- 『夜明けの日』 作者:umitubame / 恋愛小説 恋愛小説
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勉強する手を止め、ふと外の暗闇を見上げた。
何があるわけでもない夜には、やはり、いつものように寮の隣の棟の屋上があるだけだった。月がその上で淡く輝いている。星はいつもより、はっきりとしているかも。
僕は、その当たり前の現実を確認して、再び机の上の教科書に目を落とそうとした。
そのとき、ふっと気になった。
視界の片隅の闇の中に何かがいた。
誰もいないはずの屋上に、誰かがいる。
誰からも見つからないような物陰に、ひっそりと座っている。偶然かもしれないが、僕はその人が僕たちから見られるのを避けて隠れているように思えた。
人の出入りが多いわけではないとはいえ、立ち入りが自由な屋上である。だから、そこに誰が潜んでいようとも不思議ではないのだが、でも、そのときの僕にはどういうわけかそれがとても気になったのだった。
隣の棟は唯一の女子棟である。工業系で大多数が男子であるこの学校で、クラスに何人かの女子のうちさらに一握りだけが住んでいる棟。人数はだいたい、二十人くらいだろうか。多くても三十人には満たない。男子はこの棟に出入りはできないので、僕たち男子にとっては「禁断の花園」といった感じである。
そんな女子棟の屋上から、白い煙が上がる。
ああ。とそのとき僕は納得した。たばこだ、彼女はたばこを吸っているのだ。
この学校でたばこを吸う人間は少なくない。僕は吸わないけれども、点呼後、男子寮の屋上に二、三赤い蛍のような明かりが見えることがある。でも、それを女子の方で見たことは今までに一度もない。
気がついたら、僕は食い入るように彼女を眺めていた。ほとんど微動だにしない彼女の些細な動きの一つ一つを見のがすまいとしていた。
彼女は、たばこの煙がかき消された後もしばらくじっとしていたが、日付が変わる頃におもむろに立ち上がった。そのおかげで、隠れていた姿が現れる。夜の闇の中とはいえ、月明かりに照らされた屋上は意外にも明るく、顔は見えないものの、案外その姿ははっきりととらえることができた。
思ってたよりも背が高い。髪はショートカット。顔と手だけ浮き上がって見えるのは、彼女が夜と同じ黒い服を着ているからだろう。想像するに、「可愛い」よりも「綺麗」系。見たことのない輪郭。きっと、寮ではほとんど顔をあわせたことはないだろう。
そんなことを考えつつ、しげしげと観察していた僕は、視線を上へと移動してふいにはっとした。
彼女がこちらを見ていた。
ただ、じっとこちらを見ていた。
でも、たぶんそれは僕の気のせいだろう。
なぜなら、僕からは彼女の顔は見えないのだから。だから、彼女はきっとただ別の方向を眺めているのだ。僕を見つめているなんて、僕の幻想にすぎない。きっと、彼女は見ている僕の存在にすら気づいていないだろう。
でも、僕の勝手なイメージの中で、彼女の瞳は射抜くように僕をとらえていた。
1 架空の彼女
「たばこ、ねえ」
トースターから少しやけすぎの焦げた食パンを取り出しながら、和也がつぶやいた。少し熱かったのか、それを落としそうになって慌てているところを後ろからのっぽの坊主頭に押しのけられ、彼はむっとした表情で僕をみる。
和也は親友といっては大げさだけれども、僕にとって一番話しやすい友人である。彼と僕がつるんでいるなんて信じられないという人もいる。実際、彼は髪をやや明るめに染めているし、右の耳に大きな穴が二つ開いていて、明らかに地味な僕とは正反対なのだ。僕も去年の後期に同室になるまで、彼のことを怖い人だと思っていたくらいだ。
「たっく、何なんだよ。先輩だからって、偉そうに」
僕たちは、どこかけだるそうな賑わいの中、通称中央分離帯と呼ばれる、食堂の真ん中に縦に置かれたテーブルの右端に席を並べて座った。和也はにらみ付けるように高橋というその先輩を見ていたが、目が合い、わざとらしい愛想笑いをうかべた。僕は、和也に向けられた先輩の憎たらしそうな目つきに少しびびりながら、皿の上の生の食パンにバターを塗った。
「それにしても、祐貴も変わったやつだよなあ。なんで、そんなにその女のこと気にするんだよ」
僕の手元を見ながら、和也は言う。
「別に気にしてなんかないけど」と僕は言ったが、それが真っ赤な嘘だということは、和也には言うまでもなくわかっているらしい。顔がいやらしくにやついている。
「だいたい、今日はこっちに座ろうなんて言い出したのも、そいつのことをさがそうとしてだろう」
図星である。僕たちが普段座っている学年の席では、中央にある大きな柱がじゃまになって、女子の席が見えないのだ。だから、誰が座ってもいいこの席に来た。それに、横方向に配置されたテーブルの中、ここだけが縦になっているのでずっとそちらを向いていても不自然に思われないし。
僕の顔が真っ赤になるのを見て、和也は更に意地悪な表情になる。
「あーあ、この甲斐性なしもとうとう恋するお年頃になったのかあ」
「うるさいなあ、別に彼女のこと好きになったわけじゃないよ」
僕は少し強い口調で反論した。
そう、これは恋なんて甘い感情ではないのだ。彼女がこうまでも気になるのは、昨日、黙って覗いていたことへの罪悪感もあるし、何より、あの雰囲気が妙に心に引っかかるのだ。切ないわけではない。むしろ、心配、という言葉が一番近いのかもしれない。恋のときめきや焦燥感とは全く別物である。
でも、これを和也に言ったら「おまえはわかってない」と一笑されるだろう。
「まあた」と和也がまたにやにやと僕の顔を覗き込む。
僕はそれを冷ややかな目で押し返した。
和也は引き際を悟ったようで、チェッとつまらなそうに舌打ちをして、背もたれに寄りかかりアイスカフェオレのストローを軽く噛んだ。
「たばこなんて、意外にみんな吸ってるもんだぜ」
和也がぼそりとつぶやいた。
「男子はね」僕は言う。
「はん、お前女にきれいなイメージ持ちすぎ。ほら、おまえの幼なじみの、なんてったっけ、宮子。あいつとか普通に吸ってるじゃん。あんなもんだよ。もしかしたら、昨日のそれもあいつかもしれない」
「宮子?ああ、あいつは別だよ。絶対に違う」
僕はあからさまにいやな顔をしてみせる。
「なんで」と聞いた和也に僕は言った。
「あいつだったら、顔見えなくてもわかるし、それに……あいつは女じゃない」
「うっわ、言うねえ……」
次の瞬間、和也の目が泳いだのがわかった。そして、その原因もすぐに判明することになる。
「誰が女じゃない、よ」
バンッと置かれたプレートの上で、スープが少しこぼれている。
いい具合に焼けたパンは、半分皿から落ちかけている。
赤いラインの白いトレーニングウェアに中学校時代の緑のハーフパンツ。
ダークブラウンの長い髪。前髪をピンで留めて、額を出している。
愛嬌のある丸い瞳が、ぎらぎらと危険な光を帯びている。
宮子だった。
「あ、おはよう」
僕は声がかすれるのを感じた。
「まあったっく。朝っぱらからいい気分がだいなしじゃないのさ。バカ裕貴。どうしてくれるのよ」
そう言って、宮子は和也の前に腰を下ろした。その動作があまりにも自然で、ほとんど面識のない和也はそのことに対してすこし動揺していたようだ。
和也は、いかにも遊び人風な面構えと格好と言動をしているのに、実はそう言うことに関してはからっきし駄目だったりする。照れているのか少し無口になった和也が僕は無性におかしかった。
そんなことはお構いなしに、宮子は片肘をついてイチゴジャムをつけたパンをほおばり、笑いをこらえた僕に「なによ」とパンのクズを投げてきた。
「で、なんでこんなところで飯食ってんのよ」
宮子は左の耳たぶをいじりながら、僕に聞いた。
「ああ、なんかこいつ、気になるやつができたらしくて、探してるんだとよ」
和也が、僕の代わりに答える。その口調もどこか堅い。
「ふうん、このへたれも恋するようになったのか」
「別に恋ってわけじゃない」
僕は、ため息をついて言った。
さっきも聞いたような会話だ。さっきは向こう側が折れたが、今度はそうもいかない相手だ。そうとわかったら、おばさん並みにしつこい。女の性質、と宮子は自分で言うが、引き際というものを知らないのである。
「またまた、照れちゃって。で、どんな子なのよ。可愛い?年下?年上?もしかして、タメ?」
特に、恋愛沙汰になるとなおさらである。
興味津々の宮子に対して、僕はそれを説明せざるおえない。
それが、小さいときからのいつものパターンだった。
僕は、小さくため息をついて、周囲に気をはらって、少し小声でことのいきさつを彼女に話し始めた。
「ここは、でるからねっ」
手を大きく8を横にした形、いわゆる無限大の記号のように振り回しながら、英語教師の花田絵里香が言った。
そう言うのだから、きっとでるのだろう。僕は、それを几帳面にノートに書き写した。
教室の後ろで和也がいかにもけだるそうな顔をして、むりやり斜めに倒した背もたれにふんぞり返っている。さしておもしろい授業ではないのに起きているのは、絵里香のあまりにも卓越した個性をからかうためだ。その周りにも同じようなのが固まっているために、そこら周辺だけかなり五月蠅い。まあ、それもいつものことだし、絵里香が気にするほど僕たちは気にしていない。むしろ、いつも隣の席の横田のいびきが気になっていたりする。
でも、今日はそれも気にならない。
朝、宮子にあのことを話したのは正解だったと思う。
宮子は好奇心旺盛で、人のことにすぐ首をつっこみたがるくせに、意外と口が堅い。それにかなりのおせっかいなので、今回も
「しょうがないなあ、協力してあげる」
と少し嬉しそうに言ってくれた。同じ棟に住んでいる女子が味方についてくれたなら、きっと彼女はすぐに見つかるだろう。実はもう、7人くらいに絞れているくらいだ。協力者がいるのといないのではこうも違うと実感させられる。
「松田くんっ」
突然の絵里香の呼びかけに僕はびくっとした。
あまりの驚きようだったらしく、逆に絵里香が目を大きく見開く。それに、後ろの集団の誰かが笑って、伝播していって、教室中笑いの渦に飲み込まれた。
後ろを振り向くと和也が「バーカ」と大爆笑している。僕は自分の顔がみるみる真っ赤になっていくのを感じた。
「し、ず、か、にっ」
絵里香が叫ぶ。かなり遅いながらも徐々にクラスが静かになってく。
「松田君、ここわかるかしら」
ごほん、という咳払いは照れ隠しだろうか。
僕は、慌てて立ち上がり黒板をみてさらに慌てた。考え事をしていた間にかなり授業が進んでいる。
「……あの、どこ…やってるんですか」
僕は、情けない声で言った。正直かっこわるい。
絵里香の目がまた大きく見開かれる。
教室が再び笑いに包まれた。
八時限のチャイムが鳴るよりも少し前、先生がまだ授業を続けているところで、僕たちは立ち上がった。委員長が「れーい」と言うと皆、すぐに帰る支度をする。いや、立ち上がったときにはほとんど皆が支度を終えている状態だといってもいい。はじめ、先生方はこれにとてもいやな顔をしていたが、最近はなれた様子で、中にはそれを知っていて授業をほんの少し早めに終わってくれる先生もいる。どうやら、そういう人たちは自分の授業を途中で中断されるのがとても嫌なようだ。
僕は、周りと同じように帰りの支度をすると、すぐに入り口へ向かった。
「なに、あわててるのさ」
一瞬、誰にかけられた言葉かわからなかったが、それが僕に対するものだと知るのにはそれほど時間はかからない。
宮子がそこにいた。
教室の前の女子トイレの入り口付近の壁に寄りかかって、腕を組んでいる。隣には僕のクラスの神田さんが立っている。
入学当時相部屋だった彼女たちは今でも仲が良いらしい。神田さんは僕と目を合わせないようにするかのように床をじっと眺めている。
「何か用?」
と僕は宮子に聞いた。
「別に」と宮子。
「私たち今日七限だったから、菜都実のこと待ってたの。でさ、今日ずっと考えていて、思ったことあったからついでにね」
「そりゃ、どうも」
そう言って僕は神田さんをちらりと見た。
神田さんがびくりと知るのがわかる。正直、こういう反応をされるのはまだ慣れない。きっと、この先も慣れることはないだろう。
「そういや、和也君は?」
この人がいるところで話してほしくない、と言う意味だったのに宮子が僕の目線に気づくことはなかった。気づいていたとしても、その意味を理解することはなかったろうが。
「和也なら」と今度は教室に視線を移す。
だるそうに掃除をしている和也の姿が飛び込んでくる。和也は先週掃除当番だったのに、半分以上をさぼっていたので、今週一人で掃除と言うことになってしまったのである。まぬけなのは、和也が掃除をさぼった理由が「掃除当番であることを知らなかった」ということ。しかも、同じ当番の誰も気づくまで教えてくれなかったのだからひどい話である。
教室には、まだ結構な人が残っていて、邪魔そうにしながら和也は自在箒の柄にあごをのっけた。
「なあんか、まぬけ。手伝ってやらないの?」
「いや、面倒だし」
「あんたって案外冷たいとこあるよね」
宮子が苦笑して、神田さんが微かに笑い声を上げた。
「私、手伝ってくる」
神田さんが言った。
「は、なんで菜都実が?」
「だって、なんだか可哀想になってきちゃったから。先週同じ掃除当番なのに教えてやらなかった私も悪いわけだし」
そう言って、神田さんは掃除器具ロッカーの中から箒とちりとりを取り出して、教室の中へと入っていった。
「あいかわらず、分かんないわね。あの子の考えてること」
宮子が肩をすくめる。
教室の中で神田さんに声をかけられて、周りにからかわれ、慌てふためいている和也の姿がどうにも情けなかった。
「で、考えてたことって何?」
僕は聞いた。
「そうそう」と宮子が勢いよくこちらに向き直る。
「あんた、レアって知ってる?」
レア、確か寮生女子の中でほとんど表に出てこない子がいて、その人のことを先輩たちが珍しがってそう呼んでいた気がする。確か、同じ学年。本名は、わからない。僕は顔を思い出そうとして、自分が彼女を一度も見たことがないという事実に気づいた。僕の顔を見て、宮子がニイッと笑う。
「だったら、あんたの探し人結構簡単に見つかるかもね」
宮子は彼女がその「レア」だとでも言いたいのだろうか。きっとそうなのだろうが……。
でも、寮生で見たことのない人、と言ったら確かにレアである確率が高いだろう。
「他に、僕が知らなさそうな先輩とかは…」
「さあね。でも、よくよく考えたら先輩のほとんどが吹奏楽かバレー部か写真部だし、知らない顔はないと思うけど」
そうだった。実を言うと女子寮の先輩方の中で僕の顔は知れ渡っているのであった。
僕は、入学したときにバレー部に入部したはいいものの、練習について行けず結局退部して、今は吹奏楽と写真部を兼部している。そう考えると、確かに先輩の線は薄くなる。そして、さらにレアの確率が高くなってくるということだ。
目の前で宮子がにやついている。
教室から出てきたクラスメートが「なんだ、彼女か?」とからかって来た。
でも、どういうわけかそれが嫌みに聞こえない。それを冷静に軽く「ちがう」と受け流した。
なんだか、とても気分が晴れ晴れしている。
僕はなぜか楽しくなってきて、宮子に
「ありがと」
と自分でもびっくりするくらいの声で言って、驚く宮子を尻目に寮までの帰り道を走った。
2 彼女という人
「レア」
本名:神馬 十実
年齢:一六歳
クラス:二年建築科 A
誕生日:十月三日
実家の住所:Y村
出身中学校:Y村立H中学校
建築科Aの委員長。入学時の一斉テストから学科首位を保持している。
家は農家らしいが、父親は県外に単身赴任しているらしい。
二四歳になる兄が家業を継いだようだ。
寮生であるが、どういうわけか一切食堂に顔を出さない。
そういうわけだから、男子寮生とは必然的に顔を合わせなくなるわけである。
もしかしたら、僕は彼女を今まで通生と思っていたのかもしれない。
夜の点呼後、寮の売店にいることがあるらしい。
酒は飲む。
喫煙は知らない。
これが僕の調べた、レアという人物について知りうるすべてのことである。
自分でも、ストーカーに近いことをしているとはわかっている。しかも、もしもこれが人違いであるというのなら、とんだ笑い種である。
それでも気になってしまうのだから仕方がない。
僕がこのことを宮子に聞いてから、気がついたら何もせずまま三日が過ぎていた。とりあえず、彼女についていろいろ聞き回ってはみたものの、どうにも実際に会って確かめてみる勇気というものが湧かなかったためである。
宮子、和也はもとい、たぶん宮子から話を聞いたのだろう神田さんまでもが僕の背中を強すぎるほど押してくれてはいたが、それでも二の足を踏んでしまうのは僕があまりに情けないからだろう。
大きくためいきをついて、僕は二階の渡り廊下にある絵里香の研究室のドアをたたいた。
僕の学校は、ほかの高校とは少し違った特殊なところがいくつかあって、その一つとして職員室がないのだ。その代わりといっては何だが、大学のように教員一人一人に「研究室」と呼ばれる個室が与えられる。授業でわからないところがあったりしたときや、その先生に用事があるときなど他の人に聞かれなくてすむという利点もあるが、正直言うと、一人の先生に会うためにわざわざ遠い研究室まで行くのはかなり面倒だったりもする。
僕が絵里香の研究室を訪ねるのは、フランス語を習うためである。フランス語は別に授業で習うわけでもないが、僕が興味があるといったら、フランスに住んだことのある絵里香が教えてくれると言ってくれたのだ。それが、一年生の夏であったから、もう少しで一年が過ぎようとしていると言うことになるのか。でも、あまり僕のフランス語力は向上していないが。
「はーいっ」
と絵里香が研究室のドアを開けた。
入り口付近に室内を隠すかのように置かれた本棚の向こうから、ムワンとした女性的な香水の甘ったるいにおいが僕のいる外へと逃げ出してくる。
正直嫌いなこのにおいを払うような仕草をして、僕は「しつれいします」と中へと入った。
そう広くはない室内には、壁に沿うように二つ本棚が並び、そこには英語の教材と辞書、ほかにいくつかの言語の辞書が並べておいてある。「古代エジプト語」と書かれた分厚い表紙の辞書のようなものはいったい何に使われるのだろう。
反対側の壁には、ホワイトボードが掛かっていて、それに向かい合うようにソファとガラステーブルが置かれている。はじめは別の配置だったらしいが、僕がフランス語を習うと言うことで、変えたのだという。ちなみに彼女が私物化しているホワイトボードは、去年まで彼女が担任していた現三年土木工学科Bの教室に置いてあった学校の備品である。
僕が少し遠慮がちにソファに座ると、絵里香が紅茶とクッキーを出してくれた。
「じゃあ、テキストの36ページを開いてっ」
絵里香がホワイトボードの前で言った。
こうやって一対一で話してみると、絵里香から授業の時のようなせっぱ詰まった感じは感じられない。独特の語尾のやたら短い話し方は健在だが、それでも落ち着いていると思う。きっと、彼女は大勢を相手にするのを無意識に苦手としているのだろう。
僕一人のために開かれるこの授業は時間もたっぷりあるので、三時間くらいのうち半分くらいが雑談に終わる。今日も、気がついたら日が暮れる直前だというのに、目標の半分も進んでいないという事態に陥っていた。まあ、それもいつものことではあるのだが。
「quel jour sommes-nous?」
絵里香が例文を読み上げる。
僕はそれを口の中で、もごもごと繰り返した。
「これの意味は、わかるっ?」
「確か、今日は何曜日ですか、ですよね」
「んーんっ。正解っ。予習してきたわね」
えらい、と絵里香は満面の笑みを浮かべて見せた。
そんなときである。
こんこん、とノックの音が聞こえた。絵里香がまた「はーい」と返事をする。
基本的に研究室の中に誰かがいるときは、外で待っているのがルールだが、僕のこの授業は何時に終わるか定かではなく、しかもかなりの長い時間やっているのでその間の来訪者は取り次ぐことにしている。たまに、そのためにこの授業が30分程度しかできないこともある。
僕は、突然の来訪者との絵里香の会話に聞き耳を立てた。
きっと、この時間にやってくるのだから誰か先生に違いない。そういう時は、何か僕にとって有益な情報があったりするので、こっそりと盗み聞きするのだ。ときおり知らないで、誰かしらの成績を言う先生までいたりする。
しかし、今日のそれはあきらかに先生のものとは違った。
それは、若い女性の声。
ほとんどの教員が五十近いおじさんで、女性教師も絵里香と定年近い二人がいるだけのこの学校で、それは生徒であるということを指し示していた。
続く
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2005/07/13(Wed)20:42:12 公開 / umitubame
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■作者からのメッセージ
2の中盤といったところ。
絵里香先生、ほんの脇役の予定だったのですが、何となく印象が強かったようなのでまた出してみました。
じつは、学校が長期休業に入ってしまい、家にPCのないumitubameは一ヶ月ほど更新できなかったりします。
自分で「けっこうのってきたー!」とか思ってたのに少し残念だったり。
それでは、次回、といっても一ヶ月後またお会いしましょう。
感想、アドバイス等頂けるとうれしいです!
umitubameでした