- 『NEKOMI Paradise ―完―』 作者:神夜 / お笑い お笑い
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全角107217.5文字
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原稿用紙約301.6枚
『bP From:大量食物連鎖
内容:フードファイト開催!! さあさあ寄ってらっしゃい見てらっしゃい!! ルールは至って簡単だ!! この掲示板で出遭った相手をチャレンジャーと認定し、後は個人同士で開催場所を決定させて一対一のフードファイトを始めるだけ!! 細部のルールは互いの任意で決して構わないが勝敗は時間内に相手より多く食った方が勝ち、または「ギブアップ」と相手に言わせればそれでOK!! 勝った方は負けた方に全額奢らせることが完全無欠の掟!! これを破ったら最後、キサマを骨の髄までしゃぶり尽くしてやるから覚悟しておけ!! ていうかキサマが食われて死んでしまえボケナスがッ!! 腰抜けは帰れ帰れ死に晒せッ!!
さあさあ寄ってらっしゃい見てらっしゃい!! 大食い自慢のあなたには最高の戦場がここにあるッ!! 勇敢なる大食い諸君ッ!! ここは君たちだけの戦場であるッ!! 世紀末が過ぎた昨今を覆す正真正銘の世紀末を実現させようではないかッ!! さあさあ始まる始まるフードファイト伝説ッ!! 勇敢に戦う諸君の姿を楽しみにし、武運を祈る――ッ!!!!』
『bQ From:ジャガリコマン 内容:……ええっと、一番乗りなのですが……、正直僕は大食いに自信があります。ですから誰か挑戦してくれる人をお待ちします』『bR From:クソッタレノ交想曲 内容:誰でもかかって来いやッ!! 全額支払うだけの覚悟と金があるヤツだけ来いッ!! 片っ端から相手してぶっ倒してやるからよぉッ!!』『bS From:桜 内容:わたしは女の子ですが大食いには自信あります。いっつも友達に「食べ過ぎだ」って怒られちゃうくらいに。でも身体は細いです。だからって甘く見てると痛い目を見るよ。ね、誰かわたしと勝負して?』
『bU0 From:クソッタレノ交想曲 内容:かっかっかッ!! 今現在四連勝中ッ!! おれに勝てるヤツァもういねえんじゃねえのか!? 自信あるヤツどんどんかかって来いやッ!! かっかっかッ!!』『bU1 From:ピーマンピータン 内容:bU0>四連勝中? はっ、甘い甘い。おれはすでに六連勝。お前じゃ絶対におれに勝てねえな』『bU2 From:南 内容:……うー、この前惨敗して七万も支払う羽目になった……。腹立つ腹立つ腹立つっ! 誰か挑戦者求む!! 今度こそ勝つ!!』『bU3 From:クソッタレノ交想曲 内容:bU1>喧嘩売ってんの? いいよ、買うよ? 上等だぜかかって来いやァアッ!! bU2>負け犬が吼えてんじゃねえよ!!』
『bU53 From:UMA 内容:オイ知ってっか!? この掲示板には一回も顔出してねえらしいけど、「NEKOMI」ってヤツが今現在五十七連勝中らしいぜ!? 公式記録は十六勝だったよな!? 誰か「NEKOMI」の情報持ってねえ!?』『bU54 From:コマネチ 内容:あっ! それ聞いたことあるっ!! フードファイトの神様伝説だろ!? うわっ、おれも超知りてえ!!』『bU55 From:二酸化炭素製造機 内容:…………バカかお前ら。「NEKOMI」に触れるな。生きていたければ決して触れるな。貯金全部吹っ飛んで借金取りに追われたいのか。夜な夜なヤツの声が聞こえる…………「NEKOMI」には決して触れるな…………』
その掲示板の投稿件数は、今現在では軽く五十万件以上に及ぶ。
そして数ある話題の中でも最も人気を集めるのが、「NEKOMI」と呼ばれる謎の最強フードファイターのことだ。ひと言でまとめるのなら、それは都市伝説のようなものである。こういう掲示板では一つや二つ、必ずそういう話が現れるものだ。事実だと主張するには物的証拠は無いが、しかし実際に「NEKOMI」と戦い破れた者たちが存在する。その数、一応の確認ができるだけでなんと百四十八人。もちろんその中の全員が本当なのか嘘なのかはわからないし、もしかしたら実はもっと存在するのかもしれないし、もしかしたらすべてがまったくの出鱈目かもしれない。
真相は、「NEKOMI」だけが握っているのである。
今では神と崇められる存在、最強のフードファイター。
「NEKOMI」が最高の栄光を手にできる場所。
そうだ。
まさにここは、
――『NEKOMI Paradise』――
コンビニで買って来たばかりのホットドック三本が一瞬で無くなったので、今度は買い置きしておいたカップラーメンにお湯を入れながら床に座り込み、湯気が上がるその光景を見つめ、神野祢瑚美(かんのねこみ)はまるで幼子のような潤んだ瞳をする。その瞳はただ純粋に「お腹空いた」と語っているのだが、実はこの女、さっきホットドックを食う前に飯を五杯+うどんまで食っているのである。一体どこをどうやったらそんなに詰め込めるのか謎であるのだが、祢瑚美はそれが当然だと言いたそうにカップラーメンの出来上がりを今か今かと待ち侘びている。
今年二十一歳で現役大学生、両親の反対を押し切って勝手に一人暮らしを始めたはいいが祢瑚美に家事全般の実力はまるで存在しなくて、いつもいつも隣人や友人に助けてもらいながら何とか生活を続けている。そしてそんな祢瑚美の目下の問題が食生活だった。祢瑚美はよく食う。「お前身体全部胃袋なんじゃねえの?」なんて言われるくらいによく食う。そのくせ料理ができないので大体は外食で済ませるのだが、最近ではそれも危うくなってきている。一時間食べ放題のバイキングで追い出されること五回、焼肉食べ放題で店長に泣きつかれること三回、その他の店で「もう材料がありません」と頭を下げられること多々。故に近頃祢瑚美は飲食店への入店を禁止になりつつあるのだ。
ホントにわたしってブラックリストに載ってるんじゃないの?――などと思う神野祢瑚美二十一歳の夏である。
外食店を練り回るだけの金がどこから出ているのかはこの際敢えて言わない。別に怪しい仕事をしているわけでも如何わしい仕事をしているわけでもないのだが、取り敢えず言わない。ただ親が大会社の社長で年収が三十億で金が余って余って仕方が無いとかそういうのではない、たぶんきっと絶対に違う。祢瑚美が住んでいるマンションの家賃が実は二十五万円で、それを毎回毎回なぜか多目に払って大家にとても喜ばれているとかそういう証拠も存在しない、違うのだ違う違う。だからあまり言わないでやって欲しい。
話を戻そう。祢瑚美はよく食うのである。しかしよく食うくせになぜか体重が一向に増えず抜群のプロポーションを保っていることは祢瑚美を知るすべての者の疑問で、おまけに顔だって整っていて性格さえもが穏やかなのだから文句のつけようがない。だが祢瑚美の唯一の欠点が、やはり『よく食う』ということ。そん所そこらの大食いなど屁でもないくらいに祢瑚美は食いまくる。彼氏と飯を食いに行ったとしても、祢瑚美に「遠慮」の二文字は存在しない。かつて付き合った彼氏は皆、その場で逃げ出すか引き攣った笑顔でバイバイしてそのまま二度と戻って来ないとか、そういう流れがあるからこそ、今現在祢瑚美に彼氏はいない。それがちょっと寂しい二十一歳の夏である。
カップラーメンにお湯を投入してから二分三十秒が経過した瞬間、祢瑚美は刀を抜き放つ侍のように割り箸を手にし、フタを開けて麺を掴む。実に、実に幸せそうな祢瑚美の笑顔。とんでもなく不味いものを食わない限り、祢瑚美は本当に幸せそうに食べ物を食べる。その幸せそうな顔を「可愛い」と思い込み付き合う男共が真っ青になる、小悪魔な微笑である。そして皆が祢瑚美に対して「もう食うな!!」と叫べない理由は、そこにあるのかもしれない。
ずるるるるるるるっとカップラーメンを食べ続ける祢瑚美の背後には、テーブルの上に置かれていたノート型パソコンが淡い光を放っている。麺を食べる音が響く中で、突然にしてパソコンが「ピポン」という音色を奏でた。口から麺を滝のように垂らしたままで祢瑚美は背後を振り返り、のそのそとお尻で移動しながらパソコンの前に辿り着く。片手でカップラーメンの汁を飲みながら、もう片方でマウスを動かして先の音の原因を探り当てる。
メールである。登録している人ではなく、初めて送られてきた人だった。
差出人は『HIMEKO』、件名は『挑戦希望』、内容は『「NEKOMI」さんですよね? ようやく見つけることができました。今回貴女にメールを送ったのは、件名でもある通り挑戦したいからです。貴女もわたしの名前は知っていてくれていると思います。自慢する気はありませんが、それくらいはあの掲示板で名前が通っているのです。貴女が逃げるとは少しも思っていません。わたしの挑戦を、受けてくれますか――?』
カップラーメンに残っていた最後の汁を飲み込み、幸せそうな顔をして祢瑚美は微笑む。本当に可愛らしい微笑である。そしてその笑みの本当の意味は、『挑戦者が見つかった=お腹いっぱい食べれる』という方程式の下に成り立っている。
手に持っていたカップラーメンの容器を床に置き、祢瑚美はパソコンのキーボードに指を走らせる。
『よくわたしを見つけることができましたね。もちろん貴女の名前は知っています。最高連勝記録を打ち立てていた「クソッタレノ交想曲」さんの四十九連勝を食い止めたお方ですよね? そして貴女は今、「クソッタレノ交想曲」さんと同じくして四十九連勝に並んでいる。しかしそれもこの一ヶ月はぴったりと止まってしまっていた。つまり、公式の最高連勝記録を塗り替えるための挑戦者を、敢えてわたしに選んだ――と、そういうわけですか?』
送信。
パソコンのディスプレイを見つめながら、祢瑚美はくすくすと笑った。
祢瑚美は、今までただの一度もフードファイトの掲示板に書き込みをしたことがない。それには面倒だからという理由と、相手は自分から選びたいという理由があったからである。最初の内は適当な相手を見つけては挑戦し、決めた現地で出遭ってギッタギタに叩きのめしてきた。が、それが何回も何回も繰り返される内にいつの間にか掲示板に祢瑚美のことが「NEKOMI」と表されて噂され始めたのだ。
それからは挑戦者が後を絶たなかった。片っ端から戦って勝てる自信はあったが、それはそれで面倒だったので、いつしか祢瑚美は趣向を変えることにした。戦うのであれば本当に強い人がいい。そこから考えついたのが、あの掲示板の主催者である「大量食物連鎖」に連絡を取り事情を話し、掲示板で名の通ったヤツが現れ、その者が「NEKOMI」と戦いたいと意志表示したら「大量食物連鎖」が「NEKOMI」への挑戦権であるメールアドレスを挑戦者に教える、という仕組である。
「大量食物連鎖」さんにはいつもお世話になりっぱなしだ、と祢瑚美は思う。
また強い人を送ってくれてありがとう、とも思う。そして、また思いっきりタダで食べることができることに感謝しよう、とも思う。
早速返信が来た。「HIMEKO」と名乗るこの挑戦者は、明らかに「NEKOMI」を意識しているのだろう。
『もちろんその通りです。貴女と戦って勝ち、五十連勝を打ち立てたらわたしはもっと上へ行ける。貴女の伝説はここで終わらせてみせます。これからはわたしの伝説が始まっていく。食べることに関しては貴女と同様に負ける気がしません。フードファイトの舞台はどこでもいいです。わたしに好き嫌いはありませ……ごめんなさい、わたしピーマンだけは食べれないんです。ですからそれ以外で、お願いできませんか……?』
思わず笑ってしまった。この子は良い子だ、と祢瑚美はまた返信を書く。
『わたしもピーマンは苦手です。……そうですね、お寿司なんてどうでしょう? 食べた枚数で勝負するのが一番判り易いと思うのです。それに百円寿司で食べれば安いですし、貴女が負けたときの負担も軽くなるでしょう。貴女はいい人みたいだから、あまり負担をかけたくはありません』
『お心遣いありがとうございます。わかりました、お寿司でいいです。しかし心配は無用です。負けるのは貴女なのだから』
『お互いに負ける気はなし、ですか。いいですね。正々堂々と戦いましょう「HIMEKO」さん』
『ええ、お願いします「NEKOMI」さん』
それから祢瑚美は、数通のメールの後に「HIMEKO」と出遭う日時と場所を決めた。
開催日は明後日、場所は隣の県の百円寿司屋。祢瑚美と「HIMEKO」が住んでいる場所がそんなに離れていなくてよかった。あまりに離れていたら金銭的な関係や地理が無知な関係で互いに会えないときもある。だから今回はついている。一つ県を越せば「HIMEKO」が住んでいる場所があった。待ち合わせ場所は必然的にその間の県になるのだ。明後日の正午ぴったりに、決戦の幕が切って落とされる。
またお腹いっぱい食べれるんだ、と祢瑚美は幸せそうな顔で大きく背伸びをし、まるで猫のような声を出す。
そして、カップラーメンを食ったばかりなのにも関わらず、また空腹を感じた。
祢瑚美は立ち上がる。
「スパゲッティでも食べ行こっかな」
祢瑚美は、最強のフードファイターである。
◎
「大量食物連鎖」の名前は「月野神夜」というらしい。
本名ではないと祢瑚美は思うのだが、月野神夜はそれが本名だと言い張るのだ。しかし最近ではそれでもいいかと思うのだが、それよりもまず、月野神夜が高校生であるとはどうしても思えない祢瑚美である。
月野神夜と初めて出会った場所は、バイキングの食べ放題だった。祢瑚美がまだ入店禁止になるより前、一時間半食い放題という名の下に食って食って食いまくっていたとき、ちょうど向かいの席に座っていたお兄さんがこっちを見ているのに気づいたのだ。当時の祢瑚美は二十歳になったばかりだったのだが、そのお兄さんはどう見ても二十歳は過ぎている、下手をすれば二十八くらいではないかと思う人だった。なにせ坊主頭だったし、髭生やしてたし、煙草吸ってたし。
しばらく、祢瑚美は食べるのをやめてお兄さんを見つめ、お兄さんは祢瑚美を見つめていた。
やがてお兄さんは席を立ち、ゆっくりとこちらに歩み寄って来る。座りながら見上げる祢瑚美に笑いかけ、お兄さんは言った。
「いい食いっぷりだね。でもそれだと結構金かかるんじゃない?」
貴方には関係ないじゃないわたしを馬鹿にしてんの、と思った。
が、違った。
「君みたいな人を探していた。近々ぼくはフードファイトの掲示板を開こうと思うんだ。そこで出遭った相手とフードファイトして、買ったら相手に全額奢らせることが可能な本気の勝負さ。別に今の君が金に困ってなくてもいい。ただ、君みたいな強い人がいてくれた方が絶対に掲示板は盛り上がるはずなんだ。ぼくの目に狂いはない。ね、ぼくと手を組まないかい?」
面白そうだからその話に乗ってみた。どうせ暇だったし、ちょうどいいかと思ったのだ。
そしていざ掲示板が立ち上げられて参戦してみると、これがまた面白いのなんのって。今まではただ『食う』しか関心がなかったその場所に、食って『戦う』という名目が組み込まれ、食事の場は戦場と化した。負けたらつまらないだろうが、祢瑚美には他の者に絶対に負けない自信があったし、事実祢瑚美は戦ったすべての者に勝利してきた。戦った者も五十人まではちゃんと数を数えていたのだが、今ではもう面倒なので憶えていない。しかし百人はすでに倒したのではないかと祢瑚美は思う。
それから僅かな月日が流れ、月野神夜の予想通りに、祢瑚美がいることにより今ではフードファイトの掲示板は「NEKOMI」の噂で持ち切りだった。しかも月野神夜が手を回してHNを変更して『勝ち続けていいところまで行くと「NEKOMI」と戦う挑戦権がもらえる』という情報を流してさらに盛り上がらせることに成功したのである。
今ではネット世界で「大量食物連鎖」主催のフードファイトの掲示板を知らない人間はほとんどいないくらいに有名になった。ちょっと前に祢瑚美は月野神夜と再び出会い、「作戦成功だ、感謝する」と礼を言われた。そのときも思ったのだが、月野神夜が十七歳の高校生だとはどうしても思えなかった祢瑚美である。
そして今日、また掲示板が盛り上がる勝負が開かれようとしていた。
今現在公式連勝記録と並んでいる「HIMEKO」と、最強のフードファイター「NEKOMI」が戦うのである。
当事者の二人は知らないだろうが、今現在掲示板では、先に現地入りした「大量食物連鎖」によりその生中継が始まっている。
掲示板は過去最高に、盛り上がり続けているのだった。
◎
電車が寝坊した。
電車が寝坊したのだということにする。
朝に目が覚めて、ぼんやりと部屋の時計で時刻を確認してもまだ、「もうこんな時間なんだ」としか思わなかったのだが、ふと視界に入ったカレンダーの今日の日付に赤丸がしてあり、「決戦!!」と丸い自分の字で書かれていたのを目にしてようやく、今日って何の決戦だったっけ、と考えた。最初、祢瑚美は寝ぼけていた頭で近所の野良猫がタイマンを張っているという、実にわけのわからない決戦を思い浮かべ、しかしそれがどこでどう回転したのかは定かではないが、決戦が「HIMEKO」と寿司大食い勝負であることをようやく思い出し、一瞬だけ真っ青になった後、タイマンを張る野良猫も飛び上がって驚くかのような「ふにゃあっ!!」という叫び声を上げて慌ててベットから飛び出したのである。
服装選びは昨日の内に決めていたのが幸を成し時間はかからなかったが、化粧に少しばかり時間を食ってしまった。さすがに電車の中でサラリーマンの電動髭剃りよろしくにメイクを整える度胸は祢瑚美にはない。家を飛び出して駅へ向い、改札を通り抜けて階段を駆け上がっていたとき、履いていたサンダルが引っ掛かって一番下まで転がり落ちて行く。また「ふみゃあっ!!」などという奇声にも似た悲鳴を上げながら来た道を引き返してサンダルを回収、腕時計に視線を落としながらホームへ走り出す。ドアが閉まりそうになっていた電車に体当たりのような勢いで突進し、何とか駆け込み乗車に成功した。
空いていた席に腰を下ろし、祢瑚美は安堵の息を深々と吐き出す。
本当は待ち合わせ十五分前には現場到着していたかったが、これではギリギリ間に合うかどうかのキワドイラインである。一分二分の遅刻は許してもらうしかないが、もし「HIMEKO」が時間にうるさい人だったらどうしよう、と祢瑚美はひとりで焦る。祢瑚美がこれまで戦った百人には、百通りの人間性があった。遅刻を快く許してくれる人もいれば、ネチネチと文句を垂れる人や怒鳴り散らす人もいたし、祢瑚美が到着する前にぶち切れて近くの自動販売機を破壊して帰って行った人だっている。果たして「HIMEKO」はどのような人なのだろう。
祢瑚美は座席に座りながら挙動不審に辺りをくるくるくるくると見渡して思う。早く着いてよもうこの馬鹿電車、でもあんまりスピードは出さないでお願いだから、この前の電車事故みたいになったらどうしよう、まだまだ食べたいものはたくさんたくさんある、このまま死んじゃったら死んでも死に切れない、幽霊になってしまうかもしれない、ああでもそれだと何も食べられないじゃん、あ、そうだそうだ、食べ物にだけ触れて食べられる幽霊がいいな、一生美味しいものばっかり食べられるし、わたしって天才かもしれないね。
電車が駅に着いた時刻は十一時五十八分だった。死に物狂いで走り出し、祢瑚美は約束の場所である百円寿司へと向う。その途中でサンダルが脱げること二回、コケそうになること四回、子供を轢き殺しそうになること多々。そんなこんなでようやく辿り着いた百円寿司はなかなかに繁盛しているようで、待合室には数人の姿が見て取れた。
自動ドアを潜り抜けて店内へ飛び込むと、何事だという顔で祢瑚美を何人かの人が振り返り、突然に恥ずかしくなった祢瑚美は精一杯息を整えて、「大人の笑み」を浮かべて「なんでもありません気にしないでくださいあははは」とばかりに笑顔を振り撒く。腕時計は十二時五分を示していた。五分の遅刻である、果たしてまだ「HIMEKO」はここにいてくれるだろうか――。
そんなことを思った祢瑚美の背後から、妙に高く澄んだ音が聞こえた。
「――「NEKOMI」さん、ですね?」
振り返ったそこにいたのは、二十歳手前と思わしき女の子だった。
そして、悟った。この子が「HIMEKO」である。
「「HIMEKO」さん?」
「HIMEKO」は笑う。
「はい」
祢瑚美は慌てて頭を下げ、
「あの、遅れてごめんなさい。電車が寝坊しちゃって、それで、」
「気にしないでください。わたしもさっき来たばっかりだから」
これではどっちが年上でどっちが年下なのかわからない立場である。
「HIMEKO」さんはやっぱりいい子だ、と祢瑚美は思った。
「HIMEKO」の本名は鹿島媛子(かしまひめこ)であり、祢瑚美に負けず劣らずの体格をした十九歳のフリーターだという。「HIMEKO」が女の子でよかった。以前、てっきり女の子だと思っていた「カナ」という挑戦者は、汗をダラダラと流す軽く百キロは越えているであろう豚男だったのだ。もちろん瞬殺で叩きのめして早々に立ち去ったのだが、女の子だと思っていた相手が実は男だったという衝撃はなかなかに大きい。故に今日、「HIMEKO」が媛子というひとりの女の子でよかったと祢瑚美は思うのである。
少しばかり待合室で喋りながら時間を潰し、店員に案内されたのはカウンターだったのだが、無理して六人用のテーブルに変更してもらった。右手側を永遠と回り続ける百円寿司たち。それをぼんやりと、そして幸せそうに祢瑚美は見つめている。これを今から好きなだけ食べることができるのだと思うと、本当に嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。
いつの間にか媛子が用意してくれていたお茶と醤油皿にお礼を言いつつ、改めて挑戦者を見つめる。可愛い子である。お洒落も化粧も祢瑚美よりずっと世間に馴染んでいる。どこにでもいるような、一人の普通の女の子である。この子が果たして、本当に四十九連勝もしている強者なのだろうか。しかしそれを言えば祢瑚美も対して変わらないので追求はすまい。勝負が始まればわかることだ。
媛子が小さな深呼吸をひとつ、それから口を開く。
「ルールはどうします?」
祢瑚美はこれまでと何も変わらない口調で、
「一時間以内に食べた皿が多い方が勝ち。種類は問わない。ケーキもメロンもプリンも同じ一皿とカウント。ギブアップって言ったらそこで試合終了。ドクターストップはナシ、店員から声がかかっても食べ続けること。――これでいい?」
「はい。問題はありません」
「じゃあ、十二時三十分になったら食べ始めよう。あと10秒、」
決戦開始の秒読みが始まる、
「9、」
「8、」
「7、」
「6、」
「5、」
「4、」
「3、」
「2、」
「1、」
「「――0」」
両者が一斉にスタートした。
そして、先攻したのは媛子だった。取り敢えず目の前にあったからそれを取って食おうと思った、みたいな動作で鮪を手にし、荒っぽいけどどこか上品な食べ方で早速一皿を平らげる。二皿目に手を伸ばしたとき、それが祢瑚美のものと重なり合う。狙いは互いにサーモンである。祢瑚美が少しだけ手を引いて譲ってやると、媛子は遠慮なしにそれを手にして食べる。素晴らしい食いっぷりである。しかし減点すべきは幸せそうな顔をしていないこと。勝つことだけに囚われているその顔を、祢瑚美はあまり好ましく思わない。
媛子が三皿目に手を伸ばした頃になって、祢瑚美はようやく一息つく。
まずは何を食べようか。サーモンにしようかと思ったが媛子に譲ってしまった。目の前をくるくると回り続ける寿司を見つめながら、海老天やゴウヤ巻きなんてのは外道の食べ物だと思うのだ。寿司は海鮮類と相場が決まっている。何でもかんでも売れるかもしれないといういい加減な気持ちでネタに突っ込むその姿勢はやめて欲しいものである。もっとこう、日本人の心を思い出すべきなのである。大和魂はどこへ行ったというのか。ビーフコーンになど大和魂の欠片も垣間見ることはできはしないだろう。
そうこうしている内に、媛子はすでに六皿目に手をかけていた。
そろそろ食べ始めないと危ない。目の前を通りかかったネギトロを手にし、祢瑚美は小さく「いただきます」と言って口に運ぶ。この魚類独特の食感と風味はものすごく美味しい。蕩けていくようなこの心地良さ、百円寿司でこれだけの幸せが味わえれば上出来であろう。ぺろりと平らげたネギトロの皿を端に寄せ、祢瑚美は次の食べ物(※今は「食べ物」と書いて「獲物」と読む)を探す。目の前を通りかかったサーモンを今度こそ我が手に捕らえ、実に幸せそうな顔で祢瑚美はそれを食べていく。
その途中で、少しだけ媛子の様子を窺う。
すでに八枚も皿が積まれている。普通の女の子ならそろそろペースが遅くなるか食べられなくなる頃だろう。にも関わらず、媛子はまだまだ余力を残しているような表情をしている。否、それは余力ではなく、余裕である。「HIMEKO」ともあろう者が、高々十皿程度でギブアップするはずはあるまい。まだ勝負は始まったばかりである。恐らくは中盤以降から、「HIMEKO」の実力が露になってくるに違いなかった。
試合開始五分にして、「NEKOMI」は五皿、「HIMEKO」は十四皿を積み上げていた。
祢瑚美が思う、フードファイトの三カ条の一つ。序盤は絶対にペースを崩してはならない。最初で飛ばし過ぎると中盤辺りから明らかなペースダウンをしてしまう。そうなっては手遅れ、ペースダウンは次第に食欲を削っていくのだ。故に最初は自分のペースで勝負を進め、早食い対決ではないのだから時間をフルに使い、中盤から後半に懸けてペースを上げるのである。それは決して破ることのできない、祢瑚美の三カ条の一つだ。
しかしこの媛子という女の子、見かけによらずよく食う子である。すでに皿は二十枚を突破した。祢瑚美はまだ十二枚だったが、この辺りになってようやく、店内にいた他の客が異常さに気づき始める。何せ女の子の二人組みが、テーブルに高々と皿を積み始めているのだから興味も引くだろう。真剣勝負の異様さが店内へと伝わり充満し、一人、また一人と食べる手を止めて祢瑚美と媛子を無言で見守り出す。
十五皿目に祢瑚美が手を伸ばしたとき、媛子が目の前で茶を一気に飲み干した。喉でも詰まらせたのかと思ったが、どうやら違うらしい。一刻も早く次の皿を食うために、茶で口の中のものを流し込んだのだろう。そんなことをしたら味がわからなくなっちゃうじゃない、と祢瑚美は少しだけ不服そうな顔をする。真剣勝負であるフードファイトとは言え、食べ物を食べることに関しては普段と何も違わない。ならば味わって食べることが礼儀である。媛子がそれを望んでいないのなら仕方が無いが、せめて自分は味わって食べてあげよう。そう思いつつ、稲荷寿司をもぐもぐと食べる。甘くていいけどシャリがちょっとパサパサしてるからミスマッチになってる、評価四十八点。
試合開始二十分。その頃には祢瑚美は三十二枚の皿を、媛子は四十三枚もの皿を積み上げていた。それまで黙って見守っていた他の客が一人、また一人と立ち上がって二人の決戦が行われるテーブルへと近づいていく。その内の一人が携帯でとある掲示板を覗き込みながら、ふと、「こいつら、「NEKOMI」と「HIMEKO」なんじゃねえの?」とつぶやく。それが引き金だった。それってあの掲示板のヤツか!? マジで!? こいつらがそうなの!? すげえすげえ、二人とも初めて見た!! 「NEKOMI」って本当にいるんだな!! などと口々に騒ぎ出し、野次馬は野次馬を呼んで膨れ上がり、いつしかテーブルの周りはギャラリーで埋め尽くされていた。
しかしその光景は、今の二人には微塵も見えていない。
三十六枚目の皿に手をかけていた祢瑚美はふと、媛子に視線を移す。まだ食べ続けているものの、徐々にペースが落ち始めていた。幾らかの余力はあるだろうが、これからの伸びには期待できない顔付き。頬を流れる嫌な汗がそれを証明している。かつて戦った者たちに比べればよく食べる子だ。時間まで食い続ければギネスブックに載るのも夢じゃないかもしれない。だけど、それはちょっと金銭的に問題がある。
祢瑚美は思う。遅刻したせめてもの罪滅ぼしをしよう。時間は試合開始ちょうど三十分。頃合である。
――決戦の幕を引く最初の刃を振り下ろそう。
簡単な例え話をしよう。ここに、二台の同じ車がある。片方はレース開始直後からアクセル全開で突き進み、もう片方は一定の速度を保ちながら後を追う。最初の段階でかなりの差が開くだろうが、同じ車なのだから走る距離は変わらない。先に飛ばせばガソリンがなくなり、いずれ必ず追いつくことが可能になるはずだ。そう考えればいい。ガス欠に陥り始めた媛子車を、僅かにスピードを上げてジリジリと差を埋めるのが祢瑚美車である。
そして、祢瑚美が思うフードファイトの三カ条の一つ。相手にプレッシャーを与える。追われる側にプレッシャーを与え、まだ残っている最後の余力をすべて使わせるのである。本当のガス欠をここで決めてしまうのだ。追う側と追われる側では、後者の方が明らかに負担が大きい。ましてや時間がまだ三十分も残っているこの状況ではなおのことだ。
勝負をかけよう。祢瑚美は目の前を回っていた皿を五つ同時に引っ張り出してテーブルの上に並べた。媛子が信じられないようなものを見る目つきで祢瑚美を見つめ、ギャラリーが爆発的な反応を示す。顔が少しだけ歪んでいた媛子ににっこりと笑いかけ、祢瑚美は五皿を一気に平らげた。媛子が一皿食う時間で、である。媛子が慌てて新たな皿を手にして次を食べ始める。だがもう遅い。ここで慌てた時点で、すでに媛子は祢瑚美の術中にはまったも同然である。
試合開始から四十分。枚数は祢瑚美が七十五皿、媛子が七十七皿。そしてそれまで優位に立っていたはずの媛子のペースが明らかに落ちた。祢瑚美はもちろん、そこを見逃さない。明らかにオーバーペースとなって顔色が悪くなりつつある媛子を尻目に、祢瑚美はまた五皿を同時に引き寄せて食べる。それに負けじと媛子は引き攣った顔で三皿を手繰り寄せて口の中に押し込む。二人がテーブルの上に置いた皿の寿司を平らげるのは同時で、それと同時に二人の枚数がついに八十枚と互角になった。
お茶を優雅に飲み、にっこりと笑って祢瑚美は媛子を見つめる。
媛子は完全に気圧された顔で、しかしそれでもキッと目線を鋭くして祢瑚美を見つめ返す。
その瞳が語っていた。祢瑚美だからこそわかる、決意の言葉。
――絶対に、負けない。
媛子は中途半端な負け方はしないだろう。最後の最後まで必ず食い続けるだろう。何をそこまで拘っているのか。自分がフードファイトで負けるはずがないというプライドか。「NEKOMI」に勝つという信念か。それとももっと別のものなのか。しかし何にせよ、もはや引き返せない所まで媛子は追い詰められている。最後の一振りを下ろせば勝ちが決まる。
媛子が八十一枚目の皿に手を伸ばしたとき、突然にその手が引っ込んで口に当てられた。痙攣したかのように肩が震え、身を縮めて媛子は必死に込み上げる胃液と戦う。やがてすべてを押さえ込み、涙目でお茶を飲み荒い息を整える媛子は、絶対に負けないという意志を再び煮え滾らせて祢瑚美を睨みつける。その勇敢な姿にギャラリーが最高潮の喝采を上げた。
そして祢瑚美は、心の中で小さく敬意を表す。
――わたし相手によくここまで戦ったわ。だけどもう、ここで終わらせるね。貴女の苦しむ姿を、これ以上見たくないから。
同じ車が二台ある。今、その車は平行線に並んだ。しかし考えて欲しい。それが同じ車だとしても、もしエンジンが違っていたらどうなっていたのだろうか、という仮定を。単純な例だ。一般用の車のエンジンとレース用の車のエンジンが違うかのように、最初から祢瑚美と媛子の力量には差があった。それでも媛子は強いだろう。祢瑚美がいなければあの掲示板でずっと一位を取れるくらいに、強い。けど残念である。非常に残念である。あの掲示板には祢瑚美がいる。負けるわけにはいかない。
祢瑚美には、負けられない理由がある。絶対に勝たなければならない人がいる。
いつしかあの掲示板で語られる、最強のフードファイターの肩書きは、もはや遊びで背負っているだけのものではなくなっていた。
祢瑚美が思う、フードファイトの三カ条の最後の一つ。勝負を決めるときは、全力を出せ。
生半可な攻撃では媛子の意志を断ち切ることはできないだろう。ならば全力で受けて立つ。ここで勝負を決め、媛子の意志を切断する。だけど恥じる必要などどこにもありはしない。逆に誇るべきなのだ。なぜなら、祢瑚美が三カ条の最後の一つを使うのは、これで二回目なのだから。それほどまでに、媛子は強敵だったのだ。次に遭うときはもっと親しくなって友達になりたいと思う。肩を並べて美味しく食べ物を食べたいと思う。そして願わくばいつか、また勝負をしたい。媛子とはいいライバルでいれる。最強のフードファイターとしての直感がそう告げる。
――だから、ね。今日は、ここで終わりにするよ。
祢瑚美は、回り続けている回転寿司ではなく、注文用のボタンに手を伸ばした。
そして、媛子の意志を切断する言葉を告げた。
「大トロ五つにぶっかけうどん三つ、チーズケーキとショートケーキとチョコレートケーキを一つずつ」
媛子だけではなく、ギャラリー全員が息を飲んだ。
運ばれて来た大トロとぶっかけうどんと三種類のケーキを絶望の眼差しで見つめ、媛子はもはや動くことすらできない。
祢瑚美は言う。
「いただきます」
もちろん、そのすべてを平らげ、祢瑚美は実に、実に幸せそうな笑顔を媛子に向けた。
それと同時に、媛子の瞳から一筋の涙が流れ、こう言った。
「――…………ギブアップ、します」
最強のフードファイター「NEKOMI」
VS
公式連勝記録保持者「HIMEKO」
試合開始より四十九分三十二秒、
勝者――――――「NEKOMI」
◎
今、目の前の席に髭面坊主の高校生が座ってのんびりと煙草を吸っている。
何度見ても、どう考えても、このお兄さんが高校生だとは到底思えない祢瑚美である。
「――まずはおめでとう。なかなかに苦戦したらしいね」
月野神夜は、そう言って悪戯な笑みを浮かべる。
「HIMEKO」と戦った翌日、つまりは今日の朝に月野神夜から連絡があった。礼を言いたいから会おう、と言われた。最初は断るつもりだったのだが、今現在このテーブルの上に置かれているジャンボミートスパゲッティを奢ってくれるという話をチラつかされ、祢瑚美は猫ジャラシに誘き出される猫のような感じにここまで来てしまったのだった。しかし来たからにはこれを食わねば始まらない、昨日の胃もたれなどなんのその、祢瑚美はフォークをくるくると回転させながらパスタをほむほむと食べる。
そんな祢瑚美を見つめ、月野神夜がくすくすとまた笑った。
恨めし気にそれを上目使いに睨みつけ、
「――なによ?」
威嚇する猫みたいだ、と月野神夜は馬鹿にする。
気分が壊れるので無視してパスタを食べることだけに集中する。
月野神夜は煙草を吸いながらぼんやりとした口調で、
「昨日のフードファイトは大盛況だった。ぼくが実況する度にギャラリーの食いつきが激しくてね。いやあ気分よかったよかった。昨日だけでも投稿件数が倍々になったし、訪問者もかなりの勢いで増えた。助かったよ祢瑚美。君が一気に「HIMEKO」を倒してくれなくて本当によかった」
そこまでつぶやいた月野神夜に祢瑚美が反論しようとすると、それを先回りして、
「わかってるわかってる。ぼくも馬鹿じゃない。昨日、君たちのファイトを生で観てたんだからわかるよ。さっきのはぼくの失言だった、ごめん。「HIMEKO」は強かった。四十九連勝の肩書きも嘘じゃあない。君がいなければあの子は絶対に最強になっていただろうに。勿体無い――、ああそうそう、昨日「HIMEKO」からメールが来てね、しばらく特訓したらまた君に挑戦するってさ。リベンジ、なんだろうね。今度は下手をすれば負けるかもしれないよ祢瑚美?」
また上目使いで睨んでやると、月野神夜は肩を竦め、
「ま、寿司八十五皿にうどん三杯、ケーキ三つも食べて今日もこれ食べる君に、心配は必要ないかもしれないね。君に勝てるヤツなんてもう、この世界にはいないんじゃない?」
「――よく言うわよ」
祢瑚美はすっ呆けた顔をする月野神夜をミートソースのついたフォークで指し、
「あんたがわたしと戦ったとき、寿司百五十二皿にうどん八杯、ケーキ五つにメロン二つも食べてたじゃない。忘れたとは言わせないわ。それにあれでもまだ余裕しゃんしゃん、みたいな顔してたのどこのどいつよ。言っとくけどね、わたしは自分が正真正銘の最強のフードファイターなんて思ってないからね。わたしはあんたに勝たない限り、最強だって言えないの。そもそもなによ、なんであんたみたいに強い人がわたしに頼んだりしたのよ? 自分でやればよかったじゃない」
わかってないなあ、と月野神夜は煙草の煙を天井へと向けて吐き出す。
「自分でやったら面白くないじゃん。それにあんまり食べ過ぎると腹壊すし。こう見えもぼくは胃腸弱いんだからね」
はいはいそれはすごいですね知るか、と祢瑚美はパスタをまた食べる。
そしてふと、こちらを見つめている視線に気づく。今度は自分でも威嚇だと思えるような声で、
「――なによ?」
「幸せそうな顔してるなあ、って思って」
「――悪いの?」
「ううん。悪くない。ぼくは幸せそうに食べ物食べる祢瑚美が好きだから」
――ぶっ。
パスタを咽た。
「あはは。子供みたいだ」と月野神夜は笑う。
こいつ本気で殺してやろうかと祢瑚美は思う。
不服そうな顔の祢瑚美に身を乗り出し、「拗ねない拗ねない。口元にソースついているよ」と月野神夜はナプキンで祢瑚美の口元を拭う。「やめてよ馬鹿!!」と反論するのだが月野神夜は屁でもないような顔でまたあははと笑う。
恨めし気に月野神夜を睨みつけ、祢瑚美はどこかにいるであろう、フードファイトの神様につぶやく。
ああ神様――。
わたしがこの人に勝てる日は、本当に訪れるのでしょうか。
なんかもう、まるっきり勝てる気がしないのは気のせいですか。
ていうかもう、フードファイト抜きにしてこの人ぶん殴ってやりたいんですけどいいですか。
雲の遥か上、下界の光景を見つめていた神様は言うのである。
ぶん殴ってやれ、と。
今日は快晴である。
どこかでまた、フードファイトが行われているかもしれない。
◎ ◎ ◎
『bP From:大量食物連鎖
内容:フードファイト開催!! さあさあ寄ってらっしゃい見てらっしゃい!! ルールは至って簡単だ!! この掲示板で出遭った相手をチャレンジャーと認定し、後は個人同士で開催場所を決定させて一対一のフードファイトを始めるだけ!! 細部のルールは互いの任意で決して構わないが勝敗は時間内に相手より多く食った方が勝ち、または「ギブアップ」と相手に言わせればそれでOK!! 勝った方は負けた方に全額奢らせることが完全無欠の掟!! これを破ったら最後、キサマを骨の髄までしゃぶり尽くしてやるから覚悟しておけ!! ていうかキサマが食われて死んでしまえボケナスがッ!! 腰抜けは帰れ帰れ死に晒せッ!!
さあさあ寄ってらっしゃい見てらっしゃい!! 大食い自慢のあなたには最高の戦場がここにあるッ!! 勇敢なる大食い諸君ッ!! ここは君たちだけの戦場であるッ!! 世紀末が過ぎた昨今を覆す正真正銘の世紀末を実現させようではないかッ!! さあさあ始まる始まるフードファイト伝説ッ!! 勇敢に戦う諸君の姿を楽しみにし、武運を祈る――ッ!!!!』
――以下省略。投稿件数増加に伴い、過去ログを配置。
過去ログを観覧したいお方は、上記の検索欄から検索してください。今現在の過去ログは80ファイル存在し、1ファイルにつき一万件の投稿数が入っています。
以下、最新投稿を掲載します。
『bP From:ニューバースデー(本当はミネミネです) 内容:よっしゃあっ!! 実質上の90万ヒット頂きィッ!! これを記念とし、今日よりHNを「ミネミネ」改め「ニューバースデー」に変更します!! 新しいHNで戦う最初の挑戦者を求む!!』『bQ From:ペコちゃん人形の腕の筋肉 内容:くっはー!! マジヤラレタ!! 90万ヒット狙ってたのに、便所行っている間に奪われたし!! ――よっしゃニューバースデーさん、ちょっくらバトルしますかぁー!?』『bR From:夢見 内容:ミネミ……じゃない、ニューバースデーさん、90万ヒット獲得おめでとうございます!! そこで、わたしと一回勝負してみませんか? 連絡をお待ちしていますね』
『bV0 From:麻生 内容:やっぱりさ、二週間経ったけど今でもさ、「大量食物連鎖」さんが実況した「NEKOMI」VS「HIMEKO」のバトルが頭から離れてくれねえんだけどさ、寿司八十皿ってやっぱすっげえよなあ。「NEKOMI」のバトル、また実況してくんないかなあ』『bV1 From:HIMEHIME 内容:「NEKOMI」は確かに強い。だけどおれは「HIMEKO」のファンである。彼女が今一度、この掲示板に復活し、今度こそ「NEKOMI」を打ち倒してくれることを心の底から願う。「HIMEKO」様!! お願いしますっ!!』『bV2 From:新世界 内容:あの二人は化け物みたいに強かった。だが忘れちゃいけない。今現在、三十二連勝中の新人キングである「CROSS」さん。この人の勢いはちょっとやそっとでは止まらないだろう。四十九連勝を打ち破ってくれることを、僕は祈る』
『bT37 From:CROSS 内容:今日の勝利で三十五連勝となりました。次に挑戦してくれる方を、楽しみにお待ちします』『bT38 From:新世界 内容:三十五連勝、おめでとうございますCROSSさん!! そこで一つ提案があります。CROSSさん、どうか「NEKOMI」と戦ってもらえませんか? 貴方ならかなりいい勝負ができると思うのですが、どうでしょうか?』『bT39 From:クソッタレノ交想曲 内容:――……ついに復活したぜコラァアッ!! 「HIMEKO」テメえ出て来やがれッ!! リベンジだくそったれがァアッ!! 他の雑魚に興味ナシッ!! 「NEKOMI」ッ!! おれと戦ぇえッ!!!!』
「大量食物連鎖」が主催するフードファイトの掲示板の投稿件数が、ついに九十万を越えた。
当初、「大量食物連鎖」は五十万ヒットを達成すれば上等だと思ってはいたのだが、もはやこの勢いは衰えることを知らない。百万ヒットも間近であり、数ヵ月後には二百万ヒットだって超えるだろう。その原因である半数が「NEKOMI」の存在であり、それに挑戦する強者たちであり、そして人が人を呼ぶ利用者すべてのおかげであるのだった。このままこのフードファイトの熱は一体どこまで加熱されていくのだろう。終わりを見つめる者など誰一人としていない。もはやこれは、掲示板で時折囁かれる、フードファイトの神様が掲示板に君臨しているに違いなかった。
そして今日もまた、一人の小さな小さな挑戦者が神様に導かれ、この掲示板に辿り着く。
HNは「大食い戦隊ガブレンジャー」という、何ともまあ、デンジャラスなHNなのである。
(余談ではあるが、ちなみに色は「レッド」希望、だそうだ)
そしてその魔の手が、「NEKOMI」に襲いかかろうとしているとは、一体誰が予想できただろう。
そう、まさにそれは、
『NEKOMI Paradise U ――「大食い戦隊ガブレンジャー」の脅威!!――』
夏と言えば冷し中華、冷し中華と言えば夏。
そんなわけで、今回のフードバトルの舞台は冷し中華となった。
今回の対戦相手は今現在十三連勝中の「小島」というHNの挑戦者である。メールでの言葉使いは丁寧だったが、女性ではないということはすぐにわかった。言葉使いから祢瑚美は、「小島」はとても誠実なエリートサラリーマン風の人を想像していたのだが、実際遭ってみた「小島」は、「お前のどこが小島やねんっ!!」と大阪なら引っ繰り返るような突っ込みをもらいそうな、体重百二十キロを遥かに超す物凄い巨漢(※今は「巨漢」と書いて「デブ」と読む)だったのだ。ちなみに本名は米蔵草太(こめくらそうた)二十七歳独身であるのだが、祢瑚美は一目で「デブリン」というチャーミングなあだ名を授けた。
デブリンにはもう驚きの連続だった。クーラーがガンガンに効いた店内に入っても、三歩歩く度に「ちょっと休ませてください」と脂汗を首に巻いたタオルでわしゃわしゃと拭ったり、店員に差し出された水を一気に飲んで、挙げ句の果てには「水のボトルをここに置いておいてください」と史上最悪の言葉を吐き、おまけにボトルに直接口をつけてラッパ飲みをするという、史上最低な愚行を成し遂げた、脅威のデブリンなのである。
ルールは事前に決めてあった。制限時間は一時間、その間に食べ物の乗った皿を多く食べた方が勝ちで、ギブアップはそこで試合終了の合図、負けたら全額支払い。あの掲示板では最もオーソドックスなルールが、ここでも適用されている。そして今回祢瑚美とデブリンが食べる冷し中華もまた、至極オーソドックスなものである。艶々した黄色い麺に具はハムにキュウリに卵、マヨネーズはつけてもつけなくてもどちらでもいいのだが、祢瑚美はつけない派のフードファイターだ。
しかしデブリンはつける派のフードファイターで、「おいおい待てよお前」と世界中の人から突っ込みをもらいそうな如く、マヨネーズをむにょむにょむにょと冷し中華に投入してしまった。マヨネーズの容器の半分を使い果たし、デブリンの前に存在するそれはもはや「冷し中華」ではなく、「マヨネーズの下に何かある食べ物」と化していた。見ていて気持ち悪くなる。これが冷し中華であるとは信じ難い光景だ。このデブリンがデブリンである所以は、恐らくそこにあるのだろう、と出遭って約十分で悟った祢瑚美である。
フードファイト開始の時刻が訪れた。
一刻も早くこのバトルを終わらせたかった祢瑚美は、最初からピッチを上げていく。
割り箸で最初のひと口を口に運び込み、動作は速いがゆっくりと味わう。艶々した麺の歯応えは合格点、少し甘口のスープと重なったハーモニーはなかなかのものである。ハムも市販のもではなく、毎朝お得意先から仕入れているだけあって美味しい。キュウリも今朝畑で取られたばかりのものだから新鮮で、卵もまた然り、この濃厚な甘さが何とも言えないくらいに美味である。それらがすべて融合したこの冷し中華。祢瑚美が幸せになるには十分過ぎる効力を持っていた。事実、今の祢瑚美はまるで天使のような微笑みを浮かべている。
そして冷し中華の半分を食べたとき、不意に聞こえた「ずばばばばばばばばばばばばば」という音に気づいて顔を上げた。
そこに祢瑚美は、修羅を見たように思う。心の中で悲鳴を上げた。
――……やだよぉ、こっち見たいでよぉ……。
デブリンが、冷し中華をずばばばばばばばばばばばばばと食い漁っている。
その光景は、誠の修羅である。大量投入されたマヨネーズがデブリンの口に満遍なく纏わりつき、顔中から噴き出す汗と混合して顎から滴り落ち、それが冷し中華の皿の中にポタポタと流れ落ちているのだからもう目も当てられない。しかもデブリンの瞳の奥底には狂気の色が宿っており、その視線は終止祢瑚美に向けられているのである。ただでさえ祢瑚美は「男の人に見つめられる」というシチュエーションが死ぬほど恥ずかしいのに、こんな修羅にこんな状況で見つめられたら本当に死んでしまう。
デブリンがなぜ、十三連勝もしている人物であるのかを、理解した。
デブリンが正規の方法で十三連勝も成し遂げられる強者であるのではなく、こうして有り得ない食い方を対戦者につきつけ、その戦闘意欲を根こそぎ奪い取ってきたからだ。祢瑚美はすでに、その術中にはまっていた。できることなら今すぐにギブアップしてこの場から逃げ出したいと切に願う。今までこのデブリンに破れてきたすべてのフードファイターたちに敬意を表す。
しかし祢瑚美は、絶対に背を向けない。嫌悪感はものすごく抱いてはいたが、それ以上に怒りがあった。この挑戦者は、食べ物を食べ物だとは思っていないのだろう。もし食べ物だと思っているのであれば、マヨネーズをぶち込んで素材の味を無理矢理殺すような野暮な真似はしないだろうし、対戦者など見ずに食べ物だけを見つめるはずだ。この人は、食べ物を粗末にしている。この人は、フードファイトを馬鹿にしている。この人は、あの掲示板にいるすべての人を見下しているのだ。
最強のフードファイターとして、その愚行を見逃すわけにはいかない。
だから祢瑚美は絶対に逃げない。このデブリンは、ここで戦闘不能にしておかねばならない。祢瑚美には背負うものがある。それを投げ出すことなど当たり前のようにできず、そして背負うものがあるからこそ戦わなくてはならない。卑怯な手で勝ち進んできたこのデブリンを、今ここで、抹殺する。二度と食べ物を粗末にできないよう、二度とフードファイトを馬鹿にできないよう、二度とあの掲示板の人たちを見下せないよう、ここで恐怖という名の傷跡を深く深く刻み込み、抹殺しなければならないのだ。
それまで引き攣っていた顔をしていた祢瑚美が、突如として最強のフードファイターの風格を現した。
割り箸を持つ手に力を込め、確実に味わいながら、それでも急速にペースを上げる。今回のバトルに三カ条は必要ない。ペース配分など考えることもない。最初の十五分で勝負を決める。時間制限に至って勝敗が決するなど持っての他、この勝負はデブリンが自ら幕を下ろさなければ意味がないのだ。祢瑚美に対し、そんな卑怯な手が通用すると思っていたその脳みそを書き換えるべきなのである。
このフードファイトは、正々堂々と勝負してこそ成り立つのだ。勝てればいい、なんて考えは排除すべきだ。「大量食物連鎖」こと月野神夜も、絶対にそう思っているはずだ。故に、月野神夜は祢瑚美にデブリンの抹殺を依頼したのだろう。月野神夜の言うことを聞くのは癪だが、その意見には祢瑚美も賛成する。抹殺してあげよう。二度と卑怯な手を使われて負けるフードファイターが現れないように、今ここで、このデブリンを抹殺するのだ。
試合開始十二分にして、祢瑚美はすでに、冷し中華を六皿平らげていた。
一方のデブリンはまだ、二皿しか食べていない。そしてデブリンの状況が、一気に悪化した。それまで身体に詰め込み過ぎていたマヨネーズが胃の中で突如として暴れ出し、それは祢瑚美との差がどんどんと広がっていくというプレッシャーと混ざり合って暴発し、脂汗がそれまでの三倍以上の量で流れ始める。勝負は一瞬で決まっていた。機械が壊れるかのように、デブリンが壊れた。「ぶぼっ!!」という音を共にデブリンの口と鼻から麺が噴き出し、目玉がぐるんと回転して白目を剥き出し、何度か痙攣した後にそのまま顔面から冷し中華のマヨネーズの中へと消えていった。
そして祢瑚美はすでに、その光景を見ていなかった。口をティッシュでそっと拭い、ゆっくりと席を立ち、最後の最後で一度だけ背後を振り返り、容器に顔を埋めてぴくりとも動かないデブリンの背中にひと言だけ言葉を告げる。
「――……来世でまた会いましょう、デブリン」
外は快晴だった。
夏はまだ、始まったばかりである。
◎
その夜、月野神夜からメールが来た。
『「小島」さんの勝負、見させてもらってた。実にナイスな勝ち方だったよ。ぼくの言うことを聞いてくれてありがとう祢瑚美。感謝してる。
それで、だ。今度の挑戦者を見つけてきた。HNは「大食い戦隊ガブレンジャー」、あの掲示板ではまだ無名だけどぼくが特例として君と戦うことを許可した人物だ。無名だからと言って甘く見ていると足元を掬われる。忘れないで欲しい。彼は、ぼくが初めて推薦する挑戦者だ。君は最強のフードファイター「NEKOMI」として全力で戦って欲しい。
勝負の舞台は明後日の昼一時、君の家の近くにあるマクドナルド。制限時間は十五分、その間に普通のハンバーガーを多く食った方が勝ち。今回に限ってギブアップはナシだ。十五分ならそれをする必要なんてないだろうしね。「HIMEKO」とのバトルから君を苦しめる挑戦者がいなかったから、これはぼくから君へプレゼントする「刺激」だと思ってくれていい。馬鹿にすると痛い目を見る。その忠告を憶えておいてくれ、「NEKOMI」』
パソコンのディスプレを見つめ、本日四本目のアメリカンドッグをもぐもぐと食べながら、祢瑚美は思う。
まず一つ目。別にあんたが感謝する必要はないわ。あれはわたしがやりたくてやったんだもん、変な恩なんて感じないでください。二つ目。「大食い戦隊ガブレンジャー」って、イマドキに珍しいような恥ずかしいような挑戦者を見つけてきたわね。何者よ、そいつ。三つ目。マクドナルドで勝負はわたしも初めてだから少し楽しみ。舞台の場に関しては少しならお礼を言ってもいい。四つ目。わたしに対する「刺激」なんて必要ない。フードファイトをすることがすでに、わたしにとっての刺激なんだから。五つ目。月野神夜。わたしね、相手が誰であろうと馬鹿にしたことなんて一度もないの。相手が誰であろうと本気で戦う。それが、最強のフードファイターと謳われるわたしの信念なんだから。
ソーセージがなくなったアメリカンドックの棒を口に咥えたまま、祢瑚美はその場に寝転がる。
月野神夜が推薦する挑戦者。それがなぜか、胸の奥に引っかかって離れてくれない。
何だろう、これ。
なんか少し、嫌な予感がする――。
◎
「大食い戦隊ガブレンジャー」を初めて見て、漠然と感じた。
――……この子、どこかで見たことがあるような気がする。
今日は目覚まし時計が仕事を放棄した。
目覚まし時計が仕事を放棄したのだということにする。
目覚まし時計をセットするのを忘れて爆睡し、ようやく昼過ぎに目覚めて、時計が示していた遅刻ギリギリの時間に慌てふためきで飛び起き、何とか瞬間的に着替えを済まして化粧を整えた頃にはすでに、時刻は十二時五十三分だった。祢瑚美のマンションからマクドナルドまでは徒歩で約十分程度。遅刻しないで行こうと思うのであれば、走らなければならない。だから祢瑚美は走ったのだが、それがバッチリ裏目に出た。途中で一回躓きかけ、それでも何とか体勢を整えた刹那、いつかのようにサンダルが脱げ、おまけに何か変な出っ張りみたいなものに食い込んでなかなか外れてくれなかった。
片足素足で屈辱の二分が過ぎ去り、結局マクドナルドに到着したのは一時三分だった。
店内に客の姿はほとんどなく、ここがあまり繁盛していないマクドナルドなのだということは一目でわかる。しかしハンバーガーの味が違うわけでもないのでそれはそれで別に構わないのが救いだろうか。自動ドアを抜けた祢瑚美は店内を見渡し、「大食い戦隊ガブレンジャー」の姿を探すが、どうもそれらしい人物を見つけられない。両親と子供の家族連れ、一つのシェイクを飲み合うカップル、テリヤキバーガーを食べる小学生、ポテトを食べながら新聞を読むサラリーマン、工事現場のおじさんお兄さん。その中で最も可能性があるのだとすればサラリーマンだがしかし、何かが違う。
まさかまだ来ていないのではないか。そんな考えが浮かんだ瞬間、それまでテリヤキバーガーを食べていた小学生が実に嬉しそうに笑い、こっちに向って手を振った。背後の誰かに、例えばようやく来た友達に手を振っているのかと思ったが、背後には誰の姿もなく、よくよく見れば小学生は祢瑚美を見つめていた。イマイチ状況を理解できていなかった祢瑚美に対し、ついに小学生は核心に触れる。
「祢瑚美さんでしょ? 早くこっち来てよ」
まさかこの子が「大食い戦隊ガブレンジャー」だというのだろうか。
半信半疑で近づき、小学生の目の前に立ったとき、その面影が何かと重なった。しかしその何かがどうしても思い出せず、よくわからないデジャビュに襲われる。このテリヤキバーガーのソースを口元にちょこんとつけている小学生を、確かにどこかで見たような気がする。だけどどれだけ考えてもどこで見たのかが思い出せず、そもそも本当にこの子が挑戦者であるのだろうか。月野神夜が推薦する強敵が、なぜこんな小学生なのだろう。
――さてはあの野郎、遊びにわたしを借り出したんじゃないでしょうね。
「座れば?」と小学生に促され、祢瑚美は向かい側に腰掛ける。テーブルの上にはテリヤキマックバーガーセットらしきものの残骸が乗っていて、残っているのは小学生が手にしているテリヤキバーガーだけだった。小学生はそれの最後のひと口を食べ、もぐもぐと口を動かして飲み込む。一体どこから取り出したのが、もう片方の手にはジュースを持っており、ストローに口をつけてちゅーちゅー。
ひと息ついた頃になってようやく、
「えっと、初めまして。「大量食物連鎖」さんから紹介されてると思うけど、「大食い戦隊ガブレンジャー」です。ちなみに名前は……そうだね、影月(かげつき)と呼んでくれればいいです。年齢は小学六年生で、好きなものはカレーライス、今恋をしている子は同じクラスの伊藤佳織ちゃんです」
「……そんな自己紹介聞いて、わたしにどうしろって言うの……?」
「え、ああそっか。いや、祢瑚美さんが聞いてくるより先に答えておこうと思って」
そう言って、影月は笑う。
しかし祢瑚美は未だにこの子をどこかで見たことがある、という概念に囚われていて、影月をじっと見つめていたらなぜか「そんな見つめられてもお姉さんを好きになる気はありません」と言われた。急激に恥ずかしくなって、「小六の子を好きになるわけないでしょ!?」とムキになって反論したら影月は急にしょぼくれ、「……冗談だったのに」とつぶやいて泣き出しそうな顔をする。ああもう、何よこの子、と祢瑚美は頭を抱える。
祢瑚美が「ごめん言い過ぎたわ」と謝罪しようかと思った矢先、それまでの泣きそうな顔を一瞬で消して影月は唐突に笑みを浮かべる。
「ところで早速始めよう。祢瑚美さんが遅刻するからもう一つ食べちゃったけど、これはノーカウントで。ルールは――……どうしたの?」
不服そうな顔をする祢瑚美に影月はそう訊ねるが、祢瑚美はジト目で、
「…………なんでもないわよ」
「? ……まあいっか。それでルールは聞いてる思うけど、十五分以内にハンバーガーを多く食べた方が勝ち」
「いいわよ、それで」
「じゃあ始めようか」
そのつぶやきを切っ掛けにし、まったくの突然にカウンターから従業員数名がこちらに向かって歩いて来る。その手には皆お盆を持っていて、その上に積まれているのは大量のハンバーガーだった。数は一目では見当もつかないが、百は超えているのではないかと思う。それらがすべて、次から次へと祢瑚美の前に積み上げられていき、ついに影月の姿さえもが向こう側に隠れてしまった。一体何個あるのだろう、と積み上げられたハンバーガーを見つめていると、向こうから影月が、
「合計で百六十個ある。全部食べれないと思うけど、多いに越したことはないと思って」
祢瑚美はハンバーガーの向こうにいるであろう影月を見つめ、
「……あんたは何、どこぞの大金持ちのお坊ちゃま?」
まさか、と影月は笑う。
「ただこのハンバーガーショップがぼくの両親が片手間に経営する所、ってだけだよ。本業は都会にある大きなビルと、あともっといろんな所も経営しているらしいけど、ぼくはあんまり知らない」
それを大金持ちっていうのよ馬鹿。祢瑚美はため息をつきながらハンバーガーの山を見つめる。
百六十個も積み上げられたハンバーガーは、さすが爽快である。一個一個は安く小さくても、まさにそれは塵も積もれば山となる、だ。一個八十円と計算しても、合計で一万二千八百円にもなる。ハンバーガーショップでそれだけの大金を払うのは恐らく、歴史上でもこれが初めてなのではないだろうかと思う。が、疑問はもう一つ。果たして小学生が一万円も持っているのだろうか。しかし大会社のお坊ちゃまには心配は無用なのかもしれない。いざ支払いとなれば、いきなりゴールドカードとか出しかねない。恐い世の中になったものだ。
ごそごそとハンバーガーの山が動き、ひょっこりと影月が顔を現す。どうやら卑怯な手を使わないよう、互いに姿を見せながら食べた方がいい、ということらしい。祢瑚美には卑怯な手を使う気など毛頭にないのだが、とりあえず影月は完璧なフェアにやりたいのだろう。その心意気を買い、祢瑚美は何の言葉もなしに肯いた。勝負の開始は今から三十秒後の一時五分からである。この十五分間、果たして影月がどれだけハンバーガーを食べられるのかを見させてもらおう。月野神夜が推薦する挑戦者とはどれほどのものか、拝見だ。
勝負の開始時刻が訪れた。
そして、その瞬間に見た影月の研ぎ澄まされた眼光が、またしても何かと重なり合う。
絶対に、祢瑚美は以前、この子をどこかで見たことがあるような気がするのだ。
そんなことを祢瑚美が考えた僅か五秒が、最初の勝負を決することになる。影月は伸ばした手でハンバーガーを鷲掴み、袋を無造作に開け放って齧りつき、驚くべきスピードで食い漁り始めたのだ。祢瑚美がその光景に驚きを隠せず見つめること十秒、つまりは試合開始から約十五秒足らずで、影月はハンバーガーを一つ、楽々に平らげて不敵な笑顔で見つめてきた。
その瞬間、祢瑚美はすべてを悟った。なぜ、今回に限って制限時間が十五分と極端に短いのか。なぜ、今回のフードファイトの舞台がハンバーガーなのか。なぜ、この影月は月野神夜が推薦する挑戦者なのか。答えは実に簡単である。時間が短いのは、最初の一歩で勝負の流れを影月に傾かせるため。舞台がハンバーガーなのは、小さいが故に早食いとなり、最初の差を祢瑚美に縮めさせないため。この挑戦者は、月野神夜が推薦する、短時間なら最強のフードファイターである。なぜなら、恐らくはこの「大食い戦隊ガブレンジャー」は、早食いのスペシャリストであるはずだからだ。
しまった――、そう思ったときにはすでに遅く、影月は次のハンバーガーを平らげていた。慌ててその後を追う祢瑚美。最初のひと口でジューシーなハンバーグの味が口の中に広がるが、今だけではそれをゆっくりと味わう余裕はなかった。が、最低限な味わいだけはしっかりと噛み締める。隙間を縫って幸せそうな顔が祢瑚美に浮かぶが、それはすぐさま次の食べ物に向けられて消滅する。祢瑚美も祢瑚美で十五秒足らずでハンバーガーを一つ平らげるのだが、最初の二つの差はこの勝負にはかなり大きな差となる。しかも影月にペースの乱れは微塵も感じられない。圧倒的な速さで、小六の少年がハンバーガーを食べ続ける。
一分間に、互いに四個のハンバーガーを食べる。試合開始五分ですでに、祢瑚美は十八個、影月はきっちりペースを守って二十個も平らげていた。四人の家族連れがその光景に恐れを成して逃げ出し、シェイクを一緒に飲んでいたカップルが身を乗り出し、サラリーマンが新聞紙を放り投げて凝視し、工事現場のおじさんお兄さんがどちらが勝つかに賭けを始める。
祢瑚美の表情に僅かながらの動揺が浮かぶ。この挑戦者は、強い。早食いだけならともかくとして、恐らくは大食いもかなりの上位者である。そんな強者の最高の舞台が十五分であり、ハンバーガーでもあるのだろう。月野神夜の忠告を忘れていたわけではない。だけど月野神夜の忠告を軽視していたことはもはや疑いようもない事実となる。相手が小学生だから。そんな理由で最初に様子見をしようと思った時点ですでに、祢瑚美は初めの一歩を譲っていたに違いなのだ。
なるたる不覚か。最強のフードファイターが聞いて呆れる。
祢瑚美は動揺を打ち消し、目の前のハンバーガーだけを見据えた。
この勝負にもまた、三カ条は使えそうにない。初っ端なから全力疾走だ。しかし全力疾走で駆け抜けても、十五分で余力まで使い果たすことはないだろう。故に、本気の全力で食い続けなければならない。同じように、影月も十五分ならペースを乱さないだろう。このまま行けば最初の差でそのまま判定負けである。そんなことは、絶対にさせない。勝たなければならない人がいる。月野神夜に勝つまで、祢瑚美はもう二度と、誰にも負けてはいけないのだ。これは月野神夜から送られてきた、ある種の挑戦状なのである。
――上等よ、受けて立つわ。
祢瑚美は、さらにスピードを上げた。
試合開始から十分が経過したとき、二つあった差が一つに減った。影月のペースが落ちたわけではない。影月は追いつかれる側のプレッシャーなどまるで気にせずに、一定のペースで食い続けている。ではなぜ、祢瑚美は差を縮められるのか。それは、身体の大きさに関係する。影月が早食いのスペシャリストとは言え、まだ小学六年生。身体は発展途上である。ならば口の大きさも小さいに決まっていた。口の中に放り込む量が、祢瑚美と影月では僅かに違う。その僅かな差が、最初の流れを取り戻す切り札となる。
試合開始十二分、ついに祢瑚美が影月に追いついた。
互いに食べた数は四十八個。ハンバーガーをどれだけ食べれるかはわからないが、祢瑚美はまだまだ行ける。月影もまた、まだ余力を残している。ならば勝利を決めるのはやはり、口の大きさである。残り三分間で逆転だ。絶対に勝てる。この十二分間で二つの差を打ち消したのだ、このまま最後まで突っ走れば必ず勝てる。最初は戸惑ったが、やはり相手は子供である。負けるはずが、な――……
それは、油断となる。影月の眼光が、鋭さをさらに増した。
その眼光に背筋を射抜かれ、祢瑚美が僅かに硬直したのが命取りだ。いつかどこかで見たような光景が影月と完全に重なり合い、ペースが一気に上がる。突然に我に返り、再び慌てて後を追う祢瑚美。負けるはずがない、なんてとんでもなかった。一瞬の油断がこうして命取りに繋がる。目の前にいるこの少年は、小学生であって小学生ではない。小学生でありながら、早食いのスペシャリストなのだ。一瞬一秒の隙が勝敗をわける、神速の世界に生きる者。月野神夜が推薦する挑戦者は、紛れもない強者である。
一秒一秒の流れが、通常のフードファイトより遥かに遅く感じた。
一秒たりとも気を緩めれない緊迫感。緩めたら最後、その瞬間に負けが決まる真剣勝負。
試合開始から十三分が経過した頃には、祢瑚美は完全に神経を集中させていた。もはや祢瑚美に影月の姿は見えていない。目前のハンバーガーだけを見据え続け、そして食い続ける。その中で、本能がこう言う。このハンバーガーはなかなかに美味しい。本当はテリヤキバーガーがいちばん好きだけど、これも悪くない。もう何十個も食べたけど、不思議とその度に味が微妙に違う。肉汁が多いものや、野菜が妙に甘いもの、ピクルスの歯応えさえもがすべて違う。全部同じように見えて、全部違うハンバーガー。
祢瑚美はいつしか、自分でも気づかない内に、微笑んでいる。
美味しいのである。勝負のことなど二の次になっていた。今はただ、これだけを食べ続けていたい。食べる度に新発見があるこれを、ずっとずっと食べ続けていたいのだ。誰にも邪魔されたくない。これは祢瑚美が唯一自分自身に素直になれる、祢瑚美が楽園に訪れる瞬間であるのだから。絶対に誰にも邪魔なんかさせない。美味しいものはいつまでもいつまでも、食べ続けていたいに決まっているのだ。それは、人間に許された、至福の時――。
そして、唐突に集中力が途切れた。それは、食べるのと同じくして、本能が告げていた。
制限時間が、終わった。
目の前の影月の手に中には、ハンバーガーの切れ端が残っており、祢瑚美の手の中には何も残っていなかった。
影月が食べたハンバーガーの数は五十九個で、祢瑚美は六十個を平らげていた。
最後の一切れを口に放り込み、影月は笑った。
「ほぉーほぉ、ふぉえふぁっふぁ」
――あーあ、負けちゃった。
その影月の笑みが、祢瑚美の中で、とある人物のものと完全に重なった。
最強のフードファイター「NEKOMI」
VS
早食いのスペシャリスト「大食い戦隊ガブレンジャー」
試合開始より十五分ジャスト、
勝者――――――「NEKOMI」
◎
今、目の前の席に髭面坊主の高校生が座ってのんびりと煙草を吸っている。
何度見ても、どう考えても、このお兄さんが高校生だとは到底思えない祢瑚美である。
「――影月は、ぼくの弟だよ」
そう言って、月野神夜は悪戯な笑みを浮かべる。
「大食い戦隊ガブレンジャー」が何者であったのか。祢瑚美が考えた推測が正しいのかどうか確かめるために月野神夜を呼び出した。そして今回は祢瑚美が呼び出したのにも関わらず、テーブルの上に置かれたジャンボクリームパスタを月野神夜に奢らせることにした。最初はデブリン抹殺の依頼料と「大食い戦隊ガブレンジャー」とのファイトマネーだと言いながら無理矢理奢らせてやると企んでいた祢瑚美なのだが、なぜか月野神夜はまるで嫌がる様子もなしに奢ることを承諾したのである。それが嬉しいやら悔しいやら何やら、なんとも複雑な心境になる祢瑚美だ。
月野神夜の答えに、祢瑚美は「やっぱり」と小さく肯いた。
影月を最初に見たとき、どこかで見たことがあると思ったのだ。そしてよくよく考えればそう、月野神夜の髭を剃って髪をもっと長くして幼くすれば、丸っきり影月と重なるではないか。多少の誤差はあるにせよ、ほとんど瓜二つと言っても過言ではあるまい。それに加え、影月がフードファイト中に見せた鋭い眼光が、月野神夜のそれと完全に一致したし、最後の最後、「あーあ」と笑ったあの笑顔が完全に同一だ。ただひとつだけ違うのは、あのとき月野神夜は「あーあ、終わっちゃった」と言ったことだけである。
祢瑚美はジャンボクリームパスタをフォークでくるくると回しながら、
「あんたって実は、大金持ちのお坊ちゃまだったのね」
まさか、と月野神夜は影月と同じように笑う。
「ただハンバーガーショップ数件にスーパー数件にラーメン屋やら何やらを数十件、マンション五件に営業ビルを七件片手間に、本業としてアメリカのニューヨークに企業を三つ持ってて、ついでに世界各国に進出中、ってだけだよ」
人を馬鹿にするかのような大金持ちってわけね、と祢瑚美はジャンボクリームパスタを食べる。
月野神夜は煙草の煙を祢瑚美にかからないように天井へと吐き出しながら、
「そうそう。ところで「大食い戦隊ガブレンジャー」こと月野影月と戦ってみての感想はどうだった?」
祢瑚美はフォークをピタリと止め、戦った感想を素直に話す。
「あんたに負けず劣らずの化け物よ。小学六年生であれなら、あんたより器が大きいかもしれないわ。今回はまだ影月くんが小さかったからわたしが勝てた。あの子がもうちょっと大きかったらわたしは負けてたかもしれない。正直、末恐ろしい子。――それにしてもあんたんトコの一族はみんな、あんな化け物みたいによく食うわけ? あんたの先祖は何? 胃袋? 絶対におかしいわよ月野の血縁は」
あはは、と月野神夜は笑う。
「胃袋から手足生えてたらそれは恐いよ。ちなみに月野の家でこんなに食うのはぼくと影月と、それと父親くらいだよ。言っとくけどね、ぼくの父親はぼくらより遥かによく食うよ。一ヶ月の食費が一千万で収まることの方がかなり珍しいからね。ぼくと影月は間違いなく、父親の遺伝だよ。そう、それと影月のことだ。あいつは恐らく、最強のフードファイター「NEKOMI」の後を継ぐ後継者になるはずだ。君が引退したらあいつも掲示板に本格参戦するって張り切ってた。加えて今度また君と勝負したいってはしゃいでたよ」
冗談じゃないわよ、と祢瑚美は思う。
月野神夜を含めたあんな化け物たちとそう何度も何度も戦っていたらこっちの精神が先に参ってしまう。小六にしてすでにハンバーガー六十個も食うような人間がこの世界にいるわけなんてないのである。地球外生命体に決まっているのだ。そんな影月や月野神夜より遥かに食うというその父親って絶対に宇宙人じゃないの? この兄弟ってホントに人間なわけ? などと自分のことは棚に上げてつぶやく祢瑚美である。
そのとき、月野神夜がふと何かを思い出したかのように「あ、」と声を出した。
そのとき、月野神夜の瞳の奥に輝いた言いようのない邪悪な光を、祢瑚美は確かに見た。
そして、月野神夜は本当にこう言った。
「影月の提案だ。ぼくたちで「大食い戦隊ガブレンジャー」を結成しよう。いつか現れるかもしれない敵に対抗するために、今から結束を固めておくことが重要ではないかとぼくたちは思う。影月はレッドがいいって言ってたからレッドとして、他はどうしようか? ぼくはとりあえずブラックがいい。仲間がピンチのときに颯爽と現れる漆黒の救世主。それがぼく。祢瑚美は何がいい? やっぱりピンク? イエローは「HIMEKO」として、あとのグリーンとブルーはどうしようか。しかしひとまずそれは置いておいて、悪の秘密結社の総帥は「クソッタレノ交想曲」。あの人はかなり悪役にハマると思うんだけど、どうかな? それで――」
まったくもってどうでもいいことを、なぜか実に楽しそうに、実に嬉しそうに話す月野神夜。
それをぼんやりと見つめ、祢瑚美は少しだけ笑う。
――なんだ。子供っぽいところもあるじゃん。なんだか少しだけ、
「――あ、祢瑚美。口にクリームついているよ」
「え、あ、ちょ、ちょっとや、やめ、やめてよっ!! 馬鹿じゃないの!?」
「あはは」
「殴るわよホントにっ!!」
なんだか少しだけ、――可愛いと思ってしまった自分を、酷く哀れだと思う祢瑚美である。
その瞬間と、同刻――。
何度かニュースや雑誌で紹介された有名なうどん屋の一角で、騒ぎが巻き起こる。
普段は驚くように繁盛しているそのうどん屋から一人、また一人と客が逃げ出していく。まるで獰猛な獣に追われているかのような表情で逃げ出す客人たち。何に対してそんなに恐れているような顔をしているのだろう。暖簾に隠れた自動ドアを抜け、店内へ足を進めよう。クーラーの効いた涼しい部屋の中はまさに夏の楽園に他ならず、そこに広がるは僅かに薄暗い和風の店内だ。厨房から漂ううどんの匂いが食欲をそそる。さすがに有名テンポ、匂いですでに「美味い」と断言できるではないか。しかしなぜそんな店から、客人が逃げ出していくのだろうか。
元凶は、一目でわかる。店内の一番奥へとさらに足を進め、八人用の座敷に上がろう。そこに設けられたテーブルの上に、一目では数え切れないほどの大量のうどんの器が積み上げられている。もうちょっとで天井につくのではないかと思うくらいに高く、しかしとんでもなく出鱈目な積み上げ方で、少しでも突けばすぐにでも雪崩を起こしかねない状況だった。
そして、その器を中心として、二人の男が向き合いながら座っている。片方の男は井上隆という名の二十八歳で、フードファイトの掲示板ではHNを「CROSS」と表記し、今現在三十五連勝中の強者である。そんな強者であるはずなのだが、にも関わらず、なぜか今、顔面を蒼白にしているのは挑戦者の方ではなく、この井上であった。もはや食べる気力すら失せてしまっているのか、半分ほど麺が残った器に視線を落としたまま身動き一つしない。しかし一方で、井上の正面からはうどんを豪快に啜る心地の良い音が聞こえてくる。
挑戦者は、依然としてペースを乱していない。
勝ち目は無い、と井上は悟ったのだろう。悔しさで震える拳を握り締め、屈辱の言葉を井上はつぶやく。
「――……ギブアッ、」
刹那、
井上の後頭部が鷲掴まれ、そのまま力任せに目前のうどんの器へとぶち込まれた。
壮絶な破壊音が店内の隅々まで響き渡った。テーブルの上に積み上げられていた器がついに雪崩を起こし、器に顔を預けたままピクリとも動かない井上の頭上から一挙に降り注ぐ。器に埋もれてしまった井上に意識はすでになく、勝敗は誰の目から見ても明らかだった。フードファイトをしているのだという事情を察していたはずの店側が止めれば、これはドクターストップとなる。なるのだが、誰一人、店長でさえも、この状況をどうにかできなかった。
挑戦者の目は、異常だった。まるで爬虫類のような目をした男だった。
誰一人として、捕食者の前に飛び込める獲物など存在しない。
井上の後頭部をまだ掴んだままで、挑戦者は口を裂かせて笑う。
「――ギブアップなんてさせねえよ。おれはまだ、食えるじゃねえか」
後にその挑戦者は、「ヘルデビル」というHNで、掲示板に噂され始める。
◎ ◎ ◎
祢瑚美に食欲が無いということはつまり、月野神夜にしてみればそれは世界滅亡五秒前の驚きに匹敵する。
故に月野神夜の第一声は、こうだった。
「どうしたの!? 何か病気!? 今すぐ救急車を呼ぼう!! 良い医者を知ってるんだ!!」
心底真顔でそう言うものだから、祢瑚美は言い出し難くなってしまう。しかし言わないことには、もっと恥ずかしい事態へと発展することは目に見えている。なにせ月野神夜は今、携帯電話を片手に慌てふためき、すぐにでも119番しようとしているのだ。病院に行って診察されて、病名が「アレ」だと判明された日にはもう、祢瑚美は生きていけないような恥ずかしさを受ける。それに比べれば、今の内に月野神夜に真相を打ち明ける方が百倍もマシだった。
「――……なのよ」
だが意志とは別に声ははっきりとした声にはならず、何とも意味不明なつぶやきとなって口から漏れる。
月野神夜は未だに焦りに焦っており、聞き取れなかった祢瑚美の言葉を聞こうと身を乗り出し、「なに!? どうしたの!?」と店内にいる客の全員が振り返るような大声で叫ぶ。やめてよ馬鹿恥ずかしくて死んじゃいそう死んだら化けて出てやるからね、と祢瑚美は内心で怒りを露にするが、これから事実を話さねばならないという羞恥心に比べれば大した効力は無かった。
祢瑚美は膝の上に置いた手を拳にして、俯いて顔を真っ赤に染め上げ、今度こそその言葉をつぶやく。
「――女の子、の日、……なのよ」
奇妙な沈黙があった。
顔から火が出る、とはこういうことを言うのだと思った。
ただ、相手が月野神夜ではなく、場所がここじゃなかったら、笑顔で「今日はアレだから食べれないんだ」と素直に言えたはずなのに、相手が月野神夜で場所が飲食店であることは、必要以上の羞恥心を運んで来た。おまけに慌てふためいていたはずの月野神夜は、祢瑚美の言葉に完全に固まってしまったようで身動き一つせず、状況を理解したかのような他の客数名が何事もなかったかのようにそれぞれの会話に戻る。
死にたかった。死にたくなるほど恥ずかしかった。
やがて月野神夜は何も言わないまま乗り出していた身を戻し、携帯電話を自然体な動作でポケットの中へ入れ、テーブルの上に置かれていたメロンソーダをひと口だけ飲む。拳を握り俯き続ける祢瑚美と、祢瑚美を不自然なほど見ようとしない月野神夜。店内に響く雑音だけが二人の間を漂い、そのままで十秒が過ぎ、二十秒が過ぎ、ついに一分ほど経った頃になってようやく、月野神夜が動いた。
何とも言えない顔で鼻の頭を指で掻きながら、
「――ほら、あれだよ、うん。えっとさ、その…………」
月野神夜は言った。
「ごめんなさい」
羞恥心が臨界点を突破した。
祢瑚美はテーブルに手を叩きつけ、
「謝るな馬鹿!! なんでこんなときだけ如何にも純粋な高校生、みたいな反応するのよ!? いつもみたいにもっとこう、年上ぶって流しなさいよ!! わたしだけが馬鹿みたいに恥ずかしいじゃない!! あんたホントに馬鹿じゃないの!? 女の子をひとり恥ずかしがらして何が楽しいわけ!? 前から思ってたけどあんた実はサディストじゃないの!?」
祢瑚美の暴言に月野神夜は再び慌てふためき、
「ちょ、ちょっと祢瑚美落ち着いてっ! ここがどこだかわかってる!?」
「うるさいわねサディ、むぷっ! む、むう―――――――――っ!!」
さらに暴言を吐こうとした祢瑚美の口を月野神夜が手で強制的に封印し、そのまま席を移動してジタバタと暴れる年上なのか年下なのかわからない女性を無理矢理押さえ込んで身動きを封じ込める。そして何食わぬ顔で店内を見渡し、「何でもありません食事時に失礼しましたあはは」とばかりに笑いながら頭を下げる。他の客が横目でその様子を見ているのがはっきりとわかった。「馬鹿か祢瑚美。時と場所を考えろ。それと今すぐ大人しくしろ」と珍しく怒ったような顔で月野神夜は祢瑚美に言い聞かせる。まだ不服たっぷりだったが、珍しく怒ったような顔をする月野神夜はなぜか本当に恐くて、祢瑚美は大人しくそれに従う。
やがて月野神夜は手を離して祢瑚美から離れ、元の席に戻ってもうひと口メロンソーダを飲む。
「――確かにぼくが悪かったかもしれないけど、祢瑚美も祢瑚美だ。こんな所であんな台詞言ったら誤解されるに決まってる。今度こんな場所であんなこと言ったら本気で怒るからね」
「…………わかったわよ」
「ん、いい子だ祢瑚美」
こんなときだけ大人ぶるあんたってホントムカつくわよね、と内心つぶやく祢瑚美である。
まだ不服は残っていたが、それでもいつまでもこの話題を引き摺っていてはまた暴言を吐きそうだったので、祢瑚美はぶっきら棒に本題を切り出す。
「――それで今日、こんな日にわたしを呼び出した用は何なわけよ?」
ああ、と月野神夜はつぶやいて、それまでとは打って変わった真剣な表情をした。
「祢瑚美も知っている通り、ぼくが主催する掲示板の投稿件数が十万件を越えた」
「それがなに?」
「十万件を越えた辺りから、あの掲示板に変な噂が流れ出している。祢瑚美は普段から掲示板を覗かないから知らないだろうと思うけど、今現在あそこは、かなりの混乱状態にある。疑心感、とでも言うのだろうか。今まででも対戦者同士の互いに対する疑いは少なからずあったが、今回でそれが完全な公となった。今の状況をどうにかしないことには、そう遠くない未来にあの掲示板は閉鎖されることになる」
イマイチ話が見えてこない祢瑚美は、単刀直入に訊ねる。
「その原因は?」
月野神夜は、原因の言葉を告げた。
「……「ヘルデビル」というHNで噂されているフードファイター。祢瑚美は知ってる?」
知らない、と祢瑚美は首を振る。
「だろうね。しかしその「ヘルデビル」が原因で、あの掲示板は混乱状態になってる。――最初の犠牲者は、ぼくが近々「NEKOMI」と戦わせようと思っていた「CROSS」さんだ。三十五連勝を成し遂げていた強者。そんな彼が、「ヘルデビル」に破れた。それだけを見れば大したことじゃないけど、負け方が酷い。「CROSS」さんはそのフードファイト中、確かに『ギブアップ』を宣言しようとしたらしいんだ。店の店員が証言しているから間違いない。にも関わらず、「ヘルデビル」は強行手段を用いて「CROSS」さんの口を封じた」
「……その人は、何をされたの?」
「うどんの容器に顔面からぶち込まれた。「CROSS」さんは鼻と歯が三本折れたらしい。今現在入院している。ちょっと前に彼の入院した病院へ見舞いに行ったが、どうやら脳内の根本に『恐怖』が埋め込まれているようだった。フードファイトなど二度とできない、と震えながらつぶやいていたよ」
そして「ヘルデビル」の行動はそれだけでは留まらなかった、と月野神夜は拳を握る。
「その翌日から、「ヘルデビル」はHNを変更しては掲示板の利用者にフードファイトを申し込み、その全員に勝利し、その全員を病院送りにしている。店の店員が何度か警察に通報したらしいが、「ヘルデビル」は未だに捕まっていない。それほど逃げることが巧みな者なのか、それとも裏に何かパイプがあるのか。ぼくは後者だと思う。そうじゃなければ、今頃ニュースで流れたり新聞に少しくらいは載っているはずだからね」
話が見えてきた。祢瑚美は月野神夜を見据えながら、
「つまり、その「ヘルデビル」がHNをポンポン変更するものだから人物を特定できず、掲示板にいるすべての人が「ヘルデビル」に思えて勝負を挑めず、次々と利用者が減っている、と。そういうこと?」
「その通りだ。そしてタチの悪いことに、これは普通の荒らし行為とはわけが違う。物理的な攻撃も在り得るんだ。もはや犯罪と呼ぶに相応しい。加えて、昨夜その「ヘルデビル」からぼく宛てにメールが届いた」
「メール? 内容は?」
「――「NEKOMI」と戦わせろ、だってさ」
ようやく一本の筋が見えた。なるほどね、と祢瑚美は笑う。
「その荒らしを、わたしがやっつければいいんでしょ。あんたの言うことを聞くのは癪だけど、あの掲示板が無くなっちゃうのはやっぱり寂しいし、いいわ、わたしが一肌脱いで、」
「違う」
「え?」
その瞬間に見た月野神夜の眼光に、祢瑚美はある種の恐れを抱いた。
「違う。今回「NEKOMI」が出る幕は無い。ぼくの掲示板で起こった問題だ。これは、管理人である「大量食物連鎖」のぼくがカタをつける。――……「ヘルデビル」は、ぼくが潰す」
静寂が降り立っていた。
月野神夜から発せられる殺気のような気配が店内に充満し、誰一人、物音ひとつ聞こえなかった。
しかし静寂の中で煮え滾る、月野神夜の眼光だけは確かな音を放っているように祢瑚美は思う。祢瑚美は、かつて月野神夜に負けた。祢瑚美が初めて味わった敗北である。もう一度月野神夜と戦い、そして勝たねばならないのだと心の底から思っていた。だが、思い知った。あのときの月野神夜は、単なる「挑戦者」に過ぎなかったのだ。あのときの月野神夜はまだ、「本気」ではなかったのだ。そんな月野神夜が、今、完全なる「本気」になっている。その眼光が、今は何よりも恐ろしかった。
月野神夜は、静かに笑う。
「フードファイトが弱肉強食であることを、叩き込んで潰してやる」
本気になった月野神夜に、勝てる者など存在しないのだと祢瑚美は悟った。
戦いの幕が上がる。最強の遥か上を行く無敵のフードファイターが立ち上がる。
そうだ。
まさにそれは、
『NEKOMI Paradise V ――弱肉強食は焼肉定食!!――』
「アレ」の初日を乗り越え、まだ多少の腹痛と腰痛はあったが何とか食欲が戻って来た祢瑚美は、とりあえず何かを食べようと思った。本来なら「お腹に優しい食べ物」などを作って食べるのが一番いいのかもしれないが、生憎として祢瑚美にはお粥すら作れる力量は存在しなくて、そして祢瑚美に対して「お腹に優しい食べ物」とはつまり、「食べて幸せになれる食べ物」のことであり、故に祢瑚美は近頃行きつけのラーメン屋へと足を向けた。
自動ドアを抜けると店員の「いらっしゃいませー!!」という声とラーメンの良い匂いが祢瑚美を出迎えてくれた。時刻は昼時だったのでそれなりの人の姿はあったが、運良く空席が残っていて待つ必要はなかった。店の端っこの奥の席に腰を下ろし、メニューを見ずに祢瑚美は食べるものを決める。近寄って来た店員に「とんこつラーメンの大盛」と頼むと、ライスをつけるかどうか訊かれた。本来なら「とんこつラーメンの大盛五杯とライスの大盛十杯」を注文する祢瑚美であるのだが、今はそんな気分ではないので「とんこつラーメンの大盛とライスの大盛、各一杯ずつ」だけを注文した。
テーブルの上に置かれた水のコップを見つめ、そこに浮かび上がる水滴を指で突く。
自分が女の子である、ということは時に有利で、時に不利だと祢瑚美は思うのだ。今日のが良い例である。本当はお腹いっぱいになるまで食べ続けたいのに、そこまで食べる気になれない。どうして女の子とはこうも面倒な身体を持っているのだろうか。「アレ」の日が来る度に、祢瑚美は人体の不思議現象についてしばしば考えることがある。あるのだが、結局答えは一周して、「女の子だから仕方が無い」という結論に辿り着く。
注文してから五分と経たない内にとんこつラーメンの大盛とライスの大盛は運ばれて来て、テーブルの上に置かれたそれらが心地の良い湯気を漂わせている。割り箸を手にして割り、まずはとんこつラーメンを食べる。口に入れた瞬間に広がるこの濃厚なコクが何とも言えないほど上品で、しっかりとした歯応えのある細麺と絶妙にマッチしている。そしてスープをご飯にかけて食べればそこに広がるハーモニーはまさに天国で、祢瑚美はひとりで天使のような幸福の笑顔をするのである。
これまで数々のラーメン店を練り回ってきた祢瑚美であるが、この店のとんこつラーメンは群を抜いて極上品である。ニュースや雑誌で紹介されたことはないのだが、地元の人間だけが知る隠れた名店なのだ。もしこれが世に出回れば世間を賑わす最高のラーメンとなろう。最強のフードファイター「NEKOMI」が断言するのだから間違いない。
麺を半分ほど食べたとき、ふと唐突に、湯気の中に月野神夜の顔を見たような気がした。
それは今もまだ脳裏に焼きついている昨日の月野神夜である。「潰す」とつぶやいて笑った月野神夜は今頃、どこで何をしているのだろう。「ヘルデビル」を捜索しているのか、またはすでに「ヘルデビル」と戦っているのか。本気になった月野神夜の眼光は、人間のそれを軽く超越していると祢瑚美は思う。恐い、と思うと同時に、誰も勝てない、とも思う。最強のフードファイターの遥か上を行く無敵のフードファイター。やはり前から思っていたが、月野の血縁は皆化け物か宇宙人なのだろう。あんなによく食う人間など、この世にいるはずはないのである。
――……あんたは今頃、どうしてるんだろうね。
普段、憎っくき月野神夜の面影ばかりを思っている祢瑚美である。
心配、ではない。だけどそれに似た何かを、祢瑚美は確かに感じている。
気づけばいつしか、とんこつラーメンもライスも食べ終えてしまっていた。玩具を取り上げられた子供のような瞳で空になった容器を見つめ、祢瑚美はおかわりするかどうかを悩みに悩む。食べようと思えばまだまだ食べれるのだがしかし、食べ過ぎてはその後が恐い。気分が悪くなって吐いてしまったりしたら、それこそこの極上のラーメンに失礼である。ならば今日は諦めるべきか。今度、万全の体調のときに改めて食べに来ようか。そっちの方が満足できると思うし、うん、そうしよう。
祢瑚美がそう思って立ち上がろうとしたまさにその瞬間、突然に向い側に誰かが腰掛けた。
浮かしかけたお尻をそのままに、断りもなしに相席にするなんて失礼な人ね、とばかりに祢瑚美は目の前に視線を移す。
刹那。寒気を、覚えた。愛想笑いも何も、できはしなかった。
祢瑚美の向かい側に座った人物は男で、その男は明らかな異常者である。否、脳みそは正常なのかもしれないが、外見はどう考えても異常者であった。トチ狂ったように馬鹿でかいピアスを左右の耳にそれぞれ一つずつと唇に一つ、オカルトマニアでも持っていないような髑髏の首輪と指輪、黒色なのにも関わらずどこか紫がかって見える髪の毛、そして、その男を異常者だと完璧に裏づけるのは、祢瑚美を見据える目であった。一体何を見て育てばこんな目になるのだろう。一体どうすれば、人間の目がこれほどまでに深く鋭くなるのだろう。
祢瑚美を見据える男の瞳は、まるで爬虫類のように冷酷なものだった。
逃げよう、と祢瑚美は思った。こんな危ない人と関わりを持ってはならないのだ。今すぐに、逃げよう。
そう決断して停滞していたお尻をさらに上げた瞬間を見計らっていたかのように、男は言った。
「――「NEKOMI」だろ?」
身体が停止する。男はさらに言葉を紡ぐ。
「ようやく見つけたぜ。「NEKOMI」、このおれとフードファイトしろ」
中途半端に立ち上がったまま、祢瑚美は男を見つめる。
そして、月野神夜の言葉がどこからともなく胸の奥底に落ちてきた。
祢瑚美は無表情に座り直し、男の眼光を真っ直ぐに睨み返しながら、推測を確証へ変える。
「……「ヘルデビル」、でしょ?」
くっくっく、と男は笑う。
「一応、おれはあの掲示板ではそう呼ばれているらしいな。だが「地獄の悪魔」なんてセンスのないネーミングだぜ。おれには「ブラックペッパー」てなHNがあるっつーのによ」
「大した差はないじゃない」
気づけば口から本音があふれていた。
怒るかと思っていたのだが、男は別段気にした様子もなく、「まあな。そもそもそれもおれが考えたHNじゃねえし、どうこう言われても否定も肯定もしねえさ」とそこまでつぶやき、不敵に笑いながら「本当の名は京二(きょうじ)、歳は二十五だ。他の奴らに教える必要はなかったが、あんたは別だ。最強のフードファイターと言われるあんたのことだ、自分を倒した敵の名くらいは知っておきたいだろう」と付け加える。
自信過剰なのね、と祢瑚美は内心でつぶやく。
「……それであなたは、どうやってわたしを見つけ出したの?」
「なあに、簡単なことさ。過去にあんたと戦った奴らを拷問して特徴を吐かせて、あとはこっちのコネで探し出しただけだ。少し時間がかかっちまったが、こうして出遭えたんだ、文句は言わねえよ」
「それであなたは、わたしとフードファイトしたいわけね?」
「ああ」
自信過剰なその爬虫類の眼光を見据えながら、祢瑚美は小さくため息を吐く。
月野神夜が倒すべき相手が、目の前にいる。だけどここに月野神夜はいない。今ここで逃げ出すことも、月野神夜に連絡を取ることも、この男は許しはしないだろう。獲物を捕らえた蛇のように、ジワジワと追い詰め仕留めようとするのだろう。逃げるわけにはいかない。月野神夜と選手交替することもできない。今日はまだ「アレ」の名残で食欲が微妙だがそんな言い訳が通用するとは思えない。月野神夜には悪いが、この男はここで祢瑚美が倒さねばならない。月野神夜に一つ、借りを作っておいてやろう。
祢瑚美は深呼吸を一つ、
「ルールはどうするの?」
京二は最初から決めていたかのような口調で、
「場所は面倒だからここでいいだろう。制限時間は無制限、先にギブアップを宣言した方が負けのデスマッチでどうだ」
「いいわよ、それで」
――そんなルールを吹っかけ、あなたはこれまで何人もの人を病院送りにしてきたのね。
その行動を、許すことはできない。今日、ここでこの男を潰す。ただ、甘く見てはいけない。この男は、あの掲示板にいる猛者を何人も沈めてきた強者なのである。それを忘れてはならない。もしこの男が「HIMEKO」以上の実力者だとするのなら、かなり苦戦するだろう。今の体調から見ても、そうそう楽に勝てる相手ではない。だけど、弱音は吐かない。背を向けて逃げ出しもしない。最強のフードファイター「NEKOMI」の名に賭けて、この男を倒すのだ。
――ごめんね、あんたには悪いけど、この人はわたしが潰す。
そして、祢瑚美が思い浮かべた人物が、なぜか現実の実物として目の前にいた。
「……え?」
思わず間抜けな声が漏れた。
京二が不可解そうに見上げ、
「誰だ、テメえ?」
答えは、悠然として返される。
「フードファイトの掲示板の主催者、「大量食物連鎖」だ。お前の相手は、ぼくがする」
そう言って、「大量食物連鎖」こと月野神夜は笑う。
突然の月野神夜の登場に状況が理解できない。しばし呆然としていた祢瑚美は、それでも唐突に我に返り、「ちょ、なんであんたがこんな所にいるわけ!?」と慌てて問い質してみたところ、月野神夜は祢瑚美に視線を向けず、それでも「祢瑚美を尾行させてもらった。こいつが現れるのは近い内だって思ってたし、そうすることが一番手っ取り早かったからね。勝手な真似してごめん。でもこの償いは必ずするから」と切実につぶやく。
月野神夜の視線の先にいた京二は僅かな間を置いて、またしてもくっくっくと笑った。
「管理人様直々のご登場とは驚きだ。しかし当初の予定とは違ったが、テメえを倒すのが早まっただけのこと。「NEKOMI」はそれからでいい。まずはテメえをぶち殺してやる」
「その前に一つだけ聞かせろ。『お前たち』の目的は何だ?」
少しだけ意外そうな顔をした後、京二は爬虫類の目を歪ませ、
「とりあえずは、あの掲示板の管理権だな。今はそれ以上教える必要なんてねえよ」
月野神夜は一秒だけ何事かを考えた後に、肯く。
「わかった。ぼくが負けたらあの掲示板の管理権をくれてやる。だけどお前が負けたら、二度とフードファイトをしないと誓え」
「はっ、上等だぜ」
「――場所を代えるぞ。ぼくの行きつけの店に案内してやる」
そして、そのときになってようやく、月野神夜の視線が祢瑚美に向けられた。
月野神夜は、言葉なくして笑った。にも関わらず、祢瑚美にはそのつぶやきが確かに聞こえたように思う。
――ごめんね、祢瑚美。
店内から出て行く月野神夜を見つめながら、祢瑚美は成す術なく座り込む。
自動ドアが閉まる刹那の一瞬、たったひと言だけつぶやき返す。
「……勝ってよ、月野神夜」
◎
祢瑚美が取り残されたラーメン店からタクシーに乗り込み、そのまま乗車すること十五分。タクシーを降りたら商店街を真っ直ぐに突き抜け、一本の古ぼけた裏路地に足を進める。家と家の間が異常に狭い裏町のような場所をただひたすらに歩き続け、塀の上を歩いていた猫に挨拶をしながら目的地を目指す。やがて裏路地に太陽の光が射し込み始める。まるでここから先にあるのは異世界であるかのように、光の道は訪れる者を目的地へと導いていた。
裏路地を抜けて視界に入るのは、一件の定食屋である。
暖簾に書かれた文字は『焔(ほむら)定食屋』、地元の人間しか立ち入ることの許されない隠れた名店中の名店であり、焔の如く灼熱の胃袋を持つ住人がよく訪れる、劫火の気配に包まれた定食屋だ。外見はどこにでもあるような定食屋だが、普通の定食屋と一つだけ決定的に違うのは、店のドアの前に貼紙がある所である。
そこにはこう書かれている。
一つ、当店への地元の客以外の立ち入りは禁ず。
一つ、客に如何なることがあろうと当店は責任を取りません。
一つ、当店最高のお勧めメニューは焼肉定食。
貼紙が何を意味するのかは定かではないが、月野神夜は暖簾を潜って店内へ足を踏み入れる。店内は僅かに薄暗く、一つの例外的な席を覗いては客席は満員だった。
焔定食屋に踏み入れて最初に迎えられるのは、客人全員による『選別』である。その者が地元の人間であるのか、その者が果たして本当にこの店に訪れるに適した人間か。それを店ではなく客自身が決めるのだ。それはこの店の伝統的な光景である。この店に迷い入った人間は皆、最初の選別に恐れを成して一瞬で背を向け逃げ出す。今回もまた、暖簾を潜ったのが月野神夜ではなかったら、一瞬で逃げ出していたに決まっていた。
焔定食屋の客席に座り定食を食うは、全員が全員、野獣のような大男であった。それら全員、店内に入ってきた月野神夜を見ると同時に、小さく頭を下げて選別をやめる。この店では、月野神夜に対する選別は無意味だ。否、選別などしようものならどんな仕打ちがくるかわかったものではない。月野神夜とはまさに、尊敬されると同時に恐れの対象でもあるのだ。店内を悠然と歩き、月野神夜は店の一番奥の自らの愛用席に腰掛ける。ここに座るのは月野神夜以外許されず、他の者が座った瞬間には店の客全員から袋叩きにされるという、魔の空間なのだ。
その向かい側に腰掛けた京二が、馬鹿にしたように笑った。
「……なんだあ、この店は。テメえの宗教集団が経営する場所かよ?」
月野神夜は笑い返す、
「そんなとこだよ」
京二がさらに何かを言おうとしたとき、突然に第三者が割って入る。
「――ご注文は、」
店主だ。しかし店主は月野神夜にメニューを訊くのは愚行だと知っている。
故に、こう続けた。
「焼肉定食でよろしいでしょうか?」
月野神夜は肯き、「こっちも焼肉定食でいい。ついでにおかわりの用意もしておいてくれ」と付け加え、店主は「畏まりました」と一礼してカウンターへと消えて行く。店の客が事態を悟り、自らの定食を急いで平らげにかかる。皆が皆、理解しているのだ。これから行われるのが何であるのかを。月野神夜のフードファイトは、この店に訪れる客の楽しみでもある。そして本日の生贄は、このイカれた目をする爬虫類人間。店内が静かな気迫に飲み込まれていく。
さて、と月野神夜は京二を見据える。
「ルールの確認だ。メニューは焼肉定食、制限時間は無制限、先にギブアップ宣言をした方が負けのデスマッチ。これでいいか?」
「上等だ。しかし、ここの焼肉定食は美味えんだろうな? おれぁ美味いもの以外食いたかねえぞ」
「味の保障はする。そして、その量も保障するさ。そこになんて書いてある?」
「あん?」
月野神夜が指差す方へと京二は視線を向け、そこにデカデカと貼られた紙を発見する。
こう読み取れる。
『当店最高のお勧めメニュー 焼肉定食 ¥1,500
時間は無制限であり、焼肉定食を三杯以上食べた方に関しては半額、五杯以上食べた方に関しては無料とさせて頂きます』
そしてその下にずらりと示されている文字は、よくよく見れば名前ではないか。ざっと流し読みした者だけで三杯以上食べて半額になった者は五十人ほど書かれている。その中の最少年記録は『月野影月 十歳』であるのはまあ当然と言えば当然であろう。しかし問題はそんなことではないのである。本当に注目すべき所は、五杯以上食べた者が、三人しか存在しないという事実だ。三杯以上食べた者が五十人もいるのに、そこから上へ行ったものはたったの三人だけなのだ。月野影月もまた、三杯から五杯へと続くその二杯の間にリタイアした者の一人である。
五杯以上平らげて料金を無料にした者の名を右から順に読み上げる。『月野玄武(げんぶ) 年齢不詳』『月野神夜 十六歳』『神野祢瑚美 二十歳』の三人である。月野神夜と祢瑚美は共に何度かこの店に訪れ、焼肉定食を平らげたことのある猛者であるのだが、果たして月野玄武とは何者であるのか。だがその答えは、実に簡単なことである。この焔定食屋の創設者にして、月野神夜と月野影月の父親にして、今現在この店のあらゆる記録保持者にして、焼肉定食を五十三杯も食い荒らした正真正銘の化け物。それが、月野玄武――。年齢不詳の事実については、月野神夜もノーコメントであるのはひとまず置いておこう。
それを見つめていた京二が突然に笑う。
「つまりだ。この店の焼肉定食がどんなものかまだ知らねえが、最大の難関は、五杯目の壁ってわけだ」
「その通りだ。そこを乗り越えられるかどうかで、その者の強さが問われる定食だ」
面白れぇ、と京二は目を歪ませた。
「実に楽しみだ。テメえとのバトルが待ち遠しいぜ」
月野神夜は別段変わった様子もなく、
「待たなくてもいいよ。だって、今から始まるんだから」
「――お待たせしました」
注文して三分も経たない内に運ばれて来るのは、焼肉定食である。
月野神夜は終止変わった様子はなかったが、京二は違った。僅かな驚きの後、実に不敵な笑みを浮かべて目前の焼肉定食を見据える。
それは、量と大きさを無視すれば至極オーソドックスな焼肉定食だ。お盆の上に置かれたのは真っ白の飯に味噌汁、ボリューム満点の焼肉の下に添えられているのは大量のキャベツである。焼肉の上から遠慮なくぶち込まれているのは焔定食屋秘伝のタレであり、これがあるからこそここの焼肉定食は真価を発揮するのだ。濛々と漂う湯気に混じって肉の香ばしい匂いが食欲をそそるのだがしかし、その大きさが異常である。飯や味噌汁の器はラーメンの器くらいの大きさがあるし、焼肉の皿に至ってはテーブルを覆い尽くすか如くに巨大だった。
常人ならば、三杯どころか一杯すら食べ切れるかどうか微妙である。
そんな焼肉定食を目の前にして、月野神夜と京二はこれからフードファイトを行おうとしているのだ。
言葉はすでに必要なかった。互いが同時に割り箸を手にし、睨み合いのような一瞬が過ぎた刹那が試合開始の合図だ。無制限のフードファイトの幕が切って落とされる。他の客人が席から立ち上がって食べ始めた月野神夜に声援を送り、京二に向って罵声を浴びせる。しかしそんな雑音など、今の二人には当たり前のように届いてはいない。焼肉定食を驚くスピードで平らげていくのはまさに、武士の一騎打ちに他ならないのだ。
先攻しているのは京二だった。普通なら焼肉をおかずとして飯を食うはずなのだが、京二はそのセオリーを最初から吹き飛ばしていた。まずは飯と決めたら飯だけを食い続け、それがなくなったら今度は味噌汁、そして最後にはメインの焼肉とキャベツを食い尽くす。京二は美味いものしか食わないと言っていたのにも関わらず、その様からは味などどうでもいいように思える。食って勝つ、ということ以外は何も考えてはいないのだろう。
そんな京二を見つめながら、月野神夜は小さな息を吐く。
互いにもう焼肉定食の半分を食った辺りだろうか。だけど何度食べてもここの焼肉定食は美味いものである。秘伝のタレと混ざり合った焼肉はもはや究極で、それが飯と最高に重なるのだ。このタレだけで食べたとしても、飯は何十杯もいけるであろう。だが肉があればなおのことによろしい、肉を噛み砕く度にあふれ出すこの肉汁はどうしようもないくらいに柔らしくて心地良く、祢瑚美じゃなくとも幸せな顔をしてしまうはずだ。事実、月野神夜の口元もまた、僅かに緩んでしまっている。
それなのに、京二だけは無表情に食い続けている。美味い不味いなど、京二にはやはり関係ないのだろう。一体何のためにあの掲示板の管理権などを望むのかはわからない。一体何のためにフードファイトをし続けているのかもわからない。しかし売られた喧嘩は買わねばならないのだ。それがフードファイトであるのならなおのこと、逃げ出すわけにはいかない。真っ向からぶつかり合って、そして必ず、潰してやるのだ。掲示板を混乱に陥れたこの男を、許すことなどできはしない。
試合開始から四分五十三秒、互いがまったくの同時に一皿目を食い終わった。
それを待ってましたとばかりにすぐさま代わりの焼肉定食が目の前に差し出され、またしてもまったくの同時に食い始める。
京二にはまだ変化は見られない。だがそれもそうだろう。曲がりなりにもあの掲示板に訪れていた猛者共を次々と倒してきた男なのである。そう簡単に底は見せはしないだろう。恐らくは正規のルールに乗っ取って戦っていればさぞかし強いフードファイターになれたはずだ。だからこそ月野神夜は許せない。実力があるのになぜそれを間違った方向で使うのか。勝てる自信があるのになぜ卑劣なことをするのか。許せはしないこと。正々堂々と戦うことがフードファイトの暗黙の掟。それを破った者は誰であろうと許しはしない。フードファイトの神が制裁を与えないのであれば、神に代わって制裁を与えてやる。この勝負が、審判のときだ。
口の中で残っていた最後のひと口を飲み込み、月野神夜は次の焼肉定食を捕らえる。僅かに遅れて京二もそれに続き、差を詰めようとさらにペースを上げた。
最初の勝負所はこの三杯目である。どうして三杯目で料金が半額になるのか。それは、この三杯目で倒れる挑戦者が最も多いからだ。この焼肉定食の本当に恐い所は量でも大きさでもなく、秘伝のタレにある。このタレには通常では考えられないほどの量の油が使われており、最初の一杯目や二杯目までならまだ「美味い」と言い切れるのだが、三杯目辺りからタレは味覚を狂わせ、胃を支配し始める。それに耐えてこそ初めて三杯目を突破でき、さらには五杯目へと手を伸ばす挑戦権を手に入れることができる勝負所なのだ。
実際、それまで平然としていた京二の顔色が僅かに曇っていることに月野神夜は気づいた。
が、一方の月野神夜はここがホームグラウンドあるかの如く、まだまだ余裕を持っている。ホームグラウンドに敵を誘い込むのはいささかアンフェアかもしれないが、向こうも恐らくはそれを承知でこの勝負を承諾したのだろう。相手の陣地で相手を倒してこそ価値がある、と京二はそう思っているはずだ。いいだろう、と月野神夜は笑う。ホームグラウンドの強みを見せてやる。
大量のキャベツを口一杯に突っ込んで噛み砕き、月野神夜は三杯目の壁を突破した。対して京二はまだ、三杯目を半分平らげた辺りである。早食いは影月の専門分野であるのだがしかし、月野神夜もまた早食いには自信がある。早食いの潜在能力としては影月の方が上だが、それは影月が尋常ではないからである。影月を除くのであれば、早食いに関しても月野神夜が最強に決まっていた。秘伝のタレを相手にこの早食いはなかなかに大きなリスクを伴うが、そんなことに構っている暇はない。
圧倒的な実力差を叩きつけて、フードファイトは弱肉強食だと理解させ、そして、潰すのだ。
月野神夜は四杯目の焼肉定食を食べる速度をさらに上げた。それを横目で確認した京二が僅かな悪態をつく。その頬に汗が流れているのは別段驚くようなことではない。さすがに初めてでこの焼肉定食を何杯も食べるのはキツイのだろう。ここの秘伝のタレは病源体と同じなのだと月野神夜は考える。人間の体が病気に対して免疫を作るかのように、このタレに対しても胃が免疫を作る。それは何度も何度も食い続けてようやく手に入れられる、焔の如く灼熱の胃袋なのだ。果たして京二がそれについて来れるかどうか。
――食らいついて来るのなら食らいついて来い。お前がくたばるまで、僕は走り続けてやる。
月野神夜が最大難関である五杯目に突入した。噛む度に口の中に充満する肉汁はまるでマグマのようで、最初の一杯に味わったはずの旨味はすでに感じられなくなっていた。だが灼熱の胃袋が秘伝のタレを焼き尽くして無効化にしてくれるのが心強い。まだ食い続けられる。月野神夜の最高記録が焼肉定食三十四杯だ。今日はそれを越えるつもりで挑戦している。京二を根本から叩き潰そうと思うのであればそうしなければならない。限界の遥か彼方まで、到達しなければならないのだ。
京二が四杯目の半分を食ったとき、突然に水の入ったコップを手にして一気飲みした。テーブルに戻されると同時に、待機していた客がすぐさまコップに新たな水を注ぎ込む。それをまたしても一気飲みして、京二は荒々しく息を吐き出す。肩で呼吸を整えるその様を、月野神夜はかつて己でも体験したことがある。胃がタレを拒絶する超現象。胸焼け、とはまた違う、もっと別次元の苦痛。胃袋をタレが溶かすかのような気持ち悪さ。五杯目の壁を越えられない挑戦者は皆、その現象の前に挫折するのだ。
しかし京二は挫折しなかった。水を飲みながら狙いを定めた焼肉だけを食い続け、爬虫類の眼光をさらに研ぎ澄ましながら貪る。やがて四杯目を平らげ、京二は五杯目の壁へと突き進む。京二にいつ限界が来てもおかしくはないだろう。水をがぶ飲みし出鱈目に食い続けているのだ、とっくの昔に胃袋は死に絶えていても不思議ではない。しかしそれにも関わらず、京二のペースが一向に落ちないのはどういうことか。そもそも初めての挑戦で五杯目に突入した強者は、月野玄武と月野神夜と、そして祢瑚美だけである。京二と名乗るこのフードファイターは、その三人に近い胃袋を持っているということなのだろうか。
試合開始から、三十分が経っていた。
認めよう、と月野神夜は思う。
このフードファイターは、誠に強い。真っ向から正々堂々と戦っていれば、「NEKOMI」にだって迫れるかもしれない。
なぜ、お前はあのような非道なことをしてしまったのか。なぜ、お前が道を踏み外してしまったのか。
なぜ、『お前たち』はぼくに牙を向ける――?
コップがテーブルに叩きつけられる荒々しい音と共に、京二が五杯目を平らげた四人目となった。
くっくっく、と京二は笑う。
「お前としては、おれがここまで食うのは予想外だったんじゃねえか?」
挑発的に見据えてくる京二を見返し、月野神夜も笑った。
「そうかもしれない。だけど、――もう、手遅れだ」
「……なに? どういう意、」
そこまでつぶやいた京二は、ようやく現実を目撃する。
爬虫類の目が歪み、それまでとはまったく異なる汗が頬を流れた。
「――テメえ……ッ!! いつの間に食いやがった……ッ!?」
月野神夜の目の前には、合計して十五杯の焼肉定食が山積みにされている。
この勝負は無制限である。故に相手よりどれだけ食べていたところで意味はない。相手が『ギブアップ』と宣言しなければ勝負は永久に決定しないのだから。ならば相手に『ギブアップ』と言わせる方法はあるのだろうか。その方法は、二つある。一つは、単純な根競べ。何分でも何十分でも何時間でも待ち続け、相手の心を削って『ギブアップ』を宣言させる手段である。それを使って根競べに持ち込んだとしても、月野神夜には勝つ自信があった。だが、この相手にはそうして勝ったとしても無意味なのである。その勝利では、価値がない。「フードファイトをして負かす」ことが、重要な意味を持っているのだ。
だから月野神夜は、根競べとは違う、相手の意志を断ち切る方法を取った。それはかつて、「NEKOMI」が「HIMEKO」に対してしたことと同じことである。相手に限界が訪れたと見極めた瞬間を見計らい、こっちの全力を持ってして食い続け、相手の「食べる」という意志を根こそぎ切断する。そうなってしまった人間には、勝ち目は零となる。意欲が無くなった相手は本能的に『ギブアップ』を認めるしか道はなくなるのだ。それが、フードファイトの最高峰で行われるデスマッチの究極系なのである。
故に、刹那の一秒の後、月野神夜がすべてを解放した。
祢瑚美が恐れた、月野神夜の本気の眼光がその全貌を現す。
発せられた殺気は店中に充満し、対峙していた京二にしてみればそれは、喉元に刃物を突きつけられているのと同意義だったのかもしれない。京二の青褪めた顔色を見ればそれも強ち外れではないだろうとわかる。二人を取り囲んでいたギャラリーが息を飲み、まるでポルターガイストのように店の窓がガタガタと揺れている。冗談のような現実、人間とは到底思えない人間が発する殺気、それを凝縮させて睨みつける月野神夜。
無敵のフードファイターが、ここに君臨する。
月野神夜は言う。
「一つだけ聞かせろ」
しかし京二はもはや口を開くことすら儘ならない。
「――お前たちの頭は、誰だ?」
答えを返さない京二を睨みつけながら、月野神夜は核心に触れた。
「お前たちの頭は、ジーク・クライヤーだな?」
放心していたかのような京二が突如として震え上がり、信じられないような目つきで月野神夜を凝視し、
「て、テメえがなんでそれを……!?」
やっぱりか、と月野神夜は思う。
そして、それ以上の追求はすまい、とも思う。
相手の頭がジーク・クライヤーであるとわかったことだけでもう十分だ。もはや会話は必要ない。ここから先のことはすべて見当がつく。今の月野神夜に残されたことはただ一つだけ。目の前のこのフードファイターに、『ギブアップ』を宣言させることである。目前に並べられた十五杯の焼肉定食の屍を見据え、月野神夜は自らの胃の残量を確かめる。胃もたれは感じるが大丈夫だ、まだ行ける。
京二の中ではすでに、「食べる」という意志は消え失せていた。
限界突破だ、と月野神夜は拳を握る。運び込まれて来た焼肉定食を睨みつけ、月野神夜は割り箸を手にする。京二の存在など一瞬で頭からは消滅し、今は焼肉定食しか見えていない。父親である月野玄武の五十三杯がこの店の最高記録である。それを越えれるとは思っていないが、それに近づこうとは思う。いつか名実共に無敵を名乗れるように、ここで、父親の足元を掴んでおかねばならない。それはにはまず、三十四杯を越えることが最優先事項となる。月野神夜の思考は、もうそれしか考えていなかった。それ以外の雑念などすべて消し飛んだ。強靭的な集中力が身体を支配し、手が動くと同時に口の中に焼肉がぶち込まれる。
月野神夜は食い続ける。
それを見守るギャラリーが大歓声を上げる。
限界へと続く挑戦の幕が、切って落とされていた。
無制限のデスマッチが終わりを告げたのは、突然だったように思う。
それは月野神夜が自己最高記録である三十四杯目に突入した瞬間であり、それまで身動き一つしなかった京二が僅かに口を動かした瞬間であり、ギャラリーの一角が跳ね飛ばされて何者かが乱入した瞬間であり、そしてそれはすべてが終った瞬間だった。
京二は「ギブアップ」と言おうとしたのだろう。だがそれを、許さない者がいた。京二がこれまで戦ったフードファイターにしてきた行動とまるで同じ暴挙が、月野神夜の目前で繰り広げられる。京二の後頭部が鷲掴まれ、力任せにテーブルに叩きつけられた。何かが折れる、嫌な音が店内に響き渡り、廃人のような呻き声を発しながら血塗れの京二が引っ張り上げられる。鼻がおかしな方向へ捻じ曲がり、額がぱっくりと割れて顔面流血状態だった。
京二は、まるで操り人形のようにつぶやいた。
「……ずびば、ぜん……」
しかしその謝罪は、ハナクソほどの効力も持っていなかった。
おかしな方向に捻じ曲がっていた鼻っ面に拳が一発ぶち込まれ、噴き出した鮮血が月野神夜の顔に附着する。その光景に恐れを成した一部のギャラリーが大声を上げながら逃げ出し、残った者が無言で理解不能なこの状況を凝視する。派手な音を立てて京二の体がテーブルに堕ち、焼肉定食の皿を床に散らばらして沈黙した。テーブルの上にゆっくりと広がっていくのは気が遠くなるような真っ赤な血であり、今すぐにでも救急車を呼んでも不思議ではない出血量だった。
月野神夜は、顔色を変えなかった。顔に附着した鮮血を拭うこともしなかった。
視線は、招かねざる侵入者に向けられている。
拳から滴る京二の血液を床に垂らし、その男は月野神夜を見ながら、しかし京二につぶやく。
「……HA。誰がギブアップしろって言ったよ」
そして今度こそ、男は月野神夜に向って言った。
「久しぶりだな、月野神夜」
男は、口を裂かして笑う。
その男は、名をジーク・クライヤーといった。
◎ ◎ ◎
それは、この地球上に存在した一人の怪物の話。
フードファイトの名の下に、日本人でありながら世界を征した怪物の話。
その男の名を、月野玄武という。
世界では無名もいいところだった玄武は、大胆にも公に公開されることのない、裏世界で行われるフードファイトの世界大会に出場した。そのフードファイトを観戦するは一般人ではない。それを観戦するは世界でも名の知れた大金持ちだ。大金持ちが暇を潰す理由と共に、刺激と興奮を得るために足を運ぶ闇の奥底に存在する、大賭博を開く闘技場。世界を縛りつける法などクソ食らえ、法など金と権力で何ともで捻じ曲げることができる。そんなことを考える連中が集まる、そんな場所に、当時はまるで無名だった玄武は「挑戦者」という形で小さな島国から乗り込んで行ったのである。
主催者側は当初、玄武を「噛ませ犬」として大会出場を許可したのだが、その判断が間違いであったことに主催者側が気づいたのは、玄武の第一回戦が行われた瞬間であった。玄武と最初にフードファイトをした相手は今大会三番人気の猛者で、主催者側の意図としては、その者が「噛ませ犬」を豪快にぶち殺してくれるシナリオだったのである。しかしいざ試合が開始されればすべてが破壊された。豪快にぶち殺されたのは、三番人気だったはずの猛者だったのだ。
そして玄武の快進撃は留まることを知らなかった。ただの一度も苦戦することなく第十五回戦、つまりは決勝まで駒を進めたのである。小さな島国から来た一人の挑戦者は、いつしか「噛ませ犬」という名を剥ぎ取られ、「カミカゼ」として人気を独占していく。それまでの対戦額も法に基づいて考えれば通常では有り得ないほど莫大だったのだが、決勝戦ともなれば賭け金はさらに半端ではなくなる。総額にすれば億は下らない、小国を買い取ってもお釣りが来る程の額が投資された。
玄武の決勝戦の相手は、五年前からこの大会の覇者である、フォーク・クライヤーという名の男だった。
それまで玄武の人気もうなぎ上りだったのだがしかし、五年連続覇者にして今大会でも勝って当たり前の大本命であるフォークに勝てる人間など地球上には存在しないであろう、との考えの前では無に等しかった。実際に、決勝戦の賭け金のほとんどがフォークに注ぎ込まれ、ひいき目に見たとしても玄武とフォークの割合はギリギリで二対八だったのである。だが「噛ませ犬」がここまで来たことだけですでに驚きなのだ。それだけで十分に楽しめたのだ。だから最後はせめて、派手に散って欲しいと誰もが思っていた。せめてフォークを僅かに追い詰め、善戦してぶち殺されて欲しい、と誰もが願っていた。
――が。
試合が始まり、開始より三十分強が経った瞬間に、観客の誰もが予想もしていなかった事態が発生する。
静寂が降り立つ闘技場の中心部で月野玄武は高らかに笑い、フォーク・クライヤーはテーブルに這い蹲る。
新チャンピオンが誕生した瞬間であった。「噛ませ犬」が「カミカゼ」へと姿を変貌させ、覇者をぶち殺した。二対八で賭けられていた金額は、一発逆転大穴狙いをした者が握り締める。フードファイト界が震撼した。最強だと認められていたフォーク・クライヤーは敗れ去り、ここに怪物が降臨する。闘技場は大喝采の渦だった。皆が皆、まったく同じことを叫ぶ。
ジャパニーズモンスター。日本の怪物が世界を征する。
玄武は最後の最後に、テーブルに這い蹲るフォークに視線を向けた。
フォークは言った。お前は何者だ、と。
しかしその問いに、玄武は答えを返さず、ただ笑ってみせる。
『Shit……ッ! 覚えていろジャパニーズッ! 必ず、必ずおれが貴様を殺す……ッ!!』
それが、玄武が聞いたフォーク・クライヤーの最後の声だった。
それは、この地球上に存在した一人の怪物の話。
フードファイトの名の下に、日本人でありながら世界を征した怪物の話。
そして、フォーク・クライヤーの言葉は実現されないまま、二十年の歳月が流れる。
もはや玄武の記憶の中に、フォーク・クライヤーの名は残ってはいないかもしれない。
だが、それは忘れた頃に再び降り注ぐのだ。憎悪の感情は、そう簡単に消えはしない。
フォーク・クライヤーの意志を継いだ息子、ジーク・クライヤーが、
月野玄武の後継者になるはずの息子、月野神夜に牙を剥く。
そうだ。
まさにそれは、
『NEKOMI Paradise 四 ――決戦!! 大食い戦隊ガブレンジャーVS大食いキングダム』
大食い戦隊ガブレンジャーが、なぜか本格的に結成されることになった。
訳がわからない。意味もわからない。理解不能である。一体何が楽しくて二十一歳にもなった今に五色戦隊を結成して、しかもそのピンクに任命されなければならないのか。そんなことをそうそう簡単に納得できるはずもなく、そもそもこのような状況に発展した経緯すら不明である。しかしそれもそのはずであろう、月野神夜が「ヘルデビル」と戦った翌日、つまりは今日に祢瑚美は呼び出され、レストランの奥の席に座っていた月野神夜の向かい側に腰掛けた瞬間に、説明もクソもない間にこう言われたのだから。
「――おめでとう祢瑚美。君は今日から正式に大食い戦隊ガブレンジャーのピンクになった」
「……はぁ?」
自分でも笑ってしまうくらいに素っとん狂な声が口から出た。
祢瑚美は鼻で笑いつつ、
「下らないこと言わないでよ。それよりわたしはお腹減ってるの。ようやくアレも治まったし、今日からまたいっぱい食べれるんだから。あんたが呼び出したんだから今日はあんたが奢りなさいよ」
今日『は』ではなく今日『も』であるのだが、月野神夜は別段気にした様子もなく、
「それは構わないが、とりあえずぼくの話を聞いてくれないか」
祢瑚美はメニューを見ながら即答する、
「嫌よ。どうせ下らないことなんでしょ。――あのね、先に言っておくけどね、わたしには全身ピンクの服着て何かの上等台詞を叫ぶだけの度胸なんてこれっぽっちもないからね。全身ピンクにするくらいなら死んだ方がまだマシよ。ガブレンジャーだが何だか知らないけど、やるならあんた一人でやって。それが寂しいなら影月くんでも誘えばいいでしょ。お願いだからわたしを巻き込まないで。……すいませーん、注文お願いしますー」
祢瑚美の声に気づいた店員が近づいてきて、「ご注文は?」とつぶやく。
それを遮りながら月野神夜が「ちょっと待ってよ、祢瑚美は何か勘違いしてるよ。別に誰も祢瑚美に全身ピンクにしろなんて言ってないじゃん。それはただのポジションの問題で、本当は」と何かしらの説明を開始しようとするのだが、祢瑚美はまるで無視して店員を見上げ、「ジャンボカルボナーラ三つとこのジャンボエビドリアのAセットを二つ、あとオレンジジュース四つにショートケーキを一つと、特製ジャンボパフェ」と注文すると、僅かに引き攣った顔をした店員は「畏まりました」と頭を下げながら慌てて逃げ出していく。
祢瑚美は一度だけ小さな深呼吸をした後に、不服そうな顔をする月野神夜を見つめる。
「――なによ?」
「……この店ってそんなにジャンボメニューあったっけ?」
「――知らないわよ。書いてあるんだからあるんでしょ」
「それでさっきの話なんだけどさ、」
「――お断りします」
お手上げだ、とばかりに月野神夜は肩をくすめて苦笑する。
しかしすぐに何かを思い出したかのように少しだけ顔を引き締めた。
「それじゃ祢瑚美、今からぼくたちがしなければならないことについて順を追って説明していく。それだけでいいから聞いて欲しい。嫌だって言うのならさっき注文したメニューを全部キャンセルする。でも聞いてくれたらジャンボメニューをもっと注文してもいい。……どう?」
ふっ、甘いわね月野神夜、と祢瑚美は思う。
わたしがそんな手に乗るとでも思ってるの? わたしがそんなに食い意地張っているように見えるの? 馬鹿にしないで欲しいわ。別にね、あんたに奢ってもらわなくてもわたしは自分で食べれるの。何か話したいことがあるのならもっと高級なものを用意しなさい。食べた瞬間にわたしが最高に幸せになれるような、特別品を持って来させなさい。高々ファミレスのメニューでわたしが言いなりになると思っていたら大間違い、今日はそのことをあんたにハッキリと思い知らせてあげるわ。
祢瑚美は不敵に笑う。
「――……話だけなら、聞いてあげでもいいわよ」
理性と感情が違うように、心と体は違っていた。
食べたいものは食べたいし、キャンセルされることは素直に嫌なのである。そんな言い訳で自分を正当化しつつ、祢瑚美は何食わぬ顔で安堵したように笑う月野神夜を見つめた。
「よかった。一時はどうなるかと思ったけど、やっぱり祢瑚美は祢瑚美だね」
馬鹿にされたような気がしないでもないが、とりあえず気にしないことにする。
「それで、だ。昨日、ぼくと戦った「ヘルデビル」こと京二を裏で操っていた主犯格が誰であるのかを完璧に突き止めた。いや、少し前からその可能性はあったんだけど、昨日のことでそれが完全に立証されたんだ。実際に昨日、その主犯格と会って話をしたしね。向こうの要求はただ一つ。ぼくとのフードファイトさ」
「前置きはいいから、その主犯格は誰だったのよ?」
「ジーク・クライヤーという名の男だ」
「誰よ、そいつ」
月野神夜は、突然にそれまでの雰囲気を一掃して、真剣な瞳をした。
「クライヤーと言えば、月野コーポレーションとタメを張れるくらいに世界でも名の通った企業の一つなんだ。それを創設したのがフォーク・クライヤーという名のアメリカ人。そのフォークは、表では大会社の社長という名の顔を持っていながら、裏では世界最強のフードファイターの称号を持っていた。公には公開されていない、フードファイトの世界大会ってのが実際にあるんだよ。そこで五年連続で優勝した男がそのフォーク・クライヤーなんだけど、六年目でとある日本人に敗れ去った」
まさか、と祢瑚美の頭の中で電球が灯った。
「その日本人っていうのが、もしかしてあんたなの……?」
「そんなわけないじゃん。それ二十年も前の話だよ。ぼくはまだ生まれてないって。いいからちょっと黙って聞いてて祢瑚美」
むぅ、と祢瑚美は自分自身を否定されたみたいで頬を膨らませるが、月野神夜は構わずに続ける。
「フォーク・クライヤーを破った日本人っていうのが、月野コーポレーションの創設者にしてぼくの父親である、月野玄武なんだよ。焔定食屋で貼紙あったでしょ。あそこにぼくと祢瑚美の他にもう一人、名前書いてる人いたじゃん。あれが月野玄武。――それで、ぼくの父さんがフォークを倒したまではいいんだけど、どうやらそのことがフォークの怨みを買ったらしくてね。父さんの去り際、フォークは『殺してやる』と言ったらしい。だけどそれは実現されないまま、二十年の歳月が流れて今になる。……まあ、それも無理はないんだけど」
「どうして?」
「フォーク・クライヤーはもうこの世にはいないから」
まさか、と祢瑚美は身を乗り出す。
「あんたの父親がフォークを殺したの!?」
「だからそんなわけないじゃん、て。いいからもう、ホントにしばらく黙ってて祢瑚美」
むむむ、と祢瑚美は少しだけしょぼくれて席に縮こまる。
「父さんとフォークが戦った三年後に、フォークは発見された末期癌でこの世を去った。それが原因でフォークのリベンジは叶わないまま、すべては闇の中に葬り去られることになる――、はずだったんだけど、問題が一つだけ残ってたんだ。それが、フォーク・クライヤーの息子である、ジーク・クライヤーだ。ジークがまだ幼かった頃にフォークは死んだ。幼さ故の勘違いだったんだろうね。ジークはこう思った。『父親が、日本人に殺された』って。それからジーク・クライヤーは月野玄武を、そしてぼくや影月を心底憎むようになった。以前何度かジークとは会ったことがあるんだけど、あの氷のような目だけは忘れられない。影月はそれだけで恐いって泣いてた」
祢瑚美の中で、今度こそふと核心を得たような光が現れた。
「ちょっと待ってよ、それじゃなに? そのジーク・クライヤーがあんたにフードファイトを申し込む理由って、実は単なる逆恨みじゃないのっ?」
ジーク・クライヤーの父親であるフォーク・クライヤーは癌で死んだ、と月野神夜は言った。つまりそれはどうしようもない死因であり、誰を責めることもできないであろう。もし責めるのだとすればそれは形無い、神様とかその辺りだろう。にも関わらず、ジーク・クライヤーは逆恨みの如くに月野玄武を、そして月野神夜や影月を責めるようになった、と。ちょっと待ってよ、と祢瑚美は思う。それでは何か、そんな逆恨みのような下らない理由で、自分は大食い戦隊ガブレンジャーのピンクに任命されたというのだろうか。馬鹿馬鹿し過ぎて話にならない。そんなの、冗談ではなかった。
しかし月野神夜は変わらずの口調で、
「ひと言でまとめればそうなる。だけどもしその理由がなくても、ジークはぼくに勝負を吹っ掛けてきたはずさ。月野玄武とフォーク・クライヤーが戦い月野玄武が勝利したという事実が存在する限り、遅かれ早かれ必ずぼくとジークは戦うことになっていたはずだ。今回はただ、ジークが身に覚えのない理由と共に乗り込んできただけのこと。……そして、売られた喧嘩は買うよ。ぼくは逃げも隠れもしない、真っ向からジーク・クライヤーとフードファイトをしてみせる」
そのとき、注文しておいたジャンボカルボナーラが三つとジャンボエビドリアのAセットが二つ、オレンジジュースが四つにショートケーキと特製ジャンボパフェが各一つずつが届いた。テーブルの上に並べられたそれらは圧巻で、普通の人間ならば見るだけで腹いっぱいになるような光景である。だが祢瑚美は当然のように目を輝かせ、まずはカルボナーラかエビドリアのどちらを食べるべきかを検討し始める。脳みその九割をそれに注ぎ込んで、残り一割で月野神夜の相手をする。
「ていうかさ、だったらあんた一人で戦えばいいでしょ。どうしてあんたとジークの勝負にわたしが関係してくるのよ?」
それが本題なんだ、と月野神夜は言った。
「昨日、ジークから持ちかけられた勝負の方法は五対五のフードファイトなんだよ。それぞれが個々に戦い、勝敗が多いチームが勝ちってことになる。そうなればまず、ぼくたちは絶対に三勝しなければならないんだ。ぼくと祢瑚美がいれば二勝は手堅いから、君を外すことはできない。ぼくがフードファイターで最も信頼しているのは君なんだ。大食い戦隊ガブレンジャーってのはただのチーム名で、ピンクってのはさらにおまけだから関係ないんだよ。だから頼む、力を貸してくれ祢瑚美」
珍しく本気で頭を下げる月野神夜を見つめ、祢瑚美はカルボナーラを口いっぱいにもぐもぐと食べながら、
「ほへで、ふぁいてほふぃーむふぇいはふぁに?」
「食べるか喋るかどっちかにして」
もぐもぐ、ごっくん。
「……それで、相手のチーム名は何?」
「大食いキングダム」
「……………………」
こっちもこっちなら向こうも向こうか、と祢瑚美は思った。
小さなため息を一つ、もう一度カルボナーラを口に運ぶ。それにしてもここのファミレスのスパゲッティは美味しい。ミートもクリームの絶品であるのだが、カルボナーラも美味である。それに加えて量も多いときているのだ、文句の一つも出て来はしない。口の中に広がるチーズ風味の香りが食欲をそそり、口の中で溶け合うようなまったりとした味が祢瑚美を天国へと連れて行ってくれる。天使のような笑みを浮かべなら、祢瑚美は気分がいい内に返事を返そうと考える。
だが、それには一つだけ疑問があった。
「メンバーがわたしとあんただってことはわかったけど、他の三人はどうするのよ?」
抜かりは無いよ、と月野神夜は笑う。
「他のメンバーにはもう連絡して、承諾もしてもらってる。そろそろ約束の時間だ、集まってくるはずだよ」
誰よそれ、と祢瑚美が言おうとした瞬間に、一人の声が店内に響く。
「あ、祢瑚美さんだ! 久しぶりーっ!!」
人懐っこい笑みを浮かべて走り寄って来るは、目の前の月野神夜の髪を長くして髭を剃ってそのまま小さくしたかのような小学生である。その小学生を、祢瑚美は見たことがある。大食い戦隊ガブレンジャーの発案者にして早食いのスペシャリスト、加えて大食い戦隊ガブレンジャーのリーダー格であるレッドを希望する月野神夜の弟、月野影月だ。影月はテーブルに近づくと、そこに並べられた品物を見渡しつつ祢瑚美を見つめ、「……こんなに食べると太るよ祢瑚美さん」と少しだけ遠慮気味につぶやいた。
大きなお世話よ、と祢瑚美は思う。
「遅かったな影月」
月野神夜がそう言うと、影月は口を尖らせて、
「兄貴が一緒に連れてってくれないからだろ。小学生がここに来るのはなかなかに大変なんだからな」
あはは、悪かった悪かった、とまるで悪びれた様子もなく月野神夜は笑う。
これで大食い戦隊ガブレンジャーは三人となる。では残りの二人は――?、祢瑚美が再びそう思った瞬間を見計らっていたかのように、すぐ後ろから澄んだ綺麗な声が響く。
「久しぶりです、「NEKOMI」さん」
「……え?」
背後を振り返ったそこに、かつて戦ったライバルがいた。「クソッタレノ交想曲」が打ち立てていた公式連勝記録である四十九連勝を食い止め、同時に自らもそれと並んでいるあの掲示板屈指の強者。明らかに「NEKOMI」を意識したHNを持っていた一人の女の子。そのHNを「HIMEKO」と表記し、名を鹿島媛子といった十九歳のフリーターだ。あの日以来、祢瑚美は媛子には会っていなかった。だけど今、こうして再び『仲間』という名の下に集まった喜びは、自分でも驚くほどあった。何年も昔から会っていない同級生に会ったかの高揚感。なぜかものすごく嬉しがっている自分がいたのが不思議である。
祢瑚美は無意識に席を立ち上がり、
「久しぶり媛子! どうしてた!? 元気だった!?」
媛子は可愛らしい笑みを浮かべながら、
「元気でした。祢瑚美さんも元気そうですね。でも、」
「なに?」
媛子は、影月と同じようにテーブルを見つめ、「こんなに食べたら太りますよ?」と悪気もなく素直につぶやいてみせた。祢瑚美は沈黙し、心の中ではただ漠然とあなたも人のこと言えないじゃないと自らの現実から目を背ける。
突然に賑やかになったテーブルに大食い戦隊ガブレンジャーが四人集結する。その面子を順に見渡しながら祢瑚美は思うのだ。これだけオールスターの顔ぶが集まっているのだ。個々の力でも圧倒的であるのにも関わらず、それが集まったら最後、もはや誰にも止められはしないだろう。無敵だと思った。ジーク・クライヤー率いる大食いキングダムだか何だか知らないが、そんなものは一瞬で捻り潰してやると思った。何でもできるような万能感。フードファイトの訪れが、これほどまでに楽しみになった例はかつてない。
祢瑚美が注文した特製ジャンボパフェを食べていた媛子がふと、スプーンを口に咥えて辺りを見渡しながら、
「そういえば……もう一人は誰なんです?」
すっかり忘れていた。あまりに面子がすごかったせいで残りの一人のことなどもはや眼中になかった。
再び湧き上がった興味を月野神夜に向ける。
「もう一人もわたしが戦った誰かなの?」
月野神夜は不敵に笑い、もう来てるよ、とつぶやいた。
月野神夜を除く全員が「どこに?」というような顔をした後に、テーブルの前にすっと立ち上がった人物がいた。全員の視線がそこへ向けられ、全員が唖然とした顔でその人物を見つめる。ジェントルマンを連想させる黒いスーツにシルクハット、そこから伸びる左右対照にカールを描いた白い髭に穏やかな瞳、くるりと曲がったステッキを持ってはいるが背筋は伸び切っていて、そのせいか身長がすごく高く見える、一見すればものすごく優しそうなお爺さんだった。
祢瑚美はこれまで数多くのフードファイターと戦ってきたが、生憎として老人と戦った憶えはこれっぽっちもなかった。
「……誰、このお爺さん……」
祢瑚美がそう言うと、答えたのは月野神夜はなく、その老人であった。
「わたしくは月野玄武様に雇われております、執事の中村と申します。この度、月野神夜様に任命され、皆様と同じくして大食い戦隊ガブレンジャーのグリーンとなりました。以後、お見知りおきを」
奇妙は沈黙が降り立ち、その中で月野神夜は「これで役者は揃った!」と高らかに笑い、影月は「……中村さん、恥ずかしくないの?」と訊ね、中村は「いえ。そのようなことは微塵もありません」と真顔で答え、媛子はどうしたものかと考えつつもパフェを食い、祢瑚美はしばし呆然と中村を見上げていたのが、突然に我に返り、「このお爺さん、本当にフードファイトなんてできるの!?」と身を乗り出す。月野神夜は馬鹿にしたかのような口調で、「人を見た目で判断するのは君の悪い癖だ祢瑚美くん」と誰だかまるでわからないモノマネのような感じで諭す。
しかしそう言われてから改めて中村を見上げれば、なるほど。どこか悠然としたオーラのようなものが漂っているような気がしないでもない。
――このお爺さんは強い。……かもしれない。
役者が揃う。
大食い戦隊ガブレンジャーと大食いキングダムの最初の決戦は、明日の正午である。
第一カードは、月野玄武の執事・中村 VS ジーク・クライヤーの左腕・カルディック
第二カードは、早食いのスペシャリスト・影月 VS マヨネーズのスペシャリスト(自称)・デブオー
初日でまず、二つの勝敗が決する――。
◎
要するに、こっちで引っ張り込んだ二人は捨て駒なのだとカルディック・ハイヤーは思うのだ。
ジークのシナリオはこうであるはずだ。ジーク・クライヤーの両腕でであるカルディック・ハイヤーとデビッド・ファーストが必ず勝つことを前提にして、この五対五のフードファイトで月野神夜に勝負を持ち込んだのであろう。月野神夜が率いる、大食い戦隊ガブレンジャーなどというイカれたネーミングのチームがどんな強者を揃えていようが関係ないのである。ジークとカルディックとデビッドが必ず勝つことになるのだから、残りの二人が負けようがどうなろうが勝敗は三対二でこの大食いキングダムの勝ちとなるのだ。
なぜジークが月野神夜と一対一のフードファイトで決着をつけないかと言えば、それは恐らく、月野神夜の隠し玉である「NEKOMI」と呼ばれるフードファイターも同時に叩き潰しておくためだろう。「NEKOMI」が月野神夜より強いという確証は無いが、それなりの実力者だと見ても間違いではあるまい。だからジークは「NEKOMI」にbQであるデビッドをぶつけることにしたはずだ。
が、どの道最終決戦は二対二のタッグマッチ、つまりは「月野神夜&NEKOMI」VS「ジーク&デビッド」になるのだからどっちがどっちを叩こうが別に変わりはないのである。そこでジークとデビッドは必ず勝つであろうから二勝は当たり前。勝つにはもう一勝必要だからこそ、このカルディックを個人で戦わせることにしたのだろう。日本に来てから引っ張り込んだ二人は最初から論外である。その二人がもし偶然にも勝ったらただの儲けもの、程度にしか戦力としては考えていない。ただの数合わせである。
与えられた仕事を忠実に遂行しよう、とカルディックは思う。
腐った世界でしか生きる術しか知らなかった自分を高貴な場所へ導いてくれたジークに対する恩義は計り切れない。生まれて初めて神という名の悪魔に誓ったのである。ジーク・クライヤーのためならばどんなことでもしよう、と。ジークが誰かを殺せ言うのであれば有無を言わずに殺そう、ジークが自爆テロをしろと言うのなら喜んで自爆しよう、ジークが全世界を敵に回すことになろうとも、常にその隣でジークを守り抜こう。誓いはもはや消えない。ジークがフードファイトと勝てと言うのなら、この胃袋がぶち破れようとも関係無い。必ず、勝つのだ。
カルディック・ハイヤーは今回のフードファイトの舞台であるケーキ屋の端の席に座りながら入り口を睨み続ける。もう直にカルディックと戦うはずの、大食い戦隊ガブレンジャーの挑戦者が姿を現すであろう。果たして対戦相手は誰であるのか。このカルディックに挑戦させるのだ、中途半端なフードファイターではあるまい。まだ未熟だが末恐ろしい才能を秘めている早食いのスペシャリスト・影月か。それとも「NEKOMI」と同じくして、こちらがまったく知らない月野神夜の隠し玉であるのか。
――だが相手が誰であろうと、このおれは絶対に負けない。
カルディックからあふれ出す緊迫感は、お昼を賑わすケーキ屋にはあまりに重いものだった。普段なら和気藹々とした女性の声が響き渡るはずの店内は沈黙し、心なしか店内が少しばかり薄暗いような気もする。子供連れで訪れていた母親が横目でカルディックの様子を窺っており、その手に引かれる小さな女の子は今にも泣き出しそうな顔をしていた。店員がケーキを箱に詰めつつも、あの不審人物のことを警察に連絡するか否かで迷っている。
そうして、カルディックが見据える先にある自動ドアが開いた瞬間に、充満していた緊迫感がすべて外へと流れ出した。これを機だとばかりに子供連れだった母親は子の手を引いて外へと走り出し、店員は非常用電話に手をかけて万が一の事態に備える。店の外へと逃げ出した親子と入れ違う形で入って来たのは、一人のジェントルマンだった。スーツにシルクハット、白い髭に曲がったステッキ。その老人を見た瞬間、今のこの日本にこんなジジイが本当にいるのか、とカルディックは目を細めた。
その老人は店内をゆっくりと見回した後、唐突にカルディックと視線を噛み合せて小さく頭を下げて見せた。
まさかこのジジイが月野神夜の隠し玉か?、とカルディックは眉を潜める。
老人は近寄って来て、シルクハットを脱いで手を胸の前に当てた。第一声は澄み渡る英語だった。
「Can you speak Japanese?」
「Yes。話せるぜ。ジークに一通り叩き込まれてるからな」
カルディックが不敵に笑ってみせると、老人は自己紹介を始めた。
「それでは日本語で失礼させて頂きます。月野コーポレーションの月野玄武様の執事を務めております、姓は中村名は十三郎と申します。この度、我らが大食い戦隊ガブレンジャーのグリーンとして、大食いキングダムと対戦することになりました。……貴方様は、カルディック・ハイヤー様ですね?」
「……おれを知ってやがんのか」
「存じ上げております」
終止礼儀作法のお手本のような中村を見据えながら、カルディックには驚いたことが二つある。
この老人が本当に挑戦者だと言うことはとりあえず置いておくのだが、驚いたことのまず一つ目が、顔を見ただけでカルディック・ハイヤーの名を言い当てたことだ。今まで中村とは会ったことすらないし、この老人がどこかでカルディックの写真を見て知っていたという可能性も皆無であろう。なぜならカルディックは実質上ではジークの左腕と称されているのだがしかし、その存在自体は公には公開されてはおらず、すべてが闇の中で停滞しているはずなのだ。なのになぜ、この老人はカルディック・ハイヤーの顔と名が一致するのか。このジジイは一体何者だ、とカルディックは思う。
驚いたことの二つ目が、この老人があの月野玄武の執事であるということ。月野コーポレーションの月野玄武と言えば、ジークが戦う月野神夜の父親と同時に、ジークの父親であるフォーク・クライヤーをフードファイトで打ち破り、そして挙げ句の果てにはフォーク・クライヤーをぶち殺した人物の名ではないか。正真正銘の化け物、ジャパニーズモンスターだと聞いている怪物だ。そんな怪物の執事を務めるのが、この中村十三郎。大食い戦隊ガブレンジャーからカルディックへと送り込まれた、刺客なのだ。
老人だから、などという言い訳は通用しない。怪物の執事を務めるのは怪物に決まっていた。甘く見ていれば簡単に食われてしまうだろう。誰であろうと必ず勝つという誓いは微塵も変わらないが、これは初っ端から本腰を入れて相手をしなければ勝てる相手ではない。初戦から一勝を掴み取っておきたいのはジーク同様に月野神夜も同じ、と言ったところか。「NEKOMI」と同じく、この中村もまた月野神夜の隠し玉なのだ。
だが、生憎として月野神夜の思い通りにはさせない。任務を忠実に遂行するのがカルディックの役目である。
――どんな手を使っても、勝たねばならないのだ。
中村が席に着いたのを確認してすぐに、カルディックは言う。
「ルールはこちらが決める。制限時間は一時間、時間内にショートケーキを多く食った方が勝ち、または相手にギブアップと言わせればそこで試合は終了。ドリンクは自由だ。……何か言いたいことはあるか?」
「全くございません」
「ならば始めるぞ。――オーダーだウエイトレス! 手始めにショートケーキを互いに三十個持って来い!!」
最初から全力で相手になってやろう。中村十三郎というこの本性を見せない怪物の力を引っ張り出してやる。
完全に混乱しつつもしっかりと有りっ丈のショートケーキを運んで来る店員はさすがであるのだが、いきなり互いに三十個計六十個のショートケーキと言われてもそうそう用意などできるはずもなく、足りなかった分は他のケーキで賄っても構わないかと交渉してきた。カルディックは悪態をつきながらも承諾、中村は二言返事で肯いてみせた。
テーブルに置かれたは雪のように白いクリームが満点で、その上に赤く聳えるは色鮮やかな苺が輝くオーソドックスなショートケーキである。カルディックと中村は同時にフォークを手にし、同時に時計を見上げ、正午きっかりを刻むその瞬間を見極めながら動作を停止させる。店員がこれから何が始まるのかと二人を凝視し、入り口の自動ドアの前には店の中に入りたいけど雰囲気に圧されて入れない客の列が出来上がっていた。
時計の針がすべて「12」を指した。
先攻したのはカルディックである。フォークで人を刺すかの如くにショートケーキを苺の脳天から突き刺し、分けて食べる、などという考えを最初からまるで無視して直接齧りつく。驚いたことに、カルディックは一度も飲み込まずして二口でショートケーキをフォークの先から消して見せたのだ。強引に口の中で形を崩し、力任せに飲み込んで、カルディックが不敵に中村を見据えるまでに要した時間は、僅か八秒だった。意外そうな顔でこちらを見つめている中村に向かい、カルディックは中指を突き立てる。
ピクリ、と中村の眉が動いた。それまで穏やかだった雰囲気が突如として消え失せ、フォークの狙いが完璧にショートケーキを捕らえた。
来るか、とカルディックは思う。
――上等だ。怪物であるお前の力、今ここで見せてみろ。
カルディックはショートケーキをゆっくりと食べ始めた中村を尻目に、圧倒的なスピードで自らのショートケーキを平らげ続ける。一見すればオーバーペースに思えるかもしれないが、カルディックには最初から全力疾走しても最後まで耐えられる、自信と経験がある。ものにもよるが、ショートケーキくらいならば一時間以上食い続けることなど造作もないことである。中村がスロースターターなのかどうかは知らないが、ペースを上げないのであれば緒戦の五分間ですでに勝敗を決してやろうではないか。
カルディックがショートケーキを七個食べた頃、中村はようやく一つ目のショートケーキを食べ終えていた。中村は上品にナプキンで髭についたクリームをそっと拭い、目を閉じながら先ほど注文した紅茶を優雅に飲む。そしてカルディックは、そんな中村を見据えながら、唐突に悟った。中村の瞳にはすでに戦闘意欲は宿ってはおらず、緊迫したはずの雰囲気もいつしか先ほどまでの穏やかなものになっていた。
――……!? まさか、このジジイ……ッ!!
カルディックが気づいたときにはもう遅い。
中村はフォークをテーブルの上に戻し、姿勢正しく宣言した。
「ギブアップです」
時が止まった。
試合開始から、まだ一分しか経っていなかった。
カルディックは額で蠢いているであろう、自らの青筋を確かに意識しながら拳を握る。
「ふざけてんのかジジイッ!! ショートケーキ一個でギブアップだと!?」
しかし中村はまるで同じ口調でつぶやくのだ。
「ふざけてなどおりません。この中村十三郎、これが正真正銘の限界でございます」
そして、カルディックは中村が嘘を言っていないことをすでに理解していた。
言い表せない感情は、無意識の内に言葉となってあふれ出す。
「Fucking……ッ!!」
月野玄武の執事・中村 VS ジーク・クライヤーの右腕・カルディック
試合開始より一分二秒、勝者――カルディック。
大食いキングダムの、まずは一勝である。
◎
要するに、中村は数合わせなのだと月野影月は思う。
父親の執事である中村十三郎が究極の小食であることを、影月は知っている。月野神夜が中村を大食い戦隊ガブレンジャーに招き入れた理由はつまり、五人揃わせるのが面倒だったからか、あるいは本当に揃わなかったからなのかはわからないが、それに似た理由なのだろう。恐らくは、中村が勝つなどということは月野神夜は微塵も考えていないはずである。このフードファイトは五対五であるはずなのだが、実力上では四対五なのだ。最初から一勝は捨て、このフードファイトに望んだのだろう。
我が兄ながら、考えていることがまるでわからない影月である。
わざわざ一勝を捨てずとも、あの掲示板の誰かを誘えば事足りたであろうに。僅かな可能性がある限りは、そうしてメンバーを集めればよかったのだ。なのになぜ、月野神夜は中村をメンバーに加えたのか。大食いキングダムに与えるハンディのつもりか、または本当に最初から何も考えいないのかもしれない。いっつもへらへらと笑うあの笑顔の下にある本音とは果たして何であるのか、十二年一緒にいてもやはり影月にはわからないのだった。
しかしだ。一勝を捨てたということはつまり、残りの四人に懸かる負担は大きかろう。ラストバトルは月野神夜と祢瑚美のタッグマッチである。それが勝つことを前提に考えても、自分か媛子のどちらかが一勝をしなければ負けてしまうのだ。媛子も強いと思うのだが、保険を懸けておいても損はあるまい。ならばこの戦いで、影月は必ずや一勝を拾わねばならない。初日をまず、一勝一敗の引き分けで終えるのだ。それが影月に与えられた課題であり、同時に大食い戦隊ガブレンジャーのレッドとしての役目だ。
今回のフードファイトの舞台はカキ氷である。まさに夏の風物詩である。それを舞台とし、やはり制限時間は十五分。これは影月に有利な時間であるはずなのだが、相手はなぜか簡単に承諾してくれた。大食い戦隊ガブレンジャーのレッドと戦う大食いキングダムの四天王の一人はまだ姿を見せていないが、影月の予想でいけばそれは筋肉ムキムキのマッチョマンであり、カキ氷などひと口で口の中にぶち込んでしまう猛者であるはずだ。マッチョマンが訪れるその瞬間を、影月はまだかまだかと待ち侘びる。
月野神夜が手を回してくれたおかげで店は貸切となり、今は用意されたスタッフにより永遠とカキ氷がじゃりじゃりと作り続けられていた。すでにその数は百杯を越えている。そしてその半分にはメロン味のシロップがかけられており、綺麗な薄緑色を現せていた。影月はカキ氷はメロン味でないと食えないのである。ジュースもまたメロンソーダかクリームソーダしか飲めない。だがお子様だ、なんて言ってはならない。そんなことを言うと影月は本当に大食い戦隊ガブレンジャーとなって巨大ロボ召喚しかねない。だから言ってはならないのだ。
時計の針が十一時五十八分を指した。
マッチョマンがいつかの祢瑚美のように遅刻するのだと思った影月は、それまで張り詰めていた緊迫感を一度だけ解除した。
そしてそれを見計らっていたかのように店の自動ドアが開き、大食いキングダムの四天王が姿を現した。
影月はよく、漫画などで表現される「身動きが取れなくなるほどの力の波動」というのはどういうものなのだろうかと考えることがある。しかし実際にこの世界にそんな波動を放つ人間など存在するわけはないのでついにわからず終いだったのだが、今日、この瞬間にその「力の波動」を確かに感じたと思う。否、それには少し間違いがある。それは「力の波動」ではなく、「熱の波動」だった。
それまでクーラーがガンガンに効いていたはずの店内へと一挙に熱気が流し込まれ、風など吹いていないのにも関わらず、真夏の陽射しのような突風が影月を真正面から打ち抜く。影月は冷汗ではなく、本物の汗を頬に流しながらこの状況を理解しようと必死になっていた。有り得ない現象である。先ほどまで涼しかった店内が一変、今はサウナのような状態になっているのだ。一体何がどうなってしまっているのか。
その答えは、影月の視線の先にあった。
恐ろしいものがこちらに向かって歩いて来ている。
大食いキングダムの四天王の一人は、筋肉ムキムキのマッチョマン、だと? ――冗談ではない。この物体に筋肉など一欠けらも存在していないに決まっていた。影月は未だかつて、これほど太った人間を見たことがない。ピッチピチのシャツには何十段かわからない腹の痕がくっきりと残っており、デロンデロンに伸びたズボンは今にも張り裂けそうで、首に巻いたタオルはすでに水に濡らしたかのようにぐしゃぐしゃだった。一歩歩く度、床に大量の汗を撒き散らし、背後にはデブの神様でも見えて来そうな湯気を発生させ、その物体はこちらに向かって近づいて来る。
デブオーだ、と影月は思った。「デブ夫」ではなく、「デブの王様」略して「デブオー」である。
その者はかつて、祢瑚美によって「デブリン」というチャーミングなあだ名が与えられた、HNを「小島」、本名を米蔵草太という、マヨラーだ。そして影月は知らないだろうが、このデブオーはジークによって大食いキングダムに引っ張り込まれた際に、肉体改造を施されたのである。それは月野神夜が焔定食屋の焼肉定食に免疫を持っているのと同じことである。デブリンことデブオーはついに、マヨネーズを打ち破る身体を造り上げたのだ。デブオーには自信がある。デブオーはデブとマヨネーズの最果ての境地に辿り着き、脳内ではすでに「マヨネーズのスペシャリスト」という称号をその手にしているのだ。もはや名実共にイカれたのだ。目が半分白目を向いているのはその証であろう。
デブオーが影月の前の席に腰掛けると、椅子がミシミシと軋みを上げた。椅子の足が捻じ曲がり、今にも破壊されそうな勢いである。
そして影月は、デブオーの存在に完璧に圧倒されていた。目の前に座り込むこの物体が、人間であるとはどうしても納得できない。一体何を食えばここまで太ることがきて、一体どうすればここまで汗を流せて、一体どうすれば半分白目をむいて、一体どうすれば背後からオーラのような熱が発生するのか謎である。「熱の波動」は、純粋な小学生に対してはなかなかに強大であった。デブとマヨネーズの境地に辿り着いた収穫はかなり多大であるようだ。
影月は少しだけ泣きそうな感じにつぶやく。
――……兄貴の大馬鹿野郎。何でぼくの相手がこんなデブオーなんだよ……。
引き攣った笑顔を精一杯顔に貼りつけながら、影月は人間ではない人間に声をかける。
「……あの、カキ氷には何をかけます……?」
メロンかレモンかイチゴか、それともすべてのミックスか。
しかしデブオーは、影月の予想を遥かに上回る行動に出た。どこから取り出したのか、いつの間にかその手にはマヨネーズの容器が握られており、ずいっと影月に差し出してきた。慌ててそれを受け取りつつ、意味がわからない影月は冗談半分で「……まさか、これかけるの?」と訊ねると、あろうことかデブオーは驚くべきスピードで肯いた。
本気かよ、と影月は思う。お茶漬けやら何やらにマヨネーズならわかる、わかるがカキ氷にマヨネーズは理解不能だ。人間ではない、この地球上の生物でも有り得ない。デブオーは宇宙人だ、と影月は唐突に悟った。反抗するとUFOの超兵器で地球は木っ端微塵に砕かれるのだと本気で思った。だからこそ影月は急いでマヨネーズの容器をスタッフに渡し、今すぐにかけるように命じた。スタッフは引き攣りながらもどうにでもなれ、といった風にカキ氷の中にマヨネーズをぶち込む。
テーブルの上に並べられたのは、メロン味のカキ氷と、マヨネーズ味のカキ氷――否。それはもはやカキ氷ではなく、マヨネーズ氷と化していた。これが祭で人々を喜ばせるあのカキ氷であるとはどうしても思いたくない。絶対に納得したくはない。納得すれば最後、もう二度とカキ氷を食べれなくなると思う。負けるもんか、と影月は涙で滲む視界でデブオーを睨みつける。デブオーも影月を見ているのかどうか知らないが、もし見ているのであれば焦点が定まっていない。人間の皮を被った宇宙人め、この大食い戦隊ガブレンジャーのレッドが成敗してくれようぞ。
時刻が十二時を指した。
先に先攻したのは影月である。スプーンを力任せに鷲掴み、まるで茶漬けでも食うかのようにカキ氷を口の中にぶち込む。最初の一口目で広がるのはメロンの甘い味であるのだが、二口目からは氷の冷たさしか感じられなくなってしまう。氷を噛み締める度に歯に沁みる。みるみる内に口の中の感覚が失われていく。それでも影月は食い続ける。レッドの誇りを胸に食って食って食い続ける。一杯目のカキ氷を影月が食い終わるまでに要した時間は、ハンバーガー同様に僅か十五秒であった。
どうだ、とばかりに影月はデブオーを見据えた。
そして、デブオーが動いたのはその瞬間だった。それまで手もつけなかったカキ氷の器を手にし、ゆっくりと持ち上げる。刹那、影月は我が目を疑う。起こってはならない現象が起こってしまった。それまでちゃんとした「カキ氷」だったそれは、デブオーの体温とオーラに晒されたことにより、二秒足らずでただの水に戻ってしまったのである。マヨネーズと水は混ざり合い、油が水を弾くその様はまさにスプラッター以外の何ものでもなく、そこにあるのはもはや「マヨネーズ水」だった。
デブオーは、マヨネーズ水を食べるのではなく、飲んだ。喉を通る度に首筋がぐるんぐるん動く光景は耐え難いものがあり、影月が少しだけ目を背けた瞬間にすべては終っていた。影月の要した時間の十五秒に対し、デブオーは合計してたったの八秒で一杯目を空にした。げふぅー、と霧状になったマヨネーズが漂いそうなゲップを一発爆発させ、デブオーは次のカキ氷を探し出す。
冗談だと思った。こんなの漫画の世界だけの話だ、とも思った。
どうして自分がこんな化け物とフードファイトをしなければならないのか。恐い。逃げ出したい。ていうか気持ち悪い。
――だけど、大食い戦隊ガブレンジャー・レッドの名に懸けて、絶対に逃げ出すわけにはいかないのだ。大食いキングダムの四天王であるこのデブオーは、必ずこのレッドが打ち倒す。負けて、たまるか。
影月は深呼吸を一つ、意地とプライドをすべて集結させてカキ氷を食うことだけに意識を絞り込む。
たちまちの内にカキ氷を溶かしては飲み込んでいくデブオーを、正規の食い方で影月は追う。影月は己が限界を超えるが如くにペースをさらに上げ、カキ氷を一杯十秒で平らげ続ける。明らかなオーバーペースだがしかし、影月は止まらない。口の中の感覚はすでにとっくの昔に失われている、それでも歯から伝わる痛みだけは正確に体の芯まで突き抜け、頭の底からガンガンとした痛みを運んで来て、視界が大粒の涙で遮られていく。
いつしか影月は、泣きながらカキ氷を食っていた。見ていて気の毒になるような食い方だった。まだ十二歳の小学生が泣きながらカキ氷を食わねばならないとは一体どういうことなのか。人はなぜカキ氷などという恐ろしいものを創造したのだろうか。人はなぜ氷などを発見してしまったのだろうか。人はなぜ争うのか。人はなぜ手を取り合い仲良くできないのか。人はなぜ同じ過ちを繰り返し続けるのだろうか。誰かがどこかで「愛」の素晴らしさを叫べばもしかしたら、今、この少年は泣きながらカキ氷などを食わなくてもよかったのかもしれない。嗚呼、人はなぜこうも醜いのか。嗚呼、神はなぜこの少年にこのような試練を与えたのだろう――。
影月がふっと我に返った瞬間、自分がわけのわからない世界に漂っていたことに気づく。慌てて神経を研ぎ澄まして再びカキ氷のことだけに意識を集中させる。
試合開始より十分が経過していた。
その間に影月は五十八杯を、そしてデブオーは六十二杯を食っていた。
負けるかもしれない、との考えが影月の脳裏を過ぎる。そもそもカキ氷を溶かして飲む、などという戦い方は卑怯なのである。何の道具も使っていないし、それは自然現象だから仕方がないのかもしれない。だけどおかしい。考えてみて欲しい。だってそうだろ、カキ氷が水になったらもう、それは「カキ氷」ではなく「シロップの混ざった水」なのだから。ちなみに今は「シロップ」ではなく「マヨネーズ水」になっているのだが。
じゅるるるるるるるるるるるるる、とデブオーはマヨネーズ水を飲み続けていた。影月の追い上げなど最初からまるで無視しているかのように、デブオーは一定のペースを保っている。完全に白目を剥いているくせに。汗が滝のように流れているくせに。どうしてこのデブオーはまだ飲み続けることができるのだろう。デブとしてのプライドか、境地で得たマヨネーズのスペシャリストとしての力か。認めざるを得ない。デブオーは宇宙だが、反則スレスレだが、確かに強いのだ。
負けたくない、と影月は思う。
もし負けたら皆に合わせる顔がなくなってしまう。絶対に負けたくはない。負けるくらいならここで死んだ方が百倍もマシだ。大食い戦隊ガブレンジャーのリーダーであるレッドの本当の実力とは、こんなものではないはずだ。隠されたその力を解放するときが来たのだ。脳内妄想とでも何とも言えばいい。しかしその秘めし力は必ずこの身体のどこかに眠っている。自分が信じないで誰が信じると言うのか。目覚めさせるのだ、目覚めさせなければならないのだ。月野影月は今ここで、大食い戦隊ガブレンジャーの秘密ロボを召喚するような力を得るのだ。
負けたくない。絶対に、勝ちたい――。
そして、影月の思考回路がついに臨界点を突破した。
だがその臨界点の突破が、父親玄武から受け継がれていたフードファイトの才能を完全に開花させる引き金となった。月野神夜もまた辿り着き、完全な力とした無敵のフードファイターになる資格が、そこにある。影月はそこに手を伸ばす。意識はもはや定かではあるまい。それはまるで本能のように、生まれた赤子がどうやったらミルクを飲めるのかを知っているかのように、影月はそこへ手を伸ばし、辿り着いたのだ。
デブオーが放っていた「熱の波動」が一陣の衝撃波に粉砕される。デブオーが事の重大さに気づいて視線を影月に向けた刹那、そこには無敵のフードファイターがいた。殺気のような気配を噴射させ、早食いのスペシャリスト・月野影月が真の姿をここに君臨させる。体温とオーラが根こそぎ失われたデブオーにはもはや、カキ氷をマヨネーズ水に変化させるだけの力は残っていなかった。どれだけ頑張ってみても、デブオーの目の前のカキ氷は微塵も溶け出しはしない。完全に脅えた表情でデブオーは影月を見やり、そして影月は始動する。
目前のカキ氷を食う。たったそれだけの動作を、影月はたったの五秒でやってのけた。
圧倒的な武装を施した影月が、城壁が崩れかけたデブオーを殺すかの如くに追撃する。
五杯以上存在していたはずの差は一瞬で消え失せ、逆に差を広げていく。デブオーにはそれを防御するだけの力は残ってはおらず、焦れば焦るほど肉体改造を施した身体が悲鳴を上げ、影月の思考回路が臨界点を突破したように、デブオーの胃が死に絶えた。マヨネーズのスペシャリストという称号は所詮自称なのである。そんなものが、本物のフードファイターに通用すると考えるなどとは笑止。無敵にフードファイターに恐れるものは何ひとつとして存在しないのだ。その気迫はデブオーを完全に包み込み、そして死に絶えた胃がすべてのものを逆流させた。
デブオーが巨大化した怪人さながらの叫び声を上げながら爆発する。
同時に、試合開始から十五分が経過していた。
臨界点を突破し、正気を失っていた影月の思考回路が元通りになる。
影月は寝起きのようにぼんやりと辺りを見回し、血の海に倒れるようなデブオーを見つめて僅かに狼狽し、そして自らがカキ氷を百四杯も食っている事実に気づいてようやく、すべての物事に筋が通った。
実感としてはまだ湧かなかったが、それでも自分はデブオーに――、
「……勝った……」
言葉にした瞬間、すべてが弾けた。
影月は椅子を跳ね飛ばして両手を掲げ、ガッツポーズを決めながら絶叫する。
「勝ったぁあ―――――――――――――――――――――――――――ッ!!!!」
早食いのスペシャリスト・影月 VS マヨネーズのスペシャリスト(自称)・デブオー
試合開始より十五分ジャスト、勝者――影月。
大食い戦隊ガブレンジャーと、大食いキングダムが一勝一敗で並んだ。
◎ ◎ ◎
幼少の時分では、父親の背中ばかりを追っていた記憶がある。
同時に、あの頃の父親の背中は何と大きかったのだろかとジーク・クライヤーは思う。
断崖絶壁の崖のように誇り高く、難攻不落の要塞のように力強く、世界で唯一憧れたあの巨大な背中。母親はジークを生んですぐに病に侵されてこの世を去ったために顔すら知らないが、それでも父親がいれば寂しいとは思わなかったし、目一杯愛情を注いでくれた父親さえいればそれだけで満足できた。一緒にキャッチボールをしたときに見せる父親の笑顔が好きだった。良いことをしたとき、大きな手で頭を無造作にぐしゃぐしゃと掻き回してくれるあのぬくもりが好きだった。ジークが上級生に虐められれば、怒り狂った父親は相手の家に乗り込んでは警察上等で大暴れするあの凄まじい姿が好きだった。
そして何より、ジークはフードファイトの世界チャンピオンである我が父が大好きで、どんなものよりも誇りだった。
圧倒的な強さで相手をぶち殺すあの様は、当時子供の間で流行っていたヒーローなど足元にも及ばないくらいに高潔で勇敢で、強かった。「そんなお父さんの姿がもっと近くで見たい」とジークが言えば、沸き立つ観客席から少し離れた場所に父親はいつも特別席を用意してくれて、ジークはいつもその最高の場所で、最高のフードファイトを楽しみに胸躍らせて観戦していた。父親が対戦者をぶち殺す度、優勝してチャンピオンベルトを掲げる度、観客は狂ったように歓声を上げ、誰もが我が父を称えるのだ。
フードファイトをする父親が大好きだった。このままずっと、父親はチャンピオンなのだと信じて止まなかった。
だけど夢は、父親が六回目に出場したフードファイトで木っ端微塵に砕かれた。小さな島国から現れた「カミカゼ」と名乗るフードファイター。後にジャパニーズモンスターだと言われる怪物。試合開始三十分で勝敗は決した。誇り高く力強かったはずの父親はテーブルに這い蹲り、怪物は高らかに笑う。大歓声が上がる中で、それでも確かにジークは父親の声を聞いたような気がした。
『Shit……ッ! 覚えろいろジャパニーズッ! 必ず、必ずおれが貴様を殺す……ッ!!』
あれから父親は変わった。いや、最初はまだ変わらずに燃え続けていたのだ。
ジャパニーズモンスターをぶち殺すために父親はさらに己を磨き続け、自分が最強だと確信できる場所まで到達したのである。だけど元フードファイト世界チャンピオンの下に入ってくる情報はどれもこれもジャパニーズモンスターが快挙を成し遂げたというものだらけで、それは同時に、フォーク・クライヤーがどれだけ己を鍛えたとしても、奴との差はまるで縮まらないのだと悟らせるのには十分過ぎる効果を持っていた。
苦悩は三年間続き、その末に父親はこの世を去った。
ジークがまだ、六歳の頃の話だ。父の墓前の前で、明確な殺意を覚えた。
父親が癌でこの世で去ったのだということは理解している。誰にもどうしようもないことだということもわかっている。だがその原因を作ったのはジャパニーズモンスターに決まっていた。奴が現れなければ父親はずっとこの世界でチャンピオンだったのだ。そうだったのなら父親は絶対に癌などにならなかったはずなのだ。父親を王座から引き摺り下ろした奴を許すことなど絶対にできはしない。どんな手を使っても必ず、復讐してやるのだ。
父の墓前で神ではなく悪魔と契約を交わす。父の命を奪った神という名の怪物を消滅させ、悪魔という名の新チャンピオンが再びこの世界を支配するための契約だ。代償は何でも好きなものをくれてやる。それが己が命だとしても構わない。あのジャパニーズモンスターを殺せるのであれば、自分の命などまるで惜しくはないのだ。
だがしかし、それを境にジャパニーズモンスターはフードファイト界を引退し、そのまま消息を絶ったのである。
それから二十年の歳月が流れた今現在、幾ら探してみたところでジークにはジャパニーズモンスターの足取りすら掴めなかった。よほど姿を眩ますのが巧みらしく、ジークのありとあらゆる情報網を駆使しても髪の毛一本引っ掛かりはしない。苛立ちを覚え、血眼になってジャパニーズモンスターの行方を追った。が、結局結果は何も変わらず、このまま復讐は遂げられないのかと諦めかけた瞬間に、唐突に思い至ったのだ。
――親を誘き出すのなら、まずは子を血祭りに上げればいい。
それまでジャパニーズモンスターにしか視点を向けていなかったジークだからこそ気づかなかった盲点。そこを突けば必ずやジャパニーズモンスターは姿を現すであろう。そのときが復讐の刻だ。――父親を殺した貴様を、今度はおれが殺してやる。悪魔と契約を交わしたこのおれが負けることは絶対に有り得はしない。どんなことをしても、どんな手を使っても、必ず貴様を殺してその首を我が父の墓前に捧げるのだ。覚悟しておけ、ジャパニーズモンスターッ!!
ジーク・クライヤーは、両腕であるデビッド・ファーストとカルディック・ハイヤーを連れて日本へ向う。
日本で引っ張り込んだ三人のフードファイター。どいつもこいつも屑のように弱かったがどうでもよかった。奴らはただの捨て駒なのである。ジャパニーズモンスターの息子である月野神夜の力を計るため、そしてその下で見え隠れする「NEKOMI」というフードファイターを誘き出すためだけに用意された、駒だ。駒をぶつけて相手が力を見せたその瞬間が勝負をぶち込む瞬間でもある。
まずは月野神夜のすべてを粉々に粉砕する。愛用していたフードファイトの掲示板、血の繋がった弟、慕う人間、そして月野神夜が大切だと思う最愛の者。それらすべてを粉砕し、フォーク・クライヤーが描きジーク・クライヤーが実行する復讐劇の幕を開けるのだ。
ジーク・クライヤーは口を裂かして笑う。
覚悟しろジャパニーズモンスター。
貴様のすべてを、このおれが根こそぎ破壊してやる。
大食い戦隊ガブレンジャーと大食いキングダムが激突する。
決戦はすでに始まった。復讐劇の序曲が、ゆっくりと音色を奏で始める。
最終決戦が訪れるとき、その音色は最高峰に達するであろう。
そうだ。
まさにそれは、
『NEKOMI Paradise X ――最終決戦!! 散りゆく無敵のフードファイター!!――』
大食い戦隊ガブレンジャーと大食いキングダムは、互いに一勝一敗。
中村が究極の小食だと知ったときにはなかなかに大きな衝撃を受けたがしかし、それでも影月が頑張ってくれたおかげで一勝一敗という形で収まったのだ。本来ならば中村も勝利を挙げ、影月に媛子も勝利して、この時点で三勝零敗の「勝ち」を貰っておきたかったが、贅沢は言えないであろう。最後のバトルが二対二のタッグマッチなのだから、最低でも三人の内の誰か一人でも勝てば勝利はそこにあるのだ。月野神夜と祢瑚美の実力は信じて疑わない。この二人が揃えば最後、地球上の生物では止められないに決まっていた。
影月が一勝を挙げたのだから、一応媛子は勝っても負けても全体的な勝敗には影響しない。が、だからと言って手を抜くつもりはさらさらにないのである。あの日、「NEKOMI」と戦って負けたあの日から、媛子は己を磨き続けてきた。その成果を今日で試し、そして自分の力がさらなる高みに辿り着けたと確信できたら再び「NEKOMI」に挑むのだ。この勝負は「NEKOMI」への挑戦権が賭かったフードファイトなのだと媛子は思う。
――相手が誰でも、わたしは全力で勝つだけ。
媛子の信念はそれ一点を貫いている。
中村の情報によれば、ジーク・クライヤーの側近はデビッド・ファーストとカルディック・ハイヤーであるらしい。カルディック・ハイヤーの方は中村と戦ったのだから除くとして、ならば相手はデビッド・ファーストかと言えば、恐らくはそれも違うだろう。デビッド・ファーストはジーク・クライヤーとタッグを組んで月野神夜と祢瑚美と戦うはずだ。だったら媛子の相手とは一体誰なのか。ジーク・クライヤーの側近でないとするのなら、影月が戦ったように日本のフードファイターなのだろうか。その可能性が一番強いと思う。
なぜなら媛子は、対戦相手にただ一人だけ、心当たりがあるからだ。
心当たりと言っても虫の報せのようなあやふやなものだからまだ誰にも言っていないのだが、漠然とした確信がある。日本人で、「HIMEKO」と戦うことを心から欲しているフードファイターが、ただ一人だけ存在する。もしかしたら根本から見当違いで、ただの杞憂かもしれない。だけどどうしても、その懸念が拭い切れないのである。今から戦うフードファイターとは、もしかすれば――。
そして媛子の漠然とした確信は、今回のフードファイトの舞台に訪れた瞬間に、すべてが繋がった。
媛子が佇む目前に存在するのは、『みやび お好み焼き』という暖簾の垂れ下がった一件のお好み焼き屋である。ここに訪れるのは今日で二回目だ。今から一ヶ月ほど前の話。ここで媛子は、あるフードファイターと勝負をした。再びこの店が舞台に選ばれるなど偶然ではあるまい。相手がここを指定したのだ。あの時と同じように、この場所でもう一度「HIMEKO」と戦うためだけに。この店の中にいるフードファイターは恐らく、ジーク・クライヤーの意志とはまるで関係ない者であるはずだ。ただの私情で「HIMEKO」との戦いを望む者。
媛子は暖簾を潜り、店内へ足を見入れた。正午五分前の昼時の店内には客の姿がそれなりにあって、先から焼かれていたであろうお好み焼きが香ばしい匂いと音を発している。以前ここのお好み焼きを食べたときには素直に美味いと感じたし、普段からそれなりの人気を集めているのだろう。そして普段ならば、店内は大いに賑わっていたはずだ。しかし今回だけは、どこか一点に漆黒とも呼べる暗闇のような気配を感じる。媛子は惹かれるかのようにそちらに視線を移した。
そこには店の奥のテーブルの座り、こちらを見上げる人物が一人。「大量食物連鎖」が主催するフードファイトの掲示板の公式連勝記録である四十九連勝を最初に打ち立て、だが五十勝目で「HIMEKO」と戦い破れた強者。それから一時は姿を消したと思っていたが、最近になって再び舞い戻ってきた狂犬。「HIMEKO」と戦うことだけをただ純粋に望むフードファイター。
その者のHNを、「クソッタレノ交想曲」といい、本名を坂口慶介(さかぐちけいすけ)という。
媛子はひと言も言葉を発しないまま店内を横切り、ゆっくりと坂口に近づいていく。坂口の視線は終止媛子に向けられていたが、媛子の視線はまったく向けられていない。媛子がそっと坂口の向かいに座り込み、そのときになってようやく、向かいのフードファイターに視線を移した。無造作に固められた黒髪に、どこかぼんやりとした顔つきで、一見すればとても大人しそうな男性である。ちなみに歳は確か二十三歳。掲示板ではあのような暴言を吐いている「クソッタレノ交想曲」が、このような人物だとは果たして誰が思うだろうか。
だけど媛子は知っているのだ。この「クソッタレノ交想曲」の、本当の正体を。
坂口は突然に口を開く。
「……久しぶり、「HIMEKO」。今までどこに姿を隠していたんだい?」
媛子は鼻で笑う、
「どこでしょうね」
「つれないなぁ。けど、ようやくまたこうして戦えるんだ。それまでのことなんてもうどうでもいい。この日をどれだけ楽しみにしていたか、君にわかるかい? あの日から、ぼくはずっとずっと、君の幻影だけを追い続けて来たんだ。負けることを知らなかったぼくに敗北を叩き込んだ、君だけをね。……今日は、何との楽しい日なのだろうか」
「……随分と、嬉しそうですね」
嬉しいに決まってるさ、と坂口は舌を出して笑った。
「やっと君と戦える機会を得ることができた。そのためにジーク・クライヤーなんていう訳のわからない連中の言い成りにもなったんだ。ぼくが誰かの下につくなんて屈辱以外の何ものでもないけどいいんだ。こうして君と戦えるんだからもう、どうでもいいんだよ。今はそれだけしか考えられない。せっかくぼくの打ち立てていた公式連勝記録を崩した原因である君を、今日ここで潰して、四十九連勝を塗り替える公式記録を、再び創造する。そして今度こそ、あそこでぼくは、支配者になるんだ」
坂口が震えている。
武者震いなのだろう。このフードファイターは、本当に「HIMEKO」の影ばかり追って来たのだろう。あの日、ここで「HIMEKO」が「クソッタレノ交想曲」をぶっ倒して以来、常に頭の中で思い描いてきた再戦なのだ。前回の二の舞になるようなことはあるまい。数ヶ月でフードファイトの実力が格段に伸びるかと言えば、それは難しい。フードファイトとは、天性の才能だ。産まれ持っていた能力がすべてを左右する。人間には限界というものが絶対に存在する、故に数ヶ月でそれを伸ばすことは不可能に近い。
――だけど、媛子は己で体験している。己が持っている、フードファイトの限界を突破できる方法があることを、媛子は体験し、知っている。恐らくは、そこへ辿り着けるのは極一部の人間だけだ。条件は敗北の味を知っていて、その敗北を糧として高みへ昇ろうとする強い意志を持ち、そして、目標へ手を伸ばし続ける勇気を持っているということだ。媛子は、それらを満たしていた。「NEKOMI」に破れ、だから「NEKOMI」を超えたいと望み、「NEKOMI」を目標に己を磨き続けきた。故に、今の己が、ここに存在している。
「クソッタレノ交想曲」もまた、同じ道を辿ったのだろう。相手が「NEKOMI」ではなく「HIMEKO」なだけで、「クソッタレノ交想曲」も敗北を知り強い意志で超えたいと望み「HIMEKO」を追い続け来た。「クソッタレノ交想曲」の力量が以前と同じであるとは到底思えない。今日ここで戦った場合、以前と同じようなフードファイトが繰り広げられるわけはないのである。以前の自分たちからでは想像もできないフードファイトが行われるに決まっていた。
以前とはまるで別人へと変化した二人のフードファイターが、激突する。
ひゃっは、と坂口が嗤う。同時に、媛子はその嗤いを知っていた。
坂口慶介という人物が、「クソッタレノ交想曲」に変貌する引き金だ。ぼんやりとした顔つきが一変し、突如として鋭い骨格が皮膚に蠢き、研ぎ澄まされた瞳に媛子の顔が映し出される。背後から漂うは邪悪とでも呼べるような気配。狂気に染まった狂犬、フードファイト四十九連勝を打ち立てた誠の猛者である、「クソッタレノ交想曲」が解き放たれる。
振り上げられた拳がテーブルを叩き、坂口であって坂口でない者は絶叫する。
「かっかっかっ!! さあ始めようじゃねえか「HIMEKO」!! おれとテメえのフードファイトだ!! 誰にも邪魔させねえ、誰にも止めさせねえ、互いが死ぬまで食い続ける地上最強のファイトの幕開けだ!! ルールは前と変わらねえ!! 時間は無制限!! ギブアップまたは気絶したらそこで相手の負けだ!! それまで互いにお好み焼きを食い続ける!! 異論はねえだろうな「HIMEKO」ォオッ!!」
坂口が喋る度に気圧されんばかりの気迫が飛んで来る。
突如として豹変したこの男の態度。詳しいことはわからないが、媛子はある種の二重人格者なのだと考えている。同じくして、この状態になった「クソッタレノ交想曲」を止める術がないことも知っている。この男を止める術があるとすればそれは、フードファイトで倒すことだけ。他の手段では如何なるものを使っても止まりはしないだろう。仮に今ここで上空から爆撃されようとも、この男ならば死んでも食い続けるはずだ。坂口慶介ではない「クソッタレノ交想曲」という男は、そのような人物なのである。
恐らくは先に話が通してあったのだろう。「クソッタレノ交想曲」の叫び声と共に店員が待ってましたとばかりにお好み焼きの具を運んで来る。食材は豚玉だ。この店は違うフードファイターによって何度かフードファイトが行われているため、店側の準備も万端である。実際、カウンターの向こうにずらりと並んでいる具の量は半端でなく、よくよく見れば今回このテーブルについた店員は数ヶ月前と同じ人物ではないか。その顔が妙に楽しそうのはたぶん、「HIMEKO」と「クソッタレノ交想曲」の力を知っているが故なのだろう。
加熱された鉄板の上に具が投入される。ジュゥウゥウゥウゥウという音と共に湯気を発し始める具。
「クソッタレノ交想曲」が舌で唇を舐めつつ、媛子だけをはっきりと見据える。ピリピリと媛子の肌を刺すような空気が伝わってくるそれは、紛れもない気迫だ。この男がどれだけこの再戦を望んでいたのか。どれだけ「HIMEKO」を倒したいと望んでいたのか。明確に伝わってくる意志。以前のように「目の前の獲物だけをただぶち殺す」ような空気ではない。「目標を完全に凌駕する」ということしか考えていない精神集中。こうなったフードファイターは恐ろしく強い。表面は氷山のように冷たいくせに内面は溶岩のように熱いのだ。
――……受けて、立ってあげます。
媛子は一度だけ目を閉じる。小さな深呼吸を一つ、そして開いた瞬間に神経を集中。
「クソッタレノ交想曲」が四十九連勝の記録保持者なら、「HIMEKO」もそれに並んでいる。実力は互角、否、過去に一度「HIMEKO」は「クソッタレノ交想曲」に白星を挙げているのだから実力的には「HIMEKO」の方が上だ。だがそれは過去の話。今現在、その差がどうなっているのかはわからない。なぜなら、「クソッタレノ交想曲」は「HIMEKO」に負けてから一度もフードファイトをしておらず、「HIMEKO」は「NEKOMI」に負けてから一度もフードファイトをしてないのだから。互いの本当の実力は謎のまま、しかしこのフードファイトで証明されるのだ。過去の実力差がどう変化しているのか。それが、このフードファイトでわかる。
店内に充満する二人の気迫に恐れを成した客人の半数が逃げ出し、残りの半数がテーブルを囲うようなギャラリーと化す。
店の針が十二時を指した。
試合開始時刻だった。
二人が同時に行動を起こし、出来上がったばかりの熱々のお好み焼きを皿に移さず、割り箸で直接鉄板から口に運ぶ。熱さは相当なものであったのだがしかし、口の中で冷ましているような余裕は存在しない。時間は無制限だが、この勝負はそんなことなど最初から関係ないのである。このフードファイトは、食べることを止めた方が負けなのだ。「HIMEKO」と「クソッタレノ交想曲」だけが理解している暗黙のルール。食い続けなければ勝利は見えない、デスマッチに恥じない本来のフードファイトだ。
口の中に広がるのはとんでもない熱さと、ソースの香りと濃厚な味と、キャベツの甘みと豚肉の肉汁。少しずつ僅かに冷まして食べればどれだけ美味いお好み焼きなのだろう。熱さのせいですぐに味覚がイカれてしまうのが残念である。それでも神経を集中させた一部で味を確かに噛み締めつつ、媛子は次に次にと鉄板からお好み焼きを切り分けて口の中にぶち込んでいく。
開始五分ほどで、二人が同時に一枚目のお好み焼きを食べ終えた。
それを見ていたギャラリーが歓声を上げ、すぐそこに待機していた店員が二枚目のお好み焼きに手際良くソースを垂らす。二人が食い始めたらさらなるお好み焼きを作り、額を流れる汗を首に巻いたタオルで拭き取りながら、店員は実に実に楽しそうな笑みを浮かべてお好み焼きを作り続ける。が、その速度もやがては追いつかなくなってしまう。すると現状を把握したギャラリーの数名が店員の助手となり、全員が一丸となってお好み焼きを作り始めるという、摩訶不思議な現象が起き始めた。
お好み焼きを食い続ける中で、媛子は視線を「クソッタレノ交想曲」に向ける。
狂犬の瞳は獲物だけを写していて、割り箸で突き刺したお好み焼きを切らずに貪り食っている。かつての「クソッタレノ交想曲」より遥かに凄まじく、遥かに力強く、遥かに勇ましい光景だった。「クソッタレノ交想曲」はもう、ただの狂犬じゃないのかもしれない。「HIMEKO」に負けたことにより、狂犬はすでに正気を取り戻して本当のフードファイターになっているのかもしれなかった。ならば媛子にできることは、真っ向からそれを受け止め、そして倒してやることだけだ。
もはやこの戦いは、大食い戦隊ガブレンジャーと大食いキングダムの戦いではない。
一人のフードファイターとしての戦い。
「HIMEKO」と「クソッタレノ交想曲」の、死闘なのだ。
試合開始から十五分、ペースを上げ続ける二人は四枚目のお好み焼きを食べ終えていた。
これがもう少し冷めていたらもっとハイペースで食べれるのだろうが、鉄板から直接食べるお好み焼きは恐ろしいほど熱く、口の中の感覚は一枚目で馬鹿になっていた。今に何かの言葉を喋ったとしても、ちゃんとした言葉になるかどうか怪しい。ただそれでも口を動かし続けることができるのが救いだ。口が動かせてものを噛み砕き、そして飲み込めさえすれば食い続けられる。それだけで、十分だ。
六枚目のお好み焼きを食べ終えた際に、媛子はテーブルに置かれていたコップの水を一気飲みして、口の中に残っていたものをすべて無理矢理流し込む。テーブルにコップが戻されると同時に、ギャラリーの一人がすぐさま水を入れてくれる。それが何だか可笑しくて、こんな状況なのに媛子は僅かに笑った。しかしその笑いを「クソッタレノ交想曲」はどうやら、「余裕から来る笑い」だと勘違いしたらしい。不敵な笑みが「クソッタレノ交想曲」の頬に浮かび上がり、媛子と同じように水を一気飲みした次の瞬間、ペースをさらに上げた。
それを見ながら、今度こそ媛子は「クソッタレノ交想曲」に対して微笑みかける。
――まだまだ行けますよね、わたしも、貴方も。…………ここからが、勝負です。
負けられない戦いがある。敗北の味を知れば強くなれるのはわかるが、それは一度だけ十分だ。
二度目の味は不必要。これから先、媛子が味わうのはすべて勝利の味だけなのだ。もう二度と、誰にも、負けたくない。
食い続ける。二人のフードファイターが全くの同速度でお好み焼きを食い続けている。ギャラリーから見ても力は互角、ならば残るは思いの勝負。勝ちたいと強く願うその精神力がすべてを別つ。気持ちの在り方一つで、フードファイトの勝敗など幾らでも変わってくるのだ。負けたくないと思い、勝ちたいとただ純粋に望むものだけが勝利の味を噛み締めることができる。それこそがフードファイトの鉄則だ。口の感覚が馬鹿になろうが、何枚食ったかわかなくなろうが、もう自分自身が何を食っているのか理解不能だろうが関係ない。勝つことだけを見据え、突き進むのだ。
数ヶ月前に「HIMEKO」と「クソッタレノ交想曲」が戦った際には、お好み焼きを「HIMEKO」が二十八枚を食った瞬間に「クソッタレノ交想曲」が二十七枚目で気絶したのだ。しかし当時の「HIMEKO」もまた、そこが限界だった。恐らくはあと一枚も食えなかったはずである。ギリギリの僅差だったのだ。あれから数ヶ月で二人がどれだけ強くなったのか。それは、今現在食っているお好み焼きの枚数を見れば一目瞭然であろう。ギャラリーが顔を真っ赤にして歓声を上げ、過去の二人の戦いを見ている店員は泣きそうな勢いで嬉しがっている。
果てしない時間が流れたような気がする。
試合開始から、すでに三時間が経過していた。
そして、互いにお好み焼きを四十三枚も平らげていた。
限界が近づいているのは誰の目から見ても明らかで、もしかすれば限界なんてものはとっくの昔に超えていたのかもしれない。ここまでくればもはや、本当に気持ちの勝負だった。最初の一時間に比べればペースは随分と落ちたが、それでも常人にしてみれば考えれないスピードである。が、二人の動作はすでに重い。まるで油の切れたブリキ人形のように歪で、身体の節々から軋みが聞こえてきそうだ。
勝ちたい、と願い続けて媛子は食う。
勝って「NEKOMI」ともう一度戦うのだ。あのときはまだ確実な実力差があって負けたが、今度は違うはずだ。もう一度戦って、「NEKOMI」と戦ってわかって欲しいのだ。「NEKOMI」に勝ちたくないと言えば嘘になるのだが、今は違う。「NEKOMI」に近づけたのだとわかって欲しい、ただそれだけだ。そしてまた次に戦うときには必ず追い抜くから、全力で戦ってくれと、宣戦布告をするのだ。そのときこそ、「HIMEKO」はようやく、最高級の勝利の味を噛み締めることができるはずなのだ。だからこそ、ここで負けるわけにはいかない。絶対に負けるわけにはいかない。唯一、媛子がフードファイターで尊敬する「NEKOMI」に近づく第一歩を、絶対に失いたくはない。
虚ろになった意識の中で、媛子はつぶやく。
――知っていますか、「NEKOMI」さん。わたしは、貴女に教わったんですよ。フードファイトは「戦い」だけど、同時に「食べる」ことなんだって。貴女のあの笑顔がわたしは今も忘れられません。嬉しそうにお寿司やうどんを食べ終えた貴女のあの笑顔が、わたしの憧れなんです。だからわたしは、ちゃんと味わってフードファイトをすることを誓ったんです。それがわたしが強くなる最初の一歩になるはずだったから。そしてわたしは、強くなった。待っていてください、「NEKOMI」さん。わたしは、……このフードファイトに勝って、貴女の領域に、……足を、踏み入れ、ま……
媛子の意識が途切れそうになった、その刹那だった。
テーブルの上に置かれていたコップが倒れて水が鉄板の上に広がり、蒸発した蒸気が天上へ濛々と上がる。それに意識を引っ張り戻された媛子は慌てて姿勢を整え、前方を呆然と見つめた。そこには「クソッタレノ交想曲」が座っている。ちゃんと目を開いて、ちゃんと割り箸を持って、ちゃんとお好み焼きを突き刺して、ちゃんと媛子を見据えて、ちゃんとそこに座っている。
だけど、それだけだった。
静寂が店内を支配していた。
「クソッタレノ交想曲」は、口元に不敵な笑みを浮かべたまま、意識を失っていた。
公式連勝記録保持者「HIMEKO」 VS 公式連勝記録保持者「クソッタレノ交想曲」
試合開始より四時間三十二分二十六秒、勝者――「HIMEKO」
大食い戦隊ガブレンジャーが、二勝一敗で大食いキングダムとの差を広げた。
◎
クイズ番組の早押しで、テーブルのボタンを押したら「ピンポーン」という音と共にヘルメットの上から「○」のついた板が上がる装置がある。
夢の中で祢瑚美は、それを体験していた。さっきから何度も何度も「ピンポーン」という音と共に頭の上から「○」のついた板がぴょこんぴょこんと上がっているのである。が、実際には祢瑚美にボタンを押した記憶はなくて、だけどそんな言い訳は微塵も通用してくれない。他のライバルたちは先にボタンを押した祢瑚美を羨ましそうに睨みつけており、司会者は司会者でマイクを掲げて早く答えろ早く答えろと急かしてくる。祢瑚美は焦りに焦る。そもそも問題自体まるでわからないのだ。だから早く答えろと言われても答えられるわけはない。
「ピンポーン」と板は上がり続け、緊迫した時間が過ぎ去っていく。
そしてついに、祢瑚美はその緊迫感に圧し潰された。半ばヤケクソになった祢瑚美はその場に立ち上がり、司会者と睨めっこしながら山カンで「ウミガメのメロンパン」というわけのわからない返答をした。会場が静寂に包み込まれ、そして司会者は微動だにせず祢瑚美を見据え続ける。どっかのクイズ番組で見た光景だ。本当ならばここでCMが入るのだが、生憎として夢の中にCMはない。永遠とも呼べる時間が刻一刻を流れていき、またしても祢瑚美がこの沈黙に耐え切れなくなった瞬間、司会者が口を開き、
「いつまで寝てんの、祢瑚美」
目を開けたそこに、月野神夜の顔があった。
状況がしばらく飲み込めなかった。
祢瑚美は寝たまま、月野神夜は見下げたまま、実に三十秒以上の時間が流れたように思う。
やがて痺れを切らした月野神夜は、凍りついている祢瑚美の額に手を添えて「熱はないみたいだね」と首を傾げ、今度は布団を無理矢理剥ぎ取ろうとする。その瞬間に、ようやく祢瑚美は我に返った。尻尾を踏まれた猫のような悲鳴を上げて月野神夜を弾き飛ばし、敵から己を守る亀のように布団の中に潜り込み、ぶるぶると震えながら絶叫する。
「出てって!! 早く早くお願いだから今は出てって!!」
月野神夜にしてみればたまったものではない。せっかく心配して起こしに来てやったのにこの仕打ちは何だと言うのか。
ムキになった月野神夜は「何でだよ」と膨れっ面になって布団に近づき、「早く起きろ」と手をかける。が、祢瑚美はまたしてもそれを弾き飛ばして布団から目だけを出して犬のような威嚇声を発する。そんな狂気の瞳に月野神夜は一瞬だけ恐れおののき、踵を返しながら「そ、外で待ってるから早く用意して!」と逃げるように部屋を後にする。
それを見送り、ドアが閉まったことを確認してからやっと、祢瑚美は大きな安堵の息を吐き、布団の下に隠れた自らの身体を見つめる。
裸、なのである。全裸ではない。一応、下着はつけてはいるものの、この状況では裸と大して変わらない。祢瑚美は寝る際、「暑い」と「そっちの方が気持ちいい」という理由の下に、いつも服を脱いでベッドに入る。本来ならそれでも構わないのだが、さすがにこの姿を月野神夜に見られるわけにはいかない。月野神夜もああ見えて健全なる高校生なのだ。この祢瑚美様の「ないすばでぃ」を見て落ち着いていられるはずはない。絶対に獣へと姿を変貌させるに決まっていた。いや、もしかしたら月野神夜なら「なんて格好してんだよ」と呆れるだけかもしれないが、それはそれで女として悲しいので、月野神夜は絶対に獣になるのだ。
ドアの外には月野神夜の気配はない。それをぼんやりと確認しつつ、祢瑚美は今さらにどうして月野神夜がここにいたのかを考える。そもそも月野神夜はどうやってこの部屋に入って来たというのだろう。部屋の鍵はオートロックだし、防犯ブザーだってあるのだからセキュリティ体制は万全であるはずだ。なのにオートロックは解除され、防犯ブザーは鳴っていない。これは果たして一体どのような意味を持つのか。その二つを破ってまでして、なぜ月野神夜はこの部屋にいたのか。チャイムくらい鳴らしなさいよね、と祢瑚美は思うのだが、よくよく考えれば夢の中のあの「ピンポーン」はチャイムの音だったのかもしれないとも祢瑚美は思う。
しかし本当に、どうして月野神夜はここにいたのだろう。
布団から顔を出した状態で辺りを見回し、その際に見つけたカレンダーを視界に収める。本日の日付に赤丸がしてあって、自分の字で「最終決戦!!」と書き込まれている。野良猫のボス同士の最終決戦ではあるまい。では何の最終決戦であるのか。それを考えて考えて考え抜いて、しかし答えを運んで来たのは思考ではなく、唐突に湧き上がった腹の虫だった。一発で思い出した。
――大食い戦隊ガブレンジャーと、大食いキングダムの最終決戦。
祢瑚美は飛び起きる。時計を見れば十一時三十分だった。つまりは今日、三日間連続で行われていた決戦の最後のフードファイトが行われるのだ。今現在の勝敗は二勝一敗で大食い戦隊ガブレンジャーの優勢。そして今日ですべてが決する、重要決戦なのだ。月野神夜がなぜここにいたのかと言えば、それは恐らく祢瑚美が遅刻すると踏んだからなのだろう。事実、月野神夜が起こしてくれなかったら祢瑚美はまた遅刻していたに決まっていた。
昨日の内に整えてあった着替えを済まして顔を洗い、メイクをしようと思った瞬間に祢瑚美は顔面蒼白になる。
――つまりはあれってわけ!? わたしは、月野神夜に素っぴんを見られたの!?
酷いわ神様、などと悲劇のヒロイン風に嘆いても始まらない。
慌ててメイクも済まして立ち上がり、戸締りを確認して外へ出た。エレベーターで一階まで降りて自動ドアを抜けたとき、祢瑚美はしばし呆然とする。
いつもと変わらない駐車場に、とんでもなく長いリムジンが停めてある。それに凭れてこっちに手を振っているのはやはり月野神夜で、運転席に座っているのは中村ではないか。近所のおば様方が物珍しさで集まっている。祢瑚美を見つめてヒソヒソ話を繰り広げ、子供が「でっけー車ー」と大はしゃぎしている。月野神夜が金持ちだということは知っていた。が、これまで祢瑚美はこのような「物的証拠」を見たことがなかった。改めて月野神夜の凄さと、馬鹿さを知った。
恥ずかしさが限界に近づいていたので走りながらリムジンに近寄ると、あろうことか月野神夜は貴公子よろしくで軽く頭を下げ、悪戯な笑みと共に「お迎えに上がりました祢瑚美様」とほざいた。おば様方のざわつきがピークに達し、これではこれから良からぬ噂を立てられてしまう、と祢瑚美は月野神夜を無視してリムジンの中に無理矢理逃げ込む。それを追って月野神夜が入った後に、中村が自動でドアを閉めてクソ長いリムジンを発進させた。
ふかふかの座席に座って何とも言えない気持ちでいると、向かいに座った月野神夜が笑った。
「おはよう祢瑚美。決戦の日なのによくもまああんなに眠れるものだね」
「うるさいわね殺すわよ」
「お姫様はご立腹だ中村。何か音楽を」
車内に少し前に流行ったラブソングが流れ出す。
しかしそんなものはハナクソほどの役にも立たず、祢瑚美は苛立ちを隠せない口調で、
「あのね、もうこんなことは金輪際絶対にやめて。恥ずかし過ぎて引っ越すしかなくなるじゃないの」
「いいさ、だったらぼくの家にくればいい。部屋は幾らでも空いてる」
「願い下げです、あんたと一緒の家になんて住みたくないです」
「それより祢瑚美、ちゃんと体調は万全なんだろうね?」
「あんたに言われるまでもないわ」
お腹の調子は問題なし、空腹もちょうどいい感じである。
それはよかった、もう直に着くから少しだけ待ってて、と月野神夜は笑い、そして何かを思い出したかのように、
「――あ、そうだ祢瑚美」
「……なに?」
「素っぴんも可愛かったよ」
「――ッ!? あ、て、こ、殺すわよ本当にっ!!」
あはは、と月野神夜は笑う。
祢瑚美は無表情でつぶやく。
「…………今日ほどあんたを殺したいと思った日はないわ…………」
それでも月野神夜はあははと笑うのだった。
やがて二人を乗せたリムジンが訪れた場所は、一件のファミレスだった。その駐車場に入ったとき、祢瑚美は幾分か混乱した。それもそのはずだろう。なぜならそこは、何かあるといつも月野神夜とパスタを食べに来ていたあのファミレスだったのだから。祢瑚美が慌てて「どうしてここなのっ!?」と訊けば、月野神夜は「ジークがパスタの美味い店で勝負したいって言い出してね。だからここになった」と平然と答えた。何度も行ったことがある店なので絶対に美味いと言い切れるのだが、一方で祢瑚美は少しだけ残念がっていた。月野とクライヤーという大金持ちの決戦なのだ、ものすごく高価な場所を想像してただけに、身近なファミレスとは少しだけ悲しい。
通常の駐車場からものすごくはみ出したリムジンから降りて駐車場を歩き、店内へと足を向ける。その途中、昼時にも関わらず他に車がなかったのは恐らく、月野神夜がこの店を貸し切りにしたからなのだろう。変なとこにだけ無駄なお金使うんだから、と祢瑚美は少しだけ呆れつつ、しかしそうする気持ちもわからないでもない。世界有数の御曹司が戦うのである。マスコミにでも知られていたらさぞかし美味しいネタになっていただろう。そのような邪魔者を入れたくないがための判断なのだ。
店内に入ると同時に数人の料理人に迎えられ、席に案内される。
そしてその席に着くまで、いや、店に入った瞬間から祢瑚美は感じていた。今まで味わったことのない気配。月野神夜が本気になったときに発する気配とはまったく異なった気配。最も深い場所から這い上がって来たような、本当の漆黒が漂っている。息が詰まる。嫌な汗が流れる。こんな中にあっても顔色一つ変えない月野神夜が信じられない。恐い、と言ってしまえばそれまでだった。一体どうしたらこんな気配を発せられるのだろう。まるで肉食獣が口を開けて餌が降って来るのを待っているような、そんな気がする。
店の中央の席に座っていたのは、二人の外国人だった。
一人は筋肉質な巨体を持った黒人で、この世の誰も勝てないような百戦錬磨の喧嘩魔のような印象を受ける。ここまで腕の野太い人間を、祢瑚美は今まで見たことがない。テレビで見るアスリートだってここまで凄くはないはずだ。おまけに黒人という見た目だでもとんでもなく恐そうで、祢瑚美は視線を合わすことすら儘ならない。立ち上がったら三メートルくらいあるんじゃないかと思う。
だけど、この黒人は違う。ジーク・クライヤーではない。恐らくはその右腕、デビッド・ファーストだ。
ジーク・クライヤーはその隣いる、白い肌をした細身だが確かな身体を持っている、ハリウッド俳優顔負けのイケメンマンである。ブロンドの髪やブルーの瞳は生まれつきだろう。町を歩けばすべての人の視線を釘づけにするような雰囲気を持っている男である。しかしそんな男が殺気を漲らしたどす黒い気配を発している様は異様以外の何ものでもなく、ただ単純に恐ろしかった。
今からこんな二人とフードファイトをしなければならないのかと思うと、気が遠くなる。
ジーク・クライヤーは、予想に反した穏やかな声で対戦者を出迎えた。
「舞台の用意ご苦労だ月野神夜。そして初めましてMs,「NEKOMI」。会えて光栄だ」
月野神夜が何の返答も返さずにジークの向かいに腰掛けたので、祢瑚美はそれに習ってデビッドの向かいに腰掛ける。
が、やはりどうしても祢瑚美はデビッドの顔を見上げることができない。俯いていてもはっきりと感じ取れる視線。めちゃくちゃに威圧感がある。どうしようもないくらいに恐い。ジークとはまた違った威圧感があるのだ。敵意、と呼ぶのが一番的確かもしれないのだが、それともまた次元が違う。視界の端にあるデビッドの真っ黒い手がテーブルを掴んでおり、先ほどからミシミシミシと軋みを上げている。このまま力を入れれば、テーブルが粉砕されるのも時間の問題であろう。
俯いたままの祢瑚美を他所に、リーダー同士の会話が進む。
「ルールは決めてあった通りだ。制限時間は三時間、メニューはパスタならどれでも一皿とカウント。制限時間までにタッグで多く食った方が勝ち。ドクターストップやギブアップは認められない。この勝負で勝った方が、この決戦の最終勝者となる。以上、何か変更点は、」
「――焦るなよ月野神夜。もっと楽に行こうぜ。さっかくの序曲なんだ、そんな簡単に終わらせるものでもあるまい」
「序曲?」
「そうさ、序曲。おれが奏でる、貴様ら親子に対する復讐劇の序曲。まだメロディは流れ出したばかりなんだ、焦る必要はないだろう。楽に行こうぜ。言い換えればこのフードファイトはただの前菜でしかない。メインディッシュは貴様の父親、ジャパニーズモンスター・月野玄武だ。貴様をここでぶち殺せばジャパニーズモンスターは姿を現す。そこで初めて、おれの復讐劇は最高峰に達するのだ。だから、焦る必要はないんだよ」
月野神夜の乾いた笑い声。
「生憎として、ぼくをここで倒したとしても父さんは出て来ない。父さんと戦いたいと思うのなら、自分の手で探し出すんだな。だけどどの道、その復讐劇は序曲で終わる。……一つだけ言っておくぞジーク・クライヤー。お前では父さんどころか、このぼくも倒せない」
「それは挑発のつもりか? それとも面白くないジャパニーズジョークか?」
「自分の実力に訊けばわかるさ」
「その自信を根こそぎ破壊して序曲を次に進めてやる」
「――逆恨みの復讐劇の序曲、ってわけね」
ふと気づけば、俯いた祢瑚美の口からそんな言葉が飛び出していた。
そのことに言ってから気づいて慌てて口を手で押さえるがもう遅い。月野神夜とジークの間にはすでに沈黙しか存在せず、祢瑚美がどうしようと混乱し出した刹那に、誰よりも先に動いたのはそれまで沈黙していたデビッドだった。テーブルの一角を指で粉々に砕き散らし、巨漢からは想像もつかないようなスピードで立ち上がりながら祢瑚美に手を伸ばす。逃れられる速さではなかった。木造のテーブルをいとも簡単に砕く指が祢瑚美の肩口を鷲掴む瞬間、
三つの出来事が連鎖的に発生した。まず、祢瑚美の視界を左から右へと何かが通り抜けてデビッドの腕を鷲掴み、隣の席の椅子が動く音と共にデビッドの巨漢が百八十度反転し、轟音のような衝撃音を立てながらデビッドが背中から床に叩きつけられる。瞬きをすれば見失ってしまうような三つの出来事が過ぎ去った後にあるのは、呆然とする祢瑚美の横でデビッドの腕を捩じ上げながら氷のような目をする月野神夜だけだった。
腕を捻られ床に這い蹲るデビッドが英語で何かを叫ぶが、祢瑚美には当たり前のように何を言っているのかがわからない。
「HA。やめておけデビッド、レディに手を出すものじゃない。それにお前じゃその男に勝てはしないさ。ストリートファイトスタイルで勝てるほど、その男は弱くない。お前たちが知っている世界とはもっと別次元の話だ。このおれと同次元に存在する。それが、月野神夜だ。……だが、功績を称えるぞデビッド。どうやら月野神夜の最も壊されたくないものとは君のようだな、Ms,「NEKOMI」?」
ジークの視線が真っ直ぐに祢瑚美を捕らえ、そして、
「しかし口には気をつけたまえ。次に同じ台詞を吐けば、今度はおれがその首を圧し折ってやる」
ブルーの瞳の奥底に巣食う漆黒が祢瑚美の胸を貫いた。
月野神夜が何事もなかったかのように祢瑚美の隣に腰掛け直し、デビッドが苛立ちを隠せない顔つきで席に戻る。
刻々と進んで行くこの状況が、祢瑚美にはまるでわからない。ジークの言葉など少しも頭の中に入って来ていなかった。月野神夜が仕出かした行動もまた、すでに脳の中からは消え失せている。異世界に迷い込んでしまったのではないかと本気で思う。この場に座っている三人は、絶対に宇宙人だった。宇宙人じゃなければ人間じゃない、もっと別の種族に決まっていた。どう考えてもおかしい。いつも隣でへらへらと笑っているはずの月野神夜が、今はいつも以上にとてつもなく遠い存在だと感じる。
ジークが仕切り直す。
「そろそろ始めようか。このまま長引かすと、デビッドが何をし出すかわかったものじゃないからな」
その声を切っ掛けにメニュが運び込まれて来る。一人一人手渡されたメニューが逃げ道だ、とばかりに祢瑚美はそれを慌てて凝視した。
見慣れたメニューだがしかし、何かが違う。よくよく見ればメニューはパスタ以外はすべて排除されており、すべてに「ジャンボ」が記入されている。この店のパスタでジャンボが表記されていたのはクリームにミートにカルボナーラにタラコであるはずなのだが、他のすべてにもジャンボが付け加えられていた。これまで祢瑚美は、いくつかのパスタを「ジャンボじゃないから」という理由から頼むのを諦めていた節がある。だが、今日は違うのだ。どのパスタを頼んだとしてもジャンボサイズ。食べたいものを食べたいだけ食べることが可能になる。
先までの心配はどこへやら、祢瑚美は楽園へ訪れた天使の笑顔を見せる。
まずは何を食べよう、と祢瑚美は思う。最初はやはり手堅く大好きなクリームパスタで臨むべきか、それとも食べたことのない種類のパスタに手を出すべきか。ジャンボイカ墨スパゲッティ、なんてのもなかなかに美味しそうではないか。迷う迷う。が、やはり最終的にはメニューに載せられていた商品の写真の威力に押し切られ、祢瑚美の一品目はジャンボクリームスパゲッティに決定した。
メニューを閉じた祢瑚美の周りでは月野神夜がジャンボタラコスパゲッティを、ジークがジャンボミートスパゲッティ、デビッドがいきなり祢瑚美が頼もうかどうか迷ったジャンボイカ墨スパゲッティを注文する形で一先ずは落ち着く。この店は恐らく、予めメニューの用意はされていたのだろう。だから四人が注文して三分もしない内にすべてのメニューはテーブルの上に運び込まれ、何もなかったテーブルは四皿のパスタに支配される。
全員が同時に店内の時計を見上げ、大食い戦隊ガブレンジャーと大食いキングダムの最終決戦の幕が上がるであろう、十二時をまだかまだかと待ち侘びる。秒針が残り十秒を刻み、一秒ごとに静寂が生まれ、そして神経が集中されるピリピリとした緊迫感が広がっていく。このテーブルを取り囲むのは普通のフードファイターではない。掲示板では最強と謳われる祢瑚美と、その祢瑚美を凌ぐ実力を持つ無敵のフードファイターである月野神夜。父親が元フードファイト世界大会五年連続覇者であるジーク・クライヤーと、その右腕のデビッド・ファースト。
これほどまでに豪華な顔ぶれなど、もう二度と実現されないのかもしれない。果たしてこの勝負の行方は、どちらにフードファイトの女神が微笑む結果となるのだろう。それを知っているのは他の誰でもない、自分自身の胃袋である。三時間という、短くもなく長くもない、しかし体験すれば永遠とも呼べるフードファイトの幕が上がる。最後まで立っているのは、否、最後まで食い続けているのはどちらか。大食い戦隊ガブレンジャーか、それとも大食いキングダムか。
時計の針が十二時を刻み、最終決戦が、始まる――。
最初に動いたのは、もはや「美味しいパスタを食べる」ということしか頭になかった祢瑚美である。フォークでクリームスパゲッティをくるくると巻きながら、ちょうどいい量になったら素早いがどこか上品な食べ方で口に運ぶ。口の中に広がるのはクリームのクリーミーな甘さであり、祢瑚美を意識ごと楽園のお花畑に連れ去っていく。そして最初のひと口で、祢瑚美は悟った。ここのシェフがいつも手を抜いているわけではあるまい。それは信じて疑わない。だが今日は、シェフの気合の乗り具合がまるで違う。いつもの数倍にも増して、実に美味である。世界中のどこを探そうとも、このパスタに勝てるパスタなど存在しないのではないかと本気で思う。
幸せそうな顔でパスタを食べる祢瑚美の隣では、祢瑚美より幾分か早いペースでパスタを食べている月野神夜がいて、その向かいではジークがまだひと口もパスタを食べずに静止しており、またその隣のデビッドが実際戦力だと言わんばかりにパスタを貪っている。驚いたことにこのデビッド、ジャンボスパゲッティをたったの五口で平らげてしまったのだ。フォークでぐるぐる巻きにした真っ黒なパスタは拳大で、しかしそれを無理矢理に口に押し込んで噛み砕いてしまう。もともと顔自体が真っ黒だったデビッドは、ついに口の中まで黒く染まり始め、目だけが異様に白い幽霊のようなものに変貌しつつあった。
ジャンボクリームスパゲッティを半分ほど平らげた後に、祢瑚美はふと顔を上げ、視界の端に入ったデビッドは見なかったことにしてジークを見据える。
――どうしてこの人、パスタを食べようとしないの?
ジークは椅子の背凭れに身を預け、腕を組んだまま微動だにしない。隣のデビッドは恐るべきスピードで二皿目のパスタを食っているのにも関わらず、なぜリーダーであるジークが食おうとしないのか。実はまるで食べれない一般人でした、などということはまず在り得ないだろう。ではなぜ食おうとしないのか。余裕のつもりか、それとも大食い戦隊ガブレンジャーに与えるハンディのつもりなのか。どちらなのかはわからないし、もしかしたらもっと別の理由なのかもしれない。だけど今のこの状況でこういうことをするとはつまり、相手を馬鹿にしている以外の何ものでもありはしないのだ。
上等よ、と祢瑚美は思う。
いつまでも食べないのだったら、ここで勝負を決めてあげる。慌てて食べてももう遅い状況まで追い詰めてあげる。
フードファイト開始から五分が経過したとき、祢瑚美が一皿に月野神夜が二皿、ジークが零皿でデビッドが三皿を平らげて、両チーム共に互角であった。しかし事実上は祢瑚美&月野神夜VSデビッドという形になっている。まだ全員が本気を出していないのだが、それでも二対一で互角というのは少しばかり危険な状態である。もしジークが参戦していれば五分の時点ではこちらが負けていたに決まっていた。五分で三皿も平らげ、しかもまだ微塵もスピードを落とさない巨大な黒人。これがジーク・クライヤーの右腕・デビッド・ファーストの力と言ったところだろうか。
だけど、いつまでも舐められてばかりではいられない。二対一ならば、絶対にこちらが勝たねばならないのだ。そしてそれは、月野神夜も同じことを思っていたらしい。祢瑚美に向けられた月野神夜の横目に僅かに肯きつつ、祢瑚美は二皿目のパスタを注文する。今度はジャンボミートスパゲッティである。口に運んだときに響くミートソースの音色は最高で、これまた祢瑚美は天使のような笑みを無意識の内に浮かべてしまう。しかし天使の笑みとは裏腹にペースは驚くべきもので、そんな祢瑚美に触発された月野神夜もまたペースを上げた。
試合開始十分が経過した頃、祢瑚美は四皿で月野神夜が五皿を平らげ、デビッドは六皿を食い終わった。九皿対六皿で大食い戦隊ガブレンジャーがリードを広げ始めたとき、それまで完全に沈黙を押し通していたジーク・クライヤーがついに動き出した。組んでいた手をそっと外し、背凭れから我が身を上げ、目の前に置かれていた冷めたパスタを一瞥し、ウエイトレスに向って新しいパスタを注文する。取り替えられたジャンボミートスパゲッティにフォークを突き立て、ジークは笑った。
「クエスチョンだ。おれは今から食うべきか、否か」
その言葉の意味を、すぐには理解できなかった。
だが理解したとき、どうしようもない怒りのような感情が湧き上がる。
「……それは、もっとハンディが欲しいか、って意味?」
わかってるじゃあないか、とジークは祢瑚美を馬鹿にするかのような視線を向けた。
「その通りだ。おれが今から食い始めれば三皿の差は五分で消えるどころか、逆転できるだろう。だがそれじゃあ面白くない。だからクエスチョンなんだ。貴様らはもっとハンディが欲しいかどうか。欲しいなら三十分経過するまでおれは食わない。しかしここで勝負を変動させ、一気に負けたいのであれば食う。貴様らが決めればいい」
「馬鹿にしないで。食べるかどうかなんてあんたが勝手に決めれば、」
「――食いたければ食えばいい」
祢瑚美の声を遮り、月野神夜はジークに見向きもせずにつぶやく。
「これは正々堂々としたフードファイトだ。ハンディなんてクソ食らえ、そんなものをもらった覚えはこっちには無いんだ。だから食いたければ食えばいいし、食いたくないなら食わなければいい。それをイチイチぼくたちに質問するな。不愉快だ。……だが一つだけ言う。まだ始まったばかりだからいいが、そんな余裕が通用するのはここまでだ。ここからは、ぼくも本気でこの勝負を受けて立つ。食うかどうかなんて、自分で決めろジーク・クライヤー」
それだけ一気にぶちまけた刹那、月野神夜の眼光が研ぎ澄まされ、「ヘルデビル」こと京二と対峙したときの無敵のフードファイターがその全貌を現す。
吹き抜けた衝撃波のようなものが店内を駆け、それまで余裕しか映していなかったジークの表情を根こそぎ飲み込んだ。余裕の笑みはたちまちに不敵な笑みに姿を変え、そしてそれを超えた瞬間にジークは無表情になる。驚くべきスピードでパスタを食い始めた月野神夜を真っ直ぐに睨みつけ、パスタに突き刺していたフォークを動かし始める。
ジーク・クライヤーが始動する。これで、正真正銘の二対二のタッグマッチだ。
三皿程度の差など無意味である。気を抜けばすぐに追いつかれ、そして逆転されるだろう。ここからは全力で最後まで食い続けなければ即刻負けに繋がる。加えてようやく始動し始めたジークに作用され、デビッドの活気すら増したような気がする。それまで五口で食べていたパスタをたったの三口で平らげたのだ。デビッドの大口には、普通の人間の拳など二つは軽く入るのではないかと思う。
そして、ジークのギアが一つ一つ、確実に上がって行く。最初はゆっくりとした動作だったのだがしかし、ひと口ごとに徐々に徐々にとペースが上げられ、一皿目を平らげた瞬間にトップギアへと移行した。驚愕に値するスピード。早食いのスペシャリストである影月さえも超越する。ビデオの早送りを見ているかのような光景だった。三口でパスタを平らげてしまうデビッド以上の速さを持って、ジークは三皿の差を無効にしていく。
が、こっちだって負けていない。ジークと同等の速さで食い続けるは無敵のフードファイター。この二人が平行線で食べ続けるのならつまり、勝負の決め手は祢瑚美とデビッドになる。どちらかがリードを広げれば、それがそのまま合計数に関係してくる。だから負けるわけにはいかない。月野神夜の足を引っ張るわけにもいかないのだ。デビッドは、祢瑚美が倒すしかない。女性だから、などという考えは最初から無視だ。フードファイトにはそのような概念は一切必要ない。あるのは実力だけだ。実力がすべてのものを言う世界。
それが、祢瑚美の楽園、フードファイト界。
祢瑚美は初っ端から食い続ける。
フードファイトにおいて、祢瑚美が思う三カ条の一つ。序盤は絶対にペースを崩してはならない。最初で飛ばし過ぎると中盤辺りから明らかなペースダウンをしてしまう。そうなっては手遅れ、ペースダウンは次第に食欲を削っていくのだ。故に最初は自分のペースで勝負を進め、早食い対決ではないのだから時間をフルに使い、中盤から後半に懸けてペースを上げるのである。それは決して破ることのできない、祢瑚美の三カ条の一つだ。だが、それを最初から大きく祢瑚美は破った。それもそうだ、オーバーペースで食べ続けないことにはデビッドに追いつくことができないのである。三時間という長丁場だが、ここで力を抑え込んでいたら最後には必ず使いものにならなくなってしまう。そうなってはそれこそ手遅れなのだ。
祢瑚美が思うフードファイトの三カ条の一つ。相手にプレッシャーを与える。追われる側にプレッシャーを与え、まだ残っている最後の余力をすべて使わせるのである。本当のガス欠を決めてしまう一手。追う側と追われる側では、後者の方が明らかに負担が大きい。通常なら最初の一カ条からこの二カ条に繋げて、祢瑚美が思う、フードファイトの三カ条の最後の一つ、勝負を決めるときは全力を出せで潰して勝負を決めるのだ。
――しかし。しかし、だ。ジークやデビッドにそれが通用するとはどうしても思えない。まだ勝負は始まったばかりだが、プレッシャーをかけられているのは祢瑚美である。そんな自分が信じられない。何だと言うのだろう。それほどまでに実力差があるというのか。または勝負に臨む心意気が違うのか。驕りではないが、自分はフードファイトの世界でなら強いと思う。そう言い切れるだけの実力も伴っていると思う。だが、そんな自信を粉砕するような相手が、目の前に二人も存在する。化け物である。宇宙人である。ここまで食べ物を早く食う人間を、祢瑚美は今まで見たことがない。
祢瑚美を圧し潰すようなプレッシャーが降り注ぐ。
頬に嫌な汗が伝う。美味しいはずのパスタの味がわからなくなりつつある。
試合開始より三十分が経過する。その間に祢瑚美が十六皿、デビッドが十八皿を平らげており、月野神夜が二十七皿、ジークが二十三皿を食い終わっていた。合計して大食い戦隊ガブレンジャーが四十三皿、同じく大食いキングダムが四十一皿を積み上げている。三皿あったはずの差の一皿はすでに消えていた。祢瑚美がデビッドに遅れを取ったわけではなく、ジークのスピードが僅かに月野神夜を上回っている結果差である。単純計算で考えれば後一時間後には差が零になり、そして残り一時間半で、逆に三皿の差を広げられることになる。そうなれば大食いキングダムの勝利が決定する。それだけは何としても避けねばならなかった。
フードファイトが始まって三十分足らずで胃が重くなるなど、祢瑚美にとっては初めての体験である。
ペースは相変わらずだが、その動作一つ一つが重い。美味しい食べ物を胃が拒絶するという超常現象にも匹敵する現実。目前ではまだ、デビッドが一定のペースを保ちながらジャンボイカ墨スパゲッティばかりを貪っている。他の三人は一品ごとにメニューを変えたりしてパスタと戦っているのにも関わらず、なぜかこのデビッドはイカ墨しか頼まない。二十皿近くイカ墨だけを食っているデビッドの口はもはや暗闇のようで、顔よりも遥かに黒い。黒いのにパスタを見据える目だけが真っ白なのが本当に恐ろしい光景である。
そして、デビッドは食い続けている。祢瑚美も負けじと食い続けるが、端から見てもどちらが有利なのかは一目瞭然であった。
強い、と祢瑚美は思う。今まで戦ってきた日本のフードファイターたちが赤子に見える。世界とはここまで広いものなのか。黄色人種が黒人の壁を乗り越えられないのは、フードファイトでも同じことなのだろうか。産まれ持った才能が実力のほとんどを左右するフードファイト。その素質なら祢瑚美はトップクラスだ。そのことに関しては胸を張ってそう言ってもいい。だが、上には上がいるということか。産まれ持った素質を取っても、そこからすでに差が生まれているというのか。月野神夜に祢瑚美が負けたように、デビッドにも祢瑚美は負けるのだろうか。
――絶対に嫌。月野神夜に勝つまで、わたしは絶対に誰にも負けないっ。
オーバーペースですでに食欲の七割は削がれてしまっているが、それでも祢瑚美を突き動かすのはその信念。
負けるなど一回だけで十分だ。月野神夜に負けたあの悔しさは絶対に忘れないだろう。あの悔しさを消したいのであれば、それは月野神夜に勝つ以外に有り得ない。だから負けられない。他の者に負けるなどあってはならないことなのだ。月野神夜に勝つ。このフードファイトはその通過点ではないか。通過点で足を止めてどうするというのか。突き進め。負けるな。食い続けろ。こんなわけのわからない真っ黒黒助なんかに負けていい道理なんて、どこにも転がっていないのだ。
フードファイトで祢瑚美が思う、三カ条の常識はもはや通用しない。
ならば、ここで新たな自分自身を生成する。限界を超えても食い続ける強い意志を掻き集める。限界だと弱音を吐く胃を意志の力で抑えつけ、重くなっていた手の動きを蘇らせる。ジャンボカルボナーラを口いっぱいに運び込み、祢瑚美は食う。負けたくないという一心で食い続けるのだ。祢瑚美からあふれ出す意志の気配はその場にいたすべての者に伝わる。ある種の気迫がフードファイトをさらに熱狂させていく。
月野神夜がペースを上げ、ジークが笑い、デビッドが祢瑚美を睨みつける。
そして、それまで一定のペースで食い続けていたはずのデビッドの手が、初めて止まった。試合開始から一時間が経過した瞬間に、デビッドは手を止めてテーブルの水を一気飲みする。それまで隠していたのか、それともただの休憩か。デビッドが大きな深呼吸を何度も何度も繰り返し、目を閉じながら精神集中のようなものを行う。ここがデビッドの限界点なのか、それとも余力がまだ残っているのかはわからないが、それでも祢瑚美はようやく気づけた。
限界が近いのは、祢瑚美だけではないのだ。デビッドもまた苦しがっている。ならば、――ならば、ここから先は気力の勝負。どちらがより一層勝ちたいと思い、食い続けられるか。根競べだ。女だからって馬鹿になんてさせない。女の子の別腹がどれだけ強い力を持っているのか思い知らせてあげる。デビッドだけではない。ジークにも、そして月野神夜にもちゃんと、わからせてやらねばならないのだ。
試合開始から一時間で大食い戦隊ガブレンジャーが七十八皿を、大食いキングダムが七十七皿を積み上げていた。
三皿あった差は一皿に減り、ついに大食いキングダムが完璧に大食い戦隊ガブレンジャーを捕らえた。
が、実際にはかなりの接戦である。祢瑚美とデビッドは同速度で食い続けはいるが、誰の目から見ても限界を突破しているのは明らかで、いつ潰れたとしてもおかしくはない。変化があるとすればそれは、月野神夜とジークだ。二人ともペアより倍近く食っているのにも関わらずに顔色一つ変えてはおらず、ジークに至ってはまだまだ余力を残していると顔に書いてある。しかしそれを言うなら月野神夜も同じだ。月野神夜もまだ底を見せてはいない。つまりは、どちらかが先に潰れるかで勝負は大きく変わる。果たして最後まで食い続けているのはどちらなのか。今のこの状況では誰も答えられないに決まっていた。
三時間とは、果たしてどれだけ長いのだろう。まだフードファイトが開始されて一時間しか経ってない。それなのにこんなペースで飛ばし続けて最後まで保つのだろうか――、そんな考えが誰の頭にもあったのかもしれない。誰が先に言い出したことでもないが、誰ともなしにそれは起こっていた。試合開始より時計が一時間十五分を指した瞬間、全員が全員、一度だけ手を止めて静止した。休憩しよう、と言ったわけでもない。この間に食い続けて相手との差を広げても何も卑怯でもない。だけど全員、それをしようとはしなかった。
それは長い戦いの中で訪れた、十五分の静寂。
嵐の前の静けさを持つ、時間――。
予想外のことが多く降り注ぐ、とジーク・クライヤーは思う。
まずは月野神夜だ。父親であるジャパニーズモンスターの才能を受け継いでいるとは言え、よもやここまで食えるフードファイターだとは想定していなかった。ジークはまだ全力を出したわけではないが、月野神夜もまたまだ全力を出し切ったわけではないだろう。楽に潰せると思っていた分、計算が僅かに狂う。潜在能力は互いに未知数だが、統計すれば互角になるかもしれない。そこまで強いと言うのか。そこまで邪魔をすると言うのか。このフードファイトは復讐劇の序曲に過ぎないのだ。にも関わらずこんな所でもたついているとは何たる不覚か。
そして決定的に予想外なことが、月野神夜とタッグを組んでいる「NEKOMI」というフードファイターだ。
まさかデビッド・ファーストとタメを張れるフードファイターだとは一体誰が予想できたのだろう。思い描いていたシナリオはこうだ。最初に「NEKOMI」が潰れ、事実上の対戦がジーク&デビッドVS月野神夜になり、ジワジワと追い詰めて最後の最後に粉砕する、という流れになっていたはずなのに、試合の半分が過ぎたのに「NEKOMI」はまだ食い続け、あろうことか逆にデビッドを追い詰め始めているのだ。デビッドがフードファイトの最中に肩で息をするなど考えられない。しかもその相手が高々ジャパニーズだというのだ。
まったくもって腹立だしい。ジャパニーズ相手にここまで手古摺るなどあってはならないのだ。
ジャパニーズモンスターと戦うまで足踏みをしている暇は無いのである。復讐劇の序曲が遅れれば残りに必ずや支障を来す。ここで潰さなければならないのだ。これ以上モタモタしていてはすべてが水の泡となる。一時間半が訪れた時点で僅差とは言えこちらが負けていることすらも予想外。月野神夜はまだ底を見せていない。「NEKOMI」はまだ潰れていない。不覚、何たる不覚か。
残り一時間半。ここで、潰す。探り合いはもうやめだ。全力を用いて、序曲を強制終了させる。
空気を伝わるジークの変化を、隣に座っていたデビッドは正確に感じ取っていた。デビッドは今まで、これほどまでに熱くなったジークを見たことがない。しかし今は煮え滾るような意志を燃やしている。それは果たして何を意味するのか。簡単である。勝負を終わらせることを決めたのだ。ここで働かねばジークの右腕という名が腐る。デビッドの限界はすでに突破しているが、関係ないのである。限界のさらに上を見上げるのだ。胃が破裂しようがもう二度と飯が食えなくなろうが、ジークのために尽くすという信念の前には無意味。ここで食わずして、何がジークの右腕だというのだろうか。
大食いキングダム最強の二人がトップギアに上がる。この一時間半、もはや二人を止められる者は存在しない。
ジークの海のようなブルーの瞳が、透き通るような青空色へと変色した。
冗談じゃないわ、と祢瑚美は思う。
目を開けていられない。椅子の背凭れに身を預けたまま天上を仰ぎ、祢瑚美は身動き一つせずに深呼吸だけを繰り返す。これまで長丁場のフードファイトは何度か体験してきたが、今回のフードファイトは体力並びに気力の消耗の度合いが半端ではない。強過ぎるのである。ジーク・クライヤーは月野神夜と同等かそれ以上の実力を持っているし、デビッドだって祢瑚美と同等かそれ以上だ。こんな人間が世界にはまだゴロゴロと存在するのか、それともこの三人が特別なだけなのか。しかし今はどうでもいい。今のこの状況だけが、祢瑚美にとってはすべてなのだから。
試合開始より一時間半。もはや食べる気力は底を尽きかけている。これからまた永遠とも呼ぶに相応しい一時間半を戦い抜かねばならないのかと思うと寒気がするのだ。確かにここのパスタは美味しい。今日のパスタは最高級品にも匹敵するだろう。だけどそれを凌ぐ勢いで、気力が萎え始めている。フードファイターが負ける仮定で必ず訪れる精神状態。ここをもう一歩でも後退すれば最後、食べる気力は完全に削がれて仮死状態になっても何らおかしくはないのである。
薄目を開けて月野神夜の様子を窺う。
姿勢正しく椅子に腰掛け、指を器用に組み合わせてテーブルの真ん中だけを見据えている。
はっきりと伝わってくる。まだ食い続けられる、と。まだ負ける気は微塵もない、と。化け物だ、と祢瑚美は思う。いつもいつも月野神夜のことを化け物だとは思うが、今日ほど化け物だと思ったことはない。一体こいつの腹の中はどうなっているのか。いつまで食い続けるつもりなのだろうか。――おかしいんじゃないの、本当に。祢瑚美はもうとっくの昔に限界を突破している。胃が今にも破裂しそうだ。上着を脱げばお腹が出ているかもしれない。
瞬間、目前の二人に爆発的な気配の変化があった。気迫に飲み込まれ、見てはいけないと頭では理解しつつも、そちらに視線を向けてしまう。
デビッドは祢瑚美を真っ直ぐに見据え、限界を超えてさらなる限界へ挑む決意を胸に抱いている。ジークの瞳の色が先ほどよりさらに鮮やかになっているのは気のせいではあるまい。あふれ出すのは無敵のフードファイターと同じような、祢瑚美が純粋に恐怖を覚える気配。二人が、ついに本気を出してきた。もう止まらない。ここから先に行われるのは、前半の一時間半よりも遥かに過酷なフードファイトだ。冗談じゃないわ、と祢瑚美は再び思う。これ以上ペースを上げて食い続けることなんてできっこない。これ以上食べたら絶対に壊れてしまう。
――もう。もう、十分に頑張ったんじゃないか。
もともとこれは月野神夜に持ち込まれたフードファイトなのだ。それに祢瑚美は巻き込まれただけ。ここまでしてやっただけでもう十分過ぎるではないか。こんな逆恨みが原因で起こった勝負で身体を壊すなんて馬鹿げている。まだ二十一歳の大学生だ。先はまだまだ長いのである。別にフードファイトで一生食べて行こうだなんて考えていない。ここで負けても祢瑚美が失うものなんて何一つ存在しないのだ。だから。
そして、祢瑚美の内心を理解していたかのように、月野神夜は祢瑚美にしか聞こえない小声でつぶやく。
「……辛いのなら、ここでやめてもいいよ」
視線を月野神夜に向けるが、月野神夜の視線は祢瑚美には向けられず、相変わらずテーブルの真ん中に集中している。
「本当は、祢瑚美を巻き込みたくなった。だけど一緒に戦いたかった。完全なるぼくのエゴだ。君を巻き込む形になってごめん。けど、ぼくはここでやめる気はない。一人でも戦い抜いて、勝つ。勝たなくちゃいけないんだ。ここで負けたらぼくはすべてを失うだろう。ぼくが大切にしている、すべてのものを。……それにはもちろん、君も含まれているんだ、祢瑚美。でも無理はしなくていい。君が苦しむ姿を見たくない。やめたいのなら、ここでやめていいよ」
初めて祢瑚美に向けられた月野神夜の視線と微笑みは、卑下するようなものは微塵も存在しなかった。
心の底から、祢瑚美にギブアップしても構わない、と言っている。その微笑みを受けたとき、祢瑚美は自らの卑怯さを呪った。
巻き込まれただけのフードファイト? 先が長い? 失うものが何一つない? 十分に、頑張った……? ――馬鹿言わないで。最初は確かに巻き込まれた形だったけど、わたしは自らの意志でこのフードファイトを受けて立った。先のことなんて関係ない。フードファイトをするこの瞬間すべてが、人生そのものなのだ。失うものは山ほどある。最強のフードファイトの称号は、遊びで背負っているものではない。ここで逃げ出して何が最強だ、何が「NEKOMI」だ。十分に頑張ったかもしれない。だけどまだ戦える。吐くまで、気絶するまで戦っていない。十分で足りないのなら十二分に頑張れ。ここで逃げるな、負けるな、前を向いて立ち上がれ、そして、――食い続けろ。
それまでとは違う意味で、祢瑚美はつぶやき返す。
「……冗談じゃ、ないわ……」
「……祢瑚美?」
もう弱音は吐かない。月野神夜に勝つまで、走り続けるのだ。
「冗談じゃない。誰がこんな中途半端でやめるもんですか。わたしは絶対に諦めないからね。あんたが潰れてもわたし一人で食べ続けてこいつらに勝つわよ」
月野神夜は、心地の良い笑顔を浮かべる。
「――……あはは。それでこそ、祢瑚美だ。ね、祢瑚美」
自分で言ったことなのに少しだけ恥ずかしくて、祢瑚美は水を飲みながらワザと不機嫌そうな口調で、
「なによ?」
「これ勝ったら、キスしていい?」
「ぶっ!、けほッ、けほッ……! あ、あんたホントに馬鹿じゃないの!? 脳みそ腐ってるわよ絶対にッ!!」
やはり月野神夜はあははと笑うだけで、それ以上は何も言って来なかった。
時刻が流れる。
静寂の十五分が終わりを告げようとしていた。嵐の前の静けさが去った後に訪れるのは果たして何であるのか。
それが、この瞬間に判明する。
試合開始より一時間半ジャスト、動き出したのは全員同時だったように思う。
それまで限界を超えていたはずの祢瑚美もデビッドも全力で食い続け、底を見せていなかった月野神夜も余力を残していたジークも、本当の全力を注ぎ込んで勝負を決めにきていた。デッドヒート、と呼ぶに相応しいフードファイトだったのかもしれない。止むことなく店内に響き渡るのはフォークが皿にぶつかる無機質な音だけで、それ以外は不思議と何も聞こえてこなかった。見る見る内に皿がさらにさらにと積み上げられ、バランスが悪くなり始めた頃を見計らって二段式に変更される。その間も四人は食い続ける。
まったくの互角。先ほどまでふざけていたような雰囲気だった月野神夜も祢瑚美も、意識を完全に目の前のパスタにだけ集中させて挑む。二人と同じような食べ方で挑むはジークなのだが、デビッドだけは豪快だ。やはり拳大のスパゲッティを口に捻じ込んで、ロクに噛まずに飲み込む。喉を詰まらせないことが不思議な光景であった。しかしジーク・クライヤーという男は、誠に強い。デビッドのような豪快さに欠けるせいで、端から見ているとデビッドの方が実力が上のような感じがするが実際はまるで違う。デビッドは、ジークに引っ張られているからこそ食い続けることができているのだ。
青空色の瞳が映すのはパスタ一点。が、その奥に潜むのは変わらずの闇。ジークの精神力の原点はそこに至るのだろう。幼きジークは父親を殺されたと勘違いし、それを糧として復讐だけを描いて二十年間過ごしてきた。普通の人間とは恐らく、精神力の桁が違うはずだ。それこそ地獄のような漆黒の中を何年も何年も這いずり回って来たに違いない。そこから生み出される精神力がジークを突き動かすのだ。月野神夜の背後に重なるジャパニーズモンスター・月野玄武の幻影を追い、ジークは憎悪の感情を剥き出しにしている。
負けるなどとは論外。全員が勝つことだけを見つめている。
激戦は鳴り止まない。実際に鳴っているのはフォークが皿にぶつかる小さな音だが、四人の耳には確かな音が聞こえている。戦場と呼ぶに相応しい轟音が聞こえているはずなのだ。この場所で戦っている者にしか理解不能な音色。一瞬でも気を緩めれば背後から背中をぶち抜かれるかのような緊迫感。もう止まれない。誰にも止められない。止まらない列車、如きの話ではないのだ。止まらない戦闘機は戦場を駆け抜け、ありとあらゆる場所を爆撃していく。このフードファイトが終わったときに残っているのは、何もない焼け野原なのかもしれない。
もう何皿食べたのか祢瑚美にはわからない。あれから何分経過したのかさえもわからない。
意識が何度も遠のきそうになる度に、心のどこかで月野神夜の声を聞いたように思う。その声を聞くと意識が再び呼び覚まされ、食べなくちゃ、と本能のような思考が働いてパスタを食い続ける。いつしか雑念は綺麗さっぱりに消えていた。負けるかもしれないとか、もう限界だとか、そういう思考は根こそぎ飲み込んで消化され、祢瑚美は本当に「食う」ことだけしか考えられなくなっていた。
それは、ここにいた全員がそうだったのかもしれない。月野神夜も例外ではなく、もはや意識は定かではなかったのかもしれないのだ。ジークだって今のこの瞬間だけは復讐劇なんてことは忘れていたに決まっているし、デビッドも何も考えずに食っていただけなのだ。後に誰に聞いたとしても、この瞬間のことなんて微塵も覚えていないのかもしれない。だけどそれでもいい。記憶には残らずとも、結果は必ずや残る。「食う」ことしか意識できない今のこの状況でも、食い続ければ結果はついてくる。
食わなければ負ける。負けたくないなら食え。食えば勝てる。勝ちたいのなら食え。
フードファイトの究極がここに存在する。何かを賭けるからこそ人は勝負事に白熱するのだろう。金だったり夢だったりプライドだったり、賭けるものは勝負や人によってそれぞれ違う。ならばフードファイトには普通、何を賭けるのだろうか。負けたときに代金を支払うのだから、やはり金だろうか。それとも最強になりたいと思う夢だろうか。または負けるはずはないというプライドか。それはどれも正解で、どれも不正解なのだと思う。そもそもな話、最初から答えなど存在しないのだろう。勝負が、人が、それだと決めたものが賭けるものになる。だからどれも正解でどれも不正解なのだ。
ならば、フードファイトの究極で賭けられるものとは何か。
フードファイトの究極で賭けられるのは無心の精神力。無心の精神力が正解か不正解なのかはやはり、誰にも答えられることができないだろうが、しかし余計な雑念を考えればそこから「負け」の二文字が連鎖的に浮かび上がる。最も強いのは無心だと思う。己が信じるものだけを追い続ける無心こそが無敵に近いのだと考える。
故に。故に今のこの四人は、最も強い無敵のフードファイターなのかもしれない。
そして、無敵のフードファイターの鎧に最初に傷が入ったのは、信じられないことに月野神夜だった。
響き渡った咳き込むような声で無心から我に返った祢瑚美が慌てて隣を見ると、そこには胸を押さえて嗚咽のような声を上げる月野神夜がいた。同じ時間だけ戦っているが、実際はまるで違う。月野神夜は祢瑚美の倍以上のパスタを食い続けていたのだ。加えてジークの追撃を意識し続けなければならないその体力並び気力、精神力の消耗は祢瑚美の比ではあるまい。しかしここで月野神夜が潰れれば、勝ち目はなくなる。どうにかして復活の目途を立てなければならない。無理に無理を重ねていることは承知、だけどそれでも。
祢瑚美は、意識が途切れそうになる度に月野神夜の声に助けられた。だったら今度は、こっちが助ける番だ。
だが普通の声は今のこの状況では届きはしないだろう。どうすればいい、と考えていたのは一秒もなかったはずである。月野神夜の言葉が脳裏を過ぎったわけでもない。ただ、自分にできることはこれくらいしかないような気がした。無心、とはまた違う。無我夢中、だったのだと思う。祢瑚美は席から腰を浮かして目を閉じ、そして、
――月野神夜と口付けを交わす。
偶然なのか必然なのか。口付けを交わした瞬間から月野神夜の呼吸が一瞬だけ落ち着いたような気がした。無我夢中、とは恐いものである。自分が何をしているのかがほとんど理解できない。だから祢瑚美は、さらに恐るべき行動に出る。唇を離すと同時に月野神夜の顔を真っ直ぐに見据え、振り上げた右掌でその頬を一直線に引っ叩いた。
そのとき、自分が何と叫んだのかは覚えていない。
ただ、そのときに見せた月野神夜の笑い顔だけは忘れられない。
爆発的な気配の変化が巻き起こる。それまで生気の感じられなかった月野神夜の瞳に活力が生まれ、いつもの笑顔が紅葉のついた頬に浮かび上がった。背後から噴き上げる圧倒的な波動が店内を支配し、無敵を超えたさらなるフードファイターへと進化を遂げる。祢瑚美が今まで見てきた月野神夜のどれとも違う、初めて見るフードファイターがそこにいた。第一段階から第二段階への突破が始まる。月野影月が辿り着いた領域から、月野神夜は月野玄武が存在する領域までもう一歩足を踏み出す。波動は衝撃波に変貌して空間を震撼させる。
月野神夜が、覚醒する。
その瞬間から、祢瑚美の記憶が途切れ途切れになる。それから先に憶えていることは、意識の隙間から流れ込んできたジャンボミートスパゲッティの味と、デビッドが水を一気飲みしたのを境にまるで食べなくなってしまったこと、ジークが何かを叫びながら食い続けていたこと、隣の月野神夜がそれに対抗して何かを叫んで同じように食い続けていたこと。たぶん、あれから祢瑚美は一皿くらいしかパスタを食っていないはずである。実際は一皿も食っていなかったかもしれないし、本当はもっと食っていたのかもしれない。しかしもう、何も憶えていないし何も思い出せなかった。
最後の記憶は、試合開始より三時間が経過した瞬間に、月野神夜が倒れたところで終わっていた。
◎
意識を失った月野神夜の腕を肩に回し、店を出て行く間際に振り返ってあの女が放った言葉が忘れられない。
――貴方には、大切な人がいないでしょ?
誰も、デビッドさえもがいなくなった店内は証明も落とされて薄暗く、ジーク以外の気配は微塵も感じられなかった。大量に積み上げられたパスタの皿の隙間から見えるジークはテーブルに肘をつき、組んだ手に額を預けて身動き一つしない。歯を食い縛る気力すらもはや底を尽きており、青空色に変色していた瞳は単なるブルーの瞳に戻っていた。
復讐劇の序曲は終わりを告げた。再び音色が奏でられる瞬間は、未来永劫訪れないのかもしれない。
「NEKOMI」が放った言葉だけが、頭の中で繰り返し繰り返し再生される。
――貴方には、大切な人がいないでしょ? ……だけど、この人は違う。大切な人や壊されたくないものがあるからこそ、ここまで頑張れたの。貴方のその這い上がって来た精神力は凄いと思う。わたしなんかじゃ到底追いつけないでしょうね。でも、それだけじゃこの人には勝てない。そんなことはもう、わたしに言われなくてもわかってるかもしれないけど、言わせてもらうわ。大切な人のために戦うのって、想像以上に辛いの。けど、だからこそ想像以上に頑張れる。貴方がもし復讐に囚われず、大切なものが何かを理解した上でこの人と勝負していたら、勝敗は違ってたかもしれない。たぶんね、この人はもう一度貴方が挑んで来てもちゃんと受けて立つと思う。貴方がまだこの人を戦いと望むなら、大切なものを見つけること。何でもいい。大切なものがある、ってだけで全然違うことなんだよ。……こんなこと言うのは変かもしれないけど、貴方ならできると思うよ、ジーク・クライヤー。
微笑みを浮かべて出て行った。あの笑顔が脳裏に焼きついて離れない。
自分自身が間違っていたとは絶対に思わない。だが、事実として方向を誤ったのかもしれない。言われてから初めて気づいた。フォーク・クライヤーがフードファイトの世界大会で五年連続覇者になれたのは、もしかしたら大切なものがあったからなのかもしれないのだ。フードファイトの最中に時折見せた、ジークに向けられた笑顔。あの笑顔の本当の意味を、ようやく理解した。フォーク・クライヤーにとっての大切なものとは、他の何でも、他の誰でもない、――ジーク・クライヤーだったのだろう。
ようやく歯を食い縛るだけの気力が湧き上がる。
己が不甲斐無さを呪う。
「…………Shit………………Shitッ!!」
振り上げられた拳がテーブルを叩く。
ブルーの瞳が僅かな青空色を映し出す。しかしその奥に宿る闇は、今は存在しなかった。
このおれにに助言をしたことを後悔しながら死んで行け。いいだろう、見つけてやろう。
絶対に見つけ出してやる。
その瞬間が、貴様らの最期だ。
――次こそは必ず、必ず、潰してやる……ッ!!
ジーク・クライヤーが、初めて見せる本当の笑顔。
大食い戦隊ガブレンジャー VS 大食いキングダム
月野神夜&祢瑚美 VS ジーク&デビッド
大食い戦隊ガブレンジャーが百九十皿。
大食いキングダムが百七十五皿。
勝者――大食い戦隊ガブレンジャー。
◎
幾度目かの振動で祢瑚美はようやく意識を取り戻した。
リムジンのふかふかの座席から伝わってくる振動は本当に僅かなものだったが、神経が研ぎ澄まされている今はそれでもかなり大きく感じられる。埃ひとつついていない窓から見える光景は見慣れたものであるはずなのだが、そこがどこなのかがどうしても思い出せない。記憶が混乱している。先ほどまで三時間というフードファイトをしていたはずの記憶が曖昧である。店を出て行く際に自分がジークに対して何かを言ったような気がするが、やはりどうしても思い出せなかった。
ただ、膝の上にある月野神夜の頭の重みだけがすべてを実感させてくる。
どういう経緯からこうなったのかはわからないが、とりあえず祢瑚美は今、意識の戻らない月野神夜を膝枕で寝かせている。何となくその頭を触ってみるのだが、坊主頭のシャリシャリとした感触がどこか気持ちよかった。こうして寝ていると本当に高校生なんだな、と感じさせられる。大人っぽい雰囲気だとか、祢瑚美を子ども扱いすることとか、今だけは全部忘れて、月野神夜を素直に可愛いと思えた。
窓の外の景色はゆっくりと後ろに流れて行く。それをひとつひとつ追いながら、ようやく祢瑚美は小さくつぶやく。
「……勝ったんだよね、わたしたち……」
記憶は曖昧だが、結果は残る。
最後の最後では、一皿しか存在しなかったはずの差は十五皿まで広げられていた。デビッドが食うことをやめてから祢瑚美は三皿を食べたのだが、残りの十二皿の差を築いたのはやはり月野神夜だった。鬼神のように食い続けていた、と中村が言っていた。あれはいつかの玄武様を思い出す姿だった、とも言っていたような気がする。
強かった、とつくづく思う。あれほどに強いフードファイターたちは滅多にいないだろう。だがそれを超越し、自分たちは勝利の旗を上げたのだ。今はまだ実感として残らないだろうが、時間を経れば徐々に理解できるはずである。自分たちは勝ったのだ、と。あの激戦を征したのだ、と。恐らくは誰にも語り継がれないフードファイトになると思う。だけどそれもいいのだ。影で行われた伝説のフードファイトがあった、という事実さえ自分たちの中にさえ残れば、それだけでいい。
無意識の内に、小さく笑っていたのだろう。
「――……嬉しい?」
いつの間にか意識を取り戻してた月野神夜にそう指摘された。
視線を膝の上に向ける。月野神夜はぼんやりとした笑みで祢瑚美を見上げていた。
「……まだ実感は湧かない。けど、やっぱり嬉しい」
「そっか。……祢瑚美に、お礼を言わなくちゃならないね」
「お礼?」
月野神夜は言った。
「ぼくを、助けてくれた」
それが何を意味するのか一瞬だけ悩んだが、すぐに理解した。
無我夢中だった祢瑚美が行った行動。記憶の断片に含まれている事実だ。
が、それを認めることほど恥ずかしいことはないので、祢瑚美はそっぽを向きながらぶっきら棒に、
「……何のことかわからないわ」
月野神夜は満足そうに笑う。
「いいさ、それでも。いつかまた、してもらうから」
「はぁ!? ちょ、あ、あんた馬鹿じゃないの!? ていうか起きたんなら早くどいてよ!!」
「ごめん、もうちょっとだけこのままでいさせて。楽だから」
そう言われて気持ち良さそうに目を閉じる月野神夜を邪険に扱うわけにもいかず、結局は何の反論もできないまま言われる通りに祢瑚美はそのままにしておくことに決める。
窓の外に見える景色がどこであるのかを、ようやく思い出した。祢瑚美が住むマンションから少しだけ離れた商店街だ。クソ長いリムジンを物珍しそうに見つめる周囲の視線が何気に痛い。これがスモークだからまだいいが、普通に向こう側からも見えるようになっていたら恥ずかし過ぎて死んでしまうだろう。これはこれで助かった、と祢瑚美は商店街を見つめ、その際に通りかかったパン屋に一瞬だけ意識を奪われる。瞬間に、思い出した。
あ。
そうだ。
「ね?」
その声に月野神夜は僅かに目を開けて、
「ん?」
祢瑚美は笑った。
「わたし、ウミガメのメロンパンが食べたい」
「……なに、それ」
「わかんない。だけど夢の中でわたしが言ったの、ウミガメのメロンパンて。あるかどうか知らないけど、それが食べたい。食べに連れてって」
月野神夜の顔にははっきりと「まだ食べる気か」と書かれていたが、やがて観念したように苦笑するのだった。
「わかった、食べに行こうか」
祢瑚美は天使のように微笑む。
「うん」
ウミガメのメロンパンを探しに、リムジンはゆっくりと方向を変えていく。
◎ ◎ ◎
『bP From:大量食物連鎖
内容:フードファイト開催!! さあさあ寄ってらっしゃい見てらっしゃい!! ルールは至って簡単だ!! この掲示板で出遭った相手をチャレンジャーと認定し、後は個人同士で開催場所を決定させて一対一のフードファイトを始めるだけ!! 細部のルールは互いの任意で決して構わないが勝敗は時間内に相手より多く食った方が勝ち、または「ギブアップ」と相手に言わせればそれでOK!! 勝った方は負けた方に全額奢らせることが完全無欠の掟!! これを破ったら最後、キサマを骨の髄までしゃぶり尽くしてやるから覚悟しておけ!! ていうかキサマが食われて死んでしまえボケナスがッ!! 腰抜けは帰れ帰れ死に晒せッ!!
さあさあ寄ってらっしゃい見てらっしゃい!! 大食い自慢のあなたには最高の戦場がここにあるッ!! 勇敢なる大食い諸君ッ!! ここは君たちだけの戦場であるッ!! 世紀末が過ぎた昨今を覆す正真正銘の世紀末を実現させようではないかッ!! さあさあ始まる始まるフードファイト伝説ッ!! 勇敢に戦う諸君の姿を楽しみにし、武運を祈る――ッ!!!!』
――以下省略。投稿件数増加に伴い、過去ログを配置。
過去ログを観覧したいお方は、上記の検索欄から検索してください。今現在の過去ログは2700ファイル存在し、1ファイルにつき一万件の投稿数が入っています。ただ膨大なファイル量に従い、3000ファイルを超えた場合には過去ログは一度すべて消去します。サイトを運営していくに辺り最低限のこととご理解して頂ければ幸いです。何かご意見がありましたら、管理人メールフォルダから連絡をください。
以下、最新投稿を掲載します。
『bQ3 From:ピーコピーコ 内容:ここの投稿件数ももう少しで3000万かぁ。多くなったなぁ。これもすべて管理人殿の管理能力がものを言っているのだろうか。この掲示板を利用させてもらっている立場として、感謝します』『bQ4 From:東芝 内容:本当にすげえよ。この勢いはどこまで続くのだろう。だがこの勢いは止まって欲しくない。故におれはフードファイトを申し込む!! 誰か勝負してくれ!!』『bQ5 From:マリア 内容:東芝さん、わたしもその意見に賛成です。そこで、あたしとフードファイトをしませんか? 連絡、お待ちしています』
『bP45 From:HIMEKOもどき 内容:知ってっか!? 「HIMEKO」がついに公式連勝記録塗り替えたらしいぜ!? この爆進劇はぜってーに止まらねえ!! 「HIMEKO」のファンとして、彼女が「NEKOMI」と再戦してくれることをただ望む!!』『bP46 From:新参挑戦者 内容:かぁー!! マジかよ!? 待ってろよ「HIMEKO」に「NEKOMI」!! 絶対にこのおれ様が追い越してやるかな!!』『bP47 From:小島 内容:……ま、まよねーず……マヨネーズゥウッ!!』『bP48 From:コオロギ 内容:bP47、こいつは……荒らし、なのか……?』
『bT82 From:レッド(大食い戦隊ガブレンジャー) 内容:初めまして。この掲示板では初心者の小学生ですが、誰か勝負してくれませんか?』『bT83 From:キラー 内容:小学生!? それが本当ならすげえけど、おれは手を抜かないぜ? それでいいなら相手んなってやるぜ』『bT84 From:夜屋 内容:レッドさんが本当に小学生なら手加減してあげてくださいキラーさん。大人げないですよ』『bT85 From:レッド(大食い戦隊ガブレンジャー) 内容:いえいえ、夜屋さん、心遣いありがとうございます。でも手は抜かないでくださいキラーさん。これはフードファイトなんですから』『bT86 From:キラー 内容:気に入ったぜレッド!! いいぜ、おれと勝負しようじゃねえか!!』
掲示板の投稿具合を見つめながら、彼女は笑う。
薄暗い部屋に立ち込めるカップラーメンの湯気と共に、パソコンのディスプレイの淡い光に照らされ、彼女は思うのだ。
――影月くん、手加減してあげないとダメだよ。
世代交代、と呼ぶのはまた違うのかもしれない。だけどこれから最強と謳われ始めるのは恐らく、この「レッド」だ。世界最強のフードファイターの息子にして、今現在フードファイト世界大会のチャンピオンである兄を持つ、サラブレッドのフードファイター。第一段階までならば完璧に才能を開花させた早食いのスペシャリスト・月野影月。やがてこの掲示板を独占していくであろう、猛者である。その前には何か困難が訪れるかもしれない。しかし影月ならば乗り越えられる。――君は強いよ、影月くん。
さて、と彼女は背伸びをする。カップラーメンの蓋を開け、割り箸を割りながら、実に幸せそうな笑顔を浮かべる。
彼女は、かつてこの掲示板で最強と謳われたフードファイター。
そのHNを「NEKOMI」という。
この掲示板は神野祢瑚美にとって、確かな楽園だった。
そうだ。
まさにそこは、
『NEKOMI Paradise ∞ ――楽園よ、永遠に――』
-
2005/08/03(Wed)19:59:56 公開 /
神夜
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■作者からのメッセージ
いつも以上の時間を費やしてようやく完結に導くことのできたこの【NEKOMI Paradise】。よくよく考えれば最初は『読み切り』だったんだよなぁ、でもいつの間にか普通の連載みたいな感じで『X』まで書いたんだよなぁ、当初は寿司八十皿ですごいと思っていたけど最後はパスタ二百皿だもんなぁ、化け物なんて次元じゃねえよなぁ、なんてわけのわからないことをつぶやきつつ、「ま、半ばコメディだし」と笑って吹き飛ばす駄目作者なのです。
そんなこんなで馬鹿みたいに長い【NEKOMI Paradise X 後編】+エピローグの【NEKOMI Paradise ∞ ――楽園よ、永遠に――】なのでした。最終章がなんでこんなに長いのかは神夜にもわかりませんが、これで見捨てた人が何人いるかもわかりませんが、それでも最後まで読んでくれた貴方様に最高級の感謝を。誠にありがとうございましたっ!!数日後に個々の感謝のレス返しを予定ですので、また覗いて頂ければ光栄ッス。あ、ちなみに京雅さん>ジークが六歳、というのは本当によく考えると微妙におかしいスね……時期を見て編集せねば(オイ)それと「引っ張り込んだ人数」についてですが、三人です。覚えていないでしょうが、デブリンにクソッタレに、ヘルデビルこと京二なのです(笑)
さてさて。次回作はやっぱり【姫神―ひめのがみ―】、巫女装束を纏った神様のお話なのです。
それではまたどこかでお逢いできることを願い、神夜でした。