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『濁世の英雄たち(5〜7)』 作者:天姚 / 未分類
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第五戦 猛将、成軍を恐れさせ、策士、天を恨む事



――復興の為だ
――事が露見する前に、私を殺せ
――父上……?


……光の帯が交錯する。
「う……」
 急に目を開いたためか、瞳に痛みが走った。再びおずおずと瞳を開け、回りを見渡して見ると、辺りには一目で十舎(野戦病院)だとわかる薬棚と、独特な薬草の匂いが、立ちこめている。
 視界を窓に移せば、空は青の衣を背景に、大きな白雲が陽を避けてふわりと浮いていた。窓からわずかに覗く木には鳥の姿はなく、ただ、ピィピィと鳴く声が、折から吹く風に乗って、聞く者の耳を震わせる。
「…………」
 その時、体の下から何かがせり上がって来た。
「璃由、だいじょうぶ?」
「……天奈か」
 まだ意識が定かではないが、彼は声で認識した。逆光でいまいちよく分からないが、眉をひそめているように見える。璃由はゆっくりと記憶を呼び戻すと、不意に胸に痛みが走った。その痛みが全ての記憶を捕らえた。
「感謝してね」
 椰希の声が聞こえる。
「私が助けたの。ま、あなたの運もよかったんだけどね。撃たれた時の風向きと……これ」
 と差し出したのは、茶色い物体。見覚えがあった。
「特製凱挌焼きよ、これに守られたみたいね」
 それは中央に大きな穴が開き、無残にも中身の餡が飛び出ていた。出発の際、手渡されて懐にしまっていた事を、すっかり忘れていた。
「鏡や、お守りで九死に一生を得た話なら聞いたことあるけど、お菓子に救われたとはね」
 それを見た天奈の反応は、やはり常人とは違った。
「あ〜 食べなかったの?」
と、目を丸くした。
「そのおかげで助かった……ありがとう」
 天奈は照れながら、体をくねくねしている。
「胸をちょっと切っただけだから大丈夫だって」
 すぐに前線復帰ね、と付け足してニヤニヤする椰希自身、あれほどの乱戦であったにもかかわらず、見たところ目だった外傷は無かった。璃由も曖昧に笑って見せたが、ふと思い返して、
「ところで、生き残ったのは?」
と、訊ねた。
「私たちを含めて、五人だけ。みんなよく頑張ったわ」
「そうですか……」
 璃由は理山の方角を向くと、静かに祈りをささげた。
「璃由、気付いたか」
「白最様」
 十舎へと入ってきた彼に、璃由は半身を起こして、頭を下げた。
「椰希から聞いたが、かなりの活躍だったようだな。そのおかげで、理山奪還に成功した。礼を云うぞ。そこで、此度の功を陛下に上奏して、黄金一万と、官位を贈ろうと思うのだが」
しかし、璃由は頭を振った。
「ありがたいお話ですが、私は立身出世を望むものではございません。どうぞ他に功のあったものに、お与えください」
「では、何か他に望みはないか?」
 そういわれ、璃由はちょっと考えた後、
「それでは、この度の作戦で戦死した勇士たちの遺族に、その黄金一万を分かち、お渡ししていただければ……」
 白最は、その心に感心し、そのように致そうと、約してくれた。ひとしきりの会話の後、岳礼が入室して、白最の耳元で何事かささやいた。白最は軽く頷くと、
「では私はこれで」
 と、十舎を後にした。

 本営に入ると、困惑する上将たちが、白最を迎え入れた。座に着くと、彼の目の前には、自ら手に縄をかけた王韓が跪いていた。白最はじっと見下ろしていたが、やおら兵に命じて縄を切らせた。怪訝な顔つきをする王韓に対し、白最は云った。
「将軍に、謝らねばならない」
 王韓はさらに不審な面持ちで、白最を見上げた。文嶽も去梨も、彼が何を云わんとしているのか、わからなかった。
「貴方を欺いていた。その事です」
「一体何のことだ?」
 白最はかまわず話し続けた。
「私自身、若くしてこの大任を授かれば、内心不服に思うものが、出てくるであろう事は分かっていた。しかしそんな状態では、敗北は明らか。何としてでも、不服に思う者を従わせなければならなかった。さりとて、私には残虐なことはできない。そこで、わざと将軍を奮起せしめ、敵を欺く策を取ったのです。もとより、将軍があのまま軍を動かさずにいれば、京紗は怪しんで、理山の奪還はできなかったでしょうが……」
 王韓は、誇り高い人物であったが、自分が認めた人物に対しては、敬意を払う。彼を従わせるためには、実力を認めさせることが一番である。白最はそう考えたのだ。
包み隠さず、全てを語った白最に対し、王韓もその胸中を吐露した。
「……正直やり方は気に食わん。だが、その才気、信じるに足るものであるということが分かった。若輩というだけで、能力を正しく見ようとしなかった己の不明を許してくれ」
と、白最に頭を下げた。白最が手を差し伸べ、王韓を座にすわらせた時、一つの悲報が飛び込んできた。
「蓉比城陥落! 璃新様は、討ち死になされました!」
 その報であった。璃新は、夜朱の猛攻に、兵のほとんどを討ち取られ、それでも必死に防いでいたが、ついに援軍を待ちきれず、自ら打って出て、乱戦の中、命を落としたのである。蓉比城が落ちたとなれば、経山城への攻撃はますます厳しくなる。
「事は急を要する。即刻手を打たねばなりますまい」
 文嶽の言葉に、白最は大きく頷いた。再び座を立つと、よどみなく、全軍に命を下した。部下の一将、布絃と去梨に兵一万を与えて、理山の死守を命じ、文嶽には、
「蓉比城攻略をお願いしたい。しかし夜朱は天下随一の猛将といって、はばかりなく、これを追って城を手中に収めるのは、容易なことではない。……ここに三策用意しました。状況に応じ、どれを使うかはお任せします」
「承知した」
 文嶽は、三策の入った袋を手に取り、一段と頼もしく見える、若き将軍の命に従った。
璃由は、芙原(経山城の南に広がる原野)へと向う白最に従い、先生を助けたかったが、立場上そんな事ばかりも云っていられず、蓉比城攻略に参加することになった。その日のうちに陣を出ると、羽英、天奈と共に、馬上の人となり、蓉比城の道のりを進んだ。
「璃由、あんまり無理しないでね」
 と、羽英は心配をしていたが、傷はまだ完全に癒えていないとはいえ、もともとさして重症ではない。「大丈夫です」そういって、胸を叩いた。
璃由はそれよりも、気がかりな事があった。その行軍の最中、彼はその事を、椰希にたずねた。
「……椰希様、蓉比城を襲った夜朱とは、いかなる人物ですか?」
「私も詳しくは知らないけど……」
と、前置きを入れ語るには、
 百虎将軍、夜朱。どういう経緯で礼の軍隊に入ったのかは不明。彼女の名を一躍轟かせたのは、安(十四国の一つ)での戦いである。一兵士として参加した夜朱は、敵の猛撃に恐れおののいて、退却しようとする上官を刺し殺し、単騎で五万の大軍に乗り込み、敵総大将を討ち取るという、空前の大功を立てた。その功で一度は城主に任じられたが、無闇に民を殺傷したため、解任されている。
その後も鬼神の働きで度々功をあげたが、持て余されていたのか、出世はできずにいた。しかし、凱華はそんな彼女を重用し、戦場には常に自分の身辺に置き、従わせた。それからは、凱華の忠実な家臣となり、その鬼神の力を縦横に発揮している。
「ま、戦場であったら逃げることね」
 という言葉で、話をむすんだ。

翌日には、白最も残った全将兵を率いて、粛々と芙原へと向った。王韓を先陣に、成軍の旗を風になびかせ、武器は陽の光をまとう。整然とした隊列からは、一人として恐怖の色を感じない。彼自身、存亡をかけた決戦へと向うのに、心は不思議と穏やかさを保っている。その瞳には、どこまでも続く、青い平原が映るばかりであった。



「では、凱華は援軍を待つつもりはないのだな?」
「御意」
 南方の、鮮やかな華に彩られた露台に、若い皇帝の声音が響く。彼は文慶を目の前にして、顎に手をやり、「さても困ったやつだな」と、別段怒った風でもなく云った。
「陛下より、東北武軍大将として北部戦線の一切を任された上は、勝利のため、戦場にいる自分を信じていただきたいと、申しております」
「それは、凱華の言葉か?」
「はっ」
「なるほどな、凱華はよほどの自信があると見えるの」
 参謀の希隆は、蘭義帝の傍らで冷やかな眼差しを、跪く使者に向ける。そして、
「文慶、すでに凱華は、軍を動かしたな?」
 と、鋭く問うた。
「……臣は凱華の言葉を、お伝えに参った使者にすぎませぬ故、斯様な事は存じ上げませぬ。ただ、戦場とは刻々と変わりゆくものでありますので、或いは陛下の御意のないままに、已む無く軍を動かす事はあろうかと」
「白々しく云うものよ」
 嘲笑う希隆に対して、文慶はたじろぐ様子もなく云った。
「凱華は、決して私利私欲を持って、戦っているものではございませぬ。もし、陛下の御意に逆らったとしても、それは自らの権威を誇張するためではなく、全ては帝国の勝利のためとお思い頂きたい。この度、策がなり、成軍を地上から追い払うことができても、今以上の地位を望むものではないと、凱華自身申しております」
 希隆は笑いを収めた。
「そこまで勝利にこだわるのであれば、よもや人選に誤りはないな?」
 希隆は暗に、殊叡と誡偉について云ったのである。これに対して文慶は、
「楚受も、獅子吼に口をつぐむとか……」
 と、切り出した。
 楚受(そじゅ)とは、古代の王宮に使えた文官である。彼は宰相という高位にあり、雄弁家として知られていたが、華成(かせい)という新参者にその地位を奪われ、大いに含むところがあった。一日、楚受は大討論会の場で、華成を論破し、恥をかかせてやろうと思い立った。実は、この討論会は皇帝が密かに開催したものであった。帝は楚受、華成両名の才能を高く評価していたが、しかし、この二人が対立していては、国のためにならない。そこで一計を案じて、敢えて二人を戦わせる事にしたのだった。そうとは知らず、楚受は打ち負かす自信に満ちて、座についた。
ところが、華成は論者たちに対して、正論をもって次々と説き伏せ、楚受自身も彼の雄弁の前に、ついに口をつぐんでしまった。その夜、華成は帝のすすめによって、わざわざ楚受の宅を訪れ、互いに包みないところを話し合った。楚受は料簡の狭さを恥じて、以後華成に逆らうことはなかった。

「凱華は、敢えて殊叡に真城攻略を命じましたのは、勿論この攻略に成功すればよし。仮に敗れて帰ったとしても、ここで誡偉と一戦せしめたことで、得られる成果は大きいと考えたからであります」
「殊叡の心の靄を取り除き、以後命令に服させるということだな?」
「っは」
 蘭義帝は皮肉交じりの笑みを見せながら云った。
「朕も凱華に対し、同じことを考えておった。成を滅ぼせばそれでよい。負けて帰れば、今後は朕の考えを無碍にはしまい?」
「恐れ入りまする」
 文慶は帝の言葉を良し、と聞いた。

 さて、その帝を困らせる当の本人は、経山城での敗北。理山からの撤退と、立て続けに敗報を受けていた。凱華の機嫌が、良い筈もなかった。
「凱華様」
 という普鴎の声にも、彼女は別に振り向きもせず、報告を促した。
「どうやら統史は総指揮官を辞退し、別の人物を推薦したようです」
「誰だ?」
「白最という青年将校です。官は参尉。統史の弟子でもあります。理山攻略後は、その地に一万の兵を残し、兵を二手にわけ、一つは蓉比城に、もう一つを自らが率いて、こちらに向っております」
凱華は後ろを向いたまま、しばらく黙していた。
「伝戎は、この事を知らなかったのか?」
「さぁ、そこまでは……」
 凱華は、伝戎を怪しんだ。先ほど届いた彼からの手紙には、援軍の要請に対して、悪天候のため大幅に遅れる旨を伝えてきていた。
「…………」
しかし、今は目の前の問題が最優先であった。
「蓉比城に増援を送らねばなるまい?」
 その問いに、普鴎はよどみなく答えた。
「京紗殿に一軍を与えて、援軍に当てるべきかと」
 凱華は、敗走してきた京紗を許していた。元より彼女自身、援軍は京紗しかいないと考えていたが、敢えて普鴎に彼の名を上げさせたのであった。その場にいた京紗に命を下すと、「二度はないぞ」と念を押し、出立させた。再び静まり返る幕舎で、凱華はぽつりと呟いた。
「白最、目障りなやつだな。……除かなければ」
 彼の才能を早くも見抜いた凱華は、報告書を何度か読み直す。と、一人の人物の名が目に止まった。
「我が計なれり」
 と言うやいなや、座を立つと、自ら筆を取り一文を草した。
「いかなる計を立てられましたか?」
 その問いに、凱華は書き上げた文書を普鴎に見せた。さすがは凱華の片腕として名高い彼の事。その文を見ただけで、すぐに合点した。
「ではさっそく」
 一礼して本陣を出た彼は、熟練の忍びを呼び、その一書を持たせて放った。その姿は忽ちにして、闇夜に溶けた。



 血なまぐさい臭気が漂う。流石の天奈も先ほどから、馬の背にうずくまり、おとなしくなってしまった。羽英が、その背を優しくさする横で、璃由は蓉比の地を見渡していた。

 ――蓉比は、成、礼との国境に位置する一拠点である。その歴史を見てみると、真に数奇な運命をたどっている。かつて呪われた王朝、法が地上を支配していた時代、蓉比は北東随一の都市であった。やがて宮廷が求心力を失い、各地で叛乱が相次ぐ、群雄割拠の時代に突入すると、法は都をここに移した。数年後、法は勢力を盛り返すべく、極東の国、成を全力で攻めたが、当時、成の西域諸城を統括していた統史によって、退けられた。
この敗北で、法は財政、軍事力ともに、急速に弱体化していった。結局その後は、成に攻め込まれ降服。皇帝一族はことごとく処刑され、法はここに滅亡した。これにより、蓉比は成の物となったが、それも長く続かず、礼が侵攻すると、成は蓉比を捨てた。そして今また、蓉比は璃新を追った礼の大将夜朱によって、占領されていた。
 
そんな蓉比の地を眺めるもう一つの目は、しかし璃由のまなざしと異なり、険しく、憎悪に満ちていた。椰希は苦々しく云う。
「かつての呪国、法の本拠地か。近づくだけでも、忌々しい記憶がよみがえるのに……今では礼と成にとって、重要な拠点の一つ。こんなところを取り合うなんて、皮肉ね」
 椰希もまた幼い頃、法の兵士に、目の前で両親と祖父を殺されていた。それも至極むごい方法をもって。憎悪をこめたその言葉に、璃由の顔から血の気が引いた。
……実は、ここ蓉比こそ、彼が生まれ育った場所だったのだ。もちろん璃由は、成に亡命してからこの事を知った。そして、自分が逃れなくてはならなくなった、あの事件の事も、知る事になった。
 璃由の父である慶蘭は、文武両面に秀で、性格はきわめて剛直。兵家の道にも明るく、兵の信頼も厚かったという。後、蓉比の城主となって、成の侵攻を度々退けた。礼では名将といってはばかり無い人物であった。さて、あの事件のことであるが、成でも誰もが知る噂となっていた。即ち、慶蘭が城主となって十年あまり後、彼は突如として、礼に対し反旗をひるがえした。理由は今もって不明だが、噂によると、慶蘭を快く思わない一派による、謀殺未遂が原因とも云われている。
ともかく、慶蘭は兵を挙げ、密使を成に送り寝返りをはかった。成もこれを受諾し、援軍の準備を始めた。ところが三日後、事は一変する。慶蘭が死んだのである。この理由も世間の知るところではなかったが、指導者を失った反乱軍は、礼軍の夜襲を受けて、一夜にして降伏。成は当然、援軍派遣を中止した。
その後礼は、慶蘭の一族郎党を捕らえ、ことごとく処刑した。一人、璃由を除いては。これが、璃由が亡命した事情であり、世の人々は、この事件を蓉比事変といった。
 璃由が礼の将軍、慶蘭の子であるという事を知っているのは、珀だけであった。天奈にも、羽英にも話した事は無い。そして、彼は成へと逃れてから今日まで、この地を踏むことは無かった。今まさに、その大地を踏みしめながら、彼は思うのだ。
幼少の頃を過ごした場所。今その場所に自分は立っている。しかし、まったくの感動も、懐かしさもこみ上げては来ない。当然だ。私は、城から一歩も出たことは無かった。思いでもほとんど無い。何も知らずに育ち、かつて法の都であったことも、知らなかった。
ぽつりぽつりと、考える彼の瞳には、道の片隅に咲いた真紅の花が、目に止まることは無かった。

 文嶽は、蓉比城から一里離れた地点に、陣を張ると、幕僚を集めて方針を決める事とした。その席には璃由もいる。文嶽も、先の潜入作戦以来、彼を高く評価していた。 まず、岳礼が口火を切った。
「蓉比城の守備は、夜朱を首座にすえ、兵三万を擁しております。更に増援として京紗が一万余騎を率いて、この地に近づきつつあります」
「ならば、援軍の入城を阻まなくてはなるまい」
 文嶽の声に、椰希が自信をおもてに表して云う。
「臣に五千の兵を、お与え下さいますよう。必ず京紗の首を取り、閣下の御前にお添えする事をお約束つかまつります」
 しかし、文嶽は難儀を示した。
「京紗は、智謀に優れた将である。また彼には先の失敗もある。よもやむざむざと討たれるとも思えぬが……」
その時、岳礼は思い出した。
「閣下、お忘れではありませんか? こちらには、白最様の三策があることを」
「おぉ そうであった」
 文嶽はすぐに袋を取らせて披見すると、
『蓉比城に到着する頃には、凱華の援軍が近づきつつある筈である。これを率いるのは京紗か、もしくは、連歩であろう。これを処理し、蓉比城を攻略するための策は――
ひとつ、彼らは、知勇兼備の名将であるゆえ、これの入城を阻み、攻撃することは、逆に敗北の憂いにあう恐れがある。ここは、敢えて入城を観望し、しかる後に蓉比城の攻撃を開始する。
ひとつ、今より蓉比城を強襲、包囲し、援軍との連携を未然に防ぐ。
ひとつ、援軍は急をもって攻めてくるゆえ、伏兵を調べる暇がないと思われる。そこで、部隊を三手に分け、一つを東の茂みに、一つを西の沼地に埋伏させ、更に一つは堂々と正面に布陣させる。この策をもって、援軍を打ち破った後、蓉比城の攻略を行う』
文嶽は読み終わった後、
「上策、中策ともに多大な兵力と時間を要する。下策にいたそう」
と、決めた。



「はて? 成軍はどのような策をとったのか?」
 蓉比城付近に到着した京紗は、成軍の姿が見えないのを怪しんだ。更に駈けること半里、ようやく成の旗を押し立てた一団を発見した。京紗は、不思議と安堵感を覚えた。敵が見えない事ほど恐ろしいものはない。その一団から、一人の騎乗の人が、進み出て、
「京紗! 貴様は、先の一戦で散々に打ち破られ、逃げ帰ったのにも関わらず、まだ懲りずに軍を率いて恥を晒しに参ったか!」
 と、罵倒した。それを受け、京紗は哄笑した。
「誰かと思えば、文嶽ではないか……成の名将軍ともあろうお方が、この度は白面朗の下に甘んじたばかりか、一手駒として、この私に首を差し出すとは、哀れなり」
 文嶽は、その言葉を聞くと、逆上した呈を見せ、全軍に突撃を命じた。礼軍は長躯し、疲れ果てているとはいえ、京紗が指揮を取れば、魔力に取り付かれたかのごとく、勇気を奮い、成軍に挑みかかった。半刻の激闘の末、文嶽はいかにも猛攻に耐えかねたように、退却の合図をすると、礼軍も勢いに乗じて、それを追った。しかし、京紗は、
「まて、追っては成らぬ!」
 と、兵士の動きを止めた。部下の一将の斗門が、その訳を問うと、
「おそらく、文嶽は我らをわざと誘き寄せて、伏兵を持って破るつもりであろうが、その手には乗らぬ」
 斗門は、上官の慧眼に舌を巻き、蓉比城へと道を急いだ。しかし、成軍の策は巧妙を極めていた。
蓉比城の影が見え、安堵したその時、突如として東の茂みに喊声が起こった。その先頭にあるのは、椰希であった。
「いさぎよく、降れ!」
「おのれが!」
 伏兵の看破を逆手に取られ、狼狽する京紗は、一瞬迷ったが、本陣に帰れば、自分の命はない事は明白であった。ここは、蓉比城に奔るべきだ。そう思考を巡らすや、
「遮二無二蓉比城へ走れ! 蓉比城へ行けば助かるぞ!」
 その声に押され、礼軍は、敵の一端を破り、南へと奔った。ところが、ものの十町も走らぬうちに、今度は西の沼から岳礼率いる成兵が湧き上がり、京紗の軍をさえぎった。更にまた、後方からは、軍を返した文嶽が、その退路を絶った。
「今はこれまで!」京紗がそう覚悟を決めた矢先であった。恐れていた事態が、成軍を襲った。突如として蓉比城から、守将夜朱が率いる一軍が、猛虎の勢いで乱入してきたのである。鬼神と称される夜朱に襲われた成軍は、何でたまろう、あっという間に、形勢は逆転し、夜朱が戟を振る所、血が虹を架け、成兵は蜘蛛の子を散らすように、逃げ出した。
激闘する事一刻。夜朱は京紗の入城を確認すると、あの薄ら笑みを浮かべ、何事もなかったかのように、兵をまとめて引き返していった。
 岳礼の部隊にいた璃由は、初めて夜朱の姿を見た。容姿は子供そのものだが、橙色の服に、両端に鈴のついた同色の帽子。その合間から除く白銀の髪。おおよそ人間の持ち物とは思えぬ、朱に満ちた巨大な戟を、軽々と片手で持つその姿は、まさに鬼神といって相違ない。
 成軍に重い沈黙が流れる。成兵は皆、夜朱の噂を聞いていたが、実際に戦ったのは、これが初めてであった。ただ一戦で、成兵全員に恐怖を植え付け、悠々と去っていく。その彼女の後姿を、誰も追うことはできなかった。璃由の傍で、岳礼の感嘆の声が聞こえる。
「噂には聞いていたが、あれほどの人間がいるとはなぁ……」
 椰希もまた、
「彼女を追い払わぬ限り、蓉比城は落ちないか」
 と、絶望した。
 一陣の風が運ぶ、血の匂いが、璃由の鼓動を高鳴らせた。



「凱華様、成軍が芙原に展開中です」
 前線の将が入出してきて、そう報告した。
「愈々来たか……」
 凱華は、座から立ち上がり、幕舎に連歩を招いた。彼が一礼して、凱華の前に、かしこまると、
「五万の兵を授ける。白最に当たれ。但し、こちらの合図があるまで、軽々しく打って出たり、敵が攻撃してきても、陣を堅くし、決して応戦してはならぬ」
そういい含め、芙原へと向わせた。彼が下がると、傍らの普鴎に、静かに伝える。
「さて、こちらも、攻撃を再開しようか」
「はい」
 凱華は、馬を引かせ、陣頭へと進んだ。彼女は生涯、戦場においても重鎧をつけず、寸鉄も佩びなかった。馬も裸馬に乗り、余計な装飾や、従者も一切つけなかった。
 「甲は、心を防がず」
 つまり、鎧は戦場において、矢や剣を防ぐが、心までは防いではくれない。そこからも、彼女の戦に対する姿勢が見える。
 凱華が、先陣にたつと、一斉に軍鼓が打ち鳴らされ、それに合わせて礼兵の武器もなる。その音は、城壁の上にいる珀の耳にも届いた。その側には、法轟の姿もある。
「全員城壁に上れ! 戦闘準備! 砲も何時でも発射できるようにしておけ」
 法轟の勇ましい掛け声をよそに、珀は敵総大将凱華の姿を追っていた。
「なるほど、確かにあれは一代の英傑だの。……さてさて、この田舎翁が、どれだけ凱華の頭脳を煩わせる事ができるかな……?」
 別に笑うでもなく、戦場の翁は、そう云った。
 やがて、礼軍から音が消えた。世界中の、全ての音が消え去ったようにも思えた。風が吹き抜ける。一瞬の静寂の後、礼軍は一斉に歓声をあげつつ、四方から城壁へと迫った。その数十万。それに対し、成軍二万が応戦する。両陣営から天の光をも遮る、黒い驟雨が飛び交う。
その中を礼兵は、大盾をかざして、突き進んだ。一人が矢に貫かれ斃れても、後ろの者は、その肉を踏み、前進する。巣車を押し、梯子を架ける礼兵に対し、火矢をいかけ、或いは鋭い針の付いた板を落とす。頭から血を噴出し、仲間の頭上へ転げ落ちる者、火矢を顔面に受け、悲鳴を上げる者もいた。
しかし何様、礼軍は大地をも埋め尽くす大軍である。兵が怯んだと見た法轟は、怒鳴りつけるかわりに、危険を顧みず、自ら槍を掲げて、よじ登る礼兵を次々と刺した。それに励まされ、兵たちも勇気を奮い、梯子を落とし、巣車を突き崩す。この激しい攻防戦は、夜になっても続けられ、かがり火の下、成兵が、砲から撃ちだされる、炙った飛礫を受けて、悲鳴をあげれば、礼兵は、矢を胸に受け、梯子から転げ落ちる。
「おかしい……」
その光景をじっと眺めていた珀に、不吉な予感が襲った。礼の攻撃がいささか急すぎる、その事であった。あの武神華が何の策もなく、ただ、力押しの戦法を取るとは、考えられなかった。それも昼夜を問わずの猛攻撃。
「兎を追って、闇に罠を仕掛ける……」
 自分なら、どうするか。どんな罠を仕掛けるか。珀は、闇の中に、目を凝らした。しかし、礼の陣内に不穏な動きは見られなかった。
「統史様、お下がりください!」
 その声に、ふと我に返ると、目の前には既に一矢が、珀を捕らえていた。
「む!」
 珀はその矢を右肩に受け、思わず仰け反った。
「統史様! 大丈夫ですか!」
近づく法轟を、声で押し止めながら、
「なに、肩に穴が開いただけだ。目覚ましには、些か痛いがね。それよりも、貴方は兵の指揮を」
法轟は、珀の意を汲むと、十白(軍医)に後を任せ、再び城壁に立った。
「援軍はすぐ近くまで来ているぞ! それまで耐え抜け!」
 やがて、東から陽が差し込み、大地に色がついた頃、珀は、まだ傷の癒えぬ体を引きずり、城壁へ上った。と、彼は敵本陣を見て、なお、その顔を蒼白にした。昨日より、明らかに敵の数が減少している。
――まさか
珀は、まだ暗がりが残る、北の大双に目を向けた。断崖絶壁のこの山脈に、礼兵の姿を見出すのに、さほどの時間はかからなかった。あれほどの絶壁を、敵を目の前にして登るとは、流石の珀も驚いた。それは同時に、礼兵の士気の高さと、屈強さを意味する。 
まもなく、山の上から、礼兵は容赦なく矢を浴びせかけ、進入を阻む成兵を次々と射抜いた。礼兵のいる地点から、城までの距離はおよそ三町。普通の弓では、到底到達できない距離だが、凱華はこの部隊に、最新鋭の弩を惜しみなく与えていた。意外なところからの攻撃に、成す術もなく、次々と斃れていく兵たち。
「拡散しろ! まとまればいい的になる!」
法轟の命令は、全く理にかなった事だが、しかしこれが結果的に、北城壁の防御を甘くする結果となった。その隙を突いた礼兵は、続々と城壁の上に到達し、成軍に襲い掛かった。
「いかん! 北の城壁を守れ!」
 珀の言葉にも、兵の動きは鈍かった。北へ向えば、弩の餌食になる。それが明白である以上、積極的に動くものなどいない。法轟も無念の臍をかんだ。
 もしこの時、天をも揺るがす暴雨が、大地に降注がなかったならば、或いは経山城は落ち、成の命運も尽きたであろう。
 はたして、その内の一滴が珀の肩の傷に滑り落ちた。ずきりと痛み、思わず顔をしかめたが、
「……!」
 それが雨だと知ると、彼はしかめっ面を彼方になげ出した。
「天佑!」
 濡れて痛む傷口をふって、さっと天を仰ぐと、天助の雨音は耳を劈くばかりに、益々強くなった。
 元々、経山城周辺の地は弱い。この雨によって、大地は大いにぬかるみ、城攻車は進まず、兵の歩行もおぼつかぬ有様。大双からの攻撃も困難となった。
 この報を受けた凱華の思いは、改めて云うまでもないであろう。まさしく、成にとっては、慈雨だが、礼にとっては、淫雨そのものであった。凱華は再び攻撃を中断せざるを得なかった。


第六戦 竜虎相打ち、璃由混沌に堕つる事



去梨(きょり)は、成でも指折りの名家の出である。父は現宰相の羽聞。幼くして書に親しみ、大学を主席で卒業。その後、宮廷に入り僅か四年で階級を三つ飛び越え、大法司(外務大臣)となった。親の七光りと陰口を叩くものもいたが、彼女自身の才能もあったからである。
しかし、今回の遠征は内心不満だらけであった。家柄・地位を考えれば、自分が総指揮官に任命されてもおかしくなかった。それが、白最に奪われ参軍の地位に落とされたばかりか、今はこうして後衛の拠点の警備に回されている。だが、彼女は王韓のように、思ったことを何でも口に出す人物ではなかった。

 今、去梨は兵が掲げる雨除けを、憂鬱そうに眺めている。風に運ばれて衣を濡らす雨。それを煩わしげに扇ではたいた。
「この上雨とはな……」
そんな事を呟いていた時、警戒に当たっていた兵の一団が馳せ戻って、ひとりの忍びを捕らえたと報告をした。
「ふむ、ここにつれてきなさい」
 戦場に来て、まだ然したる功を挙げていない去梨である。ここで何か有益な情報が聴き出せれば、それに越した事はない。
 兵が引き立てたのは、紛れもなく礼の手の者であった。老練の忍びと見た去梨は、問答をせずにいきなり、
「ただでは話すまい?」
 と云うや、剣を取り出し忍びの腕に痛みをくわえた。悲鳴を上げたものの、一向に話そうとしない。
「なるほど、ただの忍びではないな」
 去梨はそう直感すると、今度はその傷口に刺激物を流し込んだ。その瞬間、忍びはのた打ち回り絶叫した。さらに虫を這わせて、じわりじわりと傷口を弄った。
 半刻の拷問のすえに、ようやく口を割って云うには、自分は凱華の使者で、白最に対して書状を預かったのだと打ち明けた。忍びが差し出す書状を披いてみると、そこには意外の一文が記されていた。
『白最殿の英断を上奏したところ、陛下は大変お喜びになり、成を取った暁には麗帝に代わって貴公に成の統治を任せたいとの仰せである。障害を取り除き、時機を見て寝返らんことを。万々、抜かりなきよう』
 去梨は読み終わると愕然とした。白最が裏切りを企てていたとは、夢にも思ってはなかった。
「何とした事だ!」
 すぐに事の是非を確かめるため、白最に使者を送ろうとしたが、この時去梨の野心がぬっと、鎌首をもたげた。
 白最が失脚すれば、自分の地位は回復する。もしここで白最をほうっておき、成に勝利でもされようものなら、自分は一生彼に頭を下げ続けなければならない。
「……よし」
 去梨はそう考えるや、自分の幕舎に引き取って、顔に化粧を塗った。見る見るうちに蒼白になった顔を晒して、ともに守備を任されていた布絃を訪れた。去梨は挨拶ももどかしい様子で、
「先程凱挌から父の使いの者が来て、愈々病が篤いと知らせてきた。一人娘の私が行かないのは不義というもの。戦場という緊急時とは申せ、見渡したところここ二、三日の間に、礼軍が攻めて来る事はないと思う。どうか、一日だけでも父の見舞いに行く事を、許していただきたい」
 と、涙を浮かべて懇願した。布絃は少し迷ったが、確かに敵の動きを見る限り、今日、明日にも攻めて来ることはないように思った。彼は去梨にいたわりの言葉をかけて、微塵も疑わなかった。
 去梨は密かにほくそえむと、手早く準備をすませて、供も連れずただ一騎で凱挌へと走っていった。

 同刻、蓉比城城外――
 璃由の双眸に、天奈の顔が映っている。何時にもまして真剣なまなざし。部屋の入り口付近には、岳礼と羽英の姿もある。璃由はやおら口を開いた。
「天奈に大切なお願いがある」
「なあに?」
 ちょっと首を傾げながら、不思議そうに璃由を見返している。
「天奈にしかできない重要な任務なんだ。……いや、どんな言い方をしても同じだろう」
 璃由は、率直に云う事にした。
「囮になってもらいたい」
「おとり?」
 その言葉を引き取って、岳礼は壁に寄りかかったまま、瞳だけを天奈に向けた。
「夜朱を誘き寄せて、これを捕らえる。お前が何食わぬ顔で夜朱に成りすまし開門を叫ぶ。城門が開いた所を、伏兵をもって城内に殺到させる。……まぁ、顔はあんまり似てないが、体型と声は酷似している。それに、雨の降る夜中に行けばわからんだろ」
 天奈はアヒル口をぼけーっと開けて聞いていたが、やがて事態を飲み込んだようで、
「もしばれちゃったら、どうなるの?」
 と、反泣きな顔を璃由に向ける。彼はそれに答える代わりに、天奈の鼻先に橙色の服に帽子、戟の形をした張りぼてを置いた。
「天奈を無理強いするわけじゃない。否ならこの策は取りやめて、別の策をとる」
 別の策、そんなものはない。白最が用意した三策の続きには、ただ一文、「偽りをもって、城門を開く」と、書かれているだけであった。
流石に自分の命がかかっているとなると、天奈も直答する事ができなかった。頭を下げるその表情は、黄金色の髪に覆われ定かではない。
「…………」
 やおら、天奈の口から出た言葉。それを受けて岳礼は、静かに退出していった。



「京紗様!」
 騒々しい部下の一言に、いささか憮然としながら、京紗は楼上に上った。月も雲に隠れる闇。そして豪雨の中、眼下に広がる成軍を見下ろした。
「……む!」
京紗はすぐに敵の異変に気付いた。成軍が軍を引き上げ始めているのだ。
「この城を攻略するのを諦め、本陣と合流するか。追い討たねばならぬ」
 部下の一将がそれを聞くと、
「これもまた偽りではありますまいか?」
 と懸念した。
「或いは……しかしもし本当に撤退するのであれば、ここで打撃を与えておくべきであろう」
 京紗は手を鳴らすと、兵に命じた。
「夜朱をこれへ」
 彼女はすぐに姿を現した。敵が攻めてくる気配もなく、退屈していた夜朱である。
「御事に、兵千を与える。退却する成軍を追って、文嶽の首を刎ねよ。但し敵に伏兵ありと見て取ったときには、その限りではない。速やかに兵をまとめて帰還せよ」
 夜朱はその言葉を聞くと、勇を鼓して出撃の準備をした。帽子をかぶり、重さ百斤はあろうかという大戟をもつ。
「出撃!」
 の声と同時に、轟音を響かせて城門が開く。ばっと暴雨が、夜朱と選りすぐりの精鋭千騎を濡らした。
ぴしりと馬の尻を叩く鬼神は、忽ち暗闇の中に消え去り、やがて成軍の最後尾を双眸に捕らえた。諸声とともに、戟を高々と上げ突撃を命じる夜朱。
と、成軍はふいに左右にわかれた。そこに現れたのは、弓を満天に引き絞った弓隊であった。数は三千。それが一斉に放たれ、礼軍に襲い掛かる。次々と朱に塗れ、斃れる礼兵を尻目に、夜朱は馬の鞍から飛び上がって弓をかわす。間髪いれぬ二列目弩兵の攻撃も、戟の陰に隠れ、肩と足だけに浅く刺さっただけであった。夜朱は空中で回転し体勢を整えるや、着地と同時に戟を地面に叩きつける。哀れ、その犠牲となった成兵は声を上げるまもなく、血の泉をつくって絶命した。
再び戟を振り、成兵が叫び声と共に裂けたと見えた、その刹那。絶叫の代わりに、強かな金属音が辺りに響き渡る。夜朱はその笑みを収め、すばやくその金属の持ち主を見た。
「あなた、だ〜れ?」
問われた相手は、雨にぬれた青髪を振るって、涼やかな声色をもって答えた。
「璃由と申します。貴方の首を所望」
 というや、戟を押しのけて、刀身を夜朱の鼻筋に合わせる。夜朱も戟を持ち直し、
「やしゅの首を取るの? 不思議なこと云う人ね」
 と、嗤笑を浴びせた。見詰め合う両者。夜朱の紅の瞳に、璃由の緋色の双眸が応える。
やがて暴雨の中、嘶く声が聞こえるほどの静寂をおき、夜朱の凶器の風が璃由を襲った。それを瞬時に飛び退いて避ける。直ちに第二撃が頭を掠めるが、璃由は怯まない。代わりに璃由の剣が、夜朱の胸に迫った。しかしそれは、戟の返し刀に阻まれる結果となった。
息を呑む両軍。夜朱は己と互角に戦える人間に初めて出会い、瞳を輝かせた。
「へぇ、やるね?」
両者は更に秘技の限りを尽くし、夜朱の戟が弧を描けば、璃由の上膊から血が噴出し、璃由の刀が空を裂けば、猛虎の頬を赤く染める。
 激闘一刻、血みどろの二人の旗色はなお明らかにならなかった。しかし……
「っつ…・・・!」
瞬間、戟の旋風に煽られた泥水が高々と跳ね上げられ、不運にも璃由の右目を襲うた。
左目が不自由な璃由にとって、それは彼から視野を奪うものであった。その状態に夜朱も気付いたが、攻撃を緩めることはない。轟音が脳天に襲い掛かった。璃由はこれを辛うじて刃で防いだが、刀は高音を上げて弾かれた。その勢いで璃由の手から離れた刀は、円を描いてぬかるむ大地に突き刺さる。彼自身も五間も吹っ飛び、びしゃりと地にうっぷした。
 夜朱は濡れる髪の間から歯を見せる。泥濘の音と、血の匂いが璃由に近づく。やがて、荒い息をまとった言葉が、璃由の耳に憑く。
「……楽しかったよ」
 その言葉と共に、高々と上げた戟が一閃するかに見えた。
しかし、それがついに振り下ろされると事はなかった。夜朱の背中に刺さった匕首が、その動きを止めたのだった。それは、羽英が危機と見てとっさに投げつけたものであった。
夜朱は璃由を見下ろしたまま、片手を回し合口を背から外した。無造作に引き抜いたため、周りの肉が裂ける。痛みを顔には出さないが、双眸が混濁しているのがわかる。
 と、上空に網が舞った。その網は鬼神に浴びせかけられ、ついにその気力を絶った。まもなく、成兵たちによって夜朱の体に武器の乱打が降る。もしここで岳礼が止めなければ、一代の豪傑はこの地で果てたであろう。彼は兵に命じて、失神した猛虎の手の自由を奪い、牢につながせた。
それを見届けるや、すぐさま英雄の元に駆けつけた。羽英に助け起こされていた璃由には、鬼気迫るものがあった。殊に両腕からの出血は酷い。血のかかった息も荒く、
「天奈は?」
 と、声が出るのが、真に奇跡とさえいえるほどの重傷であった。
「もう準備はできている。それよりも、治療が先だ」
「……いえ、私も天奈と共に、参ります」
 岳礼も羽英も驚いてかぶりをふった。
「璃由、今の体じゃ無理よ」
「そうだぞ! これは命令だ、行くな」
 璃由はなお、落ち着かぬ気息を吐き出して云う。
「天奈が死ねば、師に会わせる顔がありません」
「……俺は止めたぞ」
岳礼は視線を逸らしてそう云った。
「失礼致します」
 羽英の手を離れた璃由は、簡単な治療を受けただけで、すぐに礼兵の装いに着替え、天奈がいる幕舎を訪れた。
「準備はできたか?」
 天奈は入ってきた彼の姿を見て、眼を細めた。
「璃由! 痛いよぉ」
 そういいながら近づく彼女の姿は、なるほど、璃由の鼓動を高鳴らせるほど夜朱に酷似していた。
「私の事はいい。……天奈、行くぞ」
「あぅ……なんか、気持ち悪くなってきた」
「大丈夫だ、私ができうる限りのことをする。急がないと」
 静かに頷く天奈を、外につないだ馬の鞍に乗せて、暗雲垂れ込む夜の道を進む。やがて、天奈の大きな瞳は蓉比城の大門を捉えた。



――真城城内
 誡偉は、一室に座して、静かに訪問者を待ち構えた。時より吹く風は、血の匂いを乗せて部屋の中へと流れ込んでくる。
彼女は、何倍もの兵力を敵にしながら、ろくに濠もないこの小城をなんとか防いできた。しかし、今や四方の濠を埋められ、門扉、城壁は突き崩され、兵のほとんどを討ち取られていた。
 傍らに置いた剣を見つめると、彼女はふっと笑みを浮かべた。
「自害は無用だな……」
 その剣を遠くに放ると、改めて衣を整え、座を正した。静まる室内に剣戟の音、喊声が轟き、彼女の耳を振るわせる。
新たに、彼女の房を守る旗本の断末魔が聞こえた。同時に、目の前の扉が両断され、代わりに血を全身に浴びた偉丈夫が現れた。
「誡偉!」
 その眼光は鋭く、返り血が顔を覆い、まるで血の涙を流しているようにも見える。修羅と化した殊叡であった。彼は剣を提げ、今にも斬りかからんとしていた。しかし、誡偉は立ち上がりもしない。ただ挑むでもなく、その訪問者の顔をじっと眺めるばかり。
「何故にあなたは、そこまで怒られている?」
 誡偉の意外な一言に、殊叡は血が逆流する思いであった。
「よくもぬけぬけと! 国を裏切り、自分のみの繁栄の為に我が父を殺した! その仇、取らせてもらうぞ!」
その言葉を受けて、誡偉は瞳を閉じた。
「あなたは一つ間違っておられる」
「なんだと!」
 彼女はつと立ち上がり、殊叡に歩み寄った。銀の髪を掻き揚げながら、
「……なるほど、確かに私はあなたにとって親を殺した敵でしょう。しかし、私は国を裏切ってはいない。……裏切ったのはあなたのお父上です」
 と、云った。殊叡の眉が、びくりと痙攣した。その形相を見れば、常人ならまともに目を合わせることすらできないだろう。
「おのれは、この上にも父を汚すか!」
 刹那、提げた剣を突き出し、仇の首筋に刃を当てる。それでも彼女は口を閉じなかった。淡々とした口調で語る。
「一年前、私はあなたの父上が礼に叛旗を翻すという企てを密かに聞いた。お父上は陛下に高く評価されていたし、大臣たちからの評判もよかったから、最初は信じられなかったが、奏維様を問いただすと、その通りだとおっしゃった。私はそれを必死に止めようとしたけれど、彼の決意はかたく、無念にも説き伏せる事はできなかった。そこで、私は事の次第を陛下へ上奏しようとしたが、逆に誣告を被り、やむなく奏維様の首を取って成へと逃れた次第……」
 殊叡の黒い瞳が、僅かに歪んだ。
「嘘だ!」
誡偉は、哀れみをこめた瞳を殊叡におくった。静かに二、三度頷くと、毅然とした態度で言葉をつなげた。
「……余計なことを口にしてしまった。貴方がすべき事は、私の首を刎ねてお父上の御前に供える事でしょう」
 このまま話し続けていれば、或いは殊叡の戦意は失われていたであろう。しかし、彼女はあえて口をつぐんだ。再びその場で座り込むと、髪を垂れ、瞳を閉じる。
 そもそも、彼女は自分の命ほしさに、成に逃れたのではなかった。奏維を殺した後、自分も主君を追って死ぬつもりであった。だが、誡偉は思いとどまって、わざと成へ奔った。それはやがて来る戦争で、己が首を殊叡に斬らせようと、こころづもっての事であった。

 そんな事とは知らぬ殊叡。彼は迷いか、怒りか、悲しみか、震えているのがわかる。その胸中はまことに計りがたい。
何時しか、彼は剣を強く握り締め一気にそれを振り下ろしていた。ばっと彼女の血煙が、殊叡に降りかかる。
 ……やがて、彼の怒りの形相、頬に流れる涙は星の彼方に投げつけられ、その口元に笑みが刷かれたのを、白銀の死者は知る由も無かった。



 京紗は、物見から戦況を眺めていたが、一段と強まる大雨と雨音凄まじく、旗色何れに決したか、甚だわからぬ状態であった。
「遅い……夜朱め、仕損じたか」
 京紗がいよいよ不安を募らせたその時、雨を掻き分け、泥を蹴り上げる一団が城門へとせまって来た。
「開門!」
 絶叫するその兵は、確かに礼兵の武具を装備し、それを先行するのは、夜朱のようであった。京紗は、念のために、
「いささか遅かったが、文嶽の首は?」
 と、問うた。それに対して夜朱、いや夜朱に扮装した天奈は戸惑った。傍らにいる騎兵が静かに頷く。天奈は顔を歪ませながら、血だらけの頭部を持ち上げた。
「た、楽しかったょ」
 京紗は、その様子を凝視していたが、特に怪しむべき点は無いように思えた。
「開けろ」
鎖の音と共に、ぐわらぐわらと吊り上げられた門扉が下がる。天奈はほっと胸をなでおろし、城内へと続く橋を渡る。
「…・・!!」
が、その中央に差し掛かったとき、京紗の顔が一変した。よく見ると、行軍の仕方がわずかに自軍のそれとは違ったのだ。
「待て、門を閉めろ! これは偽者だ!」
 その声に合わせて、再び橋がせり上がっていく。同時に、京紗は弓をつかみ取り、偽者の夜朱に箭を放った。それは彼女の乗る馬の首に中り、馬は絶望の声を上げて棹だった。天奈は、声を上げるいとまも無く地にうっぷした。
「あう〜」
 帽子を押えながら立ちあがろうとするのを、璃由の大声が止める。
「伏せろ!」
 訳も分からぬまま身を低くすると、飛来する矢は風の音を残し、天奈の頭を掠めて橋に突き刺さった。璃由は天奈の傍まで駆け寄ると、馬の屍骸に身を隠しているように言うや、飛来する矢を打ち落としながら、城の口に駆けてその鎖の一端を斬った。刹那、璃由の足場が突然、がくんと下に落ち、橋はせりゆく速度を緩めた。
 と、その時、西の樹林から、どっと軍鼓が打ち鳴らされ、文嶽率いる一隊が現れた。更にまた、東の草薮を騒がせた岳礼が、「いざ!」とばかりに馬の蹄鉄を打ち鳴らし、迫り行く。色を失った京紗は、望楼から絶叫した。
「何をしている! 早く門扉を閉じよ!」
 きりぎりと軋みながらも、閉まりつつある城門に璃由は滑り込んだ。槍をしごいて迫る礼兵を、五人六人と切り伏せ、巻取りの楔を打ち砕いた。支えを失った門扉は、轟音と共に地に倒れ、城はだらしなく口を開ける。成軍が殺到した事、言うまでもない。突入した岳礼は、璃由を賛美した。
「璃由、突旗(一番槍)は、お前だな!」
 しかし、その喜びはいささか早かった。突然として頭上から何かが降り注ぎ、彼らの体は地に押さえつけられた。
「……液体?」
 璃由はすぐにそれが油だと気付いた。一瞬、岳礼と目が合ったが、体は既に大きくその場から飛び退いていた。同時に、火矢が放たれる。閃光と共にばっと火の手を上げ、紅蓮が当たりを舐めつくす。熱風に煽られ、たまらず城内の奥へ奥へと逃れる。璃由は手早く上に羽織った礼の軍服を脱ぎ捨てると、油まみれの髪を掻き揚げる。
 辺りは紅蓮を背景に、白兵戦が繰り広げられていた。璃由もまた、肉薄する礼兵を突き、首を掻ききる。
 だが、璃由の息は既にあがっていた。夜朱との戦いで受けた傷が、動かすたびにずきりと軋む。寄せ来る眩暈は、彼が四股を痺れさせた。それを押し隠すように、また一人、敵兵を切り伏せる。
 やがて、岳礼と再び合流した。彼は片腕が焼けただれていたが、それをものともせずに、
「今度こそ京紗を討ち取るぞ! お前は向こうから回れ」
 と、命じた。
「わかりました」
 璃由はただ一人で城内を進んだ。慎重に一つ、また一つと房を開ける。その度に、礼兵の剣が彼を襲った。彼はその内の一人をねじ伏せ、刃を首筋に押し当てておいて、
「京紗はいずこにある!」
 と、鋭く問うた。兵がわななく指で指したその房の前には、将を守る兵卒もいない。璃由は怪しみながらもゆっくりと近づき、扉を圧した。刀を持ち直し、ゆっくりと部屋の奥へと進む。
「さても、成兵とは礼儀の知らぬやつだな」
 突然、暗がりから声が飛んできた。
「人の部屋に上がりこんで、挨拶もなしとは」
 璃由は目を凝らし、人影を見つめる。長身でガッチリとした体格。見た目は初老だが、髭は生えておらず、黒々とした髪。また切れ長のその瞳からは、相手を圧する眼光を備えている。
 十中八九京紗であろうが、しかし戦場では遠目でしか彼の姿を捉えたことは無い璃由である。
「京紗殿とお見受け仕る」
 男は、太い声を押し出した。
「いかにも……では、死に神の名を聞いておこうか」
「私は、岳礼家臣の璃由と申します」
 ふと、男が眉をひそめた。
「璃由……? はて、どこかで聞いた名だが」
 京紗はこめかみに指を当て、璃由を凝視している。やがて、彼の脳裏に一人の人物がうかんだ。
「お主、まさか慶蘭の子ではないのか!」
 そういわれると、璃由は頭に痛みを覚えた。
「やはりそうか……しかし、生きていたとは驚きだな。誰に匿われたのだ?」
 京紗から出る言葉は璃由の脳に入り込み、言葉を紡ぎとる。
「師匠……珀……」
「珀とは?」
「統……史……」
 京紗は目を見開いて、異常とも思えるほど驚いた。その間にも、璃由の頭はドロンとした黒い靄に包まれる。心臓の鼓動が早まった。
「統史だと!? それと知りながら、何故彼を殺さなかった?」
「……?」
「そうか、記憶をなくしたな? 或いは何も知らされていないのか」
 璃由の耳には、もはや彼の言葉しか聞こえない。
「慶蘭が殺され、あの悪夢は完全に去ったと思っていたが」
 ――殺された……?
「繋ぎは外れ、秩序乱れる。東からの陽は途絶え、世に色が失われた時、去りし水は再び興る、か……なるほど、預言者の話も、あながち間違っていないようだな」
 京紗はそこまで独語すると、璃由の顔をみつめた。
「蓉比の反乱軍は、確かに我ら礼が鎮圧した。しかし慶蘭を殺したのは、我々ではない。……統史だ」
「!!」
 璃由の反応を嘲笑うように、京紗は口元に笑みを刷いた。
「では、このことも知るまい。お主は、今残る唯一の……だ。統史はおそらく……」
 京紗の言葉が、切れ切れに聞こえてくる。
「……それでも成のために戦うのか?」
 ややあって、絞り出すような声が、璃由の口から吐き出される。
「私は……わたしは」
――師匠が、父を殺した?
「わたしは……」
――璃由
――璃由!!


「璃由! 何をしている!」
 瞳に、部下を引き連れた岳礼が映りこむ。必死の形相。大声を上げているようだが、彼の耳には、とても小さく聞こえる。すっと、その首は別の方向に向く。
「……京紗だな! そのそっ首、もらった!」
「そうだな、あんな世になるのなら、いっそ殺してもらった方がいい」
 
 映像は、そこでぷっつりと途絶えた。


第七戦 濁世の英雄、星にその想いを託す事



 頭に冷たいものが当たる。やがて、揺らぐ視界に羽英の顔を認めた。その隣には、天奈の姿も見える。
「璃由、無理しすぎよ。あぶなく出血多量で、あの世に帰るところだったわよ」
「…………」
 意識は戻ったものの、その途端京紗の言葉がよみがえってくる。
「璃由?」
 からっぽの瞳が、ゆっくりと羽英をみつめる。
「……すいません、ちょっと一人に」
 羽英は心のうちで何事か考えていたようだが、
「分かったわ、ゆっくり休んでね」
 そう云うと、心配そうに見守る天奈を促して、幕舎を後にした。羽英は隣の幕舎に入るなり、ぎゅっと天奈を抱きしめた。彼女は、あの戦場のど真ん中で、傷一つ負わなかった。まさに強運であった。
「天奈ちゃん、よくがんばったわ」
「まだ、ドキドキするよぉ」
「でも無事でよかったわ」
 羽英は体を離すと、天奈の両肩に手を置いた。
「璃由は?」
「なんか上の空だったけど、大丈夫」
「よかった」
 天奈はそう云うと、なぜか顔を俯かせた。
「どうしたの?」
「夜朱さんは、どこ?」
 羽英は一瞬言葉に窮した。何故こんな事を言うのだろうか。
「会いたいな」
 羽英は、天奈の意外な言葉に驚いた。
「だ、駄目よ、危ないから」
 至極当然な答えを口にする。つと頭を上げた天奈の顔は、いつもの彼女には似つかわしくない、何か思いつめたものがあった。
「……あのね、天奈ちゃん……実は」
羽英が云いかけた時、兵がそっと、二人のいる幕舎にやってきた。
「羽英様、岳礼様がお呼びです」
 羽英は少し迷ったが、天奈の手を握って、
「私ちょっとご用があるから、ここでじっとしててね」
 そういって何度も振り向きつつ、兵舎を出て行った。
一人残された天奈に、朔風がそっと吹き抜けてその髪を撫でる。
「…………」
 前後に体を揺らしながら、なお落ち着かぬ様子をみせていた。程なく、風につられるように立ち上がると、幕舎を出てふらりふらりと戦後処理でごたついている陣営の中を歩き回る。
 雨は幾分か弱まっていたが、風はその強さを保ち指物のはためく音、軍馬の嘶き、甲冑の騒ぐ声が天奈の耳に届く。悲しいかな、もう彼女はすっかりそれらの音には慣れていた。その中に、
「シィ……」
 何とも聞きなれぬ音が飛び込んできた。その音は、目の前の獄舎から聞こえてくるようである。好奇心からだろうか、天奈は薄暗い獄舎におずおずと足を踏み入れた。途端、むっとする血の匂いが天奈を襲った。少し吐き気を覚えながらも、僅かな光を頼りに壁に沿ってゆっくりと歩を進める。兵の姿は無い。
 と、鉄の棒が何本も並んでいるのが見え、その中に血だらけの少女があることに、天奈は気付いた。それは夜朱であった。両手を鎖につながれ、一丈ほどの空間に座り込んで、頭を垂れている。天奈の鼓動が僅かに高鳴った。
「こんばんは」
天奈は、牢にある殺戮者に声をかけた。その声に、夜朱は血で染まった顔を上げる。
「わたしね、天奈っていうの」
 夜朱はなおも不思議そうに、天奈をじっとりと眺めていたが、やがてあの薄ら笑みを見せた。彼女によって恐怖を植え込まれたものが見れば、その場で凍りつくような不気味な笑い。しかし、天奈はそれに対し恐怖するどころか、満天の笑顔を返した。
「シィー」
「……?」
 またあの音が耳につく。よく見ると、夜朱のひざの上に漆黒のネズミの様な生き物が、乗っかっている。それは、大人のこぶし程度の大きさである。
「わぁ、かわいいな……なんていうお名前なの?」
夜朱は、目をそのネズミに落とす。ややあって、一言。
「……ゲメンツェル」
「げめんてる? 変わったお名前だね?」
 天奈はすぐに異国の言葉だと分かった。
「触ってもいい?」
 夜朱の瞳をぐっと覗き込む。彼女は頷いたように見えた。天奈はおもむろに立ち上がると、入り口に掛けてあった黒い鍵を手に取った。不器用な手つきで、独房の鍵を開ける。カチリと留め金が外れ、天奈はなんの躊躇いもなく中へと踏み込んだ。ちょこんとしゃがみこみ、ネズミをなでる。
「えへへ、おとなしいね」
 撫で付けながら、彼女の双眸は夜朱の耳元をじっと見つめていた。
「あ、やっぱり。私もこの耳飾もってるよ?」
 確かに、夜朱の耳にもよく似た白の耳飾がついている。天奈がそれに手を触れようと夜朱に近づいた、その時、
「んぅ」
 突然、夜朱は顔を近づけ天奈の唇を吸うた。
「!?」
 更に、天奈の腹部に温かいものが広がる。声を上げることもできず、徐々に意識は薄れていく。天奈の頭は、まるで鉛が入ったかのように重くなり、その内体はごとりと地に落ちた。



 ――天奈が生と死の境を彷徨っている頃、璃由は薄暗い幕舎の中で、混沌とした夢と現実の境を、彷徨っていた。
 師匠が私の父を殺した……? 何で……? 
 怒りはこみ上げてこない。実の父とはいえ、十数年間、親子らしい会話なんてした事も無かった。母が幼い頃に死んで、私の世話をしてくれていたのは、顔も名も知らない使用人たち。何も知らずに育てられ、城の外のことなんて何も知らなかった。それもこれも全て父上の言いつけだった。
 その父が死んだ時、私には涙なんて出なかった。別にうらんでいるわけではない。でも、悔しいけれど好きにはなれなかった。むしろ、私の心の中では、父以上に師匠を敬慕している。……父を殺したかもしれない人を募っているなんて、おかしな事かもしれない。でも、それが自分の素直な気持ち。
 師匠……だから私は……例えあなたが、父を殺したとしても……
 そこまで考えると、璃由はうっすらと瞳を開いた。ほの暗い幕舎の中、頭の上にゆらりゆらりと動く蝋燭をじっと見つめる。やがて、その蝋燭の光の動きと共に、自分しかいないはずのこの空間に、人影が揺らぐのを見とめた。
 視線をその主に注ごうとした。刹那、璃由の視界にうつる銀の閃光が、彼の体を無意識に輪転させた。
「っ!!」
 ザッと音を立てて、彼のいた寝床に凶器が刺さる。顔を上げるまもなく、再び襲う凶器を首に掠めさせつつ、相手の手を掴み、思い切りねじった。声も無く、人の手を離れた凶器がごとりと落ちる。その得物には見覚えがあった。
「ど、どうして!!」
 璃由は暗殺者の顔を見て、驚愕した。
「…………」
 酔っているのかふざけているのか、一瞬そうとも考えたが、その瞳はそんな理由ではないことを物語っている。
「なんで、こんな事を」
「あなたにうらみは無い。でも、天下万人のため死んでもらう」
 冷たく言い放つその言葉の後、どこから取り出したのか、再びその手には刃が握られていた。喉につきたてようとするのを、璃由は相手の手首を押えて、必死に防いだ。
「やめて下さい!」
 しかし、力は緩むどころか、徐々に強まる。体からは汗が噴出し、鼓動は痛いほど高まった。「やむなし!」璃由はほぞを固めるや、渾身の力を込めて、身をひるがえし、馬乗りになった。短剣を取り上げ、相手の首筋にさっと当てがった。
「一体……」
 璃由の言葉は、しかしすぐに遮られた。
「繋ぎは外れ、秩序乱れる。去りし水は、再び興り、二度の地獄は万人を呑む。もう……もうあんな悪夢はたくさん!」
 相手は半狂乱になってそう叫んだ。璃由がその言葉の意味を問おうとした時、突然手を握られ、暗殺者は短剣を己自身の心の臓に突きつけた。
「!!」
 璃由は呆然として、絶命した紅の死体を見つめるばかりであった。


 凱挌に近づくにつれ、暗雲は晴天に飲み込まれていく。雨に濡れた体は、すっかり乾ききっていた。馬も身もくたくたであるが、それでも走ることをやめない。
やがて宮廷の大門が見えたとき、ようやくその手綱をゆるめた。馬を乗り捨て、宮中に入る。ふいの帰還に、帝も目をまろくした。
「去梨、一体どうしたというのだ?」
「至急にお知らせしたいことが、ございまして」
「ふむ」
「これを……」
 去梨は、懐から一通の書状を差し出した。宮人から書簡を受け取った帝は、そこに白最の裏切りとも読める一文を見とめて驚いた。
「なんとした事だ!」
「これが知らせる事が真実であれば、悠長はなりませぬ」
「わかっておる。急いで、宮臣を集めよ」
 百官は、異例の早さで招集された。宰相の羽聞は、文に眼を通すと娘に問うた。
「この事を誰かに話したか?」
「いえ、心を同じくしている者がいるかも知れませぬので、偽りをもってここまで参りました」
 統政官(行政責任者)の賢章が、それを聞くと、
「やはり彼は油断ならぬ人物でありましたか。聞けば、彼は芙原にて敵陣を前にしながら、一向に進撃する構えを見せないとか……。彼が敵に内通しているのであれば、急がねばなりますまい。手遅れになる前に、白最を殺さなくては」
 彼は、白最がこの度の指揮を取る事に、不服を唱えた人物の一人であった。
「しかし、白最は統史殿の信頼も厚く、この密書一つで、彼を裏切り者と考えるのはいささか早計ではないか? 思うにこれは敵の謀略とも考えられる。事の真相を探る前に、白最を殺すのは如何なものだろう?」
 と、簿忠が意見した。麗帝は決して暗愚な人物ではなかったが、家臣が二派に分かれてしまい、どちらとも決めかねている様子であった。
「では、こうしては如何でしょうか?」
 そう云ったのは、成の知恵袋としても知られる文府(国の学問・技術を司る)の地位にある伏隆という人物であった。
「白最をこちらに呼び寄せ、もし応じなければ、異心ありと見て、応じても言動に怪しむところがあれば、官を削ぐというのは」
成との決戦の最中に、総大将を呼び戻すというのは、という意見もあったが、他に案も思いつかず、結局彼の案が通った。
「では、その間の総大将の任は、誰に任せればよかろう」
 羽聞は畏まり、
「真相が分からない以上、下手なものに任を与えられませぬ。臣の子からとて、申すわけではありませぬが、ここは去梨に任せられるべきかと」
「よかろう」
 早速麗帝は勅命を発し、去梨に渡した。彼女は時を置かず、すぐさまそれを携えて、駿馬にまたがり白最の元へと急いだ。馬を二、三乗り潰しながら、昼夜を問わず二日で駆け抜けた。



 ――しかし、凱華によって、そんな密書が本国にもたらされていようとは、露も知らぬ白最である。彼は今、敵陣営を眺めながら眼を険しいものとしていた。雨にぬれた髪が、額につき、なお冷たいものが、顔に流れる。
 ここ数日、連歩率いる礼軍は、兵の挑発にも乗らず硬く陣を閉ざし、沈黙を守るばかりであった。
 この日も、王韓が馬を飛ばし、軍鼓、笛を吹き鳴らして挑んだが、まったく出てくる気配はなかった。王韓は進み出て、
「いっそ、強襲してしまえば」
 とも云ったが、それはあまりにも危険であった。礼の陣営前には、拒馬(騎兵の突撃を防ぐ障害物)の類を敷き詰め、昼夜を問わず警戒が厳しい。戦というのは、両者が万全の準備をしている限り、先に手を出した方が負けとなる。
「何故、今になって、持久戦に持ち込もうとするのでしょうか?」
「……わからぬ」
 その問いに、白最は答えられなかった。一体何をたくらんでいるのか……。しかし、その疑問は去梨の到着によって氷解した。本営の一室で面会した白最は、やがて幕舎を出ると、王韓を呼び寄せた。
「都へ参らねばならぬ」
「撤退するご存念ですか?」
「否、私だけだ」
 王韓はとっさに理解しかねた。
「何故です?」
「私に謀反の疑いがかかった。ここで上京を拒否すれば、我々は帰る巣を失うことになりかねない」
「で、ではその間、誰が指揮を」
 白最は後ろの幕舎を振り返りつつ、小声で伝えた。
「去梨殿が……礼軍は私が去ったと知れば、必ず自ら軍を率いて攻めて来るであろうが、万一にも去梨殿が打って出るような事があれば、私が帰還するまでとめてほしい」
 と言い残し、その日のうちに凱挌へと向った。

 このことは、忍びのものによってすぐさま凱華の耳に入った。彼女はほくそえむと、よどみなく全軍に指示を発した。
 先ず、猛将として知られる本佳という上将に、半数の兵を与えて経山城を任せた。続いて、居並ぶ将兵からかねてから目の掛けていた二人の兄弟を呼び寄せた。
一人は一見して常人ならざる風貌を持った男。顔の半面に赤あざを持ち、背丈は見上げるほど大きく、がっちりとした体格には黒一色の無骨な鎧をまとっていた。
 その隣にぬかずいたのは、瑠璃色の髪をなびかせた女。肌白く、小柄な体形にはとても戦士としての力量が備わっていないように見えた。しかし、不釣合いなほど巨大な得物を軽々と持つ姿が、その勇士振りを示している。前者が兄の里該、後者が妹の公憐である。凱華は里該を己が軍に加えると、妹の公憐には、
「お前はわが軍に加わる代わりに、一個分隊を率いてこれより西に広がる森に埋伏されたし。深夜に敵の部隊がその傍を通るであろうが、進むに任せて手を出してはならぬ。……明日の昼頃、敵の本営から石火矢があがるであろう故、その時こそ敵の背後を攻めてこれを撃滅せよ」
 と、命じた。凱華は明日、敵が仕掛けてくるであろう策を、手に取るが如く見通したことだった。
諸将が出撃の準備のために幕舎を出て行くと、今度は入れ替わりに普鴎が入ってきた。
「よい報告と、悪い報告が……」
 凱華はほっと息を吐いて、忠実な軍師の瞳を見つめた。
「では吉報から聞こうか」
「っは、殊叡将軍が激闘の末真城を攻略し、敵将誡偉を討ち取ったとの事です」
 彼女は別に喜んだ様子もなく、もう一つの報告を促した。
「遺憾ながら京紗殿の守る蓉比城が落ち、彼は討ち死に。夜朱殿は重囲をかいくぐり先ほど帰投致しました」
 京紗め、使えぬ奴だ。凱華は胸のうちでそう呟いておいて、表面では落ち着き払って云った。
「そうか……では夜朱をわが軍に加え、明日の戦いに挑むとしよう」
「ですが、夜朱は重傷を負っております。敵側によほどの豪傑が加わっているようです」
 これには、流石の凱華も意外に思ったのか、一瞬目を見張った。
「……だとしても、相手もよほどの重傷を負っているはずだ。夜朱を犬死させるのは本意ではないが、今は彼女の武威が必要だ」
この会話から一刻後、彼女は自ら前線の連歩と合流すべく、軍を発したのである。

 一方、成の陣営では新たに総指揮権を握った去梨が、自身で立てた策を実行すべく諸将を幕舎に集めていた。
「ここより北西に難童中(なんどうちゅう)という沼地があり、周りには葦が茂り兵を伏させるには絶好の場所といえる。そこで、今夜のうちにここに手勢を伏させておいて、明日の一戦で頃を見て合図を送り、前後から挟撃してくれようと思う」
 去梨は自信に満ちて、己が策を披露した事だった。ところが、王韓は進み出てこれに反対した。
「おまちを、白最殿は固く陣を閉ざし、出てはならないと……」
その声が終わる前に、去梨は憤怒した。
「指揮官はこの私だ!」
王韓はそれでも引き下がらず、更に声を大にして、
「余人ならばいざ知らず、相手はあの武神華ですぞ! 生兵法を用いれば必ず裏をかかれ、無駄に将兵を野にさらすことになり申す!」
 去梨は、ともすれば自分を無能者扱いするようなこの発言に、思わず剣を抜き放って、
「この上私に逆らうのであれば、例えそなたといえども処断せざるを得ぬぞ!」
 と、宣言をした。王韓は、では自分の部隊だけでも温存させたい、と食い下がったが、去梨は許さなかった。彼女は王韓の先鋒の印綬を剥奪しておいて、後方(しりえ)にまわすと、おのれの手飼いの将である凌羽(りょうう)に先鋒を命じた。彼は戦場では常に赤一色の甲冑に身を包んでいたため、赤虎の異名を持つ猛将である。さらに、去梨の部下の一人である徐殷(じょいん)という人物に一軍を分け与えると、難童中へ出立させたのであった。
 なまじ兵法をかじっていた事が、彼女に自信をもたらしたのだが、作戦を実行する理由はそれだけではなかった。宮廷に入って四年。その間、親の七光りと陰口を叩かれ続けた。口にこそ出さないが、それを痛いほど感じていた彼女である。
 それゆえに、今回何としてでも諸将の前で己の実力を示したかったのである。父の名声に頼っているのではない。自分自身の才気を皆に認めてほしかったのである。
 裕福な家に生まれながら、自分の身を嘆くのはいかにも身勝手なように思われる。しかし、それは偉大な親を持った子の宿命ともいえた。



 翌朝、成軍の陣営から、まだ大地に暗さが残る中、金糸で帥と大書きされた旗が、高々と上がっているのがみとめられた。その報を受けた去梨は、直ちに下知した。
「全軍をもって、迎え撃つ!」
 両軍は、芙原の野で激突した。礼の先鋒は連歩であった。彼は凱華の命によって弩手千人を三列に並べ、迎え撃つ。対する成軍は、去梨の配下随一の猛将、凌羽である。
 しかし、両陣営とも対陣したなりひそとして静まり返り、動かなかった。やがて、雨雲の合間から陽がしらしらと辺りを照らし、中天に差し掛かった頃、ついに敵の沈黙に業を煮やした凌羽が、
「凱華め、恐れおののいて打って出てこぬか! ならばこちらから襲撃するまでよ!」
と、云い放つや、突撃の声高らかに自ら先頭に躍り出て進撃した。これと見て取った連歩は、旗を揚げ一斉に弩を構えさせた。
わあああっ!
さながら暴雨の凄まじさをもった成軍が喊声を上げて驀進する。その先頭が礼軍にあと二町と迫った。その時、
「撃てい!」
 という、連歩の大声を多い尽くすほどの弦の音が響き渡った。馬蹄轟く中、頭からの血が弧を描き、落馬する兵たち。続く第二撃は、凌羽の兜の緒を切ったが、それでも突撃をやめなかった。間髪入れぬ第三撃で、ついに矢は彼の腿に突き刺さったが、凌羽はそれを抜き取るや、弓につがえて弩手の一人を射抜いた。しかし、
「弩弓手後退!」
 その声にあわせ、礼の最前線はがらりと様相を異にする。弓箭に代わって槍を構えた歩兵が成兵の行く手をふさいだ。凌羽は、馬の足を薙ぎ払われ、もんどりうって地に叩きつけられる。
「頃良し! 放て!」
 その様子を眺めていた去梨は、いよいよ鏑矢を放って、敵の後方に埋伏させておいた部隊に合図を送った。矢は遥か上空にひょうと射られ、奇音を発した。
 沼地に潜んでいた徐殷は、その合図を受けると、
「よし、突っ込むぞ!」
 と、剣を手に取り沼地からその姿を現した。その刹那、
「む、何だ!」
 突如として後方の森から喊声が沸き起こった。どっと打ち出たのは瑠璃の髪をなびかせた公憐であった。
「は、謀られたか!」
 公憐は、ばっと徐殷の行く手をふさぐと、物も言わず得物を振り下ろした。徐殷は一合も打ち合うことも許されずに、その首を高々とあげたのである。残った将兵は一方的な攻撃にさらされて、その半数が降り、あとの半分は血泥まみれる沼地に身を埋めた。

「何故だ、何故敵が乱れぬ!」
 去梨は挟撃されている筈の礼軍が乱れぬ事に、呆然とした。その瞳は整然と攻撃を続ける敵陣営を見つめるばかりであった。彼女は策が破れたとは考えなかった。否、そう思いたくなかった。
「去梨様!」
 幕僚の緊迫した声にはっとなって、顔を上げた。そこには黒馬にうち跨った赤あざの猛将、里該の姿があった。彼はすでに成兵を突き飛ばして、去梨のいる中軍へと迫っていた。
「去梨! 貴様の死に場所はここぞ!」
 と、槍をしごいて暴れまくった。
「うッ!!」
 去梨は蒼白となりながらも、部下の犠牲によって辛うじて槍の餌食を免れた。
 その時、後備にまわされていた王韓は、成の旗色悪く、去梨が危機と見るや、愛馬を躍らせ逃げ崩れる兵の間を駆けぬけた。そこに里該の姿を見つけると、
「いざ、勝負!」
 と、猛然と挑みかかる。里該は礼でも指折りの勇士であったが、将としても戦士としても、王韓のほうがはるかに上手であった。里該がその声に振り向こうとしたその刹那、閃光一閃、里該の首は宙に高く跳ねとび血は虹を描いた。
「敵将、討ち取ったり!」
 その勢いで最前線に馬を進めると、逃げ崩れる成軍を叱咤しなんとか巻き返そうとしたが、なにさま礼軍は巨勢である。たちまち四方から圧し包まれ、己の身を守るのに精一杯になった。のみならず、凱華の巧みな兵法の前に味方はずるずると引き剥がれていく。
 と、成の後方から新たに、喊声が近づいてきていた。成軍は絶望したが、王韓だけは歓喜の声を上げた。その軍に、成の旗を認めたからである。文嶽率いる一軍が、合流に駆けつけたのであった。
凱華は敵が息を吹き返したのをみとめると、静かに、
「気を治むる者は、その鋭気を避けなくてはならぬ」
 と、独語した。
「十二分に損害は与えました。一旦引くべきかと」
 参謀の言葉に同意するや、凱華は敵が反撃に転じる前に、速やかに兵を返した。
 成軍はこの去梨の無策によって、一万の兵を喪った。当の本人は一命を取り留めたものの、病と称して本営奥深くに閉じこもってしまった。



 いつしか、空の涙は星の彼方に去り、煌然たる月華は武士の心に風を通す。
「全ては、明日の一戦で決まる」
「勝利を収めれば、閣下の功は古今類を見ないものと成るでしょう」
 忠実な参謀は、心中からそういった。しかし、凱華は双眸を月から落とした。
「……私がここで、功を立てる事は、それ即ち身の破滅であろう」
普鴎は、無言であった。敬愛する上官の心を推し量ったのだ。
「しかし、私は恐れない。命のある限り戦い続ける。それが戦乱に生まれて来た者の、宿命であろう」
 そういうと、ふと自嘲するような薄笑いを表に現した。
「……時より、私は戦乱に生まれた事を怨む時がある。人は、神がこの世を選んで私を遣わしたというが、万人の命を双肩に担うには私はあまりにも弱い。戦いを重ねれば重ねるほど、その思いは強くなるばかりだ」
 頼りないその声を聞き、普鴎は思わず己が瞳を強めた。
「閣下からその言葉が吐かれるとは! ……我々は、個人の理想をもって戦っているのではありませぬ。ゆえに、それを担う者は、私心を持ち込んではならないでしょう。耐え忍ぶときです」
 凱華はそれを百も承知であった。しかし、その言葉が思わず口をついて出たのである。

 ――成陣営。本営には、文嶽、王韓の二将軍が顔を突き合わせていた。
「去梨はもう使えぬ。この上は文嶽殿が全軍の指揮にあたるべきでしょう……明日、凱華は必ず最後の決戦を挑んでくるでしょうが、こちらの出方は?」
 文嶽は、考えるまでもなく即答した。
「今の兵力で守りを固めても意味がない。明日の決戦は応じるしかなかろう」
 ここで退けば経山城は落ち、成の生命は絶たれる。無謀と分かっているが、決死の覚悟で敵に当たるしか、もはや術はなかった。

 西の白星が、青い帯を描いて、二度地に落ちた。その光景を見つめる椰希は、はなはだ困惑した。
「霊稜(戦運の神)入りて、武司(戦の神の一つ)遠くに奔る……はたしてこれは、吉か凶か」
 天星術に精通している彼女でも、明日の一戦は、真にはかり難かった。つと、首を回すと、同僚は先ほどから、阿呆のように夜空を眺めている。椰希はため息をつきながら、その同僚に声を掛けた。
「岳礼、しゃきっとしなさいよ。明日が最後の決戦になるかもしれないのよ」
「……なんであいつが、あんな事を……」
 椰希はいささか、ムッとしながら、
「厳しい事いうようだけど、戦場で戦いに集中しないと、真っ先に死ぬわよ。自分が死ぬだけならともかく、あなた将軍でしょ。兵の命はあなたが握っているのよ。しっかりしなさい」
 椰希はいい放つと、岳礼を突放すように再び瞳を空に向けた。
「法轟殿、耐えてください……」
 椰希は、戦場の孤城にある同胞を憂えた。その目線に気付く術もないが、法轟もまた雨後の空を眺めている。
「戦火は南に移ったか……」
 彼は、帥の紅旗が離れ行くのを、まぶたに思い浮かべていた。
「白最殿は、勝てるでしょうか?」
礼の巨軍によって、完全に閉ざされている城。白最が今、戦場にいないとは夢にも思わぬ彼であった。
「どうでしょうな、確かなのは、彼が勝ってくれなければ、二度と酒にはあり付けぬという事でしょう」
珀は、法轟に酒を勧めながら、赤のひさごを月に照らし、ゆっくりと乾した。
「十樽あった酒樽も、全て尽きてしまったのでな」
「ですが、もう必用ありません。明日の一戦で、勝てば勝利の美酒を、負ければ毒杯をあおる事になりますゆえ」
「ははは……まことに。しかし、後者は頂けぬの」
 月の夜空に、芳醇な香りと、翁の笑い声が響いた。


「明日には、師匠様に会えるね? 久しぶりだぁ」
 布団に横たわる天奈。お腹に力が入らないのか、声は弱々しい。璃由はその枕元で、そっと彼女の手をとっている。
「そうだな」
「あのお酒渡すの」
天奈は、璃由の背後を指差した。恐らくあの夜、白最邸でこっそりと荷にしまったお酒が入っているのだろう。
「……そうだな」
どこかぎこちない会話。
「璃由……」
「ん?」
「羽英さんは?」
 璃由は目をそらさない。彼女の言葉に、よどみなく答えた。
「先輩は、もうここにはいない」
「……ふうん、もう少しお話したかったな」
「いつか会えるよ」
 微笑む天奈に開きかけた口を閉じ、彼女の頭に手を乗せる。寄り目がちの双眸が、その手を見つめていた。やがて、
「……天奈、このままでいいんだよな」
 ふいをついて彼から出た言葉の意味を、天奈は知る術も無い。
「む〜 わからないけど、お師匠様連れて、はやくお家に帰ろう?」
「そう、だな……帰ろう」

 この戦いで、あまりにもいろいろなことが、起こりすぎた。……ただでさえ、師匠の事で混乱しているのに、その上あの先輩が私を殺そうとした。私を殺す事が、天下のためだと云って……。先輩は、自分の命を絶つほどの恐怖を私に抱いていた。それほどまで、人を追い詰める私とは、一体何者なのだろう。自分のことなのに、私は何も知らない。知らないまま、恐れられている。
 真実を知りたくないわけではない。でも、なんだか空恐ろしい。怖い……。全てを知ったとき、自分は……どうなるのだろう。
2005/06/15(Wed)10:42:38 公開 / 天姚
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(作品)
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