するのである。
そう。こんな風に。
背後から淘魔による巨大な一撃が振り下ろされる。気配を感じたときにはすでに、背中に直撃していた。自分でも意識しないのに呻き声が口からあふれ、とんでもない速さで地面に叩き付けられた。口の中から生温かい血液が流れ出す。それを吐き出しながらふと視線を上げたそこに、炎に包まれてもなお生き残っていた真っ黒に焦げた殻神がいた。振り上げた腕を姫神に叩き付けるように落とす。反射だけでそれを避け、地面を転がる。
体勢を立て直し、立ち上がった瞬間に淘魔の声を聞く。
「鈍い」
振り返り、無意識に詠う。
「真術・風の――」
「遅い」
頬を殴られ、意識が一瞬だけ飛ぶ。
次いで腹に拳を打ち込まれ、よろめいたその頭に蹴りを食らった。自分でもわからないほど吹き飛ばされた。次の瞬間には遠く離れていた所にあったはずの木に激突している。虚ろな瞳で見たそこに、追い討ちをかける堕神を見た。言うことを聞かない体を前に倒し、地面に横たわる。刹那、先ほどまで姫神がいたその木が弾け飛んだ。狙いを外した淘魔は、それでも自信に満ちた表情を崩さずに姫神から離れる。
言うことを聞かない体を何とか奮い立たせて起き上がる。口の中にある血を吐き出し、手の甲で拭う。視界が霞んでいた。
「おいおい、もう終いか? さっきまで威勢はどこに行ったよ? ……やはりお前はおれには勝てねぇよ」
「真術・火の句・七節――《龍炎火》!」
手から噴き出た龍は、淘魔に襲いかかる。一方の淘魔は殻神を出現させることもせず、それを腕で薙ぎ倒した。
力が入らない。淘魔の攻撃は、正確に急所を狙っていた。拳さえも全力で握れないほど、体が麻痺している。まだ過去を引き摺っている。まだ過去を捨て切れていない。思い出せ。力をさらに解放させろ。失うものはもう何もないはずだ。現契約者との関係は昨夜で完全に断ち切れた。刻印があるからなんだと言うのだ。こんなもの、飾りに過ぎない。だから、思い出せ。完全なる鬼神に戻れ。目の前の堕神を、殺せ。頭の中にあるそれを弾き出せ。胸の奥に封印しろ。
平然と歩み寄り、淘魔は笑う。
「神と堕神の決定的な違いは何か。それァ、攻撃に移るまでの時間差だ。おれは瞬時に数十体の殻神を出現させることができる。が、お前はイチイチ真術の詩(うた)を詠わなきゃァなんねぇ。その時間差こそが、すべてを決する。確かに、つい数分前までのお前ならそれを物ともせず、おれに立ち向かって行けるだろう。だが何が原因になったかァ知らねぇが、隙を見せたテメぇが間抜けだ。お前はまだ甘さが抜けてねぇんだよ。そもそもお前は一五〇年前の、おれが東仙に憑いたときから甘いんだよ。あのとき、東仙に構わず全身を消し飛ばしていれば今頃おれはこの世にはいないはずだった。だがお前はそうしなかった。だから、甘いんだよ。……どれ、試してやろう」
すぐそこまで来ていた淘魔は、地面に手を付いてそれを引き摺り出す。それは瞬時に形を変え、人間の姿へと近づいて行く。
「気づいているよなァ? これァ、東仙雫だ。おれがこいつに憑いたときに得た思わぬ副産物だ。お前に、こいつを傷つけ――」
過去は、そう。切り捨てたのだ。もう引けは取らない。わたしは、鬼神だ。
その手で、姫神は殻神の顔を砕く。目を見開いてそれを凝視する淘魔を睨みつけ、姫神は絶叫する。
「黙れ淘魔っ! わたしは姫神だ! 鬼神と呼ばれ、他の神から恐れられた神だ! 人間など、人間などもはやわたしには関係ないっ!!」
気づいたら、瞳から何かがあふれ出していた。熱い、何か。捨てて来たはずのもの。神には不要なもの。
姫神が弱くなってしまった最大の原因が、自分の瞳からポロポロと流れ出る。
「――ッハァ! かァっはっはっはァっ! 関係ないと言いながら泣くテメぇは、もう戻れねぇんだよ。お前は、鬼神なんて神じゃァない。お前は、弱い」
淘魔は本当に嬉しそうに笑う。
「おれの最後の隠し玉だ。昨日の晩、ヤツの意識を見たときに引っ張り出した。東仙のときにコツは掴んでたからな、簡単だったぜ」
手を地面に押し当て、先と同じ動作で何かを引き摺り出す。大きさは先ほどとあまり変わらない。
それは、形を変える。姫神が今、一番見たくない顔。そして、一番聞きたくない声で、それは捨てた名を呼ぶ。
『妃奈』
その場に膝を着く。体が震え出す。
捨てて来たはずのものが蘇って来る。それは力を奪い、戦闘意欲を奪い去った。封印したはずのぬくもりが鮮明に手に広がる。自分がどんどん弱くなっていることに気づく。このままじゃ駄目だ。捨てて来たものだ。思い出すな、忘れろ、立ち上がって目の前の敵を殲滅しろ。別の理由で体が言うことを聞かない。逃げたくなっている自分がいる。今すぐにでもぬくもりに身を任せたくなっている自分がいる。途方もなく弱くなっている、自分がいる。
姫神は、ただ思う。
――……お願い、します……わたしに、それを、思い出させないでください……っ。
首を鷲掴みにされ、体が無理矢理持ち上げられる。
息ができない。視界の中には、堕神がいる。変貌を遂げている殻神はその隣に佇んでいる。
「こいつが恋しいか? こいつが大切か? こいつが、お前のすべてか?」
淘魔は殻神の顔を砕く。その体が風化して行く。
失いたくはない。大好きなぬくもりをくれた彼を、失いたくはない。
過去は捨て切れていなかった。ぬくもりを、ついに自分は忘れられなかった。心の奥底では常に思っていたこと。変えようもない事実。どうしようもない本音だった。
大好きな彼と、繋がっていたかった。
本当は名前も感情も喜びも笑顔も、そしてぬくもりも、捨てたくはなかった。
わたしは、姫神。その名を、妃奈。わたしの、大好きな名だ。
最後の力を振り絞り、妃奈は叫ぶ。
「《火炎波動》っ!」
球体が出現し、炎が渦巻く。
「――なっ!?」
それが、淘魔の顔に打ち出される。
爆風と爆音が響き渡る。
右手の刻印が、熱かった。
◎
バス停に向かっていたはずの足が、いつの間にか祭りの広場に辿り着いていた。目の前にある小さな石段を見つめ、やっとその事実に気づいた。無意識に進めていたはずの足がここに向いている。どうしてここに来たんだろう、と詠志は思う。もしかしてまだ、自分は心の奥底で祭りを楽しみたいなどと思っているのではないだろうか。昨日、あれだけ遊んだのにまだ遊び足りないなど、我が事ながらやはり情けない。
しかし来てしまったものは仕方がない。少しだけ寄ってみようか。ポケットの中から携帯電話を取り出し、時刻を確認する。十二時三十四分だった。少しだけ見て回って、急いでバス停に向かえば間に合わない時間ではない。折角だし、見て来よう。クマのキーホルダーが付いた携帯電話を手に持ちながら、詠志は十段ほどしかない石段を上る。
そこに、昨日のような活気はなかった。大喝采も太鼓の轟きも店主の客引きの声もロケット花火の音も客の喧騒も、何もなかった。静かなものだった。大きな広場には、祭りの残骸だけが残っていた。櫓はすでに取り壊され、屋台も大半が折り畳まれている。それでも焼きそばなどの食べ物屋だけはひっそりと営業を続けていて、祭りの残骸を片付けようと作業をする人にとっては嬉しいものだ。『大酒飲み勝負!』と書かれた屋台の近くには数人の大人が転がっている。まだ起き上がれないのだろう。祭りは、もう終ってしまったのだ。
その中に、詠志は足を踏み入れる。何の宛ても無く、ただぼんやりと広場を横切った。昨日の思い出が蘇る。焼きそばやたこ焼きの美味さと綿飴の甘さ。輪投げや射的の興奮、出鱈目に回った遊戯の数々。結局、自分は一個も景品を取れなかったはずだ。何か無性に敗北感を味わったのを憶えている。ふと手に持っている携帯電話のクマが視線に入る。――そう言えばこれはどこで取ったんだっけ? ああそうだ、輪投げだ。と言うと一個も取れなかったというのは勘違いだろうか。でもまあ、こんな大きな祭りに来てクマのキーホルダーが二つというのは、敗北感を味わうには十分だ。それにお化け屋敷で散々脅かされた。それが止めただったに違いない。
そんなことを思い返しながら歩き続け、またしても気づいたらそこに立っていた。目の前にあるのは、周りを木々に囲まれた小さく長い石段。頂上に少しだけ赤いものが見える。たぶん鳥居だろう。唐突に、この上に何かあったろうかと思う。昨夜、確か自分はここを上ったのではなかったか。その理由は何だったか。ああそうだ、花火を見るためだ。だから『立ち入り禁止』の立て札を通り抜けてまで入って行ったのだ。納得した自分に満足気になり、詠志は踵を返そうとして、
誰かに呼ばれたような気がした。視線を石段の先に戻す。風が石段を駆け上がるように詠志を通り越して吹き抜けて行く。この先に、誰かいるのだろうか。先ほど確かに呼ばれたような気がしたが、ただの勘違いだったのだろうか。空耳、だったのだろうか。もしかしたら自分がここに来たのは、本当は偶然ではなく呼ばれたからではないのか。
そんな訳ないか、と詠志は苦笑する。そもそも誰に呼ばれると言うのだろう。まだこの町に未練があるのか、今年はこれで終わり、来年また来ればそれでいいはずだ。だから、今年はこれでお終り。また踵を返そうとして、手に持っていた携帯電話を思い出す。ディスプレイを覗き込む。時刻は十二時四十五分。まだ間に合う時間帯だ。だけど――
いいからさっさと帰れよ、と言う自分がいる。しかしもう一方で、この石段を駆け上れと言う自分がいる。どうするか。どうするもこうするもないだろ、今すぐバス停に行けよ。そりゃまあ確かにお前はお人好しだ、この先にもし行き倒れの女の子でもいたらおれも何も言うまい。だがな、この先には当たり前だが誰もない。誰もいないのにお人好しもクソもないだろ。そんなことでもしバスに乗り遅れれば、お前は絶対に豪い目に遭うぞ。宿題が襲いかかってくるぞ。わかってるだろ、さあ、我が町へ帰れよ。
考えていたのは数秒だけだった。詠志は携帯電話をポケットの中に入れ、そこから出ているクマのキーホルダーを握る。この世で一番強いのは馬鹿のはずだった。詠志は石段を駆け上がる。この先に何がある訳でも誰がいる訳でもない。それならそれでもいい。でも、もしかしたら何かあって誰かいるかもしれない。後で後悔するくらいなら行動に移した方が何倍も何十倍もマシだ。だから、行くのだ、この先に。
石段を上り切った瞬間、大きな鳥居が完全に視界に入った。たった数十秒しか走っていないのに流れる汗を無視して、鳥居を潜り抜け、そして詠志は一つの神社を見つける。昨日もここに来たのなら見たことがあるはずなのだが、なぜか初めて見るような錯覚に陥る。ゆっくりと、その一歩を踏み出す。太陽の光が射し、影を作り出すそこに、この神社に奉られている神様の名を目にした。
そこには、木彫りでこう書かれている。
――《姫神》――
盛大に聞こえるセミの声を聞きながら、気づいたら、頬に汗ではないものが伝っていた。
「……え?」
間抜けな声が漏れた。
手をそこに触れると、信じ難いことに、自分は泣いていた。大粒の涙を流しながら、なぜか泣いていた。
何で泣いているのだろう、と詠志は思う。止まれ、と念じるが一向に止まる気配はなく、それどころか遅れて嗚咽があふれて肩が震え出した。胸が痛い。何かで切られた訳でもぶつけた訳でもない。なのに胸が痛い。胸の中を、何か見えない鎖で締め付けられるような感じがする。あり得ないとわかっていても、なぜかそう思えて仕方ない。何だろう、この痛みは。何だろう、この想いは。なぜ、自分は泣いているのだろう。この神社がどうかしたとでも言うのだろうか。
姫神って何だ? この町の神様か? どうして自分はそんな神様に向けて泣いているのだろうか。
どうして、自分は、その神様のことが――こんなにも、愛おしいのだろう。
――自分は、その神様のことが、大好きだった。
頭の中でノイズが走り抜ける。頭痛がした。あまりの痛さにその場に膝を着く。頭が割れそうだった。頭痛に乗せて途切れ途切れの断片が、まるでパズルのピースのように詠志の中を駆け巡る。これは何だ? この映像は一体何なんだよ? 知らない光景が詠志の頭の中を支配する。その中で一人の女の子を見る。巫女装束に身を包んだ年下の女の子。笑うと本当に幼くて。怒るととんでもなく恐くて。一緒に笑顔で祭りを回り、一緒にお化け屋敷にも入った。手を握ったら、笑って握り返してくれた。大好きだった。この女の子が、大好きだったはずだ。この女の子は、一体誰だ? どうして知らない女の子が大好きなんだ? この映像は、一体どこから出て来ているのだろう。
パズルが、最後の一欠けらを残して凍りつく。その一欠けらの在りかをどうしても思い出せない。そこにこそ、最も大切なことが眠っているはずだった。そう、彼女が誰なのか知るための最後のピース。彼女の名を知るための最後の一欠けらだ。
ポケットから出ているクマのキーホルダー。照れ臭そうにお揃いだからですと言っていた。嬉しかった。このキーホルダーを取ったのは自分ではない。このキーホルダーを取り、そして片方を自分にくれた相手は、そう、彼女だ。最後の一欠けらに手を伸ばす。この町に残りたいと思った本当の理由、それは、祭りのためではない。この町で、夏休みの最後まで彼女と過ごして行くと決めたからだ。約束したのだ。守ってやると。お前が守ってくれるのならおれも守ってやると。小指を重ね合わせ、おまじないを言い合った。自分はまだ約束を守っていない。守られているばかりではいられない。約束を果たそう。おれが、お前を守る。
最後の一欠けらが、詠志の手の中に納まる。そしてパズルは、完成する。
何もかも思い出した。頭痛が止む、詠志は立ち上がって涙を拭う。
姫神。それは、この町に奉られている神様。そして、天野詠志と契約した神様だ。
その名を、妃奈。姫神の妃奈だ。
詠志の、大切な女の子だ。
声が聞こえたのは、その瞬間だった。
『妃奈を、助けに行きたい?』
聞いたことのある声。どこで、と問われれば明確な答えを返すことはできないが、それでも詠志は脳に直接語りかけてくるようなこの声を知っている。
確信がある。妃奈の声が蘇る。「……ここは、雫様が眠る場所です」。つまり、この声の主は、
『霊力が高過ぎるってのも考えものよね、ゆっくり眠れないし』
かつての姫神の契約者であり、妃奈にすべてを与えた女性。
それが、東仙雫。
『それで、もう一回言うね。君は、妃奈を助けて行きたい?』
不思議と疑問はなかった。違和感もなかった。
言えることはただ一つだけ。
「……助けに、行きたいです……」
拳を握り締め、神社を見据える。
柔らかな笑い声が聞こえた。
『うん、それでこそ妃奈が選んだ子だ。わかった、わたしが君の力になる。残しといた最後の力、君に譲るわ。行こう、妃奈の所へ』
「場所は……?」
『それはわたしより、君の方が詳しいんじゃない? 心を澄まして、妃奈に呼びかけて』
言われた通りに心を澄まし、念じるように妃奈に呼びかける。
唐突だった。右手の甲が熱を帯びる。刻印が浮かび上がっていた。それと同時に、鮮明に何かが頭の中に流れ込んでくる。不思議な感覚だった。まるで自分が正確なレーダーにでもなったような気分。妃奈が今、どこにいるのかをはっきりと感じられる。妃奈と繋がっている自分が、確かにここにいる。
妃奈を、助けに行こう。
肩に掛けてあったバックをその場に放り出し、詠志は走り出す。
雫の意外そうな声が聞こえる。
『あれ、そっちなの?』
「石段から行ったら遠回りになる。だから、突っ切る」
『――そっか。じゃ、行ってみよう』
詠志は神社の横を通り越し、道が無い森の中へ身を躍らせる。急斜面を滑るように駆け下り、体を打つ木の枝になど気を払わずに突き進む。普段の自分なら絶対にこんなことはできないよな、と思う自分がいた。それは詠志が特別な力に目覚めたからなのか、それともこれが雫の言う力なのだろうか。が、どっちでも関係ない。妃奈の所まで、突っ切るだけだ。
妃奈は今、あそこにいる。蛍を一緒に見た場所だ。妃奈と共に、この町で過ごして行こうと決めた、あの山の頂上に、妃奈はいる。数秒しか経っていないのに森を抜け出した。体中が痛いが気にも止めない。足場がいきなり畑になっていたが、そこをさらに突き進んで道路へと流れ出る。全速力で走っているのにも関わらず息切れ一つしない。体が軽い。不可能なことはないとすら思う。
道路から逸れて再び森の中に入り、今度は急斜面を駆け上る。途中、釣りをした川を見かけた。あと少し登れば、妃奈の所に辿り着けるはずだった。そして、詠志は奇妙な光景を目にする。森の中の木々が、無差別に圧し折れていた。ただ、よく見ればそれは無差別というよりは、何かが通った後に沿って倒れたように見える。そこを辿って行けば倒れた木に邪魔されることもなく進めて、何が起こっているのか気になりさらにスピードを上げる。さらに木が折れている範囲が広くなっていることに気づくがそれを敢えて無視した。
雫のつぶやきが聞こえた。
『……開放、してるのかな……』
(開放って?)
口に出すことができず、心の中で思う。それで通じるかどうか不安だったが、雫は答えた。
『ううん、こっちの話。それより、聞いて。もうすぐ妃奈の所に着く。たぶん、苦戦していると思うの。だから、君が助けてあげて』
それはわかっている。が、唐突に殻神に圧し潰された感触が体に蘇った。助けようと思ってここまで来たが、結局のところ、自分に何ができるのだろうか。また、足手纏いになってしまうだけではないのだろうか。
『だいじょうぶ、わたしが力になる。君は言霊を乗せればいいだけだから』
(言霊って何!?)
『わたしの言う通りに復唱すればいいだけ。わかった?』
返事の変わりに肯く。と、雫は少しだけ寂しそうにこう言った。
『君の名前、訊いてもいいかな?』
即答する、
(天野詠志です。東仙雫さん)
『そっか。良い名前だね。……妃奈を、よろしく』
(雫さん?)
『来るよ、前向いて神経集中させて!』
視界が開けた。そこは、かつて来た場所とは思えなかった。
伸びていた草はすべて毟り取られ、地面は焼け焦げ、そして何より、そこにいる妃奈と淘魔の体勢が信じられなかった。
淘魔は妃奈の首を鷲掴んで持ち上げ、何事かをつぶやいている。頭がかっとなった。
『落ち着いて、いい? 堕神の右手に意識を集中して、わたしの言った通りの言霊を乗せて。あとはわたしが全部するから。いい?』
その問いに、詠志は妃奈の首を掴んでいる淘魔の腕に意識を集中させることで答えた。
『うん、いい感じ。行くよ。――斎戒一種(さいかいいっしゅ)・破壊せよ』
詠志は叫ぶ。
「斎戒一種・破壊せよ!」
『縛道の壊――』
「縛道の壊――《破戒刹》!!」
体を突き抜けて何かが流れ出す。
刹那、それが弾けた。
◎
焼けた臭いが漂う煙の中から現れたのは、無表情の淘魔だった。そして、その煙を出しているのは淘魔の左手。黒く焼けたそこから嫌な臭いを発して煙が出ている。
妃奈の首を掴む右手に力が篭り、淘魔はつぶやく。
「……詠唱破棄、か……やってくれる」
無表情が余裕のあふれた笑みに変わる。
「が、やはり威力は下がるような。もし完全な真術ならおれの首から上を吹き飛ばしていただろうよ。だが結果はこれだ。……お前の、負けだ」
妃奈の体から力が完全に抜ける。もはや力は残っていなかった。
真術とは、無限のものではない。連続して使えば底が尽きるのは当たり前だった。結局の源は、霊力なのだから。神の霊力を持ってしても真術の連用は確実にその量を削り、淘魔の攻撃によりそれが完全に霧散していた。一方の堕神は、この世に人間がいる限り力が減ることはない。堕神の力の源は人間の負の感情。それが無くなることはまずない。だからこそ、堕神が殻神を産み出す力こそ無限なのだ。
もはや勝ち目はなかった。妃奈はその場で目を瞑る。最後に、もう一度だけ、逢いたかった。大好きな彼に。そして最後にもう一度だけ、感じたかった。大好きなぬくもりを。もう叶わないのだろう。ここで姫神はその意識を食われるのだろう。
ごめんなさい、雫様、ごめんなさい、詠志様……。瞑った瞳から涙が一節だけ流れ落ちた。
淘魔は笑う。左手をゆっくりと持ち上げ、そして、
膨大な霊力が凝縮する気配を感じた。気づいたときには何もかも手遅れだった。力の凝縮先は、淘魔の右腕の中。どうすることもできはしない。
巨大な霊力が、そこで弾けた。
堕神の右腕が完全に消滅する。
「がァッ、ァアッア、ぁあああああァああああああァああああああああああァアァアアァッ!!」
獣のような叫びを上げ、淘魔は後ずさる。
支える力が無くなった妃奈の体がその場に落とされ、何が起きたのか理解できずに目の前の光景を見つめる。淘魔の右腕が無くなっている。しかしどうしてなのかがわからない。自分は何もしてない。そもそもできるだけの力が残ってもいない。この辺りでそんなことをできる人物も知らない。一体誰が、
その問いを返したのは、あろうことか淘魔自身だった。右腕が消滅した箇所を睨み付け、苦悶の表情を浮かべながら言う。
「こ、これァ東仙の縛道の壊……っ!? な、なぜヤツが今更……っ!? ぬぅがァ、ぐァあ゛あ゛ァアッ!!」
縛道の壊。それを使いこなせたのはただ一人、東仙雫だけだ。
だが彼女はすでに死んでいる。この世にいるはずがない。でも、
そして、妃奈の中に声が響く。
『何やってんのよ、妃奈。これくらいで腰を抜かしてるの?』
「……雫、様……っ? どう、して……?」
『細かいことはどうでもいいじゃん。とにかくさ、あいつを消滅させよう。せっかくわたしと詠志くんが協力してあげたんだから、失敗はなしだよ』
遠くで詠志の声が響いた。
「妃奈っ!!」
「……詠志様……っ!」
涙があふれ出る、
『さ、やりな。あんたは強い。わたしが認める。あんたは一人じゃない。わたしも、そして詠志くんもいる。だから――思いっ切やれ!』
力が戻って来る。
他の神から恐れられた鬼神ではなく、ぬくもりを知って弱くなった自分でもなく、新たな力を得よう。奉り神である姫神は、ここに生まれ変わる。名前も感情も喜びも笑顔もぬくもりも、すべてを持ち、なおも強くあろう。それが姫神・妃奈だ。
その場に立ち上がり、背を向けて跳び去る淘魔を見据える。
「言ったはずです、淘魔。わたしは、お前の存在を消し去る者だ、と」
視線で狙いを定め、姫神は詠う。
「真術・封の句・二節――《封殺》」
空気が凍りつく。物凄い量の霊力が大気を固定する。時の流れが止まった。
それは淘魔の周りも例外なく飲み込み、その動きを完全に停止させる。
その光景の中、妃奈はただ一人思う。
一人ではない。契約者たちは側にいてくれる。それが何よりも嬉しく、何よりも心地良く、そして何よりもあたたかい。光に満ちた未来。大好きな人たちと一緒に感じられるぬくもり。逃げるのではない。身を委ね、そして強くなるのだ。それを支えとし、さらなる高みを目指そう。できるはずだった。一人では無理かもしれない。だけど、一人ではないのだ。契約者たちはいつもそこで自分を見ていてくれる。不可能なんて何もない。どこまでも、自分は羽ばたいて行けるだろう。わたしは、ここから変わって行く。
これが、その証だ。
「わたしとお前の、永い時の中での争いに、ここで終止符を打ちましょう。これで、終わりです淘魔っ!!」
今なら詠うことのできる真術。莫大な霊力を消費するが故に不用意には詠えなかった詩(うた)。
霊力があふれ出て来る今だからこそ、この詩が詠える。
二人の契約者に、この詩を奉げよう。
両腕をまるで翼のように真っ直ぐに広げ、響き渡る綺麗な声で姫神はその詩を詠う。
「真術・封の句・零節――《神空(しんくう)》――」
凍りついていた空間が裂け、淘魔の目の前に天界への入り口が口を開ける。
奉り神・姫神の権限でここに命じる。天界の門よ。邪気を祓い給え。
光が視界を遮る。眩いばかりのその光はすべてを飲み込む。その光は、あたたかかった。妃奈の大好きなぬくもりがそこにはあった。そこに、妃奈はゆっくりと身を委ねる。
そして、契約者だった者の、最後の声を聞いた。
『頑張ったね。これでわたしもゆっくり眠れるよ。――おやすみ、妃奈』
返す言葉は決まっている。それ以外は、口に出してはいけない。
涙を流し、それでも妃奈は笑い、こう言った。
「――おやすみなさい、雫」
『…………やっと、呼び捨てにしてくれたね……………………ありがとう…………』
声が消えると同時に光が消える。
ゆっくりと、視界が戻って来る。そこには、誰もいなかった。
ただ、少し離れた場所に、たった一人だけ、立っている人がいる。
契約者、天野詠志。
妃奈の、最も大切な人だ。
妃奈は笑う。
大好きなその光へと向けて、ぬくもりを与えよう。
「……ただいま、詠志……」
詠志も笑う。
無意識に涙を流しながら、それでも詠志は笑い、その言葉を紡ぐ。
「……おかえり、妃奈……っ」
走り出す。ぬくもりをその腕に包み込む。
妃奈のぬくもりが、何よりも優しかった。
そして、それが何よりも好きだった。
妃奈の腕がそっと背中に回される。
いつまでもいつまでも、二人は抱き合っていた。
太陽が射すその中で。
風が舞うその中で。
波の音が聞こえるその中で。
セミの声が響くその中で。
神話のようなその光景は、いつまでも終ることはなかった。
「エピローグ」
――わたし、もう行くね。何か訊きたいこととかある? 今なら答えてあげるよ。
――……本当は、いろいろと訊きたいことがあるんですけど、今は一つだけ。
――なに?
――どうして、妃奈に『妃奈』って名前を付けたんですか?
――ああ、それね。えっとね、妃奈には内緒だよ。実はさ、もしわたしに子供が出来たら付けようと思っていた名前なんだ、『妃奈』って。でも本当に内緒だよ? 妃奈ってそういうことに意外とうるさいから。わたしはもういなくなっちゃうから怒られることはないけど、怒られるのは君自身なんだから。
――ええ、わかってます。怒った妃奈、恐いですしね。
――……詠志くん。最後にもう一度、わたしから君にお願いするわ。妃奈を、よろしくお願いします。
――……はい。もちろんです。
――ありがとう。じゃあ、行くね。
――雫さんっ!
――ん?
――……――ありがとう、ございました。
――……――うん。おやすみ、天野詠志くん。妃奈を幸せにしてやってね。
◎
「わたしが浄化した堕神・淘魔、つまり山海大山主は土地神なのです。定められた地域を守る神のことをそう言います。それとは違い、わたしは奉り神であり、役目は奉られたその町を守ることです。ですが、この町の人々はもうわたしの力を必要としない所まで力を付けてしまいました。見守る必要はあっても、手を貸す必要は、もうずっとないのでしょう。この町の管理はしばらくすれば蘇る山海大山主がすべて引き受けてくれると思います。奉り神は土地神とは違い、その場を離れることも可能なんです。そんなことを考える神は少ないでしょうけどね。……でも、わたしは、その少ない神の中に入ると思います。だから、その、えっと……あの、詠志?」
「ん?」
「――わたしを、詠志の町に連れて行ってもらえないでしょうか?」
「――は? ……マジで?」
「はい」
◎
結局、もう一日祖母の家に泊まることとなった。お世話になりましたと言って帰って行ったはずの詠志が戻って来たときには祖母が随分と驚いた顔をしていたのを憶えている。「バス、乗り遅れたからもう一日だけ泊めて」と言う詠志に、祖母は嬉しそうに微笑んでいた。その本当の理由を、詠志はついに気づかなかった。
夕暮れになると同時に布団へ身を委ねると、それまでは何も感じなかったはずの睡魔が一挙に押し寄せて来て、抗うよりは任せてしまった方が楽だったのでそのまま深い眠りに落ちた。寝たのが早かったからなのか、それとも何か別の理由があったのか、次の日の朝に目が覚めたのは七時半だった。しかし眠気は一切感じず、早いとは思いつつも顔を洗いに洗面所へ向かう。そこで顔を洗い、居間へ行くとそこには祖母も祖父も揃っていた。どうやら祖父の二日酔いも治ったらしい。二日酔いになったことのない詠志には、あれだけの量の酒を飲んで二日後には元通りになっているというのは普通なのかそれとも異常なのか判断ができない。よくわからなかったが、それでも「朝食食べるかい?」と言う祖母の声に「食べる」と返した。
朝食を食べ終わり、寝室へ戻ると、そこには正座をしている妃奈がいる。
そう言えば挨拶するのを忘れていたような気がする。布団の上に座り込み、改めてその言葉を口にした。
「おはよう、妃奈」
妃奈が笑う、
「おはようございます、詠志」
何だか慣れないものである。少し前までは『様』を付けて呼ぶことに抵抗を感じていたのが嘘のように、今度は呼び捨てにされる方がなぜか恥ずかしい。人間慣れれば何でも飲み込めるんだな、だから呼び捨てにも早く慣れようと思うしかなかった。
そうやって、時間は過ぎて行く。太陽が最も高い位置まで昇り、セミの声が最大になった頃になってやっと、詠志は荷物を整理した。と言っても大まかな整理は昨日で終っている訳で、服を一枚だけ突っ込んでお終りだった。ファスナーを締めたバックを肩に掛け、居間でテレビを観ていた祖父と祖母に昨日と同じ言葉を言いながら頭を下げて別れる。
玄関でスニーカーに格闘を挑んでいると、居間から見送りに来てくれた祖母に名を呼ばれた。
「詠志、」
格闘しながら、
「ん?」
祖母は言う。
「あんた、神様を連れて行くんだからちゃんとするんだよ」
「うん、わかっ――――え?」
振り返ったときにはすでに、祖母は背を向けて居間へ消えて行くところだった。
呆然とそこを見つめながら、詠志と同じように驚いた顔をしている妃奈へ言葉をかける。
「……話したのか?」
知りません、とばかりに妃奈は首を振る。
「……いいえ、わたしは何も……」
最後の最後で巨大な疑問が浮かび上がった。身動き一つせずに考えて考えて考え抜いたのだが、結局答えは出て来なかった。祖母になぜそれを知っているのか訊こうかと思ったのだが、今更また居間へ帰るのは気が引けて、何とも言えない気分のまま詠志は立ち上がる。
玄関を開け、外に歩み出た。やはり太陽は大きく、セミの声と波の音が心地良い。涼しい風に身を任せると、どうしてか疑問も何となくわかった気がする。たぶん、祖母の年に関係あるのだろう。何十年もこの町に住んでいたらそりゃあ神様だって視えるはずだ、うん。そんな訳あるかアホ、と悪態を付く自分を締め出し、数歩だけ前に歩み出て振り返る。
そこには、巫女装束を纏った一人の少女がいる。
風に吹かれ、その髪が綺麗に舞っていた。
「最後にもう一度だけ確認するけど、本当に良いんだな? おれの町に来ても。ここなんかとは比べものにならないくらいに変な所だぞ?」
なにせ太陽は小さく弱々しいし、空気は汚いし、人は多いし、排気ガスは凄いし、建物はビルが多いし、畑は無いし、セミの声は小さいし海だって見えない。ここと比べると天と地さえも違う。しかし、考えれば今の現代ではそちらの方が当たり前なのかもしれない。それに詠志の町もそんなに悪い訳ではない。もっと都会に行けばさらに酷いだろう。まだマシな方だと思う。
でも、それはそういう空気に慣れてしまっている詠志から見た意見である。この綺麗過ぎる姫之市の町に慣れているが故に、妃奈にとっては詠志の町の環境は酷になるかもしれないのだ。その辺りをどうしようもなく心配になる詠志である。
だが本音を言ってしまえば、妃奈には一緒に来て欲しいのだ。契約だけが宙ぶらりんのままこの町を離れるのは正直な話、抵抗があった。それならいっそ妃奈にこっちに付いて来てもらおうかと言うのは、詠志が密かに考えていたことだった。もちろんそれは堕神を倒していなかった頃の話であって無理だったのだが、今は違う。堕神はもういない。妃奈が望めば、どこにだって行けるはずだった。だから、妃奈の本気の答えが知りたかった。
詠志の問いに、妃奈は真剣な表情をする。
「わたしは、もう決めました。貴方の暮らす町を見てみたい。貴方が育った町を見てみたい。それに、わたしは」
妃奈が、本当に幼い表情で笑った。
「わたしは、詠志と一緒にいたいんです」
決まりだった。決まりなのだが、面と向かってそんなことを言われるとどうしようもなく恥ずかしく、詠志は曖昧な表情を浮かべながら踵を返して歩き出す。
それに妃奈が続き、詠志の横を並んで田舎の道を行く。
ふと唐突に思い出した。ポケットの中に手を入れ、それを取り出す。
「ほれ。これお前の」
妃奈に差し出したそれは、小さなクマのキーホルダーだった。
それをゆっくりと受け取り、妃奈は驚いたように視線を詠志に向ける。
「お揃いなんだろ。だからそれはお前が持ってないとな」
そう言って詠志は笑いかける。もう一つのクマは、詠志の携帯電話にストラップとして付いている。
だからこそ、このクマは妃奈が持っているべきなのだ。
妃奈はクマをそっと握り締め、今まで見たどの笑顔より優しい表情で微笑んだ。
ありがとうございます、詠志。
太陽は巨大で。セミの声は盛大で。波の音は心地良くて。時折吹く風はとても涼しい。
ここは田舎だ。毎年訪れる祖母の家がある、とんでもない田舎である。
だけどここが好きだった。そして、この町に奉られているその神様も、大好きだった。
《彼女》と出逢い、一つの神話が終る。
だったら。また、動き出させるまでだ。
さあ、始めようか。
ここから、新しい神話を始めてみようか――。
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2005/09/03(Sat)18:30:49 公開 /
神夜
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神夜さんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
やっぱりこの物語の敗因は応募を意識し過ぎたことか――、なんてことを考える神夜。何も考えずにいつも通りに突っ走って、一度すべて書いてからゆっくりと編集した方がよかったのかな、やっぱり。たまに読み返したりするセロヴァイトはやはり、何も考えず、つまりは容量もすべて吹っ飛ばして書いたために流れていたのですが(たぶん)、これは枚数を完璧に意識してたからなぁ……。ふむむ、難しいなやはり。
さてさて、この物語はこれで完結となります。今まで読んで、そして感想をくれた皆様、誠にありがとうございまいた!!感想がこれほどまでに重要なのかと思ったことはないです。いやいつも思っているのですが、この作品はいつもと違うところにある作品なのでなおさらに。一年前の青い自分が書いたこの作品、やはり登竜門に載せて皆様の感想を聞くべきだったか……っ。ですが、何やらいろいろな欠陥があるこの作品ですが、誰か一人にでも楽しんでもらえらのなら光栄です。読んでくれてありがとうございました!!
次回作は今の神夜が書く【フィーアの夜空にUFOを。】です。まだまだ青い神夜ですが、これからも感想などを頂けると感謝の極みッス!!
っと、その前に創作祭に出した読み切りを載せないとなあ。