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『幻想クロニクル その五』 作者:神夜 / ファンタジー
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     「プロローグ」



 ――召喚術。
 それは、ある種の芸術だった。
 強大な魔力と強靭な精神力を術者が兼ね揃えてはじめて成功する、最上級の高等魔術。
 その魔術を行うにはあまりにも幼すぎる術者の名をユフィール・アルカイストという。十六歳の少女であるのにも関わらず、一応一国の王妃の地位に就いている。就いているのだが、この小娘がまた絵に書いたようなじゃじゃ馬娘なのである。五歳の頃に国に攻め込んで来た盗賊の頭を呼びつけて相手が気の毒になるようなおままごとを繰り広げるなんてのは序の口であり、七歳の頃には大砲で遊んでいて王宮の一室を爆撃したのは民衆にも幅広く知られていて、十歳にしてすでに狙いを定めた人物の弱みを握り締めて揺すってお菓子を恐喝することを知り、挙げ句の果てには十四歳になったユフィール・アルカイストは周囲の反対を押し切って人生最初の召喚術を勝手におっ始めたのだ。
 繰り返すが、召喚術とは強大な魔力と強靭な精神力があってこそ成功する最上級の高等魔術である。――が、厄介なことにそのノルマを、ユフィール・アルカイストはクリアしていた。アルカイストの血筋は元来より身に余るほどの強大な魔力を欲しいままにしていたし、五歳でおままごと七歳で大砲十歳で恐喝十四歳で召喚術を始めようとするユフィール・アルカイストの精神力が弱いはずはなかった。強靭、と呼んでいいのかはわからないが、それでもそんじょそこらの者よりかは頑丈であるはずだ。
 十四歳の誕生日、ユフィール・アルカイストは反対する周囲の者の弱みを握ることでそれを黙らせ、王宮の一室を不法占拠して閉じ篭り、五時間にも及ぶ儀式の末に、召喚術を成功させた――かに見えたのだが、その召喚術で召喚されたのは体長十五メートルを軽く超える巨大なワイバーンであった。王宮は大騒ぎになる。警備隊が駆けつけてじゃじゃ馬王妃が閉じ篭る部屋のドアを粉砕して室内に乱入したときにはすでに、なぜか巨大なワイバーンはユフィール・アルカイストに懐いていた。後にそのワイバーンは姿形からは想像もつかない「コロコロ」という名を召喚した我が主から授かることになる。
 それから二年の歳月が流れた王妃の十六歳の誕生日。
 ユフィール・アルカイストはそれからただの一度も、召喚術を行ってはいなかった。周りからコロコロのような奴が再び召喚されて暴走したらどうする気だ、と大激怒され、しまいにはユフィール・アルカイストの祖母であるミイラのような婆様に大目玉を食らった。一時期はヘコんだ王妃だったが、いつしかそれは癒え、召喚術ではない魔術を片っ端から身につけて完璧な術者へと近づいていく。
 時が流れた十六歳の誕生日。その日、周囲の者の了解を得て、ユフィール・アルカイストは召喚術を行うことになる。否、行うしか道は残っていなかったのだ。通常の魔術などもはや何の役にも立たないほど戦況は悪化していた。一刻の猶予も残されていないこの状況では、もう縋るものはユフィール・アルカイストの召喚術しか存在しなかった。そしてユフィール・アルカイストもまた、それを望んでいたのだ。
 誰もいない王宮の一室、二年前にコロコロを召喚したときと同じ部屋で、ユフィール・アルカイストは舞い踊る。
 魔力を開放する度に長い髪が翻り、精神を研ぎ澄ます度に身体の芯が熱を持つ。握った愛用の杖が軋みを上げるが、それでもユフィール・アルカイストは儀式を止めはしない。民衆の命がすべてこの儀式に懸かっている。そのことがユフィール・アルカイストの精神力を仰ぎ立てる。普段はどうしようもないじゃじゃ馬娘でも、正体は一国を任されている王妃だ。真面目に物事を考えるユフィール・アルカイストの真剣さは、何者にも劣りはしない。強靭な精神力が、ここにある。
 舞い踊り続けて六時間が経過していた。ユフィール・アルカイストの魔力精神力体力が限界に到達するか否かの刹那に、杖を通して確かな「手応え」を感じた。ここで逃したらもう終わりだった。有りっ丈の魔力をぶち込んで手応えを鷲掴み、相手の有無などまるで無視して服従の契約を強制的に交わしてこの世界に引っ張り出す。
 やり方は手荒だったが、それでも呼び声だけは優しかった。
 ――わたしの声が聞こえる?
 返事はない、
 ――わたしの声が聞こえたのなら、お願い。貴方の力を貸して。
 相手は沈黙を守り通す。しかし、ユフィール・アルカイストは相手を信用する。
 最後の魔力と精神力を使い、異界の門を開錠した。迸った閃光が視界を支配し、ユフィール・アルカイストの召喚術に共鳴して異世界の住人がこの世界――オリネムに召喚される。果たしてこの召喚が吉と出るか凶と出るか。それは、その瞬間に意識が途絶えたユフィール・アルカイストには判別できないものだった。
 閃光が収まったとき、室内には魔力を使い果たして深い眠りに就くユフィール・アルカイストと、その傍らに立ち竦んで辺りをぼんやりと見回し、「――……どこだ、ここ」とつぶやく召喚獣が、一匹。
 窓の外でその様子を主に気づかれないようにじっと見守っていたはずのコロコロが、牙を剥き出しにしていきなり咆哮を上げた。窓ガラスが粉砕され、召喚獣が驚きのあまりに絶叫する。それを引き金にして室内のドアが吹き飛ぶような勢いで開け放たれ、武装した警備隊が信じられない速さで突っ込んで来る。状況が理解できていなかった召喚獣が、正真正銘の悲鳴を上げて逃げ惑う。

 それは、時空と空間が繋がり、異世界より希望と絶望が同時に生み出された瞬間だった。





     「繋がる世界」



 控え目な拍手は七席の発表が終ったことを意味していて、七席の発表が終れば次は八席の発表であるのは当然の流れであり、だから黒崎克弥(くろさきかつや)は教室中の視線が集まる中で自らの席を立ち、小さな咳払いをひとつだけ発して声の調子を確かめ、先ほど書いたばかりの作文の原稿用紙に視線を落として口を開いた。
「     【幻想クロニクル】     二年二組八席 黒崎克弥

 さて、いきなり作文を書いて発表しろと言われてもそんな簡単にホイホイ書けてたまるかっていう話なわけですが、今回はなぜか頭の中で第六感、つまりはシックスセンスが閃いたのでスパパっと書いてスパパっと発表したいと思います。高二にもなってなんでこんなことしてんだろう、って思いは今は黙っておきます。
 今回の題名は【幻想クロニクル】、【幻想の物語】と訳してください。何が言いたいのかというと、単刀直入に言います、漫画や小説でしばしば見られる表現があるじゃないですか、そうそうそれです、今みんなの頭の中で閃いたそれですわ。そう、つまりは異世界の存在。――うるせえよブーイングは必要ねえっつの黙ってろボケ。……それでだ、漫画や小説でよく、異世界というものが表現されることがあります。綺麗に言えばファンタジーの世界。
 この世界、地球とはまた別の世界のことを異世界と呼ぶことを前提に考えてください。宇宙のどっかにあるかもしれない星はこの際省きます。銀河系にあるのは異世界ではなく新世界、とでも表現すればいいのです。おれが言いたいことは、時空と空間がこの地球とはまるで違う世界のことです。漫画や小説の中にある、魔法が使えたり剣が武器屋で買えたりスライムがわんさかいたり色取り取りのドラゴンがラスボスだったりするあの世界。あの世界は果たして、本当に幻想の中の物語でしかないのか。今回言いたいことは、そういうことです。
 この地球のどこかに、そこへ繋がる道は存在しないのか。人間が考えられる幻想は、現実で起こることはないのか。起こらない、と否定できる人間などいるはずはないのです。極端な例を言えば、事故なんてのも一緒。車を作ってる会社が『安全だ』と言っても運転者の腕ひとつで事故なんて幾らでも起こる。それと同じで、異世界など存在しないと言い張っても、何か手違いが起こればそこへ繋がる扉はすぐに開くのだと思う。
 もしかしたらもうすでに、この世界のどこかに開いているのかもしれない。だってそうだろ、地球の隅から隅まで人間が知っているかと言えば違うのだから。アマゾンのジャングルの奥地は? 太平洋の深海の奥底は? 火山のマグマの中は? 地球の中心部は? もしかしたら教室の掃除箱がそれかもしれない。何かの弾みで異世界への扉が開いたとき、貴方ならどうしますか。足を踏み出すか、踏み出さないか。おれなら踏み出す。楽しそうじゃん、異世界って。
 小さな頃を思い出してみてもそうだ。異世界に迷い込んだ主人公は幾戦もの戦いを勇気と希望と友情で切り抜け、冒険を知恵と根性と裏技で乗り越え、辿り着いたボスを黄金パワーで打ち砕き、最後はめちゃくちゃ可愛いヒロインとハッピーエンド。最高じゃんよそれ。楽しい思いができて、可愛い彼女もゲットできて、戻った町では英雄扱い。これ以上何を望めっていうのか。
 結論を言おう。誰か浜辺でいじめられている亀でも何でもいいから、おれに切っ掛けをくれ。そしておれに可愛い彼女を、」
 チョークが飛んで来た。視線を向ける前に担任に呆れられた。
「座れ黒崎」
「なんでスか。これからがいいところなのに」
「もういい。予想はつく」
 クラスが爆笑する。克弥に向けて喝采が湧き起こる。馬鹿だ間抜けだ最高だという声が大半だったが、中には「異世界を見つけて来てください」と真面目な顔して懇願するオタクみたいなデブの奴もいた。笑い続けるクラスメイトに手を上げて応えつつ、克弥は席に戻る。自らが書いた作文の後半を読み返していると、今度は隣の席から消しゴムの欠片が飛んで来た。
 視線を移すと、友達の飯島が愉快そうに笑っていた。
「相変わらずいつものように笑わせてもらいましたよ黒崎さん、最高でした。ええそらもう突っ走ってくださいな、異世界行って可愛い彼女と十八禁まで辿り着ければいいですな。受け狙いにしては度胸がある発表、この飯島、酷く感動致しました」
 九席の生徒が「将来の夢」という題材で作文を読み上げ始めた中で、わけのわからない口調を素に戻して飯島は続ける。
「それで克弥、お前はどこまで真面目に考えてるわけ?」
 意味が掴めず、
「真面目にって、何が?」
「いやだから、異世界のことだよ。ホントにある、ってお前は思うのか?」
 馬鹿言うな、と克弥は思う。
「あるわけないだろそんなもん。あったらもう発見されてるに決まってる」
「待てよ、お前さっきと言ってること違うじゃん。ジャングルの奥地に海の底、マグマに地球の中心、掃除箱はどうした?」
「あれはそう言った方が楽しいと思ったからそう言っただけだよ。そうだな、例えばもしどっかに異世界へと続く扉が開いていて、しかもそれをまだ人間に知られていないとしよう。人間に知られていないのだからこっちから向こう側に行ける術はない。だったら、向こう側の住人はどうなのか。本当にそんなものが開いてるんだったら、異世界の生物がこっちに来てても不思議はねえべ。それなのにも関わらず、そんなものはこの世界にいない」
 ふむ、と飯島は少しだけ考え、だったらさ、と続ける。
「ネッシーとか雪男とか、その異世界の生物かもしれないじゃねえか」
「そうかもしれないけど、所詮未確認生物じゃん。捕まえて解剖して何かわかれば話は別だろうけど、未確認生物を向こう側の生物だって納得させるのは不可能だよ。だって未確認なんだから」
 異世界の存在があると発表したくせにそれを否定する克弥を、飯島は実につまらなさそうな顔で見つめた。
「……やっぱりお前、よくわかんねえよ」
「最初に言っただろ、幻想クロニクルだって」
 まるで聞いていなかった九席の発表が終わり、今度は十席に代わる。十席の題材は「株価について」という高校生には考えられないもので、どんなものかと期待を膨らませたら何のことはない、ただ「株で大儲けして億万長者になりたい」との欲望話だった。結局のところ、この作文に大した意味は無いのだと思う。本日最後の授業であるロングホームルームで、担任が突然「題材は何でもいいから作文を作って発表しろ」と言い出したのが切っ掛けで始まったのだが、この出来が成績に繋がるわけでもないで皆が皆ほとんど適当に内容をでっち上げているのだった。証拠に飯島の題材など「十八禁はなぜ十八歳なのか」という、最低最悪の馬鹿みたいなものである。
 クラス全員の発表が終わり、チャイムが鳴ると同時に担任は普段と変わらぬ様子で「今日はこれまで。連絡事項は先に言っておいたからこれで帰りだ。それからこれが終わったら飯島、お前あとで職員室に来い」と言い残して教室から出て行った。残された飯島がひとりで「何でおれなんだよ別に悪いことなんてしてねえじゃん」とぶつぶつ文句を垂れるが、原因は決まっていた。先の作文だ。十七歳の高校生が十八禁に迫ればそりゃ呼び出されるに決まっている。そのことに気づいていないのは飯島だけだった。
 放課後が訪れた教室内は活気に満ちていて、予定のある者はすぐに鞄を掲げて廊下へ飛び出し、掃除がある者は面倒臭そうにホウキを取り出し、日直が黒板を消すために腕を動かす度にチョークの粉が舞い上がって窓から外へと消えていく。それを追って視線を外へ逃し、ぼんやりと雲を眺めながら克弥は机の横に掛けてあった鞄を手にした。
 いつもは飯島と帰るのだが、呼び出されてこってりと油を絞られるであろう飯島を待つほど面倒なことはないので先に帰ることにする。教室を出て廊下を歩き、下駄箱が見え始めた刹那だった。克弥は、唐突に足を止めた。背後を振り返り、生徒が行き交う廊下を見つめる。が、何も変わったことはない。いつもと同じ日常がそこにある。首を傾げて再び歩き出そうと前を向いたとき、
 今度は、確かに聞こえた。
 克弥は前を見つめたまま停止する。
 放課後の喧騒の中で、異質な声が聞こえたような気がする。
 幻聴か空耳か。どちらかはわからなかったが、自然と足が右を向く。喧騒の中を歩き出し、目の前の階段を上って行く。この先にあるのは二階で、さらに上ると三階があり、そこを越えたら屋上がある。昼休みと放課後だけ開放される場所だ。よく吹奏楽部が退屈なメロディを校庭に垂れ流すために使われる、なんの変哲もない寂れた場所である。声は、屋上から聞こえているような気がした。
 何と言えばいいのだろう。聞こえる声は、はっきりとした声ではない。電話の電波が悪いとき、ノイズが邪魔して何を言っているのかわからなくなるような、そんな感じの声だった。何かを伝えたいのだろうが、その何かがわからない。そもそも、これが本当に声なのかどうかさえも危うかった。それ以前に、どうやらこの音が聞こえているのは克弥だけであるようだった。周りの生徒に変わった様子はないし、克弥のように屋上へ行こうという素振りも見せない。
 やはり幻聴か空耳なのだろう。今から引き返してもよかったが、もう三階まで上ってしまったのだから屋上には行こうと思う。そこで少しだけ暇を潰して、一度だけ職員室に寄ってみて飯島の説教が終わりそうだったら待って一緒に帰ればいい。それにこのままだと、変な心配を背負うことになりかねない。もしもこの声のような音が助けを求める叫びで、屋上で瀕死の生徒がテレパシーを使ってSOSを送っていたりしたら厄介だった。ありえる現象ではないが、自分に対する言い訳などそんなもので十分である。
 吹奏楽部がいない屋上は誰の姿もないように思う。錆びついたドアの向こうからは人の気配は感じ取れない。ドアノブに手を乗せ、克弥は足を踏み出す。
 目を開ければそこは異世界でした、なんて現象が起こるはずもなく、そこには変わらずの寂れた屋上があるだけだった。非日常の気配など、毛ほども感じ取ることはできなかった。屋上のフェンスに歩み寄り、克弥は眼下に広がる校庭を見据える。早速練習を開始している野球部が準備体操をしていて、テニス部のボールがコートを行ったり来たり忙しそうで、体操服で道路を走っているのはバスケ部なのか陸上部なのか克弥には判別できない。
 視界の中で動く生徒の影を見つめながら、思考だけが浮上する。飯島の言葉が脳裏を過ぎる。
 ――いやだから、異世界のことだよ。ホントにある、ってお前は思うのか?
 いい質問だ飯島くん。特別に答えてあげよう。
 克弥はぼやけた笑みを浮かべた。
 異世界があるかないかと聞かれれば、克弥は「ある」と答えたいと思う。普通の生徒を押し通す建前で飯島にはああ言ったが、実際この世界のどこかに異世界へ繋がる扉があっても不思議ではないと考えている。世界の謎はまだまだ存在するのだ、そんなことがあっても不思議ではあるまい。夢を見るくらいは、してもバチは当たらないだろう。どれもこれも、ひと言でまとめれば幻想物語なのだから。
 そしてそんな幻想を抱いているからこそ、克弥は今、ここいるのだ。
 もしかしたら、ひょっとしたら。そんな考えがあったのだろう。先の声が幻聴だろうが空耳だろうがそれはそれでよかった。ただ、そこに僅かな可能性を見たかった。この屋上へ来たら異世界への扉が開いていて、その向こうから克弥を呼ぶ声が聞こえる。足を踏み出せば英雄になれて、可愛い彼女もゲットできる。そんな世界が、もしかしたら広がっているのではないか――。そんな幻想を、誰でも一度は抱くだろう。それを心から信用して危ない道に走ったら脱落者だが、ひっそりと考えて現実と幻想の区別さえできていれば問題はないはずだ。
 なぜなら、現実から一歩踏み出せば英雄で、二歩踏み出せば気違いの世界なのだから。
 漫画家や小説家だって似たようなものである。頭の中で描いて絵や言葉にするのは幻想だ。それを書き上げることにより、英雄になる。だけどそれを現実のものだと信じ込んで暴走すれば気違いだ。目に見えないが、誰でもわかっている境界線が存在する。そこを超えてはならない。だから、その手前で少しだけ幻想に浸りたいのだ。それについて考えれば先の声は、その思いが生み出した幻聴なのかもしれなかった。
 グラウンドで金属バットがボールを叩く。ボールは高々と上がり、しかし伸びの見込みはなく外野フライで落ち着く。ボールがグローブに収まったとき、克弥の意識もまた等身大に収まった。考える時間はここまでだ、と克弥は思う。作文であんなことを書いてしまったせいでテンションがハイになっているのだ。そろそろ引き返さないといつまでも思考の泥沼を這いずり回ることになる。たぶんもうちょっとしたら飯島の説教も終わるだろう、だからぶらぶらと職員室にでも帰ろう。
 そう思って克弥がフェンスに背を向けたまさにそのときだった。

 ――我が声が、聞こえるか?

 今度は、幻聴や空耳で片付けるには無理がある、はっきりとした鈍い男の声だった。
 辺りを見回しても人の気配はやはりなくて、虚空の世界に取り残されたような錯覚を受けた。校庭から響き渡っていた喧騒が意識の彼方に遠のき、克弥はひとりで呆れた笑みを浮かべる。まだ未練があるのか、と己を罵倒する。どこまで幻想世界を引っ張る気だ。わかっているだろう、一歩踏み出せば英雄だが二歩踏み出せば気違いなのだ。幻聴や空耳を脳内で飲み込んでどうするつもりだ。これはペットの猫の「にゃー」が「おはよう」と聞こえると血圧上げて思い込んでいるマダムと一緒のことだ。そっちの世界に入って何がしたいのだ、さっさと引き返して、
 ――我が声が、聞こえるのだな?
 だからもういいって、薬もキメてないのでなんでこんなに幻聴が続くのだろう。
 疲れているのかもしれない。今日は家に帰ったら飯食って風呂入って早く寝よう。
 ――……幾千年もの月日を経て、ようやく見つけ出した。
 足を動かして今すぐ職員室へ向え、早くしろ、
 ――アルカイストの血筋の影響か。先祖の努力を無駄にするとは、愉快なことだ。
 早くしろそうじゃないと、
 ――生贄となる我が器。逃がしはせぬ。
 逃げろ。いつしか思考は悲鳴を上げ、どこからか湧き上がった恐怖に塗り潰されていた。
 手に持っていた鞄をその場に取り落とし、意識が真っ白になったのを切っ掛けに克弥は走り出す。すぐそこにあるはずの階段へと続く扉が遥か遠くに感じる。鞄が落下した箇所から三歩走った瞬間、真っ白だった意識を漆黒が支配する。体が凍りついた。実際には凍りついてなどいないが、まるで凍りついたように動けなくなった。指一本眼球さえも動かせない克弥の周りを、影のような漆黒が這い回り、やがてそれは青い空と屋上を飲み込んで膨れ上がっていく。いつしか視界は漆黒に閉ざされ、もはや自らの手も肉眼では捉えられない。
 空気の塊がぶつかったような衝撃が来た。
 思わず目を瞑った刹那、身体の中に何かが入り込んでくる。痛みはなかったが、違和感があった。自らの身体に異物が潜り始めている。その違和感は次第に恐怖へと置き換わり、無意識の内に手が震え出す。身体の中を移動するそれは留まることを知らず、徐々に徐々に、克弥の内部と交わり合っていく。その現象は侵食ではなく、完全なる融合だった。神経系の一本一本さえもが結合され、克弥と異物が同調する。その同調がピークに達したと同時に、
 それまで感じていなかったはずの痛みが一挙に舞い降りた。
 五体が引き裂かれるような激痛だった。
 絶叫した。が、その絶叫は掠れた声になって消え失せ、意識は遠のくくせに痛覚だけはそこに滞在し続ける。
 何が起こっているのかまるでわからなかった。そもそもそんなことを考えるだけの余裕すらなかった。漆黒に恐怖し、恐怖は激痛になり、激痛が漆黒に飲み込まれる。終わりの見えない無限ループに陥っていた。漆黒と恐怖と激痛の狭間を漂うことにより、時間の感覚が薄れていく。もう何十時間もこんな拷問みたいな状況を垣間見ているのだと本気で思う。実際はまだ十秒も経ってはいなかったが、脳内を練り回る三つの思考が正気を破壊するのだ。気が違うのも時間の問題だった。痛みが治まってくる中で、克弥は五体はもう引き千切られてしまったのだと考え始める。事実、今はその方が楽だったのかもしれない。わけもわからずこのまま死ぬのだと理解した。
 唐突に視界が開けた。
 漆黒も恐怖も激痛も消し去るような光が視界いっぱいに広がってすべてを照らす。
 ぼんやりとする意識を動かし、克弥は他人事のような目つきで辺りを見回した。学校の体育館くらいの大きさの部屋だった。一瞬本気で学校の体育館だと思ったのだが、無駄に高い天井には骨組みなどなく、真っ白な塗装が施されていた。壁には広く大きな窓が幾つもあったし、床にはふかふかの絨毯が敷かれていた。学校の体育館であるはずはなかった。こんな所、見たこともなかった。
 素の疑問。
「――……どこだ、ここ」
 思わず声に出して言葉にすると、益々わからなくなった。
 何ひとつとして、状況が理解できなかった。
 そして克弥は、足元に倒れ込んでいた人の気配に気づく。女の子、だと思う。長い髪の毛で顔が隠されているからはっきりとは言えないが、こんな長い髪の男がいるとは思いたくない。だから女の子だということに決める。理解できていなかった状況が、さらなる深みに嵌る。見覚えのない場所、見覚えのない女の子、わけのわからない自分自身。一体何がどうなって何がしたいのか。もはや克弥はダメになっていた。気が違ったのかもしれない。
 取り敢えずどうにかしよう。そんな芋虫みたいな思考が唐突に湧き上がり、克弥は倒れ込む女の子が本当に女の子なのかを確かめようとした。
 姿勢を僅かに低くした、まさにその瞬間だった。
 破滅の咆哮と共に、部屋の窓ガラスが一撃で粉砕された。
 反射神経で振り返ったとき、克弥はそこにラスボスを見た。まさにラスボスと表現するのがぴったりの、巨大な深緑のドラゴンだった。冗談ではなかった。建前も度胸も勇気も状況判断もクソも、何も存在しなかった。今まで上げたことのない声で絶叫した。端から聞けば笑えるような絶叫だったがどうしようもなかった。ドラゴンが目前に滑り込み、牙を剥き出しにして克弥に食らいつこうとしたまさにその瞬間、
 今度は逆側のドアが吹き飛ぶような勢いで開け放たれ、武装した集団が突撃を開始した。よく映画などで見る、西洋の騎士のような出で立ちだった。一人や二人の騒ぎではなかった。軽く見積もって三十人はいる。それらがすべてドラゴンを中心として統率された動きで克弥の周りをぐるりと円状に包囲し、鞘から抜かれた剣の切っ先が一斉に向けられた。
 これまた冗談ではなかった。
 正真正銘の悲鳴を上げた。腰が抜けそうになる己を何とか繋ぎ止め、どこかに穴はないのかと視線を彷徨わせて逃げ惑う。が、三回目の回転で足が縺れて絨毯の上に尻餅をつき、無意味に体が麻痺して立ち上がろうとする気力を根こそぎ吹き払う。殺されるのだと思った。このまま剣で串刺しにされてドラゴンに噛み砕かれるのだと、本気で思った。もう悲鳴を上げる意志も尽きており、虚ろな視界に涙が滲む。
 背後のドラゴンが口を抉じ開け、鋭い牙の連が克弥に狙いを定める。
 死んだ、と脳が理解した刹那にその声を聞いた。
「――やめろコロコロ。牙を引け」
 統率された武装集団の一角が崩れ、一筋の道が口を開けた。
 そこから恐らくは身長が二メートルくらいある巨漢が克弥に向って歩いて来る。兜のようなものを頭から被っているせいで顔があまりよくわからない。身体に軽い武装はしているものの、他の兵士とはまた違う格好だった。それに加え、その男から放たれる威圧感が半端ではなかった。普通の人間が漂わせるものとはまったく異なる、もっと圧倒的な気配である。自然と悟った。この男が、頭だ。そして自分は、この男に殺されるのだ。
 恐怖に支配された克弥は、遥か上にある顔を尻餅をついたまま見上げ、戦死者の笑みを浮かべた。
 男は捕食者の笑みを浮かべる。
「魔力の反応は皆無。見たところ亜人でもあるまい。……貴公の名は何だ?」
 答えない克弥を見つめて「ふむ」と男が息をついたとき、背後からドラゴンが唸り声を発する。牙は隠されているのだが、その喉奥から響く唸り声は腹の底に落ちるような重いものであり、研ぎ澄まされた眼光は常に克弥の喉元を捉えて外さない。何か下手に動けば最後、誰が止める間もなくこのドラゴンは獲物を噛み砕くだろう。動いてはならないと脳が警告を発するが、どの道もう、克弥に身動きをするだけの度胸は残っていなかった。
 男が克弥の目前に座り込んでもう一度先と同じことを訊ねようとした瞬間、また別の声が届く。
「お止めコロコロ。レグルスも下がりなさい」
 男は声の聞こえた方向を振り返り、小さな敬礼をひとつ。
「承知しました。コロコロ、お前も下がれ」
 その忠告でドラゴンが一歩下がり、殺気を静める。が、まだ眼光の奥底には獲物を噛み砕く意志を捨てていない光があることは明白だった。
 男が場所を開けたとき、兵士が作り出す道を老婆のミイラが歩いて来る。ミイラだと言われた方が納得できるような老婆である。生まれたての山羊のように腰は驚くほど曲がっていて、杖を支えにゆっくりと歩み寄って来る小さな皺くちゃの老婆は、誰がどう見たってミイラであり、どこかの博物館にでも飾れば魔除けになるはずだった。垂れた皺で塞がっていた目を片方だけ開け、未だに尻餅をついて放心する克弥を見据えて「ひぇっひぇっひぇ」と「ふぇっふぇっふぇ」の中間声で老婆は笑う。
「……お前さん、この世界の者じゃないね。ユフィールの召喚術は、一体どこの世界からお前さんを引っ張り出しちまったんだろうねえ」
 老婆の言いたいことがまるでわからない。そもそも言葉の半分も脳みその中には入って来ない。
 また「ひぇっひぇっひぇ」と「ふぇっふぇっふぇ」の中間声で笑った老婆はそっと膝をつき、そこで倒れ込んでいた女の子の髪を分けた。はっきりと顔が見えた。それはやはり女の子で、しかも今まで見たどんな女の子よりも可愛い子だった。死にそうなくせにそんな邪な思考だけはすぐに出てくる自分が酷く情けないが、所詮自分の器などこんなもんである。
 老婆は女の子の頬を軽く撫で、
「起きなユフィール。こんな所で寝ていると風邪を引くよ」
 女の子が小さな声を出す。やがてそれは大きさを増し、瞼が微かに震えた後にゆっくりと瞳を開く。寝起きの瞳は微かに潤っていて、それが克弥の中で何か言いようもない魅力に変わる。純粋に可愛いと克弥は思う。当初のダメージから回復しつつある思考が、異世界に迷い込んだ主人公が出会うのはやはりこういう子なのではないかと考える。そして最後にはもちろん、その子は主人公の彼女になってハッピーエンドなのだ。そんな邪な思考を嗅ぎ取ったかのように、背後のドラゴンが低い唸り声で威圧する。それがまた思考を握り潰し、克弥は沈黙した。
 目覚めた女の子がすぐそこにある老婆の顔を見つめ、小さな声で、「――……おはよう、婆様」とつぶやいた。その声が、予想していたものよりずっと柔らかくて透き通っていたことに驚いた。女の子は眠たそうに絨毯の上に寝そべり、辺りをくるくると見回す。まず最初に周りを囲む兵士を見つめて「あれ?」みたいな顔をして、次にドラゴンの姿を目にして「むむ?」みたいな顔をして、最後に克弥を発見して「ああ!」みたいな顔をした。
 眠気が一発で吹き飛んだかのように女の子は立ち上がり、克弥を凝視して歓喜の表情を浮かべる。誰に言うでもなく、一気にまくし立てる。
「見て見て見てっ! 成功したわたしの召喚術成功したっ! その人だよねわたしが呼んだ人って!? わあー、どこの国の人なのかな? 見たところ亜人さんじゃないし、コロコロみたいなワンバーンでもないよね。もしかしてオリネムの神話に登場する神兵だったりしてねっ? あーどうしよう、もしそうだったらわたしってやっぱりすごいんじゃない!?」
 きゃあきゃあ騒ぐ女の子とは裏腹に、老婆は沈黙を押し通している。
 やがて見かねた巨漢が一歩だけ前に踏み出した。
「落ち着けユフィ。よく感じ取れ。この者からは魔力の鼓動は感じられない」
 え、と女の子が停止した。
 奇妙な沈黙が室内を支配し、僅かな後に女の子の視線が克弥に向けられて固定される。そのままで三秒が過ぎ、五秒が過ぎ、十秒が過ぎ去ったときになってようやく、女の子が隠し切れない落胆の色をため息として吐き出した。克弥の耳に心底落ち込んだ様子の「失敗なのかな本当に失敗なのかなごめんなさいわたしにあのときちゃんと魔力が残ってたらこんなことにはならなかったのにごめんなさい」と呪文のようなつぶやきが届いてくる。
 居心地の悪さを感じた。別に自分自身が何か悪いことをしたわけではないが、なぜか自分がすごく悪いことをしような錯覚を受ける。事実この女の子が落ち込んでいるのは自分のせいだと思う。理由はわからないが、何か言った方がいいのではないかと思う。しかし何と言っていいかわからず、どうしたものかどうしたものかと考えて考えて考え抜いて、ついに完璧無責任な「元気出せよ」との言葉を吐こうとしたまさにその瞬間を見計らっていたかのように、室内に突如として怒号が割り込んできた。
「レグルス隊長ッ!!」
 巨漢が瞬間的に振り返ったそこに、一人の兵士が息も絶え絶えに走り込んで来る。
「何事だ」
 兵士は言う、
「――バンディッドです!!」
 室内に異様な緊張が走り抜け、大勢の兵士が、ドラゴンが、そして女の子が弾かれたように一人の兵士に視線を向け、巨漢だけがまるで動じない様子で、
「数は?」
「二百五十はいます!!」
 決断は一瞬だった。
「迎撃部隊の第一斑はおれに続け! 正門から迎え撃つ! 第二班から七班まではその援護に回れ! 八、九、十班は正門を固めてバンディッドの侵入を許すな! 機動部隊にその周囲の警戒を任せると通達しろ! ――残りの判断は各自に任せるっ!! 戦闘開始だ野郎共ッ!!」
 一瞬の決断はたちまちに兵士に感染し、部屋を揺るがせるような雄叫びに膨れ上がる。武装した重みが作用し、兵士が一歩踏み出す度にものすごい振動が室内を覆い、巨漢に続いて次から次へと走り去って行くその様はまさに戦争に他ならなかった。全員が全員、敵を迎え撃つことだけにしか気を配っていない。今の兵士に邪念など一切無かった。敵を討つ、それだけを意識して戦場へと赴いて行く。
 そしてまた、女の子もその内のひとりだった。
 兵士がいなくなった部屋に取り残された女の子は一発で何かを決意し、克弥の横を走り抜けてドラゴンに駆け寄る。
「ユフィール! どこへ行くつもりだい!?」
 老婆の制止に、女の子はにっこりと笑う。
「戦うんだよ婆様。わたしだって戦えるんだから」
 ドラゴンが頭を下げて女の子を自らの背に乗せ、巨大な翼を左右へ広げる。
 その瞬間、女の子の視線が克弥を捉えた。考えていたのは、一秒だけだった。
「君も早く来て! わたしが連れてってあげる!」
 どこへ連れて行くと言うのだろう。
 状況は何ひとつ理解できていないままだし、それ以前にもう何だか今のこの状態が夢のように思えてきた。だから女の子の声にすぐに答えることができず、ぼんやりとドラゴンの背に乗るその大きな瞳を見つめていたら、痺れを切らしたドラゴンに噛み砕かれた。本気で噛み砕かれたと思うくらい豪快に服を咥えられ、放り投げるくらい大雑把に己の背に克弥を投げ捨てる。それを落下しないように見事女の子が支え、同時にドラゴンの翼が大きく揺れた。
 ジェットコースターより遥かに強烈で危険だった。一度目の羽ばたきで老婆を残して粉砕した窓から外へ飛び出し、二度目の羽ばたきでドラゴンは一気に飛翔する。冗談でも特撮でもなく、それは紛れもない飛翔であり、シートベルトもなければ命綱もなかった。死ぬかと思った、どころの騒ぎではなかった。本気で死んだのだと思った。
 空を切り風を裂き、ドラゴンは大空を駆け抜ける。目を開けていられなかった。流れる風に乗って「恐い?」という女の子の声が聞こえた。格好をつけるだけの勇気はなかった。首を振ることも声を返すこともできず、克弥はただ歯を食い縛ってドラゴンの背にある羽の付け根に必死にしがみ付く。この状況で平然と喋ることのできる女の子が妖怪か何かのように思える。
 女の子はくすくすと笑った。
「自己紹介がまだだったね。わたしは君の主、ユフィール・アルカイスト。ユフィでいいよ。それでこの子がコロコロ。わたしのいちばんの友達。君の名前は何ていうの? ちゃんと喋れるんでしょ?」
 喋れるがこの状況では喋れない。それくらいわかって欲しい。
 そして返答を返さずに目を瞑る臆病者をどう勘違いしたのか、女の子――ユフィはまたくすくすと笑って「人見知りする方なんだね」と見当違いの結論でまとめた。勝手に納得したユフィに対して、克弥が雀の涙ほどもない勇気を奮い起こして先の言葉を否定しようとした刹那に、隣で爆発的な気配の変化が起こった。ユフィが小さく、「見つけた」とつぶやくのがわかった。何を見つけたのか。それが好奇心を煽り、克弥が微かに目を開けたその瞬間、
 コロコロと呼ばれたドラゴンが翼を折り畳んで急降下を開始した。
 地獄へ堕ちたのだと思った。内臓がすべてケツからあふれ出すかと思った。
 腕を離せば最後である。体はもはや完璧に宙に投げ出されていて、風がコンクリートのような強度を持って肌を打ちつける。しがみ付いてしっかりと握り合わせていた手に汗が滲み感覚が薄れていく。やめろ馬鹿これを離したら絶対に確実に本当に死ぬぞ。こんな死に方など最低最悪ではないか。笑い話にもなりはしない。もう少しでたぶん着地するはずだ、だからそれまで必死に我慢しろ。もうちょっとだ、だから、
 浮遊感が吹き飛んでコロコロが唐突に着地した。その衝撃に克弥は完全に宙に放り出され、砂っぽい地面に遠慮無く叩きつけられた。何度も地面を転がり、頬に大量の砂が附着して口の中にまで入り込んでくる。上下の歯を合わせると鳴るじゃりじゃりという音が何よりも気持ち悪くて、克弥は目を開けてまず最初に咽返る。吐き捨てた唾には細かい赤色をした砂が混じっていた。
 口の中の砂をすべて吐き出すのは不可能だったが、先よりはマシになったことを確認した後に、克弥は改めて辺りを見回す。
 そこは、本当に何も無い寂れた荒野が続く場所だった。背後の遥か遠くに町のような城のような、何だかよくわからない白いものは見えるのだが、それ以外は本当に何も無かった。風が荒野を吹き抜ける度に、赤色の砂が舞い上がって小さな旋風を巻いて消え失せる。こんな場所が、学校の屋上であるはずはなかった。こんな場所が、日本にあるはずはなかった。隣で前方を見据えて牙を剥き出すドラゴンなど、この世界にいていいはずはなかった。そして、その側で凛と澄んだ顔をする女の子が、人間だとはどうしても思えなかった。
 ユフィは無表情で言った。
「――……数はたぶん、二百七十五。今回はまだどうにかなる。コロコロ、わたしたちで少しでも数を減らしておくよ」
 その声に、コロコロが巨大な咆哮を上げる。
 荒野を走り抜けた咆哮の先に『何か』がいることに克弥が気づけたのは、単なる偶然だった。
 目を凝らし、荒野の地平線を見つめる。『何か』は、『人』のように見えた。それも半端ではない数だ。大量の人が一箇所に集まってこっちに向っている、のだと思う。地平線の向こうから荒野を揺るがすような音がゆっくりと近づいて来る。大行進、とでも表現すればいいのだろうか。その大行進を行う集団に敵意を放つユフィとコロコロ。一体何をしようとしているのか。それを、なぜか自然と悟っていた自分がいることに克弥は気づく。
 戦う気か? あんな集団を相手に、一匹のドラゴンと一人の女の子だけで? ――馬鹿かこいつら。
 理由はわからない。だけど目の前で女の子が戦おうとしているのだ、それをはいそうですかと見過ごせるはずはなかった。安っぽい偽善者の心が呼び起こされ、克弥は立ち上がる。自分の身の周りで何が起こっているのかなんてのはもう知ったことではなかった。ただ、戦わせてはならなくて、ここから一刻も早く逃げなくてはならないのだと思う。
 何してる今すぐここから逃げるぞ。そう、叫ぼうとした。
 だけど、叫べなかった。克弥の声は、頭の中で響いた声に遮られる。
 ――なぜ、逃げる必要があるのだ?
 学校の屋上で聞いた、あの声だった。
 ――バンディッド如きに背を向けようとする己に恥じを知れ。貴様は我の器なのだ。我が名を汚すことは許さぬ。……我が力を解き放て生贄。貴様の身体は我のものでもある。同時に、我の身体もまた、この七夜の内は貴様のものでもあるのだ。バンディッドなど、我が力の前では無以外の何者でもない。
 ……――我が力を、解き放てッ!!
 世界を揺るがすような笑い声が、克弥の脳内を木っ端微塵に砕き散った。
 漆黒の中で味わった痛みと同系統の激痛が再び身体を襲い、やがてその激痛は右腕に収縮されていく。収縮された激痛は、それまでの比ではなかった。想像を絶する痛みがすべてを切り捨てた。克弥に残されたのは、絶叫することだけだった。絶叫だけが唯一、痛みに耐える方法だった。聞いている相手も耳を塞ぎたくなるような生の激痛に塗り潰された悲鳴。事実、突然の絶叫にユフィは瞬間的に克弥を振り返り、そこに写った壮絶な光景に思わず目を背けた。
 克弥の右腕が、沸騰し始めていた。
 血管を流れる血液が高熱に晒されることで蒸気に変わり、毛穴のひとつひとつから外気に噴射される。皮膚が蠢き、下に隠されていた骨が固定されている形を無理矢理変形させる。噴射していた蒸気が空間を這い回り、やがてそれは克弥の右手に纏わりつきながら真紅へと色を変えた。絶叫は続く。もはやこの痛みがどこから来ているのかさえも克弥にはわからない。それなのにも関わらず、右腕の変化はまだ継続される。
 その様をひと言で表すのなら、右腕から右腕が生えた、というのがいちばん的確だったのかもしれない。時間にすれば僅か数秒、だけど体験すれば何十時間にも及んだと勘違いされるはずの激痛。それでも精神が崩壊しないのは、脳内がすでに支配されているからだ。そして脳内を支配しているくせに痛覚だけを取り残し拷問にも似た試練を重ねさせ、七夜を過ぎた最後の最後に訪れる激痛に耐えることのできる器を作り出すための第一段階を始動させている。
 克弥の右腕が、変貌を遂げた。
 それが人間の腕であるはずはなかった。下に垂らせば地面に掌がつくほどに長く、真紅の鱗を魚のように携え、五本の指には鷹のような鋭い漆黒の爪を持つ、この世の何者でもない、異形の腕だった。蒸気が未だにゆっくりと噴き出す自らの腕を見下ろし、克弥は気が遠くなるような吐気を覚えた。これが自分の腕であることを、脳が拒絶する。痛みはいつの間にか失せていたが、その名残がまだ脳内で反響しているような気がする。唐突に競り上がってきた嘔吐感をギリギリで抑え込み、涙で歪んだ視界を前方に移したとき、呆然とこちらを見つめるユフィと、僅かに身を引いて殺気を放つコロコロと、
 空飛ぶ骸骨を見た。文字通り、コロコロの後ろからユフィの横を通り抜け、克弥に向って骸骨が飛んで来たのだ。
 理科室に飾ってあるような骸骨ではなく、もっと禍々しい、まるで本物のような骸骨である。その骸骨の右手に、細長い矢のようなものが握られていることに気づき、弓の刃が克弥の首筋を狙っていることにも気づいた。意識してではなかった。気づいたら、だった。視界の中を右から左へと真紅の腕が横切ったと思った次の瞬間には、骸骨は跡形も無く木っ端微塵に塵と化していた。自分の右手であって自分の右手ではないこの右腕が、勝手に骸骨をぶち殺した。
 右腕が克弥の意志とは関係なく上がり、右掌が前方に向けられた。
 その先にいるのは、肉眼でもはっきりと見えるようになった大行進を行う集団だった。それは、さっき突っ込んで来た骸骨の群れだった。そう表現するのがいちばん的確であるはずだ。骸骨の群れが各々の武器を構え、各々がまったく同じ速度でまったく同じ方向へ向かって来ている。狙いはユフィとコロコロと、克弥だった。
 唐突に、殺られる前に殺らなければならない、とどこからともなくそんな思考が湧き起こった。
 その思考に比例し、差し出されていた真紅の右掌に圧倒的な力の鼓動が巻き起こった。何かが右掌に収縮され始めている。克弥にはもちろんわからなかっただろうが、それはアルカイストの血を受け継ぐユフィール・アルカイストさえもが見ていて気の遠くなるほどの、強大な魔力だった。ありえない力の鼓動が巻き起こっている。これほどまでに強大な魔力を秘めていることだけでも驚愕に匹敵するのにも関わらず、これほどまでに強大な魔力を一箇所に収縮させているのだからもはや言葉も出ない。
 克弥の頭の中で声が再び響く。
 ――……これが、生龍・霧王(きおう)・シルヴァースの力だ。
 切っ掛けはそのつぶやきで、発射は小さな動作だった。
 小さな動作から発射された魔力の塊は、迫っていた骸骨の群れに瞬時に激突し、周囲のものを根こそぎ飲み込みながら音など微塵も感じさせない空白の一秒の後、迸る閃光の下に、

 すべてを、――殲滅した。

 残っているものなど、何ひとつとしてありはしなかった。
 何も無い寂れた荒野に、ひとつの巨大なクレーターが口を開ける。放射線状に広がった衝撃波からユフィを守るようにコロコロが翼を広げなければ、女の子ひとりの体重などまるで無視して簡単に吹き飛ばしていたはずである。どこまでも広がっていく衝撃波が遠く離れた場所にあった絶壁にぶち当たり、一瞬の間を置いてそれを木っ端微塵に破壊する。
 文字通りの殲滅だった。骸骨の群れの残骸など、塵ひとつとして残ってはいなかった。
 荒野に立ち竦む、右腕を異形に変貌させた克弥を見つめ、ユフィが小さくつぶやく。
「…………生龍の、腕…………」

 ユフィール・アルカイストの召喚術によって時空と空間が繋がり、
 黒崎克弥という希望と絶望が、同時にこの世界に舞い降りた。





     「月の化身・生龍」



 ちくわに襲われていた。
 『ちくわ』という名前を持つ獣人みたいな人物ではなく、食べ物の『ちくわ』である。
 それ自体はあまり恐いものではなかったが、それでも自らの身長の数倍はあるであろうちくわが目の前に突如として出現したら驚きはする。加えてそのちくわには手も足も生えていて、人間のような二足歩行を可能にしているのだ。素足でぺたぺたと地面を歩き、素手をぶんぶんと振り回して迫り来る巨大なちくわ。口と思わしき穴から食べられそうになった。それもまだ恐くはなかった。しかし次の瞬間、気づいてしまった。ちくわに食べられる、というシチュエーションにはまだ耐えられるが、食べられて向こう側の穴から外に出ることは、果たして何を意味するのか。消化されたわけでもないが、それでも結論はひとつしかなかった。
 「ちくわに食べられて、ちくわのケツの穴から外に出る」というシチュエーションが、とてつもなく恐かった。絶叫した。
 そしてちくわに食べられそうになったとき、今度はどこからともなくかまぼこの大群が押し寄せて来た。
 『かまぼこ』という名前を持つ獣人みたいな人物ではなく、食べ物の『かまぼこ』である。
 ちくわ同様にそれ自体はあまり恐いものではなかったが、それでも小さな小さなかまぼこが群れを成して背後から迫り来るシチュエーションはものすごく恐かった。おまけに前方にはちくわがいて、今にも噛みついて来んばかりの殺気を放っており、逃げようと思ったらいつの間にか周りをかまぼこに包囲されていた。正真正銘の悲鳴を上げた。必死になって逃げ惑うのだが逃げ場はなく、三回目の回転で足が縺れて尻餅をついた。ちくわを筆頭とするかまぼこの群れはすぐそこだった。ジリジリと距離を詰めて来る食物たち。
 一触即発の刹那が過ぎた瞬間、均衡は破れた。
 上空に跳び上がって襲いかかるちくわとかまぼこ。その牙が到達するか否かの一瞬、
 克弥は実に情けない絶叫とも悲鳴ともつかない叫び声を上げながら目覚めた。しばらくは状況が理解できなくて、自分でも驚くほど荒い息だけが室内に木霊していた。興奮状態から徐々に回復していった脳みそがひとつの思考を運んでくる。その思考は自分でも不思議なほど大きな安堵を与えてくれた。
 ちくわとかまぼこに襲われる夢を見た。それだけのことだった。
 思わず漏れた安堵の息に苦笑し、克弥はぼんやりと部屋の天井を見上げる。こんな歳にもなってあんな夢如きで魘されるとは情けない。だが今はこうして笑い飛ばせる夢だったが、あの恐怖はあの瞬間だけに絞ればとてつもないものだった。何せちくわに食われたらケツの穴から出てしまうのだ。もう二度とちくわなど食えなくなってしまう。かまぼこだってそうだ。小さなかまぼこに食い荒らされたら二度と食えなくなるに決まっていた。今度どこかで見つけたら覚悟しておけ、次はおれがお前らを食い漁ってやる。
 ひとりでわけのわからない優越感に浸っていた克弥は、ようやくそのことに気づいた。
 天井が、やけに白かった。自分の部屋の天井ってこんなに白かったっけ。そんな考えが浮かび上がったのだが、どうしてもその次の段階には進めなくて、克弥はいつまでもちくわとかまぼこに対しての優越感に浸っている。無意識の内に寝返りを打ったときになって初めて、次の段階へ進めた。しばらくは視界に入っている光景の意味を理解できなかった。
 優越感は一発で消えた。
 慌てて起き上がり、改めて部屋の中を見回して、やっとここが自分の部屋ではないことに気づく。見たこともない部屋である。大きさは学校の教室ほどで、綺麗に整えられた部屋の中には克弥が寝ているベットしか家具は無く、天井の蛍光灯のようなよくわからない硝子玉だけが光を放っている。克弥が座っている真正面、病院のような真っ白い壁に茶色のドアがひとつ、その壁とは違う壁にもうひとつドアが備えつけられていた。
 どこだ、ここ。それと同じ台詞をいつかどこかで言ったような気はするが、それがいつでどこなのかが思い出せない。
 なぜか突然に、逃げよう、と思った。何から、誰から逃げようと思ったのかはわからないが、とにかく逃げなければならないような気がした。ベットから裸足のまま床に歩み出し、真正面のドアに近寄ってドアノブに手を乗せる。が、向こう側から鍵を掛けられているのかドアノブは回らなかった。ならば次だ。右を向いてまた歩き、もうひとつのドアの前に立ってドアノブを回す。今度はすんなりとドアが開き、その向こうへ行けた。
 便所と浴槽、だと思う。旧型なのか新型なのか判別できない変な形の便座があり、隣にあるのは恐らく浴槽だろう。ふたつとも克弥が見慣れていたものとは形が微妙に違うが、それでもそれは便所と浴槽で間違いないはずだ。そして便所を見たとき、感じていなかったはずの尿意を覚えてとりあえず用を足す。しかし水を流すレバーがどれなのかがなかなかわからず、焦りに焦りながら捜索し、五分くらいかけてようやく水を流すことに成功した。
 無駄な冷汗を密かに流しながら克弥は再びベットのある部屋へ戻る。壁と同じく真っ白なシーツに座り込み、ふと思い至った。
 つまり自分は今、ここに閉じ込められているのだろう。
 誘拐か。まず最初にそう考えたが、自分を誘拐しても身代金を払えるほど裕福な家庭に育った憶えは無い。それに誘拐にしては人質である自分の待遇が良すぎだろう。縄で縛られてもいなければ目隠しもされておらず、おまけにこんな綺麗な部屋まで用意さているのだ。だから誘拐の線は消える。では次だ。自分はなぜここにいるのかを考える。昨日の出来事をひとつひとつ思い出していこうとする。
 そして、最も重要なことを思い出しそうになった瞬間を見計らっていたかのように、回らなかったはずのドアノブが独りでに回り、押し開けられたドアの向こうから巨人が姿を現した。
 巨人かと思うくらいに高い長身を持つ、巨漢だった。見覚えがあった。昨日会ったばかりの人物である。兜も武装もしていなかったが見間違えるはずはない。この赤髪で厳つくて恐そうで、何より半端ない威圧感を持つこの巨漢は、克弥を包囲したあの兵士の親玉だ。その巨漢の出現が克弥の脳内を抑え込んでいた止め金を圧し折った。
 何もかも思い出した。ドラゴンのことも兵士のことも骸骨のようなもののことも、自らの右腕が異形の腕に変貌したこともその際に吹き荒れた激痛のことも、そして、ユフィと名乗ったあの女の子のことも、すべて思い出した。昨日の荒野のど真ん中、辺りの光景を悉く殲滅した自分は、いきなり頭の中が真っ白になって天地が逆転し、そこで意識が途絶えたのだ。それまで冷静だった脳みそが暴走した。処理する情報が多過ぎて、何から処理していけばいいのかがまるでわからない。
 再びダメになってしまった克弥へ歩み寄り、巨漢はひと言だけ言う。
「来い」
 来なければ踏み殺してやる、と威圧感漲る眼光が告げていた。
 成す術もなく克弥は慌てて立ち上がり、背を向けて歩き出した巨漢の後をへこへことついて行く。巨漢は後ろの克弥を一度も振り返らずに部屋を出て、遠慮なしに清潔感漂う通路を歩き続ける。今の克弥に広く綺麗な廊下も高そうな円状の柱も窓から見える美しい中庭も、何もかも見えていなかった。思考はある一点で停止している。
 これからどこへ行くのか。それに尽きる。この先に続くのは実は処刑台で、これから自分は公開処刑でもされるのではないか。執行人に「何か言い残すことはあるか?」と聞かれたら、自分は泣き叫びながら「ぼくは無実です何もしてません信じてください」と懇願するのだ。そうに決まっていた。逃げよう、と思ったあの考えは間違いではなかったのだ。今すぐ逃げよう踵を返して走り出せこの巨漢から逃げなければ自分は、
 見上げるほど大きな扉が開き、巨漢は克弥を振り返る。
「入れ」
 処刑場だ、と思った。首根っこを掴れて中に放り込まれた。
 絶望の眼差しで前方を見つめ、克弥はそこに老婆のミイラを見た。このミイラも昨日見た。いや、言い方が違うか。「ふぇっふぇっふぇ」と「ひぇっひぇっひぇ」の中間声で笑うミイラのような老婆である。その老婆は何やら豪華な椅子の隣にびっくりするくらい腰を曲げながら立っていて、そしてその豪華な椅子の上に座っているのはユフィだった。
 距離を隔ててユフィの瞳と克弥の視線が噛み合った。
 ユフィはふわりと笑い、克弥を見つめながら巨漢に言う。
「――ありがとう、レグルス」
 昨日から何となくわかってはいたが、どうやらこの巨漢の名前はレグルスというらしい。
 が、今はそんなことなどどうでもよかった。ここが処刑場でないとするのなら一体どこなのか。生まれて初めて女の子の部屋に入ったかのようなワイセツな目つきで室内を見渡し、克弥はようやくこの部屋がとんでもなく大きくてとんでもなく豪華であることに気づく。言葉も出なかった。よく漫画などで見られる王宮の王室。そんなような感じの部屋である。輝きを放つ石造りの床は指で擦ってみても塵ひとつ附着しないのは明白なほど清潔感を漂わせていて、空気自体が澄んでいるかのような気分を運んでくる。ここに至って、克弥のダメになった思考が処刑場ではないのかもしれないと思う。こんな清潔感あふれる場所が処刑場なら逆説的に恐ろしい。
 定まっていなかった克弥の視線が再びユフィと交わり、今度こそユフィは克弥に問う。
「おはよう。よく眠れた?」
 ユフィの座る椅子はどう見ても王座であり、その周りには完全に武装した兵士数人がまるで置き物のように突っ立っている。無表情なその顔は瞬きひとつすることなく、本当に生きているのかどうかさえも危うい。一度前に滑り込んで変な顔でもしてみたら笑うかもしれない、と馬鹿げたことを考え、何となく真面目にそれを行動に移そうとしたとき、遅れた思考がユフィの問いをまるで関係ない場所で処理した。
 気づいたら答えていた。
「よく眠れたような眠れていないような、何か微妙な感じがする」
 そこまで言って、ふと口から言葉が出た。
「――ところでお前、誰?」
 女の子に向ってお前って言うなっていうか昨日名前聞いただろ馬鹿、と慌てて自らを罵ったが後の祭だった。
 置き物の兵士の気配がはっきりと変わった。それを切っ掛けに体の向きを克弥へ向け、それぞれがまったく同じ速度まったく同じ動作で腰に携えていた鞘から剣を抜こうとし、それまで恐らくは天井に貼りついていたのであろうコロコロが突如として舞い降りた。羽から伝わる風圧はとんでもないものであり、克弥はひとたまりもなく背後へ吹き飛んだ瞬間、そこにいたレグルスに真後ろから首を締め上げられた。大木のように太い二の腕が首を遠慮なく固め、あと一センチでも力を込められたらこのまま首が圧し折られるのではないかと本気で思う。
 思考がまともに働いていたのはそこまでだった。
 目前から迫り来るコロコロの牙が視界に入ったとき、昨日のように克弥は絶叫を上げた。夢で見た光景がフラッシュバックする。コロコロが一瞬だけ本物のちくわに見えて狼狽し、しかしそれは決して笑えるような状況ではなく、絶叫は正真正銘の悲鳴に変わって錯乱する。泣き叫んでどうにかこの状況を打破しようと錯乱した脳内が勝手に決め、本当にそうしようと決意を新たにしたその瞬間、場違いなユフィの綺麗な笑い声が上がった。
「コロコロもみんなもやめて。だいじょうぶ、わたしは気にしてないから。それにそんなこと言われたのは初めてだったし、ちょっと嬉しいかもしれない」
 兵士が剣を鞘に戻して再び置き物に変化し、コロコロが寸前で牙を止めて後退し、首を締め上げていたレグルスだけが一歩遅れて腕の力を緩め、克弥にしか聞こえない殺気を含んだ小さな声で「もしもう一度王妃に下らぬ口を聞いたら命は無いと思え」と忠告した。全身から血の気が引いた。やはりこの巨漢は親玉であり、自分を真っ先に殺そうとするのならこの男以外はありえないだろう。もしこの男でないとするのなら、今にも襲いかかって来んばかりの眼光を漲らせるこのドラゴンである。
 どこからともなく「ふぇっふぇっふぇ」と「ひぇっひぇっひぇ」の中間の笑い声が聞こえた。
「まったく血の気の多い連中だねえ。ちょっとはユフィールを見習ったらどうだい」
 老婆は皺に押し潰された目を開け、克弥を見据える。
「聞きたいことはひとつだけだよ。……お前さんは、生龍の器なのかい?」
 生龍。その言葉に、微かな聞き覚えがあった。しかしどこで聞いたのかがどうしても思い出せない。どこだっけどこで聞いたんだっけ。つい最近、それもとんでもないシチュエーションで聞いたような気がする。喉まで出かかっているのだが最後の一歩を踏み出してくれない。もどかしい感覚に苛まれる克弥を解き放ったのは、再び聞こえた老婆の声だった。
「生龍・霧王・シルヴァース。ユフィールの見たというお前さんの異形の腕は、そいつの腕じゃないのかい?」
 思い出した、と克弥がもどかしい感覚を晴らすより先に、頭の中で誰かが笑った。
 ――アルカイストの末裔か。年を食うと要らぬ知識ばかり持つというものだ。
 そうだ。こいつが、生龍・霧王・シルヴァース。昨日、荒野で骸骨の群れを殲滅した張本人だ。
 ――我の代わりに貴様が話せ。目前の者に伝えろ。
 状況を理解する間もなく霧王は喋り出し、それをなぜか素直に従う形で克弥は口を開く。
「『我が封印を解いてくれたのは貴様だな、アルカイストの末裔である娘。それに関しては礼を言おう。だが我が受けた幾千年もの苦痛がこれで晴れるとは思わないことだ。これから六日を懸け、この器を内から食らい尽くし、生龍・霧王・シルヴァースは再びこの世界に君臨する。止めることは許さぬ。我が器に危害を及ぼすことをすれば最後、六日の前に貴様ら全員をすべて殺す。肝に銘じておけ、アルカイストの末裔よ』――……って、頭ん中でこいつが言ってるんだけど……、あの、これってどういう意味?」
 イマイチ用件が理解できなかった克弥とは裏腹に、その場にいた全員は目を見開いて克弥のことを凝視していた。
 その目つきがまるで妖怪か化け物を見るような壮絶なものであることに気づきさらに頭が混乱し、自らが吐いた先の言葉を必死で理解しようと勤める。アルカイストの末裔というのはたぶん、ユフィのことだ。ユフィの名前は確かユフィール・アルカイスト。これは間違いないだろう。霧王が受けた苦痛というのがわからないから今は置いておくとして、この器を内から食らい尽くすとはどういうことなのか。
 それは、実に簡単なことである。実に簡単なことであるのだが、そのことを受け入れる気にはどうしてもなけれなかった。器は、黒崎克弥のことである。それを内から食らい尽すということはつまりあれだ、何かのテレビで見た人間の中に卵を産みつけて孵化させようとする蜂と同じことなのだ、だけどそれよりもっとえげつないような気がするっていうかちょっと待てそれってまさかオイ、
 克弥が冷汗ダラダラで抗議の声を上げようするのを先回りし、ユフィが青ざめた表情でつぶやく。
「……やっぱり、生龍の封印を解いちゃったみたい……」
 老婆がフォローする、
「ユフィールが気にすることじゃないよ。遅かれ早かれ、いずれ生龍はまたこの世界に現れていた。それが今になった、それだけのことだよ。……しかし困ったねえ、召喚術で召喚されたのが生龍の器ならどうしようもないじゃないかい。危害を加えるなと忠告もされちまったし、もう器を殺すこともできないねえ」
 さらりと物騒なことを言われたような気がするが聞こえなかったことにする。
 それ以前にそんなことを考えている余裕すら克弥には存在しないのである。それまででもまるでわからなかった状況がますますわらかなくなってしまった。結局の話、ここはどこでこの者たちは一体誰なのだろう。そして自分はどうなってしまうのだろうか。が、頭の中でもうひとりの自分は言うのだ、もうわかっているのだろうこれがお前の待ち望んでいた幻想世界だよ。
 昨日、学校で書いた作文の一文が脳裏を過ぎる。「楽しそうじゃん、異世界って」、――冗談ではなかった。こんな状況が楽しいはずはなかった。昨日から何度死にそうな思いをしたと思っている、昨日から何度悲鳴や絶叫を上げたと思っている、ケツから内臓があふれ出すかと思ったあの感覚が楽しいなど、嘘でも言えるはずはなかった。可愛いヒロインとハッピーエンドを迎える前に、自分は身体の奥底に眠る得体の知れない怪物に食い殺されるのだ。心から待って欲しいと思う。こんな幻想を望んだわけではないのだ、誰か時間を元に戻して欲しいそれが無理なら誰か代わって欲しい。
 今のこの状況が、夢やドッキリであるはずはない。これは紛れもない現実の出来事であり、とうとう自分は越えてはならない境界線を踏み越えてしまったのだ。猫の「にゃー」が「おはよう」と聞こえるあの世界より遥かに飛び抜けた場所に降り立った自分は、もうすでに気違いになっているのかもしれない。諦めにも似た微笑が克弥の表情に浮かび、泣き笑いをしながらつぶやく。
「…………ミイラの婆ちゃん、ちょっと訊きたいんだけどいい?」
 老婆も自分自身がミイラに似ているということは自覚しているらしかった。
 別段気にした様子もなく、老婆が克弥を見やる。
「なんだい?」
「おれの体の中に入ってる『これ』を取り出す方法は、ないのか?」
 それに答えたのは老婆ではなく、『これ』だった。
 ――無駄な足掻きは止せ。貴様は我が器なのだ。そのことを誇りに思い消えて逝け。
 完膚無きまでに叩き潰された。ダメになっていた思考がついに根を上げた。自暴自棄に陥り、克弥は本当に気が違ったかのように開き直り始める。わかったわかったもういいよ諦めるよ、ここは幻想世界でおれはこれから可愛いヒロインといちゃつく間も英雄になる間もなく死んでいくのだろう、もういいよわかったから、だからもう誰も何も言わないでくれ頼むからこれ以上何か言われたら本当に泣くぞコラ。
 泣き笑いは次第に大きさを増し、克弥はついに正気を失った。
 それからのことについては、少々記憶の混乱がある。
 ユフィが何か言っていたような気もするのだがそれは思い出せず、レグルスに担がれるようにあの真っ白い部屋に連れ戻されたところまでは憶えているのだが、そこで記憶が飛び飛びになっている。見たこともないものすごく美味い料理を食ったような気もするし、便器の水を流すレバーの位置を思い出せなかったような気もするし、コロコロが窓の外からこっちをじっと見ていたような気もするし、無機質な茶色いドアが控え目にノックされたような気もする。
 正気に戻ったのはその瞬間だった。
 朝のように自分はベットに腰掛けていて、ふと振り返って初めて、背後の壁に窓があることに気づく。そこから覗いた景色に、しばらくは何も考えられなかった。外はすでに闇に支配されていて、見たこともないような星が見たこともないような正座を作り出し、見たこともないような巨大な満月がふたつ、夜空に浮かんでいた。地球から見る夜空とは、まるで違っていた。星ならともかくとして、満月がふたつも輝いているとはどういうことなのか。この世界には月が二個ある、とかそういうことなのだろうか。
 自分は朝から今まで、イカれていたのだろうか。自分の精神力などそんな程度のものだったのだろうか。
 控え目なノックの音が再び耳に届いた。
「……? えっと、……開いてますよ?」
 開いているかどうかなんてわからなかったが、きっと開いてると思う。
 事実、ドアノブはやはり独りでに回ってドアが押し開けられ、そこから長い髪を持つ女の子がひょっこりと顔を出した。ユフィだった。が、今までのユフィとは全然違うような沈んだ表情をしていて、起き上がっている克弥を視界に収めると遠慮がちに小さく、「……だいじょうぶ?」と声をかけてきた。何に対しての「だいじょうぶ」なのか。そう思ってからすぐに、イカれた自分に対しての言葉なのだと気づいて克弥は慌てて笑顔を取り繕う。
「あ、うん。だいじょうぶ」
「……入ってもいい?」
「いいよ、」
 別におれの部屋じゃないし。そう言いかけてやめた。これから自分はここで寝泊りをすることになるのだと思う。だったらここは一応、黒崎克弥の部屋に割り振られるのではないか。ならば名目上は自分の部屋になるということである。家具がベッド以外に何も無いことはさておき、そうなのである。だから「入ってもいいか」と聞かれれば、部屋主である克弥は「いいよ」と答えるべきなのだ。
 ドアを後ろ手で閉めたユフィは俯き、何かを必死に考えているような素振りを見せる。何をそんなに悩んでいるのか。不思議に思った克弥が口を開くより早くに、唐突にユフィが頭を下げた。長い髪が遅れて下に流れ、ユフィの表情を包み隠す。
 震える声が言った。
「――ごめんなさい」
 今度こそ、何に対しての「ごめんなさい」なのかわからなかった。
 ユフィは頭を下げたまま続ける、
「わたしのせいで君に迷惑をかけて、本当にごめんなさい。わたしがしっかりしていれば生龍の封印は解かれなかった。わたしがしっかりしていれば君は生龍の器にならずにすんだ。謝っても許してくれないと思う。だけど、本当にごめんなさい」
 何度も何度も、ユフィは謝る。
 ひたすらに謝罪を続けるユフィに困惑していた克弥は、唐突にぼやけた笑みを浮かべた。
「気にしないでいいよ」
 まったくもって無責任な慰め方である。
 正直な話をしよう。昨日からの流れで考えるのであれば、克弥が今ここにいるのはユフィが何かしらの事を成したからであり、その仮定で生じた生龍・霧王・シルヴァースというイレギュラーが克弥と同調したのだと思う。ユフィが何かしらの事を成さなければ克弥はここにいなくて、克弥は霧王の器になどなることもなく、寝て起きたら明日もまたいつも通りの日常がそこにあって、克弥はいつも通りの日常で生活して面倒臭そうに学校へ赴くのだ。
 正直な話だ。自分自身がもし異世界に行けるのであれば、自分は喜んでそこへ足を踏み出していただろう。だけどそれは、致せり尽くせりの好条件のシチュエーションがそこにあったこその一歩なのである。異世界へ行った主人公はなぜか特殊能力が使えて、そこで偶然に出会ったヒロインと世界の滅亡を阻止すべく立ち上がり、幾戦もの戦いと幾度もの冒険を経て仲間を集わせ、追い詰めたラスボスを相手に死闘を繰り広げ、最後はヒロインと手を合わせて今まで振り返り、湧き上がる黄金パワーで敵を打ちのめして初めて、克弥が望む幻想世界が実現するのだ。
 異世界に召喚された克弥に特殊能力はある。それも半端ではない威力を誇る能力だ。可愛いヒロインとの出会いにも成功したし、世界の滅亡まではいかなくても骸骨のような敵を倒しもした。それだけに視界を狭めて見れば、すごくいい感じの幻想世界の出だしだと思う。だけど一体どこでどう間違ってしまったのか。自分に備わっている特殊能力の原因は化け物で、自分はこのままどうすることもできずにその化け物に食らい尽されるのだ。冗談ではなかった。こんなわけのわからない所で、死んでたまるか。
 ひと言でまとめてしまえば、何もかもユフィの責任なのだろう。
 しかしなぜか、ユフィを責め立てる気にはなれなかった。目の前で必死に謝り続けるこの女の子を相手に、クソ汚い怒声を浴びせる気には死んでもなれないのだ。この期に及んでもまだどうにかなると勝手に思い込み、少しながらでも格好良いところを見せたいと思ってしまう馬鹿な自分がいる。結局の話、自分はまだ何も知らなくて何も理解していなくて、目の前の可愛い女の子に対して格好悪いところを見られたくないだけなのだろう。ユフィの責任だ、とひと括りで決めつけて叫び倒す正直な本音は、昨日の段階ですでに崩壊しているのかもしれなかった。
 だから克弥は、もう一度だけ笑い、もう一度だけ先と同じ言葉を言った。
「気にしないでいいからさ、頭上げて。謝られるのは苦手だから」
 恐る恐る、と言った感じでユフィが顔を上げる。不謹慎だが、僅かに潤んだ瞳が純粋に美しかった。
 幻想世界が幻想ではなくなっていく。幻想世界が現実世界へと姿を変える。
 ユフィール・アルカイストというひとりの女の子が、現実味を帯び始めていた。
「ところでユフィ。聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」
 なに、とユフィはまだ遠慮がちに克弥を見つめる。
 格好悪いところなど見られたくなかった。そのはずなのに何を血迷ったのか、克弥の腹の虫が「ぐぅう」と鳴いた。何かを食べたような気もするのだがどうしても思い出せず、結局は何も食べていないという結論ですべてをまとめた脳みそが、勝手に空腹を呼び起こしてしまった。妙に情けない顔で克弥はきょとんとするユフィを見つめ、実にぼやけた笑顔をしながらつぶやく。
「何か食べ物ないかな?」

 ユフィは「ちょっと待ってて」と言い残して一度部屋から姿を消し、しかし五分と待たずしてなぜか息を切らしながら戻ってきた。どうしてそんなに疲れているのかと訊くと、ユフィは少しだけはにかんで笑って「厨房から黙って盗んできたから」と答えるのだった。どうやらユフィ自身は夜間の食事を禁止されているらしく、だから夕食時には思いっきり食べるのだとユフィは微笑んだ。
 厨房の料理長に発見されれば二時間にも及ぶ説教が待っているフランスパンのようなパンを克弥がもりもりと食べていると、隣に腰掛けていたユフィがその様子を見つめながら、
「そういえば、まだ君の名前を聞いてなかったよね?」
 ああそういえばそうだな、と克弥は思う。
「黒崎克弥。克弥でいい」
 ユフィは不思議そうな顔で克弥の名を復唱し、まじまじと、
「変わった名前だね」
 恐らくは横文字の名前が普通なのであろうこの世界に、やはり漢字の名前は珍しいのだろう。
「それで克弥。君は、どこから来たの?」
 パンをもりもり食いつつも、
「日本」
「にっぽん? ……やっぱり、聞いたことない国」
「ところで、」
 口に残っていたパンを飲み込み、克弥は言う。
「ここはどこ?」
 今度はユフィが答える、
「オリネムのたぶん中心、王都クラネット」
「クラネット? 本当に漫画か小説みたいな名前だな」
「なにそれ?」
「ん、ああそうか。って、どう説明していいかわかんねえや」
「楽しいの?」
「楽しいのもあればそうじゃないのもある」
「克弥の国って、どんな所?」
「別に変わった所じゃない。ただ、コロコロみたいなヤツはいないのは確かだな」
「ワイバーンが珍しい世界なのっ?」
 ユフィが驚いたように身を乗り出すものだから、克弥は少しだけ慌てて身体をズラしながら、
「珍しい。ていうか普通は珍しいだろあんなの」
「あー、うん。そうかもしれない。コロコロは特別なワイバーンだから」
「何かあるのか、あいつに」
「わたしとコロコロだけの秘密だから教えないよ」
 そう言ってくすくすと笑うユフィは、見た目よりずっと幼く写った。
 ようやくパンをすべて平らげた頃になって、克弥は小さく息を吐く。今から自分が訊こうとしていることを考えると、少しだけ腹の底が冷たくなった。それは、この何もわからない状況でただひとつだけ確信を持って訊けることである。それを実際に見たわけではないのだが、それでも漠然と思えるのだ。今から訊くことがもし本当に存在するのであればここは紛れもない異世界であり、そうであるのならすべてのことがすんなり納得できるような気がした。
 克弥は前を見つめ、視界の端にあるユフィの横顔を意識しながら口を開く。
「――……この世界には、魔術みたいなものがあるのか?」
 ユフィは、意外そうな顔をした。
「あるのかって……克弥の世界には、魔術はないのっ?」
 やっぱりか、と克弥は思う。ユフィが行い、克弥をここに呼び出したのは恐らく魔術や魔法の類だろうとは薄々勘づいていた。それを漫画や小説の中で表現される言葉を使うとするのなら、恐らくは『召喚術』と呼ばれるものであるはずだ。実際、あのミイラの老婆がそんなようなことを言っていたような気がする。
 魔術とは果たしてどんなものなのか。そのことに対しての興味は少なからずあったが、それより先に訊かなければならないことがもうひとつだけ残っている。偶然にして起こったイレギュラー、恐らくはそれが原因で自分は死ぬであろう存在。まだその事実を納得したわけではない。だから恐怖はあまり感じないからどうにか正気を保っていられる。ならば、正気の均衡が崩れる前に訊いておかねばならなかった。
「生龍・霧王・シルヴァース。……こいつは、一体何だ?」
 ユフィの視線が克弥から外れ、何かを思い悩むように再び俯いてしまう。
 言い難いことなのだとは思う。だけど、絶対に聞いておかねばならないことなのである。
 そしてユフィもまた、話しておかねばならないと考えていたのだろう。
 小さな声が、幾千年もの前の歴史を語り始める。
「……アルカイストの先祖が封じ込めた月の化身。王都クラネットの書庫の最下層に保管されている文献の中に、そのことが書いてあるの。死した者の屍を魔力の下に蘇らせ自在に操る高等魔術バンディッドを使い、何千何万という軍勢を率いてこのオリネムに君臨していた片翼。それが、生龍・霧王・シルヴァース。……窓の外に月がふたつ、見えるでしょ?」
 一度は見たが、確認せずにはいられなかった。
 窓の外の夜空には満月がふたつ、浮かんでいた。
「『シル』は古代語で『生』、同様に『ヴァース』は『月』の意。月の化身、生を司る龍、だから生龍・霧王・シルヴァース。霧王、っていうのはその中にある真名だって文献には書いてあった」
 そして、その化身をアルカイストの先祖は封じ込めた、とユフィは言った。
「王都は一度その戦いで壊滅したけど、それでもアルカイストの先祖は生龍を封印し、強力な術でもう二度とこの世界に現れないようにした。だけど、その封印は幾千年もの時を経て次第に弱まり、昨日、わたしの召喚術に共鳴して最後の砦が破られた。それでも生龍は封印されている間に失った魔力をまだ取り戻していなかった。だから器を欲した。器に同調し、七日七晩を懸けて中から侵食して魔力を回復させていく。右腕の次は左腕、同じように右足に左足、身体と頭、そして最後に心を支配する。
 ……月の化身、生を司る龍、生龍・霧王・シルヴァースはそうして再びこの世界に君臨しようとしている」
 ふと疑問があった。ユフィはさっき、何と言ったのか。
 気づいたらそれは口からあふれていた。
「――片翼、って言ったよな? まさか、」
 バツの悪そうな顔をした後、ユフィは下唇を噛み締めながら、
「月はふたつあるの。ひとつは生龍。もうひとつの月の化身、それが――」
 夜空には当たり前のように、満月がふたつ浮かんでいる、

「死龍・雨王(うおう)・イルヴァース」

 その名を聞いた刹那、
 それまで沈黙を押し通していた霧王が、突如として怒り狂った。
 ――その名を口にするな小娘ッ!!
 霧王の怒号は克弥の脳内に大音量のノイズを巻き起こし、身体を一瞬だけ痙攣させた。
 瞬間的にノイズは矛先を変え、激痛へと変化しながら克弥の体内を這いずり回り始める。昨日の荒野と同じ現象が起こっていた。違うところと言えば、それは激痛を感じる箇所が右腕ではなく左腕であることだった。声にならない声で絶叫し、克弥が虚ろな視界の中で自らの左腕を凝視した直後、沸騰した血液が蒸気に変わってスチームのように噴射しながら左腕を包み込む。気づけば痛み無くして、右腕はすでに異形な腕に変貌してしまっていた。
 虚ろな視界の中、立ち上がってこちらを恐れの瞳で見つめていたユフィを力一杯に突き飛ばして叫ぶ。
「――逃げろ!!」
 ユフィがここにいたら、この異形の腕がユフィを殺してしまうような気がした。
 そして克弥の叫びはただの一度が限界でしかなく、未だに逃げようとしないユフィの目の前で噴射した蒸気は形を造り始める。昨日体験した激痛とはまた、別物の激痛だった。これが侵食という名の試練であることを、克弥は漠然と理解していた。が、理解しているのだがこんなものをなぜ自分が受けなければならないのかがまるでわからない。格好悪いところなど見られたくはなかったが、どうすることもできなかった。ベットに己の身体を押さえつけて掠れた呻き声を吐き出し、目からは自分でもよくわからないところで固まった涙が流れ出す。
 死にたい、と思う。死ねるのならどれだけ楽なのだろう、と思う。
 怒り狂った霧王は留まる所を知らない。皮膚が蠢き骨が砕け、蒸気が固体に変化して異形の腕を形成する。すでに変貌していた右手が克弥の意志に伴ってベットを握り締め、しかしその反動で流れ出した魔力がベットを瞬間に破壊した。骨組みが跡形も消し飛んでシーツは床に落ち、その上に克弥が倒れ込むように落下した。舞い上がったシーツが克弥の姿を覆い隠し、やがてすべてが終ったとき、そこには静寂だけが取り残されていた。
 ユフィはまだ、逃げずにそこにいた。
 シーツが揺れ動き、闇の中を漂う克弥の瞳がその姿を捉える。
「…………どうして、逃げなかった?」
 獣のような声だった。
 答えないユフィを見つめ、克弥は言葉を変える。
「…………恐く、ないのか?」
 闇に包まれた己の左腕を見つめる。
 これが恐くないかといえば、これ以上の嘘などありえるはずはなかった。馬鹿みたいに長く、馬鹿みたいに紅く、馬鹿みたいに気色の悪い異形の腕。そこからあふれ出す熱気のようなものが膨大な量の魔力であることに、克弥はようやく気づいた。怒り狂っていた霧王はいつの間にか再び沈黙していて、体内を吹き荒れていたノイズのような激痛はもうすでに何も感じなかった。しかしそれでも、指一本でさえ迂闊には動かせなかった。痛みを受けるからではなく、それは、指一本でも出鱈目に動かせばこの部屋ぐらいなら簡単に壊してしまいそうだったからだ。それほどまでに、霧王の力は絶大だった。
 シーツで自らの姿を隠したまま、克弥はもう一度だけ、問う。
「恐く、ないのか?」
 暗闇を漂う克弥の瞳を見据え、ユフィは両手をぎゅっと拳にする。
「……恐いよ、もちろん……」
 ユフィの体が震えている。虚勢を張っているのだろう。普通なら恐いと言う前に逃げ出しているはずである。魔力が何なのかわからない克弥でも、霧王の力がどれだけすごいのかがはっきりとわかる。だったら、魔力の何たるかを知っているユフィにしてみれば、この力は正真正銘の恐怖に姿を変えるはずだ。それでもなぜユフィは逃げないのか。震える自分を気づかれないように虚勢を張り、どうしてユフィは必死に克弥を見つめているのだろうか。
 ユフィは、確かな意志を持って言うのだ。
「恐いけど、……わたしは絶対に、逃げない。だって、克弥はわたしが召喚したんだから。わたしが逃げちゃダメなの。……それが唯一、わたしにできることだから」
 この異形の腕を見て、逃げないのが不思議だった。
 だけどもう、理解した。ユフィもまた、己の中のものと戦っているのだろう。
 ――……不愉快だ。
 そう言って、霧王は己の力を霧散させる。
 シーツの中で異形の腕は形を崩し、その下から克弥の本当の腕が姿を現す。
 魔力の支配が無くなったのを境に、ユフィがその場に尻餅をついた。虚勢はとっくの昔に底を尽きたのだと思う。それでもユフィを繋ぎ止めていたのは、召喚術を行った術者であるという、責任だったのかもしれない。ぺたんと座り込んで動かないユフィの瞳に涙が浮かび、弱気な笑みをシーツに投げかけて「かっこうわるいね」と泣き声でつぶやく。
 ああ本当に格好悪いね。でもそれは、お互い様だろう?
 克弥はシーツから抜け出し、ユフィと同じような弱気な笑みを浮かべ、言った。
「……ありがとう、ユフィ」
 逃げないでいてくれたことが嬉しかった。
 この世界で初めて、自分の存在を認められたような気がした。
 幻想世界の中で、克弥自身もまた、現実味を帯び始める。





     「絆」



 王都クラネット。
 それは、驚くほど巨大な都市だった。
 三百六十度を何も無い荒野に囲まれたその場所、円状に聳え立つ防壁が王都をぐるりと囲み、その前後左右にひとつずつ門が備えつけられているだが、それが開くことは滅多にないという。孤立した大都市、地球とは違う異世界オリネムの恐らくは中心部であるはずの王都クラネットは、それ自体がひとつの国であり、そこに住む民衆にしてみれば城壁の内部こそが世界そのものだった。荒野の地平線を歩き続ければやがて他の都市も見えてくるはずなのだが、この荒野を一日二日で越えられるはずもなく、ましてや外には盗賊やら何やらと柄の悪い輩が徘徊しているため、門が開かないと同じくして、民衆もまた外の世界に出て行こうとはしない。
 そもそもな話、ここから出る必要などないのである。
 簡単にまとめれば、王都クラネットは日本列島に似ているのだと思う。
 大きさ云々はさて置き、周りを囲むものが海から荒野になっただけで、王都クラネットは独自の生活習慣を生み出している。が、それでもやはりクラネット内部で生産できるものには限界があり、月に何度か行われる他国との貿易もまた、重要な役割を持っているようだった。孤立した大都市、王都クラネット。だけどそれがこの世界のあり方であり、防壁を一歩外に出ればそこは異国に他ならないのだった。
 そしてそんな大都市のさらに中心部に建てられた大きな王宮。その王座に就くことを許されるのは王族アルカイストの血筋の者だけなのだ。今現在の王妃の名をユフィール・アルカイストといい、近年稀に見るアルカイストの血を色濃く受け継いだ天才と呼ぶに相応しい少女であると同時に、どうしようもないじゃじゃ馬娘なのである。
 原則として、王座の座に就いている者は特別な行事が無い限りは王宮から出ることを許されていない。しかしそんなもの、ユフィに対してはハナクソほどの役にも立ちはしないのだ。小さな頃から勝手に王宮を抜け出しては下町に繰り出して遊び回り、ガキ大将とその仲間を相手に鼻血が出るまで殴り合いもした。その度に警備隊や機動隊が王妃の行方を捜すために血眼になって全力を尽くすのだが、ユフィもユフィで端からそのつもりなのでそうそう見つかりはしない。
 下町を知り尽くしているユフィと、数に任せて捜索する部隊。勝負はその時点ですでに決していたのかもしれない。ユフィを発見できない度に部隊はミイラ婆から大目玉を食らい、しかし同時に王宮に帰って来たユフィもまた大目玉を食らってびゃあびゃあ泣き出したりもした。だけどそれでも、ユフィは次の日になると復活してまた下町に出撃し、部隊はまた血眼になってその後を追跡するという、実に馬鹿馬鹿しいおにごっこが何度も何度も繰り返し続いていたのが、今から五年前ほどの話である。
 そして今再び、そのおにごっこが始まろうとしていた。
「町に行こう。克弥にいろんな所を案内してあげる」
 そんな言葉にまんまと乗せられた克弥は、ユフィの後をついて王宮を出た。
 が、それが正門からではなく、鍵縄で壁を攀じ登るという泥棒よろしくの芸当だったことに初めて違和感を覚え、ユフィにそのことを打ち明けてみたところ、ユフィは満面の笑みで笑って「だいじょうぶだいじょぶ」とピースサインを出すのだ。その言葉を少しでも信じてしまった己を酷く愚かだと思う。敵地へ侵入したスパイの足取りでユフィと克弥は王宮の庭を抜け、眼下に広がる下町へと後少しで辿り着けるという場所まで到達したときだった。
 レグルス率いる機動部隊が、突如として出現した。
 見つかっちゃった、とユフィは笑顔で言った。おれは無実だ、と克弥は泣き顔で叫んだ。
 これが王妃に向ってすることかと思うくらいに雑に、ユフィと克弥はレグルスにとっ捕まえられた。が、これもまたユフィの思惑通りだったのかもしれない。小さなウインクの後、光の射す大空を背に一匹のワイバーンが舞い降りる。たまったものではない。我が主を守るために荒れ狂うコロコロを簡単に止められるはずもなく、レグルスの力が弱まった一瞬を見逃さずにユフィは克弥の手を掴んで逃げ出し、それに気づいたレグルスが慌てて追跡しようとしたその間にコロコロが割り込んで牙を剥き出しにする。
 逃避行、と呼ぶにはあまりに情けない脱走劇が、ひとつの勝敗を決した。
 下町の裏路地に滑り込み、ユフィは額の汗を軽く拭う。
「あー、楽しかった」
 晴れ晴れとしたその表情を恨めしげに眺め、克弥は心底疲れた顔をする。
 この少女が一国の王妃だということは何となくわかってはいたが、こんなハチャメチャな王妃が果たして本当にいていいのだろうか。警備部隊を向こうに回して王宮から悪戯感覚で逃げ出す王妃など、克弥はやはり漫画や小説の中でしか知らない。歴史や世界史の教科書で見る王妃はどれもこれも素晴らしく大人しい女性であるはずである。にも関わらず、この王都の王妃はこれだ。先ほどの攻防でレグルスが叫んだ「じゃじゃ馬娘」という言葉が脳裏を過ぎる。ユフィール・アルカイストは、本当にどうしようもないじゃじゃ馬娘なのだと思う。
 ようやく落ち着いたユフィは長い髪を舞わせ、克弥を横目で見ながら笑った。
「行こっか。ここは広いから一日じゃ絶対に回れないけど、克弥に見て欲しい所がたくさんあるの」
 歩き出すユフィについて、克弥は裏路地から繁華街へと足を進めた。
 活気にあふれた場所だった。出店が道なり沿って並んでおり、そこを行き交う人の群れは数え切れず、途切れることなく視界の中を歩いて行く。客引きの声や町並みの喧騒、どこからともなく聞こえてくる気の抜けた楽器の音が印象的だった。辺りを囲む家屋は何かのテレビで見たヨーロッパの家に似ているような気がする。それだけを見るのであれば、ここは素直に外国であるのだと思えたのかもしれない。
 だけど、行き交う人に紛れて視界を横切る生き物にその思いは簡単に打ち砕かれる。
 馬とも牛とも犬とも猫とも言えない四足歩行の動物が歩き回り、出店の先で手から水を出したり火を出したりしているおっさんもいれば、全身を豆電球のように光らせて客を引くおばさんもいた。手品にしてみれば自然過ぎるし、映画の撮影現場みたいなセットもありはしない。これは本当に現実で、ここは本当に異世界オリネムなのだと今さらに思い知った。克弥の中で固まっていた世界観が崩壊し、新たな世界観を再構築していく。
 ユフィは軽い足取りで歩いて行く。
 その隣に追いつき、克弥は辺りを見回しながら呆然と、
「……すげえな、ここ」
 ユフィは得意げな顔をした。
「でしょ? ここはクラネットの中ではいちばん大きな市場なんだよ」
 その直後、果物屋と思わしき出店のテントの下にいたおじさんがユフィの顔を見るなり、黄ばんだ歯を見せてにかっと笑った。
「ユフィール! 今日もレグルス隊長から逃げ出してきたのか?」
「うん。そんなとこ」
 がはははははははとおじさんは盛大に腹を抱える。
「レグルス隊長も大変だ。お疲れ様と伝えておいてくれ。――ほれ、持ってけ」
 おじさんは出店の商品の中からリンゴのような赤い果実を鷲掴み、ユフィに向って放り投げる。
 それを空中でキャッチしたユフィは笑顔で礼を言い、しかしすぐに隣にいた克弥を見つめて「あ、」と声を漏らし、悪戯顔をする。
「おじさん、もう一個ちょうだい。今日は友達もいるから」
 友達?、とおじさんは首を傾げて初めて隣の克弥に気づいたような素振りを見せる。
 克弥が小さく頭を下げるとおじさんは何が可笑しいのかまたがはははははははと腹を抱え、
「参った参った、気づかなかったよ。ほれ、お前さんも持ってけ持ってけ」
 先ほど放った果実と同じものを克弥に向って投げた。
 克弥が慌ててそれをキャッチして礼を言うと同時にユフィが踵を返し、
「ありがとう。またここで買い物するように言っておくね」
「おう、頼むわ王女様。レグルス隊長にあんまり迷惑かけんなよ」
「無礼者。わたしはそんなことしません」
 少しだけいい子ぶってみせるユフィにまたがはははははははと腹を抱えるおじさんにもう一度だけ礼を言いながら、ユフィと克弥は果物屋を離れて行く。
 隣で貰ったばかりの果実をそのまま食べるユフィに習って克弥もひと口だけ齧ってみる。歯応えも味も、リンゴそのものだった。いくら世界観が違うと言っても、植物や生き物はそれぞれ似たり寄ったりの構造なのかもしれないと克弥は思う。そしてそれは同時にとても有り難いことでもある。食文化がまるで違っていたら食べ物に困るし、生き物の生態系が違ったらもっと困る。ユフィが克弥と何ら変わらない人間の見た目でよかった。もしこれが火星人みたいな見た目だったら、何よりも先に自分は失神して帰らぬ人となっていたはずである。
 ユフィと一緒に繁華街を回ると、あっという間に手の中が食べ物で埋まってしまった。店先の店主はユフィを見ると挨拶と同じ意味で食べ物を放り投げ、それをひとつひとつ礼を言いながら受け取っていくユフィ。誰もかれもが、すごくいい人に思えた。ユフィに対しては当たり前なのかもしれないが、見たこともない克弥に対しても笑いかけてくれたし、ユフィと同じものも放り投げてくれた。少なくとも、敵意は微塵も感じられない。この町に住む人は、誰もかれも心優しいのだと自然と感じていた。
 貰ったばかりの骨つき肉を貪っているとき、克弥はふと不穏な考えを抱いた。
 もし。もし自分が生龍・霧王・シルヴァースの器であると知っても、今まで見てきた人たちは皆、先ほどと同じような笑顔を向けてくれるのだろうか。この町の人たちならだいじょうぶかもしれないと微かな希望を見た瞬間、やはり無理だろうと思った。昨夜、ユフィに聞かされたのだ。月の化身とは、人々にとっての恐れの対象でしかないのだと。それ以上でも以下でもない、世界に絶望を運ぶ使者。それが月の化身、生龍・霧王・シルヴァースなのである。誰もかれもがいい人だが、誰もかれもがそれを恐れるのだろう。そしてユフィもまた、その内のひとりなのだと思う。
 わたしは逃げない。そう言ってくれたユフィには感謝している。
 だけどその中には、確かな恐れが存在しているのは明白だった。今も隣にいてくれるユフィが、とても遠く離れた場所にいる存在だと感じる。この幻想世界の中で現実味を帯び始める世界と、そして自分自身。だけど、それでも自分はひとりきりなのだと漠然と思う。言うなれば、自分は異物以外の何ものでもありはしないだろう。地球という異世界から迷い込んだ絶望の器。それが、自分なのだ。まだすべてを納得したわけでも理解したわけでもないが、自然と悟っている自分がいる。
 これからどれだけの歳月が流れようとも、霧王の器である限り、自分は虚空の空間を漂うしか道は残っていない。
 それは、とても恐いことなのではないだろうか。その重圧に、果たして自分は耐えることができるのだろうか。
 自分はこれから、どうすればいいのだろう。
 答えの出ない自問自答の泥沼にはまり込みそうになったとき、不意に名前を呼ばれた。
「克弥」
 思考が収まり、視線を向けたそこにこちらを心配そうに見やるユフィがいた。
「どうしたの? 気分でも悪い?」
 克弥は笑顔を浮かべる。
「――何でもない、心配しないでくれ」
「ほんとに?」
「おう」
 まだ釈然としない雰囲気を漂わせるユフィに「早く次の場所へ連れてってくれ」と促すと、ユフィは幾分か晴れた顔をして肯くのだった。
 心配させたくはない、と克弥は思う。少しでもいいから格好良いところを見せたい、とも思う。
 自分が正気を失うのは、まだ五日も先の出来事である。それが恐くないかと言えば嘘になるのだが、現実を中途半端にしか受け止めていない脳みそには我慢できなくなるほどの恐怖はなかった。なんとかなる、だからだいじょうぶ。そんな言い訳を己に言い聞かせ、克弥は今日という日を今もなお生きている。何が正解で何が間違いなのか。わからない問いに無理に答えを返す必要はないのである。わからなかったら、自分の思うままにやればいいのだ。それがどんな結末を迎えようとも、今はまだ、――このままでいい。
 ユフィが立ち止まり、克弥を振り返る。
「ここがわたしの思い出の場所」
 連れて来られたそこは、何の変哲もない公園だった。
 どう遊べばいいのかわからないが幾つもの遊具が揃えられていたし、水道もあればベンチもある。公園の四隅はすべて木々に囲まれていて、その並木道をゆっくりと歩きながらユフィは空を見上げる。木漏れ日の射す中で空を仰ぐユフィは、驚くほど綺麗だった。まるで背中から羽が生えているかのようだった。ユフィという女の子は、空に帰れなくなった天使なのかもしれないと克弥は思う。
 ユフィは昔を懐かしむ温かな表情で笑う。
「初めてこの公園に来たときね、ここでたくさんの子どもたちが遊んでたの。それがすごく楽しそうに思えて、わたしも仲間に入れて欲しくて、お願いしに行ったら断わられたことがあるんだ。そのときもう、わたし自分でも驚くくらいに怒っちゃってね、その子どもたちの中でいちばん大きな男の子と掴み合いの喧嘩して、ぼっこぼこに殴られたし、ぼっこぼこに殴ってやった。そしたら最後には何でか仲良くなって、わたしも一緒にこの公園で遊んでた」
 喧嘩したのはあれが最初だった、とユフィは照れ臭そうに微笑む。
「それからは毎日のようにここで遊んでた。だけどある日、わたしがアルカイストの血筋だってことがバレちゃったの。王族の者は、民衆と気軽に話しちゃいけない決まりだったから。王宮に連れ戻されたわたしは一晩中泣いた。諦めろって言われたけど、やっぱり諦められなかった。また次の日にこの公園に来て、遊ぼうと思った。……けど、この公園には誰もいなかった。わたしはやっぱり、ひとりぼっちなんだって思った」
 ユフィはどうして、こんな話をしているのだろう。
 一体、何が言いたいのだろう。
「悲しくて悲しくて、わたしはひとりで泣いてた。そしたら、そこの木の上から声がするの。不思議に思って上を見上げたら、そこにはみんながいて、『ここにいたら見つからない、だからずっと遊べるぞ』って言ってくれた。本当に嬉しかった。喧嘩した男の子は木に登ったわたしに向って『友達だから当たり前だ』ってぶっきら棒に言ってくれたし、みんなも『友達だ』って言ってくれた。王宮の中には子どもなんてわたしひとりしかいなかったし、友達なんてひとりもいなかった。そんなわたしに初めて友達ができた場所のこの木が、わたしの大切な思い出」
 かつて幼かったユフィとその仲間が不器用に登った木に手を触れ、ユフィは目を閉じる。
「わたしは、友達がいちばん大好き。わたしは友達を絶対に裏切らない。……だからね、克弥」
 ユフィは克弥を振り返り、そっと微笑む。
「心配しないで。生龍の器だから、なんて関係ない。克弥はわたしの友達で、友達である限りわたしは克弥を裏切らない。召喚したのはわたしだもん、克弥をひとりぼっちになんてさせないよ。困ったことがあったらひとりで悩まないで相談して。友達の力になりたいと思うのは、友達として当たり前のことだから」
 どうしてユフィがこの話をしたのか。それを、ようやく理解した。
 この異世界に紛れ込んだ異物。その中に蠢く絶望。そこから生まれる悲しさや不安を、形は違えどユフィもまた知っている。王族という立場であるが故にひとりぼっちになるかもしれなかった少女。だけどその少女を救ったのは、ここでできた友達だったのだ。だから今度は、ユフィが自分の手で友達を救いたいと思っているのだろう。差し伸べてくれた手は、そこにある。虚空の空間を漂うしかない道はなかったはずのそこに、一縷の希望が射し込む。
 逃げないと言ってくれたユフィに感謝している。そしてまた、友達だと言ってくれたユフィにも感謝している。
 克弥は笑う。
「……ありがとう、ユフィ。少し、気が楽になったような気がする」
 うん、とユフィは肯き、それからすぐに何かを思い出したかのように、
「そうだ克弥。克弥に渡さないといけないものがあるの」
「渡さないといけないもの?」
「そう」
 服のポケットに手を入れ、ユフィはそれを取り出した。
 銀色の指輪だった。受け取った克弥はまじまじと見つめ、
「これは?」
 ふと視線を移せば、ユフィも同じ指輪を持っていた。
「召喚者と召喚獣は、同じものを身につけるのが習わしなんだよ。目に見える『絆』って表現するのが簡単だと思う」
 ああ、と克弥は思い至る。
 自分は、ユフィに召喚されてこの世界に引っ張り出されたのだ。その仮定を忘れていたような気がする。
「コロコロとわたしは、この首飾りが絆になってる」
 そう言って自らの服の胸元を少しだけ開け、そのときになって初めてユフィが首飾りをしていることに気づいた。
 鳥の羽をモチーフにしていると思わしき首飾りだった。
「だからこの指輪が克弥とわたしの絆」
 微笑んで指輪を右手の薬指に入れるユフィ。
 そこでふと、克弥は唐突に抵抗を憶えた。揃いのペアリングを薬指に入れることは、果たして何を意味するのだろうか。地球で言うのであれば、それは結婚やらそういう系統の話になる。この世界ではどうなのだろう。そのような意味は無いのだろうか。何の抵抗もせずに指輪をするユフィを見れば無いような気もするが、しかしやはり克弥にしてみれば恥ずかしいのである。
 が、いつまでも指輪をつけない克弥を不安そうに見つめ、ユフィが「嫌だった?」なんて言うものだから断るわけにもいかず、半ば開き直りながら克弥は指輪を右手の薬指に入れた。サイズはぴったりだった。自らの右手に光る指輪を改めて見つめ、ぼんやりと「似合わないなあ」と思う。ユフィには似合っているのに自分には似合わないとは何だか無性に悲しい。
 次の所に案内するね、と言いながら歩き出すユフィに並び、克弥はまた活気あふれる下町へ足を向けた。
 隣を歩くユフィの右手の薬指に輝く銀色の指輪。ユフィに似合っているのに自分に似合わないのはやはり悲しいが、それでも。
 揃いのペアリングをするということに、悪い気はしない。
 昼下がりの公園、木漏れ日の射すそこで、克弥は小さく苦笑する。

     ◎

 日が暮れ、もうすぐ日付が変わろうとしていた。

 昼間は活気あふれる下町も夜ともなれば人の通りは皆無で、道端に点々と光を放つ街頭だけがどこまでも続いている。どの家も窓を閉めカーテンを引き、灯りが微かに漏れている程度で中の様子を窺うことはできない。一歩踏み出せば見れるはずの広大な夜空を見ようとする者もいない。しかしこれが、この世界では当たり前の光景だった。
 オリネムの夜空は、幻想的なものではありはしない。
 雲ひとつない夜空に輝くは星とふたつの満月。星ならともかくとして、満月は人々にしてみれば忌み嫌う恐れの対象なのである。それもそのはずだ、この満月は月の化身という絶望を生み出した元凶なのだから。真実がどうであれ、言い伝えではそう記されている満月を、人々が好んで仰ぐわけはなかった。月を見ていると正気を失う、という噂まで流れているのだから仕方のないことなのかもしれない。
 それでも柄の悪い輩や、王宮の隠密機動が動き出すのはどの世界でも変わらぬ夜である。
 場所を下町からずっと上り、王宮へ転じよう。
 正門の前には二人の警備隊が夜勤の見回りをしている。その視界の中を横切って門を抜け、王宮内へ足を運んでさらに歩こう。長い廊下も綺麗な中庭も昼間は光を反射して美しいが、夜になれば闇が支配し、広いが故に不気味な雰囲気を漂わす。そんな中庭の中心に、一匹のドラゴンが羽を折り畳み首を曲げて器用に眠っている。彼に気づかれてはまずい。慎重に遠ざかって行こう。
 やがて辿り着くは、二日前までは使われていなかったはずの部屋である。
 そのドアを抜け、中を見てみる。昨夜にぶち壊れたベッドはすでに取り替えられており、真っ白なシールに包まって眠っている者がひとり。顔を覗き込もう。実にだらしない寝顔である。普段もだらしない顔をしているのだが、寝ていると余計にそう感じてしまう。何やらイヤラシイ夢でも見ているのか、だらしない顔がより一層だらしなさを増し、口元がにへらっと歪んだ。
 小さな物音が聞こえる。視点を寝顔から天井に移す。
 真っ白な天井の一角の板が取り外され、人ひとりが出入りできるくらいの穴が開いていた。そこから覗く二つの眼球がベットをじっと見据えている。部屋主が眠りに就いていることを確認した招かねざる客は気配と足音を消し、まるで体重を感じさせない紙のような身のこなしで天井裏から床へと降り立つ。そこで五秒間だけ停滞し、五秒を過ぎた際に行動を開始する。無音の動作でベットへ近づき、背中に回した手がホルダーに収まっていたナイフを抜いた。
 窓から射し込む月明かりを反射させ光輝くナイフが玩具であるはずはなかった。その切っ先は間違いなく、ベットで眠るだらしない顔の部屋主を狙っていた。ゆっくりと振り上げられたナイフが一瞬だけ止まり、握った手に力が増すと同時に二つの眼光は鋭さを帯び、一気に振り下ろされた刃が狙い通り喉元を串刺しにしようと、
 ナイフの切っ先が、真紅の腕に掴れた。
 放出された魔力に刃は木っ端微塵に砕かれ、狼狽した侵入者が後退しようと足に力を込めるより早くに、伸びた手がその顔面を鷲掴んで持ち上げる。侵入者の足が床を離れ、骨の軋む音を発しながら身を捩るが真紅の腕は獲物を逃がさない。魔力の波動が室内を覆い尽くし、実に楽しそうに生龍・霧王・シルヴァースは言うのだ。

 ――それで、気配を消したつもりか?

 その声にようやく克弥は目覚め、ぼやけた頭で辺りを見回し、いつの間にか変貌した自らの腕がまったく知らない男を鷲掴んでいる場面を目の当たりにして腰を抜かしそうになった。状況は何ひとつとして理解できなかったが、それでもひとつの思考が眠気を弾き飛ばして警告を発する。
「なっ、何してんだ馬鹿!! 離せっ!!」
 霧王は不愉快そうに、
 ――そのまま眠っていればいいものを。
 真紅の腕が無造作に振り抜かれ、侵入者の体がいとも簡単に吹き飛んで壁に激突する。もはや身動きひとつせずにぐったりと横たわる侵入者に向け、真紅の掌が向けらた。そこに収縮される膨大な量の魔力に克弥が気づき、慌てて反対の手でそれを押さえ込む。が、それもすぐに霧王の腕へと変貌して自由を奪われ、魔力の収縮はその量を着実に増していく。
 殺す気か、と思った。こんな所でこんな攻撃を行ったらどうなるのか、克弥には想像もつかない。まだ残っていた克弥の意志をフル活動させ、魔力の波動を無我夢中で霧散させる。霧王が邪魔をするなと叫ぶが知ったことではなかった。まだこの身体は克弥のものでもあるのだ、好き勝手なことをやらせてたまるか。己の度胸を振り絞るような叫び声を上げ、克弥は霧王の暴走を食い止める。
 刹那、右足に破裂したかのような激痛が来た。
 侵食が始まった。右掌に収縮されていた魔力が出鱈目な方向に霧散し、窓ガラスを叩き割って壁に亀裂を走らせる。右足を流れていた血液が高熱に晒されて沸騰し、毛穴から蒸気となって噴射する。寝起きの身体にその激痛はもはや限界で、今まで以上の絶叫を上げながら克弥はのた打ち回る。噴射し続けている蒸気はやがて舞い戻り、克弥の右足に纏わりついて固体へと姿を変えて真紅の色へと変色し、右腕然り左腕然り、生龍・霧王・シルヴァースの右足を造り出す。
 呼吸さえもが儘ならない。呼吸をする度に激痛が増すように思えて息ができないのだ。締まりなく開いていた口から唾液が零れ、克弥は身を捩りながらベットの上から床に落下した。どちらが天でどちらが地なのか、どっちが正面でどっちが背後なのかもわからない。脳みそが溶けてしまったのではないかと本気で思う。錯乱する思考が死にたいと考え始める。だけどどうすれば死ねるのかがわからず、すぐにその思考さえも激痛に飲み込まれて消える。
 気づいたときには、右足は変貌を遂げていた。
 両腕のように、異形な足だった。
 激痛の残響が漂う思考を何とか落ち着かせ、克弥は荒い呼吸を何度も何度も繰り返す。全身から噴き出す嫌な汗がこれ以上無いくらいに気持ち悪くて、四肢の内の三肢がすでに支配されてしまった異形の姿を凝視すると言い様のない吐気が込み上げてくる。どれだけ理性が理解していようと、これが自らの腕や足であることを感情が否定する。喉まで競り上がってきた嘔吐感を気力で飲み込み、未だに治まらない荒い呼吸を繰り返しながら克弥はゆっくりと立ち上がる。
 右足だけが異様に長い分、右膝を曲げて左足を思いっきり伸ばして立たなければならない奇妙な感覚にどうしても馴染めない。馴染めないということは歩くことができないということであり、その場に立ち竦んだまま克弥は亀裂の入った壁に倒れ込む侵入者を見据える。当たり前だが見覚えのない顔だ。その手に力無く握られているのは刃の無くなったナイフだろうか。この男は一体何者で、一体何用でこんな所にいたのか。そしてどうして、霧王はこいつを殺そうとしていたのか。
 答えは、そこにある。だけど、それを信じたくない自分がいる。
 ドアが蹴破られるかのような勢いで開け放たれ、ユフィが飛び込んで来た。
 夜中にいきなり吹き荒れた魔力を感知して飛び起きて来たのだろう。ユフィの服装はパジャマみたいな軽いもので、長い髪は所々が跳ねていた。しかしユフィはそんなことなどまるで御構い無しに室内を一瞬で見渡し、克弥の今の姿と壁に横たわる人物を見て状況を一発で理解し、克弥の無事を確認してすぐに壁際に走り寄って意識の無い侵入者の両肩を掴んで揺さ振る。
 叫ぶ、
「誰の命令でこんなことしたの!?」
「――わたしの命令です」
 それに答えたのは侵入者ではなく、開けっ放しにされていたドアから入り込んで来たレグルスだった。
 ユフィの視線がレグルスを振り返り、それを視線で追った克弥はその背後に何十人もの兵士が待機していることに気づいた。
 再びユフィの叫び声、
「どうしてこんなことをしたの!? 誰の許可を得たというの!?」
 レグルスは微塵も顔色を変えない。
「すべては迎撃部隊並びに機動部隊、隠密機動、総括軍団長レグルス・アークトゥルスの独断です」
「どうして!?」
 レグルスの視線が一度だけ克弥に向けられ、その異形の姿を忌々しげに睨みつけ、あくまでも軍団長の立場としてレグルスは言う。
「ユフィール王妃。貴方こそどういうつもりですか。その者は生龍の器なのです。今の内に殺しておかねば取り返しのつかないことになる。それは貴女が最もよく理解しているはずだ。それなのにも関わらず、『七夜になるまで待って欲しい』とは一体どういうつもりなのか。――はっきり言って正気を疑う。我らは民衆の命をこの腕に預かっている身。そのことを理解した上での返答だとはどうしても思えない。故にわたしは、このような行動に出ました」
 ユフィは僅かに言葉に詰まり、しかしすぐに、
「生龍の昨日の忠告を、レグルスも忘れたわけじゃないでしょ!?」
「無論。ですがこのまま指を咥えていても辿る道は同じだ。ならば今の内にできる最善を尽くすのが道理」
「それで、克弥が死んでも構わないって言うの……?」
「その者は我が国の者ではない。死のうが生きようがわたしが、そして貴女が気に病むことではない」
 ユフィの瞳が、真っ直ぐにレグルスを見据える。
「……本気で、言ってるの?」
 レグルスはそこで一度だけ言葉を止めた。大きな拳を握り締め、普段の口調に戻し、
「だったらお前はどうしろと言うんだ。このまま傍観に回ればやがて必ず生龍はこの世界に再び君臨する。死龍だけでも手一杯なこの状況で、生龍まで現れたらどうなると思ってるんだ。そうなればクラネットだけじゃない、この世界の者がすべて殺されるかもしれないんだぞ! ならば最小限の犠牲は仕方の無いことだろうがっ! そんなこともわからないのかユフィッ!!」
「わかってる!! わかってる、けど……っ!!」
 言葉を失い俯くユフィから視線を外し、レグルスは克弥を、そしてその中に巣食う霧王を見据える。
「明日だ。明日、おれは貴公を殺す。だが勘違いするな、これはおれの独断だ。他の者は手を出さない、故に他の者には危害を加えるな。これはおれと貴公との一対一の戦闘だ」
 克弥の頭の中で霧王が笑う、
 ――素晴らしい心構えだ。よかろう、その敬意を表し、明日は貴様ひとりだけを殺してやる。
 聞こえていないはずの霧王の声が聞こえたかのようにレグルスは肯き、不意にユフィに視線を移し、
「そういうことだ。これに反論したくばすればいい。しかしならばおれは軍団長の地位を棄ててでも生龍と戦う。――それが、ラーカイル殿との誓いの形だ」
 何も反論できないユフィを一瞥し、レグルスは踵を返して部屋を出る。
 それを見送っていた克弥は何かとんでもない事態に発展してしまったことにようやく思い至り、慌ててユフィに駆け寄ろうとしたとき、霧生の腕が形を崩した。その下から現れた自らの両手と右足を実感し、ひと息ついた際にまた慌ててユフィへ駆け寄る。しかし俯くユフィに何と声をかけていいのかついにわからず、うろうろと歩き回る克弥の耳に小さな泣き声が届いた。
「…………ユフィ?」
 ユフィは小さな声で「ごめんなさい」と何度もつぶやきながら泣いた。
 何と声をかけていいのか、最後の最後までわからなかった。

 空には満月がふたつ、浮かんでいる。
 自分の意志とは関係なく物事は動いていく。
 それを、今日ほど実感したことはなかった。





     「死なせたくないと願う」



 レグルスという名を与えてくれたのは産みの親ではなかった。
 物心突いたときには荒野の真ん中で佇んでいたような記憶がおぼろげに残っている。両親の顔など当たり前のように知らず、しかしそれ以前に両親のことに対しては何の興味も持たなかった。まだ十歳も年を食っていなかったであろう自分が今日まで生きていたことが不思議だった。害虫が持ち合わせているような、ただひたすらに「生きなければ」という本能に従って日々を生き抜いた。生き延びるためにはどんなことだってしたし、生き延びるためには犠牲を問わなかった。利用できるものがあれば骨の髄まで利用し、凶器がそこにあれば迷わずにそれを手にして振るう。誰かに教えられずとも、そうした害虫のような本能は脳髄の奥底に根づいていた。
 ひとりで生きて行くことが板につき始めた頃、荒野を寝床にしていた盗賊の一角に拾われた。
 その盗賊の頭の名をガルドといった。レグルスという名を与えてくれたのはガルドである。
 それからはそれまで以上に奈落の底みたいな生活を送った。日が暮れてから目覚め、夜空に浮かぶふたつの満月を頭上に荒野を徘徊し、荒野を渡ろうとしている王都の馬車を片っ端から襲い、乗り組み員は例外無く皆殺しで、食料と金品を奪ったらそのまま放置して寝床に戻り、その日の食料を肴に仲間共と酒を飲み交わし、日が開け始めたら眠りに就き、そしてまた日が暮れれば荒野を徘徊する。
 それは、盗賊の生き方だった。夜を支配する、紛れも無いクソみてえな連中の生き方である。利用できるものは利用し、凶器があれば迷わず手にして振るう。そんな本能を生まれ持ったゴミのような人間が集まる場所で、ゴミのような生活を繰り返す日々が続いた。しかしそれでも、その中に楽しい時間はあった。仲間と酒を飲み交わし、殺したばかりの人間のことを話すのは実に愉快なことであった。ざまあみろ、テメえらがゴミだのクズだのいうヤツに殺される気分はどんな感じだ。そんな会話を、毎夜毎晩、飽きずに繰り返していた。
 楽しい時間はあった。それは愉快な時間でもあった。
 それでも、仲間意識を持ったことはただの一度もなかった。
 仲間がヘマをして逆に刺されて瀕死になっていたとしても、誰ひとりとして助け出そうと思う奴なんていない。助けている間に後ろから刺されたら笑い話にもなりはしない。態々危険を犯してまで仲間を助ける義理も人情もクソも、盗賊の中には無いのである。生きることがすべてで、死んだら死んだで知ったことではなかった。利用できるものは利用し、凶器があればそれを振るう世界に、義理も人情もクソもある訳はないのだ。中にはそれらを掟として動いていた盗賊もいたが、それらは間違いなく他の盗賊に襲われて死に絶えている。荒野で生きる盗賊が暮らす世界など、そんなもんである。
 それは、レグルスがガルド率いる盗賊団に迎え入れられてから幾度季節が巡った頃だったのだろう。
 ガルドは恐ろしく強かった。誰もガルドに逆らうことはできなかった。しかしそんなガルドでも、不意打ちのように出現した護衛の魔術師集団に囲まれては手も足も出ずに殺されてしまう。悲しみはなかった。名を与えここまで育ててくれた感謝もなかった。ただ、悔しさがあった。己が唯一見つめていた男が殺されたのだ。だけどその悔しさも一瞬のもので、湧き上がった本能の前には無に等しい。利用できるものは利用する。レグルスは本能に従い万に一度の機会を見逃さずに我がものにした。
 ガルドを抜けば、その群れの中で最も強かったのはレグルスだった。
 持って生まれた巨体と持って生まれた腕力、そして凶器を手に、レグルスは盗賊の頭にのし上がる。
 ――が。その地位は長く続かない。ガルドを抜けば最も強いのはレグルスだったが、それでも幾分かガルドには劣っていた。利用できるものは利用し、凶器があれば迷わずそれを振るう連中が巣食う場所で、圧倒的な力が無ければ安息は得られない。ガルドの死をレグルスが利用したように、レグルスの隙を他の連中は利用した。
 闇討ちに遭い、レグルスは致命傷を負った。右腕の肘から下を切り落とされ、体中を切り刻まれた。その場で死ななかったのが不思議なくらいである。レグルスの生命力が人並以上だったことが原因だったのだろう。しかしそれが幸かと言えば違った。レグルスを闇討ちにした連中は荒野のど真ん中に十字の木を埋め込み、そこにレグルスを磔にして去って行った。
 地獄以外の何ものでもありはしない。不幸中の幸いと言えばそれは大型の獣が寄って来なかったことであるのだが、小さな鳥が血の匂いを嗅ぎつける度に肉を僅かに抉られる激痛はもはや耐えられるものではなかった。死ぬのだと、本気で思った。何度も何度も死の淵を漂うくせに、もう身体の血液など一滴たりとも残っていないのではないだろうかと思うくらいに血を流したくせに、レグルスはそれから三日間、醜く無様に生き延びていた。己の生命力の強さに苦しめられるなど、皮肉なものである。
 それは、荒野のど真ん中に磔にされて四日目の朝のことだった。
 記憶は曖昧だが、そこで聞こえた声だけは、レグルスは生涯忘れはしないだろうと思う。

 ――あなたは、どうしてこんなところにいるの?

 気づいたら、レグルスは王都クラネットの、しかも王宮の医務室のベットの上から真っ白な天井を見上げていた。
 ふと視線を移したそこには、ベットに身を乗り出してじっとこちらを見つめている小さな少女がいて、その後ろには気品が漂うような威圧感を持つ男がいた。少女は名をユフィール・アルカイストといい、男の名をラーカイル・アルカイストといった。ラーカイルはクラネットの国王で、ユフィールはその娘で三歳らしい。どうしてそんな王族があんな荒野のど真ん中にいたのかは、王族アルカイストの一族が隣国へ向う途中だったからなのだと、後日聞かされた。
 三日間分の疲労が一挙に押し寄せてまたくたばってしまいそうだったレグルスだが、どうしても訊いておかねばならないことがあった。どうして自分をここに連れて来たのか。どうして自分を治療したのか。荒野のど真ん中で磔にされている輩を救い出し、お前たちは一体何がしたかったのか。やっと動くようになった口で、それらの言葉を、実にクソ汚い口調でレグルスはラーカイルに訊ねた。
 ラーカイルは、はっきりと言った。
 ――君をここに連れて来たのは、君がまだ生きていたからだ。君を治療したのは、君がまだ生きていたからだ。君を救い出したのは、君がまだ生きていたからだ。勝手なことだと笑ってくれていい。しかしもし迷惑だったのなら言い給え。あのまま死にたかったというのなら言い給え。君の意志を尊重しよう。死にたいのであれば手を貸す。助けてしまったのはわたしだ、首を刎ねて欲しいのであれば言うがいい。痛みなど無くして、君を殺してやろう。
 ぐうの音も出なかった。これが国王の言い草かと、本気で思った。
 しまいには、その隣でくるくると走り回っていたユフィールにまでこう言われた。
 ――しぬのはいけいことなんだよ。あなたは、そんなこともわからないの?
 切っ掛けは、そんな程度のものだった。
 レグルスという名はガルドに与えられた名である。そして、アークトゥルスという家名は、ラーカイルに与えられた家名である。
 正気を疑った。ラーカイルはこんなゴミのような人間を治療して家名を与え、挙げ句の果てには「行く所が無いのなら迎撃部隊にでも入ったらどうだ。君なら上手くいけば上を目指せるかもしれない」と真顔でレグルスに言うのだ。このラーカイルという男が正気であるとは、どうしても思えなかった。しかし、それならそれでもいいとも思った。利用できるものは利用する。そうして、今まで生きてきたのだ。これからも、そうして生きていくのだ。この王都に自分を招き入れたことを後悔させてやる。闇討ちでも何でもいい。必ず、ラーカイルの首を落としてやる。
 持って生まれた巨体と持って生まれた腕力、凶器は無かったがそれでも十分だった。上には上がいたが追いつけない次元の相手ではなかったし、ガルドに比べればまだまだケツの青い相手である。レグルスをそう簡単に止められる相手はほとんどおらず、迎撃部隊に入隊して二ヵ月後にはレグルスに勝てる者は十人も残っていなかった。当初は荒野から現れたレグルスを邪険に扱う者も少なからずいたが、日が経つにつれてそれもなくなり、逆にレグルスを尊敬する手合いまで現れた。悪い気は、しなかった。
 そしていつしか、ラーカイルの首を落とすという思考や、脳髄の根本に根づく本能さえも忘れていってしまっている己に気づく。生まれて初めて誰かに必要とされ、生まれて初めて居場所を見つけたような居心地の良さは、過去の過ちをすべて洗い流してくれている感じがした。しかし、人を殺し人を利用した己が許されるわけはなかった。誰かに必要とされ、その居場所に身を落ち着かせる度に、今まで殺し利用してきた者の顔が脳裏を過ぎる。眠れない夜が何日にも続いた。だがそれも、ある日を境にひとつの結論を生み出す。
 それは、ユフィール・アルカイストが八歳の誕生日を迎えた日であり、レグルス・アークトゥルスが総括軍団長に就任する日であり、同時にラーカイル・アルカイストが不治の病に倒れてこの世を去った日でもあった。
 父親の遺体にしがみついて大声で泣く幼い王妃を見つめ、レグルス・アークトゥルスは初めて他人に感謝と誓いを抱く。
 ――貴公のお蔭でおれはここにいられる。貴公のお蔭でおれはここで生きていられる。貴公のお蔭でおれは変われた。感謝します。娘を残して先に逝かれるのは心配だと思います。ですが、安心願いたい。貴公への恩義を返すためならおれはどんなことでもしよう。娘はこのおれがすべてを懸けて守ろう。そして同じくして、この王都でおれを必要とし、おれに居場所をくれたすべての者を、おれは守り抜こう。過去の過ちは消せない。だったら、その分だけおれはこの王都のために尽くそう。総括軍団長レグルス・アークトゥルスの名に恥じぬよう、おれは、すべてを守ってみせる。

 誓いを果たすために。
 王都に暮すすべての者を守るために。
 おれは、もう一度だけ、――人を、殺す。

     ◎

 どうしてこんなことになってしまったのか、まるでわからない。
 日の出と共に部屋に踏み込んで来たレグルスに首根っこを鷲掴みにされ、引き摺られるように廊下を歩き、薄暗い武器の保管庫に叩き込まれた。寝起きの頭にその状況はまったく理解できなくて、レグルスに「そこから好きな武器と防具を選べ」と言われてもすぐには従えなかった。恐らくは一時間以上の時間を費やして何でも叩き切れそうな大剣の武器と武者みたいな鎧の防具を選んだ克弥だったのだが、それが失敗であることをすぐに悟る。
 大剣は軽く十キロを超えていたし、鎧に至っては五十キロ近くあったのではないかと思う。
 約六十キロを身体に乗せたままでは動くこも儘ならなず、結局はまた一時間以上の時間を費やしてみみっちいナイフのような短剣と防弾チョッキのような胸当てを選んだ。重さはまだ感じたが、運動に支障が出るほどでもなかった。が、その重さに果たしてどれだけ耐えられるのか。下手をすれば五分足らずで動けなくなるかもしれない。しかしこれ以上レグルスを待たすとこの場で殺されそうだったので気遅れたまま保管庫を出た。
 空は晴天だった。どこまでも広がる青空は地球から見上げるものと同じような気がして、この空の下を辿って行けば日本に帰れるかもしれない。そんな小さな小さな希望を胸に抱きながら克弥は視線を落とし、目の前に仁王立ちするレグルスを捉えてすべてが砕かれた。
 闘技場、と表現するのが一番適格だ。世界史か何かの教科書で見た、大昔の遺跡のようなコロシアムだった。灰色の壁が円状に聳え立ち、その中央の何も無い地面に克弥とレグルスは向かい合って立っている。客席にはほとんど人の姿は無かったが、それでも兵士は三人だけいたし、屋根のついた場所には泣き出しそうな顔をするユフィとミイラ老婆もいた。
 これは浮かれる状況でもなく、エールや野次を飛ばす雰囲気でもない。
 目前に立つレグルスの眼光は、本気だった。
 ここに来て初めて、本当にやるのか、という恐れを抱いた。
 言い訳もクソもできないまま時間だけが流れ、約束の明日が来て、そうして克弥は今、レグルスと向かい合っている。これから何をするのか。殺し合いをするのだろう。この手に握られた短剣がそれを証明している。だけど、そのことを納得したわけではなかった。強制的にこんな所に引っ張り出されて、いきなり殺し合いをしろと言われて相手を殺せる奴なんてこの世にいるわけはないのである。ましてや相手はこの巨漢だ。場数も修羅場も、克弥に比べれば月とすっぽんも真っ青である。勝てるわけが、なかった。しかしレグルスが克弥の言い訳に応じるとは到底思えず、それ以前に上等な言い訳など微塵も思いつかない。
 やるしかないのだろうか。自分はここで、死ぬのだろうか。レグルスと戦うことに対しての恐怖はある。が、死ぬことに対しての恐怖はなかった。まともな思考などすでに焼き切れてしまっているのかもしれない。霧王の器になったあの瞬間から、死という概念に対して酷く無反応になっている自分がいる。その理由は、心の最も深い闇の中で自分が負けるはずはないと思っているからなのかもしれなかった。霧王がこの身体に巣食っている限り、負ける理由は見当たらない。見当たらないのだが、霧王を表に出すことだけはしたくなかった。
 霧王を出してしまえばレグルスは間違いなく死ぬだろう。それではダメなのだ。どちらも助かる最善の和解策はないのだろうか。
 考えるには、時間があまりにも少なかった。上等な策など、言い訳同様に微塵も思いつかない。
 どこからともなく、カーン、カーン、カーンという鈍いくせに妙に高い鐘の音が響いた。
「……時間だ」
 レグルスの声と共に放たれた殺気に、克弥の中で殺し合いが現実味を帯びる。
 真っ向から見据えてくるレグルスの巨体が、見た目より遥かに巨大に見える。握った鋭い刃を携えた短剣がゴミクズに思えた。こんなもので勝てるわけがない、このままでは本当に殺されるぞ、形振りを構っている暇などない、殺したくないなどという偽善者の意見はいい、殺さなければ殺される、今すぐにでも霧王を、――ダメだ。それだけは、ダメだ。
 身体の芯で蠢く霧王の鼓動を必死で抑え込み、克弥は奥歯を食い縛る。
 それを、レグルスは的確に捉えていた。
「生龍の力を解放せずにこのおれと戦うつもりか。死にたくなければ生龍を開放しろ」
 賛同するは霧王だ。
 ――抗うな。我があの者を殺すのだ。塵ひとつとして残しはせぬ。
 黙ってろ、そこで大人しくしてやがれ。
 荒い息を吐き出しながら克弥はレグルスを見据え返し、隙だらけの格好で短剣を前に構えた。
 レグルスは鼻で笑う、
「それが構えか。どうやら器には武術や剣術の心得は無いと見える。そんな体勢で総括軍団長であるこのおれに勝てると思っているのか。もう一度だけ忠告してやる。生龍を開放しろ。さもなくば一瞬で死ぬぞ」
 虚勢を張った、
「やってみなくちゃわからないだろうが」
 足が震えていたことを勘付かれていないかどうかだけが気がかりだった。
 己の胸に根づく恐れを締め出すために、ワザと訊かなくてもいいことを訊く。
「そっちこそ武器のひとつも持たずに、おれと戦う気か?」
 言葉通りに、レグルスは、克弥とは反対に丸腰なのである。いつもと同じ軽い武装はしているものの、そこに武器の類は見つけられない。どこかに隠し刃などがあるとは思えないし、レグルスがそんな手を使うとも思えない。剣術に関してはド素人の克弥であるが、それでもこっちの手には刃物が握られている。にも関わらず、この男は素手で相手をしようとしているのか。
 レグルスは表情を変えない。
「勘違いするな。おれの武器は、この腕だ」
 克弥が聞き返すより早くに、レグルスは武装までも棄てた。
 現れたのは筋肉の鎧に包まれているような強靭な肉体である。テレビの中で見るプロレスラーやK-1選手のそれとは違う、銃弾程度では本当に傷ひとつつかないのではないかと本気で思うくらいに禍々しい筋肉だ。そして、それ以上に克弥を驚かせるものがあった。傷だらけの肉体も驚くに値するのだが、それよりレグルスの右腕を凝視したまま、克弥は視線を外すことができなかった。まるで気づかなかったこと。あの腕で首を掴れたことがあるのに、それでも気づかなかった。なぜなら、それは本当に自然体だったから。なぜなら、それは本当にレグルスの体の一部なのだから。
 レグルスの右肘から下は、義手だった。
 巨大なボルトが直接腕に詰め込まれており、そこから伸びるのは鋼鉄の手。地球で生み出されている最新技術を導入した義手とは比べ物にならないくらいに雑で、ただ鋼鉄を無理矢理変形させて腕につけたという感じのする義手である。だがそれでも、その義手は地球の義手よりも正確に動き、使用者の意志にコンマ一秒も遅れずに従ってくれる。それは、レグルスの体の一部であるのだ。
 義手がそっと頭上に上げられたとき、客席に待機していた三人の兵士が掛け声と共に大きな木製のベンチを放り投げた。頭上から一瞬にして落下して来るベンチをゆっくりと見上げ、レグルスは小さな構えを取る。これから何をするのかを克弥が考える暇もなく、レグルスの体が翻った。空を切るような一閃の蹴りが空中でベンチを轟音と共に真っ二つに両断し、左右に広がる片方のベンチを左拳でさらに叩き割り、もう片方のベンチに義手を捻じ込ませる。空を切る音は聞こえたが、破壊音は聞こえなかった。それでも義手が直撃したベンチの片方は、無音の中で砂のように粉々になっていた。
 息ひとつとして乱れてはいない。
「防具でもあるこの腕が、おれの武器だ。魔力を流し込んで神経と完全に結合している。おれが唯一使える魔術だ。他に使える魔術は無いが、これがあれば他には必要無い。今の打撃を見せた上で、最後の忠告する。――生龍を開放しろ。開放しないのなら、次に砕け散るのは貴公だ」
 克弥は、言葉を返すことができない。
 無残に粉砕されたベンチの破片を見つめながら動くこともできない。
 冗談だろ。そんな悲鳴にも似たつぶやきが脳内で漏れた。木製のベンチは克弥の腕くらいの厚さがある。それを両断した蹴り、それを叩き割った拳、そしてそれを粉々に粉砕した義手。人間業とは到底思えない。強い強くない云々の次元でも、魔術の有無の話でもないのだ。理性も感情もはっきりと確信を得ている。勝てるわけがなかった。次は自分が粉々に粉砕される番だ。武術や剣術は愚か喧嘩の心得さえも知らない自分が、一丁前に刃物など振りかざして一体何をしようとしているのか。一体何を相手に殺し合いをしようとしているのか。血迷ったか。目前にいるこの男は、正真正銘の怪物である。
 言葉を返すことも動くこともできない克弥の耳に、先ほど聞こえたのとは別の、大きな鐘の音が響き渡った。
 霧王を開放しようとしない克弥の沈黙をレグルスは答えと判断し、上半身を僅かに屈めて真っ直ぐに獲物を見据える。突き抜けた眼光に克弥は慌てて我に返り、なけなしの度胸と気力を奮い起こして震えながら短剣を握り直した。レグルスが地面を弾いて加速を開始したのはそれとほぼ同時だった。目前から距離を詰めて来るのが人間だとはやはり思えない。猪や熊でもない。もっと強大でもっと凶暴な、荒れ狂う狂気の塊。それが、真っ向から突っ込んで来ていた。
 避けようと思って体が動いたのではなく、逃げなければと思って体が動いた。
 レグルスが放った様子見の一発は、それでも紙一重で逃げるのが精一杯だった。拳など一瞬たりとも見えなかった。風切り音が風圧と一緒に克弥の身体に覆い被さり、当たってもいない一発が生の恐怖を運んでくる。悲鳴を上げないだけまだマシだったのかもしれないが、突然背を向けて逃げ出すとなると大した変わりはなかった。背を向けることができただけでも良しとしなければならない。動けることが自分でも不思議だった。逃げなければならない、逃げなければ殺される。そんな恐怖だけが倍倍式に膨れ上がって空回りする。
 浮かび上がってきた涙で滲む視界で逃げ惑う克弥を、レグルスは当たり前のように見逃さない。
 背後から獣のように襲い迫るレグルスの拳を克弥が再度避けられたのはやはり偶然以外の何ものでもなく、足が縺れていなかったら後頭部を粉砕されていたに決まっていた。顔面から地面に倒れ込んだ克弥に痛みを感じている暇も余裕も残っていない。立ち上がって走り出そうとしたときに震えていた足から完全に力が抜けて尻餅をつき、見上げるそこにレグルスの眼光があった。振り下ろされた鋼鉄の義手はただの威嚇に過ぎなかったが、それでも目の前の地面を根こそぎ破壊されれば威嚇では済まない。
 まともに息もできない。ユフィが見ていることも忘れていた。格好いいところを見せたい、格好悪いところは見せたくない、などというハナクソみたいな強がりも今は存在しない。死に対して酷く無反応だった自分が死ぬほど羨ましい。太陽を背に佇むレグルスは影の怪物に見えて、そこから覗くふたつの眼光は言い表せないほどの恐怖を運んできて、死ぬのがどうしようもなく恐ろしかった。
 無我夢中、だったのだろう。気づいたらもう一度握り直した短剣を、影の怪物目掛けて出鱈目に振り回していた。が、そんなものがレグルスに当たるはずも通用するはずもなかったのである。無造作に振り抜かれた義手はいとも簡単に刃を粉砕し、軽く蹴り上げられた足が克弥の右手を捕らえて短剣が宙に舞い上がった。攻撃手段が断たれたことにも気づかないほどに混乱していた。今もまだ短剣を握っているはずだと思い込んで右手を振り回す克弥がようやく現実に気づいたのは、レグルスに胸倉を鷲掴まれて持ち上げれたときだった。
 足はもう地面についてはおらず、今度は見下げる立場になった眼光が別の意味で恐ろしい。レグルスの動作は本当に小さなもので、衝撃を感じても腹を殴られたのだと気づくまでにかなりの時間が必要だった。そしてそれに気づいてしまった刹那に、信じられないような痛みが走り抜けた。霧王の侵食とはまた違う、殴られた素の痛みだった。防弾チョッキのような防具がなければ骨は簡単に砕かれてしまっていたに決まっている。
 レグルスは無表情でつぶやく。
「生龍を開放しろ。しないのなら、次が最後だ」
 ゆっくりと拳を作る義手を虚ろな視界で見据えていた克弥の中で、最後の糸が切れた。
 抗うだけの気力は、たったの一撃で砕け散っていた。
 ――この者は我の獲物だ。貴様は大人しく眠っていろ。
 霧王の魔力が克弥の身体から放出される。
 このまま霧王に任せてしまおうか――。そんな思考が脳裏を過ぎった刹那、視界の端で立ち上がろうとしていたユフィを見た。表情は泣きそうだったが、それでもその中に確かな感情があった。右手の薬指につけられていた指輪の重みを今になってようやく思い出す。ユフィの声が聞こえたような気がした。我に返ったのはその瞬間で、克弥は闇に沈みそうになっていた意識を無理矢理浮上させる。
 ユフィは、負けるな、と言っていたような気がする。
 レグルスに負けるな、ではなく、霧王に負けるな、という意味なのだと思う。
 それが突破口となった。あふれ出していた霧王の意識を殴るように押し戻し、身体の奥底に再び押し込める。霧王の怒号が聞こえたような気がしたが聞く耳を持たない。お前は大人しくしてやがれこれはおれの戦いだ。そんな怒鳴り声で霧王を黙らせ、状況の判断が一歩だけ遅れていたレグルスを真っ向から見下ろした。その瞳にレグルスが気圧された一瞬が命取りである。中途半端に放出されていた魔力が克弥の身体に纏わりつき、懇親の力で振り抜いた拳が通常の何十倍もの威力を発揮した。
 克弥の拳で、巨体が背後に弾け飛んだ。
 支える力がなくなった克弥の身体は地面に落下し、着地を失敗して無様に転倒する。しかしその隙にレグルスの反撃は入って来なかった。背後に弾け飛んでいたレグルスは倒れてはいないものの、俯いて沈黙している。立ったまま気絶しているわけではないのは一目瞭然だが、先の攻撃が効いているとは思う。致命傷にならないのは仕方が無い、だけどこれで引いてくれれば。僅かな希望を抱いたのは、一秒だけだった。
 不意に顔を上げたレグルスの眼光に、克弥は本物の恐れを抱いた。
 恐ろしく据わった眼をしていた。それはレグルスが本気になったことを意味していて、同時にもはやここまでだと克弥に悟らせるには十分だった。身体にはまだ霧王の魔力の名残がある。これがある内はまだレグルスと戦えるだろう。だがそれも数秒だ。それを過ぎたら最後、レグルスの義手は容赦なく克弥の顔面を直撃するだろう。そうなれば脳髄を撒き散らして死ぬのは目に見えていた。しかし、レグルスを本気にさせたのは克弥だ。ここで、逃げ出すわけにはいかなかった。
 微かな魔力を拳に宿らせ、克弥は真っ向からレグルスを見据える。
 無駄な思考を打ち消して、レグルスは真っ向から克弥を見据える。
 先攻したのはやはりレグルスだった。地面を破壊して突っ込んで来るレグルスが、なぜか今だけははっきりと視界に捉えることができた。これなら攻撃に合わせて反撃できるかもしれない。そう思うのも束の間だった。レグルスの射程距離圏内に克弥が入った瞬間、巨体が一瞬で視界から消えた。目で追える速さではなかった。背後に回り込まれたのだと気づいて振り返ったのが裏目に出た。
 振り上げられた拳は、克弥の顎を直撃する。
 意識が飛んだ。心臓が止まった。呼吸を吹き返したときには真横から蹴りが炸裂していた。
 冗談にように吹き飛ばされた克弥の体が瞬間的に聳え立つ壁に激突し、衝撃音と共に視界が空白に染まった。これでまだ生きているのは恐らく、霧王の魔力のお蔭なのだと思う。これがなかったら最初の一撃で首から上を吹き飛ばされていたに違いない。次の蹴りで首から上が両断されていたに違いない。そして、魔力が残っているからといっても、次の義手に克弥の体が耐えられるとはどうしても思えない。立つこともできず、レグルスがどこにいるのかさえも判断できなかった。それでも漠然とした感覚が、迫ってくる狂気の塊を捉えている。
 呆然とした思考の中で、死ぬことを意識した際に、ユフィの声が聞こえた。
「――フォールッ!!」
 微かな魔力が空間に流れ、目前に現れた透明な楯へと打ち込まれる鋼鉄の義手。
 透明な楯は一撃で砕かれたが、それでも鋼鉄の義手の進行を止めることはできた。
 レグルスは拳を引いて体勢を立て直し、客席から飛び降りたユフィを真っ直ぐに見つめる。
「……どういうつもりだユフィ。なぜ止めた」
 切実な色を宿す瞳が、レグルスを見据えた。
「やっぱりおかしいよこんなの。レグルスが誰かを殺すところなんて見たくない。克弥がこれ以上傷つくところなんて見たくない」
 義手が鈍い音を立てて拳を作り、怒号が迎え撃つ、
「まだそんなことを言っているのか。わかっているはずだ、ここでこの者を殺さなければ取り返しのつかないことになる。おれが胸に抱くはラーカイル殿への誓い。この王都に暮らすすべての者を守ることだ。そのためならおれは己を棄て修羅になる。邪魔をすることは許さない。生龍の力が抑え込まれているこの瞬間が唯一の好機だ。術者であるユフィが殺せないと言うのであればこのおれが殺すしかないだろうが。今この者を殺さずしていつ殺す、今止めずにどうやって生龍を止める!? 答えろユフィ!」
「レグルスは矛盾してる!!」
 その叫びにレグルスは一瞬だけ言葉を詰まらせ、その隙を突いてユフィは一気に言葉を紡ぐ、
「レグルスはこの王都に暮らすすべての者を守ることが父様との誓いだって言った。だったら克弥もこの王都に住むひとりの民衆じゃないの? それなのにどうして克弥を殺すなんて言うのよ!?」
「戯言を抜かすなっ!! 確かに今はこの者はこの王都に住んでいる者だ。だがそれとこれとでは話が違うだろうが! この者は生龍の器なんだぞ!? それを守って他の者が死に絶えたらすべてが無駄になる! ならば最小限の犠牲と考えこの者を殺す以外に道は無いはずだっ!! 一国の王妃が情に流され民衆を見殺しにするその愚行に恥を知れユフィール・アルカイストッ!!」
 レグルスの言葉にユフィが猛然と抗議し始めようとした一瞬、
「――やめろユフィ。もういい」
 克弥の声がそれを制止させ、ボロ雑巾のような体を無理矢理起き上がらせる。
 レグルスの言い分は正論なのだと思う。この巨大な王都で暮らすすべての者の命と、克弥ひとりの命を計りに懸けたら結果は目に見えている。それに克弥はもともとここの住人ではない。死のうが生きようが、本当にレグルスに取ってはどうでもいいことなのかもしれない。わかっている。自分ひとりが死ねばすべてが丸く納まることも、自分ひとりが死ねばユフィとレグルスが言い争いをしないで済むことも。だけど、やっぱり死ぬのは恐くて、そしてユフィの言葉は嬉しかった。この世界で自分のことを庇ってくれるユフィは、本当に光のような存在だった。
 だからこそ、自分のせいでユフィが罵倒されるのは我慢できなかった。
 ユフィに対する罵声など、聞きたくもなかった。
 まだ拳には霧王の魔力が残っている。まだ、戦える。
「……戦闘再開だレグルスッ! おれを殺したいのなら真っ向から来やがれッ!!」
「克弥!? 何言って、」
 ユフィを押し退け、克弥はレグルスの目前に歩み出る。
 レグルスは、狂気の眼差しを克弥へ向けた。
「上等な意志だ。これが貴公の最後。悔いの無いよう、この世界で朽ち果てろッ!!」
 握った克弥の拳と鋼鉄の義手がぶつかり合う刹那、

 それは、上空から舞い降りた。

 それは、コロコロと同じくしてワイバーンの姿形をしていた。
 それは、ユフィを背後から拘束して一瞬で上空へと連れ去って行った。
 遅れてコロコロがコロシアムに乱入して来るが時すでに遅し、ユフィを連れ去ったワイバーンはもう大空に舞い戻っていた。
「ワイバーンのバンディッドだと!?」
 レグルスの声に反応して、ようやく克弥は先ほどのワイバーンが血肉の無い、ただの骸骨であることに気づいた。
 コロコロが破滅の咆哮を上げて上空のバンディッドに狙いを定め、巨大な翼を広げて飛翔を開始しようとした瞬間、この状況になってやっとコロシアムにひとりの兵士が必死の形相で飛び込んで来た。
「レグルス隊長!! バンディッドです!! 数は恐らく――」
「手遅れだクソったれがッ!! コロコロッ!!」
 飛翔を開始しようとしたコロコロの背に飛び乗り、レグルスは頭上を見上げる。
 迷う理由は、なかった。本能であるかのように、克弥もそれに続いてコロコロの背に飛び乗った。
 同時に巨大な翼は羽ばたき、神速の速さを持ってして飛翔する。
 邪魔者に向けられる氷の眼光を真っ向から克弥が睨み返したとき、レグルスは小さく言葉を吐く。
「一時休戦だ」
 克弥は肯く、
「今はユフィを助け出す方が先だ」
 レグルスは狂気の笑みを浮かべて前方を見据え、克弥もそれに習う。
 コロコロの飛翔する先に、ワイバーンのバンディッドの姿がある。

     ◎

 迂闊だった。
 克弥から放出されていた生龍の魔力のせいで、死龍の魔力が宿るバンディッドの接近に気づけなかった。
 恐らくはあの場にいた誰もがこのことを感知できなかったはずである。生龍と死龍の魔力は同一の源。故に生龍が開放されるかどうかの狭間のあの場所で、このバンディッドの接近に気づけなかったのだ。レグルスとの言い合いで興奮状態にあったこともまた作用していたのだと思う。しかし今さらにそんなことを嘆いても始まらない、この状況をどうにかして打破しなければ取り返しのつかないことになる。
 大空を駆け抜けるワイバーンのバンディッドに体を鷲掴みされながら、ユフィは小さな拳を握る。
 眼下に広がるのはもはや王都クラネットではなく、何も無い荒野だ。高さは皆目見当もつかないが、コロコロとよく大空を疾っている分、ここから自分ひとりだけが落ちればどうなるのかは容易に予想がついた。魔術で衝撃を吸収する暇も無いだろう。魔術を詠唱する前に荒野に激突して意識が途絶えるに決まっていた。死にたくない、とユフィは思う。こんな所で死んではならないのだ。まだ何かを成し得たわけじゃない。クラネットに暮らす民衆を残して、自分ひとりが死んでいい道理などどこにも存在しない。
 どうにかしてこの状況を打開しなければならない、しなければならないのだが肝心の打開策が何もなかった。この状態でもバンディッドの腕を粉々にすることはユフィなら造作もないことであるのだが、その後が問題なのである。生憎として飛翔できる魔術など文献の中にも書かれていなかった。衝撃を殺すことはできるが時間があまりに少ない。仮に時間があったとしても、落下している途中で神経を集中させて詠唱できるとは思えなかった。
 どうすることもできないのだろうか。そんな思考がユフィの脳裏を過ぎったとき、見上げたそこにあるバンディッドの口が開き、鈍く憎悪に満ちた声を発する。
『アルカイストの末裔、――貴様らだけは、決して許しはせぬッ!!』
 このバンディッドが喋っているのではない、このバンディッドに宿る魔力を通して術者が喋っているのだ。
 聞いたことのない声、だけど誰のものであるのかは一発で理解できた。
 生龍・霧王・シルヴァースと同じくして、月の化身の片翼、死龍・雨王・イルヴァース。
 幾千年かの昔、アルカイストの先祖が封印した魔物である。否、魔物と表現するにしても温過ぎる存在。この世界に神がいるかどうかは知らない、しかし悪魔はここにいる。月の化身は即ち、神の成り代わりなのであろう。神から生まれた悪魔、故に強大、故に絶大。恐らくはオリネムで最強の血筋であるアルカイストの先祖が滅ぶのを覚悟で立ち向かい、王都をひとつ犠牲にしてやっと封じ込めた悪魔の両翼。だけどそれは、生龍と死龍が争っていた一瞬の隙を突いて偶然に封印できたに過ぎない。片翼だけを相手にして戦えば、アルカイストの血筋であろうと、この世界のすべての者を束にしようとも、勝てはしない。人間が神の成り代わりに勝てる理由など、ひとつもありはしないのだ。
 絶望的である。このバンディッドが向うのは死龍の下だ。そこへ辿り着く前に何とかしなければ、本当に取り返しのつかないことになる。自分ひとりが死んで死龍の怒りが納まり、再び大人しく封印されてくれるのならいい。それならば喜んでこの身を犠牲にしよう。しかし死龍が、自分ひとりを殺したくらいで満足するとは微塵も思えない。自分を殺した死龍は古のようにこの世界に君臨し、すべての者を殺し尽くすだろう。そうなってはもはや手遅れだ。
 希望は、アルカイストの血筋だけなのである。だから、ここで死ぬわけにはいかない。
 どうにかしてこの状況を打破しなければならない、何か手はないのだろうか、何か――。
 そのとき、遥か後方より馴染みのある咆哮がユフィを吹き抜けた。首だけで背後を振り返ったそこに、神速の速さを持ってして空を切る巨大な翼を見た。コロコロである。そして、その背に乗るふたりの人影を微かに捉えることができた。レグルスと克弥だ。助けに来てくれた。そう思った刹那、敵が背後から迫っていたことに気づいたバンディッドがいきなり垂直に飛翔した。コロコロで慣れているとは言え、コロコロ以上に出鱈目に飛ぶバンディッドの飛翔にユフィの意識が一瞬だけ飛び退く。まるで鉛のような風が身体を打ちつける度に関節が悲鳴を上げる。
 下手をすれば、死龍の下へ辿り着かれる前に四肢が引き千切られるかもしれない。一か八かの賭けである。勝算は五分五分であるのだが、迷っている暇はなかった。信頼を押し通すだけで勝算など幾らでも変えることができるに決まっていた。小さな頃からずっと側にいて守ってくれたレグルスを思う、首飾りで繋がっているコロコロを思う、そして指輪で繋がっている克弥を思う。
 神経を集中させる。ユフィの根本に根づく魔力を開放する。血が血管を流れるかのように、魔力が身体の隅々まで行き渡って周囲に広がっていく。体を鷲掴みにしているバンディッドの腕に手を添え、ユフィは目を閉じた。
 どちらかと言えば、ユフィは守護系統の魔術の方が得意である。魔術とは術者の想いに同調する。何かを壊したいと強く願うのであれば、魔術はその想いに比例して威力を上げるのだ。そしてユフィは、何かを壊したいと想うより、何かを守りたいという想いの方が圧倒的に強い。破壊系統の魔術を使えば一発でこのバンディッドなど粉々にできるが、上手く集中できないこの状況で無理に破壊系統の魔術を使ってこちらにまで被害が及んでは意味が無い。ならば得意の守護系統で、この腕から逃れるべきなのだ。
 手を添えたバンディッドの腕に魔力を流し込み、本来なら治療のために発動させる魔術を反転させる。
「光の下に心を捧げ、加護の下に翼を広げ、世界を抱き我等を包み癒せ――ディエルッ!!」
 一瞬の間、バンディッドの腕の中に入り込んでいた魔力が本来とはまるで逆の働きを示す。
 通常なら細胞を活発化させて傷口を塞ぐための術が制御を外し、細胞を無限大に活発化させて内側から暴発させる。すでに死に絶えたバンディッドに対してこの魔術が有効かどうかは怪しかったが、そもそも魔術であるバンディッドは最低限の細胞を蘇らせて操るものである。多少なりともそこに細胞があれば、成功するはずだ。
 現に、ユフィを押さえ込んでいたバンディッドの腕は一発で砕け散った。
 支えるものの無くなったユフィの体が束の間の停止の後に、一気に落下を開始する。目を開けていられなかった。コロコロの背に乗っていて急降下をしても、絶対にだいじょうぶという信頼があるからこそ笑っていられたが、何も存在しないこの状況ではいつもしているのと同じことが単純に恐かった。きつくきつく目を閉じて体を強張らせるユフィはさらに落下していく。
 それを見据えていたコロコロがそれまで以上に大きく翼を押し戻し、それまで以上に確かな光を眼光に宿らせて、それまで以上に爆発的な加速を開始した。風の抵抗など今のコロコロの前には無に等しい。まるで宇宙空間を飛翔するかのようにコロコロは空を突き進み、信頼する我が主を助け出すことだけを誓う。他のワイバーンなら恐らくは辿り着けなかったであろう距離を、コロコロは辿り着く。それが特別なワイバーンである所以のひとつだ。
 あと二秒遅ければ地面に激突していたであろう低空で、コロコロがユフィの真下に回り込む。
 一瞬の出来事である。落下していたユフィをレグルスがギリギリで受け止め、バランスを崩したレグルスの体を克弥が死に物狂いで押し留める。
 それまで恐さのあまりに息を止めていたユフィがようやく息をし、目を開けてレグルスと克弥と、そしてコロコロを順に見つめ、
「――ありがとう、みんな」
 そう言って少しだけ弱気に微笑んだ。
 思う人は皆、ちゃんと応えてくれる。ユフィは、そう思う。

 ユフィを助け出した瞬間、それまで最後の壁を守っていた緊迫感が一挙に砕けた。
 身体中からあふれ出す魔力の波動は、もはや止められない所まで迫っている。
 加えて、二日前の夜のように、霧王は怒り狂っていた。
 ――ゥ雨王ォオッ!! 貴様だけは、必ず、必ず我が殺してやるッ!!!!
 全身を掻き毟るような魔力を必死に抑え、腕で両肩を包み込むように身を丸めて克弥は震え上がる。
 その異常さに気づいたユフィが慌てて、
「克弥っ? どこか、」
 もはや限界だ、
「――コロコロ、今すぐここから離れろッ!!」
 上空で旋回を続けていたコロコロが不審げに首を回して克弥を見据え、そこに宿る魔力の波動を正確に感じ取って僅かに仰け反る。それは人間には存在しない、ある種の野生的勘だったのかもしれない。このままこの者を背に乗せ続ければ、主までも巻き込んでしまう――そんな確信がコロコロの中で芽生えたのだと思う。克弥に言われた通りにコロコロは旋回を停止させ、王都へ向けて翼を広げた。
 そうして、克弥は風の抵抗に身を任せた。何事かを叫ぶユフィの声が背後に流れて行く中で、克弥の体がゆっくりと傾き、ある一定の境界を越えた刹那に空に落ちる。仰向けで落下を開始する克弥の視界の中で、ユフィの驚き顔がいつまでも焼きついている。背から克弥を下ろしたコロコロは更なる加速を見せ、一瞬で視界の彼方へと遠のく。
 落下する感覚を全身で感じ、克弥はぼんやりと腹の奥底に巣食う闇に問い掛ける。
 これだけ離れれば上等だろう。聞こえるか霧王。ユフィを危ない目に遭わせたヤツに情けを懸ける道理はどこにもありはしない。思う存分にやれ。レグルスが相手ならば殺してはならないと思っていたが、もともと死んだヤツが相手なら知ったことではない。今だけはこの身体、お前に貸してやる。ぶっ倒せ。お前が月の化身と呼ばれる所以、見せてみやがれ。開放しろ、――霧王ッ!!
 落下途中、今までの侵食とはまるで違う、一点に研ぎ澄まされた痛みが左足を駆け抜けた。
 しかし今までの侵食と違うのは、痛みの種類だけではなく、大きさも異なっていた。抗う度に増していた激痛も素直に受け入れれば大したものではなかった。毛穴から噴射する蒸気が左足に纏わりつき、赤みを帯びるのに比例して右手左手、そして右足が生龍・霧王・シルヴァースのものへと変貌していく。臨界点を突破して放出された霧王の魔力が空間を覆い尽くし、荒野に巨大な亀裂を走らせた。
 気づいたときには、左足も霧王の左足へと変貌を遂げていた。
 痛みは大したものではなかったが、克弥は今、はっきりと感じた。確かに侵食を素直に受け入れれば痛みは激減する。だがそれは同時に、克弥の心も食い荒らしていく。例えるのならそう、月食と似たような感覚だ。光がゆっくりと、しかし確実に闇に飲まれていっている。痛みは感じないが、己が己ではなくなっていく感覚が全身を支配する。自分であるはずのものが壊れていく。生龍・霧王・シルヴァースの器になるという意味を、ようやく理解した。七夜が訪れたそのとき、心を侵食されるその恐れを、初めて実感した。
 四肢を侵食される激痛よりも、遥かに深い闇。それが、七夜の最後の侵食。
 荒野に激突した際に砂煙が濛々と舞い上がり、一陣の風がそれを吹き払った瞬間、そこから現れるのは四肢を異形の姿へと変貌させた克弥である。まるで獣ように長い両手両足を荒野に食い込ませ、放出され続ける魔力が糸を巻いて口から吐き出され、捕食者の眼光が辺りをぐるりと見回す。克弥自身では気づけないが、見回すその瞳は片方、真紅に染まっている。月の化身に半分以上侵食されてしまった際に現れる現象。もはや、後戻りはできない。
 刹那、霧王の魔力に同調するかのような同一の魔力が空間を漂う。それに触発されて地面が歪に歪み、滲み出すかのように数百体のバンディッドが這い出てくる。片腕の無いバンディッド、首から上が無いバンディッド、頭蓋骨に穴を開けられたバンディッド、血肉の乾き切らないバンディッド。それらは皆、この荒野で死に絶えた者の屍である。高等魔術バンディッドにより、黄泉の世界より再び蘇った死者たち。不気味な音を立ててバンディッドが四肢で這い蹲る克弥を取り込み、気味の悪い笑い声のようなものを上げる。
 それに混じって聞こえる、霧王によく似た声。
『血迷ったか霧王。なぜ貴様がアルカイストの末裔と共に行動しているのだ。我らが受けた屈辱と怒りを、忘れたわけではあるまい』
 頭の中で霧王が怒号を発する、
 ――黙れ雨王ッ!! 貴様の声など聞きたくも無いッ!!
 無造作に振り抜かれた異形の右腕が周りを囲んでいたバンディッドを瞬間に薙ぎ倒す。
『なぜ貴様はアルカイストに手を貸す。そこまで堕ちたか霧王』
 ――黙れ、黙れ、黙れぇえッ!!!!
 右掌に収縮された魔力の塊が一瞬でバンディッドの半数を消滅させた。
 轟音がいつまでも消えない残響として耳に残り、地平線まで続く一閃の破壊の爪跡を追ってどこまでも流れていく。霧王は怒り狂う。殺しても殺しても這い出てくるバンディッドを出鱈目に薙ぎ倒し、固まった箇所には魔力の塊を激突させ、鷲掴んだバンディッドの胴を引き千切り握り潰し、死龍・雨王・イルヴァースの魔力をこの空間から消し去るかの如くに破壊の限りを尽くす。
 壮観、と表現するのが最も的確だ。克弥にはもはや四肢を動かすことはできなかった。ただ映画のように視界の中で繰り返される破壊は、本当に壮観だった。たったひとりで、何百体と生み出されているバンディッドを片っ端から消滅させていく。強い。強過ぎる。こんなものが自分の中には巣食っているのか。こんなものがこの世界には存在するのか。在り得る現象ではない、在り得る現象ではないのだがこれは現実だ。自分は今、霧王と共に敵を粉砕しているのだ。
 真上から一直線に迫る魔力があった。それを瞬間的に霧王は感知し、視線を上空に向けて吼え上げる。咆哮は魔力と混ざり合って突っ込んで来ていたワイバーンのバンディッドの翼を破壊し、羽根の捥がれた蛾のような体勢で落下して来るその横っ腹を一撃で木っ端微塵に砕き散る。骨が風化していく細かい破片が克弥に覆い被さって目を潰すのだが、それでも霧王は止まらない。
 壊しても壊してもまだ這い出てくるバンディッドを忌々しげに見つめ、振り回していた腕を荒野に突き刺す。そこに収縮されるは、それまでとは桁外れの魔力。放出された魔力に空間がぐにゃりと歪み、霧王の咆哮と共に地面が大きく揺れた。瞬間、柱のように噴射した魔力の塊が三百六十度すべてを一掃する。空まで突き抜けた魔力が雲を消し去り、世界の色彩を白と黒で染め上げた。
 霧王は一撃で、いつかのようにバンディッドを殲滅した。
 消えゆく色彩の中で、再び声が響く。
『貴様はまた、我に敵意を抱くのだな。――よかろう。受けて立ってやる』
 笑い声を残して溶け込んでいく同一の魔力の気配。
 いつまでも続く霧王の咆哮。それに比例して砕け散る荒野。真っ赤に染まった空。
 心が闇に侵食されていく。どこまでも続く深い深い絶望の闇に、飲み込まれていく。
 克弥の意識は、そこで途絶えた。

     ◎

 気づいたら、ここ数日ですっかり見慣れてしまった真っ白な天井をぼんやりと見上げていた。
 思考だけが答えを得ない自問自答をくるくると繰り返している。四肢はすでに克弥のものに戻っているのだが、心の奥底に確かな闇を感じる。これまでは霧王が巣食っていることに対して漠然とした感覚だけあったが、今は違う。確かに、霧王はここにいる。心をじくじくと侵食しているのだろう。やがて自分の心は、本当の闇に飲み込まれてしまうのだろう。自分は黒崎克弥であって、同時に霧王の生贄に過ぎないただの器。こうしてぼんやりと天井を見上げて初めて、己の無力さを完膚無きまでに思い知った。
 ここはどこであるのだろうか。異世界オリネムである。どうして自分はこんな所にいて、こんな状況に深く浸ってしまっているのだろう。ユフィが自分を呼んで、発生したイレギュラーに飲み込まれた。わかっている、ちゃんとわかっているのだ。だけど、幾ら理性が納得しようとも感情が反発する。恐い、と言ってしまえばそれまでだ。これまで感じていた恐れとは違う、核たる恐怖心。自分が自分でなくなってしまうことに対しての恐れ。
 自分は一体、これから何をしようとしているのだろう。
 自分は一体、これから何をしなければならないのだろう。
 自分は一体、これからどうなってしまうのだろう。
 ベットに横たわったまま、克弥は一時たりとも視線を天井から外さない。否、外せない。外してしまえば最後、なぜかもうここで何もかもが終わってしまうような気がした。杞憂、なのだと思う。自分が闇に飲み込まれるのはまだ三日後の話である。今すぐどうこうという話ではあるまい。しかし同じことである。三日などすぐに経ってしまうに決まっていた。そのとき、果たして自分は正気でいられるのだろうか。自分が自分でなくなってしまう恐れに対して、自分はそれを受け入れることができるのだろうか。ただ単純に、思考の中で浮かび上がる仮定話が――恐い。
 いつまで経っても、克弥は天井から視線を外せない。この真っ白い天井を見ていれば、少しでも長く自分が自分でいられるような気がした。だから、部屋のドアが開いてユフィが中に入って来ても、克弥はずっと天井を見つめ続けていた。部屋の中をユフィがゆっくりと歩いて来る。ベットの側に置いてあった椅子に腰掛ける音が聞こえる。
 ユフィの声、
「……克弥。目、覚めてたんだ」
 小さな声で返事を返し、一度だけ、克弥は目を閉じる。
 答えはそこにある。たったひとつの、確信。自分がこれから何をしなければならないのか、それに対する回答だ。
 目を開き、その弾みに口も一緒に開く。克弥は言う。
「死龍・雨王・イルヴァース。おれが霧王と戦わなくちゃならないのは、こいつなのか……?」
 ユフィが僅かに驚いたような顔をした後、少しだけ視線を落としながら、
「……前にも言ったように、『ヴァース』は『月』の意。そして、『イル』は『死』。月の化身、死龍・雨王・イルヴァースと同じくして月の化身、生龍・霧王・シルヴァースは似て非なる存在。生を裏返せば死になる。同様に死を裏返せば生になる。ふたつでひとつの存在、だからこそ決して交わることのない存在。月の化身の両翼は、必ず殺し合う定めにあるの」
 克弥の視界の隅で、ユフィが拳を握る。
「アルカイストは、唯一月の化身に対抗できる血筋。今はわたしと婆様だけがその末裔。でも、わたしと婆様だけじゃ絶対に月の化身を封印できない。だからわたしは、召喚術を使った。月の化身と渡り合えるだけの勢力を得るために、あの日のあの時、わたしは召喚の儀式で舞いを踊ったの」
 そうして、召喚されたのは皮肉にも月の化身の片翼を宿す器だったのだ。
 しかしそうなら、やることはひとつに絞られているのかもしれない。霧王が克弥を完全に支配するのは三日後である。恐らくは、雨王に対抗できるのは霧王しか存在しないはずである。あれだけの魔力を放つ者など、他には存在しないだろう。あと三日。自分ひとりでできることなど何ひとつとしてない。だけど今は、この中に霧王がいる。この世界のために克弥がここまでするほどの義理も理由もありはしないが、それでも。
 この世界に対してはなくても、ユフィに対してはそれだけの理由がある。
 右手の薬指にある指輪を思う。死ぬのは恐くて、霧王に支配されるのも恐い。だが何もしないで死ぬよりかは、何もしないで支配されるよりかは、行動に移した方がいいに決まっていた。この世界に生きる者がすべて死に絶えようがどうなろうが、レグルスの言い草同様に克弥にとっても実感が湧かないし大した悲しみも背負わないだろう。しかし、ユフィが死ぬことだけは絶対にあってはならないのだ。絆を作り、笑顔を向けてくれたユフィを、死なせてたまるか。
 やれることをやってみようと思う。克弥が克弥である、今の内にやれることを、やらねばならないのだ。
 天井を見上げたままで、克弥はつぶやく。
「――……死なせないから」
 自分を信用してくれたユフィを、絶対に。
「ユフィを、絶対に死なせはしない」
 できるかどうかじゃない。やらなければならないのだ。
 倒せるかどうかは二の次。動きを止めればいいだけの話。
「戦う。おれがおれでなくなるその前に、雨王と戦う。だから、」
 今一度封印するのはユフィの役目。自分は、ユフィが封印できるようにする。
 その後で霧王が、そして自分がどうなるのかは考えない。どうせ放って置いても三日後には消え去る己なのだ。だったら、ユフィのために動いてから消えよう。死にたくないという思いは今も変わらない。だけどその思いをユフィのために動く原動力としよう。ユフィのために死のう。そう考えた方が恐くない。それどころか逆に女の子のためにこの身を捧げるなどとは、実にカッコイイことではないか。開き直れ。いつものお気楽で馬鹿な自分に戻って、前だけを見据えて走れ。
 克弥は笑う、
「だから、ユフィ。――泣かないで」
 小さく泣きながら嗚咽を漏らすユフィが鳴き声でつぶやく。
「……ごめんなさいっ、わたしのせいで、克弥をこんな目に遭わせちゃって、本当に、ごめんなさい……っ」
 泣かなくていいのに。もういいから。君には笑っていてもらいたいから。
 自分はこの子のために死ぬのだ。そう思うと、それまで悩んでいた思考が嘘のように晴れ渡った。異世界に迷い込んだ主人公は可愛いヒロインと出会い、世界の滅亡へと立ち向かい、仲間を集わせてラスボスを倒す。少しだけ幻想物語とは変わってしまったが、これもまたひとつの幻想世界。異世界に迷い込んだ主人公は可愛いヒロインと出会い、世界の滅亡へと立ち向かい、そしてヒロインのために死ぬ。英雄になれなかった。可愛い彼女もゲットできなかった。けど、それでもいいと克弥は思う。この異世界で現実味を帯びたすべてのことに対して、どこか悲しくてどこか寂しくて、同時にすごく嬉しかった。
 自分はこの子のために死ぬのだ。そう、自分はこの子のために死ねるのだ。男の死にザマ堂々の第一位に君臨する死にザマである。もはや恐いものなど、何ひとつとしてありはしない。おれはこの子のために死ぬのだと、世界中に向って知らしめてやりたかった。やりたいことはまだまだある。しかしもういいのだ。この幻想世界の中で自分自身に幕を引こう。ユフィール・アルカイストという少女と絆で結ばれていることを誇り、
 ――死龍・雨王・イルヴァースと戦おう。
 いつまでも泣き続けるユフィの髪をそっと撫で、克弥は小さく微笑む。
 恐らくは、それまでの会話をドアの外でレグルス・アークトゥルスは聞いていたはずである。ドアノブが独りでに回り、ゆっくりと開くドアの向こうから赤髪の巨漢が姿を現す。朝に殺し合いをしていた相手なのにも関わらず、克弥は真っ直ぐにレグルスを見据えることができた。殺し合う理由など、今はひとつもありはしない。ユフィが罵倒される必要ももう、費えたのだ。
 レグルスもまた、それを理解していたのかもしれない。
「……おれは、貴公を殺すという意志を捨ててはいない。だが、」
 やはりレグルスは表情を変えない。
「貴公には借りがある。礼を言うつもりなど微塵も無いが、代わりにユフィの言う通り、七夜になるまで待ってやる。しかしそのとき、貴公が生龍に支配されるのであればおれは容赦なく貴公を殺す。死にたくなければ打ち勝て。生き残りたければ打破しろ。貴公の肩にユフィの責任も纏わりついていることを忘れるな。貴公が生龍に支配されるのであれば、ユフィもまた遠からずして同じ道を辿る。それが、生龍を召喚したユフィの責任だ」
 わかっている、と克弥は思う。
 どの道、責任云々の前にもし克弥が何もできずに本当に生龍に飲み込まれるのであれば、ユフィは自ら同じ道を辿るであろう。この四日間でよくわかった。どうしてユフィが克弥のことで涙を流してくれるのか。召喚した者と召喚された者、という関係も少なからずあるのだろうが、それよりもっと深い所で『友達』という関係で繋がっている。この指輪が証だ。口には出さなかったがもう理解している。この絆は、一心同体を意味しているのだろう。片方が死ねば両方とも死ぬ。そういう意思表示なのだ。受け入れよう。その絆をこの手に抱き、最後の最後まで抗い戦い続けてやろう。
 確かな色が宿る克弥の瞳を見据えていたレグルスは唐突に踵を返し、
「おれが言いたいことはそれだけだ」
 そんな捨て台詞を吐いて、ドアを出て行く瞬間に拳を突き出して開けた。
 その意味がわからずにぼんやりしていると、ようやく泣き止んだユフィが目を指で少しだけ拭いながらくすりと笑った。
「……素直に言えばいいのに」
 意味を掴み兼ねて、
「? 何が?」
 ユフィは言った。
「拳を相手に向けて開くってことは、相手を認めることを意味してるんだよ」

 太陽が沈み、窓の外に夜が訪れる。
 星の輝く夜空には、当たり前のようにふたつの満月がある。
 月の化身を生み出した、皆が忌み嫌う恐れの象徴。
 しかし今日だけは、それがなぜか少しだけ美しく見えた。





     「七色の中にある闇」



 どれだけ考えても結局の話、やることがただのひとつも思いつかなくて、暇で暇で仕方がなく王宮の中をクラゲのように漂っていたら、昨日訪れたコロシアムに辿り着いた。
 この世界に来て初めて、ゆっくりとした時間を過ごしたような気がする。この世界に召喚された初日にはいきなりバンディッドの群れを殲滅したし、二日目には頭がイカれてほとんど記憶がないし、三日目に至ってはユフィと王宮から逃げ出したし、四日目はレグルスとの決闘の果てにまたしてもバンディッドと戦った。振り返ってみればとんでもなくいろいろなことがあったくせに、どうもそれを上手く実感できない。まるで夢を見ているかの如く、ふらふらと記憶は巡っていく。
 それでも身の周りで克弥の意志に関係なく動いていく物事に合わせていれば、自然と一日一日が過ぎ去っていった。しかしいざこうして自分の自由な時間を手に入れてみると、やらねばならないことが何ひとつとして見つからない。仕事に没頭し過ぎたサラリーマンみたいだ、と克弥は思う。もしこれが家ならばリビングのソファに寝転がってテレビ点けてコーラ片手にポテトチップスでもぼりぼりと貪るところなのだが、生憎としてこの世界にはテレビもコーラもポテトチップスもない。
 最初は何もせずにぼーっと部屋の窓から外の景色を眺めていたが五分で飽きた。やることが尽き果てた克弥は、とりあえずこの王宮内部でも探検してみようと思ったのだ。本当はユフィの所にでも行って暇を潰してもらおうかと考えたのだが、そもそも自分が未だにユフィの部屋の位置を知らないことに気づいて断念され、しかしそれでも諦めがつかなくてぼんやりとユフィの部屋を捜索していたら、どこで何を間違ったのかいつの間にか王宮を出てコロシアムに辿り着いていたのだった。
 コロシアムを覆う壁の向こうから何やら騒々しい音が聞こえたので、暇潰しも兼ねて克弥は足を向けることにする。昨日レグルスに引き摺られるように歩いた狭い通路を抜け、観客席の中心部に当たる場所へと歩み出した直後、空から射し込む明かりに目を射抜かれ、僅かに顔を顰めた瞬間、体にものすごい衝撃が来た。
 ひとたまりもなかった。
 一発で天地が逆転して背後の壁に激突し、後頭部をぶつけて景気のいい音が響き渡る。しばらくはその痛みに悶絶し、ようやく治まった頃を見計らい、克弥は涙で滲む視界を開けた。同時に、実に情けない声を上げた。まったく見ず知らずの男が、なぜか克弥の股間に顔を預ける形で覆い被さっていた。冗談ではなかった、そんな趣味など克弥には少しもありはしない、必死になって逃げ惑おうとするのだが鎧を全身に纏った男の体は巨大な石のように重く、克弥の力では数センチしか移動させることができなかった。
 この男をどうにかできないものかと試行錯誤を繰り返し内に、克弥は唐突に気づいた。
 股間に顔を預けてピクリとも動かないこの男は、どうやら気を失っているらしかった。
 何がどうなっているのかはわからなかったが、もしかして何かとんでもない事態になっているのではないかと思い至り、どうにかしてこの男を正気に戻さなければ、と微妙に混乱した脳みそが決断する。しかし混乱している脳みそがまともな手段などそう簡単に出してくれるはずもなく、克弥は兜に守られた男の頭をガンガンと殴りながら意味不明な言葉を紡ぐ。自分でも何を言っているかわからなかったが、テレビなので表現されるのなら恐らく、○×△%とかそういう類の、
「――何をやっている」
 その声で、男より先に克弥が正気に戻った。
 克弥に覆い被さっている男を片手で持ち上げ、レグルス・アークトゥルスは怪訝そうな顔でこちらを見つめている。おまけに、正気の戻った脳みそがようやっとすべての情報を運んで来てくれた。レグルスの背後には何十人もの兵士がいて、それぞれが武器を手に二人一組で稽古でもつけていたのだろうが、それらが全員手を止めて克弥を凝視し、呆気に取られた顔をしている。
 無性に恥ずかしかった。慌てて笑顔を取り繕う、
「あ、いや。なんでもない、稽古かレグルスっ?」
 しかしレグルスは何も応えずにため息だけ吐き出して男を引き摺りながら遠ざかって行き、兵士たちは兵士たちで触らぬ神に何とやら状態でそれぞれの稽古を再開する。
 完全に置いてけぼりを食らった。取り繕った笑顔が行き場を失くしている。いつまで経っても引っ込みのつかなくなった笑顔を浮かべたまま、克弥はどうすることもできずに座り込み続ける。やがてそれを見兼ねたレグルスが男を日陰に放り出してから戻って来る。克弥に前に立って少しだけイラついた口調で、
「何の用だ」
 縋るようにつぶやく。
「用はないけど、暇で……」
 レグルスはもう一度だけため息を吐き出し、背後を振り返って何人かの兵士を見渡した後、「アスカ!」と叫ぶ。それが名前であることはすぐにわかったが、果たして誰の名なのか。アスカと呼ばれた一人の兵士が稽古をやめてレグルスに近づいてい来る。紅い甲冑に守られた身体と紅い兜に隠された顔。まさかそれが女性であるとは思ってもみなかった。兜を取るとそこから現れたのは二十歳前半と思わしきハリウッド女優みたいな綺麗な人で、不思議そうにレグルスを見上げて、
「なんですか、隊長」
 レグルスは克弥を指差して言う。
「この者の相手をしてやれ」
「「……はい?」」
 克弥とアスカの声が重なり、克弥とアスカは同時に互いを見つめてからぎこちなく笑い、またしても同時にレグルスを見つめ、
「ちょっと待てレグルス」
「ちょっと待ってくださいよ隊長」
 しかしすでにレグルスは歩き出しており、
「貴公はアスカを殺すつもりで勝負しろ。そうじゃないと骨のひとつやふたつでは済まない可能性がある。アスカ、命一杯手加減してやれ。その者には武術の心得は無い。本気でやったら恐らく死ぬぞ」
「え、あの隊長っ! だってこの子あれなんでしょ!? ユフィール王妃が召喚したっていう――」
「心配無用だ」
「そんなぁ、隊長! 隊長ってばーっ!」
 レグルスはもはや振り返らない。コロシアムの通路に逃げ込むように姿を消して、それっきり戻って来なかった。
 やがてアスカは諦めたかのように大きく肩を落とし、「馬鹿隊長!! 馬鹿レグルス!!」と絶叫しながらブロンドの髪を無造作に掻き回して克弥を見やる。
「君、名前は克弥でいいんだっけ?」
 状況に追いつけていない、
「え、あ、は、はい……あの、」
「よし、それじゃ早速始めよう。素手でいいわね、防具が欲しかったら貸してあげるけど」
「い、いえ必要ない、ですけど、えっと、」
「質問には答える気はありませんから注意してね」
 にっこりと笑ったアスカの表情の下に隠された気配に気圧され、克弥は押し黙る。
 背中を向けて歩き出したアスカの後を追い、克弥はレグルスと戦ったときのようにコロシアムの中央に位置した。それまで稽古をしていた兵士がその手を止め、向かい合って佇む克弥とアスカを野次馬根性丸出しにして統率された動きで円状に取り囲み、実に楽しそうに野次を飛ばす。アスカー、手加減してやれよー。よお兄ちゃん、少しはキアイ入れてけよー。野次を飛ばしていた中の一人が突然に賭博を開き始め、本日の昼飯を懸けて張る。人気はやはりアスカがぶっちぎりだが、大穴狙い一発逆転を夢見て克弥に賭ける兵士も数人だけいた。
 そして克弥はやはり、この状況になってもまだ何も理解できていなかった。四方八方から迫る野次に翻弄され、しかしその中から確かな情報を得る。つまりは、自分はこれからアスカと稽古をする、とかそういうことなのだろうか。昨日のような殺し合いでもなければ刃物もない、ただの練習試合なのだろうか。だけどどうして自分がそんなことをやろうしているのか。もしかしてレグルスに対して暇などと言ってしまったせいなのか。それはそれで自業自得かもしれないが、なぜこの兵士たちは皆、実に楽しそうにそれを見物しているのだろう。自分が霧王の器である存在だということを知らぬわけではあるまい。恐れを抱きは、しないのだろうか。
 アスカが身に纏っていた防具を外した。準備運動のように腕をくるくると回し、やがて小さな深呼吸と共に克弥を見据える。
「先に相手の身体の急所に攻撃を加えた方が勝ち。でも君は武術の心得がないんだっけ。それならあたしの身体に拳を入れたら勝ち。それでいい?」
 何となく肯いてみる。
 始めようか、とつぶやくアスカの眼光は一瞬で研ぎ澄まされた。レグルスの威圧感には及ばないものの、それでも女性にしては驚くような気配があった。しかしそれも当たり前なのかもしれない。アスカは普通の女性ではないのだろう。王都クラネットの部隊に所属する、一兵士である。女性とは言え、克弥に比べれば強さを含めたすべてが上であるはずに決まっていた。
 真剣に構えを取るアスカを見据え返し、克弥は腹を括る。
 成り行き上でこうなってしまったが、折角の機会なのだ、付き合ってもらおう。殺し合いでもなければ刃物もない、ただの練習である。ボクシングでいうところのスパーリングだ。相手が強いとはいえ女性である。上手く行けば一発や二発入れれるかもしれない。幸いにしてなぜか今日は霧王が沈黙を押し通しているし、暇を持て余していたこの時間を存分に楽しもうではないか。
 四方八方から響き渡る野次をその身に受け、克弥は拳を握る。下半身にぎゅっと力を込めた刹那、アスカの体がふわりと揺れた。レグルスのように地面を破壊する荒々しさはなく、まるで風の如くに地面を駆け抜ける。体重を感じさせない加速だった。視界の中を一直線に迫ってくるアスカをはっきりと捉え、握られた拳をぎりぎりまで引き寄せ、そして反撃を、
 甘かった。見えるのと避けるのでは、天と地ほども違った。
 身体を突き上げるかのような衝撃の後、克弥の意識は一発で途絶えた。

     ◎

 何がどうなったのかわからなかったが、気づいたら漆黒の闇の中にいた。
 何も見えない、誠の漆黒の中に浮いている。暗すぎて自らの手や足さえも肉眼では捉えられず、足が地面を正確に捉えていないせいでふよふよと空間を漂っているような気がする。ここはどこなのだろうか、と考えた瞬間に、そうか夢を見ているのだ、と思った。地面を加速したアスカの姿が視界にはっきりと焼きついている。つまりだ、自分はアスカにぶん殴られて実に情けなくただの一発で天に昇天したのだろう。自分は弱いと思っていたがここまで弱いとは我がことながら無性に悲しい。
 体はいつまで経ってもふよふよと漂い続けている。
 唐突に、いつか体験した光景が脳裏にフラッシュバックした。
 あれは確かそうだ、学校の屋上からオリネムへ召喚される間に訪れた漆黒の世界。生龍・霧王・シルヴァースの器となったあの場所は、今現在克弥が漂っているこの場所と似ているような気がする。共通点は漆黒というもの以外なにも存在しなかったが、それでもどこか受ける感じが似ているのだ。すべてが始まったあの瞬間、自分は確かにここにいたのだと思う。夢の中でない。果たしてここはどこなのだろう。
 ぼんやりと視線を巡らせてようやく、克弥は漆黒の中でゆっくりと集まり始めた紅い粒子に気づいた。それは克弥の目の前に収縮され、徐々に徐々に、ある形を形成し始める。最初はぼやけた形で何を造り出しているのかはわからなかったが、ある一定を超えた際に理解した。紅い粒子が形成しているそれは、人型の何かである。紅く発光する人型のそれは一分近くかけて確かな形を生み出し、臨界点を突破した際に弾けた。
 真紅の鱗を魚のように携え、手足の五本の指には鷹のような鋭い漆黒の爪を持ち、全身を覆い尽くすほどの巨大な翼を生やし、剥き出しにされた牙を見せ、獣の眼光を宿らせる異形の姿。雰囲気自体はワイバーンであるコロコロに似ていると思う。ワイバーンを人型に変貌させたら恐らくは、目の前に佇むこの異形な姿に限り無く近づくはずである。人型の龍神。この四日間、僅かな時間だが見てきた手足。人々が忌み嫌う恐れの対象である、絶望を運ぶ使者。
 月の化身の片翼、生龍・霧王・シルヴァース。
 まず最初に、どうして、と思った。どうして霧王が目の前に佇んでいるのか。霧王は自分の身体の奥底に巣食っているのではなかったのか。霧王が再び君臨するのは今日を含めた三日後ではなかったか。それなのにどうして霧王は今、ここにいるのだろう。ぼんやりとした思考がおかしな所で繋がり合い、それに比例して漠然とした理解が脳内に降って湧いた。ここは、霧王の世界なのだ。地球ともオリネムとも違う、異次元の世界。それがこの漆黒なのだ。
 霧王は言った。
『……貴様は、アルカイストの末裔のために死ぬのだと、言ったな?』
 昨日のことを言っているのだということはすぐにわかった。
「……ああ」
『それを、我が許すと思っているのではあるまい』
「関係ない。お前が言ったことだ。七夜になる内はまだ、この身体はおれのものなんだろ。とやかく言われる筋合いはないね。それに七夜になったらこの身体をお前にくれてやるんだ、一回二回はお前の力を貸してもらう。それこそ嫌だとは言わせない。おれは、ユフィのために戦って死ぬ方がいいんだ」
 口を裂き、実に愉快そうに霧王は笑う。
『愚かなる器だ。己が命を他人のために捨てるのは、偽善以外の何ものでもありはしない』
「うるせえよ。お前に食われて死ぬよりかはマシだって言ってるんだ」
『本気で、言っているのか』
「当たり前だ」
『……我は、決して許しはせぬ』
 瞬間、霧王の背中で折り畳まれていた翼が左右に大きく開いた。
 刹那、そこから圧倒的な魔力が放出し、漆黒の空間を飲み込むかのように食らい尽くす。それは、今まで克弥が肌で感じてきた霧王の魔力とは、桁違いの代物だった。草木があれば一瞬で枯らしてしまうような、地面があれば根こそぎ木っ端微塵に破壊してしまうような、この世界に存在するすべてのものを殲滅するかのような、まさしく絶望と呼ぶに相応しい魔力の波動。まるで皮膚を鋭利な刃物で切り刻まれているような気がする。禍々しい魔力の流れが克弥にゆっくりと纏わりついていく。
 霧王が空間を揺るがす咆哮を上げた。瞬間的に耳を閉じたが、霧王の咆哮はそれを容易くぶち抜いて鼓膜を貫通する。耳鳴りのようなかん高い音が脳内を出鱈目に反響し、頭痛が克弥の視界を狭める。鼓膜が麻痺しているせいで上手く音を認識できないのにも関わらず、なぜか霧王の声だけは正確に聞き取れていた。
 霧王は怒号を上げる。
『貴様にこの闇が見えるか! 世界より隔離されたこの異次元が貴様に見えるか! 幾千もの歳月をここで過ごさなければならなかった我が苦しみが貴様にわかるか! 憎めば憎むほど術式は効力を増し、我が身体を拘束するこの怒りが貴様にわかるか! アルカイストの血筋に憎悪を抱く我が何を思いここで過ごして来たか、貴様に想像がつくか!? 我は決して許しはせぬッ!! アルカイストの末裔はすべて皆殺しにしてやるッ!!』
 自嘲染みた笑が漆黒に溶け込む、
『我が魔力をアルカイストの末裔のために使う、だと? 反吐が出る。憎悪を抱く相手に対しなぜ我が力を貸さねばならぬ? 我が力は我のものだ。アルカイストと雨王を殺すためだけの、我が力なのだっ! 我は許しはせぬ!! アルカイストの末裔を、そしてそのために魔力を使おうとする貴様をッ!! 七夜を過ぎたら我が魔力は完全に取り戻せるッ!! ならば皆殺しだッ!! アルカイストも雨王も、すべて我が殺し尽くしてやるッ!!』
 霧王がひと言ひと言を怒鳴る度に、噴き出す魔力に脳みそが信じられないほど揺さ振られる。
 視界が定まらない、言葉の半分しか頭の中に入ってこない、とんでもない吐気がする。自分が立っていることが不思議で不思議で仕方がない。しかし倒れるわでにはいかない。ここで霧王に言い負かされてはならない。ユフィのために死ぬのだと決めた。まだ三日も残っている。こんなところで諦めてたまるか。まだ何もしていないのだ、ユフィのためにまだ何もしてやれていないのだ。
 友達だと言ってくれた。薬指には今もまだ指輪が輝いている。
 克弥は絶叫する、
「知ったことじゃないっ!! お前の苦しみなんて知らないし知ろうとも思わねえよっ! お前と分かり合おうなんて思っちゃいない、ただお前の力を使わせてもらうだけだ!! このおれが、ユフィのために雨王と戦う!!」
『笑わせるな人間風情がッ!! 貴様ら人間がどれだけ足掻こうがその手は決して月には届きはせぬのだッ!! 雨王は我の敵だ!! アルカイストは我の獲物だ!! 邪魔をするなら今この場で、貴様を殺すッ!!』
 虚空へ向い、霧王が再度咆哮を上げた。
 漆黒の空間を震わせ揺るがす霧王の眼光が克弥を真っ向から貫き、翼が羽ばたいた一瞬で真紅の異形はその場から消えた。消えたのだと思うくらいに早い神速の飛翔だ。真っ向から突っ込んで来た霧王の体が克弥の胸元に突き刺さり、水面に落とした石の如く波紋を広げながら体内に潜り込む。異物が体内を練り回り、血管を通して隅々まで食い荒らし、神経を無理矢理結合させて同調という名の侵食を執行する。
 両手両足が引き千切られるような激痛が吹き荒れた。霧王の魔力が高熱を及ぼして血液が沸騰する。スチームのように毛穴から噴射する蒸気が漆黒の空間を漂い、やがてそれは真紅の色彩を示す。それは今までの侵食とも、身を任せた際に襲う侵食とも、まったく違った。一度味わった激痛をもう一度、その倍以上の激痛を持って体験しているようなものだ。脳内が悲鳴を上げて思考回路が焼き切れる。口から人間のものとは思えないほどの絶叫が弾き出される。
 視界が真っ赤に染まる。血の赤よりももっと綺麗でもっと透き通った、真紅の世界。眼孔に鋭い注射針でも突き刺されたかのような一点の痛みが走って足の先まで辿り着く。克弥が弾く絶叫に霧王の咆哮が混ざり合ってまるで怨霊の叫びのような歪なものに変化する。体が二度三度、電気ショックでも与えられたかのように痙攣する。
 辺りを漂っていた蒸気が克弥の手足に纏わりつき、先ほどまで見ていた異形の姿がそこで再構築され始める。右手、左手、そして右足、左足。胴体に似つかわしくない長い四肢で漆黒に這い蹲り、克弥と霧王が本格的に統一されていく。胸の奥底からそれまでとは比べ物にならない魔力が流れ出している。内臓がすべて溶かされてしまったのではないかと本気で思う。絶叫はいつまでも続く。背中の下、尻の少し上辺りから巨大な尻尾が這い出し、漆黒の中で暴れ回る。
 放出される魔力が大気を焼き、空間を真紅の光で照らし出す。
 背中に激痛、骨を砕き変形させ、皮膚を突き破り蒸気と共に巨大な翼が尻尾と同様に生え出した。左右に広げられた翼は一度だけ羽ばたき、辺りの蒸気を吹き払う。そしてその翼が身体を包み込むように折り畳まれたとき、溶け出した内臓が今度は弾け飛んだかのような死に値する悪夢が訪れた。克弥の体が支配され、四肢に引き続き胴体までもが霧王に侵食されていく。
 魔力が白い煙となって克弥の口から吐き出され、もはや何がどうなっているのかまるでわからない脳みそで今一度咆哮を上げた。その咆哮は果たして克弥のものであったのか霧王のものであったのかは、もうすでに判別はつかない。真紅に染まった眼球で漆黒の闇を捉え続け、克弥は咆哮を上げ続ける。胴体を蝕んでいた激痛が、今度は首を伝い上へと這い上がる。首を通り更なる高みへと侵食しようとした刹那、
 何が引き金になったのか、突如としてすべてが弾け飛んだ。漆黒の闇が消え、霧王の気配が一挙に霧散する。
 霧王の消える一瞬、憎悪の声が響いた。
『まだ魔力は戻らぬのか……ッ! まだ制限を越えられぬのか……ッ! ――憶えておけ生贄ッ!! 次は必ず、貴様を、殺すッ!!』
 そして克弥の意識はいつしか、光を求めて浮上していた。

     ◎

 目が覚めてまず、そこにあるものが何であるのかをすぐには理解できなかった。
 吸い込まれてしまいそうな黒く大きな瞳、綺麗に筋の通った鼻、小さな潤いを持つ唇、整った線を緩やかに描く頬、克弥の顔を少しだけくすぐる長い髪。女の子だ、とは思ったのだが、どうしてもその事実に対して現実味を帯びさすことができなかった。どこか見覚えのある可愛い女の子が、煙草一本分もない距離から自分の顔を見下ろしている。思考はすでに薄皮一枚で繋がっている状態だ。引き千切れるのも時間の問題である。それでも克弥は随分と長い間、そうしていたように思う。
 それはいつまで経ってもこの子の顔を見ていたいと考えていたからなのかもしれないし、もっと別の理由だったのかもしれない。
 だけど繋ぎ止めていたものは、突然に崩壊した。
 世にも情けない悲鳴を上げた。
「ゆ――、ユフィっ!? なああ、なにやってんだお前っ!?」
 慌てて起き上がったせいで、すぐそこにあったユフィのおでこと克弥のおでこがかなりの勢いでぶつか合ってガツンという音を発する。その痛みは今日に痛めた後頭部と見事なコンビネーションを発揮し、しばらくは前後から頭の中を駆け回る痛みに身動きひとつできなかった。ようやく痛みが落ち着き、呂律が上手く回ることを微かに確認してから克弥はユフィを振り返って叫ぼうとした。
 それを先回りして、ユフィが克弥の額を軽くグーで殴る。コツ、と小さな音だったが克弥に及ぼす威力の程は抜群で、再び前後のコンビネーションが炸裂して背後に仰け反る。倒れ込みそうになる体勢を何とか押し留め、今度こそユフィに叫ぼうとしたのだが、今度はユフィの瞳に涙が浮かんでいたことに気づいてそれも止まってしまった。
 自分が何かしてしまったのだろうか――、そんな克弥の心配を吹き飛ばし、ユフィは珍しく怒った口調で、
「バカ! 人がせっかく心配してあげてたのに酷いよ!」
 おでこを摩りながらぷりぷりと怒り続けるユフィを見つめていた克弥の思考に、ひとつの理解が湧いた。
 ああおでこをぶつけてしまったことに対して泣いて怒っていたのか、と克弥は思う。そしてそんなことで怒っているユフィに対して自分でも意識していない内に口元がだらしなく歪んでしまい、それを悟ったユフィにまた殴られてのた打ち回る。痛みに負けないように奇声を上げながら地面を克弥が転がっていたのは恐らく五秒くらいの出来事で、視界の中に入ったやけに青い空にふと気を取られて停止した。どこまでも続くような快晴の空に、小さな雲がひとつだけ漂っていた。何となく漠然と、雲になりたいと克弥は思う。
 おっさん臭い掛け声と共に身を起こし、そのときになってようやく、自分がコロシアムの観客席で寝転がっていたことに気づいた。コロシアムの中心部ではまだ他の兵士が稽古をつけていて、その中にはレグルスの姿も紅い甲冑を身に纏うアスカの姿もあった。アスカは自らの稽古が一段落ついたのか、兜を脱いで首を左右に振ってブロンドの髪を舞わせる。そして不意に観客席から見つめていた克弥の視線に気づき、申し訳なさ半分面白さ半分のおどけた感じで小さく舌を出して「ごめん」の合図を出した。
「アスカと稽古なんて無茶なんだよ克弥」
 ユフィの声に振り返る。ユフィもまた、アスカを見つめていた。
「アスカは迎撃部隊第三班の班長なの。普通の人じゃまず班長には勝てないと思うし、克弥が相手ならなおさら。骨とかに異常はないみたいだけど、アスカが手加減してなかったら今頃克弥、絶対に死んじゃってるよ。わたしの部屋に『克弥危篤直参れ』って報告が入ったとき、本当に心配したんだから。けど、もう大丈夫みたいだね。安心した」
 青空に浮かぶ雲のように穏やかな笑顔をユフィはした。
 それに対して、克弥はぼやけた笑顔を浮かべる。
「……勝てると思ったのになぁ」
 ユフィは呆れ顔で、
「無理だってば。アスカは一通りの魔術も使えるし、絶対に勝てないよ」
 それを聞いた際に、ああそうだ、と克弥は思った。
 ユフィに向き直り、克弥は言う。
「そういえば、おれってまだ魔術をはっきりとこの目で見てないんだよ。よかったら一回だけ見せてくれない?」
「あれ? 克弥って魔術見たことなかったの?」
「おう」
 そこでユフィは僅かに考えた後、すべてが繋がったかのように小さく肯く。
「……そっか。克弥の世界には魔術がなかったんだっけ。――わかった、いいよ」
 ふわりと笑ったユフィはその場に立ち上がり、左右に手を広げた。
 小さな深呼吸をした後に、視線を克弥へ向ける。
「大きな魔術じゃなくて小さな魔術ね。なんていうのかな、あんまり使う機会がないけど、でも綺麗な魔術」
 肯く克弥を満足気に見つめ、ユフィは目を閉じた。
 一陣の風がゆっくりとコロシアムの客席を吹き抜けていく中で、ユフィが己の中にある魔力を開放する。風に紛れて辺りを覆う魔力が長い髪を舞わせ、透き通った力の鼓動が起こった。克弥は目前で着実に進められていく光景に、素直に見惚れていた。魔力を帯びて淡い光に包まれるユフィは本当に綺麗で、風に反して舞う髪は純粋に美しかった。稽古をしていた兵士が魔力の流れに気づいて一人、また一人と手を止めてユフィを見上げる。
 風が止んだ一瞬を見計らっていたかのように、ユフィは詠唱する。
「光は我の腕に集い、灯りは我の手に集う、世界を照らし輝け――ステイト」
 ユフィの身体から放たれていた魔力が差し出された手先に収縮され、詠唱に作用された魔術が発動する。
 ぎゅっと魔力の鼓動がユフィの掌に集まったとき、それは唐突に弾けた。まるで小さな雪が舞い降りるかのように、魔力は光となり空間を舞い降りる。青空から降り注ぐ、光の雪。太陽の光に負けないくらいに明るくて、雲に負けないくらいに自由気ままで、実に美しく七色に光り輝く魔力の光。それは幻想魔術のひとつ、ステイトと呼ばれるものだ。幻想を求め、ユフィがよく使う魔術である。
 その光景を見ていた兵士が控え目な歓声を送り、目を開けたユフィが少しだけ照れた感じに手を振って応える。
 そして克弥はひとり、いつまでも消えない魔力の光を見据え続けている。ふわふわと漂うそれからどうしても目が離せなかった。綺麗だから、という理由もある。あるのだが、もっと別次元の理由で目が離せない。七色に光り輝く魔力の光。その七色へと変化していく一瞬の間に、確かな闇を見ているような気がする。普通に見ていれば気づかないような、凝視して凝視してようやく気づくような、微かな闇。だけど今は、克弥はそれに釘付けになっていた。
 胸の奥底で嫌なものが蠢き始める。霧王の世界で味わったはずの激痛の名残がどこからともなく湧き上がってくる。夢の中だとなぜか思っていた。霧王と話したあの光景は夢であったのだと、なぜか思っていた。しかしこの闇を見据え、克弥は完膚無きまでに思い知る。あれは間違いなく現実の光景であり、自分は四肢を過ぎ去り胴体まで侵食されてしまっている。そして、それに伴う心を食らう闇の存在。
 どくん、と心臓が大きく鼓動を打ち、それはたちまちの内に速さを増し、凝視する七色の光がついに完全な闇に変わった。思考が暴走を開始して歯止めが利かなくなった。瞬間的にそこから突き出した霧王の真紅の腕は避ける暇もなく克弥の心臓を貫いた。胸を突き破られる音、心臓が握り潰される感覚、流れ落ちる血の感触。それらすべてが、実にリアルに感じられた。霧王の腕が幻影だと脳みそが理解しても、すぐには納得できなかった。無意識の内に胸を押さえ、そこに穴が開いてないかどうか必死にまさぐる。
 吐気がする。血の気が失せていくのがはっきりとわかる。
 生龍・霧王・シルヴァースはもう、そこにいる。
 憎しみと怨みを携えた絶望の片翼が、鼓動を吹き返そうとしている。
「……克弥?」
 不思議そうに見つめてくるユフィの声に、現実へ引っ張り戻された。
「――え、」
「え、じゃなくて。だいじょうぶ? 少し顔色が悪いよ。まだどこか痛む?」
 克弥の前に膝をついて心配顔を浮かべるユフィを見つめ、克弥は笑顔を取り繕う。
「――なんでもない。だいじょうぶ」
「本当に?」
「もちろん」
 まだ納得しようとしないユフィにもう一度笑いかけ、克弥は言う。
「ごめんさっきの魔術見損ねた。もう一回やって?」
 膨れっ面になったらユフィから拳をもらった。
 再び襲う見事なまでのコンビネーションに克弥は一発でダウンした。
 上空に広がる青空を死人のような体勢で見上げながら、克弥は目を閉じる。
 
 瞼の裏に焼きついた霧王の姿が、いつまで経っても離れてくれなかった。



     ◎



 漆黒の闇の中で、二つの満月が輝いている。
 しかしそれは夜空に浮かぶ本物の満月ではなく、魔術で造り出された偽りの小さな満月である。そこへ伸ばされるのは、漆黒の中にあってもなお薄く輝く蒼い異形の腕。その腕の肘から上は闇に包まれて捉えることはできないが、それでも闇に浮かぶ二つの眼光だけははっきりと確認できる。憎悪を糧に煮え滾る殺意の光を宿らせて輝くその眼光は、大凡人間のものでは到底考えられない。こんな眼光を、人間ができるはずはないのである。幾千年もの憎悪が積み重なった、故に最も深い殺意の光はまさに、異形の者が奏でる死の旋律。
 満月へと伸ばされた手が片方を鷲掴み、力が込められた瞬間に一挙に炸裂する。闇に漂うのは一つの満月だけとなった。それが果たして何を意味するのか。決まっている。それは、月はこの世界に一つだけ存在すればいいという意思表示。同時に月の化身は片翼だけ存在すればいいということだ。反転させれば同一のものになるが故に決して判り合えず、殺し合う定めにある月の化身。この永きに渡る戦いに、幕を引くのだ。
 これを逃せば次の機会はいつになるかわからない。ここで見逃せばこれまでと同じことの繰り返しになる。霧王がまだ力を取り戻していないこの瞬間こそが好機なのだ。月の化身は片翼だけで十分、もう片翼はこの世界から消え去るべきなのである。その引導を渡すのは他の誰でも何でもない、この腕だ。跡形も無く殲滅してくれよう。そしてこの世界に君臨するのは、己なのだ。
 闇の中で牙を剥き出しにした口が裂かれる。
『霧王が魔力を取り戻すまでにあと二日。――時は満ちた。世界を見下ろすは、我が月だ』
 そう言って、死龍・雨王・イルヴァースは笑う。












2005/06/16(Thu)22:14:10 公開 / 神夜
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■作者からのメッセージ
……はい皆さんこんばんわ。学校の遠足で行った万博、そのバスの中にMDウォークマンを置き忘れていたことに二日経ってようやく気づき、担任経由で連絡してみるものの、「そのような落し物は見つかっていません。かわりに髭剃りなら……」――バカか、って話ですわ。MDウォークマンをどう考えれば髭剃りになんだよ。確かに神夜は髭伸ばしてますよ、ていうかなんだ、髭剃れって意味かコラ。しかしホントに自分のウォークマンどこ行ったのかな……。SONYの青いMDウォークマン、MDは茶色でコブクロの「ここにしか咲かない花」が入っているヤツをどこかで見つけたら是非連絡を。皆様のご協力を心よりお願い申し上げます。
さて、それでは今回はこれにて――待て。……そんなわけで【幻想クロニクル】『その五』なのですが、最近あれですわ、この物語を書けなくなってきた……やっぱりファンタジーは神夜には不可能な分野だ、とぶるぶると震えながら、フードファイトのショートに手を出して現実逃避する大馬鹿者。本当にこの物語、ちゃんと終わるんだろうな……?(オイ)
読んでくれたゅぇさん、羽堕さん、ペプシ飲み屋さん、京雅さん、影舞踊さん、バニラダヌキさん、甘木さん、夜行地球さん、誠にありがとうございましたっ!!必死こいて完結迎えさせますんで、どうか今しばらくお付き合いのほどをお願い申し上げますッ!!(マテコラ)
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