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『空に散る千の雫 一〜四』 作者:ゅぇ / ショート*2 未分類
全角25043.5文字
容量50087 bytes
原稿用紙約80.3枚
百人一首をベースにした短編集。
 



 ――壱――



 【秋霖寂夜】


 

 秋の長雨――秋霖とはよく云ったものだ、と思った。かれこれもう一週間以上も雨が続いている。九月も中旬を過ぎ、長かった大学の夏休みも終わりを迎えようとしていた。団地からふたつ公園を抜けて、バイト先へ向かういつもの道。
 「翔ちゃぁぁあん!!」
 どすっ、と背中に衝撃を感じて、俺は眉を吊り上げ振り返る。飛びついてきた相手の傘が無遠慮に雨雫をばらまいて、まだ半袖だった俺のTシャツを濡らした。
 「……っんだよ……なぁおい凛チャン。そうやって人を背後から襲うのはやめろって何回言ったら分かるわけ?」
 「ねえ、知ってる?」
 「――何を」
 彼女の話が唐突なのは、いつものことだった。自分の気分でひょいひょいと話題を変える小柄なお姫様に付き合うのにも、もう慣れてきたと自分では思う。
 「猫がいるの」
 「――どこに」
 「ほら、あれ。あそこ」
 何を指差すでもなく、凛は、あれあそこだよ、ほらぁ、と繰り返す。脈絡もなく“あれ取って”とのたまう中年の旦那みたいだ。これにも慣れた。
 「あれ、あそこじゃ分かんない。どこだって?」
 ぷぅ、と凛は白い頬を膨らませた。
 「翔ちゃんバイト行く途中でしょ?」
 また話題が変わった。いったいどこまでこの子は俺についてくるつもりなんだろう、と思いながら俺は何も言わない。ただ降り続く秋雨が鬱陶しい。
 文学部の友人は“この秋雨が日本の風物詩なのよ、これが風流なの。もののあはれってやつよ”とわけのわからないこと言っていたけれど、俺からしてみれば雨はただの雨。風物詩もクソもないもんだ、と思う。シャツは濡れるし、道は泥だらけで靴も汚れるし。
 「あたしも行こっかなぁ……」
 「はぁ? おまえいっぺん帰れよ、家」
 「ケーキセットおごってよ、ねぇ翔ちゃん」
 「……なんで俺が」
 翔ちゃんの作るケーキが食べたいのよぅ、と凛はぱっちりとした猫目で俺を見上げてくる。俺のバイト先というのは自宅から歩いて十分ほどのところにあるカフェで、凛はしばしばそこを訪れる常連客である。
 雨のせいで凛のセーラー服が濡れていて、何ともいえない微妙な感じで下着が透けているのが困る。ああもう、俺がいないときに男に襲われたらどうするんだ。決して贔屓ではなく、東村凛はそこらのアイドルよりずっと可愛い。絶対ストーカーの一人や二人、いると思う。
 「とにかくおまえ、家帰って着替えてきな? 透けてるよ」
 「――――やぁだ、翔ちゃんってばヘンタ〜イ♪」
 「はいはい」
 凛は終始この調子――もう変態と言われようがスケベと言われようが、動じない自信が俺にはある。
 「何でもいいから、着替えてきな。そしたらケーキセットおごってやるよ」
 風が吹いた拍子に、ぱたぱたっと傘から水滴が散って落ちた。
 俺や凛が住む団地から、少し公園をふたつ抜けて大通りに出る。角にガソリンスタンドのある交差点を渡り、左に歩けばすぐそこがカフェだった。
 曇天の空から雨は性懲りもなく落ち続けている。店先に敷かれたレンガが雨に濡れて、艶々と光っていた。
 「じゃあ約束よ、用意しといてね。モカナッツトルテ〜!!」
 叫びながら、凛が踵を返す。何だかんだとくだらないことを言いつつも、結局彼女はいつも俺の言うことを聞く。何を考えているのか分からない子だけれど、決して悪い子ではなかった。
 (猫の話はどこにいったんだっつの)
 結局彼女が何を言いたかったのか分からないまま、俺はからんからんと音をたてて店内へ入る。
 雨音はまだ続く――少しばかり雨が強いせいか、今日は客も少ない。店内をさりげなく見渡しても、近所の高校の制服を着た数人の女の子しか見当たらなかった。



 ※ ※ ※ ※ ※ ※


 「だからね、猫がいるの」
 ケーキを食べて満足した凛は一度帰宅し、俺がバイトから上がる夜十一時半に再び店先に姿を現した。
 危ないからやめろ、と常々言っているにも関わらずまるで聞かない。凛の家は母子家庭で、母親が夜の仕事をしているためにほぼ毎日凛はひとりだ。きっと寂しいのだろうと思うから、俺もそこまで厳しく来るなとは言えないのである。それに、バイトが終わって外に出たときに誰かが自分を待っていてくれるというのは、意外と気持ちのよいものでもあったから。
 「どこに」
 「公園に、よ」
 夕方だって素直に“公園”といえば良かったのに全くこいつは、と思う。公園と一言いえばすべて通じるのに、わざわざ“あれ、あそこ”などと意味不明な説明をするから厄介なのだ。
 いつもいつも、幼い頃からいっつもそう。
 「ね、ほら」
 通称「水の公園」と呼ばれて親しまれているその公園は、意外と大きい。たまに晴れた日などは、浮浪者が新聞紙の上で鼾をかいて寝ていることもあるが、雨続きの最近はそんな姿も見られなかった。
 木々や茂みも多く、それらがこの公園をちょっとした森のようにも見せている。
 「こっちよ」
 凛がどんどん進んでいく。迷ったり怖がったりする素振りを見せないところをみると、どうやら幾度か足を運んでいたのだろう。雨に濡れた落ち葉が、数少ない街灯に照らされて光っているのが目に留まった。
 俺が踏みしめると中途半端にくぐもった音が聞こえるが、凛がまるで跳ねるように歩いても足音ひとつしない。それが少しばかり儚くて、俺はふと切なくなった。
 いや、別に俺がそんな感傷に浸るようなことでもないのだけれど。単純に俺のほうが体重があるってだけの話だ。

 ――みゃ、みゃぁぁ。

 か細い声が聞こえた。
 「タマちゃん、寒かったでしょぉ」
 その段ボール箱は、茂みの奥深くに雨を逃れるようにして置かれていた。しとしとと降り続ける秋雨に濡れた箱には、舞い落ちた落ち葉や草葉がへばりついており、ひどくみすぼらしい。凛がそっと両手で抱き上げた仔猫は、濡れていた。
 額にくっついた雫を嫌がるかのように、仔猫はぱちりぱちりと瞬きをした。その動きにあわせて、雫が地に落ちる。
「三匹もいるのか」
 雨に濡れたからといってすぐに死んでしまうほどには小さくなかったが、やはり段ボール箱に放り込まれて濡れそぼった仔猫の姿は痛々しい。凛が抱き上げたのは、白と黒の斑である。
 凛に抱かれた斑の仔猫は、逆らうでもなく己を抱き上げた人間の顔をじっと見つめていた。不幸そうでもない、何も知らない純真な双眸が、なぜか凛の双眸と重なってみえた。
 「連れて帰ろうよ」
 
 ――俺は口を噤んだ。
 「ね?」
 「誰が育てる? 三匹連れて帰るのか?」
 凛が、不思議そうな顔で俺を見つめてくる。雨は少しばかり小降りになって、ダンボールの中では残った二匹の仔猫たちが、もぞもぞと動いて寝場所を探しているようだった。
 「三匹は無理よ……だからね、この斑の子」
 「連れて帰ってどうするんだよ」
 「どうするって、餌あげて……育てるの」
 何にも考えていない瞳だ。今、凛の頭には仔猫への同情しかない。現実をしっかり見つめきれていない――と思うのは、意地悪すぎるのだろうか。
 「いつまで?」
 「いつまでって、ずっとよ!」
 母親が夜通し働いても、凛の学費を払うことで精一杯である。一晩二晩ならば、凛の小遣いで猫の餌くらいは買えるだろう。けれど。
 「無理だよ、やめとけ。あんまり無責任なことをしないほうがいい」
 「……何よ、翔ちゃんなんでそんなこと言うの」
 安易な同情心で仔猫を拾って、結局死なせてしまった経験が俺にはある。
 この仔猫は、今哀れなのだ。今助けてやらなければならないのだ――凛の思うとおりにすればいい、と心のどこかで思うのに、何か大人ぶったことでも言いたいのだろうか。自分でもなぜこれほど頑なに凛の行為を認められないのか分からない。
 「おまえ、育てられるの? 金もないのに?」
 猫砂だって猫缶だって、ずっと飼い続ければ相当の金額になる。数日程度世話をして、あとでまたここに返せばいいかもしれないけれど、それは凛には絶対無理だ。必ず情が移る。
 「お小遣いが少しあるもの。この仔くらいなら……」
 「あとの二匹は見殺し? 見捨てるの?」
 どうにも意地悪なことを言ってるな、と我ながらそう思った。きっと自分の無責任で仔猫を死なせたことが、まだ心に残ってるのだ。俺と凛は違うはずなのに、ついつい自分と重ね合わせている。
 「もういいよ!」
 仔猫をダンボールの中に戻して、凛がこっちを睨みつけた。
 「……凛」
 「もういいわよ、翔ちゃんって冷たい!」
 あ、しまった。そう思ったときには遅かった。完璧に彼女が拗ねてしまったことが、俺を見上げる視線の色で窺える。
「おい、危な……」
 ああ、怒っている。ご立腹の凛が踵を返して走り出した。彼女が走り去るときにはやはり、濡れた落ち葉はほとんど音を立てなかった。


 



 秋の長雨――秋霖とはよく言ったものだ。凛を怒らせたその翌日も、雨はしとしとと降り続いていた。いつもならバイトに行く途中、必ず後ろから襲われるはず。けれど今日のバイトへの行き道は、ひどく平穏だった。翔ちゃん、という明るく喧しい声は聞こえなかった。
 「あ、翔くんだぁ」
 制服を着た女子生徒のグループが、店内に入る俺に声をかけてくる。凛と同じ学校の制服だ、と思いながら俺は笑い返して厨房に入った。今日はいつもより客が多い。
 「すみません」
 新しく入ってきた客にオーダーを取りに行こうとした俺に、声がかけられた。
 (……あ)
 週に三度。いつも決まった曜日に、決まった席に座っている若い女の人だ。
 年齢はいまいち推測できないけれど、もしかすると俺とあまり年は変わらないかもしれない。
 すみません、と俺を呼び止めた彼女の左手が、白く細くてひどく綺麗だった。彼女が頼んだ紅茶はまだ半分ほど残っている。よく冷えたグラスに、水滴が無数に輝いていた。
 「この紫陽花っていうの、どんなデザートなのかしら」
 彼女の綺麗な人差し指が、メニューを指差した。
 「紫陽花の色に似せたゼリーケーキですよ。こちらに写真が」
 彼女の視線が、ついとそちらに向けられる。伏せた睫毛が長く、まるで頬に影を落としそうだ。ひとしきりデザートの写真を見つめてから、彼女はふと雨のそぼふる外を見やり――そうしてから静かに紫陽花のゼリーケーキをオーダーした。
 「ここのケーキ、ほとんどあなたが作ってるんですってね」
 思いがけず声をかけられて驚く。品のいい言葉だったが、声色は意外と明朗だった。
 「え、はい。そうですが……」
 凛のためにしょっちゅうお菓子作りをしていたのが、だんだん趣味へと変化して。大学を卒業したら、製菓の専門へ行くのもいいかもしれないと思っていたりする。
 ここのケーキのほとんどを俺が作っているなんて、いったい誰から聞いたんだろう。いやまあおおかた店長か誰かが喋ったんだろうな、と思いつつ俺は若い女性を見つめた。
 「とても美味しいわ」
 ここのケーキを食べるのが楽しみなの、と彼女は静かに微笑んだ。
 「…………ありがとうございます!」
 思わず本気で喜んで――昨夜凛を怒らせてから微妙に澱が沈んだような心が、ふと浮き立つような気持ちがした。





 ※ ※ ※ ※ ※

 
 (よく降るな)
 バイトが終わって店を出ても、いつものように凛はいなかった。いつも凛がしゃがみこんでいる場所が、妙にぽっかりとした空間に見える。
 「………………」
 別に俺が間違ったことを言ったとは思わないけれど、しかしいつまでも凛を怒らせているわけにもいかないだろう。やっぱり俺が折れなきゃダメか。自分の作ったケーキが美味しいと褒められることが、意外と嬉しいことに俺は驚いている。そのせいで少し気分が明るくなっていた。
 昨夜凛を怒らせた罪悪感なのか、それとも凛に見捨てさせた仔猫への罪悪感なのか。帰り道の公園入り口で、俺は自分でも予想通りに足をとめた。昨夜からずっと、仔猫のことが気にかかっていたのは事実である。
 「…………」
 ダンボールの位置は、昨夜から変わっていなかった。相変わらず濡れそぼったまま、そして落ち葉をへばりつかせたまま、ダンボールはそこにあった。
 もしかしたら誰かが仔猫を連れて帰ったかもしれない――それならいい。けれどもし、雨で弱って冷たくなっていたら?
 (そしたら……間違いなく俺のせいだよな)
 ダンボールの中から、何の声も聞こえてこない。ひどく厭なほうへの覚悟を決めて、俺はおそるおそる箱の中を覗き込んだ。
 濡れそぼった毛むくじゃらのまんじゅうが、三つ重なり合っていた。ダンボールの上部が中途半端に仔猫たちの上に差し掛かっているせいで、完全に濡れているのは底に敷かれた毛布だけで済んでいるようだ。けれどその毛布に水分が染み渡って、おそらく仔猫たちの体温を奪っているに違いない。
 (……ったく、冷たいだろうに)
 とりあえずさしていた傘を差し掛ける。一番右端でまるくなっていた黒の仔猫が小さく身動きした。どうやら皆無事らしい。ひどくホッとした。
 雨音はひどく静かで、しかしすぐ傍の通りを走る車が水を跳ね飛ばしてゆく音だけは耳障りなほどに響いた。弱い雨は冷たかった。
 間断なく降り続ける秋雨が、俺のシャツの袖を濡らしていく。
 何が仔猫たちにとって幸せか分からないけれど、ここで震えて眠るのはつらいだろう。 きっと、冷たくてつらいだろう。
 「バカかもしれない、俺」
 呟きながら。自分のアホさ加減を痛感しながら、俺は一匹ずつ仔猫を抱き上げる。いつまで降り続くかもしれない秋雨のなかに、仔猫を置き去りにする気分。
 責任がどうとか、そういったことではなくて――ともかく仔猫を放っていけるような気分ではなかった。
 (……しゃあない。凛に謝るか)
 俺のバイト代と凛の小遣いで、きっと何とかなる。そう思った。あたたかい塊をみっつ両手に抱え込んで、俺はダンボールに差し掛けた傘もそのままに歩き出した。
 秋雨はまだ続きそうである。三匹の仔猫を抱えてドアホンを鳴らした俺をみて、東村凛は驚いてからとても嬉しそうに笑った。








    秋の田の  かりほの庵の  苫をあらみ


                      わが衣手は  露にぬれつつ



                                 《天智天皇》








  

  ――弐――


  【青空の夢】

 

 眼を開ければ、いつもそこには白い天井があった。
 寝返りをうてば、いつもそこには白い壁があった。
 閉塞感いっぱいのこの部屋は、あたしを憂鬱にさせる――もう、慣れてしまったけれど。
 「ぁ、もう検査終わったの?」
 梅雨はまだ明けていないらしい。それでなくとも病院、という決して朗らかでない場所。せめて空だけでも晴れていて欲しいのに、と思う。確かに病院の中は冷房がよく効いているけれども、やはり何となくじめじめしている厭な空気は拭えない。
 あたしがMRIの検査を終えて出てきた、その検査室の前の長椅子に一人の男の子が座っていた。初対面の人に、こんなにも馴れ馴れしく声をかけられたのは初めてである。何と返答していいか分からずに、あたしはただひとつ頷いた。
 「痛い? 俺初めてなんだよね、この検査」
 「……痛くないよ。寝てるだけだから」
 ふうん、と彼は何ともいえない生返事をする。容貌はとても綺麗に整っていて大人っぽいけれど、何だか実は女遊びとか激しそう。あたしと同じような病院のパジャマを着て、長椅子の上に足を投げ出している。場所柄なのか何なのか、それほど警戒心も抱くことはなかった。
 「名前なんて言うの?」
 「楢木茉梨子《ゆうき まりこ》……そっちは?」
 「俺? 今村晴己《いまむら はるき》」
 彼の声は、少し低くて柔らかい。同年代の入院者が少ないこの病棟で、同じ年頃の人に声をかけられたことにあたしは少しホッとしていた。
 「はるき?」
 「晴れる、に己」
 今村くん検査室入ってきて、と看護師の声が飛んでくる。彼はゆっくりと腰をあげ、あたしよりも上背のある身体でこちらをふと見下ろした。
 「何号室?」
 「え――710」
 「おっしゃ。暇なとき遊び行くヮ!」
 優しそうだけれども少しやんちゃな、そんな笑みを浮かべて彼は検査室へ入っていく。こんなところで女の子ナンパしてどうすんの、と看護師に怒られる声がドア越しに聞こえた。


 ――――――――――――――――――――

 
 高校のクラスメイトが、『しゅーくりーむ工房』のカスタードシュークリームをお見舞いに持ってきてくれた。そういえば彼は甘党だと言っていた、と思い出して、あたしは六個入りのシュークリームの箱を店のロゴが入った袋に入れて立ち上がる。立ち上がったついでに襲ってきた眩暈を抑えるようにして、あたしはしばらく立ちすくんだ。
 今日はいつもより少し眩暈がひどい。眩暈がしたり、吐き気がしたり。そんなときに自分の病気をつい思い出してしまうけれど、それでもあたしは負けたりしない。
 シュークリームの味だってちゃんと分かるもの。
 あたしの病室を出て、廊下をずっと右へ行くと連絡通路がある。ここ新館と本館の連絡通路で、今村晴己はその本館のほうの個室に入院しているのだ。
 リノリウムの床が無機質で、少し切ない気持ちにもなる。歩くたびに、シュークリームの袋がかさかさと賑やかな音をたてた。
 「あら、茉梨子ちゃん。今日は茉梨子ちゃんからお出かけ?」
 毎朝点滴を替えにきてくれる看護婦が、ナースステーションから声をかけてくる。今村晴己と出会ってからまだ一週間あまりしか経っていないけれど、いつも晴己が足繁くあたしの部屋に通ってくる。あたしからこうして出向くことは珍しい。
 「うん、シュークリームのお裾分け」
 「食べ過ぎちゃだめよ〜?」
 今日も外は曇り空。窓の外に遠く見える山々を意味もなく見遣ってみても、あたしが得るものなんて何もない。ただ高校に行っていれば、春には競歩であの山に登るんだのになぁと、そんなことを思うだけである。
 夏になれば、あの山の左手に見える海のほうで花火大会が行われるのだった。山と海に囲まれたこの地域は景観も美しく、自然環境に恵まれていると思う。花火大会の夜は、外出許可をとらなくても自分の病室から花火がよく見えた。今年も花火を見ることができるだろうか、なんて。考えては打ち消し、打ち消しては考えてみる。
 連絡通路を通って本館の自動扉から中に入ると、すぐそこに待合室。
 よぼよぼのおじいさんがぼんやりとテレビのワイドショーに視線を遣り、腹巻をくっつけたおじさんが鼻糞をほじりながらスポーツ新聞を読んでいる。巨人弱くなったな、という彼の独り言がやたらとでかく、それに反応した別のおじさんが不調の選手に対する文句をつらつらと言いはじめた。
 その待合室を横目に廊下を進み、お手洗いを過ぎて廊下突き当たり近くまで行くと、その右手が晴己の個室になっている。スライド式の扉を開けて中に入ると、小さく音楽が聴こえた。
 「お邪魔しまぁす」
 洋楽のヒップホップらしいけれど、あたしには何を言っているのかさっぱり分からない。意味もなくコンポのほうを一瞥すると、気を遣ってくれたのか晴己は無造作に音量を下げた。彼にも見舞い客が途絶えないのだろう。ベッドの脇にあるテーブルが、お見舞いの品で溢れかえっている。「男の子のための」雑誌が数冊。丁寧にラッピングされていると見えるのは、どうやら幾枚かのトランクスらしい。
 (いったいどんな付き合いしてんのよ)
 それから手作りのようなクッキーの包みと、栗羊羹と描かれた細長い箱がひとつ。
 「オハヨ。夕方になったらそっち行こうと思ってたのに」
 そういって、ソファを指差した。座りなよ、という意味であることは間違いない。あたしはそっとソファに腰をおろして、持ってきたシュークリームの袋をがさがさと開けた。
 「あのね、友達がお見舞いくれたの。シュークリームね、ここのが一番おいしいのよ」
 シュークリームは、駅前の『しゅーくりーむ工房』のに限る。ふと見上げると、彼が何かひどく真剣な顔でこちらを見つめていた。
 「…………どうしたの、晴己」
 出会ってそれほど時間が経っているわけでもないのに、何だか閉ざされた病院という箱の中で、同じ仲間を見つけたような安堵感がふたりの距離を驚くほどに縮めていた。
 話も合ったし、お互いのクラスメイトが持ってきた課題なんかもふたりで一緒に解いたりした。
 あたしは駅の北側に行ったところの私立高校の生徒。彼は駅の南側にある公立高校の生徒。
 話してみると共通の知人なんかもいたりして、話は毎日尽きることを知らなかった。だからまだ会って一週間といっても、ずっと前からの仲良しのような気さえする。晴己の趣味は音楽を聴くこと。好きなのはヒップホップとR&Bだと言った。あたしは邦楽ばっかり聞くわ、というと、今度洋楽のCD貸してあげるよと彼は笑った。
 お互い恋人がいないという話をすると、最後に晴己が少しだけ照れたような顔をして。――他から見たら今の俺たちが恋人同士みたいなもんだろ、と言った。
感じる。お互いが、傍にいるという事実を噛みしめているような感覚。わけもなく胸が鼓動をうって、あたしはもう一度彼の名を呼んだ。
 「どうしたの、晴己」
 「ん? いや、なんでもない。そこのシュークリームうまいよね」
 箱をあけてシュークリームを一個取り出し、紙にうまく包んで彼に差し出した。受け取る晴己の指は男のわりにほっそりとしていて、まるでピアノを弾くかのように綺麗だった。
 「いつ梅雨明けるんだろな」
 皮の中にたっぷりと詰め込まれたカスタードクリームが冷たい。とろりとしたクリームが、心地よく喉をおりていくのが分かる。
 晴己は驚くべき早食いでシュークリームをふたつ平らげてしまった。うまいよねと言うわりに、あまり味わっているようには見えない。
 「最近……湿度が高くって、しょっちゅう気持ち悪くなるんだよね」
 夕食時は本当に食欲が失せるし、朝は朝で頭痛が激しい。晴己もあたしとどうやら同じ悩みを抱えているらしい。
 あたしと晴己は同じ病気――――膠芽腫。あたしたちは、脳に悪性の腫瘍を飼っている。
 殺してやりたい憎い蟲。こんなものに、あたしたちは命を脅かされて。
 出会って惹かれたその人と、そんな厭な偶然。死にたくないと思う、同じ気持ち。
 「夏が来たら花火、見に行きてぇな〜……」
 けれどあたしたちは、絶対に病気の話をしない。
 「部屋から見れるじゃん?」
 「おまえ、病室から花火なんて見るもんじゃないってば。やっぱり外出て見るのがいいんだよ」
 窓の外を軽く指差しながら、晴己は持論を熱く語る。女の子はやっぱり浴衣だな。男ってのは浴衣姿に弱いんだよ、そうそう、すぐに脱がせられるし。
 (バカ)
 ちょっと胸がはだけてたりしたら最高だよな、そうだ茉梨子おまえ花火大会の日浴衣着ろよ、と晴己は実に楽しそうである。ホテルの浴衣じゃあるまいしそんな簡単に脱がせられないわよ、と内心思いながらあたしは彼の顔を見つめた。
 吐き気や頭痛がいつもよりひどい日は、よく思う。
 こうして笑っているその下に、彼はいったい何を抱えているんだろう、と。
 あたしが自分の部屋に帰ったあとで、一人きりになったとき晴己はいったい何を考えているんだろう、と。
 泣いたり、しないのだろうか。
 「あ、そうだ。俺、手術の日決まったよ」
 あたしたちは絶対に病気の話をしないはずで、だから――彼の言葉は、突然だった。





 ※ ※ ※ ※ ※

 
 最も悪性度の高い膠芽腫の五年生存率は、六%。
 
 あたしが受けた去年の摘出手術、成功したのは奇跡だといわれた。そのあたしでも、しょっちゅう癌が転移しているのに――いつ死ぬか分からないのに。


 ※ ※ ※ ※ ※

 

 化学治療の副作用であたしは体調を崩し――おそらく梅雨どきの湿気も悪く作用したのだろうと主治医は言ったけれど――体調を崩し、数日間寝込んだ。
 「茉梨子ちゃん、ごはん食べれる?」
 あたしの親は、仕事が忙しい。ほとんどお見舞いには来なかったし、だからといって祖父母や親戚が来てくれるわけでもなかった。
 クラスメイトは仲の良し悪し関係なく、ほとんどの子が来てくれたけれど。でもここ数日は家族以外面会謝絶、という状態が続いていて、友達とも会うことができない。家族も来ない。だから必然的に、あたしが顔を合わせるのは医師と看護師だけになった。
 「いらない。食べる気しない……」
 「ここんとこ、ずっと食べてないでしょう。少しくらいは食べなきゃだめよ。身体が弱っちゃったら、治療できなくなるよ?」
 外はずっと雨。誰もあたしの傍には、いてくれない。自然あたしの気持ちは深く沈んでいって、何かもうどうしようもなく鬱陶しくて。
 看護師があたしを黙って見つめた。素っ気ないクリーム色の丼に、真っ白なお粥が電気の灯りを反射して光っている。食べる気にもならない。何となく頭が痛くて、気持ち悪かった。いつも優しくしてくれる看護師すらも、ひどく邪魔な心持ちだった。
(こんなまずそうなの出すなんて、治る病気も治らないわよ)
 見るからにまずそう、とあたしは心の中で毒づいてみる。
 「茉梨子ちゃん」
 ほんの少しだけ、看護師の声が厳しくなった気がした。廊下のほうで、がらがらと食事を運ぶ台車の鈍い音が聞こえている。夜ごはんですよ、という明るい声が耳障りだった。 ふと、晴己はどうしてるんだろうと思った。
 「茉梨子ちゃん。本館の今村くん、昨日手術だったのよ。彼頑張ったのよ」
 (――――ぇ、もうそんな日だったの!?)
 いや、日にちは覚えていた。七月八日。
 けれど体調を崩して息も絶え絶えになっているところに、日にちや曜日の感覚などがあるはずもなく。今こうして看護師に言われるまで、すっかり失念していたのである。
 「手術は!? どうなったの!?」
 思わずあたしは目の前の夕食をはねのけるようにして、身を乗り出した。
 「詳しいことは分からないけど――」
 まだ若い看護師は、一瞬言葉を選んだように見えた。
 「詳しくは分からないけど、頑張ってるみたいよ。昨日の今日だからね」
 今すぐにも本館へ。今すぐにも晴己のところへ行きたいと思った。
 なぜだろう、同じ病気だという連帯意識だけではないような気がする。いろんな話をして、性格を知って、笑いあって、そうして芽生えていく自然な感情。それが何という感情か、なんて無意識のうちに自分で理解している。
 「会いたいんだけど」
 会いたい、と思う素直な気持ち。
 手術の翌日だから今日は無理よ、と少し焦ったように看護師があたしをなだめる。何でこんなにも会いたいと思うのか、理由は分かっている。恋してるからだけじゃない。あたしたちは、いつ死ぬか分からないからだ。まさかあたしが死ぬわけない――そう思っている頭の遠く隅っこで、いつ死んでもおかしくないんだと悟りきっている自分がいる。
 あたしも晴己もまだ十六年しか生きていないのに、何でこんなに死に怯えてるんだろう。
 「頑張って、少しだけでも食べな?」
 晴己の顔を思い出しながら、あたしは入院時に持ち込んでいる割り箸を手にとった。


 
 青い空を夢見る。
 

 いっぱいお洒落をして、青春を謳歌している自分を夢にみる。成績に一喜一憂することも、授業中に居眠りをして先生にこっぴどく叱られることも、友達と喧嘩してひどく落ち込むことも、どんな悩みもたいしたことなんてないと思う。
 生きたいのに死ぬかもしれない、そんな恐怖と比べれば。
 五年生存率がたった六%の病気と闘うことが、どれだけ苦しいかなんて医師や看護師にだって分かるわけがない。今その気持ちを共有できるのは、今村晴己だけだった。
 小学生のとき、文集に冗談で「平凡に長生きすることが夢です」って書いたことを最近よく思い出すのだ。まさかあれが、本当の夢になるなんて思ってもいなかった。夢見るまでもなく、平凡に長生きするってことはあたしの中では当たり前だったから。
 たまに病院の売店に下りたとき、小児科の子供たちが友達同士で「死ね」と叫びあって笑っているのを見る。ああ、死ぬことの本当の怖ろしさを知らないからいえるんだ――今のあたしには、分かる。
 「………………晴己?」
 恋に落ちたと自覚した瞬間に、相手に恋人がいると知ったような感じに似ている。恋した瞬間に失恋するっていう、アレ。あれに似ている。
 トイレに行くついでにこっそり本館へ行ったあたしの瞳が、晴己の姿を映すことはなかった。
 ついこの間まで彼が寝ていたはずのベッドには誰もいなくて、病室はがらんと片付けられていた。誰かがそこにいた形跡が、まるで消えていた。ベッドは綺麗に整えられていて皺ひとつなく、その右手にあるテーブルの上にはもう何もない。お見舞いの品で溢れていたはずなのに、もう何もない。
 「晴己…………」
 電気も点いておらず、夕暮れの曇り空のために部屋は薄暗かった。ぺたり、と座り込んでみる。冷房はあまり効いていなかった。一瞬からだの中が沸騰したかのようにひどく熱くなって、それからすうっ、と寒くなった。鳥肌だっている。
 「ま、茉梨子ちゃん!?」
 廊下から声が聞こえた。看護師が開け放された扉の外から、あたしの姿を認めたのだろう。柔らかな足音をたてて、看護師のあたたかい手があたしの肩をゆさぶる。
 「茉梨子ちゃん……」
 「晴己は? 手術成功したんじゃなかったの?」
 看護師が眼を逸らしたときに、あたしは全てを悟ってしまった。



 

 『マジで好きだ〜! 退院したら付き合ってください!(笑) 手術頑張るぞー!』


 


 手術の前の日。
 お互い体調が思わしくなくて会えない中で、晴己が看護師に託したのだという。ルーズリーフを破った適当なやつで、ボールペンで書いた文字も汚かった。あ、両思いだったんだ――そう思ったときには、遅かった。





 ※ ※ ※ ※ ※


 今村晴己が手術後に肺炎を起こして死んだのは七月十日のことだった。彼と仲の良かった楢木茉梨子は、看護師たちが心配したほど動揺した様子もなかったが、彼女もまた晴己が死んだ数日後に容態が急変した。
 去年の秋に行った、腫瘍摘出の手術は一応の成功をおさめている。しかし脳という限られた狭い場所の中で、腫瘍のすべてを摘出することはできなかった。化学治療の副作用は、十六歳の細い身体をずいぶん前から蝕んでいたのだろう。そして、脳にできた癌細胞は全身に転移しはじめていた。
 容態急変を知って駆けつけた医師と看護師たちは、彼女が握り締めていた紙切れが床にひらりと落ちるのをその眼で見た。



 七月二十日、今村晴己のあとを追うように楢木茉梨子が死んだ。その日梅雨明けが発表され――――ずっと続いていた曇り空が消えた。彼女が息をしなくなったその日、待ち望んでいた夏が訪れた。



 ――夏が来たら、一緒に花火見に行きたいなぁ……。

 



  空が青い。






     春すぎて  夏来にけらし  白妙の  


                     衣ほすてふ  天の香具山


                                  《持統天皇》






 



 ――参――


  【月夜】

 

 ――おまえのこと、愛してるから。

 
 彼の声が脳裏に蘇った瞬間、わたしはハッとして傍らの男の腕をはねのけた。ひと呼吸おいて、ふと遮光カーテンをあけて窓の外をみあげると、くっきりと輝く満月が浮かんでいる。
 「…………」
 男は眠っていた。乱れたベッドを一瞥してみたものの、何か妙な罪悪感に襲われてわたしはすぐに眼を背ける。駅前のちょっと小洒落たラブホテル――体だけの関係は、確かに楽だった。もう一年半も連絡のない彼を、恋人と信じて待つにはわたしは少し歳をとりすぎた。彼の知らないところで、男友達と体だけの契約を結ぶことなんて造作ない。まだ二十五歳とはいえ、恋愛に対する幻想はよほど薄れてきている。道徳心なんて――わたしにはないのかもしれない。

 
 ――おまえのこと、愛してるから。だから待ってて。

 
 (……まただわ)
 渇いた唇を、冷蔵庫の烏龍茶で少しばかり湿らせる。男の枕元に乱雑に置かれていたタバコとライターを見て、思わずそのライターですべてを燃やし尽くしてしまいたい思いに駆られた。
 普段から思い出すまいと努力しているだけに、一度思い出してしまうともう止まらない。彼の言葉が、彼の声色が頭の中をぐるぐるとめぐり、わたしをどうしようもない憂いの渦へと巻き込んでゆく。そうして、思い出してしまうと苛々して落ち着かなくなるのがわたしの常なのだった。
 「ねえ」
 渇いた声で、惰眠を貪る傍らの男を起こす。
 「わたし、帰るわ」
 「…………帰る? 泊まらないの?」
 枕元の腕時計を見た男が、だるそうな声でわたしを見上げた。ぞくり、と鳥肌たつ。なぜだろう――彼のことを思い出した直後は、いつもこんな感覚に襲われる。これがもしかすると罪悪感なのか。
 時計はすでに夜中の2時を指していた。
 「面倒だからもう泊まってこうぜ」
 わたしは黙って《お帰り》と書かれたボタンを押す。料金を問い合わせる機械の声が、ひどく耳障りだった――そういえば、彼とこういう場所に来たことはなかった。今思うと、わたしの知らないところできっとこつこつ貯金でもしていたのだろう。
 「ったく……何でそんな気まぐれなんだよ」
 舌打ちをしながら男がベッドから立ち上がり、ベルトの音を響かせてズボンを穿く。その光景を一瞥して、わたしはヴィトンの財布から1万円札と千円札をそれぞれ1枚ずつ取り出し、機械の口に突っ込んだ。中途半端な音量で流れる有線にもまた、妙な嫌悪感が募った。
 部屋を出て、1階まで降りるエレベーターの中は静まり返っている。男は勘弁してくれとでも言いたげな双眸で壁にもたれかかっていた。この沈黙の中で感じる痛いほどの虚脱感。募る虚しさ。どうしてわたしはこんなことをしているんだろう。あの人がいれば、他の男の温もりなんて欠片もいらないと思っていたのに。
 わたしのような女が高校の教師をしていると知ったら、世間の人々はいったいどう思うことだろう……。自嘲気味に唇を歪めてみる。

 


 *

 
 
 「またイラクでテロがあったそうですよ」
 「最近どこもかしこも危ないね」
 わたしは古典の教科書をめくる手を止めた。傍の机で、社会科の教員同士がコーヒーカップを手にしたまま話し込んでいる。正義正義といいながら、あんなものは己が一番偉いと勘違いした人間たちのひとりよがりだ。
 テロをするほうもするほうだし、それに武力で対抗するほうもするほうだとわたしはぼんやり思う。
 「自衛隊はともかく――現地の日本人は無事でいられるんですかねぇ」
 「ま、でもこの状況であんなところに行くくらいなら、よほどの覚悟があるんだろ」
 「それか日本に未練がないとかね」
 (未練がない…………か)
 そうかもしれない。恋人に黙って貯金して、一言の相談もなしに遠い異国の地へ旅立ってしまったあの人。日本にも、わたしにも、何の未練もなかったのかもしれない。
 「センセ。白石センセ?」
 クラス委員を務める女生徒が、怪訝そうな顔をしてこちらを覗きこんでいた。ああ、と頷いてわたしは姿勢をただす。机の右端に積み重ねていたHRクラスの古典科ノートを彼女に託し、『白石美彩子:国語科』と書かれたネームプレートを机上に出した。
 毎日変わらない仕草、日課、仕事。真夜中に帰宅してから、結局一睡もしていないせいでわずかに頭が重い。
 とりあえず試験に通って、とりあえず教員になってみたものの、この仕事に何を感じるわけでもなかった。生徒と過ごすことは楽しかったけれど――教員同士の些細ないがみ合いや派閥争い、保護者や地域住民の理不尽なクレームばかりを目の当たりにしていると、気が滅入る。
 それでも彼が日本にいた頃は良かった。彼が、メールや電話でわたしの愚痴を聞いていてくれたから。けれど山国悠人――彼は、一年半前に戦渦中のイラクへ行ってしまった。あれから、わたしはニュースを見るのが嫌になった。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 
 イラクでのボランティアのために、必死で貯金していたのだと彼は言った。向こうからわたしに電話をかけてこないわけも、滅多にデートしないわけも、そのとき分かった。唯一の救いは、他の女のための貯金ではなかったことかもしれない。
 「俺、マスコミとかの言うことだけに左右されたくないんだ」
 彼の祖母の親友は、原爆で死んだのだという。広島出身の祖母や祖父から話を聞くたびに、彼は戦争というものについて深く考えるようになったらしい。
 「アメリカ側からの視点だけで、ものごとを見るのは嫌なんだ。俺、自分の眼で確認したいんだよ」
 出会ったときから、悠人はアメリカを好ましく思っていないようだった。近所のハンバーガーショップで一番安いハンバーガーを頬張りながら、こんなものを食べておいてアメリカ嫌いっていうのも子供じみてて嫌なんだけどさ、と彼が苦笑していたのをわたしはよく覚えている。けれどそんな自分の子供じみたところをよく自覚しているところが大人だと、わたしは思った。
 「戦争は駄目だとか、可哀想だとか言うだけの人間に俺はなりたくない」
 イラク行きをわたしに告げた日、彼はそうはっきりと言ったのだった。あなたひとりが頑張ったって、何も変わらない――そう言いたい言葉をわたしはぐっと飲み込んだ。
 「戦争なんかで死ぬ人は、ひとりでも少ないほうがいいに決まってる。そうだろ?」
 何も変わらない、と叫びたいのは、彼がわたしの恋人だからだ。彼を行かせたくないからだ。人が己の人生を賭けてものごとに打ち込んだとき、そこでは必ず何かが変わる。たとえどんなに些細なことでも。
 「…………危ないわ」
 それでもそう言うのが精一杯だった。小綺麗にまとめてあるわたしの部屋、ふたりで撮った写真を入れてある写真立ての前で申し訳なさそうに微笑む悠人の表情が、痛かった。 彼の双眸は、申し訳なさそうな色を湛えながらも揺るがない。どんなに危なくても俺は行くよ、とその眼が語っていた。
 「何も変わらないかもしれない。でもひとりくらいなら、もしかしたら俺でも力になれるかもしれない。理不尽な死に方をするのを、防げるかもしれないじゃん」
 「そんなこと言って――そんなこと言って、悠人が死んだらどうするわけ? それこそ理不尽な死に方じゃないの!?」
 「俺、もしそれで死んでも理不尽だとは思わないよ。自己満足かもしれないけど、悪いことじゃないと思う」
 自己満足? 嘘だ、あなたのそれは自己中だ。わたしは唇を噛みしめる。あなたはそれでいいかもしれないけれど。あなたに助けられたイラク人はそれでいいかもしれないけれど。じゃあわたしは? あなたの両親は? 残された人間はどうなるの。
 「ごめんな、ミサ」
 彼は泣き喚いて止められるような男ではなかったし、私も泣き喚いて止めるような女ではなかった。
 残されたわたしたちはつらいけれど、彼の人生は彼が決めるものだから。そんな大人ぶったことを必死で思いながら、わたしはただ黙って涙をこらえるだけだった。
 「おまえのこと愛してるから。だから待ってて」

 
 あれから一年半、彼からの連絡はないままだ。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 
 わたしの担任クラスは、高校3年2組である。夕方の個別進路指導で、ひとりの男子生徒がわたしの顔色を窺うようにして言った。
 「俺、大学行かないで働いて、ボランティアとかしたい」
 思わず言葉に詰まった――あんたたちの人生なんだから、あんたたちが好きな道を行きなさい――いつもそう言っていたわたし。教師としてそう言わざるを得なかったし、わたしにとって生徒たちは悠人ほど大きな存在でもなかったから。
 けれどその男子生徒が、おそらく悩んで悩んで悩みぬいた結果であろう自分の夢を言葉にしたとき、思わずわたしは不安になった。これが老人ホームとかそういった次元の話ならいいのだけれど、もしも悠人のように外国へ行くと言い出したら。
 「……ボランティアって?」
 「ちょっと前に本読んでさ、それでボランティアのほうに行きたいと思って」
 「どんな本?」
 生徒たちは、こちらの質問に的確に答えることはあまりない。最初は、このガキどもはいったい耳で何を聞いてるんだと苛々したものだが、もうそれにも慣れた。教師は体力と忍耐だと思う。
 「ん〜、何かイラクの本。イラクでボランティアしてる日本人が書いたやつ」
 頭の奥が、ずきりと痛んだ。
 寝ていないせいか、それともイラクという固有名詞を聞きたくないと身体が無意識に拒否反応でも示しているのか。とりあえず、動揺を抑えてへぇ、と返事を返す。普段から遊び惚けていて成績も悪く、いったい何を考えているのか見当もつかなかったその生徒は、シャツのボタンを三つほど開けた少々だらしない格好で椅子に座っている。その彼が、自分の口でしっかりと夢を語ったことに、わたしは軽い驚きを覚えていた。
 わたしが頭ごなしに否定しなかったせいか、彼は幾分饒舌になった。
 「な、ちょっとカッコいいこと言ってみていい?」
 「何?」
 どうしても言いたそうな顔をしている――その表情が純粋だ。
 「“戦争は駄目だとか、可哀想だとか言うだけの人間に俺はなりたくない”」
 男子生徒の進路のことなど、その瞬間に頭から吹っ飛んだ。高校の教師から、わたしは白石美彩子というひとりの女に戻っていた。顔色が、もしかすると変わっていたかもしれない。
 「……それ、何ていう本なの!」
 「え? あー……何だっけ。祈り、とか何とか」
 本なんか書いてる暇があったら、わたしに連絡のひとつも寄越せ。ひっぱたいてやりたい思いに駆られたが、不思議と恨む気持ちは湧き起こってはこなかった。その後の進路指導で、自分が何を喋ったのかわたしは覚えていない。

 











 “戦争は駄目だとか、可哀想だとか言うだけの人間に、俺はなりたくない”

     

            『祈り――Misa――』

 


 僕は、戦争というものをこの眼で見た。
 戦争が憎悪を生む瞬間も、僕はこの眼で見た。
 平和な国に住んでいる人々は、憎悪してはいけないと説くかもしれない。
 けれど大切な人を奪われた人々は、憎悪することでしか悲しみを紛らわせない。
 僕たちにはまるで理解できない感情が、ここにはあった。

 
 きっと僕も、大切な人を奪われたなら、憎むだろう。
 きっと僕も、大切な人を奪われたなら、怒るだろう。

 
 僕には大切な人がいる。
 僕がイラクに行くと知ったとき、彼女は黙ってただ泣いた。
 申し訳なくて、申し訳なくて、そして僕もまた寂しくて、
 思わずイラクへ行くのをやめようと思ったけれど、
 それではいつか必ず後悔すると思った。
 何て我侭な人間だろうと思ったけれど、それでも彼女なら分かってくれると
 そう信じた。

 
 今、彼女は何をしているだろう。
 今、彼女は何を想っているだろう。
 そんなことを考えながら、僕は今日も血を流す人々の姿を見る。

 
 首から上が吹き飛んでしまった赤ん坊がいた。もしも彼が生きていれば、いったいどんな人生を歩んだだろう。
 手足を失った少女がいた。もしも彼女が手足を失ったりしなければ、いったいどんな人生を歩んだだろう。義手義足のその少女は、わたし陸上選手になりたいの、と眼を輝かせた。
 孫を空爆で失った老人がいた。もしも孫を殺されていなければ、彼はいったいどんな老後を楽しんだだろう。
 婚約者をテロで失った青年がいた。もしも婚約者を殺されていなければ、彼はいったいどんな結婚生活を送っただろう。

 
 眼を失った少女。腕を失った少年。恋人を失った女性。妻を失った中年の男性。子どもを失った若い夫婦。未来を失った無数の若者たち。命を失った無数の人間たち。

 
 僕は知った。戦争は、失うことだらけだ。得るものなんて、ひとつもない。
 僕は知った。綺麗ごとだけ並べていても幸せにはなれない。けれど綺麗ごとを口にするからこそ、前に進めることもある。
 僕は知った。失うことの恐怖を目の当たりにすればするほど、愛しい人の存在がますます大きくなることを。

 
 僕にはまだすることがある。
 僕にはまだ見るべきものがある。
 僕にはまだできることがある。
 だから僕は祈りながら生きる。
 彼女が、僕の帰りを待っていてくれますように――。

 


 ――Misa I love You――

 





 * * * * *



 結局のところ、わたしはやはり彼を愛しているのだろう。彼はわたしを忘れていなかった、それだけでこんなにも安堵している現実。
 《ミサ》
 彼がわたしを呼ぶ、あの声を思い出す。ぐずぐずしていた心が、少しだけ晴れた。彼の心にちゃんとわたしがいるのなら、彼の人生をおとなしく受け入れてもいいかもしれない。
 寂しさは、まだ消えない。遠い遠い異国の地は、いろんな意味で遠すぎる。わたしが太陽を見ている時間に、彼は月を見ているのかもしれない。わたしが生徒たちと談笑しているときに、彼は生命の危険にさらされているのかもしれない。それを思うと、わたしと彼の距離はあまりにも遠すぎる。けれどあの本のタイトルは、わたしの揺らぎを確実に止めた。
 『Misa』。
 たったあの4文字で、再び彼は見事にわたしを絡めとってしまった。ずっと伏せていた写真立てを、わたしはしばらくぶりに起こす。少しお茶目な顔つきの山国悠人が、笑顔でわたしを見つめた。
 今日もわたしは独りで眠る。遠いけれど、心は近いと信じる。
 今日もわたしは独りで眠る。遠いけれど、同じ空の下に生きているのだと信じる。
 
 

 二度目にあの男子生徒が進路相談に来たとき、わたしは掻き集めたイラク関係の資料を彼に渡した。死なない程度に頑張りな、と言うと、彼は思いがけないほど純粋な笑顔を浮かべた――悠人とよく似た、爽やかな笑みだった。






      あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の 

                 
                      ながながし夜を ひとりかも寝む

                                 
                                 《柿本人麻呂》

 





  ――四――


  【冬は凛々】

 

 ――ぁぁあん。
 (……誰だよ、あんなエロい声出してるの)

 ――ぁ、ぁあぁん。
 (何なんだよ、ヤるなら静かにやれや……)

 ――くぁぁぅ。
 (……ん?)

 ――きゃぁぁぁっ!
 (凛!?)

 がばり、と俺は起き上がった。




 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 
 髪の毛は肩にかかる程度だった。人間の耳らしきものは見えず、そのかわりに髪の中から覗く猫耳がぴょこん、ぴょこんと動いていた。くるりとした双眸は少しばかりつりあがっていて、これこそまさに猫目なのだと思われる。肌の色は、俺の隣に座る東村凛に勝るとも劣らぬ白さだった。猫耳が生えていることと、あとひとつどうしたって見落とすことのできない事実――少女の臀部あたりから偽物とも本物ともつかない尻尾がひょろりと飛び出ていることをのぞけば、彼女は確かにひどく可愛らしい容貌をしている。
 「……これって、あれじゃないの? 萌えっていうんじゃないの?」
 萌え――萌え。コスプレ。オタク? ショートしかけた頭の中で、なぜ凛はこうもけろりとしているのだろうと不思議に思った。さっきまでは幽霊が出た、猫が化けた、ときゃあきゃあ泣き叫んで俺にしがみついてきたくせに、今彼女の双眸を見てみるとどうしたことだろう。きらきらと輝いている。
 「ねえ翔ちゃんてば。萌えるんでしょ?」
 萌えるより何より先に、俺は何が起こったのかを知りたい。何の理由もなくこんな生き物が現実世界に現れるなんて、萌えを通り越して怖い。女の適応能力は、もしかすると思っていたよりも凄いのかもしれないと俺は思った。それとも単にこの東村凛の神経がおかしいだけなのかもしれなかったけれど。
 今日は凛の母親がいないから、ということで俺が泊まりにきていたのである。そりゃあ彼女と同じ部屋で寝るわけにもいかないので、用心棒よろしく階下のリビングにおいてあるソファでうたた寝をしていた俺。
 夜中の悲鳴で起こされた挙句、こんな不可解なものを見せられるなんていったいどうしたことだろう。
 「いやおまえ、萌えるっていうかさ…………」
 少女が、きょとんとした瞳で俺のことを見上げていた。不審がっているとか、不安そうにしているとか、まるでそんな色の見えない瞳であった。俺のことをよく知っているかのような、きらきらとした美しい瞳。
 「あの、君――どこから……」
 「んにゃぁぁ」
 右手をあげて耳の後ろを掻く仕草が、猫以外のなにものでもない。真っ白の猫耳と真っ白の尻尾。
 あなたのことを知っています、あなたのことを信用しています、とでも言いたげな純粋な双眸が、俺には痛い。そしてその少女の横に、ついこの秋拾ってきた仔猫がちょこんちょこんと並んで座っているのだった。ぶちが一匹、虎が一匹――まるで兄妹か何かのように少女の横に座り込んでいる。
 そこで俺はふと重大な事実に気がついた。
 「……………………凛」
 「何?」
 何でこの子はこんなにも平然としているんだろうと思いながら、訊ねる。
 「おまえ、ほら。シロは? あいつどこいった?」
 この時点で、途切れていた俺の思考回路は繋がりはじめる。秋に拾った仔猫は三匹。でも目の前にはひとりの猫耳少女と、二匹の仔猫。猫のかたちをした生き物が、一匹足りない。真っ白の毛並みの仔猫シロがいない――そのかわりにお行儀よく座っている白い猫耳と尻尾の少女。まさかまさか、と思う気持ちよりも強く、確信が生まれる。
 「だから、シロが化けたのよきっと」
 凛が勝ち誇ったような顔つきで、少女を指差した。嬉しそうな顔をしている凛が、今は未知の生き物にみえた。化けた、という言い方が正しいのか見当はつかなかったが、確かに目の前の少女が「シロ」だと考えるのが一番妥当だと思われた。
 きっと俺は今、世界一の愚か者に違いない。猫が猫耳少女になって現れるなんて有り得ないに決まっているのに、俺はどこかでこの女の子が猫だと思っている。友達にこんな話をしたら、俺は一生頭のおかしくなって変態として語り継がれて――きっと友達も消えてゆくに違いない。
 「…………シロ?」
 それでも俺はバカのように純粋に、目の前の少女に呼びかけてみる。
 「にゃぅ」
 彼女がぺろりと舌を出して、唇のまわりをひと舐めした。どう考えても、人間が普段するような仕草ではなかった。俺は思う。ああ、きっとこれは夢なんだ。そう、きっとこれは夢に違いないんだ――……。




 
 三度もバイト先で皿を割って、散々心配されて帰ってきた俺を猫耳の彼女は笑顔で出迎えた。凛の家にはもう母親が帰っているので、さすがに東村家には居られなくなったのだろう。
 “シロのことよろしくね。いくら萌えても手を出しちゃだめだよん(≧∀≦)♪凛♪”
 そんな凛からの置手紙と、猫缶が三つ丁寧にテーブル上に並べられてあった。たとえば小説だとか漫画だとかで猫耳少女が出てきたとき、主人公が意外にすんなり適応してしまうことに俺は多大なる疑問を抱いていたものである。おまえそんなことがあるか、と半ば心の中で嘲笑していたし、だいたい猫耳とかそういった類のものに俺はそれほど興味がなかったし。
 だが今のこの状況――少し面食らいながらも、ごく普通にシロに対してただいまと言っている自分に驚愕する。見事に適応しているといって間違いなかった。
 「おまえ猫缶食うの?」
 「にゃ〜ぁぁ」
 ぷいっ、と彼女は顔を背けた。シロは勝手気儘な雌猫である。二日続けて同じ猫缶は食べなかったし、一緒に暮らすもう二匹の猫たちと同じ場所で寝ることを嫌った。不思議な猫だった。顔を背ける気儘な様子が、彼女=シロだということを証明しているような気がする。
 開けかけた猫缶を置いて、俺は冷蔵庫を漁った。明日はバイトが休みだから、ゆっくり夕食に食べよう――そう思って今日買った刺身の盛り合わせ。チルドルームに入っていたそれを真っ先にシロのディナーとして考えたわけだが、さすがに千円はたいて買ったそれを猫にやるとなると尻込みする。少し考えて俺は刺身のパックをチルドルームに戻す。刺身はやめて、もっと他のものを探そう。そう思ってチルドルームを閉めた瞬間、服の裾を引っ張られた。
 まさかと思ってふりむくと、そこにシロが満面の笑顔で立っていた。
 ああ、猫って生き物は――本当に侮れないものだ。いつもは四つ足で歩いているから色々と不便不満があるに違いない。人間の姿をとれたのをいいことに散々俺に何か要求してくるんではなかろうか。
 「……………………」
 ぴくぴく、とシロの鼻がうごいた。面倒だから刺身パックをそのまま彼女の前にあけてやると、俺が食べていた親子丼の器を指差してぷいと顔を背けるのである。そんな適当な食事の出し方はするな、といいたいのか。戸棚から食器を出し、醤油とわさびはゴミ箱に捨てて刺身だけ器に移す。それをテーブルの上に出してやると、何ともいえない純粋な笑みを浮かべて俺のことを見て啼いた。
 彼女は幼児のような手つきでもって箸で刺身を突き刺し、無論醤油もわさびもないまま美味そうにそれを平らげた。俺の刺身を、見事に全部平らげた。俺に少しでも分けてやろうとか、そういう気遣いは皆無だった。




 ――――――――

 
 シロは、俺の一番お気に入りの仔猫だった。気儘で喧嘩っぱやいところが好きだった。人間に媚を売らないようなその風情も、気品のある真っ白な毛並みも、何だか穢れていないようで好ましかった。凛の家から自宅へ帰ろうとするとき、俺はいつも凛にバイバイと手をふる。それを凛と一緒にいつも見送っているのは、シロだけだった。あとの二匹は、いつでもソファの上でまるくなってぐうぐうと眠りこけているのだった。
 俺の姿越しに外を見つめるシロの視線は、もしかすると外界への憧れだったのかもしれない。


 ――――――――


 「ん〜……っていうかね、窮屈なの」
 俺のバイト先はカフェである。週に三度。いつも決まった曜日に、決まった席に座っている若い女性がいる――いつだったか彼女と大学構内で思いもかけず出会ってから、よく喋るようになった。まさか同じ大学だとは思っていなかった。落ち着いた美人だからもっと年上なのかもしれないと思っていたら、意外にもたったふたつ上の院生であった。
 彼女は、結婚していた。
 「結婚生活が?」
 学部は違ったが、お互い時間があるときはこうして大学内のカフェテリアで話をする。住んでいるところもやはり意外と近かった。
 「そう。彼はね、家の中でおとなしく妻をしてるのがわたしの幸せだと思ってるの。気持ちはありがたいけど、わたしにはそれが窮屈」
 だから意味もなくあのカフェに入り浸ったり、用もないのに大学に出てきたりするのよ、と彼女は微笑む。たったふたつしか違わないのにも関わらず、すでに結婚している彼女は俺には幾分遠い存在である。それほど結婚願望のない俺には、なぜそんな早くに結婚をしてしまったのか分からなかった。
 「親の決めた結婚で――留学とかもさせてもらったし、あまり迷惑はかけられないから断ることもできなかったしね」
 そう、たとえ親の決めた結婚だとしても、なぜ己の意に添わぬ結婚をしてしまうのだろう。
 自由が欲しいのだ、と彼女は言った。わたしが欲しいのは庇護ではなくて、自由なのだと。危うくなったときにふと手を差し伸べてくれる、そんな愛があればそれだけでいいのだと言った。
 金持ちに生まれなくてよかったと、俺は彼女の話を聞くたびに思う。
 「朝菜さん、もっと自由気儘に生きたほうがいいスよ」
 彼女の名は、宝珠山朝菜(ほうしゅやま あさな)という。聞くからに金持ちそうな上品な名前だった。
 「そうかなぁ……」
 「じゃないとストレス溜まって爆発して、結局みんなが嫌な思いしちゃうんじゃないです?」
 「渥美くんは気儘に生きてる?」
 「まあ、ほどほどにね」
 俺は彼女を朝菜さんと呼んだが、彼女は俺のことを翔とは呼ばない。どこかで一線をひくように渥美くん、と苗字で呼んだ。大学の女の先輩は、みんな俺のことを“翔ちゃん”と呼ぶ。だから彼女のその呼び方は、少しだけ寂しいような気がするのだった。
 彼女の左薬指にはめられた美しいダイヤの指輪が、やはりいつ見ても彼女を束縛しているようだった。
 翼があるのに、それを広げられない。確かにどれほど窮屈なことだろう。翼を広げられる場所を――飛び立てる場所を、彼女は必死で探しているようにみえた。
 その切ない姿が、一瞬シロと重なったのはなぜだろう。
 「悪いことでもして、いっそ親から勘当されちゃおうかしら。ね」
 ケーキ用意しとくから悪いことはしちゃダメっすよ、と俺も彼女に笑顔で返した。




 



 シロがうちに来て一週間が経った。凛の家と俺の家とを、彼女は幾度か行き来して気儘に時を過ごしていた。
 「ホント、おまえいったいいつになったら猫に戻るの?」
 「にゃふっ」
 耳の後ろを掻きながら、くしゃみをする。シロは、気が向いたときに自分から俺に触れてくる。そのほとんどが、メシと風呂を要求するときであった。それ以外で、俺が無意識に耳のうしろを掻いてやろうとすると、俺の手をすいと避けるのだった。なのに今日は様子が違う。
 「あんまり好き嫌いしないで食えよ」
 刺身のほかに、彼女の大好物である鮭フレークを添えてやる。猫の姿のときも、彼女は鮭の匂いを嗅いだらすぐにひょこひょこと足元に現れていた。他の焼き魚をやっても気のなさそうな顔をするくせに、鮭だけは鼻をにゃふにゃふと鳴らして一生懸命に食べる。だから今日も、夕食に一目散に向かっていくのかと思った。
 「ぁあん」
 可愛らしく二度啼いて、彼女は突然俺の膝に乗ってきた。ああ、シロの本来の姿が猫だと知っていて本当に良かった――こんなに可愛い顔をした少女に突然密着されて、平然としていられる男がどこにいようか。
 シロが強く俺の胸に顔を押し付けてくる。彼女の白い耳が、俺の喉もとに触れてひどくこそばゆい。この我儘娘がどうしたんだ、と思いながら俺はつい可愛くて彼女の喉を掻いてやる。人間の身体をしているくせに、シロは器用にも喉をぐるぐると鳴らした。
 「こらシロ、おまえ……」
 にゃぁ、と啼いて彼女は俺の鼻をぺろりと舐めた。あのざらざらした猫の舌とは違って、今のシロの舌はとても柔らかく、猫に舐められたときの痛さはなかった。ひとしきり俺の膝でじゃれついてから、彼女はひょいと身体を起こし、そして何事もなかったかのように刺身を食べ始める。
 それきり、シロは俺にひっついてくることはなかった。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 
 シロは、俺の一番お気に入りの仔猫だった。気儘で喧嘩っぱやいところが好きだった。人間に媚を売らないようなその風情も、気品のある真っ白な毛並みも、何だか穢れていないようで好ましかった。凛の家から自宅へ帰ろうとするとき、俺はいつも凛にバイバイと手をふる。それを凛と一緒にいつも見送っているのは、シロだけだった。あとの二匹は、いつでもソファの上でまるくなってぐうぐうと眠りこけているのだった。
 俺の姿越しに外を見つめるシロの視線は、もしかすると外界への憧れだったのかもしれない。
 
 自由が欲しいの。わたしが欲しいのは庇護ではなくて、自由なの。そう言った宝珠山朝菜の言葉を俺は思い出す。
 シロが欲しかったのは、まさに自由だったのかもしれない。たとえ飢えてもかまわない、たとえ途中で傷ついて倒れてもかまわない、それでも自由が欲しかったのかもしれない。あの三匹の仔猫の中では、確かに異端だった存在。
 凛に手をふる俺の姿越しに、シロは広がる外の世界を見ていたのだろう。
 
 初めてシロが自分から俺の膝に乗ってきたあの日の翌日、シロの姿は消えていた。凛に聞いてもシロの行方は知れなかったし、街中で真っ白な猫を見かけることもなかった。本来の猫の姿に戻ったんだろうと思う。食いだめをして出て行ったのか、テーブルに置きっぱなしだった猫缶は3つとも空になっていた。




 最近、俺は携帯のフォルダを見るたびにシロを思い出す。幾枚も凛と一緒に写メを撮ったから。



 
 最近、俺は起きて窓の外を見るたびにシロを思い出す。遠くに見える山に雪が積もっていて――その美しい純白の雪が、シロの毛並みにそっくりだから。

 


 


     田子の浦に  うち出でてみれば  白妙の 


                   富士の高嶺に  雪は降りつつ


                                  《山部赤人》




 
2005/09/03(Sat)17:52:12 公開 / ゅぇ
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■作者からのメッセージ
《田子の浦にふと出て見遣ってみると、富士の高嶺に純白の雪が降っていることだ――……》

 最近ペースダウンしているゅぇです。長篇の合間に短編を書きたくなる病気もちのゅぇには、この短編集というスタイルは非常にありがたいもののようです(笑)今までの三話は少しばかり重かったので、ちょっと今回は軽めにしてみました。翔ちゃん凛ちゃんの再来です(笑)和歌とほとんど関係ないだろうが、というツッコミもありがたく頂戴します。和歌と繋げるのはさすがにむずかしい!!だって地名出てるし〜!!(涙)さてさて、これでしばらく玉響に集中できそうです。いい加減小説ばっかり書いてないで、しっかり勉強しなくてはいけない身なのですが、こればっかりはどうにも。よろしければ感想いただけると幸いです。ではでは。
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