- 『牛 鬼 17(最終話)』 作者:オレンジ / ファンタジー ファンタジー
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全角8792文字
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「重蔵か……もう一寸遅く来れば良かったものを。これでお前も殺さなきゃいけなくなったじゃないか」
源治の歪んだ眼が重蔵を見据えている。
あまりの事に、重蔵は身動きすら出来ない。目の前の情況を脳内が情報として受け入れる事を拒んでいるのだろうか。
息を切らしながらゆっくりと迫ってくる源治に、重蔵は思い切って問い質す。
「これは、お前がやったのか? 」
「……ああ、そうだ」
そう言い放つ源治の顔が少しだけにやけた様に、重蔵の瞳には映った。重蔵の脳内で何かが弾けるとほぼ同時に、彼の拳が源治の右頬を捉える。源治は、土間へと無様に倒れこんだ。前歯が折れ、口の中が大きく切れた。源治の唇に血の化粧が施される。
重蔵は、倒れ込んだ源治の襟首を掴み、その体を引起す。そして殺気を伴う視線を、源治の血に染まった顔面に注ぐ。
「うああああ――! 」
言葉にならない奇声を発し、重蔵はもう一度、一切手加減なしの拳で源治の右頬を殴りつけた。源治の着物がはだけて、その分厚い胸板が露となる。源治は、土間に再び倒されるが、その視線を一瞬たりとも重蔵から外す事はしなかった。
重蔵が、土間に伏せる源治に馬乗りになった。
その時――
「う、うわああっ、ぐっ、頭が……頭がぁ! 」
重蔵に押さえ込まれた源治が、突如自分の頭を両の手で押さえながら苦しみだしたのである。重蔵が放った、相手の全てを破壊するつもりの拳を受けても、声一つ挙げなかった源治が、いきなり苦悶の表情を浮かべ、悲鳴を挙げたのだ。重蔵も呆気に取られ、自分の体の下にいる幼馴染の悶える姿を見つめる事しか出来ないでいた。幼い頃から何度も拳を交えた仲ではあるが、源治がこれ程苦しみ悶えた所を重蔵は見た事が無い。
「あ、頭が……割れる!! 」
源治の額より少し上の髪の生え際あたりが、瘤でも出来たように左右対称にぽっこりと膨らみ始めたのを、重蔵はその目で確認した。その額の瘤は徐々に肥大化し、先の方が鋭く尖り始める。そして、遂には源治の分厚い額の皮を突き破り、乳白色の先の鋭く尖った角が出現したのである。更に成長を続ける角は、源治の頭上で禍々しくうねりながら太く鋭い凶器へと変貌していく。
額を押さえていた自分の腕をふと見てみると、それは既に人間の腕とはとても呼べる物では無い状態にあった。元来ごつい腕をしていた源治ではあるが、更に倍近く太さが増し、まるでたわしの様な獣の毛がわさわさと生えてきている。その剛毛も、絶えず伸び続けている様だ。指は更に節くれ立ち、爪も太く厚く鋭く伸び続ける。
その獣の様な腕が、ふと、禍々しくそそり立つ角に触れた。角が、自分の額から生えた物だと認識した源治は、重蔵に問いかけた。
「どうしちまったんだ、俺は……。なあ、重蔵、何が起こったんだ?俺はどうなるんだ?……お、俺は」
源治は、重蔵の瞳を見やった。その瞳は、今まで源治に対して投げかけられていた視線とは全く別物となって、源治の心を刺してくる。恐怖に歪んだ視線が。
「ひい、ば、化け物……! 」
重蔵は、思わず源治にそう口走った。
源治の意識が徐々に薄れていく。重蔵の発した『化け物』という言葉も、薄ぼんやりとしか認識できない。眠りに落ちる直前の様な思考回路の中、源治は叫ぶ。
「た、助けてくれ! 」
しかし、その声は既に人間の言葉では無かった。最早、人間には源治の言葉は理解出来ない。獣の吼える声が重蔵の家に響き渡るのみであった。
源治の発した咆哮に、重蔵が一瞬怯む。その時、獣の様な源治の腕が振り上げられ、その鋭い爪が重蔵の胸辺りを思い切り引っ掻いた。胸の肉がえぐれると同時に、重蔵は、馬乗りになっていた体勢から、体ごと飛ばされ土間に背中をしたたか打ち付ける。
源治が、重そうにその体を起こした。両手を付いて立ち上がると、その背は優に七尺を越え、正に頭が屋根を突き破りそうな程である。元々源治の身の丈は、五尺と一寸程で、さほど大きくは無かった。急激な体型の変化は、最早人間の領域を超越している。
その頃、松庵一行は、大滝家を発ち既に重蔵の屋敷を臨む事が出来る場所までやって来ており、源治の咆哮を、はっきりと聞き取る事が出来た。ただならぬ不安を感じた松庵は、重蔵の屋敷へと向かう足を速める。弟子二人がその後を付いて行く。肩を負傷した弟子も、必至にその後を追った。
やがて、松庵一行が重蔵の家の戸を潜り、そこで見たものは、地獄絵図そのものであった。胴を真っ二つに切断された、牛鬼の赤子と、その脇で傷を追ってしゃがみ込む重蔵と、腹の辺りを長刀に貫かれ、血の海に沈んでいるお松……そして、体中に剛毛を生やした巨体に、牛の頭をした妖怪。その頭には凶暴にひね曲った禍々しい角が生えている。どうやら、まだ妖怪には成りきれていない様だ。よく見ると牛の頭ほど鼻先が尖っていない。少しだけ人間の顔の面影がある。そして松庵は、その右頬に大きな古い傷跡がある事を確認した。
妖怪の咆哮が、唖然としていた松庵の腹に響く。
「牛鬼……! 」
松庵は、その禿頭に被った傘を投げ捨て臨戦態勢に入った。
「お師匠様! 」
弟子が声を張って松庵に戦術を問う。
松庵は、この惨劇の場面を一瞬見て、事態の凡そを把握する。殺された赤子が、殺した男の体を乗っ取っている最中なのだろう。お松の生死は此処から確認する事は出来ないが、お松がこの男(多分お梅の兄であろう)に殺されたのであれば、女の姿へと変貌する筈である。お松は、未だ生きている可能性がある。これは、予想になるが、お松を目の前で殺害されたと思い込んだ赤子は、長刀を持ったお梅の兄に襲い掛った。その怨念たるや、想像を絶するものであったに違いない。しかし、赤子は、無残にも胴体を真っ二つにされ肝を破壊されて死んでしまう。だが、その怨念は消える事無く、赤子の魂に宿り、お梅の兄を侵食しているのだ。牛鬼の赤子は、その心に怨念を張り裂けんばかりに内包させ復活を遂げようとしているのだ。源治と言う男の体を使って。
目の前で母親をなぶり殺しにされたのである。いくら、自分を一時捨てた親であったとしても、その恨みの深さは変わらないのだろう。魂にそれだけ強い怨念を抱いて復活をした牛鬼が、どの様な物になってしまうのか、松庵さえも不安を隠せない。
「お師匠様!ご指示を! 」
考え込んでいた松庵の心の中に弟子の声が響いた。
「朱雀でいくぞ、私の合図で左右へ飛べ」
松庵が、手に持った錫丈の先を土間に打ち付ける。しゃんと音が鳴り響く。その音に反応して、半ば牛鬼と化した源治が、松庵に視点を合わせた。
この『朱雀』とは、松庵とその弟子が戦う時に使用する陣形の一つである。弟子二人が敵の左右に位置を取り、強靭な縄によってその動きを封じ、松庵を正面から敵に向かわせる。その縄が広がった形が、古来から伝わる四聖獣、北を守護する鳥、朱雀に似ている所からそう呼ばれている。
左右から、牛鬼の動きを止め、松庵が正面からあの赤子に使用したものより強力なお札を貼り付け動きを完全に止める。そして、そのまま、どこか山奥に結界を作り、永久的に封印を施しておく。もう、そうするしか他には牛鬼の暴走を止める手立ては無い。
だが、松庵の心の中にはもう一つ最後の手段が隠されている。『相打ち』である。つまり、牛鬼を殺害して、その魂に乗り移られる寸前に自ら命を絶ち牛鬼の魂の行き場を失わせるのだ。行き場の無い魂は、やがて、何も出来ずに消滅していくのみ。古代の文献に記された、これが最も確実な牛鬼の倒し方であった。
しかし、その様な方法を選べる筈も無い。
源治の顔は更に変化を続ける。間もなく完全体となってしまうであろう。その前に何としてでも食止めたい。
「行くぞ、左右に散れ! 」
松庵の号令と共に、二人の弟子が一斉に跳ねた。
17
褪せた朱色の縄が投げ打たれ、牛鬼の四肢に絡みつく。松庵の弟子二人が、左右から縄を引き止める。牛鬼の動きを封じる力は、弟子二人の腕力のみ。家の柱などに縄を縛りつけようものなら、柱ごと牛鬼の腕力に持って行かれてしまう。腰を落とし、渾身の力で牛鬼の動きを抑える弟子達の姿は、頼もしい限りである。彼らがいなければこの度の行を成し得る事など出来ないだろう。お陰で、松庵は経文読みに集中する事が出来る。
松庵の高らかな声が響き渡る。
牛鬼は手足が広がり、無防備な腹と額を露にして吼え続ける。
袖口から、松庵がお札を取り出した。赤子の額に貼ったものより一回りは大きい。そして、すぐ傍に置いた荷物の中から、筆を取り出し、お札に何か描き始める。
牛鬼は吼えながら未だ抵抗を続ける。弟子達の腕にもかなりの負担が掛かっているに違いない。札を描き終え、読経を済ませて牛鬼の動きを封じるまで、何とか持ちこたえて欲しい。心配なのは、肩を負傷した弟子である。常人であれば、立つ事も出来ない大怪我を抱え、牛鬼の怪力と向かい合っているのだ。そこに少しだけ不安を抱く松庵がいたのである。
そして、その松庵の心配は的中したのだった。肩を負傷した弟子が、その痛みによってほんの僅かに腕の力を緩めてしまったのである。意識的に緩めた訳では無いのだろうが、人間の体としての極限状態で、体細胞が否応無くその様に反応してしまったのだろう。
牛鬼の腕が、勢い良く褪せた朱色の縄を引き寄せた。
弟子は、縄に引かれ空を舞う。縄から手が離れると、そのまま家の柱に背中からぶつかっていった。反対側で支えていた弟子も、その縄を牛鬼の両手で引き寄せられると最早為す術が無かった。漁師が船上から錨を投げ打つ様に、弟子の体は牛鬼の頭上で何度か振り回され、そのままもう一人の弟子めがけて放り投げられたのである。弟子は、負傷した相方にぶつからぬ様、空中で体を捻って、何とか激突だけは回避する事が出来た。しかし、その為に土間にぶつかる際受け身を取る事が出来ず、頭を容赦なく打ち付けたのである。弟子は、土間に大の字に身を投げ出したまま動かなくなった。
牛鬼の咆哮がさらに大きさを増し、松庵の五臓六腑に響き渡る。
松庵の愛弟子二人を片付け身軽になった牛鬼は、血走った眼を禿頭の退魔師に向ける。その視線に殺気を感じ取った松庵は、携えていた筆とお札を放り投げ、すぐ脇に置いていた錫丈を掴む。
錫丈を握る瞬間が、あと僅か遅ければ、松庵は牛鬼の凶暴な爪によって胴と頭を引き離されていたかも知れない。松庵は紙一重で、襲い掛かる牛鬼の平手打ちを錫丈で振り払う。その衝撃が松庵の手を痺れさせる。何と強靭な打ち込みだろうか。等と考えている間にも、牛鬼の次の攻撃が松庵を襲う。体に似つかぬ素早い動きである。痺れた腕を駆使して再び、牛鬼の攻撃を振り払う。錫丈を握られたら終いである。牛鬼の握力には到底敵うはずも無い。
牛鬼の攻撃は容赦なく続く。防戦一方の松庵は遂に壁際に追い詰められてしまった。
――強い。
退治してきた魔物は数知れぬが、一個体でこれほど強い魔物に出逢った事は数える程しかない。弟子もやられ、独りで戦うには手応えが有り過ぎる相手である。戦いの果てに『殉死』という結末が待ち受けている可能性が非常に高い事を、松庵は否応無く悟った。
松庵は、壁を背にしたままいちかばちか牛鬼との間合いを詰める。そのまま牛鬼の懐へ潜り込み、胸の辺りへ掌ていを見舞う。胸は、どの様なモノでも大抵急所である。案の定牛鬼の動きが少し鈍る。その隙に松庵は、飛び上がり牛鬼の頭上、その禍々しくうねる角を飛び越え、背後に着地した。松庵は、完全に牛鬼の背後を捕らえたのである。
牛鬼の肝の位置を確認して、松庵は錫丈を構える。最早、牛鬼を生かしたまま封印する事は敵わないだろう。ならば最後の手段を選ばざるをえない。松庵は、本業の為に命を落すのであれば本望である、と覚悟を決めて、牛鬼の背後からその肝の部分を突き刺した。
「きええぇぇい! 」
気合が口を付いて飛び出す。松庵の金色の錫丈が牛鬼の硬い背中の皮を突き破って、その体の中をえぐった。
牛鬼は首だけ振り向き、松庵を一瞥すると、次に背中に刺さった異物を確認する様な面倒くさそうな仕草を取った。
「効いていないのか? 」
松庵の脳裏に不安が過ぎる。再び松庵は、錫丈を持つ手に力を込める――が、しかし、牛鬼がそれより一瞬素早く背中に刺さった錫丈を握り締めたのである。牛鬼に握り締められた錫丈は、松庵がいくら力を込めようともびくともしなかった。体を全て預けても、牛鬼の体に刺さった錫丈はそれ以上沈み込む事は無い。
「しまった」
牛鬼はおもむろに背中の錫丈を引き抜く。松庵の手から錫丈が奪われる。牛鬼は返す手で錫丈を松庵に投げつけた。咄嗟に身を屈めるが、錫丈は松庵の右の皮と肉を掠め取っていく。その衝撃で松庵は、体勢を崩しその場に背中から倒れてしまう。
「ふ、不覚だ――」
牛鬼は松庵の胴体を跨いで立っている。最早逃げる事も出来ない。松庵は己の不甲斐なさを、牛鬼の血走った眼を見上げながら悔いた。あの錫丈の一撃、命を捨てる覚悟をしたつもりだったが、やはり何処かに迷いがあったのだろう。生に対する執着が己の腕を鈍らせたのだ。何とも情けない。死など恐れていない、と豪語した所で、自ら命を絶たねばならぬ段に至り己の奥底が怯えたのだ。自業自得か、まさか、かくも無様な最期を迎えようとは。
松庵の脳裏に溢れる程の追憶が駆け巡ったその時――
「源治……」
かすかな声が、牛鬼の背後から聞こえると同時に、牛鬼の腹から長刀の刃先がぬっと顔を覗かせたのである。長刀は、牛鬼の背中、丁度松庵が錫丈を突き刺して出来た傷から差し込まれ、体を貫通して無傷の腹の皮を突き破っていた。
牛鬼の背後に立つ男は、胸に深い傷を負った満身創痍の身ながら、力強く長刀の柄を握り締め、牛鬼の腹をえぐる。
「さらばだ、源治……」
牛の形をした頭を捻り、背後の男を見つめる牛鬼。再び、男の腕に力が加わり、長刀が食い込む。
「重蔵……」
牛鬼は、弱々しくも確かにそう口にした。そして、その口から真っ赤な鮮血を吐き散らしながら、がくりと地面に膝を落とす。男の手によって長刀が抜き取られると、牛鬼の巨大な胴体は静かにゆっくりと前方へ倒れていった。
松庵は、その巨体が倒れこむ寸前に身をかわし、牛鬼の下敷きになる事を免れた。
巨大な体を横たえて、牛鬼は完全に動かなくなった。開いたままのその眼には涙が溢れていた。その涙の理由を松庵はあれこれ詮索しようとは思わない。ともあれ、牛鬼と化した源治はここに絶命したのである。
重蔵は、返り血を浴びたまま変わり果てた幼馴染の姿を見下ろしていた。息を切らして、その人間とも牛ともつかぬ顔をただじっと見つめている。
「重蔵殿……」
――牛鬼を殺した者は、その体を奪われて牛鬼となってしまう――
次は、重蔵の番なのか……
松庵は、終わりの無い魂の不毛なやりとりを思い、辟易とする。しかし、重蔵が牛鬼に体を乗っ取られる前であれば、お札を使ってその動きを封じる事は可能だ。
松庵が、投げ捨てられた筆とお札を拾おうと身を起こしたその時『お待ち下さい』と弱々しい女の声が耳を掠めたのである。
「お松殿か? 」
自らの体から流れ出た血だまりに身を沈めながらも、お松の命の灯火は尚消える事は無い。急所である肝は未だ無事の様だ。牛鬼とは、どの様になろうとも肝が無事であれば決して死ぬ事は無いのだろうか。
「お坊様、お待ち下さい」
どうやら体を動かす事は出来ないらしい。壁を背もたれにしたまま、掠れる様な声で、お松は喋り始めた。
「お坊様、この先はどうか私にお任せ下さいませ……悪いようには致しませぬ」
「な、何を……?その体で一体何が出来るというのです」
お松は、その松庵の問いに答える代わりに、うっすらと微笑んで見せた。そして、お松は彼女の夫の名を呼んだ。
「重蔵様……重蔵様……」
自分の胸の傷口から流れ出る血と、牛鬼と化した源治の返り血でどろどろになった体のまま、重蔵はお松の呼びかけに反応する。
「重蔵様、どうか、私を殺して下さいませ」
「お、お松……」
「どうか、その刀で私の肝をお突きなさいませ。さすれば私は、あなたの体を使って蘇りましょう。そして、私とあなたは永久に一つとなるのです……さあ、重蔵様、今すぐ私を殺して下さいませ。早くしなければ手遅れになりましょうぞ」
思いもよらぬ解決方法に、松庵は雷を脳天に落とされた様な衝撃を受けた。これは正に、命掛けで連れ添うと決めた者同士でしか考え付かぬ事である。どう転んだとしても、松庵には考えの付かぬやり方だ。
「な、何という事だ……」
松庵は、思わずその場に座り込んでしまった。最早、これ以上自分が出来る事は何も無い。一体、自分はこの村に何をしに来たのだろうか?今まで生きて来た人生の中でこれ程自分が不甲斐ないと思った事は無かった。
長刀を携えたまま重蔵は、妻の目の前までやってきた。
「お松よ……」
「重蔵様……」
お松の腹を、長刀が突き刺す。夫婦は、向かい合い、まるで無邪気に泥んこ遊びをしているかの様に、血だまりの中で微笑みあっている。やがて、どちらからとも無く、顔を寄せ合い、血が滴る唇を重ね合った。やがて、お松の息が途切れるまで、昇り始めた朝日の日差しを浴びながら二人は接吻を交し続けるのであった。
*
「結局、あなただけが生き残ってしまった訳だ」
海岸は、真昼の日差しを受けてじりじりとそこにいる物たちを焦がす。高さ十尺を越える巨大な岩、牛鬼岩のすぐ脇で松庵の二人の弟子は、牛鬼の赤子と源治とお松の亡骸を埋葬する作業に従事していた。
お松は、砂がかぶせられていく自分の死体を立ったまま見つめている。不思議な物だろうと松庵は思う。先程までは、自分自身だった物が埋められていくのである。考えれば、考えるだけ頭がおかしくなりそうだった。
「皮肉なものですね。私はいつ死んでもいいと思っておりましたのに、懸命に生きようとした若い人たちは皆、亡くなってしまいました」
「そう、そしてあなたは、あなたの欲しいもの全てを手に入れた。最愛の男性も自分の子の魂も全てだ」
「お坊さまには感謝しております。……お坊様がいらっしゃらなければ、こうも上手くは行きませんでしたでしょうから」
海からの潮風が、お松の黒髪を靡かせる。お松は、松庵の方を振り向き歯を見せぬ様に微笑んだ。
「あなたの奥底にあるものは正しく『魔性』だ」
「魔性?でございますか? 」
潮風に、肩の傷が晒され松庵は少し顔を歪めた。
「一昨日、初めてこの場所であなたを見た時に気付くべきだった。あなたのその笑顔の裏にある魔性を……。あの時我が弟子達に諌められなければ、私もどうなっていた事か」
「何のことで御座いましょう」
「いつ死んでも良いと言うあなたが、最も生に執着している様に思えてならないのです」
お松は更に微笑み、くすくすと笑い声を零す。
「確かに、亡くなっていった方たちに比べたら私の方が『生きる事』に対する力は強かったのだと思います……ですから、こうしてお坊様も生きていらっしゃるのじゃありませんか? 亡くなっていった方々は、私よりも『生きる力』が足りなかっただけ、ただそれだけでしょう」
「……それが、あなたの魔性だ。やはりあなたも妖怪だったという事です」
「妖怪には、妖怪の生き方があります。人間には人間の生き方があるように。私は、牛鬼として命を全うしているにすぎません。何も魔性だなどと呼ばれる筋合いのものでもありません」
「これが、あなたの生き方なのだとしたら、私はあなたを滅さねばなりません。それが人間として退魔師としての私の生き方です。牛鬼は人を喰らって生きる妖怪。重蔵殿も結局はあなたに喰われた様なものだ。あなたが牛鬼として生を全うすると言うならば、私はそうするしかない」
錫丈を持つ手に思わず力が入った。
お松は、不意に松庵の方を向き直る。
「あなたに出来ますか?私を滅する事が……」
お松が、松庵を睨みつける。しばらく沈黙が続いたが、再びお松が喋り始める。
「今のお坊様では無理でしょうね……たかだか五十数年の人生経験では、私の足元にも及びませぬでしょう」
松庵の額には油汗が滲んでいる。お松は、そう言って、巨大な牛鬼岩を見上げた。
「この岩の下には、三百五十年の間の私の体が全て埋められているのですよ。……いわば、此処は私の墓場であって誕生の場なのです。お坊様、私はあとどれだけ此処に体を埋める事が出来るのでしょうね」
そう言って、お松はそのしなやかな手を口元へ運び、笑声を零した。
やがて、赤子と源治とお松の亡骸が弟子達の手によって完璧に埋葬された所を見届けると、お松は松庵に深々と頭を下げた。
「では、私はこれで。お坊様、あなたがこれからもこの様な生業をお続けになるのでしたら、再びお会いする事があるかも知れませんね」
「もし、その時は、私はあなたを必ず滅す」
お松は、潮風に髪を靡かせながら松庵に微笑む。
「どうぞ、お達者で」
お松は、きびすを返し、熱せられた浜辺の砂を一歩一歩踏み締めながら牛鬼岩の脇から旅立った。
松庵は、その後姿を見送りながら思う。
――既に私も魔性に憑かれたやもしれぬな――
浜辺は、穏やかな波音がひねもす時を刻み、海鳥達が我が物顔でその空に羽ばたいていた。
了
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2005/06/18(Sat)16:26:45 公開 /
オレンジ
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オレンジさんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
遂に完結しちゃいました、牛鬼の物語。ラストのシーンは果たして皆様納得していただけるだろうか。心配です。
反省点――とにかく実力不足!心理描写、構成の仕方、語彙の不足、もう何が何だか……。ちょっと、自分的に背伸びしすぎたかも知れません。
さて、今からは次回作の構想に入ります。
この作品に感想いただいた皆様、ゅぇさん、影舞踊さん、メイルマンさん、エテナさん、昼夜さん本当にありがとう御座いました。この作品の半分は皆様の優しさで出来ています!
皆様のご意見、ご感想、ご批判など、お待ち申し上げております。