- 『空のロザリオ』 作者:Rikoris / ショート*2 ショート*2
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眩しすぎる夜だった。
夜空という紺碧のビロードの上には、星という様々な宝石が余すところなく散らばっている。その光は、地上のどんなそれよりも美しく柔らかで、あたしを包み込み空へ誘い込もうとしているかのようだった。
澄み切った、本当にきらびやかな星空。あとどれくらい、それを見られるのだろう。
マンションのベランダから夜空を見上げ、あたしはふと思った。星はどれだけの間存在しているのだろう。きっと人の何億、何兆倍にもなるのだろう。そう考えてみると、人の一生なんてとても儚く短いようだ。ということは、晴れていれば生きている限り星空を見ることが出来るのではないか。だけど。
――あと、半年。
だけど、あたしにはもう時間がないんだ。
「星、綺麗だね」
唐突に掛けられた耳慣れた声に、あたしは思考世界から現実世界へと引き戻された。
声のした方――右側――を見ると、あたしが今居るのと丁度同じ箱形のベランダがあった。その縁に両腕を預け、声の主は立っていた。眩しすぎる星空を見上げて。
見惑うはずもない。目を細め星を見る彼は、隣の部屋に住む見慣れた幼なじみだった。
「眠れないの? もう遅いよ?」
星から目を離すことなく、しかし声は心配そうな調子で彼は尋ねてきた。無理もない、もう満月が南中しているのだから。
「ちょっとね。こんな星空、滅多に見られないでしょ。ずっと見ていたくて」
それにもう、見られなくなってしまうかもしれないから。星空を心に留めておきたくて。
「そっか。眩しすぎるくらいだしね。でも、なんだか妖しげで、不吉な感じがするよ」
さらに目を細め星を見つめ、彼は呟いた。
確かに、彼の言う通りだった。今の星はさながら、美しい花を咲かせて虫を誘う食虫植物のようだった。甘い光に、溶かされてしまうような錯覚を覚える。得体の知れない恐怖の種が、あたしの心にまかれていく。
「そういえば星、好きだったよね」
やっと彼があたしの方を向いた。疑問とも肯定ともつかないその言葉に、あたしはただ頷く。
昔から、星は好きだ。神聖な感じがして、手が届きそうで届かない。闇の中では、月のように強くなく、優しくあたしに視界をくれる。どこか見えないところにいるかもしれない神様のようだ、とあたしは思うんだ。
星はあたしにとって、ロザリオだ。それに祈れば、神様に伝わるような気がするから。
「明日の夜、海行かない? 丁度快晴らしいし、海から見る星空はまた格別だよ」
彼も星が好きだ。天文学部に入っているくらい。さすがだな、とあたしは彼の言葉に思った。あたしとは星の詳しさが違う。
「うん、良いよ。ありがと」
予定がなかったかどうか少し考えて、あたしは答えた。少し声が弾んでいた気がする。
嬉しかった。最後の夏、最初の思い出になるかもしれないから。あたしの好きなものが。
「それじゃ、明日ね」
彼はフッと笑んで、ベランダの縁から腕を浮かせた。そして、窓の方へ踵を返す。
呼び止めたかった。
――残念ながら……あと、半年です。
昔から聞いていたような、でも今日聞いたばかりの現実味のない言葉が、脳内に響く。
その言葉の言わんとする無情な事実を、彼にだけは伝えておきたかった。けれど伝えようとすると、同時に恐怖の種が心の中で発芽しようとする。あたしにそれを振り払えるほどの勇気はなかった。だから……
「おやすみ」
ただ、そう声を掛けることしかできなかった。そんなあたしへ彼は「おやすみ」と返し、窓の中へと入って行ってしまった。
彼が行ってしまうと、急に静寂が訪れたように感じた。蝉の鳴き声が耳に障る。
また夜空を見上げた。眩しすぎる星々の光があたしを照らし、優しく包み込む。
空のロザリオの中で一際輝く大きな数珠玉を見つけると、両手を組んだ。祈りを捧げる時にそうするように。
『どうか、明日を何事もなく過ごさせて下さい。明日一日だけでも良いですから』
心の中で唱える。星が神様に伝えてくれることを、ただ信じて。
あたしは不安で、怖くて仕方がない。明日を迎えられる保証も、無事に過ごせる保証もないから。でも、彼には心配を掛けたくないし、後悔をさせたくもない。あたしがいなくなっても、元気で今まで通りで居て欲しい。
だからせめて、明日という思い出の日を奪わないで、まだあたしをいざなわないで下さい。
あたしは心の中で唱え、祈り続ける。
いつしか蝉の声は聞えなくなり、不気味な程の静けさが辺りを染め変えていた。
潮騒が聞えている。海の奏でる、心落ち着くメロディーが。
目の前には、星々の光に照らされ、水面をきらめかす夜の海が広がっている。海を見ると、あたしはどこか懐かしい感じを受ける。海が、全ての生命の源だからだろうか。あたしも、もうすぐそこへ帰るのだろうか。
「星、綺麗だよ? どうしたの?」
隣に座っていた幼なじみが、海を見つめていたあたしの顔をのぞき込んできた。その整った顔は、心配なのか歪んでいた。
「ん、海が輝いて綺麗だから見てただけ……」
言いながら夜空の方へ顔を向けて、頬を水が伝うのに気付いた。雨じゃない、空は彼が言っていたように晴れ渡っていて、星々が瞬いているのが見える。
水は後から後から、止めどなく頬を伝って行く。それはあたしの目尻から、どんどんこぼれ落ちている。そう、流れ地に落ちるそれは、涙だ。
「ねぇ、本当にどうしたの?」
彼が再び尋ねてくる。心配そうに、不安そうに。潮騒が弱まる。その響きは穏やかで、私をなだめようとするかのようだった。星々の光は柔らかく、しかしやはり妖しげだった。
どうしてしまったというのだろう、あたしは。涙が溢れて止まらない。理由は、はっきりしている。
――あと半年。
頭から離れない、あの言葉のせいだ。優しい響きを立てる、生命の源のせいだ。でも、どうして泣いてしまったのだろう、涙が止まらないのだろう。彼に心配を掛けまいと思っていたのに。
「何でもないよ、大丈夫だから」
力を込めていったつもりだったのに、あたしの耳が捕らえたのは、震えた弱々しい声だった。情けなさに、また涙が溢れる。
瞳に溜まった涙に星の光が揺れ、視界が星色に染まる。そのまま星に溶け込んでしまいたかった。彼を苦しめずに済むのならば。
「何でもないならどうして……泣いてるの?」
ゆっくりと穏やかな口調で、彼は問い掛けてきた。心の中にまかれた恐怖の種が、その瞬間発芽した。そしてそれは急速に成長を遂げ、あたしの心を絡め取る。
伝えなきゃいけない。昨日宣告された、あのことを。彼にだけは伝えたい。でも、怖い。口に出してしまうと、現実になってしまいそうで。彼が自らを責めてしまいそうで。
「言ってくれないと、わからないよ? 言いたくないなら、無理には訊かないけど」
優しい彼の言葉が、あたしの心をくすぐる。このまま伝えないでおいてしまおうか。良からぬ考えが、頭をもたげる。でもきっと、いつかは知られてしまうことだ。伝えておいた方が、彼のショックは少なくて済む。甘えてなんか、いられない!
あたしは心を決めた。まばたきをし、瞳に溜まっていた涙をはらう。夜空にきらめく星々が、あたしの瞳に飛び込んできた。瞬く空のロザリオは、それで良いんだと囁いてくれているようだった。早く言っておしまいなさい、とロザリオを通して神様が言って下さった気がした。心に絡んでいた恐怖が、すっと消えていくのを感じる。
「ごめんね、黙っていたことがあるの。聞いてくれる?」
自分でも驚くほど自然に、あたしは彼へそう言えていた。涙が止まったばかりだったからか、ちょっと声は震えてしまっていたけれど。
「もちろんだよ。話してくれるだけで嬉しい」
彼の言葉に、少なからず心が落ち着くのを感じた。伝えられる、そんな気がした。
「昨日、病院に行ったんだ」
空から彼へ視線を移しそう言うと、彼の穏やかだった表情が強張った。潮が満ちてきたのか、潮騒が大きく、騒がしくなる。
「前から疲れやすくなってたのは知ってるでしょ? それで、検査に行ったんだけど……」
言葉が詰まる。咽が締め付けられているみたいに、声が出なくなる。肝心な一言が、あたしから出るのを拒んでいる。
「どうだったの?」
強張った表情で、ゆっくりと彼は尋ねてきた。潮騒が、急かすようにあたしの耳を掠める。視線を空へ向けると、大丈夫だよ、と空のロザリオが語り掛けてきた。
「――あと半年の命だって。半年しか生きられないんだって言われちゃった」
これで良いんですよね。空のロザリオへ、あたしは語りかける。どうか、彼が苦しむことがありませんように。心の中で、あたしは祈りを捧げる。空のロザリオは、神様に伝えてくれるだろうか。あたしが彼へ、辛い現実を伝えられたように。
彼は、大きく目を見開いていた。嘘でしょう、とでも言いたそうに。嘘だったなら、どんなに良いだろう。でもあたしの病気は、事実が変わることはないんだ。
「本当に……?」
目を見開いたまま、ほんの少しだけ唇を動かして、彼は呟くように尋ねてきた。それは、信じられない、と言ったようにも聞えた。
こうなることは、覚悟していた。あたしだってまだ実感がないくらいなのだから。
「本当だよ。治療法のほとんどない病気で、進行しちゃってるからいつ死んでもおかしくないんだって。感染はしないものだし、治療ももう出来ないから、入院しなくても良いって言われたんだけど」
そう言っていると、他人事のように思えてくる。あたしの身に起こっていることが現実であることに、変わりはないのだけれど。
「それじゃ、早く帰って休んだ方が良いんじゃ?」
はっと、我に返ったというように彼は心配そうな顔になった。確かに、彼の言う通りだ。でも。
「もう少し、ここに居たいな。無理言って出てきたんだもの。最後になるかもしれないし」
あたしが言うと、彼は空に目を向け「そっか」と呟いた。
「それなら、もう少し星を見ていよう」
そう言った彼の表情はわからなかったけれど、声は少し震えていた気がした。さっきまでのあたしみたいに。
「大丈夫だよ」
あたしも空を見上げ、呟く。それは自分への言葉でも、彼への言葉でもあった。
「人って地上にまかれた種みたいだ、ってあたしは思うの。種は色んな土地に落ちて、それぞれの場所で必死に育とうとするんだ。でもちゃんと育って実を結ぶのは、良い土地に落ちて、良い環境に恵まれた種だけ。日照りにあったり茨の中に落ちたりした種は、芽吹けなかったり芽吹いても枯れてしまったりする。でも、でもね。どんな種でも、枯れた後にはその土地の養分になるんだよ。だから、意味のない種なんてないんだ」
そうである保証なんて、どこにもない。けれど、そうであってほしい。だってそうなら、あたしが生まれてきたことも、死ぬことも無駄ではないということになるから。
「あたしは、日照りの土地に落ちちゃった種なのかな。病気っていう日照りに、枯らされかけてる種なのかな」
自分で言ったことなのに、涙がまたこみ上げてきた。日照りからは逃れられない。そう思い知った気がして。
「泣かないで」
隣から飛んできた声に、あたしは顔をそちらに向けた。ポロリ、と涙がこぼれ、星の光に輝く。壊れやすい宝石のように。
「泣かないでよ。君が日照りにあう種なら、僕は水になるから。君を支える水にね」
いつの間にかこちらを向いていた彼は、笑っていた。穏やかに、微かに。瞳を潤ませながらも。
「そろそろ、帰ろう。最後なんかには、ならないよ。また来れば良い。絶対、連れて来てあげるから」
すくっと立ち上がり、彼はあたしへ手を差し伸べた。
「信じて、良い?」
あたしは彼へ尋ねてみた。ぐい、と瞳に溜まっていた涙をぬぐって。
「あたり前だよ。嘘なんか、つかない」
大きく頷き、彼は笑みを深めて見せた。あたしは手を出し、しっかりと彼の手を握った。
ぐっ、と強い力で彼はあたしの手を引いた。おのずとあたしは立ち上がる。
「行こう」
そう言った彼が、いつになく頼もしく見えた。あたしは深く頷き、手を繋いだまま歩き出した。
夜空に輝く星々は、もう妖しく輝いてはいなかった。優しい、平穏な光を放っていた。そんな光を見つけられたら。そう思いながら、あたしは一歩一歩、ゆっくりと進んで行く。彼と共に。
穏やかになった潮騒が、あたしと彼を見送っているようだった。
眩しすぎる夜だった。
隣にいる幼なじみが微笑を浮かべているからか、空のロザリオが輝いているからか、定かではなかったけれど。
あの日から、あたしと彼は毎日海へとやって来ている。海にいると、自然と落ち着くから。
「渡したいものがあるんだ」
幼なじみの声が、潮騒の中に凛と響く。あたしが彼の方を向くと、彼は小さな四角い箱を目の前に出して来た。
「受け取ってくれる?」
あたしは頷き、おそるおそる箱を手に取った。そしてそっと、それを開けてみる。
最初に瞳に入ってきたのは、白い淡い光。目を凝らすと、それが沢山の珠の連なりであることがわかった。中央に、十字架がついている。
「これ……ロザリオ?」
彼の方に顔を向け、確信を胸に問い掛けてみる。
「そうだよ。前から、欲しそうだったから。掛けてみて」
箱からロザリオを丁寧に取り出す。それは、星と同じ様な柔らかい、優しい光を放っていた。蛍光塗料でも使われているのだろうか。まるで空のロザリオをそのまま縮めたような、美しいロザリオだった。
大切にロザリオを持ち、首に掛けてみる。光を放っているからか、ぬくもりが感じられた。
「よく似合ってる。綺麗だよ」
そう言って彼は、嬉しそうに笑む。
あたしは、ずっとこのロザリオをつけていようと思った。夜しか祈れなかったあたしに、彼がくれたロザリオを。想いのこもった、かけがえのない空のロザリオだから。
あの日、あたしが彼へ辛い現実を告げた日、神様はきっと、祈りを聞き入れて下さっていたのだと思う。あの日一日、本当に何事もなく過ごせたし、彼にあのことを伝えられた。
あたしはそれから、毎日祈りを捧げている。一日一日が、平穏であるように。彼と過ごせる日々が、いつまでも続くように。
「見て、流れ星だよ」
ふいに、彼が夜空を示した。するとそこを、細い光が過ぎていくのが見えた。それだけじゃなかった。細い光がいくつもいくつも、空を駆け抜けて行っている。それは星。流星雨が訪れていたのだ。
あたしはとっさに、胸にある十字架を握った。きっとこの流星雨は、神様の業。それを見ていると、勇気が湧いてくる気がした。前を向いて、神様があたしをいざなうその日まで、生きていこうという勇気が。限られた日々に、思い出を詰めて。忘れないよう、消えないよう、日々を大切に心にしまって。
あたしという日照りの中の種はきっと、枯れたとしても水に溶け込んで、他の種の力となれる。もう、現実を受け入れられるようになっていた。
でも、神様。ただ一つだけ、お願いを聞き入れて下さいますか?
首に掛けたロザリオの数珠玉をそっと手で包んで、あたしは空を掛ける数珠玉達へと語りかける。両手を組んで、祈った。
『どうか、彼といられる日々を出来るだけ長く続かせて下さい。思い出が、彼の癒しとなりますように』
流れ星がきらめく。あたしの祈りを、その身にまとってくれたように見えた。きっとあの流れ星は、神様の元まで飛んで行ってあたしの祈りを伝えてくれる。
「ねぇ、帰ろう」
あたしは彼へと声を掛ける。またいつか見れるよ、と
微笑しながら頷いて、彼はあたしの手を取った。離れないように、けれどそっと手を繋ぐ。一歩一歩踏みしめるように、あたしと彼は歩き出した。
流星雨があたしと彼を照らし、あたしの胸で空のロザリオが揺れる。それは、祈りを聞き入れましたよ、という神様からの合図のように思えた。
あと何度星空を見れるかわからない。でもあたしには、彼のくれた空のロザリオがある。彼という水がある。だからあたしは、枯れないように頑張ってみよう。そうすればきっと、あたしという種は、彼という水の中で生き続けられるから。
流星雨の中、あたしと彼は歩を進める。ゆっくり、ゆっくり。潮騒に見送られながら。
空のロザリオが、いつまでも輝いていた。あたしと彼を、見守るように。
あたしと彼は、空のロザリオに結ばれている。だから、これからはいつまでも一緒だ。お互いが心の中で、空のロザリオのように輝き続ける限り――
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■作者からのメッセージ
ご無沙汰しております、Rikorisです。テストなど色々あり、暫くまともに小説を書けていなかったので、リハビリを兼ねて短編を書いてみました。
七夕ということで、星をテーマにしてみました。微妙に、前に書いた「どうか、神様」という短編と繋がっていたりします(笑) 多くの方にご感想を頂けたら幸いです。
更新がストップしてしまっていた長編の方も、ある程度までは過去ログの方で更新していこうと思いますので、今後ともよろしくお願い致しますm(._.)m