- 『幻想のルフラン 9〜13』 作者:Rikoris / ファンタジー ファンタジー
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全角9034文字
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8までは過去ログ11にあります。
♭♯ 第八小節までのあらすじ(過去ログ11のをお読みになった方は飛ばしてください) ♯♭
〜これが現実だと知るために 現実でないことを願いながら この五線譜に 私は出来事を鮮明に記して行こう〜
私立風駆(かざく)学園に通う香燈瑠璃(こうひるり)は、目が何度も倒れたことがある程紫外線に弱い。彼女はある夏の日、グラウンドで行われる体育のハードルの授業の時間を保健室で過ごしていた。そこで《瑠璃、助けて》と言う奇妙な声を聞く。
その日は部活があり、管弦楽部に所属しフルート奏者を務める瑠璃は、同じく管弦楽部に所属しヴァイオリン奏者を務める家の近い葉月麗莉(はづきれいり)と家路を共にしていた。麗莉は先天的に耳が悪いが、ヴァイオリンを幼い頃からやることで普通の大きさくらいの声なら聞き取れるくらいにはなっている。そんな麗莉から、瑠璃は体育の先生が「明日から瑠璃だけ放課後に体育館でハードルの練習を見る」と言っていたと告げる。家に帰ると、また保健室で聞いたものと同じ奇妙な声が聞こえた。《音楽室のピアノの中を見て》と言い残して奇妙な声は消える。奇妙な声が瑠璃には聞き覚えがある気がした。だから、音楽室というのが自分の通う風駆学園のものだと思った。学校へと駆け出す瑠璃。ヴァイオリンの練習をしようとしていた麗莉は、窓の外を瑠璃が走るのを見つける。麗莉は瑠璃の後を追う。
風駆学園の校門の前へ着いた瑠璃の前に、麗莉が現れる。麗莉に「どうして学校へ向かっているの」と尋ねられ、瑠璃は奇妙な声のことを話す。音楽室へ行こうとする瑠璃だが、校門は高く、防犯カメラなども設置してあり中へは入れない。仕方なしに帰ろうとする二人へ、音楽室からノクターンの音色が聞こえてくる。いつか管弦楽部で演奏したものだった。麗莉はそれを弾く人が、管弦楽部でパーカスとピアノを担当していた奏鍵燐音(そうけんりんね)だと言う。直後、燐音と名乗る奇妙な声が聞こえてくる。瑠璃が保健室と自宅で聞いたものと同じ声だった。麗莉にも聞こえていた。《私は、音楽室のピアノの中にいる。どういうことかはよくわかっていないけれど、あなたたちならここへ来れる。ピアノの中を覗いてみて。私の声が聞えたあなた達なら見えるはず》と、奇妙な声は瑠璃と麗莉に告げる。《――もう時間がないの、お願い……助けて》と、言い残して奇妙な声は消える。瑠璃と麗莉は「今は学校へ入れないから、明日の放課後、絶対音楽室に行こう」と約束をする。その夜の約束のせいで、平穏が崩れ去るなんて! その時、麗莉は思ってもみなかった。
♪♪♪♪♪♪♪♪♪
♭ 第九小節:悪魔の囁き――作曲:香燈瑠璃 ♭
セミとホトトギスの鳴き声が、元気よく飛び交う朝だった。昨日の奇妙な一連の出来事が嘘みたいに、爽やかさに包まれている。
窓の前に垂れるブラインドを通して、教室内に陽光が溢れている。まだ、教室内に並ぶ机のほとんどに主人がいない。それらの上に、バーコードを九十度回転させたようなブラインド模様が広がっている。
何気なしに早く学校へ来た私は、担任に無理を言って廊下側にしてもらった自分の席にただ座っていた。これといってすることもなく、ただブラインド模様を見つめてもの思いにふけっていた。
昨日の奇妙な声は、本当に燐音の声だったのだろうか。思えば、確かに声質は彼女のものだった気がする。彼女とは結構親しかったから、聞き違えるということもないだろう。仮に彼女だとして、どこに居るというのだろうか。声は、私と麗莉なら自分の居る場所に来れると言っていた。それは学校内のどこかという意味なのだろうか。あるいは、また全然違う想像もつかないような場所なのだろうか。そしてどうして、私と麗莉なのだろうか。
考えれば考えるほど、疑問は沸々と湧き水のように浮かんでくる。私の頭は既に、洪水を起こしかけていた。昨夜も気になって眠れなかったし。
「瑠璃、おは、よ。は、やい、ね」
ふいに、後ろから声が掛けられた。この独特のイントネーションは、言うまでもなくあの生徒だ。振り向くと、黒髪の少女が居た。
「おはよう、麗莉。そっちこそ早いね」
鞄を開けてさっさと一時間目の仕度を始める後ろの席の生徒に、私はそう返す。彼女、麗莉は「ちょっと眠れなくて」と言って上品に笑った。
「放課後、忘れてないよね?」
昨夜の約束のことだ。放課後、私と麗莉で音楽室へ行って、ピアノの中を探るという。私の問いかけに、麗莉はすぐ何のことがわかったようで大きく頷いた。
「あ、でも瑠璃、今日ハー、ドル、の練、習日でしょ」
「あっ、そうだっけ……」
完全に忘れていた。麗莉が言ってくれなかったら、すっぽかしていただろう。すっぽかしたいところだけど、仕方がない。相手はあの熱血教師だ。行かないと後が怖い。
体育館に行かないわけにはいかない。しかし、音楽室も行かないわけにはいかない。ピアノの中を見れるチャンスは、学校に居る間しかないのだ。しかも、時間がないという。けれど朝は開いてないだろうし、行くなら部活の行われる放課後しかない。音楽室は、音楽部と管弦楽部が交代で使用している。管弦楽部は大抵、部活のある日の前半を使用する。今日は……
「今日、部活あるっけ?」
「うん。管弦楽部前半だか、ら、丁度良、いかな、と思ってた、んだけ、ど」
尋ねると、麗莉はすぐそう返してきた。彼女は、困ったような顔をしてしまっている。
「じゃ、体育の先生に取り合ってみるよ。後半だけじゃ駄目かって」
駄目と言われても飛び出してやろう、などとよからぬ事を考えつつ麗莉へ言う。それもあの教師が相手では無理だろうけど、麗莉の表情は和らいでくれた。
「私、も付き合、うよ、取り合、うの。前半音、楽室で部、活あるの、その方、が説得、力ある、でしょ」
そう言って、麗莉はちょっと口元に笑みを浮かべる。なるほど、それならあの教師とて許してくれるかもしれない。麗莉は絶対に嘘なんかつかないから。でも、
「いいよ、あいつ非常勤だから放課後しか会えないし。今日に限って体育ないからね。麗莉は部活行きなよ」
それだと、麗莉まで部活に遅刻することになりかねない。説得できる自信はなかったけれど、私はそう応えた。けれどそれは、悪魔の囁きだったのかもしれない。
「そう? がん、ばって、ね」
少し心配そうに眉根をひそめていたけれど、麗莉は納得してくれたようだった。
セミとホトトギスの鳴き声が、窓の外から入り込み、静かな教室にうるさいほどに響き渡っていた。
♪
♭ 第十小節:放課後の悪魔――作曲:香燈瑠璃 ♭
悪魔。その二文字が、私の頭を過ぎった。
「授業に出てないお前が悪いんだろう。出来ないわけじゃないから、こういう時間を設けてやってるんだ。顧問に話はつけてある、部活よりこっちを優先しろ」
放課後の静まり返った体育館に、悪魔もとい熱血体育教師の熱弁が響き渡る。セミとホトトギスの鳴き声も、悪魔の叫びに吹き飛ばされてしまったようだった。
後半だけじゃ駄目かと取り合ってみたが、案の定熱血教師は許可してくれなかった。まさか、顧問と話がついているとは。あの謎の声のことを言うわけにはいかないし、もはや打つ手はない。
こうなれば、逃げ出す他ない。しかし、体育館の出入り口には熱血教師の筋肉質な図体が立ち塞がっている。今逃げ出すのは不可能だ。隙をうかがうしかない。
仕方なしに、体育館の中央に並べられたハードルの所へ向かう。
「あ、そうだ、お前昨日学校へ来たか? 夜に」
唐突に、熱血教師の声が掛けられた。足が止まる。振り向くと、熱血教師の鋭い視線が私を射た。
「校門のところに女子が二人いるのが、校舎内の防犯カメラに映っていたらしい。その内の一人が、お前みたいに髪が長かったっていうんだよ。まあ、遠くからだから正確にはわかってないんだが……」
熱血教師の言葉に、心臓が高鳴る。別にやましいことをしていた訳ではないのだが。夜に居ると、何か問題でもあるのだろうか? それにしても、この学校の防犯設備は異常なほど凄いな。
「髪が長かったら私なんですか? 長い人なんていっぱい居るでしょう」
反撃場所を見つけて、私は言い返す。白状したら負けだ。私はキッと熱血教師を見返す。
「そりゃそうだが……違うなら良い。さっさと練習を始めろ」
そう言って、熱血教師はフウと息をつく。私はハードルの元へと駆けて行く。
どこからか、聞き覚えのある音色が聞こえてきた。ヴァイオリンの音色だ。きっと、管弦楽部のものだろう。
麗莉は今頃、あの中で演奏をしているのだろうな。そんなことを思いながら、ハードルの前についた私は、その音色をBGMにそれらを飛び始めた。
♪♪
♯ 第十一小節:音楽室のピアノの中――作曲:葉月麗莉 ♯
ヴィオラの音色が、辺りに響き渡っている。丁度、パートごとの練習で、ヴァイオリンの番が終わったところだ。私はほっと息をついた。
それにしても、遅い。もうすぐ音楽室での練習が終わってしまう頃なのに、まだ瑠璃が来ない。やっぱり、許してもらえなかったのだろうか。
どうしよう。瑠璃が来る前に、ピアノの中を見てしまうのも悪い気がする。それに、ちょっと怖い気もする。でも、このまま瑠璃が来れなかったら? 出来ることなら瑠璃と一緒に見てみたいけれど、それだと今日中には見れないかもしれない。あの声は、一刻を争うようなことを言っていた。どうしたら良いだろう。
「どうしたんだい、葉月さん? 香燈さんいなくて心配?」
右隣から、声を掛けられた。そちらを向くと、ピアノがあった。部活時の私の席は、ピアノの斜め前なのだ。声を掛けてきたのは、ピアノ椅子に座る長めの黒髪に切れ長の黒目の男子生徒。前はトロンボーンをやっていたけれど、奏鍵さんの代わりにピアノを担当している風来聖(ふきあきら)君だ。
声を掛けられて、自分が顔をしかめていたことに気づいた。慌てて作り笑いを浮かべる。
「ううん、瑠璃はハー、ドルの、練習だ、から」
盛大に首を振って見せる。本当は心配だったけれど。瑠璃がいないことじゃなくて、瑠璃が来ないかもしれないことが。
そういえば、ピアノはすぐそこにあったのだ。立って、覗いてみればそれで済んでしまう。そんな気がした。けれど、まだ瑠璃が来ていない。どうしよう?
《助けて……麗莉……》
ピアノから、微かに声が聞こえた気がした。昨夜の、奏鍵さんの声が。
「どうしたの?」
私は、驚いたような顔をしていたに違いない。 風来君が尋ねてきたから。彼には聞こえていなかったみたいだ。
《ねぇ、おいでよ、麗莉……》
今度の声は、はっきりと聞こえた。頭の中に響いたのだ。だけど、それは奏鍵さんの声じゃなかった。どこか無邪気な感じで、声変わり前の男の子の声のようでも、女の子の声のようでもあった。
誘われるように、私は席を立っていた。ピアノの中を、楽譜立ての後ろ側を覗き込んでいた。
楽譜が、浮かび上がって見えた。書きかけのような、終止線の書かれていない楽譜だった。誰が書いたのだろう?
《弾いてみてよ、麗莉。キミがその続きを作るんだ……》
声に言われるがままに、私はヴァイオリンを構えていた。浮かび上がっている楽譜のとおりに、音を紡いで行く。
「葉月さん? 何を――」
風来君の言葉が微かに耳に届いたけれど、何を言ったのかはよくわからなかった。私は、自分の紡ぐヴァイオリンの旋律に飲まれて行くようだった。体が浮いているような感覚がした。どうしようもない眠気が、私を襲った。そんな中で、無邪気な声だけがはっきりと聞こえた。
《ようこそ……麗莉》
♪♪♪
♭ 第十二小節:悪魔からの便り――作曲:香燈瑠璃 ♭
暑い。日差しが照りつけてこないのは良いけれど、暑いのは体育館もグラウンドも変わりないようだ。運動して、体が火照っているからかもしれないけれど。せわしなく続くセミとホトトギスの鳴き声が、余計暑さを増させる。
縦に並べられた十程のハードルを、連続して飛んで行く。もう何往復しただろう。どこからともなく汗が噴き出してくる。一列飛び終わって顔に纏い付く汗を拭っていると、熱血教師の非情な声が飛んできた。
「こら、休むなー? ちゃんと見てるんだからなー!」
一人だから、普通に授業をしているよりずっとハードだ。少しは休ませて欲しい。この分だと、音楽室へ行くのなんて夢のまた夢だな。
麗莉はどうしているだろう。もう、部活の前半が終わってしまう時刻だ。そういえば、今は管弦楽部の奏でるBGMが聞こえない。もう移動してしまったのか?
変なことになっていないと良いけど……。
不安という靄が心にかかる。心の水面が波立っている。
「香燈! 休むなと言っているだろうが!」
もの思いに耽っていたら、熱血教師がまた叫んで来た。私は、すぐさまハードル跳びを再開した。ぐずぐずしていると、傍に来られて怒鳴られかねない。
全く、熱血にも程がある。この暑い中、ハードルを跳び続けるのは拷問に近い。逃げ出せるものなら、逃げ出したい。けれど、今の私はまさに籠の鳥だ。体育館の出入り口は、熱血教師という鍵で閉ざされている。それさえなければ、自然に開く扉だというのに。
≪助け、て……≫
そう、燐音は言っていた。けれど、助けて欲しいのは今じゃこっちだ。やっぱり来たのは間違いだったんだ……!
≪助け、て……だ、れか……!≫
ガシャン、と跳びかけたハードルが音を立てて倒れた。
独特のイントネーションに、高い声。麗莉の声だ、間違うはずもない。今、聞こえた!
辺りを見回しても、ガランとした体育館には熱血教師と私しかいない。麗莉は部活に出ているはずだ。ここに来ているはずがない。
いや、そうではない! 今の声は、燐音の声と同じだった!
心臓が大きく鼓動する。その音に鼓膜が震えて、熱血教師の叫びが聞こえないくらいだ。
麗莉は、部活に出ている。そしてきっと、ピアノの中を覗いてしまった。だから、きっと……
「どうした、香燈? 戻れ!」
いつの間にか、熱血教師の目の前に来ていた。音楽室に行かなくちゃ。頭の中はその思いで一杯だった。頭の機能が、その思いに停止させられているみたいだった。
「通してください。音楽室に行かなくちゃならないんです」
気がつけば、そう言っていた。声が震えているのが、自分でも分かった。熱血教師の訝しげな瞳が、私を見据える。
「何故だ? 顧問に話はつけてあると言ったろう。サボりは許さんぞ」
どうしようもなく頑固だ。体育館の出入り口に立ち塞がって、通さないの一点張り。どんなにこじ開けようとしても開かない鍵のようだった。でも、こじ開けなきゃならない。
「そんなつもりはありません! ただ、友達が――」
「熱血先生ーっ!!」
本当のことを言ってしまい掛けたとき、体育館の外から女声が飛んで来た。荒々しい足音が響いてくる。
熱血故に“熱血先生”としか呼ばれている熱血教師は、さっと体育館の外の方を向いた。外を覗き込むと、「緊急事態ですー!」と叫びながら、小太りの貫禄のある女性が駆けてくるのが見えた。管弦楽部の顧問だった。よほど急いで来たのだろう、指揮棒を手にしたままだ。
「何があったんですか? まさか、“また”じゃないですよね?」
近くまで来た顧問に、熱血教師は尋ねかける。顧問の足が、そのままの場所で止まった。
「それがその……その“まさか”なんです……」
さっきの叫びの威勢はどこへやら、そう答える顧問の瞳は泳いでいた。どうしたら良いかわからない、といった様子だ。
「で、今度は誰?」
熱血教師がひとつため息をつき、問いかける。少しの間があった。
「……葉月さんです」
重々しく放たれた顧問の一言が、私の頭を打ち付けた。
葉月さん。管弦楽部には、葉月という苗字は一人しかいない。葉月麗莉、私の親友だ。やっぱり、彼女の身に何かがあったのだ!
「前みたいに、突然消えてしまって……」
今度は俯いて、顧問はほとんど呟くように言う。
前みたいに。きっと、燐音のことだ。
ピアノの中を覗いてみて。私の声が聞えたあなた達なら見えるはずよ。
燐音はそう言った。私と麗莉なら、何かが見れると。そして、麗莉はきっとその何かを見たのだ。なら、私にも出来るはず。どういうことかは分からないけれど、とにかく助けなければ、二人を。
「おい、待て!」
熱血教師の叫びが、後ろから飛んできた。いつの間にか、私は走り出していたのだ。熱血教師が、顧問に気を取られている隙に。
このまま突っ走るしかない。音楽室まで。
後ろから二人の足音が響いてきていたけれど、私は全速力で走り続けた。
♪♪♪♪
♯ 第十三小節:幸せの定義――作曲:葉月麗莉 ♯
瞳に飛び込んできたのは、白。それ以外は何も見えなかった。
ふわふわとただ真っ白い空間を漂っているようだった。何の感覚もない。ただ、白が見えるだけ。
どうなったのだろう? 生きているのだろうか? それとも、これが“あの世”というものなのだろうか?
ぼーっとする頭で考えてみるけれど、見当もつかなかった。夢の中のような感じまでしてくる。
≪違うよ。そのどれでもないんだ≫
どこからか響いてきた無邪気な声に、八ッとした。私を誘った声に違いなかった。
≪ここはね、あの世でもないし、キミの生きていた世界でもない。それに夢なんかじゃなくて、現実だよ≫
あの世でもなく、私の生きていた世界でもない。そして、現実。
「ど、ういうこ、となの?」
疑問に思い口を動かすと、声が出た。どうやら、生きてはいるようだ。
≪ここはどこでもない世界、正確には人々の強い“願望”が作り出した世界。現実に存在している、ね。この世界では、来た人の願いが叶えられているんだ≫
そういえば、いつか瑠璃が“異世界”に行きたいと言っていた。陽光のない世界へ行きたいと。そういうものがあるか分からないけれど、わずかな可能性があれば掛けてみたいと。でも、私は……
≪あの世界で、幸せだった? 逃げ出したくはならなかった?≫
私の考えを読んだかのように、無邪気な声が問いかけてきた。
幸せだった。そう思いたいけれど、正直なところはよく分からない。そもそも幸せの定義というのは、何なのだろう?
≪キミは、幸せじゃなかった。そして、逃げたいと思っていた。そうだろう?≫
見透かしたように、無邪気な声が言った。その瞬間、視界に色がついた。見覚えのある風景が広がっていた。
まず目に付いたのは、灰色の建物。その前には、風駆学園のものよりもずっと低い門がある。それは開かれていて、ランドセルを背負った少年少女がどんどんそこを通っていく。――小学校だ。
わいわいと多くの児童達が友達と歩いていく中、一人の少女が俯いて歩いていた。補聴器をつけた、肩までの黒髪の少女。小学校低学年の私だ。その周りを、同級生らしい少年少女が何かしら声を掛けながら通り抜けていく。
挨拶じゃない。同級生としての、他愛ない話でもない。一方的な、中傷じみた言葉だ。先生のいない登下校時にかけられていた、思い出したくもない言葉だ。
ミミナシ。ほとんどがそう言っていた。私の耳が悪いのをからかって、面白がって。私はただ唇を噛み締めて、下を向いて歩いていた。私には、そうして耐えることしか出来なかった。
だけど、そんなのはまだ良いほうだったんだ。
フッと風景が消え、見覚えのある部屋へ移った。跳び箱やボールがたくさん入った籠が、いくつも並んでいる。――体育館倉庫だ。
倉庫の隅に私はいた。背の中程まで、髪が伸びている。前のシーンよりも、顔立ちもずっと大人びている。それでも、背にはランドセルを背負っていた。小学校高学年の頃だろうか。
いくつもの見覚えのある顔が、私を取り巻いていた。獲物を狩ろうとするハイエナのようにギラギラと目を光らせて。
“生意気なのよ、あんた”
私の目の前に立っていた女子が言い放って、壁を手で突いた。私の髪を巻き込むようにして。
“何、する、の”
そう呟いた私はただ、戸惑っていた。体育館倉庫に来いと言われて来たら、いきなり同級生に取り囲まれて。
“先生に目を掛けられて、いい気になってるんじゃない? お嬢様ぶって、ホンッと生意気”
目の前に立っていた女子が、壁を突いた手に力を込めた。それと共に、私の髪も引っ張られた。女子はニィッと笑って、わざと髪を巻き込んだまま手を引っ込めた。私の体が、前のめりになる。
それは、思い出したくもない、頭の奥に押し込めていた記憶。
瞳に映ったのは、怪しい人工的な輝き。体育館倉庫の入り口から差し込む陽光に煌く刃の。それが私の背後へ動いて、パッと何本もの黒い絹糸が散った。
怪しく笑う、同級生達。目の前の女子が、手に持ったカッターを私の目の前にちらつかせ、床に落ちた黒い絹糸を、私の髪を踏みにじる。
≪ほら、全然幸せなんかじゃなかったんだ。だからキミは、ここへ来たんだよ。誘ってあげるよ、キミの望んだようになる世界へ≫
無邪気な声が聞こえたと同時に、視界が白に戻った。ここへ来た時と同じように、ものすごい眠気が私を襲う。ヴァイオリンの旋律が聞こえてきて、私を包み込む。
これから一体、どうなるのだろう?
急に、どうしようもない恐ろしさが込み上げてきた。
「助け、て……」
私の望んだようになる世界。私の住んでいた世界とは違う世界。そこはどのような所なのだろう? 好奇心はあった。でもやっぱり不安のほうが勝っていた。何も知らないという、わからないという恐怖のほうが強かった。
「助け、て……だ、れか……!」
誰でも良い、この世界から抜け出させてくれるのなら。そう思って薄らぐ意識を振り絞って呟いた。誰か――そうだ、瑠璃!
彼女なら、ここへ来れる。だけど、それは私と同じ目に会うということ……。
「――瑠璃、来、ちゃ、ダメ、だ、よ……」
彼女に、伝わっていれば良い。そう願うのが、精一杯だった。私の意識は、完全に途切れたのだった。
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■作者からのメッセージ
過去ログ11から引っ越してまいりました、Rikoris(リコリス)です。
一話一話が短いのは、小節という設定になっているからです。長くならない限り今回のようにまとめて投稿させて頂きたいと思っております。
ちなみに、十小節を超えましたので、初めの♪ひとつで十を表すことにしました。
まだ未完結の前作の方は、続きが書け次第投稿したいと思っております(打ち切ったわけではございませんので悪しからず)。
前からお読みいただいている方も、今回からお読み下さった方も、これからもどうぞよろしくお願いいたします。
感想、批評などいただけたら嬉しいですm(._.)m