- 『R'lyeh〜海底都市〜 エピローグ〈完全版〉』 作者:ギロロロロ / SF SF
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全角56909.5文字
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原稿用紙約212.5枚
『0日目〜開眼』開始
「ん…んんぅ………………」
目が…。
目が…霞む…。
「………う、ううぅ………」
眩しい…己を照らす光に瞳をあけた。
「………う、ううん…ふわぁああぁ」
まるで何日も、何ヶ月も、何年も寝むっていたかのような…そんな身体のだるさを感じる。
起きようとしたところで…どこか土の地面に寝ているのに気づいた。
「………ん?」
辺りを見回すといつも自分が寝ている部屋、ベッドの上…ではない。
薄暗く、じめじめしていて、肌寒い、洞窟の中にいた。
「………へいへいジョニー、ここはどこだーい!?」
テレビショッピングのテンションで語りかけてみたが、声は「いーぃーぃ…」と反響するばかりでなにも返事がなかった。
「…えっと、何故俺はこんなところで…寝てんだ?」
記憶が曖昧で蒙昧でなにがなんだか分からない。
…よし、とりあえず、現状確認。
名前は九条蒼月…よし。
歳は21歳…おっけい。
今は大学に通っていて四年生…そうだ。
就職活動が全然進まなくて、もうどうしようかどうしようか。
もう26社も受けたのに内定どころか一次も通らないし、なぁ…。
「………。いらんことまで思い出した…ような」
気がした。
現状確認してちょっとヘコむ。
とりあえず、記憶喪失なんてことはなさそうだった。
安堵し、起き上がって軽く首を回してストレッチ。
次は最近の記憶を回想してみる。
「朝うち出て、大学に行って、くだらない講義、受けて…受けてぇー…」
そこまで思い出したところで記憶に靄がかかったように思い出せなくなる。
もう咽喉辺りまで来てるよう気がするん…だが…。
「受けて…。そこまでは…鮮明に覚えてるのになぁ」
しかし、その内容にもこの洞窟にいる理屈、理由が全く皆無だった。
大学の近くにこんな洞窟はないし、自分はどこぞの冒険サークルに所属している訳でもない。
「ふむ。…皆目見当もつかないぞ…っと。さて…」
思考をストップして上を見渡す。
約3メートル半。
光で大体しか目測できないがそのくらいだった。
もう一度あたりを見渡し、壁伝いに歩いてみる。
入り口はおろか、通気口も見当たらず、長方形型になっている様だった。
「はん。どうやら…落ちたみたい…だな」
というシンプルかつ情けない結論に至る。
「はぁ…誰か助けに来てくれてもいいもんだけどな」
嘆息混じりにそう、独白する。
腕時計をみると、記憶していた日にちから三日経っていた。
「………三日もここにいたのか…」
そう独白したところで、ぐきゅるう〜…と腹が泣いた。
「くそ!ここから出られたらベッカムとかもぐらとか昆虫とか全員いぢめてやる!」
ちなみにベッカム、もぐら、昆虫は自分の仲のよい大学仲間で全員あだ名である。
自分も髭というあだ名をつけられている。
あごを摩ると髭が結構伸びていた。
「とりあえず………」
上を見渡す。
3メートル半の空間の先の光が入ってくる穴の向こうを。
…青くどこまでも広がる空が見えた。
「…ここから出ないと」
呟いて地面に腰をおろす。
方法を考えようとしたところでまたぐきゅるるるぅ〜と腹がなった。
今度はさっきより音が長く、洞窟内に反響する。
「あー…腹減ったー。と、ゆーか…よく生きてんな…」
体に力が入らず、地面に伏す。
三日間飲まず、食わずで人は生きれるものなのか。
それよりも、三メートル落ちてよく無傷でいられる。
まぁいいや、と思ったところでふと隣に目をやると丸太が落ちていることに気づいた。
「………ツいてる」
よっ、と立ち上がり丸太を持ち上げて土の壁に掛けた。
「とりあえず、メシ。その次に風呂だ」
新婚家庭で交わされそうな会話を呟くようにその穴から這い出た。
「いよぃしょっと………くっ」
瞬間、眩いほどの日光に照らされる。
「あーもー。やっと出れたー!」
清涼な風が吹き、ざわざわと木々の葉を揺らす。
太陽の光を遮り始めた夏特有の分厚い雲、うだるような気温と、遠く街並みを見渡せる小高い丘の上。
どこまでも遠くへ、もっともっと遠くへ、行けそうな、行きたいような気分。
「………………」
緩く吹く風が方まで伸びる髪を揺らす。
「このまま、地の果てまで行っちまおうかな」
その呟きは停滞せず、強く吹いた風に乗り、遠く遠くへと運ばれていく。
「ま、そうも…いかねぇよな」
自分はまだ大学生である。しかも将来を担う、若き企業人材。
これからの日本社会を土台から支えられるサラリーマンになるというのが自己アピール。
熱き魂とやる気は負けない、21歳!
ただし、0勝26敗。
「…みたいな」
ため息混じりに軽く呟き、丘を下っていく。
遠く遠くに見渡せる街並みは、夏の暑い蜃気楼に包まれ…影は、朧に見えた。
R'lyeh〜海底都市〜
「………………」
街はいつも通りの喧騒、日常の活気…には包まれていなかった。
24時間五月蝿い、これでもかというぐらい排気ガスを撒き散らす車。
時間や世間に追われ、疲れた顔をぶら下げるスーツ姿のサラリーマン。
日中から明々と照らす広告看板やそれに張り合っているようなド派手な女子高生。
そのどれもが、静寂に包まれ、沈黙し、…辟易していた。
「…ってゆーか」
ってゆーか、街には人っ子ひとり、いなかった。
車はおろか、猫や犬。
うざったい虫までも皆無。
信号は見る信号全部が全部、赤いランプを一定間隔で点滅させていた。
「なんじゃ………こりゃ」
さながら地中海に沈んだ古代都市のような、ゴーストタウンにでもなった様な町に突っ立っているようだ。
聞こえる音は時折吹く柔らかな風の音。
見えるモノはオブジェになったビルと信号機。
香るモノは焼けるアスファルトの匂い。
それだけ。
…それだけ、だった。
「もしかして…」
一瞬過ぎった嫌な思考を振り払い、近くにあった定食屋に入る。
「こんちわ。とりあえず、メシ!そのあとに風呂を…」
店内は電気がついておらず、薄暗い。
カウンターの向こうには店主と思しき、もう高齢のじぃちゃんが座っている。
とりあえず、白髪に老眼鏡をかけたその店主の向かいのカウンターに座った。
「おっちゃん、とりあえず水くれ。その後にメシ!」
なんの反応もなく動く気配すらみせないじぃちゃん。
「……………?」
耳が遠いのかなと思いもう一度、大きな声で呼びかける。
「おっちゃん、水、くんねーかな?もう咽喉カラカラでさ…それにしても今日は増して暑いな…」
店主は頷きもせず、まったく微動だにしない。
「………えーと」
もしかして、まだ開店してなかったか?とか思い、あせってその顔を覗き込む。
じぃちゃんは…ミイラになっていた。
「…………!!」
予期せぬ事態に、一瞬目を見開き背を思い切りそらす。
ガタッと椅子が大きな音を立てた。
「………………」
沈黙。
どのくらい沈黙していただろうか。
「………っは」
息をするのを忘れていたのだろう。
「っは、はぁはぁ…はぁ!」
100メートルを全力ダッシュした後のように激しく呼吸をし、酸素を求める。
呼吸が正常に戻るまで、背をそらしたまま、その店主を見続けた。
店主は…やはり動くことなく、虚ろな瞳でカウンターの向こう側を…地の果てを見続けていた。
「どど、どうなってやがんだ、一体?」
機能しない定食屋を一目散に駆ける。
「ちっ!とりあえず…交番だ。警察に知らせないと!」
うまく回らない口を無理やり落ち着かせるように交番に走る。
嫌な予感がじわり…じわり…とにじりよってくるのが分かった。
その予感から逃れる為に思い切り走る。
程なく派出所と書かれた木製看板の戸を見つけ思い切り開けた。
「すんません!なんか…ミイラになったじぃちゃんがいるんすけど!」
と、口から出そうになったところで言葉が詰まった。
交番は電気もつかず、無人の机だけがその来客を…静かに待っている。
「………まさか」
建物内に入り、奥まで行く。
ロッカー室。職直室。傍聴室。資料室。保管室。
そのどれもが無人でほこっりぽい匂いだけが残っていた。
入り口まで戻って来たところでふと嫌な予感がよぎる。
「もしかして…みんなゾンビになってたりしないよな…?」
某ゲームのやり過ぎだったのかもしれないが、この状況ではあながち外れちゃいないだろう。
「………………」
ふと見るとここにいた警官の制服だろうものが壁に掛けられていた。
その下には黒く暗闇に溶け込むように拳銃が置いてある。
「…どうする?もって行ったほうが………良いか?」
悪い予感が当たれば、当然、必要だろう。
しかし、そんな予感が微塵も、当たり前のように外れればこれは盗んだことになる。
「………………」
10秒ほど、心の中で葛藤する。
「ま、分かんない…よな」
持っていくことに決めた。
ずしりと重みを感じる拳銃を手に取ると、乱暴にベルトの内側に差込み派出所を後にした。
蜃気楼のような、街を歩く。
誰もいない、静かな海底に眠る都市を歩いているような感じがした。
あれから手当たり次第に店に入り、人を求めた。
が、そのどれもは無人かあるいはミイラ化した人間たちだった。
嫌な予感がしたゾンビはおらず、はたまた化け物一匹にすら出会わない。
…どうなっているんだと思った。
共通点は建物の内部にはミイラ化した人間たちがいて、外にはいないこと、だった。
「ったく。意味がわかんねー」
「元」コンビニだったところからもってきたジュースのタブを開け、公園のベンチに座る。
もちろん代金はレジの脇に置いて…だ。
「一体なにが起こったってゆーんだよ…」
うつろな目で虚空を見つめる。
虫の一匹もおらず、そのアスファルトはじりじりと陽炎が立っていた。
「原因は?…原因はなんなんだ?」
核か?彗星か?それとも正体不明のウイルスか?
「…そうだ、新聞!」
先ほどジュースをかっぱらってきたコンビニから新聞を取ってくる。
「………………」
新聞の日付は自分があの穴に落ちた日で止まっていた。
記事にはいつもの、ごく日常の些細な出来事しか載っていない。
企業の金の横領。
自動車の新製品に対する評論。
他県で起こった殺人事件。
そんな些細な、この状況からすれば些細な出来事しか載っていなかった。
―――まるで時が止まったかのような。
―――人間だけがその時を光の速さで駆け抜けたような。
―――自分はその速さについていけず取り残されたような。
…そんな感覚を感じた。
「新聞にはそれらしいのは…載ってない、か」
もしかしたらこの辺りが、この地域が、この国が。
異常なだけで、もうすぐ救援隊が来るのかもしれない。
「とりあえず…うちに帰るか」
飲み干したジュースの缶をぐしゃっと握りつぶしゴミ箱に投げ入れた。
「ただいまー…」
アパートの戸を開けると3日前、自分が大学に出た時そのままになっていた。
洗い残しの食器。食べ残しのパン。
あせって出て行ったのだろう。
部屋はそのとき外に出た時の様そのままだった。
すでに外は夕焼けになっている。
紅く黄昏色にそまった部屋を見るとなぜか寂寥感がこみ上げた。
「…とりあえずメシ食おう」
冷蔵庫を開けるとむわっとした空気と酸っぱい匂いが顔に触れる。
「うわーくせぇ!ははっ!」
空元気を出そうと無理やり笑ってみた。
「さーてと、何食おうかな!」
水…は出ないか。
電気…も使えないな。
ガス…は駄目か。
…なんだ全部使えないじゃん!
「…どうしたもんかな」
とりあえず、近くのコンビニ行って食料と飲みもん買ってくるか。
そう判断し、外に出た。
歩いて数秒。
コンビニのレジの脇に商品分の金を置き、食料を調達。
ついでにまだ読んでいない漫画と愛読雑誌も手に入れる。
「ま、救援がくるまでの辛抱だしな」
部屋に戻ると雑誌を読みながら夕食をとった。
夕日が沈み暗くなって部屋は暗闇が支配する。
蝋燭に火をつけると部屋をわずかばかりの明かりが包んだ。
「さて」
さて、さてさてさて、これから自分はどうすべきだろうか。
屋根にペンキで救難信号。
これはしなきゃな。
生存している人を確認、救護。
これもしなきゃな。
食料、備品を調達。これはその辺にあるし、気づいたらってことで。
大体しなければいけないことを紙にピックアップし、その都度声声にだして確認する。
その中で最優先事項は生存してる人の確認と救護だ。
明日はそれをしよう。
よし、と区切りをつけると蝋燭の火を消して布団に入る。
「…明日は大変だぞ」
そう自分に言い聞かせて静かに瞼を閉じる。
「………………」
「………………」
「………………」
眠れなかった。
「………………」
…眠れなかった。
「………………」
全く……眠れなかった。
「………………」
何回も寝返りをうった。
「………………」
何十回も寝返りをうった。
もし、救援が来なかったら…。
もし、人が誰一人見つからなかったら…。
もし、何年もずっと、このまんまだったら…。
ずっと…ずぅっと…この深海に沈んだ都市のまんまだったら…。
蝋燭に火を付け直す。
布団から起き上がり、
毛布にくるりながら揺らめく火を見つめる。
そんなことはない!絶対に助けが来る!
そう自分に言い聞かせるように。
その蝋燭の火を一心不乱に睨む。
眠れなかった!
うとうとすると必ず思い出してし、意識が覚醒してしまう。
身体はこんなにも疲れて、もう数ミリも動けそうもないのに。
瞼はこんなにも重くて、意識は混濁の底に辿り着きそうなのに。
しかし、眼を閉じて、思い浮かぶモノは…。
眼をぎゅっと固く閉じて想像するモノは…。
名も知らぬ、
その、じぃちゃんの、
…ミイラ…だった。
『0日目〜開眼』終了
…ブルルルル…。
…ブルルルル…。
「……………は!?」
飛行機の飛ぶ音がした。
跳ね起きて窓の外を見る。
「………………あ?」
音を発していたのは、
机の上でブルブルと、
光を放ちながら震えている、
昨夜、目覚まし用にとセットした携帯だった。
『1日目〜迷走』開始
「………………」
時刻を見ると午前8時を指している。
結局一睡もできなかった。
空を見上げると、そこには見事な快晴。
いつもは化学スモッグに覆われている空が、今日は遠く、果てしなく遠くまで見渡せる。
この状況とは似ても似つかないくらいの蒼空。
その光に瞼を細める。
芝生の上で昼寝でもしながら空を眺めるのに絶好の日だと思った。
「………………」
だが。
だが、しかし。
救援だと思った飛行機の音は携帯で。
肩透かしを食らったような気分。
っち、と舌打ちをしつつ、目線を下に向ける。
奇しくも大きな国道沿いにあるこのアパート。
ダンプが走れば地震が起き、深夜の暴走族の祭りも連夜の如く起こる。
家賃はなんと1万5千円ぽっきり。
その激安さ加減に惹かれて住み込んでみたものの、その家賃では高すぎる代償。
日中でも恥らうことなく撒き散らす自動車の騒音がない今では物足りなさを感じる。
「………………」
暫らく誰も通らない、
通りそうにもない広い道路をぼーっと見つめていると。
―――ぐぅぅ、と腹の虫が鳴った。
「…よし、とりあえずメシだ」
こんな時でも人間の生理現象は起こるものだなと思い腹をさする。
授業中でなくて良かったと、そう思った。
「あ…そうだ、大学」
もし何らかの災害で、街の人々がどこかに集まるとしたら。
それは公園かもしれないし、学校かもしれない。
そのどちらでも良かったが、人が居そうな場所に行けばなにか手掛かりが掴める様な…気がした。
よし、とこれからの日程を頭の中で確認し終えると、食べ終えたパンのビニールをゴミ箱に投げ入れた。
「んじゃ、行ってきます」
誰にともなくそう呟くと、自分の部屋に別れを告げた。
大学までは徒歩で約30分。
大きな国道を道なりに歩いていく。
普段から吠え付いてくるセントバーナードや、
ガーデニングをせっせとこなしている主婦。
木上にたたずんで群れをなす、やぶ蚊。
その日常の、ほんのいつも通りのモノが、やはり、微塵も感じられなかった。
「………………」
いい加減、気が滅入る。
分厚い雲が太陽を遮ったせいか。
むわっとする空気が停滞し、気温は40度にでもなってるんじゃないかと思えるほど暑い。
片側四車線の、誰もいない国道の真ん中に出てみた。
普段は見ることのできない景色に、いつもと違う感じを覚える。
前を見ると、道路の先は陽炎でふやけて見えていた。
いつぞやの、映画で見た「スタンド・バイ・ミー」を思い出す。
これで眼鏡をかけたヤツとか、線路でチキン勝負する仲間がいたら面白いのに。
と、陽炎の向こうを見つめながら、その風景を想った。
きっちり30分後。
大学に到着。
門は開いていて、いつもは学生の群れで賑わう歩道も今は皆無。
多くの学生が単位を取るだけ、という理由でかったるそうに歩いている景色が見えた。
その学生達は蜃気楼に包まれ、すう…すう…と、霞んだように溶け込だように、吸い込まれるように、消えて見えなくなる。
「………………」
………そう。
これは本来あるはずの景色。
自分が望んでいた風景。
その期待さえも陽炎に吸い込まれていく。
「…誰かいたらいいんだけどな」
独白するようにそう呟くと門を抜け、校舎の中に入っていった。
まずは手当たり次第に教室を覗く。
一階の教室。
二階の休憩室。
三階の教授室。
そのどれもがもぬけの殻で、茶色い椅子だけがその役割を果たす時を待っていた。
「…マジかよ」
三階から一階に降り、校舎の前まで来る。
校舎内にはミイラどころか、虫一匹いなかった。
淡い期待を抱いていたそれは、さも蜃気楼に包まれるように曖昧になっていく。
最後に体育館に行く。
確立としては一番、避難する場所としては一番集まりやすい場所である。
「………………」
なら最初から行けばいいのにという、思考に至った。
が、それがすぐ無駄であったことを知る。
「………………!!」
一言で言うと、
体育館は、
ミイラで、
覆われていた。
否、覆われている、というよりは「ミイラの山」ができていた。
老若男女、犬猫問わず、たくさんの肢体が折り重なるように詰まれていた。
「………う、うぅっ」
一面ミイラ。鼻を突く異臭は卵が腐ったような匂い。
それを目の当たりにして瞬間、嘔吐感がこみ上げ、胃の中のモノをすべて吐いた。
「う、がふぅ!…うぇぇ…うぇええ!!」
なんだよこれは!
なんだよ、これは!!
なんなんだよ…これは!!!
びちゃびちゃと酸っぱい液体を吐き出すと同時に涙がぼろぼろとこぼれる。
力が抜け、眼の前にあるスーツ姿の男性に倒れこむ。
そのミイラもやはり、どこか遠く、悠久の果てを眺めた眼をしていた。
「はぁ………は…ぁ」
未だ胃は躍動し、更にそれ以上を吐き出そうとする。
「…っつ!」
胃の中にあるものをすべて吐き出すと、胃が痛くなった。
口の周りの胃液を拭うと幾分、思考が冷静になる。
改めてそのミイラの山を見つくる。
「…なんなんだよ、これは!!」
だれにともなく、叫ぶ。
混乱する心を鎮めるように、叫ぶ。
「くそ!誰か…誰か生きてるやつ、いねーのか!?」
できるだけ大きな声を出したが、その声は体育館に木霊し、反響し、やがて聞こえなくなった。
四つん這いになった姿勢でミイラの山を凝視する。
ミイラはみな、私服やスーツ、エプロンなど普段着を着用し、あわれな蝋人形のように見えた。
「…ちくしょう。誰も…いねぇのかよ」
そう呟くと、力が抜けた足に再度、力を込め立ち上がる。
しかし、それはうまくいかず、がくがくと震える足を引きずってなんとか外に出た。
「…くっ」
瞬間暗い室内に目が慣れていたせいか。
直接目に異物を突きつけられたような感覚を受けた。
上空を見ると文句のつけようがない、見事な快晴。
―――この状況を裏切るかのような。
―――この惨事に見合わないような。
―――この現場に似付かないような。
―――そして、この舞台を嘲笑しているような。
どこまでも遠く、透き通るようなスカイブルー。
「…マジかよぅ」
その似合わない空に向かって、或いはそこにいるであろう、神に向かって。
そう…呟いた。
大学を後にすると、ある友人宅に向かった。
ベッカムの家だ。
大学から徒歩5分。
その近さ故か、自分らはそこを毎日のようにたまり場にしていた。
学生には相応しくない、結構リッチなマンションに一人暮らし。
いつもよくつるんでるやつらの中では弄られ役。
そんなヤツ、いわゆるベッカムの家に到着。
中に入ると閉め切られていた部屋のむわっとした独特の空気が外に逃げ出していった。
カーテンも閉じられ、薄暗い部屋の中を慎重に入っていく。
「ベッカム、入るぞー…」
そこにはいつもの家具や、アクセサリ、整髪料がいつもの場所に鎮座してあった。
キッチン、トイレ、寝室に足を踏み入れる。
が、そのどれもが無人。
風呂場に行くと、その光景に眼を見張る。
そこには浴槽を埋め尽くさん限りの黒々しい毛髪が霧散していた。
「………………」
声も出ない。
「ベッカム」という呼称はヤツの逆モヒカンからついたもので、そのヘアースタイルをヤツは相当気に入っていて、
毎日のようにその髪型で授業にでて、しかも、いつも必ず前に座るもんだから、そのモヒカンが邪魔で黒板が見えずらい。
そんな、どうでもいい、日常の風景を、思い出す。
なんでもない、ありきたりの、毎日を、思い出す。
「…ふん。その自慢のヘアがなくなってよかったじゃねぇか…」
そう呟いてみたものの、それをいつものように怒りながら返す人物は、
さも当然の如く、さも必然の様に、そこには居なかった。
「………………」
正直に言うと、少し、安心した。
こんな状況になって、いきなり人がミイラになるなんて…思ってもみなかったから。
その親しい友人の死体を見ずにすんだことに。
もうミイラになった人間を見るのはこりごりだ。
ベッカムの、自分が居なくなった時間に起こったことは、想像もしたくなかった。
そう思って、無人のマンションから無言で外に出た。
それから、もぐら、昆虫と、親しい奴らの家にも行った。
が、ミイラはおらず、あるのはつい先程まで、普通に食事し、遊び、就寝していた様な様相だけがそこにあった。
例えば、水分が抜けきった、まるでミイラになった、今晩のおかずになったであろう人参や大根。
例えば、開けっ放しのCDケースや、ほおってあるゲームコントローラー。
例えば、今晩入るはずの、丁度よい湯加減だった水風呂。
そのどれもが沈黙し、主人の帰りをいまか、いまか、と待ちわびているように鎮座しているだけであった。
それから、他の家も駆けずり回り、眼に見えた店を虱潰しに見て周った。
生存者はいませんかー!?と大声を出しながら歩いた。
大きな公園や市役所なども見回った。
そして得たモノは。
………得たモノは。
やはり。どこにも。「ヒト」はいなかった。という事実。それだけ。
…それだけ、だった。
すでに日は暮れ、辺りは薄く灯る街灯だけが、唯一動いているモノだと感じる時間。
月は満月で、星はたくさんの、「たくさん」では語り尽せないほどたくさんの、星空だった。
「………………」
ふぅ、とため息が漏れる。
疲れた足を引きずり、家に着く。
「あ」
と、家に戸に手をかけた時に思った。
「そうだ、ラジオ」
どうして今まで思いつかなかったんだろう、と自分の馬鹿さ加減に嫌気が差す。
情報を集めるためには、電気も水道も止まっているのなら、電池で動くラジオがあるじゃないか。
そう思い立って、家に入ると埃を被った、年代モノのラジオにチューナーを合わせる。
「よーし、電波拾ってくれよー」
祈るように、慎重に一つずつ周波数を変えてみるが、
聞こえてくる音は「ザア―――」という灰色の音以外、なにも聞こえてはこなかった。
「…駄目か…」
と、いうことはこの周辺は機能していないということになるのだろうか。
最悪、この県は、ってことになるだろう。
諦めてラジオを消す。
「…他の県は大丈夫なんだろうか………」
誰かに届くように、ここにはいない誰かに、届くように一人ごちた。
とりあえず、屋外に出て前から夢だったことをする。
それは広すぎる道路に大の字に寝転がり、大好きな彼女と夜空を見上げることだった。
そして夜が明けるまで、語り合う。
昔の事を、今の事を、そしてこれからの事を。
手を握り締めながら。
体を寄せ合いながら。
「………………」
しかし、大好きな彼女ができる前に、その彼女になるかもしれない、その人は、もう、きっと…。
「…………はぁ」
遥か上空に見えるは地球の人口灯にも見劣りしないぐらいの星々たち。
満月はその星たちの主役であるかの様に、煌々と…煌々と…輝きを放っている。
「…綺麗だなぁ」
自然と、そんな、独り言が、口から漏れ、意識は、混沌の、中へ。
『1日目〜迷走』終了
≪休憩室にて≫
カタカタカタカタ…。
カタカタカタカタ…。
タイプライターを打つ音が室内を埋め尽くしていた。
「よぅ、ゴンジさん、一服中かい?」
「見ての通り」
暑いのだろう。
上着を脱いでネクタイを外し、Yシャツ姿の無精髭を生やした人物がうちわを仰ぎながら「いやいやいや」と正面の椅子に腰掛けた。
「いやぁー若いのはがんばるねぃ、まだ仕事してるよ」
未だ机に向かっている新入社員を横目で見ながらそう話しかける。
「こんなにがんばってもがんばっても…いい暮らしってのはできないもんだねぇ」
「………………」
彼は上ポケットからタバコを取り出すとちらりと私を見た。
どうやら火がないようだった。
私は100円ライターを取り出し、彼のタバコに火を点けてあげる。
「サンキュウ」といって、彼はタバコをふかし始めた。
「どうよ?調子は?」
ん?と気軽に仕事の調子を聞いてきた。
私はまぁまぁだ。
と適当に流しておく。
「あ、そう。しあし、こんな歳になっちゃ、ムリはしたくないもんだ」
と、言いながら、紫煙を吹き出す。
「そういえば、あんた…こんなことを思ったりしたことは…ないかなぁ?」
彼は微笑し、見つめながら私に問いかける。
「この世に、この世界に…たった一人、自分だけしかいなければいいのになぁ…と」
彼は「ふー」っと、その煙を空中に放つ。
「この世界に俺ひとり、誰もいなかったらいいのにって」
「………………」
それは、とても幻想的な世界だ。
それは、とても感慨的な思想だ。
誰にも迷惑を掛けることなく、
誰にも咎められる事はなく、
誰にも指示されることはなく、
戦争がなく、現象がなく、法律がない。
そんな世界。
「わたしゃあね…」
と彼は懺悔のように呟く。
「その世界ってヤツを経験してみたかったんだなぁ」
「………………」
ふぅーと煙を放つ。
「あんたはぁ、そう思ったことは………ないかい?」
片目を薄く開け、私に、そう、問う。
その瞳は私の視線を超えて更に奥、ここではない、どこかを映しているようだった。
数分だったか、数秒だったか…沈黙が続いた後、彼は、思い出したように言った。
「…おぉっと、そろそろ時間だ。デスクに怒られちまう。それじゃあ、あんたも仕事に戻りなよ」
と、言うと彼は短くなったタバコを灰皿に押し付けて立ち去っていく。
私は彼の背中を見えなくなるまで見送った。
煙は尚も黙々と、細々と中空に昇っていく。
「………そうだな」
と、誰にともなく、そう、呟くと、再び自分の机に戻っていった。
≪休憩、終了≫
…夢を、見た。
自分の、家族の夢。
それは遠く、遠く…さらに遠い、灰色の過去の記憶。
家族と初めて遊園地に行った時の、夢だった。
幼稚園に入って間もない頃。
両親は共働きで旅行に行く暇さえなかった。
だから、とても…とても楽しみだった。
行きの車の中での会話。
普段は笑わない父親が何気ない事に笑う。
ボクはすごく、嬉しかった。
公園で食べた母親手作りの弁当。
口についたケチャップに母親が微笑む。
ボクはとても、恥ずかしかった。
歓喜しながら乗ったジェットコースター。
終始、妹が泣いた。
ボクはひどく、困った。
そして、最後、人ごみの中で迷子になった。
ボクは、泣いた。
大きな、大きな声で。
わんわんとわんわんと。
お母さん、お父さんと泣いた。
ボクはとても、とても怖かった。
迷子預かり所でボクを見つけた時のみんなの顔。
すごく心配し、不安そうな顔をしていた。
が、ボクを見つけた瞬間、
…父親が激怒した。
…母親が安堵した。
…妹がおにぃちゃん、と泣きながら抱きついてきた。
ボクは申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
だけどすごく…すごく嬉しかった。
ボクを見つけてくれたことに。
ボクを必要としてくれたことに。
帰りの車中。
だいだい色に染まる夕日の中。
世界を黄昏色に染める優しい時間。
母親の膝の上で眠るボクと妹。
母親の膝のぬくもりと夕日の温かさを感じる。
浅い眠りの中で、揺れる車の中で、暖かく見守る夕陽の中で、
こんな暖かさがいつまでも…いつまでも、ずっと…ずっと続けばいいのにな。
と、そう…思いながら、記憶は途切れた。
―――その記憶はスナップ写真の様な灰色。
―――その夢路はいろり火のような暖色。
―――その胸中は日差しに包まれるような光色。
だが、その場面は暗闇の底の方に、徐々に…徐々に吸い込まれていく。
意識は海面に浮上するかの如く。
唐突に…そして突然に、夢から、覚めた。
『2日目〜焦燥』開始
「………………」
眩しい日差しと、焼けるような暑さで目が醒めた。
一瞬、何故こんな道路の真ん中で寝ているのか分からない。
「…あちぃ」
変な体勢で寝ていたためか、体のあちこちが痛かった。
背を起こし、道路の跡がついた皮膚をさすりながら、しばらくぼーっとする。
そうすると、徐々に意識が覚醒していった。
「そっか」
昨日のことを順に思い出す。
結果、空を眺めながらアスファルトの上で寝入ってしまったらしかった。
「道路で寝たの初めてだ」
今なら酔っ払って地面と添い寝したどこぞのオヤジと語り合える気がした。
腕に着けていた時計を見る。
針はちょうど12の位置で重なろうとしていた。
「………………」
なにか夢を見ていた気がする。
が、内容を思い出そうとしても、手が空を切るようになにも…掴めなかった。
諦めて軽く首を振り、その思考を振り払う。
「起きよ」
やけどしそうなくらい、熱せられたアスファルトに手をついて立ち上がると、鈍る関節を解(ほぐ)しながら食料を求めコンビニを目指した。
家から歩いてすぐ。
常時、利用しているコンビニに着く。
店内に入ると空調がまったく利いていないむわっとする気温。
レジのいない店内は当たり前の様に人がなく、
代わりにそのサウナのような気温が「いらっしゃい…」と気だるく挨拶しているようだった。
「………………」
店内を軽く物色しながら徘徊する。
弁当モノはそのほとんどが腐っていた。
アイスのカップからは液体と化した汁が溢れている。
比較的もの持ちがいい菓子パンも全部、賞味期限が切れていた。
無事なのは菓子や携帯保存食、清涼飲料水だけだった。
「あー…食う気が失せる」
だが、さすがに何か腹に入れておかなくてはまずいと思い、携帯食と菓子、それにペットボトル数個を手に取りレジに向かう。
消費税を加えた料金を台の上に置くと、人気のないレジを後にした。
「あー!救援はまだかー!」
ブランチを食べ終わり、なんとなく家の中で叫んでみた。
あの洞窟から這い出て3日。
その間になにかが起こったんだとすれば、そろそろ救援隊の1つや2つが来てもおかしくはないはずだ。
が、偵察機はおろか、車の通る音もしない。
街は、異様なまでの静寂が支配していた。
「これは…マジでヤバくなってきやがったぞ…」
当初予想した…否、してしまった予感、が頭の中を支配し始める。
「考えろ。考えなきゃ」
鈍っている頭に渇をいれ、思考する。
今までの行動からして、この辺一帯は確実に死滅。
最低、県内は全滅している。
そしてこの救援の遅さ。
さらに被害の深刻性を考慮。
断定はできないが日本全土は死滅しているかもしれない。
最悪…。
本当に最悪、世界までもが…。
「そんな…そんなバカな………」
だが、その「最悪」さえも可能性としては低くはなく、むしろ高いように感じる。
「まさか…」
まさか、まさかまさかまさか…。
「この地球に俺だけ…?」
その結論に至ると同時に言い様のない焦燥感に襲われる。
自分はなにをすべきか。
今はどう行動すべきか。
そしてこれからどうすべきか。
そんな思考までも麻痺する。
「ちくしょうが。くそったれだぞ、俺一人なんか…」
独り言を呟き、心を落ち着かせる。
今、やるべきことは?
今、自分がやらなければならないことは?
そう、自問自答する。
大きな選択肢としては、自分から助けを求めるか、救援を待つかのどちらか。
自分から行動するメリットは生存者に会える確立が高くなること。
逆にデメリットは救援が来た場合、見逃されることになる。
救援を待つことのメリットは救援が来た場合、確実に助かる、ということ。
逆にデメリットは孤独に耐えられるかということだ。
まさに一長一短。
表裏一体。
二者択一。
究極の選択だ。
ここで回答を誤れば自己の消滅も危うい状況になりかねない。
「どうする…どうするよ」
かりっかりっと爪を齧りながら、今までの人生で、テストにも出たことのない様な問いを考え、正解のないような問題に逡巡した。
「………飯盒、ランタンと…」
手の中にあるメモ書きを順にモノを買い物カゴの中に入れる。
ここは大手生活雑貨用品店。
結局、思い切り迷った挙句ここに留まることに決めた。
否、その答えは少々曖昧。
これからはここを拠点に車で移動できる範囲で生存者を捜索する、という結論に至た。
幸いにして車の免許は持っている。
車に関してはある程度の知識と経験はある。
車は持っていなかったが、持ち主が消えた車はいくらでもあるし、ガソリンが尽きれば乗り換えればいい。
「非常識」ということも考えられたが、それはかつて人がいた時の話。
誰もいないこの世界には、すでに法律は皆無。
法律は人がいてこそ、初めて成り立つ。
「善悪もないし、綺麗も汚いもない…か」
ペンキの缶をカゴの中に入れてそう呟く。
一定の場所で生活することは、自分の居場所をアピールすることもできる。
仮に捜索中だとしても、そこに現在生活しているということが認められれば、救援も捗(はかど)るだろう。
洞窟に落ちたくらいで生き残るんだから、他にも生存者がいる可能性だって低くはなかった。
その他、諸々の指向の末、現在に至る。
「…ああ。後は燃やすもの、と」
サバイバルに必要な物資を次々に補給していく。
粗方メモに記されている商品をカゴに詰め終えると、店内から外にでる。
代金はすでにその意味を失くしていた。
「ったく、しょーもねーな…大泥棒もいいとこだ」
両手いっぱいになったカゴの中身を見て一人苦笑する。
今のこの状況、行動原理、感情。
そのすべてを、今は嘲笑するしかなかった。
「そういやぁ…俺って大丈夫なんだろうか」
家の屋根に登り、ペンキを塗っている最中に思い出した。
家屋内にいる人間は一人残らずミイラと化した。
現実的に考えれば細菌、核の類であろう事は直感で分かる。
それも即効性の。
だが、人体に有害なそれならば自身になにかしら影響がでるのではないだろうか。
生憎、医学の知識は人並みだし、細菌学も塵と言っていいほどに知らない。
けど、自分の身体になにか特別な影響は出てないことを見ると、すでにその原因となるモノはいないということなんだろうか。
「原因も調査してみるか」
図書館かどこかで調べてみるのもいいかもしれない。
素人知識でどこまで知れるか分かったもんじゃないが。
時間はたっぷりある。
限りなく余っている。
もうなにもしたくなくなるほどに。
「駄目だ駄目だ」
軽く頭を振る。
ネガティブになったら恐らくとことんまで堕ちてしまう。
その環境に順応すること。
それ即ち大事なのは心の持ち様だ。
一人暮らしで鍛えた身体が、知識ではなく経験で、感じた。
「よし、できた」
赤いペンキで大きく描かれた「SOS」の文字を見直す。
きっと、喜び勇んで助けに来てくれるだろう。
そんな感じの見事な出来栄え。
「これで救援の方は大丈夫…と」
ポジティブに、ポジティブに。
そう、再度自分に言い聞かせるように屋根から下りた。
パチパチと火花をちらす焚き火の前に座り、その美しく、燃えゆく炎を見つめる。
時刻は夕方の6時。
上空は今宵も見事な夕焼け色。
雲とそのオレンジ色が相まって芸術的な色をしている。
そんな中で、炎を見つめながら米が炊けるのをぼーっと待った。
想うは友人のことや名も知らぬ他人のこと。
生存者に会ったら。
どんな顔をしようか。
どんな言葉を挨拶にしようか。
どんな会話をしようか。
そんな、日常ではとても考えられない様なことだった。
誰とも会わず、誰とも話さない時間を3日過ごした。
人が恋しい。
人と喋りたい。
人と触れたい。
そんな孤独感を癒すために、揺らめく炎を一心に見つめる。
今日一日の行動を思い出す。
きっと、以前にも増して独り言が多かったに違いない。
しょうがないな、と思った。
人はなぜ会話をするのか。
その諸説は様々だが、生物学的にはコミュニケーションをとる為の最低限にして、最短の行為として認識されている。
人間の欲求の一つであり、一日に男性は約3000語の単語を。
女性は約8000語の単語を喋る。
と、なにかで読んだ本にそう書いてあったのを思い出す。
独り言はそれを消化するためのものなのだろうな、と思うと自分がまだ正常であることが知覚できた。
「…そろそろか」
吊るしていた鉄の棒から飯盒を取り出し、中を確認する。
少々水加減が多かったせいか、おかゆのようになっていた。
それを見て微妙に落胆する。
「…これを食わなきゃならんのか」
はぁ…と、ため息を入れつつも一応全部食べた。
ほとんど味のしない米を作業のように腹に詰める。
暖かいメシに多少、腹が満たされたものの気だるい気分は晴れそうになかった。
ふぅ、とお茶を飲みながら一息入れようと背を伸ばす。
空はすでに暗くなってその炎だけが辺りを茜色に染めていた。
明かりがいつもより薄暗く感じ、道路を見る。
と、昨日まで点いていた街頭が一つ残らず消えていた。
無人の発電機が止まったのだろう。
赤いランプを点滅させていた信号機までもが止まっていた。
「………………」
様々なモノが自分を置き去りにし、ひとつ、またひとつと力尽きていく。
今では一寸先も見えない暗闇の中、目の前の炎がまるでその最後の生き残りとでも言うように細々と辺りを照らす。
その光は徐々に…徐々に小さくなっていきやがて最後に消えた。
その様子をずっと…消えても尚、ずぅっと眺めていた。
『2日目〜焦燥』終了
≪仕事場にて≫
「お疲れ様でーす」
「んじゃお先、失礼しまーす」
仕事を終えた社員たちが自分たちの仕事を終え、帰途につく。
私はそれを「お疲れ」と短く返すと再び作業に戻った。
カタカタカタカタ…。
カタカタカタカタ…。
社員のいなくなった室内にタイプライターを打つ音が木霊する。
「あれぇ?ゴンジさん、まだ残ってたんですね〜!」
若い女性社員が気さくに話しかけてくる。
どうやら彼女も今仕事が終わったようだった。
「あ、もしかして…終わらなかったんですか〜?仕事遅いですね〜」
彼女は、くすくすと意地の悪い笑顔を浮かべながらそう嘲笑した。
「………………」
カタカタカタカタ…。
カタカタカタカタ…。
私は何も答えず作業を続ける。
「あ、あ、無視しないで下さいよ〜。これ、あげますから〜」
と言うと、紙コップに入ったコーヒーを机に置き、「差し入れです」と言いながら、私の隣の席にちょこんと座った。
「帰らんのか」
「あ、えーと…帰っても暇なんで、ちょっと暇つぶしです」
てへ、と彼女は短く笑う。
どうやら話し相手が欲しいようだった。
「はあ、誰もいなくなっちゃいましたねー」
感慨深げに薄暗くなった社内を見渡す。
「あぁ」と、私は作業を続けながら適当に相槌をうつ。
彼女は私を眺めると「ん〜」と一瞬悩む仕草をした。
どうやら取り合ってくれない私にどんな会話をしようか悩んでいるようだった。
「………………」
残業している私を気遣うそぶりはまったくない。
「あ、そうだ!あのぅ…」
と、一旦間を入れ、
「人って絶海の孤島に孤独にいてどのくらい生きられると思いますか?」
彼女は唐突にそう、質問してきた。
「………………」
質問の意図が分からず、自然に手を止める。
「最近見た映画にそんな物語があったんです。その人は絶海の孤島に一人で取り残されて 話し相手欲しさにボールに顔を書いて、それを友達と思って話しかけたっていう。結局、そのボールは波にさらわれて、主人公が大泣きしてしまうって話なんですよ」
彼女はその情景を思い浮かべながら語る。
「それって、どこか滑稽なんですけど、物悲しいですよねー」
と、くりっとする瞳を私に向ける。
「………………」
彼女は何を想ったのか、
「私はやっぱり、人が居るところがいいなぁ…」
そう呟いた。
その言葉は誰に発したものだったのか。
声は暗闇に溶け込むように余韻を残しながら消えていく。
と、彼女は唐突に、
「あ、いっけいない!行かなきゃいけないとこ、あったんだ」
がたたっと椅子をひっくり返しそうな勢いで立ち上がる。
「とと、それじゃお先失礼します。お相手させてすみませんでした」
ぺこりと短くお辞儀すると彼女は彼女の行くべきところへと駆け出す。
「あ、そうだ」
と、彼女は駆け出したその足を止めこちらを振り返る。
なんでもない事の様に。
出社した時の挨拶でもするかの様な気軽さで。
「あなたは…どう思いますか?」
と、聞いてきた。
彼女は、返答も待たずに「わ!やばい!それじゃあ」と、駆け出す。
その姿は程もなくしてすぐに視界から消えた。
私は想像してみる。
そこは、きっと自由で悲しい世界だ。
なにをしてもいい代わりに、なにもできない。
誰もいない代わりに、誰かが欲しい。
そんな矛盾と苦悩に満ちた世界。
怪我をしたらだれが助ける?
病気をしたらだれが治療する?
「………………」
暗くなって誰もいない社内をしばらく見渡しながら私は、
「………そうだな」
と、独り言のように、そう、呟き、タイプライターを閉じた。
≪仕事、終了≫
「よし、こんなもんだろ」
トランクの中にある救命道具や道路地図、食料を確認すると、景気づけにトランクをバンッと思い切り閉めた。
じりじりと照らし、ぎらぎらと光り続ける太陽の下。
アスファルトは陽炎が揺らめき始め、じき温度は最高気温になる時間。
自宅前でエンジンをふかしている車の上に腰を下ろす。
缶コーヒーを開け、本日の大体の行動を頭の中で反芻した。
時刻は11時30分。
今日から、自宅から移動できる範囲を捜索することに決めた。
そのために午前中、カギつきの車を調達していおたのだ。
「久しぶりでこんなの運転できるか、な…」
グビッとコーヒーを口に入れ、その車を見る。
車は眩い程の光を放っていた。
「セリカ」と呼ばれる乳白色のスポーツカー。
以前、車好きなモグラが熱く語っていた車種だ。
車にそれほど興味がない自分は、その時は「ふぅん…」程度で聞いていたが、今日、実際に見たら結構好みであることに気づいた。
こんな機会でもなければ滅多に乗れない、シロモノ。
幸運にも鍵がついたままであったが、持ち主は慌てて避難でもしたんだろう、と深く考えないことにした。
車なんてどれでもよかったが、ネガティブ思考が少しでも和らげばと思い、これを拝借することにする。
「………さて」
ボボボボボ、とエンジンを吹かすその車を見る。
「………ん〜………」
運転の経験が浅い自分にとって、車の選択を間違えた様な気がしてきた。
「まぁ…安全運転だったら大丈夫だよな」
飲み終えた缶をゴミ箱に捨て、車に乗り込む。
ボボボボボ、と振動するその車は久しぶりの運転者に喜んでいるように思えた。
「さぁ…安全運転してくれよ。生存者探しの始まりだ」
ぐっとアクセルを踏み込む。
車は、ブオオオオン!!と大きな唸りをあげ、急発進する!
「………うわぁ!」
が、勢い余ってガコンという音と共に縁石に乗り上げてしまった。
「………大丈夫かよ…これ」
早くも一抹の不安が頭を過ぎる。
生存者探しの前に、自滅しそうな感じが頭を支配し始めていた。
『3日目〜休息』開始
窓を開けると、爽快な風が車内に入り、夏特有の粘りつくような気温が和らぐ。
運転し始め、数分走ると、徐々に感覚を取り戻し、大体のコツが掴めてきた。
車内にはお気に入りの曲が流れている。
その感覚が、今、自分が非現実的な状況に陥っていることを忘れさせた。
「あー、彼女でも乗せてやりたいねぇ」
本日は天候もよし。
道路は走る車も一台もない。
ドライブにはもってこいだ。
「しかし…」
自分には彼女なんていう人はおらず。
こんな車は学生の身分では買えるはずもなく。
その理想と現実とのギャップに、随分身勝手なもんだと嘯(うそぶ)く。
「まぁ、いいさ…」
まぁ、いい。
まぁ、いいさ。
今はその現実を忘れ、この状況を楽しもう。
人がミイラになった。
街は停滞してしまった。
その問題を一時保留にし、この瞬間を楽しもう。
―――車内に、流れる音楽と。
―――窓から、流れる爽風と。
―――白く、流れる入道雲が。
そのことを暫く忘れさせてくれた。
「…っと」
車を200台は止められるんじゃないかと思われる施設に着く。
…市営のプールだ。
駐車場の門にはプラスチックのチェーンが掛けられてあった。
が、それをぶっちぎりで無視し、一台も止まっていない駐車場のど真ん中に駐車する。
「…あちぃ」
車から出ると、今日も記録更新するだろうと思われる気温。
足を止め、しばらく白く輝く雲を眺める。
「いい天気だ」
じりじりと肌を照らす太陽の光。
突っ立ってるだけで汗をかいた。
「…いこ」
車に鍵を掛けようとキーを差し込む。
「っと、意味…ねぇか」
日常の何気ない行為が。
癖の様になっている普通の行為が。
今となってはすべてが愚行に感じ、苦笑してしまった。
鍵を掛けることを諦めると、施設の入り口の前に着く。
ガラス状でできたドアには当然の様に鍵が掛かっていた。
「…ふんっ」
押しても引いてもそのドアは開かない。
辺りをきょろきょろと見回すと、花壇の脇にコンクリートの塊を発見した。
その一つを掴み、思い切りドアに投げる。
ガシャァーーン!と大きな音をたてると、ガラスは粉々に粉砕した。
「…気持ちいい」
その行為に笑いがこみ上げる。
穴が開いたドアを見つめ、多少、罪悪感が募りながらも、施設内に入った。
暗い通路をいくつか抜け、広い空間に出る。
「…おぉ、水だ」
透明な、窓から降り注ぐ日光が水面にきらきらと反射するプールが目の前に開かれた。
「うわー、貸し切りだー」
小学生の頃の、プール開きの時のような高揚感が沸き立つ。
そういえば、今夏は海にもプールにもいっていなかった。
焦る気持ちを抑えつつ、服を脱ぐ。
「うはっ、冷たい」
体に水を掛けると、久しぶりの爽快感を感じた。
思えば、洞窟から出て三日。
水道が出なくなり、風呂にも入っていない。
一応その間はミネラルウォーターの水を染込ませたタオルで体を拭いていたが、いい加減体と髪の毛は臭くなっていた。
「あぁー、気持ちいい」
頭から水を被ると、持ってきていた石鹸とシャンプーで体を洗う。
一通り洗ってからプールの水を掬い、それらを洗い流した。
「さっぱりだ」
久しぶりの感触に気分が幾分落ち着く。
「…さて、さてさて」
洗い終わった体でプールを見る。
すごく、すごーく、ものすごーく、飛び込みたい気持ちに駆られた。
こんなことをしている暇はないのに、と一瞬頭を過ぎったが、なに、時間は腐るほどある。
少しぐらいなら…いいよな。
と思いつつ、4、5メートルじりじりと後ろに下がる。
壁に背がついた瞬間、
「蒼月、いっきまーっす!!」
脇の下に手を当て、ピンと手を上に上げると、
「とうっ!!」
ダッシュして大の字でプールに飛び込んだ。
一瞬、浮遊感。
空を飛んでいる感覚を覚える。
しかし、その刹那後、体の前面、全部を思い切り水面に打ち付けた。
「ぷはっ、いてぇぇぇぇ!!」
打ち付けた体を擦る。
後で赤くなりそうなほど、痛かった。
「はぁー。でも気持ちいいなぁー」
痛みが引くと、すぃーすぃーと水の中を泳ぐ。
「はぁ〜〜〜」
暫くぶりの水泳にしばらく没頭した。
―――数分後。
その感触を楽しんだ後、疲れた体を水面に浮かべる。
その視線の先には天窓から注ぐ太陽の光。
室内はしぃん…と静まり返り、水がちゃぷちゃぷと跳ねる音しか聞こえない。
「…はぁ」
しばらく、ぼぅ…っと空を見上げた。
青く、尚も青く、その空は透き通るような蒼色。
その色を見ていると、この現実、この状況を不意に思い出す。
「…いかんいかん」
ネガティブになっちゃ駄目だ。
そう、自分に言い聞かせるが、あまり功をなさなかった。
「…出るか」
一人で楽しみ、
孤独に終える。
プールからでると、やはりしぃん………と無音をたてるその景色を見る。
「………………」
小学校でプールに入った後の、誰もいないその景色を見ているかのような寂しさが胸にこみ上げてくる。
「…行こう」
それに見飽きると、服を着なおしてその場を後にした。
「…誰もいねぇー」
車を走らせる車内にはもう、誰も作らなくなった音楽が流れる。
直に夕焼けになりそうな気配を感じさせる、少し冷たい風。
あれから数時間、車を走らせて見たが、成果はなにもなかった。
相変わらず人もいない民家と、一台も通らない道路。
やっぱり、このまま旅にでも出た方が生存者見つかるかも、という気分に駆られた。
「………はぁ」
すでに聞き飽きたCDを取り出すと、しばらくその風の流れる音と、車が走る音の感触に耳を傾ける。
「………………」
そういえば、と思う。
そういえば、素っ裸になっても誰も文句言わねぇよな…。
と何故か一瞬思ったが、なにも得になりそうにないことに気づき、バカらしくなった。
「…帰るか」
車をUターンさせると、来た道を逆走して、自宅を目指した。
「今日も収穫なし、か」
洞窟を出て三日目。
暗くなった夜空の下で焚き火の光を頼りに文字を連ねる。
日記を、書くことにした。
もし…もしも自分が居なくなって…。
もし…もしも誰かがこれを読んでくれたのなら…。
そう思って。
「しかし、今日のは…遊んでただけかもしれないなぁ…」
今日一日の行動を思い返す。
「………………」
遊んでいた部分は書かないことに決めた。
とりあえず、今分かっていることを記しておいた方が良いかもしれない。
そう思い、コンビニで入手したノートに概要を記しておくことにした。
1.屋内にいる人間はすべて、ミイラと化していた。
2.屋外にミイラは存在せず。
3.大きな施設内には逃避したと見られる形跡があった(学校の体育館等)。
4.原因は即効性のある核や細菌の類である可能性が高い。
5.いずれも救援は困難を極める状況にあると推測される。
「…と、こんなもんか」
箇条書きで今の状況を記す。
後々分かったものはこれに書き足せばいいだろう。
書き終えたノートを閉じると欠伸が出た。
「ふわぁ…。…今日はもう寝るか」
焚き火の日を消し、家の中に入ると、布団に飛び込む。
横になりながら、なにげなく窓の外を見た。
「………………」
満点の星空の中に、欠けた月が見えた。
その欠けた月が照らすは、自分ひとり。
その月光を追う自分は、孤独な欠けた月。
その、欠けた月は、いったい、誰だったのか…。
「…ねよ」
夜空に見飽きると、薄い瞼を閉じ、終わらない、明日を思った。
『3日目〜休息』終了
≪飲み屋にて≫
「ぅおーい!!お疲れー!!」
「うし、新入社員。一気いこうか!一気!」
「だからぁ彼が浮気して、もう、大変なのよー」
「………………」
騒がしい喧騒の中、カウンターの前に座ってもう何分経過しただろうか。
ジョッキを見ると、すでに3杯目のビールが底をつきそうだった。
もう一杯頼もうか、と店員に言葉を発しそうになったとき。
「こんばんわぁ。お、ゴンジさん、わりぃ、遅くなっちまった」
オールバックな髪が整髪料でてらてらと光り、黒縁眼鏡を掛けた、いわゆるこわもての年輩が声を掛けてきた。
私の上司である。
「いやいやぁ、渋滞に掴っちまってねぇ。タクシーがもう立ち往生しちゃって…あ、店員さん!こっちビールひと…あ、いやふたつお願いしまぁーす!!!」
店員は「はーい、少々お待ちください!」と言うと、客でごったがえす店内を縫うように駆けて行った。
「悪いねぇ、遅刻しちまって。こりゃあ、明日から部下にキツく言えんなぁ」
彼は、ボリボリと額を掻くと決まりが悪いような笑いを浮かべる。
私は、「黙ってますよ」とフォローを入れておいた。
程もなく、「お待たせ致しましたー」という声と共にビールジョッキがふたつ到着する。
彼はそのひとつを掴むと、
「じゃあ、お疲れさぁん!」
と、乾杯の音頭を上げた。
きぃん、とグラスを交わすと、彼はそれを一気に飲み干す。
「…ぷっあぁー!うめぇなぁ、おい!」
と、言ったので私は「…はぁ」と、短く返しておいた。
彼は、
「まぁ!仕事忘れて、日々の唯一の楽しみを味わおうじゃあないか!」
と言うと、
「すんませーん!こっち、手羽先2本と鳥2本、それとビール1つ追加下さーい!!」
と叫んだ。
店員は「はーい、ちょ、ちょっと待って下さーい」と、狭い店内と客の対応に「あわあわ」と声を出していた。
「ま、しゃあねえ。後で頼み直すか。それより、仕事の方、順調みたいじゃないか」
彼は「んん?」と、そう言うと、私の肩に手を乗せる。
私は、「まぁまぁ」です。と、適当に流しておいた。
「かっはっは!そりゃあ十全十全!今後ともよろしく頼むよ!」
と言ってきた。
私は、とりあえず、はぁ…とだけ返しておいた。彼は、
「それより今日の新聞は見たか?」
と、今日の本題らしきものに入る。
私は「それなりに」と返した。
彼は、「ふむ…」と言うと、新聞の内容を語り出す。
「無人島で一人、助かったらしいじゃねぇか」
その結果は今朝、新聞を見た時に知った。
内容はこうだ。
無人島に11名の男女が漂流。
うち、男性10名。女性1名。
3ヶ月後、その女性だけ。
その、女性だけ、が生き残って無事保護された。
その女性は酷く衰弱し、証言は曖昧だった様だが、掻い摘むとこうだ。
その女性を奪い合って、男性たちは撃ち、刺し、絞め殺した、という。
結局、残ったのは女性一人。
その一人も精神病を患い、今は病院に移されている、という話だ。
彼は、その内容をうちに反芻するように、うむうむ、と頷くと、
「ひでぇ話だよな!」
と、笑いかけてきた。
彼はそう言うとビールを一口飲む。
「ぷはぁ。あ〜…ま、いつの世も、変わらないもんだねぇ」
というと、ジョッキに入ったビールを焦点のあっていない目で眺めた。
なにか、どこか遠く。
ここではない、もっともっと遠くを見つめている。
そう、感じた。
私は手持ち無沙汰になって、腕時計を見る。
もうだいぶ遅い時間になっていた。
私は、「もう帰らないと家内が…」と言うと、彼は、
「むぅぅ。だいぶ遅刻してしまったからな。よし、今日は切り上げるか」
と言うや否や、「すまん、勘定ー!」と叫ぶと、席から立った。
勘定を済ませ、表に出る。
二、三語話してから、彼は表を走るタクシーの一つを呼び止めた。
彼は、「んじゃあまた明日」と、足早に乗り込んだ。
ドアが閉まり、車が動き出そうとした瞬間、窓が開き、顔を出して私に問い掛けてきた。
「おまえさんはこの事件…、どう見るかね?」
と。
彼はにんまり、と笑う。
私がその問いに答えようとした刹那、「じゃ、お先」と車は前方へと走っていった。
私は、それを見送ると自宅のある方へと歩き出した。
想像してみる。
閉鎖された空間。
男女が孤島で過ごす娯楽もない日々。
それは素晴らしいバカンスと見るは愚考。
実のところ、それはケージに入れられたモルモット。
結局、人がいても殺し、奪い合う。
人が居なくても、精神が狂い発狂する。
それは矛盾。
それは混沌。
人の世は矛盾と混沌で交差される。
なんて愚かなんだろうと思う。
しかし、なんて綺麗なんだろうと思う。
私は、前方を千鳥足で歩くサラリーマンや。
ぎゃあぎゃあと騒ぎながら群れを成す学生達を見つめながら。
「………そうだな」
と呟くと、その群集を背に家路を急いだ。
≪飲み、終了≫
「あなたは、この世界で、どんなことをしてもいいんですよ、か」
こんなことを言われたら、あなたは、一体、どんなことをするだろうか?
世界一周?
宇宙旅行?
それとも…それとも、犯罪行為や人類未踏の何かをするのだろうか?
「今は…まさにその状況だな」
嘆息しながら独り言を呟く。
誰もいなくなった。
何もかも、止まってしまった。
今では誰も、何も、咎めるモノはなく。
どんな事をしても、どんな過ちを犯しても。
本当の、「自由」。
だが。
だが、しかし。
人は、いきなり、なにをしてもいい、と言われると、戸惑う。
大きな夢でもなければ、きっと、戸惑うだろう。
宝くじで1億円当たりました。
あなたは、なにを、しますか?
たぶん、大抵の人間ならば「貯金」としか、答えられないだろう。
なんでもしたい。
が、それは、なにもできないと一緒。
そして、必ず、人が何かをする時は、人がいないだろうか?
旅行、スポーツ、食事、その他諸々。
結局、人は人がいて、初めて楽しい。
そう、思う。
「自由…ね…」
なにもかもが許されるこの空間。
しかし、なにもできずにいる孤独な自分。
この生活で分かったことは。
この孤独で分かったことは。
今まで過ごして来た普通の日常の、なんでもない、暮らしと。
どこにでもいる、誰とも分からない、普通の人間との。
本当に意識しなければ分からない、当たり前の様に過ごしていたごくごく普通の、空気のような時間。
その、何気ない、時間の、ありがたみ、だった。
『4日目〜逡巡』開始
「あーもー…フリーダム!」
長時間の車の運転と、誰もいない道路と、代わり映えしない景色に飽きて、叫んでみた。
誰でもいい。
嘲笑でも、苦笑でも、なんでもいい。
笑えるものなら笑って欲しい。
そう考えるようになってきていた。
「…あちぃ」
時刻は午後1時。
夏特有の入道雲と照りつける太陽。
だるさ100%の、気だるい気温。
その温度を時折、和らげる涼しげな爽風。
それと、無音の街。
雀の歌声や。
車の行き交う音。
今週のヒットチャートが流れるはずの交差点も。
なにもかもが、現実離れしている、この現実が。
なにか、酷く、からっぽで、現実感がない。
「自由…か」
自分は、本当の自由を。
世間が使っていた安い自由、という言葉ではなく、本物の自由を手に入れた。
だけど実際、この現実、この幻想を手に入れ、
人は何かにある程度、束縛されていた方が幸せなのかもしれない。
と、そう、フロントガラス越しに見える青空を見ながら、考えていた。
「…ちっと休憩すっか」
車を公園脇に止め、車外に出る。
窓から入る風がなくなった為か。
立っているだけでじわじわと体温が上がるのを感じた。
「…あちぃ」
公園の中を眺める。
やはり、誰もなく、緩くざわめく木々の葉を見つめていると、それが現実感を帯びない、作り物の様に見えた。
「………………」
公園の中に入り、ブランコの前で足を止める。
子供の頃を不意に思い出し、ブランコに座って軽く揺らしてみた。
「…あれ、うまく、行かない、ぞ、と」
久しぶりに乗るブランコに感覚が分からず、試行錯誤する。
が、暫く乗り続けると、感覚に慣れ、徐々に勢いがつき、大きく前後するようになった。
「…と、うわー、早い」
子供の頃はこんな速度にも気後れせず、散々乗り回していたことを思い出した。
まったく、自分は一体、いつから大人になったんだろうか。
そんな考えが一瞬頭を過ぎったが、どうでも良い事だと、思考を振り払った。
「…そういえば、よく靴とか飛ばしてたっけなー。…よっと」
鎖に手をかけ、木の上に立ちながらブランコを揺らす。
さらに反動を大きくしてみた。
「………………」
揺れるように、流れる街の景色。
上を見上げると、いつもより近くなった気がする青空。
キーコ、キーコ、とブランコが揺れる音。
全身で受ける、涼しい風。
体が前に行くと、後ろに引かれ、
体が後ろに行くと、前が引かれる。
「………………」
キーコ…キーコ…。
キーコ…キーコ…。
昔の記憶、遠い過去を思い出す。
それは母が押してくれた背中。
もう一回、もう一回とせがむ自分。
そしてそれを、しょうがないわね…と苦笑しながら優しく押す、母の手。
暖かく、それでいて、力強く。
重なるように、流れように。
「………………」
キーコ…キーコ…。
キーコ…キーコ…。
しばらく、前後していた体が、ふと視界全部を空の青で埋め尽くす。
…ふいに、なぜだか、一滴の涙が零れた。
「あ、あら、」
肩で涙を拭う。
自分でも何がなんだか分からなかった。
―――それは一体、何の涙だったのか。
―――それが一体、誰の涙だったのか。
子供の頃を思い出した寂寥感だったのか。
それとも、この現実に一人ぼっちになった虚無感だったのか。
一体、どっちだったのか…。
「………………」
どっちか、かもしれなかったし、どっちも、だったのかもしれなかったが、そんなことはどうでもいいことだ。
と、揺れる景色を眺めながら、そう、思った。
「…はぁ」
空の青が、とても綺麗に、見えた。
「静かだ」
生存者の探索を早々に打ち切ると、大学の図書館に来た。
今のこの状況を知る、何かのきっかけになれば、というのはたてまえ。
本音は、なにかをしていなければ、気が狂いそうだったからだ。
じっとしていると、叫びながら走り回りたくなる気分になる。
うす暗い校舎の中に入り、辺りを見回した。
本棚が一定感覚で離れていて、いつもは静かな図書館。
その、人の気配がする静けさと全く違う静けさに、戸惑う。
「………………」
暗い書庫の中。
本棚の間からなにかが出てきそうな気がして少し怖い。
慎重に中を歩くも当たり前のように、そんなものはいなかった。
目当ての本は少し奥に行ったところにあった。
『医学全書』
医学に関わるモノを全般に収ている。
そう書かれている表紙のぶ厚い本を手に取り、ぱらぱらと眺めてみる。
医学書、というだけあって深くまで内容は読み取れなかったが、大体の内容を掴むことができた。
「…あった」
ミイラに関する記事を見つけそのページで指を止める。
ミイラのできるまで、という題目と、ミイラの写真がでかでかと掲示されていた。
そこには、観光名所にあるミイラや遺跡で発見されるミイラのその多くは、内臓を取り出し、
ホルマリンやアルコールで防腐処理される、という内容を知ることができた。
そうしないと、腐り、酸化するのだそうだ。
「…と、いうことは」
ということは、室内のミイラはそのうち腐敗してしまう、ということなのだろう。
では、あの体育館のミイラの山はどうなるのだろうか…。
「………………」
想像すると、ぞっとしない話だった。
怪談話でもこんなにリアルじゃない。
「…えーと。次は」
気を取り直し、放射能汚染についてのページを開く。
放射能を浴びた人間は皮膚が焼け爛(ただ)れ、毛髪が抜け落ち、下痢などの症状が出るらしい。
運悪く、その発生源に近い位置にいた者は核着火時の光による高熱で、その殆どが溶けるようだ。
しかし、核が投下されたのなら、犠牲者がミイラになることはないし、自身にも影響がでる。
そう考えると、この状況の原因は核ではないことが分かった。
「………………」
ならば、なぜ、自分は生き残ったのか。
生存者は、なぜ、ひとりもいないのか。
「…あの、洞窟に行ってみるか」
本を閉じ、脇に抱えると、薄暗い館内を後にした。
4日目。
洞窟から抜け出して、4日が過ぎた。
あの洞窟、後々考えてみると、うちから数十キロも離れていない、郊外の外れにある山の中にあった。
登山道の脇。
そのほんの、道を外れたところ、登山道からは死角になるような形で、その漆黒の闇を孕む洞穴はあった。
「…変わってないな」
ここから出たことにより、自分の人生は大きく変わった。
その出る瞬間まではきっと、普通の、いつも通りの退屈な大学生活をしていたに違いない。
ベッカムやもぐらと話し、飲み、笑いあっていたに違いない。
その過去を思うと、この穴がなにか重要な意味を持つ様な気がしてきた。
「………………」
懐中電灯を点け、その穴に入る。
中は以前と同じ、薄暗く土の匂いがする。
改めて懐中電灯で辺りを照らし、観察するも、決定的な何かを発見することはなかった。
「でも、なんだろう…」
以前と何か微妙に違う感じがする。
光を地面にあて、足元をよく見る。
土が湿っていて、軽く足跡がついていた。
「確か…ここで目が覚めた時は、もっとザラザラした硬い土の上だったような…」
目が覚めたときには多少、砂がついた程度で泥なんてついていなかった。
ということは、その時よりも湿気が多く含まれている、ということなんだろう。
「………………」
しかし、ここは洞窟内。
水蒸気が停滞しているのは特に不思議ではない。
もう一度辺りを確認するが、特に気になる点はなかった。
「…でるか」
洞窟内の気温に肌寒さを感じた頃、もう何も得るものはないことを確認して、丸太に足を掛ける。
「これで、地上に出て、元通りになってれば、いいんだけどな」
友達や、名も知らぬ人を想像する。
まず、動物や虫やらがいて、街に活気が戻っていたら。
「とりあえず、定食屋で飯を食おう」
独白するように、そう呟き、地上に出た。
「………………」
しかし、やはり、当然の如く、セミの鳴き声や人の息吹は感じられず。
淡い期待は蜃気楼の様に、揺らめき、消える。
「…あーもう」
瞬間、叫び、走り、のた打ち回りたい衝動に駆られた。
しかし、それを必死に自分の胸の中に閉じ込める。
叫んだ途端、きっと、狂うから。
そう、思った。
だが叫んだところで、誰が文句をいうんだ?
そう、胸の中の悪魔がささやく。
「………行こう」
街に向け、歩を進める。
なにか…暗闇の中から獲物を狙うなにかが、じっ…とこちらを見ている。
そんな感じを覚えた。
いつから、そんなモノが胸の中に入り込んだのだろう。
そいつは、ただ、じっと何をするわけでもなく、ただじぃっと、暗闇の中からこちらを窺っている。
その視線の圧力はすでに我が心身を蝕み。
いつ崩れるか、わからない、ぐらぐらした不安定なものにする。
「…負けてたまるかよ」
そう、心の闇に呟くも、その独り言には力が入っていない。
心の底からの決意ではない、虚勢のように、そう感じられた。
「結局、分かったのは、以前よりもじめじめしてたってことだけだ」
と、日記にそう記し、ノートを閉じる。
目の前の炎は、幾分、元気のないように見えた。
「………………」
食べ終えた空の飯盒や携帯保存食のゴミを横目に見る。
もう、動く気力がない。
なにもしたくなかった。
辺りを照らす炎をぼぅっと眺める。
もう、救援なんて、一生こないと思い始めていた。
もう、生存者なんて、全くいないと思い始めていた。
「………………」
きっと、それは奴らの業だ。
お前は、選ばれたんだよ。
その間抜けなアホどもから。
お前は、勇者なんだ。
「…!だまれよ!!」
がしゃーんと音を立てて、飯盒やペットボトルが倒れる。
見つめていた炎が、けたけたと、けたけたと、笑っているように見えた。
「…お前なんかに…お前なんかにぜってぇまけねぇかんな!」
嘲り笑う炎を足で踏み、もみ消す。
「くそ!くそ!ぜってぇ…まけねぇぞ…」
辺りが暗闇に包まれる。
その炎を消し去っても今だ暗闇から見られている気がしてならない。
「てめぇ!見てろよ!絶対、俺は負けねぇからな!!」
暗闇に夜空に、そう叫び終えると、足早に自室に入り、布団を頭から被った。
「ちくしょう!ちくしょうが!ぜってぇ、まけねぇかんな…」
そう、呟きながら、しばらく寝付けない頭を布団の中に押し込める。
思考する頭脳を、停止させようと、集中する。
「…ぜってぇ…まけねぇ…かんな…」
そう、心の闇に向かって独白する。
街が、いつもより、いつにも増して、静かだ、と、そう、思いながら。
しばらくして、意識は混濁に飲み込まれた。
『4日目〜逡巡』終了
≪帰宅時にて≫
「ねぇ、おじさん…」
ふと、足を止めた。
アルコールはもうだいぶ体から抜け、意識ははっきりしていた。
飲み屋から帰宅途中。
暗闇の公園の中に、1人の女の子がブランコに乗って夜空を眺めながら声を掛けてきた。
その漆黒の中に佇むその少女を見る。
その姿は儚く。
その瞳は虚ろ。
今にも消えてしまいそうな、その雰囲気に、ふと、足を止めた。
「ねぇ、おじさん。ヒトって、なんだと思う?」
「………………」
私は惹かれるように公園の中に入り、その少女から一つ開けたブランコに座った。
少女は視線を夜空に向けたまま、語り出す。
「普通ってさ、なんだと思う?」
「………………」
「言葉ってさ、なんなんだろうね?」
「………………」
「じゃあさ、色って、なんだと思う?例えば、どうして、人間の肌って、肌色なのかなぁ?」
私は、むぅ…と、呟くと、彼女は瞳を私に向けてきた。
その瞳はその少女に似合う様な、いまだ汚れていない様な、純粋な瞳。
彼女はくすっと笑うと、その瞳をまた、空に向けた。
「最近ねぇ、そうゆうこと、考えるようになったんだぁ」
夜風に肩まで伸びている少女の髪が戸惑う様に揺れる。
「運命ってなんなんだろう、って」
「………………」
うむ…と、私は短く返す。
少女は微笑を称えながら、私に視線を移すと、一気に喋りだした。
「運命ってさ、全部、細かいことまで、決まってるのかな?運命は変えられるって、みんな言うけど、もし、その運命を変えることまでもが…変えること自体が、決まっていた運命だとしたら、それは変えられないってことなんだよね?」
「………………」
私は、その少女の言葉に耳を傾ける。
「私はね、運命は変えられるって言う人は、運命をもう知っているのかなって。もう、この疑問に対する答えをしっているのかなって思うんだぁ。そういうこと言う人って、どうかなって思う」
私は、じゃあこの場面、この少女と会うことも、運命なのか、と一瞬思ったが、全然そうは思えなかった。
「あは、どうでもいっか。でも、うん、どうしてか、考えちゃうんだよねぇ」
彼女はうん…と手を夜空に向けて伸ばす。
私は、数秒、思考した後、
「運命や言葉は、見えん」
と、そう、返した。
彼女はびっくりした様に瞳を大きくし、私を見ると、
「そっか…。そうだよね。答えは、誰にもわかりませんってね」
そう、答えると、柔らかな微笑を浮かべた。
―――その微笑はどこか儚げ。
―――その表情はどこか虚ろ。
今、少女がここにいなかったとしても、違和感がないぐらい、存在感がない。
彼女は、満足そうにそう笑うと、ブランコから腰を上げ、
「今日はもう遅いから、帰るね」
と言うと、家に帰るのか、ゆっくりと歩き出した。
彼女は、「あ…」と呟くと、くりっと私の方を振り返り、満月をその背に、向けると、
「おじさんは、運命って、どう思う?」
と聞いてきた。
私は、夜空を見上げ、数秒、思考する。
「………………」
結局、わからん…と短き呟き、少女をみると、いつの間にか、少女は消えていた。
「………………」
誰もその返答を受け取ってくれることはないことに気づくと、ブランコに深く腰を沈め、夜空を眺め、想像してみる。
運命が決まっていたとしたら。
運命はすでに決定しているというのなら。
不慮の事故で死んだ人は運命なのか。
自殺する人は生まれたときから自殺するのが運命なのか。
それは、酷く曖昧で有耶無耶な事象。
それは、既に確定の有象無象な事柄。
私は、いつものように、
「………そうだな」
と短く呟くと、ブランコから腰を上げ、夜空を眺めながら、今までいたような、少女のことを、想いながら、家路に着いた。
≪帰宅、終了≫
「………………」
いた。
生存者が。
見つけた。
生き残った人を。
そして、未だ、生きていた人が。
自分と同じ境遇で世界から取り残されてしまった人が。
自宅から遠く数十キロの国道の真ん中。
ついに、発見した。
やっと、遭遇した。
5日間ずっと、ずぅっと走り回った。
家や学校や店や施設を絶えず駆けずり回った。
精神は孤独感に苛(さいな)まれた。
体力は幻滅感に勤(いそ)しめられた。
「………………」
その人は自分と同じ位の20才前半と見られる若い女性。
呆然とした表情が似合わないぐらい、凛々しい顔つきをしている。
服装はボロボロで、痩せ細った体が服の間から覗いていた。
「あ…」
彼女は自分を見ながら驚いたように目を見開き、口を開け、言葉を失っている。
自分もまたその相手と同じような府抜けた表情で彼女を眺めているに違いなかっただろう。
目と目があって数秒か数分か…それとも数時間か…。
―――時間の感覚は既に喪失し。
―――感情の操作は全く頓挫し。
「あ、あ…の…」
辛うじて口からこぼれたその言葉は。
毎日毎日、生きている人に会ったらどんな言葉を掛けようか、迷った。
幾日も幾日も、どんな表情をし、どんな感情を表そうか、悩んだ。
思考して逡巡して模索した…。しかし、
「あ、あ。な、なんで…」
予想していた言葉は自身を裏切り。
備えていたモノは全てを嘲笑い。
「う…うぅ」
嘔吐感がこみ上げ、それを必死にうちに留める。
彼女はそんな自分を笑うこともなく、いぶかしむ事もなく。
出会った時のまま、少しも表情を崩さない。
「 … 」
その女性は、既に、息をしていなかった。
『5日目〜崩壊』開始
「 。 」
言葉が、分からない。
呼吸が、できない。
何かを呟いたが、何を言っているのか自分でも理解できない。
「 、 」
黒い拳銃が傍に転がっている。
側頭部に一つの銃痕。
彼女は道路に寝そべってこちらを化け物でも見ているかのような形相で自分を眺める。
―――まるでこの世界に絶望したかのように。
―――まるでこの運命を蹂躙するかのように。
「………………」
黒い。
(…なにが?)―――血が。
香る。
(…なにが?)―――人の死が。
嫌だ。
(…なにが?)―――自分の心が。
…嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!!!
(へぇ…クスクスクス。そうなんだ。クスクスクス…へぇ)
心の闇に住み着いた獣が、クスクスと、クスクスと笑う。
ケタケタと、ケタケタとあざ笑う。
「…は!はぁは、あ、ん…はぁ」
心臓はドクドクとドクドクと、焦燥する。
体温は徐々に徐々に、増加する。
思考はグルグルとグルグルと、渦を巻く。
皮膚は諤々と諤々と、痙攣する。
視線はグラグラとグラグラと、揺れ動く。
「はぁはぁ。は、ぁ…」
足の力が抜ける。
がくり、と力なく道路に伏せる。
道路にはポタポタとポタポタと、流れる汗。
思考が、できない。
彼女から、視線を外すことができない。
まるで魅せられたように釘付け。
「はぁ、はぁ…は、ぁ」
(クスクスクス…ほら、どうしたの?)
「はぁ、んぐっ…はぁはぁ、あ…」
(クスクスクス…ほら、心の底から叫びたいんでしょう?)
「あ、は…はぁ………」
(クスクスクス…ほぅら、もう爆発させたいんでしょう?)
「はぁ…あ、は、はは…」
(クスクスクス…もう、苦しまなくて、いいんだよぅ?)
「は………はは………………あはは、は」
その瞬間。
「あは、ははっはははっはははは!!!あはははっははっはははははははっはははははっはあははあはははっはははあははは!!!!!」
感情が爆ぜ、獣が闇の檻から開放された。
「ははっははは、あははは!」
もう、笑いが止まらない。
もう、世界が可笑しくてしょうがない。
この世界が、この運命が可笑しくてしょうがない!
「あははは!あっはははは!」
爆笑しながら道路を闇雲に駆ける。
手当たり次第に、駆け回る。
「あはは!あははあぁ!」
もう、どうなってもいい。
もう、何がどうなってもいい。
細く、細くなった感情の糸は切れた。
今まで必死に積み上げてきた心の枷は全て脆くも崩れた。
なにをしてもいいこの世界。
どんなことをしても許されるこの運命。
もう、なにをしてもお構いなしじゃないか。
―――何を戸惑う。
―――何を気遣う。
「あっははは!そうだぁ、もう何してもいいんじゃん!」
ちらりと横を見ると、この都会にそぐわない豪勢な家屋。
今風の前衛芸術のような色合いをするリッチな建物。
その美しい建物をメチャクチャに、全てをぶっ壊したくなった。
「ははっ!ははは!そうだぁ!」
家屋に入ると玄関に放置してあった子供用の金属製バットを手に取り、庭に面している 大きな窓ガラスに躊躇もなく、思い切りバットを振る。
「そうらぁ!!!」
がしゃああん!!と窓ガラスは大きな音を立て、粉々に割れた。
「ははは!!!爽快だぜぇ!そうら!」
もう片方の窓も割る。
その窓も痛みで悲鳴を上げているかのように、大きな音を立て壊れた。
「ははは!気持ちいぃ!全部ぶっ壊してるかんな!!」
がしゃああん!!
がしゃああん!!
と、窓ガラスはいずれも例外なく大きな音を立てて壊れる。
「そうだ!全部ぶっ壊れちまえ!全部ぶっ殺してやるぜぇ!はは、あははは!」
そのガラスの割れる音は怒り狂う心を和らげる。
―――もっと割りたい。
―――もっと壊したい。
もっと、もっともっともっともっともっと!
まだだ、まだだまだだまだだまだだまだだ!
壊しても壊しても、まだ足りない、まだ足りない!
もっと大きな悲鳴を!
もっとたくさんの肉片を!
「くくくくくっ!あははははっ!」
だが、何枚割っても、何十枚割っても、家の窓全てを割りつくしても心が治まらない。
なぜだ、なぜだろう。
おかしい、おかしい。
分からない、分からない。
「は!これでえぇ…ラストだぁぁ!」
ばりぃぃんと、最後の窓が悲鳴を上げ、粉々に砕けた。
「あはははは!ははは!はぁはぁ…はぁ、どうよ?参ったろぅ!」
汗で濡れた額を拭うと、
「ははは。あは…はぁはぁはぁ」
ガラスの破片で切れた血液の、
「はあ、はあ…あはぁ」
赤が混ざってて、
「はぁはぁ…はぁはぁ」
それを眺め、
「はぁはぁはぁ…は、あっ…」
それと同時に、
「あ、はぁ、…は、うぐあぁ…ああ…」
ボロボロと、ボロボロと。
「うあ、うああぁあ、うああぁ…ぁああぁああ…ぁぁぁ!!!」
天に向かって叫ぶように。
青空に対し吠えるように。
大粒の涙を、ボロボロと、ボロボロと、流しながら。
「うああぁああ!!!ああぁぁあああ!!!」
大きな声で。
顔をぐしゃぐしゃにして。
しゃくりをあげながら。
鼻水をたらしながら。
泣いた。
「ああぁあああうあああああ!!!」
癇癪をあげながら。
泣いた。
「うわああああ、ぁぁぁぁぁ!!!」
喚き散らし、声を枯らしながら。
…泣いた。
おもいきり、泣き喚いた。
「ああぁあああぁぁぁ!あぁぁぁぁ、んぐ!うぁあ。ああああ!」
その胸中はこの孤独の世界を思い。
どうしようもないこの状況を思い。
滅びてしまった人たちを思い。
友人たちを思い。
生き残ってしまった自分を思い。
たくさんのミイラを思い。
そして…。
「うあぁああ。…あぁぁぁあ!」
今まで生きていた。
自分と同じ、過酷な運命を辿ってしまった彼女。
しかし、本当にどうしようもなくて。
本当に、生きているのが辛くなって。
辛くて。
寂しくて。
痛くて。
悲しくて。
苦しみながら逝ってしまった、彼女を思って。
「うぁぁああぁ、ゴメン、ゴメンなぁ…。ほんとぅに、ほんとぅに…ゴメン…ゴメンよぅ!うぅ、うあぁうあああ!!」
ボロボロと、大粒の涙を流しながら。
窓ガラスが全て残さず割られ、破壊されたその家の庭で。
永遠と、刻が経つのを忘れるほど、泣きはらした。
「………………」
泣きつかれて、徐々に感情の波が引いていき、どのくらいそこで鎮座していたのだろうか。
涙と鼻水が乾いて顔がパリパリと引きつった。
辺りはもう夕焼けのオレンジ色に染まっている。
しかし、その色に哀愁はなく、感慨は全くない。
「…ひと」
その獣は自身の胸をどのぐらい抉(えぐ)ったのだろうか。
切ない。
悔しい。
怖い。
悲しい。
そして、
「…ひとが…恋しい」
そんな感情が、まるで原色と原色が混ざり合うように。
ぐるぐると、ぐるぐると胸のうちに渦を巻く。
「…ひとは、ひとはどこだ?どこにいるんだよぅ?」
ぽつりと口から零れると、力が入らない足を無理やり立たせ、フラフラと道路に出る。
「…ひと…は…。だれか、だれかだれかだれかだれか…」
フラフラと覚束ない足取りで道路を歩く。
壊れた機械のようにブツブツと呟きながら徘徊する。
「…だれか、だれかだれかだれかだれかだれかだれか………」
視界に入った家屋の玄関を開け、中を覗く。
「…だれか、だれかだれかだれかだれか!」
そこに人が認められないことを知ると、その隣の家の玄関を開ける。
「…だれかー!!!」
そうやって隣の家、隣の家、と何回も、何回も同じ事を繰り返しては、ひとを求めた。
ひとを、求め続けた。
何十件…何百件まわったのだろうか。
辺りは既に暗く、街頭も点かない道路は一寸先もほとんど見えない。
星々が散りばめられた夜空にはぽっかりと浮かぶ半月。
「…、だ…だれか…」
枯れた咽喉がちくちくと痛い。
どさ………、と地面に仰向けに倒れると丁度、顔の真上に月が来ていた。
蒼白く欠けた月は誰を照らしているんだろうか。
酷く現実感のない、ハリボテでできている様に思えた。
目に映る全てが、ハリボテでできている。
人も、家も、樹も、雲も。
水も風も空も大気も月も火も土も!
そして、自分さえも。
全てが全て、作り物のよう。
まるで、ここが舞台であるかのように。
まるで、舞台が終え一人も観客がいないステージで孤独に踊るように。
「…もう…だめだ」
頭が破綻してしまった。
心が崩壊してしまった。
何もできない。
何もしたくない。
もう嫌だ。
もう疲れた。
このままいっそ…あの彼女のように…。
「………………」
ため息さえも出なかった。
ここが舞台ならば、主役は誰なんだろうか。
これが悲劇ならば、誰が涙を流してくれるんだろうか。
その所為はすべてがどこに行き着くのだろうか。
「………………」
もういいや。
もう、どうでもいい。
このまま、どうにでもなってくれ。
作り物の欠けた月に見飽きると瞳を閉じる。
これからのこととか。
なにをすべきかとか。
そのようなすべての思考を放棄し、暗い闇の中へただただ堕落していった。
『5日目〜崩壊』終了
≪団欒時にて≫
「それでねぇ、竜宮城では、お魚さんたちがいーっぱい泳いでるのよー」
妻がその様子を手を大きく広げて表現する。
3才になる娘はその様子を想像し、目をきらきらと輝かせると、
「うわぁー…あたちも行ってみたいー」
と手を叩き、笑いながらきゃっきゃっとはしゃいだ。
私はその様子に自然と頬が緩む。
妻は娘の反応に満足そうに柔らかく微笑むと、
「そうよねぇ。じゃあ、亀さんがいじめられてて、助けてあげたら、きっと亀さんが連れてってくれるわよぉ。
だから、誰かがいじめられてたら、ちゃんと助けてあげてね」
と、妻は娘に説くと、
「うん!」
と、娘は満面の笑みを浮かべながらそう答えた。
「さ、続きは明日読んであげるから今日はもう寝ようねぇ」
「はぁい!」
妻は優しく微笑むと電気を消し、娘におやすみのキスをすると居間に戻ってきた。
私は、寝たか?とそう聞くと、
「うん。今日は竜宮城に行く夢みちゃうかもね」
と、笑いながら私の正面に座った。
「でも、」
と、一瞬間を空けてから妻は、
「浦島太郎って、結局おじいちゃんになっちゃうんだよね?亀を助けて、良い事をしたはずなのに、最後に報われない。それって何を訴えてるのかな?」
「………………」
「たぶん、玉手箱を開けるなって言われても開けてしまう人間の欲望のことを言ってるのよねぇ」
妻は嘆息しながらそう呟くと、
「それって、童話じゃなかったらかなり嫌だよね…」
と小難しい表情を浮かべた。
私はそれに苦笑する。
「でも、浦島太郎は一体どんな気持ちで亀に連れられていったんだろうねぇ?」
「………………」
未知の世界に対する好奇心だろうか。
それとも、亀を助けたことに対する期待心だろうか。
「………………」
私は、
「報酬を期待して行ったのだとしたら嫌だな」
と、本音を吐いた。
妻は、その私の様子に、ぷっと吹くと、
「うふふ、そうよねぇ。童話で良かったわよねぇ」
と、笑顔を浮かべた。
そして、何の気なしに、なんの気負いもせずに、
「あなたは…行ってみたい?」
と、妻は私に問い掛ける。
「欲しい物はなんでも手に入る。美人乙女に囲まれ豪遊できる。ふふ、面白い考えね」
そう微笑み、先に休みますね、と付け加えると娘の隣の布団に入っていった。
私はその後姿を見送って襖が閉められるのを見るてから、ふぅ…と冷めたお茶を飲みながら、その光景を想像してみた。
欲しい物はなんでも手に入る。
おいしい食事はいつでも食べられる。
美しい御仁は呆れることなく周りにいる。
それはきっとパラダイスだ。
しかし、堕落した生活も三日ともたず厭きるだろう。
そう、人間は厭きる。
欲しい物は苦労して手に入れるからこそ、その価値が見出せる。
おいしい食事をばかりを食べ続けて本当に幸せだろうか。
美しい御仁は本当は人間ではない。
永遠の命は欲しいか。
永遠の若さは欲しいか。
「………………」
私は、湯のみに入っているお茶を飲み干し、
「………そうだな」
と短く呟くと、居間を後にした。
≪団欒、終了≫
欲しいモノはいつだって手に入らない。
捜し求めたヒトでさえ、この手に掴めなかった。
「………………」
眩しいほどの日光に、閉じていた瞼からでもその光が瞳に飛び込んでくる。
視界は前面、紅い血の様に熱い。
瞼を開けるといつものように、いつもと同じように静かな街の様子。
魚が大気を泳いでいても不思議ではないぐらい、深海に沈んだ都市。
もう、自分は死んだと思った。
もう、世界は潰(つい)えたと感じた。
しかしこの世界は残酷なほど甘く。
生きることは死ぬことよりも辛い事なのだと初めて思った。
『6日目〜死線』開始
「………………」
あたかもフライパンの上で熱せられていたかのように、体が熱い。
ぼぅ…とする脳髄は射光により更にふやける。
「あぁ…そうだっけ…」
昨日の出来事を思い出し、ぼそりと呟いた。
もう洞窟を出たあの日から何日が経過したか思い出せない。
これまで何をしてきたのか考えられない。
胸を掻き毟るような孤立感。
心を苛まれるような絶望感。
そういった心の感情さえも衰退し、心はがらんどう。
もう何をしても。
更に何が起きようとも同じことだ。
昨日までの、心が焦る様な追い詰められる様な心境はなく、逆に冷静。
冷静すぎる。
一晩たってもう人を求めたいとは思わなくなっていた。
求めるのは自己の停死。
力が入らない体を幽鬼の様に、幽霊の様にふらりと立たせ、ゆっくりと辺りを見回す。 10メートル離れた所に昨日破壊尽くした前衛芸術。
窓という窓が全て割られ、そのガラスの破片が日光をキラキラと反射させる。
「………………」
以前なら「綺麗だなぁ」と柄にもなく思ったのだろうか。
今では何の感慨も、罪の意識が自分を苛めることも、沸き起こらなかった。
もういっそ消えてしまった方が…いいのだろうか…。
もううんざりだ。
今すぐに消えてしまいたい。
早く思考もしなくていい世界に行きたい。
死線を越えてしまった自分。
「………そうだな」
区切りをつけようか。
この原因が分かるまでは。
この因果を知るまでは。
それまでは―――。
「………………」
無言の内に静かな決意をすると、今日初めの一歩を歩き出す。
無音の街は陽炎に包まれ以前より更に霞んで見えた。
彼女の遺体の傍まで近寄る。
相変わらず昨日と同じ、苦悶に満ちた表情。
黒く固まり、地面に張り付いている血液。
腐蝕が始まった様な嫌な匂い。
傷口は髪に隠れていてよく見えなかったが、見ても何も得るものはないだろう。
虫がいなかったのは幸いだったか。
そんな様子を見てもほとんどなんの感慨も起こらなくなっていた。
―――心が停止してしまったのだろうか。
―――心が底止してしまったのだろうか。
暫く彼女を見下ろす様に、見下す様に眺める。
「………………」
それに飽きるとゆるりと辺りを見渡す。
近くにこの地域では滅多に、というか今まで見たことのない地名が記されているナンバーの車を発見した。
たぶん、この彼女も自分と同じく生存者を探していたのだろう。
もうちょっと死ぬのが遅かったら良かったのに。
そう、思った。
「………………」
無言で車のドアを開ける。
車内からむわっとした酸っぱい匂いの空気が外に漏れる。
中を覗くと地図や着替え、その他の生活雑貨や食料品などが入っていたが特に気になる点はない。
助手席には小柄な、ルイ・ヴィトンのバッグが置かれていた。
中を覗くとバッグの中の殆どを占めるのは化粧品やら香水など。
「特に気になる点は…ん?」
その中に手のひらサイズの女の子らしい装飾が施された小さな手帳を見つけた。
その手帳を手にとりパラパラと眺めてみる。
「日記か」
そこには今までの心情が痛々しいほどに、見るのも憚(はばか)られるほどに克明に記されていた。
日記の始まりは自分が意識を取り戻す2日前。
終わりは自分が彼女を発見した2日前。
内容は自分が今まで感じていたことを反復しているかのようにほとんど同じだった。
読み進めていくと最後のページ…彼女が自殺する前のことが約30ページ、この手帳に収まりきれない想いがびっしりと書かれていた。
一つは家族にあてたもの。
一つは友人にあてたもの。
一つは今の状況について。
一つは今の心境について。
一つは思い出を綴り。
一つは普通の将来を綴り。
流れる様に、思想するように、語りかけるように。
優しく、寂しく、ゆっくりと、しっかりと。
「………………」
手帳を静かに閉じる。
「…………ん?」
手帳の間から一枚の写真が落ちた。
拾い上げて写真を見る。
その四角い画面の中には彼女と、一人の男。
それに年端もいかぬ、まだ小さな赤ん坊。
みんな、例外なく。
みんな、屈託なく笑っている。
「………………」
おそらく結婚して間もなかったのだろう。
幸せの絶頂からいきなり不幸の谷底へ落とされたのだろうか。
それならばとてもやりきれない。
とてもやるせない。
「………………」
その写真をもって彼女の遺体の傍に行く。
「俺には…こんなことしかできないし、なんて言えばいいかわからないけど―――」
写真を遺体の脇に置き、
「どうか、安らかに」
そう語りかけると目を閉じ手を合わせ黙祷を捧げた。
生きている人はいた。
生存者は存在していた。
だが仮に。
もし、仮に他の生存者を探し出してもこの状況は変わらない。
一人二人発見できた所できっと息がつまるだろう。
希望は…既に考えられない。
もう…もう生きていることと死ぬことにはあまり意味がない。
車を走らせながら思う。
ならば…ならば、最後は家族にだけでも。
家族の顔だけでも。
「………………」
今まであまり考えない様にしてきた。
思考を停止してきた。
身近な人の死はきっと心に大きな負担となるから。
しかし今はもう。
この世界から切り離された自分がいなくなっても誰も悲しまない。
「それに…それにもしかしたら…いや」
もしかしたら、家族が生き残っているかもしれない。
僅かな…ほんの僅かな期待が脳裏をよぎったが、あてもない期待はそれが外れたとき。
それが裏切られたとき、その期待した分だけ自分に跳ね返ってくる。
期待なんてするな。
想像なんてするな。
もう心には盾がなく、些細な事に…ほんの些細な出来事にポッキリと折れてしまいそうなほどに弱く、脆い。
「…もぅ…飽きたなぁ」
運転しながらぼそりと呟く。
実家はこの都市から遠く離れ、車で10時間はかかる道程。
気軽に行ける距離ではない。
そのため、準備をするのに一旦今のアパートに戻ることにした。
昨日家に帰らなかったので一日ぶりの我が家。
その景観が全て視界に入るように道路から眺める。
騒音や人々の喧騒が喧しく家賃もお手ごろなボロアパート。
3年間ではあったが随分と世話になった。
いい思い出や悪い思い出。
楽しいことや辛いこと。
たくさん、たくさん。
色々な、色々なことがあった。
ガス代徴収で大家に怒鳴られたり。
宅飲みした時は昆虫が家の畳の上に吐いたり。
訪問セールスはしょっちゅう来るし。
勧誘広告は滝のように来るし。
壁が薄いから隣のじじぃのいびきはうるさいし。
台所は古いからゴキブリだってでる。
ダンプが通るたび地震が起きるし。
時々雨漏りだってする。
「………………」
しかし、そんなところが。
そんな、些細な日常が今となってはかけがえのないものだったと知る。
「色々、本当に色々あったなぁ…」
ずっと思い出に耽りたい気分だったが明日の準備をしなくてはならない事を思い出し、後ろ髪を引かれつつも部屋の中に入った。
身支度が全て整い、部屋をすべて綺麗に整頓した頃にはすでに夕焼けに染まっていた。
紅く染まる部屋を見渡すと洞窟から出てきて家に帰ってこれた時を思い出し短く苦笑した。
ガスが止まっていて。
電気が止まっていて。
水道が止まっていて。
空気や時間までもが止まっていて。
しかし、なにも変わらない。
あの頃と何も変わらない自分。
部屋の真ん中で胡坐をかきながら物思いに耽る。
「………………」
色んなことがあった。
色んな出来事があった。
たくさんの思い出が詰まっている部屋。
思い出せるのは友人たちの笑顔や心を満たされる幸福な時間。
思い出せるのは新しい生活が始まる期待心がこの部屋を見た時に裏切られた時の感情。
「………………」
目を閉じ、思想する。
もし、家族が生きていてくれたのなら。
もし、実家の古い友人たちが生きていてくれたのなら。
そこで暮らしてみるのもいいかもしれない。
と、僅かな期待が頭を過ぎる。
「………………」
期待をしないと誓いながらもしてしまう自分。
人の心は矛盾だらけだと思った。
「はぁ…疲れた」
目を閉じたまま寝転がる。
昨日は色んな事があって心の整理もつかない。
道路なんていう最悪極まりない環境で寝入った。
そのせいだろうか。
数分も経たぬうちにぷっつりと。
体が停止するように。
意識が途切れる。
もう…終焉は…近い…か。
そんなことを思いながら…。
『6日目〜死線』終了
≪散歩時にて≫
チチチチチ…チュンチュンチュン…。
チチチチチ…チュンチュンチュン…。
朝霧のかかるまだ肌寒い道路を歩く。
時刻は午前5時。
植物の葉は梅雨に濡れ。
鳥達が朝の訪れに喜び歌う。
「………………」
そんな中を毎朝の日課である散歩を楽しんでいた。
「お、ゴンジさんか?」
昨夜、あの少女と話した公園に差し掛かったとき、後ろから声を掛けられた。
振り向くと、白衣を着て長い髪を後ろで二つに結んだ若い女性が立っていた。
街の数少ない診療所の女医さんである。
私は、おはようございますと短く挨拶した。
「うん。おはよう」
と、にやりと言う表現が当てはまる様な笑顔を私に向けた。
私は、急患ですか?と問うと、
「あぁ。まぁ、ちょっとな」
と、薄い苦笑いを浮かべた。
「ちょっと…患者さんがな。そうだ、もし暇ならちょっとそこでお相手してもらえないか?」
と、隣の公園を親指で指すと有無を言わさず公園に入っていった。
どうやら誰かと話をしたい様だった。
私は、既に公園に備え付けられているベンチにどっかりと、仕事で疲れた体を休めるように座る彼女の隣に腰を下ろす。
「朝早くからは応えるな」
と言うと慣れた手つきでタバコを取り出し火をつけ、ふぅ―――と大きなため息に似た嘆息をした。
「今日の患者さんは、な」
彼女はそこで一旦区切ると、
「…自殺しようとしていた娘さんの所にいったんだよ」
と肺にたまった煙を吐き出した。
「医者が患者の情報を口にだすのは憚られるんだが…まぁ独り言だと思って聞いてやってくれ」
私はうむ…と短く呟く。
「彼女はどうやら過去に大きな心の傷を負っていたらしい。詳しくは聞けなかったが、自殺はその殆どが精神の病でな。
精神科でもない限りは深くは踏み込めない、複雑な…色んな線が絡まり、こんがらがった問題なんだ。で、その心の傷
…いや、精神の死っていうのか…を経験すると死に対する意識が強くなるんだそうだ」
彼女はふぅ…と一旦区切る。
「たぶん、大きな挫折や失敗…だったんだろうな。昨今は自殺者がとても増えていて毎年ずっと記録更新中だな。
近頃のオヤジどもはよく挫折をしろ…と言うのだが、私はそうは思わない」
タバコを口にし、煙を吐き出す。
「ヘタをすると精神が死んでしまう。肉体的には死なないが、精神的には死ぬ。つまり、生きながら死ぬ…生きていないし、
死んでいない…そうゆう中途半端な、生ける屍の様になってしまうからだ」
彼女は一瞬、ほとんど分からない様な一瞬、悲しそうな表情を浮かべる。
「私個人の意見ではあるが、人はその精神の死っていうやつは経験なんてしない方がいいと思う。
そんな経験は本来の人の生き方ではない、と思うからな…ははっ喋り過ぎたか」
私はいや…と短く応えると、彼女は薄く微笑した。
「きっとそんなヤツはもっとたくさんいるし、これからも増えるだろう。両親の離婚とか、大学の失敗とか…。
それを食い止めるのが先決だと思うな、私は。そうしないと…」
彼女は一旦間を入れると、
「日本中から人がいなくなっちまうぞ」
と私を見ながら豪快に笑った。
私は無言に笑わなかった。
「なんてな。あんたは、」
彼女はフィルターに近くなってしまったタバコを地面に捨て、足の裏で捻り消すと、
「あんたは、どう思う?どう…考えるよ?」
と、問うてきた。
私は、無言に思考を巡らす。
自殺の耐えない日常。
人間が消えゆく世界。
人々は死ぬことばかりを考え。
世界は終ることばかりを想い。
人が居なくなってしまった街。
時間が停止してしまった街。
さながら深海に沈んだ古代都市のように。
「………………」
死線を越え死に至る。
が、その死すらもできない、死ぬことよりも生きることの方がつらい人生。
私は…ふむ、と呟き、苦悩を浮かべる私を眺めると、なぜか彼女はにこりと笑いベンチから腰を上げた。
「さぁーて、仕事がたんまり残ってるからな。私はこれで失礼するよ。お相手ありがとう」
と言うと、歩を進める。と、彼女は振り向き、
「今度は娘さんを連れて遊びにでも来てやってくれ」
柔らかな微笑を浮かべると、手を振りながら診療所に向かっていった。
恐らく彼女は、私や世の大人達に、考えて欲しかったんだろうと思う。
そう、思いながら私は、散歩の終わりに、雑談の終わりに、
「………そうだな」
と呟くと、家に帰るために。
私を待ってくれている人のために。
私を、必要としてくれている人のために。
…歩み出した。
≪散歩、終了≫
車に入っている荷物を粗方確認すると、トランクを閉めた。
時刻は午前6時。
今日も残酷なほどに晴れ渡る快晴。
孤独な太陽はじりじりと、じわじわと地上を照りつける。
「………………」
ふいにセミの声が聞こえた。
驚いて辺りを見回すも人は愚か生き物はやはり、例外なく存在しなかった。
あぁ…と一人頷く。
きっと、子供の頃の思い出だったんだろう…と。
後ろを振り向きもうその役目を果たさない、誰も居なくなったアパートを眺める。
もう、きっとここに戻ることは…ないだろう。
様々な思い出が沢山詰まった自分の家を見納め、車の中に乗り込むと、キーを回しエンジンを掛けた。
『7日目〜聖夜』開始
途中、何度か車を乗り換えなんとか実家に辿り着いた。
時計を見るとすでに夕方の4時。
辺りはだいぶ涼しくなり、じき夜の帳が下り始める。
「………………」
久方ぶりの我が家に帰ってきた。
家の外観。
庭の景観。
そのどれもはほとんど変わっていない。
玄関にはガーデニング用に育てられた鈴蘭や向日葵。
庭には両親が育てていたトマトの苗。
だが、そのどれもがミイラの様に乾燥していて世話をする人間がいなくなった事を物語っていることに、胸が痛む。
「…ただいま」
ガラリと玄関の戸を開ける。
懐かしく、安心できるような匂いが広がっていた。
靴を脱ぎ、揃えて並べ玄関に足を踏み入れる。
「………………」
なぜだろう…手が震え…緊張する。
家族の遺体を見るのが怖いのだろうか…。
目の前にあるダイニングの戸を、高鳴る心臓を押さえながら開けた。
「………ふぅ」
ダイニングにはなにもない。
綺麗に整頓され、来るはずのない誰かを永久に待ち続けている。
生活している様子はそこからは窺えなかった。
「………………」
バスルーム、トイレ、キッチン、客間…。
それらの部屋を順に足を踏み入れたが、家族の遺体はどこにもない。
あの大学の体育館の様な大きな避難場所に逃げたのだろうか…と巡想しながら階段を上がり両親の寝室と妹の部屋がある二階へ。
まず、両親の寝室を開けた所で…、
「っ!―――っは。あ」
二対の布団が敷かれ、その上に眠るように横たわる両親の遺体。
顔は痩せこけ、枕の脇には散乱した毛髪が幾つも、折り重なるように落ちている。
避難所へ行かなかったのだろうか。
それとも行っても無駄だと感じたのだろうか…。
どちらにしても我が家の布団で安らかに逝くことは、とても幸せなのかもしれない。
表情は安らかで…まるで一片の悔いもないような、本当に安らかな寝顔。
その表情を見て感情は大きく揺れることはなかったが…、
心が―――とても寂しい。
心が―――とても切ない。
体は………とても冷たい。
体は………とても悲しい。
そして、体は―――いまも感じる。
いま…この瞬間も、この現実に、自分が、生きていることに。
「………………」
吸って…はいて。
閉じて…開いて。
ゆっくりと…静かに、呼吸と瞬き。
「………………」
寝室の戸を静かに閉めた。
「おやすみ」と優しく、声を掛けながら…。
起こさないようにゆっくりと…。
戸の隙間が完全に閉まるのを見届ける…と、
お父さんと…お母さんとの思い出が走馬灯の様に脳裏を駆け抜けていった。
遊園地で遊んだこと。
授業参観に来てくれたこととか。
お弁当を作ってくれたこと。
運動会に来てくれたこと。
まるで古いアルバムを紐解くように。
まるで色あせた写真を愛でるように。
瞼が熱くなる。
瞳を閉じたその隙間から、もう出ないと思っていた涙があふれる。
涙が…熱い。
涙が熱いということに初めて気付いた。
生命が…熱い血液をもつ鼓動が…。
ドクンドクン…と、生きていることを実感させる。
「…………!!」
涙を拭き、思いを断ち切る。
自分にはまだやらなければならないこと…見届けなければならないことがある。
そう、自分に言い聞かせ妹の部屋へ。
がらりとゆっくりと…寝ている妹が起きないようにと、戸を開け、
妹も両親と同じ様にベッドの上で布団を被りながら静かに、眠っていた。
瞼を閉じ、柔らかく微笑んで。
「………そうか」
両親と妹はきっと、いつもの就寝する時の挨拶を。
「おやすみなさい」と声を交わしながら布団に入ったのだろう。
また…明日も。
また…明日も、いつもの朝が来ますように…と願いながら。
西から陽が昇り、東へ赤く沈み、また陽が昇るのを待ち望むかのように。
「………………」
幸せだった。
幸せだった。
きっと、とても幸せだった。
特になんの裕福もない、ありきたりの家族。
どこにでもある、普通の家庭だった。
俺は、思う。
人類最後の日に何をするか…問われたら。
きっとこの家族のように過ごすだろう…と。
普通に学校に行って、普通に友達と遊んで。
普通に食事して、普通に会話して。
それで、最後に、普通に…眠る。
また…明日も。
また…明日も、いつもの朝が来ますように…に、と願いながら。
「ふっ…うぅぅぅ」
俺よりも短い生を終え、しかしそれでも…楽しかったに違いない。
涙がボロボロと零れる。
どうして世界はこんなにも寂しいのだろう。
どうして生きることはこんなにも悲しいのだろう。
「………………」
戦隊モノのヒーローと。
悪者の怪獣。
絶対善と、絶対悪。
そんな白黒つく、はっきりした世界ならば尚もこんなものではなかっただろうに。
ぬるま湯に着け、時には快楽を。
そして時には鈍痛を。
ゆっくりと、徐々に、適度に、繰り返し、繰り返し、更に繰り返す。
まるで飴と鞭で使われる奴隷のように。
生きろ、生きろと遺伝子が疼く。
「………………」
涙を拭きすぎ、赤くなった顔を勉強机の上に向ける。
そこに、一冊の、「日記」と大きく、書かれた、妹の、遺書を、見つけた。
「―――原因は彗星の追突と原因不明のウィルスです」
「―――――!!」
唐突に事件の真相が暴かれ、驚いた。
食い入るように、その日記帳を眺める。
「恐らく、彗星追突時における衝撃で地上の人間のほぼ7割が消滅。彗星に付着していた、若しくは突然変異体のウィルスが蔓延。
効果は人間及び他の生態系の水分を搾取する、即効性のモノで水分を吸ったら死ぬタイプのようです」
「………そんな」
確かに、自分はあのじめじめした洞窟内にいた。
いた…けど、そんな不確かな状況で…。
「現場付近にいた人は既にミイラ化。生きているほんの一握りの人はほとんどが脱水症状を訴えています。」
「………………」
「恐らく、そのウィルスは湿気や水気のある所を嫌う。生存したければ、そのような場所に即座に避難することを…」
「…だ、だから俺だけ…生き残ったのか…」
あの洞窟…。
この間行った時には湿気が増していた。
ウィルスが…湿気を吸っていたってことか…。
「…その後、各地の原子力発電所、軍の生物兵器開発所、その他の施設セキュリティが崩壊。じきに氷河時代とも呼べるような、
恐竜が絶滅したと同じ要因でこの地から生物が絶滅するでしょう」
「………う、うそだ」
今はまったくの夏日。
目立った…、というか、自然体系に目立って以上はないはず。
異常が発生するまでの…タイムラグがあるというのか…。
「以上が、私の調べた、というかマスメディアや避難指示に当たっていた軍の関係者から得た情報…です」
「そんな、そんなそんな…」
ぺらぺらと早足で眺める。
ぺらぺらとぺらぺらと飛び飛びに眺める。
そして、最後のページ…。
「これをみている かた に 」
「…………!!」
なんだ、何が起こった…。
急に弱々しい字になった。
「これをみ ている かた に もう も うわ たしに は じ か んが の こっ ておりま せん
こ の に き をよ まれて い る あなた に 」
「………………」
ごくり、と咽喉が鳴る。
「 さい ご には ど う か わ ら って きお く を か き 」
「 お に ぃ ち ゃ 」
「 」
「………………」
日記の最後には、そう、綴られていた。
力なく、最後の力を振り絞ったであろう文字はそこで費え、消えている。
もう一度最後の一文を眺め、日記帳を閉じた。
「………そうか」
寝ている妹を見る。
そしてこの天井の向こうに広がる青空を眺める。
今なら、こんな…物理的に遮る天井など、どんな意味を成すものか。
青空の向こうに…みんないる。
みんな、そこにいる。
手を伸ばせば…きっと届くように。
目線を下に下ろし、ベッドの傍に腰かける。
「………おう。にぃちゃんだぞ。今、帰って来た。ははっ結構こんでてな。遅くなっちまった」
妹の、しわがれた、手をとる。
「もう…もう、どこにも行かない。ずっと…ずっと一緒だからな」
そう語りかけると、慈しむように飽きることなく髪をなで続けた。
外が暗くなり始め、部屋にも漆黒が入り込んできた。
「………………」
もうあまり時間は少なくないのだろうか。
窓の外を眺めると、季節外れの雪が舞い始めていた。
ちらほらと、せつせつと降る雪は、最後に残された優しい命の欠片。
そのかけら達が残した記憶は地面を、家々を埋め尽くすように白く輝き、地上を優しく包む。
直に氷河時代…と呼ばれるモノがくるとか、もう関係ない。
俺はカーテンを閉めると妹に「おやすみ」と声を掛け、静かにドアを閉めた。
そして、自分の部屋へ歩を進める。
ぎしり…ぎしり…と鳴る床板が冬の雪が降る静かな夜であることを認識させた。
「………………」
自分の部屋の戸を開け、中へ。
いつもの、今まで住み慣れていた部屋。
優しく、安らかに、俺を待っている。
ベッドに横になり、目を閉じ思想した。
「………………」
窓の外からは雪がしんしん…しんしん…と積もる音が聞こえてきそう。
明日はクリスマスだろうか。
それとも正月だろうか。
あぁ、そういえば…と。
妹や両親達と、クリスマスはコタツを囲んでなぜか雑煮を食ったこともあったっけ。
高校時代のダチは酔っ払って騒ぎまくって裸で外に駆け出したこともあったっけ。
小さい頃はプレゼント交換の時、好きだった女の子にプレゼントが周ってくるかと思っ たら、隣の嫌いなやつに渡ってしまったっけ。
みんな、みんな楽しい思い出。
全部、全部が優しい思い出。
胸にしまい、すべてを優しく、しっかりと抱擁する。
右手にはあの洞窟から出た時から持っていた黒い拳銃。
安全装置を外し、撃鉄を起こす。
そしてその弾が出る方向をこめかみに当てる。
あぁ、そういえば…と。
春には家族で三菜取りに。
夏には家族で海水浴に。
秋には家族で紅葉狩りに。
冬には家族でスキー旅行に。
これからも。
四季を通じ、これからもボクらはいつも一緒だ。
毎日を喜び。
毎日を怒り。
毎日を哀し。
毎日を楽しむ。
ずっと、これからも。
ずっと、ずぅっと、これからも。
「…ははっ」
楽しみだ。
これから、毎日が流れるように。
意識なんかしなくても、心の底から楽しめるように。
「…あっははは、ははは!」
笑って、笑って、もっと、笑って。
春が来て。
夏が来て。
秋が来て。
冬が来て。
春夏秋冬、四季折々。
イベントは目白押し。
目が回らなくなるくらい、忙しく楽しい毎日がこれから待っている。
「っはは………ふぅ―――」
雪が…降る。
しんしんと、せつせつと静かに優しく。
「………………」
いつか、いつだったか、母が優しく歌った歌。
自然と口から、こぼれる。
―――きよしこのよる―――
―――ほしはひかり―――
―――すくいのみこは―――
―――みははのむねに―――
―――ねむりたもうゆめやすく―――
「………ははっ。柄じゃねぇか」
ふぅ…と自嘲気味に溜息をする。
そうだ、明日は…みんなで雪合戦でもしようか。
妹に集中攻撃しよう。
あ、でもお父さんは結構強そうだな。
そんで、お母さんは俺のチームっと。
「…ははっ…。楽しみだな」
そう、呟き最後の笑みを溢すと。
乾いた、銃声が、一つ、静かな夜に、木霊した。
―――お兄ちゃん、最後、ちゃんと笑った?
妹が嘲る。
―――え?笑ったって。満面の笑みでな!
俺は笑う。
―――お母さんは見てたわよ。こっちも笑いたくなるぐらいな、とびきりの笑顔だったわよ。
母がはにかむ。
―――うん。お前も随分と大人顔負けの笑顔になったもんだ!
父が誇る。
みんな…みんなが…いる。
みんな…みんなが…笑っている。
全員で…笑っている。
じゃあ。
と俺は、声をかけ、最後に、みんなを促す。
みんなで一緒に―――あの、光の下へ―――…と。
『7日目〜聖夜』終了
≪就業時にて≫
プルルルル…プルルルル…。
プルルルル…プルルルル…。
「ゴンジさーん、外線2番にお電話でーす」
社員は社内に響くような大声で私に声を掛け、自分の仕事に戻った。
私は、受話器を取り上げ、外線のボタンを押す。
「…私だ」と話しかけようとした刹那、
「ゴンジさーん!ちょっと、調べモノお願いしたいんですけどー!」
と、なにやら危機迫った調子で早口に喋り出す。
声からすると、どうやら昨日残業中に話した女性社員のようだ。
彼女のデスクを見ると、「只今出張中で〜す」という札が掛けられてあった。
「…なんだ」
「はい。え〜っと、太平洋にある海底に眠っている都市の由来を調べて欲しいんですけど〜!」
「…分かった」
私はパソコンに向かいインターネットに接続すると、その件に関する記事を探し出す。
「………これか」
“R'lyeh(ルルイエ)”
海底都市に纏(まつ)わる神話に登場する海底に眠る都市の名。
人類が発生する以前に神々達が争い、クトゥルーと呼ばれる旧神が幽閉された、とされるいわくつきのある場所。
太平洋の深海にあるとされ、今だ人の手が加えられることなき、幻の都とされている。
「………………」
「わかりました〜?」
私は大体の概要を教え、神話については後で送る旨を伝えると、
「あははっありがとうございます〜。またコーヒーでも奢りますねっ」
と、笑いながら話している様子が聞き取れた。
私は、「仕事か」と嘆息混じりに吐き出すと、
「いやいや、私事ですっなんつって!」
「………………」
「………………」
「………………」
「…あれぇ〜〜〜………」
どうやら滑ったようだ。
このテンションにはついて行けない…というかついて行きたくない。
私は、「そうか」と短く答えると彼女は、また、いつものように、
「そこって、どんな所だと思いますか?」
と、私の意見を聞こうとする。
「どうした、バカンスにでも行くのか」
「や、まぁ、ちょっと訳ありで…。一応ゴンジさんにも関係あるかもしれないし、ないかもしれないしっ」
「………………」
どうやらあまり突っ込んで欲しくないらしい。
彼女は「わ、やばい!」と短く叫ぶと、ばたばたと、電話からでも聞き取れるくらい慌しくする。
「なんだ、どうした!?」
「やぁ〜…実は外回りの仕事で時間がないのですよ!」
「それなら、早く行けよ!!」
「わあ!怒った!それじゃ、ありがとうございます!ゴンジさんもよく考えて…あっ、あっあっ…」
と、いきなりガタッという音がして通話が切れた。
…どうやら携帯を落としたようだ。
私は、はぁ〜…と深くため息をつき、受話器を置く。
「………………」
なぜ、そんな話をしてきたのだろうか。
なぜ、そんな事を聞いてきたのだろうか。
私はその深海に沈んだ都市について、想像してみる。
光も当たらぬ、人を寄せ付けない、古代都市。
神々が争い、憎しみあい、奪い合ったその遺跡。
そこに眠っているのは人ならざるものなのか。
そこに眠っているのはかつて人だったものか。
深海に沈み、静かに音もなく存在し続ける。
一人もおらず、群集に悩み、苦しむこともなく。
孤独に耐え、孤独に飢えることもなく。
殺し合いは皆無、騙し合いは絶無。
言葉もなく、普通もなく、色もなく、運命もなく、価値もなく。
竜宮城のように、あちらこちらに魚が優雅に泳ぎまわり。
自害は存在せず、そのため命も存在せず。
自由で、楽園で、桃源郷のように時間もない。
しかし、孤独で、寂しくて、地獄のように、なにもない。
「………ふむ」
想像してみたが、全く分からない。
私に関係あるのだろうか。
「………………」
彼女は…苦手だ。
私は、ふぅ…と嘆息するといつもの口癖を。
物語の終わりに。
「………そうだな」
と、呟くと、再び自分の仕事を再開し始めた。
≪就業、再開≫
……………………
…………………………………………
………………………………………………………………
……………………………………………………………………………………
…………………………………………………………………………………………………………………………
―――ソ―――
ヒカリガ………ミエル………
―――ソウ――
ヒトスジノ………チイサナ………ヒカリガ………
―――ソウヅ―
ヒカリガ………ヨンデイル………
―――ソウヅキ
ダレダロウ………ダレナンダロウ………
―――そうづきいぃ………
ダレカガ………ナイテイル………
―――そうにぃちゃああぁあん…
ダレカガ………サケンデイル………
―――そうちゃん………
コエヲカラシ…コエヲフセテ…
「………………」
あぁ…きっと…これが『天国』って…やつなんだ…。
力強く…しかし暖かな…輝く…光へ…。
徐々に…ゆっくりと…光の方へ…近づく。
「………………」
きもちいい…。
あったかい…。
まるで…母の胎内に…もどったみたいだ…。
あったかい…。
きもちいい…。
「………………」
トクン…トクン…と。
トクン…トクン…と。
優しく…流れる…子守唄のように…。
トクン…トクン…と。
トクン…トクン…と。
そして…光の方へ足を踏み入れたその瞬間―――
光が―――爆ぜた―――
「っはあ!はぁはぁはぁ、あ、あなたぁ…」
「ああ…あぁ…よく…よくがんばったな!よく…がんばったなぁ!」
「ふんぎゃあ!ふんぎゃあぁぁ!」
しろいひとにもちあげられて、また、だかのてにもどる。
「男の子ですねぇ!元気なあかちゃんです!おめでとうございます!」
「あ、ありがとう………ありがとうございます!」
「ありがとう…ありが…とう…」
「ふんぎゃあ!ふんぎゃあぁぁ!」
………こわい。
………とても、こわい。
「ふんぎゃあ!ふんぎゃあぁぁ!」
「よく…がんばったわねぇ…。蒼月」
………そうづき?
………だれ?
「蒼月ぃ、よくがんばったなぁ………あぁ」
………ないてる。
………いたい。
「ふんぎゃあ!ふんぎゃあぁぁ!」
「あなた、髭が当たってるわよ髭が」
「あああぁ!すまん、すまん………う、うあぁあ」
「もう、あなたったら。涙と鼻水が赤ちゃんについてるわよ」
「うぅううう…すまん…すまん………」
「もう、謝ってもうしょうがないでしょ。ほぉら、パパしゃんでしゅよ〜」
「ふぎゃあぁぁ…えぇっ…えぇっ…」
たかく、もちあがる。
「パ、パパしゃんだぞぉ〜」
かおが、ちかい。
………こわい。
………すごく、こわい。
「ふんぎゃあ!!!ふんぎゃあぁぁ!!!」
「あらあら。ふふふ」
「あはは、まいったなこりゃあ…ぐすっ」
「ふんぎゃあ!!!ふんぎゃあぁぁ!!!」
「………………」
あれは………この世に生を受けた『オレ』か………。
母親の胎内でずっと暮らし、この世に生まれ出でた…『オレ』
何かもが新しく、何もかもが怖いんだ…。
「………………」
なんだか、ひでぇツラだな。
あんなに泣いて…。
そろそろ泣き止めよ…。
「………………」
―――時代は逆行し。
―――光は更に加速する。
「ほぉら、ママはここですよ〜」
「だぁだ、だぁだ」
「ほらほら、こっちまでおいでぇ〜」
てをたたき、ぼくをよぶ。
「だぁだ、だぁだ〜」
「ママはここですよ〜。ほらほら、あとちょっとだぞぉ〜」
「だぁ〜〜〜」
あしとてをつかって、ままのところへ。
「もうちょっとだぞぉ、がんばれぇそうちゃん」
「だぁ〜〜〜」
おそい。
ままは、もっともっと、とおく。
「だぁ〜〜〜ま、まぁま」
「え…?さん…ちゃん?」
「だぁ、ま、まぁま、まぁま〜」
「え…?う…うそ…」
「まぁま、まぁま〜」
「しゃべった…今、ママって…ママって…」
「まぁま、まぁま〜」
「――――――!!」
ドタドタドタ…。
ドタドタドタ…。
「も、もしもし、もしもし!あ、あああ、アナタ!そうちゃんが、そうちゃんが…」
「まぁまぁああ〜」
また、もっと、ままが、とおくなっちゃった…。
「まぁま、まぁまぁぁぁ…。ふ、ふぇえええ!!!」
「そうちゃんが…そうちゃんが…」
「な、なんだ、どうした!怪我したのか!」
「ふぇえぇええ!!ふぇえぇええ!!まぁまあああ!!」
「よ、よし、まず深呼吸して…、落ち着いて。ゆっくりと…」
「さんちゃんが…ママって…ママって…喋ったぁ」
「………………はぁ?」
「ふぇえぇええ!!まぁまあああ!!」
「………………」
あれは…初めて…お母さんを…呼んだとき…。
初めて…生まれて初めて…言葉を…喋ったとき…。
「………………」
はいはいしかできず、常に涎をたらして、夜鳴きして…。
お父さんと、お母さんを、すごく疲れさせたんだ…。
「………………」
あんなに…喜んでたんだな…母さん。
ママって…言葉にもならない…言葉に…。
「………………」
―――刻を刻み続け。
―――光は更に加速する。
「きぃ〜よ〜し〜。こぉ〜のよぉ〜る〜」
「ママ、それなんのうたぁ?」
「ふふ、今日はクリスマスって言ってね、サンタさんがプレゼント持ってきてくれる日なの」
「あ、ボクそれ、えほんでよんだことある!あかい、ひげのおじさん!」
「そうそう。そのおじさんがそうちゃんにプレゼント持ってきてくれて、眠っている間に靴下に入れてくれるのよ」
「えぇ〜…じゃあサンタさんにあえないよ…」
「ふふ、大丈夫。ママがちゃんと言ってあげるから!そうちゃんがいつも、いい子にしてますからって!そうちゃんは、なにが欲しい?」
「…なんでもいいの?」
「うん、なんでもいいわよぉ」
「ほんと?じゃあ、えっとね…うんとねぇ…、いもうとがほしいな!」
「え、えぇ…!?妹!?」
「うん!いもうとがほしい!」
「あ、あはは…うーん…えーと、じゃあサンタさんにお願いしなきゃね」
「うん!くつしたはぼくのでいいかなぁ?」
「そうね、い、いいんじゃないかしら。それじゃあ、早く寝ないと、サンタさん来てくれないぞ」
「うん!わかった!おやすみ!ママ!」
「はい、おやすみなさい」
「………………」
あれは…クリスマスの日…。
遊ぶ時に…いつも一人で遊んでたから…。
もう一人いれば…一緒に遊べるって…思って…。
「………………」
我ながら…恥ずかしい…。
しかも…妹を…あんなに…小さくて…汚い靴下に…。
「………………」
―――森羅万象をうつし、光と影を追う。
―――光は更に加速する。
「………………」
初めて、歩いた日。
初めて、母さんの母乳から離れた日。
「………………」
初めて、幼稚園に行く日。
初めて、友達ができた日。
「………………」
初めて、友達と喧嘩した日。
初めて、友達と仲直りした日。
「………………」
初めて、ランドセルを買ってもらった日。
初めて、黄色い帽子を被って登校した日。
「………………」
初めて、給食を食べた日。
初めて、学校でお漏らしした日。
「………………」
初めて、初めて初めて初めて。
なにもかもが真新しい。
なにもかもが初めて。
たくさん泣いて。
たくさん笑って。
たくさん遊んで。
たくさん眠った。
はりきった授業参観。
がんばった運動会。
たのしかった遠足。
おいしかった給食。
「………………」
こんなにも…。
こんなにも…色んな…ことが…あったんだ…。
「………………」
こんなにも…。
こんなにも…みんなと…出会えていたんだ…。
こんなにも…ボクは…笑っていたんだ…。
「………………」
―――運命は廻り続け。
―――光は更に加速する。
「………………」
幼稚園で好きになった女の子。
ボクのことを好きと言ってくれた。
結婚しようとまで言ったくれた。
「………そうだ」
小学校で好きだった体育の時間。
大好きなサッカーで思い切り走った。
みんなより一番上手かった。
「………そうだな」
中学校で好きだった同級生。
胸がドキドキした。
見るのも恥ずかしかった。
「………そうだった」
高校で好きだった部活動。
サッカーだったけど、仲間ができてとても楽しかった。
怒ったり、笑ったり、泣いたり、ふざけあったり。
「………そうだったな」
そして―――現在(いま)。
「………………」
―――光は更に加速し続け。
―――刻はある場面を映し出す。
「……………い」
俺は大学生になっていた。
大学4年生。
就職活動にスーツ姿で忙しく走り回っている。
郵便ポストから何通もの手紙を取り出し、足早に自室へ。
ビリ…と一通目をあけ落胆。
ビリビリ…と二通目をあけ更に落胆。
「………いやだ」
全部を空け終えて、表情は虚ろ。
テーブルにはチイサナ、カッターナイフ。
「………やめろ」
ソレヲ…カタテニ…オシアテ…ヨコニ…スルドク…センガ…ハイリ…。
「………やめろぉおおおおおおおおおおオオオオオオおおおおおおおおおおおおオオオオオオ!!!」
血が…吹き出て…光は…暗闇へ。
「………はぁはぁはぁ」
―――これが現実。
―――これが真実。
「………………」
自分にはこれといって好きだと呼べるものがなかった。
自分にはこれといって拘るものなんてあまりなかった。
「………………」
地下鉄で酔っ払うサラリーマンを見て、将来こんな風になるのかと、絶望した。
バイトでルーチンワークの毎日を経験し、こんな毎日が続くのかと、失望した。
「………………」
一人暮らしで癒される人もなく。
友人達が次々に内定を手にして。
「………………」
楽しいことなんてなにもなくて。
美しいものなんてなにもなくて。
「………………」
親はせめぎたて。
世間は焦らせて。
「………………」
お前は出来るやつなんだ。
お前は頭がいいんだから。
「………………」
だから生きろと。
だから死ぬなと。
「………………」
焦り、戸惑い、考え、憤り、逡巡し、迷い、思考し、疲れ、焦燥し、考察し、検討し、集い、鬩ぎ、いがみあい、議論し、別れ、見て、聞いて、喋って、嗅いで、触って、感じて、歩いて、走って、止まって、質問されて、答えて、犯し、正し、認め、無視し、流れて、消えて、消滅する。
「………………」
血が…。
赤い赤い血がドクドクと…ドクドクと…流れ出る。
命の結晶が小さく、小さく、しぼんでいく。
「………………」
俺は…消えるのだろうか…。
俺は…死ぬのだろうか…。
「………そう兄ぃ!」
「………蒼月!」
「………そう!」
妹が…俺を起こす。
後ろに母さんと父さんもいる。
あぁ…そうだっけ…この日は…奇しくも…家族が遊びに…来る日だったんだ…。
俺としたことが…そんなことも…忘れるぐらい…。
「………………」
病院で治療を受けて…。
両親と妹に説教されて…。
「………………」
死ねなかった俺はその夜、病院を抜け出して…。
ふらふらと…あの山に…死地を求めて…。
「………………」
―――みんないなくなれば、いいと思った。
―――みんな、消えてしまえばいいと思った。
―――俺は誰も必要ではない…と。
―――俺を誰も求めてなんかない…と。
―――なら、俺から消えてやろうって。
―――なら、自ら命を絶ってやろうって。
「………………」
あの世界は…自らが魅せた…己の幻想…だったのか。
はたまた俺がそう…強く望み…希望がかなった…証だったのか。
「………………」
真っ暗だ…。
何も見えない…。
これが…死か…。
孤独に…死ぬのか…。
一人で…消滅するのか…。
そして…ずっと…このまま…なのか…。
「………………」
いやだ。
暗い底で…。
孤独と…寒さに…震えながら…。
………いやだ。
膝を…抱えて…親指を齧りながら…。
無限の刻を…。
地獄の時を…。
…………………いやだ!!!
もう一人は嫌だ!
ここはすごく寒い。
ここはすごく暗い。
誰もいない。
誰も…いない。
「………………」
誓う。
俺は、己に、自身に、誓う。
もう、自分の命を自ら消したりは…しない!
もう一度、やり直せるなら…。
もう一回、元に戻れるなら…。
もう、絶対に、死んでやらない!!!
もう、誰も、悲しませてなんかやらない!!!
―――なら、強く願え。
―――心に、刻み込むように。
―――強く、強く、強く、強く、願え。
「――――――!!!」
「………………」
―――ソ―――
ヒカリガ………ミエル………
―――ソウ――
ヒトスジノ………チイサナ………ヒカリガ………
―――ソウヅ―
ヒカリガ………ヨンデイル………
―――ソウヅキ
ダレダロウ………ダレナンダロウ………
―――そうづきいぃ………
ダレカガ………ナイテイル………
―――そうにぃちゃああぁあん…
ダレカガ………サケンデイル………
―――そうちゃん………
コエヲカラシ…コエヲフセテ…
「………………」
…俺は…その…光に…手を伸ばす。
…そして…その暖かな…手を…掴む…。
…もう…離さぬように…しっかりと…ぎゅっと…にぎりしめて…。
「………………」
光が…見える。
天井に吊るされた、乳白色の蛍光灯。
「―――!そう兄ぃ…ちゃ、」
壁は真っ白でベッドが硬い。
薄く開けた目から光が容赦なく飛び込んでくる。
「―――!蒼月…!!」
消毒液の匂いがする。
鼻になにか…異物が入っていてうまく呼吸できない。
「―――!あぁ…あああ…神様…」
まだ…俺は生きていてもいいんだろうか。
まだ…俺を必要としてくれる人がいるんだろうか。
それならば、まだ、歩ける。
どこまでも、どこまでも、歩き続ける。
あの世界に。
あの運命に、そう誓った俺は、
「―――み、みんなぁ、ああ、うああああああああぁぁぁ…」
≪エピローグ≫
…みぃんみんみんみんみんみん。
…みぃんみんみんみんみんみん。
「………………」
ハンカチで汗を拭う。
炎天下の夏にセミは己の独壇場とばかりに喜び勇み、大合唱。
田んぼにはまだ早い、赤トンボが飛んでいる。
野道には向日葵が競うように咲き乱れ日光を一心に浴びていた。
「………………」
ハンカチをしまうと、今日の外回りの仕事を終えて、公園に入る。
「………………」
「………………」
そこに、一人の、青年が、ブランコに、座っていた。
自然、目が合う。
と、彼はにこりと笑うと、
「なぁ、おっさん」
と、いつか、どこかで、あったような、そんな、懐かしさを感じ、隣のブランコに、座った。
彼は再度にこりと笑うと、逞しく伸びた髭をなぞる様に擦る。
「この村の者か」
「うん、そう。というか、今はこっから10時間はかかる都会の大学に通ってて、懐かしくて実家に帰ってきたんだ。えっと…おっさんは…」
「ゴンジだ」
「ゴンジさん…は、えっと、何やってる人?」
「ルポライター…というか、編集者だ」
「そうなんだ。ん、その封筒…。確か、この村にある雑誌会社のか」
彼は私の持っている封筒を見て、そう訪ねた。
私は、あぁ、と短く返すと、その中身を取り出し、彼に見せる。
「………海底都市、ルルイエ…か」
「………………」
彼は、暫くその記事を眺めると、視線を真上に上げ、遠い青空を眺める。
「誰も…いない。何も…動かない。死んでしまった都市…か」
彼はその資料を私に返すと、
「案外、あの止まった街も、数年後…数万年後…数億年後…海底に沈み、また誰かをよぶのだろうか…」
「俺も…もしかしたら…そこに…いたのかも…しれないな」
そう、独白めいた独り言を呟いた。
私は、
「…そこは…どんなところなんだろうな」
と、視線を彼と同じく、青空に向ける。
「きっと…静かで…誰もいなくて…善と悪がない…自由で…すっげぇ怖いところだと思うぜ」
「………………」
「あれ、もしかして、これ、次の作品になったりすんのか?」
「かも…しれないな…」
「そっか。なら、気をつけたほうがいい。心の闇から…食われない様に…な」
「………………」
「もし、その物語を描くんだとしたら…。こう、書き添えてほしい」
彼は、急に顔を私に向け、瞳を閉じるとこう、告白した。
「もし、あなたが今、孤独に苦しんでいるのなら。
もし、あなたが今、命について考えるなら。
もし、あなたが今、日常に慣れ怠惰な毎日に飽きるなら。
―――考えて欲しい。
あなたを生んだ母のことを、
あなたを育てた父のことを、
あなたの身近にいる人のことを。
あなたの大切な思い出を、
あなたの大切な記憶を、
あなたの大切な日常を。
この作品で少しでもあなたがそこにいてくれたら。
あなたを必要としてくれる人が必ず、どこかに。
あなたは独りじゃない。
あなたはたくさんの幸せに囲まれている。
あなたはたくさんの笑顔に囲まれている。
それを、忘れないで欲しい。
それを、感じていて欲しい」
「……………とな」
「わかった………必ず、そう描こう」
彼は、そっか…と、満面の笑みを浮かべると、
「さて…運命はここで交わるか。物語はここでおしまい。またのご来場をってな」
と呟いた。
「………………」
彼は視線を公園の入り口に向ける。
そこに夏の日差しに溶け込むような白いワンピースをきた女性が立っていた。
彼に手招きをしている。
「はいはい、今行くよ!ははったく…。じゃあ、またな…。会えて…よかったぜ」
彼はブランコから腰を上げると、憤慨しているその女性に謝りながら向こう側へ行ってしまった。
「………………」
私もブランコから腰を上げ、空に広がる青空を眺める。
「………………」
目を細めれば、白く尚も白い大きな入道雲。
キィィィン………と飛行機雲を走らせながら飛ぶ飛行機。
…みぃんみんみんみんみんみん。
…みぃんみんみんみんみんみん。
セミがひと夏の命を謳歌し、歌いあう。
公園には学校帰りの子供たちの遊ぶ声。
砂を掛け合い、水を飛ばしあい。
ぎらぎらとひかり、じわじわと地面を照らし、蜃気楼と陽炎のデジャビュを作り出す。
「………………」
この世界は…限りなく美しい。
この世界は…とてつもなく悲しい。
この世界は…際限なく嬉しい。
この世界は…偽りなく寂しい。
「………………」
けれど、人は人がやはり恋しい。
人は人を必ず求める。
出会いと別れの繰り返し。
感動と寂寥の循環。
しかし、別れがあるから、再開は嬉しい。
出会いがあるから、別れは寂しい。
「………………」
私は。
物語の終わりに。
運命の結末の終局に。
「………そうだな」
と、細く、短く、夏の気温に吸い込まれそうに、呟きながら、地面に目をやる。
打ちすてられた新聞には、大きく目立つ様に、誇張された文字がプリントされていた。
「―――彗星群、地球に接近中―――」
…と。
R'lyeh〜海底都市〜、開始
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2005/06/23(Thu)07:10:29 公開 / ギロロロロ
■この作品の著作権はギロロロロさんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
長らくのご拝読、誠にありがとうございました。
物語はこれにて、終焉に御座います。
楽しんで頂けたでしょうか。
楽しんで頂けたのなら幸いで御座います。
それでは再度、ご観覧の皆様に感謝の意を示し、上映を終了致します。
またのご来場を。。。
では〜。