- 『暑さも寒さも彼岸まで 第一〜二話』 作者:月明 光 / 未分類 未分類
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全角28564文字
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原稿用紙約100.6枚
「光様、朝ですよ。起きて下さい」
「ん……う〜ん……」
透き通るように綺麗な声が聞こえ、藤原光(ふじわらみつる)は目を覚ました。
寝起きの頭は朦朧としていて、なかなか目の焦点が合わない。
「目覚ましを止めて、また眠ってしまったようですね。
起きた時に朝日を浴びれば、二度寝せずにスッキリを目覚められますよ」
そう言いながら、声の主がカーテンを開ける。
柔らかい朝日が窓から射し込み、部屋を照らす。
「今日も良い天気です。きっと、明日も良い天気でしょうね」
どうやら声の主は、藤原と同じくらいの歳の女性のようだ。
「早く着替えて下りてきてくださいね。もうすぐ朝食ができますから」
そう言い残して、彼女は部屋を出た。
少し経ってから、藤原は上半身を起こし、思いっきり体を伸ばした。
そしてベッドから降り、制服に着替えた。
リビングに向かうと、一人の女性がキッチンに立っていた。
身に纏っているのは、白と黒を基調とした清楚な服装。
大和撫子の象徴とも言える黒く豊かな髪は、先端付近で束ねている。
容姿とさっきの声を総合すると、二十歳前後と考えるのが妥当だろう。
藤原の存在に気付くと、彼の方を向き、 笑顔を見せた。
子供の様にあどけなくて、大人の様に暖かい笑顔だった。
「おはようございます」
彼女が、ガラスの様に透き通った声で言い、
「お……おはよう……」
藤原が、まだ眠気の残っている意識で応える。
その直後、ドサッと椅子に座り、そのままテーブルにへばりついた。
「寝不足ですか? 自分の身体はしっかり自己管理しないといけませんよ」
そう言うと、彼女はキッチンから朝食を運んできた。
「朝食をちゃんと食べれば、少しはマシになると思いますよ」
そう言いながら、テーブルに食事を並べる。
ご飯に味噌汁に鮭。オーソドックスな日本の食卓が完成した。
「まだ、登校まで時間がありますね。ごゆっくりどうぞ」
「あ、あの……」
「…………?」
彼女が、怪訝な表情を浮かべる。
藤原は少し躊躇したが、勇気を出して尋ねた。
「君……誰……?」
一体、彼女は誰なのだろう?
藤原は一人っ子である上に、共働きの両親はとっくに出掛けている。
この時間に藤原以外の誰かが家にいるなど、有り得ないことだ。
なのに、彼女は堂々と藤原の家にいて、しかも朝食まで作っている。
「あ……すみません、申し遅れました。
今日から住み込みで働くことになりました、メイドの西口明(にしぐちあかり)と申します」
「あ、メイドなんだ。なるほど。だから……」
数秒の間、辺りを静寂が支配した。
金曜の朝の住宅地は、とても静かである。
「えええぇっ!? メイドォッ!?」
が、それは藤原の声で終わりを告げた。
「どうしてうちにメイドが!?」
藤原が、驚きが収まらないまま問う。
「あ……そういえば、何も聞いていないんでしたね」
明が、ばつの悪そうな表情を浮かべる。
「光様が起きたら、これを渡すように言われました」
そう言いながら、明が封を差し出した。
中を開けて見ると、そこには藤原の父の筆跡があった。
『光へ:父さんと母さんは、急な仕事でしばらくの間海外に身を置くことになった。
急に転校させるのも酷だと思ったので、お前は置いて行くことにする。
あまりにも急な話だったので、お前に何一つ説明できなくて済まなく思っている。
家事はメイドにお願いしたので、生活に困ることはないだろう。
なので、しっかりと学業に精を出すこと。 by your father』
「…………!!!」
藤原は、込み上げてきた怒りに任せて、封を握り潰した。
大人はいつだってそうだ。
自分の都合が最優先で、子供の意見を聞こうともしない。
大人の事情があるのだろうが、さすがにここまでくると、
怒りを通り越して溜め息さえ出てきてしまう。
――ていうか、何故最後が英語……?
「あ、あの……」
封を潰したまま何も言わない藤原に、明が不安げに声を掛け、
「あ……ご、ごめん」
藤原はハッと我に返った。
これは家族の問題なのだから、明の前で取り乱すのは大人げない。
それに、今日もいつも通り学校に行かなければならない。
今は、とにかく準備を急がなければ。
「と、とにかく……これからよろしく」
「はい♪」
明が、満面の笑顔で答えた。
――それにしても……。
「ところで……失礼だけど、明さんって何歳なの?」
「私ですか? 二十歳ですけど……」
若っ、と藤原は内心呟いた。
十七歳の自分と三歳しか違わないではないか。
もっとも、しばらくは大人を信じたくはないが。
それに、歳が近い方が、話が合って付き合いやすいかも知れない。
「光様、今日のご予定はなにかありますか?」
「えっ……?」
「帰宅する時間や、出掛けるご予定です」
「……………」
そういえば、今日は放課後に友人が家に遊びに来る。
不味い。家にメイドがいるなんて知られたら、何かと面倒だ。
自分さえ事態を把握しきれていないが、奴等は勝手に妄想を膨らませるタイプだ。
面倒な事態は、なるべくなら避けたい。
「どうしました?」
「え〜と……今日は、友達がウチに来るんだけど……」
「……分かりました。今日は六時頃まで、買い物でもしてきますね」
どうやら、藤原の意を察してくれたようだ。
「ありがとう……」
「主人の予定に合わせて行動するのが、メイドの仕事ですから♪」
藤原が礼を言うと、明は軽くウインクをしながら答えた。
「さあ、早く召し上がって下さい。冷めてしまいますよ」
「あ、ああ……」
明に促され、藤原は朝食を口にした。
失った何かが満たされるような、優しい味がした。
藤原が帰宅し、私服に着替えると同時に、インターホンが鳴り響いた。
時間的に考えて、友人と考えて間違いないだろう。
朝に言っていた通り、明は家には居ない。
あとは、何とかして六時には帰すだけだ。
何度か深呼吸をして、藤原は玄関を開けた。
案の定、そこには見慣れた顔が二つ。
「藤原先輩、お邪魔します」
後輩の堀健太郎(ほりけんたろう)と、
「今日は、先日話したギャルゲーを持ってきたのだが……一緒にどうだ?」
同じクラスの秋原哲也(あきはらてつや)だ。
「まぁ、とりあえず上がれよ」
秋原を無視して、二人を家の中に入れる。
それと同時に、
「むっ…………!?」
秋原が何かに気付き、辺りを見渡した。
「どうしたんですか、秋原先輩?」
そんな様子を見て、堀が不安げに問う。
「堀……お前こそ、何も感じないのか?」
「えっ……?」
秋原に逆に問われ、堀は何も答えることができなかった。
「ふっ……そんなことでは、いざという時に困るぞ。
まったく、日本人は平和に飼い馴らされている。困ったものだ……」
そう言いながら、秋原は肩を竦める。
「いや、お前も日本人だろうが」
そんな秋原に、藤原がツッコミを入れた。
堀はあまり秋原につっこまないので、
間違った方向に進もうとする秋原を止めるのは、基本的に藤原の役目だ。
その所為か、いつの間にかツッコミという役割が定着してしまい、
クラスでもそのイメージで通っている。
「……まぁ、それはともかくとしてだな……。
藤原……隠し事があるなら、早く白状するのが身の為だぞ」
「えっ……俺!?」
予想外の秋原の言葉に、藤原は思わず気が動転してしまった。
「まぁ、よかろう。全てはこれから判ることだ。
お前は上手く隠したつもりかも知れんが……この家……女の匂いがする」
「…………」
秋原の一言に、辺りが暫し沈黙する。
「ええええぇっ!? 本当ですか先輩!?
それはっ……つまりそのっ……藤原先輩にっ……!?」
そして、その沈黙を打ち破るかのように、堀が驚愕の声を上げた。
藤原は、頭から血が引いていく感覚を覚える。
――何とか……何とかしないと……。
「あのな堀……『女=彼女』ってのは安直過ぎないか?」
「えっ……ま、まぁ、言われてみれば確かに……」
どうにか堀を言いくるめることに成功し、藤原は安堵した。
一時凌ぎにしかならないことは解っているが、とにかく今は隠していたかった。
「ふっ……藤原、誤魔化すつもりなら、もっと上手くやるべきだな」
しかし、そんな藤原の願いは、早くも崩れ去ろうとしていた。
「仮に藤原の彼女ではないとして……ならば、藤原の母辺りを考えるのが妥当だ。
……しかし、藤原の母ならば、もう少しキツい香水の臭いがするはずなのだ」
「秋原……それ、遠回しに俺を侮辱してないか?」
藤原が抱いた疑問を無視して、秋原は語り続ける。
「だが、今漂っているのは、包み込むような優しいリンスの香り……。
今時の女達は、何を思っているのかキツい香水ばかり使用する。
しかし、香水は下手に使えば臭いだけだ。
『控えめ且つ大胆に』が生け花と香水の鉄則。
自己主張ばかりでは、如何に美しい花も真の魅力を引き出すことは出来ない。
香水は、そこはかとなく香りを漂わせるのが一番良いのだ。
この香りの持ち主は、それを理解しているからこそ、敢えて香水を使わず、
シャンプーとトリートメントの香りだけで勝負したのだ。
……藤原、お前も以外とお目が高いのだな……」
「いや……だから違うってば」
秋原の長ったらしい話をいなしたが、
「そんな……藤原先輩が僕達を裏切るだなんて……!」
既に、堀の耳にはとどいていなかった。
「だからな堀……ていうか、誰かと付き合うだけで裏切り者呼ばわりなのか……?」
藤原がつっこむが、もちろん堀には聞こえていない。
項垂れる堀の肩に、秋原がそっと手を置いた。
「そう気を落とすな堀。男は所詮、美少女の前では無力。
ある者は『クレオパトラの鼻があと少し短ければ、歴史は変わっていた』と言い、
またある者は『人は恋をしているときは決して善良ではない』と言った。
美少女の為なら、漢の友情など惜しまない。悲しいが、それが漢の性だ」
「じゃ、じゃあ秋原先輩も……いつの日か……?」
堀が、潤んだ瞳で秋原を見つめる。
そして、秋原は首を横に振った。
「案ずるな堀よ。俺は、決して友情を捨てるような真似はしない。
否、今も両方を手にしている。確かに、恋人と過ごす日々は毎日が楽しい。
しかし、漢の友情を蔑ろにするような輩に、美少女を愛でる権利など無い!」
「せ、先輩……!」
堀の目が、嬉々に彩られた光を放った。
「でも、秋原の『恋人』ってギャルゲーのキャラだよな……?」
藤原が呟いたが、二人には聞こえなかった。
「そして、だ……。俺達は、藤原を笑顔で送り出さねばならんのだ。
正しいか否かはともかく、奴が選んだ道だからな……」
「は、はい……! 藤原先輩、短い間でしたが」
「ああもういい加減にしろ! 全部話すから黙って聞け!」
堀の言葉を、藤原が無理矢理遮った。
もうこれ以上この二人を野放しにしておけない。
危うく、二人に送り出されるところであった。
結局、藤原はこれまでの経緯を全て話した。
当初の予定から大きく外れてしまったが、他に手が思い付かないから仕方ない。
少なくとも、あのまま放っておくよりは幾分かマシだろう。
……と、藤原は思っていた。
しかし…………
「め……め……メイドだとぉっ!?」
どうやら、火に油を注いでしまったようだ。
「メイドと言えば、ピアスやタトゥー等のチャラチャラしたファッションが横行する中、
清純と無垢を守り続ける貴重な存在! 漢達に残されたユートピアではないか!
一途に奉仕するその姿は、巫女とナースに並ぶ三種の神器!
ロボット、妹、姉、猫耳等の様々な属性と不思議なぐらいに調和し、
清楚な服装は、シスターの様なミステリアスな雰囲気も併せ持っている。
それでいて時折見せる女の子らしい仕草は、世話好きな幼馴染を連想させる。
即ち、メイドとは万能! あらゆる意味で万能なのだ!」
ここまで叫び終えると、秋原は満足そうに深呼吸をした。
そして、藤原の肩に手を置く。
「藤原……本当によくやってくれた。
普段は目立たなくて冴えなくてダメダメ街道まっしぐらだが、
ここぞという時には必ずやってくれると信じていたぞ……」
「は、はぁ……?」
「さて藤原。早速だが、明さんに会わせてはくれないか?」
「えっ……いや、それはちょっと……」
さすがにこの空気では、買い物に行っているとは言い辛い。
「……まぁ、返答に困るのも無理は無いだろう。
確かに、今日来たばかりの人のもとへいきなり押しかけるのは失礼かもしれん。
美少女にそういう気配りが出来るのも、立派な漢の証だ。
……しかしそれでも俺は、この荒んだ街に舞い降りた天使に会いたいのだ!
無理も失礼も承知の上だ……頼む!」
秋原が藤原の手を握り、切願の目を向ける。
藤原は、目を逸らした。
「……まぁ、僕達も少なからずお世話になると思いますし、
ちょっと挨拶するぐらいなら大丈夫……ですよね?」
「いや……実は今、明さんは買い物に行ってて……。
確か、六時に帰ってくるって言ってたような……」
秋原の暴走を止めるべく、堀と藤原は暗黙の了解のうちに話の方向を修正した。
しかし、藤原がそう言った途端、秋原の表情が険しいものになった。
「メイドを一人で買い物に行かせただと!? 何を考えている!?」
「えっ……な、何が?」
「いいか? 主人の身の回りの世話が仕事であるメイドの場合、
そういうちょっとした外出に付き合うだけでも、好感度が大きく変わるのだ!
一見どうでも良さそうなイベントが、フラグを立てる鍵になることもあるのだぞ!
そんなチャンスをみすみす逃すとは、お前は明さんを攻略する気があるのか!?」
「何の話だよ……」
藤原の口から、思わず溜息が漏れた。
「で、でも……」
堀が、二人の間に割って入るように話し始め、二人は彼の方を向く。
「この時期に、女性一人で行かせたのは不味いんじゃないですか……?」
「……何で?」
「藤原先輩は知らないんですか?
最近、この辺りで若い女性を狙った事件が多発しているんですよ」
「……え?」
堀の一言に、藤原が戸惑いの表情を見せ、
「そう言えば、俺もどこかで聞いたな。
最近は『美少女を愛でる』の意味を履き違えている大馬鹿者が多いからな。
その所為で、我々の様な健全なマニアまで誤解されるのは、誠に遺憾な話だ」
秋原が難しい表情で頷いた。
「……とにかく、先輩の話を聞く限りでは、明さんも危ないんじゃないですか?」
「いや……まさか、な……」
「そういう考えが一番危ないんですよ」
「そりゃそうだけど……」
そう言って、藤原は考え込む。
ここから一番近いスーパーまで、歩いて二十分。
その間に、明が危険な目に遭う可能性は否定できない。
親の勝手な都合で来てくれた人を、そんな目に遭わせるわけにはいかない。
「……俺、ちょっと行ってくる。悪いけど、また明日な」
そう言うと、藤原は靴を履いて玄関を開けた。
秋原と堀が外に出て、鍵を掛けたことを確認すると、
藤原は大急ぎで近くのスーパーへと走っていった。
「秋原先輩、どうします? もう帰りますか?」
小さくなっていく藤原の背中を眺めながら堀が問うと、
「馬鹿野郎! 待つに決まってんだろ! メイドの姿を拝まずして今日は終われん!」
秋原が凄まじい剣幕で返した。
「は、はい……それにしても、先輩はどうするのでしょうか?
手遅れでなければいいですけど……」
堀が、心配そうな表情で呟いた。
「俺の憶測では、藤原は裏通りでチンピラに絡まれている明さんを助けるべく、
成り行き任せで『俺の彼女だ! 文句あるか!?』と怒鳴り散らす。
その後両者気まずい雰囲気になるが、それによって二人の第一印象は良好。
二人の今日は徐々に縮まっていくが、二人はあくまで主人とメイド。
どうしても素直な気持ちが伝えられず、ギクシャクとした関係が続いて――――」
自動ドアが開き、藤原はスーパーに駆け込んだ。
ここまでノンストップで走った所為で熱くなった体を、スーパー特有の冷気が包む。
藤原は少しだけ息を整えて、小走りでスーパーを見て回った。
明を見つけた後の事は考えていなかったが、
とにかく堀の言っていたことが杞憂であることを確かめたかった。
その一心で、少し広めのスーパーを探し回るが、明の姿は見当たらない。
すれ違ったのか、別の場所にいるのか、それとも……。
そんな考えが、藤原の脳裏を過ぎる。
その時、どこからか子供の泣き声が聞こえた。
その声に引き寄せられるように、足が自然と声の主の方へと歩き出す。
「……いや……でも……!」
藤原の脳内で迷いが生じる。
関係無いと無視するか。
良心の赴くままに動くか。
「…………チッ!」
藤原は、悪態を吐きながら後者を選んだ。
そこには、五歳に満たないであろう子供がいた。
親とはぐれたのか、一人で泣いている。
「あー……えっと……」
とりあえず来てみたはいいが、具体的に何をすればいいか判らず、
ただ近くで突っ立っているだけの藤原がいた。
「ど、どうしたんだ? 迷子か?」
とりあえず声を掛けてみるが、相手には応じる気配が無い。
「ほら……何か言わないと話にならないだろ?
泣いてるだけじゃ、俺だってどうしようもないぞ」
それでも、相手は返事すらしなかった。
「まったく……」
これだから、子供というのは面倒くさい。
会話に応じようとせず、ただ感情のままに動くのだから。
このガキ、口を塞いででも泣き止ませてやろうかと思ったその時、
「ダメですよ、光様。そんなに威圧しては」
後ろから聞き覚えのある声が聞こえた。
声の主は子供の前に歩み寄り、屈んで視線を合わせた。
先端が地べたに着く程の、艶やかで豊かな黒髪。
ブラウスにジーンズという服装が、スタイルの良さを引き立てている。
「あ……明さん!?」
藤原は、少し戸惑いながらその名前を呼んだ。
初めて会った時のメイド姿とは、あまりにイメージがかけ離れていたからだ。
「同じ目線で。同じ立場で。会話の基本ですよ」
明は藤原の呼びかけには答えず、諭す様に言った。
「どうなさったんですか? 私でよければ、話して頂けますか?」
そして、泣いている子供に優しく話しかける。
返事は返ってこないが、それでも嫌な顔一つせずに、粘り強く話し掛ける。
「お母さんと……はぐれちゃった……!」
七度目でようやく返事が返ってきた。
「迷子ですか……。大丈夫、きっと、貴方の親は貴方を捜しています。
貴方を必要とする人がいる限り、貴方は一人ではありません。
ですから、もう泣かないで下さい。……これ、いかがですか?」
そう言って、明は鞄の中から飴を取り出し、子供に差し出した。
「飴を携帯……明さんって、まさか……いやいやいや、そんな馬鹿な……」
それを見ていた藤原は、一人で葛藤する。
次第に子供の泣き声が小さくなる。
そして、ついには泣き止んでしまった。
明の包み込むような優しい雰囲気が、自然と涙を止めたのだろう。
「……光様。ここでは、迷子はどこに任せれば良いのですか?」
唐突に、明が藤原に尋ねる。
「えっ……え〜と……取り敢えず店員に訊くのが良いかと……」
「判りました。……さぁ、連いて来て下さい」
そう言って、明は子供の手を引いて歩いて行った。
「あの、ちょっとよろしいですか? この子、迷子なんですけど――――」
「良かったね。すぐに見つかって」
「ええ。子供は、笑っているのが一番です」
スーパーからの帰り道。
藤原と明は、買い物袋を一つずつ持って歩いていた。
二つとも持つ、と藤原が言ったが、明が遠慮したからだ。
「それにしても……あの時、何故光様しかいなかったのでしょうか?
もっと多くの人に聞こえていても、おかしくない筈ですのに……」
「殆どの人は、見て見ぬ振りなんじゃない? 下手に関わって誤解されたくないだろうし」
「……人同士が信用できないなんて、嫌な世の中ですね……」
そう呟いて、明は溜め息を吐いた。
「……ところで明さん、その服は……?」
藤原が、さっきからずっと疑問に思っていたことをようやく尋ねた。
「この服ですか? 以前の仕事の時にあの服で外出して、
ちょっと一悶着ありまして……。こっちの方が動き易いですし。
……そういえば、光様はどうしてこちらへ?」
質問に答えてから、今度は明が藤原に尋ねた。
「最近、この辺で変質者が彷徨いてるって聞いたから、心配になって……」
「そうですか……わざわざ有り難う御座います」
明が、ぺコリと頭を下げる。
「でも、そんなに心配なさらなくても大丈夫ですよ。
以前、護身術を教わっていたので、並の男性には負けません」
「えっ……そうなの?」
こんなに華奢なのに……と、藤原は明の身体を見ながら思った。
「何でしたら、一つお手合わせしましょうか?」
「いや、いいです」
藤原が即答すると、残念です……と、明は言葉通り残念そうに呟いた。
少しの沈黙の後、
「……あの、光様点…」
明が、唐突に呼びかけた。
「何?」
「あまり……怒らないであげて下さいね……」
藤原が反応すると、明は少し小さな声で言った。
「……誰を?」
「光様の、お父様とお母様を……ですよ」
「……でも、俺が寝ている間に出張するなんて……」
明に言われて、暫し沈静していた怒りが甦ってくる。
何の前触れも無しに、家に自分だけを残して、海外に出張した父と母。
果たして、こんな無責任な親を許せる子がいるのだろうか?
「お気持ちは解ります。けど、大人には色々と事情があるのですよ。
私も、こうして働くようになって、ようやく実感したんですけどね……」
藤原の感情を察した明が、そっと言い聞かせる。
その言葉には、『大人』の重みがあった。
「……やっぱり、そういうもんなのかな……?」
「社会の一員である以上、断れない場合もあるのです。
私がここにいるのは、お父様とお母様のせめてもの気持ちではないでしょうか?」
「…………」
本当は解っていた。
父や母に悪気が無いことも。やむを得ない事情があることも。
ただ、突然周囲が目まぐるしく変化して、戸惑っていたのだ。
「さぁ、早く帰りましょう。ここでの初めての夕食、張り切って作りますから♪」
いつの間にか、明は一歩先を歩いていた。
「あ、あぁ……」
我に返り、藤原は歩く速度を速めた。
今までの日常は、一晩で覆された。
けど、きっとこれからの生活も、いつか『日常』と呼べる日が来るだろう。
両親がいない日々も、メイドと共に過ごす日々も。
そして、そんな『日常』を自分は愛しているのだろう。
…………多分。
「……先輩、もう帰りませんか?」
「何を言うか! 帰れる訳無かろう!」
「もうずいぶん経ってますよ……」
「……む、いかん! もうすぐ視聴しているアニメが始まるではないか!
本来なら藤原の家で見る予定だったものを……!」
「でも、藤原先輩の部屋のテレビ、壊れたんですよね?」
「堀が『ロシアの伝統的な直し方』とか言って叩き壊したのだろう?」
「いや、あの時は映りが……それはともかく、どうしますか?」
「……いや……しかし……ええい、やむを得ん! 帰る!」
第一話 始まりは突然に 完
第二話 恐らくは仁義無き戦い
「ん……う〜ん……」
掃除機の音がどこからか聞こえ、藤原は目を覚ました。
今日は土曜日。時計は十時を指している。
十分な睡眠をとれたので、二度寝する必要は無さそうだ。
大きく伸びをして、私服に着替え、少し遅めの朝食を食べる為に階下へ向かった。
リビングに通じるドアを開け、室内に入ると、
「あ……光様、おはようございます♪ 今日はよく眠りましたね」
メイド服を身に纏った二十歳前後の女性が、リビングを掃除していた。
朝一番から異様な光景を見てしまった藤原は、大急ぎで昨日の出来事を思い出す。
藤原の両親は、仕事で突如海外へ飛び立った。
その間、メイドとして住み込みで働くことになったのが、目の前にいる西口明である。
「明さん、おはよう」
ここまで思い出すと、藤原は挨拶を返した。
「もしかして、起こしてしまいました?」
明が、手に持っている掃除機の電源を止めてから訊く。
「いや、起きるには丁度良い時間だから」
藤原が、壁に掛かっている時計を見ながら言った。
いくら休みとは言え、これ以上寝ていては勿体無い。
「そうですね。……ちょっと待って頂けますか?
もう少しで掃除が終わりますから、その後で朝食を……」
「いいよ、朝食ぐらい自分で作るから」
「えっ……しかし……」
「いいからいいから。カップラーメンならお湯沸かすだけだし。
明さんは、他にも仕事があるんだろ?」
「……ありがとうございます。では、お言葉に甘えて……」
頭を深々と下げてから、明は掃除機の電源を点けた。
藤原はキッチンに向かい、薬缶に水を入れる。
「……夢じゃ……ないんだな……」
水が溜まるのを眺めながら、藤原は一人呟いた。
こんな平凡な家にメイドがいるなど、普通では考えられない。
洗濯機の使い方も判らない藤原の為に、両親がせめてもの気持ちで雇ったのだろう。
しみじみと両親に感謝する藤原であった。
薬缶をコンロの上に置き、火を点けた途端、
掃除機の作動音に満ちていた部屋に、チャイムが鳴り響いた。
「あら……お客様ですね」
明がそれに気づき、掃除機を止める。
「私が出ますね」
そう言うと、明は玄関へ向かった。
「宅配便かな……?」
来訪者について考えを巡らせながら、藤原は薬缶をぼんやりと眺めていた。
「うおおおおぉぉっ! これが話に聞いたメイドかっ!」
玄関から、異常に興奮している、聞き覚えのある声が聞こえた。
嫌な予感がして、藤原が玄関へ向かう。
「初めましてっ! 秋原哲也と申しますっ!
早速ですが、写真を撮らせて頂けませんかっ!?」
そこには、感動を露にしながら、高画質の最新デジタルカメラを構える秋原と、
「えっ……は、はい……構いませんけど……」
よく解らないまま依頼を承諾した明と、
「……あ、藤原先輩。お邪魔します」
誰よりも早く藤原に気付いた堀がいた。
「お前ら……何してんだ?」
現状が飲み込めず、藤原が問う。
「おぉ、藤原! 昨日は私情で帰ってしまったが、今日は万端の準備で来させてもらった!
……明さん、スカートを両手で摘んでポーズとってもらえますか?」
秋原が簡単に答え、明に注文する。
「えっと……こう……ですか……?」
戸惑いながら、明がぎこちなくポーズする。
「うおおおおぉっ! 素晴らしい!
カメラ慣れしていなくてポーズがぎこちないと言うのも、また魅力を引き出しているっ!」
秋原は感嘆の雄叫びを上げながら、シャッターを連打した。
「明さん……こいつの言うことは無視して良いですよ……」
藤原は溜め息を吐きながら、明に言った。
「しかし……頼まれた事を忠実にこなすのがメイドですし……」
「いや、何て言うか、その……」
「明さんっ! 次はここをこうして、ここをこう……」
「そ、それは……ちょっと恥ずかしいです……」
「は……恥じらいつつも、律儀にポーズをとってしまうのが素晴らしい……っ!
これは最早芸術、否、その域すらも既に逸脱してしまっているっ!」
「……秋原、いい加減にしてくれないか……」
頭を抱えながら、藤原は投げ遣り気味に言った。
秋原が青春を全力で謳歌している最中、再びチャイムが鳴った。
「今度は誰だよ……? 秋原、邪魔になるから上がってくれ」
藤原が、明達の横を通って玄関を開ける。
「誰ですか?」
藤原が言うのとほぼ同時に、
「お兄ちゃん、ただいま!」
大きな声が聞こえ、同時に声の主が藤原に飛びついた。
「うわぁ!?」
予期せぬ出来事に、藤原が後ろによろける。
「だ……誰……?」
跳ね上がった心臓を抑えながら、声の主を確認する。
見上げている二つの円らな瞳。
若干ブラウンのかかったツインテール。
抱きついたまま離れない華奢な腕。
押しつけられている、二つのとても小さな膨らみ。
「あ……アリ……ス……?」
ようやくそれだけを口にした。
「よかったぁ、覚えててくれたんだ! やっぱりボク達の愛は永遠だね♪」
「えっ……いや……えっ…………?」
ようやく名前は思い出せたが、自分の置かれている状況がどうしても把握出来ない。
「あれから八年も経ったんだね……もう絶対離さないからね……!」
アリスと呼ばれた少女が、藤原を抱く力を更に強める。
「あ……アリス……や……止め……苦しっ……」
こうして、アリスの誓いは五秒で終わった。
ようやく解放された藤原は、その場にへたり込んだ。
「やっと帰って来れたよ。これからはずっと一緒だね、お兄ちゃん♪」
失った酸素を必死に補給している藤原に、アリスは満面の笑みで言った。
「あの、藤原先輩……その娘は……?」
ずっと傍観していた堀が、ようやく藤原に声を掛ける。
「あぁ、こいつは……」
藤原が答えようとすると、
「『お兄ちゃん』……『お兄ちゃん』だとぉっ!?」
ほぼ同時に秋原が声を上げた。
「ま、まさか……妹!?
数多くの属性が存在する中、その中で最も強力だと言われている究極の属性、
大抵の学園物に必ず一人はいる、言わば人類の最終兵器!
恋人の如くベタベタなブラコンぶりは、妹がいない漢達の癒しであると同時に、
現実の妹に失望している漢達の憧れの的!
愛と世間体の間で揺れ動く心! 熱く燃え上がる禁断の恋!
これぞ正しく、萌えの妙味、心髄、真骨頂!」
「秋原……大丈夫か?」
すっかり陶酔してしまった秋原に、藤原が声を掛ける。
しかし、秋原はそれを無視して、アリスをじっくりと眺めた。
「童顔……ツインテール……つるぺた……ロリ系か。
先程の掛け合いから、控えめ型とは対を成す積極型である事も判る。
……藤原、まさかお前が、これ程の逸材を隠し持っていたとはな……」
感嘆の声を漏らしながら、秋原が藤原の肩に手を置く。
「藤原……もしかしたら、お前を『お義兄さん』と呼ぶ日が来るかも知れん。
とは言え、明さんも捨て難い。何より、まだ二日目で誰のルートにも突入していない。
……まぁ、可能性は十分あるからな。その時はよろしく頼む」
「はぁ?」
至って真面目に話す秋原に、藤原が心底呆れた。
「さて、話が少々逸れてしまったが……単刀直入に訊こう。その娘は誰だ?」
散々回り道をした秋原が、ようやく本題に入る。
「俺が子供の頃に、近くに住んでいたんだ。
八年前に引っ越して行って、音信不通だったんだけど……」
「なにぃ!? 妹と八年も別居だとぉっ!?」
「……アリス、後はお前に任せる」
「うん、分かった♪」
頭を抱える藤原に対し、アリスが弾んだ声で答える。
「ボクは、お兄ちゃんのフィアンセ、望月アリス(もちづきありす)♪
八年前に引っ越したけど、また戻って来たんだよ」
「うむ。ボクっ娘に加え、堂々と『フィアンセ』と言ってのけたので、ポイント追加だ」
「……任せた俺が馬鹿だった……」
何の躊躇いもなく爆弾発言をするアリスに、更に頭を痛める藤原であった。
「……あれ? どうして二人の名字が違うんですか?」
「誰も妹だなんて言ってないだろ。ただの幼馴染だよ」
不思議そうに尋ねる堀に、藤原は当たり前の様に答える。
「ソフ倫に引っ掛からない為ではないのか?」
「全然違う」
「では、何故『お兄ちゃん』……?」
「俺の方が一つ年上だからって、勝手に呼んでただけだ」
「そうそう。だから、あと何年か経てば、『光』とか『あなた』とか……
あ、でもやっぱり『ダーリン』も捨て難いな……う〜ん……どうしよう……?」
相槌を打ったまま妄想へ旅立ったアリスに対し、
「……………」
秋原が愕然とした表情を浮かべる。
「と言う訳で秋原、残念だが、こいつは妹じゃない」
「……何と言う事だ……何と言う事だ……っ!」
「おいおい、そんなに気を」
「何と言う事だ! 妹だけでなく幼馴染も標準装備しているとは!
幼馴染と言えば、妹と並ぶ最強の属性!
長い付き合いだからこそ、毎朝起こしてもらったり、一緒に登校したり、
宿題を見せてもらったりと言った様々なイベントを序盤から用意可能!
しかし、気さくに話せる仲故に、ギクシャクして恋仲になれないもどかしさ!
学園物なら妹と互角、もしくはそれ以上に渡り合える由緒ある属性!
そんな二大属性を両方とも装備……これは最早反則の域に達している……っ!」
あまりの衝撃に、愕然とする秋原であった。
「秋原……何を聞いてたんだ? 幼馴染はともかく、妹は……」
「ふっ……甘いな、藤原。
血縁関係が無ければ妹でなくなるような妹は、妹とは呼べん。
人目を憚ることのないブラコンと、容姿や仕草に感じられる若干の幼さ。
お約束イベントの数々にクオリティーの高いCG、そして練り込まれたシナリオ!
これらが全て揃って初めて、真の妹と呼べるのだ!
逆に、これらが揃ってさえいれば、誰でも妹になれる可能性を秘めている!
如何なる属性も、用意されていた設定に依存していては輝きはしないのだ!」
「秋原……いや、もういい……」
止め処なく展開される秋原ワールドに、最早何も言う事が出来ない藤原であった。
「こいつが秋原。少なからず変な奴だが、悪い奴じゃない……筈だ。
こっちが後輩の堀。お前と同い年だ。頭はそこそこ良いけど、
それ以前に人間として間違っている部分があるから、洗脳されないように」
さっきまでの流れは全て無視して、藤原は話を続ける。
「初めまして、よろしく」
「まずは友達から……だな」
二人が、性格をよく表した挨拶をして、
「初めまして、よろしく♪」
アリスが明るく返した。
「で、この人が明さん」
「初めまして。不束な者ですが、よろしくお願いします」
秋原の剣幕に押されて暫く出る幕が無かった明が、丁寧に挨拶をする。
が、
「お、お兄ちゃん……この人、誰……?」
アリスの顔は、徐々に引きつっていった。
「えっ……あぁ、この人は、暫くの間」
「お兄ちゃんのバカ―――――ッ!!!」
藤原が説明しようとするが、それを聞こうともせず、アリスは藤原の頬を思い切り叩く。
「『お兄ちゃんのバカ』……一度聞いてみたかった……!」
秋原の頬を、一筋が伝った。
「えっ……な、何が……?」
予想外の出来事に、当の本人である藤原は、ただ頬を抑えるだけだった。
「ヒドいよお兄ちゃん……ボクがいなくて淋しいからって、
そんな鹿の肉と仲良くなってるなんて……しかもそんな服着せて……」
勘違いと都合の良い解釈を混ぜたような発言をするアリス。
「……馬の骨? ……まぁ、それはいいとして。
お前、何か勘違いしてるだろ?
明さんは、メイドが仕事だから、メイド服来てるんだよ」
ようやく回復した藤原が説明するが、
「まぁ、まだ二日目だ。ルートを定めるにはまだ早い」
秋原が火に油を注いだ。
「もうそんな言い訳通じないよ! これでもボクは十六歳なんだから!
女の子にメイド服着せて、○○○したり×××させたりしてるんでしょ!?」
アリスが、土曜日の昼前にはそぐわない発言をする。
近所に聞こえる可能性と、これ以上の暴走の可能性を感じて、藤原の顔から血の気が引いていった。
「ふむ……確かにメイドと言えば×××だな。
『ご奉仕』の名の下に羞恥プレイをさせる快感は、漢にしか解るまい」
「便乗するな秋原! R指定になったら責任とれるのか!?」
「とにかく! こんな娘が彼女だなんて、ボクは認めないからね!」
藤原が秋原にツッコミを入れている間に、アリスが徹底抗戦を宣言する。
このままでは、非常に面倒な事態は回避出来ない。
「だから違うって! 明さんは……」
「まぁ、待たないか藤原よ」
抗論しようとした藤原を、秋原が止める。
思いがけない出来事に、やむを得ず藤原は黙った。
「ところでアリス嬢、藤原の彼女だと言い張る以上、料理は出来て当然……だとは思わないか?」
「えっ……?」
突然の問いかけに、熱くなっていたアリスも流石に戸惑う。
「早い話が、ここはひとつ、料理対決で雌雄を決してはどうだ?」
「なっ……!?」
藤原が慌てて秋原の口を塞いだ時には、既に手遅れだった。
「ボクは全然構わないよ! ボクが勝ったら、その娘には出ていってもらうからね!」
「ちょ、ちょっと待てよアリス。もう少し冷静になれって。
第一、明さんが同意しないと、勝負にならないし……」
そこまで言ってから、藤原が何かに気付く。
「……あっ……しまった……!」
大急ぎで藤原がキッチンへ向かう。
真っ白になった藤原が、重い足取りで戻ってくる。
「どうかなされましたか、光様?」
明の問いかけに、
「お湯が……無くなってた……」
藤原が簡潔に答えた。
「では、光様の朝食を兼ねて……と言う事で、よろしいですか?」
「……お願いします……」
「安売りしていた卵を昨日買ってきたので、オムライスにしましょう」
冷蔵庫をチェックしながら明が言い、
「ボクは何でも良いよ! お兄ちゃんの為なら、どんな勝負だって負けないんだから!」
アリスが威勢良く答える。
そんな二人をリビングから窺いながら、
「秋原……お前の所為で、どんどんおかしな方向に進んでるぞ?」
藤原が秋原に言う。
「美少女に暴力での解決は似合わない。怪我してしまったら台無しになるだろ」
しかし、秋原は当然の様に答えた。
「だからって、料理対決はないんじゃないか?」
「解っとらんな……美少女に料理はつきもの! キッチンは乙女の花園!
考えてみるがいい。二人の美少女が、手作りの料理を振舞ってくれるのだぞ。
仮にも漢ならば、これ以上の幸せがそうそうある訳無いだろう」
「お前な……」
秋原の思考回路に、藤原は頭を抱える。
「第一、万が一明さんが負けたら、俺はどうすればいいんだよ?」
「案ずるでない。それも計算済だ」
「……計算?」
怪訝な表情を浮かべる藤原に、秋原はそっと耳打ちした。
「……プロのメイドが、家事で素人に負けると思うか?」
「…………」
そんな二人を余所に、
「オムライスか……。卵は料理の基本中の基本。
だからこそ、純粋な料理の腕前が問われる。
それに、卵を半熟の状態に仕上げるのは意外と難しい。
特にオムライスは卵を薄く広げるから、あっと言う間に完熟してしまう。
半熟の脆い状態でライスを包むと破れてしまう恐れがあるし、
使用頻度が比較的少ないケチャップの匙加減も考慮しなければならない。
しかも、突然の料理対決だから、ご飯は必ず足りなくなる。
即ち、玉になり易い冷やご飯の使用は必須。
調理師学校の卒業試験でも試されると言うオムライス……この対決、見物だ……」
堀はシリアスモードになっていた。
「と言う訳で、オムライスで対決してもらおう。材料や分量は自由。
ただし、キッチンの様子はこちらから伺える事を考慮して、
パフォーマンスにも気を配る事。ちなみに、我々三人の多数決で勝敗を決する。」
すっかり仕切り役になっている秋原が、ルールを述べる。
「質問。料理でパフォーマンスってどう言う事だ?」
そんな秋原に、藤原が素朴な疑問を尋ねた。
「例えば、明さんはメイド服を着ているから、既にパフォーマンスだな」
「あのな……」
ある程度予想はしていたものの、藤原は呆れる他に無かった。
「ちょっと待ってよ! それじゃ既にボクが劣性だよ!?」
納得出来ないアリスが、不満を述べる。
「ふむ……制服エプロンはどうだ?」
「制服持ってきてないよ」
「ならばスモックは?」
「むぅ、子供扱いしないでよ!」
「うむ。そのリアクションこそロリータに求める物だ。……では、裸エプロ」
何か言いかけた秋原の口を、藤原が慌てて塞いだ。
こうして、明とアリスの料理対決が始まった。
両者とも、野菜を切る作業から始める。
「切る………ほぼ全ての料理で必須とされる作業。
だからこそ、料理の全ての土台になる………ここで勝負が決まっても不思議じゃない」
そう呟きながら、堀が真剣な眼差しを二人に向けた。
「切る……ほぼ全ての料理で必須とされる作業。
だからこそ、今まで様々なシチュエーションが開発されてきた……。
ここで萌えるか否かで、作品の出来が決まっても不思議ではない」
そう呟きながら、秋原は真剣な眼差しを二人に向ける。
「何なんだこいつら……」
そう呟きながら、藤原は奇異の眼差しを二人に向けた。
「明の包丁捌きは繊細且つ華麗で、尚かつ一定のリズムが守られている。
それはまるで、人が立ち入れぬ聖域で舞い踊る天使の様であった」
「……秋原、実況するな」
「でも、確かに明さんの包丁捌きは凄い……」
そんな遣り取りへの返事なのか、
「料理のコツは、作るよりも楽しむ事。急ぐよりもゆとりを持つ事。
考えるよりも感じる事。教わるよりも興味を持つ事、です」
明が誰にでもなく呟いた。
その横で玉葱を切っていたアリスが、急に手を止め、包丁を置く。
「……どうなされましたか、望月さん?」
アリスの異変に気付いた明が、心配そうにアリスの方を向いた。
「……目が痛い……」
アリスは、目を擦りながら呟く様に言った。
「申し訳ありません。冷蔵庫に入れておけば幾分はマシになるのですが、
私は慣れているので……ゴーグルをお貸ししましょうか?」
別に非は無いのに明は頭を下げる。
「いいよ別に! キミなんかに情けは受けないもん!」
アリスは強気に返して、ボロボロと涙を零しながら作業を続けた。
「うぅ……痛い……キミはどう!?
これ程の痛みに代えても、お兄ちゃんを愛する覚悟があるの!?」
涙を拭おうともせずに、アリスは玉葱を切りながら問う。
「その歳でそんなに痛がるの、お前だけだぞ……」
一連の様子を見ていた藤原が、明の代わりに答えた。
「玉葱で涙を流すとは、なかなか解っている様だな……。
この勝負、面白くなりそうだ。今のうちにカメラを用意しておこう」
「秋原……お前が言い出したんだからな……」
前途多難な料理対決に、藤原は頭を抱えた。
数分後。
早々と野菜を切り終えた明は、冷やご飯を電子レンジに入れた。
「冷やご飯は、炒める前に温めておくと、解れ易くなるんですよ」
温めている間も、手際良くフライパン等の準備をする。
一方のアリスは、
「…………」
まだ野菜を切っていた。
かなり不安を誘う手つきで、切ると言うよりは、押さえつけている印象を受ける。
切られた野菜は、形も大きさも不揃いだった。
「やっぱり、プロと素人じゃ結果は見えてますね」
「そう思うならさっさと帰ってくれよ……」
「うむ……やはりキッチンを舞う美少女は美しい……」
好き勝手話し始めた藤原達に、
「ああもう五月蝿いな! ちょっと静かにしてよ!」
アリスが野次を飛ばした。
「料理は速さじゃなくて、心と、気持ちと、ハートだもん♪」
「全部意味は一緒じゃないのか……?」
そんな藤原の疑問は無視して、アリスは作業を進める。
が、
「ぎにゃっ!?」
急に変な声を上げ、アリスの体がビクッと震えた。
四人の視線が、停止したアリスに集まる。
包丁をゆっくりと俎板に置き、無言で俯いたままキッチンを後にして、
藤原の許へと歩いていく。
そして、
「……痛い……」
小さな声で呟いた。
見ると、アリスの指に僅かな切り傷が出来ていた。
「素晴らしい! お約束の『指切り』を素でこなし、その上このリアクション!
これ程の逸材が、現実の世界に存在していたのか!?
……人は、歳を重ねる毎に、夢と現実を隔離してしまう生き物だ。
しかし、彼女を見れば、それが過ちだと気付くだろう!
……これは、かなりの高ポイントになりそうだ……!」
そんなアリスに、秋原は感動を露にした。
注意してみると、僅かだが確かに目が潤んでいる事が判る。
「……もう何も言うまい……」
最早、藤原に秋原を言及する余力は無かった。
「大丈夫ですか!? すぐ絆創膏を持って来ますから!」
「明さん、別にそんな……」
藤原が呼び止めようとしたが、明はすぐに救急箱を取りに行ってしまう。
「はぁ……。アリス、後で明さんにお礼言えよ」
「ヤダ。頼んでもいないのに、どうしてお礼なんて……」
「まったく……もう少し大人になれよ……」
「もうAVとか見ても平気だけど?」
「……それは寧ろ遠退いてる気がする」
そんな遣り取りを余所に、
「勝負中に相手の心配、か……。明さんもなかなかだな……。
しかし、それでも素直になれないアリス嬢の方が上であろうか? いやしかし……」
秋原は相変わらず採点を続けていた。
「……で、あれからも色々とあったが、どうにか二人とも調理を終えた訳だ」
「て言うか、時間掛け過ぎだぞアリス……」
「むぅ、そんな事ないもん!
お兄ちゃんへの想いを形にしようと思えば、これが普通だもん!」
藤原の言葉に、アリスが激しく反発する。
頬を膨らませようとしたが、
「あー……そうですか……」
秋原の暴走を恐れる藤原によって阻害された。
「では、早速審査に移ろう」
幸い、秋原は気付いていない模様である。
エントリーナンバー1 西口明
「流石に、本業で料理作っている人は違いますね。
卵の半熟も良い感じですし、味付けもバッチリです。
どんな食材を使っても美味しく作れる人が、『料理の上手い人』なんです」
堀が、上品に食べながら絶賛する。
「確かに美味しいな。明さんが勝ってくれないと困るし……」
既に明に票を入れる事を決めている藤原も、素直に頷く。
「うむ。ドジッ娘メイドも趣があるが、やはり基本は完璧超人だな」
明らかに二人とは採点基準が違う秋原も、結果的には一緒だった。
「ありがとうございます。喜んで頂けて嬉しいです♪」
三人の賞賛に、明は頭を下げる。
「ふむ……やはり完璧超人と謙虚はセットだな。でないと鼻に付いてしまう」
「……お前って、本当に幸せな奴だよな……」
秋原を見て、藤原は改めて呟いた。
エントリーナンバー2 望月アリス
「……あの……これは……一体……?」
可食物とは思えない造形の『それ』を見て、堀は戸惑いながら尋ねた。
「…………? オムライスだよ?」
そんな堀とは対照的に、アリスはあっさりと答える。
「アリス……お前の目は節穴か?」
「し、失礼だよお兄ちゃん!
いくらボクとお兄ちゃんの道ならぬ仲でも、言って良い事と悪い事があるでしょ!?」
藤原の言葉に、アリスは激しく反論した。
「やって良い事と悪い事もあると思うけど……」
藤原が呟いたが、アリスには聞こえなかった模様。
「ふっ……解っとらんな、藤原。
幼馴染や妹は、料理上手でなければ、壊滅的に下手だ。
普通など有り得ん。故にキャラとして成り立つのだ」
そんな藤原に、秋原は諭す様に言った。
「……で、これは食うのか? 食えるのか?」
「ま、まぁ……前衛的ではありますね……」
「堀……はっきり言って良いんだぞ……」
結局、三人とも『それ』を口へと運んだ。
「えぇ!? 何で―!?」
目の前で屍と化した三人に、アリスは驚きを隠せなかった。
「み……みず……を……」
藤原が、最後の力を振り絞って言う。
「え〜? 土いじりは嫌いだよ……」
「古典的過ぎるボケをするな」
「わ、復活した」
ツッコミ役が定着した藤原にとって、ボケこそが彼の生きる力なのであった。
「……さて、では採点と参ろう。
持ち点は一人につき一点。多かった方を勝ちとする」
どうにか復活した秋原は、再び対決を仕切り始める。
「もう結果は目に見えているけどな……」
藤原からは、最早やる気が微塵も感じる事が出来ない。
「ひひゃふぁ……ヒリヒリ……ひまふ……」
堀は、まだ明のオムライスで口直しをしていた。
堀の場合
「まずは堀から訊くか。どうだ、堀よ」
「まだ舌の調子がおかしいです……あ、僕は明さんに一点」
「と言う訳で、まずは明さんがリードか……」
「ありがとうございます、堀さん。
幾つになっても、誰かに認められるのは嬉しいですね」
「望月さんのは、消化器官を潰されそうです……」
「大丈夫ですか? 紅茶で良ければ如何でしょう?」
「あ、お願いします」
「むぅ、いいもん。まだこれからだし」
秋原の場合
「次は俺だな……」
「さっさと言え。出来れば、これで勝負が終わるのをな」
「俺は、アリス嬢に一点を入れる」
「……何だって?」
「おれは、ありすじょうにいってんをいれる」
「…………」
「やった―――――!!! これで勝ったも同然だね♪」
「……何故?」
「坊やだからさ」
「…………」
「――もとい、パフォーマンスが料理を上回ったからだ。
『壊滅的な料理を作る妹』は、それ自体が最高のパフォーマンスだからな」
藤原の場合
「と言う訳で、藤原の一存で雌雄が決する」
「最早ボクの勝ちは間違いなし! ……さっさと荷物まとめておけば?」
「慎重に考えるが良い、藤原。
この選択で、どちらのルートに向かうか決まっても過ご」
「明さんに一点」
「……何?」
「あんな料理に点を入れる訳無いだろうが」
「…………そうか」
「えっ……嘘……?」
「え〜……二対一で、明さんの勝ちとなった」
「やれやれ……これで一件落着か……」
面倒がようやく片付き、藤原は大きく息を吐いた。
秋原だけが楽しんでいた感は否めないが、
これでアリスが納得するのであれば、さほど大きな問題ではない。
「嘘だ……嘘だ……こんなの……」
一方のアリスは、俯いたままだった。
「もう良いだろ、アリス?
そもそも、お前が思っている様な仲でも何でもないんだから」
「お兄ちゃんだけは……信じてたのに……
お兄ちゃんだけを……信じてたのに……信じてたのに……!」
アリスの声が、次第に怒気を孕んでいく。
藤原の声も、最早とどいていない様だ。
次第に、辺りの空気がピリピリと震える感覚を覚える。
「十年前のあの時からずっと……ずっとボクは……
それを……キミなんかに……キミなんかに……!」
アリスの感情に比例するかのように、その感覚はより顕著なものになっていった。
「この感覚……まさか……! おいアリス! こんな場し」
「唯一の存在意義を奪われて堪るかあぁっ!!!!!」
アリスが叫ぶと同時に、張り詰めていた空気が暴徒と化した。
部屋の中を、荒らしが所狭しと暴れ回る。
テーブルの上の皿が吹っ飛び、残っていたオムライスが散乱した。
硝子のコップと陶器のカップは壁に叩き付けられ、幾つもの砕片と化す。
窓がガタガタと激しい音を立て、ついには亀裂が生じた。
「きゃあぁ!」
「うわあぁ!」
「ぬぅっ!」
「アリス! 落ち着け! おいアリス!」
四人の悲鳴も、今のアリスには全く聞こえない。
ようやく風が止んだ時には、部屋はひっくり返した様な惨状になっていた。
「…………」
そんな光景を、誰よりも慄然としてアリスは見渡す。
「アリス……」
どうしても言葉が出ず、藤原はようやくそれだけを呟いた。
「違う……違うよ……ボクは……ボクはこんな……こんなつもりじゃ……!」
アリスの顔が、次第に青冷めていく。
頭を抱え、その場に崩れ込み、暫く何か呟いた後、
「うわあああああぁぁっ!!!!!」
糸が切れた様に発狂し、玄関へと走っていった。
「お、おいアリス!」
暫く呆気にとられた後、藤原達が後を追う。
アリスは玄関を出て、傍にあった箒を手に取り、何かを唱えた。
すると、箒が浮き上がり、アリスを乗せて猛スピードで遠くへと飛び去っていった。
「…………アリス……」
藤原達が玄関を出た時には、既に見えなくなっていた。
「……光様、彼女は一体……?」
「最早誤魔化せないか……」
藤原は、そう言って溜め息を吐いた。
「じゃあ……俺と明さんはこっちから、秋原と堀はあっちから頼む」
明が外出用の服に着替え、藤原達はアリスを捜しに行く事にした。
「ちょっと待て!」
しかし、秋原が三人を突如呼び止める。
「……どうしたんだよ、秋原」
「未だ嘗てこう言うシチュで、
主人公以外のキャラがヒロインを見つけた事があるか? 否、無い!」
「……だったら、どうすれば良いんだよ?」
「そうだな……グッパーで決めるべきだ。これなら公平だ」
「しょうがないな……」
藤原は溜め息を吐き、四人が輪になる。
昼下がりの公園。
遠くの方から、子供達の声が聞こえる。
ボクは、今日も隅の方で、一人佇んでいた。
理由は単純で、人と関わるのが怖いから。
嘘を吐き続ける事が怖かったから。
このままで良かった。
今までに、何回かだけ友達が出来た事もあったけど、
『秘密』を隠したままの付き合いは、とても後ろめたかった。
夢を見る度に、嘘を吐いていると言う背徳感に苛まれ、
とうとう眠る事すらも怖くなり、心身共にボロボロになった。
その後何をしてしまったのか覚えてないけれど、
いつの間にか縁が切れていた事だけは確かだ。
自分だけならまだしも、他人まで傷付けてしまう嘘を吐いてしまうくらいなら、
始めから友達なんて居ない方が良い。
だから、ボクは独りのままで良かった。
「こんな場所で、何してるんだ?」
それは、突然の出来事だった。
ボクと同い年くらいの男の子が、ボクに声を掛けてきたのだ。
「こっち来なよ。一人くらい増えたって大丈夫だから」
「い、いいよボクは……」
突然の事に、ボクはしどろもどろになる。
どうして、ボクなんかに声を掛けるのだろう?
ボクに、必要とされる価値なんて無いのに。
生きる理由も解らないボクに、生きる理由なんて無いのに。
「じゃあ、一人で何してるんだよ?」
「えっ……そ、それは……」
更に質問され、返答に困っていた時、不意に微風が吹いた。
撫でる様に優しく、抱く様に暖かい風だった。
余りの心地良さに、ボクは我を忘れ、風に身を委ねる。
目を閉じれば、すぐにでも眠れてしまいそうな程だった。
風は、とても正直だ。感情の通りに、微風になったり、嵐になったりするから。
だから、ボクは風が好きだった。
「風が……好きなのか?」
彼の声が聞こえ、ボクは我に返る。
「ど、どうして判るの!?」
「さっきのを見れば、誰だって判るよ。
確かに、結構気持ち良いよな。遊んでると判んないけど」
そう言ってから少し間を置き、更に彼は続ける。
「でも、偶には皆と……って言うのも良いんじゃないか?
いつも一人だけだと、いざって時に困ると思うぞ」
彼はそう言って、ボクに手を差し伸べる。
本当は、すぐにでもその手に縋りたかった。
それがボクを孤独から救い出してくれるなら。
ボクは、すっと独りだった。だから、判る。
孤独に勝る恐怖なんて、そうそうあるものではないと。
何か叫んでも、何も返ってこない。
何か感じても、共感も反感もない。
何か聞こえても、応える権利が無い。
存在に気付いてもらえない恐怖を、ずっと感じてきたから。
彼の手も、言葉も、何もかもが眩しくて、ボクにはとても直視出来ない。
だから、直接彼の手に触れようと手を伸ばす。
――お前は、また嘘を吐こうとしている。
――お前は、また嘘を吐こうとしている。
――お前は、また嘘を吐こうとしている。
――お前は、また嘘を吐こうとしている。
――お前は、また嘘を吐こうとしている。
ボクの頭の中で、汗が噴き出る程に冷たい言葉が、乱反射する様に繰り返された。
耐えられなくて、ボクは出しかけた手を引っ込める。
「い、嫌だよ! ボクは……」
でも、ボクには勇気が無かった。
孤独から這い出る勇気も、輪に加わる勇気も無かった。
そして何より、『秘密』を隠し通す勇気が無かった。
「ボクは……何?」
それでも、彼は怒りも呆れもせず、ボクの話を最後まで聞こうとする。
「ボクは……秘密があるんだよ。
絶対に誰にも言っちゃいけない秘密なんだ。
だから、ボクは秘密を隠したままキミ達と友達にならなきゃいけない。
キミ達に、ずっと嘘を吐かなきゃならないんだ。
そんなの嫌だよ……。だから、ボクはこのままで……」
嘘を吐くと、虚しい。嘘を吐かれると、悲しい。
『嘘』は、お互いを傷付けてしまう。
だから、ボクはこのまま嘘を吐く人が居ないままでいたい。
今まで、誰にも言った事が無い本音を、初めて彼に話した。
「……別に、良いんじゃないか?」
「えっ……?」
でも、彼は事も無げに言った。
「誰だって、人に知られたくない事の一つや二つくらいあるさ。
それを隠したまま人と付き合うって、そんなに悪い事かな?」
「…………」
初めてだった。ここまで堂々と、嘘を吐く事を許された事は。
「でも……怖いよ……」
「確かに、今までずっと一人だったなら、おいそれとは無理だと思う。
けど、そのまま独りで居る訳にはいかないだろう?」
「…………」
「まずは、俺と友達になろう、な?」
「……友……達……」
ボクは、繰り返す様に言った。
ずっと欲しかった言葉を。
ずっと恐れていた言葉を。
今まで諦めていた言葉を。
「でも、ボクはもう、嘘を吐いた背徳感に苛まれる夢を見たくないんだよ……」
『秘密』を隠したまま友達を作った日から、ボクの悪夢は始まった。
あの恐怖をもう一度味わうなんて、ボクには耐えられない。
「夢は、その人の心を表してるって聞いた事がある。
君がそうやって、秘密を持つ事を極端に嫌っているからじゃないかな?
そうじゃないとしたら、俺に出来る限りの事はするからさ。友達として、当然だろう?」
ボクが感じた事の無い感覚が、彼の言葉には溢れている。
寒気がするくらい温かくて、近付き難いくらい眩しくて。
「思っている程難しい事じゃないんだぞ?
俺が友達になりたいと思って、君が友達になりたいと思えば、
その時点で二人は立派な友達なんだ。だから、あとは君次第だ」
「…………」
彼の言葉は、ボクが今まで抱いていた不安を、次々と薙ぎ払ってくれた。
一言一言が温かくて、優しくて、頼もしくて。
彼と一緒なら、ボクも頑張れるかも知れない。
彼ならば、ボクを必要とし、必要とされるかも知れない。
あとは、ボクが勇気を出して、一歩踏み出せば……。
だから、ボクは覚悟を決めた。
「ぼ、ボクと……ボクと……と、友達に……な……て……下さい……!」
「あぁ、喜んで」
こうして、ボクと彼は友達になった。
友情の証にと握手を求められ、ボクは彼の手を握る。
家族以外の人から初めて感じた、人の温もり。
人は、ボクが思っていたよりも、ずっと温かかった。
ボクの存在意義は、きっとここにあるのだ。
そして、その事を教えてくれた彼に、ボクは人生の全てを捧げても良いと思う。
彼が居なければ、ボクは一生生きる意味を見出せずにいたのだから。
「そう言えば、まだ名前聞いてなかったな。俺は藤原光。君は?」
「ぼ、ボクは……」
二人の間を、微風が通り抜ける。
「……ん……さん……望月さん……!」
「う……ん……?」
明に声を掛けられながら揺さぶられ、アリスはようやく目を覚ました。
「あれ……ここは……?」
状況が解らず、アリスは辺りを見渡す。
どうやら、公園のようだ。
お昼時だからなのか、アリスと明以外は誰も居ない。
すぐ傍に、大きな樹が悠然と構えている。
そして足元には、箒が真っ二つに折れて横たわっていた。
「あっ……そっか……。ボク……あの時我を忘れて……コントロールし損ねて……」
どうにかここに居る理由を思い出したアリスは、
改めて今の状況を理解し、真っ青になった。
――迷惑を掛けてしまった人が、目の前に居る。
――傷付けてしまった人が、目の前に居る。
「ご、ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!」
必死に連呼しながら、アリスは明から逃げる様に樹の裏へ走る。
背後を樹に委ね、その場に崩れ落ち、自分が犯した罪をまざまざと思い出した。
「大丈夫ですか、明さん?」
明が、心配そうにアリスの方へと回り込む。
アリスは、目を合わせる事が出来なかった。
「これ……望月さんのですよね? 傍に落ちてたんですけど……」
そう言って、明は手を差し出す。
その手には、黒いカラーコンタクトレンズが乗っていた。
「か、返してっ!」
それを見て、アリスは明からコンタクトを引ったくる。
慌ててそれを青い左目に填めようとするが、
「だ、駄目ですよ望月さん! 汚れているかも知れません!」
同じく慌てて明が止めた。
アリスは少し抵抗したが、観念したのか、グッタリと腕の力を抜く。
そして深く溜め息を吐いて、
「もう……隠しても無駄だね……。
ボクは……普通の人間じゃないんだよ……」
呟く様に言った。
「光様から、大体の話は聞きました。
俄には信じ難いですけど……目の前で見た以上は……」
明には、まだあの時の光景が信じられなかった。
アリスが我を失うと同時に、室内で暴風が吹き荒れたなんて。
これ程に自分の目を疑う事は、後にも先にも無いだろう。
アリスは小さく息を吐いてから、ゆっくりと話を始めた。
「……ある所に、一人の女の子が居たんだ。
その娘は、魔女狩りから逃げ延びた西洋魔術師の末裔で、
生まれつき魔法の才能があったんだ。
髪がブラウンで左目が碧眼なのも、欧米の血が混じってるからだと思う。
そんな訳で、その娘は親にいつも言われていた。
『科学は、窺知出来ない魔法を恐れて、殆どの魔術師を殺してしまった。
でも、自然を“押さえつける”事に長ける科学だけでは、必ず限界が来る。
だから、自然と“同調する”事に長ける魔法の時代が再来するまで、
魔術師の血を守り続けなければならない』って。
……早い話が、その娘は魔術師の血を繋ぐ為に生まれたんだよ。
魔術師の技術を繋ぐ為に、魔法の練習をさせられたんだよ。
いつか来る、魔術師の時代の為に。
……でも、だったら『ボク』は何の為に生きれば良いの?
ただ血を繋いだだけじゃ……『魔術師』として生きただけじゃ、
『ボク』は存在していないも同じじゃないか!」
最初は『その娘』として話していたが、
感極まったのか、いつの間にか自分の事として話していた。
更にアリスは続ける。
「だからボクは、魔術師である事を隠さなきゃならなかった。
魔術師だと知られたら、ボク達も狩られるかも知れないから。
つまり、誰に対しても嘘を付き続けなければならなかった。
……でも、嘘を吐いて人と付き合うなんて、ボクには耐えられない。
だから、ボクはずっと独りで居たんだ。
独りは辛かったけど、人に嘘を吐くよりはマシだと思ったから。
……でも、六歳の時にお兄ちゃんに出会って、何もかも変わったんだ。
お兄ちゃんは、ボクにハッキリと言ってくれた。『秘密は悪い事じゃない』って。
実際、お兄ちゃんは一度もボクの『秘密』に言及する事は無かった。
色々とあって、最後にはバレちゃったんだけどね……」
そう言って、アリスは少し間を置く。
「そして、ボクは悟った。
誰にも大切に思われていない人は、死んでいるも同じなんだって。
お兄ちゃんの居ない八年間は、
お兄ちゃんがボクを想ってくれていると信じていたから頑張れたんだよ。
だから、ボクはお兄ちゃんが好き! 誰よりも! 心から!
ボクが好きでいれば、お兄ちゃんも好きでいてくれる筈でしょ?
そう言う訳だから、絶対にキミにお兄ちゃんを渡す訳にはいかないんだよ。
キミにお兄ちゃんを取られたら……ボクを大切に想ってくれる人が……
ボクの存在意義が無くなっちゃうんだよ!」
そう言い切ると、アリスは大きく息を吐く。
明は口を出す事無く、最後までアリスの話を聞いていた。
「そうですか……望月さんも『枷』に填められた人だったんですね……」
そして、囁くように明は言う。
「えっ……?」
訳が解らず、アリスはキョトンとなった。
そんな彼女の隣に、明は座る。
アリスは、少しだけ距離を置いた。
「私も……そうでした。
子供の頃の私は、『枷』に填められて『生かされて』いました。
『枷』を外したくて、今の貴女の様に藻掻いていました。
ですから、貴女の気持ちは、痛い程解ります」
そう言って、明は一息吐く。
「……でも、『枷』に惑わされないで下さい。
周りを見渡す事を、忘れないで下さい。
一人が愛するのは、一人だけではありません。
一人を愛するのも、一人だけではありません。
光様を大切に思う人は、一人だけではないでしょうし、
貴女が大切にすべき人も、一人だけではない筈です。
……私は、その事に気付くのが、少し遅かったんですけどね……」
明は、優しく諭す様に言った。
微風が、二人の髪を緩やかに揺らす。
アリスは、明の言葉を頭の中で何度も繰り返していた。
確かに、ずっと藤原に固執してばかりで、他の人の事など考えもしていなかった。
自分を大切に思ってくれていた人は、藤原だけではなかったかも知れないのに。
藤原を純粋に愛していたのは間違いない事実だ。
でも、少なからず強迫観念に駆られていたのは否めない。
「でも……ボクは……もう……。
あんな事しちゃったら……合わせる顔が無いよ……。
お兄ちゃんだって……きっと……ボクを……」
アリスは、今にも泣き出しそうな声で言った。
例え反省しても、壊した物は戻らない。
それぐらいの事は、判っている。
「あら……この音……」
明は、遠くから近付いてくる足音に気付く。
同時に、笑みが浮かんでくる。
「良かったですね。……貴女を最も心配している人が来ましたよ」
「えっ……?」
アリスが気付いた時には、その足音の主はすぐそこまで来ていた。
彼はアリスの前で立ち止まると、荒い呼吸を少しだけ整える。
「あ、アリス……!」
「お兄ちゃん……」
目の前の藤原に、アリスは目を合わせる事が出来なかった。
――きっと、お兄ちゃんはもう……。
そう思うと、この上無い恐怖を覚える。
最も大切に想っている人に見捨てられたら、元も子もない。
それでも、せめて謝らなければ。
「その……ごめ」
「まったくお前は! 白昼堂々空を飛ぶ奴があるか!
俺達がどれだけ心配したと思ってるんだ!?」
一気に捲し立てる藤原に、アリスは思わず言葉を引っ込める。
そこまで言って、藤原は少し言葉を詰まらせ、
「ま、まぁ……その……お前が無事で……本当に良かったよ……」
しどろもどろになりながら続けた。
「……頭ぶつけたのか? まだ痛いか?」
そして、とても心配そうな顔でアリスに尋ねる。
「う、うん、大丈夫。でも、もうちょっとだけ休ませて」
藤原の気持ちが判ったアリスは、目頭が焼ける様に熱くなった。
それをどうにか堪えて、気丈に振舞う。
「私、外しますね」
「えっ? あ、明さん、居たんだ……ありがとう……」
ようやく明の存在に気付いたらしく、藤原は戸惑いながら応えた。
明は微笑んで会釈すると、踵を返して、出口の方へと歩いていく。
微風が、長い髪を優しく揺らした。
明が居なくなり、二人の間に少しだけ気まずい空気が流れる。
「お兄ちゃん……その……ごめんなさい……」
アリスは、さっき遮られて言えなかった言葉を、改めて言った。
「その……もう怒らないの?」
そして、少し怯えながら尋ねる。
「もう良いよ。これ以上怒る理由もないし」
藤原はアリスの傍に座り、草臥れた声で答えた。
そして、アリスが持っているコンタクトに気付く。
「やっぱりコンタクトか。おかしいと思った」
「う、うん、これ付けてれば怪しまれないと思って……思ってたのに……」
次第に、アリスの声が嗚咽を孕んでいく。
色々な思いが頭の中を渦巻き、涙が堪え切れなくなる。
何かがはち切れ、最初の一筋が流れると、最早止めようが無かった。
「お、おい、何も泣かなくても……」
突然泣き出されて、藤原は狼狽する。
「だ、だって……ボク……!」
泣きたくて泣いているんじゃない、と続けようとしたが、
しゃくり上げる上げる度に言葉が詰まり、なかなか言葉が出ない。
「仕様が無いな……」
藤原は溜め息混じりに呟くと、アリスを抱き寄せ、
彼女の顔を自分の胸に押しつけ、頭をグシグシと手荒く撫で付けた。
突然の出来事に、アリスは一瞬言葉を失う。
どうにか自分の状況を理解すると、心臓が一気に跳ね上がった。
泣いていた事も半ば忘れて、自分の顔が紅潮していく感覚を覚える。
「お、お兄ちゃん……!?」
「ほら、『あの時』はこれで泣き止んだだろ? ……それとも、子供扱いは嫌か?」
「……ううん、もうちょっと」
自分から抱き付いた時よりも温かい気がして、アリスは藤原に身を委ねた。
八年ぶりの感覚に、アリスの涙が徐々に引いていく。
「……空、飛べるようになったんだな」
「うん。あちこちぶつけて痛かったよ」
「今も、魔法の修業しているのか?」
「風以外の魔法も、少し使えるようになったよ」
「例えば?」
「手を触れただけで新聞紙を燃やしたり、洗面器に張った水を渦巻かせたり」
「……あんまり大した事無いな」
「ひ、ヒドいよ! 結構大変だったんだから……」
八年ぶりの邂逅には似合わない、たわいの無い遣り取り。
それでも、アリスの涙を止めるには十分だった。
「……もう、いいな?」
「うん。ありがと、お兄ちゃん♪」
アリスが顔を離した時には、笑顔が戻っていた。
それを見て、藤原は安堵する。
「でも、皆は……ボクを……」
「ま、『気にしない』事が出来ないから、差別が生まれるんだけどな……。
大丈夫だよ。あいつらは、お前の事を口外したりしない……筈だから。
きっと三人とも、お前と友達になろうと思っている。
だから、あとはお前次第だ。……じゃ、帰るか」
「うん!」
藤原の言葉に、アリスは満面の笑みで返した。
吹き込んできた新しい風は、手厚い歓迎で迎えられる事になりそうだ。
「藤原先輩からメールで、望月さん見つかったそうです」
「判ってたさ……何もかも……そう……判っていたのだ……」
第二話 恐らくは仁義無き戦い 完
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2005/08/27(Sat)11:20:32 公開 / 月明 光
■この作品の著作権は月明 光さんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
第一話あとがき
去年の夏以来の投稿になる者です。
殆ど『初めまして』になるでしょうか。
自分としては、かなり無謀なものを書いてしまいました。
今も投稿すべきか否か悩んでいます(苦笑)
『まったり系マニアックコメディ』と勝手に銘打っているので、
肩の力を抜いて読んでいただければな、と思っております。
初めての連載なのでどこまで続くのかは判りませんが、取り敢えず行けるトコまで行きます。
第二話あとがき
ちょっと騒がしい日常を書き綴る小説の第二話です。
初登場のアリスですが、個人的には書き易いです。秋原に着火してくれますし。
第一話より長くなったので、三度くらいに分けて掲載する予定です。
第二話あとがき その弐
第二話もいよいよ佳境へと向かいます。
アリスが藤原を溺愛する理由が次で解る筈はのですが、
最後辺りのアリスの台詞で、解る人は解っているのではないかと。
ローカルなネタを知らないうちに使ってしまう恐れがあるので、そう言う事を調べているのですが……
『まんまんちゃん』や『あめちゃん』って、ローカルだったんですね(汗
あと『自分』を二人称で使うのも。赤信号でも渡るのが当たり前だと思ってましたし。
早い話が、当たり前だと思っている事も、端から見れば奇異極まりない場合があると言う訳で。
話を変えて、感想を下さった皆様、有り難うございます。
取り敢えず、『……』を少し削ってみました。
第弐話あとがき その参
今回は、感想で最も多かった「地の文」を意識してみました。
これで駄目なら、私自身が精進するしか無いですね……。
この更新で、アリスの真意を垣間見られたと思います。
個人的に書き易いので、彼女はこれからも多用されるでしょう。
だいぶ長くなってきたので、次は新スレを立てようかと考えております。
では、批評感想お待ちしております。
アリスの回想を加筆修正しました。