- 『軽い魔境へのいざない (1から4)』 作者:時貞 / 未分類 未分類
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1.急な展開に戸惑うばかり
午前八時、気温三十ニ度――。
朝っぱらから真夏の太陽が、まるでそのやるかたない憤怒をぶつけるかの如く、容赦ない熱波を浴びせ掛けてくる。今年は、ほとんどその気配すら感じさせる間もなく梅雨が明け、連日嘘のような猛暑が続いている。僕は、家を出てから五分でぐっしょりと汗に濡れたティーシャツを気にしつつ、駅の自動改札を通り抜けると、ふと階段に乗せ掛けた足を止めた。くるりと向きを変え、腰の曲がった老婆の後ろからエレベーターに乗り込む。少しでも体力の温存を……っと思ったのも束の間、エレベーターの中はまるで巨大なオーブンレンジだった。自分の汗の匂いと末梢臭い老婆の匂いとが、何とも形容しがたい小世界を構築している。思わず失神しかけた瞬間、ホームに到着したエレベーターのドアが開いた。慌てて飛び降りる。
額から流れ落ちる汗を腕でぬぐい、ホームに目を向けるとそこは――そこは、生まれてこのかた見たことも無い世界であった……。
――見渡す限りの大平原。目がくらむほどに眩い緑の草木が風に揺れている。そして、見た事も無い異形の姿をした多くの生物が、草を食んだり戯れたりしている――。
「……え! な、なに?」
僕は一瞬、あまりの暑さの所為で、おのれの脳髄が完全にやられてしまったのかと思った。両手でごしごしと目をこすり、軽く頭を振る。そして、恐る恐る目を見開いてみた。
――見渡す限りの大平原。先ほど見た光景と、寸分違わぬ不思議な世界……。
「――ええっ! おいおい、なんだよコレ? ちょっ、なっ、なにぃ!」
完全に狼狽した僕は、自分のほっぺたを思いっきり強くつねってみた。人間、本格的にパニクると、こうしたオーソドックスな手段で現実と幻との区別を図るらしい。
「いっ、いててててっ!」
僕のほっぺたは真っ赤に腫れ上がった。いま目前に展開されている世界は、紛れも無く現実の世界のようだ。でなければ、僕が狂人になってしまったという事になるのであろう。こうなっては、ただただ呆然とするしかない。僕は遠くを見つめながら、そよそよと流れてくる風に髪を揺られて、呆然とその場に立ち尽くしていた。ショッキングピンクの両翼をはためかせ、訳のわからない鳥のような生物が、僕の頭上をすぅっと飛び去って行った。思わず独り言を呟く。
「僕はただ、バイト先に急ぐ途中で、めちゃめちゃ暑い中を歩いて……駅でエレベーターに乗ったら婆さんがいて……ええぃっ! 本気でワケわかんねぇぞ! どうすりゃいいんだ?」
思わず地団太を踏んだ。――と、そのときである。ふいに誰かに肩を掴まれた。驚いて背後を振り返る。すらりと背の高い長い黒髪の美女が、僕の肩にしなやかな指をのせていた。
「ようこそ、コウタくん」
艶やかな唇が開き、その美女は僕の名前を呼んだ。僕はきっと、とんでもなく呆けた表情を見せていたに違いない。
「ちょっと大丈夫? まぁ、驚くのも無理はないけど」
僕はようやく口を開いた。
「あんた誰? ここは何処? 僕はいったい?……」
その女性は僕の言葉を手で制すと、「あなたの気持ちも、聞きたい事がたくさんあるのもよくわかる。でも、質問はもう少し後にして。……とにかく、これから私に着いてきて欲しいの」
有無を言わせぬ強い口調だった。
そのまま僕の手を取り、周囲を見渡しながらゆっくりと歩き始める。僕は思わず、その手を振り解いた。
「おいおい、ワケわかんねえよ! いったい何処に連れて行く気だよ? それより此処は……」
「質問は後にしてって言ったでしょう? もう少し我慢して。それに、こんなところにいつまでもいたら、あなた殺されるわよ」
「え?」
僕は思わず彼女の目を覗き込んだ。まるっきり冗談のかけらもない、真摯で強い意志を持った瞳が見つめ返してきた。僕が飲み込んだ生唾の音が、ごくりと辺りに響く。
彼女は唇の端に微かな笑みを浮かべると、再び僕の手を取って歩き始めた。僕も不承不承――と言うよりも他にしようが無いので、彼女に従って一緒に歩く。遠くから、犬だか狼だか熊だかわからないケダモノのような咆哮が聞こえてくる。
「私の名前はシレーヌ」
前を向いたまま、彼女が小声でそう名乗った。
「僕は、コウタ」
「知ってるわよ」
「……」
シレーヌと僕は、そのまま黙々と歩きつづけた。
そのときになってはじめて、自分の身なりに気が付いた。さっきまで――と言うのは、駅で老婆の後ろからエレベーターに乗り込むまでだが――着ていた汗臭いティーシャツと擦り切れたジーパンはどこへやら、なにやら動物の皮で出来ているような、不思議な民族衣装めいた服装にいつの間にやら変わってしまっていた。
かれこれそうして十五分ばかりも歩いた頃だろうか。辺りはいつの間にか、薄っすらと紺のベールをかぶり始めてきている。
ふと、シレーヌが足を止めた。
しきりと周囲を見回し、なにやら身構えている。僕にまでその緊張感が伝わってくるようだった。
「どうしたの?」
「しっ! 静かに!」
先ほどまでの彼女とは打って変わって、全身から殺気めいたものが立ち上っている。僕は思わず生唾を飲み下した。――と、そのとき。
「ガルルルルルルゥゥ――ッ!」
大型機械のモーターのような轟音が響くと同時に、僕らの目の前になにやら黒い影が飛び込んできた。
「うわっ!」
「――ちっ、もうきたのね!」
シレーヌが突然、僕の体を突き飛ばした。それと同時に、黒い影が僕の眼前を疾風のような素早さで横切った。
「ガルルルルルルゥゥ――ッ!」
目が慣れて、次第にその黒い影の正体がはっきりとしてくる。
尻餅をついた姿勢で僕の目に映ったモノ――それは、巨大なカブト虫のような生物であった。
「うわぁっ! な、な、な、な」
ギョロリと巨大な複眼が、倒れたままの僕の方へと向いた。
2.カブト虫の強さにたじろぐばかり
自分の全長よりも巨大なカブト虫……そんなバケモノに射すくめられて、僕はすっかり腰が抜けてしまった。額からたらたらと脂汗が流れ落ちる。僕は必死の思いで、辺りに目を走らせた。シレーヌの姿が……ない!
「う、うそっ! まさか逃げたんかい、あの女ぁ」
僕は半泣き状態でかぶりを振った。きりきりと耳障りな関節の軋み音をたてて、カブト虫のバケモノが僕ににじり寄ってくる。そして、今にも襲い掛からんばかりにその身をかがめ込んだ。僕は、意を決してその場から思い切りよく立ち上がり、くるりと踵を返した。
「逃げるが勝ち!」
走る、走る。全速力で走る。後ろを振り返るのが怖い。僕は、生まれてこのかたこれだけ必死に走ったのははじめてであろう、と言い切れるほどに全身の力を振り絞って走った。背後にあのバケモノの気配は感じられない。僕はほんの少しだけ安心して、後ろを振り返った。……カブト虫の姿はない。
「っしゃあ! 逃げ切れたか」
右手で小さくガッツポーズをつくり、口元に笑みを浮かべつつ前を向いた。……ちょうどカブト虫が、小さく羽ばたきながら降下してくるところであった。
「……だめだ。飛んできたんかい」
喜びはほんの一瞬であった。巨大カブト虫は、悠々と空から追跡してきていたのである。――そのときであった。
「おい、へたれ! 逃げようったって無駄だぜ」
カブト虫が喋った! 明瞭な人間の言葉で、それも流暢な日本語で、カブト虫がはっきりと言葉を発したのである。
「ふふふ、驚いてるようだな」
「そ、そりゃ驚くわい。さっきっから驚きっぱなしだけど」
「驚きついでに……さっそく死んでもらいますかっ!」
「そ、それがわかんねぇっ!」
カブト虫が僕に飛び掛ってきた。
巨体のわりに素早い動き。
鋭く突き出たつのが、僕の右頬を掠めた。カっと熱さを感じたかと思うと、右頬から生暖かい液体がすぅっと流れ始める。凄まじい殺気を感じた。カブト虫は一瞬でその向きを変えると、再び僕へと突進してきた。
「ほ、本当にこのままじゃ殺される。い、いったいどうすりゃ……ぐふぅっ!」
カブト虫のつのが、僕の右わき腹を軽く抉った。猛烈な痛みが脳天まで突き抜ける。僕はそのまま、気を失ってもおかしくはなかった。
(せ、せめて、せめて、何か武器でもあれば……)
そう願った瞬間であった。右の手のひらに、何やらずっしりとした重みを感じた。ふと見ると、妖しげな光を放つ、鋭い刃をもった日本刀が握られているではないか。
「い、いつの間にこんなものを……」
考えている暇はなかった。カブト虫がさらなる攻撃を仕掛けてくる。突進してくるカブト虫のつのを目掛けて、僕は力強く日本刀を振り下ろした。
巨大なつのと日本刀とが炸裂する。激しい衝突音が辺りに鳴り響き、僕の手にした日本刀が根元からポキリと折れた。
「なんだよ! 意味ねぇー!」
「はっはっは、そんなモンでこの俺様が倒せるか」
勝ち誇ったようなカブト虫の高笑いが響く。どうやらこのバケモノは、一気に僕を仕留める事をやめたらしい。その複眼に、いやらしい光が宿っている。じっくりじわじわと、なぶり殺しにする魂胆なのであろう。
(くっそ! このまま何も出来ずに殺されてしまうんか。……せめて、せめて、何か他の武器でもあれば……)
そう思った瞬間であった。今度は左の手のひらに、ずしりとした重みを感じた。見ると、巨大な金色のハンマーが握られているではないか。
「うわぁ、悪趣味な色……っと、そんな場合じゃない! こいつであのバケモノを」
僕は、自分からカブト虫に向かって突進していった。カブト虫も驚いた様子で、さっとその身を身構える。かなり巨大なハンマーを手にしているにも関わらず、僕はその重みをほとんど感じなかった。
じりじりとカブト虫との距離が迫る。相手は身じろぎひとつすることも無く、じっと僕の攻撃を待ち受けているかに見える。
「せいやぁぁぁぁーっ!」
目の前に、カブト虫の黒光りした腹部が見える。
僕はハンマーを高く振り上げると、渾身の力を込めてカブト虫の顔面に叩きつけた。
再び轟く衝撃音。僕の手にしたハンマーが、こなごなに砕け散っている。
「なんだよ! 本格的に意味ねぇー!」
「はっはっは、そんなモンでこの俺様が倒せるか」
カブト虫は余裕のポーズで、僕のまわりをぴょんぴょんと飛び跳ねている。僕は、殺されるかも知れないと言う恐怖以上に、なにやら無性に腹立たしくなってきた。相手は確かにデカイけど、たかがカブト虫だぞ? なんでこんな奴に小ばかにされ、命まで狙われなくちゃならないんだ?
「はっはっは、もう反撃はそれでおしまいかな?」
カブト虫が憎まれ口をたたいてくる。僕はこれを利用して、少しでも時間稼ぎをする事を思いついた。そして、何とかこの場の打開策を……。
「日本刀も駄目、ハンマーも駄目、次はいったい何を出すのかなぁ?」
カブト虫のねっとりとした声が癇に障る。しかし、僕にも先ほどからの現象は不可思議であった。最初に“何か武器を”と願ったら、右手に日本刀があらわれた。その次にはハンマーが……どちらも願ったものが、知らぬ間に突然あらわれているのだった。もっとも、どちらも全く役に立たなかったわけであるが――。
「もしかしたらこの世界では、何でも願ったものを手にすることが出来るのか?」
僕は心の中で、上戸彩の写真集を願ってみた。
「おぉっ!」
見るとまさに、右手に上戸彩の最新写真集が握られているではないか! これはまさに、思ったとおりのようである。この世界では、何でも心に思ったモノを具現化する事が出来るようだ。
(これを上手く利用すれば、あのバケモノをやっつけることだって……)
僕は考えをめぐらせた。
先ほどあらわれた武器は、まったく役に立たないものだった。であれば、決定的に役に立つ――つまり、あのバケモノを倒せるだけの武器を具現化すれば……。
「どうした、へたれ! もうおしまいかぁ?」
カブト虫の声に我に返る。そして、僕は決然と向き直った。
「お! なんだなんだ、さっきと目つきが違うようだなぁ」
カブト虫の声を頭から追い払い、僕は目を閉じて一心に念じた。
(何か武器を……あのカブト虫のバケモノを“殺せる”武器を……)
右手に何かの感触を感じ、カっと目を見開いた。
――僕の右手には、巨大な殺虫剤が握られていた。
「これかっ!」
3.フンム
僕はカブト虫目掛けて、殺虫剤を思い切り噴霧した。勢い良く噴出す殺虫剤。辺りはたちまち白い霧に包まれ、目に染みるほどの強烈な臭気に覆われた。それでもまだ、僕は攻撃の手を休めない。ひたすらカブト虫目掛け、殺虫剤を噴霧し続ける。
「フンム! フンム! フンム!」
カブト虫は身動きひとつしない。いや、身動き出来ないと言うべきか、もくもくと立ちこめる霧に包まれるがままになっている。
「フンム! フンム! フンム!」
やがて、カブト虫の体が小刻みに痙攣をはじめた。殺虫剤攻撃が効いている証拠であろう。僕は、汗で手のひらから滑り落ちそうになる殺虫剤を必死に握り締め、噴射ボタンを押しつづけた。
更に大きく震えだすカブト虫。僕は徐々に、勝利の余裕を感じ始めた。思わず瞳から熱い涙が零れ落ちる。半分は、ようやくこのバケモノから解放される喜びから。もう半分は、殺虫剤が目に染みて……。
フシュゥという情けない音を立てて、手にした殺虫剤の中身が空になった。白煙に包まれたカブト虫は、相変わらず全身で大きく痙攣を続けている。その姿はあたかも、断末魔の苦悶に見えた。
「はぁはぁはぁ……ど、どうだ。バケモノカブトめ……くたばったか?」
白い霧が徐々に晴れていく。僕は、額から流れ落ちる汗を手の甲で拭いながら、じっとカブト虫の動静をうかがった。やがて、薄く漂う靄の中から、黒々としたカブト虫の巨体が浮かび上がってくる。その姿は、先ほどまでの猛々しさとは打って変わって、醜く引きつり歪んでいた。
「やった、勝った! 勝ったんだ!」
次の瞬間、僕の歓喜の雄叫びは大きなため息と失望とに変わった。
苦しげに腹部を押さえていたカブト虫が、我慢しきれないとでも言うように爆笑をはじめたのである。
「うわっはっはっは! ひぃ、ひぃ、苦しい」
「な、なんだよ……まだピンピンしてるじゃねーか」
僕はガックリと肩を落とした。辺りに響き渡るカブト虫の嘲笑。
「あー笑える! 今度は何をしでかすのかと思ったら、殺虫剤で“虫コロリ作戦”ですか? そんな安直な手でくたばるような俺様じゃねえよっ」
「そ、そんな」
僕は絶望的になった。確かに『あのカブト虫のバケモノを“殺せる”武器を』と願って出てきたものが、この手に今も握られている殺虫剤である。しかし、それをもってしてもあのバケモノを倒すことはかなわなかった。いったいこれ以上、何か打つ手はあるのだろうか?
みじめな僕の姿を見て、カブト虫が更にエスカレートした嬌声をあげる。
「はっはっはっは! おい、へたれ。次は何を考えてるんだ? さぁて、そろそろからかうのもいい加減にして、攻撃モードに入らせてもらおうかね」
カブト虫の全身から、再び強烈な殺気が立ちこめた。今度こそ本気で殺される!
僕の全身に恐怖が駆け巡る。嫌だ、嫌だ、殺されるなんて、それもカブト虫に殺されるなんて、絶対に嫌だ!
「フンム!」
僕は思わず、手にした空の殺虫剤をカブト虫目掛けて投げつけた。カツーンと乾いた音を響かせて、カブト虫の巨大なつのに命中する。
「うぎゃぁぁぁぁぁ――!」
見る間に、カブト虫の巨大なつのに亀裂が走った。そして、めきめきとまるで巨木がへし折れるような音をたてて、カブト虫のつのが根元から折れたのである。
「ぐ、ぐ、ぐるじぃ……」
カブト虫の全身に細かい亀裂が走って行く。僕は呆気にとられて立ち尽くしたまま、その断末魔の光景を眺めていた。やがてカブト虫の動きはぴたりと止まり、その場にくず折れると、二度と立ち上がる事はなかった……。
「……か、勝った……の? 僕?」
どうやらよくわからないが、僕はあのバケモノを倒したらしい。やはり、あの殺虫剤こそがカブト虫のバケモノを倒せる唯一の武器だったのだ。
そのとき――。
「どうやら勝ったようね。コウタくん」
長い黒髪をかきあげながら、シレーヌがいけしゃあしゃあと現れた。
「おい! あんた今までどこ行ってたんだよ!」
シレーヌは真剣な表情を僕に向けると、凛とした声でこう言った。
「あなたの気持ちも、聞きたい事がたくさんあるのもよくわかる。でも、質問はもう少し後にして。……とにかく、これから私に着いてきて欲しいの」
「またそれかい!」
結局僕は、シレーヌに手を引かれて再び歩き出していた。いまの気持ちを一言で言うならば、「もうどうにでもして!」である。シレーヌは相変わらず沈黙を守ったままだし、辺りは見渡す限りの大草原。それに、またいつぞやさっきのカブト虫みたいなバケモノが襲ってくるかもしれない。とりあえず、今の僕に出来る事は何も無い。
「ああ、疲れたなぁ。シレーヌ、いったいいつまで歩かせるんだい?」
「質問は後にしてって言ったでしょう? もう少し我慢して」
「……」
先ほどから、僕が何をたずねてもこれである。
「ああ、腹減ったなぁ。シレーヌ、何か食べる物もってない?」
「質問は後にしてって言ったでしょう? もう少し我慢して」
「……」
こうなってくると、ちょっとからかってやりたくもなってくる。
「ねぇシレーヌ、君のスリーサイズを教えてくれませんか?」
「質問は後にしてって言ったでしょう? もう少し我慢して」
「……」
これは本格的に冗談が通じない相手のようだ。と言うよりも、ちょっと危ない人物なのではなかろうか? 何を聞いても、先ほどからオウムのように同じ返答を繰り返している。
僕がそんな風にいぶかしんでいると、突然シレーヌがピタリと歩みを止めた。
「……どうしたの?」
「あそこよ」
シレーヌが真っ直ぐに指を突き出しながら、洞穴の入り口らしき個所を指し示した。
「あそこ?」
「そう、……私たちはあなたの出現をずっと待っていたの。詳しくは、あそこに住んでいる人物の口から語られると思うわ」
また、何やらわけのわからない事を言う。僕は口を開いた。
「よくわかんないけど、あそこに住んでる人物って?」
シレーヌは急に姿勢をただし、厳かな口調でその人物の名を言った。
「フンム様よ」
「フンム?」
怪しい名前だ……。
僕はシレーヌに手をひかれながら、なんとも言えない胸騒ぎを感じていた。
4.色々な意味で異様さに呆然
洞穴の入り口の前に立つと、中から何やら怪しげな匂いが漂ってきた。
目と鼻にツーンと染み入るような、刺激的な不思議な匂い。僕が鼻をつまんで立ち尽くしていると、シレーヌはうっとりしたような恍惚の表情を浮かべつつ、僕に向かって語りかけた。
「フンム様はあなたを大変歓迎しているわ、コウタ。この素晴らしい香りが何よりの証拠よ。うっふん」
「この匂い、一体なんなんですか?」
「質問は後にしてって言ったでしょう? もう少し我慢して」
「またそれかい!」
シレーヌに導かれ、僕は洞穴内に足を踏み入れる。入り口こそ苔や雑草に覆われており、いかにも原始的な印象を受けたのだが、少し中を進むと様相はすっかり変わっていた。
内壁は土ではなく、木目調の建材が使われているようだった。蛍光ランプが煌々と辺りを照らし出している。そして壁一面には、おびただしい数のポスターやイラストが掛けられていた。それらには全く統一感が無く、マイケル・ジャクソンが少年と寄り添う怪しげな写真もあれば、王貞治のホームラン世界新記録記念ポスターもある。ボンカレーおばさんのレトロな看板もあれば、アンディ・ウォーホルの複製画も掲げられている。それらに交じって、いかにも素人の手による書画が何枚も掛けられていた。
書いてある内容は支離滅裂である。――《夏だから暑いのではない》、《痴漢は犯罪です》、《おっかぁ、腹減っただ》、《あんさん、酒飲みなはれ。女も抱きなはれ》、《おすぎ》――などなど。此処に住むフンムなる人物は、相当な狂人に違いない。
シレーヌは大きな瞳を輝かせて、僕に語りかける。
「どう? フンム様のお屋敷は」
「お屋敷って……ここ、穴の中でしょう? 屋敷っていう表現は……」
「うふふ、まだまだ子供ね」
「なんじゃそりゃ」
洞穴内は、思った以上に奥が深かった。延々とワケのわからない陳列物が続いている。小学校の理科室で見た人体模型が置いてあり、その額にはマジックで《肉》と言う文字が書かれていた。中世ヨーロッパの甲冑らしき物も置かれている。何故かその甲冑の前には、朱塗りの賽銭箱が置かれていた。さすがに中を覗いてみる気は起こらない。
僕は歩き進むたびに、くらくらと眩暈を覚えていった。悪趣味なマジックハウスの中を彷徨っている感覚だ。そんな僕を尻目に、シレーヌは楽しげに歌を口ずさんでいる。良く聴いてみると、全国高校サッカー選手権のテーマ曲であった。《ふーりー向くなよー、ふり向くなよー》と言うあの曲である。
やがて、入るときから感じていたあの臭気が、より一段とその濃度を増してきた。何とも言いがたい異様な匂い。例えるなら、釣り堀の緑に濁った水と、青汁とを混ぜ合わせたような匂いである。僕はたまらずシレーヌに声をかけた。
「うへぇ、たまんないよ。これ」
シレーヌは鼻歌を止めると、不思議そうな表情で問い返す。
「何が?」
「何がって、さっきから匂ってるこの臭気だよ。これ、いったい何の匂いなの?」
「質問は後にしてって言ったでしょう? もう少し我慢して」
「……それ、もう飽きたよ」
うきうきと踊るような足取りのシレーヌに従い、僕は右手の人差し指と中指とで鼻の穴に栓をしながら後に続いた。
更に洞穴内の明るさが増してくる。
それにしても、かなり奥深い洞穴である。時計を持っていないのでどれくらい歩いたのか定かではないが、かなりの距離を歩きつづけている。そして、進むたびごとに怪しげな物と遭遇するため、精神的にもより長い道のりに感じてしまうのであろう。
「コウタ、もうすぐフンム様のいらっしゃる奥の間に着くわよ」
「……はいはい」
「返事は一度で良い!」
「はいぃっ!」
それから時間にして五分ほど進んだところであった。
洞穴の最深部にたどり着いたのであろうか。目の前には巨大な壁が立ちふさがり、中央に大きな木製の扉が重々しく閉じられている。しかし、その扉のどこかから隙間がもれているのであろう。扉の前から、あの強烈な臭気が殺人的に立ちこめていた。
シレーヌの表情が凛と引き締まり、きびきびした口調で僕にこう言った。
「いい、コウタ。くれぐれも粗相のないように気をつけなさいよ。フンム様がじかにお会いくださるなんて、めったに無い事なんですからね」
「は、はい」
何をとち狂ったのか、突然シレーヌがヒンズースクワットをし始めた。それもかなり本格的なスクワットである。鼻でフンフン言っちゃってる。
「ちょ、ちょっとシレーヌ、何やってんの?」
「質問は後にしてって言ったでしょう? もう少し我慢して……ってばかりも言ってられないわね。……私も久しぶりにフンム様に会うんで緊張してるのよ。こうすると、気持ちがすごくリラックスするの」
息をぜえぜえ喘がせながら、シレーヌはそう言った。本当にリラックスするのだろうか? 額に玉の汗を浮かべて、シレーヌのスクワットは続いた。僕は、相変わらず強烈な臭気に今にも気絶してしまいそうだった。口だけで呼吸するのにも限界がある。
「ふぅー、いい汗かいたわ……それじゃあ、参りましょうか」
スクワットを終えたシレーヌが、長い黒髪をかきあげながらそう言った。思いっきり肩で息をしている。しかしその表情は、晴れ晴れとリラックスしきっているように見えた。
シレーヌがつかつかと歩み寄り、厳かに大扉をノックする。僕も思わず、ごくりと喉を鳴らしてしまった。この中にはいったい、どんな人物が待ち受けているのであろう。
「どうぞ」
扉の奥からくぐもったような、それでいて妙に甲高いような声が返ってくる。その声を聞いて、シレーヌは扉の前で深々と頭を垂れた。
「さぁ、コウタ。フンム様からのお許しが出たわ。くれぐれも言動には気をつけて、中にお入りなさい」
「え? シレーヌは一緒に入らないの?」
「フンム様は、まず最初にあなたと二人きりで話しがしたいのよ。私はこの扉の外にいて、呼ばれたらすぐ中に入れていただくわ」
そういって、にっこりと微笑んだ。僕はシレーヌにうながされ、おずおずと扉の前に立つ。例の臭気が、何千倍にも増して僕の顔面を襲った。
「うぇっ!」
思わず目を瞑りながら扉に指先が触れた途端、大きな軋み音を立てて内側に扉が開かれたのだった。襲いくる強烈な臭気と、もくもく立ちこめる真っ白な煙。僕は両目に涙をためながら、前方をしっかりと見据えた。やがて、鼻は全く慣れてこないが目は徐々に慣れてきた。
そのとき――。
「ウェルカム、コウタ! よう来てくれたなぁ!」
甲高い声がやたらに響いてきた。
目の前に立っている人物、フンムと言うその人物は、予想通り何とも異様な風体をした人物であった。
鋲のガンガン入った黒皮のホットパンツを履き、白いハイソックスに黒の革靴をつっかけている。上半身は裸で、真っ赤なネクタイを首から提げていた。胸に密生した剛毛を、七色に染めている。頭髪は前髪だけが異様に長く、あとは丸々と剃り上げているのであった。そして、耳には大きなハートマークのイヤリングが……。おそらく身長百六十センチにも満たないその小男が、僕にはこの世の果ての悪魔に見えた。
「気楽にしてよ、コウタ」
男はそう言いつつ、足元に置いてあったカセットデッキをいじりはじめた。どうやら再生ボタンを押したらしい。次の瞬間、スピーカーから大音量で流れだす人々の大歓声。
「フンム! フンム! フンム! フンム! フンム! フンム! フンム! フンム!フンム! フンム! フンム! ……」
僕はあんぐり口を開けて、その異様な人物をただただ見つめていた。
出来れば一刻も早く、この洞穴から逃げ出してしまいたい。と言うか、この永遠の悪夢のような世界から、一刻も早く現実の世界に戻りたい。
つづく
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2005/07/29(Fri)09:58:36 公開 / 時貞
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■作者からのメッセージ
お読みくださって本当に有難う御座います。まだまだ未熟者ですが、これからがんばっていきたいと思っておりますので、ご指導よろしくお願い致します。4回目の更新となりましたが、ますます酷くなってしまっているようで情けないです(汗)構成としては、一応ここまでが導入部といったところなのですが。何かお気づきの点が御座いましたら、ご教示いただきたく存じます。ああ、それにしても暑い・・・。