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『堕天使アレクは夢を見る』 作者:天翔 / 恋愛小説 恋愛小説
全角27266.5文字
容量54533 bytes
原稿用紙約88.15枚

「……うっ……」
 少年は小さく呻いた。その声が誰にも聞こえないように。
 少年は髪を掻き毟る。少年の手首につけられた鎖が、じゃらじゃらと音をたてた。
 空は、エメラルドの輝きを放っている。
 朝日が、昇ろうとしていた。

 Act.1

「アレク! アレク!」
 少女の声で、少年は目を覚ました。見慣れた鉄の棒の向こう側には、可愛らしい笑顔がある。ロニだ。
「ああ、ロニ……。いつもより早かったね、どうしたの?」
 ロニはくるくると巻く自分の髪を、パサッと掻きあげた。
「えへ、実はねえ、学校抜けてきちゃった」
 ペロッと舌を出すロニ。風が吹いた。彼女の白いワンピースが揺れる。
 可愛らしい仕草をする彼女に、少年は微笑む。
 彼はアレク。堕天使だ。
 堕天使といっても、普通の堕天使ではない。
 堕天使は、自ら望んで堕天するもの。そして、悪魔になった天使のことを指す。
 だが彼は違う。彼の堕天は、自ら望んだわけではなかった。
 生まれ持った黒い翼。そして血のように赤い髪と、瞳。
 これは、彼がうまれながらにして悪魔であることを指していた。黒い翼に赤い瞳、それは他の天使たちに恐怖をもたらす存在だったから。
 魔王ルシフェルの再来――否、ルシファーの再来といわれてきた。
 だが、彼は他の堕天使とは違い、普通の天使とさほど変わりはない。優しい、普通の少年なのだ。翼と髪、そして瞳以外は。
 だが、彼に惹かれるものも居た。それがロニだ。
 本来ならば、堕天使と天使は会ってはいけない。それも見習いは特に――掟を破ることになってしまうからだ。もし天使の住む世界、天界の掟を破れば、階級は落ち、死刑にされることになっていた。
 捕まった堕天使たちが入れられる石牢、そこに彼は居た。そして、石牢に毎日彼に会いに来るもの、それがロニだった。
 アレクも、いつしかロニに淡い恋心を抱くようになったが、やがてそれはいけない感情なのだと自分に言い聞かせた。
 彼女は自分とはちがうのだ、と。
「ねえ、今日は何する? じゃんけん? それとも、しりとり?」
 どうして彼女は危険を承知で、自分に会いに来てくれるのだろうか。
 アレクは、優しく微笑んだ。
「じゃんけん、しよう」
 
「……ザドキエル。やっぱりだめ、見つからないわ」
「…………」
 白き翼の天使は俯いた。男性の天使のようだ。
 彼の青の瞳が光を映し出す。目の前にある、コンピューターの光。
「もう一度、もう一度だけ……」
 彼は両手を合わせた。天使は首を横に振った。
「もう無理よ。……天界の外にいるか、それとも……」
 彼は俯いた。女性も言い過ぎた、とばかりに口を押さえる。
「ごめんなさい。……でも、辛いのはあなただけじゃあ……」
「わかってる」
 彼は親指の爪を噛んだ。ガリ、という小さい音が聞こえた。
「でも見つけたい。……あいつだけは、見つけなくてはならないんだ!」
 後ろに居た天使たちが、ひそひそとお互いにささやきあった。
「十六年前だろう?」
「ああ。なんでも、ザドキエル様のお気に入りだったらしいぜ」
「あの日から、行方不明になったっていう」
「そうだ。……あの悪魔だろう?」
「そう。黒い翼の……」
 彼は何かを思い立ったように、すくっと立ち上がった。
「あの時のあの天使……。その子に、このプロジェクトを任せてみないか」
 女性は金の瞳を大きく開いた。
「なんですって?」
 だめよ、という風に彼女は首をふる。
「十六年前のあの子でしょう? まだ十六歳よ、何が出来るって言うの! それに、あのこは……」
「いや、俺が許す。俺が責任をとろう。……それに、あの子だから出来るはずだ」
 女性は眉を顰めていたが、やがてしょうがない、という風にふうっとため息をついた。
「わかったわ。……このことは、ガブリエルに伝えておくわ」

「じゃーんけーん、ぽん!」
「えー? また僕の負け?」
「あたしの勝ちよ、アレク」
「十八連敗だあ〜」
 楽しそうな声が、アレクの石牢に響く。白い羽が、ヒラリと石牢の上に落ちた。
「あ……」
 ロニの表情が強張る。目の前には、白い大きな翼を広げた天使。
 アレクははっとした。この天使は、ロニと自分が接触しているところを見てしまった。
 この場合、ロニの立場が危ない。ロニはまだ見習い、もしかしたら自分のように牢に入れられてしまうかもしれない。それだけは避けなければ!
「ロニは悪くありません! 僕が無理やり……」
 アレクが全て言い終わらないうちに、天使は口を開いた。
「私はあなたに用があるの、アレク君」
 キョトンとしたアレクとロニ。瞬きを数回繰り返すと、アレクは言った。
「……僕、に?」
 天使が、堕天使に用事など滅多にあることではない。いや、ありえないといったほうがいいだろう。
「今すぐ、私についてきてもらえるかしら?」
 驚きを隠せなかった。反面、嬉しかった。この石牢から出られる、自分の翼で飛ぶことが出来る。
「はい!」
 アレクは、自分が重大な計画に巻き込まれるなどと、予想もしていなかった。
 

 Act.2

「ちょ、ちょっと待ってください!」
 ロニが今すぐ飛ぼうとしている二人を制止した。天使は振り返る。
「用件があるなら、言いなさい」
 天使は厳格な口調で言った。
「私も、連れて行ってください!」
「ロニ!」
 突然のロニの発言に、驚くアレク。
「……正気で言ってるのか」
 アレクはロニの肩を掴むと、小さな低い声で言った。ロニは頷いた。
「正気よ」
「じゃあ、そんなことは……」
 ロニは首を横に振った。彼女の金の髪が、左右に揺れる。
「私は、アレクと一緒にいたいだけ。此処で別れてしまったら、もう二度と会えない気がするから……」
 アレクは、そんな彼女の言葉に何も言い返すことが出来なかった。否、言うことが出来なかった。自分も彼女の気持ちを理解することが出来る、ゆえに、彼女を止めることはできない。自分も、彼女と二度と会えなくなるような気がしてきたから。
「…………」
 アレクは俯いた。そして、しばらく考え込んだ後天使に向かって言った。
「彼女も、一緒に行かせてはもらえないでしょうか」
「アレク!」
 天使は、やはり首を縦には振らなかった。
「私は、その子を連れて行くとは言ってはいないわ。それに貴女、まだ見習いでしょう。見習いがどうして堕天使と会っているの? 天使学校は? どうしたの?」
「それは……」
 言い訳をしようか、本当のことを話そうか、それとも嘘をつこうか……。
 アレクとロニは黙ってしまった。お互いに、同じ事を思ったのであろう。
 天使学校の規則も厳しい。なんといったって、神に使える天使を育成する場所だ。
 天使でさえ、大天使の許可を得ないと会ってはならないとされる堕天使に、まだ見習いの天使が会っているなど、大問題になるだろう。
「罰ならいくらでも受けます! どうか、私を連れて行ってください!」
 それでもやっぱり、天使は承諾しなかった。
「無理なことよ。私一人では決められないわ。それに……」
 天使が何か言いかけたところで、ピピピピピという電子音が聞こえた。
 天使は、何か黒い機械を取り出すとそれを見て考え込む様子を見せた。
 しばらくしてから、天使は先程の黒い機械に何かを打ち込み始めた。そして、アレクとロニに言った。
「あなたも一緒に来ていいわ。ただし、天使の命令には必ず従うこと。わかったわね?」
 ロニは嬉しそうに答えた。
「はい!」
 二人は顔を見合わせると、にっこりと微笑んだ。そして、ロニはアレクの耳元で囁いた。
「やったね!」
 アレクも、優しい笑みを返した。

「天使の掟はわかるわね?」
 ロニは「はい」と返事をした。だが、生まれてからすぐに石牢に入れられてしまったアレクは、天界の歴史のこと、天使の掟のこと、ロニ以外の見習い天使のことなどは、殆ど知らない。アレクは黙って俯いてしまった。
 俯くアレクに、天使は優しく言った。
「第一条、神に絶対なる忠誠を誓うべし。第二条、天使は無許可に堕天使と会うことを禁ずる。第三条、神と大天使の言葉に逆らうことなかれ」
 アレクははっと顔をあげた。
「今私が唱えたのが、天使の掟よ。復唱してみなさい」
 アレクは頷いた。
「第一条、神に絶対なる忠誠を誓うべし。第二条、天使は無許可に堕天使と会うことを禁ずる。第三条、神と大天使の言葉に逆らうことなかれ」
 アレクはちらっとロニの方を見た。ロニは、「合ってるよ」と口の動きで合図した。アレクはそれを見て、ふうっと息を吐いた。
「そう。今のことは堕天使である貴方にも守ってもらうわ。天使である、私の命令に従うからよ。わかったわね?」
「はい」
 アレクは直ぐに返事を返した。真っ直ぐなアレクの目を見て、天使は少し驚いている様子だったが、直ぐに冷静な表情をとり戻した。
「そういえば、紹介が遅れていたわね。私は、ガブリエルよ」
「ええっ!?」
 その言葉に、素早く反応したのはロニだった。
「ガブリエルって、あのガブリエル様? 大天使(アークエンジェルス)の!」
「大天使?」
 アレクは今覚えたばかりの、耳慣れない言葉についてロニに説明を求めた。
 ロニはごくん、と唾をのんだ。
「天使は九階級に分かれていて、その第八階級の天使のこと。その中でも、四大天使と呼ばれるのが『ミカエル』様、『ラファエル』様、『ウリエル』様、『ガブリエル』様なのよ!」
 はっとして、アレクは目を見開いた。そして無意識のうちに、自分の首から下げられている銀の十字架のペンダントを握り締めた。
「じゃあ!」
 天使――ガブリエルは頷いた。
「ええ。私が大天使の一、ガブリエルよ」


 Act.3

「あなたが、ガブリエル……」
「まさか……」
 ロニは下を向いた。
「でも、でも、何故貴女がここに? どうしてアレクに?」
 ロニの声は少し震えていた。ガブリエルは首を振る。
「今はいえないわ。とりあえず……」
 ガブリエルの視線は、ぼうっと突っ立っているアレクの方に向いている。
「アレク君を、天界へと連れて行かなければならないわ」
 ロニは激しく首を振った。「でも!」
「いくら大天使でも、一度堕天した天使を天界に戻すことなんて無理なんじゃないですか!? 上級三隊の熾天使(セラフィム)達が、許すはずありません!」
 アレクは瞬きを繰り返している。先程から、ロニとガブリエルの間で使われている、『大天使』、『上級三隊』、『九階級』、『熾天使』……。天界の知識を知らないアレクは、困惑していた。
「セラフィム……?」
 ロニに目で説明を求めるが、ロニはガブリエルのほうをじっと見ているため、説明してもらえない。アレクは、二人のやりとりをただ見ているだけしか出来なかった。
「ガブリエル様!」
 答えてください、というロニの言葉にも、ガブリエルは返事をしなかった。
「上級三隊、中級三隊、下級三隊を指揮しているのは、大天使よ」
 ガブリエルは冷たく言い放った。
「まだ天使……エンジェルスにもならない貴女が、大天使の言葉に逆らうことはできないわ。今はアレク君を天界へ連れて行くこと、それが目的なの」
「…………」
「わかったわね?」
 ロニは俯き、小さな声で「はい」と答えた。
「じゃあ、行くわよ」
 飛び立つガブリエルの後に、二人はついていった。

「ねえ、熾天使って何?」
 天界へ向かう途中、アレクは先程の疑問をロニにぶつけた。
「熾天使は、最高位の天使のこと。六枚の翼と、四つの頭を持つ天使よ」
「四つの頭!?」
 今まで、ロニ以外の天使に会ったことがなかったアレクは驚愕した。勿論、ロニのような天使しか知らなかったし、翼も二枚の天使しか知らなかった。
「そうよ、四つの頭」
「…………」
 ロニは、当たり前のことのように言った。でも、アレクは四つの頭など、想像も出来なかった。
「他の、階級は?」
 ロニは説明し始めた。
「熾天使は、さっき言った通りよ。第二階級の智天使(ケルビム)は、赤子の天使隊よ。キューピッドってところよ。第三階級の座天使(スローンズ)は、神の玉座を運ぶ尊厳と正義の天使たちなの」
 アレクは、指を折りながら「熾天使、智天使、すろ……座天使……」と復習している。
「中級三隊、第四階級主天使(ドミニオンズ)は、神様の言葉を宇宙に伝える役目を持っているの。第五階級、力天使(ヴァーチュズ)はね、神様の力を引き出して、地上に奇跡を起こすの。また、難局にある善人に勇気を与えたりするのよ!」
「第六階級の、能天使(パワーズ)だけどね……。自然界の法則の秩序を守る手助けをするのが仕事なの。天使たちの中で、一番危険で過酷な仕事なんだって。それで、ここからもっとも多くの堕天使がでたんだって……」
 『堕天使』という言葉に、アレクは反応した。ぎゅっと拳を握り締める。
「そう……。続けて?」
 アレクは羽ばたくのを止めずに言った。
「そう、じゃあ続けるわね。次は、下級三隊。第七階級である権天使(プリンシパリティーズ)は、地上の国や都市を統治支配する役職よ。あと、善霊を悪霊から守ったりすることもあるんだって」
「…………」
 先程とは違う、暗いアレクの表情に、少し慌て気味にロニは続けた。
「第八階級はね、大天使(アークエンジェルス)よ。この中に、ガブリエル様たち七人がいるの。八番目の軍団だけどね、トップランクの権力と能力を持っているのよ」
 それでもまだ、アレクは暗い表情のままだった。ロニはそのまま続けた。
「第九階級、それが天使(エンジェルス)。もっとも地上に生きる人間に親しみやすく、神様と人間の間をとりなし、大天使の命令を実行する部隊。それに、人間達一人一人について守護してくれる、守護天使(ガーディアンエンジェル)もこの中に含まれるのよ」
 ロニはアレクの顔を覗き込んだ。まだ、暗いままだった。アレクの赤い瞳が、なんだかくすんでいるように見えた。
 ひゅうと風がふいた。冷たい空気が頬に当たる。
「……能天使……。堕天使を生み出してしまった……。なんて悲しい……」
――辛さから逃れるため? どうしてそんなに簡単に、天界を出て行ってしまうのか。僕は、行きたくてもいけないのに。堕天したくて、したわけじゃあないのに……。
 アレクは、あの十字架のペンダントを握り締めた。アレクの後ろで留められた髪が、ファサと揺れる。
「天使は悪魔にもなる。それを忘れちゃだめだ」
「…………」
 二人は、黙ってガブリエルの後についていった。


 Act.4

「着いたわよ」
 三人が降り立ったのは、大きなアーチを描く巨大な門。その門の縁には、所々アクアマリンが埋め込まれている。
 アレクは生まれて初めて見る天界に、目を見張るばかりだった。あの石牢とは違う美しさ。
 その門をくぐった。アレクはなんだか嬉しくなって、周りをきょろきょろと見回していた。
 一歩踏み出すごとに、高鳴る鼓動。そして自然とこぼれる笑み。
 自分は今、夢にまで見た天界に居るんだ――そう思うだけで、幸せな気分になれた。
 ロニは、そんなアレクを見てホッとした。先程のことが、気に掛かっていたからだった。
 アレクの、先程はくすんでいたような赤色が、見る見るうちに輝いていくのがわかった。
 ロニはアレクの腕を掴んだ。
「行こう!」
 アレクは笑顔で答えた。
「うん!」
 堕天使――それは神に背いた天使の姿。暗黒の道を歩みし天使――否、彼らの心は既に悪魔となりつつあるのかもしれない……。
 アレクの、純粋でどこか稚拙な笑顔はロニ一人だけに向けられたものなのだろうか。
 それとも……。

 しばらく歩いた。ガブリエルは、白い大きな建物の前で止まった。「ここよ」
 中に入るガブリエルについていく二人。
 長いエメラルドグリーンの廊下を抜けると、ひとつの扉にたどり着いた。白い文字で、『Zadkiel』と書かれている。ガブリエルは、コンコンと扉をノックした。
「ザドキエル、入るわよ」
 キィと音をたてて開かれた扉の向こうには、黒い髪の天使が立っていた。顔つきから察するに、男性の天使だ。
「例の、堕天使よ」
 ザドキエルと呼ばれた天使は頷いた。
「この子が……。ガブリエル、色々とありがとう」
「じゃあ、私はこれで。仕事が溜まってるし、私の役目はここまでだわ」
 ガブリエルは、部屋を出た。
 ザドキエルはアレクの方を向くと、ゆっくりと話し始めた。
「君たちを呼んだのには、深い訳がある」
「わけ?」
 アレクは不思議そうに聞いた。それもそうだ。訳もなしに、堕天使である自分が呼ばれるはずがない。
「その訳とやらを、お聞かせ願えますか?」
 ロニは聞いた。ザドキエルは深くゆっくりと頷く。
「今、私が進めている計画(プロジェクト)がある」
――まさか。
 アレクはなんだか、自分の胸が高鳴るのを感じた。なんだろう、これは。今までに感じたことのないような、不思議な気持ち。
 アレクの予感は、当たってしまった。
「その計画を、君たちに手伝ってもらいたい」
「何だって!?」
 アレクは思わず声を上げた。嘘だ。どうして、僕とロニが。堕天使と、見習い天使を必要とするなんて、何故――。
 パニック状態に陥っているアレクに、ザドキエルは言った。
「君たちは、どうしてもこの計画に必要なんだ。堕天使と、もう一人……見習いの天使が必要なんだ……!」
 そうか、とロニは小さく呟いた。
「だから、あの時ガブリエル様は私が着いて行くことを許したんだわ!」
 あの機械に送られてきたのは、そのことだったのか。
 俯くアレクに、ザドキエルは言った。
「お願いだ。計画に……参加してくれないか」
 アレクは迷っていた。
 この人は自分を必要としている。堕天使である、自分を――。
――必要と、している……?
 アレクは、顔をあげた。そして、ザドキエルの目を真っ直ぐに見た。ザドキエルの、深いマリンブルーの瞳を見つめた。
 そして答えを言うために、アレクは唇を開いた。

「……やります。僕、やります!」


 Act.5

 アレクの足は、がくがくと震えていた。ぎゅっと拳を握る。力を入れても、足の震えは止まらない。
――何かが怖い。
 僕は必要とされている、そして僕は天使の計画に参加できる。参加すると決めた。やる、といった。怖いことなんて、何もないじゃないか。なのに、何故。
 でも、どうして天使が僕のような堕天使を計画に参加させることを許す? 何か考えがあるから? だとしても、僕のような……。
 生まれつきの、堕天使なんて……。
 目の前には、僕を必要とする人が居る。隣には、親友が居る。怖いものなんて、僕には……。
 震えは止まらなかった。汗がツーと頬を伝って流れてきた。
「アレク……」
 ロニが心配そうな顔をして、アレクの顔を覗き込む。アレクは俯いた。
 声が出てこない、言いたいことは山ほどある。
 アレクは、何かを言おうと開きかけた口を閉ざした。ぎゅっと、拳を握りなおす。
 そして、少し経ってからアレクは口を開いた。
「あなたは、僕が怖くないんですか」
 声が、震えていた。足の震えは止まっていた。
――醜いと、思いませんか。この髪と瞳、そしてこの黒い翼が。
 ザドキエルは、目の前で俯く少年を哀しそうな目で見つめた。この少年の気持ちなど、誰にもわかるはずがないと。生まれ持ってしまった髪と瞳、そして翼。全てが自分に背負わされた、過酷な運命だと。それは、決して背負ってしまった本人以外にわかる、半端な辛さではない。
 もし、自分がそうだったら? 自分もこの少年のように、他人が自分をどう思っているか、とても気にしていたかもしれない。
 ザドキエルは、アレクの肩に手を置いた。
「君は、私が君を怖がっていると思うかい?」
 優しい声だった。アレクは小さな声で「わからない」と答えた。だって、本当にわからない。他人がどう思っているかなんて。
 ザドキエルははっとして、アレクが首に掛けている銀の十字架のペンダントを、アレクに見えるように持った。きらりとペンダントは、光を反射した。
「これは、いつからつけていたんだい?」
「…………」
「怒っているわけじゃないよ。……これは、いつからつけていたんだい?」
 アレクは小さな声で「物心ついた時、既に」と答えた。
 ザドキエルは微笑んだ。
「そう……。これが、誰に貰ったものかわかるかい?」
 アレクは首を横に振った。「わからない」
 ザドキエルは静かに話し始めた。
「多分ね、これはまだ赤子の君を石牢に連れて行った天使のものだと思う。それを、君にあげるということは、どういうことかわかる?」
 アレクは、黙った。この人は、何を言おうとしているのだろう。僕にはわからない――……。
「君を堕天使としてでなく、天使として認めてくれた証だ。だから、私も君を天使として接する。だから、君は何も怖がる必要はない」
 アレクははっと顔をあげた。自分の頬を伝って流れてくる、熱いものはなんだろう……。視界がぼやけてよく見えない。
 急に体中の力が抜けたような気がして、立って居られなくなるような重圧。アレクは膝をがくんと床についた。
 アレクのジーンズには、涙の跡がついていた。前にも、こんなことがあったっけ。一人で淋しくて、寂しくて、涙が枯れるまで泣いた夜。誰も、いなかったあのとき。
 今度は違う、肩の力が抜けて、楽になった感じ。安堵感に包まれるとともに、流れてきた涙……。

「……っく」
 一本の糸が、ぷつんと音をたてて切れたみたいだった。なんだか無性に泣きたくなってきた。涙は止まらない。あの日のように――。
 ザドキエルは、目の前で泣きじゃくる少年を優しい目で見ていた。
「……今日はもう休むといい。奥の二つの部屋を使ってくれ。……ゆっくり、心の底までお休み」
 アレクとロニは、頷いた。ロニはなんだか、自分も嬉しくなっていた。アレクが、天使として認めてくれる人に出会えたこと――それは、ロニにとっても嬉しいことだった。

 その夜、ザドキエルは自分の机の前に立っていた。机の上には、書類が散らばっている。蝋燭のほの暗い灯りが、ザドキエルを照らす。蝋燭の炎が揺れるたびに、彼の影もゆらりと揺れた。
 ガリ、と爪を噛む音が聞こえた。
「あの、ペンダントは……」
 自分と同じ、あの黒髪の天使。嘗ての、自分の部下……。
 書類は、大分経っているらしく黄ばんでいる。その書類には、黒いインクで、こう書いてあった。
『天使拉致事件、犯人は明けの明星と思われ』


 Act.6

 翌朝、アレクとロニはザドキエルの机の前に立っていた。広い机に、いっぱいに広げられた書類。アレクは、その書類に目を落とした。大分古いらしい。ヨレヨレになっているし、黄ばんでいる。
「ザドキエル様、この書類はなんなんですか?」
 ロニが書類を指差して、不思議そうな顔でザドキエルに聞く。ザドキエルは、その書類を手に取った。
「今回の――計画だ」
 パサ、と机の上に手に取った書類を置いた。乾ききった音がした。
「計画? これが?」
 アレクは思わず、素っ頓狂な声を出してしまった。こんな古い紙キレが、今回の計画を記した書類だなんて、まさか。
 アレクはロニの方を向いた。ロニも同じように、不思議そうな顔をしている。
 アレクは少し早口になって言った。
「本当に、これが今回の計画なの? だって、こんなに古いじゃない。間違えたんじゃ――」
 アレクが言い終わらないうちに、ザドキエルが言った。
「いいや、間違えていない」
 確かに今回の計画だ、とザドキエルは付け足した。
 アレクは、ますますわからなくなった。
 そういえば、天使は天地創造の一日目に生まれたって、ロニが言ってたっけ。それに、不死だって。そうなら、ザドキエルは僕たちより何年、いや何億年も生きたに違いない。やっぱり、昔にたてた計画を今やろうとしているんじゃ……。
 アレクは右手を口に添え、少し顎を引いて上目づかいでザドキエルを見た。
「じゃあ、大分前にたてたの?」
 ザドキエルは首を横に振った。
「たてたのは最近だ」
「ええっ! じゃあ――」
 なんなの、とアレクは頭を抱え込む。わからないよ、いろんなことがわからない。なんだか頭の中で、糸が絡まってるみたい……。
 完全に頭の中がショートしたらしく、アレクはぼうっとして上を向いている。
 「あーあ……」歳のくせに難しいこと考えるからよ、とロニは呆れて、頬に手を添えていた。
 ザドキエルは、そんなアレクを見ながら静かに言った。
「君たちに、やってもらいたいことがあるんだ」
「……やってもらいたい、こと……?」
 ロニは振り返って聞いた。
 ザドキエルは、何かを思い出すように切なそうな目で上を向いた。

「ラミエル、ラミエルはいるか」
「はい、ここに」
 廊下に響く声、カツカツと踵が床に当たる硬い音がする。黒の髪に、エメラルドグリーンの瞳を持つ青年の天使は、自分と同じ黒髪の天使のところへと駆け寄った。
「お呼びでしょうか、ザドキエル様」
 青年、ラミエルは深く頭を下げた。目の前に立つ天使――ザドキエルは薄く微笑んだ。
「君に仕事だ。……先程生まれた天使――否、堕天使とみなされた天使のことでね」
 堕天使とみなされた天使、という言葉に彼は素早く反応して顔をあげた。そして、そのまま真っ直ぐに、自分の前に立つ天使を見つめた。
 ぎゅっと、拳を硬く握り締めるラミエル。
「それは……どういうことでしょうか」
 ザドキエルから目を逸らし、下を向くラミエル。ザドキエルは、彼を見たまま話した。
「君に、その天使を堕天使の牢まで連れて行ってもらいたい」
 ラミエルは目を瞑り、即答した。
「お断りします」
 拳は、まだ握られたままだった。口の端は、軽く下がっていた。
「何故だ」
――お怒りなのはわかります……。貴方は静かに怒られるお方、だからこそ私は……。
 ラミエルは俯いたまま答えた。
「生まれながらにして、堕天使である天使など、私は認めません」
 むっとザドキエルが顔をしかめるのがわかったが、ラミエルはそのまま続けた。
「堕天使は、神に反逆した存在です。まだ赤子であるその天使が、神に反逆したとでもいうのですか。私は……認めません」
 握られた拳、そして足が震え始めた。部下である自分が、上司に逆らうことは出来ない。だけど、許せない。生まれながらにして堕天使の存在など、あっていいはずがない。
 ザドキエルは、静かに口を開いた。
「その天使は、生まれながらにして赤い髪と、赤い瞳、そして黒い翼を持っていたそうだ……」
 その言葉に、はっと目を開け顔をあげるラミエル。そして、真っ直ぐに彼の瞳を見つめる。その中に真実が見えているかのように、じっと。
 がたがたと震えたラミエルの唇が、開いた。目は開かれ、先程よりも足は震えていた。
 そして、落ち着かせるかのように力をいれてぎゅっ、と拳を握りなおす。汗が、額から流れてきた。
「それは……」
 ザドキエルは頷く。
「そう、魔王の再来を意味する……!」
「そんな……!」
 彼の表情が崩れた。今にも泣きそうな顔になる。
 がくんと膝をつき、俯いたラミエルは静かに言った。
「お受けします。私……その子を牢まで連れて行きます」
 それならいい、とザドキエルは自分の部屋へ戻っていった。
 その後姿を見つめながら、ラミエルは心の中で呟いた。
――ごめんなさい。ごめんなさい、ザドキエル様。貴方を慕っております、貴方の命令には従います。でも、私は許せません。決してそれを、許すことは出来ないでしょう。
 ラミエルの首に下げられた、銀の十字架のペンダントが太陽の光を反射して、キラリと光った。それは、何処か淋しげな光に見えた。
――その子に何の罪がある? その子は何をした?
 
 許すことは出来ない、私が死んだとしても、決して。


 Act.7

 その赤子を初めて見たのは、牢に行く数時間前だった気がする。ハニエル様の腕に抱かれて、すやすやと眠る小さな天使。自分の運命など知らずに、幸せそうな笑みを浮かべて眠っている。
「この子よ」
 ハニエル様から渡された、小さな天使。ちゅぱちゅぱと指をしゃぶりながら眠っている。
 抱くと、この子の体温が、自分に伝わってくる。なんだか、暖かいなあ。ドクン、ドクンと動く、心臓の音も聞こえてくる。ああ、生きているんだなあって、そう思えるのに――……。
 この子は此処に必要とされない。なんて可哀想な天使だろう。
 ラミエルはハニエルに聞いた。
「あの……。この子の名前は、なんというのですか?」
 ハニエルは、少し驚いていたがすぐに優しそうないつもの顔に戻った。
「アレクよ」
「アレク……」
 ラミエルは、自分の腕の中で眠る天使に目を落とした。
 柔らかい肌、小さな手、無垢な表情……。この天使は本当に何も知らない、何も……。
「アレク、ですか。いい名ですね」
 ラミエルは微笑んだ。神から与えられた名……それをこの子は知ることができるだろうか。それとも……。
 この子もまた、彼のようになってしまうのだろうか。
 そう考えると不安でたまらない。心拍数はどんどん増えてくるようで、体が震え始めた。――だめだ、そんなこと考えちゃ。
 頭にまとわりつく嫌な考えを振り払うように、ラミエルは首を大きく横にぶんぶんと振った。それを見ていたハニエルは、少し驚いて目を見開いていた。
 ふう、と息を落ち着かせると、ラミエルはその赤子に白いショールをくるくると巻いた。飛んでいる間は、生まれたばかりの赤子の天使にとっては寒すぎると判断したからだ。
 天界の入り口の、アーチ状になっているゲートをくぐるとき、ラミエルは振り向いた。
「行ってきます。ザドキエル様」
 そういい残すと、ラミエルは飛び立った。遥か下の堕天使の石牢を目指して。
 彼の翠の瞳には、安らかな表情を浮かべて眠る赤子の顔があった。
 彼は無事に堕天使の牢へたどり着いた。赤子を空いていた牢に入れると、がちゃんと錠を掛けた。
 自分の運命など知らないまま、ただただ安らかに幸せな夢を見続ける天使の顔を見ると、ラミエルはふっと哀愁に襲われた。
 かけた錠を外し、天使を出す。白いショールにくるまれた小さな体に、燃えるような赤い髪。そして背中に生えた、地獄の果てのように暗い翼……。
 ラミエルは、自分の首から下げられていた、銀の十字架のペンダントを外し、赤子の首に下げた。それは光を受けてキラリと輝き、赤子を照らした。
「君は、天使だよ……。これは、その証だ」
 ラミエルは、それを見てふっと微笑んだ。

 その後、ラミエルの姿を見たものは誰も居ないという。


「じゃあ、やってもらいたいことっていうのは……」
 ザドキエルは頷いた。
「そうだ。その行方不明になった天使を探してほしい」
 アレクは無意識のうちに首から下げられたペンダントを握った。
 視点が定まらない。何を考えていいのか、わからない。
「この、僕のペンダントは、その……」
「そう。私の部下の、ラミエルのものだ」
 アレクはペンダントを、さっきより強く握り締めた。ラミエル……。僕を天使と認めてくれた人。逢いたい、どうしても、どうしても逢いたい……!
 ロニはアレクを心配そうな目で見た後、ザドキエルのほうを向いた。
「でも、ザドキエル様。何故それを今になってから……?」
 ザドキエルの目が、一瞬見開かれてまた戻る。
「探していた。私自身も、天界、物質界……つまり人間界を全て捜索した……だが……」
「見つからなかった……」
 ロニの表情が崩れた。とても哀しそうな青い瞳には、大粒の涙が溜まっている。
 ロニは俯いた。
「じゃあ、じゃあ。そのラミエルさんは何処に……?」
 天界にはいない。だとすれば……。
 アレクは、はっとしてザドキエルを見た。その目は、真っ直ぐに彼の瞳を見つめていた。ザドキエルは、そんなアレクの視線に気がつくと、その意味をわかったかのように深く頷いた。
 天界じゃない場所。物質界、つまり人間界でもない場所。
 その意味がわかったというように、ロニは顔をあげる。
「まさか!」
 がくがくと震える、ロニの細くて白い足。アレクは、心を落ち着かせるように、また強くペンダントを握った。
 アレクは、燃えるような瞳で目の前に立つ大天使の一人を見る。
 ザドキエルは、アレクから目を逸らすと、答を言うために唇を動かした。

「そう、地獄だ……!」


 Act.8

「地獄……それは一体、どういうこと?」
 アレクは、ペンダントを握り締めたまま聞いた。ザドキエルはアレクから目を逸らしたまま答えた。
「君が生まれてから、今に至るまで、ずっと探し続けた……。来る日も、来る日も探し続けた。私が彼をそうさせてしまったのなら、と思って」
「でも、でも! ラミエルさんは、アレクを天使としてみてくれた、優しい人じゃありませんか! なのに――」
 ロニが言いかけて、途中で止める。「なのに……」の先が続かない、視点の定まらない目を見せないようにと、俯く。
 そんなロニを見て、ザドキエルは言った。
「それは、私も知っている。ラミエルは、そんなに簡単に『堕天使』になるような天使ではないということを……。どんなに辛くてもやり遂げる、素晴らしい天使だった。そのことは、他の大天使たちや、彼に近かった天使たちも知っていることだ」
――まさか。
 嫌な考えが、頭を過ぎる。考えたくない、でもそれ以外に何がある。
 アレクはその考えを振り払おうと、首を強く横に数回振った。でもそんなことで考えが振り払えるわけはなく、その考えはアレクを苦しめた。
――僕の、僕の肩書き……。
 自分につけられた、あの肩書き。もしかして、否もしかすると……。
 アレクの足は震え始めた。しばらく考え込むように左手を口に添え俯く。そして、思いついたように顔をあげた。足の震えは止まっていた。
「ザドキエル、それは、ラミエルが誘拐されたってことを言いたいの?」
 書類を整理して、ファイルに戻そうとしていた、ザドキエルの手が止まる。一瞬見開かれた目は、アレクの目を追う。二人の視線があうと、ザドキエルは静かに口を開いた。
「……何故、そうだと思う?」
 内心、怒っているのかなって思った。だけど、怒りが込められたような言い方ではなかったので、アレクはほっとし、理由を述べはじめた。
「まず、天界と物質界(アッシャー)には居ない。それはわかっていること。つまり天界と物質界以外の場所ってことだよね?」
 ザドキエルは頷く。「それはわかっている」アレクは続けた。
「つまり、残ったのは地獄。魔王ルシファーが制する地」
 此処まで言ってしまえば、ロニもわかったようだ。先程治まった足の震えは、もっとがくがくとしてきたようで。
「ラミエルの性格から言って、自ら其処に行くような天使じゃない、となれば……」
「誘拐しかない……」
 ロニがアレクの最後の言葉を代弁した。その目は悲しみと涙に満ち溢れている。ザドキエルは、目の前に立つ赤い髪の少年をじっと見た。そして、ふっと笑ったようにみせると、顔をあげた。
「その通り。だから、君たちに調べて欲しいんだ」
 ロニが少し顔を顰めて言う。
「でも、どうして堕天使と見習い天使なんですか?」
 アレクも其処が気になっていたところだ、といいたいかのように、ロニの方を向いた。
「アレク君だからこそなんだ。……君には少々辛いことかもしれない、だけど、いつかは言わないといけないことだった」
「……どういうこと?」
 ザドキエルは、はっと口を押さえる。そして、その手を離してから言った。
「君の中には、『明けの明星』が居る。『明けの明星』が居れば、地獄でも無事だろう」
――明けの明星? それは、何?
 アレクが疑問の言葉を口にしようとしたが、ロニが先に発言した。
「じゃあ、アレクと一緒にザドキエル様が……」
 ザドキエルは首を振った。「それはできない」
「これは秘密裏に進めている計画なんだ。知っているのは、他の大天使だけ。できれば、上の者たちに知られたくない。だから君と、そして何処にも所属していない見習いの天使を必要とした……!」
「それで私が……」
 あの時何故必要とされたのかが、今わかった。下級三隊の天使を使えば、他のものにもこの計画が知れてしまう。
 ザドキエルはアレクとロニを見た。
「……地獄に、行ってくれるか」
 二人は声をそろえていった。
「はい!」
 
 そう答えたと同時に、ドアが乱暴に開いた。ドアの向こうに居たのは、金髪の天使。頬のところに、赤い線が入っている。その天使は赤い服をきていた。ばさっと、輝くマントを翻す音が聞こえた。
「ザドキエル! お前か? 俺を呼んだのは」
 ザドキエルの硬かった表情が、柔らかな笑顔に変わる。
「来てくれたのか。君のことだから、てっきり来ないかと――」
 その天使は、ガンッと足でドアを蹴った。ドアが跳ね返り、天使にあたりそうになったが、寸前で止まった。
「俺を誰だと思ってンだよ! ふざけんじゃねえぞ、これでも大天使長なんだかんな!」
 ロニの表情が驚きの表情にかわる。
「えっ? じゃあ、あなたは……」
 ロニが言いかけたところで、天使は振り向く。ロニの顔を見た後、後ろに立つアレクを見て目を見開く。が、さほど珍しくもないようにすぐに先程の表情に戻った。
「……このガキが……?」
 天使はザドキエルの顔を見た。ザドキエルは、こくりと頷く。
 それを見ると、天使はニィと笑った。
「自己紹介が遅れたな。俺は、四大天使の一人、ミカエルだ。お前が例の堕天使か。この俺が着いて行ってやるんだから、ありがたく思えよ!」
 四大天使……?
 アレクの目は、大きく見開かれた。四大天使の一人? それも、さっき大天使長っていわなかったっけ?
「み、ミカエル様ーっ!?」
 ロニが両手で口を押さえる。やっぱり凄い天使なのか、とアレクはミカエルのほうを見る。
「おうよ」
 ミカエル……ロニが、エレメンタリーだか、エメラルドだかなんとか言ってたような……。なんだっけ……。
「火の四大元素(エレメント)を持つ、あの最強の天使ですか!」
「改めて言われると、ちょっと照れるな……」
 ロニは驚きを隠せないようであり。
 四大元素って、なんだろう?
「い、一緒に来てもらえるんですか? ミカエル様に!?」
 ミカエルは頷いた。「そうだ。うれしーだろ?」

「ええ〜っ?」
 ロニとアレクは一緒に叫んだ。
――大天使長のミカエル様が、私たちと一緒に地獄へ?
――そんなに凄い人が、なんで僕たちと一緒に地獄へ?

「なんで? どうしてえ!?」


 Act.9

 ミカエルは、少し驚いたように後ずさりする。
「な、なんだよいきなり! 驚いたじゃねーか!」
 驚かされたのはこっちだ、とアレクは言いたかったが、驚きのあまり声にならない。口をぱくぱくとさせて、まるで金魚のようだ。
 落ち着かせるように、胸をとんとんと叩くと、アレクはペンダントを握った。その行為を、ミカエルは見逃さなかった。
「でも、ミカエルって凄いんでしょ。なんで、僕たちと一緒に地獄に行くの?」
 ロニも、私もそれを聞きたかった、と目でアレクに合図する。
 ごほん、と咳払いを一回すると、ミカエルは口を開いた。
「あのな、ザドキエルから聞いてると思うが、大天使以外はこのことを知らないの! だーかーらあ、天使の中から護衛は出せないから、最強の天使の俺様が着いていってやるの!」
「なによ、本当はただ仕事がないだけのくせに」
 ちょっとヒステリー気味な女の人の声が聞こえて、びくっと体を震わせるミカエル。
「あ、ラファエル……お前、何で此処に?」
 ラファエルと呼ばれた、金の瞳を持つ天使は持っていた書類でミカエルの頭を叩いた。
「五月蠅いわね。あたしはただ、ザドキエルに用があっただけ。それで会話が聞こえちゃっただけよ、何か問題ある?」
「……ねぇよ」
「聞こえないわね、問題あるの?」
「ねえって!」
「もっと丁寧な口調で言いなさい。あたしも、四大天使なんだから!」
「うっせえ! 俺が天使の中で一番上だろ! 大天使長なんだから!」
「大天使長も何も、関係ないわよ。そりゃあ、力は一番上かもしれないけど、頭脳がちょっと足りないもの」
「何だと? お前なんか、ただ椅子に座って、計画だのあーだのこーだの言ってるだけの脳みそバカじゃねえか」
「物質界に行くときは、そりゃあ実体を持つわよ! 天界で霊的存在なんだから、脳くらいあるわ!」
「そういうことじゃねえ! 考えすぎると頭が溶けるってことだよ!」
「意味わかんないわよ!」
 アレクとロニ、そしてザドキエルはそんな二人のやり取りを見ていた。
――五月蠅い……。
 ロニが、ひそひそ声でザドキエルに聞く。
「あの二人って、仲悪いんですか……?」
 ザドキエルは微笑んだ。
「じゃれあいの喧嘩、って知ってる? 表ではああやって邪険にしてるけど、本当はもっと仲がいいんだよ」
「はあ……」
 見る限りでは、とても仲がよさそうには見えない。だが、何万年と一緒に過ごしてきたザドキエルが言うのだ。事実なのだろう。
 アレクは既に泣きそうな顔をしていた。それを見たロニが、アレクに聞く。
「どうしたの?」
「や」
 アレク、と言いかけたところで、また二人の口喧嘩がエスカレートした。叫びあいだ。天使たちに聞こえてしまうよ、というザドキエルの忠告も、もはや耳に入らぬようで。
 刹那――。
「やだーっ! 喧嘩やだーっ!」
 なんだか幼い気もして、ロニは顔を顰める。
 遂に泣き出すアレク。ひっくひっくと、声をしゃくりあげて。
「……まじかよ」
 泣き出されてしまっては仕方が無い。ミカエルとラファエルは、お互いに顔をあわせて頷いた。
「アレク……」
 心配そうに覗き込むロニに、アレクはウインクした。
「へへ、上手い演技だったでしょ?」

 とりあえず二人の喧嘩を止めたアレクだったが、後に演技だとミカエルにばれてしまい、怒られてしまった。
「演技力……認めてやる。今回は見逃す! 次やったら……」
 びく、とアレクは体を震わせた。と、そのときだった。
 バン、といきなり扉が開いて何かが飛び出した。それは持っている銃を、アレクたちにむけると、叫んだ。
「死にたいか! ミカエル、仲間を死なせたくなければ、お前の首を貰うぞ!」
「……はぁ?」
 ミカエルは、呆れた顔をしている。
 それにプライドが傷つけられたらしい天使は、ロニの手を引っ張った。
「きゃっ!」
 ぐ、と腕に力が入れられぬけられない。ロニはきゅっと目を瞑った。
 ミカエルはこれが本気だとわかると、急に目つきを変えた。
「貴様……能天使だな」
 神に反逆するついでに、俺を殺してから行くってか。
「だったら、どうした! オラ、さっさと死ぬといえ! 俺に首を差し出せ!」
 アレクは天使の後ろを見た。仲間が数人居る。
「ザケんじゃねえ!」
 アレクははっとして、ミカエルの方を見た。彼の両手に、赤い光が集まっている。
 ゴゥという騒音とともに、炎が天使たちを襲う。
 ザドキエルは、急いで内部と繋がる電話へと急いだ。
「……はやく、早く出てくれ……」
 炎はヒラリとかわされてしまい、そして弓がミカエルめがけて一斉に放たれた。
 ミカエルは腰に下げられた鞘から、剣を抜こうとしたが、遅い。間に合わない。
 アレクはミカエルのほうへと駆け出した。やだ――。
「だめ……!」
 アレクがそう叫んだとき、ゴォォという凄い音をたて、紅く渦巻く炎が天使たちを一瞬にして飲み込んだ。弓も、銃も焼き払われてしまった。
 ロニを掴んでいた天使だけが焼け、ロニは無事だった。
「な……」
 なんだ今の光景は、とミカエルは心の中で呟いた。
 灰と化した天使たち。ミカエルの目は、目の前に立つ赤い髪の少年に向けられていた。
「ミカエル!」
 ザドキエルが、電話片手にやってきた。
「カマエルと連絡がついた。すぐに――」
 其処まで言って、ザドキエルは言葉を切った。鼻を劈くような、焼け焦げた臭い。
「ミカエル!?」
「俺じゃない」
 ミカエルじゃない? じゃあ、一体誰が――。
 アレクははっとした。ロニ? ザドキエル? でも、二人は居なかった。じゃあ……。
――ま さ か?
 ミカエルは、そう。あの剣を抜く暇も無かった。じゃあ、狙われていなかったのは誰だ? 何もしていなかったのは誰だ?
「――アレク」
 ミカエルに、急に名を呼ばれてびくっとした。
「アレク……?」
 ザドキエルの視線は、赤い髪の少年を捉えていた。後ろで束ねられた肩までかかる赤い髪。血のような瞳。赤紫のタンクトップに、ジーンズ。脅えるような表情。
「まさか……。でも、エーテル体のはずだ。何故……」
 エーテル体、という聞きなれない言葉にアレクは反応した。
「物質を変化させる四大元素(エレメント)」
 はっとしたように、ロニが顔をあげる。その手は、震えていた。
 ザドキエルが口に手を沿え、呟いた。
「火……」
 ロニが口を挟む。
「でも、それはミカエルさまの四大元素!」
「だからだ!」
 しん、と静まる部屋。真っ黒に焦げた天使の灰が、まだ白い煙を上げている。

「アレク。お前は俺と同じ、否それ以上の力を持っている!」


 Act.10

「ミカエル……以上の力……」
「そうだ」
 アレクは、何がなんだかわからないようで首をかしげている。それに先程の炎――あれはなんだったのだろう。
「さっきのが証拠だ。あいつ等……あれでも能天使だ。それを一撃で倒すなんざあ……」
 どきん、と鼓動が激しくなる。ああ! さっき、僕が、僕が……あの天使を!
 がくんと床に膝をつき、顔を覆うアレク。
「ぼ……僕が、さっきの天使を……」
 目の焦点が定まらない。あっちを見たり、こっちを見たりしている。何処を見ていいのかわからない。
 手足が震える。声は出そうとしても出ず、ただ掠れて小さなしゃがれた音になるだけ。
「僕が――」
 殺した。天使を、殺めてしまった。
 でも、でもロニが……! ……? ロニはどうなったんだ?
 アレクはロニを見た。怪我は無い。ロニを掴んでいた天使は焼けていたのに、ロニには焦げ痕一つ無い。
――よかった……。
 呼吸を整えていたら、罪悪感と安堵感が仲良く手に手をとりあってやってきた。その二つは、アレクの頭の中に居座った。
――今は考えたくない。出て行って……。
 罪悪感と安堵感は、そんなアレクの考えも無視して居座り続けた。遂には、喧嘩まで始めてしまった。
『天使を殺した。やんなきゃよかった』というのは罪悪感。
『ロニが助かってよかった。あの天使は別にどうでもいいさ。僕らが無事なんだから。そうでしょ?』というのは安堵感。
『ちがう、ちがう』割り込んできたのは、理性。
『殺さなくてはならなかった。じゃないと、ロニが助からなかった。それが正しいのさ』
 もう、僕だってどれが正しいかなんてわからない。
 だって、全て僕の心の中にあるんだもの。
『それも違うさ』割り込んでいたのは、こんどはコイツ、なんだ?
『間違えた。殺すつもりは無かった。これが正解、わかったね?』
 そうだ、コイツは良心だ。
 罪悪感と安堵感、そして理性と良心が喧嘩を始めている。やめて、頭の中がごちゃごちゃになっていく。これ以上、僕を混乱させないで!

「どれが正しいかなんて、わかるわけないじゃないか!」

 はっとした。周りには、ぽかんと口を開けて立っているミカエルと、何やってるのと言いたげな顔のロニ、書類を持ったまま立ち尽くしているザドキエルがいた。
 口をぱっと押さえる。心の中の出来事なのに、つい口にしてしまった。
「……ぼうっとしてた」
 恥ずかしそうに下を向くと、アレクはそのまま立ち上がった。先程の震えは止まっている。心の中の、色々な喧嘩ですっきりできたみたいに。
 心の整理が終わったように、アレクはふうっと大きく息を吐いた。
 ミカエルの顔がある。頬に赤い刀傷を思わせる線を入れている。目は青く、深い色。髪はまさに神の御前のプリンスにふさわしい黄金。
 僕が、そんな人より強い力を持っているわけないじゃないか。
「何かの間違いだ。僕、弱いから」
 弱い。本当に弱い。力でも、心でも。全部。
「俺はそうは思えない」
 ミカエルはアレクのペンダントを取って見た。ペンダントは静かに輝いている。
――こいつが……。
「言っただろ、俺が大天使長ってこと。だからお前の能力は、すぐわかる。本気でお前は俺より強い」
 本心……? 本当にそう思ってくれているの?
 確かめるのは怖い。でも確かめなくちゃいけない。
――そうだ。
 だからじゃないか。だったら、迷わず行けばいいんだ。言えばいいんだ。
 アレクは顔をあげた。
「地獄へ行こう! 本当に、僕がミカエルより強いかを確かめるために」
 思っても見なかった言葉がアレクから飛び出したので、ミカエルは少しキョトンとしていた。だが、すぐに「おうよ!」といつもの彼に戻っていた。
 地獄……初めての場所。なんだろう。体全体が溶けていくように、地獄が僕を呼んでいる気がするんだ。早く行きたい……って。
 ミカエルがにっと笑って言った。
「炎同士、仲良くするとするか?」
「うん」
 以外にあっさりとした返事を受けたミカエルは、眉毛を吊り上げた。
「お前、大先輩にそれだけしかいえないのか? 『よろしくお願いします』とか、『お世話になります』ぐらい言えるだろ」
「え〜? 今更何さ。それに敬語なんて使えないよ」
 口を尖らせて見せるアレク。
「だ・か・ら! 敬語知らなくても覚えろってことを言ってんだよ! 大先輩だぞ! 何年生きてると思ってんだ!」
「一億年」
「だあっ! そんなに短くない! 地球が出来たときに俺は既にいたの! つーか地球と同時に出来たの!」
「そんなの知らないよ! 僕、天界の歴史なんてならってないもん」
「お前の知識不足だ!」
 頬を膨らませるアレク。
「何さ!」
「何だよ!」
 むむっとお互いを睨みつけるアレクとミカエル。その光景を、奇妙そうに見ていたのはロニとザドキエル。
「アレクがミカエルさまと張り合ってる……?」
「ミカエルが、アレク君に口喧嘩で押されてる……?」
 いつもと違う二人の姿に、ロニとザドキエルはキョトンとした。

「なんだか、楽しそうな地獄巡りになりそうねえ……」


 Act.11

「ええっ! それは、なし! なしぃ!」
 アレクは顔の前で手をぶんぶんと振った。ミカエルは、腕を組みその光景を見ている。
「今更何言ってもダメ。これは決まったことなの」
 今度は首を振るアレク。「いやいや」アレクの目には涙が溜まっている。
 無理ですとばかりに、アレクは上目遣いでミカエルを見る。ミカエルはツーンと顔を逸らした。
「怖いもん」
 ミカエルは口を尖らせて言った。
「怖気づいたか。なんだ、お前が俺より強いことを証明するんじゃないのか?」
「何だよ! 僕がミカエルより強いって言ったのは、ミカエル自身じゃないか!」
 頬を膨らませるアレク。
「ミカエルのバカー!」
 わんわん喚くアレク。その声は耳にキンキンと響いて、ちょっとどころではなく、とても痛い。
 ロニがミカエルの耳元で、出来る限り小さな声で聞いた。
「アレクは何を嫌がっているんですか……?」
 そう聞くと、ミカエルは聞かれるのを待っていました、というような顔をして、グイッとロニの腕を引っ張り耳元でヒソヒソと答えた。
「あのな、あいつに『地獄にはどうやって行くの』って聞かれたんだ」
「……それで……?」
 ミカエルは面白い、というような笑みを口元に浮かべた。
「そんでな。コイツはおもしろい、からかってやろうと俺は、『翼を使わずに飛び降りていく』って答えたんだ。それで、今に至るっつーわけだ」
「はあ……」
 アレクなら信じそうだ、とロニはこっくり頷く。でも――……。
――そこがまた、可愛いんだよなあ……。
 まだ喚いているアレク。くすっと小さく笑みをこぼして、ロニはミカエルにこっそりと言った。
「アレクって、世間知らずなんですよね。どんどん教えてあげてください」
 ミカエルは、おうとガッツポーズをして見せた。

「ね! じゃあさ、どうやって地獄までいくわけ?」
 ぽかんと口を開けているミカエル。
「だーかーら……」
 まるで、もう説明し飽きたとでも言うようにぐったりとした。
 アレクに地獄への道を説明したのは、ついさっきのこと。そして、先程ので四回目。このくらい説明すれば、たいていのものは覚えるはず――彼は例外だ。四回、ゆっくりと説明したはずなのに、これである。お手上げ、といったらよいのだろうか。
「あのね、アレク。地獄の入り口までは、エレベーターみたいなのがあるの! だから、天界からそこまで降りていくの。その後、地獄の入り口に入ればもう地獄。そうしたら後は、ラミエルさんを探すだけなの!」
 アレクは手を唇に添えて、考え込む素振を見せた。ロニもミカエルも、ようやく理解してくれたと思ったらしく、ほっと胸をなでおろしている。

「むむ……。イマイチよくわかんない……」

 ありゃりゃ、とザドキエルは仕方ないというような笑みを浮かべる。考え込むアレクの傍らで、こりゃだめだと肩を竦めているロニ。はぁ、と深いため息をついているミカエルの姿。
「え、どうしたの。二人とも元気ないよ」
 もはや誰のせいだ、と言う気力も無く。と、ぐったりとするミカエルの肩を、ザドキエルがぽんぽんと軽く叩いた。
 ミカエルは小さく唸って顔をあげる。ザドキエルは、にっこりと笑っていた。
「口で説明しても、よく分からないさ。実際に行くのが、一番わかりやすいと思うよ」
 ミカエルは口を尖らせる。
「つーか……」

「実際、行くんですけど……」


 ザドキエルの部屋を出て数分。色々光るゲートのような場所に来た。周りはやはり白く、光を反射してかなり眩しい。アレクは思わず右手をかざした。
「ん、これからどこいくの……?」アレクは目をぎゅっと瞑りながら言った。
 ミカエルが、緑色に輝く輪を指差す。
「あれ。あれにのって、地獄の入り口まで降りてくの」
 ヴオンヴオンと唸りながら、輪はピカピカと緑色に光っていた。
「て、ことは……アレがエレベーターみたいなヤツってこと?」
 ミカエルはこくこくと頷く。
「そゆこと」
 ミカエルが輪の中に入る。それに続いて、ロニとアレクが入った。ザドキエルは、さっき部屋で別れたから此処にはいない。これからは、自分たち三人だけの旅。
「次元エレベータ。結構ハイテクなんだよな、コレ」
 物質界のものとちがってな、とミカエルは付け足した。
 アレクはぎゅっとペンダントを握った。ドクドクと、鼓動が伝わってくる。
――さっきから、何かが呼んでる……。
 誰かが自分を呼ぶのだ。低い、腹の底から響くような声で『こっちに来い、こっちに来い……』と。その声は、自分にだけしか聞こえていないようで。
 勿論ロニには話せまい。そして、ミカエルにも。ロニなら、なんていうだろうか。ミカエルなら、なんていうだろうか。
「おい、ぼうっとしてないで、行くぞ」
 ミカエルの声で我に返り、うんと返事をするアレク。
 緑色の輪が、ヴオンと唸り終えた。すると、それはピカピカと点滅しはじめ、だんだんとそれが上にいった。
――否、違う。
 輪が上に行ったのではない。僕たちが下に行ったんだ。
 高いこの場所から、一気に地の底地獄の入り口まで……。
「……怖い?」
 アレクはロニの顔を覗き込んで言った。ロニは無言でこくりと頷く。
 アレクはにっこりと微笑んで、ロニの白く細い手を取った。柔らかな感触が、アレクに伝わる。彼女の体温が、自分に伝わってくる。
 ぎゅ、と握られた手を見て、ロニはにっこりと微笑んだ。


 Act.12

 三人が降り立った場所は、寒く、体の内側から凍っていくような闇へと続く扉の前だった。
「くっ……」
 背筋がぞおっとする。今にも、ピキピキと音をたてて凍り始めるのではないかというくらいに、冷たい闇は口をあんぐりと開けていた。周りの空気が、ヒュオオオと音をたて扉の向こうへと吸い込まれていく。
「アレク、ロニちゃん。行くぞ」
 ミカエルは扉の先へと一歩踏み出した。何歩か歩いていくと、ミカエルの姿が見えなくなった。アレクとロニは、慌ててその後を追う。
 扉を抜け、床を踏もうとしたときだった。そこにあるはずの床が無い。消えている。アレクはそのまま下へ落ちてしまった。
「あ、アレク!? アレク、どこ!?」
 おかしい。垂直に落ちていくはずなのに、なぜかどんどん坂を転がっている感じがする。それに何度も何度も、転がり落ちるたびに当たる角。まさかとは思うけど……。 
 そのまま転がっていくと、どすんという音がして何かにぶつかった。それは僕の頭に何かをぶつけた。
「いて! 何するんだ! ……アレクか?」
 聞き覚えのある声がした。ミカエルだ。すると、僕はミカエルにぶつかってしまったということか。僕、もうそんなに下りてきてしまったのか?
「どうした? アレク。ロニちゃんは、どこだ?」
 アレクははっとした。そうだ、自分はロニと一緒に此処へ来るはずだった。だけど、ロニはどこだ? 僕が転がってしまって、先に行ってしまったから、もっと上にいるはずだ……!
「それより、アレク。お前、転んだのか?」
 アレクは首をかしげて、肩をすくめた。わからない、というポーズだ。
「扉を抜けて、一歩踏み出そうとしたら落ちた」
「なんじゃそりゃ」
 近くにあるはずのミカエルの顔もよく見えない。まだ目が慣れていないのかな、とアレクはぺろりと舌をだす。
「だって、一歩踏み出した先には床が無かったんだもん」
「転んだんだろ、それ」
 アレクは頬をぷくっと膨らませた。「どういうこと、それ」
「ここはさ、平らになってっけどなあ。今までは階段だったんだよ、階段」
「え〜!? それならそうと、入る前に言ってよお!」アレクは叫んだ。
「だれが転げ落ちると思うかよ。まったく……、と、ロニちゃんが来たようだぜ」
 ハァハァと荒い息遣いが、此方まで聞こえてくる。カッ、カッと階段を降りる音が聞こえる。
「アレクっ!」
 その声に反応して、アレクは上体を起こした。其処にロニががばっと抱きついてくる。アレクは驚いて目を見開いた。
「ロッ、ロニ!?」
 此処が明るかったら、彼の顔がどれだけ赤面しているかよく分かるだろう。鼓動は高鳴るばかり、何も考えることが出来ない。頭の中は真っ白で、何をしていいかもわからない。
 とりあえず、アレクは自分に抱きついているロニの背中に腕を回し、しっかりと支えることにした。
「ロニ……」
 ひっく、ひっくと声をしゃくりあげて泣くロニの声が聞こえる。アレクは思わず、ロニを支えているその腕に力を入れた。
「アレク、私……私、とっても心配したんだからね! なにかあったら、どうしようか……って……っく」
 彼女の暖かい涙が、アレクの肩にぴちゃりと落ちる。彼女の体が、小刻みに震えているのを感じ取ると、アレクはぎゅっと強くロニを抱きしめた。
「ごめん、ごめんね……。今度からは気をつけるよ。心配してくれてありがとう。僕は、大丈夫。だから、だから泣かないで……」アレクはなだめるような声で囁いた。
 言いたいことをただ並べて言った。順序など考えずに。ロニに伝わっただろうか、という小さな不安も抱きながら、自分の腕の中でうずくまる少女の顔を覗く。
 その顔は、以外にも華やかな笑顔でいっぱいだった。ニコリと吊りあがった口元。
「よかった……。私……」
 ロニの言葉は、そこで切れた。
「ヒュー! お熱いねぇ!」ミカエルが囃し立てる。アレクは何ともいえない表情でミカエルを見ると、ふっと小さく笑みをこぼした。
「あ! 今、てめえ笑いやがったな? なんだよ、彼女サンがいるからって! オレだってな、神の御前のプリンスという称号を持つ、天界一ハンサムで、勇敢で、腕もたつと!」
 彼女サン、という言葉に敏感に反応してしまい、顔を赤らめるアレク。
「勇敢と無謀は別だけどね」アレクが言う。
「カッ! 生意気な奴だぜ」
「あ! ミカエル、唾が飛んだよ」
 あはははは、と三人は声をあげて笑った。笑い終えると、ミカエルは小さな炎を燃やし、あたりを照らした。
 ロニはふと小さく笑みをこぼした。こんな闇の中でも、明るくしていられる彼らを見て。
「ロニ(ちゃん)! 何笑ってんだよ」アレクとミカエルの声が揃う。二人は顔を見合わせると、いかにも嫌そうな顔をした。そして、こらえきれずにぷっと吹き出した。
 
 だが、彼らは気がついていないのだ。

 悪魔が、一歩一歩静かに此方に近づいてきていることに。
「……っ!」
 突如として、息苦しくなってしまったアレク。大きく口を開けても、息が吸えない。呼吸が出来ない。心臓はドクドクと激しく脈打ち始めた。
「アレク!」ミカエルとロニが同時に叫ぶ。ロニは口を両手で押さえ、絶句した。
 黒い、影。それは床でのた打ち回るアレクの体から伸びていた。アレクはまだもだえくるしんでいる。
「貴様、何者だ!」
 ミカエルは両手を体の前で構え、その黒い影を睨みつけている。
「私の復活のときは近い……」
 影はゆっくりと話はじめた。体の奥底に響くような、低い低い掠れた声で。
「私の器となるべきこの天使の成長は、誰にも止められぬ。そして……私の望みも、叶う日は近い……」
「器となるべき……天使だと!?」ミカエルは腰に下げられた鞘にさっと手を添える。
 影は頷いたように見えた。「そうだ」低い声がこだまする。
 ロニは震える肩を両腕で抱えこむが、その深い青の瞳は、まっすぐにあの影を捉えている。
「地獄の大気が私を呼ぶ……。私の力は前より強くなっているぞ、大天使長ミカエルよ」
 小さくはっと口を開けると、ミカエルは叫んだ。「お前!」
 ロニはミカエルを見た。彼の瞳には、闘志が燃えている。ミカエルは、静かに唇を開いた。
「お前……。神に地獄へと落とされた、熾天使……、否熾天使だった……」
 ミカエルの声は震えていた。
「ミカエル様! それはどういう……」

 ミカエルは、ゴクリと唾を喉の奥へと押し込んだ。腕が震える、こんなにも。でも、負けるわけには行かないと、静かに言い放った。
「明けの明星、ルシファー!」


 Act.13

「ルシファー……」ロニは思わず両手で口を押さえる。彼女の白い足、細い腕はガクガクと小刻みに震えていた。
 影、否ルシファーは言った。「これぞ私の望んだものだ」
「チッ……。望んだものだと!?」ミカエルは舌打ちし、キッとキツイ目つきでルシファーを睨む。
 ルシファーは大きく腕と思われるものを上げた。
「私は神と同等、否それ以上の力がある! 私は神になれる、そのときは近いのだ……」
「てめえっ!」ミカエルは腰に下げられた鞘から剣を抜く。
 はははは、とルシファーは高笑いをした。まるで、此方を見下しているような。
「炎の天使、ミカエルよ。そなたは私には勝てぬ、絶対な……ははははは!」
 ギリ、とミカエルは歯軋りをした。そして、ミカエルはロニを庇うようにロニの前にたつ。
「私の器……それさえあれば、私は神になれるのだから……」
 そういい残すと、ルシファーの影はいつの間にか消え、後にはすやすやと眠るアレクだけが残されていた。
「……狂ってる」ロニがアレクの頬を撫でながら言った。
「何を言いたかったのか、よくわからないわ。それに、アレクのこと。彼……ルシファーは私の器と呼んだ……一体どういう意味かしら……」
 ミカエルは抜いた剣を鞘に戻した。鞘と剣は、お互いがまた一体になることを喜びカシャンという音をたてて元に戻った。
――明けの、明星。朝が来ても輝きを残す金星の意……。
 嘗ての大天使長であり、もっとも神に愛され、唯一神の玉座の右に座ることを許された天使。最高の気品と美しさ、最高位についた、もっとも位の高い天使。
 俺やメタトロンとは、比べ物にならないほどの力を持っていたあいつ。
 あいつは自惚れた。神に愛されすぎてしまったために。最高の権力と地位を手に入れたあいつに、魔が差した。自分は服従するべき天使ではない、自分は神を越える力を持っている――と。あいつを慕っていた天使を集め、味方にし、神に反旗を翻した。
 そのクーデターも失敗に終わり、あいつは地獄に堕ちた。永遠の暗闇、天上とは違う厳かな暮らし。霊体でない、実体を持つようになったあいつ。
 あいつは神の御子を誘惑し、禁断の木の実を食べさせ楽園から追放させた。あいつはとんでもない力をつけている――。
 危機感を感じた神は、あいつを倒すようにと俺らに命を下した。俺たちは、全ての天使たちとともに戦った。そして勝った。あいつを、永遠に葬り去ったはずだった。深い、深い地獄の底へと――。

『魔王の再来……だ』
 ザドキエルが、ゆりかごのなかで静かに眠る天使の赤子を見て呟く。
『じゃあ! この子は……あの人のために生まれてきたってこと?』
『そう考えるしかないだろう!』メタトロンが叫ぶ。メタトロンが大声を出すなど、珍しいことだ。なにせ、あいつは神の代理人とも呼ばれる天使だ。俺をもしのぐ。いつもは冷静なのだ。
『明けの明星……。お前は神にはなれない、絶対に……』そう呟くと、メタトロンはミーティングルームを出て行ってしまった。ミーティングルームの隣には、ザドキエルの部屋がある。メタトロンはザドキエルの部屋に置いた書類を取りに行った様だ。
『しょうがないのよ。光がある限り、闇は消えない。だから、いつまでも彼は私たちの中にいる』ガブリエルが窓の外を見て言った。 
 あの時、天上から見えた空は広かった。白くて、太陽の光をきらきらと反射していた。

 でも、いつまでもガブリエルの言葉は俺の中から消えていない。光がある限り闇は消えない。だから、あいつは姿を現した。
 もうお前は俺らの敵じゃないんだよ、ルシファー。
 お前を倒すのは、お前の器だ。お前が利用してきた、お前の器だ。十六年という、俺たちにとっては短い期間だな、ルシファー。だが、お前の器にとっては長かったはずだ。お前のせいで何もかもを奪われてしまったあいつを。だから、俺は許さない。

 ミカエルは剣に目をやった。お前が思い出させてくれたのか。忘れていたこと、嘗てのあいつのこと……。
 光が強くなれば、影も濃くなる。光が弱まれば、影も薄まる。俺たちが光ならば、強く光ってやろう。そのぶん、影も濃くなる。だけど、所詮闇は闇。俺たちの敵ではない。だから、俺たちは輝かなくてはならない。

 
「アレク……! よかった、目を覚ましたんだ」
「ん……。ロニ……?」
 うんうんとロニは首を縦に振る。
「なんだか、頭が痛いや」そういって、アレクは頭を右手でさする。

『しょうがないのよ。光がある限り、闇は消えない。だから、いつまでも彼は私たちの中にいる』
 ガブリエルの言葉が、まだ心に引っかかる。
2005/06/28(Tue)18:08:32 公開 / 天翔
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■作者からのメッセージ
回想と、明けの明星の説明を入れてみた話。
ああ、もう少し描写を入れないと何がなんだかわからない気が……。
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