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『ワンダー 8』 作者:ベル / 未分類
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 投げ捨てられたランタンが砕け散り、オイルとともに広がった炎が暗闇を侵食している。照らし出された洞窟の岩肌を滑るように、血と肉のにおい、そして荒い息遣いが流れてくる。
 湖のような血だまりの中に、頭から両断された一匹の妖魔が倒れている。頭をつぶされてから両断されたのか、首につながっている頭はすでに原形をとどめていない。
 その向こうにも、四肢を切断された妖魔が一匹。向こうに、まだ向こうに一匹。洞窟の奥に向かって、肉の塊は累々と続いていた。息遣いと妖魔の残骸をたどっていくと、ひときわ大きなホールと化した空間へといたる。そこには、小川のような鱗の塊が倒れ付していた。鱗の主は、『氷燕の堕諦』の異名を持つ、魔竜と呼ばれる忌まわしき大蛇。だが、その魔竜と呼ばれた蛇の体躯からは、すでに生気が感じ取れない。
 鱗の小川から枝分かれするように、赤い川は続いていた。
 ――魔竜の死骸
 その傍らで、一人の男が肩で息をしている。
 断続的な激しい息遣いの発信源は、身の丈をゆうに超える野太刀を掲げる一人の男だった。

 激闘が終末を迎えた空間に、命があるのはただ男一人。だが、男自身も、その手には自身と魔竜の血に染まり、体のあちこちにも、深手とはいえないが十を超える傷が刻み込まれている。
 男は、自分の傷を見やった後、苦しそうに笑いながらその場に跪く。
 そこには、獲物をしとめた満足感と同時に、魔竜の毒に体が侵されていく痛みに耐える感情が含まれている。男の受けた傷のほとんどが、魔竜の毒を持った牙によるもの。
 男の神経という神経。骨という骨。肉という肉を蹂躙している毒は、『氷塵』と呼ばれるものだった。一度傷口から入り込めば、魔竜の毒に混じった氷の粒が、入り込んだ物質の中身を凍らせるもの。
 かのような名をつけられた毒の症状が、やがて男の肌にも出始める。水色の霜が、男の皮膚に疎らに出来始めていた。自分の肌に出来る毒の症状を見つめながら、男は神経器官が凍っていく冷たさと痛みに耐えながら、ゆっくりと体を起こし、思考をめぐらせる。帰ろう、と。
 家にはまだ、若い妻と、小さな子供が自分の帰りを待っている。勝利の祝杯を飾った酒も待っている。だから、こんなところで死ぬわけには行かない。行くべき場所は、帰りを待つ、暖かい我が家。
 男は震える唇から、途切れ途切れに小さい声を絞り出す。
「そ……う、だ。……オレ、は、ま、だ……死、ね、ない、ん――……」
 ――男の眼球が、完全に水色の霜に覆いつくされる。
 やがて、時の経過が暗闇に加勢し、炎を侵食する。
 男の前に広がる暗闇に、未だ果ては見えてこない。


 0 プロローグ


 かつて、盟約が交される発端となった世界各地での殲滅戦争。
 後に、大破壊戦争時代と呼ばれるかの時代に、統一国家が消滅したミドガルズオルム大陸では、大盟約成立を挟んだ約300年もの間、小国が乱立する戦国時代が続いた。
 盟約暦243年、盟約者たる『十二の死(ダイ・トゥエルブ)』に名を連ねた大魔術師マーリンの末裔、マーリンW世により戦国乱世は統一され、盟約成立以後初めての統一国家である魔法王国アスガルズを建国する。アスガルズ王国はその後約200年に渡って大陸を治め続けるが、盟約暦466年、地方豪族の反乱を機に王国は崩壊。その後数百年にわたる多数の国家が入り乱れた分裂時代が到来する。そして盟約暦870年、大陸南西部にニフルヘイム王国が成立、続いて盟約暦877年に大陸南東部でムスペルヘイム帝国、盟約暦881年に大陸北東部でアース皇国が誕生するに至って、この三国による大陸支配体勢が確立した。
 世に言う三華時代の到来である。その後200年、三国は幾度かの小規模な戦乱を経ながらも平和と言える時を過ごしていた。
 そんなミドガルズオム大陸のどこか停滞した平穏な時代が、どの時点を境に激動の時代へと移り変わっていたのかには様々な説がある。
 アース皇国初の女王の誕生。ニフルヘイム王国における民衆革命による共和制の成立。だがやはり最も有力な候補とされているのはムスペルヘイム帝国における、後に魔王大乱と呼ばれた内乱であった。盟約暦1092年、ムスペルヘイム帝国宮廷魔導師団が行った召喚実験の完全な失敗により出現した魔界に君臨する7の魔王の内の一人、アラストルとその軍勢。突如として現われた異界の軍勢に対する帝国の混乱は、総大将として戦場に出馬した当代皇帝の戦死により一気に拡大する。
 誰だったか、こんな状況を解せずか解してか、アース皇国の城内。女王の前でこのような言葉を吐いたのは――
 
「なんにせよ始まるわけだな? 戦争が……」


 1 記し
 

 気   候:絶悪、雪と風が荒れ狂い、視界不良。
        夜間になると気温が著しく低下。
 配属部隊:第5陸戦歩兵隊『迅雷(ブリッツ)』 第7遊撃銃兵部隊『戦女神の法眼(ヴァルキリエ・アイ)』
 
 輸出部隊:無し

 08,00時:「ブリッツ」による広範囲殲滅命令、投令。それに伴い、『戦女神の法眼』による『白門』に群がる妖魔の群れへの攻撃命令、投令
        「ブリッツ」第二、第三分隊は、妖魔の群れ本体を挟撃せよ。 
        同刻、第五分隊『疾風(シルフィード)』は『氷絶』付近に展開。第2防衛ラインにて野戦活動を開始せよ。
 
 09,22時:第一、第四分隊周辺で、高熱源体を確認。第一分隊、第四分隊との連絡断絶。
        『氷絶』より東北東に、新しき妖魔の群れを発見との報告。
        妖魔の群れ本体転進、東へと進みつつ、第二、第三分隊へと攻撃開始。挟撃は断念。

 09,50時:『氷絶』にて、新しき妖魔の群れの異常な速さでの侵攻を
        戦力喪失が6割を突破。更に、妖魔の群れが、北西、北方向から出現。共に東へと進撃。
 
 10,02時:『氷絶』陥落、「シルフィード」はかろうじて帰還。
        第二、第三分隊全滅。妖魔の群れは『氷絶』にて動きを停止。続くように、北辺からの妖魔も『氷絶』で停止。
        直後、『氷絶』にて、妖魔の群れが展開を開始。
 
 10,59時:隣国『ムスペルヘイム』からの高機動陸戦中隊『飛燕(シュヴァルベ)』到着。
        到着と同時刻、『白門』に群がる妖魔が撤退を開始――

 ここまで書き終えて、情報局情報総監『千里眼』の異名を持つセリア・ルファイドは、ウェーブヘアーを書き上げながら大きくため息を漏らした。
 同時に、今自分が書き綴っている災厄を何度か見直し、記しを持つ手に震えが走る。妖魔たちの驚くべき戦闘力による武者震いによるものなのか、それとも、妖魔に苦戦している自分の軍隊に対する怒りの表れでもあるのか、否。彼女の手の震えは、前者でも後者でもなかった。
 ――妖魔たちの圧倒的なまでの戦力展開力への、恐れ。恐れが、彼女の体に旋律と絶望を走らせていた。
「やって、くれたわね……」
 眉をひそめながら、忌々しげにセリアは呟いた。圧倒的劣勢を迎えている戦争の中、彼女は一人、自室でこれまでの記録を記していた。ただの妖魔の動きとは信じられないほどの統率された動き。ただの妖魔とは思えないほどの戦闘力。何より気になるのは、9時22分に起こった高熱源体の存在。魔導式施術でも施された新型妖魔の攻撃? 考えられる要素はいくつでもある。この劣勢状況。いくら『飛燕』が救援に来てくれたとはいえ、またあの高熱源体が発生しては……。
 自然に唇をかんでいる自分に気付きハっとわれにかえる。情報局情報総監がこんな調子じゃあ、下々の者にも不安の色がうつるなあ、ダメダメ。雑念を振り払うように、首を左右に振りる。そしてもう一度現状を確認しなおすため、机の棚から地形図を取り出そうとしたときと同時に、部屋のドアを誰かが騒がしく叩いた。
「入ってくださ」
 セリアの返事を待たないで、銀の鎧をまとった一般兵士が、右腕をなくし、鎧のあちこちから血を噴出した状態でなだれ込むように飛び込んできた。見開いた眼が何か言いたそうにしているが、口を魚のように動かすだけで、声は出てこない。左手に持った一切れの紙をセリアに渡すと兵士は笑い、その場に倒れこんだ。敬礼の姿をとって。
 すでに生きてはいない兵士に、敬礼を返したセリアは渡された一枚の紙切れに目を通した。
「これ、は?」
 セリアの目に入った、兵士の血文字で描かれていたそれは、野太刀を抱えて目を閉じている一人の男の姿。大分血や雪で湿っていて、それを男と見るのは難しいが、なんとなく面影で分かる。
 「この人は……」
 『氷燕の堕帝』討伐に、単身で『氷林』の中へと向かった『英雄帝』
 ――煌天月輝(こうてんげっき)ラスティ・ネイルの死体。
 信じられない。まさか『斬り人(スレイヤー)』の称号を持つ、ニフルヘイムの英雄が、死んでいる。これでこの戦の希望は無くなった。勝てるはずがない、あんな統制の取れた妖魔たちに、これ以上の戦力を期待できない以上、このまま滅ぼされるのを待つだけだ。いや、でも……?
 セリアの頭をよぎった一握りの希望。つかめるかつかめないかは別として、いや、掴むしかもう道はない。最悪、まだ民草はそんなにショックまで陥ってない。けど、これを失敗したらもう後はない――……
 セリアは倒れている兵士に、首からぶら下げている十字架を押し付けた。そしてもう片方の手で弧を描く。人差し指と中指の先にともる白き光は、指の軌道を追って、形を描いていく。兵士の頭の上で描かれた円形。その円形の中に三角を中央に刻み込んだ。逆三角形を三角の上から重ねるように書き込み、六方星を現す。

 『オヤスミナサイ』

 そう呟くと同時に、六方星の中央を人差し指で貫いた。紋様は白い光となってその場一体に離散し、兵士に降りかかる。兵士の体のあちこちが徐々に欠けていく。白い光にまみれて、男の体が消えていく。光の粒子となって空間へ消えていった兵士の名前を呟き、その場で十字を切った後、セリアは上を見上げる。
「――アーメン」

 
 

 
 
 
 

 

 
  



 ぬるりとした血の感触を覚えている。自分の前に立ちふさがるものが、雨と血にぬれるコンクリートと分かるのに、少し時間がかかった。こめかみの辺りからあふれ出る血は、止めようも無くあふれ出る。意識は朦朧とするが、決して視界が暗闇に落ちることは無い。
 痛みが、最初に大型トラックにぶち当たった右半身を始点に、体全体にガンガンと響く。そんな表現されても分からんっていわれても、体の中がガンガン響くって感じや。心臓の鼓動が早くなるのも、自分の呼吸が無意識のうちに大きくなっているのも分かる。体を空に向け、ただ涙を流し続けている、あの曇り空を見上げる。
 こめかみから頭のほうへと流れていた多大な量の血が、まぶたの上を伝い、自分の眼の中を侵略する感触を、この日ワイは絶対忘れへん。絶対や。
 痛みのおかげで薄れることの無かった意識が、徐々に薄くなっていく。まぶたが重い。血の出すぎで麻酔がかかった状態にでもなったんか、ものすごく眠たい。体全体に根を張っていた痛みが、体の奥底から抜け落ちる感覚。
 ああ、なんかめっちゃフワフワしてきたわ。それに気持ちええし。
 関西人としておかあちゃんのおなかの中からこの世に生れ落ちて14年。こんな気分は今まで一回もなかったしなあ。なんかむっちゃ新鮮な気分や。てゆうか……アカン、ホンマまじやばいって。このまま眼ェ閉じたらワイ死ぬんちゃうんか。ああでも、でもや、むっちゃ眠いんや。このまま眠ったら苦しまずにあの世へ逝けるんやろな。ああアカン、まじアカン。
 重たいまぶたが、閉じきらないように何度も抵抗する、けど、いまにも意識がまどろみに落ちそうで怖い。周りじゃワイを轢いたおっさんがワタワタしながら救急車来るのまっとるし、その遠巻きでオバハンらがヒソヒソなんか話しとるのが聞こえる。後、その横でヤマンバみたいな真っ黒な女子高生が「マジやばくなーいあれー」とかわけわからん標準語かどうかも分からん言語つこうとるのもわかる。あああれか。前になんかで見た風前の灯ってやつか。あれ? そいはちゃうな。確か――……ああ思いだせん。けど、なんか命のともし火が尽きる前ってのは、ロウソクの火が消える直前と同じで激しく燃えるってやつか。人の五感が研ぎ澄まさ……れ、る……。
 あかん、もうホンマにもたん。おかあちゃん、お父……ちゃ、スマ……ン――
 
 頭の中に響く救急車のサイレンがワイの人生のフィナーレの音楽か、ひときわ大きく鳴り響く。まぶたは完全に閉ざされ、いしきもきえ

 『こっちだッ! まだ息はあるぞ!!』
 『タンカだ! 早くしろッ!!』

 
 

 真っ暗な闇の世界。何も見えんし何も聞こえん。あれや、ここが天国ってやつか? いやちゃうな、地獄やな。天国やったらキレイな国でお花畑ときれいな川ってのが相場や。じゃあなんや、鬼さんもおらへんし、なんやここ。んじゃああれやな。死んだ跡には天国も地獄も無くて、人類みんなここくんのか。新発見や。やば、マジやばいなワイ。でも、もう死んでんねよな。
 ドコに手をのばいてもなーんもつかめへんし、どれだけ足をバタバタさせてもどっかに進めるわけでもないしなあ。時間だけが無駄に流れ、その永遠を意識残したままずっと感じる世界、これが『死』か。
 退屈な世界やのー。暇つぶしも出来へんし。どないしょ。あーもうあかん一秒がホンマ長く感じる。何も見えへんし聞こえんのはこんなイヤなんかー。
 ってうわまぶしッ! なんやコレ、むっちゃまぶしいって、やめろって、だいやこんなことしとんのは、って……ちょい眼ぇなれて来たな……。なんや、このいかにもなタイミングでのこのまぶしさ……あれか、天国への迎えか。って……手?
 気味悪いほどに不自然なほどに現れた手を、なんかしらんけどワイは握ってしまったんや。ホンマ、なんかしらんけどな。たとえるなら導かれるようにや。
 その手、握ってみたらむっちゃ小さくてあったかいわけよ。
 ダレの手ェか知らんけど、ありがとな。
 ワイが握った小さな手ェは、ホンマに微妙にやけど、握り返してくれた。そんで、ワイの体がそのか細い手ェに引っ張りあげられとるってどないことや。なんや、今日はホンマ変な日ィやな。思えば朝から色々あったわホンマ。
 一番最初の始まりが、ワイの起床時間やった。
 いっつも遅刻してばっかりで、昼休みに登校が当たり前やったワイは、寒い冬の真っ暗な朝早く、6時に眼が覚めたってトコやな。ホンマ不思議や、何せ二度ねしようおもても寝付けへんねもん。

 

 その朝ワイは、深い深い暗闇の中で眼ェが覚めた。
 枕の横に追い取る時計を見ると、蛍光ペンで暗闇でも分かるように塗られた短針と長針がちょうど6時きっかりをさし取った。普段やったら絶対におきん時間帯。ワイはハッキリとした意識の中、今が朝の6時なん確認したら、まだ早い思うてまた布団をかぶったわけや。あったかいぬくもりが布団の中にまだのこっとるからすぐ寝れるわ……
「なんや、全然寝られんやんか」
 10分たってもまるで眠気が襲ってこん事にワイは疑問と不快感を浮かべ、しょうもなく布団っていうワイの巣ゥからでることにしたんや。
「さむッ」
 まあ当たり前や。今は1月。寒くないほうがおかしいやんって話。けど今までぬくもりの残った布団の中におってんから寒さも倍増するわけや。
 パジャマのままやったらホンッマ寒いからとりあえず服に着替えよか。ワイはタンスに手をかけて、適当なシャツとパーカーに、ジーンズの長ズボンを右手にかかえる。電気のスイッチを押して、しみったれた暗い部屋に活を入れる。一瞬何回もついたりきえたりしたけど、次の瞬間パっと電灯がワイのせっまい部屋をあらわにするべく明かりをつける。4畳半の部屋にメタクソにつっこまれた散々な道具たち。
 まずコタツやな、まあこれは必需品ってヤツや、冬のな。まあこれで一畳半くらいとってるわけや。次にプラズマテレビッ。何インチやっけ……てか単位インチやったか? まあええとして……週刊ジャンボに何十回もハガキおくってようやく当たったワイのある意味宝モンや。
 んで、次にまあ着替えがはいっとるタンスとー、部屋中に散乱しとるNBA……通称ナチュラルバスケットボールアメリカの事を詳しくかいとるよーするにバスケット専門スポーツ雑誌。でも最近収納すぺーすないからのう。何冊かすてなあかへんわ。んで、これまた懸賞で当てたゲームキューブや。こいも宝モン。
 今あげたもんでホンマにごった返しになっとる部屋を、パーカーとジーンズに着替えた姿でワイは出る。まだ6時20分……くらいくらい。足元に気ィつけて、ワイは慎重に階段を下りた。
「……なんか朝って天気予報しかしとらんの。散歩でもいこか……時間あるし」
 下のリビングで3分くらいリモコンを操り、何か番組してないかと色々探すが、結局やってるのは天気予報とわけわからんニュースばっか。強盗? 知るか。放火? 危ないのう。政治? 関係ないわ。
 かかとのつぶれたマイシューズに足を突っ込んで、ワイはポケットにも手ェ突っ込んで外に出る。青黒い空の向こうでは、ちょっとやけど星がかがやいとる。水平線の向こうでは、おひさんが顔出そうとしとるから少しオレンジ色や。
「ホー、息白いのー」
 口をOの形に広げ、自分の吐息が白くなるのを見て少しはしゃぐ。ああ、そういえばここ何ヶ月か、息、しろなってんの見たこと無かったなあ。何度も白いと息を吐き出してるうちに、次第に口の中が乾いてくる。ワイは辺りを見回し、自動販売機を探す。少しばかり歩きながら見回すと、遠く離れた駄菓子やの前で自動販売機が明るくひかっとる。ポケットに手を突っ込んでサイフをつかみ、ワイは自動販売機へと歩を進めた。

 
 2 柴田 義広(しばた よしひろ)


 赤いペンキに、水しぶきを浴びて泡を吹き出すコカ・コーラの絵が書かれた赤く耀く自動販売機は、まるで買ってくださいといわんばかりに、日が雲で見え隠れするグレーとオレンジが交わる世界で、自分を一生懸命アピールしているように見える。しゃあない、ここは一つあったかいココアでも買っちゃるか。
 サイフのチャックに手をかけて、小銭入れに指を突っ込む。適当に適当に100円玉と10円玉二枚を取り出して、ワイはジュースとペットボトルのレプリカが並んだ棚に向けて、視線を右から左へと移動させる。ズラリと並ぶ売り切れの赤文字。まるで端っこで残ってるココア意外買うなといわんばかりに。
「うっわー、最悪やなコレ……。まあココア飲みたかったから別にええんやけどよ」
  なんだか無性に敗北感を感じながら、ワイは100円玉と10円玉を自動販売機の中へとダイビングさせる。一瞬だけ間が空いて、チャリンチャリンとお金のダイビングが成功した合図が聞こえた。ボタンに赤いランプが付いて、ココアのボタンを押そうと指を伸ばした瞬間。ガチャンっと言う、カンジュースが受け取り場に叩きつけられた音。
 一瞬何が起きたのか理解できず、ワイは受け取り場を除く。するとどうだろう。まだボタンを押していないのに、勝手にココアが落ちてきとる。何やコレ。どういう現象や。あったかいココアを取り出してから、ボタンを注意深く見てみると、なんてことや。ボタンに無理やりガム詰めとる。これじゃお金入れた瞬間このココアが選ばれるやん。夏場とか最悪やなこれ、かかったら。
 とにかく目当てのものが手に入ったから、ワイは文句も言わずにその場を立ち去る。まずは良く振ってーと。
 まるでダンスを踊るようにワイはココアをシェイクする。上下に動かすたびにシャカシャカなる音が妙にワイをリズムにノせてくれる。おおっと、もうええかな。
 プシッ。
 小さな泡が吹き上がり、それと同時に、白い湯気がグレーとオレンジの世界を侵食する。おお、かぐわしい香り。ココアを口に近づければ近づけるほど、程よい熱気が口元を覆う。
「……てなにやってんねろ、ワイ。こんな早起きしてなあ」
 誰に言うでもなく、独り言を空に向かって投げかける。少しだけ、投げかけた言葉は広がるように木霊した。少し空を見て、小さくため息をついた後、少し間を空けて一気にココアをあおった。少し熱いココアを一気に飲み続けた。
「フー」
 体もいい感じにあったまった。今日はまあ、珍しく朝早くに学校行こかな。
 っとお。後ろに人おった。あかんあかん、はズイでワイ。何一人で空見上げて笑ってんねろ。逆に笑われるっちゅうねん。っていうかむっちゃちっちゃくてカワいいコやな。あの制服は……ウチの学校のか。んー、あんなコ見たことないわ、とりあえず気付かん振りしてやりすご

 瞬間。ワイの後ろを、ハイスピードで何かが通り過ぎる。排気ガスの匂いと、生臭い血の匂いが混じる。
 何かと何かがぶつかり、グチャリと何かがつぶれる音。甲高い車のブレーキ音。少し遅れて聞こえる、何かが地面に激突するやわらかい打音。振り向くな、ワイ。振り向いて何がある。なんや、何がおきた、なんなんな、おい。
 ココアを持つ手が震えてるのが分かる。冷や汗がほほをつとうとるのも分かる。体が――寒い。体が――かたまっとるように動かん。
「わあああああああああああああッ!!!」
 少し遅れて、誰かの悲鳴が轟く。その言葉に打ち付けられたワイの体は一瞬ビクリと震え、ワイの手からココアのカンが滑り落ちる。そして、ワイはゆっくりと振り返る。ワイの背後で起きた何かを確認するために、ワイは重たくなって動かない顔を無理やり後ろに向ける。見たくないけど、見たくなってしまう矛盾が、必死でワイの心がブレーキをかけとるのに、体がアクセル全開。冷や汗が沢山出てきとるし、ココアであったまったはずの体がヤバいくらいに冷たい。自分の心臓の音が聞こえる。ドクン、ドクンと頭の中に響いてきよる。ワイの胸のうちで、ものすごく暴れとる。ああ、あかん、あかんぞ、ワイの体。ワイの言うことを聞け、このまま後ろも振り返らずに、何も無かったみたいに立ち去れ。全速力で走って、家に帰って全部忘れて寝てしまえ。やめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろ……頼む。
 ――大きく見開いたワイの眼球にうつったんは、無様にしりもちをついて震えて涙を流しながら小便たれとるネクタイ姿のオッサンと、真っ黒なボディカラーにふさわしいほど流線型の形をしていたはずの、ボンネットがへこんで赤く変色したスポーツカー。そして、その先でころがっとるのは、その先で地面に接吻かましよるんは、その先でありえん方向に足を曲げとるんは。
 すでに躯と化して、人形のように体のあちこちがへしまがっとる、小さな女の子。
 あかん、あかんでおい。今ワイのすぐ後ろでおきたんは、こうつうじこ?
 やばくないか、あのコ。だって、両膝が前向いて90度以上まがっとるし、骨つきやぶっとるし……。だって、肘の皮がとんでもなくエグく破けて、そっからズタズタにちぎれた肉と、粉々になった骨が、風に揺れるやぶれかけの赤黒い皮で見え隠れし取るし、何より、そう何より、
 地面にキスしとるくせに、……敗れた制服の間から見える、小さな体に似合わない豊かな胸が、空を、見上げて、おる。
「し、しししししら、しらなひッ! 僕は知らないぞ! こ、こいつが! そう! そうだ、コイツだ! コイツが悪いんだッ!! 僕が、ちゃちゃ、ちゃんとクラクションをならしたのに!!」
 壊れた人形に目を釘付けにされとるワイの横で、ならしていないクラクションをならしたことにして、責任転換をしようとしているおろかなアホがおる。無性に怒りを感じる。無性に哀れんでまう。お前がいつクラクションをならしたんなコラ。
「ひ、ひは、ひはははッ、そうだ、ぼくぁ、悪くな、」
「やかましわッ!!」
 気付けば、ワイは壊れた人形ではなく、そのアホに目を向けていた。体が勝手に動いて、そのアホの胸倉を掴んで、おもきしどなっとった。
「まずオマエがすることはッ! アホ気な責任転換ちゃうやろが!!」
「ひ……ひッ」
 どなっとる。ワイが、このアホに向けて。頭の中でのた打ち回る本音をぶちまけとる。そして、ワイをそいつの顔に向けて、思い切り拳をたたきつけた。鼻ツラに当たった拳が、不気味な感触を捉える。今のは多分、鼻の骨が思い切りひしゃげた感触。
「救急車……いや、警察呼ぶことちゃうんか!? あのコを見て、なんでおどれはそんな、そんなことしかできんのな!?」
 ワイは吹き飛ぶ男をもう一度掴みよせ、怒鳴りながら壊れた人形を指差す。いやでも、もう警察とか救急車とか呼んでも意味ないのは自分でもわかっとる。わかっとんねけど、本心ではない何かが、心で暴れる何かが、とにかく何でも良いから言葉を吐けと強くのぞんどった。でも確かに、怒りを吐き出さないと、ワイはこのアホを殴り殺してしまいそうになる。
 ワイの眼前で、おびえた顔をして震える男の顔が憎たらしく、その男を突き飛ばす。そや、こんなことしとる場合ちゃう。今は、あのコや、あのコやッ。
「ダイジョーブかッ!? 返事せえ!!」
 ワイはそいつをほったらかして、血の海の中に沈む壊れた人形に大声で呼びかけながら駆け寄る。もう生きとるはずがない、意識がこの世にあるはずがない。心臓が動いてるわけでもないのに。ワイはそのコに呼びかける。何度も何度も、そうすれば生き返るような気がして、呼びかける。必死で、ただ必死で、そうすればこの悪夢から目覚められるような気がして。でも、生き返りはしない、悪夢から目覚められるはずもない。あたりまえや、そのコは死んでるんやし、これは現実や。や、もうそんなことは関係ない。考える間もない。ただ、いまはずっと叫んでおかなあかん気がした。
 気付けば、さっきのアホはいつのまにか車に乗ってどっか逃げとった。いや、もうあんなん知らん。あの返り血ですぐにつかま

 り……が、と

 どっかから聞こえる、今にも消え入りそうな声。どこや、どこから聞こえる、なんていってる、なんていいたい。
 下、下から、ワイの顔の下……壊れた人形が、切れんとのこっとった糸を操ってもらって、最後に何かを言い残そうとしとる。
「だ、だいじょうぶかッ? だいじょうぶなんやな!? よし、そのまま目ェあけいヤッ!!!」
 願う、ワイはただ願う。このまま生きといてくれ。救急車呼ぶから、それまでの辛抱やから、頼むから、生きてくれ。マジ頼むわ。

 あ、り、が、とう

 そのコは、地面向いたままそれだけ言って、小さく笑い声をあげたあと、静かになった。
 とまった、とまってしもうた、ワイの中で暴れとったなんかも。ワイとこのコをとりまく周りの空気も、そして、このコも。風だけがその場で動き回り、そのコのツインテールを躍らせる。血の上を滑る風は、血の海に波紋を作り、そしてどこやらへと去っていく。
 このコの命を奪いながら。
 ――どれくらいの時間が経ったのか、気付けばワイは、薄黒い空の下、雨のふりおちる空の下、壊れた人形を抱いて、大雨に打たれながら、返り血に浴びながら、自分の家の前に立って、助けを求めておる。腰を抜かして唖然としているおかあちゃんと、気を失ってしもたおとうちゃんに、だいか、このコを助けてくれと。だいか、ワイを助けてくれと。身勝手なワイは、もう動かないこのコだけじゃなく、もうどうしようもなくバラバラになってしもうたワイの心を助けてくれと、声にならない声で、叫んでる。まるで知らない他人なのに、どうしてあんなに熱くなったのか、どうしてこんなに強くこのコをだいとるんか、不思議でしょうがない。
 ホント、しょうがない。



 



「ほら、あんたは気にせんでええんよ。さっさと学校いきなッ」
 そういって、血まみれのワイを追い出すように、おかあちゃんは雨の中に放り出した。助けてくれとドアを叩いても誰も出てくれんし、引っ張ってもカギかけられとる。ワイが足を一歩踏み出すたび、視線の矢が遠くから近くから、右から左から、沢山の人に投げかけられてる。そうか、皆の目にはワイがそういう風にみえてるんか。まあしょうがないやろ、もうあのこのことはニュースでもしとるやろうからな。……今でも。救急車に乗せたときの、あの救急隊員の冷たいまなざしを覚えている。今でも覚えている、あのコの体の感触を。死後硬直のせいで硬くなった肉の感触を。ところどころからむき出しになっている骨の感触を。
 この手に残る赤い血も、この体に染み付いた赤い血も、いっそ消えてしまってくれ。皆の視線が痛いからじゃない。皆に責められたくないからなじゃない。あのコの血をつけて生きていられる自分がなんだか、無性にいやしい。あのコの血を奪っておきながら、平然と生きている自分がなんだかいやしい。
 ああ、気がつけば、ここは、あの場所や。ここであのコが死んで、あの男が逃げて、そして、ワイがいる。この手が、この手につく血が、この……。
 
 ワイは気付かない。大型トラックが水しぶきを上げて、雨を粉々に砕きながら突進してくるのも。クラクションが何度も何度も鳴らされるのも。黄色い光がワイめがけて照らし出すのも。
 そしてワイが振り返るとき、大型トラックはブレーキ仕切れずにワイの右から、


 気付けば、ワイの体は宙に投げ飛ばされていて。世界がスローになる中、ワイは自分の手を見る。ハハ、ワイの手、自分の血で真っ赤や

 
 



 今思えばかなり不思議だったわー。いやマジよマジ。名前も何も知らんコにたいしてあそこまでかんじょういにゅーが出来たワイが一番不思議かもしれんわな。って何より不思議なんがこの状況。何コレ、ワイ誰にひっぱられてるん? どこへつれてかれるんでっかって話。あ、目ェ痛……。
 暗闇に慣れきった目に、光の筋が差し込む。やべ、いた、目ェ焼けそう。閉じた瞼を突き破るように、光は容赦なくワイの両目に襲い掛かる。そこまでこじ開ける気ィならあけて見よか。天国か地獄かのロシアンルーレット。できれば天国ご希望やで、ワイはな。
「……成功しましたか」
 開けてみても、やっぱり視界は真っ白。何も見えへん、変わりに、聞こえるのは女の人の声。おにおんな? それともてんしさん? どっちや。
 しだいに、真っ白な世界に色彩がつきはじめる。うーん。白い……天井? どこここ。地獄でもないし天国でもなさそう。ああ、じゃああれや新世界や。時代はまさに何百年後かの未来へ突入? じゃあなんな、何で死んだワイがそこにおるのなって感じやな。分かるのはここがさっきとは違う場所で、ワイは冷たい床で仰向けに横たわっとる事。
 背中がやけにひんやりとしている。いや、それ以前に今おる場所はものすっごく寒い。ワイのすむ和歌山県っつう誰も知らんような田舎ではとても感じることの出来ん肌寒さ。うーん、あーもうワケ分からんようになって来た。
 とか何とかもがいとるワイの視界に、勝手に入ってきおった一人の20代の女。今時女子高生でもそれはせんやろ、と思うほどの赤いセミロングの髪。マッチかオマエは、と思わずツッコミとーなる。そして何よりすごいと思ったのが、絶対にありえることないくらい赤い「緋」の眼。何? どこでそんな表現覚えた? 企業秘密や。ともかく、良い年した大人が赤い目に緋色の眼おかしいやろ、コレ。なあ、東京行っても絶対見られへん光景。しかもワイの顔をまじまじと見とる。まるでワイが異物とでもおもとるような表情。何、ワイは幽霊ですかと。今時珍しくもないやろ、ワイみたいな不良少年。どこにでもおるし。
「……これで、まだ希望はつながる」
 ……あっち系の人? うんまあそれしかありえんやろ。だっていきなりほっとした表情でや、これでまたキボーはつながります? やばいな、うんやばい。どっかの頭の回路が意地悪なインフルエンザ菌に切断されとる。ドンマイ、ワイはもう帰る……てちょい待てよ。ワイ、確か死んだんとちゃうか。なのに、なんであっち系の眼も頭もおかしい女がほっとしとんねん。え? ええ? どないこと? なあ、教えてくれへんか。
「なあねえちゃ……」
 ワイが起き上がってその女に話し掛けるのと同時に、けたたましいノックの音がワイの耳を貫き通す。ワイが耳をふさぐのと、女がワイに眼もくれずに立ち上がるのは同時やった。起き上がったワイが辺りを見回すと、そこはいたって普通? とはいえないけど、一つの広い部屋の中だった。白い天井と思っていたものは、真っ白で明かりと認識と出来ないほどの強い光。つまりは蛍光灯。そして、部屋の両側のカベを完璧に覆っているのが、本棚とそれにビッシリ詰められた本の数々。しかも日本語やないワケの分からん文字で描かれとる。多分英語。いや英語も分からんねけど。って待て。待て待て待て。ここどこや? どこの誰様の部屋? いやまあ、多分この女の部屋なんやろうけど……。閻魔大王さんの部屋か、それとも神様の部屋か。ああ、じゃあ今の女が神様? いやまっさか。
「失礼します!!」
 一通り部屋を見回した後、ごっついオッサンの低い叫び声が飛び込んできた。何事かとワイは声のほうへと振り向く。するとどうやろうまさしく戦士。ドラクエとかゲームでよく見る鎧の戦士。さまよう鎧か、それならホイミン欲しいな。って戯言を吐きながら現実逃避する余裕はワイにはない。当然やな。腰にぶら下げてるのは血にまみれたでっかい刃物。銀色の鎧にこびりついてる謎の緑色の液体。明らかにアレ。謎の生命物体でも倒しちゃったみたいなノリ。
「報告しますッ! 現在、『白門』から退いた妖魔の群れが再び……!」
 さっきより更にデッカイ声を張り上げるオッサン声の鎧姿のお人。うわい、よーまって何。はくもんって何。聞きなれたようで聞いたことのない単語があるわ。何、ふぁんたじいな世界かここは。だとしたらなんでこんなトコにワイはおる。ていうか、マジでここどこや。
「そうですか……引き続き、妖魔の監視をお願いしますね」
 内心まるで穏やかじゃないワイとは裏腹に、女はまるで動じずに返している。あー、やっぱり頭おかしいわ。何、兵士さん現れたのに素で会話しとるって。ワイなら思わず暴言はいてそう。あたまおかしいろオマエって感じに。
 何か軍人が良くとりそうな敬礼のポーズをとった後、兵士はマナーも何も考えへんような力で思い切りドアを閉めていった。やばい、これは多分夢や。
「……さて」
 女は、ドアの向こうへと消えていった兵士の足音が消えるのを待ったかのように間を空けてから、急にワイ向けて話しかけてきた。
「頼みますよ、勇者さん?」
 ……は? 
 無意識のうちに、ワイの口からそんな言葉が零れ落ちる。
  「今は、時間がないので討伐後に詳しいお話をお聞かせします」
 そして今度は意識してワイは叫んだ。
 「はああああ!?」


 3 気がつけば


 気付けば、ワイは見たこともない一面雪景色な場所に立たされていた。
 てんせーじんだとか、くうかんわいきょくだとか、まさしく意味不明な単語を聞かされて。
 ――ナンデコンナコトニナッタンダ
 寒い以前の問題。何、何々この急展開。ワイが勇者って何、ここへ運ばれる途中、さまよう鎧の皆さんに救世主だ救世主だてあがめられたけど、知りませんわ。ワイの名前は柴田義広。14歳の中学二年生。もうすぐ卒業、のハズやん。何勇者て。何救世主て。何この手に握られた物騒なデッカイ鋭利な刃物さん。長い柄につりあわないほど短い刃の部分。ロープレでよくみる銀の槍ってヤツですか(笑)
 と思わずカッコわらいをつけたくなる。いや実際つけれん。重たいし、この槍みたいなの。それに寒いし、この雪原みたいな場所。むしろつけるんならカッコ泣きな。知らん世界で、知らん風景で、いつもならシャープペンシルをもっとるはずのワイが、人を殺せるモンを両手ににぎっとる。……これが夢なら覚めてくれ。
 周りでは、なんか物々しく叫び声が飛び交っている。緊急事態が起きたといわんばかりの騒々しさ。後ろから突き刺さる視線の数々。そして吹雪にまみれながらも聞こえる小さな声の数々。やめて、やめれ、あがめないでくれ。ワイはそこまでたいそうな人間ちゃうんや。むしろワイはただの不良少年君や。あがめるんならテスト満点スポーツ万能のできすぎくんでもあがめてくれ。
 ふと、思考をめぐらせるワイの視界の中に、いつの間にか一人の兵士の姿が入っていた。茶色くさび付いた兜の向こうの視線は、明らかにワイ狙い。なんか用でもあんのかなと思うワイが足を一歩踏み出したとき、それは起こった。
 兵士の体が痙攣し始める、そして、兵士の内側で何かが確実に暴れだしていた。ボゴリと兵士の腕が内側から膨れ上がり、変色し始める。たちまち兵士の腕はパンという音とともに、はじけ飛ぶ。いくつかの肉片がワイのほほを掠めた。ほほに付着した何かを拭うと、それは人の指。驚いて叫び声をあげるまもなく、兵士の体が膨れ上がる。鎧を突き破って、肩甲骨が20センチ以上も膨れ上がった。瞬間、皮をぶち破って、血を帯びた赤黒い触手が奇声を上げながら飛び出す。
「――え?」
 兵士の背中から生えた触手は、空中でのたうつ様にうねる。標的にワイを選んだのか、その赤黒いからだの先が、ワイの方を向いたまま動かない。数秒、そのうねりを止めた思った直後、触手の体が一瞬ぶれるように見える。目の錯覚なんか、いつの間にか触手の体がワイのすぐ横を横切っている。横目で恐る恐る触手を見たとき、その触手は巻き戻されるように、男の背中へと戻っていく。パーカーの肩の部分が無残に破れ飛んで、そこからにじみ出る血。痛……。
 妖魔だッ妖魔が出たぞ!
 槍をその場に落とし、ワイが自分の肩を抑えると同時に一人の兵士の怒号が響いた。それに呼応して、叫び声は大きさをましてかえってくる。
 鞘内から剣が滑り出る音が幾重にも重なって、やがてそれはワイの耳には一つの大きな金属音に聞こえた。次々とワイの横を駆け抜けていく兵士の軍勢を、ワイはただ見つめているだけだった。怖い? うん。交通事故のときよりも? ……当たり前や。こんないきもん、今まで見たことも無い。あんな奇声、今まで聞いたこと無い。
 でも、なんでかしらんけど、ワイの心のうちで暴れる何かがある。兵士たちが触手になぎ払われる中、ワイは恐ろしいほどに落ち着いておった。頭は驚くほど冴えてるけど……あかん、胸があかん。今にも張り裂けてしまいそうや。知らず知らずのうちに、ワイは笑っとった。そしてワイの手には、知らず知らずのうちに槍が握られとった。
 ――笑う鬼
 というのが正しいのだろうか。柴田の戦いぶりは。
 槍を前に突き出し、低い姿勢のまま雪上を駆け抜ける。触手との距離を確実に詰め寄り、そして触手が柴田の姿を捉えた頃には、
 
 鮮血が雪上に飛び散り、触手は悲鳴を上げる。血にまみれた柴田が浮かべた表情は……冷笑。槍を伝って伝わる肉の感触を、柴田は明らかに笑って楽しんでいた。そして、そのまま柴田は槍を横へとなぎ払う。槍の刃は、触手の体内を滑るように通過する。横に両断された触手は、情けない奇声をあげながらも兵士の背中のうちへと縮みながら戻っていく。次の時には、兵士の体全体が消えていた。何故? 理由は一つ。体内から体を突き破って出てきた触手の束が、明らかに兵士の体の数十倍はあったから。すでに兵士の血肉は、この触手の束に貪りつくされていたのだろう。残ったものは、骨と皮だけ。それらをぶち破りながら、触手の束は姿を現せる。
 兵士たちは周りで畏怖の声を上げるが、柴田だけは違っていた。柴田だけは、驚くどころか、恐怖するどころか、ますます笑みを深めていく。槍を構えなおして、柴田は踏み込む。強く、深く。驚異的な瞬発力を見せて、柴田の体は瞬く間に触手のバケモノの側面へと移動する。残像すら見せなかった柴田の体が、またも深く沈みこむ。そして、跳躍。触手が一瞬遅く、柴田がいた雪面の上を駆け抜け、そして柴田は触手のバケモノに槍を突き立てる。またもあがる奇声、そして振るわれる一本の触手。触手が柴田の体を蹂躙するより一瞬早く、柴田は槍を引き抜いてそれを払う。ものの見事に切断された触手と触手のわずかな間の空間に入り込み、柴田は切断面に槍をねじ込んだ。噴き出す血を気にも留めないで、柴田は槍を深くねじ込んでいく。切断された触手が雪面に落ちるとき、柴田と槍はすでにそこにはない。
 かわりに、切断面には人一人分が通れそうな穴が一つ。そう、柴田は”触手の中を掘り進んでいた
 柴田が一センチ掘り進むたび、柴田が一センチ槍を動かすたび、穴からはおびただしい量の血液が噴出される。同時に、その痛みに耐えかねずに触手のバケモノはその場でのた打ち回る。そして、しばらく暴れまわっていたが、時期にその動きは鈍り、そしてやがては動かなくなった。触手のバケモノが雪面に沈むと同時に、柴田がこじ開けた穴とま逆に位置する皮膚に円形に亀裂が入る。次の瞬間、皮膚に穴ができる。穴から見えるのは、体液と血液で血まみれになった柴田義広の姿。
 その手の内で激しく鼓動しているのは――バケモノの心臓。柴田はそれをしばらく見つめ、やがては飽きたようにため息をつきながら握りつぶした。

 ――笑う鬼
 まさしくそう呼べるほどの、柴田の戦いぶり。
 そして柴田はその握りつぶした体勢のまま、雪面へと崩れ落ちた。

 その笑みを崩さぬままに、深い眠りについて――

 気がつけば、ワイの体はまたも横たわっとる。何? なんなの、何がおきたの。なんでまたワイは倒れてんの。しかも今度は……うん、このやわらかさはベッド。しかもむっちゃ高級品かもしれん。だってワイの布団の数倍は柔らかいし。いやんな事はどうでも良くて。
 ワイ確かバケモノに襲われてんよな? それで兵士さんたちがあっけなくやられてもーたトコまでは覚えてんね。でも、それから、それから――
 ワイは自分の右手になんかが着いてるのに気付いて、見てみる。
 
 ワイの右手は、未だに赤い血がのこっとる


 
 4 雨宮 雨梨(あめみや あめり)


 
「起きましたか?」
 自分の右手にへばりついた真っ赤な血を見つめていたワイに、声が投げかけられる。女の声。声の発信源に目を向けると、それはあの頭がいっちゃってるお姉ちゃん。相変わらず赤い髪の毛と緋色の眼がよく目立っとる。恥ずかしくないんかな。けど、女としては上の上を行きそうなほどのキレイな顔つき。思わず目を合わせるとそらしてしまいそうなほどに。
「気分は如何です?」
 いきなり声をかけられて、返答に困っとったワイに、続けて女は問いかけてくる。いや、ワイの気分を心配するより自分の頭を心配せえ。顔はキレイなのに、何故かキッツイ言葉が頭の中で生まれてくるのは何故やろか。あれか、ほんのーてきにってやつか。それともせーりてきにってやつか、知らんけど。
 とにかく、ワイは胸のうちに秘めた疑問を問うてみる。
「……あの、聞きたいことあんねけど」
 とにかくここはどこか、それだけや。
「なんでしょう?」
「ここって……どこなん?」
「どこといわれても……ここはニフルヘイムですけど?」
 いや、いやいやいや? 聞け、人の話を聞け。どこか聞いてるのにそれはないろ。少なくともワイの知識の中では、そんな国も地名も山脈もない。日本中にも世界中にも。
「にふるへーむって何処や? この地球上に存在するんか?」
「ちきゅー……はて、それこそ何処でしょうか?」
 え。まってよ、ちきゅーってなんでカタコトなん。ちきゅーってどこってなんでんなこというんや。ここ地球とちゃうわけ? ああ、だったらやっぱりこれは夢やな、夢なんやな。じゃあ何処かやら夢やろ? はねられたところ? それとも本当のワイは未だにグースカねむっとるとか? 12時まで。
 思わずワイはあはははははと棒読み笑いをしながら自分のほっぺたを力の限り思い切りつねくり回す。……痛い、むっちゃ痛い。ああ、じゃあこれは紛れもなく現実やねんよな? 間違いないんやでな? 神様。
「まあ……とりあえずはあなたがここにいるいきさつでも説明しましょうか?」
 あまりに痛くて自分の力の強さを痛感するワイの目の前に置かれた、どこから出したんかも分からん白いティーカップに注ぎ込まれた黒いコーヒー。
 ミルクはいりますか? と微笑む姉ちゃん。今のコーヒーは何処から出したんですかと。あんたはプリンセステンコーかと問いたい。はッ、まさかここはテンコーのイリュージョン・ワールド? なるほど、それならすべての事象に説明が……コーヒー飲もか。
 現実逃避から帰るように、ワイはカップの横にご丁寧に置かれているミルクを全部ぶち込む。真っ黒なコーヒーに白色が交じり合って良い感じ。程よく交じり合ったと思った頃で、コーヒーカップに口をつけた。苦、やっぱりワイはまだ子供なんか。
「今、戦争中なんですよね」
 ブフッ
 驚きのあまりにワイの口から飛び出していくコーヒーさん達。戦争中って……あれか、第二次世界大戦か。核爆弾が流行りか、流行なんか、どうなんや。あれ、でもあのバケモノはどう説明すんのや。今までヘビとか、危険なイキモノ捕ったりつぶしたりしやったけど、あんなもんは見たことがない。いや、もしあんなもんが地球上におったら今頃地球滅びとるかも。
 あーでも、戦争中やったらさっきの騒々しさは説明……つく以前になんで戦争中やのって話し。
「さっき貴方が倒したメリウス……つまりは妖魔と、私たち人間との戦争ですよ」
 ブフッ
 またもワイの口から飛び出していくコーヒーさん達。驚き2連続。また出てきた妖魔の単語。そしてその妖魔と戦争? あれか、ロープレか、今度は魔法が流行りか、それとも剣か、剣なんかどうなんかハッキリしてくれ。いや問題はそこちゃうろ、
 ……倒した?
「倒した?」
 胸のうちで掲げた疑問を、ふとワイは口に出していた。
「はい」
 姉ちゃんは笑みを絶やさずに答える。
「誰が?」
「あなたが」
 笑みは絶やさないままに即答。
「どいつを?」
「妖魔を」
 姉ちゃんは即答しつつ、自分の分のコーヒーに口をつける。
「いつ?」
「先程です」
 少し熱そうに顔をゆがめながら、姉ちゃんはコーヒーから口を離す。
 え、待って。ワイが、あいつを、倒した? でも、何の覚えも……ない。頭の整理がつかない。ワイは確かあそこで、……あそこで? あそこでワイはなにをしとった。気を失った……んならワイはあそこでバケモノに殺されとるはず。倒したのは兵士さんじゃなくて、わい? ……覚えが無い。苦いコーヒーを口に含んで、ワイは記憶を掘り出して思い出そうとする。あかん、何も思いだせん。思い出せるのは……。
 右手に残る、不気味なやわらかい感触だけ。自分の右手を見つめて、強く握る。ああ、ワイが倒したんか、あんなでっかいバケモノ。たった槍一つで、鎧もつけんと……。まさしくワイロープレの主人公やん、あれか、目覚めるパワーってやつか。覚醒や覚醒。ワイの中で何かがおきたんやな? いぇー。
 ……
 ……いや、そろそろマジに考えよか。
 頭を抱えて考えているワイの思想に斬りつけるように、姉ちゃんは言った。
「で、話の続きなんですけど――」
「あ? ああ、はいはい」
 ワイはとぼけたように返す。
「――かつて」
 姉ちゃんは空になったティーカップを更に乗せて、静かに語り始めた。うわ、単刀直入になんでワイが死なんとこんなトコにおんのかを言ってくれたほうが楽やねんけどなー。状況の把握が。
 そんなワイの思想を無視するように、ねえちゃんはただひたすらに語る。
「盟約暦870年。今から200数年前に、このニフルヘイムは創られました」
 ツッコミどころがまず一つ。盟約暦って何? ワイが知ってるのは明治と大正と昭和と平成だけやで。いつの時代、それ?
「そこから11年の歳月をかけて、ムスペルヘイム帝国とアース皇国が誕生しました」
 あああ、またもや現れる謎の国々たち。何の説明もなしに淡々と語られても頭混乱するだけ……。まあ、とにかくじょーほーをまとめてみよう。まず? 盟約暦870年っつー年に、むすぺるへーむとか言うのが作られたわけで。そんでそっから11年もかかって二つ国が作られたと。
「そしてその後200年――……今から遡ること数年前、それはおきました」
 ねえちゃんは、忌々しげに眉をひそめて、自分の赤髪をざわめかせた。

 ●

 最小限の灯りが燈された地下のホール。普段は魔導術の実験場として使われる事の多いこの場所では、今切羽詰った声が暗闇を震わせていた。灯りに照らされる人影は三つ。
 その誰しもが、黒く染められた装飾つきのローブに身を包んでいる。その中の一人が、魔方陣を描き、もう一人がその魔方陣の中で、派手な金色の装飾を取り付けられた一振りの杖に祈るように目を閉じてただ何かを小さく呟いている。その傍らでは、666の数字を刻んだ茶色い本を手にして何かを呟くもの。
 転生陣と呼ばれる魔方陣が円形を形どり、その中央に六坊星を刻んだときだった。
 轟音と共に魔法陣に光の柱が立ち上る。爆発するように膨れ上がった光は、暗闇に沈んだ部屋を刹那照らし出し、そして消え去った。と、同時に、魔方陣の中で何かを呟いていた二人は大きくのけぞった。力そのものが風となって吹き寄せてくるようなプレッシャー。
 魔法陣を中心に何かが存在していた。在るだけで周囲を圧倒する何かが……
 そこでようやく、その場にいた誰もが灯りが消えていることに気付く。部屋は闇に押し包まれ何も見通す事が出来ない。三人の内心にパニックがせりあがって来かけた瞬間、何事もなかったかのように魔導の灯りが再度燈る。
 と、同時に低いながらもよく響く男の声が聞こえてきた。その声にひきつけられるように無意識に顔を向け……そして意識はそこで途切れる。
「わが名はルア・アラストル」
 光り輝く魔方陣の中央で、腕を組んだ一人の金髪の魔族が笑っている。その手に妖しげに光る紫を灯しながら。
「さて諸君、こんにちは? そして……」
 紫色の光は、妖しげにユラユラと揺らめく。そしてその紫の炎が激しく揺れ動いたとき、すでにその場に生気あるのは一人の魔族だけ。その周囲では、最早炎に包まれ、灰と化していた三人のローブがメラメラと燃え上がっている。そしてローブの端キレが塵と化すと同時に、魔族の手に灯る紫色の炎は、渦巻くようにゆれている。
「さようなら、ありがとう。魔方陣のプロテクトが甘すぎたな? すぐに解除できたぞ」
 魔族の手が強く閉じられる。炎は盛大に空へと離散する。最早この世には存在しない誰かに言い捨て、魔族は力を解放する。
 ――同刻、ニフルヘイム観測室から、ムスペルヘイム付近で一つの巨大な火柱が上がったという報告が伝えられる。

 ●

「なんですか、その目は。残念ながら私の頭はどこイカれてはいませんよ?」
いきなり突きつけられたおとぎ話のような語りに、いつしかワイは哀れみの目を向けていた。いやいや、けんどこの状況を他にどう説明すればいいんかワイの頭じゃわからへん。けど、最大の疑問がまだのこっとる。
「……じゃあなんでワイがここにおんの。確かワイ、死んだはずやねんけど」
そう、ワイは確かにトラックに轢かれたハズなんや。なのに、なんでこんなワケの分からん世界で、戦場に立たされて、コーヒー飲んで、謎の回想入れられてんのって話。あれはなんだったのか、あれこそが夢だったのなら、いやな悪夢や。
「死んだからここにいるのですよ」
「ああなるほどー……」
流れとノリと勢いで思わずワケの分からないままに納得してしまう。違う、違うやろ。
「ってんなワケあるかい」
いつの間にかワイの心のうちでは、知らない誰かがちゃぶ台を返し取った。つまりはそれくらいのノリつっこみですといいたいわけや。
「あんまり感情を激しく起伏させるとストレスがたまりますよ?」
 コロコロと笑顔を絶やさないまま、ねえちゃんは言う。いきなり右も左も分からんトコロで魔族がぼーそー? どんなヤツでもそんな話を聞かされたらノリつっこみの一つや二つ、出てもおかしくはないとワイは思う。とにかく、ワイが言いたい事は一つ。
 深々とため息をついた後、ワイはマジメな様子でねえちゃんをにらみつけた。
「なんでもええから、ワイを早くもとの場所へ戻してくれ」
「ああ、それは無理ですよ?」
にらみつけるワイの顔を、ねえちゃんは笑った顔のままに見返す。
「……はあ?」
 あきれた調子でワイは目を丸くする。無理って、なんでやねん。
「ですから、無理なんです」
「だから、なんで」
無理無理と笑顔で言われても、ワイの心は和みはせん。むしろ怒りが込みあがってくる。
 いらだってきたワイの心を貫くように、ねえちゃんは冷たく言い放った。
「だって、あなたもう死んでるんじゃないですか。どこへ帰れるっていうんです」
瞬間、ワイの心が凍りついた。そういや……ワイ確かトラックに轢き飛ばされたんよな。あの場所で。ワイの脳裏に、あの景色が鮮明に映し出される。振り落ちる雨、視界一面の赤。灰色の雲。……ん? 待てよ。
「なんであんたがワイが死んだ事を知ってんの」
 それもそうや。もしここが地球とは違うところで、それでワイが地球から来たヤツとしても。何でワイが死んだのをしッとる。ワイが何をしてたかも分からんヤツが、何故しッとる?
 ねえちゃんが目を閉じて言おうとした瞬間、ワイとねえちゃんの二人だけしかいないはずの部屋の中に、第三の声が生まれた。その声は、どこかで聞いたことがあんねけど、まるで思いだせん。
「私が説明しようか」
 あら、という風にねえちゃんは少し驚きながら、その声の主に顔を向けた。
「もういいの? 雨梨(あめり)さん」
あめりと呼ばれるヤツが、部屋の隅からひょっこりと姿を現す。そいつの見た目は――……。
 頭がワイの肩ほどまでしかない小さな身長に不相応な豊かな胸。見たことのある制服。そして頭の上で踊るツインテール。その顔は、あの時、あの場所で見たことのあるカワイイ顔。
「――え?」
ワイの記憶に今も焼きついてるあの姿と、声の主はうりふたつ。つーか同一人物。なんで、なんでなんでなんで。なんであんたがここにおんの。なんであんたがここでしゃべってんの。
 死んだはずのあんたが、なんで……。
 見開いたワイの眼の向こうでは、あの子がにっこりと笑顔を作っている。
「私、雨宮雨梨。よろしく?」

 
 5  リーフとルシルド


 「あ……あ……」
ワイの頭はずっと混乱しとる。頭の中でうーうーと何かの警報が鳴り響き、ワイの脳細胞が総動員で状況の把握を試みようとがんばっとる。けれども細胞さん達の努力も三秒で無に帰る。状況判断? できるかボケ。
 ワイはただ声も出せずに女の子を指差し取る。
 気付けば、ワイは大声を張り上げながらベッドから転がり落ちていた。
「あああああああッ」
女の子が驚く前でワイは感じる痛みを我慢しながら立ち上がり、しぶといまでに女の子を指差す。女の子は何だこの人みたいな視線をワイに投げながらも、ポンっと開いた手のひら握った拳を置いてひらめきのポーズをとりながら言った。
「あーあー、あの時の、って言っても顔も知らないんだけどね……首だけ地面向いてたし」
 そう言った後、軽くシシっと笑ってみせる。まるで笑えないような出来事だったのに笑えるこの子は何や。
 未だに頭の中が混乱している。さっきまでがんばって整理していた事がすべて崩れ落ちている。分からない、何もわからん。考える気がおきへんっちゅーかもういっそワイを殺せ。いややっぱ死ぬのはカンベン。
 少し間をおいて、ワイの心と頭が何とか回復してきた。良いたい事も整理できた。いくで、3,2,1、
「なんでアンタ生きてるん?」
 出た、これが言いたかった。よし、よく言ったワイ。よく言いたいことを整理できた、ワイの脳。
 そんなワイの苦悩の末にひきしぼった問いを吹き飛ばすように、女の子はワイの手首を握った。
「まあまあ、とりあえずこんなところでもなんだから外いこ、外」「え? お、お、ちょ……ま、マテやッ」
 女の子のものとは思えないほどの力。ふりほどきたくふりほどけない。なんや、この子の腕の中にはどれほどの筋肉つまっとるんや。てういかこんな女の子の力ぐらい、ワイのマジモードで簡単にふりほどいたるわああああ。
 心の叫びは何処にも届かず、ワイの体はただ女の子に引きずられるだけやった。


 ●


 ――ファリウス城

「お母さん、やっぱりもっと援軍を送ったほうが良いと思うよ」
 ドアをくぐり、簡素な執務室に入ったルシルド・ファリウスは、そこに目的の人物がいるのを確認すると、何の前置きもなしに切り出した。彼の母親でもあり、主君でもあるアナスタシア・ファリウスは仕事の手を止めて顔を上げる。ここ暫く休憩も無しに働きづめだった彼女の顔に、疲労の色はまるで見られない。アナスタシアは手にしていた書類の束を机の上に置き、傍らに置かれたお茶で喉を潤すとルシルドに顔を向けた。
「どうしてもっと送ったほうがいいと思うの?」
 どこか試すようなアナスタシアの態度に、ルシルドはそれに気付かない様子で答える。
「だってー、あっちが潰れちゃうとここにも妖魔達は出てくるよ?」
「ふふ、まあいいのいいの」
 ルシルドの言い分をサラリと受け流し、アナスタシアはにっこりと微笑んだ。そして、次の瞬間には顔を引き締めて、ルシルドに一枚の書類を手渡した。
「これなに、お母さん?」
「それはねー。今さっきニフルヘイムに出した使いのものに持たせた文書のコピーよ」
「ええーと…………これって」
 ルシルドが手にした書類に書き留められていた内容は、ニフルヘイムに対する勧誘状。
「つまりはー……こっちに来いって事だよね、国を捨てて……」
「ま、そゆことよ」

 『ニフルヘイム国王女。ルナ・ゲイルズ・ニフルヘイム。
 ……ファリウス城への逃亡を開始してください。
 ――アナスタシア・ファリウス』

 この文章を読んでどうやったら勧誘状に行き着くのか。親子の間でしか分からない何かを疑問に思う瞬間。
「それでね、ルシルド。貴方にお願いがあるんだけど」
「えっ? 何、お母さん?」
 いきなりの母の豹変に、少しうろたえながらも答えるルシルドに、アナスタシアは実に楽しそうに依頼内容を暴露した。
「リーフくんを迎えにいってほしいの」
 その言葉にあっと驚くルシルドを見て、アナスタシアはくすくすと笑った。
 彼女の甥に当たるリーフ・クラシスは現在辺境で暴れまわっている盗賊団の討伐に遠征している。アナスタシアは自分の息子が従兄弟に対して尊敬の念を抱いているのを良く知っていた。
「あなたの言うとおり、援軍は送るわ。けど、それまでのここまでの案内役をリーフくんとあなたに頼みたいの。行ってくれる、ルシルド?」
「分かった! 支度を整えたらすぐに行くよ!」
 言うや否や、ルシルドは転がるように執務室を後にする。その背中を微笑みで見送ったアナスタシアは、表情を引き締めると手を叩いた。
「誰か!」
 すぐさま、天井から降り立つという不思議な登場の仕方をして現れた部下に、アナスタシアは机の引き出しより一通の手紙を取り出しそれを手渡した。
「これを……砲封院に届けてください」
 なるべく急いで、と付け足したアナスタシアの言葉を耳に入れると、はじかれるように部下は部屋を出て行った。
「……これほど妖魔の進行が早いなんて。彼を行かせたのは失敗だったかしら。リーフくん、間に合うと良いけど」
 呟くアナスタシアの願いもむなしく、この時既に『氷絶』は陥落していた。事態は、彼女ですら想像しえない速さで進行していた。

 
 ●

 
 辺境の町……そう記すと寂れた、とか人影もない、などの形容詞がつくと考えるのが普通かもしれないが、どうやらこの町はその範疇には入らないようだった。町の中央通りの両側には、様々な店が並んでおり、主街道から外れている割には人通りも多かった。
 その中央通りを、一人の青年がブラブラと店先を覗きながら歩いていた。盗賊団討伐隊長にして『剣舞(ソード・ダンサー)』の異名を掲げるリーフ・クラシスは、店先に並んだ果実に目をつけて、店の奥で「らっしゃいらっしゃいー」と商品棚をハリセンで何度も殴りつけているオヤジに金を出しながら話しかけた。
 ちなみに、名称は討伐隊となっているが、隊員は彼一人だけだったりする。アース西部辺境地域に跳梁跋扈する盗賊団により被害にあった町々が中央に訴えた結果、予算の関係と、妖魔との関係悪化から軍隊を投入することは却下され、選抜の結果、彼一人が派遣されるという事となったのだ。当初、長くはかからないと思われた盗賊討伐であったが、予想外に多数の盗賊団が活動しており、さっそく二つの盗賊団を壊滅させたところで、他の盗賊団が警戒して活動を停滞させたため炙り出すのに思ったよりも時間が掛かってしまった。結局三ヶ月粘った末に盗賊団の根絶に成功したリーフは今、アース城への帰還準備も終え、町をブラブラと散歩していた。
「ん?」
 ふと後方に気配を感じたリーフは、ひょいと横に動き、ぬいと足を差し出す。
「ええええええッ」
 後ろからリーフに突貫しようとした物体は、「あーいー日だなー」とわざとらしく空を見上げながら果実にかじりついているリーフの足に見事に引っかかり、鳴き声を発しながら滞空する。勢いはとまることなく、物体は前方にまあ運悪く存在していた大木に顔面からつっこむ。衝突音が聞こえた後、物体は顔面をずりずりと幹に滑らせながら地面へと力なく落ちる。
「うん、見事なヘッドバッティングだルシルド。それなら装甲兵どころか硬壁妖魔にも充分致命傷を与えられるぞ」
 物体ことルシルド・ファリウスは、顔面をおさえながらゆっくりと立ち上がった。そしてうつむいたまま黙り込むこと数秒。褒められたにもかかわらずえらく怒りだした。
「ひどいよリーフ! いきなり躓かせるなんて、ってそれはともかくね」
 怒りの感情を完璧に押さえ込んだルシルドは、手短に用件を伝えようと、懐から勧誘状のコピーを取り出した。なんだそれ、とそれを受け取ったリーフの顔が、真っ青に染まる。
「……あの人も随分とひどいことさせるな」
 南無、と両手を合掌させたリーフに、ルシルドは付け足すように言った。
「それでね、お母さんが案内役を僕とリーフに頼むって……」
 うげっとあからさまに嫌そうな表情を浮かべるリーフの腕を引っ張って、ルシルドはさあいくぞうと声を上げて歩く。こんな調子で案内役が出来るかどうか、いささか不安に思う瞬間であった。

 
 ●

 
 異様な緊迫感に静まり返った会議室の中で、一人の女性が窓際から眼下に広がる光景をじっと見つめていた。ウェーブを描く豊かな髪と、どこか醒めた瞳を持つ女性。彼女のことをある者は『凍れる心(コールド・ハート)』と呼び、ある者は『炎の女帝(エンプレス・オブ・フレイム)』と呼ぶ。相反する氷と炎の魂を持つ女。『氷炎公主(プリンセス・オブ・アイス・アンド・フレイム)』ルナ・ゲイルズ・ニフルヘイム。ニフルヘイム王国の歴史上初めての女王である。その女王のクール・フェイスは今、苦々しげに歪められていた。
「どうやら完全に引っ掛けられたようね」
 彼女の眼下に広がる『白門』はすでに妖魔で溢れかえっており、すでに城は包囲されている。一度『氷絶』へと引き返した妖魔の群れが、その力を外部に向けていた。
 ……つまりは侵略である。一度撤退した妖魔の群れを見て、誰もが一時の安堵に包まれていた。妖魔のニフルヘイム侵攻を開始したのはまさにその直後であった。妖魔の群れは大陸南西部ニフルヘイム王国への電撃侵攻を開始、戦時体制を解除したばかりだったニフルヘイムは完全に不意をつかれ、王国北部のわずかな抵抗を退けた進行部隊による王国方位を許していた。
「俺の……責任ですッ」
 唇をかみ締め搾り出すように悔恨の言葉を発したサクライ・ツバメの表情は普段の明るさを影に潜め蒼白となっていた。確認されている上級魔族『バンダースナッチ』率いる先遣部隊、陸戦妖魔『キメラ』およそ六〇〇〇は緊張緩和により弛緩しきっていた国境警備隊を一瞬で粉砕し、妖魔侵攻の報が届くよりも速い速度で王国領内を進撃し、王国内でも北寄りに位置している「白門」への侵入に成功する。
 一方の王国は完全に後手に回っていた。長期に渡って維持すると、何かと経済面で不都合の出てくる戦時体制を解除した直後であったため「白門」に、一時的だが全く戦力が存在しなかったのだ。王国を守護すべき存在である主力軍の打撃騎士団(ストライク・ナイツ)も現在「白門」から離れており、包囲されているスノーゲート城内には約一〇〇〇の兵がいるのみであった。その兵すらも近衛警備隊という貴族の師弟が集まった名目的な代物に過ぎない有様である。王国の軍部を統括する軍務宰相であるサクライが打開しようもない情勢に蒼白となるのも無理はなかった。
「戦時体制解除を許可したのは私よ。それに今更責任をどうこう言ってもしょうがないじゃない」
 静かな瞳でサクライを見据えたルナは、諭すように言った。
「問題はこれからどうするか……でしょ?」
「……でも、このままじゃどうにもならない」
 王国の誇るニフルヘイム打撃騎士団(ストライク・ナイツ)の団長であり、王国最強の剣士の一人でもあるナギは、あまり感情のこもらぬ口調で答える。彼女自身、単身王国に赴いていたため率いる部隊がない状況であり対処する方法も思いつかなかった。
「だったら逃げるしかないんじゃないか?」
「逃げちゃうんですか?」
 サクライは非難というより確認といったトーンでライラの発言に問い返した。
「しかたないでしょう、このままじゃ一時間も持ちませんよ」
 ヒイ・ライラが弱気になるのも仕方ないといえるだろう。城に篭る一〇〇〇の兵は近衛警備隊長であるライラの直属の部隊であり、彼にはその情けない実力はいやになるほど分かっていた。この隊長職はかつて無役の素浪人として城に居着いていた彼に体よく押し付けられたものであったが、それなりに訓練してみたものの全く使い物にならなかった連中である。とても六倍の敵を相手に戦えるはずもなかった。
「でもどうやって?」
「そうよ、完全に包囲されているこの状況でどうやって逃げ出せる?」
 確かに城は何重にも包囲されているこの状況では城の外に出ることすらままならない。この行き詰まったような状況を壊すようにこれまで一言も喋らずに部屋の端に佇んでいた男が尊大ともいえる口調で言葉を発した。
「抜け穴の一つでもあるだろう? なぜそれをつかわないのかね」
「抜け穴の一つや二つぐらいあるわよ。でも城を抜け出したところで帝国は直ぐに追撃隊を出すんじゃないかしら? 違う? クゼ侯爵殿」
 凍りつくような視線を男に向けながらルナが冷ややかな声音で応えた。嫌いだという感情を隠そうともしない。実際その男は有能だがその分性格も歪んでいると嫌う者も多い。ニフルヘイム王国防諜局長官を勤めるクゼはその評判に違わぬ歪んだ笑みを浮かべる。
「ここに残ってもしょうがないだろう。それともここで潔く死にたいとでも言うつもりかね?」
「いいえ、お断りだわ」
 きっぱりと答えるルナに「ふん」と鼻を鳴らしクゼは話を続ける。
「ならばさっさとその抜け穴で逃げ出すことだな。じきに城内にも敵兵が侵入してくるだろう。もっとも……だれかが残って、時間を稼がんことにはろくに逃げ出すこともできんだろうがな」
 そのクゼの最後の言葉に俯き加減に佇んでいたサクライの肩が幽かに震えた。
「俺が……俺が残ります」
「ツバメ!!」
 その言葉に彼女の親友であるナギが過敏に反応する。当たり前だ。ここで残るということは死ぬということと同じ意味と言っていい。
「そんなこと!! 許可できませんよサクライさん」
 強い調子で詰め寄るナギとルナに首をふりつつサクライはいつもの笑みを浮かべた。
「だいじょーぶです。それに、これは俺の責任だから」
「サクライさん!!」
 それでも止めようとするルナを遮るようにサクライは決然とした口調で命令を下す。
「ナギ、ライラさん。陛下を連れて脱出してください。これは軍務宰相としての命令ですッ」
「ちょっと、ナギさん、ライラくん! 王女の私を無視して宰相の命令を聞くつもり!?」
 板ばさみの状況に戸惑うライラにサクライの一言が背中を押す。
「ライラさん! ルナさんをむざむざ殺すつもりですか?」
 この言葉にはっとしたライラは思いを振り切るようにサクライに一礼すると、ルナの体を軽々と引っ担いだ。
「ちょっ、ちょっとライラくん!」
「あはは〜〜うるさいようならはたき倒して静かにさせちゃったほうがいいですよ〜」
 立ち去るライラの背にちょっと危ないセリフを投げかけるサクライにチラリと意味ありげな視線を向けたクゼも「僕も準備があるのでね」と呟き部屋を出て行く。
 広間に集まった人影が消え、ただ二人だけが残った。
「ナギ……。ナギも早く行って」
 ふるふると首を振るナギに諭すように優しく呼びかける。
「ナギは騎士団長だよ。こんなところで死んじゃだめだよ。だから早く 」
「あなたは大丈夫って言った。だから私も大丈夫」
 サクライの言葉を遮ってナギはまっすぐにサクライを見つめる。その真摯な思いを込めた瞳にサクライは言葉を詰まらせた。
 そんな目をされたら、何を言ったら良いかわからないよ、ナギ
 沈黙の広がった広間に一人の人影が入ってきたのにサクライは気付いた。まるで止まった時間を動かすように、そんな思いを浮かべながらサクライはその人影に声をかけた。
「クゼさん。まだいらっしゃったんですか? ナギを連れて早く行って下さい」
 クゼは自分に向かって殺気すら込めた視線を送るナギに顔をしかめながらも彼女たちのもとに歩み寄った。そして自分とサクライを離れ離れにするつもりなら容赦しないとばかりに威嚇するナギを睨み返し、サクライに向かって言った。
「僕では彼女を無理やり連れて行くなどということは無理ですな。だいいち僕は彼女と一緒に行くつもりはありませんよ」
 そしてサクライの傍らに立ったクゼは続きを耳元で囁いた。
「彼女と一緒に行くのは君だ。サクライ」
「え?」
 戸惑ったサクライの表情が衝撃に歪み、意識が薄れていく。クゼの拳が彼の鳩尾へと叩き込まれていた。
「クゼ!? 貴様!!」
 そして剣を抜こうとするナギにサクライの体を預ける。慌てて抱きとめるナギ。
「クゼさん……どう、して」
 ナギに支えられ薄れゆく意識を必死に保ちつつサクライはクゼに問い掛ける。
「悪いが君では時間稼ぎもできないでしょう。この城の全てを君は知り尽くしてはいないですしね。それに、責任というならば情報を統括している僕の方が責任が重い」
「あなたは……最初から……」
 そこまでいうとサクライは意識を失った。
「……君はまだこの国に必要な人だ……」
 この国の人間が誰も聞いたことがないような優しげな声で呟いたクゼは元の嫌味な口調でナギに向かって言った。
「さっさと行け。城のトラップ群を起動したからな、じきに大騒ぎになるぞ」
 サクライを背負ったナギは何か言いたげに口を開きかけたが、そのまま何も言わずに足早に広間を出て行った。クゼは自嘲するような笑みを浮かべる。
「ふんっ……ガラじゃないんだがな」
 そう呟くとクゼは広間を後にし、彼の戦いの場へと向かった。
「さて、この城は僕の掌の上だ。妖魔のバカどもにはせいぜい長い間踊ってもらおうか」
 彼の言葉に被さるように爆発音が当たりに炸裂している。
 この城のトラップはある事情で頻繁に破壊される城内の修復を担当していたクゼが趣味で設置させていたものであり、その全てがクゼの思うがままに動く代物である。まさにクゼの言葉通り、城内に侵入した妖魔は彼の掌の上にいたと言ってもいい。

 妖魔軍史上最悪の攻城戦と伝えられることとなるスノーゲート攻城戦における妖魔の大混乱は、今まさに始まったばかりであった。


 6


 圧倒的戦力を持ってニフルヘイム城スノーゲートへと突入した『皇帝の赤き牙(ロート・ファング・デア・カイゼル)』ことバンダースナッチ率いる妖魔の部隊は、莫大な数のトラップに襲われた。城内は古代遺跡を彷彿とさせる悪辣な罠が各所に配備され、皇族・重臣の身柄を確保しようと勇躍突入した妖魔たちを恐怖のどん底に叩き込んだ。あくまで本能のままに動く『動物』であって、トレジャーハンターではない妖魔部隊はこの事態にパニックを引き起こし被害を加速度的に増加させていく。
 バンダースナッチ自身が野戦を得意とするタイプであり、城攻めはあまり得手としないことも災いした。
 彼は城内で起こっている混乱の把握に失敗(彼は良くも悪くも常識的な思考の持ち主であり城がトラップの巣窟などとは想像もしていなかった)逐次に戦力を投入しつづけたことも被害増大の一因となる。だが兵力に勝る妖魔を前にトラップは徐々にその数を減らし、城中枢へと到達する妖魔の数も増えてきていた。そして城内トラップ群の統括管制を行っていたクゼ侯爵のもとにも戦闘は及び始めていた。
「ちぃ、面倒な」
 荒い息を整える久瀬の足元にはたった今息絶えたと思われる長い毛なみに覆われた狼方の妖魔の死体がすでに20を超えている。『静寂の魔導師(シュティーレ・ツァウベラー)』と有名なツバメ・サクライに匹敵する魔導の使い手であるクゼではあったが、このままではじきに手詰まりとなることは明らかであった。
 消費した魔力を補おうと、やっと息を整えようとした矢先に妖魔のカタコトの声が響いた。
「オイ! コッチニ誰カイルゾ! 早ク来イ」
「……ふんッ」
 絶体絶命のピンチというシチュエーションに、クゼはつまらなそうに鼻を鳴らすだけで答え、残り少ない魔力を集中し始めた。が
「ナンダ!? 貴様っギャッッ」
 いきなり剣戟の戦場音が聞こえ、悲鳴が響いたと思うとあたりは静寂に包まれる。直後、カツンカツンと硬質的な足音がフロアに響き渡る。何事かと暫く様子を窺っていたクゼの眼下に移る影に、剣を持った二足歩行をする物体の姿を見た。警戒しつつ、いつでも魔力を開放できるように態勢を整えたクゼは、現れた物体に驚愕の声をあげた。
「ナギフウカ!? 貴様、何故こんなところにいる!?」
 クゼの眼前には、既にツバメサクライと共に城を出たはずのナギフウカが血に塗れた剣を下げ、無造作に佇んでいた。驚くクゼにナギはジロリと視線を送ると、
「……ついてきて」
 と無愛想に言い放ち、後も振り返らず歩き出した。予想外の展開に少々呆然としていたクゼだったが、慌てて彼女の後を追いつつ怒鳴りつけた。
「なぜここにいると聞いている!!」
「……戻った」
  やはり振り返りもしないで、歩きながらナギは答える。その様にいらついたクゼは、ナギの肩を引っつかみ、おもいっきり自分の方へとナギを向かせた。
 「戻っただと!? 愚かな、自殺行為だぞ、なぜ戻ったのだ!?」
「ツバメがお前を連れに戻ろうとしたから、だから私が来た」
 真正面から見たナギの目に表れる炎に、クゼは思わず息を飲んだ。何故自分を嫌うナギがわざわざ危険を侵し助けに来たのかようやく合点がいったのだ。ツバメサクライは自分のために他人を犠牲できない人間だ。故にクゼを残して逃げることを善しとしようとしなかったのだろう。ここでクゼを見捨てて逃げれば彼女は決して自分を許せない。彼女の責任ではないのにもかかわらず。
 ならばどうしたらいいのか。クゼを助ければいい。ナギはそう判断したのだろう。無論、サクライはそんなナギの危険な行為を許すはずはないだろうが、無理やり抜け出してきたのだろう。
「それにツバメが言ってた。クゼもまだこの国に必要な人間だって」
 その一言を聞いて、一瞬あっけにとられたクゼは無性に笑い出したくなった。それがどういう類の笑いの衝動なのかは彼自身も分からない。嬉しさゆえか自嘲か、それとも呆れたのか。
「……ふんっ。当たり前だ、僕がいないとこの国は立ち行かないのだよ」
 ナギが嫌そうな顔をしているのが見えたが全く気にしない。普段のどこか歪んでいるクゼが戻り始めていた。
「それで、どこから脱出するのだ? まさか分からなくなったなどとは言わないだろうな」
 尊大な調子で喋るクゼにどこか呆れたような雰囲気を浮かべ、あっちと前方の小部屋を指差す。だが、その方角から多数の妖魔の気配が近づいてきていた。シャン、とナギの腰にぶら下った剣が、銀色の光を帯びた。まるで妖魔の気配を察知したように。
 チっと舌打ちをクゼは、軽いため息を吐きながらめんどくさそうに呟く。
「どうやらもう一暴れしなければならないようだな。全く……僕のような人間は肉体労働はあまりするべきではないのだが」
 尚も、ぶつぶつと呟きながら魔力を編み始めるクゼを横目に、ナギも無言で愛剣を抜き放った。クゼらの佇むホールの入間に、数匹の妖魔の影が出現する。それを見たナギは、眉をひそめて抜き放った剣を構える。
 魔力を編み終わったクゼも、小型の魔方陣を手のひらに出現させ、臨戦態勢を整えた。彼ら二人の脱出行はまだ始まったばかりであった。
 
 
 ●

 
 城の抜け道を使い、脱出した人数は30人に満たなかった。城詰の近衛警備隊はろくな抵抗もせず降伏、重臣の多くもニフルヘイムに見切りをつけて妖魔軍に投降した。殺されるとも知らずに。
 付き従った兵を除けば、主なメンバーはサクライ・ツバメと、女王ルナ・ゲイルズ・ニフルヘイム、近衛兵団隊長ヒイ・ライラ、そしてルナ・ゲイルズ・ニフルヘイムが妹、リンク・ゲイルズ・ニフルヘイムの4名だけであった。ツバメを連れて追いついたナギフウカは、周囲が押し留めるのも聞かず城にとって返してしまっている。城が妖魔で埋まっている状況を考えると無事という言葉は想像できない。ツバメサクライはナギを行かせてしまったことを悔やみきっていた。ナギが城に戻るということを決めてしまったのは明らかに自分のせいである。これは自分が行かなければならなかったことだ。だがもはや彼女に出来ることはナギとクゼの無事を祈ることだけであった。
「ナギ、クゼさん。どうか無事に俺に元気な顔を見せてください。お願いします」
 普段の彼の明るさ爆発といった性格を知る者から見れば、今のサクライの様子はあまりに痛々しかった。そんな彼を、ライラは付きっきりで励ましていた。
「大丈夫ですよ。二人ともとっても強いじゃないですか。だから絶対戻ってきます。大丈夫、信じて待ちましょう」
 その言葉に、サクライは少しだけ表情を緩めライラに頷いた。
 城からの脱出に成功した一行は、城の裏手の森へと通じていた抜け穴を出てしばらく前進し、現在はライラが前方の安全を確かめて来るのを待っている状況であった。さらに付け加えるなら、ナギたちが戻ってくるのを待っているともいう。しかしあまり時間が無いのも確かだった。いつここまで妖魔が足を進めてくるか分からないうえ、捕まって生かされた重臣がいつこの抜け道の事を吐くか、を考慮すると、身の危険は明らかだった。
「大丈夫だ、こっちにはまだ誰もいないみたいだぜ」
 先行しての単独偵察から戻ったライラの第一声がそれだった。一行に安堵の表情が広がる、少なくとも先回りはされていない。
「で? 森を抜けた後はどうするつもりなんだ、ルナ?」
 ライラの発した言葉に、一同の注目は自然とルナへと集まる。
 そう、皇都を奪われながらも妖魔との戦いを止めるつもりの無いルナたちは、どこかに身を寄せなければならない。しかし妖魔有利のなか、王国内の豪族のなかにはムスペルヘイムへの鞍替えを行う者もでてくるだろう。となると信頼でき、かつ妖魔に対抗できる戦力を有する者を探さなくてはならない。そしてそれは酷く限定されることになる。
 しかしルナは、特に迷うこともなくライラの問いに答えた。
「決まってるでしょ……ファリウス大公爵家を頼るわ」
 その答えを聞いた一行の疲れきった顔に生気が戻る。そうだ……我々にはまだファリウスがいる。その場にいる全員の心が、そう叫んでいた。絶望にも似た表情を浮かべていた連中を立ち直らせる、ファリウス大公爵家の名はそれほどの名声を以って響き渡っていた。
「そうですよ。私たちにはまだあのアナスタシアさんがついてるんです。みんなまだ終わってなんていません」
 そうやって一生懸命みんなを元気付けようとするリンクを、滅多に見せない優しい眼差しで見つめるルナにライラが近づき、周りに聞こえないように話しかけた。
「さすが女王陛下ってところか。元気なかった奴らがとたん生き生きしてきやがったじゃないか」
「なにいってるのよ。ファリウスの名前を言わせたのはあんたでしょ」
「さあ、なんのことやら……しかし水瀬の名声は凄いな」
「まあね」
 ファリウス大公爵家−王族ニフルヘイム家の最大の後ろ盾として知られる名家である。ルナの父親である前国王とファリウス大公爵は地位を越えた親友同士として有名で、ファリウス大公は国王の補佐役として影に日向に親友を助けつづけた。ファリウス大公が若くして亡くなり、国王もその数年後に崩御した後も同家は王家の最大の保護者であった。事実上王国の政治を動かしたとして、一躍名を高めたファリウス家が、その立役者である先代当主の死後も名望を保った、いや以前よりも名声を高めたのは現当主の類稀なる才幹によるものである。
 現当主の名はアナスタシア・ファリウス。先代公爵の夫人であり、夫の死後、大公家を継いだ才媛である。当初は女性の身で大領を差配するのは無理という声が高かったが、彼女が下す的確かつ革新的な裁断を前に声は細くなっていった。そんな中でも彼女が特に才能を示したのが軍事であった。
 元々強軍として知られていたファリウス公爵軍をさらに徹底的に鍛え直した結果、大陸最強とまで言われる軍が作り上げられた。青に統一された装飾から「完全なる青(パーフェクト・ブルー)」と呼ばれる彼らを前にして敗走しなかった軍はなかった。
「ほんじゃま、さっさと行こうか」
せかすように言ういうライラに、ルナはキっと眼を吊り上げて目線をチラリ、とまだ心配そうに佇むサクライに向けてライラに言い放つ。
 ライラは噛み付きそうなルナをどうどうと押えながら、いつも彼女にちょっかいを出すようなニヤニヤとした薄笑いを浮かべて何事もないように言った。
「ああ……あの二人なら俺が連れて来るよ」
 あまりにさり気なく発せられたため、ルナはしばらくその言葉の意味を把握できなかった。
「なっ、なっ、なに考えてるのよ。連れてくるってどうするつもり? まさか城まで戻ってなんて言うんじゃないでしょうね! 馬鹿言わないで! あんたみたいな弱っちいのがいってなんとかなるわけないでしょ」
「弱っちいって……この天才を捕まえて何を言うかね。大体あの二人、俺達のいる場所知らないし、これからどこに向かうかも知らないんだぞ。このままだと別れ別れになっちまうだろ? ちょっと迎えにいくだけだから心配すんなって」
 それだけいうと、ライラはさっさと兵士たちに彼女らを守って先にいくように命令し、城の方角に向けて歩き始めた。その彼を、一部始終見ていたサクライが呼び止める。辛そうな表情を浮かべ、サクライは難しそうに笑顔を見せた。
「ライラさん……ナギを……二人を頼みます」
「いやだなあサクライさん。俺はちょっと迎えにいくだけですよ? あの二人なら……ナギ先輩なら自分でなんとかしてますよ。……じゃあすぐに帰りますんで」
 背中を向けながらヒラヒラと手を振るヒイ・ライラの背中に、サクライは深々と礼をした。
「ちょっと! ライラ君!!」
 なにか言おうとするルナに、ライラは振り返らずまたもヒラヒラと手を振りながら森の中に消えていった。その背中を見送ることしか出来ないルナは、悔しそうに唇をかみ締めた。
 

 ●

 
 森を走る二人は、どう控えめに見てもボロボロとしか言いようが無い状態だった。ナギとクゼの二人は、森に出るまでに八〇匹近い妖魔の数と渡り合っていた。特にナギと合流する前から魔術を連発していたクゼの疲労はピークに達している。だからといって置いていけなどという愁傷な言葉が彼から発せられることはあるはずもなかったが。森に出た後は妖魔とは遭遇せず、追跡を受けている様子もなかったが、ナギは緊張を解かなかった。まだここは安全とはいえない、城がほぼ陥落した以上妖魔郡は女王たちが城を脱出したことに気が付いているはず、ならば城の裏手にあるこの森にまで探索の兵を回してくる可能性は高かった。
 ふとナギの足が止まる。
「どうした、フウカ?」
「……誰かいる」
  ナギは腰に下げた剣に手をかけ、静かに呟く。その言葉にクゼの顔に緊張が走った。この状態では妖魔と戦う余力はもうない。これまでかという言葉が浮かぶが、彼もナギもあきらめるつもりはなかった。疲労に固まった体で構える。だが
「貴様は!!」
「……ライラ」
 ヘラヘラと気合の入らない笑みを浮かべ、草むらから姿を現した人物は二人のよく知る男だった。栗色の頭に、飛び跳ねたアンテナのような髪の毛が2,3本生えている男。ヒイライラ。
「よう! ナギ先輩にクゼの旦那。何とか無事みたいだな?」
「ライラ、貴様なぜ一人でこんなところにいる。陛下たちはどこにいる。まさか逃げ出してきたわけではあるまいな?」
 クイっと親指を、今自分が来た方向へとライラは差し向けた。
「ゲイルたちなら先にいってもらったよ。しかしひでぇな、わざわざ迎えに来たのにそんないいかたしなくても」
 どこか拗ねたような態度のライラに、クゼは蔑むように言葉を続ける。
「馬鹿め。貴様のような雑魚が敵兵と出くわしたら一瞬で死ぬぞ」
「雑魚ってなんだよ雑魚って、俺は雑魚なんかじゃねぇぞ!! っあ、先輩! サクライさんが心配してたぜ」
 突如話題を切り替えたライラの言葉に、ナギはコクリと頷いた。その無表情がどこか嬉しげだったのは気のせいだろうか。きびすを返して、森の奥へと指差したライラは笑いながら言った。
「じゃあさっさと元気な顔みせて安心させにいこうぜ」
「ふんっ、まあいい。行くぞ」
「……分かった」
 先に進み始めた二人について歩きだしたナギは、ふと違和感を感じ、足を止めて周囲を見渡した。
「血の……臭い?」
 自身の返り血などでいままで気付かなかったが辺りには確かに幽かに血臭が漂っていた。そして注意深く見ると森のあちこちに戦闘の後と見られる傷がある。大きい何かに幹を抉り取られた大木。砕かれた巨岩の数々。一刀両断に切り払われた草むら。そして、まばらに地面に付着している血液。
 そしてナギはそれを見つけた。
「妖魔の……死体?」
 草むらの影に見えた倒れている妖魔。それは爪をむき出しにして、明らかに戦位をむき出しにしていた妖魔。何かと戦っていたのだろうか?
 そしてその奥にも、森の奥へと続くように同じように倒れている妖魔がいくつか見えた。
 いったい誰が? ナギは前方を歩くライラに視線を向ける。状況からいってやったのはここにいたライラしかいない、しかし。
 ナギは先ほどクゼがライラのことを雑魚と言っていたのを思い出す。クゼほどの辛辣な意見ではないものの、ナギもライラの腕に関してはさほどの評価を持っていなかった。これはライラを知るものに共通する認識でもある。彼が期待されていたのはあくまルナのお守(つまりストレス発散の標的)であり、道化役でしかなかった。その道化が行きすぎ、城の修理の原因になっていたのは言うまでもない。その際、クゼが自分の趣味を取り入れ、トラップを設置していた。
 そもそもライラが戦っている場面を見たことがあるものがいなかった。訓練ですら天才には必要ないといってやろうとはしない、といって隠れて特訓でもしているかと思えばなにかやっている様子も窺えなかった。なにより腕というのは日常の何気ない動作にも現れるものである。ライラの普段の動きはあまりに素人くさかった。だからこそ、ライラの実力を大したものではないと評価していたのだが。
「先輩? なにやってんだ? 置いてくぜ」
 つい来ないナギを不思議そうに見ていたライラを、注意深く観察するように凝視すると、何も言わずに足を進めた。

 
 ●

 
「まだ見つからないだと?」
 王都攻撃軍を指揮するバンダースナッチは、焦りを抑えることができなかった。
 簡単に陥したはずの城は異常な数のトラップのオンパレードで被害続出。そのうえ捕獲できたのはどうでもいい重臣どもだけ。最優先で捕らえるべき連中の悉くが消息不明となれば彼が焦るのも無理もなかった。
「もはや城にはいないのでは?」
 側近の言葉にバンダースナッチは頷きつつも密かに毒づいた。
 そんなことはわかってるんだ。知りたいのはどこにいるかだ。
 側近の進言が妥当であるのは矢島にも分かっていたがだからといって彼らがどこにいったかが判明しなければあまり意味がない。
「森に向かわせた一隊からの連絡は?」
「いまだありません」
 その答えにバンダースナッチは少しうつむいた。
「抜け道があるとするなら森じゃないかと思ったんだがな」
 なにか見つけたら報告を寄越すだろうと、バンダースナッチは森に派遣した部隊のことを思考から除外した。その後、バンダースナッチは市街地をしらみ潰しに捜索することを決定、軍勢を城下へと向けた。結局市街捜索は、拷問した重臣の口から抜け道の出口が漏れる翌日まで続けられる。そしてついに帰ってこなかった捜索隊58匹名が森で斬殺死体となって見つかったのはその翌日だった。何故帰ってこない捜索隊が丸一日も放置されていたのかは定かではない。それだけ妖魔郡の混乱が酷かったとも伝えられるがすぐに連絡を寄越さない     
 捜索隊に増援を送れば早期に脱出するルナ・ゲイルズ・ニフルヘイム一行に追いつけた可能性が高かったと思われる。
 この件に対してのバンダースナッチは、なんの発言も残していない。


 ●


 「ナギ!」
 「……ツバメ、ごめん」
 ナギの姿を見つけるや否や、急いで駆けつけたサクライはナギの体にしがみついた。ナギの言葉に何か言い返そうとして言葉が出てこず、ただひたすら首を振りながら舞を離すまいとしがみつづけたた。どうしていいかわからず、ただ困り続けてるナギは、とりあえずサクライの頭の上に手を添えた。
「ライラ君、ご苦労様」
「おう……ぐぇ」
 感動の再会シーンを、涙をハンカチで拭きながら堪能していたライラはルナの声に振り返るといきなり頭頂部に衝撃を受けた。見ると、そこにはライラ専用カイザーナックルを装着したルナの姿が。さり気にカイザーナックルにこびりついている血を無視するように、ライラは言った。
「ってぇ、なにすんだよッ」
「あんたってばわたしの言うことを全く聞かないんだから、このくらいですんで感謝して欲しいわね」
 後頭部をさすり続けながらぼやくライラをにらみながらルナは言う。その様にぶーぶーとブーイングをたらしながらライラは不満の表情を顔に出す。
「うわ、ひでぇ」
「なによ」
「いえ、なんでも……」
 一睨みでライラを黙らせたルナは、一行より少し離れたトコロにある大木に持たれかけ、何か考え事をしているクゼの方に振り返った。
「クゼ侯爵、今回は助かったわ。ありがとう」
 人々の輪に入らないクゼは、その言葉に片目を薄く開けてルナの方を見ると、「ふん」と鼻を鳴らして再び眼を閉じてしまった。うわ、すげえと、クゼの態度に思わず心の中で息を呑んだライラは、恐る恐る傍らを覗き見る。予想通りルナは無表情だったが、プルプルと震えている拳が彼女の心中を表していた。今頃彼女の心中ではメラメラと何かが燃え上がっているに違いないのだろう。
 八つ当たりを受けるのは俺なのになぁ。思わず溜息をついたライラの肩を、ポンポンと誰かが慰めるように叩いた。振り返ると、そこにはルナの妹であるリンクの姿があった。
「リンちゃん?」
 リンクはニコリと笑みを浮かべると、ライラにだけ聞こえるように小声で囁いた。
「死なないようにがんばってくださいね」
 ライラはもう一度深々と溜息をついた。
 ともあれ、ニフルヘイム一行は確実にファリウスの元へと歩み寄っていた。ニフルヘイムの歴史には、すべてはここから動き出したと記されている。


 7 開戦


 ワイがこの謎のぱられるわーるどに来てから二日がたった。うん、色々あった。ホント色々あった。雨宮雨梨の力も半端なかった。なんで男のワイが軽くあしらわれるのって話。見たこと無いごっつい剣とか槍とかも見た。適当に着てみた鎧の重さに耐え切れずに雪に沈んだりもした。雨宮と二人で外に出とったら、ワケわからんうちにバケモンの大群が出現。それでもう流されまくってるうちに城がなんか爆発し始めたりしたわー。あとおっかないバケモンの体にでかい剣で斬りつけたりもした。うん、ハッキリ言ってものごっつー最悪な感触が手に伝わってきたわ。雨宮に言われたとおりに斬ってみるとなんや? 一発でバケモンは頭から血ぃ噴いて死ぬ。雨宮に言われたとおりに動いてみると、バケモンの攻撃はよけれるわで。あいつ、なにもんなん、って思わず聞いてみたくなる。
 うんまあ、でも一番今までで怖いと思うのは、正直今。うん、たった今現在。二足歩行する、鎧着たトカゲの大群が、ワイの身長をはるかに超えるでっかいハンマーもって追っかけてきとることや。隣を見てみると、雨宮も必死で荒ぶる呼吸を抑えて全速力ではしっとる。流石に、バケモンと対等に渡り合えたりするビックリ人間な雨宮でも大群には尻尾巻いて逃げ出すわけや。あ、あかん。もう息もたへん。足が雪につかまって上手く動かせん、今すぐ倒れこんでしまいたい。けど倒れこんだら最後や最後。あのハンマーにプチってつぶされるんやろな。そしたら人間ペーパーの出来上がりや。
 と、下らんこと考えてるワイの足にとうとう限界が近づいてきた。やわらかい雪の下でねむっとった、かったい雪にワイの足はぶちあたり、そのまますってんころりん。頭から地面に向けてつっこみ、そのまま前に一回点。でんぐり返しをしたと頭の中で感じたときには、ワイの背中は冷たい雪でビッショリになっとる。空には暗い雲が、対照的な真っ白な雪を吐き散らしとる。落ちてくる雪を見ていると、なんだか自分自身が空に向かって上っているような感覚にも思えてくる。ってそんなことを考えとる暇は無い、今すぐ起き上がって逃げんと。くだらん思想を切り捨て、頭の中でスイッチを切り替えたワイの体は頭が命令を下すよりも早く動き出した。それと同時に、ワイの時間が一瞬止まった。
 ビュオン、と唸りをあげて鼻先を掠める黒鉄の巨大質量。凍えるワイの血。鼻先を少しえぐられたらしい。ちょっとばかし痛かったりする。
 その質量から生えている長い棒をたどっていくと、やがて、赤い瞳でワイを睨みつけながら奇声を発している、二足歩行するトカゲ人間へとたどり着く。ワイが転んだ一瞬の隙に、こいつらはワイの前へと先回りしたらしい。どうやら、うん、どうやら。数ミリ程度えぐられたワイの鼻先からわずかに流れ出る血が、吹雪に飛ばされる。一瞬止まったワイの時間が、再び動き出した。自分でも信じられない反応速度で、ワイは横にロールしとった。体が雪まみれになることもかまわず、頭から雪に向かって自分からダイビング。そして勢いのままに、ワイは雪の上を何度か転がる。その瞬間、ワイは見る。脇下からさっきまでワイがおった位置を確かめてみると、その位置には小さなクレーターができあがっとる。クレーターからハンマーを引き抜こうとしているトカゲ人間の姿も写る。後一瞬遅かったら。考えただけでも背筋が凍りつく。
 次の瞬間には、その思考すらも置いてけぼりにして、ワイの体が動き続ける。よろけた体勢から何とか立ち上がり、やけくそといわんばかりに動き続けるワイの両足。頭ンなかじゃ、もう動きたくないといっているワイがおるんやけど、体はお構い無しに生き延びようと動き続ける。このままの調子でおったら、いつかワイの体二つに分かれるんちゃうかな?
 走り続けるワイの先には、雨宮がワイに手を伸ばして待ってくれとる。何かを叫んどるようやけど、心臓の鼓動が激しすぎて何も聞こえん。まあ、つかまれーか、早く来いっていっとんねろーけど。ただ助けを求めたくて、何かにすがりたくて、ワイは腕を精一杯伸ばす。雨宮の腕が伸びて、ワイの手のひらをしっかりと握る。小さな、強く握ったら壊れてしまいそうな、小さな手やった。やわらかくて暖かくて安心できる、そんな手のひら。その手のひらが思い切りワイの手のひらを強く握る。そしてグンと引っ張られた。
 痛みを感じて眉をひそめたワイの横を、雨宮の顔が通り過ぎる。「え?」と後ろを振り返ると同時、雨宮の超人的な力が、ワイの体を数メートル投げ飛ばしていた。背中から後方で飛んでいく中、雨宮が大群に走っていく姿を目に焼き付ける。ムリや、いけるはずがない。いくらお前の超人的な力でも、あんな大軍に勝てるはずが無い。
 雪に、体が、沈む。
 数十センチほど沈んだ体にまとわりつく、白い雪。必死で這い上がろうとしても、腕や足にかかる負担は恐ろしいものになり、まともに動かすこともできん。それ以前に、雪の中をずっと全速力で走り続けてたワイの体では、腕を動かそうとすることすらとんでもない苦痛だった。けど、けど。ワイに何が出来るかわからんけど、女の子一人はおいていけんわ。雪を掴んで、思い切り引っ張る。ズボリ、と腕が雪の中から出てきた。よし、これで行ける。感覚のなくなってきた腕を無理やり動かして。ワイは雪をただ一心不乱にかき回す。かき回して、かき回して、上から降り積もる新雪に腕をかけ、思い切り穴から這い上がる。
 すでに青くなっている指に感覚はない。けんど、ワイは全身全霊の力を振り絞って雪の上に足を踏み立たせる。よし、行けるッ。と、ワイは顔を上げて、大群に向かっていった一人のアホ女の姿を、
 目の錯覚か、いつの間にか大群の中で絶えず動き回っている人影が、三倍の三つになっている。分身の術でも使えるのか。あいつなら使えそう。と思考をめぐらせた時に理解できる。三つの人影が、三つとも異なる動きをしていることに。
 一つの人影は、力任せにトカゲ人間を投げ飛ばしていて、
 一つの人影は、俊敏な動きでトカゲ人間の繰り出すハンマーを軽やかにかわしていて、
 一つの人影は、その手から伸びる刃物の影を振り回し、トカゲ人間を引き裂いとる。
 それら三つの影は、確実にトカゲ人間の数を減滅させていっとった。遠くから見てるからこそ解る。明らかな大群の減少現象。三つの影が動くたびに、トカゲ人間の大群がけずられていっとるのが解る。
 吹雪が一段と荒れ狂い、雪を纏った白い風が戦陣を駆け抜ける頃、そこに佇む影は三つだけやった。明らかに20を越した大群の中、生き残って立ち尽くすのは一匹もおらへん。三つ、たった三つの影が、それ以上でも、それ以下でもない影が、風のなかに佇む。いつの間にか腰を抜かしとったワイに向けて、三つの影は近寄ってくる。あの影の中に、雨宮はおるのか。一瞬だけ、疑問に思う。が、その疑問はすぐにかき消された。二つの影が、真ん中にある一つの影に片手一本で引きずられとるからや。ワイの知る限り、あーいう事が出来るんはアイツだけ。まあ、世界は広いから他にもおるかも知れんけど、そんな奴。
 その三つの影がワイの目の前に来て、立ち止まる。真ん中の影の正体はやっぱり雨宮雨梨。その両腕の先で首根っこを掴まれているのは、見知らぬ二人の男。ワイから見て、雨宮の右手に引っつかまれているのは、ワイより年下の男の子。ジッパー全開の真っ赤ジャンバーが、見慣れない緑色の髪の毛と妙にマッチしていたりする。おかしいくらいに逆立った髪の毛が、てっぺんあたりでねじれとる。うん、命名ジャイロヘアーな。
 対する左手に掴まれて、狂ったように手から逃れようと暴れているのはワイより4つくらい年上の、高校生くらいの年齢を思わせる男。白い何かの装束を思わせる、ダラダラと延びきった裾が風になびく。雪にまみれてちょっと解りにくいけど、その髪の毛は茶髪。その腰からぶら下げとるのは、一本の剣。派手な装飾も何も無いただの薄汚れた茶色い鞘にしまわれた剣。右手と左手、両方ともワイの世界ではほっとんどお目にかかれないって言うか絶対に見つけることの出来ない二人。え、何。このワケ解らん人たちなんや。雨宮と知り合いやろな、そら。まあ一緒に戦ってたわけやし。
 未だに状況があまりの見込めてないワイを見下ろしとる雨宮は少し怒ったように言った。
 「何で逃げなかったの、君」
 「え、何で、って……」
 いえない、いえるわけがない。雨宮を助けたかったからなんて、こっぱずかしくていえん。ほかに何も言い訳が思い浮かばずに、ただうつむいたまま視線を泳がせているワイに、雨宮はさらに言葉を続けた。
 「君にはまだ戦う力なんて無いんだから、さっさと逃げなよ、足手まといだからさ」 
 「ッ……。人がせっかく、」
 「せっかく、何」
 戦う力が無い、と非情に吐き出された言葉に、ワイは思わず本音を言ってしまいそうになった。
 「せっかく、心配しとったのに」、と。けど、それを言おうとした途端雨宮が聞こうとするから、余計に恥ずかしくなる。ってか危ない。こんな事言うのはワイのキャラにあわへんわな。人の事心配するとか。うんうん。あわへん、よし、これは胸のうちにしまっとこか。
 なんでもない、と言った後、震えている足を雨宮に見えない様につねる。むっちゃ痛いけど、何とか足は動く。腰を起こして、ズボンについた雪を振り払う。っつか寒。今頃やけどめっちゃ寒い。冬より寒い。まあ吹雪いてるし。緊張感が緩んだ今になって、肌を突き刺すような寒さがワイの肌にどんどんこびりつく。
 両腕を自分のワキに挟んで、なんとか体温を維持しようとしているワイに、雨宮はコートを投げた。サンキュ、と小さくワイは言って、急いで腕を通してそれを羽織る。コートの裏には毛皮が仕込まれてあって、大分暖かい仕組みで出来ていた。おお、あったかい。ってか、こんなコート……、どっからだしたんやろ。
 まあええわ、とコートのジッパーを全部しめたところで、ワイの視界に二つの手が現れた。小さな手と、大きな手の二つ。ワイが顔を上げると、そこにいるのはジャイロヘアーの男の子と、剣をぶら下げた茶髪のお兄さん。笑顔でワイを見ながら、握手を求めとる。とりあえず、ワイは両腕を差し出し、その二つの手を握る。二人の顔を見ると、二人とも何度も笑顔のままにうんうんと頷いてた。ジャイロヘアーの子供は、ルシルド・ファリウスと名乗り、茶髪のお兄さんはリーフ・クラシスと名乗った。
 

 ●


 その報告を聞き、思わず椅子を蹴飛ばして立ち上がったアナスタシア・ファリウスの顔には、まず見ることの出来ない動揺というものが浮かんでいた。しかし、すぐさま動揺を消して得られた情報を整理する。
 王都陥落なるも王族重臣は行方不明。捕縛されているなら帝国は声高に発表するはず、それが為されていないと言うことはみんなは脱出に成功したということだわ。しかも未だ捕まってはいない。
 数分ほど立ち上がったまま顔を伏せていたアナスタシアは、思いついたように顔を上げると、どこか気合のこもった声で側近に呼びかけた。
 「出陣します、兵を用意してください」
 その声を聞き入れすぐさま部屋から飛び出していった側近を見送り、アナスタシアはあっという間に武装を纏う。アナスタシアが執務室から武装姿で出ると、廊下を歩いていた兵士や重臣達に緊張感が走る。人々が騒ぎ出す中、アナスタシアは、足早に廊下を駆けていく。いつの間にかすでに自分の横にいる側近に、アナスタシアは問う。
 「兵は?」
 「一千にて」
 少ないわね、と唸ったアナスタシアは仕方ありませぬ、と低い声で小さく言った側近の言葉に小さく頷く。
 これ以上兵を持っていくと、妖魔の襲撃に対応しきれない、か。
 思考をめぐらせながら、腰にぶら下げた鞘から剣を引き抜き、高々と飛び上がる。何処からとも無く現れた、少し実体のゆがんだ紫色の馬が現れ、アナスタシアをその背に乗せる。前足を大きく振り上げ、高い怒号を上げたそれは、他の馬を引き寄せぬほどのスピードで城から駆け出した。その後を、武装を整えた銀の兵士が続いて走る。突然の出陣に城詰の兵のみの構成ではあったが、すぐさま軍を形成し、将の後を追った反応の速さはまさに大陸最強の名を辱めないものであった。


 ●

 
 『陰陽砲封院』−現在、大陸で最も普及している「魔導術」とは全く系統を異にする「砲術」の総本山である。魔導術には及ばないものの王国領内では一定の広がりを見せており、その勢力は決して侮れない存在である。その中でも軍事戦闘訓練を受けた砲術師によって構成される戦砲師団「鈴音」は、大陸唯一の戦場投入可能な砲術戦専門部隊として知られていた。若くして今、その鈴音を束ね、「虹天輪廻(ハイブリッド・レインボウ)」の二つ名を持つクルス=マーヴェリックは、院内の異常な空気を察知していた。自室から出てきた彼女が目にしたのは、目の前の廊下を幾度と無く交差する人影。そして廊下の中を埋め尽くすほどのざわめき。おかしい、何かあったのでしょうか?
 廊下の端に目をやると、使いのものがクルスの方へと走ってきている。やっぱり、何かあったんだ。使いのものは、荒い息を抑えて、クルスに一枚の封筒を手渡した。忙しい忙しい、と呟いた使いは、封筒をクルスに手渡すなり、挨拶もなしに駆けていった。それを見送ったクルスは、封筒をひっくり返す。宛名を見てみると、クルスは表情をこわばらせ、急いで自室のドアを引っつかむと、部屋に入ってドアを強く閉める。
 部屋の中央に座り込んだクルスは、手紙の封を切って、手紙を中から取り出した。あわただしい様子で手紙に目を通し、視線を左右に何度も動かし、文を読み取る。最後まで文を読み終えたクルスは、静かに目を閉じて手紙を握り締め、思考をめぐらせる。
 あのアナスタシア様からの要請書……。それほどまでに妖魔の進行が進んでいるという事。しかも鈴音の起動が絶対条件の要請……。一体、妖魔の進行はどこまで?
 今すぐにでも、鈴音を起動し、友への救援を急ぎたい。しかし、ここで安否もわからない王都への味方はあまりにも危険すぎる。ここで高々と妖魔軍が王都制覇の旗を上げれば、ニフルヘイムに味方した砲封院を見逃すはずもない。クルス=マーヴェリック一人だけならまだしも、砲封院が狙われては……。そして、院長が認めなければ鈴音は動くことが出来ない。どうする? どうしたらいいんだ? 手紙を握る拳がわずかに震えだし、彼女は苦悶の表情を見せる。答えが出ないことに苦しみ、動けない自分に憤怒する。何も出来ない役立たずと心の奥底で自分に向けてはなった一言が、イヤに頭の中で残響し続ける。そんな時だった。彼女の部屋のドアを、誰かが叩いたのは。
 取り乱した雰囲気を収め、表情を引き締めたクルスは「どうぞ」と静かに言う。それを聞いた扉の向こうの誰かは、静かにドアを開いた。
 「……院長様」
 部屋の中に入ってきたのは、腰の曲っていないいかにも健全そうな一人の老人。院長と呼ばれる老人はクルスをじっと見据えていたが、やがて重々しく口を開いた。
 「危険じゃな」
 その一言に、クルスは少し俯く。クルスの考えていた事は、院長であるこの老人も考えていたことであった。院長、つまりこの『陰陽砲封院』の最高権力者の立場であるゆえに、うかつに院員たちすべてを危険に晒すようなマネだけは出来なかった。そんなことは解ってる。わかっているんだ。クルス=マーヴェリックも、鈴音の指導者としての立場があるゆえに、院長の考えはどうしようも無く解ってしまう。本当は、院長だって王都に向けての救援を送りたいと心のそこでは願っている。けれども、上の立場である以上、どうしても自分の身勝手一つでは動けない。でも、院長がただ顔を縦に動かしてくれればそれで――
 考えた結果、クルスは一つの答えにたどり着いた。
 そう、自分が鈴音としての指導者の立場。「虹天輪廻」の立場でなければ良いのだ。クルスの導き出した答えは、砲封院を辞める事であった。「虹天輪廻」としてのクルス=マーヴェリックではなく、ただの一般市民としてのクルス=マーヴェリックとなってしまえば、砲封院にかかる負担は極端に少なくなる。道はこれしかない、と腹をくくったクルスは、静かに、決意を込めた口調で、言葉を搾り出す。
 「もし、鈴音の動員を認められないのなら……どうぞ私を破門にしてください」 
 そのクルスの決意の言葉に、院長は目を細める。そして、試すような口調で院長は問うた。
 「砲封院を捨てても、戦陣へと駆けるというのか? たった一人で、妖魔と向かい合うというのか?」
 ビク、とクルスの体が一瞬震える。そして、俯かせた顔をゆっくりと院長に向けて、クルスは言う。
 「はい。戦陣には、私の大切な友人がいるのです。彼らを助けたい、彼女達を支えたい。ただそれだけです」
 彼女から出たその言葉に、院長は少し口元を綻ばせた。今まで、妖魔に親族を屠られてからの今まで、ただ人形のようにただひたすらに、復讐だけを考え、この砲封院に転がり込んできてから修行に励み、その親族とともに感情も、意思すらも失ってしまったかのようだったクルスが、今こうしてハッキリと自分の意思を告げている。決意のまなざしとともに、自分の意思を。
 感心したように、ニコリと微笑みながら頷いた院長はクルスの頭に手を置いた。
 「破門するには、及ばんよ。無論、鈴音の派遣は認める」
 その言葉を聞いたとたん、クルスの表情が明らかに明るく変化した。
 「院長様ッ!」
 「勘違いするな。お前の個人的な願いを聞き入れたわけではない」
 解っている。けれども、院長のそんな心遣いがクルスにはとてつもなく嬉しかった。助けられる。これで、戦陣に赴く彼らを助けることが、支えることが出来る。
 そんなクルスの胸のうちを暗闇に落とすように、院長が暗い口調で口を開く。
 「じゃが、陛下の無事が確認出来んことにはな」
 その言葉に、クルスを頷いた。そうだ、助けるといっても、その助ける対象が無事でなければ助ける意味が無い。王族でありながら人付き合いの苦手な自分といってくれた友人、ルナの顔を思い浮かべ、クルスは皆の安心を願う。
 皆さん、無事でいてください、と。

 
 ●


 王都脱出から、二日が経過していた。
 何とか、王都近郊にある森を妖魔に気付かれずに順序よく事は運ばれていた。以前変わらず、ヒイライラが単独で先行し、あたりの様子を伺い。その先に妖魔の斥候がいるとするなら、多少迂回してでも別のルートを探す。という行為を繰り返し進む。単純だが、単純であるためにその効果は十分に発揮され、妖魔からの発見を何とか耐えしのいできた。50を下回る人数が幸となり、迅速な行動も対応も行え、予定よりも数日分早くファリウス領目前の平原へとたどり着く。だが、一行は焦りすぎた。見渡しの良い平原へと簡単に足を踏み入れた一行は、すぐに妖魔の斥候に発見されていた。
 もはや失敗を繰り返すつもりのないバンダースナッチは自ら追撃隊を指揮し、三千の妖魔を動員した。単なる捕縛目的としてはあきらかに過剰な数である。攻城戦の被害と王都占領政策のことを考えると、異常とすらいってもいい。だが、バンダースナッチはこれを異常とは考えてはいなかった。バンダースナッチの本当の目的は、圧倒的な兵力差を持っての集団攻撃ではなかった。いや、集団攻撃も目的の一つではあるのだが、バンダースナッチが狙っているのは、一行の降伏。60倍の数をもってして、一行への威圧をかけて降伏させることが彼の狙いであった。その理由一つが、彼らが抵抗した場合の時である。女王ルナを含め、サクライ公爵、クゼ侯爵、フウカ男爵など、一騎当千として有名にひれわたっている主力を相手にしなければならない。この場合、文字通りに一人当たりに千の妖魔を宛がわなければならない。これは大げさとしても大群をもって一気に制圧することこそが、被害を最小限に抑える最善策だとバンダースナッチは考えていた。彼は心の中で絶叫する。
 さあ、降伏するが良い。女王よッ!
 そのバンダースナッチの絶叫を知らず、女王ルナ・ゲイルズ・ニフルヘイムは自嘲的な浮かべた。
 「まったく。妖魔達も手加減って言葉は知ってるでしょうに……」
 最早、眼前の状況を見取ると笑いたくなる様な状況だった。様々の種類の妖魔たちが、奇妙にうごめきながらも一歩たりとも踏み出さずに完璧な横隊を組んでいる。その機械のような洗練された妖魔の動きからは、最早威圧感さえも感じ取れる。降伏しろ、とでも言うように。
 ミドガルズオム大陸中央部に位置するこの平原を超えさえすれば、ファリウス領にたどり着く。はずだったのに。よくもまあ最悪な場所につかまってしまったもんだわとルナは心の中で浅はかだった自分を笑い続ける。あたりを見回してみると、身を隠すようなものは何も無い。森も、岩場も、雑木林すらも。ただ、平面に何処までも続くだけの平原がそこにあるだけだった。少ない人数で大部隊を相手にするには、最悪の戦場であるこの場所から、どうやって逃げ出せるというのだろうか。
 ニフルヘイムより少し離れたこの場所では、太陽の日差しが強く、その日差しが容赦なく一行に襲い掛かる。ジリジリと身を焦がす熱線が、一行の心境に住み着く焦りをいっそう高めていく。心身ともに、一行は限界であった。
 それでも、そんな状況でも。まるで他人事のように
、自分達が置かれているこの最悪の状況を見つめていたルナは、周りの様子をさりげなく伺った。サクライも、フウカも、クゼも、リンクも、ライラも、兵士の誰一人すらも今更騒ぎ立てようとはしなかった。クゼ侯爵やサクライ等は魔力を編みこんだ紋を手中に構え、いつでも発動できるように集中していた。ナギ・フウカや兵士達も、腰に下げた鞘から剣を抜き放ち、これから始まろうとする一方的な戦に挑もうと心を決めていた。普段はヘラヘラ笑っているだけのヒイライラですら、真剣な眼差しを妖魔に向け、携えた刀の柄に手を当てている。女王は、愛する妹。リンク・ゲイルズ・ニフルヘイムの方を見やった。
 リンクは姉の視線気づき、ルナの顔を見るとニコリと空元気のこもった笑いを浮かべて見せた。その笑顔に、ルナの胸中が締め付けられるように痛む。この絶望的な状況の中で、彼女一人のために、誰もが最後までもがこうとしている。誰もが最後まで傷つこうとしている。誰もが、最後までルナに使えようとしている。誰もが、ルナ一人のために、
 ――死のうとしている
 皆に、ムリな戦いを強いる必要なんて何処にも無いのにね
 女王は、震える妹の手を強く握る。それと同時に、妖魔たちが整然とした隊列を持って全身を開始する。威圧感が、増した。一切の乱れが見られない精密な行進、まさに精鋭ぶりを見せつけるような圧力を与える。妖魔が一歩踏み出すたび、一歩、一行に近寄るたびに、一行全員に押し付ける威圧感が増していく。知らず知らずのうちに、一行は後方へと下がっている。もう、だめか、とルナが降伏を覚悟したその時だった、妖魔と一行が挟む平原の中央に、一つの影が走りぬけたことを。
 ―−鳥?
 と、一行全員がその影を認識したとき、それは始まる。
 妖魔が平原中央に足を踏み入れようとしたとき、はるか天空の彼方が光り輝く。次の瞬間には、光り輝く天空から閃光と轟音と共に、金色に彩られた幾多の流星が振り落ちる。幾筋、幾十の流星弾雨が、前進する妖魔の隊列の前面に着弾する。キュンキュンキュンキュン、と音を発しながら天空から振り落ちる流星弾雨は、平原中央にいくつもの小さなクレーターを作り上げ、焼ききれ、千切れとんだ草花と土砂を宙に舞い上げる。その閃光と爆裂音に妖魔は混乱し、隊列を崩す。予想外の出来事に驚き戸惑う妖魔の前進が、止まった。硝煙が平原中央を包み込み、煙幕と貸して妖魔の視界を塞ぐ。
 宙に舞いあがった土砂と草花が地面に降り注ぐと同時に、平原中央に現れた影は徐々に大きくなっていく。その影が人の形を作ったとき、平原中央に、空から一人の人間が降り落ちる。それは、赤と白の装束を身に纏った、一人の女性。静かな雰囲気を絶えず出し続けている、一人の女性。彼女を知るものは、彼女の名をクルス=マーヴェリックと呼ぶ。クルス=マーヴェリックは、一行にわざと見えるように、高々と一行の後ろに存在する、わずかに高い丘を指差す。その指を追って、後方を振り返ったルナたちに衝撃が走った。いや、旋律と呼んでもいい。
 彼女達は、自分達がすでに死地から脱していたことを知ったのだ。
 
 「『魔弾の射手(フライ・シュッツェ)』だと!?」
 混乱状態に陥った軍勢の中央で、人影を認識した獅子とも犬とも取れない姿をした斑点模様の獣、バンダースナッチは思わず舌打ちをついた。かの強大な力を持つ魔弾の射手が来るとはな……。いや、問題はそんなことじゃない、問題は、奴が何処からどうやって現れたか、だ。
 『魔弾の射手』の名を知らぬものは、このミドガルズオム大陸にはいないだろう。かつて、10を越さぬままに砲術とそれを扱う銃のすべてを熟知し、あまりにもその力を恐れられ、砲戦士団鈴音を束ねる悪魔。それが、今妖魔の前に立ちふさがっている。だが、バンダースナッチは彼をさほど重要視しなかった。確かに魔弾の射手の出現は予定外のことだったが、多少の被害は出ても要は女王ルナ・ゲイルズ・ニフルヘイムを始末さえすればいいのだから。混乱を見せる妖魔たちに、命令を下そうとしたバンダースナッチ。
 その視界の端に移るそれを認識して、彼の思考は停止する。彼の視線の先、魔弾の射手が指し示した丘。そこには、いつの間にか見知らぬ軍勢が、妖魔を見下ろしている。蒼の装飾が日光を浴びて、それは綺麗に反射する。鎧、手甲、武器までもが蒼に彩られた軍勢は、雪の結晶の紋章が描かれた戦旗を掲げている。
 その軍勢の名を、バンダースナッチは知らず知らずのうちに口にしていた。
 「パーフェクト……ブルー」
 バンダースナッチの視線の先の蒼の軍団の先頭で、実体のぼやけた紫色の馬に跨る女性はその象徴ともいうべき微笑みを浮かべていた。
 バンダースナッチの背筋に、戦慄が走った。しかし、その戦慄はルナ一行が感じたそれとはまったくベクトルを反対にするものだった。それは、バンダースナッチが受けた戦慄の正体は、紛れも無い恐怖。忽然と現れたかの軍勢こそ、ミドガルズオム大陸最強と名高き、蒼の象徴。ファリウス公爵軍であった。無論、パーフェクトブルーことファリウス公爵軍のその名声と実力ぶりは、その伝説と共に妖魔にもひれわたっている。多少の混乱といった程度であった妖魔の動揺は、突如出現した軍勢の正体に気付くと同時に大混乱といってもいい状態に悪化した。あまりにも速すぎる。バンダースナッチはそのアナスタシア・ファリウスの出現に拳を握った。それこそ王都陥落の報を聞いて直ぐに飛び出さない限りこの場に間に合うはずがない。この速さは、一体。そこまで考えて、ふと彼は気付いた。ファリウス公爵軍の数が明らかに少なすぎることを。たとえそれを多くに見たとしても、1千を超えた程度の数であった。くそ、そうか、それこそ情報が入るや否や飛び出したか。とにかく動かせる人数で来たというわけか……それなら、まだやりおうはあるか?
 思考をめぐらせているバンダースナッチは、決して楽観視はしてはいなかった。その全土に知れ渡る噂が本当だったならば、たとえ三倍の数を用意したとしても勝利を掴むのは難しい。少なくとも、自分の部隊では。
 彼には、敵の実力を過小評価するという思考はまるで存在しなかった。いや、だからこそこのバンダースナッチが、今回の女王抹殺の任につかされたのかもしれない。常に、全力で、確実に勝ちを掴もうとする彼だからこそ。しかし、今回は相手が悪かったといっても良い。しばらく考えていたバンダースナッチは、自分の目的と現状を照らし合わせ、部隊の損害を抑えるという計画を放棄した。バンダースナッチは台座の上に立ち上がり、妖魔中央から頭を出すと、平原全体に響き渡るような号令を発した。ビリビリ、と一行とパーフェクトブルーの体が痺れる。それは風を持って、平原全体を駆け巡り、草花を揺さぶる。号令が響いた直後、ザザザザザ、と平原を静かな風が駆ける。その瞬間には、妖魔の混乱は完全に立ち直り、バンダースナッチは妖魔全体の士気を掌握してしまった。
 通常、混乱状態に陥ってしまった軍勢を立ち直らせることは難しい。それも戦闘可能な状態に。心身両方とも混乱した生き物は、まるで他のものが目に入らず、他の音すらも耳に入りがたい、はずなのに。その混乱の掌握を、彼は一瞬で成し遂げてしまった。この事柄は、彼の実力を如実に示している。そのまま、次の号令を放ち、妖魔全体を自分の体のようにすばやく動かし、槍型の突撃体勢を展開。そして彼は目に映るすべての敵を指差し、攻撃命令を発する。その内容は、常では自軍の優勢といわれるはずの状況を全く無視したものだった。
 「狙うは女王の首のみ! 被害は無視しろ!! 例え全滅しててでも、女王の首は討ち取れえッ!!」
 この悲壮としか言いようのない命令を、貴下の妖魔たちはまるで疑問に思わなかった。それどころか、まるでこれから自分達の存亡を賭けた戦いでもおこうかのように、その雰囲気は静かな闘気を発していた。だが、後に彼らは思い知ることとなる。まだ、バンダースナッチの認識が甘かったことを。
 一方、妖魔が号令を受け、陣形を整えている間に、アナスタシアは一行を自軍へと迎え入れていた。死地からの生還に安堵をつき、疲れながらもルナはアナスタシアに礼をささげた。
 「助かりました、ファリウスさん」
 「皆さん、無事で何よりです」
 いつもと変わらない笑顔を持ったまま、アナスタシアは言う。そしてその笑顔のまま、アナスタシアは突進しようと構えている妖魔に目を向け、高々と言い放った。
 「それでは皆さん! 妖魔の方々には初のお披露目ですから頑張って下さいね!」
 アナスタシアは、とても命令といえない……お願いとでも言うような命令を下すと、突撃を開始した妖魔にパーフェクトブルーを対峙させた。
 初の妖魔とパーフェクトブルーの戦闘は、この名も無き平原の中央で、勃発した。
 突撃陣形、その形状から槍型陣形とも言われる陣形を持って突撃したバンダースナッチ率いる妖魔は、壁型に陣形を敷いたパーフェクトブルーに接触した。わずかといっても高い丘の上から見ると、アリとアリの群れ同士がぶつかっているようにも見えるその様。その集団の向こう側で、バンダースナッチは自慢の愛槍『雷塵(インパルスダスト)』を掲げ、大声を発しながら戦場を駆ける。元々、奇策を好まないバンダースナッチは、そのロート・ファング・デア・カイゼルの名に恥じない、自慢の攻撃力と突進力を持った、物量を重視した全くの正攻法での力押しを実行した。それは全兵力の一点集中。この作戦なら被害は増大するが、少しでも穴が空けば一気に後方に突き抜け、女王一行に襲撃を掛けられる。正に損害を考慮しない作戦。配下すべてをすり潰すことすら厭わない、女王の命はそれだけの価値があるとバンダースナッチは判断していた。女王さえ始末すれば、実質戦争は終わったようなものなのだから。
だが、疾風怒濤とはよく言ったもの、と見た誰もが驚き声を上げるような勢いに、蒼き壁はまるで綻びを見せなかった。三倍の戦力があるのにもかかわらず、だ。いつまでたっても、怯みすら見せない蒼き壁の高さに、バンダースナッチはだんだんと焦りを覚える。
 「くそ、これほどの強さとは……。噂半分、しかも悪い方にだ」
 彼の率いる部隊は決して弱兵ではない。むしろ精鋭と一つといってもいい。侵攻速度に関しては、妖魔一と歌われるほどである。その戦力と、彼の過小評価しない心の強さがあるからこそ、この侵攻しか先鋒の任を任されたというのだ。しその彼らをして、まったく壁を突き崩せなかった。それどころか馬鹿げたことに逆に押し返され始めているようにすら思われる。しかもファリウス軍の両翼は徐々に曲線を描き始めていた。三分の一の戦力に包囲されかかっているだと!? 心の中で叫んだ悲鳴が、バンダースナッチ本人の口から漏れ出していたことに、誰も気付かない。ここで、バンダースナッチは自分の認識が甘かったことを痛感せざるを得なかった。もはやファリウス軍の蒼き壁を撃破して、女王一行に襲い掛かるのは不可能と考えるしかない。それどころか文字通り一匹残らず殲滅されかねない。女王を抹殺した結果全滅するならいい、だがまったく為す術なく全滅するなんてことは許されない。
 「最早、ムリか」
 巧遅より、拙速を尊ぶバンダースナッチはこれ以上の攻勢は無駄と認識するや、躊躇することなく撤退を決断した。とたん、身を翻して戦陣の後方へと赴き、戦場に駆ける全ての洋間に撤退命令を放った。その号令が響くや否や、バンダースナッチの軍は瞬く間に引き返し、ファリウスの蒼き壁から遠ざかる。まさに、これはギリギリのタイミングだった。少しでもバンダースナッチの決断が遅れていたならば、妖魔の軍勢どころか、バンダースナッチ本人すらこの平原の土に返っていたのかもしれない。彼は自ら側近を従え、ファリウス軍に強襲を仕掛けると、兵を叱咤激励しパーフェクトブルーを一時的に押し返すことに成功する。その間に段階的に部隊を後退させ、自分は殿を努めつつ戦場からの撤退を開始した。
 その見事な手際にアナスタシア・ファリウスは「まあ」と一言感嘆の声を漏らした。
 「さすが……ニフルヘイムの城を突き崩すほどの事はありますね。でも、このまま逃がすわけには行きませんよ」
 アナスタシアの声が出るのと同時に、すでに句の字型からV字型へと陣形を変化させていたパーフェクトブルーは、そのまま妖魔への追撃を開始する。緑輝く草原が、蒼き恐怖に染められあげていく。バンダースナッチの懸命の指揮により、大壊走という事態だけは逃れたバンダースナッチであったが、戦場を脱出した妖魔の数は一〇〇〇を越さなかった。バンダースナッチは、全身傷だらけの満身創痍になりながらも逃亡に成功している。常に殿にいたことを考慮すれば奇跡といっていい。一方のファリウス軍は追撃戦で多少損害を受けたが、無傷といっても過言ではなかった。パーフェクトブルーの強兵振りは、対妖魔戦でもまったく遜色ないことが、ここに証明された。
 「強いとは聞いていたが、これほどとは……。見ると聞くとでは、やはりインパクトが違うな」
 唖然として、ずり落ちためがねを指で立たせるクゼ公爵の後ろでは、サクライが感激の声を未だに上げ続けている。ナギフウカがいつもの無表情ではなく、どこか唖然とした表情を見せているのを見れば、彼らがどれほど驚いているのかが良くわかる。特に打撃騎士団(ストライクナイツ)を率いている率いている、歴戦の指揮官には、今の戦がどれほど一方的で、それほど非常識であったのかを、どれだけデタラメであったのかが良くわかっていた。「凄い、というよりむちゃくちゃ」と、まるで悪夢でも振り払うように顔を横にフルフルと振り続けている。
 その後、再びファリウス軍と合流した女王一行は、彼らに守られつつファリウス城に入城。そして王国全土にその生存を知らしめ、妖魔への反攻の旗を掲げ、全王国軍の集結を命じることとなる。


 8

 
 一体どうやって降ってきたんだ、とファリウス城の中。一行に与えられた休息室で、クルス=マーヴェリックは自分の眼前で目を欄と輝やかさせているヒイ・ライラとサクライツバメの質問攻めをどうやってかわそうかと、苦笑を浮かべながらも頭の中でそう考えていた。いくら戦友とはいえ、こうも色々聞かれるとげんなりするものはある。うん、確かにあんな風に人が空から飛び降りてきたら誰だって疑問に思うけど、流石にもうかれこれ入城してから1時間は質問攻めを受けている。まるでこれでは拷問ではないか、もういいじゃないですかもう良い加減にしてくださいと、クルスはただひたすらに苦笑を絶やさずに質問攻めからの脱出方法を頭の中で必死に考え続ける。子供っぽいこの二人を、いやライラはともかく。サクライツバメに対して突き放すような言葉をかけてしまえばどうなることやら。
 となれば、なるべく二人を傷つけない様に気をつけながらも、それとなく話題をそらす。これが一番高確率だ、とクルスは一人苦笑を浮かべながらうなずいた。ん? とその仕草にわずかに首をかしげたヒイ・ライラの視線を無視して、さらにクルスは思考をめぐらせる。「どうして空から落ちてきたんですか?」とサクライが聞き「足とか痛くなかったんですか?」とライラが問う。タイミングはまだかまだかと必死で二人の迫り来る体を払いのける。その時だった。質問攻めを受けている自分をまるで助けようともしないで、一人思想にひたり、盤上で何か駒をパチパチと動かしていたクゼ侯爵がそれとなく独り言をもらしたのは。
「ふむ、これから妖魔がどう動くかだが……まずはロード・ファング・デア・カイゼルを退けたことによって――」この小さな独り言を奇跡的に聞き取ったクルスは「そうそうそういえばそうですよねーッ」とわざとらしく叫びながら二人から即座に離れて、一人盤上で駒を動かすクゼの対面側に移動する。このあたりの地図を盤上にしき、白と黒の――白を人間とし、黒を妖魔にした――駒を一人で操作していた。恐らく、クゼ側の領地の隅にある大きな城がファリウス城。クゼはジャラジャラと白い駒を手中で弄び、その手から白い駒を一つ抜き取り、白の周りを囲んでいた白い駒と駒のわずかに開いた間に置く。
 へー、とまるで白い壁を思わせるファリウス城の周囲にしかれた鉄壁の布陣を見てクルスは感心したように声を上げる。なるほど、あえてこちらからは攻撃はせず、勇士と物資の確実なる確保をしたわけですか。……ですが。と心の中で一つ付け加えたクルスは散らばっている黒い駒を掴んでパチパチといくつも動かし、一つの布陣を敷く。まるでパズルでも解くようにスマートな手つきが止まる頃、黒い駒は白い駒でしかれた鉄壁の布陣を完全に包囲していた。突然のクルスの表情の変化に、となりで唖然としていたヒイ・ライラとサクライツバメの視線も気にならず、クルスは静かに呟いた。
「篭城戦……。パーフェクトブルーを持つファリウス城では殆ど無敵の策かと思われますけど、そう幾らも物資は持たないでしょう?」
 白い駒の周りを囲っていた黒い駒を一つずつわずかに前進させながら、さらにクルスは続ける。
「こうやって――」
 包囲陣を徐々に縮めながら呟くクルスの続きの言葉を、クゼはわざとらしく疑問系でクルスに問いかけた。
「――年単位での持久戦に持ち込めば、いつかは敗北する……かね? クルス=マーヴェリック」
 自身が導き出した答えを先どられ、思わずグゥの音も出なかったクルスに畳み掛けるように、クゼは続けていく。
「確かに時間をかければ、いかに強固な意志を持った『蟻』でもやがては巣から這い出るだろう。しかし、」
 ジャラ、と白い駒を弄んだクゼの手の内から、新たな白い駒がその体躯を表す。クゼの手を持って盤上を滑るように移動した白い駒の行き着く先は、黒い方陣のその向こう。しかし、と言葉をつなげたクゼはさらに白い駒を持って言葉をつむぐ。
「おびき出されるのはあっちの方だ。伏兵を使えば黒い壁の向こうの破滅も夢ではない。だが、」
 次は、クルス=マーヴェリックがジャラ、と黒い駒を持った。細めた視線が睨むは伏兵として置かれた白い駒の手前。そこにいくつもの駒を置き、さらには一度しいた方陣の一部を削り、黒い駒と対峙した白い駒を挟むように移動させる。その駒の動きを見たクゼはそうだ、と口にした。
「情報が不完全すぎる……。妖魔の数も、種類も、力も、何もかも」
 淡々と、だが力強く言葉を重ねていきながらクゼは、盤のすぐ上を強引に手で払いのける。腕に運ばれた白と黒の駒が盤上から弾き飛ばされた。焦ったような表情を浮かべ、俯きながら手でその焦った顔を隠す。飛んでいった最後の黒の駒を見送ると、その駒は二本の足の直前へといたる。目線を少しずつ上に上げていくと、足から膝、膝から腰、腰から首。そして、
そして戸惑うサクライツバメの不安そうな表情にたどり着く。誰もが見たことの無いクゼの焦燥の表情は、その場にいたヒイ・ライラ、サクライツバメ、クルス=マーヴェリック……、いや。一行全員を驚かせるのには充分だったのかもしれない。僕とした事が、と静かに言い、クゼはいつもの冷静な表情を取り戻した。いつの間にかずれていたメガネを中指で鼻の頭に乗せて、クゼはいつもの様にフンと息を漏らした。いつもの様に憎たらしいそぶりを見せて、クゼは盤の上に乗せた地図を折りたたんで片付ける。暫く唖然としていたクルスは、ハっと我に返って、自分の足元に散らばった駒を拾い集め始めた。
 いつもはあんなに冷静なのに、とさりげなくクゼを見ながら。


 §
 

 「あ、あれがファリウス城だよー」と何日も歩きつめて、フラフラになっとるワイらよりも先に高い小さな丘へと駆け上っていたグリーンジャイロヘアーこと、ルシルド・ファリウスくんは丘でもないまったいらな平原に立っとるワイでも見えるほど巨大な白を指差した。うーん、朝の日差しがやる気を奪う。
 朝焼けの光を背にしたルシルドくんの真っ赤なジャンバーが、妙にワイの目に付き刺さる。ああ、誰かがそういえば「赤って一番初めに脳に届く色なんだって」とか得意げに語っとったな。赤色が無駄に目立つんはそのせいか。まあそれはおいといてや。
 うーん。またも色々あったなとワイは記憶を穿り返す。うん、少なくともこの歩き続けた6日間でとりあえず剣のふり方はわかった。うんふり方だけ。えーと確か、脇をしめて肩から斜めに振り下ろすのが袈裟切りやっけか。うん、確かそうやった。ワイよりもちょっと年上のお兄さん的な人物リーフ・クラシスさんのものすごいわかりやすい指導のおかげやな。あー、運動系のクラブは入っといて良かった。ワイん母校に存在する熱血筋肉体育教師であるとともにバスケット部顧問の田中悟さん29歳の地獄の筋トレなかったら多分、こんな重たい剣持てへんかったとおもう、うん。実際だいぶ重い。アールピージーやったら主人公とか軽々振り回してんねんけどなー。やっぱ苦労してんねなーてゲームの中の人物の気持ちを味わえた、うん。でもこの6日間剣ふり続けたおかげでワイの筋肉もちっとはついたと思う。これならワイも戦える。
 いやマテ。戦ったらあかんろ、何言っとんのワイ。もしこんなところで戦って死んでみい。元の世界に帰れんやん。ってかもうワイ死んでる……。
 思わず「はー」とタメ息が出た。頭の中で幾つも幾つも思想がめまぐるしく走り回っとる。今何時やろとか、今頃お母ちゃんとお父ちゃんなにしてんねろとか、あの子が轢かれた事件はどんな風になっとんのか、これからどうなるんかとか、これからどうしようとか。
 駆け回る思考を収束しようとした時、ルシルドくんが唐突に声を張り上げた。「皆、気をつけて」と。それはすでに疲労困憊しとったワイら全員に、緊張感と危機感を与えるには充分な言葉だった。ワイにも解るようなすさまじい異臭と人じゃない何かの気配。ルシルドくんが銃を構え、リーフさんが剣の柄に手をそえて、雨宮が辺りを見回して身構える。ワイが何故か知らんけど一番気配を感じる、丘の方向に眼を向けていると「ソレ」は姿をチラリと見せた。
 思わず身震いさせてしまうようなおぞましい気配と形質。
 丘のてっぺんからわずかに見えたその頭は、人の頭。違うものといえば、その頭から何かミミズの様なもんの影がウネウネと踊っとる事。その影のダンスは、ワイの恐怖心をそそるのにコンマもかからんかった。ゾクリ、と背中が冷え切った瞬間。その影が二つに増える。
 眼の錯覚か? と瞬きすると、その影は左右に向けて一瞬のうちに増大する。一気に膨れ上がった気配に三人は気付く。影の方向に体を向け、臨戦態勢を整えた。無数に蠢く影の行列。気持ち悪い。むっちゃ気持ち悪い。匂いが気持ち悪い、見た目が気持ち悪い、気配が気持ち悪い。なにより、ワイの胸中で強く蠢く「何か」の存在が気持ち悪い。うぐ、と自分でもワケわからんうめき声を上げて、ワイは胸を押さえた。
 そのワイの動作を見ていた雨宮が、軽くワイの背中を押した。「大丈夫」と付け加えながら。
 その時、どの影が発したんか知らんけどいきなり、平原全体にじゃなく、腹のそこに響くような沈んだような声が、高低の種類の音がいくつも重なったような声が聞こえた。
『我ラ斥候部隊ガ、ヨモヤ敵ト遭遇スルトハ……良キカナ良キカナ。愉シメルワイ、愉シメルワイ――……殺戮ヲナ。イヒヒヒヒッ』
 いまいましい、人の恐怖心どころか怒りをもそそりたたせる様な悪質な音声。その声に呼びかけるように、ワイの中の何かがまた蠢いた。しかも、今度はさっきより強く。
 蠢く何かに留まれと頭の中で命令しながら、ワイが丘を見上げた時。その影は波となってワイらに向けて押し寄せた。その影が狙っとんのは紛れもなくワイら全員。あかん、アカン。殺される。このままじゃ殺されてまう。足が地面に吸いすいたように動かん。手の震えが全然止まらん。不意に、ぼーっと黒い影の波を見たまま動かんワイの体を、雨宮が自分の体の後ろに押しのけ、振り返りもせずに叫んだ。
「怖いんだったら隠れてて! 邪魔だから!」
 む、と一瞬怒りを覚えたけど、すぐにその怒りは自分の情けなさに掻き消された。
 ああ、ワイってこのまんま女の後ろでガタガタ震えるだけなんかなあ。もし皆がやられてもーたら、ワイは臆病もんのまま死んでいくんやなあ。仮に皆勝っても、ワイに残るのはなんやろー……。あ、雨宮の手、振るえとる。そりゃあ女の子やもんなー。リーフさんとルシルドくんは大丈夫そうやけど、雨宮女の子やでワイ。いいんかワイ。なあ、なあ?
 雨宮たちが平原を駆け抜ける。黒い波に真正面からぶつかった瞬間、変なバケもんは一瞬にして空に吹っ飛んだ。
 けど、何とか黒い波を抑えようと3人ががんばれたのはほんの数秒。数秒たった瞬間、3人の姿が黒い奔流に飲み込まれた。ソレを見た瞬間、ワイの中で蠢く何かがドクンと脈を一つ打った。この感じ、どっかで感じたことある。怖いんやけど、頭は妙に冴えてて、余計な思考がまるでない世界――……。
 ふとワイの目の前に現れたのは、黒い波から外れたいくつかのバケモン。正しく数えたならその数は4匹。頭どころか両腕さえも狼の頭に変形しとる二足歩行のバケモン。さっきワイが見た、人の形はシとるけど頭に無数にこじ開けられた穴から赤紫色のミミズみたいなん生やしとるバケモン。背中に羽の生やした、顔が鳥の形してる人間。そして、スライムみたいな液体がいくつも集まったようなまさしくスライム。
 その内の一匹が、いまいましい笑い声を上げながらワイを見下ろした。
『震エテイルゾ、コイツ。腰抜ケナノカ? 所詮女ノ後ロに隠レルヨウジャナー』
 そして、頭から触手をはやしたバケモンの触手は、不意にうねった状態からワイめがけてウォンと唸りをあげて襲い掛かる。
 あ、痛、と頭の中で認識するころには、ワイの体は数メートル後ろへ弾き飛ばされておって、ワイの胸からは溶けてしまいそうな灼熱感と放出感が感じられる。ああ、バケモンがドンドン近づいてくる。
 ドクン、と鼓動が脈を一つうった。
 放出感と同時に胸にヘバリついた何かを手につけてみると、ソレは赤い液体。つまりは、ワイの体から出て行った赤い血。ああ、バケモンがワイを見下ろしながらわらッとる。
 ドクン、と鼓動はワイの思考に答えた。
 ああ、こんな光景。前にも見たことあるなあ。トラックに空に吹っ飛ばされた時やっけかあ。
 ドクン、と鼓動は命を奏でた。
 はは、そういえば、あの時も今みたいにワイの手は真っ赤やったな。
 ドクン、と蠢きは確かな一つの意志へと変貌した。
 はは、真っ赤ッ……か……
 ただ一言。殺せという意志へと。

 
 妖魔は自分の眼前で仰向けに倒れ付す、今にも死んでしまいそうな柴田義広の胸から血を吹き出し続けている無残な姿を眼で楽しんだ後、そろそろ殺そうかと自分の頭から生えている触手を操り柴田の顔めがけて力強く伸ばした。意のままに繰り出される触手が柴田の顔を抉り取ろうとした時、彼は確かな音色がその場に響いたのを感じた。ソレと同時に、自分の繰り出した触手にわずかな違和感をも感じた。
 ドリュ、という音と共に、柴田の顔を狙っていた触手がブン、と何にも触れることなく空回りした。何事かと触手を引き戻そうとすると、彼の意識は大きくぶれる。彼の周りにいた妖魔がその「異常」を察知するのは、その事態が起きてから数秒経ってからだった。周りの妖魔が、彼がそこにいないことを確認する。何がおきた、とそこにいた誰もが不安感を抱いた瞬間。そこから消え去った彼の悲鳴は号砲となって響く。その号砲を聞き遂げた妖魔三匹は、その号砲が聞こえた方向。獲物、柴田義広の方を向き、
 消え去っていた彼が宙に浮いていた。頭を地に、暴れるようにジタバタさせている足を、天にして。
 その彼の頭を、誰かの手が掴んでいる。真っ赤な手がつかんでいる。人間の手が掴んでいる。その手を認識した瞬間、誰もが柴田の体を見る。するとどうだだろうか。誰もが認めたくないような現実がそこにある。しにかけの柴田が上半身だけを起こし、左手で引きちぎったらしい触手を握っていた、右手で浮かんでいる彼の頭を掴んで高々と持ち上げている。信じられないようだが、その現実はそこにあった。
 彼の雄たけびが一層膨れ上がった。自分の頭を掴んでいる手の、あまりの握力の強さに彼は恐怖する。どうやったら、人間がこんな力を出せるのだろうと。なんで妖魔である自分が人間如きに持ち上げられているのだろうと。彼の痛みと恐怖が一気に膨れ上がり、彼が思わず叫び声ではなく「助ケテ」と口にした瞬間。「助ケテ」と心の中で本気で願ったとき、彼の声と思考はそこで途切れる。くしゃり、とまるでトマトでもひき潰したかのような音がその場一体に響いた。
 柴田の手の内で肉塊とかした彼の脳みそが活動を停止したことによって、空中でジタバタと暴れていた足も動かなくなり、ウネウネとうねり続けていた触手の動きもピタリと止まった。    
 血を吹き出し続けている彼の頭をそのまま強く掴み、そのまま体を要らない、といったように妖魔に向けて投げ捨てる。妖魔たちの足元に転がる屍となった同胞の姿。
 瞬間、彼らの頭の中に二つのスイッチが入る。一つは、仲間を殺された怒りによる憤怒のスイッチ。一つは、目の前にいる獲物に感じてしまった恐怖のスイッチ。怒りと恐怖の同時の発動が、彼らの体を動かした。だが、その襲い掛かる妖魔を見て柴田が浮かべたのは一つの笑み。
 まるで人間という衣をはぎすてたような殺気。人間の枠を超えたような殺気。その殺気を真正面から感じて、まず誰もが感じたのは、見も凍ってしまいそうなほどの悪寒。それを気のせいと言うには、彼らはあまりにも聡明すぎた。
 頭、両腕を獣と化している二足歩行の妖魔、ケーニッヒと言われ、上級妖魔『ケルベロス』の一歩手前の種族である彼は決死の如くその狼眼を開いて、本能のままに絶叫する。
「殺セェッ、今コノ場デ、持チタル全テを使ッテデモ殺シツクセェッ!!」
 さもなくば死が訪れるは我らなり。
 言葉にしなかったケーニッヒの心の叫びを、残り2匹の妖魔は言われずもなく理解する。その瞬間、たかが人間相手に、と誰もが大げさだと感じるようであるが。3匹の妖魔は眼前に存在する人間ではない異質を強敵と認めた。触れるだけで思わず立ちくらみしてしまいそうなほどの殺気と闘気が渦巻く空間の中、最初に動いたのは額に第三のイーグルアイを持つ有翼鳥族、ザールヴェルト。その背に生やした翼を使い、天高く空へと飛翔する。その際に発生した大きな空気の乱れが、その場を荒らしつくす。刃を持って風と化した空気の乱れは、柴田の頬に三つの切り傷を作り出す。柴田の血が後ろへと流れた瞬間。柴田の体がそこから消え去った。
 そこにいた誰もが眼を疑う。超高速で動いたわけでもなく、地面へともぐったわけでもなく、柴田義広の体がその場から確かに消え去ってしまったのだ。スライム状の妖魔、ゾラホラムとケーニッヒが周りを見回していると、自分の頭にふと液体がふり落ちるのを感じる。
 ――雨か?
 と空を見上げると、東から照らし出された空に柴田とザールヴェルトの姿が映った。無論、それはザールヴェルトが柴田をくびり殺している姿ではなく、ザールヴェルトの体を拳一突きだけで貫いてしまった柴田の姿。そして理解する。今ふり落ちたのは雨ではなく、ザールヴェルトの血であるという事を。
 「ギャアアアア」と号砲が響く瞬間、ケーニッヒとゾラホラムがハっと我にかえる。柴田の影がザールヴェルトの影を突き放し、柴田の体が地面へ降り立つ。這い蹲るように地面へ降り立った柴田は、妖魔たちを見上げる体勢のままに、両手両足をつかってまるでムカデの様に草茂る平原を駆け抜ける。地面を蹴り、一瞬でトップスピードへと加速した柴田がケーニッヒへと襲い掛かった。はいつくばった姿勢から短距離走の姿勢へと変化した瞬間、柴田の体が斜め前に浮き上あがり、そのままケーニッヒの頭めがけてつっこんでいったのだ。地面へと押し倒されたケーニッヒが何より先に視界の確認をしようと眼を見開いた瞬間、柴田が今まさに拳を突き出さんとしている姿が両腕と頭、合計6つの目に焼きつく。
 開け放った口が作っていた笑みに恐怖を感じながら、ケーニッヒの人生は幕を閉じる。
 顔をつぶされたケーニッヒから柴田が離れる頃、ザールヴェルトが空からふり落ちる。ザールヴェルトが地面につくまでに使った時間は4秒。4秒の間にケーニッヒをつぶされたという現実を突きつけられたゾラホラムは思わず後ずさる。かろうじて息を保っていたザールヴェルトは、よろよろと立ち上がった。そしてケーニッヒの死体を確認すると、血反吐をはき捨てながら悲鳴のように叫んだ。
「キッサマァァ……ヨクモケーニッヒヲ!!」
 残った力を振り絞り、体をかがめて羽を小さく折りたたんだ。
 グっと地面を支える足に力を加えた瞬間。その地面にザールヴェルトの足も影も存在しない。0の姿勢状態から一瞬にして100のスピードへの加速に成功したザールヴェルトは、地面に顔がつきそうなほどの低空飛行を保ったまま、ソニックブームを巻き起こしながら空気の層を破りながら突き進む。ユラリ、と佇んでいる柴田の姿を確認すると、彼は折りたたんだ羽て空気をかく。瞬間、超絶なスピードが巻き起こった。眼にも留まらないほどのスピードに乗ったとき、彼は両翼を打ち開く。空の頂上に太陽が輝くならば、今よりもっと眩い光を放つであろう銀翼。その翼を構成する柔らかな羽毛が一斉に硬質化し、擦れあってシャンシャンと澄んだ音色を奏でだす。
 眼前で未だに動かない一人の少年を睨みつけたまま、ザールヴェルドは高らかに咆哮した。
「我ガ一閃ニテ砕ケ散レ!!」
 咆哮が地上に降り立つより速く、音速を超えて鷲は駆ける。一条の銀光は、あまねくすべての物体を切り裂く一閃。その一撃はあらゆる物を切断し、音の壁を破ったがために巻き起こる衝撃波が切り裂かれた残骸を叩き潰す。この音速の一撃を止めることはまともな生命体には不可能。
 しかしこの技には唯一だが、非常に大きい欠点が存在した。それは、あまりの速度に自身の体が耐え切れないこと。人間よりも丈夫な体を持つ自分ではあるが、この加速から止まるときにはあまりもの緩急によって全身の骨が砕け散る。よくて両腕両足が砕ける再起不能。どちらにせよ、この技は確かな覚悟があってでしか使えない技であった。が、彼は今まさにその技を使っている。今眼の前でたたずんでいる少年を確実なる死へと放り込むために。
 知覚スル前ニ、バラバラニ引キ裂イテヤル!!
 音速渦巻く鷹が柴田を死へと送る瞬間、ザールヴェルドの視界が肌色で侵食される。コンマもたたないうちに視界を肌色で埋め尽くされたザールヴェルドが疑問に思おうとした時には、柴田が繰り出した鉄拳がザールヴェルドの顔面を捉えていた。自身から柴田の拳へと突進したザールヴェルドの勢いは止まらず、その拳はザールヴェルドの体を頭から股下まで貫いた。流血が柴田の体を境界線に、上下に別れる。一瞬スローになった世界であったが、すぐに時間は取り戻される。
 自分のすぐ後ろへ飛んでいったザールヴェルトの死体の足を掴んだ柴田は、超人的な反応速度で目の前に広がるソニックブームの層に超高速でたたきつけた。一瞬にしてズタズタに引き裂かれ、消しくずになってしまったザールヴェルトの躯。衝撃の60パーセント以上を打ち消されたソニックブームは、残りの40パーセントの力を持って柴田へと襲い掛かる。全身を切り刻まれ、真っ赤な血が幾重にも重なって飛びまう。しかし、柴田は表情を歪めることはせずに、自分の両手にこびりついた真っ赤な血を体液を見て三日月のように口を広げ、そしてその両手を口に運び――
 ――血を、舐めた。
 まるで吸血鬼が血をすうかのように音を立てて、柴田はただひたすら手にこびりついた血を舐め取っていた。
 その光景を、地面に溶けるようにして隠れていたゾラホラムは小さく呟く。
「クルッテヤガル」
 小さな空気の流れに乗ったその言葉を察知した柴田は、隠れていたゾラホラムを位置を確認すると、ゆっくりと歩き出す。獲物は、まだいるという風に。
 あわててその場から逃げ出そうとしたゾラホラムが草と草の間に入ろうとしたとき、彼の体が持ち上げられる。「ヒッ」と彼が悲鳴に似た叫び声を上げ、自分を掴んでいる少年の顔を見る。そして彼は感じた。そして彼は思い出した。柴田義広が発する殺気が、自分達妖魔がよく知るものに似ているものだという事に。
 無意識のうちに、彼は口に出そうとする。
「ノスフェ――」
 言い掛けた瞬間。彼の体に手を突っ込んだ柴田は、彼の心臓でもある「核」を握りつぶした。
 ボゴボゴ、と体のあちこちが変色しながら膨らんだが、そのまま黒い液体と成り果てて柴田の手からすり抜けるようにして地面に落ち、溶けるように消え去っていった。
 ザアアァっと草原を駆け抜けた風に自分の殺気を乗せるように黒い波を睨みつけると、そのまま地面をはじくように蹴り飛ばして加速した。柴田はこれから行うであろう殺戮に、皮肉げに口をゆがめる。

 
 
 その瞬間、平原を覆っていた黒い波に囲まれていた3人と、その3人を囲んでいた黒い波は雷に打たれたように動きを硬直させる。そして、その場にいた誰もが比喩ではなく空間がきしんだような音を聞いたような気がした。
 リーフ・クラシスの額に流れる冷や汗が、そこにいる「何か」の恐ろしさを物語っていた。
「なんだ、今の……?」
 周りを見れば、自分達だけでなく妖魔の動きすらも止まっているという事にようやく気付く。呆然としているところではなく、よく観察してみると一部の妖魔はへたり込むようにして戦意を喪失させている。平原で起こった戦闘は、一時的に停止していた。
 無理も無いか、とリーフはまだ白く染まっている思考を何とか働かせて思う。さっきの気配を感じた瞬間、まるで心臓をつぶされたような感覚さえ受けた。いや、本当に殺されたかと思ってしまった自分がいた。そこいらの妖魔が放つには、とても難しすぎるほどの多大なまでの殺気。
「一体誰が、」
 とリーフが言おうとした瞬間、黒の沼と成り果てた草原が二つに割れようとしていた。
 いや、実際に割れようとしていたのは草原ではなく、草原を覆っていた妖魔の沼である。まるでドリルで穴をこじ開けられたように、一部から凄まじいほどの何かを持って、黒い沼は二つになろうとしていた。
 その凄まじい何かの正体は、柴田義広。
 圧倒的な力とスピードをもって、眼前に存在する、いやその場一体に存在する妖魔すべてに対して殺戮という殺戮を行いながら、前へ進んでいた。
 頭を引きちぎられるもの、臓器を握りつぶされるもの、その圧倒的な力で空中へと投げ飛ばされるもの、すべてを吐き出しそうなほどの拳の一撃をアゴ先にくらって、顔を支える骨がコナゴナに砕れてしまったものと、柴田が通ったあとには死屍累々の地獄絵図が広がっていた。
 徐々に迫り来る殺気に、3人は常に緊張感を保ち対応しようとする。
 目の前を覆う黒の壁が粉砕されたとき、彼らがその殺気の持ち主に襲いかかろうとして、それが柴田義広だという事に気付くとそれぞれは本能にブレーキをかけながら獲物をひく。
「なんてこった……」と雨宮が蒼白に染めた唇で呟く。まるで何かの間違いを犯してしまったように、彼女の心は罪悪感と後悔で満ち溢れる。自分達を無視して残る妖魔を片付けようと疾(はし)った柴田を止めようと威嚇のつもりでルシルド・ファリウスは手に持った銃のトリガーを引く。音と同時に突き進んだ弾丸は柴田の足元を確実に撃ちぬいた。草花が宙に飛び舞い、柴田の体が頭から地面へと転んだ。そのスキを見のがさなかったリーフが、すぐさま柴田の背中にのっかかり押さえつけようとする。
 が、その柴田の体からは想像もつかないような力がリーフの体を後方へと弾き飛ばした。自分の背中の荷物が消えたと認識した柴田はすぐさま立ち上がり、妖魔に向けてその牙と拳を、

 トン、と首元に感じた違和感に気付くまでもなく、彼の意識は真っ白に塗りつぶされる。
「いい加減に、しときなさい」
 手刀を放った姿勢のまま、地面に崩れ落ちる姿を見送った雨宮は振り絞るような声で言った。
 身をも凍える殺気を放った者は眠り、その殺気も草原の草原の中へと消えていく。瞬間、ずっと沈黙を守っていた妖魔の黒い波が円形を描きながらその一体から退いていく。
 周りを見回しながら驚くルシルドとリーフ。すると突然、妖魔たちが一斉に声を上げ始める。
『何故呪ワレタ一族ガソコニイル!』
 と、一匹の妖魔が言う。
『数百年前ニ滅ンダ悪シキ一族ガ何故ソコニイル!!』
 復唱するように、もう一匹の妖魔が繰り返すように言った。
『ソレガ貴様ラ人間の切リ札カ! 人間! 人間!! 人間!!!』
 それだけ言うと、妖魔の軍勢は一瞬にしてこの草原から消え去っていく。
 風が駆け抜ける草原に取り残されたのは、意識を失った柴田義広と、その傍で佇む雨宮雨梨。そしてリーフ・クラシス、ルシルド・ファリウスの4人だけであった。

 
 §


 その場にいた誰もが全員恐怖した。
 一番最初にその異変に気付いたのはクルス=マーヴェリックであった。自分が良く知る仲間の波動。ルシルド=ファリウスとリーフ・クラシスの波動を察知し、急いでその事を皆に知らせた。ソレを知った皆が安堵し、出迎えようとした瞬間だった。軍までとは行かないほどだが、妖魔の波動を感じ取ったクルスが突然おびえるように声を上げ、誰もがそれを疑問に思った時、凶悪な殺戮と邪悪な波動を感じ取ったのは。凄まじいの一言でしか表せないような念が、一気にファリウス城前の平原の中央で膨張。弾ける様に拡散した念はじょじょに増幅し続ける。
 暫くして続いた念の波は一瞬にしてふ、とおさまる。
 非常事態を想定して、念が収まってから城から出て丘を登った一行は驚愕する。
 覚えのある波動の持ち主。ルシルド=ファリウスとリーフ=クラシスの姿を、妖魔の死体の山の中で確認することになるのだから。あの二人がやったとも考えられる。しかし、それならあの異常なまでの波動はなんだったのか。考えられる可能性は二つ。一つは、二人のそばにいる少女雨宮雨梨。
 そして一番可能性があるのが、体中が血と体液だらけになって倒れている少年。
 柴田義広の存在であった。

 
 
2005/06/10(Fri)18:44:13 公開 / ベル
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■作者からのメッセージ

 テストも終了。謎のパスワードの間違いも直してもらい、ようやく更新。
 とりあえずもう一度ここに投稿出来ることが嬉しいですね…。まあ柴田が何か変にアレですけど…まあいいや。
 ではではー
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