- 『洗う僕の生活』 作者:柊 梢 / 恋愛小説 恋愛小説
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原稿用紙約18.8枚
ドラマなどでよくある、情け容赦も手加減すらもなくひたすら極端に理不尽なまで成功率の低い手術。それを超えない限り明日は来ないという病。
そんな突拍子もない宣告を受けたら、あなたならどうする?
助かる見込みはある。けれど、死という終点にばかり思考は行き着いてしまう。
人には目的がある。理由がある。
死――そこには理由があって、目的がある。
わたしの目的。わたしがここにいる理由っていうのは何なんだろう。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
当たり前のことではあるが、総合病院は大きい。むしろ広い。そして清潔。
白い内装。白い医者。白い天使。白い患者。それが健康であるか否かを問わず、どこまでも果てしなく白、白、白。
そんな白一色の中を黒いシャツに黒いパンツという黒ずくめで歩く彼は、明らかに場違いな人間というのだろう。
だがそんな彼にも救いはあった。彼は自分の右手を見下ろした。
白い箱。「はろや」のお昼限定五十個シューが三つばかり入っている。
と、彼は急に足を速めた。夏の昼下がりというのは、シュークリームにとって劣悪なる環境下だということを思い出したのだ。
何十回と通ってもう馴染んだ道順を、彼は急ぎ足で進む。途中で顔見知りの天使と会釈を交わし、階段を登る老婆に手を貸し、担ぎ込まれた急患のベッドにはねられたりすると、一体どういった目的で急いでいたのかも忘れがちになる。というか頭を打って記憶が飛んだ気がした。
不幸中の幸いとでも言おうか、シュークリームは無事だった。
「あっ」
そこでようやく急いでいた理由を思い出す。
起き上がって服についた埃(塵一つ着いてはいなかったが)を払い、再び歩き出す。
最後の角を曲がり、廊下を二十メートルほど行った突き当たりに、その個室はあった。
『山口絢子』
前回来たときと変わらぬ表札、変わらぬ病室。
「ま、変わってもらっても困るがな」
感情のこもらない声で呟き、ドアを開けて中に入る。ノックをしなかったのは、単に必要なかったからだ。
個室といってもさほどの広さがあるわけではない。少し大げさな洗面台があって、テレビがあって、ベッドがある。おそらく自前だろうレース地のカーテンが風に揺られ、高校の物理を思い起こさせるように皮肉っぽい波を立てている。
夏にしては珍しく冷涼な風が、部屋の空気を入れ換える。誰も頼んでなどいないのに。
誰も頼んでなどいないのに、彼は来た――あり得ない。
彼は苦笑して、ベッドで寝息を立てている少女――という年でもないはずだが、顔立ちは幼い――に視線を移した。
寝相が悪く、シーツを足で器用に丸め、入院着ではない黒猫の寝巻きがはだけて白い肌が露出している。
前回もその前に来たときも、彼女は「またね」と言った。つまり、また来ることを要求されたのだ。
「………………」
人間って奴は何かしら理由をつけたがる。その性格を神が与えたのならば、実のところ奴は神などではないのかもしれない。もっと別の――そう、密かに人間に恨殺を抱き、窺窬する悪魔なのかもしれない。
「……そっちの方面を専攻すりゃよかったかな」
独りごちて、彼は「はろや」の箱から保冷剤を取り出した。ベッドの側に立ち、それを少女の露出した腹部に乗せる。
待つこと数秒。
「ん……冷た……」
彼女――山口絢子は見事に目を覚ました。
「あ、健ちゃんっ」
「いいご身分だな。人が命がけで来てやったってのに」
「なにそれ。命がけって」
絢子は手の中で保冷剤を弄びつつ、怪訝そうに聞いてきた。
「さすがは総合病院。やっぱり一筋縄ではいかなかった……とだけ言っとく」
「? 普通、一筋縄でいかない病院なんてのも聞かないけど」
絢子はさらに疑問符を浮かべ、首を傾げた。だがその顔も、こちらの手に白い箱があるのを見ると一転する。
「あっ、それなに!?」
「これは――」
言いかけ、踏み止まる。刹那、彼――水瀬健一の心で悪魔さんが微笑んだのだ。
怪しまれないくらい一瞬で、健一は言い直した。
「これは俺の昼食だ」
言ってから、健一はベッド脇の椅子に腰を下ろした。そして箱からおもむろにシュークリームを一つ取り出すと、それをゆっくりと顔の――正確には口の高さまで持ち上げた。
「あー!」
非難がましく、絢子はベッドから身を乗り出して声を上げた。
健一はシュークリームを口の前でぴたりと止めた。そのままの姿勢で、欲火を宿らせたような絢子の瞳を睥睨し――
ぱくっ。
「ああああああっ!?」
今度こそ絶叫し、絢子はベッドに這いつくばった。そこから恨めしげに健一を見上げ、言う。
「おいしい!? ここんとこ味気ない病院食しか与えられないという過酷な強制ダイエットの末に三キロも痩せた女の子の目の前でそんな魅惑的なカロリー満載のカスタードを皮の中に詰めた語源がフランス語でキャベツなお菓子をむさぼっておいしいのっ!?」
「さいこー」
「えーん!」
終いには泣き出し、絢子はシーツを被ってベッドに伏せてしまった。
健一は、しくしくとわざとらしい泣き真似っぽいことをやってこちらの同情を引こうとしている絢子の頭をポンと叩き、
「そんなに食いたいのか?」
ぴたりと泣き真似をやめ絢子は、起き上がると涙の痕が微塵も見られないきらきら輝いた瞳を健一へと向けた。その期待に満ちた瞳に向かって、健一はさらりと告げた。
「じゃあそこで黙って俺が食うのを見てろ」
「うわああああんっ!」
今度こそ本気で泣き出した絢子に、健一は笑いを堪えつつ箱を差し出した。
「わーったよ。悪かった。ほら、残りの食っていいぞ」
「うぅ……」
疑惑の拭いきれない様子ながらも、絢子は箱を受け取った。
その目の前で、食べかけのシュークリームを見下ろした健一は、げっそりとした声をもらす。
「あーやば、気分悪り。やっぱ食わなきゃよかった」
「甘いもの嫌いなくせに。どーしてそういつもいつも飽きることを知らずタマネギをなくなるまでむしり続けるサルみたいにわたしをいじめるかなぁ」
「どーしていつもいつもザ・ロリコンと謳われんばかりのベビーフェイスで泣くかなぁ」
「………………」
反駁しても勝てないと悟ったのか絢子は、唇を噛み半眼になって健一を睨めつけた。
さすがの健一も気圧されたように目を逸らし、言い過ぎたと反省してつくろうように言った。
「早く食べちまえ。食べ終わったら、髪洗ってやっから」
「ホントっ!?」
健一の言葉に、絢子は破顔一笑して久々のシュークリームを頬張った。
洗面台に顔を伏せた絢子の濡れたショートヘアの一本一本にまで染み込むように、健一は優しく細やかな、しかししっかりとした手つきで洗髪剤を広げていった。
普段は髪で隠れている絢子のうなじに、いつものことながら健一は動揺していた。
「わたしが無防備だからって、変な気起こさないでよ?」
まるで健一の心を見透かしたかのように、絢子が忠告した。中学からずっと一緒ならば、百万回に一度くらいは人間の勘も当たるというものである。
「誰が子供に欲情するか」
「同い年のくせに……」
それきり絢子は黙り込んでしまった。だが、健一が二つ目の洗髪剤を絢子の髪に広げていくと、彼女は再び口を開いた。
「んー、きもちー。枝から落ちて腐りきったあとの微生物に分解されてる途中とは言わないまでもそれに限りなく近いっていうかむしろそれなミカンみたいだけど、やっぱり美容院の息子は違うわねえ」
「……どーも」
この状態で暴れてもらっても困るので、とりあえず仕返しは後回しに健一は呟いた。
「ねえ」
「ん?」
「客商売でしょ? かゆいところありませんか、とか言えないの?」
「お前は客じゃないだろ」
「いいじゃん、そんなの」
「よかない。はい、おしまい」
それでも食い下がる絢子を無視し、健一は一方的に話を打ち切って、彼女の髪についた洗髪剤を落とした。
髪を拭いてドライヤーで乾かし、ブラッシングしてやると絢子は普段の上機嫌に戻っていた。
「んー、気持ちよかったぁ。たまにはこういう気持ちいいこともないとねえ」
思い切り伸びをして、絢子はベッドに転がった。
いつもならここから、美容院の客や専門学校で知り合った美女とかの他愛のない会話が展開されるのだが、今日はそういうことはなかった。というのも、いつもなら話を切り出す健一が、今日はそうしなかったからだ。
聞きたいことが、健一にはあった。それは絢子が入院する原因となった、春から彼女をこの病院に拘束し続けている病状に関することだった。今まで気にならなかったということもないが、あえて聞こうともしなかった。
意を決して(という大げさな気構えはしていなかったが)、健一は口火を切ろうと口を開きかけた。が、その直前に絢子の口が開いたのが見えて、健一は再び口を閉じた。
「右手がね、動かなくなるかもしれないんだって」
「……は?」
突然のことに、健一は反射的に聞き返していた。
いつの間にか風が止んでいた。さっきまで重さを感じることのなかった室内の空気が、急に密度を増し、二人にのしかかってきた。
呼気は重く、吸気はさらにずしりと重い。
「ちょっぴり難しい手術で、右手の肉を少し取るんだけど、後遺症が残るかもって……」
「…………」
返すべき言葉が見つからなかった。だが絢子はそんな健一には構わず淡々と、まるで他人事のように続けた。
「ホントはね、もっと前に手術する予定だったんだけど、手術室の前まで行ったら、怖くてできなかったんだ。だってもし右手が動かなくなったら……健ちゃん、そんな女の子嫌でしょ? でも、ね。もう限界なんだって。夜になったらすっごく痛くなるし、このまま放っておけば右手はもちろん命に関わるって……でもわたし、健ちゃんに嫌われて右手も使えないまま生きていくなんて嫌だから……いつもお見舞いに来て髪を洗ってくれるだけで十分だったから……健ちゃん。わたしがいなくなるまで、わたしのこと好きでいてくれるかな?」
本当に他人事だった――少なくとも健一にとっては。これまで感情移入なんてしたことなかったが、そうしたところで得るものなどなかった。しなければよかった。
いくら感情移入したところで、絢子の気持ちなど、所詮は彼女にしか理解できないのだから。
だが一つだけ。一つだけ、それ以外で健一にもできることがあった――
「絶対やだ」
――断固拒否。そしてさらにまくし立てる。
「断るだめ拒否することこの上なくさらに不許可」
おそらくそんな返答は予測していなかったのだろう絢子は、一瞬失望に目を剥いたが、すぐに作り笑いを浮かべた。
「そ、そうだよねえ。時間の無駄だもんね。わたしなんか気にしても――」
「やかましいっ」
健一はにべもなく吐き捨てると、保冷剤(もうさすがに溶けているだろうが)の入った箱から食べかけのシュークリームを取り出し、そのかじり取られた部分を絢子の口に押し付けた。
「……っ!?」
さすがにこれには驚いて、絢子が口元に手をやろうとするが、健一は彼女の両腕をベッドに押さえつけた。そのまま告げる。
「あのな、お前が死ぬなんて誰が決めたんだ? 右手が動かなくなるってのもそうだし、俺がお前を、その……」
恥ずかしさのあまり一旦口を閉じ、改めて健一は続ける。
「……そんなことお前に決める権利があるか? 今ここで、俺はお前を殺そうと思えば殺せる。簡単だろ? 花瓶で殴るなり、窓から放り捨てるなり、窒息・撲殺・刺殺・焼殺・毒殺。なんでもいいが、決めるのは俺だ。お前を……好きでいようといるまいと俺の勝手。お前が安楽死を望むのなら、俺は絶対に阻止する。お前が死にたがっているのなら、俺は絶対に止める。決めるのはお前でも、ましてや神様なんていう悪魔でもない。決めるのは俺だ」
そこまで道破して、健一は絢子の手を離した。彼女の口についたシュークリームを取り払って、口の周りについたクリームを拭い取ってやる。
それが終わると、健一は元通り椅子に腰かけ、あさっての方を向いて言った。
「死んでもらっても困るんだよ。髪洗う練習台は、お前しかいねんだから」
見てはいなかったが気配で、背後で絢子が身を起こすのがわかった。彼女が後ろから腕を回してきたことも。頬を寄せ合うようにして、絢子は健一を抱きしめた。
「うん。ごめん。わたしがいないと、駄目だったんだよね。昔から」
「…………感謝してるよ、山口には……」
中学のとき、孤立していた健一を支えてくれたのが、彼女だった。中学時代の小さな思い出を、健一は胸中で反芻した。
周囲を気にせず、ずっと友達でいてくれた絢子の頬――自分に触れているのとは反対の彼女の頬に、健一は手を宛がった。
「これから毎日、退院してからもずっと、お前の髪は俺が洗ってやる」
絢子がこくりと頷き、二人の頬が擦れ合った。
「……だからって――」
自分の家――つまりは美容院の店内で、健一は椅子の背もたれを倒しながら毒づいていた。
「お前、もうなんともないんじゃないの?」
その声の先、椅子に寝ている少女――絢子は上機嫌で、
「約束は約束でしょー」
言ってから、絢子はぐっと両腕を天井に向けて伸ばした。
「うーん。腕も動くし体調は万全だし自分で髪洗わなくっていいし。もう、さいこー」
「いいから黙れ。腹が立つ」
「もう。お客様に対してその言葉遣いはないんじゃないかなぁ」
「金も払わずに髪洗って、定休日にもずけずけやってきてしかも定休日にゃあメシまで食って帰る奴を、世間じゃ普通客とは言わないんだよ」
「いいじゃん。おかげでおじさんたちにも気に入られたし」
「うるさい黙れ即座に黙れ今黙れ」
「客しょうば――」
「黙らんと浴槽用の洗剤で洗ってやるぞ。こびりついた汚れもスプレーするだけで落ちるそうだから、俺も楽だ。どちらかというと、俺はトイレ用の方を試してみたいんだが?」
「むぅ……」
遮られたことに怒ったのか、本当にされると危惧したのか、とにかく絢子は黙った。
健一が嘆息しつつシャワーの温度を調節していると、絢子は再び口を開いた。
「ね。健ちゃんのさ、生きる目的とか理由ってなに?」
「? 唐突になにを言い出すんだ、お前は」
「いいから。なに?」
「まあ、強いて言うなら……お前をからかうことが生き甲斐だな」
「…………聞かなきゃよかった」
「そうだな。ほら、濡らすからじっとしてろ」
濡れた髪が、彼の指にまとわりつく。
それに抗いもせず、彼の指は絢子の髪を丁寧にほぐしていく。
それは一種の快感だった。
副作用のない、依存症。
颶風のあとには、必ず凪がある。
目を閉じたまま、絢子はそっと彼に呟きかけた。
「わたしの生きる目的と理由はね……ここにあるんだよ」
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■作者からのメッセージ
少し前に書いた作品です。
セリフがネタっぽいのは仕様ですw
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