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『くらやみの跳躍』 作者:明太子 / 未分類 未分類
全角5795.5文字
容量11591 bytes
原稿用紙約17.65枚


 飛んでけ。
 飛んでけ。
 秀人は夜の浜辺に一人佇んで、昼間は海があった方向を眺めながら念じる。空は分厚い雲に覆われていて星ひとつ見えない。もちろん雲だって実際に見えているわけではないが、それは雰囲気でわかるし圧迫感でわかるしある意味見えている。
 はじめは当然真っ暗だ。しばらくすれば目が慣れて周りが見えてくるようになるはず、と根気よく目を見開きながら、時折ゆっくりと視線を動かしたりしてじっと目が慣れるのを待つ。しかしなかなか暗闇はその正体を現さない。やがて、この場所はいつまで経っても真っ暗であることを理解する。理解した次の瞬間に身体じゅうの血が逆流し、顔が熱くなる。ここには本当の闇がある。
 闇の中で百メートル先を目測し、その一点だけを凝視すると、次の瞬間にはその場所にいる。また百メートル先を目測する。その場所にいる。そんな一人遊びを繰り返しているうちに、やがて自分がどこにいるのかわからなくなる。
 不意に紛れ込む理由なき邪念に従って目を瞑ってみる。まぶたの裏で火花が散った。これでは明るすぎる。暗闇を求めて再び目を開ける。するとせっかく気持ちよく飛んでいたのにまた元の浜辺に戻っている。飛ぶためには集中力が大切だ。
 しかし今度は先にも増して全神経が研ぎ澄まされているのがわかる。それはまるで、皮膚を形成する細胞ひとつひとつから長い長い糸が生えているかのような感覚。その無数にのぼる糸に引っ張られて、秀人は再び百メートル先へ向かって浮遊する。そこには痛みはおろか引っ張られるという感覚さえない。それは一本の糸が引っ張られると同時に、その裏側にある糸が同じ力で、同じベクトルで、彼の身体を押しているからだ。そうした数億本の糸の、文字通り一糸乱れぬ働きの先にあるものが“動く”ということなのではないかと彼は思う。
 歩く。走る。手を挙げる。シャドウボクシング。女を抱き寄せる。バイクに乗る。
 バイクに乗る。

「ヒデトオー」
 遠い声が彼を闇から隔離する。異国の呪文のように聞こえたその言葉が自分を呼んでいるのだと気づくまでにしばしの時間を要した。声がした方を振り向くと、闇の中で小さな光がぼんやり浮かびあがっていた。光を運んでいる人物の足元一点のみを照らしていたそれは、彼が振り向いたのが合図であったかのようにせわしなく円を描いたり水平移動したりしている。由佳が懐中電灯で自分の姿を捕らえようとしているのだろう、と秀人は思った。 
 だから彼は返事をしなかった。
 小さな灯りは道草を食うことなく、ほぼ一直線にこちらに近づいて大きくなってくる。彼は、自分から生えている数億本の糸のうち、由佳と結び付いている一本をつかんで手繰り寄せる動きを見せる。しかしその行動は誰にも見えない。伸ばした腕を肘から引く際に起こる衣擦れの音も波音にかき消される。
 秀人は見えない糸を手繰り寄せて由佳をひっぱりこむ。
 ひっぱりこむ。

 懐中電灯の光が自分の姿を捕らえようとする直前に、秀人はその動作をやめて慌てて海側へ向き直った。
「いた。見つけた」
 果たして由佳の声だった。秀人は慣れない革靴をはいた両足を前に投げ出し、両手を後ろについて海を眺めたまま微動だにしない。
「おーい、無視するなよ」
 由佳が秀人の肩を軽く押してから、彼はそこで初めて由佳に気づいたかのような反応を示した。
「なんだ、由佳か」
「うそつけ」
 彼女は笑いの混じった声で言った。
「よくここがわかったな」
「絶対ここだと思ったよ」
 ここは元々、由佳の弟である英司が中学生の頃に見つけて皆を連れてきた場所だった。岩場に囲まれた小さな砂浜で、夜になると視界の範囲内に船が全く通らない。漁火も見えない。月が隠れれば完全な闇に支配される場所だった。人を殴ることにしか興味を抱いていないと思っていた英司がこのような場所を好む、という事実が秀人にとっては衝撃だった。最初、子供には欠かせない秘密基地のようなものか、と秀人は英司の純粋さにどこか安心したような気持ちを抱いていたに過ぎなかったが、いつの間にか秀人自身がこの場所の虜になり、以後幾度となくこの場所を訪れていた。
「で? 何しに来た」
「『何しに来た』とかよく言うよね。秀人が急にいなくなるから、みんなに呼んでこいって言われたんだっての」
「『探してこい』じゃなくて『呼んでこい』?」
「たぶん居場所わかる、って先にあたしが言ったから」
 秀人は苦笑した。自然と大きな鼻息もひとつ漏れる。
「読まれとるなあ」
「トーゼンですよ」
 由佳はそう言いながら、制服が砂にまみれることも気にせぬ様子で彼の隣に腰を下ろした。親たちから与えられた当初の目的を果たす気はさらさらないらしい。彼は由佳のその行動に満足して何も言わなかった。
 彼女が点けっぱなしの懐中電灯を二人の間に置くと、凝縮された光が砂地にフリスビー大のステージをつくった。
「おい、懐中電灯消せよ」
 秀人は自分でそれを消す気はなかった。
「え? でも、真っ暗になってもあたしのこと襲わない?」
「あのな、もしお前が襲われるとしたら、こんな人気のない場所にノコノコやって来た時点でアウト」
「にゃはは、そりゃそうだね」
 由佳が懐中電灯のスイッチを切ると再び安息の闇が訪れた。

 風は気まぐれに、秀人のまぶたを裏返さんばかりに強く吹く。しかし波音と風音は闇の忠実な僕であり、決して沈黙を破っているわけではなかった。
 しばらくして、人心地ついたかのようなタイミングで由佳が口を開く。
「和人の……その……見た?」
「いや」
 秀人は、由佳が遺体のことを訊いているのだとすぐに気づいた。
「だよね。私も。そんなの見たくないよ」
 誕生日が来て、すぐに中免を取って、すぐに先輩から借りたバイクで二ケツして、すぐに事故った遺体なんて、想像できない姿に決まっていると秀人は確信していた。世の中には見なくていいものもある。
「親父とお袋の表情見たら、もう見る勇気がなくなった」
「だよね……親って大変だね」
 その発言が適切なのかどうかはともかく、疑う余地のない由佳の内面を推し量った秀人は何も指摘を入れなかった。
 由佳がとりとめもなく一つ溜息を漏らしたあと、浜辺は再び沈黙に包まれた。秀人にとっては、横に由佳がいて沈黙が保たれるこの空間が、一人の時にも増して心地よい。この空間はこのまま時間を止めてくれるはずだという信頼感さえ生まれる。
 不意に、押し寄せる波が今までのものよりも大きな音を立てた。二人の足元近くまで迫っていると感じて、秀人は伸ばしていた足を少しだけ引っ込めた。足は濡れなかった。
「ここにいたら、昔学校で聞いた話思い出しちゃった。ブラックホールの話」
 由佳が長い沈黙を破り、時が再び刻まれる。
「ん?」
「ブラックホールって、質量が小さくて引力がめちゃくちゃ大きい星の存在が原因なんだって。ってことはさ、地球と原理は変わんないじゃん」
「まあ……」
「だからね、ほら、こうやって、ぽんっ……て、跳んだら地球に戻されるでしょ。あたしは今ブラックホールに吸い込まれた」
「お前今たぶん立ち上がってジャンプしたんだろうと思うけど暗いから何も見えない」
「いいの見えなくても! 話聞いてよ!」
「聞いてるよ。でもその話オチねえべ」
「ねえよ。ねえべよ」
 ヤケクソな発言を残して由佳は再び砂地に腰を下ろした。
 彼女が何でもいいから話をして気を紛らせたいのだろうということは痛いほどわかったから、今度は俺が何か話題を作らなければならない、と秀人は焦りを感じる。しかし当然ながら話題は何も出てこない。
「じゃあさ、今動いたのは由佳か地球か、どっちだと思う?」
 彼は意に反して、昔出来の悪かったクラスメイトの由佳に勉強を教えていた頃の癖が出て、彼女に考えさせるような問いを出す。しかしそれでも一時の気の紛れにはなるだろう。彼女は彼女で、昔彼に勉強を教わっていた頃の癖が出て必死に答えを探そうとする。秀人にとっては、今ここで彼女が考え込む姿をこの目で見ることができないのが残念でならなかったが、その姿がすでに脳裏にしっかりと焼きついているのが救いだ。それを映し出すスクリーンは三六〇度無限に広がっている。
「え? あたし……じゃないの?」
 しばらくの黙考ののち、由佳はすぐに出るはずの答えを自信なさげに口にした。
「俺が由佳と全く同じように飛び跳ねたら、由佳は全く動いてない。地球が縦に動いてる」
「それ、秀人の目線だけの話でしょ」
「動きってのは主観なんだからそれでいいんだよ」
「シュカン……シュカンク」
 由佳は小さく呻くと再び黙り込んだ。秀人は眉を顰めて彼女を見やるが彼女の顔は当然見えない。一方で眉を顰めた秀人の表情も、誰からも見られることはない。その場はただ「シュカンク」の言葉の余韻が中空を彷徨うばかりだ。
 しばらくして彼女が動く音がする。うなだれていた頭を勢いよく振り上げた音だ。秀人にはよく見えた。
「……で、オチは?」
 由佳が挑むような口調で尋ねる。彼女の精一杯のカウンターパンチは、秀人にとっては肩叩きのように気持ちが良い。
「オチは、英司と和人が死んだのも同じってこと。俺らから見たらあいつらが消えたことになるけど、あいつらにしてみれば消えたのは俺たちのほうだ」
「うーん」
 いつもは秀人の屁理屈にも過剰に納得してしまう由佳が、珍しく彼の話に納得しない。今宵は平穏な夜ではないのだ。彼自身も自分の言葉に信頼を置いていない。英司と和人が自分たちの前から姿を消したのか、それとも二人の前から自分たちが姿を消したのか。このような完全なる闇に溶けていると、森羅万象に対する現実感が薄れ、思考回路から“常識”というテンプレートが消えてしまうので、あらゆる思索は真っ白の状態からスタートしなければならない。そんな長い旅路はごめんだと、秀人は自分の思考もそこで止める。
「でも」由佳が強い抗議の念をこめて口を開いた。「それじゃあ慰められないよ」
 秀人はその言葉にいたく傷つく。
「どうせ和人は帰ってこないんだよ。英司が無理やり誘わなきゃ……」
「おい、そういうことを言うな」
「だって!」
 そして由佳は突然声をあげ、秀人の肩に頭を埋めて泣き出した。彼女の肌の熱が伝わってくる。

 この温もりは要らない。

「……おかしいよ」
 秀人は思わず口にしてすぐに後悔する。しかし由佳は、気づかなかったのか聞こえぬふりをしたのか、そのまま秀人の胸で泣き続けていた。
 秀人と由佳は同級で、それぞれの弟である和人と英司は四つ下の同級。由佳と和人という組み合わせはどう考えても「おかしい」んだ。それを考える度に秀人は吐き気を催す。彼は吐き気を堪えながら、そっと彼女の頭に手をやって後ろに撫で付けてやった。しかし彼の手は彼女のうなじあたりで止まる。
 シルクのような手触りが、背中まで続くはずの手触りが、そこで途切れていた。通夜の場で視認したものの、頑なに拒んでいた現実が今再び、今度は彼の掌の触覚に訴える。
 由佳は秀人に身を預けたまま、肩を揺らせてまだ嗚咽している。秀人は身じろぎもできぬまま不思議な感覚に襲われていた。
 由佳が誰を好きなのかはともかく、弟を失った者同士、由佳に先に来たこの感情が秀人には未だ襲ってこない。未だ現実として目の前に現れない。襲ってくるのは一体いつになるだろう。まだまだ先のことになるような気がしていた。

 ひとしきり泣き続けると、由佳は元の彼女に戻る。
「……はあ、ちょっとスッキリした。秀人、ごめんね」
「ん」
 秀人は曖昧に返した。
 由佳はしばらくの間、おそらく目をゴシゴシとこすっているのだろう、断続的な短い摩擦音を立てていたが、しばらくしてから手探りで懐中電灯を探し当て、そのスイッチを入れて点灯した。
「もう戻ろう」
 由佳の声が高い位置から聞こえた。彼女はもう立ち上がっていた。
「その髪」
 秀人は座り込んだままその場を動こうとしなかい。
「にゃはは。切った。和人が好きって言ってくれてたんだけどね」
 由佳は元気なく笑う。腰まで伸びていた絹糸のような髪はもうない。
「俺も好きだったんだけどな」
「ねえ、もう行こ」
 由佳は秀人の呟きには返事をせず、彼にその場から離れるよう促した。無視されたことが秀人の癪に障る。
「いいわ。俺ここで寝る」
「え、ほんとに?」
「ああ」
 由佳は立ったままおそらくこちらを見ている。懐中電灯を自分に向けないのは彼女なりの気遣いなのだろう、と秀人は思った。
「……うん。じゃあそう言っとく。なんか気持ちわかるような気がする」
 由佳は秀人の気持ちを汲んだと言わんばかりのきっぱりとした口調で答えた。秀人は暗闇の中で自嘲的な笑みを禁じ得ない。
 彼女は何もわかっていない。

 おやすみ、と彼女は確かにそう言ったはずだが、言葉が風に飛ばされて秀人には幻聴との区別がつかなかった。一応立ち上がって、懐中電灯で自分の足元を照らしながら去っていく彼女を目で追い、残された秀人は本当にここで朝を迎える気になっていた。
 遠ざかる灯りが視界から消えるのを確認してから再び闇の一部に戻ると、秀人は不意になにか突拍子もない行動に出たい衝動に駆られた。しかし何も思いつかなかったので、とりあえず勢いよく跳ねてみる。
 地球が動く。
 跳ねてみる。
 闇が動く。

 二度目の着地の衝撃で嗚咽が漏れた。
 いつ襲ってくるのだろうと思っていた、あの感情なのかどうかはわからなかった。それどころか、誰に対するどんな感情を何にぶつけたらいいのか、何もかもわからない。
 彼は、すでに緩めてあった安物の黒いネクタイを外して、黒い上着も脱いだ。黒い革靴も黒い靴下も脱ぎ捨て、黒いスラックスを膝の上まで捲し上げると、昼間は海があった方向へと駆け出した。
 すでに闇の一部ではなく、闇と静寂の世界に抗うただの謀反者と化した彼は海に向かって走る。引き波に足をとられても、転倒しそうになるのを堪えて必死に前に進む。
 もはや彼は自由ではない。もう飛ぶこともできない。糸は全て切断された。一本残らず、全て。
 だからせめて念じる。
 さらってけ。
 さらってけ。



<了>
2005/07/16(Sat)02:17:42 公開 / 明太子
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■作者からのメッセージ
最近、期せずして“3作品集に1回”という超ハイペースで投稿させていただいている明太子と申します。
感想などいただけましたら嬉しいです。よろしくお願いします。
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