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『恋する泥棒「縁の日」』 作者:柊 梢 / ファンタジー ファンタジー
全角12923.5文字
容量25847 bytes
原稿用紙約39.75枚



 その家を選んだことに、さしたる理由があったわけではなかった。
 金庫を前に、アッシュブロンドの精悍・怜悧なその男は片膝を着いていた。闇に紛れ、彼は息を殺したまま手元の機械をデジタル式の金庫に接続した。密航船に乗り合わせた奴らから賭けで巻き上げた「障壁破り」を起動し、七二桁の暗証番号を打ち出してゆく。
 彼がいるのは、ノーサルシティの高級住宅街でも指折りの資産家の豪邸だった。
 とにかく金が必要だった。金さえあればこの空腹を消し去れる上、車だろうとセスナだろうと調達できる。したがって、ここから――この街から離れられる。
 この家を選んだのには唯一理由があった。ここだけ明かりがついていなかったのだ。こんな空き巣まがい――もはや名実共に手加減もなにもない正真正銘の空き巣だが――なことはしたくなかったが、どうせ銀行にも多数の隠し口座を持っていそうな家だ、少しくらい頂戴したところで罰はあたるまい。なにせ金は使うものであって貯めるものではないのだから。
 とかく、人がいないだろうと思って軽視していたのがそもそもの過ちだった。成金の豪邸なのだから、セキュリティシステムの十個や二十個ないわけがない。そんな当たり前のことに気付いたのは、這這の体でありながら幸運にも無傷で金庫の前に立った後だった。
 すぐ側にある窓から庭を見やると、月明かりに照らされて、そこには幾多の激闘の残骸があった。落とし穴や電流トラップなどは数知れず、斧やら槍やら矢やらナイフやら、明らかに捕獲目的とは思えない物騒極まりない代物まで飛んできた。近所迷惑を考えてか火器の類は一つもなかったため、こちらは逆に助かっていた。
 改めて見ると、よくもまあ生きていたものだと、自賛してしまう。
 それはそうと、いつの間にか約半分の番号が解読されていた。
 と――
 唐突に部屋の明かりが点り、無数の書籍を隙間無く収めた本棚がその整然とした姿を露にした。どうやら書斎だったらしい。そして直後、彼は、この世で唯一自分を裏切らず守ってくれ、一瞬で人の命を奪う六インチリボルバーを腰から引き抜いていた。無駄の無い動きで、その銃口は、明かりと共に現れていた背後の気配へと向いていた。
 その先には、一人の女が立っていた。線の細い印象があるがそれをカバーするようにボリュームを持たせた茶髪の、あどけなさの残った女だった。彼女の纏っている雰囲気から、おそらくこちらよりも年下だと見受けられた。
 彼は無意識に荒くなっていた息を整えつつ、女に油断のない視線を送り続けた。
 こんな空き巣に銃を向けられて、ちょっとは怯えた表情でも見せればいいものを、しかし女は何食わぬ顔で見返してきていた。よもや状況を飲み込めていないというわけではないだろう。そう思うのは、彼女が全てを――この銃の弾さえも――包括せんとする瞳をしていたからだった。
 しばしの沈黙。そして彼がゆっくりと銃を腰に戻すと、女は確認するように言った。
「あなた、泥棒?」
「……見てのとおりだ。お前は、この家の娘だろ」
 そんなことは当然だった。言ってしまってから、なに会話してんだ俺は、と自戒する。
 女は入り口に立ったまま、
「この家から生まれたわけじゃないわよ。この家の所有者の奥さんから生まれたの」
「揚げ足取ってんじゃねーよ」彼は短く嘆息して、「で、どうすんだ」
「どうすんだ、と言いますと?」
 ここで唐突に、女の言葉が敬語に変わった。
「だから――」
 ちょうどそのときだった。たとえ存在を忘れ去られていようと拗ねることなく働き続けていた機械が、ついに錠を破ったのだ。
「あ……」
 間の抜けた声をあげる。
 彼ははっとして、今度は女の存在を忘れて金庫を開いた。するとそこには、
「なんだこれ。鍵?」
 そこにあったのは札束でも小切手でもカードでも宝石でもなく、ログハウスを模ったキーホルダーの着いた何の変哲もない鍵だった。
 手に取った鍵を見下ろし、深々と大げさにため息をつく。死ぬ思いをしてまで開けた金庫には、単なる一つの鍵しか入っていなかったのだ。
――ん、待てよ。鍵……。
 彼はひらめいた。馬鹿でも考え付きそうなことだったが。こんな仰々しい金庫に隠しているほどの鍵だ、これは金に繋がるとしか思えない。
 問題はどこの、あるいは何の鍵であるか、だ。と、彼はそこでさっきの女を思い出した。
――灯台下暗し!
 彼はさっきと変わらぬ位置に突っ立っている女につかつかと歩み寄った。
「おいお前、これは何の鍵だ」
 女は話しかけられたことを喜んで――ということもないだろうが表情を明るくして、彼の手から鍵を受け取った。
「これって、そこの金庫に入ってたんですよね。よく開けられましたね。わたしなんか何度試しても明けられなかったのに」
 泥棒相手にこれほどのほほんと、しかも褒めるなどということが通常出来ようか。否。しかしこの女は、こちらに尊敬の眼差しさえ向けてくる。
「って、まさか手で開けようとしてたのか?」
「えっ、足で開けるんですか?」
 揚げ足を取られているのだろうか。脱力しそうになって、とりあえず一番初めに思いついたことを言う。
「あのな、いったい何通りあると……いや、そんなことよりその鍵だ。どこの――」
 そのときだった。突然窓の外からパトカーのサイレンが聞こえてきた。セキュリティシステムにあれだけ引っかかれば警察が来たとしても不思議はない。むしろ来るのが遅いくらいだ。払ったことはないが、税金をなんだと思ってやがる。
 いくら文句をたれたとして、接近しているのに変わりはない。
「くそっ、来やがった……」
 ここで捕まると非常にまずい。空き巣だからというわけではなく、密入国者の彼は大したお尋ね者なのだ。音から察するに、幸い連中とはまだかなり距離があるようだった。逃げるなら今のうちだ。
「あっ、どこへ」
 横を通り過ぎて出て行こうとする彼を、女が呼び止めて言った。
「どこって逃げるに決まってんだろ。その鍵はもういい。迷惑かけたな、じゃあな」
「待って」
 またも女に呼び止められ、無視すればいいものを、彼は律儀に聞き返していた。
「なんだよ。こっちは急いでんだ」
「あの、よかったら。車があるんですけど」


 女の言葉どおり、正面の駐車スペースには四台の車があった。家に入る前に見て知ってはいたが。
「あ、これにしましょう」
 そう言って彼女が選んだのは、よりにもよってそれだけ高級車でなく、しかも一番遅そうでやや車高の高い黒塗りの車だった。
「いやあのな。お前自分のやってることが分かってんのか」
「車、いらないんですか」
 すでに助手席側の鍵を開けた女は、きょとんと訊いてきた。
「いやそうじゃなくて、つまり……あーもういい、くれるならもらってやる。さっさとキーよこせ」
 車を挟むようにして立っている女に、彼は手を差し出した。彼女が彼の手に自分の手を乗せる。しかしそれだけで、鍵を放そうとはしなかった。
「何してる。早くよこせ」
 焦燥に駆られ、彼は催促する。パトカーの音がすぐ近くまで迫ってきている。なのに、女は手を開こうとはせず、何を思ったか彼の手を両手できゅっと握って、
「わたしも、一緒に連れて行ってください」
「……なんだと?」
 わけが分からず、彼は聞き返した。
「車をあげます。だから、わたしも一緒に――」
「フザけんなっ」
 彼は恫喝するように言うと、女の手から強引に鍵を捥ぎ取った。
「あっ!」
 女が声を上げる。が、彼は構わずドアを開けてシートに身を委ねると、即座にエンジンをかけた。低い唸りがシートを伝って体を揺るがせ、ライトがぱっと点灯する。
 助手席の鍵はさっき女自身の手で開けられたはずだったが、彼女が入ってくる気配はなかった。
 彼は躊躇いもなくアクセルを踏み込んだ。
 急発進した車は眼前の門(見た目のわりにやわだった)を弾き飛ばすと、そのまま左に曲がって進んだ。
 バックミラーに一瞬、彼は女を見た。ミラーの中の彼女は、両手を胸元に置き、この状況でこちらに情を持たせるほど暗然としていた。
 警察はすぐそこまで来ている。捕まるわけにはいかない。そのはずなのに――どうしてそんな顔すんだよ!
 刹那、彼は衝動的にブレーキを踏みつけていた。慣性の法則に嘔吐感を覚えた。
 止まるや否やドアを開け、首を乗り出すと、
「何してるっ! さっさと乗れ!」
 女の表情がぱっと明るくなったのが、見えてはいなかったがなんとなくわかった。

 セントラルシティを中心に南北に伸びる、マインズウェイ。かつては鉱物運搬用として栄えていた道だ。
 セントラルシティより北方に位置する都市・ノーサルシティは、このイェルメリ大陸で二番目に大きな商都である。
 今、二人の男女を乗せた黒塗りの外車が、後方に五台のパトカーを引き連れるようにしてマインズウェイを南に下っていた。外車とパトカーとは、銃火器がギリギリ届かないくらいの間合いを保っている。
「追いつかれることはないだろうが、逃げきることもできねーな」
 バックミラーで後方を確認しつつ、アッシュブロンドの男――クリストファーはうめいた。その横で、気まぐれでとっさに乗せてしまった女が後ろを振り向いて言った。
「しつこいですね。こんなことなら呼ばなきゃよかったなぁ」
「って――お前かよ呼んだのはっ!?」
 聞き咎めて、クリストファーは叫んだ。セキュリティシステムを作動させたせいだとばかり思っていたが、どうやらそうではないらしい。
「なんで呼んだっ!?」
「だってぇ」女はフロントガラスに背を向けたままこちらを見やり、グーにした手をぶんぶんと振りながら、「泥棒が入ったら警察を呼ぶのは当然じゃないですか」
「そりゃそーだが……」
 いまいち釈然としない。どうしてついて来るのに連中を呼ぶのか。いやそもそもどうしてついて来るのか。それが不可解でならなかったが、今はとにかく逃げきることだけに専念しようと努める。が、
「くっそ、なんでついて来んのに警察なんか呼んでんだよ!?」
 結局、愚痴を言うしかなかった。
 燃料表示はご丁寧に満タンなので、連中が力尽きない限り朝までカーチェイスをしなければならない。
「あの」
 さっきからなにやら足元をまさぐっていた女が言った。
「なんだ」
「ここにまきびしが」
「はあ?」
 眉根を寄せて振り向くと、女の手に中くらいの木箱があるのが見えた。おそらくそれにまきびしとやらが入っているのだろうが、クリストファーの記憶によると、まきびしとはどういうかたちで投げようとも尖った部分が上を向くというやつだ。無論民間人が、それも一抱えもするほど持っているような代物ではない。
「なんでそんなもんが」
「さあ。父の車ですし」
「なんでもいい。さっさと撒け」
「イエッサー」
 敬礼し窓を開ける女を横目で捕らえつつ、クリストファーは彼女の父親に感謝すると同時に、ひどい徒労感を抱えていた。ついに懐に温度がなくなり、そのため絶食二日目。その上死にそうな目にあったり変な女にからまれたり警察に追われたりしているのだ。当然といえば当然だった。
 と――突然、車体がガクンと揺れたかと思うと、急にガタガタと振動し始めた。
「あっ」
 すかさず、女が声上げた。
「あってなんだ、あって。今何をした?」
 なんとなく予想はできたが、訊かずにはいられなかった。はたして女は言う。
「後輪の片方にまきびしが」
「だぁほ! 自分で自分を足止めしてどーする!?」
「でもへっちゃらです。追っ手はとっくに撒いてますから」
「だったらなぜ投げた!?」
「いえ、なんか面白くて」
「頼むから状況ってやつをもうちょっと考えてくれ!」
 ガタガタと揺れる車内で舌を噛みそうになりながらも、クリストファーは慨嘆した。もしかしたらわざとやっているのかもしれない、という思いが一瞬脳裏を過ぎった。

 マインズウェイは単なる道路ではない。かつて栄えていたというだけあって、多くの有人ないしは無人パーキングがあり、所々に小規模ではあるが街さえ目にする。マインズウェイを一つの大河とするなら、そこからはいくつもの支流が伸び、その先に村落が散在する。その周囲は基本的に荒野か森林である。
 マインズウェイ沿いに設けられた、誰が中身を補給しているのか定かでない自動販売機が一個きりの無人パーキングに、ひどく陰気な顔をしてタイヤを交換する男と、車の中で夢うつつの女がいた。
「ふあっ……」
 男――クリストファーはあくびまじりに、ようやくタイヤを交換し終えた。
 車にスペアがあったからよかったものの。現実と夢の世界との狭間を迷復している名前も知らない女を、クリストファーは睥睨した。
 なんだかこの女の尻拭いをしたような気がして、そこはかとない怒りが込み上げてくる。が、そもそも手伝うと主張した彼女に、どうせ邪魔になるから寝てろと言ったのは他ならぬ自分であった。彼女はこちらが終わるまで寝まいと必死に起きていたが。それが彼女を今の状態にしているのだろう。何を考えているのか分からないが、不思議と嫌悪感は湧いてこなかった。
 クリストファーはオイルで黒くべとついた手を拭きながら、空を仰いだ。ついさっきまで星が見えていたはずなのに、いつの間にかそれらは姿を消し、代わりに東の地平線がオレンジ色に焼けて見えた。
 手を目の高さにかざし、目を細める。
「……少し寝とくか」
 小さなあくびをしてうめく。
 クリストファーは車の後部座席に横になると、そのままゆっくりと目を閉じた。思いのほかなかなか寝付けなかったが、睡魔はじわじわと彼の意識を混濁させていった。


 そこは戦場だった。
 飛び交う銃弾。猛り狂う爆炎。降り注ぐ火の粉。半壊、もしくは完全に倒壊した建造物。死屍累々とばかりに横たわり、積み重なった死体。
 幼い彼は、仲間たちと共に黙々と地面に穴を掘っていた――死んだ仲間を埋葬するための穴を。
 物心ついた頃からしていたことだ。戦い方と武器の扱いを覚え前線に出始める前は、ほぼ毎日がこれの繰り返しだった。
 仲間にそうすることを強要されたわけでなく、環境が彼に自然とそうさせた。そのため弱音を吐くことも、泣いた記憶さえもなかった。
 彼の半生――そのほぼ全てが、死体を埋葬することに費やされた。
 十五歳になった頃、彼は戦いに身を投じるようになった。正義感など、どちらが正義かも分からない戦争の中においては培われることなど望むべくもなかった。戦争において、勝った方が――強い方が正義、それだけだ。
と、そこまで考えてはいなかった。ただ周りの人間が戦っていたから、死んでいったから、自分も戦うべきなのだと意識の根底で漠然と思っていたのだろう。
 戦闘の恐怖と同時に、彼は仲間のひとりと親しくなっていた。彼女の名は、メリッサ・ジョアハート。彼が初めて出会い、初めて恋をした二つ年上の女性だった。



 ある女の死に顔が脳裏を過ぎった。
 瞬間。車のシートから飛び起きて、クリストファーは車窓にしたたかに額をぶつけた。
「……いたい」
 端的に心情を口にする。水を被ったようにびしょ濡れになった額に手をやり、彼は我に返った。
 そこは戦場ではなく、狭い車内だった。
「なんなんだよ。ったく……」
 クリストファーは毒づくと、力の入らない手でどうにかドアを開け、外に出た。足元で砂利が、文字通りジャリと鳴った。
「で、ここはどこだ」
 周囲を見渡して、彼は自問するように呟いた。
 そこはタイヤを交換したパーキングではなく、どこか見覚えのある――既視感というやつか――ログハウスの前だった。家の手前――つまり自分の立っている場所は、青っぽい砂利が敷かれた駐車スペースになっている。そして彼らを取り囲むように、木立同士の間隔がやけに広い見通しの利く林が広がり、ただ一箇所に小道があった。この車はおそらくそこを通ってきたのだろう。
 太陽の位置から昼時だと見るや、彼はふと思いついた。
――あの女は……。
 そのとき、まさにその質問に答えんとばかりに、見計らったようなタイミングで家のドアが開き、彼女が出てきた。
「あっ、目が覚めたんですね」
 女はこちらを確認するや、てててっと駆け寄ってきた。
「起こすのは悪いと思って、待ってたんですよ」
「いや、できれば起こして欲しかったがな」
 さっきの悪夢を思い出し、クリストファーはうめいた。
「それより、ここはどこだ」
「ここはわたしの秘密基地」
「秘密基地……」
「そう。秘密基地」
「秘密、基地…………そうか、さすがは金持ちだな。で、俺はなんでここにいる」
「一言で言うと、これ」
 そう言って女が取り出したのは、あの金庫に入っていたキーホルダーのついた鍵だった。
 そのときクリストファーは、この家に見覚えがあった訳を理解した。鍵についたキーホルダー――ログハウスが模されてはいるが、そのログハウスがまさにここなのだ。そして鍵はここの鍵ということなのだろう。
「ここはわたしが親に内緒で十五歳のときに建てて、そのあと二年間住んでた家。けど金庫の暗証番号を忘れちゃって三年も置プレ――放置してたから、ついさっきまで掃除してたんですよ」
 両腕を広げ、全身でその秘密基地とやらを示して、女。
 と――
「ちょっと待て。お前が十五のときにここを建てて二年住んで、そんで三年間放置してたってことは……」クリストファーはそこでもう一度胸算し、言った。「あんた、今二十か?」
「ええ。もう少しで二一になりますけどね」
 逆に誕生日が来るのを厭ってもいい年だろうに(クリストファーの知り合いの女はそうだった)、彼女は反り身になって言った。
 それはともかく、クリストファーは憤懣を覚えていた。そしてそれをぶちまけるように、言う。
「なんであんたが俺より年上なんだよ!? そんなガキみたいな顔して!?」
「えっ、えっと……なんかそこはかとなくひどいこと言われてる気がするんですけど。なんでわたし怒られてるんですか」
「それだそれ! 年増のくせに慇懃丁寧っつーかむしろガキみたいな言葉使ってんな!」
 勢いでそこまでぶちまけてしまった後、クリストファーは女が顔を伏せて目元に手を当てているのに気付いた。もしかしたら、触れてはいけないことだったのかもしれない。
「うぅ……」
「あーもう、泣くな。泣くんじゃ……泣かないで。別にほら、怒ってるわけじゃ……」
 今まで口にする機会もなかった情けないセリフを彼が言う中、女はふるふると首を振る。
「違うんです」
「んあ?」
「目にまつ毛が入ったみたいで」
「だーもー! 状況を考えろっつっただろうがっ。紛らわしいことすんなああああっ!」
「そんなこと言われても事故ですし。ところで、じゃあ泥棒さんはいくつなんですか」
 突っ込むべきところだったのだろうが、まあ事実なので仕方がない。
「十九だよ」
「ええっ!?」まだまつ毛が取れないのか片目を閉じたまま、女はショックを受けたように一歩退いた。「三十くらいだと思ってたのにっ。騙したの!?」
「誰がだっ!?」
 年のことに対して叫んだのだが、どちらにも通用しそうな言葉だった。
「わたし年上の方が好みなのにぃ」
「無視されてしかもなんか文句言われてるし」
「でも問題は見てくれですよね。大丈夫。あなたなら少なくともわたしより十歳は年上に見えますから」
「その上励まされて、結局三十かよ」
 なんだかもうどうでもよくなってきて、クリストファーは反論を諦めた。
 一度嘆息してから、落ち着いた頭で考えてみる。結局、一番初めの質問まで戻るより仕様がなかった。
「んで、あんたの秘密基地とやらだが。いったいマインズウェイのどこら辺にあるんだ?」
「えっと、ちょうどノーサルとセントラルの中間あたりですよ。この道の先に街があって、そこにマインズウェイの支流がつながってるんです」
 女は小道を指し示して言うと、その手をポンと叩いて、
「あ、そうそう。買い物に行かないと」
 言下、女は車に乗り込んだ。エンジンをかけ、窓から顔を出して言う。このときには、もう両目が開いていた。
「ちょっと行ってきますから、留守番しててね」
 言うが早いか、女は早々にアクセルを踏んでいた。
「……って、おいちょっと待てっ!」
 言い終える前に、彼女を乗せた車は緑園の向こうに消えてしまっていた。
 憎々しいほどの快晴の下。ひとり残されたクリストファーは、
「ま、いいか……」
 ひどく投げやりな面持ちで呟いてから、クリストファーは言われたとおり家の中で待っておくことにした。昨夜のこともあり、今マインズウェイに戻るのは危険だとも思われる。
――新聞。頼んどきゃよかったな。
 とかく、他人の家に本人の承諾を得て入るのは初めてだった。しかもここは『普通の家』であり、多少の興味もあった。秘密基地を普通の家と言ってよいのか疑問が残るが。
 家の中は、外側の材木の丸太がそのまま側壁となっており、目に付く限りほぼ全ての家具が木製のものだった。こんな僻遠の地でも電気は供給されているらしく、天井ではファンが静かに回っていて、初夏にもかかわらず家の中はゆったりとしている。
 ただ一つ気になったことがある。どういうわけか、椅子やベッドなどありとあらゆる物が二人用にあつらえてあったのだ。まあ、どうでもいいことではあるが。
 クリストファーは、罠がないか確かめて(もはや習慣となっている)から、ソファに腰を落とした。
「つーか」クリストファーは頬杖を着いて部屋を視線だけでぐるりと一瞥した。「ラジオくらいねーのかよ」
 ラジオがあれば、自分が大々的に指名手配されているかくらい分かろうものなのに。特に、昨夜の一件で監察庁が自分の生存に勘付いた恐れがあった。
 自分が密航船から気息奄々で逃れていたことに監察庁が気付けば、必ず監察庁直属の回収部隊から「世界兵士」が送られてくる。奴らは個体でも国の一個中隊と双璧を為すほどの力を持っている。クリストファーは幼い頃に一度だけ、仲間が世界兵士と戦っているのを見たことがあった。そのたった一人の男を殺すために、クリストファーたちは十七人もの犠牲者を出したのだ。
――いかんいかん。
 もう自分は戦場にはいない。平和な世界で――それを手に入れる前に死んでいった彼女の分まで、生きていかなければならない。もうアークレイリ大陸の内戦のことなど考えなくていいのだ。
 だからと言って他にすることもなく、ただとりとめもなく時が過ぎるのを待つように、しばらく天井のファンを見つめ……
「なにしてんだろ、俺……」
 そんな思いが、ふと心に浮かんだ。
 知らない女にふらふらついてきて(最初はあっちの方がついてきていたはずなのだが)、知らない林の中の家でぼーっとファンを見上げている。
 あの女に、警察に通報するというような気配はなかった。だがそれだけで安心して身を任せるような都合のいい性格を、クリストファーは持ち合わせていない。だったら何故、自分がこうしてあの女の帰りを待っているかというと――
「……そういえばあいつも――」
 いつしか、窓の外が夕日に彩られ始めていた。
「あいつも、夕日みたいな髪をしてたっけな」


 今まで生きてきて、別段空腹を苦に感じたことはなかった。それは常時空腹だったためかもしれないし、また食べ物を美味いと感じたことがなかったためかもしれない。
 食べ物に対する欲求などなく、あるのはただ明日を目指す意思だけだ。
 だが必要以上に鼻腔をくすぐるその香りに耐えられず、気付くと、クリストファーはぼんやりと天井を見上げていた。
 首を横に倒すと、窓の外がグレー――ではなく藍とオレンジを混ぜ合わせた色に染まっていた。アークレイリ大陸では日中空と大気に灰燼が立ちこめており、黄昏が来ても空はグレーに染まったままなのだ。
「夜……」
 呟き、そして再度気付く――どうやら寝ていたらしい。
 よく寝る日だなと思いつつ彼が支えにするために手を出した先には――何もなかった。
 行き場を失った力によって、彼はソファから転げ落ち、あまつさえ額をしたたかに打ちつけた。
「いたい……」
 端的に心情を口にして、なんかよく額を打つ日だなと胸中でぼんやり考える。
 クリストファーは立ち上がると毛布を丸めてソファに放り、そこで初めて訝る――毛布なんて被ったっけ?
 そんなどうでもいいことは即座に忘れ、久々の熟睡に吐き気を催しつつ、彼は自分を目覚めさせたあの匂いの元へと向かった。
 多少ふらついてテーブルに手をつくと、そのすぐ側のキッチンで、夕日色の髪をした女がオーブンと睨めっこしていた。どうやら匂いの元はそこらしかった。
「なあ、あんた――」
「静かに!」
 彼女は振り向かないまま手でこちらを制し、ここの焼き加減が命、などと真に迫った声音で言ってきた。
 焼き加減をミスったら彼女は死ぬのだろうか。そんなことを一瞬思って、彼は苦笑した。まさか爆発物を扱っているわけでもあるまいに。というより普通は爆発物をオーブンに入れたりはしない。
 少し待つ。と、女が動いた。
 目には留まるが実際にするには困難窮まりない速さでオーブンから白い陶器を二つ取り出す。よく見てみると、彼女はエプロン姿だった。水色で、サイズが合っていない。
「さー、できましたよ」
 彼女は木皿に乗せた先刻の陶器をテーブルに置いた。そして手真似で席に着くよう指示してくる。
 逆らう理由もなかったため、クリストファーはふらふらと席に着いた。この時も、椅子に罠が仕掛けてないかどうかを無意識に確認していた。それはそれとして、そこでようやく思い出す。やけに足元がおぼつかないのは、二日以上何も口にしていないためだ。
「飲み物は白ワインでいいですよね。この街の名物なんですよ」
 女はグラスにワインを注ぎ、テーブルにおいた。
 そういえば喉が渇いていた。クリストファーは作法も何もなくグラスを鷲掴みにすると、一気に飲み干し――
「ぶっ……っげほ! な――なんだこれ!?」
 二、三度激しく咳き込んで、苦しげに呻く。
「だ、大丈夫ですかっ」
 瞬間、不安気に近寄ってきた女の手に鋭く光るものが見えた。
「てめぇ!」
 言いしれぬ身の危険を感じ、クリストファーは立ち上がるや女の手首をねじ上げ、さらには床へと押し倒した。
「きゃっ」
 女が小さな悲鳴を上げる。が、そんなことには構わずクリストファーが、
「おいお前、誰に雇われた!?」
 と問おうとしたとき、女の手から落ちたスプーンが小さな音を立て、床に転がった。
「……えっ?」
 落ちていたのは、紛れもなくスプーンだった。ナイフと違って凶器――それも殺傷用の物とは程遠い先の丸まった食器で、地域によってはさじとも呼ばれる。
 とりあえずスプーンに関する知識が脳に浮かんできた。
「大胆、ね」
「えっ?」
 顔に紅葉を散らせた女を見下ろし、クリストファーは間の抜けた声をもらす。
 視線をそらしつつ、女が続ける。
「でも、食べてからにしない? 途中でお腹が鳴ったりしたら、嫌だし」
「え、あっ、いや違う!」
 言下、急いで女を立たせ、クリストファーは元通り席に着いた。
「なんだぁ、違ったの」
 心なしか残念そうに言ってから、女は床に落ちたスプーンを流しに下げ、引き出しから新しくスプーンを持ってきた。
 スプーンを差し出しながら、言う。
「じゃあ、いったい何をしようとしたんですか?」
 スプーンを受け取って、クリストファーは戸惑った。まさか酒を毒と勘違いしてスプーンを持った女を殺し屋と思いこんだ、などと言えようか。もはや茶番の域を越えて精神疾患症と懸念され得る…………ん、病気?
「いや、その……び、病気だ」
 苦し紛れに、最初に思いついた言い訳を口にする。
「病気?」
「そう。持病のな。突発的に人を押し倒すことがあるらしい。最近はなかったんだけどな」
「人柄もさることながら、奇特な病気もあるんですね」
――それはあんたの言っていい台詞か?
「でもわたし以外の人にはしないでくださいね。そんなことをした日には……」
 一瞬、女の目が刃物のような鋭利さを見せた気がして、クリストファーは総毛立った。
「な、なんだよ」
「さ。冷めないうちに食べましょう」
 閑話休題するにも限度があるものだが、女は気にせず席について食事を始めた。
 クリストファーも仕方なく、器に入れられた挽肉とトマトソースをスプーンの先でかき混ぜる。下のほうからなにやら四角い麺のようなものが出てきたがそれには手をつけず、女の後に続くかたちで一口食べる。
「美味い……」
 ぽそりと、自然に出た――思えば初めて口にした言葉だった。生まれて初めての感覚と、自分の言動に驚き、クリストファーは見開いた目で器の中にある赤い食べ物を見つめた。
「何言ってるんですか。ラザニアは貴方の好――」言いかけ、慌てて口元に手をやると、女は言い直した。「あ、いえ。そうですか。嬉しいです」
「…………」
 一瞬取り乱したのを誤魔化そうと食事を再開した女に疑義を抱いたものの、気にしても仕様がなさそうなので考えないことにする。ただ、その女が反応したときに見せた幸せそうな笑顔は、彼に強い感銘を与えた。それは、数ヶ月前に死んだ彼女の笑顔を彷彿とさせるものだった。あんなたった一言でも相手の笑顔を引き出すことができる。クリストファーはこの数ヶ月でそのことすら忘れていた。
 と、
「そういやあんた、名前何て言うんだ?」
「えっ……なんか唐突ですね」
 女はきょとんとした後、気分の問題だろうか居住まいを正して、
「わたしの名前はアルフィエーリ。アルフィエーリ・ユノ・ヴァイトリオです。アルフィーとか、アルとか、アーリとか呼ばれてました」
 耳に入ってきた単語を丁寧に処理し、クリストファーは口を開く。
「アーリが一番覚えやすいな。どっちかってゆーと、最初のがガキっぽくて一番しっくりきてるけどな」
 最後の余計な一言に、女――アルフィエーリはムッとしたようだった。
「ガキじゃないです。胸は並以上にありますし、お酒だって飲めますよ。ガロン単位で!」
「人外かよ。っていうかそれはなにか。俺より大人だってことか? それに並以上ってのも嘘っぽいぞっていうか嘘だろ」
「着痩せするんですっ! 自分で言うのもなんですけど結構大したものなんですよ」
 ついには立ち上がって身を乗り出しつつ、アルフィエーリ。ここまで必死になられると、逆にからかいたくなるのは人の情というものだ。
「あーそー」
 半信半疑どころか欠片も信じずに、クリストファーはラザニアを一口食べた。
「あーっ。その目は信じてませんね!?」
「ああ」
「それじゃあ賭けましょう。わたしは並以上に二万!」
「そんな金がありゃそもそも盗みになんか入らんわ。っていうか何をして並以上と判断するってゆーか脱ぐなよ!?」
 エプロンを脱ぎ捨てたアルフィエーリを見て、クリストファーは椅子を蹴って立ち上がった。アルフィエーリがスカートの裾に手をかけたところで(胸を見せるためなのに何故スカートを脱ごうとするのだろうかという方が気になったりはしたが)、
「わかった! 俺の負けでいいからっ。やめろっ!」
 と、懇願するようにそこまで言ってから――はっとする。アルフィエーリが勝ち誇った笑みを浮かべていることに。
「貸しにしときますね」
「あーもーいいよ。どうせこうなるとは思ってたよ」
 手荒なことをした罪悪感と果てしない脱力感に、クリストファーは嘆息して席に着いた。
――これから、どうなるんだろうな。
 金を手に入れるつもりで盗みに入ったはずなのに逆に借金をしてしまった。が、とりあえず今すべきことは、このラザニアとやらを片づけることだった。
2005/07/08(Fri)20:00:01 公開 / 柊 梢
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■作者からのメッセージ
えー、途中経過(?)もなんもかんもすっとばしてお送りします。
えーと、いかがでしたでしょう? 基本的に現代系ラブコメは短編で、ファンタジー系ラブコメは長編でというラブコメばっか書いてる私です。
よかったら、感想・批評を残していってくだされ。
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