- 『死神【Fake】&【Leisure break】』 作者:上下 左右 / 未分類 未分類
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全角15633.5文字
容量31267 bytes
原稿用紙約45.45枚
【〜〜〜Fake〜〜〜】
薄暗い部屋の中、一人の男が何をするわけでもなくベッドの上で座っていた。輝きを失った瞳は、唯一光の入ってくる窓を眺めている。
(私は、なんということをしてしまったのだろうか……)
まるで、壊れた機械ように同じことを、そのことだけを考えていた。
ここに来てから四年が経とうとしている。早かったようで遅い。遅いようで早かった。そんな感じだった。来る日も来る日も同じようなことをしてただ寝るだけ。本当にそれが生きているのかどうかわからない。それでも彼は、今まで生かされてきた。
だが、それも明日で終わりだ。男は明日、自分の行った大罪を償う。正確には明日なのかどうか彼にはわからない。知っているのは自分と同じように大罪を犯した者を監視する者達と、この建物で一番えらい人物だけだ。
人間にも、危険を予知する能力がある。虫や動物が天災の時に逃げ出すのと同じような物を持っている。だから確実ではないが、予感のようなものでわかるのだ。もしも彼が今自由の身であれば虫たちのように逃げ出していただろう。
自分がいつ死ぬのかを薄々と感じている中で改めて自分の行ったことを考え直してみた。それまでにも何度も考えたが、死ぬ直前の今が最も罪悪を感じる。口に出すことはないが、心の中では本当に後悔と謝罪の気持ちが渦巻いている。
それは苦しいものであった。一週間ほど前からは夢の中に自分の殺した人たちが出てきて彼にいろいろなことを言う。夢なので詳しいことまでは覚えていないが、それが原因で目が覚めた時は冬にも関らず汗が水を被ったように出ていた。そのようなことがあるせいで、今の彼はほとんど眠ることが無い。おかげで彼の目の下には遠くからでもはっきりと見えるほどのクマが出来てしまっている。
寝不足のせいで頭が痛い。頭が体の休息を訴えている。だが、彼は眠れない。いくら瞼が重くなろうとも少しでも眠ればまた、あの悪夢が彼を襲うのだ。あの苦しみに比べれば眠気を我慢するほうがどれほど楽なことか……。
彼の犯した罪。それは殺人だった。それも一人や二人ではない。何人もの命をその手で奪ったのだ。なぜそんなことをしたのか彼自身は覚えてはいない。その時の感情によりそれを行ってしまったのだ。
男は起きてからずっとこうして窓の外を見続けている。自分が二度とその下を歩くことが出来ない澄んだ青空を飽きることなく見続けているだけだ。その姿を見た看守達は彼のことを精神崩壊者とかいう社会的にみれば問題になりそうな名前で呼んでいる。
確かに彼もそういわれても仕方が無いといえば仕方が無かった。こうして外を見ているのもそうだが、彼はここ一週間ほどよく独り言を言っているのだ。それもただぶつぶつ言っているのではなく、明らかに誰かと話をしているのだ。それを見た看守が呼び始めたのが最初だ。もちろん、彼はそう呼ばれていることは自分ではわかっていない。
罪深い男が一日中そうしているのには理由があった。それは唯一の楽しみがあるからだ。
日の高さからしてそろそろ来る頃だろう。少なくとも、昨日はこれぐらいの時間にここに来ていた。
罪の意識と戦いながら窓を見だしてすでに六時間はそうしていた。真っ青だった空はすでに真っ赤に染めていた。せっかくのチャンスだったというのに、残念だ。最後の最後に会うことが出来なかったなんて……。そう思った時だった。
「おや。持っていたのか?」
透き通るような綺麗な声なのに男性のような口調のせいで違和感を感じる。
突然聞こえた壁の向こうの声は二人の間に障害があるというのにはっきりと聞こえる。声質はそれほど大きくは無い。それなのに壁一枚あることを感じさせないのが不思議である。
「今日は来てくれないかと思ったよ」
こちらの声もそれほど大きくは無い。低い声が部屋の中に響く。彼が声を届かせようとするのならばそれなりの声量を使わなくてはならない。
「私も忙しくてね。これないかと思ったんだが、これほど喜んでくれるんだったら来て正解だった」
相手はまるで男の顔を見ているような言い方をするのはいつものことだ。しかし、女性の声の言っていることは間違いない。彼の顔はまさに笑顔そのものだった。先ほどまではもしかすると会えないかもしれないと思っていたのだ。そのような表情になってもおかしくは無い。今の彼の生き甲斐は彼女と話すことだ。
男は姿の見えない少女と他愛も無い話をしているときに、ふとある話しを持ち出した。
「なあ、俺は明日この身にある罪を償う。だから、最後に君の顔を見せてくれないか?」
どうしても知りたかったのだ。極悪な死刑囚のたくさん閉じ込められているこの場所に何回もきている者の顔を。
窓はそれほど高くは無い。踏む台みたいなものがあれば子供の身長でも十分に届くだろう。
「仕方が無い。本当はこうして話をしていること事態いけないことなんだ。サービスだな」
まるで、自分のことを見下したような物言いだったが、それぐらいで彼女の姿を見ることができるのなら我慢も出来る。
男は歳に似合わないほどに胸をどきどきさせながら窓の外から顔が出てくるのを舞った。
外の世界から聞こえてくる声の持ち主が姿を見せるまでそれほど時間はかからなかった。影を連想させる姿をした少女が彼の目の前に現れた。
黒い髪、黒い瞳、そして黒い洋服。まるで人の影を思わせる服装をした少女が彼の目に入ってきた。
男は声が出なかった。人形をそのまま人間にしたような、綺麗な作りをした顔に見とれていたわけではない。姿を現した場所が彼の思っていた窓からではなく、まるで茸が壁から生えてくるように出てきたのである。
「どうした。私の顔になにかついているのか?」
そういいながらも不思議そうな顔はしない。まるで仮面を被っているかのように綺麗な顔は微動だにしない。今の現象をさも当然だったような態度をとりながら小さく、清潔とは程遠い部屋の真ん中に立っている。
「きっ、君は何者なんだ!」
先ほどから妙に早い鼓動はうれしさより来ていたものからいつのまにか恐怖によるものに変わっていた。
「私は、お前達の言葉で言うところの死神というやつだ」
もちろんのこと、これもまた当然のように男の質問に彼女は答えた。
死神……。もしもそんな者が存在していることを理解しなければ今の現象の説明はつかない。この世には悪霊などといったものがあるのだからいてもおかしくは無いのだが。
「理解したか。お前には霊感があるからすぐにわかると思ったよ」
そう、死神である彼女とこうして話をし、姿を見るということは常人には出来ない。彼が生まれつき持っている強い霊感がそれを可能にしているのだ。それのせいで子供の頃はいろいろと苦労した。
「その死神が、私になんのようだ」
その理由はもちろんわかっている。彼女、死神の基本的な仕事は死んだ者の魂をあの世に送ることだ。
「お前は明日死ぬ。これは絶対だ。その時に魂を回収するために来た」
彼女のその言葉には同情といった感情は全くこもっていなかった。彼が死ぬのは当然といった、そんな感じだ。
自分から聞いておいて、男は少女の話を実は聞いていなかった。それは、そんなことよりもとても重要なことのような気がした。
(この子の顔を、私はどこかで見たことがある……)
おそらく、彼が生きてきた中で一度は見たことがあった。他人の空似などではない。どこかの交差点ですれ違ったのかもしれない。電車で向かい側に座っていただけかもしれない。だが、確実に彼はこのかわいい顔をどこかで見ていた。
「私を見たことがあるっていう顔をしているが、それは不思議でもなんでもない。お前は霊感が強いので、私がなにもしなくても姿を確認してしまう。偶然に確認したんだろう」
確かにそれはそうである。彼女がどこにいても特におかしくは無いのだ。現に、男は何度も霊的物を見てしまっていた。
「さてと、そろそろ本題に入ってもいいかな」
彼女の初めて見せた表情は呆れたものを見るようなものだった。自分はこんなことを話すためにおまえの前に現れたのだ、とでも言いたいかのように。
本題……。確かにそれがあっても何もおかしくはない。目的がなければ彼の死んだ日にくればいいだけのことだ。それをせずに彼と接触したということはなにかがあるからである。
「本題?」
「単刀直入に言う。明日ではなく、今日、今死んでみないか?」
「…………は?」
あまりにも意味のわからないことを言われて、体の底から思わず奇怪な声を出してしまった。意味がわかるはずがない。死神というのは決められた期限に死んだ人間の魂を回収する者のはず。それなのに死ねというのはどういうことなのだろうか。もしかすると、彼女の言っていた回収とは自分を殺すという意味だったのだろうか。
「私は、お前のことを思って言っている。お前は明日になれば殺されてしまう。それは痛みも苦しみも伴う。だから、私はそれを勧めた。ただそれだけのことだ」
彼女はあくまでも冷静だ。人を殺すことなどなんとも思っていないのだろう。彼女からしてみれば彼は違う種族の人間。人間達が毒を持つ虫や、凶暴な爬虫類をためらいも無く殺すようなものだ。
たしかに、他の人間に殺されることがどれだけ苦痛なのか、考えたことも無かった。やはり、自分の罪は自分でケリをつけなければならない。彼女が言ったのは肉体的なものではなく、おそらく精神面の話だと彼は取ったのだ。
「君の言うとおりだ。私の罪は他人に任せていいほど軽いものではない。やはりここは自分自身で償うべきだ。どうすればいい?」
男の決心したような顔に、死神は頷いた。そして、どこからか取り出したナイフを男に手渡す。
男の心臓が痛いと感じるほどに速くなっている。自分で死ぬとは言ったものの、やはり恐怖というものはある。ナイフはそんな男の心境を知るはずも無く、窓から入る光によって不気味に光っている。
死神の少女は、ナイフを渡してから何を言うことも無くただ彼を見つめながら立っているだけだ。
罪を犯した男は思い切って自分の命、今は張り裂けんばかりに速く体中に血液を送り続けている心臓にナイフを刺した。何かきっかけがあったわけではない。少なくとも第三者からはそう見える。まるで時間が止まってしまったかのようにまわりから音のようなものはしない。ただ単に彼には聞こえていないだけかもしれない。それでも、何かを目印にしたのだろうが、それは本人にしかわかりえないことだ。
人間の皮膚が、強引に入り込んでくる異物を何の抵抗も無く飲み込んでいく。そして、それが入っていけば入っていくほど真っ赤な血液が流れ出てきて彼の着ている囚人服を真っ赤に染めていく。
彼は苦しみなんかよりも達成感の方が強かった。それはその表情からもわかる。最初こそは苦痛に歪んだ顔をしていたが、今では安らかな笑顔のようになっていた。自分で罪を償った。彼はそう思っていた。
「痛みはあまり感じなかっただろう?」
確かに、痛みという感覚は最初だけだった。後のほうは気持ちよいという感覚さえあった。
「死ぬとはそういうものだよ」
本当は彼女が不思議な力によってその感覚を作りだしていたのだが、あえて伏せておくことにした。話してもどうせ理解できないに決まっているからだ。
よく見なければ気がつかないほど少しだけ、彼女は口元を釣り上げた。予想したとおり、笑うとその顔はとてもかわいかった。もちろん、それは彼女が笑っているということをわかった者のみがわかる。
いつの間にか、自分が影のような少女を見下ろす形になっているのに気がついた。知らないうちに男は立ち上がっていた。
下には誰かが倒れていた。白とも黒ともつかない中途半端な色をして、髪は男のわりには長い。伸びすぎた髪は渦を巻いていた。それが、男はそれが自分自身だと気がつくのに時間はかからなかった。
それがまるで物のように転がっていた。周りには文字通り血の池が出来上がっている。
人間、死ぬと魂だけになるというのは本当だった。ただのインチキ霊媒師が目立とうとしていっていただけかと思っていた。
「おい、どうした!?」
きのうまで男のことを見下していたような目で見ていた看守達が牢の鍵を開けて中に入ってきた。その者達は首元に手を当てるが小さく首を横に振った。それはそうだ。男は今別の場所に居る。看守達には見えない姿になって。
「さてと、戸惑っているところ悪いが次の段階だ」
下のことなど全く関係の無い様子で彼女は次の話に入る。
「生き返る、というのと人を殺す、ということ。それ以外の望みを何でも聞くといったら、お前はなんと答える?」
突然の質問だったので、男は少しの間黙っていた。どんな願いでも聞いてくれる……。それが本当だったとしてもすぐに決められるわけが無い。
「今ではないといけないのか?」
「今すぐだ」
彼女の容赦の無い即答が彼を余計に焦らせる。
こういう場合は普通、自分がこの世に遣り残したことを頼むのだろう。自分が遣り残したこと?家族というものは彼にはいない。人付き合いというものもあまり得意なほうではなかったので思いを伝えたいと思う人物もいない。
言われた瞬間よりも少し落ち着いた。そして、よく考え直した。
別に彼女の言う願いとはこの世のことでなくてもいいのではないか。もしかするとそれはダメかもしれないが、言ってみる価値はある。
「私は、自分の殺してしまった人達に謝りたい」
それを彼女の向かって言った時、少女は、物凄く複雑そうな顔をした。
「後悔は……、しないな?」
男は黙って首を縦に振った。後悔などするはずが無い。あの時の過ち以上の後悔など。
「わかった。その願いを聞き入れよう」
彼女はそういうと、小さな声で何か呪文を唱えだした。男の距離では何かを言っているのはわかるが何を言っているのかはわからない。すると、先ほどまで普通だった風景に黒いヒビが無数に入る。
死神が呪文のようなものを最後まで言い終わると、そのヒビが粉々に砕け散りまるでブラックホールを思わせる漆黒の闇が広がる穴が出現した。何人も吸い込もうとするような勢いで風が流れる。
その真っ黒な空間の中にはいくつかの白いものが見える。男はそれが人の形をしていることにようやく気がついた。
「あっ、ああ……」
うめき声のようなものを発しながら彼は涙を流す。謝りたいという気持ちが強すぎたためだ。
いくつかの白い者達はこの強力な風を感じないかのように彼のところまでやってきた。
死神から見れば、その白い者達が男を取り囲んでいて、その姿を確認することはできない。
「本当に……、本当にすまなかった。許してくれ!」
男は付きもしない地面に額を近づけ、自分を取り囲んでいる元人達に一生懸命に謝る。自分はこの人たちの命を、未来を奪ってしまった。それを全てわびることはできないというのはわかっている。しかし、そうでもしないと気がすまなかった。
「許す……」
自分の殺した内の一人が小さな声で何かを言った。今、確かに許すといった。だが、それは男の勝手な解釈だったと言うことを理解した。
まるでその言葉を合図としたかのように囲んでいた白い者達が彼に掴みかかってきた。何十本もの腕が彼のいろいろなところを掴んだ。
今の男には痛いという感覚はほとんど無い。しかし、掴まれるたびに心の中にあるなにかがズキッと痛んだ。まるで自分の心を彼らが掴んでいるような、それほどタイミングのいい痛みだった。掴んできた者の死ぬ間際の記憶が男にどんどん流れ込んでくる。
「許せるはずが無い。私達の時間を……、あの楽しかった日々を返せ!」
自我の無い機械のように全員が全員、そう何度も繰り返している。これをもしも誰かが見れば異様過ぎて気が狂ってしまうのではないかと思えるほどおぞましい光景だ。
どうも、自分は何か勘違いをしていたらしい。これだけ相手に苦痛を与えておきながら許しをもらおうとしていた。許されるはずが無い。そんなことはわかっていたというのに……。
その白い影に引っ張られるようにして大きな穴へと男は近づいていく。これは男の意思ではない。彼を取り囲んでいる者達が無理やりあちら側の世界へ連れて行こうとしているのだ。
あの穴は自らの意思で中に入れば人間達の言う天国というところに行くことができる。だが、他人によって強制的に潜らされた場合、転生するまで激しい苦しみを味わい続けなければならないおぞましい場所へと導かれる。ということは、他の魂によってつれていかれる彼の行き先は……。
白い人達の隙間から覗く死神の姿を彼はもう一度見た。そして思い出したのだ。彼女をどこで見たのかを。自分が殺人を犯した場所。そこに彼女はいたのだ。今のような真っ黒の服を着ていたのかは確かではないが、彼女は明らかにその場にいたのだ。
そう考えた時は、視界が完全に真っ暗になった。この後の彼がどうなったのかは誰にもわからない。
少女は、彼女の見えるもののいなくなった牢獄の中で一人たたずんでいた。後処理が残っている。このあの世へとつながった大きな穴をこのままにしておくわけにはいかないからだ。
開いた時と同じように彼女にしか聞こえないような声で呪文を唱えた。先ほどとは全く逆のことが起こる。黒い穴を景色が埋め尽くし、元のコンクリートの壁が現れた。黒いヒビも徐々に無くなっていった。
死神は男にウソを付いた。今死ねば楽だという嘘を……。今の光景からすれば彼にとってはただの苦痛でしかなかったに違いない。
仕方が無かったのだ。先ほどあの世の扉から出てきた人たち、あの男を地獄に連れて行かせろといったあの死者達は男が自分達に会いたがるということをわかっていた。それが本当なのか、彼女は試して見たくなってしまったのだ。
人間界では看守達が一人の男を運び出すために必死になにか言っているが彼女にはもうなんの関係も無い。仕事は終わったのだ。
牢獄を後にして次の仕事の場所へ向かう。先ほどまでは少し罪悪感があったのだが今はもう自分には関係ないことだと割り切ることができる。これが、人間であるさっきの男と、死神である彼女の違いなのだろうか。
そして彼女は、まるで何もなかったかのような顔をして空の彼方へと消えてしまった。
【〜〜〜Leisure break〜〜〜】
真っ白な天上。真っ白なベッド。そして真っ白な壁。汚れがなく、気味が悪いほどに白で統一された部屋。その中央に一人の男が座っていた。中にいる、というよりも閉じ込められているといったほうが正しい。扉は頑丈な鉄で作られ、厳重にロックされている。しかし、そんなものはこの男に何の関係もない。
手足を拘束されているわけではないのに、その場から動こうとはしない。男には逃げ出そうという考え自体がないのだ。人間に必要ないろいろな感情。それが彼には足りていない。だからこそ、このそれほど広くもない部屋に入れられている。
ここまで欠落した部分が多いと、もはや人間と呼んでもいいのかも不思議に思っている。人間は、動物の中でも特別表に感情を出すやすい。それがあるからこそ今の人間社会というものが吊り合っていく。
そのような中で生きていけなくなった彼のような者は容赦なく他の人の目の届かない場所、隔離された空間に送られる。それが、この場所だ。
精神病院。ある種の人間が聞くと刑務所なんかよりも危険だという場所に彼は幽閉されていた。本人は、今自分がどこにいて、何をしているのかも分かっていないのかも知れないが……。
男は生まれた時からこうだったわけではない。一ヶ月前、ある事故によって恋人を失ってしまい、そのことがショックでこうなってしまった。直接男が殺したわけではない。しかし、彼は自分の責任で彼女が死んでしまったと思っている。
その負担が彼の精神を極限まで削り取り、このような姿にしてしまった。人一人のためにこうなってしまうものなのかと考えてしまうが、それほど彼女のことを思っていたのであれば十分に納得できる。
医者も、全力を注いでいた。しかし、彼等にも限界というものがあるのだ。医者という特殊な職業には就いているが、所詮は人間なのだ。特別な力があるわけではない。一ヶ月経った今でも男の容態はよくなる気配すらない。
近頃は彼のことを見放したような態度をとる者までいる。もう、治る見込みなど全くないと勝手に決めて諦めているのだ。
そんな、医者からも見離された男はこれまた真っ白な光に照らされながらただ一点を見つめている。その方向に特に意味があるわけではない。きっと、本人も何故見ているのか理解もしていないだろう。
その部屋には死角がなくなるほどに監視カメラが設置されている。治療するのではなく、監視するための部屋。それがこの部屋なのだ。
彼はもう、この病院の患者ではない。ただの観察される者、被験者なのだ。もちろん何人かの医師は反対したのだが結局、院長命令で仕方がなくそうするしかなかった。誰からも治療されることはない。危険だからという理由で誰ともあわせてもらえない。
男の目には監視カメラは映っていない。あるのは真っ白な世界だけだ。きっと、自分が何を考えているのかも分かってはいないだろう。
ふと気が付いてみると、真っ白な部屋の中にひとつだけ黒い物があった。男の影ではない。この部屋にはいくつもの場所から光を当てて影ができないようにしている。だから、その可能性はありえない。しかし、それはやはり影のように見える。
それは少女だった。身長はそれほど高くはない。上から下までを部屋とは対照的な真っ黒な服で統一し、黒い髪、そしてそれに合わせたかのような黒い瞳をしている。若干見える手は白く、細い指が伸びており、それを見る限りでは持つこともできないような大きな鎌を背負っている。その刃は新品を思わせるような鋭い光を放っている。
観察員、ではない。だいたい、このような子供がそのような職業に付くことができるはずがないのだ。そもそも、この部屋にどうやっては入ってきたのかも不明だ。ドアには頑丈なロックがかかっているので、一部の者以外出入りすることはできない。そんな、誰が見ても疑問を抱くような少女は何の表情もなく男のほうに向かっていく。
監視カメラに怪しい人物が移っているというのに誰も彼女を追い出しに来ることがない。それでは、死角がないほどに張り巡らせている高性能カメラも何の意味もない。宝の持ち腐れというものだ。
人形をそのまま人間にしたような綺麗な顔立ちをした少女は男の前まで来るとその目を直視する。もしも男に恥ずかしいと思う感情があれば目、もしくは顔をそらしていただろう。少女はそのような雰囲気を持っているのだ。
影のような少女は男の目の前で手を振ってみた。まるで、見えているか?っとでも言わんばかりの行動だが、声には出さない。
男は彼女のその行動に対して何の反応も示さない。
「ふん」
安心したような、呆れたような理解しがたい表情をしながらため息をつく。
今、彼女がはっきりと見えているのはこの精神の崩壊した男と、少女と同じような存在、霊と呼ばれる者達だけだ。後、人間の中に稀にいる霊感の強い者も見ることができるが、はっきりではない。
霊と彼女が同じような存在といったが、ある意味では正反対の者かもしれない。霊はこの世に残ろうとすることが多いが、彼女にはそんな霊達を連れて行く役目が与えられている。人間の魂を導くとも言われるし、魂を狩るとも言われる。人間達になんと呼ばれようが彼女にはなんの関係もないことだ。仕事には何の影響もない。
死神。彼女は人間達からそう呼ばれている。実際に彼女は死の神でもなんでもないのだが、特に決まった呼び方がないのでそう名乗っていることが多い。
「やはり、無理のようだな」
少しはこのままでも話ができるのかと思ってきてみたがとんで期待はずれだった。この男は見えているはずの彼女を視界に入れないようにしている。いや、入れようとしても入ってこないのかもしれない。
仕方がない、という表情になった死神は自分にしか聞き取ることができないような小さな声で何かを唱えだした。すると少しずつ、男の中からもう一人の男が生えてくるかのようにして出てくる。
そして、あっという間に男が二人になる。最初は少し薄かった、出てきたほうの男もすぐに普通に見えるようになった。しかし、全てが同じというわけではない。その瞳にはちゃんと輝きというか、生気が満ち溢れている。
「なっ!?はっ、へっ?」
突然、空を飛んでいること。自分の姿が下にあること。彼女がここにいること。いろいろな疑問が一気に詰め寄せたので脳がクラッシュしているのだ。
「とりあえず、お前は誰だ?」
このような状況で最も気になったのがそれなのだろう。自分の目の前にいる少女。きっとこの奇怪な現象を起こしたのは、さも当然のように見ているこの少女なのだと考えた男は、まずその正体を知りたいと考えた。
「私はお前達でいう死神だ」
少女は恥ずかしそうも、冗談をあらわすような笑顔でもその言葉を言っていない。真顔、というよりもただ無表情なだけだ。
「へえ、死神ねえ。そんなものが本当にいたなんてな」
男の声と口調からは明らかにそれを信じていないという態度が滲み出ている。
「私は人間の空想の産物じゃない。まあ、信じる信じないはこの際何の関係もない」
彼女は少しだけ眉を歪ませたが、すぐにその話を打ち切ってしまった。少女の微妙な表情の変化を楽しんでいた男は少し拍子抜けする。
「んで、その死神さんがいったいなんの用なわけ?」
なんだか、先ほどよりも男の態度が冷たいものになったような気がするが、少女にとってはそれほど気にすることでもないようだ。
「お前達は死神の仕事をなんだと思っている?」
声は少女らしく透き通っているのに、その男性のような口調が相手に違和感を与える。この男も、心の中ではそう思っていた。
「死神は死者の魂を回収するんだろ?」
「そうだ。それで何ら変わりはない。だったら何の用かなど聞く必要はない」
「じゃあ、俺とはなんの関係もないことじゃないか!少なくとも俺はまだ死んでねえし!」
男の顔が怒りの表情になり、それを少女にぶつける。彼の言い分ももっともだ。彼は精神的に生きているとはいえない。だが、まだ死者ではない。それなのに彼女が連れて行くというのはおかしいのだ。
「お前に言われなくてもそんなことはわかっている。死神の話は最後まで聞け!」
少女も、最後まで話を聞かないこの男に対して少し怒りを覚える。表に、それをほとんど出すことはないが。
その少女の迫力に押されてなのか、男はすっかり小さくなってしまい話を聞く体制になっている。小さな体でそれだけの迫力を出すことができるのはさすが死神といったところだろう。
「お前は今、どんな状態だ?」
先ほどの怒りを思わせない静かな声で男に質問を投げ掛ける。
「たぶん、精神病にかかっている、どうして俺が今普通に話せているのかが不思議なくらいだ」
どうも今の男は不思議なことが多すぎる。自分の精神がどうして回復しているのかも分からないし、自分が精神病だということも理解できている。
「それは簡単な話だ。私がお前の精神の壊れている理由を忘れさせている。ただそれだけのことだ」
彼女がそういうと同時に、今度は男の眉毛がハの字になる。自分の忘れていること。それはいったいなんなのだろうか。いくら考えてもそれらしい記憶の空白はないし、思い当たるところもない。
「頼む、教えてくれ。俺が忘れていることっていったいなんなんだ!」
「教えるわけないだろう。今それを思い出されるとあれと同じ状態になってしまうからな」
そういって死神が壊れたほうの男を指差した。それを見た正気のほうの男は確かにそうだと納得して頷いた。
「じゃあ、なにをしにここにきたんだ?」
少しイライラしたような口調で少女に尋ねる。
「お前に選択肢を与えにきた。このまま寿命が来るまで待つか、それとも今すぐに死んでさっさと生まれかわる準備に入るか。私はそれを聞きにきた。さあ、選べ」
その説明は淡々としたもので、感情がほとんどこもっていない。
男は少し混乱している。普段、あまり聞くことのない言葉がいくつも出てきたからだ。死ぬ?生まれ変わる?死神というものは無理やりにでも連れて行くものだと思っていたので、こんな選択肢が与えられるとは思ってもみなかった。
「今すぐじゃないといけないのか?」
やっと出た言葉はそんな曖昧なものだった。だが、そんな言葉にも彼女は即答する。
「今すぐだ」
その台詞は、相手はどうなってもいいので自分の仕事を終わらせたいといった感じだ。
「いきなり死ねといわれてもな……」
「じゃあ、このまま生き続けるか?」
「それもちょっと……」
死神がどっちを聞いても男は考えるような素振りをして、曖昧な答えを返してくるだけだ。
「いったいどっちがいいというんだ。はっきりしろ!!」
彼女にしては珍しく感情的になり、大きな声を出してしまった。
それに対してこの男なら言い返してくるに違いないと確信していた。さっきまでの会話からすると男はそういう性格をしている。死神はそう判断したからだ。実は、少女には死者の心を読むことができるという能力があるのだが、それは極力使わないようにしている。それを使えば必要なことだけでなくプライベートなことまで覗き込んでしまう。なんだか、嫌なのだ。だから、よほどのことがない限りそれを使用しない。
確かに男は彼女の言葉に対して反論してきた。だが、それは思っていたような怒鳴るような者ではなく、呆れたような物言いだった。しかも、全く関係のない一言が返ってくる。
「お前、名前はなんていうんだ?死神じゃあ呼びづらくてたまらん」
そう聞かれて彼女はとっさに名前などない、といいかけたがすぐにあることを思い出した。もう、自分に名前がないわけではない。
「私の名前は……、クロミだ」
名乗るのに少し恥ずかしい感じがしたが、最後まで堂々と口にすることができた。自分で名前を名乗ったことによって今ここに、死神クロミが誕生した。
「クロミ……。変な名前だな」
その時、男が少女の表情に気が付かず、謝るという行動をとらなければ今頃、選択肢を消されてすぐにでも地獄に落とされていたに違いない。それほど男は口にしてはいけないことを言ってしまったのだ。
「それでだクロミ。お前にとって俺がどっちを選ぼうが関係はないだろう。でもな、俺にとっては一生に関る問題だ。そう簡単に決めることはできない。分かるか?」
いつの間にか聞き手と語り手が逆転している。今度はクロミが口を閉ざし、黙って話を聞いている。もしもこの光景を絵にして、題名をつけるなら「人形に話しかける男」となるに違いない。
「だから、そんなにせかさないでくれ時間はあまりかけないからよ」
男はそういうと真剣な表情から苦笑いじみたものに変わった。
その話を聞いてからのクロミは口を開くことなく黙って男を見つめている。
そんなことを全く気にすることなく、男はさっきだされた選択肢を一生懸命考えている。
死神はもう、男をせかすようなことをしない。ただ黙って回答を待っている。たまに暇そうに周りの様子を伺っている。
「よし、決めた。俺は今ここで死ぬことを選択する。どうもこのまま生きていても治る見込みはなさそうだしな。早いところ生まれ変わったほうがいいのかもしれない」
男の答えはあれだけ長い時間を使って考えたわりにはふざけたようなものだった。まあ、死神である少女は気にするわけがないが。
「わかった」
クロミは聞きなおすような事はしない。それを素直に聞き入れるとそれをあっさり受け入れた。何度目かになると、さすがに罪悪感というものがなくなってくる。感覚が麻痺してきている証拠なのだろうか。
そして、すぐに自分にしか聞こえないぐらいの小さな声でなにかを唱える。
すると、今まで全く音のすることのなかった現実の世界で何かが倒れるよう音がした。椅子などのような乾いたものではない。
男が音のした方を見てみるとそこには真っ青になり、口からはだらしなく涎を垂らしている自分がいた。その元自分が地面に倒れている。だが、彼はそれを見ても驚きはしない。ただ見下ろしているだけだ。
「さて、今からお前を人間達で言うあの世に連れて行く。その前に、何かかなえてほしいことはないか?」
自分がやったことがさも当然のように次の話題に入るクロミ。まさか、このまま連れて行かれるだけだと思っていた男は、彼女の質問に少しの間固まってしまった。
クロミは、そんな男を気にすることなく話を続ける。
「これはお前達への最後のサービスだ」
その言葉の最後に思い出したかのように「生き返ること」と「人を殺すとこと」以外の願いだけだがな、っと付け加えた。
最後って、じゃあ最初はなんなんだと聞きたがったがそういう雰囲気でもなかったので男はその言葉を呑みこんだ
もちろん願いがないわけではない。だが、これは自分にとって本当にいいことなのか、それが分からないのだ。死神は、忘れていたほうがよかったので忘れさせた。そうしないと彼はまともに話すことができなかったから。もしも思い出せばまたもや彼は苦しみ、精神を崩壊させるかもしれない。それを考えると、このまま忘れていたほうがいいんかもしれない。
死神は、さっき男に言われたとおりに何もせず、ただただその黒い瞳で見上げている。何も言ってこない。本当に待っているだけだ。
「俺を天国行きにしてくれ、っていうのが願いかな」
先ほどよりも男の考える時間は短かった。
「そんなこと、別に願い事でなくても……」
少女は少し驚いたような顔をした。別に、彼の天国行きはほぼ決定している。この真っ黒な穴。そこに自分から飛び込むのか、それとも誰かに潜らされるか。それによって天国に行くことは決まるのだ。よっぽどのヘマをしない限りではそれが覆されることはない。記憶を返してくれといわれると思っていた死神は、言葉に困る。
「願いか……。記憶を返してくれと言おうとも思ったが、やっぱり自分が一番かわいいんだ。無理につらい思い出を引っ張り出したしたくないとさ。俺の心の中にいる悪魔君の勝利だ」
彼の顔は笑っているがどこか、もう戻ることのできない昔を振り返るような、そんな悲しい目をしていた。
「クロミが俺とデートしてくれるっていうならそっちの願いにするんだけどな」
せっかくのシリアスムードをぶち壊した男をこれでもかというほどに睨みつける。その少し殺気のこもった視線に男は苦笑いしながら顔を逸らす。
「わかった。その願いを承った」
最初、彼にはそれがどっちなのか理解できなかった。彼女を知っているものならそれがどっちなのか一発で理解することができる。クロミがそのようなボケに突っ込みを入れてくれることがなく無視をするということを。
男の命を奪った時のように何か小さな声で何かをいうと、景色がまるでガラスが割れるかのようにして消え、代わりにブラックホールを思わせる大きな穴が出現した。それを見て男は、ここにきてやっと天国行きのほうの願い事だと分かった。
「ここを潜ればいいのか?」
彼が死神に尋ねる、彼女はゆっくりとその頭を縦に振る。
天国行きの決定している男は、少女を振り返ることなくその中に入った。その刹那、男の体に重力が働いたかのように真っ暗な空間を落下していく。今入ってきた穴はすでに見えなくなってしまった。
どこまで落ちているのかと考えていると突然、頭の中に何かが流れ込んできた。それは男が忘れていたこと。死神によって封印されていた過去の記憶。人生の中で最も幸せだった頃の記憶だった。
それが流れている時、男の顔は幸せそのものだった。さっきも十分に笑顔だったがそれとはまた種類が違う。人生の中で何度かしかチャンスのない至福の笑顔。それだけその記憶はいい記憶だった。
今の彼にどうして記憶が蘇っているのかなどどうでもよかった。その記憶にどっぷりと浸かっている。だから危なかったのかもしれない。幸せな顔が一瞬にして苦痛の顔になり、ついには元の、精神の崩壊した男に戻ってしまった。
白い天井。白い壁。そして倒れた男以外には何も落ちていない白い床。それだけ白でかためられた部屋。その真ん中には普通の人には見えない普通の人間には見えない、影のような少女が顔色ひとつ変えずに屍を見下ろしていた。
(まあ、暇つぶしにしてはなかなかよかった。勉強にもなったしな)
彼女は今回、仕事のためにここに来たのではなかった。ただ、仕事と仕事の間の暇つぶし。休憩というものが必要のない彼女はこうしているのだ。趣味、娯楽がない彼女はその方法がない。だから少しでも人間の感情を勉強をする。どうしてこんなことをするのかはわからない。彼女の中に何かがそうしろと言っているのかもしれない。
別に彼女が無理に死なせたわけではない。クロミは相手に選ばせているのだ。もしも、あの時男が生きたいと言っていればわざわざ向こう側に連れて行ったりはしない。昔はそれに対して抵抗もあったのだが、近頃はむしろいいことのように思えてきた。
彼女は、男に記憶が戻ることを分かっていた。あの空間では死神である彼女達の力は全てが無効化されてしまう。もしもクロミが間違ってあの穴に呑み込まれてしまってはどうしようもない。
男が倒れたというのに誰もここに入ってくることがない。いや、さっきからドアの向こうでは何人もの人間がドアを叩いているようだが、扉の故障か何かで開かなくなっており、誰もそこには入ってくることができない。
うるさい。そう思った彼女はその場から離れることにした。そろそろ次の仕事の時間でもあるし、何よりもこの場所はうるさい。ガンガンっと鉄で鉄を殴るような音が響き渡っている。
彼女は天井があることを疑わせるようにしてそこをすり抜けてその部屋から姿を消した。それとほぼ同時にビクともしなかったはずのドアが開いて、何人もの医師がその部屋へとなだれ込んだ。
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2005/08/22(Mon)12:28:08 公開 / 上下 左右
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