- 『キザシの太陰 T〜X』 作者:雪邑 ナキ / 未分類 未分類
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容量86847 bytes
原稿用紙約141.7枚
言語が統一された五大国の一つで、常に移動しながら生活する放浪民のための地方、キザシの里。そこは無法地帯で、建設者不明の簡易休憩所や無人宿泊施設、給水所が数多く点在していた。その里に沖凪スイという少女が生きていた。彼女には9歳より以前の記憶がない。最後の記憶は、「待っていて!」という誰かの言葉。スイはその誰かが帰ってくるのを待っている。
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T
鬱蒼とした空の日で、今にも雨が降り出しそうな雲の下の大地に少女が一人、ちょこんと座って膝を抱えて落ち着いていた。
そのすぐ傍には一人分の最低限の生活必需品を積んだ荷台がある。台の側面には分厚い防水カバーが取り付けられていて、いつもは巻いて縛ってあるが、今は解かれて荷台に軽くかぶせてあった。
少女は無表情で特に何をする様子もなく、
数分後に立ち上がり、軽く伸びをした。
空では徐々に灰色の雲が風に追いやられて、青い空が覗く。少女は防水カバーを荷台の横に巻いて縛り、固定した。それから車輪と地面の間に挟んでいた石を取り除き、荷台の前に回りこんで片手で荷台の取っ手を持ち上げて支えながら、もう片方の手で太腿のポーチから方位磁針を取り出すと、方向を確認して、荷台を引き始めた。
放浪民の里の自由生存地区を徒歩で南下する少女は、上に白いトレーナーを着て、黒いズボンの上からエプロンのように白い布を巻いて、腰の前で結んでいた。右の太腿の位置には黒いポーチが付けられていて、少女の手がその中に方位磁針をしまった。髪は、天然か意図的なのか、白髪で、短い。その上から包帯が巻かれていた。灰色がかった大きな眼は今は半開きで、口は意志が強そうにきゅっと固く結ばれ、顔は全体的に無表情のまま。彼女の本名は沖凪スイ、里の通り名をスイと言い、今年で十三歳になる。諸事情により、独り身の放浪人になって三年。ずっと荷台で移動しながら、この放浪民の里で生きてきた。
歩き始めて一時間と経たないうちに、給水ポイントが見えてきた。間単に設置された給水所と休憩所がある。その休憩所の屋根の下に人影が見え、
「……?」
こちらに気付いて手を振り始めた。
「スイー! 沖凪スイ―!」
呼ばれた少女に聞き覚えのある声。スイの眼が珍しく少し大きめに開く。
「……李舜……」
スイが呟いて、李舜と呼ばれた少年がもう一度大きく手を振る。
給水ポイントに辿り着く。
「スイ! 二ヶ月ぶり。元気だった?」
李舜が親しげに話しかけた。
「元気……李舜は?」
「死ぬ程元気!」
「……死ぬの?」
「今すぐ死ぬ自信は無い!」
「……そう……」
「まあ、そのうちね。僕が決める」
「ふうん」
他愛もない会話が続いて、スイは会話の合間を縫って荷台から水筒とタンクを出して新しく給水し換えていた。李舜はもう給水したようだった。
「二ヶ月間……何、してたの?里から出た?」
スイがポンプを押して湧き出た水を水筒へ移し変えながら話題を振ると、李舜は、
「……最寄りの他地区に出張して、仕事してた。例の、」
自前の水筒から水を飲んでから答え、
「……泥棒……?」
スイが作業を続けながら聞いて、
「泥棒請負人」
李舜が訂正した。そして嬉しそうに、
「で、私有財産にちょっと余裕が出来た。二ヶ月間くらいはまたスイと一緒に居られるよ!」
「……ふうん……」
スイがそっけなく、やや微笑んで答えた。給水し終わった。
スイは新鮮な水が入った水筒とタンクを荷台へと戻し、李舜も飲んだ分の水を再び給水してから、自分の登山用リュックの脇のネットポケットに水筒を収納した。彼の背負うリュックの荷物の量はスイの荷台に乗った荷物よりも遥かに少ない。スイが荷台の取っ手を持ち上げながらそれを横目で一瞥し、
「荷物……相変わらず少ないね」
呆れたような、実は興味が無いような口調で言った。
「ん? ……ああ、服、二着しか無いからね!」
李舜が重そうにリュックを背負って、何度も軽く飛び跳ねながら誇らしげに答えた。
「足りるの……?」
不満そうに李舜の洋服上下を見ながらスイが聞いて、
「うん、川とか水路とかで洗濯出来るしね。……他地区には交換条件で洗濯してくれるとこもあるし……生活物資一式を寄付してくれる親切なお宅も」
「ふーん……いいね」
そう言って、見上げる。
日が落ち始め、空が紅くなる。筋を作っていた雲は薄くなって透けて、空にきれいな模様を描く。風は落ち着く。
「西日の傾いてきたことだし……とりあえず今夜の宿を探すか」
李舜が提案して、スイが賛成した。
その二人が南下する。
途中で李舜が自分の登山用リュックをスイの荷台に乗せてもらい、二人でスイの荷台を引いて、南下する。
夕焼けの空がより紅く染まる頃。
少しの間沈黙が続いた二人が南下していて、
「何か……思い出した?」
李舜が先に口を開いた。意味有りげに隣の少女に問いかける。
「……。……何も……」
少し間が開いてスイが答える。
「そっか……。ゆっくりでいいよ、早く帰ってくるといいね、待ってる人=c…その人≠ェ帰ってきて、会えたら、全部いっぺんに思い出せるかもね」
隣で静かに前を見据えているスイに微笑みかけながらそう言った。
「……。……帰って、きて……、会えたら……」
またも少し間を置いて、スイは李舜の言葉を繰り返した。
沖凪スイには、九歳より以前の記憶が無い。ある日を境に彼女の記憶はぷっつりと途絶えて、そこから今までの経験しか覚えていない。
ある日――彼女が現在待っている人≠ェいなくなった日――スイの身に何か重大な事が起こって、それで彼女は記憶をなくした。何が起こったのかは、スイは覚えていない。彼女が思い出せるのは一つだけ――
待っていて!
彼女は記憶の最後に、確かにその言葉を聞いた。
だからスイは待っている。その時、その人≠ニ別れただろう時に出来るだけ近い格好で。その人≠ェ帰って来た時、待たせていたのが自分だと一目で分かるように。
「スイ、止まって、宿」
いつの間にか二人は里に無数に点在する宿の一つに到着していた。
「……わ」
視界に入っていたはずの比較的大きな建物の存在をいきなり知らされてスイが足を止めて思わず声を漏らす。
「ちょっと待ってて、中、見てくる」
李舜が荷台の取っ手をスイに任せて、だいぶ暗くなってきた辺りを偵察しながら小走りで宿へ向かった。スイは、自分の中では突如現れた宿をまじまじと眺めて、待つ。やがてその宿に荷物の格納のための別小屋がないことに気づいて、荷台を建物の入り口まで寄せて、出入り口と荷台の大きさを比べていた。荷台は人一人分ほどの余裕を残して建物内へそのまま引いて入れそうだった。放浪民の里には荷台で移動しながら生活する者も少なからずいるため、宿となる建造物にはよく何らかの工夫がしてある。
二枚の扉の片方が外側に開いて、
ごん。
開かれた扉がスイの荷台の角に直撃して、
「あ・ごめん」
謝りながら李舜が出てきた。スイが黙って荷台ごと少し下がる。
「大丈夫、まだ誰も来てないみたい。個室は内側から鍵が掛けられる。明かりもある。水道完備。床も壁も丈夫。ただしふかふかのベッドは無い」
最後の一項目にスイの表情が心なしかしゅんとなる。
「朝よく日が当たる部屋がいいかな。案内する」
そう言って李舜は二枚の扉を両方全開にした。スイが荷台を引き入れる。少し待って、スイの荷台が廊下に完全に入ってから、李舜がもう一度外を見回して扉を閉めた。
二人はそれぞれ隣り合った別々の部屋に入って、荷物を降ろした。
李舜がスイの部屋にいろいろ抱えて入ってきた。
「お土産!」
そう言って、抱えたものを慎重にぼとぼと落とした。それは他地区の食材だった。乾燥菓子や茶葉、味つきの固形携帯食料など。
李舜は一度部屋へ戻って、水筒や自分の食料などを再び持ち込んできて、
「夜ご飯にしよう」
そういうと、持ち込んできたものを部屋の真ん中あたりに置いた。
スイは荷台から焚き木を適量運んできて、李舜と向かい合ってその間に手際よく組んだ。再び荷台へ戻ると、火種にする細い枝や枯れ草と火の上に立てる鉄製の三脚と金網を持ってきて、組んだ焚き木の前にしゃがんで、置いた。太腿のポーチからマッチを取り出すと、コンクリートの床で擦って火を燈した。それを先程の細枝に枯れ草を巻きつけたものに点火する。しばらくぱちぱちと音を立てて、李舜が少し手で仰ぐと、すぐに焚き木が燃え始めてきれいな焚き火になった。
「火、借りるよ」
李舜がそう告げて、スイがどうぞ、と返す。
李舜は鉄製の水筒の蓋兼コップをとって、水を注ぐ。それからスイの三脚を火の上に立てて金網を敷くと、その上にコップを乗せた。
スイも荷台から食料と水筒を出してくると、食料を一旦置いて、李舜と同様にして、金網に自分のコップを乗せた。
二人が作業を終えて向かい合って腰を下ろすと、李舜が他地区の食材を改めて一つ一つスイに見せて、
「この一年はずっと西部の方に行ってたから、これはウィディンの里のお土産。こっちの珍しいお茶はイーユスの里の。で、もっと珍しいこの味付携帯食料は、ご存知この放浪民の里・キザシの里の最西端の有名なお土産。確か食べてみたいって言ってたよね」
一通り説明して、
「ありがとう……」
スイが珍しそうに一つずつ手にとって眺めて、礼を言った。
「お湯出来てきたし、イーユスのお茶、飲んでみる?……ホウノキ茶だって……その名の通り豊の木のお茶みたい……おいしいのかな……」
李舜が茶葉の包装紙を読みながら言った。
「……毒味して」
「……毒味、ね……」
スイの要請に李舜は毒味≠ノアクセントを置いて半笑いで答えた。
包装からティーバッグを取り出し、いい具合に煮立ったお湯の入った自分のコップに入れてゆっくり上下に揺らす。と、茶の色が染み出てきた。赤茶色が透き通ったようなきれいな色になった。一口すする。
「あつっ……ん?……あ、なかなかいける」
「ほんと?」
スイも同じようにして茶を作り、少し冷ましてからゆっくり飲んだ。
「おいしい。……あったまる」
「気に入っていただけてなにより。自分の分も買ったから、この一箱はスイにあげるね」
「ありがとう」
二人はそれから少しの間、黙ってゆっくりと他国のお茶を楽しんだ。その後夕食をとる。夕食といっても、お世辞にもおいしいとはいえない粘土のような固形食糧―――満腹感は得られるが、とても喜んでいただけるものではない。現に二人に笑顔は無い。形容し難い微妙な表情で、時たまお茶をすすりながら、黙々と夕食分の塊をちぎって食べた。
外では日が沈んで、放浪民の里の広い荒野を暗闇が包み始めていた。
「今回はほんと早く会えたよね……、両者とも徒歩で流浪してて、移動し続けてるスイに里入り一週間でうまいこと落ち合えるなんて」
「……うん……」
「時々運悪いとほんとに長い間会えないもんね」
「……まあ……」
二人がほぼ同時に茶を飲み終えて、スイが小さくなった焚き火を処理し始める。
「……えっとじゃあ、そろそろお暇しようかな…明日からは、このまま南下でいいの?」
「うん……中央憩いの広場より南よりだったから、このまま最南端の闇の森に物資調達に行こうかと」
スイがてきぱきと焚き火を解体しながら、減ってきた焚き木を指さして言った。
「闇の……。……じゃあ気をつけないと」
李舜は水筒をしまいながら真剣みを帯びた表情。
闇の森は日中も暗く視界が非常に悪いため、森に生活物資を採りにくる放浪民が盗賊などに狙われやすい。また、最近動きが活発になってきた盗賊グループの本拠地だという警告も度々耳にする。
「ちゃんと途中途中修行する。日常の体操とか一人でやる運動とかだけじゃ実際応用しにくいし……。たまには実践訓練も必要……」
スイは淡々とそう告げた。
「……じゃ、修行付き合うよ。俺も仕事ではナイフもあんまり使わないし、体術もなまってるかもだし……」
李舜は笑顔でそう返すと、部屋の出口へ向かう。
「じゃ、おやすみっ」
言い残すと急ぎ足で部屋を出て行った。
焚き火の余韻が暖かい部屋に残されたスイは、暫く一人でそのままの姿勢で座っていた。
少し経って就寝仕度を始めた。
夜は深まる。
月が高く上り、満天の星が瞬く。里を照らす。
闇が星の光に溶けて、地平線と空の境界線が無くなる。
空が白んできた。
地平線から里を覗いている太陽が眩しい。
初夏とはいえ、朝から厳しい太陽光線が次々に空気を裂いて大地の温度を上げる。
「う……。あー……」
顔面に直撃する日光に屈して、李舜がうっすらと片目を開いた。
「っつ――……」
その眩しさに再度目をつぶる。何度か瞬きを繰り返し、目の前を手で覆ってその影の中でやっと両目を開いた。
手の位置はそのままで上半身を起こす。その後ゆっくりと大きく伸びをして、寝袋から出た。冷水で顔を洗い、歯磨きなどを済ませる。
寝袋を閉じてしわを伸ばし、体重をかけて圧縮させながら丸めた。
もそもそと朝食を摂る。
続いて柔軟体操、軽くナイフの訓練。李舜は決まった運動セットを毎朝行う。
セット内容を一通り終えた李舜の耳に、
こんこん。
ドアをノックする音が聞こえた。続いて、
「おはよう李舜……起きてる?」
スイの声。
「起きてるよ、おはよう」
李舜は答えて、ドアを開いた。スイも軽く汗を流した後の様子で、
「……荷造り、済んだ?」
「済んでるよ、いつでも出発できる」
「そう。……用はこれだけ」
スイは短く、じゃ、と言って戻って行った。
太陽がだいぶ昇って。
雲が朝の空全体にかかっていて、暑くはない柔らかい日差しが里を照らす。
無人の宿泊施設から少し南に行ったところを、スイと李舜はそれぞれの荷物を携えて南下していた。
「スイ、あれ」
はるか遠くに見える小さな影に気付いて、それを指差しながら李舜が言った。
「うん……多分休憩所」
スイも気付いて首肯する。
里中には、放浪民のための、野宿より快適な睡眠・その他を目的とする無人宿泊施設のほかにも、先日立ち寄ったような給水所、最低雨風をしのげる設計の簡易休憩所などが点在していた。里の端のほうに行くと、他国の商人や里の放浪民が、食材や弾丸、ナイフ、洋服などの店舗を構えていることもある。
人が一日一定の方角へ向けて歩けば、必ず一軒か二軒、何らかの施設にはたどり着く程度の距離感をそれぞれ隔てている。
広大な土地を誇るキザシの里の、その中で常に移動しながら生きている人々は、中央に確保された憩いの広場を中心に見て、だいたいの施設とその場所を把握していた。
二人はさらに歩いて、方向的に向かっていて、たどり着いた簡易休憩所で一旦荷を下ろした。水筒をそれぞれ取り出し、渇いたのどを潤す。
「――ぷは――ッ! スイ、ここでちょっと荷物置いて体動かしてく?」
「うん……」
「じゃあ久しぶりに人間相手に修行出来るやー!」
語尾に♪≠ェ付きそうな高いテンションで李舜が言った。
「……。ナイフ……?あるいは体術……」
スイはいつもと変わらない口調。
「まずは後者かな。ウォーミングアップに。まずは体操。あー仕事ではこそこそ隠れてばっかりでイヤだったー!」
そう言って李舜は両手を上に広げて思い切り体を反らせた。
「じゃあ……手加減してあげるね……」
「……。……言うね、スイ」
太陽は更に昇って、時刻は既に正午近くになっていた。
「ぉいっちに、さんっし、ご!」
「……ご? 何か歯切れ悪い……」
二人はそれぞれ体をほぐしていた。それもだいたい終わり、
「よしっ――じゃあ、よろしくおねがいしまーす」
「……します」
お互い向かい合って開始の挨拶を交わす。
「……」
「……」
スイと李舜は、暫く構えながら相手を睨んで、向かい合ったまま硬直。
「――はっ」
先手に出たのは李舜だった。一方的に、瞬く間に間の距離が縮められていく。
握られた拳が振り上げられたかと思うと、
がっ。
振り下ろされた李舜の腕を、スイは身をかがめて、額の前で十字に構えた両腕で受ける。と、両腕の使い道を限られたスイに、右下の死角から李舜の蹴りが飛んでくる。それを、スイは両腕を突き放して跳ね退いてかわした。
ざざっ、と地面を滑って、すぐさま視界に入った李舜の飛び蹴りを、伏せて頭上に見る。横に身を引いて、一瞬前まで背後だった方角を右に見る。標的を失ってその場を行きすぎた李舜が両手両足で着地する――そのままの勢いで慣性に逆らい、構えるスイに突っ込む。
組み合って、何回か殴り合ってそれを何回か防御し合ったあと、李舜が左手で相手の右肩を掴まえたまま、右手でみぞおちを狙って当て身を繰り出した。スイはそれを右手で払って、今まで李舜の右肩を掴んでいた左手の位置を首後部までまわして掴み、そのまま相手の右側に回りこんで、後ろから思い切り足を払う。
「ぅわ――ッ」
李舜の体が一瞬浮き、すぐに重力に支配される。それに、更に上から、首の後ろを掴んだまま李舜の胸に腕と肩に乗せ宙で押さえつけたスイの体重も加わって、
「ぐぇっ」
つぶれた蛙のような悲鳴をあげて、李舜が地面に沈む。腕と肩を支点に、スイがのしかかっている。
暫くの間、両者の荒い息遣いだけが聞こえて、
「参った……参りました」
スイに乗られたままの李舜が呟いた。
「いやー――また負けたー……くっそー」
「手加減、してない……?」
「いやいやいや、してないしてないする余裕無いッ」
「そう……」
スイは李舜を引っ張って起こした。
「怪我、してない?」
「してない。けど痛い――身体的にも精神的にも」
「なにそれ……」
スイと李舜は、休憩所に設置されたコンクリートベンチに、どさっ、と座った。
呼吸を落ち着かせてから、水筒から水を飲んだ。
「今どこぐらいか分かる?」
水を適量飲み終えて、身体的痛みも治まったらしい李舜が、スイに聞いた。ずっと里で生きているわけではなく、他国も渡り歩いている李舜はキザシの里の施設の位置関係を正確に把握してはいなかった。
スイは少し考え、
「……中央憩いの場から闇の森まで、四分の一くらい行ったところ。憩いの場から最短距離で森に向かって南下するとすれば、立ち寄れる休憩所は三つで……今はその一つ目。ここから先、森まで、給水所と宿はそれぞれ一つずつ……しかも結構遠くにしかなくて……さらに森に最も近い宿には、盗賊が出没して危険」
「おぉ――」
所在地はおろか、道のりの施設の数まで断言したスイに、李舜が感銘を受ける。
「……水、足りる?」
スイが聞いて、
「ああ、足りる足りる。まだリュックの中にタンクが二つも」
李舜がリュックをばんばん叩きながら答えた。
「……そういうわけで森までの野営は野宿になるけれど……」
「う……。雨が降ったら運のツキか……」
太陽は天頂を、少々通り過ぎた。
運動後には気持ちのいい乾いた風が吹き抜ける。
「――さて、」
李舜が立ち上がり、リュックを気合で担ぐ。
と、スイも無言で立ち上がって、休憩所の隅にある簡単な荷台置き場から荷台を引き出した。
場所的に南の方向にいたスイが先立って歩き出して、李舜もそれに続き、やがて並ぶ。
ところどころ申し訳程度に草が生える砂の大地。
林にも至らず群生する、細く背の低い木々。
時々吹く追い風を背中に受けて。
多くない会話と一人分の笑い声の中、延々歩く。
途中途中で軽食を摂る。
U
――他国に比べ、圧倒的に広い領土を持つキザシの里には、スイもその一人だが、ずっと移動しながら生きている放浪民がいる。
里の社会観は、弱肉強食そのものだった。里の民は、ほぼ全員が流浪する旅人で、だいたいは、一人か、二人で移動する。
もちろん里にはっきりとした法律などは無く、そんな中、放浪民は自らが生きるために、他国の商人や給水所を利用したり、森で狩猟・採集を行ったりする。
他国も、キザシのシステムを黙認していて、特別関与しようとはしない。
そんな里、弱肉強食の無法地帯だから、他人を犠牲にして、水や食料を奪ってでも生き残ろうとする者がいる。そのため、他国から遠足気分で旅を楽しみに来た移民など以外は、ほとんどが体術などなんらかの対策を体得していた。
そういう環境の中、この放浪民の里創設以来、数多く点在する施設が民の生活を支えていた。しかし、里の創設者や放浪のシステム創造者はおろか、里の全ての歴史はまったくの不明だった。
日は真西に低く、雲がかかって柔らかに輝いていた。
その太陽と逆の方角に、二人の影は長く伸びる。
「――でさっ、さっきの警官がまだ追って来てて、子供相手だからって脚ばっかり狙って撃ってきてさー。ほら、身長から完全に子供って分かるじゃん? で、『待てー!』ばっかり言ってて、……そんなん待つわけないのにねー! あははー! でしかも、外しまくって無駄に弾使うもんだから、弾奏入れ替える度にもたついて走るスピード落ちてー!」
李舜は自分の他国での泥棒請負の話を、高いテンションで喋りまくっていた。
スイはそれを聞いているのかいないのか分からない、いつもどおりの無表情で、李舜が息をつくその一瞬の間に器用に適当な相槌をうちながら、
ふと顔を上げて、同じ速度で傾き続ける西日を李舜の背景に見て、
「……そろそろ……」
その高さを確認しながら呟いた。
「ん?」
李舜は、自分の喋りの音量に完全に負けたスイの呟きを、驚異的なリスニング能力を発揮して、聞き分けた。
「そろそろ、野営しないと……季節的に日が落ちるの早いから……明るいうちにすることしないと……薪、残りが少ないから、火、焚きたくなから……」
スイは独り言のように、夕焼けに顔を向けたまま言う。
「ほんとだ、いつの間にこんなに暮れて……」
李舜もその夕焼けを眺め、二人は同時に立ち止まった。
「…………。李舜が一人で喋ってる間に、だよ」
「『一人で』って……。ひど……僕の武勇伝を……」
李舜はスイの発言に凹んで見せ、スイはそれを見ずに野営の準備に取り掛かる。
「雨は……降らないみたい」
スイが言う。勘で。――経験上、この類の勘が外れることは少ない。
「うん。信用する」
李舜が言った。
雨が降りそうな日の野営は、スイの荷台に装備された、すっぽりと荷台が収まる大き防水カバーを広げてテント代わりに使うのだが、今回は、そうしない。
二人は各々の収納場所から寝袋を取り出し、まだ広げずに、無造作に地面へ置いた。
そのそれぞれの上に腰掛け、地平線から少し離れた太陽を見ながら、水分補給をする。次の休憩所が遠いから、というスイの提案で、先程の休憩所に設置された簡易トイレ用は済ませてあった(トイレとは言っても形ばかりで、最低限の設備の末、それらは土に戻る)。
その後二人は夕食をとる。
一人は荷台から、不味い固形食糧を睨みながら取り出して、もう一人が味付きのは食べないの、と質問する。一人は食料の中で希少価値があるし、売っている最西端にもすぐには行けないから大切に食べたいと思っている旨を伝え、もう一人は了解して、賛同した。
いつものように無言で、ほぼ同時に食べ終えて、就寝準備にかかる。
太陽は半分近く地平線の向こう側へ。残り半分で二人を幻想的に照らした。
そして日が落ちて、二人を照らす光は、闇に包まれてやっとその存在を主張し始めた、ぼんやりと白い月と換わった。
スイは右太腿のポーチから小型だが鋭利なナイフを寝袋の中、曲げた腕の手元へ。李俊もリュックの脇ポケットからそれなりの刃物を出し、首の後ろで組んだ腕の手元へ。
これは、念のため、万が一のための対応策として。
広大な里の大地のただ一点で、二人は荷台とそれに寄りかかった大きなリュックの傍で、
「おやすみー……」
「……おやすみなさい」
静かに寝息をたて始めた。
夜が明けて。
最初は白い朝の空気に、徐々に色が戻る。
「……眩しい」
スイが目覚め一番、率直な感想を漏らした。
「……うん」
李舜が、目をこすりこすり、同意する。
その二人は未だしっかり寝袋の中。初夏とはいえ、夜や早朝は少しばかり肌寒い。
「……とぉーっ」
李舜が掛け声とともに跳ね起きる。
続いてスイもゆっくりとその上半身を起こす。朝が得意でない彼女の表情はいつにまして不機嫌――無表情というより、仏頂面に近い。
「スイおはよう! いい朝だ、うん」
そんなスイに李舜は遠慮なく朝の挨拶と言葉を投げかける。
「……。……おはよ」
スイは暫く半開きの眼でゆっくり瞬きをしながら、自分を覗き込んで微笑む相手を上目遣いに(ほぼ睨み)見て、それだけ言った。
それから寝袋の砂を軽くはたき、その時ナイフはそれぞれ所定の位置へと戻し、体重でもってつぶしながら丸める。
そして朝の支度、軽い朝食はやはり不味い方。
その後は李舜の、さて、を合図に南下を開始。
昨日となんら変わらない景色を見ながら、主に、歩く。
太陽はすでに頭の上を少し通過し、炉辺で早めの軽い昼食を摂り終えた二人は再び歩き始めていた。と、
「あ……」
スイが遠い前方の一点を見つめて、気付く。
「あ、ほんとだ」
李舜もすぐに気付き、二人は彼方にぽつんと佇む小さな影を見た。
近づくにつれて影の輪郭は確実になっていく。正体は、中央憩いの広場から闇の森までを辿るとき、数えて二つ目の簡易休憩所だった。
「これで半分ぐらいは来た?」
李舜は前方の建物と、振り向いて脳裏に浮かべた憩いの広場を交互に見て、スイに聞いた。
「うん……そのくらい」
スイは前を見据えたまま答えた。――そして、
「え……? 人……」
一瞬訝って、休憩所の方角に目を凝らす。
「うそ、珍しい」
李舜もその人影を確認する。確かに、いた。人影は、ほぼ西の方角から、目指す休憩所へと歩みを進めていた。距離感からして、人影のほうが先に目的地へたどり着きそうだ。
「……この辺りは周りに施設も少ないのに。森に行ってきたのかな……」
スイは、ただ大地が開ける西の方角を見ながら、思ったことを口にした。
「森に入った人だったら、近隣状況を聞けるんじゃない?」
李舜がスイの呟きに返答した。
とその時。こちらに気付いたらしい人影が、
「……ーぃ……」
「! ……何か言ってる」
「知り合いかな?」
二人は一応声に手を振って答え、別に急ぐことは無く、共通の目的地へ向かった。人影は設けられたコンクリートのベンチに座ってこちらを見ていた。
やがてスイと李舜は休憩所へだいぶ近づき、
「やぁ!スイちゃん、と、リー君だったね。久しぶりじゃないか! 数ヶ月見ない間に、大きくなったね」
リーというのは、李舜の里の通り名だった。
「トキさん! お久しぶりです」
「こんにちは……」
トキと呼ばれた男性は、再会を喜んで二人の荷物の運びいれを手伝った。里の通り名をトキというこの男性――本名夕染時乃は、上下とも動きやすそうな服装をして、スイと同じように白い髪の毛をしていた。その下の表情は比較的若く、三十前半か後半か、というくらい。
里での放浪の生活は、本人は楽しんでいたとしても、実際は大変な苦労を伴うもので、
自分自身を支えて生き延びていく放浪民で、白髪は特別珍しいことではなかった。
この三人の中で、唯一白髪ではない李舜の髪色は、日光を反射して光る綺麗な茶色。服装も一人変わっていて、自国の民族衣装だと本人は言っている。
三人は並んでベンチに座り、
「前回トキさんがスイに会われたときって僕居なかったんですねー」
「うん……」
「リー君とはほんとにご無沙汰だね。一段と逞しくなったね」
「いやいやぁ」
「ほんとに二人とも、まだ若いのに偉いなぁ」
「トキさんて……森、行って来たんですか……?」
「え?」
「あ、そうそう。ここら辺って特に人少ないんですよね?」
「ああ、二人とも、まだ誰からも聞いてないのかい?」
「……?」
「何をです?」
「最近、里の南西部付近に、珍しい移動商人さんが来ていてね。金髪と白髪の女性二人に、兵士みたいな男性の護衛も何人かついていて、なんだか良く分からないけれど、他国のお偉いさんだともいわれている。商品ぞろいも良いし、野菜、果実も新鮮だと聞いたから、最西端から中央憩いの広場に向かっていたんだけれど、折角だから南下して移動商人さんを探して、訪ねてみたんだ。その商人さんたちも何日か一箇所に留まっていたみたいで、すぐ会えた」
時乃は西を向いたり憩いの広場の方角を臨んだりしながら説明した。
「ふーん、なんかおもしろそうですね。……スイ、興味ある?」
「……見てみたいけど……、まずは森で薪とか……、かな」
スイは少し迷い、そして少し残念そうに、そう答えた。
すると時乃は言い辛そうに、
「興味を湧かせておいてから言うのも心苦しいけれど、……実はその商人さんに会えたのは三日前で、会った二日後に、つまり一日前に自地区に帰ってしまうと聞いたよ」
「そうですか……。ちょっと残念です」
「闇の森に行くのかい? 薪か、大変だなあ。そこらのちょっとした雑木林からも採集出来ればいいんだが、それも……ねえ。気をつけるんだよ」
「はい。ありがとうございます」
闇の森以外にも、小さな木々が群れて自生している場所もいくつかあるが、よほど困った時以外は、闇の森で採集を行うのが放浪民の間での暗黙のルールだった。
「じゃあ、そろそろ行こうかな。ここからまっすぐ北上して、半年くらいは憩いの場周辺でのんびりするつもりさ」
時乃は立ち上がり、歩き出して言った。
「気をつけて……」
スイがその背中に話しかけた。李舜も同じ内容を伝えた。
「君たちもね! また何処かで会えるといいね」
時乃は振り返りそう言うと、コンパスで北を確認してから荷物を背負って遠ざかっていった。
「今日は、」
スイが時乃の後ろ姿を見送ってから、水を飲みながら南を見て、
「……二つ目の休憩所から三つ目の休憩所の距離は、一つ目から二つ目のそれより短いから、三つ目まで行こうと思う」
李舜も、水筒を持った手と逆の手で額にひさしを作りながら南を見て、
「ほんとだ、ずうっと向こうに建物二つ」
「手前でちょっと東よりなのが久々の給水所で、その奥のが休憩所」
スイが説明を入れて、
「森はまだ見えてこないね」
そういう李舜に、
「三つ目の休憩所に着く頃には見えてくると思う……遠くに宿も見えて、その向こうに」
とも言う。
「給水所、寄る……?」
「うん、寄っていい? 最低あと二日はもつけど、タンクの一つは半分空いたし、補っておきたい。スイは?」
「寄る」
二人は立ち上がって、一人は荷台を引き出し、もう一人はリュックを背負って、時乃とは真逆の方向に歩き出した。
風が雲を連れてきて、初夏の太陽光線がやわらいだ。
砂利の大地は、草原に変わる。
* * *
闇の森は、キザシの里の最南部、海に面した地帯ほとんどに広がっていた。
その森に、台車を引き入れる複数の人物がいた。台車は商人が重宝する大型の商売用のもので、はたから見たら、商売人の集団に見えるだろう。ただ、数人の男が軍服であることを除けば。
彼らは、鬱蒼とした視界の悪いその森に、何の躊躇も無く入り、会話を交わす。
「まったくこの森は……。また盗賊どもがはびこっているのね」
そう言ったのは、薄手の白いトレーナーを着た、金髪、金眼の妙齢の女性。右腕には階級章らしい腕章を締めている。腰にはえんじ色のジャケットを巻いていた。その下に太いベルトを締めて、左右に一つずつ大型の銃を吊る。
「毎年片付けに来ているのに、性懲りも無く住みついて……」
女性はぶつぶつとそう言うと、長い金髪を適当にみつあみに結って、肩の後ろへ放った。
「そう思わない? ナタ」
不敵に微笑んだ女性は、斜め後ろを歩く女性――もしくは少女――に話を煽った。
話を振られた若い女性は、真っ白い髪を肩より長く伸ばす。無地の白いトレーナーに、長さが七分ほどの黒いパンツを穿く。腰の位置にゆるく巻いた太いベルトには、左右と後ろに合計三つのポーチが付いていた。腕章は無いが、表情が見えない長い前髪の間の額に、
金髪の女性の腕章に刻まれたマークと同じマークが見られる。そのマークは、後ろに続く兵士たちの腕章にも見られた。
「…………」
ナタと呼ばれた白髪の女性は無言でいる。頷きも、首を振りもしない。ただ何処かを見つめる。
「やっぱりそうでしょう?」
金髪の女性はそんなナタを見もせずに、勝手に話を終結させた。
と、その直後。
「ほーら、ね」
金髪の女性が薄ら笑いを浮かべて言い、
「…………」
ナタはゆっくりと周囲を見回す。
荷車とその集団ごと、盗賊らしき男達にぐるりと囲まれていた。
「悪ィな、綺麗なねえちゃん。命は助けてやるから、荷車は置いてけ」
やたらと図体のでかい盗賊の頭らしき男が、少しも悪びれた素振りを見せずに言った。
「親切ですね。……し……、く……十人ね。ナタ。一分ね。今のお頭さんだけ、半分」
金髪の女性は頭の男に微笑みをむけたまま、そう言った。
「はあー?」「何言ってんだ?」「美人だな体も置いてけ」
周囲を取り囲む男たちから罵倒やら自由な発言が飛び交う。そして、
「…………」
それらの顔が一瞬苦痛に歪んだと思うと、次々倒れた。どんどん、ばたばた倒れて、その場に十人の男が地に伏した。十人中、九人はすでに息が無い。
「ひい……っ……ぅわあっ」
先ほどまで金髪の女性と言葉を交わしていた頭の男だけが、恐怖に顔を歪めて、地面にへばりついていた。その目の前には、静かに白髪の女性がたたずむ。
「ひやあ……っ」
身動きできずに変な悲鳴を漏らす男に、
「お疲れ様、ナタ。戻って」
そう告げた金髪女性が近づく。入れ替わりにナタが二分弱前の立ち位置に戻る。
「お頭さん。少々教えてもらいたいことが。――逝ってしまわれる前に」
女性がかがんで、おもむろにぬいた大型の銃が、男の額の前でかちりと音を立てる。
「うわぁいぁああああぁ!」
「あなた方の他に、まだ盗賊って森にいる?」
「ああぃいないいない! い、居たが最近ん、我々が全滅させたたたも森中回ったから間違いないっ!」
男は震えながら、何度も首を大きく縦に振ったり横に振ったりしながら答えた。
女性はにっこり微笑んで、
「そう。手間が省けたわ。ありがとう。そして、さようなら」
「! ああぁああぁあぁぁぁ×××××ぁぁ×××」
もはや発音が聞き取れない男の断末魔の悲鳴の途中に、どがん、と轟音が響いた。
「さてと」
何事も無かったように立ち上がった金髪女性は、
「…………」「う……」「……恐え」「……うわあ……」
何事も無かったようにたたずむナタと、怯えたり口を押さえて呟く兵士たちに近づいて、
「用は短くて済んだみたい。あの方のお陰でね」
女性は親指を立てて肩越しに後ろを示し、それから百八十度向きを変えた荷車の先導に立った。ナタが斜め後ろに続く。
「毎年面倒だけれど、これも戦力回収のため。まだこの里に残してあるあの子が、盗賊に襲われて死にでもしたら……まあ、それは無いだろうけど。万が一の時のために」
女性はそういうと、歩みを止めて、突如振り向く。ナタ以外が、びくっとなる。
「森を出たら、そこから少し北上して、それから西へ……我が国へ戻ります」
「はっ」
兵士たちの緊張気味の声が、敬礼とともに女性に伝わる。ナタは、何もせずに女性の斜め後ろで直立していた。
* * *
V
「――で、とにかくその子が混乱して、乱射し続けてさー。隠れた事務机の上の書類が、がーっ! となって、だーっ! となって、窓ガラスとかも、ばーっ! となって!」
二人が草原をほぼ南下していて、そして二つの建物のうち向かって右の給水所へと向かっていて、李舜が他国での仕事話を、効果音をまくしたてて喋っている。
「……うん、あの……」
着実に近づいてくる給水所の建物を一瞥して、スイがその距離を伝えようとするが、
「でさでさっ、その子が持ってたの、弾倉が二十八発の回転式のサブマシンガンで! 怖かったー本当に! あの子が落ち着いて焦点定めて狙ってたら、撃たれてたかもだよ!」
「うん、……でさ……」
スイは更に試みるが、
「防弾チョッキは貸してもらえたんだけど、何か安っぽい感じでさあ……。あーもう、なんであんな小さい子あんな物騒なものを……」
「あのー……」
いつもより一段と大きく、スイが李舜の話をさえぎる。
少し間が開いて、風が心地いい。
「ん? ……スイどうしたの?」
スイは答えずに、片手の人差し指をぴんと立てて、背後の建物を指し示す。
「給水所……過ぎたよ」
「……わっ、いつの間にっ!」
強まってきた追い風が、背後に広がる砂利を巻き上げて、草原の大地に連れてくる。まるで、黄土色の雲が地面まで降りてきたような視界の悪さ。
スイ達がユーターンして給水所に入るころ、その少し西の地点を、金髪の女性を先頭に北上している、一見商売人のような集団がいた。
だいぶ離れてはいるが、本来ならお互いがお互いを見ることができるはずだったが、その景色は砂埃によって阻まれることとなった。
「砂嵐がやむまで給水できないなー」
スイと李舜は、給水所の給水ポンプの前に並んで腰掛けて、目の前でつむじ風が巻き上げた砂を編んでいく様子を、そしてその真下の草が波紋のように渦を巻く様子を眺めていた。色の濃淡が少ない霧の中、駆け抜ける風の音を、ずいぶん長い間聞いていた。
給水所には雨よけに簡単な屋根が付いていたが、砂利を含んだ風はそれを無視して容赦なく吹き込んでいた。
しばらくして、渦は徐々に緩くなって、やがて砂の霧は晴れて、視界が開けた。
「さ、給水。先に済ますね」
李舜は先立ってポンプに向かい、ポンプを押して備え付けの広い容器に水を流しいれて中を軽く洗った。容器の底の穴から濁った水を抜く。水はパイプを通って給水所の外の地面に流れた。
次に新しい澄んだ水を容器に溜めて、手でそれをすくって、砂で色が鈍くなっているポンプの取っ手や蛇口の管を流した。
それから自分のリュックから水のタンクを出して、古いタンクから順に、そして水筒も、水を新しく入れ替え、満たんにした。途中で水を飲んだ。
「スイ、終わった」
「はいはい」
スイも同じようにして水を入れ替えた。タンクは二つあって、どちらも李舜のものより大きかった。
「そこの休憩所で撃ち抜きの練習していい?」
李舜が近くに見える簡易休憩所を指差し、スイに聞いた。
「うん……わたしもする」
「じゃ、一緒にしよう」
スイが片手で鉄砲を作って李舜に向け、
「誰が的……?」
「……。やめて……」
向けられた李舜は両手で盾を作った。
先程より見えている黄土色の割合が増した草原の大地を二人は眺めながら、水分補給をしてその分水筒に水を補給して、それから各々の荷物を持って立ち上がった。
太陽は少しずつ、更に傾いていた。あれほど吹き荒んでいた風はおさまり、時々吹くそよ風に変わっていた。
少しばかり歩いて、簡易休憩所に着いたとき、
「これからここで撃ち抜きして……時間的にそのまま野営かな……」
片手でひさしを作って、西日の高さを確認しながらスイが言った。
「了解っ」
李舜が荷を置きながら、敬礼のポーズをとった。
休憩所は、最低限の家具を持ち込んで生活できるくらいのゆとりある広さをしていて、三つの側面にだけ壁があって、一つの側面はぽっかり開いている造りをした建物だった。宿泊施設ほど整った生活空間が見出せる造りではないが、ベンチと簡易トイレ、それに荷台や荷物置き場はあった。
スイと李舜は荷物を置いた後、スイは荷台の側面に取り付けた収納ポケットから一つ、李舜は自分のズボンの右後ろにぶら下げたホルダーとリュックのホルダーとからそれぞれ一つずつの計二つ、銃器を取り出した。
李舜は護身用と仕事の道具として、他国で銃器を購入した。
キザシの西部一帯に広がる、ウィディンの里とシャオンの里とが連合したアリーシアは、軍事と警備に特に力を入れている。アリーシアの軍隊は優秀さと強靭さで名高かった。そのため、語源の統一されたキザシを含む五大国――アリーシア、珂橋、イーユス、
フィンジア、そしてキザシ――その中で最も優れた銃器などの武器を生産していた。
スイは、自身の記憶が始まった時、すでにナイフや銃器をはじめ、生活一式全てを荷台に積んで所有していた。もちろん本人に覚えはない。
二人はベンチの上で布を広げてそれを解体し、油をさしたり部品を磨いたりした。当たり前のように、てきぱきと作業的に行う。
スイの持つ銃器は、細身のバレルを持つ右回転のシリンダー式リボルバーだった。三十八口径で、リボルバーのグリップは木製になっている。弾槍に一度に入る弾の数は六発、サイレンサーなどといったオプションはつけていない。
李舜がもつ銃器は、リボルバーとアサルトライフル。リボルバーはスイのそれに似た小型のもので、比較的短めのバレルをもつ。高度なもので、今はつけられていないが、サイレンサーと銃器の命中率が上がるスナイパーコアの取り付けが可能だった。アサルトライフルは狙撃用のもので、細身で長さのある銃身をしていた。覗くと中央に赤い十字架が見えるスコープが備え付けてあり、兵士が突撃のとき構える銃とよく似ていた。
「……それって仕事で使うやつ……? 」
スイが手を止め、隣で作業する李舜の手元の、長いライフルを見ながら聞いた。
「あ、うん。どうしても必要な状況もあって……。あんまり使わないけどね」
李舜はそれの長いバレルと発煙筒の間を布で丁寧に拭きながら答えた。
「……そんな凄いの使うんだ……。……危険じゃないの? 」
「そりゃ危険だけど……。……! スイ! 僕のこと心配しなくても、大丈夫だよ! 僕はちゃんとこの業界でもうまくやっているから……!」
李舜が手を止めて隣のスイの顔を見つめて、きらきらと瞳を輝かせて言った。
「心配してないし……」
スイはいつもの表情でさらりとそう返した。
「…………。あっ、でも危険でも心配してないってことは、僕がそれでも大丈夫なくらい強いって思ってくれてるってことだよね!」
李舜はつかの間撃沈して、それからすぐに立ち直って嬉しそうにそう言った。
「……別に……」
スイはいつもの表情でさらりとそう返した。
「………………。そっか……。そうだよね……」
李舜はがっくりと肩を落として、作業を再開した。
しばらくは布が金属を磨く音と銃器が再び組み立てられる音だけが響く。
持っている銃器の数量的に、スイのほうが早く作業を終えた。
スイはリボルバーに安全ロックを掛けて、ズボンの上からエプロンのように巻いた白い布の腰に無造作に押し込み、自分の物品を荷台に片付ける。それと入れ替えに、荷台から大き目のフライパンのような形をした鉄板と、紐と、ホルダーに収まった弾丸を持ち出した。
休憩所の横側に回り込むと、その角から飛び出した屋根の部分に器用に紐を結わえ付け、鉄板に繋いでぶら下げ、的を作った。
李舜も作業を終え、リボルバーをズボンのホルダーにつっこみ、アサルトライフルをリュックのホルダーに手厚くしまい込んだ。そしてリュックから丸い鉄板と紐、弾丸を取り出す。
「……ライフルのほうは練習しないの……?」
スイがその一連の動作を見ていて、そう聞いた。
「うん。リボルバーだけ。ライフルは弾丸も高いし音凄いし練習用の的はリュックの底のほうだし時間もあんまりないし……」
「そう……撃つところ見てみたかったのにな……見たこと無かったし……」
李舜の返答に、スイは少しだけ、しゅんとした表情をした。
「えっ、あ……そう? じゃ、練習しようかなあ……?」
「え?」
「だ、だって久しぶりだし腕なまってたら仕事に支障きたすしそれは困るしよく見たら太陽まだ思ってたより上にあるし……」
「ふーん……いいの?」
「うん、リボルバーの後するから見てて!」
「やった」
スイはそう言って、いつもの表情に戻る。少し口が微笑む。
李舜はスイの的とは反対の角から紐を吊るし、同じように的を作った。その的はスイのものよりだいぶ小さい。
二人はそれぞれの的と距離を置いて向かい合い、お互いの的が離れているその距離と同じくらい離れて、並んで立つ。
配置の見やすい空からだと、大き目の黒い鉄板の向かいにたった今腰からおもむろにリボルバーを抜いた白い髪の少女が立ち、適当な距離を置いたその隣には、横のものに比べ小さく黒い鉄板に向かいそれとの距離感を確かめる茶色い髪の少年が見えるだろう。
その茶髪の少年が隣に向かい話しかける。
「ね、スイ、勝負しようよ」
「え……いいけど、李舜の方が的小さい……」
スイと呼ばれた白髪の少女は話し相手の的を、握ったリボルバーで示して、そう言った。
「ううん、いいの! ハンディあげる」
李舜と呼ばれた少年は自信の満ちた笑顔で隣を見る。
「…………。その勝負受けた」
スイはしばしその笑顔を見つめた、あるいは睨んだあと、そう返した。
「よし、決まり。ルールは簡単、先に三発的に当てたほうが勝ち。ただし、一発当てる毎に大きく一歩的から遠ざかること!」
「分かった……」
「じゃあ、最初は一発ずつ練習出来るとしよう」
「……ん。先どうぞ」
「どうも!」
李舜は楽しそうに返事をして、足元に二人分と、その間のスペースにも、まっすぐな横線を靴のかかとで描いた。その部分の短い草が寝て、ラインを表す。
元の場所に戻ると、軽く跳んで足元の土を固める。
そして、
「よーし……」
体を軽く動かし、足を踏みしめてリボルバーを的に向かって構え、右手でグリップを握ってそれに左手をそえて、的を睨み、
ぱんっ――がんっ。
乾いた音を立てて撃った。直後、的が右回転を伴って大きく後ろに振れ、休憩所の建造物すれすれを往復した。
「っしゃ! ちょっと真ん中より左だったかなー」
李舜はそう呟き、歩いていって、一定の道筋を回転しながら往復する的を受け止めて、落ち着かせて、静止させた。持ち場に戻り、
「スイどうぞ」
「んー……」
一発目で、ほぼ真ん中に。やっぱりスゴイ。スイはそう思いながら軽く運動する。足を地面に慣らし、呼吸を穏やかに整えて、李舜のそれと同じ構えでリボルバーを握り、腕をぴんと伸ばして的を狙う。ほんの少しの微風がやむのを待って、
ぱんっ――きぃんっ。
弾けた音がして、弾丸が鈍い音を立てて鉄板に直撃する。黒い鉄板はあまり振れず、その代わり激しく左回転をした。
「……右端スカった……」
スイは呟くと、とぼとぼ歩いていき、少し待って、鉄板の回転の勢いがおさまってから、静止させた。
「まあ、まだ練習だからさあ」
李舜はラインの位置に戻ってくるスイに、そう話しかけた。
「…………」
スイは沈黙を返す。そして気を引き締めた。
「じゃー本番いきまっす」
李舜はラインに足のつま先を合わせ、重心を両足の真ん中に置いて、そうして再びリボリバーを構えた。バレルはぴたりと小さな黒い的を狙う。
ぱんっ――がんっ。
鉄板は大きく後ろに振れ、一回転しそうな勢いで跳ね上がった。
「真ん中っ!」
李舜は添えていた左手をガッツにして言った。そして暴れている鉄板へ走っていって、受け止めてなだめる。それから走って戻ってきて、ひいてあったラインに両足を合わせて、大げさに一歩的から遠ざかった。
的を狙ってから撃つまでの時間が短い――スイはそう思った。順番を促す李舜に、首肯だけを返す。
先程と同じ構えで、スイの握ったリボルバーがその先の黒い的を狙う。バレルの先端と的の中心の焦点を慎重に合わせて、
ぱんっ――がいんっ。
的は弾丸を中央より少し右上に受けて、緩く左回転しながら後ろに振れる。
「ずれた……また右」
スイは眉間に軽くしわを寄せて、往復する鉄板を睨んで呟く。
「当ててきたかー」
李舜はそう言って、スイは自分の的を静止させに行った。無言で戻ってきて、ラインから的と反対の方向に大きく一歩踏み出す。李舜と並ぶ。
李舜の番。新しく立ったその位置で、先程より幾分か小さく見えている鉄板との距離感をつかむと、すっと両手を伸ばす。鉄板の中央一点を見据えて、
ぱんっ――がんっ。
発射された弾丸は正確に鉄板の中心を弾いて、鉄板は再び激しく後ろへ。
「真ん中っ!」
同じリアクションで李舜が喜ぶ。駆け出す李舜の背中をスイは黙って見送る。
そして正確――スイが前回の思想の続きを巡らせた。戻ってきて再び的から一歩遠ざかる李舜を横目に、鉄板との距離感を測りながら、やっぱり李舜は泥棒請負の仕事柄嫌でも銃の腕は上がるのかな、とも考える。それに比べて自分は大き目の的なのに。そう思いながら、リボルバーを握って引き金に指を掛け、黒い鉄板を睨む。
的を外すと流れ弾は簡易休憩所の建物に点を描くことになる。
スイは右ばかりにずれる自分の癖を意識して、透き通った灰色の瞳を凝らし、
ぱんっ――ぎいんっ。
「……左過ぎたか……」
緩く前後し、激しい勢いで右回転を見せている鉄板に向かってスイが呟いた。
ゆっくり前後に振れながら、右回転をやめて逆に回り始める鉄板に近づき、鉄板の回りたがる方向に回してやって、紐をまっすぐに伸ばして、その動きをぴたりと収める。
元の位置に歩いて戻ってくるスイに、
「むう……同点かあ……。やるねスイ。次、最後、同時に撃たない?」
李舜が後半笑顔で提案する。
「……別にいいよ」
スイの微妙な返事で、語尾を上げて肯定の意を示した。
先程より更に的から遠ざかって、二人は並ぶ。
「三、二、一だよ」
李舜が言ってスイが首を小さく縦に振る。両者ともリボルバーを構え、真剣そのものの眼差しでそれぞれの標的を睨みつけていた。
「三。二。一――」
ぱぱっ――がんっ。
乾いた銃声が二つ響いて、その後それに対応して聞こえた鈍い音は一つだけだった。
後の方の音を作った一人は、隣で悔しそうにうなだれるもう一人を見て、
「勝った……っ。勝った勝った! スイに勝ったー!」
嬉しそうに、そう吠えた。その横で、最後の最後に惜しくも標的を外してしまったスイが実につまらなそうな顔をしている。
小さな的の中央を弾いた鈍い音に少々負けて、大きな的を外れた弾丸が、びしっ、という音をたて簡易休憩所の薄い灰色の壁に模様を一つ作った。
「はぁー……スゴイ……さすが」
スイは申し訳程度の声量で隣の人物を讃えた。そしてそれは聞こえてしまったらしく、
「でしょっ! やっと分かってくれた? あ、でも僕は射的力が問われる仕事してるからで……決してスイがヘタな訳じゃないんだよっ。ほらっ、現に僕がスイに勝てるのってこれだけだしっ……。……これだけ……」
李舜が一気にまくし立てた科白の最後辺りは、自分で言っておきながら感傷的になったらしく、精神的に痛い¥況になっていた。
「はいはい……」
それをスイはさらりと流す。撃った分の弾丸をシリンダーに詰めて、いつでも撃てる状態にして、そして安全ロックを掛けた。それを荷台の収納ポケットに仕舞う。
李舜は早くも精神的に回復を果たすと、スイと同じ動作をして、リボルバーをズボンの後ろにぶら下げたホルダーに収納する。
スイは完全に静止してそよ風を受けている大き目の鉄板を恨めしそうに睨みながら、李舜はまだ揺れ続けていた小さめの鉄板を静止させてから、それぞれの角に引っ掛けていた紐を解いて、的を撤収した。
「あっ、そうだ、ライフルさあ」
李舜が一連の行動の合間に、思い出したように切り出す。
「うん何?」
「太陽だいぶ傾いたし、撃つの二発くらいでいい?」
「うん、ありがと……」
「たまには腕のいいとこスイに見せなきゃあ」
李舜はそう言うと、大きなリュックをおもむろに開いて腕を突っ込む。中を探りながら、何度かうなった後、手が目的物を掴んだらしく、これこれ、と言いながらそれを引きずり出してスイに見せた。
一見重そうなそれは、手渡されて確かに重かった。材質は石のよう。横に倒した三角柱のような形をしていて、側面の二つの四角い面には、拳より少し小さい程度の青く塗られた丸い印が描かれていた。的らしかった。
更に李舜は、リュックの細長いホルダーから、同じように細長い銃器を取り出す。それを片手で肩に寄りかからせて持つと、反対の手でホルダー下部のポーチからライフルの弾丸が収まったケースも取り出した。
スイがもの珍しそうにじっと見守る中、李舜は着々と練習の準備をする。的を地面に置いて、射撃の勢いでふっとばないように、今地面に開けた二つの穴と的の底に開いた二つの穴それぞれに鉄の棒を通してしっかりと位置を固定した。
「なるほど……銃器も強力なものになると的も丈夫になるんだ……」
スイは李舜の動作を観察しながら呟く。
「うん。他国の射撃訓練場にはもっと高度な人型の的とかあるんだよ。自動で距離を調整できるやつとか」
「へーえ……」
李舜は、彼にとってある程度、銃器で狙うにはだいぶ遠い、そんな距離をとって、底に自分の大きなリュックをどさっと置いた。普通背中にあたる面を上に向けて、上からばんばん叩いて安定させる。
「よっし。スイ、危ないから後ろに……って、既に居るね」
「うん」
辺りを見回したあと後ろを振り向いて、李舜が言った。地面に寝転ぶようにして、ライフルをリュックの上に押し付けて溝を作り、それにライフルをあてがって構えている。スイは興味深そうに見ていて、返事をした。
その返事を聞いて、更に自分の姿勢が安定してから、李舜はライフルのロックを外し、いつでも撃てる状態を整えた。
寝ていたスコープを立てて、中央に見える赤い十字を、その向こうに見えた的の青い丸印に合わせる。
李舜は片目を瞑って、慎重に、青い丸の中心の中心に、赤い線のクロスした点を合わせる。風が完全に消えているのを確認して、そしてスイが見守る中、
どがんっっ――ばしっ!
ライフルがうなり、すぐに遠くで的が悲鳴をあげた。
射撃の勢いは李舜の肩から体に伝わり、大きく振動して、ずざっと音をたてた。
「ぅわ……っ スゴイ音」
「……でしょ?」
横になった三角柱の青い丸の、輪郭線の左上一点から、細く白い煙が上がっていた。同様に、李舜の握りなおしたライフルの銃口からも。
「当たってる――スゴイねっ」
スイは初めて見たアサルトライフルの射撃に、それから李舜の腕に、感銘を受けた様子で、通常半開きの大きな瞳を三割り増し程度に見開いて言った。
「あはははははははっ、そうー? でもぎりぎりだけどね」
李舜は抑えながらも、あからさまに嬉しそうにふるまう。そんなに褒めなくてもー、とか、スイに尊敬されるなんて困るなー、とか幻聴を聞いているような科白も加えて呟く。
そして、
「今度は真ん中当てるね」
そう言うと、再び体勢を整えてライフルを構えなおし、表情を引き締めてスコープ越しに的を睨んで、集中した。
決心したように人差し指が引き金を引いて、
どがんっっ――ばしっ!
一瞬で的まで行き着いた弾丸は、的確に青い丸を弾く。
煙の立ち上る一点を二人が見つめ、
「わあ……真ん中辺りっ」
一人は灰色の瞳を先程より少し大きく見開いて感動し、
「ん? あ・ほんとだ、ちょっと右?」
もう一人は髪と同じ色の瞳で一点の位置を、目を少し細めて再確認する。
「でもさっきよりずっと真ん中……李舜スゴイさすが」
「え! ほんと? スイにさすがって言われた! やった! ほらっ! すごいって何回も言われた! 絶対いい! むしろ嬉しい!」
李舜は興奮で言葉が狂っていて、ロックしたライフルをリュックに立てかけると、感動を体で表現した。
「………………」
スイは李舜の喜びのダンスに少々引いて、瞳を半開きまで戻す。そしてさらりと本心を伝えたことに、眉根を寄せて申し訳程度顔を紅潮させた。
「……もうあんなに太陽」
述語を省略して、スイが呟く。それに李舜が不思議な動きを止めて、
「あ、ほんとだ。片付けて夜ご飯としよう」
李舜はライフルに撃った分の弾を込めて、丁寧にリュックのホルダーにしまった。そのリュックを背負い荷物置き場に戻すと、的である三角柱と、それと地面とを縫い付けていた鉄の棒二本を撤収、砂埃を綺麗に払って、布で軽く磨いてからリュックの底に沈めた。
「今日は嬉しかったから、味付の携帯食料と缶詰でご馳走でもいただこっかな」
李舜は声を弾ませてリュックを両手で探る。
「……カンヅメ? ……一回、中央憩いの広場で対価交換の商品になってたの、見たことある……」
「海って知ってるでしょ? 闇の森の向こうにある、すっごいでっかい塩水の。その中に生き物がいて、食用のものを味付けして密封してあるんだって。」
キザシの里の放浪民は、狩猟と採集は行うが漁業はしない。それを案じて李舜は解説を入れた。
「知ってる……綺麗な水なのに、凄くしょっぱいらしくて飲んじゃいけないの……。そんなのの中に、生き物いるんだ……」
「うん、全般にサカナって言うって教えてもらった。結構おいしいよ、半分こしよう」
「ありがとう。食べたことは無かった……」
二人はベンチに並んで腰かけた。
「わたしも今日……味付けのにしよう」
「うん! 記念日だしね!」
「…………」
記念日といった李舜の発言にスイはあえて反応せず、何の記念日か聞かないことにした。
が。
「何ってもちろん、スイが僕のことをすごいって言ってくれたことと初めて褒められた記念だよっ!」
李舜は嬉しそうに、根絶丁寧に解説した。
「……聞いてないし……」
スイは形容し難い表情で静かに呟き、ため息をついて、
「いただきます」
結局流して、静かに味付携帯食料を取り出してくると、静かに食べ始めた。
「いただきまーす」
やや遅れて、李舜も食べ始めた。満面の笑顔のままで。
スイが味付携帯食料を食べ始めて間もなく、
「おいしい」
好評を下し、李舜に同意されて、その直後。
「…………ん……?」
スイは手を止めて顔を軽くしかめた。
「どうしたの? ……まずい?」
李舜も手を止め、隣のスイを見た。
「……違う……、……これ――」
スイは噛んでいる携帯食料の味を感じて、飲み込んでから、
「――食べたこと、……ある、かも」
「え? 前、食べたことないから食べてみたいって……」
「……その筈……でも……、なんか……」
「もしかして、無くなってる部分の記憶の――? ひょっとして、記憶無くすより以前に、その……今、待ってる人≠ニ一緒にいる時、食べたのかも……」
「………え? でも……勘違いかも――」
「きっとそうだよ! だってスイがキザシの最西端に行ったことがあるなら、そのことを忘れるとは思えないし、何があったかを全て忘れていても、初めて食べたときインパクトある味だったのなら、味覚は覚えていたのかも――」
「―――……」
李舜の発言にスイは少し混乱する。
李舜は、うつむいたスイを見て感情を汲み取り、
「あ、ごめん……確証は無いけど、……もしも、の話。そんな無理に思い出そうとしなくても、いいから――」
「……うん」
「……ほらっ、待ってる人≠ェ帰って来たらさ、――スイ」
「うん……大丈夫だよ」
スイは自らに言うように、そう言った。
そして再び、ゆっくり食べ始めた。二人とも、しばらく押し黙っていた。
と、突然、
「スイ、半分こ!」
李舜が笑顔で、開いた缶詰と金属性のフォークをスイに差し出した。
「………。ありがと……」
スイの表情がほころんで、その手がフォークを受け取る。
李舜は二人の真ん中の位置に缶詰を持って、二人でそれを食べた。
「サカナ、おいしい」
「これは、……えっと……ツナ、って言う食べ物らしいよ。アリーシア地方のウィディンの里の海岸部で流行ってて、おいしくて栄養もあるんだって」
「ツナ、スゴイ」
「おいしい?」
「うん」
「よかった」
スイの、普通の表情より嬉しそうなそれを見て、李舜は安堵する。
二人は夜ご飯を食べ終え、
「ごちそうさまっ!」
「ごちそうさま……ありがと」
「いえいえ!」
就寝の支度を始める。
太陽は半分以上沈めた顔で、少ない会話を交わす二人を見ていた。
いつもの様に寝袋を敷き、枕元にナイフを置き、濡らした布で顔や手足を拭き、歯磨きをする。
「給水所があんなに近いと、水に安心できていいね」
「うん」
「食器洗うとき水こぼしちゃったんだけど明日もちょっと寄っていい?」
「うん……じゃあついでにわたしも入れとこう」
「決まり」
太陽がキザシの空に別れを告げて、地平線の向こうに消えた。反対の地平線からは急に勢力を増した闇が、星を引き連れてやってきて、月をその主役に抜擢する。
夜の柔かい風が、草原の草と、寝袋に入った二人の白と茶色の髪を撫でていった。
二人は視界が開けた大地を一通り見回し、念のためナイフをいつもの位置に配置して、
「おやすみー」
「おやすみ……」
白い月のやさしい光が薄い影を作って二人を見守っていた。
緑と茶色の草原では、その光を草が反射して月に返していた。
そしてまた。
やがていつもの朝がきて、太陽は空を染めながら、放浪民の里に顔を覗かせる。
W
眩しい朝の空気。
太陽が地平線から半分はみ出して、色の戻った世界。
初夏にしてはひやっとした風が吹いていた。
里南部の草原で野営していた少年と少女がいて、
「うーん……」
茶色い髪の少年が薄く片目を開いて呻る。続いて、
「………………」
隣で物凄く不機嫌そうな面持ちの、白髪の少女が両目を半分開いた。
「……おはよー」
「………ん」
雲は薄く、直射日光に近い眩しさを帯びた光線が、世界に長い影を作る。
目覚めて間もない少年と少女はもそもそと体を起こし、寝袋を畳んだ。
寝ている間枕の下に敷いていたナイフを所定の位置に戻して、軽く身体をほぐすように動かす。
「ぉいっちに、さんっし、ご!」
それぞれ濡れた布で身体を拭いたり肌着や服を換えたりする。
癖になっている節水をしながら、顔を洗い、歯を磨く。
「きもちぃー」
本格的に柔軟や運動をする。一人は決まった朝のセット運動、もう一人はナイフの訓練を行う。
「目、醒めたぁ!」
こうして二人は素早く、一人分の掛け声やリアクションを経て、朝の身支度を終え、いつでも出発できる状態を作った。
この頃には、二人とも完全に眠気から解放される。
「朝ご飯にしよう」
「うん」
スイと李舜、それぞれ荷台とリュックへ朝食をとりにいく。
李舜は人工的な笑顔でまずい方の携帯食料と水筒を抱えて休憩所の建物に入り、
スイは二種類の並んだ携帯食料を見下ろして、
「………」
少し迷って、量の少ないおいしい方――昨日何かを感じたものと同じもの――を選んだ。
微妙な表情で朝食を抱えて休憩所に入ってきたスイを見て、正しくは抱えているその味付携帯食料を見て、
「スイ……」
李舜は笑顔を少し崩す。
「――でも何か、もっと思い出すかも……」
意味の通らない接続詞を置いて、スイは灰色の瞳を抱えたものに移した。そして、
「大丈夫だから――無理してないし」
そう言い、李舜が何か言いたそうにしている横で、いただきますと小さく呟き携帯食料をちぎり始める。ゆっくりと味を確かめるように噛む。
「………。分かった」
李舜が隣でしばらく心配そうな表情をした後、優しい笑顔を作って言った。そして食べ始める。
「今日給水所寄るついでに洗濯していかない?」
「いいよ」
「また移動しながら、スイの荷台の取っ手に干させてもらってもいい?」
「うん」
「荷台引くの手伝うから」
「うん」
「今日も晴れそう?」
「うん」
「結構暑そうだね、昼とか」
「ね」
「森、今日中に着きそう?」
「うん」
「盗賊いるかな?」
「さあ」
「薪補充できたらまた紅茶飲もうね」
「うん」
「僕のも薪補っとこう」
「ん」
「トキさん、憩いの広場に着いたかな」
「うーん」
「まだかな?」
「うん」
「また誰かに会うかなあ」
「うーん」
「薪売ってる移動商人さんだったりして」
「あはは」
スイと李舜は一定のペースで会話をしながら、朝食を摂った。朝食用の分量の、それぞれの携帯食料は同じペースで摂取されていき、やがて無くなった。
片付けが終わると、
「さー、洗濯だ」
二人は、各々の荷物を引いてあるいは背負って、遠くない距離にたたずむ給水所へと向かう。
「スイ、石鹸あとどのくらい残ってる?」
「うーん……沢山交換しといたからまだ結構ある……」
給水所に付くと、荷物を傍らに置き、ポンプの脇に備え付けてある大きな容器に水を張りながら、
「いい心がけ。石鹸って油断してるとすぐに消えて無くなるよね」
「うん……」
容器の七部辺りまで水がたまると、それぞれ荷物から洗濯するものを取り出して、
「ねっ、見て」
「?」
李舜がリュックを探って見せたいものを発掘していた。奥にあってなかなかそれが見つからないらしく、長い間沈黙が続いて、
「………?」
「……ちょっと待って……、……あった!」
李舜がファンファーレのような効果音とともに取り出したそれは、
「液体洗剤ー!」
「液体洗剤?」
「うんっ。イーユスの里でホームステイさせてくれたお宅のお母さんが、僕の服についた土埃を見て洗ってくれたんだ。その時に、少し分けてくれた。石鹸より汚れが落ちやすいんだって」
「ふーん……」
「ねえ、驚くよ。少し分けるから、スイもこれで洗ってみて! 絶対びっくりするから!」
「え……いいの?」
「是非!」
スイは目の前に差し出された液体洗剤の小さなボトルを遠慮がちに受け取り、眺める。半透明の容器に入ったそれは、水色と灰色を混ぜたような色で、傾けると、とろとろとゆっくりと流れる。
「洗う服をしっかり水に浸してから、適当に――えっと、はい……はいストップ! で、こすらず全体的に揉むように洗っていきます」
李舜が説明して、スイはその通りに作業した。李舜も洗濯し始め、スイに液体洗剤を使わないのか問われ、
「僕のは洗ってもらったばっかりだから。何気にきれいでしょ?」
李舜は笑顔で、腕を広げ胸を張って、自分の服を強調して見せた。
「……そんな気もしないでもない」
スイは答えた。
一通り洗いたい物を洗い終わり、ポンプ脇の容器に新しく水を張ると、服を丁寧に濯いだ。再び新しく水を汲み、それぞれの水タンクや水筒に水を補充した。それから服の生地が傷まない程度に絞り、
「じゃあ失礼しまーす」
「どーぞ……」
スイの荷台の取っ手には、まだ水分を含んでぐったりとしている洋服や肌着などが干された。天気もよく、午前の太陽は柔かい光でそれらを照らした。
「李舜……。ほら、……あれ」
スイは荷台の取っ手に、握って引くための片手の拳大のスペースを作って、ふと気付いて真南を見て、李舜に仰いだ。
「あー、ほんとだ、闇の森! スイが前ここら辺で見えるって言ってた通りっ。さすが! で、その手前にまだ小さいのが道中最後の宿だよね」
「そう」
二人が見る視線の先に、小さく一軒の宿泊施設が見えて、その背景には景色に負ぶさるようにして、横に長く黒く闇の森が広がっている。
一年中葉の落ちない広葉樹が広がり、葉が空を覆い隠して昼でも明るいとは言えない環境と、遠くから見ると黒い影のような不気味な雰囲気が、放浪民の間で闇の森≠ニ呼ばれる所以だった。
森には小動物が自生し、食べられる植物や木の実なども採集できる。
「まだ早朝だし、この距離なら今日中に用済ませられるかな? ね、スイ」
「うん」
「そんじゃ、行こっか」
「うん」
二人は短い会話を交わすと、スイは荷台の側面のポケットの一つからリボルバーを取り出し、右足の太腿に装着されたポーチに忍ばせた。グリップだけ出してあった。
スイが荷台を引き始めて、李舜もその隣に並んで一緒に引いた。
からからと音を生みながら、スイと李舜は、草原と砂利の地面を南下していった。
「……でさっ………長髪の………その銃が最新式で………天井から………逃げたってほんと! 一回退いて………床の隠し扉がばればれで――」
一人分の弾んだ声が隣に話しかけていた。
スイの提案で、森に近づきすぎて危険にならないうちに、と早めに昼食を摂った(スイは相変わらず神妙な面持ちで味付の携帯食料を食べた)、その後だった。
二人は水分補給をして、先程よりだいぶ近くに感じる森と、宿を見る。
闇の森に向かって歩いていくと、こちらから近づいているというより、森が向こうから迫ってくるような、空からこちらにのしかかってくるような、そんな錯覚に陥る。
行こっか、うん、と言葉を交わして、二人は再び闇の森を目指して歩き始めた。一人の
荷台の取っ手に干された二人分の洗濯物が、がたがた揺れる荷台に合わせて、あるいは時折拭く風にのって、揺れていた。初夏の太陽は、衣服の含む水分を確実にとばしていった。
地面は草原と砂利が交互に広がったり時には混ざったりして、森まで続く。
「……そろそろこっち」
「うん」
スイが言って、方向を少し変えて、李舜が従う。
まっすぐ森に向かうのではなく、宿を挟んで、直接正面に森を見ないようにする。闇の森には、放浪民を獲物にする盗賊が住み着いている事が少なからずあって、待ち伏せをされている可能性を恐れての行動だった。
スイと李舜は、森から見えない側の宿の側壁に辿り着き、
「森は静かだね、スイ」
「うん……」
「少なくとも今は、森の中で争い事は無いみたいだね」
「うん」
建物の双方の角から森を覗き見る。その体勢のまま壁に耳を当てて建物内のひんやりとした静寂を確かめる。
「……こんな真昼に、宿に盗賊が来てることはまずあんまりないね」
「……そうみたいだね」
闇の森の始まりには、申し訳程度の雑草の中、突如現れる成長した太い木々。森の内部の地面には背の低い雑草はあまり見られず、そのかわりに突き出した木の根や、落ちた木の枝や葉が散乱している。
「……いるかな」
「……さあ」
二人は側壁の双方から顔を覗かせ、森の始まりを観察する。
ナイフは、投げられても二人にとっては弾き返せるくらいの速さ。主には接近戦に向いている。恐れるのは、死角からの発砲。それぞれ盾となるものを挟んだ撃ち合いならまだしも、相手が森の中でこちらから向かっていくとなると、厳しい。
しかし銃で何かを狙う場合、銃口や目的を見る人間の目が、何か不透明なもので覆われてしまっていては撃てない。つまり、向こうから撃とうとしている場合、必ずこちらからもその人間と銃口が見えているということ。
「見える?」
「……ううん」
「僕も」
二人はたっぷり数分間、森を観察した後、
「待ち伏せは無いね」
「うん」
一致した見解を出して、宿泊施設の外壁からその身を森にさらし、再び二人で荷台を引き始めた。
ところどころ、人間の足を捉えるために存在するような形の突き出した木の根を器用に避けながら、荷台は森の中を少し進んだ。
スイと李舜は時々荷台の歩みを止めて、薪にするための枝を拾い、程よく乾燥したそれを見て、
「ここ最近、雨降らなくて良かったね!」
「うん」
「前回は直前で雨降って、森に入った頃には枝とかしなしなだったもんね」
「あー……大変だったね……」
木の根を避けて、大きな切り株を避けると、荷台は自然と南西へ、西南西へと向いた。
「スイ、木の実とか、採る?」
「うーん……良いの見つけたら」
「分かった」
荷台はじぐざぐと方向を変えつつも、西へと進んでいった。
「スイ、あれなんかどう?」
「いいね、……採ろう」
「了解、僕もっ」
二人は木の実を採り、そのうち一つずつを軽く拭いて食べた。その後また焚き木にする枝を数本拾った。スイは太い枝が枯れて折れているのを見つけ、ナイフで切り割って薪にした。
李舜は立っていた地点から西北を見て、珍しい木の実を見つけて、
「あっ。スイー!」
それに近づいて、そして何か違うものを見つける。
「…………なんだ、これ――」
死体。十人分で、倒れて輪を描いていた。死体はまだ新しく、腐敗してはいなかった。
「何、李舜、…………っ」
スイも来て、それに気付く。
「全員、死んでるみたい」
李舜は脈を確かめて、そう言った。
「盗賊?」
「だろうね」
「盗賊同士の争いかな……」
「……スイの知ってる人は?」
「……いない」
「じゃあそうかな……」
「全員で戦って全員死んだのかな……」
「うーん……そうじゃないと、埋められていないのは変だよね」
死体は、土葬する。キザシの里での慣習だった。放浪の途中で、行き倒れた放浪民を見つけた場合も、見つけた者は死体を埋める。争いが生じて、死人が出たのなら、生き残った者が埋める。放浪民も盗賊も、苦労する生き方を選んで生きている性分、死者の土葬は共通した義理人情で、こうして死体が放置されているのはおかしかった。
「でも……」
「うん……」
死に方が不自然だった。
キザシの里では、盗賊なら、そして盗賊でなくとも、刃物や銃での戦法が普通。――しかし、実際に銃器で死んでいるのは、一人だけ――見事に額に一発、大口径の銃器の痕跡が見られた男。しかも、その銃痕が焦げていることから、無抵抗の状態で突き付けられてから撃たれたことが分かる。そして他の全員は――
「折られてるね、……首」
「……みたいだね」
明らかに身体の向きと首の向きが不自然な、九人分の男たちの死体を見て、二人は言った。
と、その時。
「誰だっ」
がさっ、と垂れ下がった木の枝が音を立てて持ち上げられて、声とともに、二人に向けられた銃身が見えた。
「――――っ!」
死体ばかりに気をとられていたスイと李舜は突然向けられた銃に身を強張らせ、素早くその銃身の狙いを自分から外し、その場に伏せてそれぞれポーチやホルダーからリボルバーを抜いた。が、
「あれ? ――李舜とスイじゃん」
持ち上げられた木の枝の蔭から銃とともに登場した少年は、伏せて構えているスイと李舜を見て、構えた銃を下ろした。
「ぅお? ――フェス……?」
フェスと呼ばれた少年は、精悍な顔つきに短い黒髪を後ろで括り、五大国の内の一国・フィンジア特有の首と肩の前後を覆うような装束を身に着けている。久しぶりだなーと陽気に言って、握っていた銃を黒いズボンに備え付けのホルダーに戻した。
「織ぃ! なんとスイと李舜だった!」
「えっ、ほんと? ――あ、リー君、スイちゃん。久しぶり、元気だった?」
フェスが背後の木陰に向かって呼びかけ、もう一人、がさがさと音を立て、織と呼ばれた少年が出てきた。透き通る銀髪を肩まで伸ばし、五大国の一つ・珂橋の民族衣装を着た、一見少女のようにも見える華奢で整った顔立ち。ふわりと優しげな笑みを浮かべている。
二人ともスイと李舜と同じ年齢で、複雑な経緯で出会って共に放浪するようになった。フェスは李舜と似たような仕事をし、かつて、依頼を受けた仕事場が共通で内容が対立していて争い、しかも共に捕らえられ、最終的には協力して脱出したことがある。
スイ・李舜、フェス・織は、放浪中たまに顔を合わせ、時折食事を共にしたり、目的地が一致した場合共に行動したりする親しい仲だった。
「びっくりしたー……久しぶり。ってか何でここに?」
李舜は木陰から登場した二人を交互に見て、立ち上がりながら言った。
「里の南東部で珂橋の商人に会って、そのまま西に向かって森横切ってた」
フェスが二人に近づいて答える。織は二人分の荷物を積んだ四輪の中型の台車を引いて、木の枝をくぐって来た。
フェスは立ち上がったスイと李舜のすぐ後ろにそれを見つけて、
「……おいおい、また派手にやったなぁ……」
何か勘違いして言う。
「違う違う! 僕らが来たときは既に――ねえ、スイ!」
「うん……盗賊だと思う」
「そっか、スイが言うなら間違い無えな」
「………………」
フェスの後ろから、織が静かに「皮肉だよ、」と加える。
「じゃあ俺らは狩猟とかしてる間に、自然にこの死体避けてたってことかな」
フェスは考えるしぐさをして言った。付け加えるように続けて、
「そう言や、この森今回変だったよな、織」
「変……って?」
李舜は軽く顔を歪ませて問い、話を振られた織を見た。織は首肯して、
「うん。――盗賊がいないんだ。ボクらの道中には、真新しい争いと土葬の痕跡があるだけで……。一際強い盗賊団が他の盗賊団を全滅させたって考えられるけど、その一際強い盗賊団にも出会っていない」
「……まあ、そんな感じだ」
「ボクらはここまで森を西に横切ってきて、一直線に進んでいるわけでもなく、……それでいてもう森の残すところ八分の一ぐらい。盗賊が森のそんなに端っこにいる可能性は低いね……って時に、フェスがリー君とスイちゃんを見つけて、それから、」
織は手の動きで李舜とスイの背後を示して、
「コレ――ってどういうことかな?」
その場の四人はしばらく黙った。
最初に静寂を破ったのは李舜だった。
「他の放浪民が先に森に入って、一番強い盗賊倒したってことは?」
「なら、埋められていないのがおかしいよ」
織が即答し、李舜はそうか、と呟いて再び黙る。
「盗賊同士、相打ちしたのかな?」
織は推測を疑問形にして話した。
「それなら、死に方がおかしい。見てみてよ」
今度は李舜が即答。死体の環までの道をあけて、スイも身を引いた。
「……ほんとだ、確かに……。相打ちならこんな風にはならない」
織は一通り死体を見渡し観察して、呟く。
「なんか……、難しーな、織の言うことは」
フェスが先程から腕を組んだまま対話を聞いていて、ぼそっとそう言った。
「確かにフェスの頭には少し難し過ぎるかもね」
「あぁ? コラ」
李舜がカマをかけて、フェスは口だけ絶妙に微笑む。織が静かに「仕返しだよ、」と呟いた。
「百歩譲って土葬が面倒臭かったから放置した、としても闇の森周辺はただでさえ放浪民が少ないし……」
織はもう一度死体を見渡して、言う。
「……わたしたちは、ずっと南下してきたけど、闇の森に向かっている人には出会ってないよ……」
スイは考えている織に向かって静かに話しかけた。
「うん、トキさんは憩いの広場に向かって行ったし」
フェスと組み合っていた李舜もスイの意見に賛同する。
「俺らも東から森に入るとき誰にも会わなかったよな?」
「うん。商人さんは僕らと別れた後、ちょっと北上して他の商人仲間さんと一緒に珂橋に帰ったみたいだし……」
「誰かが西から森に入って、こうした後、西から出たのかも」
「西から入って西に出るの? それってかなり不自然じゃない?」
「………何か用事を思い出した、とか……」
「……うーん。考えにくい」
再び四人とも、しばらく黙る。
「……変なの。とりあえず――埋めるか」
「そうだね……」
「手伝うよ」
「俺も」
再び李舜が最初に口を開き、提案に他の全員が賛成し、作業を始めた。
死体が地面から突き出さないくらいの、十分な深さの穴を掘り、収容して、土を戻し、出来るだけ平坦にする。墓標など、ここに死体が埋まってます≠ニ示すようなものはいちいち立てない。四人とも、盗賊と推測はしたといえども、土葬しながら無言で冥福を祈った。
とりあえず、盗賊の隠し持っていた金品は、(埋めるのは勿体ないので)ありがたく頂戴した。
「この後どーすんだ?」
土葬を終えて、フェスがスイと李舜に聞いた。
「どう……しようかな、特に決めてない……」
スイが答えて、李舜も頷く。
太陽が頭上を通り過ぎて、すでに結構な時間が経っていた。
「良かったらここから一番近い休憩所か宿に行って、夜ご飯御一緒しない?」
織はふわりとした笑顔で二人を誘った。
「おぅ、一緒に食おうぜ!」
フェスも誘う。隣にいる李舜の背中をばんばん叩く。
「うん」
「そうしよう……って痛いって」
スイと李舜は賛成して、李舜はフェスの背中を遠慮なく叩き返す。
「った! やったなお前!」
「誰が最初だよ!」
「行こっかスイちゃん」
「うん」
「痛い痛いっ! 髪の毛反則!」
「お前こそ殴んなっ!」
「ここから最寄の休憩所か宿は……」
「ちょっと東に戻って北上した、通常なら……危険地帯の宿かな……」
「そうだね」
「いてぇ! 腕折れる腕折れる!」
「ちょっ……首絞まる首絞まる!」
「スイちゃん、洗濯したの?」
「うん……これは二人分。……李舜のも」
「へえ。あ、スイちゃん洗剤って知ってる?」
「うん、使ったばっかり。あの白いトレーナー……李舜がくれて、使ってみた」
「まだ半渇きだね。完全に乾いたらきっと驚くよ」
「……李舜も言ってた……楽しみ、かも」
闇の森の中、荷台を引く白髪の少女と、それに並んで台車を引いて歩く銀髪の少年、その後ろでとっ組み合って騒いでいる黒髪の少年と茶髪の少年――の一行が、東に向かっていて、途中で先頭の二人が方位磁針を確かめて方向を変え、北に向かった。
太陽は地平線まで多くない距離を残して、空を夕暮れに染めた。
薄い雲は、一日を締めくくる太陽光線に助けられ、紅く見えたり橙色に見えたり紫色に見えたり、見ていて飽きない空のコントラストを描き出す。
「森の外は明るいね」
「うん……きれい」
一行の先頭二人が森を抜け、紅い日光を浴びた。
「……お? いきなり眩し……」
「わー……雲がきれいだ」
続いて後方の二人も森を抜け空を見て、お互いの襟首から手を離した。
四人は足を止めて、短い間だが浴びていなかった太陽の光を堪能する。太陽は確実に地平線に近づきながら、そんな四人を照らし、そしてやがて地平線に接する。
「……そろそろ宿に入る?」
「……うん」
織が提案し、隣のスイが頷く。
「晩飯だー」
「今日は四人だから豪華にいこうか」
四人はわらわらと宿に入っていく。荷物の別小屋が無いので、荷台と台車は仲まで引き入れることにした。
「いーねえっ」
フェスと李舜が二枚扉を一枚ずつ開けて、スイと織がそれぞれ荷台、台車を引いて入る。フェスと李舜は戸を閉めるとき、外を一度注意深く偵察した。
「……ツナ……?」
スイが呟き、
「ごめんスイ、ツナはもう無いんだ。――今日は果物!」
李舜は部屋を決めて荷台を入れるのを手伝いながら答える。
「俺ツナ持ってるー! みんなで分けよーぜ」
フェスが挙手して言うと、
「ボクは今日森で採った木の実振舞うよ」
織も微笑んで言った。
「じゃあわたしは……焚き火係……」
スイも静かに笑顔を作り、
「みんな、イーユスのお茶飲んでみる?」
李舜の提案に、
「おいしかったよ……」
「飲むー!」
「じゃあボクも。折角だから」
他の三人が喜んで賛同した。スイがその後、貰った自分の分から飲むね、と付け加えた。
「今日は宴会だな!」
フェスが楽しそうに言う。織が静かに「お酒は無いけどね、」と訂正を加えた。
無人宿泊施設に、四人以外で客人はおらず、スイたちはそれぞれ一人ずつ一部屋をもらうことにした。焚き火係であることもあって、四人は各々の振舞いたい御馳走や自分の食事、水筒を持ち寄り、部屋の中央に環になって座る。
スイがその真ん中で手慣れた様子で作業をして、すぐに焚き火が出来上がる。
「モモが甘くてうまいな」
「こんな木の実どこにあったの?」
「あんまり進んでなかった頃だったから、だいぶ東の方だと思うよ」
「ツナ……ありがとう……」
「それじゃあツナに感謝してるみたいだぜ、スイ」
「ふふっ」
「実際にツナに感謝してるんだよね? スイは」
「李舜てめぇコラ」
「……フェスに、だよ……」
「ふふっ」
四人は持ち寄ったお互いの食事を楽しみながら、他愛も無い会話を弾ませた。日が沈んでからも、久しぶりに出会った四人の間で、特に落ち着かない二人の間で、話題が尽きることは無く、通常よりずっと長く賑やかな晩御飯となった。
話が一段落した頃には、焚き火もだいぶその火を小さくして、部屋も暗くなっていた。
「そろそろ撤収しない?」
織が言って、持ち物を片付け始める。
他の三人も賛成し、身の回りを整理する。スイが焚き火を丁寧に解体し、見計らって李舜が部屋の壁に備え付けのランプに火を移し、点灯した。
「今日は楽しかったねー!」
「うん」
「なんか眠くねえか?」
「時間も時間だし、今日ははしゃいだしね」
「そう言えば李舜にスイ、明日からどーすんだ?」
フェスは思い出したように二人に問いかけた。
「考えたんだけど、スイ、そろそろ靴の交換の時期じゃない?」
「……そう言えわれれば……」
スイは左右の足を順に持ち上げて、靴底のゴムの擦り減り具合を確かめて、言った。
「中央憩いの広場に見に行こうか?」
「……みんなが持ってた缶詰も探してみたいな……」
「僕がみんなに分けた果物缶は、憩いの広場に売ってたんだよ」
「……じゃあそれも視野に入れて……」
「僕もリュックの底の補修してもらいたいし、二人で中央憩いの広場行こっか!」
李舜とスイがしばらく会話し、
「うん……じゃあ、それで」
結論を出した。スイ以外の三人は、スイの部屋を後にし、広い廊下に出る。
「憩いの広場、か。じゃあ俺らとは別だな」
フェスはこころなしか残念そうな表情で言った。
「フェスたちはどこ行くの?」
李舜が問う。スイもフェスに顔を向けた。が、
「ボクらは、このまま約一週間で西に里を抜けて、アリーシアのウィディンの里で予約しておいた台車の車輪補修をしてから、シャオンの里に移動して、フェスは仕事。ボクはその仲介と管理と補佐。そこで四、五ヶ月。服と靴を新しく買い換えて、ウィディンの商人さんに質のいいナイフを注文して、弾丸の質が改良されてたらそれを買い足して、……ここ半年は仕事場とキザシを行ったり来たりしながらゆっくり過ごすつもりだよ」
織が代わりに答えた。まるで移動の計画は自らで全て立てたような把握ぶり。そして、
「まあ、そんな感じらしい。とりあえず行動計画と仕事の仲介役は織が受け持ってくれてるから、俺は詳しくは知らない」
実際にそうだった。
李舜が呆れて言うには、
「……フェスが一人で活動するより安心できるな」
「んだと」
続いて、
「うん……」
「スイまでっ!」
「んじゃあ。織、スイ、ゆっくり休んでね、おやすみ。また明日」
李舜は、廊下を挟んでスイの部屋の向かいにある自室の二枚戸の片方を開き、織に言った。
「うん、おやすみ。リー君もね」
「おやすみ……」
そして静かに戸を閉めて、その場は三人になる。
「……俺にはナシ?」
閉された戸を睨んでフェスが呟く。
「……じゃあわたしも、おやすみ――今日は、ありがとう、……楽しかった」
スイは二人にそう言い、廊下から再びわずかに焚き木の残り香のする自室へと足を運ぶ。
「ボクらもだよ、どうもありがとう。――おやすみ、スイちゃん」
「おやすみー。スイは、いい夢見ろよー」
織は小さく手を振って丁寧に礼を言うと、スイの隣の部屋へ向かう。続いてフェスが、顔の横でぶっきらぼうに手をかざして、じゃっ、と言い、閉されたある扉の前で、お前は悪夢を見ろ。と呟いてから、織の向かい側で李舜の隣の部屋に入った。
スイは二人に手を振り返し、片方だけ開け放していた自室の二枚戸を完全に閉める。
部屋の壁に二つだけ、並んでぽっかりと開いた窓は、直接外気と触れ合っていて、焚き木の残り香はもう感じられない。
夜よりも暗い、影のような森の近くにひっそりと佇む建物の外では、月の淡い光が風景をいつもより淡い色に染めている。空では、数えられないほどの星が明るさを競うようにしてはっきりと見えていた。
キザシに点在する宿泊施設の大半はそうだが、個室は内側から鍵が掛けられて、夜は唯一の光源となるランプの皿は壁に備え付けられ、水道も完備(ただし飲めるか飲めないかははっきりしていないので、放浪民たちは健康のために極力飲まない)。床も壁も丈夫だった。ただし、ふかふかのベッドは無かった。
水周りの設備は個別の部屋のそれぞれに備わっていた。
夜は更にふけ、闇は本格的に一帯を支配した。
闇の森に一番近い宿泊施設で、今部屋に灯っていた最後の灯りが吹き消された。
そして四人は静かに寝息をたてる。
翌朝、空が白んで、光って輝く。
太陽自体はおはようと言わんばかりに照り付けているが、薄い雲はその光をやさしいものにして、台地に届けた。
いつもより少し遅れた時間に目を開いた少女。灰色の瞳はまだ半分隠れている。
「うー……」
唸って体を起こし、上半身だけで伸びをして、
「………………」
ふと目に入った洗濯物――荷台の取っ手に干されて太陽の光を浴びているのを見て、正確にはその中の液体洗剤で洗った記憶のある自分のトレーナーを見て、目を丸くした。
「真っっ白……」
灰色がかった白が元の色だと思っていた。
X
こんこん。
ドアがノックされて、
「おはよ。起きてる?」
李舜の声が朝の挨拶をした。
「はい。……開けていいよ」
スイが返事をすると、二枚の扉の片方が開いて、李舜がもう一度挨拶をして、顔を覗かせた。整理された荷物と、出発の準備が整ったスイの格好を見て、
「さすが、早いねスイ。朝食は済ませた?」
ナイフをしまってスイが頷き、
「……はいこれ。……びっくりした」
言いながら乾いた洗濯物を李舜に手渡した。畳まれていた。李舜は礼を言うと、でしょっ、と言って楽しそうに笑った。
「僕ももう食べたから、フェスと織見てくるよ」
「うん」
李舜は、浴びていたスイの部屋の窓から差し込む日差しに顔を向け、目を細めて額に片手でひさしを作って、
「今日も朝日がきれいだね」
「うん」
スイも太陽に向かって頷き、四角く切り取られた風景を眩しそうに見た。
「じゃ、また」
言って、李舜は扉を閉めた。
* * *
キザシの里に太陽が眩しく照り付けて、スイと李舜が会話を交わしたのと、ほぼ同時刻。
アリーシア地方、ウィディンの里、中部山岳地帯。
軍事訓練場にしては広い基地が縦に並んで合計五つあった。
そしてその一番北に位置する基地。山に囲まれた、その小さな平野部に、特設暗躍部隊の基地はあった。
アリーシアはキザシの西に隣する、ウィディンの里とシャオンの里が連合した軍事大国。大きさはキザシの三分の一程度にして、キザシを除く五大国の中で最大だった。
陸軍が強大な国で、五大国はもちろんその他の国にも名声を轟かせていた。
特に、特設暗躍部隊≠ニ呼ばれる計十六名は、アリーシア以外にも様々な危険な任務に派遣され、他国に出張しては完全と言っていいほど完璧に任務をこなしていくことで有名な、ごく近年出来た部隊だった。
アリーシアには一応陸軍のほかに海軍・空軍も存在したが、海軍は政府から依頼される少ない任務のほとんどが人命救助で、交代制だが休日も多く、訓練がある日も午前の救助訓練が終わると、兵士たちは漁師に混ざって漁労に勤しむなど、あまり忙しくない編隊ばかりだった。
空軍も小規模で、管制塔や戦闘機など基本的な設備・技術は多くは無いが整っているものの、アリーシア内部でもその他近隣の国でも空軍が出動するような規模の大きい抗争は起こらず、戦闘機もちょっとした貿易や輸送、山林での人命救助活動に使われている。
上級軍事学校の義務課程を終え、エネルギーを持て余した若者たちの間では、アリーシア陸軍部隊に所属するのが一番多い志望で、その中でも順位があり、第一番隊への所属の志望が最も多かった。
アリーシア陸軍には、特設暗躍部隊の他に、国家成立当時から正式に存在した陸軍部隊が第一番隊から第四番隊まであった。四つのうち、数字の順に強豪な軍隊だった。
どの隊も、任務で特設暗躍部隊と天秤に掛けられたことは無く、特設暗躍部隊の実際の強さがどの隊辺りのレベルなのかは不明だった。軍事学校の若者たちの間では、とんでもなくずば抜けて強い、とも、実は拍子抜けするくだらない編成だ、とも囁かれていた。
その、特設暗躍部隊基地。
指令本部と、その上にあまり高くない塔が二つあって、その近くには司令官や給仕、監察官や門衛兵など、この軍事基地を仕事場とする役職の少人数の人間が寝泊りするための宿舎があり、その向こうに兵士たちのための宿舎と公衆トイレが見える。その更に奥には銃器などが収められた武器庫があり、その脇には布をかぶせられてロープで縛られた荷物が積み上げられていた。そしてずっと遠くに、この特設暗部隊訓練基地を厳重に囲む背の高い有刺鉄線の一辺が見えた。
建物が無い、基地全体の土地の五分の三程度を占める訓練用敷地。アスファルト地面から、石も草も無い砂利の大地に変わる。
白線で地面に複雑なラインが描かれていて、その一つの直線に合わせて、自由で動きやすそうな服装をした若い男女十六名と、軍服に身を包んだ血気盛んそうな若者十六名が、四列横隊が二ブロックの形で整列していた。
そしてその隊の前には、腰に手を当て仁王立ちした一人の女性――薄手の白いトレーナーに腰にはえんじ色のジャケットを巻いて、右腕に特設暗躍部隊≠フ腕章を締める。太いベルトの左右には一つずつ大口径の銃器を吊って、長い金髪を風に遊ばせていた。
その女性の金色の瞳が、目の前の部隊を一通り見渡して、
「人数は揃っているわね。いいわ。――楽にして」
そう告げた。
金髪金眼の女性から見て、四列横隊の二つに分かれたブロックの左右には、かなりの違いがあった。
女性から向かって左のブロックの部隊は男女混合で、何一つ乱れなく整列している。そしてその全ての若者が、根元から真っ白な白髪だった。十六名全員、無心のような表情をして、瞳に光が無い。
部隊の左端先頭に、闇の森で金髪女性がナタ≠ニ呼んでいた、一際若い女性が立っていた。その時とまったく同じ格好をして、前髪は長く、相変わらず表情は見えない。前髪の間、唯一額が見える部分には、特設暗躍部隊所属≠フマークが見える。そしてナタと同様に、左側のブロック全ての若者の露出した肌のどこかしらに同じマークが見られた。
左に比べ、整列に多少の乱れがある、向かって右の部隊は、暗躍部隊を除いた陸軍部隊で強大な陸軍第一番隊の上等兵で、体験訓練として十六名の優秀な兵士たちが選抜され、四年間暗部隊と同じカリキュラムで訓練を進めることを許された特別な編隊だった。全員男で、女性はいない。その中には闇の森で金髪女性の配下につきナタと行動を共にしていた三人もいた。
「前回言ったとおり、これから二ヶ月間は左右の隊で対になっての実践訓練をやるわ」
その二つのブロックに向けて、金髪女性が言った。
そして向かって右のブロックだけに、
「調子はどうかしら? ――ここの訓練を一ヶ月体験してみて。ここの部隊は、あなたたちの第一番隊とは違って、任務のほとんどを四人という少人数編成で取り組むの。だから実践訓練でも単独か少人数が基本。――例え相手が何十人でもね」
「はっ」
上等兵たちの威勢のいい返事と緊張感のある敬礼が返ってくる。
そして左のブロックには、
「手加減してやれ、とは言わないけれど、絶対怪我人は出さないようにね。――第一番隊隊長殿に怒られるわ」
明らかに怪我を負うとしたら第一番隊の上等兵≠ニいうことを前提にした発言だった。
左ブロックに整列する白髪の男女十六名は、そう言う女性の話を聞いているのか否かも判らず、無表情で頷きもしない。
「じゃ、始めましょうか。昨日と同じでもいいから、適当に左右でペアを組んで」
金髪女性の発言に従い、左右の若者は素早くペアを組んで、広い砂利の敷地にお互い一定の距離をあけて広がった。
その際、右ブロックにいた上等兵はそれぞれ、ペアを組む白髪の若者に「よろしくお願いします!」と挨拶をしたが、全員返ってくるのは無言だけだった。
「じゃ、適当に始めて。――武器はナシよ」
金髪女性が緊張感の無い声で訓練開始の号令をかけて、ペアになった若者たちが組み合った。全てのペアで積極的なのは上等兵の方で、
「たあっ」
「………」
「はっ」
「………」
「やあっ」
「………」
「とうっ」
「………」
それに応戦する白髪の若者のそれぞれは適当に、飛んでくるパンチやキックを軽くかわしたり受け止めたり。それでも見る限りペア内で白髪の方が押されているようには見えない。
――今、あの子達に教えているのは正しい手の抜き方=Bいかにわざと勝たずに、それでいて押されずに長く戦うか。あの子達が本気で手を抜かずにやったら第一番隊なんて虚弱な兵は全滅してしまうわ。今あの子達は、わたしが言ったから、弱いのに積極的な相手に怪我を負わせないように、ある意味一生懸命戦っている。上等兵に本気を出させて「自分たちが押している」と思い込ませておいて、こちらは手加減の仕方を学ばせる――いきなり第一番隊の隊長ドノが体験訓練を提案してきたのには驚いたけど、……まあこっちの訓練の偵察かそこらでしょうね。思ったより有効利用できそうね――
十六組のペアが組み合う中、金髪女性は腕を組んで不敵に笑った。
照り付ける太陽光線の中、勝負はなかなかつかなかった。
* * *
四人はその太陽をキザシの南部のとある地点から見上げていた。
「今日は暑くなりそうだなー……」
荷物をまとめて、宿泊施設から出たフェスが、嫌そうに顔を歪めて呟く。昨日と同じような、フィンジアの民族衣装を身にまとっている。
「脱げばいいのに」
フェスの隣で、涼しそうな珂橋の民族衣装を着こなした織が立っていて、静かに呟いた。
「駄目だっ! これは俺のチャームポイントだからなっ」
フェスが吠えて、スイと李舜は方位磁針で方角を確かめ、織にも見せた。
李舜もスイも先日と変わらない格好で、二人とも長袖だがフェスほどは暑そうには見えない。
織はフェスが手伝って、スイは李舜が手伝って、それぞれ台車を西北西に、荷台を北に向けた。
「じゃあね、フェス! 織!」
「またね……」
李舜とスイが順に笑顔で手を振りながら言う。
「おう! 元気でな! 仕事、ミスんなよ!」
フェスが大声で返事をして、両手を頭の上で激しく振った。
「楽しかったよ、また会えるといいね!」
織も手を振り、笑顔で別れを告げた。
太陽は、二人ずつ違う方角に別れた合計四人の影を、同じ方向に伸ばしていく。
短い雑草が繁茂する大地。荷台を引く音と、台車を引く音が、お互い次第に遠ざかってゆく。
黒い髪の頭と銀色の髪の頭は西北西に、白い髪の頭と茶色い髪の頭は真北に。それぞれじわじわと距離を離しながら、向かっていった。
「――そろそろ昼ご飯にしよっか」
好きなだけ他国での経験談を語っていた李舜が、片目を瞑って太陽を見て言った。
太陽は頭上に遥か、二人の影は一日で一番短い頃。
「うん」
黙ってはいるが、興味深そうに話を聞いていたスイが同意の返事をする。
闇の森へ向っていた時、道中洗濯をした給水所を通り過ぎてからだいぶ経っていて、次の休憩所まではまだ距離があった。なので、晴れ渡った青空の、眩しい日中の光を浴びながら、草原に腰を下ろして食事にすることにした。
「こうやって食べるのもなかなかだね。ピクニックみたい」
「……だいたいいつもこうじゃない……? でも、……悪くない」
李舜はリュックを重そうに下ろして、その脇に腰を下ろし、足を伸ばして座った。気持ちよさそうに深く息をつく。
スイは荷台を止め、その車輪と地面の間に石を挟む。そして李舜の隣にちょこんと座って膝を抱えた。
「フェスと織はもうキザシを出たかな?」
「……ううん、……全然まだだと思う……」
「あははっ、そうだよね」
冗談を言ったつもりだったので、真剣に考えて答えたスイに、李舜はいたずらに笑って見せた。実際、別々に分かれた箇所から西北西にキザシを出るには一週間以上はかかる。 キザシに生きる者には常識のように想定できることだった。
「今日は質素にいこう。……いや、今日も、か」
李舜がそう言って持ち出したのは、いつもの不味い携帯食料と水筒。
「じゃあ、わたしもそれにしよう……」
朝、宿泊施設の一部屋で、一人真剣に味付携帯食料を朝食として食べてみたが、結局何も思い出せなかったスイは、少々落胆した様子でそう言って、李舜と同じような粘土状の不味い方の携帯食料と水筒を抱えて戻ってくる。
李舜はすぐにスイの微妙な表情の変化を読み取る。そして、
「……うんっ! じゃあ仲良く食べよう! さあ食べよう! もりもり食べよう!」
明るく笑顔でそう言った。
何で味付食べないか聞かないの?
と、スイは言わなかった。俯き気味で、静かに笑みを作る。
「……うん、食べよう」
草原とまでは言えない申し訳程度の短い雑草が生える地面。スイと李舜は並んで座っていて、
「いただきまっす!」
「まーす……」
ちびちびと粘土状の携帯食料をちぎりって、食べ始めた。
東から吹いた涼しい風が、二人の髪を気持ちよく揺らして、そして通りすぎていった。
* * *
「うん。――いい風」
金色の眼をした女性が、アリーシアの特設暗躍部隊基地の訓練用敷地で、長い金髪を東からの風になびかせて言った。
女性の目の前では、二人ずつ十六組のペアになった計三十二人が、一回の休憩と二回の水分補給を経て、三回目の取っ組み合いをしていた。全員、額に汗を浮かべている。
「もうそろそろ昼食ね、――はい、適当に終わって」
女性が最高の高さで輝く太陽の位置を確かめ適当に号令を掛けて、ペアになった片方の白髪頭をした若者が無言で戦闘をやめて、すっ、と身をひく。その拍子にほとんどのペアで第一番隊の上等兵が勢い余って前につんのめった。
「お疲れさま」
女性が微笑んで言った。
びびー。びびー。
見計らったかのように、昼食の時間を示す、食堂集合の電子音が鳴った。
「午前は、終わり。その場解散でいいわ。午後は昨日みたいにちょっと武器を混ぜます。じゃ、また。――午後いつもの時間に集合体系でね」
「はっ!」
金髪女性の発言には、全員の半分の、十六人分の敬礼と反応のみが返ってきた。
彼らはその後、暗躍部隊の十六人と第一番隊の十六人に分かれて食堂に入り、分かれたままそれぞれ固まって着席した。
給仕から、トレーにのった栄養バランスの完璧な食事がそれぞれ配られ、三十二人中十六人がそれに対しての礼を言って、食べ始める。
上等兵の何人かは白髪頭の若者にコンタクトを図るが、清々しいほどさらりと無視されていた。上等兵は苦笑いして席に戻る。そしてひそひそと会話する。
「仕事≠ノならねえな」
「ああ」
「なんて報告≠キればいいのやら」
「まあ、俺らの方が……なあ?」
「こっちでやってる訓練でも押してるしな」
「確かに。あちら様は無言で必死?」
「ははは。ぬるいぬるい」
「しかも美人最高指揮官直伝」
「はは。部隊編成にも女いるしな」
「俺らが第一番隊でやらされてる訓練の方がきついもんな」
「ああ」
「特設暗躍部隊なんてこんなもんか」
「どこで暗躍≠オてるんだか」
「はは。所詮特設≠セしな。付け足し部隊≠チてことだ」
上等兵はそれぞれ、自分たちが優位であることを前提に、好き勝手喋っていた。
金髪女性とナタと共に、付き添いとして闇の森へ行き、そして彼女たちの盗賊退治という名目の暗躍′サ場を目撃した三人だけは、その会話を聞きながら、やはりひそひそ話で、
「……そんなぬるくない……よな?」
「ナタ≠ウんのあの時の、あの……」
「有り得ないよな」
「金髪金眼の最高指揮者もなんかやばいし……」
「あの方は……凄く恐いな」
「みんなまだ解んねえのかな……」
「なあ……何か、手、抜かれてる感じするよなあ……」
「俺らだけかなのなあ……」
三人は、黙々と機械的に食事をしている白髪の若者たちをしばらく注視して、
「はあー……」
なんとも言えない疲労に似た表情でため息をついた。
ナタは無表情で一際早く食べ終わり、無言でトレーを返却カウンターへ返すと、単独で自室のある宿舎へと向かった。
「はあー……」
先程のそれに似た、しかし一人分のため息。
ナタは自室に戻って内側からしっかり鍵を閉めると、ベッドに倒れこむように座った。スプリングが小さい音を立てて軋む。長い前髪を鬱陶しそうに掻きあげる――優しそうな目つきの、灰色の瞳が露わになった。
ナタのその顔には、明らかに変化が見られた。
表情が在る。無表情を演じ続けることへの、深い疲労感をありありと浮かべた表情。金髪の女性の前では、絶対にしない表情でもあった。
「ふう……」
先程のため息とはまた別の、改まったような息をついて、ナタは立ち上がり、ベッド脇にあるロッカーの扉を開けた。
開いた扉の裏側を、無言で、どこか懐かしいような深刻な表情で見つめる。
「…………」
そこには、一枚の色褪せた写真が貼ってあった。
一人の幼い少女の写真――白い髪の毛をして、かろうじて味付××食×≠ニだけ読み取れる何かの箱を両手で持って、草原にちょこんと腰を下ろしている。背景には、少女の体に比べ大きな何かの車輪と、ずっと遠くに建物らしきものが見えている。少女は灰色の大きな瞳で、にっこりと笑ってこちらを見ていた。
ナタはしばらく、もの悲しげにその少女と目と目を合わせていた。
時間の流れを忘れる。
時間の流れに反比例して、疲労感は薄れていった。
ふと顔を上げる。
「いけないっ……」
焦りつつも丁寧にロッカーの扉を閉めると、ナタは急ぎ足で部屋を出た。
廊下を歩いて出入り口の戸を開くと、訓練用敷地が視界に開けて、無言でじわじわと整列しつつある白髪の若者たちと、ごちゃごちゃと会話しながら集まっている第一番隊の上等兵が見えた。
ナタは、きっ、と一旦顔の筋肉を引き締めてから、無表情を作った。
どこを見ているか分からない視点の瞳を、更に長い前髪で隠した。
そして自分と同じような表情の若者たちに混ざる。左ブロックの、左端先頭に乱れなく整列した。
「午後もよろしくお願いします!」
何人かの上等兵に、似たような挨拶をされたが、無視した。
びびー。びびー。
午後の訓練開始の合図である電子音が鳴った。
二つの塔を携えた指令本部の扉がゆっくり開き、金髪を風になびかせた女性が優雅に歩いて出てきた。完成した集合体形を見据えて、金色の瞳を細め、にこりと微笑む。
向かって左のブロックに、反応は無い。一方、右のブロックで半ばみとれる上等兵の中で、三人だけが半ば怯えていた。
TUDUKU
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2005/09/25(Sun)17:24:42 公開 / 雪邑 ナキ
■この作品の著作権は雪邑 ナキさんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
またまたまた更新、遅くなりました……っ。ちょっとPCが……。読んでくださった方々、ほんとに有り難う御座いましたっ!!ちょっと進展しそうな、展開無きにしもあらずな、……とにかくやっとこちらに持ってまいりました、、!
○京雅さま 読んでくださって、本当にありがとうございますっ! あ、ほんとです。Xです。ああ……これ以上無いほど的確なアドバイスだと存じ上げます……まだまだ修行を要します……今回の更新ではそれを参考にして、(って言ってもいつも皆様の指摘を参考にさせていただいているのですが、)
背景の文章に凝ってみた……つもりなのです……!自分の頭の中だけで繰り広げられる情景を文章にするのってちょっと楽しいですね。とか言って分かりにくかったら本当にごめんなさい……!!
○甘木さま いつも読んでくださって、本当にありがとうございますっ!!と、見習いたいなんて言ってくれるなんて……読んでくれるだけでも嬉しいのに、もう歓喜の極みですよ!! そして。確かに……、そうです、、わたしだけ頭の中で物語を展開していても発信出来ませんもんね……ずばっと突いてくるアドバイスを参考に、気をつけますっ!全体的に欠点が多くて、ほんとに情けないです。ごめんなさい……これからも丁寧に書き進めていこうと思います!